「じゃあ、昨日のことは全然問題になってないわけ?」
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
←5へ
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
←5へ
「……まあ、つまり」
緩い緊張感が漂う中、沈黙を破ったのはカノンの溜め息だった。レンとは視線で会話済み、話をややこしくしかけた馬鹿二人は制裁済みである。ラーシャとデルタにはプライベートということで席を外してもらっている。
対面で居心地悪そうに肩を竦める友人へ、カノンは呆れた視線を送る。
「そちらの二人はあんたの魔道学校時代の『お知り合い』で。
例の事件以来、この五年間、お互いに無事だと思っていなかったと……で、さっきの感動の再会になった、と」
「まあ……簡潔に言うとそういうことになるわね」
「なるほど。それには納得行ったけど」
あえて視線を合わせないルナ。カノンはテーブルにゆっくりと両手をつき、逸らした目を無理矢理覗き込むように、
「それならそうと早く言いなさいよッ!! いきなりいなくなるもんだから混乱したじゃないのッ!!
驚くのも解るし、飛び出した気持ちも解らんではないけどッ!」
「だーッ! うるさいわねッ!! こと一人で飛び出すことに関してはあんたに言われたくないわよッ!! あたしだって確証なかったしッ! ってか、むしろないと思ってたし!」
「だからってこんなときに場合が場合でしょーがッ! どんだけこっちが心配したと思ってんのよッ!? 現に間に合わなかったらどうする気だったのッ!?」
「いーじゃないッ、現に間に合ったんだしッ!!」
「あんた、自分が言ってる意味解ってないでしょッ!? 結果オーライ発言すんなッ! 前回あの後、あたしどんだけレンに説教喰らったと思って……」
「やかましい」
ゴッ! ゴッ!!
「……ったぁ~…」
「ちょっと! 何すんのよ、あんたわッ!」
拳骨がクリーンヒットした後頭部を抑えながら、カノンは背後に立つ相棒を睨む。同じく瘤を作ったルナは突っ伏しながら噛み付いた。
「喧嘩両成敗。冷静に話くらい出来んのか、お前らは」
「……くっくっく」
それを呆れた目で見下ろしながら、レンは短く息を吐く。
不意にその声を低い笑いが遮った。
「……あんた。いい加減、やめなさいよねその笑い方。いらない誤解招くだけだから」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、件の男が赤眼を細めていた。ルナはジト目でそれを睨みながら硬い声で返す。男は軽く鼻を鳴らしながら、
「した奴にはさせときゃいいさ。無駄に噛み付いて来たら潰すだけだしな」
「学校であんたの招いた誤解を必死で解いてきたのは誰だと思ってんのよッ!? あんたは良くてもあたしが大迷惑なのッ!」
「ま、まあまあ、ルナちゃん。久しぶりの再会なんだし、それくらいに……」
「イリーナ! あんた、こいつに甘過ぎなのよ! ちょっと奔放すると瞬く間に図に乗るわよ!?
ただでさえわがままと自分勝手が服着て歩いてるもんなんだから!! いい加減にしろこのろくでなし人でなし地獄に落ちて罪を償えッ、くらいのこと言ってやらないと効きやしないわよ!?」
「……先輩にそこまで言える人、たぶんルナちゃんだけだと思うよ……」
余裕の態度を崩さない男と、まくし立てるルナをどうにか慰めようと試みる少女。しかし、浮かべた笑みで火に油を注ぐ男にルナの激昂は収まらず、カノンとレンは互いに顔を見合わせる他なかった。
少女はその彼らに気が付いて、ぱっと顔を上げてルナの服の裾を引いた。
「ね、ねぇ、ルナちゃん。ところでそっちの人たちは……?」
「あ、ああ……。そういえば、お互いに紹介してなかったわね」
いくらか頭の冷えたルナがこちらを向く。
「……レン=フィティルアーグだ。それとは一応、幼馴染の腐れ縁だ」
「人をそれ扱いしないでくれる?」
「……あんた、本当に火に油を注ぐことしかしないわね」
剣呑な眼差しを向けるルナを見て、カノンは疲れたように首を振る。ふと、こちらを眺める男の視線に気がついて、眉を潜めながら、
「……同じくカノン=ティルザードよ。さっきは世話になったわね。それといきなり問い詰めて悪かったわ」
「……ふん。まあ、一応の礼儀はあるお嬢ちゃんだ」
「―――ッ」
「あー、カノン。こいつの言うことにいちいち腹立ててたらキリないから、てきとーに流して聞いて置いた方がいいわよ。こっちの身が持たないから」
カノンの額に浮かんだ血管を見て取って、ルナが男を睨みつける。無論、彼が椅子にふんぞり返った体制を変えることはなかったが。
「幼馴染……っていうことは、もしかしてお二人がルナちゃんが昔よく話してた……」
「へ? 何て?」
「……………………………………………えっと」
「あんた一体何て説明してるのよッ!? 絶対、まともな説明してないでしょッ!?」
「失礼ね。事実しか説明してないわよ!?」
「嘘付けぇッ!!」
「ま、まあまあ……。
えっと、カノンさん、でしたよね? 私、イリーナって言います。イリーナ=ツォルベルンです。
ルナちゃんと同じ教室で勉強してました。どうぞよろしく」
「あ、よ、よろしく……」
男と反してあまりにも素直に右手を出してきた少女に、一瞬戸惑いながらも手を出す。利き手で握手というのは、普段好まない行為だが、変に断るのはルナにも悪い。
「えへへ……道具屋さんでは失礼しました。ちょっと急いでて……」
「ああ、まあ、気にしてないけど……。で、」
ややムッとした表情でカノンは男を促すように見た。その視線に気が付いた男は、切れ長の真紅の目を実に面倒そうに歪め、ルナの方へぱたぱたと右手を振った。
「任せた」
「自己紹介くらい自分でしろッ! このモノグサッ!! 会話の流れを読めとあれほど言っとろーがッ!!」
「ああもう、ルナちゃん落ち着いてッ! え、えっとこの人はですね……」
思わず手が出かけるルナをイリーナが抱きついて押さえる。冷や汗を掻きながら、説明を始めようとする友人の困った表情に、ルナは息を吐いて腕を組んだ。
それにほっとしたように、イリーナは居住まいを正すと、
「えっと、こちらは私たちの先輩で、私たちの教室でも一番優秀だったカシス=エレメント先輩です。
『月の館』の史上の中でも先輩ほど優秀な方はいなかったそうです。
頭脳明晰、成績優秀。先生方の中でも先輩以上に博識で才能のある方は居なかったと言われています。館内では『最初で最後の魔道師』とか言われたこともありました」
まるで自分のことのようにイリーナはすらすらと笑顔で口にする。
「そうね、加えて人を馬鹿にした態度も品行も口の悪さも興味がないことへのモノグサも、超一流で右に出る奴はいなかったわねー。
人との約束は守らないわ、平気でところ構わず相手構わずケンカをふっかけるわ。そのくせ、自分で責任取ったことはいっっっっっっっかいもなかったわねー。
まあ、魔道師としては超一流、人としては三流以下って感じ?」
「る、ルナちゃん……」
「けッ、館一の手癖足癖の悪さを誇ったお前になんざ言われたくねぇな」
「やかましいッ! こっちだって裏から手ぇ回すだけ回して、生徒から教師から気に入らない奴は片っ端から潰してったあんたに言われたくないわッ!」
「えっと、えっと、その、だから……」
「ああ、うん。解った。もうなんとなく、どんな関係なのかは理解したわ……」
突如、襲ってきた頭痛を堪えるようにカノンは眉間に手を置く。自分とレンの口喧嘩も傍から見たらこんな感じなのだろうか? 他人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものである。
「は、はい…すいません……。それで、あの……」
おずおずと、イリーナはひどく聞き難いことを口にするような表情で、そろそろと視線をカノンの後方に投げた。
振り返ると、つい先ほどルナの稲妻が炸裂した焦げ跡に寝転んだ二体の黒い物体。
「あら、知らない?」
眉間から指をどかしたカノンが、いっそ清々しいまでの笑みを浮かべて一言。
「あれはね、炭っていうの」
「……さすが、ルナちゃんのお友達だね」
「イリーナ、それどういう意味?」
「そうだ。半歩譲ってもそれのトモダチなんてものに貶められるいわれはないぞ」
「あたしにだって友達くらいいるし、失礼なこと言うな! つか半歩て短ッ!」
「くっくっく……」
さらりとレンの吐いた毒に、怒鳴り返すルナを眺め、男は―――カシスはさぞ面白いように低く笑う。その嫌味な笑い声に、唇を尖らせながらも、ルナはふん、と腕を組み直した。
「なかなか愉快な知り合いじゃねぇか。お前も変わってなくて何よりだ」
「……あたしとしてはあんたはもうちょっと変わってて欲しかったけどね。まあ、期待はしてないからいいけど。
で、何であんたたち二人が一緒にこんなところにいるわけ?」
「そりゃこっちも聞きたい。何で、お前がその幼馴染殿と一緒にこんなところをふらふらしてたんだ?」
問い返されて、ルナは一瞬、答えに詰まる。
それを見てカノンはふと思い出した。
例のクオノリアの一件。すべての根源となったあの事件で不当に用いられた魔道結晶体『ヴォルケーノ』。
他でもない、彼女が言っていた。あれは『月の館』で、自らが参加していたプロジェクトチームで創造されたものだと。
渋い顔のまま、ルナは小声で答え出す。
「あたしはまあ……詳しくは後で話すけど。ちょっと事情があってね……しばらく行動を共にしよう、ってことになって。この町にいたのは偶然よ」
「成る程な。お前らしい答えだ。嘘じゃないが、本当でもない」
ひくりと、ルナの片眉が動いた。
いつものどこか掴めない、ひょうひょうとした表情から一転して、ルナはぎゅ、と眉間に皺を寄せる。組んだ腕の手の爪が、きつく自らの二の腕に立てられていたのに気が付いたのは、カノンだけだったろうか。
「まあ、いいさ……。俺たちもこの町にいたのは偶然だ。一緒にいるのも偶然会ったから、としか言いようがねぇな」
「偶然会った?」
「あ、あのね……。あれから私、政団内で薬とかを管理するお仕事に就いたんだ。それで、お届けもののお仕事があって……
その途中で偶然、カシス先輩を見つけて」
「その届けるはずのウェルスティール薬をなくしてあわあわ言ってるところを妙な奴らに絡まれてたんだよな」
「……あんたもあんたで相変わらずね……」
「あ、あうあうあう……」
ずけずけと言い放つカシスと、呆れた視線で疲れたように吐くルナに、イリーナは返せる言葉もなく、頭を抱えながらすん、と涙声を漏らす。
短い溜め息を吐きながら、ルナは椅子にふんぞり返るカシスの方へ視線を移すと、
「それで、そのお届けものの薬ってのはどうしたのよ?」
「結局、見つからねぇからその場で調合したさ。で、その報酬を払ってもらうために帰路を同行中だ。以上」
「ちょうご……ッ!」
素っ頓狂な声を上げかけたのはカノンだった。外から漏れた声に、ルナもカシスも、イリーナもそちらを向く。魔道師たちの視線に曝されて、カノンは古い記憶を頭から絞り出しつつ、おそるおそる、
「あの、間違ってたらあれだけど……
あたしの記憶によればウェルスティール薬、って結構、調合が難しい魔道薬、だったような気がするんだけど。確か、召還系の魔方陣の効果を高めるために使うとか何とか……」
「ほう? そんなデカブツを背負ってる力強いお嬢ちゃんの割に詳しいな」
「デカブツは関係ないし、力も関係ない!! とにかく! そんなものどうインスタントに調合するわけッ!?」
デリカシーのない一言に遠慮だとか、謙虚だとか、そんな人間として大切なはずのものが削ぎ取られた。白子の魔道師は懐から紙煙草の小箱を取り出しながら返答する。
「ま、さすがに完全なものは無理だわな。けど、そこら辺のちょいと大きな町に行けば売ってるような材料で似たような効果の薬は製造出来んだよ。
ちょいと目が肥えた奴には解るかもしれねぇが、そこら辺で細々と小規模な研究をやってるような連中じゃあ、まず見分けるのは無理なくらいの、な。
俺に言わせりゃウェルスティール薬なんて薬剤局の金儲けのためにある金食い虫だな。勿論、製法は企業秘密だが」
「……」
ぱちんッ、と彼が指を鳴らすと加えた煙草に火が付いた。
濁った煙が吐き出されるのをしばし、やや茫然としてカノンは眺め、やたらと機械的な動作でルナの方を振り向いた。
「……天は二物を与えない、って言うけど」
「?」
「二物しか与えない場合もあるのね」
「偉いカノン! あんた、上手いこと言うわねッ!!」
「おい」
「る、ルナちゃん、失礼だよ……」
初対面お構いなし、という点では自分の相棒も相当なものだな、とレンは思った。
あわあわ言いつつ、男の顔色を伺っているイリーナがほんの少し哀れだ。
「まあ、それはそれとして、だ。
ルナ、ちょうどいい。聞きたいことがある」
「?」
右手でその先がない左肩を押さえ、彼は浮かべていた笑みを消す。切れ長の瞳と、さらに鋭く尖らせて、睨むように彼女を見た。
半歩、僅かにルナは後退った。
「……クオノリアとか何とか言う町で起きた事件は知ってるか?」
「!」
「……」
「知ってる顔だな」
黙ってはいたが、肩に走った小さな震えまでは隠せなかった。カノンも、レンも顔を上げて彼を凝視する。イリーナは不安げな表情で、ルナの横顔を見上げ、ちらちらとカシスへ落ち着かない視線を走らせる。
「首謀者はMWO支局のぼんぼんだったようだが。
街中の合成獣発生、なんてもんがほいほい出来てたまるかよ。道中、ちょいと調べさせてもらったが、これが不思議なもんだ。記憶にある事象がほいほい出てくる。
覚えてるか? A級危険指定を食らわしたボツ研究があったろ?
……覚えてるよなぁ? しっかり政団の関係者リストにゃお前の名前が挙がってやがる。
一体、誰が漏らしたんだろうなぁ?」
「……カシス」
笑っているような口調で、その実、欠片も目は笑っていない。制止をかけるように、何事か逡巡したルナが彼の名を呼んだ。
「あたしを疑ってるの?」
「正確に言えばお前も、だな。正直な話、俺はプロジェクトチーム全員を疑ってるぜ?
それに、お前、事件時にMWOに絡んでたそうじゃねぇか……。潔癖だと言うには拭えない状況証拠だろ?
事実、お前はプロジェクトチームの中でもかなり高い位置に居た。ぶっちゃけて俺の次にな。
お前なら『ヴォルケーノ』の詳細も理解してるし、それを他人に享受するなんてことは造作もねぇだろうよ」
がたん、とカシスは席を立った。
ルナはそれに身構える。思わずカノンも、そしてレンも身を固くした。イリーナは泣きそうな表情を彼に向けた。
しかし、彼は予想と反して、彼女たちの脇を素通りすると、未だに倒れ込んだ二つの炭の塊の方に向かった。
「……ましてや」
嘲った表情でそれらを見下すと、アルティオのでかい図体に足をかける。
「ぐぇッ!?」
「こんなもんを見たら尚更、な」
「ッ!」
ルナの表情に焦燥が走る。
彼が指したのは、アルティオの腰に結び付けられた二振りの剣―――ランカースフィルの惨劇を生み出した、あの忌まわしい剣だった。
「何ですか、それ? 私は知りませんけど……」
「だろうなイリーナ。この中で『これ』に絡んでたのは俺とルナだけだからな」
「え?」
思わず声を漏らしてカノンは、ルナを見る。
彼女はただ唇と噛んで、項垂れるだけだった。
「『ヴォルケーノ』ならまだどっかから漏れる可能性はあるさ。一時的とはいえ、文書にして残しといた時期があるんだからな。
けどな、『コイツ』は違う。プロジェクトチームの中でも極限られた人間しか知らねぇはずだ」
「ちょっと……じゃあ、それもまさか」
「ああん? そいつに聞いてないのか? こいつはな、正式名称『ツインルーン』。お前らがどう呼んでるかは知らねぇが、一部の人間で研究中だった対で癒しと増強の効果を持つ剣さ。
ま、最終的には一つの剣として機能させる予定だったが、その前に館の方が潰されたからな」
カノンは、はっとする。あのとき、引き取った二振りの剣を、ルナは一日のうちに制御可能な、実用可能の魔法剣に修繕してしまった。
カノンは魔法剣の製造法には詳しくない。そんなに簡単に修繕できてしまうものなのか、疑問には思ったが―――
もし、彼女がこの剣の構造に最も詳しい人間だったのなら―――
茫然とするカノンに視線を向けられず、ルナは俯いたまま無言だった。
かつ、とカシスは靴音を鳴らして彼女に近づく。イリーナは彼女を庇うように前に出るが、有無を言わさない彼の雰囲気に、あっさりとどけられてしまった。
ぐい、と細い彼女の頬を持ち上げて、上を向かせる。
「正直に話せ、ルナ。お前、どっかで誰かに『コイツ』の話を漏らしたのか?」
「……」
「チームで行われた研究に最も詳しい人間は俺を抜かせば、お前だ。お前だったら資料なんかなくとも、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の詳細を伝えて同じものを造ることも可能だろ?」
「……」
きりッ―――歯軋りをする音が、僅かに聞こえた気がした。
カノンは唐突に我に返った。ルナの目尻に、かすかに、光るものが浮かんでいた。
「……あたしは…あたしはこの五年間、誰にも危険指定された研究のことなんか喋ってない」
「……本当か?」
「本当よ」
「……」
カノンは彼女の顔を覗き見る白子の魔道師の瞳を凝視する。
いろいろな人間を見て来た。裏切られて、ときには裏切ってしまった。だから解る。あれは、人を疑っている人間の目だ。
だんッ!
「!」
「ッ! ……カノン…?」
気が付けば、硬直したままの彼らの間に割って入っていた。
やや驚いた表情の、彼の目を睨んで言い放つ。
「ルナは違う。それは、あたしが証明出来るわ。むしろ、彼女はその情報の出所を調べるためにあたしたちと一緒にいるの」
「……ふぅん?」
「……クオノリアの一件には黒幕がいる」
カノンの昂ぶった感情を抑えるように、彼女の肩を押さえながらレンが言葉を継ぐ。
「首謀者とされている男に、『ヴォルケーノ』の情報を流したのもその黒幕。『月陽剣』も同じことだ。
その黒幕の目的は……まあ、はっきりとは解らないが、俺たちにあるらしい。奴から情報を得るために、ルナは俺たちと行動を共にしていた。
それだけだ。自分が流した情報の情報元を探るために、危ない橋を渡る馬鹿もいないだろう。
あんたの気持ちも解らないでもないが、研究を横流しされて怒り心頭なのは彼女も同じだ」
「どうだか」
「あんたね! いい加減にしなさいよッ!? この娘がどれだけ……」
「カノン」
眉を吊り上げるカノンの名を、当のルナが諫めるように紡ぐ。
「別にいいのよ。疑われても仕方ないから。
カシスはプロジェクトチームのチーフをやっていた男なの。カシスにとってはプロジェクトの研究は自分の研究も同然。
思い入れはあたし以上だろうし、自分の研究を横流しされて、黙っていられる魔道師なんていないわ」
「ルナ……」
同じ魔道師として、気持ちを共有出来るのはルナだけだ。
彼女は顔を上げ、改めて彼の方を見る。
「……宿を教えて。その話はまた、ゆっくりしましょ。今日は頭に血が上ってるわ。そんなに急いでるわけでもないでしょ?」
「……ま、数日なら、な。構わねぇさ」
ふっ、と息を吐き出して、カシスの口元に余裕の笑みが戻る。くい、と顎で指すとイリーナが慌てて宿の名と場所を口にした。
「ご、ごめんねルナちゃん。こんなつもりじゃ……、せっかく久しぶりなのに……」
「いいのよ。あんたが悪いんじゃないし。仕方ないわ。魔道師の宿命、ってやつね。
話さなきゃいけないことだったし、実を言うと会ったときから覚悟はしてた」
何か、諦めたように言ってルナはイリーナの蜂蜜色の髪を撫でる。
それを一瞥して、カシスは唐突に踵を返す。
「まあ、暇なときにでも来るんだな。こっちもそうしてやるよ。じゃあ……」
「カシス」
最後の言葉を塞ぐようにルナは、その背に声をかける。
「……信じてるから」
「……」
絞り出した一言に、彼は無言だった。ふん、と短く鼻を鳴らして歩き出す。
ルナはどうしたものか、おろおろするイリーナの背を押して、行くように促す。彼女はすまなさそうに肩を竦めて、ぺこりとお辞儀をした後に宿を出て行った。
「……ルナ」
彼らが去って、たっぷり十分は経っただろうか。ようやく立ち尽くしたままのルナに、声をかけることが出来た。
ふ、と笑うような気配。
そして、振り返った彼女は、唐突にカノンへ頭を下げた。
「な、ちょ……」
「ごめん。謝るわ」
「謝る、って何をよ!?」
「『ツインルーン』……『月陽剣』のことよ。黙ってて悪かったわ」
「あ……」
次の言葉に迷う。しばらく瞑目してから、レンを見る。
溜め息を吐いた後、彼は黙って頷いてくれた。
「顔上げてよ、ルナ。らしくないって」
「……」
「言いにくい気持ちは解るしさ。あのときは……その剣が、本当に事件に関わってるかなんて推測出来なかっただろうし。
過ぎたことをぐちゃぐちゃ言っても仕方ないし。
とりあえず、今は彼らのことを考えた方がいいでしょ?」
「……さんきゅ」
小さく口にして彼女は面を上げる。何故だか、とても疲れていた。
「とにかく、今日はもう休んだ方がいいだろう」
「そーね。何かいろいろ混乱してるだろうし」
「……そうするわ。ごめん」
「もういいって。とにかく一度、頭ん中整理した方がいいんじゃない? その間にあたしたちもいろいろ考えて置くし」
「ん、さんきゅ。じゃあ、先、休むね……」
どこかふらついた足取りで、踵を返す。それを見たカノンが慌てて駆け寄るが、それには及ばないと彼女は動作で断った。
一瞬、カノンは迷ったが、結局は手を離した。誰しも、一人になりたいときはある。
彼女が古びた階段で階上に上がり、部屋のドアの音が閉まる音が聞こえてから。
カノンは長く息を吐く。
「……びっくりした」
「同感だ」
ぽつり、と吐いた一言に、硬い声が返って来る。
「……ルナが泣いてるの見たのなんて、あのとき以来ね」
「ああ」
あのとき。
彼女が加担させられていた組織から、ようやく彼女を救い出し、身体に宿った魔族を倒して。
それでも疲弊した彼女の心は、古の崩壊の呪を紡ごうとして。
それが呆気なく失敗に終わって。
それでも手を差し伸べた。
それからは目覚しい立ち直りを見せて、贖罪を続けて、この二年。涙どころか、カノンにもレンにも、弱音一つ口にしたことはなかったのに。
「……大丈夫、かな」
「まぁねぇ、惚れた男にあそこまで詰め寄られちゃいくら打たれ強くても堪えるわよねぇ」
「あんたはまたそういう話を……って、わぁッ!? 生きてた!?」
「生きてるわよ! まったく、危うく死んだおばあちゃんに連れて行かれるところだったじゃないの!?」
「いや、あんたのおばあちゃん、確か現役でユニホックか何かやってた気が……
まあ、いいや……っていうか、あんたはすぐそういう方向に話を持ってくわね……」
「あら、あながちハズレではないと思うけど。あの娘、ああいう趣味だったのねぇ。ちょっと意外だわ」
「あのね……」
生還と同時にそんなことをのたまうシリアに、ジト目を送る。
「いてて……、尾てい骨が」
「安心しろ、男は子供を産まん。どうせなら俺が継いで粉砕してやっても」
「すんな馬鹿! しっかし、おっでれーたな。てっきり感動の再会になるとばかし思ってたのによ。
あのにーちゃんも参ったもんだな。そんなに自分の研究の方が大事かよ」
やんわりとは言っているが、苦い思い出がそうさせるのか、アルティオの声には苛立ちが見て取れた。カノンは逡巡して肩を竦める。
「まぁ……正直、あんなものがそうぽこぽこ流出したら、それこそ戦争沙汰になりかねないし。そうすると責任問題とかも出てくるだろうし……魔道師じゃないし、当事者じゃないあたしたちには詳しくは解らないけど……。
魔道師には魔道師の矜持、ってやつがあるんだろうし……個人的には好きになれない人種ではあったけど」
「思っていることはルナもあの男も一緒だ。誤解が解ければ、そちらの方面では協力も仰げるかもしれん。……それには一仕事かかりそうだがな」
「……あのさ」
「何だ」
椅子に腰掛け、痛む尻をさすりながら、ひどく言いにくそうにアルティオが口にする。寄せた眉間の皺が深い。
「ふと思っただけなんだけど。いや、疑ってるわけじゃねぇぞ? けど、その研究の情報を漏らしちまったのは、本当にルナじゃないんだよな……?」
「……」
ぎろりとカノンに睨まれて、アルティオは釈明のようにぱたぱたと両手を振る。その様にレンは軽く首を振り、
「解らん。だが、行動を見ている限りでは考えにくいことは確かだ。
それにもし、そうだとしても俺たちが究明することでもないだろう。それはそれで、あいつは自らの責任を果そうとしているだけだ。それはそれで構わんだろう」
「そう……だな。俺たちが信じてやんないと、な。悪ぃ」
「大体にして、あの男やルナの親友にしたって容疑者だ。それはルナもあの男も解っているだろう。
同じチーム内にいたんだ。自分が関わっていない研究にしたって、耳にする機会くらいはあったろう。チーム内の人間は誰もが等しく容疑者だ。どんな経路であの黒幕の耳に入ったのかは知らんがな」
「……」
「ともかく! あの二人のことはよしましょ。私たちで考えたところでろくな答えなんか出ないじゃない。
それよりも問題なのは、あの黒幕一派のお嬢ちゃんよッ! まったく、何考えてるのかしら!!
あんな人の多いところでこんな……」
「……それなのよね」
苛立ちながら言葉を叩きつけるシリアに、カノンがぽつりと漏らした。虚空を見上げて、眉間に皺を寄せる。
「それって何が?」
「今までに比べて、なんていうか、大雑把というか開けっ広げ、っていうか。
ほら、今までは大規模なことを起こしたり、いきなり襲撃されたりはしたけど。けど町全体で大規模なことをするには、こそこそ裏から手を回してやってたし、襲撃だって目撃者の少ない時間帯を狙って来たわ。
でも今回は大規模で、それもかなりの人間を巻き込んで、なおかつ、あっさり姿を公然と見せて。
何となく手口が違う気がするのよね」
「……また別の策がある、ということか……?」
「さぁ、そこまでは解らないけど」
もどかしい。
あまりにも不明快で、頼りない推測。今まで、彼らの行動には何かしがの意味があった。ならば、この行動にも何かしがの意味があるというのか、もしくは霍乱のためか……。
「ともかく。ルナのことがあるんだし、数日は足止めを喰らうんでしょ?」
「……そうね。あたしたちはルナにとっては証人なわけだし。放っていくわけにいかないし」
「それに、奴らの手口の中では、その『月の館』の研究が二度使われた。三度目がないとも限らん。
そうなった場合、あの男の協力を得られた方が奴らの裏を掻き易くなるだろう」
「……何か屈辱的だけど」
「仕方ないだろう、私情は抑えろ」
むぅ、とカノンは息を吐く。
ふと、冷えた窓に気がついて、暗い空を覗き見る。か細い星が暗い光を放つ中で、幾分欠けた月が煌々と夜空を照らしていた。
←4へ
緩い緊張感が漂う中、沈黙を破ったのはカノンの溜め息だった。レンとは視線で会話済み、話をややこしくしかけた馬鹿二人は制裁済みである。ラーシャとデルタにはプライベートということで席を外してもらっている。
対面で居心地悪そうに肩を竦める友人へ、カノンは呆れた視線を送る。
「そちらの二人はあんたの魔道学校時代の『お知り合い』で。
例の事件以来、この五年間、お互いに無事だと思っていなかったと……で、さっきの感動の再会になった、と」
「まあ……簡潔に言うとそういうことになるわね」
「なるほど。それには納得行ったけど」
あえて視線を合わせないルナ。カノンはテーブルにゆっくりと両手をつき、逸らした目を無理矢理覗き込むように、
「それならそうと早く言いなさいよッ!! いきなりいなくなるもんだから混乱したじゃないのッ!!
驚くのも解るし、飛び出した気持ちも解らんではないけどッ!」
「だーッ! うるさいわねッ!! こと一人で飛び出すことに関してはあんたに言われたくないわよッ!! あたしだって確証なかったしッ! ってか、むしろないと思ってたし!」
「だからってこんなときに場合が場合でしょーがッ! どんだけこっちが心配したと思ってんのよッ!? 現に間に合わなかったらどうする気だったのッ!?」
「いーじゃないッ、現に間に合ったんだしッ!!」
「あんた、自分が言ってる意味解ってないでしょッ!? 結果オーライ発言すんなッ! 前回あの後、あたしどんだけレンに説教喰らったと思って……」
「やかましい」
ゴッ! ゴッ!!
「……ったぁ~…」
「ちょっと! 何すんのよ、あんたわッ!」
拳骨がクリーンヒットした後頭部を抑えながら、カノンは背後に立つ相棒を睨む。同じく瘤を作ったルナは突っ伏しながら噛み付いた。
「喧嘩両成敗。冷静に話くらい出来んのか、お前らは」
「……くっくっく」
それを呆れた目で見下ろしながら、レンは短く息を吐く。
不意にその声を低い笑いが遮った。
「……あんた。いい加減、やめなさいよねその笑い方。いらない誤解招くだけだから」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、件の男が赤眼を細めていた。ルナはジト目でそれを睨みながら硬い声で返す。男は軽く鼻を鳴らしながら、
「した奴にはさせときゃいいさ。無駄に噛み付いて来たら潰すだけだしな」
「学校であんたの招いた誤解を必死で解いてきたのは誰だと思ってんのよッ!? あんたは良くてもあたしが大迷惑なのッ!」
「ま、まあまあ、ルナちゃん。久しぶりの再会なんだし、それくらいに……」
「イリーナ! あんた、こいつに甘過ぎなのよ! ちょっと奔放すると瞬く間に図に乗るわよ!?
ただでさえわがままと自分勝手が服着て歩いてるもんなんだから!! いい加減にしろこのろくでなし人でなし地獄に落ちて罪を償えッ、くらいのこと言ってやらないと効きやしないわよ!?」
「……先輩にそこまで言える人、たぶんルナちゃんだけだと思うよ……」
余裕の態度を崩さない男と、まくし立てるルナをどうにか慰めようと試みる少女。しかし、浮かべた笑みで火に油を注ぐ男にルナの激昂は収まらず、カノンとレンは互いに顔を見合わせる他なかった。
少女はその彼らに気が付いて、ぱっと顔を上げてルナの服の裾を引いた。
「ね、ねぇ、ルナちゃん。ところでそっちの人たちは……?」
「あ、ああ……。そういえば、お互いに紹介してなかったわね」
いくらか頭の冷えたルナがこちらを向く。
「……レン=フィティルアーグだ。それとは一応、幼馴染の腐れ縁だ」
「人をそれ扱いしないでくれる?」
「……あんた、本当に火に油を注ぐことしかしないわね」
剣呑な眼差しを向けるルナを見て、カノンは疲れたように首を振る。ふと、こちらを眺める男の視線に気がついて、眉を潜めながら、
「……同じくカノン=ティルザードよ。さっきは世話になったわね。それといきなり問い詰めて悪かったわ」
「……ふん。まあ、一応の礼儀はあるお嬢ちゃんだ」
「―――ッ」
「あー、カノン。こいつの言うことにいちいち腹立ててたらキリないから、てきとーに流して聞いて置いた方がいいわよ。こっちの身が持たないから」
カノンの額に浮かんだ血管を見て取って、ルナが男を睨みつける。無論、彼が椅子にふんぞり返った体制を変えることはなかったが。
「幼馴染……っていうことは、もしかしてお二人がルナちゃんが昔よく話してた……」
「へ? 何て?」
「……………………………………………えっと」
「あんた一体何て説明してるのよッ!? 絶対、まともな説明してないでしょッ!?」
「失礼ね。事実しか説明してないわよ!?」
「嘘付けぇッ!!」
「ま、まあまあ……。
えっと、カノンさん、でしたよね? 私、イリーナって言います。イリーナ=ツォルベルンです。
ルナちゃんと同じ教室で勉強してました。どうぞよろしく」
「あ、よ、よろしく……」
男と反してあまりにも素直に右手を出してきた少女に、一瞬戸惑いながらも手を出す。利き手で握手というのは、普段好まない行為だが、変に断るのはルナにも悪い。
「えへへ……道具屋さんでは失礼しました。ちょっと急いでて……」
「ああ、まあ、気にしてないけど……。で、」
ややムッとした表情でカノンは男を促すように見た。その視線に気が付いた男は、切れ長の真紅の目を実に面倒そうに歪め、ルナの方へぱたぱたと右手を振った。
「任せた」
「自己紹介くらい自分でしろッ! このモノグサッ!! 会話の流れを読めとあれほど言っとろーがッ!!」
「ああもう、ルナちゃん落ち着いてッ! え、えっとこの人はですね……」
思わず手が出かけるルナをイリーナが抱きついて押さえる。冷や汗を掻きながら、説明を始めようとする友人の困った表情に、ルナは息を吐いて腕を組んだ。
それにほっとしたように、イリーナは居住まいを正すと、
「えっと、こちらは私たちの先輩で、私たちの教室でも一番優秀だったカシス=エレメント先輩です。
『月の館』の史上の中でも先輩ほど優秀な方はいなかったそうです。
頭脳明晰、成績優秀。先生方の中でも先輩以上に博識で才能のある方は居なかったと言われています。館内では『最初で最後の魔道師』とか言われたこともありました」
まるで自分のことのようにイリーナはすらすらと笑顔で口にする。
「そうね、加えて人を馬鹿にした態度も品行も口の悪さも興味がないことへのモノグサも、超一流で右に出る奴はいなかったわねー。
人との約束は守らないわ、平気でところ構わず相手構わずケンカをふっかけるわ。そのくせ、自分で責任取ったことはいっっっっっっっかいもなかったわねー。
まあ、魔道師としては超一流、人としては三流以下って感じ?」
「る、ルナちゃん……」
「けッ、館一の手癖足癖の悪さを誇ったお前になんざ言われたくねぇな」
「やかましいッ! こっちだって裏から手ぇ回すだけ回して、生徒から教師から気に入らない奴は片っ端から潰してったあんたに言われたくないわッ!」
「えっと、えっと、その、だから……」
「ああ、うん。解った。もうなんとなく、どんな関係なのかは理解したわ……」
突如、襲ってきた頭痛を堪えるようにカノンは眉間に手を置く。自分とレンの口喧嘩も傍から見たらこんな感じなのだろうか? 他人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものである。
「は、はい…すいません……。それで、あの……」
おずおずと、イリーナはひどく聞き難いことを口にするような表情で、そろそろと視線をカノンの後方に投げた。
振り返ると、つい先ほどルナの稲妻が炸裂した焦げ跡に寝転んだ二体の黒い物体。
「あら、知らない?」
眉間から指をどかしたカノンが、いっそ清々しいまでの笑みを浮かべて一言。
「あれはね、炭っていうの」
「……さすが、ルナちゃんのお友達だね」
「イリーナ、それどういう意味?」
「そうだ。半歩譲ってもそれのトモダチなんてものに貶められるいわれはないぞ」
「あたしにだって友達くらいいるし、失礼なこと言うな! つか半歩て短ッ!」
「くっくっく……」
さらりとレンの吐いた毒に、怒鳴り返すルナを眺め、男は―――カシスはさぞ面白いように低く笑う。その嫌味な笑い声に、唇を尖らせながらも、ルナはふん、と腕を組み直した。
「なかなか愉快な知り合いじゃねぇか。お前も変わってなくて何よりだ」
「……あたしとしてはあんたはもうちょっと変わってて欲しかったけどね。まあ、期待はしてないからいいけど。
で、何であんたたち二人が一緒にこんなところにいるわけ?」
「そりゃこっちも聞きたい。何で、お前がその幼馴染殿と一緒にこんなところをふらふらしてたんだ?」
問い返されて、ルナは一瞬、答えに詰まる。
それを見てカノンはふと思い出した。
例のクオノリアの一件。すべての根源となったあの事件で不当に用いられた魔道結晶体『ヴォルケーノ』。
他でもない、彼女が言っていた。あれは『月の館』で、自らが参加していたプロジェクトチームで創造されたものだと。
渋い顔のまま、ルナは小声で答え出す。
「あたしはまあ……詳しくは後で話すけど。ちょっと事情があってね……しばらく行動を共にしよう、ってことになって。この町にいたのは偶然よ」
「成る程な。お前らしい答えだ。嘘じゃないが、本当でもない」
ひくりと、ルナの片眉が動いた。
いつものどこか掴めない、ひょうひょうとした表情から一転して、ルナはぎゅ、と眉間に皺を寄せる。組んだ腕の手の爪が、きつく自らの二の腕に立てられていたのに気が付いたのは、カノンだけだったろうか。
「まあ、いいさ……。俺たちもこの町にいたのは偶然だ。一緒にいるのも偶然会ったから、としか言いようがねぇな」
「偶然会った?」
「あ、あのね……。あれから私、政団内で薬とかを管理するお仕事に就いたんだ。それで、お届けもののお仕事があって……
その途中で偶然、カシス先輩を見つけて」
「その届けるはずのウェルスティール薬をなくしてあわあわ言ってるところを妙な奴らに絡まれてたんだよな」
「……あんたもあんたで相変わらずね……」
「あ、あうあうあう……」
ずけずけと言い放つカシスと、呆れた視線で疲れたように吐くルナに、イリーナは返せる言葉もなく、頭を抱えながらすん、と涙声を漏らす。
短い溜め息を吐きながら、ルナは椅子にふんぞり返るカシスの方へ視線を移すと、
「それで、そのお届けものの薬ってのはどうしたのよ?」
「結局、見つからねぇからその場で調合したさ。で、その報酬を払ってもらうために帰路を同行中だ。以上」
「ちょうご……ッ!」
素っ頓狂な声を上げかけたのはカノンだった。外から漏れた声に、ルナもカシスも、イリーナもそちらを向く。魔道師たちの視線に曝されて、カノンは古い記憶を頭から絞り出しつつ、おそるおそる、
「あの、間違ってたらあれだけど……
あたしの記憶によればウェルスティール薬、って結構、調合が難しい魔道薬、だったような気がするんだけど。確か、召還系の魔方陣の効果を高めるために使うとか何とか……」
「ほう? そんなデカブツを背負ってる力強いお嬢ちゃんの割に詳しいな」
「デカブツは関係ないし、力も関係ない!! とにかく! そんなものどうインスタントに調合するわけッ!?」
デリカシーのない一言に遠慮だとか、謙虚だとか、そんな人間として大切なはずのものが削ぎ取られた。白子の魔道師は懐から紙煙草の小箱を取り出しながら返答する。
「ま、さすがに完全なものは無理だわな。けど、そこら辺のちょいと大きな町に行けば売ってるような材料で似たような効果の薬は製造出来んだよ。
ちょいと目が肥えた奴には解るかもしれねぇが、そこら辺で細々と小規模な研究をやってるような連中じゃあ、まず見分けるのは無理なくらいの、な。
俺に言わせりゃウェルスティール薬なんて薬剤局の金儲けのためにある金食い虫だな。勿論、製法は企業秘密だが」
「……」
ぱちんッ、と彼が指を鳴らすと加えた煙草に火が付いた。
濁った煙が吐き出されるのをしばし、やや茫然としてカノンは眺め、やたらと機械的な動作でルナの方を振り向いた。
「……天は二物を与えない、って言うけど」
「?」
「二物しか与えない場合もあるのね」
「偉いカノン! あんた、上手いこと言うわねッ!!」
「おい」
「る、ルナちゃん、失礼だよ……」
初対面お構いなし、という点では自分の相棒も相当なものだな、とレンは思った。
あわあわ言いつつ、男の顔色を伺っているイリーナがほんの少し哀れだ。
「まあ、それはそれとして、だ。
ルナ、ちょうどいい。聞きたいことがある」
「?」
右手でその先がない左肩を押さえ、彼は浮かべていた笑みを消す。切れ長の瞳と、さらに鋭く尖らせて、睨むように彼女を見た。
半歩、僅かにルナは後退った。
「……クオノリアとか何とか言う町で起きた事件は知ってるか?」
「!」
「……」
「知ってる顔だな」
黙ってはいたが、肩に走った小さな震えまでは隠せなかった。カノンも、レンも顔を上げて彼を凝視する。イリーナは不安げな表情で、ルナの横顔を見上げ、ちらちらとカシスへ落ち着かない視線を走らせる。
「首謀者はMWO支局のぼんぼんだったようだが。
街中の合成獣発生、なんてもんがほいほい出来てたまるかよ。道中、ちょいと調べさせてもらったが、これが不思議なもんだ。記憶にある事象がほいほい出てくる。
覚えてるか? A級危険指定を食らわしたボツ研究があったろ?
……覚えてるよなぁ? しっかり政団の関係者リストにゃお前の名前が挙がってやがる。
一体、誰が漏らしたんだろうなぁ?」
「……カシス」
笑っているような口調で、その実、欠片も目は笑っていない。制止をかけるように、何事か逡巡したルナが彼の名を呼んだ。
「あたしを疑ってるの?」
「正確に言えばお前も、だな。正直な話、俺はプロジェクトチーム全員を疑ってるぜ?
それに、お前、事件時にMWOに絡んでたそうじゃねぇか……。潔癖だと言うには拭えない状況証拠だろ?
事実、お前はプロジェクトチームの中でもかなり高い位置に居た。ぶっちゃけて俺の次にな。
お前なら『ヴォルケーノ』の詳細も理解してるし、それを他人に享受するなんてことは造作もねぇだろうよ」
がたん、とカシスは席を立った。
ルナはそれに身構える。思わずカノンも、そしてレンも身を固くした。イリーナは泣きそうな表情を彼に向けた。
しかし、彼は予想と反して、彼女たちの脇を素通りすると、未だに倒れ込んだ二つの炭の塊の方に向かった。
「……ましてや」
嘲った表情でそれらを見下すと、アルティオのでかい図体に足をかける。
「ぐぇッ!?」
「こんなもんを見たら尚更、な」
「ッ!」
ルナの表情に焦燥が走る。
彼が指したのは、アルティオの腰に結び付けられた二振りの剣―――ランカースフィルの惨劇を生み出した、あの忌まわしい剣だった。
「何ですか、それ? 私は知りませんけど……」
「だろうなイリーナ。この中で『これ』に絡んでたのは俺とルナだけだからな」
「え?」
思わず声を漏らしてカノンは、ルナを見る。
彼女はただ唇と噛んで、項垂れるだけだった。
「『ヴォルケーノ』ならまだどっかから漏れる可能性はあるさ。一時的とはいえ、文書にして残しといた時期があるんだからな。
けどな、『コイツ』は違う。プロジェクトチームの中でも極限られた人間しか知らねぇはずだ」
「ちょっと……じゃあ、それもまさか」
「ああん? そいつに聞いてないのか? こいつはな、正式名称『ツインルーン』。お前らがどう呼んでるかは知らねぇが、一部の人間で研究中だった対で癒しと増強の効果を持つ剣さ。
ま、最終的には一つの剣として機能させる予定だったが、その前に館の方が潰されたからな」
カノンは、はっとする。あのとき、引き取った二振りの剣を、ルナは一日のうちに制御可能な、実用可能の魔法剣に修繕してしまった。
カノンは魔法剣の製造法には詳しくない。そんなに簡単に修繕できてしまうものなのか、疑問には思ったが―――
もし、彼女がこの剣の構造に最も詳しい人間だったのなら―――
茫然とするカノンに視線を向けられず、ルナは俯いたまま無言だった。
かつ、とカシスは靴音を鳴らして彼女に近づく。イリーナは彼女を庇うように前に出るが、有無を言わさない彼の雰囲気に、あっさりとどけられてしまった。
ぐい、と細い彼女の頬を持ち上げて、上を向かせる。
「正直に話せ、ルナ。お前、どっかで誰かに『コイツ』の話を漏らしたのか?」
「……」
「チームで行われた研究に最も詳しい人間は俺を抜かせば、お前だ。お前だったら資料なんかなくとも、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の詳細を伝えて同じものを造ることも可能だろ?」
「……」
きりッ―――歯軋りをする音が、僅かに聞こえた気がした。
カノンは唐突に我に返った。ルナの目尻に、かすかに、光るものが浮かんでいた。
「……あたしは…あたしはこの五年間、誰にも危険指定された研究のことなんか喋ってない」
「……本当か?」
「本当よ」
「……」
カノンは彼女の顔を覗き見る白子の魔道師の瞳を凝視する。
いろいろな人間を見て来た。裏切られて、ときには裏切ってしまった。だから解る。あれは、人を疑っている人間の目だ。
だんッ!
「!」
「ッ! ……カノン…?」
気が付けば、硬直したままの彼らの間に割って入っていた。
やや驚いた表情の、彼の目を睨んで言い放つ。
「ルナは違う。それは、あたしが証明出来るわ。むしろ、彼女はその情報の出所を調べるためにあたしたちと一緒にいるの」
「……ふぅん?」
「……クオノリアの一件には黒幕がいる」
カノンの昂ぶった感情を抑えるように、彼女の肩を押さえながらレンが言葉を継ぐ。
「首謀者とされている男に、『ヴォルケーノ』の情報を流したのもその黒幕。『月陽剣』も同じことだ。
その黒幕の目的は……まあ、はっきりとは解らないが、俺たちにあるらしい。奴から情報を得るために、ルナは俺たちと行動を共にしていた。
それだけだ。自分が流した情報の情報元を探るために、危ない橋を渡る馬鹿もいないだろう。
あんたの気持ちも解らないでもないが、研究を横流しされて怒り心頭なのは彼女も同じだ」
「どうだか」
「あんたね! いい加減にしなさいよッ!? この娘がどれだけ……」
「カノン」
眉を吊り上げるカノンの名を、当のルナが諫めるように紡ぐ。
「別にいいのよ。疑われても仕方ないから。
カシスはプロジェクトチームのチーフをやっていた男なの。カシスにとってはプロジェクトの研究は自分の研究も同然。
思い入れはあたし以上だろうし、自分の研究を横流しされて、黙っていられる魔道師なんていないわ」
「ルナ……」
同じ魔道師として、気持ちを共有出来るのはルナだけだ。
彼女は顔を上げ、改めて彼の方を見る。
「……宿を教えて。その話はまた、ゆっくりしましょ。今日は頭に血が上ってるわ。そんなに急いでるわけでもないでしょ?」
「……ま、数日なら、な。構わねぇさ」
ふっ、と息を吐き出して、カシスの口元に余裕の笑みが戻る。くい、と顎で指すとイリーナが慌てて宿の名と場所を口にした。
「ご、ごめんねルナちゃん。こんなつもりじゃ……、せっかく久しぶりなのに……」
「いいのよ。あんたが悪いんじゃないし。仕方ないわ。魔道師の宿命、ってやつね。
話さなきゃいけないことだったし、実を言うと会ったときから覚悟はしてた」
何か、諦めたように言ってルナはイリーナの蜂蜜色の髪を撫でる。
それを一瞥して、カシスは唐突に踵を返す。
「まあ、暇なときにでも来るんだな。こっちもそうしてやるよ。じゃあ……」
「カシス」
最後の言葉を塞ぐようにルナは、その背に声をかける。
「……信じてるから」
「……」
絞り出した一言に、彼は無言だった。ふん、と短く鼻を鳴らして歩き出す。
ルナはどうしたものか、おろおろするイリーナの背を押して、行くように促す。彼女はすまなさそうに肩を竦めて、ぺこりとお辞儀をした後に宿を出て行った。
「……ルナ」
彼らが去って、たっぷり十分は経っただろうか。ようやく立ち尽くしたままのルナに、声をかけることが出来た。
ふ、と笑うような気配。
そして、振り返った彼女は、唐突にカノンへ頭を下げた。
「な、ちょ……」
「ごめん。謝るわ」
「謝る、って何をよ!?」
「『ツインルーン』……『月陽剣』のことよ。黙ってて悪かったわ」
「あ……」
次の言葉に迷う。しばらく瞑目してから、レンを見る。
溜め息を吐いた後、彼は黙って頷いてくれた。
「顔上げてよ、ルナ。らしくないって」
「……」
「言いにくい気持ちは解るしさ。あのときは……その剣が、本当に事件に関わってるかなんて推測出来なかっただろうし。
過ぎたことをぐちゃぐちゃ言っても仕方ないし。
とりあえず、今は彼らのことを考えた方がいいでしょ?」
「……さんきゅ」
小さく口にして彼女は面を上げる。何故だか、とても疲れていた。
「とにかく、今日はもう休んだ方がいいだろう」
「そーね。何かいろいろ混乱してるだろうし」
「……そうするわ。ごめん」
「もういいって。とにかく一度、頭ん中整理した方がいいんじゃない? その間にあたしたちもいろいろ考えて置くし」
「ん、さんきゅ。じゃあ、先、休むね……」
どこかふらついた足取りで、踵を返す。それを見たカノンが慌てて駆け寄るが、それには及ばないと彼女は動作で断った。
一瞬、カノンは迷ったが、結局は手を離した。誰しも、一人になりたいときはある。
彼女が古びた階段で階上に上がり、部屋のドアの音が閉まる音が聞こえてから。
カノンは長く息を吐く。
「……びっくりした」
「同感だ」
ぽつり、と吐いた一言に、硬い声が返って来る。
「……ルナが泣いてるの見たのなんて、あのとき以来ね」
「ああ」
あのとき。
彼女が加担させられていた組織から、ようやく彼女を救い出し、身体に宿った魔族を倒して。
それでも疲弊した彼女の心は、古の崩壊の呪を紡ごうとして。
それが呆気なく失敗に終わって。
それでも手を差し伸べた。
それからは目覚しい立ち直りを見せて、贖罪を続けて、この二年。涙どころか、カノンにもレンにも、弱音一つ口にしたことはなかったのに。
「……大丈夫、かな」
「まぁねぇ、惚れた男にあそこまで詰め寄られちゃいくら打たれ強くても堪えるわよねぇ」
「あんたはまたそういう話を……って、わぁッ!? 生きてた!?」
「生きてるわよ! まったく、危うく死んだおばあちゃんに連れて行かれるところだったじゃないの!?」
「いや、あんたのおばあちゃん、確か現役でユニホックか何かやってた気が……
まあ、いいや……っていうか、あんたはすぐそういう方向に話を持ってくわね……」
「あら、あながちハズレではないと思うけど。あの娘、ああいう趣味だったのねぇ。ちょっと意外だわ」
「あのね……」
生還と同時にそんなことをのたまうシリアに、ジト目を送る。
「いてて……、尾てい骨が」
「安心しろ、男は子供を産まん。どうせなら俺が継いで粉砕してやっても」
「すんな馬鹿! しっかし、おっでれーたな。てっきり感動の再会になるとばかし思ってたのによ。
あのにーちゃんも参ったもんだな。そんなに自分の研究の方が大事かよ」
やんわりとは言っているが、苦い思い出がそうさせるのか、アルティオの声には苛立ちが見て取れた。カノンは逡巡して肩を竦める。
「まぁ……正直、あんなものがそうぽこぽこ流出したら、それこそ戦争沙汰になりかねないし。そうすると責任問題とかも出てくるだろうし……魔道師じゃないし、当事者じゃないあたしたちには詳しくは解らないけど……。
魔道師には魔道師の矜持、ってやつがあるんだろうし……個人的には好きになれない人種ではあったけど」
「思っていることはルナもあの男も一緒だ。誤解が解ければ、そちらの方面では協力も仰げるかもしれん。……それには一仕事かかりそうだがな」
「……あのさ」
「何だ」
椅子に腰掛け、痛む尻をさすりながら、ひどく言いにくそうにアルティオが口にする。寄せた眉間の皺が深い。
「ふと思っただけなんだけど。いや、疑ってるわけじゃねぇぞ? けど、その研究の情報を漏らしちまったのは、本当にルナじゃないんだよな……?」
「……」
ぎろりとカノンに睨まれて、アルティオは釈明のようにぱたぱたと両手を振る。その様にレンは軽く首を振り、
「解らん。だが、行動を見ている限りでは考えにくいことは確かだ。
それにもし、そうだとしても俺たちが究明することでもないだろう。それはそれで、あいつは自らの責任を果そうとしているだけだ。それはそれで構わんだろう」
「そう……だな。俺たちが信じてやんないと、な。悪ぃ」
「大体にして、あの男やルナの親友にしたって容疑者だ。それはルナもあの男も解っているだろう。
同じチーム内にいたんだ。自分が関わっていない研究にしたって、耳にする機会くらいはあったろう。チーム内の人間は誰もが等しく容疑者だ。どんな経路であの黒幕の耳に入ったのかは知らんがな」
「……」
「ともかく! あの二人のことはよしましょ。私たちで考えたところでろくな答えなんか出ないじゃない。
それよりも問題なのは、あの黒幕一派のお嬢ちゃんよッ! まったく、何考えてるのかしら!!
あんな人の多いところでこんな……」
「……それなのよね」
苛立ちながら言葉を叩きつけるシリアに、カノンがぽつりと漏らした。虚空を見上げて、眉間に皺を寄せる。
「それって何が?」
「今までに比べて、なんていうか、大雑把というか開けっ広げ、っていうか。
ほら、今までは大規模なことを起こしたり、いきなり襲撃されたりはしたけど。けど町全体で大規模なことをするには、こそこそ裏から手を回してやってたし、襲撃だって目撃者の少ない時間帯を狙って来たわ。
でも今回は大規模で、それもかなりの人間を巻き込んで、なおかつ、あっさり姿を公然と見せて。
何となく手口が違う気がするのよね」
「……また別の策がある、ということか……?」
「さぁ、そこまでは解らないけど」
もどかしい。
あまりにも不明快で、頼りない推測。今まで、彼らの行動には何かしがの意味があった。ならば、この行動にも何かしがの意味があるというのか、もしくは霍乱のためか……。
「ともかく。ルナのことがあるんだし、数日は足止めを喰らうんでしょ?」
「……そうね。あたしたちはルナにとっては証人なわけだし。放っていくわけにいかないし」
「それに、奴らの手口の中では、その『月の館』の研究が二度使われた。三度目がないとも限らん。
そうなった場合、あの男の協力を得られた方が奴らの裏を掻き易くなるだろう」
「……何か屈辱的だけど」
「仕方ないだろう、私情は抑えろ」
むぅ、とカノンは息を吐く。
ふと、冷えた窓に気がついて、暗い空を覗き見る。か細い星が暗い光を放つ中で、幾分欠けた月が煌々と夜空を照らしていた。
←4へ
がんッ!!
カノンが鞘ごと振るったクレイソードが、屋台のポールを振り回していた男の脳天を捕らえる。衝撃に動きを止めた男は、間を置いてゆっくりと石畳に沈んだ。
「ったく、鬱陶しいわねー。どこでどう術がかけられてるか解んないし、どっかのおつむの弱い男は真っ先に洗脳されるし!」
「悪かったな!」
苛立った彼女の言葉に、後頭部に巨大なタンコブを張り付かせたアルティオが怒鳴り返す。
「おっほっほっほ、様ないわねぇアルティオ。もうちょっと頭の方も鍛えたらどうなのかしら?」
「あんただってただ単に、たまたま防護の印持ってただけでしょ」
「しかし、こう来られるとキリがないな。精神力の高い人間は正気を保っているらしいが……それも保護しきれん」
後ろ回し蹴りで近づいてきた男三人を同時に昏倒させながら、レンは眉間にしわを寄せる。殺気立った通りを改めて眺め、舌を打つ。
死屍累々と横たわる町人たち。まあ、勿論、死んではいないが。
「四人がかりだって限界があるわよ。大体、町のどこからどこまでがこのわけのわかんない魔法の効果範囲になってるか知れないし!
何の関係もない人間をここまで巻き込むなんて、やってること無茶苦茶じゃない……!」
きり―――ッ!
拳を握り、歯を軋ませる。
「仕方がない。何とか元を断つしかないだろう」
「どうやってよ!? どこから術がかけられてるかもわかんないのに!」
「落ち着け。俺たちが出来なくても、ルナ辺りなら魔力探査くらいは出来るかもしれん。
とりあえず、あいつを探すぞ」
「まったく、こんなときに……ッ! どこに行ったってのよッ!!」
悪態を吐いてはいるが、カノンの額に浮かんだ冷や汗が、最大限の焦燥を表している。
ルナがこの魔法に囚われているということはないだろう。人並み以上の精神力の持ち主であると同時に、彼女も魔道師だ。防護の印くらいは持っているはずだ。
しかし、だからこそ、戦い慣れしていないとはいえ、殺気立った一般人に囲まれて一人、という事態になっている可能性は高い。
彼女の魔法は破砕力が高いものが多い。彼女自身、攻撃型の呪文を得意とする。だが、それをこの状況で行使することは出来ない。
―――早く見つけないと……!
ばたばたと突進してくる男の顔面を蹴り倒しながら、カノンは通りの向こうを覗き、
「きゃあぁああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
背後から聞こえた、耳を劈くような悲鳴。
振り返ると、人だかりが見えた。いつもなら特に気にも留めないのだろう。しかし、今は場合が違う!
「あんの野郎らッ! 女の子をッ!!」
「あ、ちょっ、アルティオッ!!」
得物を振り上げる男女の中心に、身体を竦ませていた少女を目にした瞬間に、剣の鞘を振り上げたアルティオが集団の中へと突進していく。
頭を抱えながらカノンもそれに続いた。
「まったく、致し方ないな」
「面倒な奴ね、もう!」
振り上げたアルティオとカノンの鞘の柄から逃れた男を、手刀が捕らえていく。早口で唱えたシリアの氷結魔法が、残った町人たちの足を止めた。
「大丈夫!?」
「は、はい……」
魔道師風の少女だった。その顔を見て、ふと気づく。
「って、貴方、確か……」
「あ、あの、その……」
少女は慌ててよろめきながら立ち上がる。紺を基調にしたやや地味な印象を受けるローブ、それにかかる柔らかな蜂蜜色のセミロング。歳はカノンとそう変わらないだろうが、ややあどけない可愛らしい顔つきで、うっすらとそばかすの名残が見え隠れする。
見覚えがあった。
「あ、え、えっと、あの、有難うございます……ッ」
「貴方、確か道具屋の前で会った……。
って、ンなことはとりあえずいいか。とにかく、どっかに隠れて……」
「カノン」
少女とカノンを庇うように、レンが背を向けて立つ。舌を鳴らしたアルティオが、同じように立って双剣を構える。
「ひっ……」
「くッ……」
カノンもまた、少女を背に隠して二人の背中の向こうを睨んだ。ぱたぱたと駆け寄ってきたシリアもまた、カノンの背で小さく呪を唱え出す。
並んだ幾つもの生気のない顔。
それでいて、乾いた表情に宿るぎらついた闘争心。虚ろな目をした群衆が、手にそれぞれの、まちまちな得物を持ちながら町人の列が出来ていた。勿論、正気であるはずがない。
「囲まれたな」
「くっそ、どうすりゃいいんだよッ!?」
苦い表情で口にするレンと、激昂を隠さないアルティオ。
「シリア、頼むわよ」
「……」
小さく、眠りの呪を唱え続けるシリアに声をかける。きゅ、と背後に庇った少女の手が、カノンの服の裾を掴んだ。
かちゃり、とレンの構えた剣の柄が音を立て―――
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、陽炎の源、汝、支配を恐れるならば清浄なる水の祈りを捧げん……」
「!」
不気味な静寂を切るように、極涼やかに、テノールの詠唱が耳に入った。はっとして少女が顔を上げる。
「ちょっと、この詠唱……」
呪を途切れさせたシリアが驚愕の声を漏らす。カノンにも聞き覚えがあった。
それが何の呪か、判断すると同時に足元から柔らかな、淡い光が漏れる。奇怪な形をした光の紋章。術法の発動と共に浮き上がる、一種の魔方陣。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
「―――ッ!?」
目を焼くほどの閃光が、一瞬、辺りを包み込んだ。咄嗟に閉じた瞼越しでも、目に痛みが走る。少しだけ、くらり、と足がよろけた。
何度か目にしたことがある。あれは高位の浄化魔法だ。大抵の他の魔法の効果を無効化してしまう、普通、高位の神官や一部の巫女や法師が扱うもの。
光が収まるのを待って、カノンは目を開く。
がくりと膝をついた群衆。ふらふらと、安定感のない動作を繰り返しながら、空を仰いで皆、一様に首を傾げている。
彼らには解らないのだ。今、一体、何が起こっていたのか、が。
首を傾げ、口々に「何やってたんだ」、「さぁ?」などと呟きながらも人々は霧散していく。
その去っていく人波の向こうに、
「また会ったな。お嬢ちゃん」
「あ、あんた……ッ!」
「先輩ッ!!」
「へ……ッ?」
嘲り交じりに投げかけられたセリフへ、カノンが返すよりも先に、背中に隠れていた少女があたふたと飛び出していく。駆け寄った少女の頭を、白子の青年は軽く二度叩く。少女は潤んでいた目尻を拭って、俯いた。
「よう、連れが世話んなったみたいだな」
「あんた、何でここに……」
言いかけて、カノンははっとする。
「あんた!」
「あん?」
つかつかと靴を鳴らし、カノンは、レンとアルティオの背を押しのけて、青年へ詰め寄った。ひょうひょうと逸らした胸ぐらを掴みながら、
「女の子見なかったッ!? あんたのこと探してると思うんだけどッ!!」
「ああ?」
「すまんな、時間がない。手身近に訊く」
噛み付くカノンを押さえるようにして、レンが男の赤眼を睨むように覗く。
「ルナ=ディスナーという名に聞き覚えはあるか?」
「!」
「えッ……」
男の余裕の表情に、初めて驚愕が広がった。眉間に寄せたしわと、僅かにぴくりと動いた肩が、それを象徴していた。傍らに立っていた少女は、目を丸くして、信じられないものを見る目でレンを見上げる。
「知っているようだな」
「……だから何だ?」
「彼女があんたを探しにいったようだ。見かけていたら教えて欲しい」
「……生憎、見てねぇよ。つーかてめぇら、どこのどいつであいつとどんな関係だ?」
「それを訊きたいのはこっち……」
どぉぉぉんッ!!
『!!?』
漂った剣呑な雰囲気を切り裂くように。
通りの向こうから轟音が上がったのはそのときだった。
「―――ッ」
左腕に走る痛みを抑えながら立ち上がる。細かい石畳の破片が、二の腕を浅く抉っていた。
「ルナ殿!」
「かすり傷よ……。平気」
「……」
無表情に、黒髪の少女はこちらを眺めている。周囲には、既に幾つもの破壊の跡があった。
デルタが苦しげに呻いて、防護障壁を解除する。額には珠のような汗が浮かんでいた。
「しぶとい、です」
「今回は随分と直球じゃないの……前回まではあれだけ周到に歓迎してくれたってのにね!」
言い放つと同時に指を鳴らす。既に詠唱は終えている!
どんッ!!!
赤色の尾を引いた複数の光弾が、少女をめがけて飛来する。少女は僅かに眉を潜めただけで、すっ、と後ろへ引いた。
一瞬、光弾が滞空する。
「!」
胸を掠めた嫌な予感に、ルナはラーシャの袖を引き、デルタの背を押してその場に伏せる。
きゅどんッ!! どぉぉおおぉぉおぉぉんッ!!
「なッ……」
「くッ……相変わらず無茶苦茶ね!」
光弾はそのまま折り返すと、ルナたちの頭上へ降り注いだ。咄嗟に張った障壁で、何とか直撃は免れたが、何度も使えるような芸当ではない。
「無駄、です」
「ちッ!」
―――なら、時間稼ぎだけでも……ッ!
先ほどの轟音ならば、通りの向こう側でも聞こえるはず。それに気がつかないカノンたちではないだろう。
ならば、やることは時間稼ぎか、もしくは戦線離脱。
幸い、ラーシャは剣士としては一流以上の腕をしている。デルタはルナの不得手な防壁の呪法を得意としているようだった。
ならば切れるカードは一つではない。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
ルナの放った蒼い閃光が、周囲の石畳と街灯を凍り付かせる。張り付いた氷は、檻のように、少女とルナたちとの間を阻んだ。
「逃げるわよ!」
「良いのか!?」
「あんな無茶苦茶な奴、こんな公衆で相手にしてらんないわよッ!!」
踵を返したルナと、立ち上がったラーシャとデルタが同時に駆け出す。だが、その背を眺めながら、
「……無駄」
少女は僅かに右手を振るわせる。
……ぱき、ぱきぱきぱきぱきぃんッ!!
張られた氷に、無数の白いひびが入った。振り返りながらそれを見たデルタの顔に、驚愕が広がる。
「何ですかあれは……! そんな無茶な……」
「だから無茶だ、って言ってんでしょうがッ!!」
走り出しながら、ルナは次の呪を口ずさむ。
ぱきぃぃぃんッ!!
「逃がさ、ない、です」
それが完成するより先に、砕けた氷を踏みつけて、少女がぱたぱたと走る。軽やかに走っているだけのそれは、しかし、思うより速度が速い。
加えて、少女にとって距離は差たる意味を持たなかった。
「お返し、です」
少女の前に、無数の氷の粒が浮かぶ。
―――くッ!
呪文は、間に合わない!
「……紅に咲く華々に求む。劫火の果てに尽きる声よ」
「!?」
歯を軋ませたルナは、傍らから響く声に顔を上げる。詠唱を終えたラーシャは、立ち止まり、振り返る。
眼前には、少女が生み出した幾つもの氷の粒!
「昇華[ヴァーニング]―――!!」
ごぅッ!!
「!」
珍しく、驚いた表情の少女と同じように、ルナも言葉をなくす。
昇華―――カノンと魔変換[ガストチャージ]のように、けして魔法ではない。特定の人間のみが持つ、異能力。
何もない虚空から自然発火を起こし、またその炎を自在に操る、戦闘に特化した能力。
滅多にあるものではない。かく言うルナも、実際に目にしたのは初めてだった。
生み出された炎は、氷の粒をすべて呑みこみ、生み出されたときと同じように、虚空に掻き消える。
「ラーシャ、あんた……」
「話は後だ。逃げるのだろう?」
「そ、そうね!」
我に返ったルナは唱えかけた呪を再び紡ぎながら、踵を返す。だが、少女はそれよりも早く立ち直り、今一度、手を振った。
「!」
「ラーシャ様ッ!」
黒い影が、三人の両脇の足元を駆け抜けた。それは三人の前方で形を成して、くぐもった雄叫びを上げる。
全身は黒というか、影。そう、影だ。影そのものが、歪な牙や角を生やして、地面から生えている。
異様な光景だった。細い輪郭を描いた、ただの影が、凶悪な顎をこちらに向けているのだから。
ぎ……ぎぎぎ……
羽虫が上げるような奇妙な怪音。歯を噛み締めて、ラーシャは刃を抜く。はっ、としてデルタが後方に防御壁を張ろうと試みる。
が、そのときにはもう、少女の生み出した影と同じ色をした複数の刃が背後に迫っていた。
―――これまでか……ッ
迫る衝撃に、ルナが覚悟を決めたときだった。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
―――え……?
低いテノールの声と共に、周囲が一瞬、閃光に瞬いた。その中で、少女の動きも止まる。
反射的に身を固くしながら、耳に入った声を、呪文を胸中で繰り返す。
―――今の呪文……それに、あの声は……。けど、そんなはず、そんなわけ……
「……くッ」
閃光に目が眩んだのか、少女の体が傾ぐ。影の獣は、光の中で既に消えていた。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
ラーシャが抜き身の剣を携えて、少女の方へ地を蹴った。しかし、
「……」
「!?」
少女は無感情な目でその刃を眺め、そして、ゆらりと身体を倒す。
空に解けるように、その小柄な身体は、目の前から消え失せた。ラーシャの剣は虚しく空を切り、半壊した石畳を叩く。
手応えのない剣に、ラーシャは茫然としてその場に立ち尽くした。
「今のは……一体…」
「ルナッ!!」
トーンの高い少女の声が、彼女の名を呼んだ。顔を上げると、金の髪を揺らしながら幼馴染の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
「カノン……」
「ったく、何やってんのよ! 今がどんな状況か解ってるでしょうがッ!!」
「なッ! ちょっと、あんたに言われたくないし! あたしだってね……」
「る、ルナ、ちゃん……?」
「―――!?」
彼女の背後から聞こえた、か細い声に、ぴたりとルナの張り上げた声が止まる。こつ、と響く靴音。
気がついて、カノンがこちらの視界からずれた。茫然とした栗色の瞳と目が合った。
ルナよりも背は低く、紺色のローブに柔らかそうな蜂蜜色の髪が垂れている。浮かべた表情は、どこか自身と言うものに欠けていて、うっすらと残ったそばかすがあどけない。
―――う、ウソ、でしょ……
「い………イリー…ナ……?」
「ルナちゃん? ルナちゃん、なんだよね……!?」
「な、何で、あんたがここに……」
「ルナちゃんッ!!」
両目の端に雫を浮かべた少女は、肩を震わせて感極まったように、走り出す。そのまま慌てて逸れたカノンの横を抜けると、腕を伸ばして抱きついて来た。
ぎゅう、と力を込めてしがみつかれる。
「な、ちょ、い、イリーナ……ッ!」
「良かった、ルナちゃん……生きてた、ほんとに、生きててくれた……ッ! ふ、う、うぇぇ……ッ!
ルナちゃん、ほんとに…良かった、良かったよぉ……ふぇ……」
「あんた…どうして……」
「だって、だってルナちゃん……私たちだけ置いて……。自分だけ、えぐッ…先輩助けに行って……帰って来ないから……ふ、ぅうぅうううッ!」
事情の解らないカノンは目を白黒させることしか出来なかった。その幼馴染に気がついて、とりあえずは落ち着かせようと張り付いたままの少女を宥めて拘束を解かせる。
「ち、ちょっとルナ……。あたし、全然事情が把握出来てないんだけど……」
「わ、解ってる。解ってるけど、ちょっとま……」
頭の中を整理しようと、問いかけるカノンと泣き続ける少女を制しようとした。
けれど、
その刹那。
「…………くッ、こりゃあ参ったな」
「・・・!」
鼓膜を叩いたテノールの声。
あの呪文を編み出した、低い、どこか嘲りを含んだ響き。
それは聞き覚えのある声だった。
いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。
最初は大嫌いだった。
人を馬鹿にして、これっぽちも思いやりのある言動なんかしなくて、デリカシーもなくて、人の気にしてることはむしろ好んでずけずけ言ってくる。最低だと思っていた。そう、ちょうどさっきのカノンと同じ。
特に、組織を離脱してからは聞きたくもない声だった。
時には頭の中の幻聴で響いた。それがこの上なく嫌だった。
それが聞こえる気がする度に、僅かに抱いた期待が、結局は裏切られることを知っていたから。
二度と、聞くことは出来ないかもしれない。そう覚悟してきた。その方が、楽に生きられる。自身の幻想に裏切られないで済む。
だから。
そんなはずはないのだ。
その声が、こんな間近で、痛む左腕が夢ではないと告げているのに、聞こえるはずが―――
「てっきりわけのわからねぇ連中のホラ話だと思ったのによ……。世の中、妙なこともあるもんじゃねぇか」
幻聴の靴音がする。
そんなはずはない。
そんな、はずが、ないのだ。だって、だって、あのとき彼は―――!
ぐいッ。
「―――ッ!」
「何だ、冷てぇな。イリーナのことは覚えてても、俺のことは忘れたのか?」
腕を引かれて、ただでさえ軽い身体がいとも簡単に引き寄せられる。つんのめったと思ったら、今度は無理矢理上を向かされた。
沈みかけた夕刻の日が、色素のない髪に反射して金にも銀にも見える、不思議な光を放っていた。
雪に等しい色をした肌に、薄い唇は記憶と寸分違わない笑みを浮かべている。
そして、
「……よう、久しいな」
「………ぅ、う、そ、…でしょ……」
ようやく出た声は掠れていた。
視界に映ったのは、細められた、切れ長の、
血の色をそのまま映した、真紅の瞳―――
「……思い出したか?」
「………ぁ、ぅ……」
そんなはずはない。
忘れるわけが、ない。
「か………か、カシ、…ス……?」
「……」
すっかり乾いた声が紡ぎ出した名に、男は満足げに、口元だけで笑んだ。
「……俺以外の誰に見える?」
「な……なん……なん、で……」
「こっちのセリフだ。長い間、どこほっつき歩いていやがった」
がらがらと、音を立てて壁が崩れていく。必死に張り詰めていた糸が、ぷつん、と切れる音を、どこかで聞いた。
久しく忘れていた、熱いものが、身体の奥から込み上げた。
「……イリーナ…、カシス……」
「そうだよ、ルナちゃん。先輩も私も、ちゃんと生きてるよ。本当に、いるんだよ?」
目尻に涙を残したままで、ずっと傍らに立っていた少女が満面の笑みを浮かべて、こちらを覗きこんだ。
それが、五年以上も前の、彼女の中の、安らかな記憶と完全に一致した。
がくり、と膝から力が抜ける。
「る、ルナちゃん!?」
「何やってんだ、お前?」
「……………ッうるさい!!」
「!」
目の前の白衣の胸倉を掴み返して、思わず怒鳴りつけた。涙交じりの声だったことは、知らない。
「ほんッ…とに、あんたたちは……ッ! どれだけ…ッ、どれだけ人を心配させたら、……ッ、ぅ、ふぅ………ぅううぅううッ!」
「ルナちゃん……」
「……」
堰を切って流れ出した雫は、どれだけ歯を食い縛っても止まってはくれなかった。だから、上を向くのを止めて、誰が顔を上げてやるかと俯いた。
呆れた溜め息が聞こえた。
乱暴な手つきが、髪を掻き乱す。
その手に、一時。
甘えるように、彼女は少しだけ、泣いた。
←3へ
カノンが鞘ごと振るったクレイソードが、屋台のポールを振り回していた男の脳天を捕らえる。衝撃に動きを止めた男は、間を置いてゆっくりと石畳に沈んだ。
「ったく、鬱陶しいわねー。どこでどう術がかけられてるか解んないし、どっかのおつむの弱い男は真っ先に洗脳されるし!」
「悪かったな!」
苛立った彼女の言葉に、後頭部に巨大なタンコブを張り付かせたアルティオが怒鳴り返す。
「おっほっほっほ、様ないわねぇアルティオ。もうちょっと頭の方も鍛えたらどうなのかしら?」
「あんただってただ単に、たまたま防護の印持ってただけでしょ」
「しかし、こう来られるとキリがないな。精神力の高い人間は正気を保っているらしいが……それも保護しきれん」
後ろ回し蹴りで近づいてきた男三人を同時に昏倒させながら、レンは眉間にしわを寄せる。殺気立った通りを改めて眺め、舌を打つ。
死屍累々と横たわる町人たち。まあ、勿論、死んではいないが。
「四人がかりだって限界があるわよ。大体、町のどこからどこまでがこのわけのわかんない魔法の効果範囲になってるか知れないし!
何の関係もない人間をここまで巻き込むなんて、やってること無茶苦茶じゃない……!」
きり―――ッ!
拳を握り、歯を軋ませる。
「仕方がない。何とか元を断つしかないだろう」
「どうやってよ!? どこから術がかけられてるかもわかんないのに!」
「落ち着け。俺たちが出来なくても、ルナ辺りなら魔力探査くらいは出来るかもしれん。
とりあえず、あいつを探すぞ」
「まったく、こんなときに……ッ! どこに行ったってのよッ!!」
悪態を吐いてはいるが、カノンの額に浮かんだ冷や汗が、最大限の焦燥を表している。
ルナがこの魔法に囚われているということはないだろう。人並み以上の精神力の持ち主であると同時に、彼女も魔道師だ。防護の印くらいは持っているはずだ。
しかし、だからこそ、戦い慣れしていないとはいえ、殺気立った一般人に囲まれて一人、という事態になっている可能性は高い。
彼女の魔法は破砕力が高いものが多い。彼女自身、攻撃型の呪文を得意とする。だが、それをこの状況で行使することは出来ない。
―――早く見つけないと……!
ばたばたと突進してくる男の顔面を蹴り倒しながら、カノンは通りの向こうを覗き、
「きゃあぁああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
背後から聞こえた、耳を劈くような悲鳴。
振り返ると、人だかりが見えた。いつもなら特に気にも留めないのだろう。しかし、今は場合が違う!
「あんの野郎らッ! 女の子をッ!!」
「あ、ちょっ、アルティオッ!!」
得物を振り上げる男女の中心に、身体を竦ませていた少女を目にした瞬間に、剣の鞘を振り上げたアルティオが集団の中へと突進していく。
頭を抱えながらカノンもそれに続いた。
「まったく、致し方ないな」
「面倒な奴ね、もう!」
振り上げたアルティオとカノンの鞘の柄から逃れた男を、手刀が捕らえていく。早口で唱えたシリアの氷結魔法が、残った町人たちの足を止めた。
「大丈夫!?」
「は、はい……」
魔道師風の少女だった。その顔を見て、ふと気づく。
「って、貴方、確か……」
「あ、あの、その……」
少女は慌ててよろめきながら立ち上がる。紺を基調にしたやや地味な印象を受けるローブ、それにかかる柔らかな蜂蜜色のセミロング。歳はカノンとそう変わらないだろうが、ややあどけない可愛らしい顔つきで、うっすらとそばかすの名残が見え隠れする。
見覚えがあった。
「あ、え、えっと、あの、有難うございます……ッ」
「貴方、確か道具屋の前で会った……。
って、ンなことはとりあえずいいか。とにかく、どっかに隠れて……」
「カノン」
少女とカノンを庇うように、レンが背を向けて立つ。舌を鳴らしたアルティオが、同じように立って双剣を構える。
「ひっ……」
「くッ……」
カノンもまた、少女を背に隠して二人の背中の向こうを睨んだ。ぱたぱたと駆け寄ってきたシリアもまた、カノンの背で小さく呪を唱え出す。
並んだ幾つもの生気のない顔。
それでいて、乾いた表情に宿るぎらついた闘争心。虚ろな目をした群衆が、手にそれぞれの、まちまちな得物を持ちながら町人の列が出来ていた。勿論、正気であるはずがない。
「囲まれたな」
「くっそ、どうすりゃいいんだよッ!?」
苦い表情で口にするレンと、激昂を隠さないアルティオ。
「シリア、頼むわよ」
「……」
小さく、眠りの呪を唱え続けるシリアに声をかける。きゅ、と背後に庇った少女の手が、カノンの服の裾を掴んだ。
かちゃり、とレンの構えた剣の柄が音を立て―――
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、陽炎の源、汝、支配を恐れるならば清浄なる水の祈りを捧げん……」
「!」
不気味な静寂を切るように、極涼やかに、テノールの詠唱が耳に入った。はっとして少女が顔を上げる。
「ちょっと、この詠唱……」
呪を途切れさせたシリアが驚愕の声を漏らす。カノンにも聞き覚えがあった。
それが何の呪か、判断すると同時に足元から柔らかな、淡い光が漏れる。奇怪な形をした光の紋章。術法の発動と共に浮き上がる、一種の魔方陣。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
「―――ッ!?」
目を焼くほどの閃光が、一瞬、辺りを包み込んだ。咄嗟に閉じた瞼越しでも、目に痛みが走る。少しだけ、くらり、と足がよろけた。
何度か目にしたことがある。あれは高位の浄化魔法だ。大抵の他の魔法の効果を無効化してしまう、普通、高位の神官や一部の巫女や法師が扱うもの。
光が収まるのを待って、カノンは目を開く。
がくりと膝をついた群衆。ふらふらと、安定感のない動作を繰り返しながら、空を仰いで皆、一様に首を傾げている。
彼らには解らないのだ。今、一体、何が起こっていたのか、が。
首を傾げ、口々に「何やってたんだ」、「さぁ?」などと呟きながらも人々は霧散していく。
その去っていく人波の向こうに、
「また会ったな。お嬢ちゃん」
「あ、あんた……ッ!」
「先輩ッ!!」
「へ……ッ?」
嘲り交じりに投げかけられたセリフへ、カノンが返すよりも先に、背中に隠れていた少女があたふたと飛び出していく。駆け寄った少女の頭を、白子の青年は軽く二度叩く。少女は潤んでいた目尻を拭って、俯いた。
「よう、連れが世話んなったみたいだな」
「あんた、何でここに……」
言いかけて、カノンははっとする。
「あんた!」
「あん?」
つかつかと靴を鳴らし、カノンは、レンとアルティオの背を押しのけて、青年へ詰め寄った。ひょうひょうと逸らした胸ぐらを掴みながら、
「女の子見なかったッ!? あんたのこと探してると思うんだけどッ!!」
「ああ?」
「すまんな、時間がない。手身近に訊く」
噛み付くカノンを押さえるようにして、レンが男の赤眼を睨むように覗く。
「ルナ=ディスナーという名に聞き覚えはあるか?」
「!」
「えッ……」
男の余裕の表情に、初めて驚愕が広がった。眉間に寄せたしわと、僅かにぴくりと動いた肩が、それを象徴していた。傍らに立っていた少女は、目を丸くして、信じられないものを見る目でレンを見上げる。
「知っているようだな」
「……だから何だ?」
「彼女があんたを探しにいったようだ。見かけていたら教えて欲しい」
「……生憎、見てねぇよ。つーかてめぇら、どこのどいつであいつとどんな関係だ?」
「それを訊きたいのはこっち……」
どぉぉぉんッ!!
『!!?』
漂った剣呑な雰囲気を切り裂くように。
通りの向こうから轟音が上がったのはそのときだった。
「―――ッ」
左腕に走る痛みを抑えながら立ち上がる。細かい石畳の破片が、二の腕を浅く抉っていた。
「ルナ殿!」
「かすり傷よ……。平気」
「……」
無表情に、黒髪の少女はこちらを眺めている。周囲には、既に幾つもの破壊の跡があった。
デルタが苦しげに呻いて、防護障壁を解除する。額には珠のような汗が浮かんでいた。
「しぶとい、です」
「今回は随分と直球じゃないの……前回まではあれだけ周到に歓迎してくれたってのにね!」
言い放つと同時に指を鳴らす。既に詠唱は終えている!
どんッ!!!
赤色の尾を引いた複数の光弾が、少女をめがけて飛来する。少女は僅かに眉を潜めただけで、すっ、と後ろへ引いた。
一瞬、光弾が滞空する。
「!」
胸を掠めた嫌な予感に、ルナはラーシャの袖を引き、デルタの背を押してその場に伏せる。
きゅどんッ!! どぉぉおおぉぉおぉぉんッ!!
「なッ……」
「くッ……相変わらず無茶苦茶ね!」
光弾はそのまま折り返すと、ルナたちの頭上へ降り注いだ。咄嗟に張った障壁で、何とか直撃は免れたが、何度も使えるような芸当ではない。
「無駄、です」
「ちッ!」
―――なら、時間稼ぎだけでも……ッ!
先ほどの轟音ならば、通りの向こう側でも聞こえるはず。それに気がつかないカノンたちではないだろう。
ならば、やることは時間稼ぎか、もしくは戦線離脱。
幸い、ラーシャは剣士としては一流以上の腕をしている。デルタはルナの不得手な防壁の呪法を得意としているようだった。
ならば切れるカードは一つではない。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
ルナの放った蒼い閃光が、周囲の石畳と街灯を凍り付かせる。張り付いた氷は、檻のように、少女とルナたちとの間を阻んだ。
「逃げるわよ!」
「良いのか!?」
「あんな無茶苦茶な奴、こんな公衆で相手にしてらんないわよッ!!」
踵を返したルナと、立ち上がったラーシャとデルタが同時に駆け出す。だが、その背を眺めながら、
「……無駄」
少女は僅かに右手を振るわせる。
……ぱき、ぱきぱきぱきぱきぃんッ!!
張られた氷に、無数の白いひびが入った。振り返りながらそれを見たデルタの顔に、驚愕が広がる。
「何ですかあれは……! そんな無茶な……」
「だから無茶だ、って言ってんでしょうがッ!!」
走り出しながら、ルナは次の呪を口ずさむ。
ぱきぃぃぃんッ!!
「逃がさ、ない、です」
それが完成するより先に、砕けた氷を踏みつけて、少女がぱたぱたと走る。軽やかに走っているだけのそれは、しかし、思うより速度が速い。
加えて、少女にとって距離は差たる意味を持たなかった。
「お返し、です」
少女の前に、無数の氷の粒が浮かぶ。
―――くッ!
呪文は、間に合わない!
「……紅に咲く華々に求む。劫火の果てに尽きる声よ」
「!?」
歯を軋ませたルナは、傍らから響く声に顔を上げる。詠唱を終えたラーシャは、立ち止まり、振り返る。
眼前には、少女が生み出した幾つもの氷の粒!
「昇華[ヴァーニング]―――!!」
ごぅッ!!
「!」
珍しく、驚いた表情の少女と同じように、ルナも言葉をなくす。
昇華―――カノンと魔変換[ガストチャージ]のように、けして魔法ではない。特定の人間のみが持つ、異能力。
何もない虚空から自然発火を起こし、またその炎を自在に操る、戦闘に特化した能力。
滅多にあるものではない。かく言うルナも、実際に目にしたのは初めてだった。
生み出された炎は、氷の粒をすべて呑みこみ、生み出されたときと同じように、虚空に掻き消える。
「ラーシャ、あんた……」
「話は後だ。逃げるのだろう?」
「そ、そうね!」
我に返ったルナは唱えかけた呪を再び紡ぎながら、踵を返す。だが、少女はそれよりも早く立ち直り、今一度、手を振った。
「!」
「ラーシャ様ッ!」
黒い影が、三人の両脇の足元を駆け抜けた。それは三人の前方で形を成して、くぐもった雄叫びを上げる。
全身は黒というか、影。そう、影だ。影そのものが、歪な牙や角を生やして、地面から生えている。
異様な光景だった。細い輪郭を描いた、ただの影が、凶悪な顎をこちらに向けているのだから。
ぎ……ぎぎぎ……
羽虫が上げるような奇妙な怪音。歯を噛み締めて、ラーシャは刃を抜く。はっ、としてデルタが後方に防御壁を張ろうと試みる。
が、そのときにはもう、少女の生み出した影と同じ色をした複数の刃が背後に迫っていた。
―――これまでか……ッ
迫る衝撃に、ルナが覚悟を決めたときだった。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
―――え……?
低いテノールの声と共に、周囲が一瞬、閃光に瞬いた。その中で、少女の動きも止まる。
反射的に身を固くしながら、耳に入った声を、呪文を胸中で繰り返す。
―――今の呪文……それに、あの声は……。けど、そんなはず、そんなわけ……
「……くッ」
閃光に目が眩んだのか、少女の体が傾ぐ。影の獣は、光の中で既に消えていた。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
ラーシャが抜き身の剣を携えて、少女の方へ地を蹴った。しかし、
「……」
「!?」
少女は無感情な目でその刃を眺め、そして、ゆらりと身体を倒す。
空に解けるように、その小柄な身体は、目の前から消え失せた。ラーシャの剣は虚しく空を切り、半壊した石畳を叩く。
手応えのない剣に、ラーシャは茫然としてその場に立ち尽くした。
「今のは……一体…」
「ルナッ!!」
トーンの高い少女の声が、彼女の名を呼んだ。顔を上げると、金の髪を揺らしながら幼馴染の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
「カノン……」
「ったく、何やってんのよ! 今がどんな状況か解ってるでしょうがッ!!」
「なッ! ちょっと、あんたに言われたくないし! あたしだってね……」
「る、ルナ、ちゃん……?」
「―――!?」
彼女の背後から聞こえた、か細い声に、ぴたりとルナの張り上げた声が止まる。こつ、と響く靴音。
気がついて、カノンがこちらの視界からずれた。茫然とした栗色の瞳と目が合った。
ルナよりも背は低く、紺色のローブに柔らかそうな蜂蜜色の髪が垂れている。浮かべた表情は、どこか自身と言うものに欠けていて、うっすらと残ったそばかすがあどけない。
―――う、ウソ、でしょ……
「い………イリー…ナ……?」
「ルナちゃん? ルナちゃん、なんだよね……!?」
「な、何で、あんたがここに……」
「ルナちゃんッ!!」
両目の端に雫を浮かべた少女は、肩を震わせて感極まったように、走り出す。そのまま慌てて逸れたカノンの横を抜けると、腕を伸ばして抱きついて来た。
ぎゅう、と力を込めてしがみつかれる。
「な、ちょ、い、イリーナ……ッ!」
「良かった、ルナちゃん……生きてた、ほんとに、生きててくれた……ッ! ふ、う、うぇぇ……ッ!
ルナちゃん、ほんとに…良かった、良かったよぉ……ふぇ……」
「あんた…どうして……」
「だって、だってルナちゃん……私たちだけ置いて……。自分だけ、えぐッ…先輩助けに行って……帰って来ないから……ふ、ぅうぅうううッ!」
事情の解らないカノンは目を白黒させることしか出来なかった。その幼馴染に気がついて、とりあえずは落ち着かせようと張り付いたままの少女を宥めて拘束を解かせる。
「ち、ちょっとルナ……。あたし、全然事情が把握出来てないんだけど……」
「わ、解ってる。解ってるけど、ちょっとま……」
頭の中を整理しようと、問いかけるカノンと泣き続ける少女を制しようとした。
けれど、
その刹那。
「…………くッ、こりゃあ参ったな」
「・・・!」
鼓膜を叩いたテノールの声。
あの呪文を編み出した、低い、どこか嘲りを含んだ響き。
それは聞き覚えのある声だった。
いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。
最初は大嫌いだった。
人を馬鹿にして、これっぽちも思いやりのある言動なんかしなくて、デリカシーもなくて、人の気にしてることはむしろ好んでずけずけ言ってくる。最低だと思っていた。そう、ちょうどさっきのカノンと同じ。
特に、組織を離脱してからは聞きたくもない声だった。
時には頭の中の幻聴で響いた。それがこの上なく嫌だった。
それが聞こえる気がする度に、僅かに抱いた期待が、結局は裏切られることを知っていたから。
二度と、聞くことは出来ないかもしれない。そう覚悟してきた。その方が、楽に生きられる。自身の幻想に裏切られないで済む。
だから。
そんなはずはないのだ。
その声が、こんな間近で、痛む左腕が夢ではないと告げているのに、聞こえるはずが―――
「てっきりわけのわからねぇ連中のホラ話だと思ったのによ……。世の中、妙なこともあるもんじゃねぇか」
幻聴の靴音がする。
そんなはずはない。
そんな、はずが、ないのだ。だって、だって、あのとき彼は―――!
ぐいッ。
「―――ッ!」
「何だ、冷てぇな。イリーナのことは覚えてても、俺のことは忘れたのか?」
腕を引かれて、ただでさえ軽い身体がいとも簡単に引き寄せられる。つんのめったと思ったら、今度は無理矢理上を向かされた。
沈みかけた夕刻の日が、色素のない髪に反射して金にも銀にも見える、不思議な光を放っていた。
雪に等しい色をした肌に、薄い唇は記憶と寸分違わない笑みを浮かべている。
そして、
「……よう、久しいな」
「………ぅ、う、そ、…でしょ……」
ようやく出た声は掠れていた。
視界に映ったのは、細められた、切れ長の、
血の色をそのまま映した、真紅の瞳―――
「……思い出したか?」
「………ぁ、ぅ……」
そんなはずはない。
忘れるわけが、ない。
「か………か、カシ、…ス……?」
「……」
すっかり乾いた声が紡ぎ出した名に、男は満足げに、口元だけで笑んだ。
「……俺以外の誰に見える?」
「な……なん……なん、で……」
「こっちのセリフだ。長い間、どこほっつき歩いていやがった」
がらがらと、音を立てて壁が崩れていく。必死に張り詰めていた糸が、ぷつん、と切れる音を、どこかで聞いた。
久しく忘れていた、熱いものが、身体の奥から込み上げた。
「……イリーナ…、カシス……」
「そうだよ、ルナちゃん。先輩も私も、ちゃんと生きてるよ。本当に、いるんだよ?」
目尻に涙を残したままで、ずっと傍らに立っていた少女が満面の笑みを浮かべて、こちらを覗きこんだ。
それが、五年以上も前の、彼女の中の、安らかな記憶と完全に一致した。
がくり、と膝から力が抜ける。
「る、ルナちゃん!?」
「何やってんだ、お前?」
「……………ッうるさい!!」
「!」
目の前の白衣の胸倉を掴み返して、思わず怒鳴りつけた。涙交じりの声だったことは、知らない。
「ほんッ…とに、あんたたちは……ッ! どれだけ…ッ、どれだけ人を心配させたら、……ッ、ぅ、ふぅ………ぅううぅううッ!」
「ルナちゃん……」
「……」
堰を切って流れ出した雫は、どれだけ歯を食い縛っても止まってはくれなかった。だから、上を向くのを止めて、誰が顔を上げてやるかと俯いた。
呆れた溜め息が聞こえた。
乱暴な手つきが、髪を掻き乱す。
その手に、一時。
甘えるように、彼女は少しだけ、泣いた。
←3へ
ルナは目の前の門を見上げながらひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、またでかいわね」
「主人であるディオル=フランシスは、この辺一帯の商人を束ねる豪族らしい。最も、評判の芳しいものは聞かなかったが」
嫌悪感からか、表情を歪めてラーシャ=フィロ=ソルトは吐き捨てるように言う。
ぴしゃりと締められた黒の装飾も美しい高い門、外壁は軽く町の数ブロックを囲っており、門の向こう側にはやたらと丁寧に手入れされた芝生が広がっている。
「……こういう無駄に立派な屋敷を見ると、無意味に全壊させてみたくなるわね」
「いや、あの……」
「冗談よ、冗談。まあ、それはいいとして。何だっけか?」
「ディオル=フランシスには、エイロネイアへの武器の密輸の疑いがかけられています」
いい加減、見上げるのに疲れてきた黒門を睨みながら、デルタが答える。
内心焦りながら、門の内側をぐるぐると回っている警備員を見るが、特に反応がないところを見ると、聞こえてはいないらしい。
「武器の密輸、って……まあ、確かに隠れてやってるなら密輸にはなるだろうけど……
あんたたちの国でそれ、犯罪として裁けるの? 勝手に港を占領して、利益を独占してる貿易、ってんなら、確かにこっちの国では裁けるだろうけどさ」
小声で問いかけると、その意図を汲んだらしいラーシャが、同じように声を潜めて口を開く。
「……確かにエイロネイアは国として独立宣言をしたが、それは公式的なものではなく、ただの反逆の声明に他ならない。
シンシアにとっては、今も両国はゼルゼイルという一つの国なのだ。
国に隠れての非公式な危険物の貿易は犯罪以外の何物でもない」
「けどねー、エイロネイアは既に一つの国として機能できる財源やら国土やらを所有してるわけでしょ? シンシアにとっての常識が、エイロネイアや大陸人の常識と同じとは限らないわよ」
「では、不当な武具の取引が正当化されるというのですかッ?」
「大声出しなさんなって。ものの考え方次第ではそういう恐れもある、ってこと。
実際、戦真っ最中のゼルゼイル内で裁くってのは難しいけど、帝国の中では立派に犯罪なんだから、帝国内で暴露すれば何とでもなるんじゃない? 証拠があればの話だけど」
「帝国内で、か……」
「要するにあんたたちは、エイロネイアが密輸で武器を購入して、戦力の増強を図ってるのを止めたいわけでしょ?
なら、帝国を利用した方が大国からの信用も得られるわけだし。まあ、武器商人一人、捕まえた程度で戦争に加担なんて馬鹿な真似はしないだろうけど、物資の規制の緩和にくらいは繋がるんじゃない? どっちにしても、プラスになりこそすれ、マイナスになることはないわよ」
「な……なるほど」
やや押されながらも、ラーシャは口篭りながら頷く。ルナはふぅ、と短く息を吐き、
「あんた……本当に軍人なのね。こういう仕事、馴れてないでしょ」
「う゛っ……」
図星だったらしい。彼女は、うろたえながら呻いて、傍らのデルタはどうフォローしようか視線を迷わせている。
やがてラーシャは言い訳を諦めたように首を振り、
「……すまない。どうも私は他人との交渉だとか、取引だとか、そういったものには不慣れでな。
どちらかと言えば、前線で軍策を練って、切り込む役を負う方が多くて……」
「……まあ、それはそれで重要な役目なんだろうけど。よくこの任務、引き受ける気になったわね」
「今回は貴方方とコンタクトを取るのも重要だったからな。粗相のないように人選されたそうだが……どうにも馴れず」
「ゼルゼイルって国自体が閉鎖的な性格持っちゃってるんだし、仕方ないって言えば仕方ないけどね……」
「……しかし、いつまでもその性格を引き摺るわけにもいくまい。
和平を締結した暁には、軍事よりもそちらの方が重要になってくる。和平締結はあくまで第一段階にしか過ぎん」
「ふぅん……」
きっぱりと言い放った彼女に、ルナは感心したように息を吐く。総統のアイリーンとやらが、彼女を重んじて採用している意味が、ほんの少しだけ解った気がした。
かちゃり……
ルナが継いで言葉を発そうと口を開いたとき。
小さな金属音が響いた。肩を強張らせて門を見ると、厳重に閉ざされていたそれがゆっくりと開いていくところだった。
開く門の向こうには、やや血色の悪い貧相な顔の男。着ているものは似合わない執事服で、何かちぐはぐな印象を受ける男だ。
「ああ、すいません。私は―――」
「……ラーシャ=フィロ=ソルト様、ですね? お待ちしておりました……どうぞ」
「あ……」
一方的にそう宣言すると、男は唐突に踵を返し、広大な庭を豪奢な玄関に向かい、歩いていく。ラーシャは眉間にしわを寄せ、問うような目でルナとデルタを見た。
デルタは不快そうに男の背を眺め、ルナは小首を傾げて疑問、というよりは呆れの意味で肩を竦める。歓迎されていないのが丸解りだ。
―――随分、上等な対応じゃないの……こりゃ手ごわいかもな。
一抹の不安を抱きながら、ルナは一つ、舌打ちする。妙に晴れた空を見上げてから、門をくぐるべく、足を進めた。
「……何事よ?」
夕食の席に現れたルナは、開口一番、そう問いた。
目を三角に吊り上げた不機嫌極まりない妹分が、テーブルについて普段の三割増し程度で料理を喰らい尽しつつあったからである。
今日、彼女と共に行動していたはずのシリアに問いかけの視線を向ける。
彼女は困ったように肩を竦めて、
「今日、道具屋に行ったのよ」
「知ってる。何、結局、剣鎌[カリオソード]、直んなかったの?」
「まあ、そこの店主は直せなかったわ。だから、ちょうどたまたま居合わせた腕のいい男の人に直してもらったんですって」
「なら、良かったじゃない」
「良くないわよッ!!」
がしゃんッ、と両手を付くと共にテーブルの上の皿が踊る。アルティオが慌ててテーブルを支えて、レンはちゃっかり自分の分だけを保護していた。
カノンは立ち上がり、ルナの鼻先へ指を突きつけながら、
「何の関係もない初対面の人間の、長年連れ添った相棒とも言える武具を取り上げたりする普通ッ!?
いきなりよッ!? 何だか知らないけど、魔道技師ならそこら辺の戦士の矜持、ってもんを理解しておくべきじゃないの!? 直してくれたことには感謝するとして、何、あの態度! こんな状況じゃなかったら、セクハラで訴えてやろうかと思ったわよッ!!」
「……まあ、何だかわかんないけど。とりあえず、直してもらったはいいけど、そいつの態度が限りなくムカついた、と。で、そんな奴に借りが出来たみたいで尚更ムカつく、と」
「そうよッ!!」
素晴らしい読解力で状況を読み取ったルナは表情を引き攣らせる。
まあ、実際、いるのだ。世の中には。特に魔道師という人種は、引き篭もって研究をやっている者も数多くいる。魔道技師なんか特にそうだ。だから目で見ている世の中で狭くて、世渡りというものが上手くなく、依頼人やスポンサーとトラブルが耐えないといったケースはよく聞く。
いくら腕が立っていても、名が知られていない魔道師や魔道技師が結構いたりするのはそういうことだ。旅の途中の魔道技師がそういう性格というのは、些か珍しいが。
一息で説明を終えたカノンが、再びどすんッ、と席に着く。
「まあまあ、カノンちゃん、武器も直ったんだし、そうかりかりするもんじゃないわぁ。
それにあの人、かなりの美形だったじゃない♪」
「まあ……確かにそうだけど」
「へぇ?」
頷きながら、少し驚く。
恋愛沙汰には限りなく疎いが、実はカノンの美形の判断基準はかなり高い。ここら辺は常日頃、共に旅をしているどこかの男が、軽く標準を上回っていることに起因するのだろう。大抵、カノンが『顔がいい』、と言った男は誰の目から見ても標準以上だったりするのである。
珍しい話題に興味が惹かれないわけがない。
「確かに天は二物を与えないとは良く言ったもんだわ。顔はともかく、態度も性格もムカつくったらありゃしない」
「魔道技師としての腕がいいなら、二物というか三物を与えずになるんじゃあ……?
まあ、いいや。それで、どんなヤツだったの?」
「……珍しい風体のヤツだったわよ。格好良い、っていうか綺麗、っていうか……」
「へー、あんたがそんなに言うなんて珍しい」
からからと笑って吐きながら、注文のために近くのウエイトレスを呼ぼうと片手を上げる。
「私も見たけど、あれはモテるわよ。確かに珍しかったわ。髪は銀、っていうかきっと白ね。瞳は朱かったから、あれはきっと白子[アルビノ]、ってヤツよ。私も初めて見たけど、世の中にいるものなのねぇ……」
「・・・!」
陶酔半分で言ったシリアの言葉に、上げかけたルナの片手が止まる。それを見て、レンがグラスから口を離して眉を潜めた。
「はッ! そんな男ッ! きっと中身は最悪に決まってるじゃねぇか! 男は顔じゃねぇ、中身で勝負だッ!!」
「だからさっきから性格は最悪だった、って言ってんじゃ……
って、ルナ、どうかしたの?」
「……」
完全に動きを止めた彼女に気がついて、カノンが声をかける。しかし、彼女は余所の空を見つめたまま、茫然と上げかけた手もそのままに、動こうとしなかった。
「ね、ねぇ、ちょっとルナ……?」
「………白子の、…………魔道、技師……」
「へ? る……」
もう一度、名前を呼びかけて。
カノンの声は本人によって止められた。胸倉を掴まんばかりの勢いで振り返った彼女は、身を乗り出して、先ほどとは逆にカノンに指を突きつけたのだ。
「どこの道具屋ッ!?」
「へ? えーっと、今日行ったのはメインストリートの割と大きな……」
「場所はッ!」
「時計台の近くで、隣はカフェでそこでお茶して帰って来たけど……」
「そいつ歳はッ!? どんな格好で、どんな風に直したのッ!? そしてその後どこ行ったのッ!?」
「えっと、職人にしては若くてたぶん、二十五出るか出ないかくらいで……、で、白い服着て、ものの十分、二十分で直して調整までやってくれて………さすがにどこ行ったかまでは……
って、ちょっと待った待った待ったッ!! 何々、一体何ッ!? あんた、知り合いかなんかなのッ?
何でそんな興奮してんのよッ? 落ち着きなさいって……ッ!」
がっしりと肩を掴む手を、宥めながら外させる。ふっ、と力が抜けると、彼女はやはり茫然としたままで、両手をテーブルに着いた。
体が、小刻みに震えている。
「る、ルナ……?」
「お、おい、ルナ……?」
「…………………シス」
「へ? あ、ちょっとッ!?」
テーブルを押しのけて、彼女は唐突に立ち上がる。有無を言わさず踵を返し、カノンの静止の声も聞かずに表へ飛び出した。
ばたんッ、とかなり大きな音を立てて店の扉が閉まる。
止めるために伸ばした手をそのままに、カノンは茫然とその場で硬直する他なかった。
「な……何、一体……?」
「………」
「……追いかけましょ」
「へ?」
「この状況で放って置くわけにもいかないでしょ? どこから狙われるか解ったものじゃないんだし」
「そ、それはそうだけど……」
いつになく、冷静にシリアが言う。秀麗な眉を潜めて、ルナが出て行った扉を見つめる。無言でレンも立ち上がり、立てかけていた剣を取る。
その意味を図ることが出来ないカノンとアルティオは、狐につままれたような表情で顔を見合わせた。
走りすぎて足がじんじん痛んでいることに気が付いたのは、つい先ほどだった。
自分の情けなさに嫌気が差す。
足の裏を苛む痛みに耐え切れず、側の花壇のへりに腰を落とす。時刻は既に夕刻で、メインストリートは昼間とは正反対に、帰り支度の町人がまばらに行き交うだけだった。
高揚した後は、何故だか体が鉛のように重い。
カノンたちが立ち寄っただろうと思われる道具屋に走り込み、店主に件の男について詰め寄ったのがついさっき。
だが、目立つ風貌の男を覚えてはいても、今どこにいるかなど知り得るようなことじゃない。
そんなこと、少し考えれば解ることなのに。
―――ほんと、馬鹿。
自分が。
大体、そんな風貌の男なんて、それは滅多にいないだろうが、世の中に一人だけ存在するわけじゃない。何の確証もないまま飛び出すなんて、カノンに何も言えた義理じゃない。
―――戻ろ……
そうは思っても、足が動いてくれなかった。
期待した自分が許せない。
諦めたつもりだった。期待するだけ、無駄だと。世界はそうそう都合良く存在するものじゃない。
いるはずが、ないのだ。こんな場所に。
「―――ッ!」
苦い液体が、喉の奥まで上がってくる。それは体の熱を上げ、目尻に熱いものを呼んだ。
馬鹿げている。
そうだ、自分がここで生きているだけでも、奇跡なのだ。
あのとき。
ルナが二年の歳月を過ごした『月の館』は一瞬のうちに業火に包まれた。
修練された魔道師が多々居る場所としても、外部のあちこちから放火されれば手は回らない。気が付いたときは、逃げ場無く、炎によって館内に閉じこめられた人間が殆どだった。
そんな場所から生き残ったのも奇跡だし、その後はその組織にこき使われもしたが、カノンたちと再会し、またこうしてアゼルフィリーの旧友と過ごせているのも奇跡。犯罪組織のリーダーだったニードに囚われていた姉も無事で、今は両親と共に故郷で暮らしている。
だから。
なんという幸運。
なんという奇跡。
だから、これ以上、奇跡なんて起こるわけがない。
「―――」
吐き出した息が、未練なく消える。
今、生きて、カノンたちの輪の中にいられる。ルナ自身、居心地が悪い場所だとは思っていない。ルナは間違いなく幸運で、恵まれているのだ。これ以上、何を望むのか。望んでいる自分がひどく、浅ましい。
「―――……綺麗に、なったな」
しばらく見ない間に、妹分の幼馴染は随分と女らしくなった。狩人の任から解き放たれて、そればかりに従事して生きていた身だから、些か心配していたがその心配も杞憂。
当たり前か。狩人の宿命がなくなっても、相棒と、彼と共に生き抜いた五年間はなくならない。
「……羨ましい」
吐露してしまった本音に、口を押さえる。
ルナは知っている。
そういった年月を重ねようと、日常的な幸せというのはある日、ぽっきり他人によってもぎ取られてしまうものだと。
何も悪くなくても。
どんなに努力を重ねても。
そのときは、唐突に、いきなり来たりする。来て欲しくもないのに。
だから、彼女が早く不動の幸せを手に出来るよう促した。余計なお世話と知っていても、自分なりに茶化しながら、出来る限り。
一日も早く自分の気持ちに気が付かなくては駄目なのだ。
そうしなければ、後悔する。自分のように。
だから、たとえ、気が狂いそうなほど、羨ましくても。
「……戻らないと、ね」
走ったせいでずれてしまった羽飾りを差し直す。触れた白羽根の柔らかさに、心臓が潰される。
「―――ッ!」
水で目の前が歪む。幻惑の炎がちらつく。振り切るように、無理矢理目元を拭ってふらり、と立ち上がった。
そのとき、だった。
ぐらッ―――
「―――ッ!?」
立ち上がると同時に体が傾いだ。体の変調、ではない。地震のように立っている石畳全体が揺らいだのでもない。
何かが、空間そのものが、反転するような、そんな感覚。
知らない人間なら、そんな表現はしないだろう。だが、激動を生きたルナは、その感覚を知っていた。
広範囲に、何かしがの術がかけられた。
その範疇にいるときに、たとえ標的となっていなくても、人間は本能的に異変と危険を悟る。
魔道師であるルナは、その一歩先を読むことが出来る、というだけ。
「―――ッ、一体……」
妙な感覚は一瞬だけ。後はすべてが元のまま、平常を保っている。だからこそ、不気味な空気を感じる。
広がるメインストリートの石畳。まだ点灯していない街灯、CLOSEの札がかけられたカフェと花屋、夕食時で意気込んでいるはずの酒場。
「・・・?」
人の声がしない。
首を回すと、農作業の帰りなのか、くわを担いだ農夫と買い物籠を下げた婦人がふと歩みを止めた。
何かに気が付いたわけでもなく、呼び止められたわけでもなく。
そればかりではない。
座り込み、たむろしていた青年たち、犬の散歩をしていた中年の女性、宿屋の前で呼び込みをしていた少年……
そのすべてが動きを止めていた。
時間が止まっている、なんて馬鹿げたことではない。ただ、動作を止めているのだ。震えることすらせずに。
「これは……」
ルナの額に脂汗が浮かぶ。かつり、と一歩、誰かが石畳を鳴らした。
刹那、
「ぅ…ぅ、ぅあ、ああああああああああああああああああッ!!」
「!?」
たむろしてた青年たちの中の一人が、唐突に懐から抜いたナイフを振り上げた。ルナの背に、戦慄が走る。
その刃は、同じくたむろしていた仲間へと、向けられていた。
「我望む、駆けるは無垢なる虞風の旋律、吹けヴァイオレントゲイルッ!」
ごおおぉぉおんッ!!!
間一髪、ルナの放った強風は青年たちをグループごと吹き飛ばし、すぐ側の宿屋の壁へと打ち付ける。軽い怪我くらいはしているかもしれないが、刃での流血沙汰より余程ましだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間、
「!?」
びゅんッ!!
背中越しの殺気に、ルナは咄嗟にその場に伏せる。
その首があった場所を、鋭利に手入れのされたくわの刃が通過する。
「くッ!」
片手を石畳につきながら、くわを振るった農夫へ足払いをかける。カノンやレンのように威力のあるものはかけられない。それでも戦闘などには縁のない農夫は、あっさり転がった。ルナは迷い無くその手からくわを掬って、脳天を蹴り倒す。
昏倒した農夫が石畳に蹲る。
「ちょっと…何、冗談じゃないわよ……ッ!」
青ざめた顔でルナが振り返ると、そこは既に戦場だった。
「ぁ、ぁぁあぁあああぁッ!」
「らぁぁぁああぁあああッ!!」
血の気の多い青年たちが殴りあっているだけならまだ解る。割と何処にでも転がっている、思春期の暴走だ。
しかし、目の前に広がっているのは、ヒステリックに叫びながら買い物籠を振り回す中年女性、三歩に使っていたハーネスを奪い合う女性と男性、意味をなさない殴り合いに興じる少年と少女。
闘争心をむき出しに、何の関係も遺恨もないはずの町人たちが、意味も無く争い合う姿。
「な、何で……ッ!」
考える間もなく、植木鉢が正面から投げつけられた。慌てて交わすと、今度は中途半端に固められた拳が襲ってくる。
「く……ッ!」
相手は民間人だ。大怪我をさせるわけにもいかない。
紙一重で交わしたルナは、拳を繰り出した男の鳩尾を狙い、蹴りを放つ。堪え性のない男の身体はころり、と地面に転がった。起き上がるより前に、首筋を叩いて昏倒させる。
間髪居れず、襲ってきたハーネスの紐を掴んで放り投げると、ルナは高速で印を切る。
「我誘う、幽玄に奏でるは睡歌の調べ、眠れスリーピングッ!!」
ルナを中心にして、一瞬、青の方陣が広がる。殴り合いを続けていた人々は、ぴたり、と動きを止めて、折り重なるようにその場に伏していく。
あとは規則正しい寝息を立てるだけだ。
肩で息を吐いて、汚れた服を払う。
「ルナ殿!!」
「!」
見知った声が、後方から呼び止めた。振り返ると、夕刻、別れて来たばかりのシンシアの女性騎士が鞘に抑えられたままの剣を下げてこちらに走って来ていた。その後ろには従者の少年の姿も見える。
だが、
ばたんッ!!
「!?」
視界を遮るように酒場の扉が開く。溢れるように飛び出して来たのは、闘争心に目をぎらつかせた粗暴な男たち。
意識のない瞳が、ラーシャとデルタの姿を捉える。
「く……ッ!」
民間人を、それも他国の人間を無用に傷つけるわけにはいかない。ラーシャは刃を鞘に収めたままで、男たちが手にしていた空瓶や長柄のモップを振り払い、あるいは割り落とし、
『スリーピングッ!』
デルタとルナの声が唱和する。ラーシャは咄嗟に浮き上がった魔方陣の外まで引いた。
どさり、と音を立てて倒れ伏す男たち。
「すまない、助かった」
「どういたしまして。ところであんたたちは何ともないの?」
「ええ、何とも……おそらく、王国から預かった防護の呪符のおかげだと思いますが」
言ってデルタは胸に掲げた紋章を指して見せる。傍目からは解らないが、あれは呪符であったらしい。
「なるほどね……そりゃ、心強いわ」
「しかし、一体どういうことだ? 戦場ならばともかく、一般人がこのような……」
「たぶん、人間の感情のリミッターを狂わせる広範囲の魔法がかけられてんのね……。幻霊術が何かの応用だと思うけど、こんな質の悪いもんは並の人間じゃかけられないはずなのに……!」
ひくり、とルナの眉が動く。それは何度か経験した感覚だった。
「伏せてッ!!」
ご……ッ!!
ルナの声が飛び、ラーシャとデルタが反射的にその場を離れたとき。
視えない"何か"が深く、石畳を抉る。円状に広がる破砕の跡。ひび割れた石畳に、ルナの中に既視感が生まれる。
「な、何だッ!?」
「ちッ!」
舌打ちをして、横っ飛びに逃れる。ルナの背後にあった街灯が、すっぱりと、鋭利な刃物に切り取られたかのように折れて轟音を立てた。
ルナは通りの向こうを見やり、そして気づく。
こつッ……
小さな革靴の音。破壊の広がるメインストリートの真ん中に、いつぞやにように気配も無く、彼女は立っていた。
まだ幼い、黒の衣装を纏った長髪の少女。
見覚えがあるどころか、幾度か対峙し、そして破れなかった。その記憶は、忘れるには苦い思い出だ。
「子供……ッ?」
ラーシャが茫然と声を上げる。だが、ルナは知っている。この少女が、見た目どおりの可愛らしいイキモノではないことを。
「……また、会ったわね」
「……です」
ぽつり、と少女はルナの言葉を返し、ゆっくりと片手を挙げた。
←2へ
「こりゃあ、またでかいわね」
「主人であるディオル=フランシスは、この辺一帯の商人を束ねる豪族らしい。最も、評判の芳しいものは聞かなかったが」
嫌悪感からか、表情を歪めてラーシャ=フィロ=ソルトは吐き捨てるように言う。
ぴしゃりと締められた黒の装飾も美しい高い門、外壁は軽く町の数ブロックを囲っており、門の向こう側にはやたらと丁寧に手入れされた芝生が広がっている。
「……こういう無駄に立派な屋敷を見ると、無意味に全壊させてみたくなるわね」
「いや、あの……」
「冗談よ、冗談。まあ、それはいいとして。何だっけか?」
「ディオル=フランシスには、エイロネイアへの武器の密輸の疑いがかけられています」
いい加減、見上げるのに疲れてきた黒門を睨みながら、デルタが答える。
内心焦りながら、門の内側をぐるぐると回っている警備員を見るが、特に反応がないところを見ると、聞こえてはいないらしい。
「武器の密輸、って……まあ、確かに隠れてやってるなら密輸にはなるだろうけど……
あんたたちの国でそれ、犯罪として裁けるの? 勝手に港を占領して、利益を独占してる貿易、ってんなら、確かにこっちの国では裁けるだろうけどさ」
小声で問いかけると、その意図を汲んだらしいラーシャが、同じように声を潜めて口を開く。
「……確かにエイロネイアは国として独立宣言をしたが、それは公式的なものではなく、ただの反逆の声明に他ならない。
シンシアにとっては、今も両国はゼルゼイルという一つの国なのだ。
国に隠れての非公式な危険物の貿易は犯罪以外の何物でもない」
「けどねー、エイロネイアは既に一つの国として機能できる財源やら国土やらを所有してるわけでしょ? シンシアにとっての常識が、エイロネイアや大陸人の常識と同じとは限らないわよ」
「では、不当な武具の取引が正当化されるというのですかッ?」
「大声出しなさんなって。ものの考え方次第ではそういう恐れもある、ってこと。
実際、戦真っ最中のゼルゼイル内で裁くってのは難しいけど、帝国の中では立派に犯罪なんだから、帝国内で暴露すれば何とでもなるんじゃない? 証拠があればの話だけど」
「帝国内で、か……」
「要するにあんたたちは、エイロネイアが密輸で武器を購入して、戦力の増強を図ってるのを止めたいわけでしょ?
なら、帝国を利用した方が大国からの信用も得られるわけだし。まあ、武器商人一人、捕まえた程度で戦争に加担なんて馬鹿な真似はしないだろうけど、物資の規制の緩和にくらいは繋がるんじゃない? どっちにしても、プラスになりこそすれ、マイナスになることはないわよ」
「な……なるほど」
やや押されながらも、ラーシャは口篭りながら頷く。ルナはふぅ、と短く息を吐き、
「あんた……本当に軍人なのね。こういう仕事、馴れてないでしょ」
「う゛っ……」
図星だったらしい。彼女は、うろたえながら呻いて、傍らのデルタはどうフォローしようか視線を迷わせている。
やがてラーシャは言い訳を諦めたように首を振り、
「……すまない。どうも私は他人との交渉だとか、取引だとか、そういったものには不慣れでな。
どちらかと言えば、前線で軍策を練って、切り込む役を負う方が多くて……」
「……まあ、それはそれで重要な役目なんだろうけど。よくこの任務、引き受ける気になったわね」
「今回は貴方方とコンタクトを取るのも重要だったからな。粗相のないように人選されたそうだが……どうにも馴れず」
「ゼルゼイルって国自体が閉鎖的な性格持っちゃってるんだし、仕方ないって言えば仕方ないけどね……」
「……しかし、いつまでもその性格を引き摺るわけにもいくまい。
和平を締結した暁には、軍事よりもそちらの方が重要になってくる。和平締結はあくまで第一段階にしか過ぎん」
「ふぅん……」
きっぱりと言い放った彼女に、ルナは感心したように息を吐く。総統のアイリーンとやらが、彼女を重んじて採用している意味が、ほんの少しだけ解った気がした。
かちゃり……
ルナが継いで言葉を発そうと口を開いたとき。
小さな金属音が響いた。肩を強張らせて門を見ると、厳重に閉ざされていたそれがゆっくりと開いていくところだった。
開く門の向こうには、やや血色の悪い貧相な顔の男。着ているものは似合わない執事服で、何かちぐはぐな印象を受ける男だ。
「ああ、すいません。私は―――」
「……ラーシャ=フィロ=ソルト様、ですね? お待ちしておりました……どうぞ」
「あ……」
一方的にそう宣言すると、男は唐突に踵を返し、広大な庭を豪奢な玄関に向かい、歩いていく。ラーシャは眉間にしわを寄せ、問うような目でルナとデルタを見た。
デルタは不快そうに男の背を眺め、ルナは小首を傾げて疑問、というよりは呆れの意味で肩を竦める。歓迎されていないのが丸解りだ。
―――随分、上等な対応じゃないの……こりゃ手ごわいかもな。
一抹の不安を抱きながら、ルナは一つ、舌打ちする。妙に晴れた空を見上げてから、門をくぐるべく、足を進めた。
「……何事よ?」
夕食の席に現れたルナは、開口一番、そう問いた。
目を三角に吊り上げた不機嫌極まりない妹分が、テーブルについて普段の三割増し程度で料理を喰らい尽しつつあったからである。
今日、彼女と共に行動していたはずのシリアに問いかけの視線を向ける。
彼女は困ったように肩を竦めて、
「今日、道具屋に行ったのよ」
「知ってる。何、結局、剣鎌[カリオソード]、直んなかったの?」
「まあ、そこの店主は直せなかったわ。だから、ちょうどたまたま居合わせた腕のいい男の人に直してもらったんですって」
「なら、良かったじゃない」
「良くないわよッ!!」
がしゃんッ、と両手を付くと共にテーブルの上の皿が踊る。アルティオが慌ててテーブルを支えて、レンはちゃっかり自分の分だけを保護していた。
カノンは立ち上がり、ルナの鼻先へ指を突きつけながら、
「何の関係もない初対面の人間の、長年連れ添った相棒とも言える武具を取り上げたりする普通ッ!?
いきなりよッ!? 何だか知らないけど、魔道技師ならそこら辺の戦士の矜持、ってもんを理解しておくべきじゃないの!? 直してくれたことには感謝するとして、何、あの態度! こんな状況じゃなかったら、セクハラで訴えてやろうかと思ったわよッ!!」
「……まあ、何だかわかんないけど。とりあえず、直してもらったはいいけど、そいつの態度が限りなくムカついた、と。で、そんな奴に借りが出来たみたいで尚更ムカつく、と」
「そうよッ!!」
素晴らしい読解力で状況を読み取ったルナは表情を引き攣らせる。
まあ、実際、いるのだ。世の中には。特に魔道師という人種は、引き篭もって研究をやっている者も数多くいる。魔道技師なんか特にそうだ。だから目で見ている世の中で狭くて、世渡りというものが上手くなく、依頼人やスポンサーとトラブルが耐えないといったケースはよく聞く。
いくら腕が立っていても、名が知られていない魔道師や魔道技師が結構いたりするのはそういうことだ。旅の途中の魔道技師がそういう性格というのは、些か珍しいが。
一息で説明を終えたカノンが、再びどすんッ、と席に着く。
「まあまあ、カノンちゃん、武器も直ったんだし、そうかりかりするもんじゃないわぁ。
それにあの人、かなりの美形だったじゃない♪」
「まあ……確かにそうだけど」
「へぇ?」
頷きながら、少し驚く。
恋愛沙汰には限りなく疎いが、実はカノンの美形の判断基準はかなり高い。ここら辺は常日頃、共に旅をしているどこかの男が、軽く標準を上回っていることに起因するのだろう。大抵、カノンが『顔がいい』、と言った男は誰の目から見ても標準以上だったりするのである。
珍しい話題に興味が惹かれないわけがない。
「確かに天は二物を与えないとは良く言ったもんだわ。顔はともかく、態度も性格もムカつくったらありゃしない」
「魔道技師としての腕がいいなら、二物というか三物を与えずになるんじゃあ……?
まあ、いいや。それで、どんなヤツだったの?」
「……珍しい風体のヤツだったわよ。格好良い、っていうか綺麗、っていうか……」
「へー、あんたがそんなに言うなんて珍しい」
からからと笑って吐きながら、注文のために近くのウエイトレスを呼ぼうと片手を上げる。
「私も見たけど、あれはモテるわよ。確かに珍しかったわ。髪は銀、っていうかきっと白ね。瞳は朱かったから、あれはきっと白子[アルビノ]、ってヤツよ。私も初めて見たけど、世の中にいるものなのねぇ……」
「・・・!」
陶酔半分で言ったシリアの言葉に、上げかけたルナの片手が止まる。それを見て、レンがグラスから口を離して眉を潜めた。
「はッ! そんな男ッ! きっと中身は最悪に決まってるじゃねぇか! 男は顔じゃねぇ、中身で勝負だッ!!」
「だからさっきから性格は最悪だった、って言ってんじゃ……
って、ルナ、どうかしたの?」
「……」
完全に動きを止めた彼女に気がついて、カノンが声をかける。しかし、彼女は余所の空を見つめたまま、茫然と上げかけた手もそのままに、動こうとしなかった。
「ね、ねぇ、ちょっとルナ……?」
「………白子の、…………魔道、技師……」
「へ? る……」
もう一度、名前を呼びかけて。
カノンの声は本人によって止められた。胸倉を掴まんばかりの勢いで振り返った彼女は、身を乗り出して、先ほどとは逆にカノンに指を突きつけたのだ。
「どこの道具屋ッ!?」
「へ? えーっと、今日行ったのはメインストリートの割と大きな……」
「場所はッ!」
「時計台の近くで、隣はカフェでそこでお茶して帰って来たけど……」
「そいつ歳はッ!? どんな格好で、どんな風に直したのッ!? そしてその後どこ行ったのッ!?」
「えっと、職人にしては若くてたぶん、二十五出るか出ないかくらいで……、で、白い服着て、ものの十分、二十分で直して調整までやってくれて………さすがにどこ行ったかまでは……
って、ちょっと待った待った待ったッ!! 何々、一体何ッ!? あんた、知り合いかなんかなのッ?
何でそんな興奮してんのよッ? 落ち着きなさいって……ッ!」
がっしりと肩を掴む手を、宥めながら外させる。ふっ、と力が抜けると、彼女はやはり茫然としたままで、両手をテーブルに着いた。
体が、小刻みに震えている。
「る、ルナ……?」
「お、おい、ルナ……?」
「…………………シス」
「へ? あ、ちょっとッ!?」
テーブルを押しのけて、彼女は唐突に立ち上がる。有無を言わさず踵を返し、カノンの静止の声も聞かずに表へ飛び出した。
ばたんッ、とかなり大きな音を立てて店の扉が閉まる。
止めるために伸ばした手をそのままに、カノンは茫然とその場で硬直する他なかった。
「な……何、一体……?」
「………」
「……追いかけましょ」
「へ?」
「この状況で放って置くわけにもいかないでしょ? どこから狙われるか解ったものじゃないんだし」
「そ、それはそうだけど……」
いつになく、冷静にシリアが言う。秀麗な眉を潜めて、ルナが出て行った扉を見つめる。無言でレンも立ち上がり、立てかけていた剣を取る。
その意味を図ることが出来ないカノンとアルティオは、狐につままれたような表情で顔を見合わせた。
走りすぎて足がじんじん痛んでいることに気が付いたのは、つい先ほどだった。
自分の情けなさに嫌気が差す。
足の裏を苛む痛みに耐え切れず、側の花壇のへりに腰を落とす。時刻は既に夕刻で、メインストリートは昼間とは正反対に、帰り支度の町人がまばらに行き交うだけだった。
高揚した後は、何故だか体が鉛のように重い。
カノンたちが立ち寄っただろうと思われる道具屋に走り込み、店主に件の男について詰め寄ったのがついさっき。
だが、目立つ風貌の男を覚えてはいても、今どこにいるかなど知り得るようなことじゃない。
そんなこと、少し考えれば解ることなのに。
―――ほんと、馬鹿。
自分が。
大体、そんな風貌の男なんて、それは滅多にいないだろうが、世の中に一人だけ存在するわけじゃない。何の確証もないまま飛び出すなんて、カノンに何も言えた義理じゃない。
―――戻ろ……
そうは思っても、足が動いてくれなかった。
期待した自分が許せない。
諦めたつもりだった。期待するだけ、無駄だと。世界はそうそう都合良く存在するものじゃない。
いるはずが、ないのだ。こんな場所に。
「―――ッ!」
苦い液体が、喉の奥まで上がってくる。それは体の熱を上げ、目尻に熱いものを呼んだ。
馬鹿げている。
そうだ、自分がここで生きているだけでも、奇跡なのだ。
あのとき。
ルナが二年の歳月を過ごした『月の館』は一瞬のうちに業火に包まれた。
修練された魔道師が多々居る場所としても、外部のあちこちから放火されれば手は回らない。気が付いたときは、逃げ場無く、炎によって館内に閉じこめられた人間が殆どだった。
そんな場所から生き残ったのも奇跡だし、その後はその組織にこき使われもしたが、カノンたちと再会し、またこうしてアゼルフィリーの旧友と過ごせているのも奇跡。犯罪組織のリーダーだったニードに囚われていた姉も無事で、今は両親と共に故郷で暮らしている。
だから。
なんという幸運。
なんという奇跡。
だから、これ以上、奇跡なんて起こるわけがない。
「―――」
吐き出した息が、未練なく消える。
今、生きて、カノンたちの輪の中にいられる。ルナ自身、居心地が悪い場所だとは思っていない。ルナは間違いなく幸運で、恵まれているのだ。これ以上、何を望むのか。望んでいる自分がひどく、浅ましい。
「―――……綺麗に、なったな」
しばらく見ない間に、妹分の幼馴染は随分と女らしくなった。狩人の任から解き放たれて、そればかりに従事して生きていた身だから、些か心配していたがその心配も杞憂。
当たり前か。狩人の宿命がなくなっても、相棒と、彼と共に生き抜いた五年間はなくならない。
「……羨ましい」
吐露してしまった本音に、口を押さえる。
ルナは知っている。
そういった年月を重ねようと、日常的な幸せというのはある日、ぽっきり他人によってもぎ取られてしまうものだと。
何も悪くなくても。
どんなに努力を重ねても。
そのときは、唐突に、いきなり来たりする。来て欲しくもないのに。
だから、彼女が早く不動の幸せを手に出来るよう促した。余計なお世話と知っていても、自分なりに茶化しながら、出来る限り。
一日も早く自分の気持ちに気が付かなくては駄目なのだ。
そうしなければ、後悔する。自分のように。
だから、たとえ、気が狂いそうなほど、羨ましくても。
「……戻らないと、ね」
走ったせいでずれてしまった羽飾りを差し直す。触れた白羽根の柔らかさに、心臓が潰される。
「―――ッ!」
水で目の前が歪む。幻惑の炎がちらつく。振り切るように、無理矢理目元を拭ってふらり、と立ち上がった。
そのとき、だった。
ぐらッ―――
「―――ッ!?」
立ち上がると同時に体が傾いだ。体の変調、ではない。地震のように立っている石畳全体が揺らいだのでもない。
何かが、空間そのものが、反転するような、そんな感覚。
知らない人間なら、そんな表現はしないだろう。だが、激動を生きたルナは、その感覚を知っていた。
広範囲に、何かしがの術がかけられた。
その範疇にいるときに、たとえ標的となっていなくても、人間は本能的に異変と危険を悟る。
魔道師であるルナは、その一歩先を読むことが出来る、というだけ。
「―――ッ、一体……」
妙な感覚は一瞬だけ。後はすべてが元のまま、平常を保っている。だからこそ、不気味な空気を感じる。
広がるメインストリートの石畳。まだ点灯していない街灯、CLOSEの札がかけられたカフェと花屋、夕食時で意気込んでいるはずの酒場。
「・・・?」
人の声がしない。
首を回すと、農作業の帰りなのか、くわを担いだ農夫と買い物籠を下げた婦人がふと歩みを止めた。
何かに気が付いたわけでもなく、呼び止められたわけでもなく。
そればかりではない。
座り込み、たむろしていた青年たち、犬の散歩をしていた中年の女性、宿屋の前で呼び込みをしていた少年……
そのすべてが動きを止めていた。
時間が止まっている、なんて馬鹿げたことではない。ただ、動作を止めているのだ。震えることすらせずに。
「これは……」
ルナの額に脂汗が浮かぶ。かつり、と一歩、誰かが石畳を鳴らした。
刹那、
「ぅ…ぅ、ぅあ、ああああああああああああああああああッ!!」
「!?」
たむろしてた青年たちの中の一人が、唐突に懐から抜いたナイフを振り上げた。ルナの背に、戦慄が走る。
その刃は、同じくたむろしていた仲間へと、向けられていた。
「我望む、駆けるは無垢なる虞風の旋律、吹けヴァイオレントゲイルッ!」
ごおおぉぉおんッ!!!
間一髪、ルナの放った強風は青年たちをグループごと吹き飛ばし、すぐ側の宿屋の壁へと打ち付ける。軽い怪我くらいはしているかもしれないが、刃での流血沙汰より余程ましだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間、
「!?」
びゅんッ!!
背中越しの殺気に、ルナは咄嗟にその場に伏せる。
その首があった場所を、鋭利に手入れのされたくわの刃が通過する。
「くッ!」
片手を石畳につきながら、くわを振るった農夫へ足払いをかける。カノンやレンのように威力のあるものはかけられない。それでも戦闘などには縁のない農夫は、あっさり転がった。ルナは迷い無くその手からくわを掬って、脳天を蹴り倒す。
昏倒した農夫が石畳に蹲る。
「ちょっと…何、冗談じゃないわよ……ッ!」
青ざめた顔でルナが振り返ると、そこは既に戦場だった。
「ぁ、ぁぁあぁあああぁッ!」
「らぁぁぁああぁあああッ!!」
血の気の多い青年たちが殴りあっているだけならまだ解る。割と何処にでも転がっている、思春期の暴走だ。
しかし、目の前に広がっているのは、ヒステリックに叫びながら買い物籠を振り回す中年女性、三歩に使っていたハーネスを奪い合う女性と男性、意味をなさない殴り合いに興じる少年と少女。
闘争心をむき出しに、何の関係も遺恨もないはずの町人たちが、意味も無く争い合う姿。
「な、何で……ッ!」
考える間もなく、植木鉢が正面から投げつけられた。慌てて交わすと、今度は中途半端に固められた拳が襲ってくる。
「く……ッ!」
相手は民間人だ。大怪我をさせるわけにもいかない。
紙一重で交わしたルナは、拳を繰り出した男の鳩尾を狙い、蹴りを放つ。堪え性のない男の身体はころり、と地面に転がった。起き上がるより前に、首筋を叩いて昏倒させる。
間髪居れず、襲ってきたハーネスの紐を掴んで放り投げると、ルナは高速で印を切る。
「我誘う、幽玄に奏でるは睡歌の調べ、眠れスリーピングッ!!」
ルナを中心にして、一瞬、青の方陣が広がる。殴り合いを続けていた人々は、ぴたり、と動きを止めて、折り重なるようにその場に伏していく。
あとは規則正しい寝息を立てるだけだ。
肩で息を吐いて、汚れた服を払う。
「ルナ殿!!」
「!」
見知った声が、後方から呼び止めた。振り返ると、夕刻、別れて来たばかりのシンシアの女性騎士が鞘に抑えられたままの剣を下げてこちらに走って来ていた。その後ろには従者の少年の姿も見える。
だが、
ばたんッ!!
「!?」
視界を遮るように酒場の扉が開く。溢れるように飛び出して来たのは、闘争心に目をぎらつかせた粗暴な男たち。
意識のない瞳が、ラーシャとデルタの姿を捉える。
「く……ッ!」
民間人を、それも他国の人間を無用に傷つけるわけにはいかない。ラーシャは刃を鞘に収めたままで、男たちが手にしていた空瓶や長柄のモップを振り払い、あるいは割り落とし、
『スリーピングッ!』
デルタとルナの声が唱和する。ラーシャは咄嗟に浮き上がった魔方陣の外まで引いた。
どさり、と音を立てて倒れ伏す男たち。
「すまない、助かった」
「どういたしまして。ところであんたたちは何ともないの?」
「ええ、何とも……おそらく、王国から預かった防護の呪符のおかげだと思いますが」
言ってデルタは胸に掲げた紋章を指して見せる。傍目からは解らないが、あれは呪符であったらしい。
「なるほどね……そりゃ、心強いわ」
「しかし、一体どういうことだ? 戦場ならばともかく、一般人がこのような……」
「たぶん、人間の感情のリミッターを狂わせる広範囲の魔法がかけられてんのね……。幻霊術が何かの応用だと思うけど、こんな質の悪いもんは並の人間じゃかけられないはずなのに……!」
ひくり、とルナの眉が動く。それは何度か経験した感覚だった。
「伏せてッ!!」
ご……ッ!!
ルナの声が飛び、ラーシャとデルタが反射的にその場を離れたとき。
視えない"何か"が深く、石畳を抉る。円状に広がる破砕の跡。ひび割れた石畳に、ルナの中に既視感が生まれる。
「な、何だッ!?」
「ちッ!」
舌打ちをして、横っ飛びに逃れる。ルナの背後にあった街灯が、すっぱりと、鋭利な刃物に切り取られたかのように折れて轟音を立てた。
ルナは通りの向こうを見やり、そして気づく。
こつッ……
小さな革靴の音。破壊の広がるメインストリートの真ん中に、いつぞやにように気配も無く、彼女は立っていた。
まだ幼い、黒の衣装を纏った長髪の少女。
見覚えがあるどころか、幾度か対峙し、そして破れなかった。その記憶は、忘れるには苦い思い出だ。
「子供……ッ?」
ラーシャが茫然と声を上げる。だが、ルナは知っている。この少女が、見た目どおりの可愛らしいイキモノではないことを。
「……また、会ったわね」
「……です」
ぽつり、と少女はルナの言葉を返し、ゆっくりと片手を挙げた。
←2へ
「さすがに大きな町だけあって、二、三軒はあるのねぇ」
「まあ、地方都市だし、中央に比べたら少ない方じゃないかしらね。いいデザインのものがあるといいんだけどぉ」
そんな会話を交わしながら、カノンとシリアは人込み溢れる昼間のメインストリートを縫うようにして歩く。
探しているのは道具屋だった。
クオノリアでも、ランカースでも、少々武器を酷使してしまったせいか、折り畳み式である剣鎌のどこかの螺子が緩んでしまっていることに気がついたのがつい、先ほど。
痛んだマントを買い換えると言うシリアも連れ立って、町中へと出て来たのだった。
勿論、直前までシリアはレンを連れて行こうと引っ張ったが、容赦の無い鉄拳であえなく沈んだ。
「もう♪ レンてば恥ずかしがっちゃって、可愛いんだからv」
宿屋を一歩、出てから彼女の吐いたその科白に、カノンは心底、感心したものだ。どこをどう見ればあの大男を可愛いなどと称せるというのか。
下に恐ろしきは盲目の恋心である。
―――いや、まあ、それはとりあえず、どうでもいいんだけど……
はぁ、とこっそり吐いたつもりの溜め息は、しっかりシリアの耳に入っていたようで。
「貴女、まだ昨日のことでうじうじ悩んでいるのかしら?」
「ん~……悩んでる、って程じゃないけど……」
呆れたように言う彼女に、肩を竦めてそう返す。
ラーシャの言っていたことを鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、またその言動のすべてを否定するわけにもいかないのだ。
例えば、クオノリアでのあの事件。
クロードは合成獣を無尽蔵に生み出す『ヴォルケーノ』を秘密裏に製造し、兵器としてゼルゼイルへ輸出しようと画策していた。
あの黒衣の少年が、彼女たちの言うように、ゼルゼイルの、エイロネイアの刺客だとすれば、別の土地で敵国に悟られないよう、自国の益のための兵器製造を行おうとしていた、ということになる。
月陽剣についても同じだろう。何らかの、魔道実験を敵国の目に触れないところで実行しようとしていた。
しかし、それを自らご破算にしてまで、不必要にカノンたちを挑発する、その理由は一体何なのか。
はたまた、彼らはエイロネイアとは全く関係のない人間であるのか……
「いいじゃあないの。結局、相手が動かないと何も解らないのは一緒なんだから。
どうにせよ、戦争なんかに加担する気はないんでしょう?
だったらいい護衛が雇えた、と思えばいいじゃない」
「……あんたってほんと、羨ましい性格してるわね」
シリアに諭されていると、何やら自分が相当情けない人間に思えて来て、それ以上、考えるのを止めた。
相手が不毛と判断して、手を引いてくれるならば良し。そうでなければ―――そのとき、最善と思える道を選ぶしかない。
今、出来ることは、それに備えて武器を整備しておくこと。それとなく、情報を集めておくことの二つ。
ぱんっ、と頬を張る。まったく、考えに詰まるなんてらしくない。
ここはもっとどーん、と構えているのがいつもの自分なのだ。
「あら、ここなんて良さそうじゃない。ほら」
言ってシリアが、比較的大きな建物を指差す。白壁と、大きなウィンドウ。そのウィンドウに飾られた魔道具と、装備品を見た限り、上質な素材を使っているようだ。
「そーね。ちょっと見てみましょうか」
ドアに手をかけて、押し出そうとした瞬間。
からからんッ。
「うわッ!」
「きゃッ……」
唐突に向こう側からドアが開き、小柄な少女が飛び出して来る。反射的に身を引くが、付いた勢いは止まらなかったのか、軽くぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいッ!」
やや外はねした、蜂蜜色の髪を振り乱して、頭を下げてくる少女。
余程、急いでいたのか、カノンが声をかける前にあたふたと店を飛び出して行ってしまう。
「何だったのよ? 落ち着かない娘ねぇ……」
「さあ……よっぽど急いでたんじゃないの?」
特に気にするでもなく、二人は店内に入った。お決まりの、「いらっしゃいませ」という言葉が耳を付く。
店内はそれほど混み合っておらず、カノンたちの他には武具を物色する軽剣士の風体をした二人組みと、魔道具の棚を眺めている男が一人だけ。
メインストリートの雑踏と戦って来た身としては、ほっとする。
「いらっしゃい、どのような御用ですか?」
「えーっと、ちょっと武器の修理が出来ないかと思って」
真っ先に、ショールとマントの棚に走ったシリアを尻目に、カノンはカウンターに剣鎌を包んだ布をごとり、と横たえる。
人の良さそうな顔をした、髭面の店主は、断ってから布を退けて包みを開き、目を見開いた。
「ほう……! 話には聞いたことがあるよ。剣鎌というやつだね……。
いや、私も長く道具屋をやっているが、これを持ち込んだ人というのは初めてだよ」
店主は新しい玩具を手にした子供のように、微笑んだ。
「それで、その……ちょっと、留め金が緩んでしまってるみたいなんですけど……直せますか?」
嫌な予感と共におずおずと切り出すと、店主は白髪の混じり始めた眉を寄せる。数度、手に刃を持ち替えて、首を捻り、難しい顔で目を閉じた。
「うーん……残念だけどねぇ……。
普通の剣なら、どこの店にも負けない自信があるんだけど。こんな稀少武器、私も実物を見たのはこれが初めてだからね。看ることは出来るが、直せる保障は出来ないな」
「そうですか……。
誰か、この町で直せそうな人っていたりしません?」
唸り始めてしまった店主に、カノンは頬を掻く。仕方が無い。よくあることだ。手当たり次第に探していくしかないか……?
やがて店主はごめん、と素直に頭を下げてきた。肩を落としつつも、礼を言って差し出された剣鎌を受け取ろうとして、
ひょい、と横手から入った手に奪われる。
「・・・へ?」
「ふぅん、剣鎌[カリオ・ソード]か……こりゃあまた、ンなところで、実際に使われてるのにお目にかかるたぁ、思わなかったぜ」
「ち、ちょっと!?」
慌てて軽々と剣鎌を持ち上げるその手から、武具を引っ手繰る。
睨みつけながらその手を辿り―――
思わず息を飲む。
目を引いたのは、血の色をそのまま映し出した真紅の両眼。次いで、店内の淡い照明に照らされて、銀に映える色素の極端に抜け落ちた白髪。そして病的なまでに真っ白な肌。
話には聞いたことがある―――白子[アルビノ]、というやつだ。
カノンより頭一つ分高い位置からこちらを見下ろす目には、他人を嘲るような薄笑いが浮かんでいて。おおよそ好印象とは言い難い面構えだったが、一瞬目を奪われるほど恐ろしく端整な、精巧に造られた雪人形のような青年だった。
茫然として眺めていると、彼はくつくつ、と喉の奥で笑いを漏らす。
「何だ、お嬢ちゃん。そんなに見つめるほど俺の顔は魅力的か?」
「な……ッ!?」
「まあ、貸してみな」
小馬鹿にした口調に、カノンが呆気に取られていると、男は再び彼女の手から剣鎌をすり取った。
静止するより先に、男は鮮やかな手つきで緩んだ継ぎ目を見つけ、刃と継ぎ目の合間を覗き込む。
それを見てカノンは初めて気がついた。その動作のすべてを、彼は右手一本でこなしていた。ふと、逆手の方を見て、眉を潜める。
だらん、と垂れた七分丈の白い上着の袖。わざと腕を抜いているようにも見えない。
「……」
しげしげと見ているのも悪い気がして、カノンは視線を逸らした。その間にも彼は刃を数度、回転させながら、剣鎌のあちこちをチェックしていく。
やがて、男は短くひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、なかなかの年代物じゃねぇか。
よくもまあ、刃が持ってるもんだ。それも刃こぼれ一つねぇ」
「あ、当たり前じゃない。手入れは欠かしてないもの……」
「銘は入ってねぇが……どこのどいつの造ったもんだ?」
「へ、へ? さ、さあ……?」
「おいおい、自分の武器の造ったやつも知らねぇのか?」
「いや、だ、だって、元は自分の物じゃなかったし……二十年以上前の物だと思うから……」
「ほーう……」
男はカウンターの片隅に腰を下ろすと、組んだ足の間に柄の箇所を挟むと、再び刃の継ぎ目を覗きながら、
「おい、オヤジ。ねじ締め貸せ。あと、ヤスリ」
「え、あ、は、はいッ! 少々、お待ちをッ……」
カノンはそのあまりに傍若無人な態度に、あんぐりと口を開く。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
男の得体の知れない迫力に押され、道具屋の主人は可哀相なくらいあたふたと、カウンターの後ろの棚をあさり始める。
やがて傍らに置かれた工具箱の中から、円錐形の工具を取り出すと継ぎ目に差してみせる。
「ち、ちょっとッ!?」
「まあ、いいからちょっと黙ってろ」
「黙ってろ、って……」
いきなり正体不明の、初対面の人間に長年付き合って来た武具を弄られて、黙っていろとは、何とも無茶な話だ。
しかし、実力行使に出ると、工具が継ぎ目に吸い込まれている以上、妙なことになりかねない。
カノンは不安に表情を歪ませながらも、じっと青年の手つきを観察する。
青年が数度、工具を回すと、かりかりと音が鳴った。一度引き抜いて、継ぎ目をこんこん、と叩く。それを何度か繰り返し、工具を置くとヤスリを当てて僅かに擦り、ふぅッ、と息を吹きかける。
細かい砂のように砕けた金属が舞った。
青年はそのまま、剣鎌の数箇所をこんこん、と工具の尻で叩いていく。ときどき顔を顰めて、継ぎ目に工具を差しながら、最後に一つ一つ、継ぎ目を覗き込んで、元のように折り畳む。
「ほらよ。応急処置だけどな。まあ一度、ちゃんと調整に出しとくんだな。あんた、剣筋、激しい方だろ?
刃はともかく、柄の方が悲鳴上げてるぜ」
「・・・!」
かしゃん、と折り畳まれた刃を伸ばしてみる。直っている。
応急処置とはいえ、こんな短時間で処置から調整までやってのけてしまうとは……ッ!
「あ、ありがと……。あ、い、言っとくけど、法外な値段払ったりしないわよッ!」
「おや、先手打たれちまったらしょーがねぇ。まあ、いいさ。珍しいもん見せてもらった礼だ。
オヤジ、クラオーネ鉱石とアズーラ製の鈎針、まあ安いやつで構わねぇ。カネはこのお嬢ちゃんから貰ってくれ」
「は、はいッ!」
薄い唇を吊り上げた男に、せっせと包みを用意する店の主人。何だかやたらと圧倒されている。武防具技師として、今、この男は大変なことをやってのけたのかもしれない。
言われた代金は、覚悟していたほど高額ではなかった。正規の修理代の三分の一ほどだ。
「決まったわぁ~v ……って、カノン、どうかしたの?」
ラメ入りの、カノンに言わせれば趣味の悪いマントを引っつかみながらやって来たシリアが、カノンの煮え切らないような、むず痒い表情を見つけて小首を傾げる。
「別に何でも……。って、あんた、たまには普通の服にしたらどうなのよ……趣味の悪い……」
「んっふっふっふ、このマントの良さが理解できないなんて、カノン。本当に悪趣味な上にお子様……」
ガツッ!!
運が悪かったとしか言い用がない。
普段なら聞き流すような戯言だったが、生憎、カノンの機嫌はかつてないほど最悪だった。
「ちょっと! 何すんのよッ!? 痛いじゃないのッ!」
「だぁぁぁ、うっさい! 親父さんッ、これ! 代金ねッ!」
「はいッ!」
伸びやかな回し蹴りをシリアの側頭部に決めて、半ば押し付けるように店主に硬貨を渡す。返って来た簡素な包みを、傍らで何故か妙に楽しそうな苦笑いを漏らしている男に突きつけた。
「安く済んだことには礼を言うけど……貴方、初対面の人間と話すときくらい、もうちょっと遠慮ってもんを学んだ方がいいわよ」
「けっ、そりゃあ、余計なお世話をどうも。
ついでに俺からも言わせて貰うけどな。いい歳した娘が、公衆ではしたなく股間開いてるもんじゃねぇぜ、お嬢ちゃん」
「―――ッ!!」
絶句するカノンを尻目に、男はくつくつと笑いを漏らしつつ、踵を返す。
頭を押さえながら立ち上がるシリアと擦れ違い―――
「………、アイゼンの香り……?」
「あん?」
「いえ、失礼。何でもないわ」
ぽつり、と呟いたシリアに、男は不快な視線を送るが、彼女はさらりと首を振る。
ふん、と鼻を鳴らして、彼はつかつかと店を出て行く。
「ちょっと、親父さん。何なの、あの男?」
その背が完全に人込みに紛れて消えるのを待ってから、カノンは店の主人に食って掛かる。
剣鎌を直してもらった礼は、礼として、断り無く武器に触れられたのが気に食わない。今時流行らない騎士道精神なんてものは持ち合わせていないが、それでも多少、剣士としての矜持はある。
他人に、しかも初対面でいきなり、数々の戦いを共にして来た相棒に触れられるのは、あまりいい気分ではない。
……加えて人を見下した言動も、目線も何かムカつく。
「いやぁ……最近、って言ってもここに来てくれたのは、昨日と合わせて二回目だけどさ。
昨日はただ商品見てただけだったから、あんな腕の立つ人だと思わなかったよ。やけに熱心に見る人だなー、とは思ってたけど……」
どこでどんな人に見られてるかわからんねー、と呑気な口調で言う店主。
復活したシリアが起き上がり、カウンターに肘を付く。
「何? 結局、剣鎌は直ったの?」
「まあ、一応……」
「なら、いいじゃあないの。何をかりかりしてるのかしら?」
「そう、……なんだけどさ」
カノンは男が消えていった、店の前の人の行き交うメインストリートをガラス越しに眺め、肩を落して嘆息した。
―――熱い……
間断なく、全身を襲う熱が、容赦なく皮膚を焼いてくる。
息をする度に熱風に曝された空気が、肺の中に入り込んで、内部から熱を発してくる。なるたけ呼吸を抑えなければ、喉と肺の方が焼けてしまいそうだ。
―――はぁ……はぁ………
吐く息さえ尋常ならざる熱を持っていた。それでも、歩み、いや、走りを止めることは出来ない。
諦めてしまいたい、この空間から逃げ出したい欲求よりも、激しい衝動が重い身体を突き動かしていた。
―――早く……早く、しなきゃ……
傍らの壁に手を付くことさえ許されない。
手を付けば、一瞬で手の平の皮が壁に張り付くだろう。
―――くッ……!
口と鼻を手で覆いながら、駆け抜けた廊下の先に扉が見える。断熱の扉は僅かに開いていた。
その意味を解する暇もなく、彼女はその扉を開く。その向こうに―――
「―――ッ!」
「……!」
肩に何かが触れる感触に、反射的に飛び起きる。漏れかけた悲鳴を飲み込んで、背後を振り返ると、
「あっ……と、何だ、レンか……」
「……」
彼は無言で片手に持っていた毛布を隣の椅子へ放り投げた。その好意に、ルナは申し訳なさそうに肩を竦める。
「ありがと。毛布はいいや……寝るつもりじゃなかったし。しかし、いつになく気が利くじゃない」
「……いつになく、昼間から宿屋の隅で酔い潰れている奴を見かければ、な」
声に含まれているのは、呆れだった。無理も無いかもしれない。
店の中は、主人の他には見知らぬ客が一人、いるだけだ。静けさの最中、僅かな喧騒が、窓の外から聞こえてくる。
「別に。一杯しか飲んでないし。酔ってはいないわよ」
「こんな場所で寝ながらうなされて、脂汗を掻いていた奴のセリフじゃあないが」
ルナの気配が急激に尖る。一瞬、剣呑な空気が辺りを包むが、その程度でレンの鉄面皮は動かない。
素知らぬ顔で隣に腰掛けると、グラスを磨いていた宿屋の主人にコーヒーを一杯、注文する。
鼻を鳴らし、グラスを掲げようとしたところで、冷水の入ったグラスポットがどん、と目の前に置かれた。カウンターからそれを引き寄せて置いた当人は、溜め息を吐きながら彼女を牽制する。
頬を膨らませながらも、ルナはアルコールの匂いが残るグラスに、冷水を注ぐ。煽った水は不自然に苦かった。
「眠れていないのか」
「わざと熟睡しないようにしてる人に言われたくないけど?」
手元に運ばれて来たカップの中身の黒い液体を眺めながら、ルナが言う。レンは、先ほどの彼女と同じように鼻を鳴らすと少しずつカップを傾ける。
「……胃、壊すわよ」
「結構だ。それくらいで済むならな」
充血しつつある目元を揉むように、こめかみに手をやる。さすがのレンも、こう面妖な事件が続いているせいか、些か神経質になっているようだ。
「損な性分ね、つくづく」
「何がだ?」
「別に? そうまでしてあの娘を守りたいのかねぇ、って思っただけ」
「……今回の件に関しては俺も無関係ではあるまい。それだけだ」
「はいはい、いーねぇ、そこまで何かに必死になれる人、ってのは」
「……それは俺だけではないと思うが」
ポットの中の氷が解けて、軋んだ音を立てる。
言外に含まれた何かを察して、ルナは長身の昔馴染みを睨み上げた。
「……どういう意味?」
「大した意味はない。ただ、『昔、自分が手がけた研究がどこかから漏れていた』程度で、必死になっている人間のセリフではない気がしただけだ」
「……」
ルナは表情を歪める。刺々しい空気が、周りの温度を下げた。
「『月の館』の公式的な記録はもう残っていない。どこからか危険な情報が漏れていたとしても、その責がお前に向けられるような事態にはならんだろう。
昔の仲間を疑わなくてはならない状態は、気分のいいものではないだろうが、真実に蓋など出来ん。何らかの脅迫にあった、もともと研究を盗もうとしていた奴がいた、十分に考えられるだろう。
あえてお前が追求しなくてはならないことじゃあない。逆に、」
「逆に、追求し無い方がいい場合もある。
……そう言いたいんでしょ」
「ああ、そうだ。
お前のことだからな。その程度は理解できるだろう。それでもなお、そうまで奴らを追うのには、何か特別な理由でもあるのかと思ってな」
「何? それはあたしの心配? そんなわけないわよね?
じゃあ、あれ? 『ヴォルケーノ』に関して、まだ何か隠してることがあるんじゃないか、……そう疑ってるわけ?」
「そのつもりはない。俺にその『ヴォルケーノ』の詳細を話したとなれば、お前とて昔の仲間からしては裏切り者になるだろう。この間、語ってくれたのが奇跡だと思っている。
だが、他に何か知っていることがあるのではないかと、ふと思っただけだ」
「……」
ルナは彼を睨んでから瞑目した。気味の悪い沈黙が下りる。やがて、かたん、と音がして、壁際に一人だけいた客が代金を置いて、店を後にする。
それを横目で見送って、数刻。
「……昔の夢を見るのよ」
「?」
「眠れないのか、って聞いたでしょ。それで目が覚めるだけの話」
「昔の、夢?」
気だるげに、ただ首を動かしたのが頷いたのか判然としない動作をする。普段は見開くように開いている猫目の瞳が、今は力なく、伏せられていた。
「……ニードの奴に、火ぃ付けられたときのこととか、いろいろ、ね……
今も、その夢でさ。気づいたら汗びっしょりだし、気持ち悪い」
ニード=フレイマー。五年ほど前、ルナの所属していた『月の館』に火を放ち、有能な魔道師を幾人も誘拐し、自らが頭目を勤める犯罪組織の駒としたA級犯罪人。
もうこの世には存在しない、が、彼が残した爪痕は、今もこうして色濃く残っている。
「十三歳のときに入学したから、えーと、二年、ないくらい? 極短い間だったけど……。
アゼルフィリーにいたときも、さ。あんたたちと遊びまわって、馬鹿やって、十分楽しかったけど。
……『館』でだって、あたしはそれなりに楽しんでたのよ。気心の知れた仲間だっていたし、親友だっていた」
「……」
「アゼルフィリーのことや、あんたたちといるのが楽しくない、ってわけじゃないのよ?
けど、短い人生で一番楽しかったのはいつだー、って聞かれたら、もしかしたら郷里より『館』の方かも知れないわね」
「『月の館』か。確かローランが言っていたな。優秀なプロジェクトチームがいたとか何とか……」
「ん。そーね、あたしはそのチームのチーフ補佐をやってた。まあ、No.2ってやつ」
カウンターに倒していた身を起こして、ルナは懐を弄った。無言で待っていると、取り出されたのは一枚の、皺と垢だらけになったぺらぺらの写真。
見てもいいのか、と視線で問いかける。彼女は『悪けりゃ出さないわよ』と可愛くない言葉で答えた。
写真に写っていたのは、若い男女四人。いずれも簡素なローブ姿。これが当時の正装だったのだろうと見当がつく。
四人のうち、一人はルナ自身。無論、写真の中の彼女は今よりも多少、幼いが、そうと解らないほどではない。
「……お前、昔の方がまだ可愛げがあるな」
「突っ込みどころはそこかい。しかも、"まだ"って、あんた失礼な……」
一人は赤毛のかかった栗色の髪の男子。どこか頼りなげな風体だが、愛嬌はある。
ルナとは違う、もう一人の女子は、彼女より背が低く、蜂蜜色の髪を二つに結び、あどけなく、照れたように微笑んでいる。
もう一人は彼女の傍らに立つ、目立つ風貌の男。
「チームのチーフをやってた男よ。偏屈者でね、でも頭は悔しいけど他の誰よりも切れた。
女の子はルームメイトで友達だったんだけど、これがまたドジな娘でねー、危なっかしくて。もう一人はまあ、情けない奴だけど、気のいい、いい奴だった」
「……」
「まあさ、今さらぐだぐだ言うようなことじゃあない、って解ってんのよ。解ってるけど、ね……
それなりに……思い出のある場所だったから。
それを、いきなり崩されたような気になっちゃってね。そんだけ」
「……そうか」
アゼルフィリーで築いたこの関係の他に。
彼女には彼女の、別の世界があるのは当然の話。それなりに、などと言っているが、こうして写真など似合わない物を持っているということが、彼女にとって『月の館』がどれだけ思い入れの深い場所なのかを物語る。
たとえ、もう存在しない世界だとしても、記憶に残るその世界を崩されて。
怒りを覚えないはずがない。
「……邪推したようだ。思った以上に神経質になっているらしい。すまない」
「あんたが素直に謝るなんて逆に気持ち悪いっての。別にいいわよ、そう考えたくなる気持ちも解るし。いつまでも引き摺ってるあたしが馬鹿なんだしね」
再びカウンターに突っ伏すように身を預けるルナに、写真を渡す。彼女はそれを受け取ると目を細めて眺め始めた。
レンはカップの中身を一息で飲み干すと、席を立った。
「酒も感傷も結構だが、ほどほどにして置け。ダメージを食うのは自分だぞ」
「はいはい、ご忠告ありがとう。解ってるって」
階上に向かう彼の背に、ルナはひらひらと手を振って見送る。群青のマントが消えるのを待ってから、カウンターに写真を置き、グラスに二杯目の水を注いだ。
「……本当に、こっちの気も知らないで、今どこで何をしてんだか」
深い溜め息を吐いて、彼女は再び、写真に目を走らせる。
吐き出したセリフと視線は、四人の中で最も目立つ容貌の―――銀に輝く白い髪と、真紅の瞳の青年へ向けられていた。
「さて―――」
←1へ
「まあ、地方都市だし、中央に比べたら少ない方じゃないかしらね。いいデザインのものがあるといいんだけどぉ」
そんな会話を交わしながら、カノンとシリアは人込み溢れる昼間のメインストリートを縫うようにして歩く。
探しているのは道具屋だった。
クオノリアでも、ランカースでも、少々武器を酷使してしまったせいか、折り畳み式である剣鎌のどこかの螺子が緩んでしまっていることに気がついたのがつい、先ほど。
痛んだマントを買い換えると言うシリアも連れ立って、町中へと出て来たのだった。
勿論、直前までシリアはレンを連れて行こうと引っ張ったが、容赦の無い鉄拳であえなく沈んだ。
「もう♪ レンてば恥ずかしがっちゃって、可愛いんだからv」
宿屋を一歩、出てから彼女の吐いたその科白に、カノンは心底、感心したものだ。どこをどう見ればあの大男を可愛いなどと称せるというのか。
下に恐ろしきは盲目の恋心である。
―――いや、まあ、それはとりあえず、どうでもいいんだけど……
はぁ、とこっそり吐いたつもりの溜め息は、しっかりシリアの耳に入っていたようで。
「貴女、まだ昨日のことでうじうじ悩んでいるのかしら?」
「ん~……悩んでる、って程じゃないけど……」
呆れたように言う彼女に、肩を竦めてそう返す。
ラーシャの言っていたことを鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、またその言動のすべてを否定するわけにもいかないのだ。
例えば、クオノリアでのあの事件。
クロードは合成獣を無尽蔵に生み出す『ヴォルケーノ』を秘密裏に製造し、兵器としてゼルゼイルへ輸出しようと画策していた。
あの黒衣の少年が、彼女たちの言うように、ゼルゼイルの、エイロネイアの刺客だとすれば、別の土地で敵国に悟られないよう、自国の益のための兵器製造を行おうとしていた、ということになる。
月陽剣についても同じだろう。何らかの、魔道実験を敵国の目に触れないところで実行しようとしていた。
しかし、それを自らご破算にしてまで、不必要にカノンたちを挑発する、その理由は一体何なのか。
はたまた、彼らはエイロネイアとは全く関係のない人間であるのか……
「いいじゃあないの。結局、相手が動かないと何も解らないのは一緒なんだから。
どうにせよ、戦争なんかに加担する気はないんでしょう?
だったらいい護衛が雇えた、と思えばいいじゃない」
「……あんたってほんと、羨ましい性格してるわね」
シリアに諭されていると、何やら自分が相当情けない人間に思えて来て、それ以上、考えるのを止めた。
相手が不毛と判断して、手を引いてくれるならば良し。そうでなければ―――そのとき、最善と思える道を選ぶしかない。
今、出来ることは、それに備えて武器を整備しておくこと。それとなく、情報を集めておくことの二つ。
ぱんっ、と頬を張る。まったく、考えに詰まるなんてらしくない。
ここはもっとどーん、と構えているのがいつもの自分なのだ。
「あら、ここなんて良さそうじゃない。ほら」
言ってシリアが、比較的大きな建物を指差す。白壁と、大きなウィンドウ。そのウィンドウに飾られた魔道具と、装備品を見た限り、上質な素材を使っているようだ。
「そーね。ちょっと見てみましょうか」
ドアに手をかけて、押し出そうとした瞬間。
からからんッ。
「うわッ!」
「きゃッ……」
唐突に向こう側からドアが開き、小柄な少女が飛び出して来る。反射的に身を引くが、付いた勢いは止まらなかったのか、軽くぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいッ!」
やや外はねした、蜂蜜色の髪を振り乱して、頭を下げてくる少女。
余程、急いでいたのか、カノンが声をかける前にあたふたと店を飛び出して行ってしまう。
「何だったのよ? 落ち着かない娘ねぇ……」
「さあ……よっぽど急いでたんじゃないの?」
特に気にするでもなく、二人は店内に入った。お決まりの、「いらっしゃいませ」という言葉が耳を付く。
店内はそれほど混み合っておらず、カノンたちの他には武具を物色する軽剣士の風体をした二人組みと、魔道具の棚を眺めている男が一人だけ。
メインストリートの雑踏と戦って来た身としては、ほっとする。
「いらっしゃい、どのような御用ですか?」
「えーっと、ちょっと武器の修理が出来ないかと思って」
真っ先に、ショールとマントの棚に走ったシリアを尻目に、カノンはカウンターに剣鎌を包んだ布をごとり、と横たえる。
人の良さそうな顔をした、髭面の店主は、断ってから布を退けて包みを開き、目を見開いた。
「ほう……! 話には聞いたことがあるよ。剣鎌というやつだね……。
いや、私も長く道具屋をやっているが、これを持ち込んだ人というのは初めてだよ」
店主は新しい玩具を手にした子供のように、微笑んだ。
「それで、その……ちょっと、留め金が緩んでしまってるみたいなんですけど……直せますか?」
嫌な予感と共におずおずと切り出すと、店主は白髪の混じり始めた眉を寄せる。数度、手に刃を持ち替えて、首を捻り、難しい顔で目を閉じた。
「うーん……残念だけどねぇ……。
普通の剣なら、どこの店にも負けない自信があるんだけど。こんな稀少武器、私も実物を見たのはこれが初めてだからね。看ることは出来るが、直せる保障は出来ないな」
「そうですか……。
誰か、この町で直せそうな人っていたりしません?」
唸り始めてしまった店主に、カノンは頬を掻く。仕方が無い。よくあることだ。手当たり次第に探していくしかないか……?
やがて店主はごめん、と素直に頭を下げてきた。肩を落としつつも、礼を言って差し出された剣鎌を受け取ろうとして、
ひょい、と横手から入った手に奪われる。
「・・・へ?」
「ふぅん、剣鎌[カリオ・ソード]か……こりゃあまた、ンなところで、実際に使われてるのにお目にかかるたぁ、思わなかったぜ」
「ち、ちょっと!?」
慌てて軽々と剣鎌を持ち上げるその手から、武具を引っ手繰る。
睨みつけながらその手を辿り―――
思わず息を飲む。
目を引いたのは、血の色をそのまま映し出した真紅の両眼。次いで、店内の淡い照明に照らされて、銀に映える色素の極端に抜け落ちた白髪。そして病的なまでに真っ白な肌。
話には聞いたことがある―――白子[アルビノ]、というやつだ。
カノンより頭一つ分高い位置からこちらを見下ろす目には、他人を嘲るような薄笑いが浮かんでいて。おおよそ好印象とは言い難い面構えだったが、一瞬目を奪われるほど恐ろしく端整な、精巧に造られた雪人形のような青年だった。
茫然として眺めていると、彼はくつくつ、と喉の奥で笑いを漏らす。
「何だ、お嬢ちゃん。そんなに見つめるほど俺の顔は魅力的か?」
「な……ッ!?」
「まあ、貸してみな」
小馬鹿にした口調に、カノンが呆気に取られていると、男は再び彼女の手から剣鎌をすり取った。
静止するより先に、男は鮮やかな手つきで緩んだ継ぎ目を見つけ、刃と継ぎ目の合間を覗き込む。
それを見てカノンは初めて気がついた。その動作のすべてを、彼は右手一本でこなしていた。ふと、逆手の方を見て、眉を潜める。
だらん、と垂れた七分丈の白い上着の袖。わざと腕を抜いているようにも見えない。
「……」
しげしげと見ているのも悪い気がして、カノンは視線を逸らした。その間にも彼は刃を数度、回転させながら、剣鎌のあちこちをチェックしていく。
やがて、男は短くひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、なかなかの年代物じゃねぇか。
よくもまあ、刃が持ってるもんだ。それも刃こぼれ一つねぇ」
「あ、当たり前じゃない。手入れは欠かしてないもの……」
「銘は入ってねぇが……どこのどいつの造ったもんだ?」
「へ、へ? さ、さあ……?」
「おいおい、自分の武器の造ったやつも知らねぇのか?」
「いや、だ、だって、元は自分の物じゃなかったし……二十年以上前の物だと思うから……」
「ほーう……」
男はカウンターの片隅に腰を下ろすと、組んだ足の間に柄の箇所を挟むと、再び刃の継ぎ目を覗きながら、
「おい、オヤジ。ねじ締め貸せ。あと、ヤスリ」
「え、あ、は、はいッ! 少々、お待ちをッ……」
カノンはそのあまりに傍若無人な態度に、あんぐりと口を開く。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
男の得体の知れない迫力に押され、道具屋の主人は可哀相なくらいあたふたと、カウンターの後ろの棚をあさり始める。
やがて傍らに置かれた工具箱の中から、円錐形の工具を取り出すと継ぎ目に差してみせる。
「ち、ちょっとッ!?」
「まあ、いいからちょっと黙ってろ」
「黙ってろ、って……」
いきなり正体不明の、初対面の人間に長年付き合って来た武具を弄られて、黙っていろとは、何とも無茶な話だ。
しかし、実力行使に出ると、工具が継ぎ目に吸い込まれている以上、妙なことになりかねない。
カノンは不安に表情を歪ませながらも、じっと青年の手つきを観察する。
青年が数度、工具を回すと、かりかりと音が鳴った。一度引き抜いて、継ぎ目をこんこん、と叩く。それを何度か繰り返し、工具を置くとヤスリを当てて僅かに擦り、ふぅッ、と息を吹きかける。
細かい砂のように砕けた金属が舞った。
青年はそのまま、剣鎌の数箇所をこんこん、と工具の尻で叩いていく。ときどき顔を顰めて、継ぎ目に工具を差しながら、最後に一つ一つ、継ぎ目を覗き込んで、元のように折り畳む。
「ほらよ。応急処置だけどな。まあ一度、ちゃんと調整に出しとくんだな。あんた、剣筋、激しい方だろ?
刃はともかく、柄の方が悲鳴上げてるぜ」
「・・・!」
かしゃん、と折り畳まれた刃を伸ばしてみる。直っている。
応急処置とはいえ、こんな短時間で処置から調整までやってのけてしまうとは……ッ!
「あ、ありがと……。あ、い、言っとくけど、法外な値段払ったりしないわよッ!」
「おや、先手打たれちまったらしょーがねぇ。まあ、いいさ。珍しいもん見せてもらった礼だ。
オヤジ、クラオーネ鉱石とアズーラ製の鈎針、まあ安いやつで構わねぇ。カネはこのお嬢ちゃんから貰ってくれ」
「は、はいッ!」
薄い唇を吊り上げた男に、せっせと包みを用意する店の主人。何だかやたらと圧倒されている。武防具技師として、今、この男は大変なことをやってのけたのかもしれない。
言われた代金は、覚悟していたほど高額ではなかった。正規の修理代の三分の一ほどだ。
「決まったわぁ~v ……って、カノン、どうかしたの?」
ラメ入りの、カノンに言わせれば趣味の悪いマントを引っつかみながらやって来たシリアが、カノンの煮え切らないような、むず痒い表情を見つけて小首を傾げる。
「別に何でも……。って、あんた、たまには普通の服にしたらどうなのよ……趣味の悪い……」
「んっふっふっふ、このマントの良さが理解できないなんて、カノン。本当に悪趣味な上にお子様……」
ガツッ!!
運が悪かったとしか言い用がない。
普段なら聞き流すような戯言だったが、生憎、カノンの機嫌はかつてないほど最悪だった。
「ちょっと! 何すんのよッ!? 痛いじゃないのッ!」
「だぁぁぁ、うっさい! 親父さんッ、これ! 代金ねッ!」
「はいッ!」
伸びやかな回し蹴りをシリアの側頭部に決めて、半ば押し付けるように店主に硬貨を渡す。返って来た簡素な包みを、傍らで何故か妙に楽しそうな苦笑いを漏らしている男に突きつけた。
「安く済んだことには礼を言うけど……貴方、初対面の人間と話すときくらい、もうちょっと遠慮ってもんを学んだ方がいいわよ」
「けっ、そりゃあ、余計なお世話をどうも。
ついでに俺からも言わせて貰うけどな。いい歳した娘が、公衆ではしたなく股間開いてるもんじゃねぇぜ、お嬢ちゃん」
「―――ッ!!」
絶句するカノンを尻目に、男はくつくつと笑いを漏らしつつ、踵を返す。
頭を押さえながら立ち上がるシリアと擦れ違い―――
「………、アイゼンの香り……?」
「あん?」
「いえ、失礼。何でもないわ」
ぽつり、と呟いたシリアに、男は不快な視線を送るが、彼女はさらりと首を振る。
ふん、と鼻を鳴らして、彼はつかつかと店を出て行く。
「ちょっと、親父さん。何なの、あの男?」
その背が完全に人込みに紛れて消えるのを待ってから、カノンは店の主人に食って掛かる。
剣鎌を直してもらった礼は、礼として、断り無く武器に触れられたのが気に食わない。今時流行らない騎士道精神なんてものは持ち合わせていないが、それでも多少、剣士としての矜持はある。
他人に、しかも初対面でいきなり、数々の戦いを共にして来た相棒に触れられるのは、あまりいい気分ではない。
……加えて人を見下した言動も、目線も何かムカつく。
「いやぁ……最近、って言ってもここに来てくれたのは、昨日と合わせて二回目だけどさ。
昨日はただ商品見てただけだったから、あんな腕の立つ人だと思わなかったよ。やけに熱心に見る人だなー、とは思ってたけど……」
どこでどんな人に見られてるかわからんねー、と呑気な口調で言う店主。
復活したシリアが起き上がり、カウンターに肘を付く。
「何? 結局、剣鎌は直ったの?」
「まあ、一応……」
「なら、いいじゃあないの。何をかりかりしてるのかしら?」
「そう、……なんだけどさ」
カノンは男が消えていった、店の前の人の行き交うメインストリートをガラス越しに眺め、肩を落して嘆息した。
―――熱い……
間断なく、全身を襲う熱が、容赦なく皮膚を焼いてくる。
息をする度に熱風に曝された空気が、肺の中に入り込んで、内部から熱を発してくる。なるたけ呼吸を抑えなければ、喉と肺の方が焼けてしまいそうだ。
―――はぁ……はぁ………
吐く息さえ尋常ならざる熱を持っていた。それでも、歩み、いや、走りを止めることは出来ない。
諦めてしまいたい、この空間から逃げ出したい欲求よりも、激しい衝動が重い身体を突き動かしていた。
―――早く……早く、しなきゃ……
傍らの壁に手を付くことさえ許されない。
手を付けば、一瞬で手の平の皮が壁に張り付くだろう。
―――くッ……!
口と鼻を手で覆いながら、駆け抜けた廊下の先に扉が見える。断熱の扉は僅かに開いていた。
その意味を解する暇もなく、彼女はその扉を開く。その向こうに―――
「―――ッ!」
「……!」
肩に何かが触れる感触に、反射的に飛び起きる。漏れかけた悲鳴を飲み込んで、背後を振り返ると、
「あっ……と、何だ、レンか……」
「……」
彼は無言で片手に持っていた毛布を隣の椅子へ放り投げた。その好意に、ルナは申し訳なさそうに肩を竦める。
「ありがと。毛布はいいや……寝るつもりじゃなかったし。しかし、いつになく気が利くじゃない」
「……いつになく、昼間から宿屋の隅で酔い潰れている奴を見かければ、な」
声に含まれているのは、呆れだった。無理も無いかもしれない。
店の中は、主人の他には見知らぬ客が一人、いるだけだ。静けさの最中、僅かな喧騒が、窓の外から聞こえてくる。
「別に。一杯しか飲んでないし。酔ってはいないわよ」
「こんな場所で寝ながらうなされて、脂汗を掻いていた奴のセリフじゃあないが」
ルナの気配が急激に尖る。一瞬、剣呑な空気が辺りを包むが、その程度でレンの鉄面皮は動かない。
素知らぬ顔で隣に腰掛けると、グラスを磨いていた宿屋の主人にコーヒーを一杯、注文する。
鼻を鳴らし、グラスを掲げようとしたところで、冷水の入ったグラスポットがどん、と目の前に置かれた。カウンターからそれを引き寄せて置いた当人は、溜め息を吐きながら彼女を牽制する。
頬を膨らませながらも、ルナはアルコールの匂いが残るグラスに、冷水を注ぐ。煽った水は不自然に苦かった。
「眠れていないのか」
「わざと熟睡しないようにしてる人に言われたくないけど?」
手元に運ばれて来たカップの中身の黒い液体を眺めながら、ルナが言う。レンは、先ほどの彼女と同じように鼻を鳴らすと少しずつカップを傾ける。
「……胃、壊すわよ」
「結構だ。それくらいで済むならな」
充血しつつある目元を揉むように、こめかみに手をやる。さすがのレンも、こう面妖な事件が続いているせいか、些か神経質になっているようだ。
「損な性分ね、つくづく」
「何がだ?」
「別に? そうまでしてあの娘を守りたいのかねぇ、って思っただけ」
「……今回の件に関しては俺も無関係ではあるまい。それだけだ」
「はいはい、いーねぇ、そこまで何かに必死になれる人、ってのは」
「……それは俺だけではないと思うが」
ポットの中の氷が解けて、軋んだ音を立てる。
言外に含まれた何かを察して、ルナは長身の昔馴染みを睨み上げた。
「……どういう意味?」
「大した意味はない。ただ、『昔、自分が手がけた研究がどこかから漏れていた』程度で、必死になっている人間のセリフではない気がしただけだ」
「……」
ルナは表情を歪める。刺々しい空気が、周りの温度を下げた。
「『月の館』の公式的な記録はもう残っていない。どこからか危険な情報が漏れていたとしても、その責がお前に向けられるような事態にはならんだろう。
昔の仲間を疑わなくてはならない状態は、気分のいいものではないだろうが、真実に蓋など出来ん。何らかの脅迫にあった、もともと研究を盗もうとしていた奴がいた、十分に考えられるだろう。
あえてお前が追求しなくてはならないことじゃあない。逆に、」
「逆に、追求し無い方がいい場合もある。
……そう言いたいんでしょ」
「ああ、そうだ。
お前のことだからな。その程度は理解できるだろう。それでもなお、そうまで奴らを追うのには、何か特別な理由でもあるのかと思ってな」
「何? それはあたしの心配? そんなわけないわよね?
じゃあ、あれ? 『ヴォルケーノ』に関して、まだ何か隠してることがあるんじゃないか、……そう疑ってるわけ?」
「そのつもりはない。俺にその『ヴォルケーノ』の詳細を話したとなれば、お前とて昔の仲間からしては裏切り者になるだろう。この間、語ってくれたのが奇跡だと思っている。
だが、他に何か知っていることがあるのではないかと、ふと思っただけだ」
「……」
ルナは彼を睨んでから瞑目した。気味の悪い沈黙が下りる。やがて、かたん、と音がして、壁際に一人だけいた客が代金を置いて、店を後にする。
それを横目で見送って、数刻。
「……昔の夢を見るのよ」
「?」
「眠れないのか、って聞いたでしょ。それで目が覚めるだけの話」
「昔の、夢?」
気だるげに、ただ首を動かしたのが頷いたのか判然としない動作をする。普段は見開くように開いている猫目の瞳が、今は力なく、伏せられていた。
「……ニードの奴に、火ぃ付けられたときのこととか、いろいろ、ね……
今も、その夢でさ。気づいたら汗びっしょりだし、気持ち悪い」
ニード=フレイマー。五年ほど前、ルナの所属していた『月の館』に火を放ち、有能な魔道師を幾人も誘拐し、自らが頭目を勤める犯罪組織の駒としたA級犯罪人。
もうこの世には存在しない、が、彼が残した爪痕は、今もこうして色濃く残っている。
「十三歳のときに入学したから、えーと、二年、ないくらい? 極短い間だったけど……。
アゼルフィリーにいたときも、さ。あんたたちと遊びまわって、馬鹿やって、十分楽しかったけど。
……『館』でだって、あたしはそれなりに楽しんでたのよ。気心の知れた仲間だっていたし、親友だっていた」
「……」
「アゼルフィリーのことや、あんたたちといるのが楽しくない、ってわけじゃないのよ?
けど、短い人生で一番楽しかったのはいつだー、って聞かれたら、もしかしたら郷里より『館』の方かも知れないわね」
「『月の館』か。確かローランが言っていたな。優秀なプロジェクトチームがいたとか何とか……」
「ん。そーね、あたしはそのチームのチーフ補佐をやってた。まあ、No.2ってやつ」
カウンターに倒していた身を起こして、ルナは懐を弄った。無言で待っていると、取り出されたのは一枚の、皺と垢だらけになったぺらぺらの写真。
見てもいいのか、と視線で問いかける。彼女は『悪けりゃ出さないわよ』と可愛くない言葉で答えた。
写真に写っていたのは、若い男女四人。いずれも簡素なローブ姿。これが当時の正装だったのだろうと見当がつく。
四人のうち、一人はルナ自身。無論、写真の中の彼女は今よりも多少、幼いが、そうと解らないほどではない。
「……お前、昔の方がまだ可愛げがあるな」
「突っ込みどころはそこかい。しかも、"まだ"って、あんた失礼な……」
一人は赤毛のかかった栗色の髪の男子。どこか頼りなげな風体だが、愛嬌はある。
ルナとは違う、もう一人の女子は、彼女より背が低く、蜂蜜色の髪を二つに結び、あどけなく、照れたように微笑んでいる。
もう一人は彼女の傍らに立つ、目立つ風貌の男。
「チームのチーフをやってた男よ。偏屈者でね、でも頭は悔しいけど他の誰よりも切れた。
女の子はルームメイトで友達だったんだけど、これがまたドジな娘でねー、危なっかしくて。もう一人はまあ、情けない奴だけど、気のいい、いい奴だった」
「……」
「まあさ、今さらぐだぐだ言うようなことじゃあない、って解ってんのよ。解ってるけど、ね……
それなりに……思い出のある場所だったから。
それを、いきなり崩されたような気になっちゃってね。そんだけ」
「……そうか」
アゼルフィリーで築いたこの関係の他に。
彼女には彼女の、別の世界があるのは当然の話。それなりに、などと言っているが、こうして写真など似合わない物を持っているということが、彼女にとって『月の館』がどれだけ思い入れの深い場所なのかを物語る。
たとえ、もう存在しない世界だとしても、記憶に残るその世界を崩されて。
怒りを覚えないはずがない。
「……邪推したようだ。思った以上に神経質になっているらしい。すまない」
「あんたが素直に謝るなんて逆に気持ち悪いっての。別にいいわよ、そう考えたくなる気持ちも解るし。いつまでも引き摺ってるあたしが馬鹿なんだしね」
再びカウンターに突っ伏すように身を預けるルナに、写真を渡す。彼女はそれを受け取ると目を細めて眺め始めた。
レンはカップの中身を一息で飲み干すと、席を立った。
「酒も感傷も結構だが、ほどほどにして置け。ダメージを食うのは自分だぞ」
「はいはい、ご忠告ありがとう。解ってるって」
階上に向かう彼の背に、ルナはひらひらと手を振って見送る。群青のマントが消えるのを待ってから、カウンターに写真を置き、グラスに二杯目の水を注いだ。
「……本当に、こっちの気も知らないで、今どこで何をしてんだか」
深い溜め息を吐いて、彼女は再び、写真に目を走らせる。
吐き出したセリフと視線は、四人の中で最も目立つ容貌の―――銀に輝く白い髪と、真紅の瞳の青年へ向けられていた。
「さて―――」
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DeathPlayerHunterカノン[慟哭の月] EPISODE1
最早、そこに謎はない。これはただ堕ちるピエロを笑うだけの物語。悪魔が手にするのは一枚のジョーカー。勝てるカードはどこにある?
最早、そこに謎はない。これはただ堕ちるピエロを笑うだけの物語。悪魔が手にするのは一枚のジョーカー。勝てるカードはどこにある?
Death Player Hunterカノン
―慟哭の月―
書簡の中には几帳面な字が延々と並んでいた。
後ろから覗き込むレンの不機嫌なしかめっ面と、真正面から来る得体の知れない威圧感に、妙なプレッシャーが身体を押さえ込む。
書状の中身など、半分ほども理解出来ない。
「……つまり」
膠着状態に陥った場を切り裂くように、レンが低い声で言った。
その短い一言に反応し、対面に座り、静寂を守る女性武官は顔を上げる。それに習うようにして、傍らに控える少年導師もまた、上目遣いに彼を見上げた。
「ゼルゼイルの北方シンシアの旗頭が、俺たちを軍官として迎えたいと」
「そこまでとは言わない。ただ、ロイセイン帝国を立て直した第三革命者として、我らの小国にご助力願いたいのだ」
さらりと会話しているものの、その内容は、実はとてつもない。
つまり彼女は―――ゼルゼイル王国北方領国シンシアの軍中将を名乗るこの女性は、五十年の内戦を続けている自国の軍のアドバイザーとして、カノンとレンの二人を招きたい、と言っているのだ。
捉え方一つで、一国に封じられる、という意味合いにもなる。
薄暗く、ランプを灯した宿屋の部屋の隅で、立ち会っていたシリアとアルティオが、小さく息を飲んだ。同じく、ドアの前に寄りかかるルナは、平然としているようで、その眉はしっかりと顰められている。
ラーシャ、と名乗った女性武官は、ふぅ、と肩を上下させると、再び背を伸ばす。
「……存じ上げていると思うが……。
我が国はかれこれ五十年程余り、内戦を続けている。ロイセイン帝国、並びに東方イースタン王国からもあまり良い目で見られていないことも重々承知の上だ」
「ゼルゼイルは内戦を始めてから、極端に周囲の国と距離を置いて来た。貿易も交流も最低限、貿易に関しては、昨今、摩擦さえ見られている。
当然といえば当然ね」
「……恥ずかしながら、仰る通りだ」
何とか吐き出したカノンの言葉を、彼女はあっさりと肯定し、憂鬱の息を吐く。
「五十年前―――
かつてのゼルゼイルは二つの領国で一つの国を為していた。国は一つ、しかし領主である総統は二人。すべては権力の集中を避けるための政策だった。長らく、国はその政策で均衡を保っていたのだが―――」
「それが、五十年前、南方エイロネイアの総統となった男の独立宣言で、すべてが狂った」
「……」
静かに、ラーシャは頷く。
「南方エリアゼイルは世襲によって血の繋がりで、国の半分を治めていた。
しかし、現総統ヴェニア=ロフェイル=エイロネイアは、突如として自らをエイロネイア帝国皇帝と称し、北方シンシアとの境界から、北領を隔絶した。
当時の北方シンシアの総統は、説得を繰り返したそうだが……それから領国同士の争いは耐えなくなってしまい―――
当時のシンシア総統の怪死から、本格的な闘争が始まった」
「怪死?」
首を捻ったアルティオに、ルナがすらすらと答える。
「シンシア総統、クラヴェール=イオ=ラタトスが、自宅の寝室で変死を遂げた事件のことね。
争った形跡も、傷を負わされた跡もない。解剖してみても、毒物のようなものは検出されなかった。文字通り、"眠るように死んでいた"らしいわね。
証拠は何もなかったけど、証拠がなかったからこそ、なのかしらね。当時のシンシアの人たちは、エイロネイアの刺客に寄る暗殺だと、断定した。
クラヴェール氏は、シンシアの良心ともいえる人だったから、そこから両国の不和は決定付けられた」
「その通りだ。シンシアは当時の状況から、正当防衛と判断し、エイロネイアとの決別を宣言した。
戦争が激化したのは、それから一年後のことだ……」
沈痛な面持ちで、ラーシャは首を振る。そこには、総統を殺されたことによる苛烈な怒りはなく、むしろ、それを恥じているような含みがあった。
「……それで、何でそのシンシアの中将様が直々に、あたしたちに?」
冗談を許さない目で、カノンは正面から彼女を睨む。彼女は、それを胸を張って受け止めながら、深く頷いた。
「……それから五十年が経過し、事態があの頃のままというわけではない。
両国は最早、戦争をやるために、当時のいい訳を付けているような―――誰もが最初の理由を覚えていないというのに、戦いをやりたいがために、戦いを止めないような風潮となっている。
手段のために、当初の目的を忘れている。
これでは、前総統クラヴェール氏もあまりに浮かばれない」
「……それで?」
「クラヴェール氏が他界してから、シンシア内部には戦を促進させるような空気が蔓延した。平和主義者が否定されるような空気、とでも言おうか。
その空気が選んだ新たな指導者は、タカ派の、一歩間違えればエイロネイアのヴェニア帝に取って変わらない危険な思考の持ち主だった。
……人々が、それに気が付いたときには、戦はもう、一歩も引けないような状態となっていたが……。
それでも、シンシアの中には、当時の苛烈な怒りを治め、和平の条約を締結し、エイロネイアとの共存を図ろうという流れが生まれた。その流れが、タカ派の指導者を否定し、新たな総統を生んだ。
それが我らの主である、シェイリーン=ラタトス様だ」
「ラタトス、って……」
「そうだ。前総統であらせられる、クラヴェール様の娘様でいらっしゃる。
総統の任についたシェイリーン様は、和平への活路を見出そうと、シンシアの議会内の反対派を押し切って、エイロネイアに使者を送られた」
「……」
その先の言葉を予想して、カノンは渋く顔を歪ませる。ラーシャはその表情通りに瞑目し、
「使者は帰って来なかった……。
シェイリーン様は、シンシアの内部は勿論、ゼルゼイルそのものの、戦いに染められた、澱んだ風潮を変えるために、外部の新しい風を吹き込む必要があると仰った」
「それが、あたしたちってわけ?」
こくり、と頷くラーシャ。カノンは首を傾げて、傍らのレンと顔を見合わせる。眉間に刻まれた皺が、一層深くなる。
「何で、そこであたしらが出て来るのか、よく解らないんだけど……」
「……我が国は閉鎖を続けて長いが、それでも他国の情報は流れてくる。その折に、ロイセイン帝国の政団で大規模な改革があったことを知った。
シェイリーン様はそれに着目し、人を使って、その中枢におられた貴方方、お二人に行き着いた。
そして、その改革を促したお二人に、助力を願いたいと申し上げられた」
「そうは言われても……」
カノンは困惑と共に肩を竦める。
政団の指導者が、我を見失い、死術の暴走を引き起こしたあの事件のことは勿論、忘れてなどいない。
しかし、あれはカノンたちにとっては、不条理に巻き込まれた事件に過ぎない。
望んで起こした改革などではないし、どちらかというと暴走を鎮圧した、という方が正しい。良くない指導者を倒した、という点では確かに改革なのかもしれないが……。
どうにしろ、一国に召抱えられるようなことをしでかした記憶ではない。だからこそ、公式には、あの件に関わったことを、新しい政団の指導者には隠蔽してもらっていたのだ。
「そりゃあ、改革なんてそうほいほい起きるものじゃないだろうけど……
中枢にいたからって、あたしたちを招きたい、って理由が理解できないし。なら、ロイセインの皇帝にでも頼んで、両国の仲介でもして貰った方が現実的なんじゃない?」
「出来るものなら。
しかし、シェイリーン様の政策には、シンシア内部に反対する者も多々いる。そういった者の多くは、他国の皇帝に頭を下げることなど潔しとしないであろうし、もしそうなれば公式的な話になる。国の意見が統一されていなければ、どんなことが起きるか……」
「下手をすれば、そのシェイリーンとやらが、父親の二の舞を踏むことにもなりかねんな」
ラーシャは苦い顔で首を縦に振る。
カノンは腕を組んで、長い息を吐き出した。
「けど……」
「もちろん、それだけじゃないでしょ?」
横合いから入った言葉に、全員が顔を上げる。視線の的となった魔道師は、呆れた表情で後頭部を掻き毟り、彼女を見る。
「……あんたたち、さっき、あの黒いのを見ただけで『エイロネイアの刺客か』って言ったでしょ。
ってことは、最近、あいつがカノンたちに接触していたことを―――敵国が、第三革命者にちょっかいをかけていたことを知って……」
「……ちょっと待て、ルナ」
語るように言うルナの科白にストップをかける。その肩に、ぽん、と手を置いて、
「さっき、ってあんた……何であいつらが、あたしたちを襲って来たことをあんたが知ってんのよ?」
「あー……えーと、まあ……」
カチン。
「あ、あんた、さてはさっき覗き見してたわねッ!?」
「いやぁ、だってさ、ほらぁ。年頃の乙女としてはやっぱり気になっちゃう、ってゆーかぁv」
「気持ち悪い口調で誤魔化すなッ!」
「何、カノンッ! 貴方、また私の知らないところで何か抜け駆けを……ッ!」
「あ、あの……」
『あ゛……』
姦しいとはこういうことを言うのだろう。一瞬、場を忘れかけた女三人は、女性武官の上げた弱弱しい、押された声で我に返る。
ルナはわざとらしく、こほん、と咳を漏らし、
「つ、つまり、よ。
……あんたたちはエイロネイアが、大陸で名を馳せている人間たちに手を下してることを知って―――。
自分たちに不利になるような事態になる前に、いっそのこと、シンシア陣営に引き抜こう、ってんじゃないの?」
「無礼なッ! そのような……」
「デルタ、落ち着け」
「しかし……ッ」
腰を上げかけた少年の肩を、ラーシャが叩く。そのままルナを見上げると、生真面目に眉を引き上げながら、言う。
「いい。続けてくれ」
「……カノンたちは貴重なブレーンになり得る人材。戦争屋にとっては、どこにでも使える便利な駒になるでしょーね。だから、シンシアにとっても非常に都合が良い存在だった。
ついでに言うなら、シンシアさん、最近旗色が悪いんじゃないの? 良くは知らないけど、領土の境界線がやや北寄りになってる、って話は耳にしてるわよ」
「……ッ」
少年が悔しげに呻いて俯く。奥歯を噛み締めているようだった。
対して女性は、激昂するようなことはせずに、深い溜め息を吐く。
「……貴女は、大陸人にしては詳しい方のようだな」
「まあね。その筋の情報網なら、結構持ってるし」
「―――お察しの通りだ。
エイロネイアは元々が文化の中心となっていた場所だ。生活水準も戦に置ける技力も向こうが上。
五十年、拮抗勝負が出来ていたのが奇跡と言っても過言ではないだろう。
しかし、それもあの男が戦場に出るようになってからは、脆く崩れてしまった」
「あの男?」
カノンの復唱に、デルタ、と呼ばれる少年が口惜しげに顔を上げる。
「エイロネイア皇帝ヴェニアの第二の息子……現エイロネイア皇太子です。
矢面に上がるや、戦争に置いてその才覚を発揮し、次々とシンシアの居城や軍隊を壊滅させて行きました。今の境界線が北方に押しやられているのは、すべてあの男の所業、と言っても過言ではないでしょう。
実際に、僕が目にしたわけはありませんが……慈悲の欠片もない、酷い噂ばかりが目に付きます」
「酷い噂、って?」
「……聞いた話では、捕らえられた捕虜は皆殺しになる、とか。血を残すためでしょうが、何人もの側室を抱えながら、気に入らない側室から次々に殺していく、だとか……」
「ひでぇ話だな……」
「……」
カノンの背を汗が伝う。薄ら寒い気配が、背後を過ぎったような、そんな妙な感覚。
心臓の、さらに奥を抉られるような。気持ちのいい話ではない。
「おそらくは、先ほどの連中も、エイロネイアの放った刺客でしょう。貴方方を、良いように利用しようとしているに違いない」
「……」
「……ヴェニア帝は、彼ばかりでなく、戦に置いて非常に優秀な人材を雇い、集めているという」
ラーシャが少年の押し殺した声を継ぐ。
「戦軍には七本の柱が必要だと言い、実際にそれに値する人間を、『七征』と称して自らの側近や国の幹部として据えている。
先ほど言った皇太子もその中の一人だろう」
「他の人間は?」
「……わからん。ただ、七本とヴェニア帝が称しているだけで、その中の誰が誰、という情報は隠されている。
現段階で解っているのは、皇太子とその側近と思われる男の二人だけだ」
「で、人材が揃って来て、境界線も押しやられて。
これじゃあ、ピンチだから早々に和解してしまおう、ってのが思惑ってわけね」
「それは……ッ!」
「疑われても致し方の無いことだ」
再び肩を怒らせる少年を押し止め、彼女は深々と頭を下げる。
「しかし、シェイリーン様はけして悪意から、貴殿らを迎えようとしているわけではない。我らの目的はあくまで和平。
それに、エイロネイアが何を企んでいるのかは解らないが、貴方方を奴らの手にかけるわけにはいかない。
頼む。ここは、奴らに対して手を組む策だと思って、私たちと共にシンシアに来て欲しい」
はっ、と我に返った少年も、またその隣で頭を下げる。
カノンは眉根を寄せた。
……奴らが、あの黒衣の少年が、エイロネイアの刺客だとしたら―――
カノンたちは文字通り、一国というとんでもないものを相手にしていることになる。それは解るが、何故、自分たちに固執するのか。
その目的が判然としない。
いや、そもそもエイロネイアの刺客だ、という保証は無い。
シンシアの中将を名乗る、この女性がそうだと言っているに過ぎない。シンシアの紋とシェイリーン直々の書状は見せてもらったものの、これそれ自体が罠という可能性も―――
さて、どう転ぶべきか。
腕を組み、渋い表情でカノンが口を開きかけたとき―――
「悪いが、断る」
きっぱりと、傍らから拒絶の返答が漏れた。
驚いて澄んだ声を吐いた本人を見上げるが、そこにはいつも通りの鉄面皮があるだけだ。
「事情の程は察し出来なくもない。だが、そんな曖昧な理由で易々、戦争に参加表明などする気はない。
奴らの正体もはっきりしていない今、そんな申し出を受ける理由は何もない」
「……どうしても、か」
「……」
ラーシャは下げた頭から、上目遣いにレンを見上げる。しかし、その表情が変わらないのを見て取ると、陰鬱な溜め息を一つ、吐いた。
冷えた沈黙が、その場を支配する。
彼女にとって、その返答は、予想の範疇だったのだろう。
あまりにも、一方的な申し出だというのは、誰の目にも明らかなのだから。
「……解った。
元より、無理な申し出だということは重々承知していた。
好き好んで、他国の戦争に加わろうという人間は、いないだろうからな……」
それは、任務を果せなかった悔しさなのだろうか。やや俯いて、肩を落している。
「……それは解った。だが、私は奴らの目的を調査しなくてはならない。
他に大陸での任務もあるので、常に、というわけにはいかないが……
奴らが手を引くまで、度々貴殿らの護衛を勤めさせて頂きたい。奴らの目的をはっきりさせるためにも」
「……どうせ、断っても関わって来るんでしょーね」
「……すまない。任務なのだ」
ラーシャは苦い表情で、頭を下げた。自ら頭の下げられる人間は嫌いではない。きっと、彼女は根から生真面目で、まっすぐな性格なのだろう。
このような、他力本願で押し付けがましい任務はきっと好きではないはずだ。
彼女の言うことをすべて鵜呑みにするわけにはいかないが、いざというとき、手が増えるのはそう悪いことでもない。
沈黙が下りるのを見計らい、彼女はすっ、と立ち上がる。
「……私たちはしばらく、この町に滞在するつもりでいる。気が変わることがあったら、訪ねて来て欲しい」
「……期待はするな」
レンは宿屋の名だけを告げて、部屋を後にしようとする彼女らに、短くそれだけ声をかけた。
ラーシャはふ、とどこか寂しげに微笑んで、軽く会釈のように頭を下げる。少年もそれに習い、足取り重く、居た堪れない表情で部屋を出て行った。
二人の足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなるのを待って、カノンはレンのマントを引く。
「……不服か?」
そう問いかけられて、元より、そんな理由で戦争ごっこに関わろうなんてごめんだ、と考えていたカノンは、首を横に振った。
しかし、背中に駆け抜けた、冷たい予感だけは拭えずに。
結局は、掴んだマントの端を、離す気にはなれなかった。
「ラーシャ様……」
「解っていたことだ。あまりに一方的な頼みであったからな」
暗い石畳を踏みしめながら、わずかに唇を噛んでラーシャは不満げな従者を窘める。
夜明はまだ遠い。周囲の店や家からは明かりが消えて、彼らの行く先を照らすのは心許な魔道灯と、丸い月の光だけだった。 ラーシャは溜め息を吐く。
元々、無理な頼みだったのだ、と消沈する自分に言い聞かせる。
実際、おそらく失敗するだろうとは思っていた。いくら、エイロネイアが彼らを何らかの形で利用しようとしているにしろ、それはシンシアに味方する理由になりはしない。
彼らにとって一番、安全な道は、ゼルゼイルなどとは一切、関わり合いにならない道なのだから。
「私たちがしなければならないことは、彼らの協力を得ることではなく、奴らの手が彼らに及ばぬよう、一刻も早く奴らを捕らえることだ」
「そう、ですね……」
「そりゃあ、またご立派なことで」
「!」
思っても無い声が、街灯の下から響いた。
デルタが真っ先に顔を上げて、目を剥く。かつッ、とブーツの踵を鳴らし、一本の街灯に寄りかかり立っていた彼女は彼らの正面に立った。
月光に、髪に付けられた赤石と三枚の羽が揺れる。何故か、そのうちの一本は鴉の濡れ羽のように黒く照らされていた。
「貴女は……」
「そーいや、名乗ってないわね。ルナよ。自分で言うのも何だけど、結構、帝国では名の知れた魔道師のつもり」
腰に手を当てて、まるで仁王立ちのように胸を張り、言い放つ。
ラーシャは不可思議なものを見たように、目を細めた。
「何故、ここに……」
「そりゃあ、先回りして来たし」
「いや、そういうことではなくて」
「ま、そうでしょうね」
からからと笑う姿は、一体何を考えているのか。先ほどのことが尾を引いているのだろう、デルタは警戒するように一歩、彼女から距離を取っている。
「ごめんね。個人的にも、あの娘らを戦争になんてやりたくないし……
レンのことも、許してやって欲しい」
「いや、許すも何もない。こちらからの一方的な、押し付けであることは否定出来ない。
あそこまで迷い無く、正面切って断られたのには驚いたが、逆に妙な期待を抱かない分、すっきりしたかもな」
「……あいつは、さ。絶対、もう人殺しなんかさせたくない子が、いるから」
幾分、表情を穏やかに緩ませて、ルナが言う。
その意図を、ラーシャはすぐに理解した。
「……そうか」
「戦争、ってのは、どうオブラートに包んだって、そういうもんでしょ?」
「そうだな。私とて、何人この手で殺めてきたのか―――
それでも……
……いや、こんなものは余計な話だな」
ラーシャは軽く頭を振る。瞑目して、軍官らしく胸を張ると、
「して、私に何か用か?」
「ええ、まあね。――― 一つ、聞きたいんだけど。
あいつらが、エイロネイアの使者だって話は、本当なの?」
居住まいを正し、表情を引き締めて、些か睨むような目でルナは問う。ラーシャは一瞬、迷ってから言葉を選ぶ。
「……断定することは出来ない。が、エイロネイアが第三革命者を狙い、何かを企んでいることは密偵の情報からも明らかだ。目的は不明だが」
「……」
ルナは顎に指を押し当てる。緑青色の目を閉じて、何か葛藤するように眉根に皺を寄せる。
「按ずることはない。貴女の仲間の身は我ら、シンシアがお守りする。
だから……」
「誰がそんなことを気にしてる、って言った?」
「・・・?」
顔を上げた彼女の、あまりに挑戦的な瞳に、ラーシャは面食らう。彼女は口元に笑みさえ浮かべ、腕を組み、
「確かに、あたしはカノンたちの仲間。
でもね、そうそうお互いに行動を制限されてるわけじゃないの」
「しかし……」
彼女の言わんとしている言葉を察し、ラーシャは言い澱む。だが、それと反してルナはつかつかと彼女に歩み寄り、意志の強そうな、蒼い瞳を真正面から見据えた。
「――聞かせて頂戴。シンシアと、あいつらのことについて」
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「うッ、っつぅ……!」
たまらずにアルティオは赤い柄を手放した。手の平が焼け石に触れたように熱い。
しゅうしゅうと細い煙が、握った手から上がる。シリアが慌てて駆け寄って、それを開かせ、顔を顰めてから治療呪文を口にする。
少年は。
畳み掛けようとするレンから跳び退る。
その右肩には、今だ一振りの剣が突き刺さったままだった。
「っ、く……ッ!」
躊躇いもなく、少年は赤い剣の柄を握る。歯を食い縛りながらそれを肩から引き抜いた。
「……」
常人なら激痛を伴うそれを、少年は僅かによろめくだけでやってのけた。がらん、と剣が石の床に落ちた。
少年の身体が傾ぐ。
「主様ッ!」
「れ……くそッ! 大丈夫かッ!?」
いつの間に移動したのか、少女が彼の身体を支える。薄炎色の髪の少年は、気合を込めて上段に蹴りを放つ。引いたカノンの隙をついて、そちらに駆け寄った。
彼がふらついたのは一瞬で、すぐに身体を持ち上げると右肩を抑えて小さく呻く。
身体を貫いたはずなのに、確かに手応えはあったというのに、何故かその肩から赤い体液は噴き出さずに、辺りの闇と黒衣に紛れて傷口さえ確認出来ない。
「やって、くれたね……。まさか『月陽剣』を握るとは思わなかった」
柄を握った手を抑えながら膝をつくアルティオに、彼は笑みを浮かべる。
そうして頭上の青い剣を、転がった足元の赤い剣を、交互に眺め、そして立ち尽くした魔道師へちらりと視線を送る。
「……まあ、いいさ。それはもう、必要ないらしい。回収の必要はない、とのことだ」
「はぁッ? 何だ、それッ! 俺ら、何のために……ッ」
「エノ」
「……」
窘められて、赤毛の少年はくそッ! と呟いて沈黙した。
少女が一歩、前に出る。カノンたちは各々、構えるが、少女はただ静かに瞼を閉じた。
その足元から、黒い霧がゆっくりと立ち上る。それは、いつか見た光景だった。
「くっそ、待てッ!! 逃げんのかよッ!」
「アルティオッ!!」
傷口を放って駆け出そうとするアルティオの腕を、シリアが無理矢理に引く。
解っている。
手の平が使い物にならないくらい。
ただの悪あがきだということくらい。
そんなに無鉄砲じゃない。
けれど、
「……それでは、ごきげんよう」
霧の向こうに消えていく、漆黒の、白い薄笑いがどうしても許せない。
やがてすべてが消えた後、がくり、と彼は膝をついて、逆の拳を無言で床へ叩き付けた。
「アルティオ……」
「畜生……許さねぇ……! あの野郎、絶対、絶対に許さねぇ……ッ!」
小さな、慟哭交じりの誓約が、物悲しく耳を打つ。
乾いた視線の向こうに、数多の命を飲み込んだ、呪われた赤い光を灯す剣が、力なく転がっていた。
それからは、目まぐるしかった。
町に在住しているウィルトン伯を通じて、はたまたルナが呼んでいた政団と憲兵が、次々と訪れて事情聴取と現場検証を行った。
最も、そんなものは意味を成さないくらい、フェルス医師の罪状は明らかだったのだが。
しかし、結局、あの黒衣の少年が絡んでいたという証拠が挙がることはなく、事件はフェルスの独断と暴走という形で収まったようだった。
……収まったようだ、というのは他でもない。
現場検証と、事実の認証は偉い方に任せて、カノンたちは早々に町を去ったからだった。
街中では評判の良かったフェルスを殺した、と見られているのだ。それが正当防衛だったとしてもいい目で見られるわけはない……。
……というのは、もしかしたら、ただの表向きの理由かもしれない。
こんこん。
「あー、どうぞ」
間延びした、しかしどこか覇気に欠ける声を確認して、カノンはノブを捻った。
あれから一週間。
ランカース・フィルからは大分、離れた比較的大きな、治安もそこそこの町に彼らはいた。
「……アルティオ、入るからね」
「ああ」
部屋の中にはランプさえ灯っていなかった。
カノンは、再度溜め息を漏らして手探りでランプを探し出して、ねじを捻り、火を灯す。
獣脂の焼ける匂いが立ち込めた。
ぼんやりとした明かりの中で、ぐったりと、手を付きベッドに座り込む力の無い背中が見えた。
カーテンから漏れてくる月の光を、魂が抜けたかのように眺めている。
折れた剣を視界に入れて、カノンは軽く首を振り、肩に担いでいた大きな荷物を床に置く。
がらがらんッ、と結構な音が響いた。
「……あんたの新しい剣よ」
「……」
それにも、彼は無言のままだった。
カノンは仕方無く剣の袋を開け放ち、彼の座るベッドの脇にそれを転がした。
「……『月陽剣』」
「ッ!!」
ばっ、とアルティオは目を剥いて振り返る。幾分、痩せたように見えるその眼前に、カノンは一つの指輪を突きつける。
赤い、古風な装飾の、見覚えのある指輪。
「そりゃ……」
「ステイシアが付けていたものよ」
カノンは床に投げ出された二振りの、青赤の剣に視線を落とす。
「……本当は政団に没収されてるところなんだけど。盗品だ、って言ってルナが取ってきて修理したの。
……魔道具、ってのはね。人間が使えないと意味無いの。
もともとこの剣は、青の剣―――月の剣は軽度の癒しの力を持っていて、赤の剣―――陽の剣は人間の潜在する能力を高める作用をするものだったそうよ。
ただ、それだけの剣。
それが、無理矢理に人間の範疇を超えるくらいに異常な能力を持たされたから、異常な対価が必要になって……
呪われた剣になった」
カノンは二振りの剣を拾い上げる。だが、その手の平が焼けるようなことはない。
「……人の血と魂を吸ったせいで、元のものより強力にはなっているそうだけど。
人の使えるぎりぎりの数値まで、能力を落としたそうよ。それでも、使えば使用者の疲労は大きいから、その疲労の抑制装置に、この指輪を造り変えた、って。
詳しくは解らない。あんたに使う気があるなら、ちゃんと説明してやる、って言ってた」
カノンはアルティオに指輪を手渡す。以前より、格段に輪が広まって、アルティオの無骨な指にも嵌る大きさになっている。
僅かに震える拳と、噛み締められた唇に、カノンはさらに問う。
「……十分、落ち込んだ?」
「……」
「この剣は確かに、あの娘の命を奪ったかもしれないわ。けどね、同時に、生まれ変わって一年を生きたあの娘の唯一の形見よ。
―――捨てるか、それとも二度と紛い目的のために使われないよう、あんたが守り続けるか。
アルティオ。
あたしだって、性急できついこと言ってるのは解ってるの。普通なら、あたしたちはあんたの気が済むまで、あんたが立ち直るのを待ってやってたっていい。けど、相手は待っちゃくれないの。
……あんたが、許せない、って言った言葉。あれは、あたしだって同じ。
でも、いざってときにあんたが戦う力を持ってなかったら―――」
押し殺し、隠した言葉がアルティオの鼓膜を打つ。痛いほど、彼女の、いや彼女たちの仲間としての情が、理解出来る。
しなければならないことなど知っていた。
彼は、ただ後押しが欲しいだけなのだ。
アルティオは、一つ、息を吐き出して。
指輪を、握った。その手の平が、熱く痛む。金の髪の、あの、小さな少女の華やかな笑顔が、一週間も前のことだと思えないほど、鮮明に瞼に浮かび―――
消した。
いつでも、思い出せるよう。
忘れないように、今は忘れた。
「……ごめんな」
「?」
「オレって奴はよ。ほんっとうにどうしようもないな。好きな女に二回も嫌なこと言わせちまった」
空笑いが漏れた。これじゃますます嫌われちまう、と、かすかに微笑んで、しかし一抹の怒りと決意とを滲ませて、顔を上げる。
填めた指輪は、初めて手にしたものではないかのように、しっくりと無骨な傷だらけの指に収まった。
「……あんたのいいところは、何があっても豪快に笑い飛ばせる馬鹿さ加減ね。だから、ステイシアもあんたを選んだのかもしれないわ」
「……そうだったら、良いな」
アルティオが二つの剣の柄を握る。月光に翳された剣は、鋭く、その淡い光を弾き返した。
カノンは僅かに微笑んで、背を向けようとした。その背に、アルティオはふと思いついて声をかける。
「……なあ、カノン」
「何?」
「ネリネ、って知ってるか?」
「ネリネ、って……あの、花の?」
柄を握り、その筋から視線を外さないまま、アルティオは頷く。
「ああ、そいつの……花言葉、って知らねぇか?」
「……それは…」
「………あの娘がさ、言ってたんだよ。また、あの町に来ることがあったら教えてくれるって。
街の、郊外の花壇にいっぱいに咲いててな。夕方、いっちばん綺麗な眺めだとか言って、連れてってくれてさ。
花も、葉っぱも、………可愛くてな。すごく、綺麗だったんだ。」
「……」
「もう、……聞けねぇからな」
寂しげな声が、部屋の中に響く。カノンは逡巡して―――
その迷いを見て取ったのか。
「……頼む、カノン」
奥歯を、噛み締める。
しばし、瞑目して、そして極端的に、その言葉を口にして―――
カノンは、部屋を出た。
残されたアルティオは、その言葉を確かめるように二度、口にして……
彼女の魂が込められた剣を、振りかざして、たった一言だけ、呟いた。
「……そっ、か」
ネリネ―――
彼岸花科。学名 Nerine sarniensis Nerine : ネリネ属。
別名は『ダイヤモンドリリー』反った花弁に光が当たると、まるでダイヤモンドのように美しく輝く淡い桃色の花―――。
花言葉―――『華やか』、『幸せな思い出』、『箱入り娘』……
―――『また会う日まで』
「……あ」
アルティオの部屋を出て、しばらく。暗い廊下を過ぎて、窓枠に寄りかかっていた長身の人影に、カノンは足を止める。
「レン……」
「アルティオは落ち着いたか」
「うん、大分。もう大丈夫そう」
背を離し、彼はこちらへと向き直る。表情には、やや疲労の色があった。彼のことだ、ここ数日、眠っている間も気を抜かずに、神経を研ぎ澄ませていたに違いない。
「……アルティオがあそこまで落ち込んでるの、初めて見た」
「昔から切り替えは悪くない男だ。一度、すべきことを理解すれば、後は大丈夫だろう」
知らない人間が聞けば、冷たい科白に聞こえるかもしれない。けれど事実は逆。レンはアルティオの兄弟弟子だ。良くも悪くも、お互いの性格は知っている。
「それよりも……お前の方は平気なのか?」
「へ?」
まさか水を向けられるとは思っていなかった。カノンは首を傾げて彼を見上げる。
「何で?」
「また気ばかり焦らせて、かりかりしているように見えたのでな」
「……」
押し黙った沈黙が、返答だった。
「ちょっと……気は立ってる、かな……」
「……」
「……アルティオは、さ。別に狙われてるわけでもないのよ? ただの興味本位であたしたちに付いて来ただけよ。こんな思いする理由なんて何も……何もないじゃない。……ステイシアだって」
「言うな」
「けど……ッ!」
「甲斐の無いことだ。誰のせいでもない、強いて言うならお前に付いて来た、あいつ自身の責だ。
お前が下らんことで自分を責めても、喜ぶような馬鹿はいない。
奴らがフェルス医師に与するのをお前は止められたか? ステイシアが歪んだ形で蘇るのを止められたのか?
……いずれ来る結末が、些か歪曲してしまった、ただそれだけのことだ」
「それだけ、って……ッ!」
「少しは落ち着けッ」
「解ってる……ッ! そんなの…言われなくたって解ってるの………ッ!」
吐き出した言葉から、力が抜けていく。俯いた彼女の金の頭を、数度、ゆっくりと撫でる。すん、と鼻の鳴る声がした。
「…………し」
「……?」
「………あたし、やっぱり、何処に行っても、疫病神なんだね……」
「……」
ぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟かれた言葉は、しっかりとレンの耳を打っていた。
カノンの母であるマイン=ティルザードは、偉大な狩人だった。ただそれだけのことに過敏に反応する人間は、けして少なくはなく、良くも悪くも彼女の周囲には人が集まった。当然、それは善人ばかりではない。
彼女にそんな気はないというのに。なまじ、母親に勝るとも劣らない戦のセンスを備えていたために、期待と畏怖とが付き纏う。
……狩人という任から解き放たれたはずの、今でもなお、そうだというのだろうか。
「?」
レンは、俯いたままのカノンの肩を叩く。
「ちょうど眠れずにいたところだ。夜風にでも当たる。……付き合え」
浮かんでいたのは満月だった。
気配を紛らわすのには向かないが、夜の散歩にはちょうど良い。
つい、二週間前もこうして散歩をした気がする。あのときは一人で、酷い目にあったものだけれど。
……もし、あのとき―――出歩いたりしていなければ。
いや、どうにしろ、奴らはカノンを誘い出していただろう。下らないことを考えるな。今は、考えても致し方のないことだ。
散歩と言っても、そう遠くまで行くわけにはいかない。せいぜいが、宿屋の裏手にある井戸端で涼む程度だ。
「……寒いか?」
「ううん、平気」
石積みの井戸に寄りかかりながら、カノンは答える。
「けど、何か久しぶりね」
「……? 何が、だ?」
「こうして二人だけでいるの。
だってさ、ここ最近ずっと皆いたし。二人でいるのなんか、なかなかなかったじゃない?
まあ、病院で看病はしてもらったけどさ」
「普段より騒がしさが三倍以上だ。全く、敵わん」
「ちょっと、あたし今の騒がしさの三分の一を担ってんのッ?」
「以上と言っただろう。それ以上だな」
「ちょ、それだけは納得いかないわよッ!!」
いつもの暴言に、突っかかろうとして。
振り上げた拳を止めて、小さく噴き出す。ゆっくりと、肩の力を抜く。
「……落ち着いたか?」
「……ん。ごめん、ありがと…」
井戸に寄りかかる彼女の隣に背を預けながら、レンは溜め息を吐く。剥き出しの腕にかかったマントを掴んでほんの少しだけ寄る。
「……寒いなら素直に言え」
「へへ」
外されたマントを手繰って包まる。ほんの少しの埃と、甘い汗の匂いがした。
「……カノン」
「うん」
「お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな」
「……うん」
「だがそれ以上に、」
輝く満月をぼんやりと眺めながら、彼は口にする。
「……救われた人間も、町もある」
「………うん」
「それを、忘れるな」
「……うん、ごめん」
深呼吸をする。少し肌に寒い、冷たい空気が火照った身体を程好く冷してくれる。
肩にかかった群青のマントが、泣きたいほどに温かい。
大丈夫、この温もりがあればまだ立っていられる。前に進める。
「……もう平気、ありがと」
「……」
吐き出した息は安堵を含んでいた。
「レン」
「何だ?」
「……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?」
「……」
「あ、ぅ、め、迷惑とかじゃなくてさ……。でも、せっかく狩人辞めたんだし。
レンだって他にやりたいこととか、腰を落ち着けるとか……その、したいこともあるんじゃないかなー、って。
だったら、いつまでもあたしの我侭につき合わせてるわけにいかないし……
こういう状況だから、今は一緒にいた方がいいんだろうけど……」
「……」
視線を上げたレンが、何を逡巡しているのかは解らない。口を開かない彼に、些か不安を覚えて一歩踏み出そうとしたとき、
すっ、とカノンも、レンも、表情を引き締める。
闇夜を割いた白い小さな影。二人は左右に分かれて跳ぶ。
どむッ!!
張り付いた護符が井戸の端を打ち砕く。カノンはマントを放り出し、腰の剣を抜く。レンもまた、背中の剣を引き抜いた。
「くすッ……邪魔したようだね。申し訳ない」
「ッ!」
ひらひらと片手で護符を弄びながら、宿屋の屋根に腰掛ける、漆黒の影。
はっ、としてその手を凝視するが、右肩のダメージは既にないように見える。きりッ―――奥歯の噛み締める音が、耳の奥に響く。
「あんた……ッ! 一体、何のつもりなのよッ!?」
「さて、話す必要があるとも思えませんが」
暗い影が、すっ、と立ち上がる。くすくすと響く小さな笑い。
そこへ、
「シルフィードッ!」
「!」
ドンッ!!
澄んだ。
ややトーンの高い、声が不穏な空気を切り裂いた。
少年が、砕けた屋根の端から跳び退る。銀の閃光は、宿屋の表――― 一ブロックのストリートから放たれた。
聞き覚えのない声だ。
少年はそちらに視線を落す。
「あんたは……」
「……」
そこには、両手を突き出し、険しい表情で屋根の上の影を睨みつける少年が佇んでいた。
歳は十五か、もっと低いか。背はあまり高くない。淡い緑がかった銀の髪を長く伸ばし、前髪を長いバンダナで束ねている。
法師の纏うような、ゆったりとした青紫の神衣を纏い、同じ色の瞳を吊り上げていた。
「……そこの者。エイロネイアの刺客ならば大人しく投降しなさい」
「………シンシアか」
ぼそり、と影が呟く。
たったったっ、と石畳を駆ける足音。影はそちらに目をやって、
「―――?」
カノンは、彼に―――漆黒の少年の表情に、動揺が走るのを初めて見た。アルティオが月陽剣を握ったときでさえ、驚嘆しただけで、動揺など微塵も見せなかったというのに。
「……」
影の少年は、そのまま無言で跳ぶ。
後方へ。
「待てッ!」
「追わなくて良い、デルタ」
かつッ
ストリートの石畳を踏んで、彼の後ろからまた一つ人影が現れる。月光に照らされた、その人は女性だった。
意志の強そうな蒼い瞳、柔らかな、肩まで伸ばした髪は栗色。
どこかの将校を髣髴とさせる衣装だが、決定的に違うのは一般的に軍部では高位を表す白のコートと、鷲の十字をあしらった紋章は、明らかに帝国のそれとは違う。
カノンの背を、嫌な予感がすり抜ける。
放り出してしまったマントを拾い上げると、即座に脇から手が伸びてそれを攫った。
元のようにマントを身につけながら、レンは彼らを凝視する。きっと、渋い表情に感じている予感は同じものだ。
「ラーシャ様、良いのですか?」
「良いのだ。我らの任務は刺客を片付けることではない」
ラーシャ、と呼ばれた女性はこちらを振り返る。女性にしてはやや背が高い方だろう。ぴし、と背を伸ばすと歳不相応の風格が、凛とした雰囲気に加わる。
「……お怪我は……ないようだな。何より」
「……」
「失礼。カノン=ティルザード様、レン=フィティルアーグ様、両名で宜しいか?」
一瞬、返答に迷う。
横目で目配せをするが、彼自身も諮りかねているようだった。敵の敵は、味方とは限らない。
その内に、沈黙を答えと見なしたのか、彼女は鷹揚に一つ、頷き、深々と頭を下げた。
「……第三革命を起こし、今在る政団を改革されたお噂は、耳に入れている」
「―――!」
確かに―――。
かつて、カノンとレンは、死術によって暴走しかけた政団の長を、数多の死術と共に闇に葬ったことがある。その事件は、忌々しく、記憶に新しい―――。
だが、あれは革命を起こした、というよりは戦場で生き残った、と言う方が正しい。
それに―――。
―――あの件は、公式には、伏せられてるはずなのに……ッ!
「あんたたち……一体、何者?」
すると彼女は面を上げる。背筋を伸ばし、最上礼の構えを取った。傍らの少年もそれに習う。
そして。
彼女は敬礼を崩さないまま、言った。
「私はゼルゼイル北王都ゼルフィリッシュより参った、シンシア王国中将ラーシャ=フィロ=ソルト。
こちらは従者であり、本軍で少尉の任に当たるデルタ=カーマイン。
……貴方方のご高名を聞き、一つ、お願いを申し上げに参った次第であります―――」
―――さて、また何やら面倒な事態になって来た―――。
かつッ……
闇色の少年は、足を止めた。どこの町にも一つはある、光の届かない廃墟の中だと、その姿は増して闇夜に溶けて見えなくなる。
壊れた壁の隙間から漏れる光だけが、少年の視界を支えていた。
廃墟となる前は、少々、小洒落た邸宅だったのだろう。上流階級、とは言わないが、極普通の中流家庭の住まいよりは些か豪華な間取りだ。埃に塗れ、ひび割れた家具にもそえなりの装飾が見て取れる。
ふと、人の気配を感じた。
部屋―――恐らくはリビングだろう、一番大きな部屋の深奥に陣取るソファを振り返る。
瞬間。
かしゃんッ!!
唐突に飛来した脆いワイングラスが、コートの裾に叩き落とされて床に張り付いた絨毯の上に破片となって散らばる。
踏み出すとアルコールの立ち上る、赤い液体が跳ねた。
「てっめぇ、何すんだッ!」
「エノ」
駆け寄って来ようとしていたエノの大声を窘める。
払ったと同時に、手の甲に突き刺さった透明な破片を、素知らぬ振りで抜く。転がすとかしゃん、と小さな破砕音が響いた。
こっそりと溜め息をついて、グラスの飛んできた方向を見やる。
「……随分と、乱暴な出迎えだね」
そこに座っていた"彼"は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、サイドテーブルに乗せられた新しいグラスに赤い酒を注ぐ。
つかつか、と靴音を鳴らして近づいた少年は、彼の手から深緑色の瓶を奪うと、空いていたグラスに三分の一程度注ぐ。
「……機嫌が悪いようで何より」
「人のことを言えた義理か。何だ、いつもの澄ました顔はどうしたよ。シケた面しやがって」
「この顔は元からだよ」
一方的にグラスを合わせ鳴らすと、少年は一気に煽る。彼はゆっくりグラスに口をつけた。
「……で、そっちは上手くやったんだろうな?」
「上々、だね。まあ、計算外のこともいくつかあったけれど。問題外だ」
二杯目をグラスへ、なみなみと注いだところで瓶をひったくたれた。渋ったりはせずに、返還する。
今度はちびちびと、グラスの端に口を付けながら、
「けれど、あの剣は惜しかったんじゃない? 本当に放置で良かったの?」
「あんなもんはただのプロトタイプだ。データが取れりゃ、後は廃棄物さ」
「でも、二つとも彼らの手に渡ったみたいだけど?」
「それこそ性能を測るのにはちょうど良い。憂うようなことじゃねぇ」
「……君は相変わらず、だね」
再び、彼は鼻を鳴らし、グラスの中身を一気に飲み干した。
「……それで。余計な手は出してねぇだろうな?」
「勿論。出したとしても、僕の一言で転ぶような人でもないだろう?
―――さあ、約束通り、トリは任せるよ……。後は焼くなり煮るなり。契約に反しない限りに」
うっすらと。
月明かりに、彼の薄い唇が吊りあがる。
きんッ!!
澄んだ金属音が響く。咄嗟に引いた鼻先の向こうで、がしゃんッ! と派手な音を立てて瓶が割れ、赤い内の体液を撒き散らす。
破片が月光に煌いて、その中の一際大きな欠片が、細身のナイフに貫かれて床に落ちる。
床に突き刺さったナイフが、妖しげに光る。
ああ、ちょっとだけ勿体無い。
「………感謝してるぜ、あんたにはよ……。
これだけの舞台なら不足はねぇさ……。存分にやらせてもらう。くっ、くくくくく……」
堪えきれない笑いが、喉の奥から漏れる。少年はそれを眺めて頷いた。
「ええ、ご自由に」
かつんッ!
響いた靴音が、廃墟の廊下に消えていく。不満げな表情を浮かべる傍らの従者に、軽く顎で合図する。
憮然としたまま、重い足取りだったが、その後を追っていく。
少年は身を翻して、今しがた彼の腰掛けていたソファに座る。ふぅ、と陰鬱に近い溜め息を漏らした後、ふと頭上を見上げる。
朽ちた天井に、砕けた梁が引っかかっている。砕けた瓦の向こう側、ぽっかりとそこだけ穴が開いていて、切り取られた空を眺めることが出来た。
「……ああ、通りで機嫌が悪いわけだ」
天上に、真円の月を認め、少年はくすり、と笑う。
「今日は、満月だったね」
ワインの苦く、渋い風味が、口の中に広がる。ゆっくりと視線を逸らす。
「……まったく、彼も可哀相な人間だ」
少年の視線の先で。
零れた雫に突きたったナイフが、その赤い水面に移る揺らいだ満月を、深く、貫いていた……
←11へ
たまらずにアルティオは赤い柄を手放した。手の平が焼け石に触れたように熱い。
しゅうしゅうと細い煙が、握った手から上がる。シリアが慌てて駆け寄って、それを開かせ、顔を顰めてから治療呪文を口にする。
少年は。
畳み掛けようとするレンから跳び退る。
その右肩には、今だ一振りの剣が突き刺さったままだった。
「っ、く……ッ!」
躊躇いもなく、少年は赤い剣の柄を握る。歯を食い縛りながらそれを肩から引き抜いた。
「……」
常人なら激痛を伴うそれを、少年は僅かによろめくだけでやってのけた。がらん、と剣が石の床に落ちた。
少年の身体が傾ぐ。
「主様ッ!」
「れ……くそッ! 大丈夫かッ!?」
いつの間に移動したのか、少女が彼の身体を支える。薄炎色の髪の少年は、気合を込めて上段に蹴りを放つ。引いたカノンの隙をついて、そちらに駆け寄った。
彼がふらついたのは一瞬で、すぐに身体を持ち上げると右肩を抑えて小さく呻く。
身体を貫いたはずなのに、確かに手応えはあったというのに、何故かその肩から赤い体液は噴き出さずに、辺りの闇と黒衣に紛れて傷口さえ確認出来ない。
「やって、くれたね……。まさか『月陽剣』を握るとは思わなかった」
柄を握った手を抑えながら膝をつくアルティオに、彼は笑みを浮かべる。
そうして頭上の青い剣を、転がった足元の赤い剣を、交互に眺め、そして立ち尽くした魔道師へちらりと視線を送る。
「……まあ、いいさ。それはもう、必要ないらしい。回収の必要はない、とのことだ」
「はぁッ? 何だ、それッ! 俺ら、何のために……ッ」
「エノ」
「……」
窘められて、赤毛の少年はくそッ! と呟いて沈黙した。
少女が一歩、前に出る。カノンたちは各々、構えるが、少女はただ静かに瞼を閉じた。
その足元から、黒い霧がゆっくりと立ち上る。それは、いつか見た光景だった。
「くっそ、待てッ!! 逃げんのかよッ!」
「アルティオッ!!」
傷口を放って駆け出そうとするアルティオの腕を、シリアが無理矢理に引く。
解っている。
手の平が使い物にならないくらい。
ただの悪あがきだということくらい。
そんなに無鉄砲じゃない。
けれど、
「……それでは、ごきげんよう」
霧の向こうに消えていく、漆黒の、白い薄笑いがどうしても許せない。
やがてすべてが消えた後、がくり、と彼は膝をついて、逆の拳を無言で床へ叩き付けた。
「アルティオ……」
「畜生……許さねぇ……! あの野郎、絶対、絶対に許さねぇ……ッ!」
小さな、慟哭交じりの誓約が、物悲しく耳を打つ。
乾いた視線の向こうに、数多の命を飲み込んだ、呪われた赤い光を灯す剣が、力なく転がっていた。
それからは、目まぐるしかった。
町に在住しているウィルトン伯を通じて、はたまたルナが呼んでいた政団と憲兵が、次々と訪れて事情聴取と現場検証を行った。
最も、そんなものは意味を成さないくらい、フェルス医師の罪状は明らかだったのだが。
しかし、結局、あの黒衣の少年が絡んでいたという証拠が挙がることはなく、事件はフェルスの独断と暴走という形で収まったようだった。
……収まったようだ、というのは他でもない。
現場検証と、事実の認証は偉い方に任せて、カノンたちは早々に町を去ったからだった。
街中では評判の良かったフェルスを殺した、と見られているのだ。それが正当防衛だったとしてもいい目で見られるわけはない……。
……というのは、もしかしたら、ただの表向きの理由かもしれない。
こんこん。
「あー、どうぞ」
間延びした、しかしどこか覇気に欠ける声を確認して、カノンはノブを捻った。
あれから一週間。
ランカース・フィルからは大分、離れた比較的大きな、治安もそこそこの町に彼らはいた。
「……アルティオ、入るからね」
「ああ」
部屋の中にはランプさえ灯っていなかった。
カノンは、再度溜め息を漏らして手探りでランプを探し出して、ねじを捻り、火を灯す。
獣脂の焼ける匂いが立ち込めた。
ぼんやりとした明かりの中で、ぐったりと、手を付きベッドに座り込む力の無い背中が見えた。
カーテンから漏れてくる月の光を、魂が抜けたかのように眺めている。
折れた剣を視界に入れて、カノンは軽く首を振り、肩に担いでいた大きな荷物を床に置く。
がらがらんッ、と結構な音が響いた。
「……あんたの新しい剣よ」
「……」
それにも、彼は無言のままだった。
カノンは仕方無く剣の袋を開け放ち、彼の座るベッドの脇にそれを転がした。
「……『月陽剣』」
「ッ!!」
ばっ、とアルティオは目を剥いて振り返る。幾分、痩せたように見えるその眼前に、カノンは一つの指輪を突きつける。
赤い、古風な装飾の、見覚えのある指輪。
「そりゃ……」
「ステイシアが付けていたものよ」
カノンは床に投げ出された二振りの、青赤の剣に視線を落とす。
「……本当は政団に没収されてるところなんだけど。盗品だ、って言ってルナが取ってきて修理したの。
……魔道具、ってのはね。人間が使えないと意味無いの。
もともとこの剣は、青の剣―――月の剣は軽度の癒しの力を持っていて、赤の剣―――陽の剣は人間の潜在する能力を高める作用をするものだったそうよ。
ただ、それだけの剣。
それが、無理矢理に人間の範疇を超えるくらいに異常な能力を持たされたから、異常な対価が必要になって……
呪われた剣になった」
カノンは二振りの剣を拾い上げる。だが、その手の平が焼けるようなことはない。
「……人の血と魂を吸ったせいで、元のものより強力にはなっているそうだけど。
人の使えるぎりぎりの数値まで、能力を落としたそうよ。それでも、使えば使用者の疲労は大きいから、その疲労の抑制装置に、この指輪を造り変えた、って。
詳しくは解らない。あんたに使う気があるなら、ちゃんと説明してやる、って言ってた」
カノンはアルティオに指輪を手渡す。以前より、格段に輪が広まって、アルティオの無骨な指にも嵌る大きさになっている。
僅かに震える拳と、噛み締められた唇に、カノンはさらに問う。
「……十分、落ち込んだ?」
「……」
「この剣は確かに、あの娘の命を奪ったかもしれないわ。けどね、同時に、生まれ変わって一年を生きたあの娘の唯一の形見よ。
―――捨てるか、それとも二度と紛い目的のために使われないよう、あんたが守り続けるか。
アルティオ。
あたしだって、性急できついこと言ってるのは解ってるの。普通なら、あたしたちはあんたの気が済むまで、あんたが立ち直るのを待ってやってたっていい。けど、相手は待っちゃくれないの。
……あんたが、許せない、って言った言葉。あれは、あたしだって同じ。
でも、いざってときにあんたが戦う力を持ってなかったら―――」
押し殺し、隠した言葉がアルティオの鼓膜を打つ。痛いほど、彼女の、いや彼女たちの仲間としての情が、理解出来る。
しなければならないことなど知っていた。
彼は、ただ後押しが欲しいだけなのだ。
アルティオは、一つ、息を吐き出して。
指輪を、握った。その手の平が、熱く痛む。金の髪の、あの、小さな少女の華やかな笑顔が、一週間も前のことだと思えないほど、鮮明に瞼に浮かび―――
消した。
いつでも、思い出せるよう。
忘れないように、今は忘れた。
「……ごめんな」
「?」
「オレって奴はよ。ほんっとうにどうしようもないな。好きな女に二回も嫌なこと言わせちまった」
空笑いが漏れた。これじゃますます嫌われちまう、と、かすかに微笑んで、しかし一抹の怒りと決意とを滲ませて、顔を上げる。
填めた指輪は、初めて手にしたものではないかのように、しっくりと無骨な傷だらけの指に収まった。
「……あんたのいいところは、何があっても豪快に笑い飛ばせる馬鹿さ加減ね。だから、ステイシアもあんたを選んだのかもしれないわ」
「……そうだったら、良いな」
アルティオが二つの剣の柄を握る。月光に翳された剣は、鋭く、その淡い光を弾き返した。
カノンは僅かに微笑んで、背を向けようとした。その背に、アルティオはふと思いついて声をかける。
「……なあ、カノン」
「何?」
「ネリネ、って知ってるか?」
「ネリネ、って……あの、花の?」
柄を握り、その筋から視線を外さないまま、アルティオは頷く。
「ああ、そいつの……花言葉、って知らねぇか?」
「……それは…」
「………あの娘がさ、言ってたんだよ。また、あの町に来ることがあったら教えてくれるって。
街の、郊外の花壇にいっぱいに咲いててな。夕方、いっちばん綺麗な眺めだとか言って、連れてってくれてさ。
花も、葉っぱも、………可愛くてな。すごく、綺麗だったんだ。」
「……」
「もう、……聞けねぇからな」
寂しげな声が、部屋の中に響く。カノンは逡巡して―――
その迷いを見て取ったのか。
「……頼む、カノン」
奥歯を、噛み締める。
しばし、瞑目して、そして極端的に、その言葉を口にして―――
カノンは、部屋を出た。
残されたアルティオは、その言葉を確かめるように二度、口にして……
彼女の魂が込められた剣を、振りかざして、たった一言だけ、呟いた。
「……そっ、か」
ネリネ―――
彼岸花科。学名 Nerine sarniensis Nerine : ネリネ属。
別名は『ダイヤモンドリリー』反った花弁に光が当たると、まるでダイヤモンドのように美しく輝く淡い桃色の花―――。
花言葉―――『華やか』、『幸せな思い出』、『箱入り娘』……
―――『また会う日まで』
「……あ」
アルティオの部屋を出て、しばらく。暗い廊下を過ぎて、窓枠に寄りかかっていた長身の人影に、カノンは足を止める。
「レン……」
「アルティオは落ち着いたか」
「うん、大分。もう大丈夫そう」
背を離し、彼はこちらへと向き直る。表情には、やや疲労の色があった。彼のことだ、ここ数日、眠っている間も気を抜かずに、神経を研ぎ澄ませていたに違いない。
「……アルティオがあそこまで落ち込んでるの、初めて見た」
「昔から切り替えは悪くない男だ。一度、すべきことを理解すれば、後は大丈夫だろう」
知らない人間が聞けば、冷たい科白に聞こえるかもしれない。けれど事実は逆。レンはアルティオの兄弟弟子だ。良くも悪くも、お互いの性格は知っている。
「それよりも……お前の方は平気なのか?」
「へ?」
まさか水を向けられるとは思っていなかった。カノンは首を傾げて彼を見上げる。
「何で?」
「また気ばかり焦らせて、かりかりしているように見えたのでな」
「……」
押し黙った沈黙が、返答だった。
「ちょっと……気は立ってる、かな……」
「……」
「……アルティオは、さ。別に狙われてるわけでもないのよ? ただの興味本位であたしたちに付いて来ただけよ。こんな思いする理由なんて何も……何もないじゃない。……ステイシアだって」
「言うな」
「けど……ッ!」
「甲斐の無いことだ。誰のせいでもない、強いて言うならお前に付いて来た、あいつ自身の責だ。
お前が下らんことで自分を責めても、喜ぶような馬鹿はいない。
奴らがフェルス医師に与するのをお前は止められたか? ステイシアが歪んだ形で蘇るのを止められたのか?
……いずれ来る結末が、些か歪曲してしまった、ただそれだけのことだ」
「それだけ、って……ッ!」
「少しは落ち着けッ」
「解ってる……ッ! そんなの…言われなくたって解ってるの………ッ!」
吐き出した言葉から、力が抜けていく。俯いた彼女の金の頭を、数度、ゆっくりと撫でる。すん、と鼻の鳴る声がした。
「…………し」
「……?」
「………あたし、やっぱり、何処に行っても、疫病神なんだね……」
「……」
ぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟かれた言葉は、しっかりとレンの耳を打っていた。
カノンの母であるマイン=ティルザードは、偉大な狩人だった。ただそれだけのことに過敏に反応する人間は、けして少なくはなく、良くも悪くも彼女の周囲には人が集まった。当然、それは善人ばかりではない。
彼女にそんな気はないというのに。なまじ、母親に勝るとも劣らない戦のセンスを備えていたために、期待と畏怖とが付き纏う。
……狩人という任から解き放たれたはずの、今でもなお、そうだというのだろうか。
「?」
レンは、俯いたままのカノンの肩を叩く。
「ちょうど眠れずにいたところだ。夜風にでも当たる。……付き合え」
浮かんでいたのは満月だった。
気配を紛らわすのには向かないが、夜の散歩にはちょうど良い。
つい、二週間前もこうして散歩をした気がする。あのときは一人で、酷い目にあったものだけれど。
……もし、あのとき―――出歩いたりしていなければ。
いや、どうにしろ、奴らはカノンを誘い出していただろう。下らないことを考えるな。今は、考えても致し方のないことだ。
散歩と言っても、そう遠くまで行くわけにはいかない。せいぜいが、宿屋の裏手にある井戸端で涼む程度だ。
「……寒いか?」
「ううん、平気」
石積みの井戸に寄りかかりながら、カノンは答える。
「けど、何か久しぶりね」
「……? 何が、だ?」
「こうして二人だけでいるの。
だってさ、ここ最近ずっと皆いたし。二人でいるのなんか、なかなかなかったじゃない?
まあ、病院で看病はしてもらったけどさ」
「普段より騒がしさが三倍以上だ。全く、敵わん」
「ちょっと、あたし今の騒がしさの三分の一を担ってんのッ?」
「以上と言っただろう。それ以上だな」
「ちょ、それだけは納得いかないわよッ!!」
いつもの暴言に、突っかかろうとして。
振り上げた拳を止めて、小さく噴き出す。ゆっくりと、肩の力を抜く。
「……落ち着いたか?」
「……ん。ごめん、ありがと…」
井戸に寄りかかる彼女の隣に背を預けながら、レンは溜め息を吐く。剥き出しの腕にかかったマントを掴んでほんの少しだけ寄る。
「……寒いなら素直に言え」
「へへ」
外されたマントを手繰って包まる。ほんの少しの埃と、甘い汗の匂いがした。
「……カノン」
「うん」
「お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな」
「……うん」
「だがそれ以上に、」
輝く満月をぼんやりと眺めながら、彼は口にする。
「……救われた人間も、町もある」
「………うん」
「それを、忘れるな」
「……うん、ごめん」
深呼吸をする。少し肌に寒い、冷たい空気が火照った身体を程好く冷してくれる。
肩にかかった群青のマントが、泣きたいほどに温かい。
大丈夫、この温もりがあればまだ立っていられる。前に進める。
「……もう平気、ありがと」
「……」
吐き出した息は安堵を含んでいた。
「レン」
「何だ?」
「……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?」
「……」
「あ、ぅ、め、迷惑とかじゃなくてさ……。でも、せっかく狩人辞めたんだし。
レンだって他にやりたいこととか、腰を落ち着けるとか……その、したいこともあるんじゃないかなー、って。
だったら、いつまでもあたしの我侭につき合わせてるわけにいかないし……
こういう状況だから、今は一緒にいた方がいいんだろうけど……」
「……」
視線を上げたレンが、何を逡巡しているのかは解らない。口を開かない彼に、些か不安を覚えて一歩踏み出そうとしたとき、
すっ、とカノンも、レンも、表情を引き締める。
闇夜を割いた白い小さな影。二人は左右に分かれて跳ぶ。
どむッ!!
張り付いた護符が井戸の端を打ち砕く。カノンはマントを放り出し、腰の剣を抜く。レンもまた、背中の剣を引き抜いた。
「くすッ……邪魔したようだね。申し訳ない」
「ッ!」
ひらひらと片手で護符を弄びながら、宿屋の屋根に腰掛ける、漆黒の影。
はっ、としてその手を凝視するが、右肩のダメージは既にないように見える。きりッ―――奥歯の噛み締める音が、耳の奥に響く。
「あんた……ッ! 一体、何のつもりなのよッ!?」
「さて、話す必要があるとも思えませんが」
暗い影が、すっ、と立ち上がる。くすくすと響く小さな笑い。
そこへ、
「シルフィードッ!」
「!」
ドンッ!!
澄んだ。
ややトーンの高い、声が不穏な空気を切り裂いた。
少年が、砕けた屋根の端から跳び退る。銀の閃光は、宿屋の表――― 一ブロックのストリートから放たれた。
聞き覚えのない声だ。
少年はそちらに視線を落す。
「あんたは……」
「……」
そこには、両手を突き出し、険しい表情で屋根の上の影を睨みつける少年が佇んでいた。
歳は十五か、もっと低いか。背はあまり高くない。淡い緑がかった銀の髪を長く伸ばし、前髪を長いバンダナで束ねている。
法師の纏うような、ゆったりとした青紫の神衣を纏い、同じ色の瞳を吊り上げていた。
「……そこの者。エイロネイアの刺客ならば大人しく投降しなさい」
「………シンシアか」
ぼそり、と影が呟く。
たったったっ、と石畳を駆ける足音。影はそちらに目をやって、
「―――?」
カノンは、彼に―――漆黒の少年の表情に、動揺が走るのを初めて見た。アルティオが月陽剣を握ったときでさえ、驚嘆しただけで、動揺など微塵も見せなかったというのに。
「……」
影の少年は、そのまま無言で跳ぶ。
後方へ。
「待てッ!」
「追わなくて良い、デルタ」
かつッ
ストリートの石畳を踏んで、彼の後ろからまた一つ人影が現れる。月光に照らされた、その人は女性だった。
意志の強そうな蒼い瞳、柔らかな、肩まで伸ばした髪は栗色。
どこかの将校を髣髴とさせる衣装だが、決定的に違うのは一般的に軍部では高位を表す白のコートと、鷲の十字をあしらった紋章は、明らかに帝国のそれとは違う。
カノンの背を、嫌な予感がすり抜ける。
放り出してしまったマントを拾い上げると、即座に脇から手が伸びてそれを攫った。
元のようにマントを身につけながら、レンは彼らを凝視する。きっと、渋い表情に感じている予感は同じものだ。
「ラーシャ様、良いのですか?」
「良いのだ。我らの任務は刺客を片付けることではない」
ラーシャ、と呼ばれた女性はこちらを振り返る。女性にしてはやや背が高い方だろう。ぴし、と背を伸ばすと歳不相応の風格が、凛とした雰囲気に加わる。
「……お怪我は……ないようだな。何より」
「……」
「失礼。カノン=ティルザード様、レン=フィティルアーグ様、両名で宜しいか?」
一瞬、返答に迷う。
横目で目配せをするが、彼自身も諮りかねているようだった。敵の敵は、味方とは限らない。
その内に、沈黙を答えと見なしたのか、彼女は鷹揚に一つ、頷き、深々と頭を下げた。
「……第三革命を起こし、今在る政団を改革されたお噂は、耳に入れている」
「―――!」
確かに―――。
かつて、カノンとレンは、死術によって暴走しかけた政団の長を、数多の死術と共に闇に葬ったことがある。その事件は、忌々しく、記憶に新しい―――。
だが、あれは革命を起こした、というよりは戦場で生き残った、と言う方が正しい。
それに―――。
―――あの件は、公式には、伏せられてるはずなのに……ッ!
「あんたたち……一体、何者?」
すると彼女は面を上げる。背筋を伸ばし、最上礼の構えを取った。傍らの少年もそれに習う。
そして。
彼女は敬礼を崩さないまま、言った。
「私はゼルゼイル北王都ゼルフィリッシュより参った、シンシア王国中将ラーシャ=フィロ=ソルト。
こちらは従者であり、本軍で少尉の任に当たるデルタ=カーマイン。
……貴方方のご高名を聞き、一つ、お願いを申し上げに参った次第であります―――」
―――さて、また何やら面倒な事態になって来た―――。
かつッ……
闇色の少年は、足を止めた。どこの町にも一つはある、光の届かない廃墟の中だと、その姿は増して闇夜に溶けて見えなくなる。
壊れた壁の隙間から漏れる光だけが、少年の視界を支えていた。
廃墟となる前は、少々、小洒落た邸宅だったのだろう。上流階級、とは言わないが、極普通の中流家庭の住まいよりは些か豪華な間取りだ。埃に塗れ、ひび割れた家具にもそえなりの装飾が見て取れる。
ふと、人の気配を感じた。
部屋―――恐らくはリビングだろう、一番大きな部屋の深奥に陣取るソファを振り返る。
瞬間。
かしゃんッ!!
唐突に飛来した脆いワイングラスが、コートの裾に叩き落とされて床に張り付いた絨毯の上に破片となって散らばる。
踏み出すとアルコールの立ち上る、赤い液体が跳ねた。
「てっめぇ、何すんだッ!」
「エノ」
駆け寄って来ようとしていたエノの大声を窘める。
払ったと同時に、手の甲に突き刺さった透明な破片を、素知らぬ振りで抜く。転がすとかしゃん、と小さな破砕音が響いた。
こっそりと溜め息をついて、グラスの飛んできた方向を見やる。
「……随分と、乱暴な出迎えだね」
そこに座っていた"彼"は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、サイドテーブルに乗せられた新しいグラスに赤い酒を注ぐ。
つかつか、と靴音を鳴らして近づいた少年は、彼の手から深緑色の瓶を奪うと、空いていたグラスに三分の一程度注ぐ。
「……機嫌が悪いようで何より」
「人のことを言えた義理か。何だ、いつもの澄ました顔はどうしたよ。シケた面しやがって」
「この顔は元からだよ」
一方的にグラスを合わせ鳴らすと、少年は一気に煽る。彼はゆっくりグラスに口をつけた。
「……で、そっちは上手くやったんだろうな?」
「上々、だね。まあ、計算外のこともいくつかあったけれど。問題外だ」
二杯目をグラスへ、なみなみと注いだところで瓶をひったくたれた。渋ったりはせずに、返還する。
今度はちびちびと、グラスの端に口を付けながら、
「けれど、あの剣は惜しかったんじゃない? 本当に放置で良かったの?」
「あんなもんはただのプロトタイプだ。データが取れりゃ、後は廃棄物さ」
「でも、二つとも彼らの手に渡ったみたいだけど?」
「それこそ性能を測るのにはちょうど良い。憂うようなことじゃねぇ」
「……君は相変わらず、だね」
再び、彼は鼻を鳴らし、グラスの中身を一気に飲み干した。
「……それで。余計な手は出してねぇだろうな?」
「勿論。出したとしても、僕の一言で転ぶような人でもないだろう?
―――さあ、約束通り、トリは任せるよ……。後は焼くなり煮るなり。契約に反しない限りに」
うっすらと。
月明かりに、彼の薄い唇が吊りあがる。
きんッ!!
澄んだ金属音が響く。咄嗟に引いた鼻先の向こうで、がしゃんッ! と派手な音を立てて瓶が割れ、赤い内の体液を撒き散らす。
破片が月光に煌いて、その中の一際大きな欠片が、細身のナイフに貫かれて床に落ちる。
床に突き刺さったナイフが、妖しげに光る。
ああ、ちょっとだけ勿体無い。
「………感謝してるぜ、あんたにはよ……。
これだけの舞台なら不足はねぇさ……。存分にやらせてもらう。くっ、くくくくく……」
堪えきれない笑いが、喉の奥から漏れる。少年はそれを眺めて頷いた。
「ええ、ご自由に」
かつんッ!
響いた靴音が、廃墟の廊下に消えていく。不満げな表情を浮かべる傍らの従者に、軽く顎で合図する。
憮然としたまま、重い足取りだったが、その後を追っていく。
少年は身を翻して、今しがた彼の腰掛けていたソファに座る。ふぅ、と陰鬱に近い溜め息を漏らした後、ふと頭上を見上げる。
朽ちた天井に、砕けた梁が引っかかっている。砕けた瓦の向こう側、ぽっかりとそこだけ穴が開いていて、切り取られた空を眺めることが出来た。
「……ああ、通りで機嫌が悪いわけだ」
天上に、真円の月を認め、少年はくすり、と笑う。
「今日は、満月だったね」
ワインの苦く、渋い風味が、口の中に広がる。ゆっくりと視線を逸らす。
「……まったく、彼も可哀相な人間だ」
少年の視線の先で。
零れた雫に突きたったナイフが、その赤い水面に移る揺らいだ満月を、深く、貫いていた……
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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