シリアの印が、彼女の眼前に青い光弾を作り出す。
「シルフィードッ!」
「おぉぉぉぉぉッ!!」
高く放った一声に呼応して、数条の光の弾丸は、収束しながら黒い胸板へ向かって飛んだ。その軌跡を追うように、双剣を担いだアルティオが走る。
それに合わせて、小さくカノンは『魔変換』の呪を紡ぐ。
収束した青い光の刃が、悪魔の胸板に到達する。が、
「な―――ッ!?」
シリアがくぐもった声を上げる。ゆらりと、胸板の寸前で空間が揺らめいた。青い光はその振動で出来た『盾』に阻まれ、光力を失う。じゅ、と焼け石に水をかけたような音を立てて、シリアの生んだ光は空に消えた。
当然、胸には傷一つない。
「な、何よあれッ!?」
「闇雲に撃っても無駄ッ!! あれの『盾』はあらゆる魔力を弾き返すのッ!
だから以前も封印して、特別処理することで流出を防いだのよッ!」
「く……ッ! そんなの聞いてないわよッ!!」
印を描いて、発動を抑えていたルナが怒鳴る。
ぎぎぃんッ!!
「くぅ……ッ」
アルティオの双剣を、悪魔は両腕を交差させて防ぐ。その彼の背後で、黒い刃を携えたカノンが跳躍する!
「覇ぁぁぁぁぁッ!!」
ばちッ!! ばちばちばちぃ……ッ!!
「―――ッ!!」
頭上に振り上げられた刃は、シリアの呪を防いだものと同じ盾に防がれる。ぎりぎりと、盾に食い込む刃。しかし、破るには至れない。
―――『変換』された魔力まで防ぐっての……ッ!? く……ッ!!
ぎらり、と赤い瞳が、頭上のカノンを見上げた。
どんッ!!
「ッきゃぁぁぁぁぁッ!?」
「カノン!」
見えない衝撃波が、小柄な彼女の身体を吹き飛ばした。そのまま後方の石床に打ちつけられる。アルティオの焦燥の悲鳴が漏れた。力任せに交差された両腕を振り払い、アルティオは跳び退る。
ルナがようやく呪を発動させたのは、このときだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
手加減なしの赤色の閃光が、がら空きの悪魔の腹に向かう。
しかし、
ばしゅッ!!
「く……ッ!」
虚しい音を立てて、その赤い光もまた虚空へと四散する。圧倒的な破壊力を持つ魔道でも、届かなくては意味がない。
「やっぱり、硬い……」
「まったく、面倒なものを復活させてくれたわね……」
肩口を押さえながら、カノンが立ち上がる。叩きつけられる寸前で受身は取れたらしい。
ちらり、とその視線を脇に投げ、ふっ、と息を吐く。
「カノン! 大丈夫かッ!?」
「ええ、大丈夫……。けど、まともに相手してらんないわね……」
魔道でも、剣でも、個々の能力でも破れない盾。加えて厚い装甲と跳び抜けた身体能力。
―――方法は三つ。一点集中で『盾』を砕くか、分散攻撃で必中を狙うか。あるいは……
「……」
カノンは一瞬だけ、瞑目する。くぐもった、地を這うような声をさえずる悪魔が、身を低く構え、正面に鎮座している。
ちゃき、と刃を構え直し、再び走り抜けて特攻した。
少女の刃が、まっすぐに悪魔に向かっていく。金の髪が靡いて、碧い瞳が迷いなく黒い壁へと激突する。
「……」
強大な悪魔の影から、それを眺めながら、イリーナは苦痛に顔を歪める。
短い呼吸を繰り返す。消耗が激しい。大量に魔力を消費するとは聞いた。でも、まさかこれほどとは。
苦し紛れに上げた視界に、かつての親友の姿が見えた。
―――ルナ、ちゃん……
どうして?
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
彼女はあんなに優しかったのに。あんなに優しかったのに、五年という月日は人を変えてしまうものなのだろうか。
「……」
ぽろり、とまた瞼の奥が熱くなる。
駄目だ。これで、これで愛した一人の男を救えるのだ。泣いては駄目だ。こうしなければ、こうしなければ―――。
『あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!!』
ずきり、と痛む。どこが痛むのか、わからないけれど。
違う、違う……私はあの人を救いたいだけ。大好きな、大好きな人を救いたいだけ。あの人を―――
ずきん……ッ
「ッ!!」
浮かんだ情景に、今度は明確に、体の芯が、胸が、痛みを告げる。
……いつもそうだ。
いつもいつも。
彼を思い出して、思い描くたびに、隣に座しているのは私じゃない、彼女。彼は私の方を見てくれなくて、普段心から笑うことが少ない彼が、珍しく本当に笑っていても、その笑みは私が引き出したものじゃない。
―――う…ッ……
ぽたり、ぽたり、と胸元が得体の知れない雫で濡れる。
親友は優しかった。彼女は優しかった。彼へ向けて悪態を吐くその態度の中に、他の人間には見せないあったかいものがあることを、イリーナは知っていた。たぶん、彼女は知らなかったけれど。
だから、尚更悔しかった。
でも彼女は、イリーナの想いを知って、応援するからと、自分は何も思って無いからと。
だから、その心遣いを利用してきた。彼女は高潔で、誰よりも優しかった。だから、それに寄りかかり、甘えて、利用した。だから自分は、どうしようもなく、ずるくて狡い女だった。
それでもいい。とんでもなく惨めでも、欲しいものが手に入るならと思った。
でも、それが裏切られて。
期待が破られて。
イリーナにとって都合の良い事情を、悪魔は囁いた。
泣いた。
裏切りが痛いと泣いた。そして彼女を罵った。自分は正しいことをしているはずだった。
彼女が嘘を吐いていたのも、イリーナの想いを裏切ったのも本当。
彼女がシンシアという国の人と一緒にいたのも、彼を救いたいと想うイリーナの心も、本当。
……彼が、見ているのは自分じゃないことも。
彼女が、ずっとイリーナのことと同じくらい、彼のことを想っていたのも、きっと本当。
「うぅ……ふ、くッ……」
もうすぐ、これが終わればずっと憧れていた彼が自分のものになってくれる。そのはずなのに、この痛みは何故なのだろう。
もう何も厭うことはないはずなのに。
もうこんな痛み与えないで。
裏切ったくせに。
私の想いを、先輩を、裏切ったくせに。
何で、何で―――
こんなに、"ごめんなさい"と口にしてしまいたいんだろう―――?
楽になりたいと、いや、そうすれば楽になれると思っている自分がいるんだろう―――。
だって、こんなこと最初から知っていた。
彼が自分を見てくれていないことも―――
彼女には到底、正面からじゃ敵わないことも―――
ああ、そうか。知っていた。最初から、知っていた。でも、私は馬鹿だから―――
………理解[わか]ってるけど、納得[わか]っていないのだ。
「ルナ、ちゃん……」
小さく呟いて、視線を上げる。戦っている。自らが呼び出した魔物と戦って、傷付いて、虚ろな目をしながら。
彼女の友人たち。まっすぐで、とても強くて。私だって、彼女の親友だったはずなのに。
―――私は……。………?
そこで、唐突に気が付いた。悪魔と攻防する影が、彼女を含めて、四つしかないことに。
「―――ッ!!!」
気づいた瞬間、背後に気配が生まれる。慌ててイリーナは振り向こうとして、
がっ、と細い肩を掴まれた。しゃきんッ、と澄んだ音がして喉笛に冷たくて、痛みを伴う不思議な感触。思わず顎を逸らす。
「う……ッ!?」
賢明に下を見て、愕然とする。冷たい感触。嫌に鋭い刃。剣の刃先。
ぴたり、と悪魔が動きを止めた。
「……すまないな。あまり手荒な真似はしたくないが、そうも言っていられない」
「……」
耳元で、聞き覚えのある静かな低い声が聞こえた。
「レン、さん……」
いつのまに背後に回っていたのか。無口で静謐な刃を、金の髪の少女の片割れが突きつけていた。
「あれをしまえ。あのままでは、お前のためにもならん。ここで脳に障害でも負ったら、あの男を助けるも何もないだろう?」
「く……ッ!」
強大な敵だとしても、召還獣は召還獣。手持ちのカードで破れないなら、一番手っ取り早いのは術者を抑えること。
元・違法者狩りであるカノンやレンにとっては定石だった。
カノンはレンが悪魔の、イリーナの背後に回れるまでの時間稼ぎが出来れば、それで良かったのだ。
「こん、な……ッ!」
「大人しく投降しなさい……。貴方のためにならないわよ」
「誰が……ッ」
「イリーナッ!!」
悲痛とさえとれる声が、イリーナの耳に届く。はっ、としてそちらを見やると、拳を握り締めたルナが歯を食い縛りながらこちらを見ていた。
裏切ったのは彼女の方なのに、何故、こんな泣きそうになるのだろう。
「ルナ、ちゃ、ん……」
「イリーナ……、もうやめなさい……。あれは、あんたに扱えるものじゃない。
あんたが傷付くだけよ」
「……五月蝿いよ」
「イリーナ……ッ!」
「ッ、そうやって……ッ!」
声が荒ぶる。抑えようのない熱いものが、胸元から押しあがってくる。
駄目だ。救世主となるはずの人間が、吐き出していいものじゃない。そうは思っていても、止まらない。
「そうやって……ッ! そうやって、いっつもいっつも、ルナちゃんは私の先を行って……ッ!!
私に出来ないことを、私には手に入らないものをッ、ルナちゃんは出来て、手に入れて……っ!
どうせ、笑っていたんでしょうッ!? 上手く掌で踊る私を見て、見下して、何にも出来ない、何にも手に出来ない私を見て、どうせ……どうせッ、いつも馬鹿にして笑っていたんでしょうッ!?」
「ッ……」
「何で? 何で先輩まで、ルナちゃんのものになっちゃうの……ッ!?
何で、私は、私は……ッ!
ッ親友面しないでッ!! いつも、今でも私のこと笑ってるくせにッ!! もう甘い顔して友達なんていわないでッ!! 何も期待させないでッ!! どうせ、どうせ……ッ!」
「違うッッッ!!!」
「―――ッ!」
激昂が、洞穴の中でびりびりと響く。雷のように放たれた、ルナの叫びにも似た重い叱咤は、イリーナの耳を、全身を貫いて言葉を止めさせた。
茫然と、イリーナはおそるおそる、激昂を吐き出した彼女を見た。
爪先が白くなるほど握り締めた拳が、小刻みに震えていた。
「あたしは……ッ、あたしはあんたを見下したことなんて一度もないッ! 馬鹿にして笑ったことだってないッ!!」
「嘘ッ! だって……ッ!」
「確かに……カシスとのことは認めるわ。あんたを……騙してたことも否定できない。あたしがつまらない意地を張ったせいで、あんたをここまで傷つけたことを―――情けなく思ってる。
―――ごめんなさい」
「―――ッ!」
「……あたしたちの研究が流出して、それを操っていたのは、黒幕は、エイロネイアの刺客だって話を聞いた。だから、真実を知りたかったから、敵国のシンシアに加担した。
でもッ! それにあんたやカシスを巻き込む気なんてなかったッ! あんたたちには……、あんたたちにはこのまま、帝国で平和に暮らして、生きていてくれればそれで良いと思った。
……それが出来なかったのは、あたしが、弱かったから。何も出来ないのは、あたしの方よ。
結局、あんたをこんなにして、巻き込ませてしまった。
あたしだって、もうどうすればいいのか解らない。でも、これだけは言える」
ルナは俯かせていた面を上げる。緑青の瞳を、泣き崩れた少女の真っ赤になっている大きな瞳と交わらせて、はっきりと言い放つ。
「あたしはッ! あたしはあんたを何も出来ない人間だなんて思ったことは一度もないッ! 今だって、大事な可愛い妹分だと思ってるッ!
何でもっと早く、本当のことを言わなかったのか後悔してる……ッ! あたしはもうこれ以上、あんたと戦いたくなんてないッ!!」
「・・・ッ!」
叫んだ後、ルナはふっ、と力が抜けたように息を吐いた。瞳に涙を讃えていたイリーナは、信じられないものを見たような目で、小さく震えながら、その彼女を見ていた。
ルナは、もう一度顔を上げて、ゆっくりと手を差し伸べながら、ぎこちなくも優しい笑みを浮かべ、
「……イリーナ、お願い。もう一度、あたしにチャンスをちょうだい。
それで、ちゃんと話し合いましょう? 今度は、嘘なんて吐かない。もう一度だけ、二人で話を、しよう? あたしに、ちゃんと謝らせて欲しいの。勝手だけど、一生のお願いよ……」
「……ッ」
ぐらりと視界が揺らいだ。痛い、いたいイタイイタイ……
とんでもなく、胸が痛い。
少し前なら、その細い腕に迷うことなく縋ることが出来たのに。力が抜けていく。
「………私…、わた、し、は………」
ほんの僅か、彼女の瞳に理性の色が灯る。その僅かだけれど、救いの色に、カノンはほっとしてシリアやアルティオと視線を交わした。
軽く首を振って、レンが剣を収め―――
―――ようとして。
きんッ!!
「ッ!?」
棒立ちだった悪魔の足元に、小さく音を立てて、赤く不気味な刻印を描く魔法陣が広がった。
「な、何……ッ?」
「え……?」
ぎょ、としてイリーナが声を漏らす。その驚嘆の一言に、この陣が、彼女の張ったものではないことを物語っている。
カノンの胸を、嫌な予感が掠めて走る。クオノリアで生み出された、あの『ヴォルケーノ』を利用して造られた合成獣。あのとき、あの獣は、制御を無くして暴走した。
―――いけない!
カノンは剣鎌[カリオ・ソード]を構えて走る。だが、それより早く、悪魔は泣き濡れた少女を意志なき瞳に映した。
ごうッ!!
「ッ! しまった……ッ!」
悪魔は太い片腕を、イリーナを拘束していたレンへと叩き付けた。すんでで避けた彼は、しかし、風圧で後ろまで飛ばされて、その彼に支えられていたイリーナはバランスを崩してころん、とその場に転がった。
カノンの刃は―――間に合わない。
どしゅ……ッ!!
「ッ、あ……ぁ、あ……?」
小さな呻きが漏れて、時間が、止まった。
ぼたり、と暗い床に、赤黒い斑紋が広がった。吊り上げられた少女は、何が起こったのか解らないといった表情のまま、茫然と自らの胸を見る。
鋭く伸びた、悪魔の腕に生えた刃。その歪なラインを描く刃が、少女の体を貫いて、吊り上げて、赤い斑紋を描いていた。
「ぁ……あ、い、ああああああああああッ!?」
「イリーナぁぁぁッ!!」
「ルナッ!」
悲痛の叫びが重なった。衝動的に駆け出そうとしたルナの身体を、慌ててアルティオが抑えた。
カノンは唇を噛み締めて、その悪魔を見上げ―――
目を丸くする。
ぞくり、どくり………
岩肌が、イリーナの身体を抱え上げた悪魔のその腕の脈が、どくり、どくりと異様に波を打っている。そして、
びゅるッ!!
「ッ!?」
「な……ッ?」
不自然な、深い緑色をした脈が、そのまま腕から突き出した。びちゃり、とその気色の悪い脈から漏れた体液がイリーナの頬と服を、周囲の岩肌を、濡らす。
そして、その脈はずるり、と孤を描き、掲げられた少女の身体に突き刺さった。びくんッ、と彼女の体が痙攣する。
「あ、ぁ……ああ………」
どくんッ、と脈が鳴るたびに、イリーナの体が苦しげに痙攣する。ぼたり、と緑色をした体液が、脈の間からまた漏れた。
「イリーナぁッ!!」
ルナの叫びに、はっ、と気がついたカノンが刃を持ち上げて跳んだ。狙いは、脈と彼女の身体を拘束する太い腕。
振りかぶったその銀の刃を、渾身の力を込めて叩きつける!
が、
ぎんッ!
「……くッ!」
腕を中心として『盾』が広がる。腕にかかる圧力に、カノンの顔が苦悶に歪んだ。
イリーナの瞳から、光が、消えた。
瞬間、
悪魔の足元に広がった魔方陣から、膨大な赤い光が放たれた。
どれくらい目を閉じていたのか。
一瞬であることを願いたい。再び、吹き飛ばされて、赤い光に目を瞑っていた。我に返って身を起こした時には、既に赤い光は消えていて、馴れない暗闇に目を擦る。
そして、つい先ほどまで悪魔の鎮座していた場所を見やって―――
「・・・ッ! な、何で……ッ?」
言葉を、失った。
「い、イリーナ……ッ」
絶望的な呻きが、ルナの口から漏れた。アルティオも、シリアも、そしてレンさえも絶句してそれを見上げていた。
そこにいたのは、悪魔だった。
ああ、そうだ。悪魔だ。先ほどと同じ悪魔だ。
けれど、その肩口や脳天からはいつかと同じ、赤い、赤い亀裂が走って、細い眼は蠢くようにぎょろりぎょろりと動いていて、だらだらと足元に汚らしい黒とも緑ともつかない体液を垂らしている。
そして、最も異様だったのだのは。
その右の肩口に、そこだけ埋め込んだように、人間の上半身がめり込んでいた。
いや、違う。上半身だけが無事で、そこから下が悪魔の体の中に飲み込まれているのだ。肩口にぽっかりと開いた、二つ目の口に。脈のような触手が蠢いて、上半身をも飲み込もうと暴れている。
その上半身は、蜂蜜色の髪を振り乱して、眠るように目を閉じて、赤い血を流して、顔に、幼くそばかすを張りつけた、
「いッ、イリーナぁッ!!」
「な、何よ、これ……ッ!」
「こ、こいつは……ッ! ど、どういうことなんだッ!? おい、ルナッ!?」
半狂乱で囚われた友人の名を叫ぶ彼女に、なけなしの冷静さを振り絞ってアルティオが怒鳴る。しかし、彼女はやはり半狂乱でぶんぶん首を振るだけだった。
こんなものは知らない。
後付された、醜悪で、あってはならない悪魔の機能。
飲み込まれている。人が、彼女が、あの悪魔に、自ら召還したはずの合成獣に―――喰われているのだ。
ぎしゃぁああぁぁぁぁあぁあぁあぁああぁッ!!
無情を語るように、獣の雄叫びが上がる。
黒の少年は、もう既に、用意していたのだ。最後の、最悪な、悪魔の罠を。
「―――くッ!」
カノンは剣鎌[カリオ・ソード]を握り締める。とにかく、止めなくては。まだ完全に取り込まれたわけじゃない。急げば助かるかもしれない。一抹の希望であっても。
シリアとアルティオに激を飛ばす。アルティオは武具を構えて悪魔に向き直り、シリアは慌てて呪を紡ぎ出す。ルナの方を向く。
「ルナッ!! 止めるわよッ!! 急げばまだ間に合うかもしれないッ!!」
「くッ、け、けど……ッ! このまま倒せても……ッ!!」
ただ彼女を巻き込むだけになりかねない。迷いと、絶望が、きりきりと音を立てて彼女を覆う。
「ルナッ!!」
「ッ!?」
暗闇を切り裂くように、ルナの手元へ光る物が飛来した。反射的に受け止めると、それは、あの悪魔を封じていた小さな鏡だった。
鏡を拾い上げ、投げた本人―――レンは剣を携えながら怒鳴った。
「全員でサポートする。あれを封じてしまえッ!!」
「け、けど……ッ!」
「使ったら、あの娘も巻き込むの?」
「い、いや、封印具は悪魔の気にしか反応しないはず……ッ! たぶん、大丈夫だとは思うけど……ッ!」
「じゃあ、迷うことないでしょうッ!? 早くしないとッ!!」
「でも、あのときとは場合が―――ッ!」
レンの整った眉がつり上がる。次の瞬間、
「馬鹿かッ、貴様はッ!!」
普段の彼らしからぬ音量で、激が飛んだ。
「ここにいる全員が諦めてないんだッ! 貴様が真っ先に諦めてどうするッ!?
貴様の覚悟は、ルナ=ディスナーは、所詮、その程度の魔道師かッ!!?」
「・・・!」
侮辱にも等しい叱咤に、ルナは歯を食い縛る。彼女を飲み込みつつある悪魔を見上げる。
痛々しい姿に、汚れていく蜂蜜色の綺麗な髪に、ぎりぎりと胸が締め付けられた。
「ルナ」
「……」
「やろう。あたしたちを自由に使ってくれていいッ! 全力で、力を貸すよッ?」
「……ッ」
幼馴染で、妹分だと思っていた少女が、大人びたまっすぐな力強い瞳を向けてくる。
手の中の手鏡が、小さな音を立てる。それに映る自分の姿は随分とちっぽけで、惨めだった。
でも。
「―――」
ぎゅ、と力を込めて、彼女はその鏡を握った。
ぎゃしゃあああぁあぁぁぁぁッ!!!
「ぅおおおおおッ!!」
悪魔の咆哮と、アルティオの走り抜ける叫びが重なる。悪魔は頭を振り上げながら、左腕で彼の右の剣を受け止める。
ぎぎんッ!!
鈍い音で岩の肌と剣が軋み合う。僅かな瑕をつけるだけで留まった。アルティオは構わず、左のもう片方の剣を悪魔の体の側面へと叩きつける!
きんッ!!
『盾』が空を歪めて、その刃を受け止める。ぎりぎりと軋み合う双方の刃に、しかし、アルティオは小さく笑みを浮かべた。
「カノン!」
「覇ぁぁぁぁぁッ!!」
特攻をかけたアルティオの軌道から大きく外れたカノンが、刃に黒い力を携えて、悪魔の背後から切りかかる。悪魔のぎょろり、とした目がその残像を捕らえた。
きゅいん、と音がして、背後にもう一つ『盾』が具現化する。
「くッ!」
カノンは寸前で刃を止めて、後ろへと下がる。アルティオは刃を軋ませたまま、額に脂汗を浮かせて、唇を噛んだ。
「我望む、切り裂くは烈風の残歌、唸れフォーンバラッドッ!」
シリアの声が飛んだ。その呪が、アルティオの周りに白く空の弾を浮き上がらせる。刃を逸らせたアルティオは、その場にしゃがみ込む。
どむッ!!!
くぐもった音と共に、空弾が爆縮する。わずかに悪魔が怯んだその隙に、アルティオは引いて、構え直し、再び斬りかかった。
カノンは引いて、悪魔の正眼に回る。そして小さく、『魔変換』の呪を紡ぎ出す。
『盾』に向かって、刃を薙ぎ払ったアルティオが、不意に脇に逸れた。
「我放つ、貫くは勇なる炎華の矢、放てフレアアロー!」
きゅどどどどッ!!
そこへ、シリアの炎の矢が降り注ぐ。だが、それも、視えない『盾』に阻まれて虚しく散った。
アルティオの舌打ちが聞こえた。
――― 一点集中でも砕けない。『盾』は一つじゃない。
カノンの表情が歪む。
悪魔が、何事か呻いた。ぐにゃり、と胸の前の空間が歪む。ぼうッ、と浮かぶ紫色の光が見えた。暗闇に浮かぶ、魔力の光。
アルティオが引いた。
じゃき、と傍らで音がした。レンが破魔の剣を構えるところだった。
「……お願いね」
「お前もな」
シリアとルナの呪が、小さく背後で聞こえる。カノンは構えた剣鎌越しに、その光を睨んだ。レンが、正面から悪魔の胸板を狙って地を蹴った。
緊張が走る。
収束した紫色の光が悪魔の咆哮に呼応して、直線に放たれた。
ごうッ!!
身を屈めたレンの脇を、魔力光が通過する。棚引いたマントの端を焼いて、魔力光は彼の背後へと伸びる。
正面からその光を受け止めたのは、カノンだった。
「ッああああああああッ!!」
ぎりぎりを読みきって、魔力光の中へ刃を躍らせる。びゅるッ! と風を切る音がして、紫の光は黒へと姿を換え、渦巻いて、彼女の銀の刃へと収束した。『魔変換』の呪によって、悪魔の生み出した力が、カノンの力へと変換される。
同時に、カノンはレンを追って走る。
その間に、レンが振り上げられる悪魔の腕を交わし、懐へと飛び込む。
『盾』の形成に、空間が歪む。
シリアの呪が完成したのは、このときだった。
「我求む、奪うは強者が讃えし異能の力、失せよカオティックイレーズッ!!」
『盾』の真正面に、真っ白な光が浮かぶ。普段は術の解呪に使われる魔法だ。レンの剣は魔を否する護符の剣。
術と剣、二つが重なったとき、相乗効果はあらゆる魔力を奪い取る。
形成された、魔力の『盾』もまた、例外ではない。
ばぎッ!!
鈍い音を立てて、レンの一振りで『盾』が霧散する。新しい『盾』を生むために、空が歪む。
だが、それが形成されるより先に、レンを追うようにして走り抜けたカノンの刃が、彼の脇をすり抜けて、悪魔の、その無傷だった腹に突き刺さった!
ぎゃぁあぁぁああぁああぁぁぁぁッ!!!
悪魔の耳を裂くような声が轟く。しかし、カノンは少し表情を歪めただけで、刃に更なる力を込める。
「覇あああああああああああッ!!」
絶叫して、力任せに悪魔を刃で押し倒す。そして、その岩の肌を、冷たい石床に縫い止めた。
「ルナッ!」
後方のシリアの声と共に、きんッ、と音がして小さな鏡が頭上に投げられる。手を広げたルナに呼応して、悪魔を中心として、巨大な黄金の魔方陣が広がった。
光が走り、複雑な紋様を描きながら、魔力を高めていく。
悪魔が苦しげに呻く。肩口に張り付いた、蜂蜜色の髪がそれに合わせて揺れた。逃げようともがく悪魔の身体を、カノンは己の腕一本で必死に押さえつける。
その耳に、ろうろうと、呪が響く。
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、永現の槍、無知なる翼。
聖なる黄金を律する天使の在り処、此処に封じるは七つの大罪たる堕落の悪魔。
魔を統べる二つの月よ、我嘆かんと嘆くのならば、六大天の怒りと裁きを具現しさしめよ―――」
ルナは奥歯を噛み締める。減少していく魔力。魔力も、そして体力も限界を迎えていた。口の中に鉄錆の味。込み上げる吐き気は、尽きた魔力の証拠。
しかし、最後の力を振り絞って、その呪を紡ぐ。
「我求む、律するは黄金の天使、封ずるは闇黒の悪魔、誘え―――ッ」
「デモンズシールッ!!」
黄金の魔方陣が、洞穴を埋め尽くすまでの、眩い光を放った。
←12へ
「シルフィードッ!」
「おぉぉぉぉぉッ!!」
高く放った一声に呼応して、数条の光の弾丸は、収束しながら黒い胸板へ向かって飛んだ。その軌跡を追うように、双剣を担いだアルティオが走る。
それに合わせて、小さくカノンは『魔変換』の呪を紡ぐ。
収束した青い光の刃が、悪魔の胸板に到達する。が、
「な―――ッ!?」
シリアがくぐもった声を上げる。ゆらりと、胸板の寸前で空間が揺らめいた。青い光はその振動で出来た『盾』に阻まれ、光力を失う。じゅ、と焼け石に水をかけたような音を立てて、シリアの生んだ光は空に消えた。
当然、胸には傷一つない。
「な、何よあれッ!?」
「闇雲に撃っても無駄ッ!! あれの『盾』はあらゆる魔力を弾き返すのッ!
だから以前も封印して、特別処理することで流出を防いだのよッ!」
「く……ッ! そんなの聞いてないわよッ!!」
印を描いて、発動を抑えていたルナが怒鳴る。
ぎぎぃんッ!!
「くぅ……ッ」
アルティオの双剣を、悪魔は両腕を交差させて防ぐ。その彼の背後で、黒い刃を携えたカノンが跳躍する!
「覇ぁぁぁぁぁッ!!」
ばちッ!! ばちばちばちぃ……ッ!!
「―――ッ!!」
頭上に振り上げられた刃は、シリアの呪を防いだものと同じ盾に防がれる。ぎりぎりと、盾に食い込む刃。しかし、破るには至れない。
―――『変換』された魔力まで防ぐっての……ッ!? く……ッ!!
ぎらり、と赤い瞳が、頭上のカノンを見上げた。
どんッ!!
「ッきゃぁぁぁぁぁッ!?」
「カノン!」
見えない衝撃波が、小柄な彼女の身体を吹き飛ばした。そのまま後方の石床に打ちつけられる。アルティオの焦燥の悲鳴が漏れた。力任せに交差された両腕を振り払い、アルティオは跳び退る。
ルナがようやく呪を発動させたのは、このときだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
手加減なしの赤色の閃光が、がら空きの悪魔の腹に向かう。
しかし、
ばしゅッ!!
「く……ッ!」
虚しい音を立てて、その赤い光もまた虚空へと四散する。圧倒的な破壊力を持つ魔道でも、届かなくては意味がない。
「やっぱり、硬い……」
「まったく、面倒なものを復活させてくれたわね……」
肩口を押さえながら、カノンが立ち上がる。叩きつけられる寸前で受身は取れたらしい。
ちらり、とその視線を脇に投げ、ふっ、と息を吐く。
「カノン! 大丈夫かッ!?」
「ええ、大丈夫……。けど、まともに相手してらんないわね……」
魔道でも、剣でも、個々の能力でも破れない盾。加えて厚い装甲と跳び抜けた身体能力。
―――方法は三つ。一点集中で『盾』を砕くか、分散攻撃で必中を狙うか。あるいは……
「……」
カノンは一瞬だけ、瞑目する。くぐもった、地を這うような声をさえずる悪魔が、身を低く構え、正面に鎮座している。
ちゃき、と刃を構え直し、再び走り抜けて特攻した。
少女の刃が、まっすぐに悪魔に向かっていく。金の髪が靡いて、碧い瞳が迷いなく黒い壁へと激突する。
「……」
強大な悪魔の影から、それを眺めながら、イリーナは苦痛に顔を歪める。
短い呼吸を繰り返す。消耗が激しい。大量に魔力を消費するとは聞いた。でも、まさかこれほどとは。
苦し紛れに上げた視界に、かつての親友の姿が見えた。
―――ルナ、ちゃん……
どうして?
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
彼女はあんなに優しかったのに。あんなに優しかったのに、五年という月日は人を変えてしまうものなのだろうか。
「……」
ぽろり、とまた瞼の奥が熱くなる。
駄目だ。これで、これで愛した一人の男を救えるのだ。泣いては駄目だ。こうしなければ、こうしなければ―――。
『あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!!』
ずきり、と痛む。どこが痛むのか、わからないけれど。
違う、違う……私はあの人を救いたいだけ。大好きな、大好きな人を救いたいだけ。あの人を―――
ずきん……ッ
「ッ!!」
浮かんだ情景に、今度は明確に、体の芯が、胸が、痛みを告げる。
……いつもそうだ。
いつもいつも。
彼を思い出して、思い描くたびに、隣に座しているのは私じゃない、彼女。彼は私の方を見てくれなくて、普段心から笑うことが少ない彼が、珍しく本当に笑っていても、その笑みは私が引き出したものじゃない。
―――う…ッ……
ぽたり、ぽたり、と胸元が得体の知れない雫で濡れる。
親友は優しかった。彼女は優しかった。彼へ向けて悪態を吐くその態度の中に、他の人間には見せないあったかいものがあることを、イリーナは知っていた。たぶん、彼女は知らなかったけれど。
だから、尚更悔しかった。
でも彼女は、イリーナの想いを知って、応援するからと、自分は何も思って無いからと。
だから、その心遣いを利用してきた。彼女は高潔で、誰よりも優しかった。だから、それに寄りかかり、甘えて、利用した。だから自分は、どうしようもなく、ずるくて狡い女だった。
それでもいい。とんでもなく惨めでも、欲しいものが手に入るならと思った。
でも、それが裏切られて。
期待が破られて。
イリーナにとって都合の良い事情を、悪魔は囁いた。
泣いた。
裏切りが痛いと泣いた。そして彼女を罵った。自分は正しいことをしているはずだった。
彼女が嘘を吐いていたのも、イリーナの想いを裏切ったのも本当。
彼女がシンシアという国の人と一緒にいたのも、彼を救いたいと想うイリーナの心も、本当。
……彼が、見ているのは自分じゃないことも。
彼女が、ずっとイリーナのことと同じくらい、彼のことを想っていたのも、きっと本当。
「うぅ……ふ、くッ……」
もうすぐ、これが終わればずっと憧れていた彼が自分のものになってくれる。そのはずなのに、この痛みは何故なのだろう。
もう何も厭うことはないはずなのに。
もうこんな痛み与えないで。
裏切ったくせに。
私の想いを、先輩を、裏切ったくせに。
何で、何で―――
こんなに、"ごめんなさい"と口にしてしまいたいんだろう―――?
楽になりたいと、いや、そうすれば楽になれると思っている自分がいるんだろう―――。
だって、こんなこと最初から知っていた。
彼が自分を見てくれていないことも―――
彼女には到底、正面からじゃ敵わないことも―――
ああ、そうか。知っていた。最初から、知っていた。でも、私は馬鹿だから―――
………理解[わか]ってるけど、納得[わか]っていないのだ。
「ルナ、ちゃん……」
小さく呟いて、視線を上げる。戦っている。自らが呼び出した魔物と戦って、傷付いて、虚ろな目をしながら。
彼女の友人たち。まっすぐで、とても強くて。私だって、彼女の親友だったはずなのに。
―――私は……。………?
そこで、唐突に気が付いた。悪魔と攻防する影が、彼女を含めて、四つしかないことに。
「―――ッ!!!」
気づいた瞬間、背後に気配が生まれる。慌ててイリーナは振り向こうとして、
がっ、と細い肩を掴まれた。しゃきんッ、と澄んだ音がして喉笛に冷たくて、痛みを伴う不思議な感触。思わず顎を逸らす。
「う……ッ!?」
賢明に下を見て、愕然とする。冷たい感触。嫌に鋭い刃。剣の刃先。
ぴたり、と悪魔が動きを止めた。
「……すまないな。あまり手荒な真似はしたくないが、そうも言っていられない」
「……」
耳元で、聞き覚えのある静かな低い声が聞こえた。
「レン、さん……」
いつのまに背後に回っていたのか。無口で静謐な刃を、金の髪の少女の片割れが突きつけていた。
「あれをしまえ。あのままでは、お前のためにもならん。ここで脳に障害でも負ったら、あの男を助けるも何もないだろう?」
「く……ッ!」
強大な敵だとしても、召還獣は召還獣。手持ちのカードで破れないなら、一番手っ取り早いのは術者を抑えること。
元・違法者狩りであるカノンやレンにとっては定石だった。
カノンはレンが悪魔の、イリーナの背後に回れるまでの時間稼ぎが出来れば、それで良かったのだ。
「こん、な……ッ!」
「大人しく投降しなさい……。貴方のためにならないわよ」
「誰が……ッ」
「イリーナッ!!」
悲痛とさえとれる声が、イリーナの耳に届く。はっ、としてそちらを見やると、拳を握り締めたルナが歯を食い縛りながらこちらを見ていた。
裏切ったのは彼女の方なのに、何故、こんな泣きそうになるのだろう。
「ルナ、ちゃ、ん……」
「イリーナ……、もうやめなさい……。あれは、あんたに扱えるものじゃない。
あんたが傷付くだけよ」
「……五月蝿いよ」
「イリーナ……ッ!」
「ッ、そうやって……ッ!」
声が荒ぶる。抑えようのない熱いものが、胸元から押しあがってくる。
駄目だ。救世主となるはずの人間が、吐き出していいものじゃない。そうは思っていても、止まらない。
「そうやって……ッ! そうやって、いっつもいっつも、ルナちゃんは私の先を行って……ッ!!
私に出来ないことを、私には手に入らないものをッ、ルナちゃんは出来て、手に入れて……っ!
どうせ、笑っていたんでしょうッ!? 上手く掌で踊る私を見て、見下して、何にも出来ない、何にも手に出来ない私を見て、どうせ……どうせッ、いつも馬鹿にして笑っていたんでしょうッ!?」
「ッ……」
「何で? 何で先輩まで、ルナちゃんのものになっちゃうの……ッ!?
何で、私は、私は……ッ!
ッ親友面しないでッ!! いつも、今でも私のこと笑ってるくせにッ!! もう甘い顔して友達なんていわないでッ!! 何も期待させないでッ!! どうせ、どうせ……ッ!」
「違うッッッ!!!」
「―――ッ!」
激昂が、洞穴の中でびりびりと響く。雷のように放たれた、ルナの叫びにも似た重い叱咤は、イリーナの耳を、全身を貫いて言葉を止めさせた。
茫然と、イリーナはおそるおそる、激昂を吐き出した彼女を見た。
爪先が白くなるほど握り締めた拳が、小刻みに震えていた。
「あたしは……ッ、あたしはあんたを見下したことなんて一度もないッ! 馬鹿にして笑ったことだってないッ!!」
「嘘ッ! だって……ッ!」
「確かに……カシスとのことは認めるわ。あんたを……騙してたことも否定できない。あたしがつまらない意地を張ったせいで、あんたをここまで傷つけたことを―――情けなく思ってる。
―――ごめんなさい」
「―――ッ!」
「……あたしたちの研究が流出して、それを操っていたのは、黒幕は、エイロネイアの刺客だって話を聞いた。だから、真実を知りたかったから、敵国のシンシアに加担した。
でもッ! それにあんたやカシスを巻き込む気なんてなかったッ! あんたたちには……、あんたたちにはこのまま、帝国で平和に暮らして、生きていてくれればそれで良いと思った。
……それが出来なかったのは、あたしが、弱かったから。何も出来ないのは、あたしの方よ。
結局、あんたをこんなにして、巻き込ませてしまった。
あたしだって、もうどうすればいいのか解らない。でも、これだけは言える」
ルナは俯かせていた面を上げる。緑青の瞳を、泣き崩れた少女の真っ赤になっている大きな瞳と交わらせて、はっきりと言い放つ。
「あたしはッ! あたしはあんたを何も出来ない人間だなんて思ったことは一度もないッ! 今だって、大事な可愛い妹分だと思ってるッ!
何でもっと早く、本当のことを言わなかったのか後悔してる……ッ! あたしはもうこれ以上、あんたと戦いたくなんてないッ!!」
「・・・ッ!」
叫んだ後、ルナはふっ、と力が抜けたように息を吐いた。瞳に涙を讃えていたイリーナは、信じられないものを見たような目で、小さく震えながら、その彼女を見ていた。
ルナは、もう一度顔を上げて、ゆっくりと手を差し伸べながら、ぎこちなくも優しい笑みを浮かべ、
「……イリーナ、お願い。もう一度、あたしにチャンスをちょうだい。
それで、ちゃんと話し合いましょう? 今度は、嘘なんて吐かない。もう一度だけ、二人で話を、しよう? あたしに、ちゃんと謝らせて欲しいの。勝手だけど、一生のお願いよ……」
「……ッ」
ぐらりと視界が揺らいだ。痛い、いたいイタイイタイ……
とんでもなく、胸が痛い。
少し前なら、その細い腕に迷うことなく縋ることが出来たのに。力が抜けていく。
「………私…、わた、し、は………」
ほんの僅か、彼女の瞳に理性の色が灯る。その僅かだけれど、救いの色に、カノンはほっとしてシリアやアルティオと視線を交わした。
軽く首を振って、レンが剣を収め―――
―――ようとして。
きんッ!!
「ッ!?」
棒立ちだった悪魔の足元に、小さく音を立てて、赤く不気味な刻印を描く魔法陣が広がった。
「な、何……ッ?」
「え……?」
ぎょ、としてイリーナが声を漏らす。その驚嘆の一言に、この陣が、彼女の張ったものではないことを物語っている。
カノンの胸を、嫌な予感が掠めて走る。クオノリアで生み出された、あの『ヴォルケーノ』を利用して造られた合成獣。あのとき、あの獣は、制御を無くして暴走した。
―――いけない!
カノンは剣鎌[カリオ・ソード]を構えて走る。だが、それより早く、悪魔は泣き濡れた少女を意志なき瞳に映した。
ごうッ!!
「ッ! しまった……ッ!」
悪魔は太い片腕を、イリーナを拘束していたレンへと叩き付けた。すんでで避けた彼は、しかし、風圧で後ろまで飛ばされて、その彼に支えられていたイリーナはバランスを崩してころん、とその場に転がった。
カノンの刃は―――間に合わない。
どしゅ……ッ!!
「ッ、あ……ぁ、あ……?」
小さな呻きが漏れて、時間が、止まった。
ぼたり、と暗い床に、赤黒い斑紋が広がった。吊り上げられた少女は、何が起こったのか解らないといった表情のまま、茫然と自らの胸を見る。
鋭く伸びた、悪魔の腕に生えた刃。その歪なラインを描く刃が、少女の体を貫いて、吊り上げて、赤い斑紋を描いていた。
「ぁ……あ、い、ああああああああああッ!?」
「イリーナぁぁぁッ!!」
「ルナッ!」
悲痛の叫びが重なった。衝動的に駆け出そうとしたルナの身体を、慌ててアルティオが抑えた。
カノンは唇を噛み締めて、その悪魔を見上げ―――
目を丸くする。
ぞくり、どくり………
岩肌が、イリーナの身体を抱え上げた悪魔のその腕の脈が、どくり、どくりと異様に波を打っている。そして、
びゅるッ!!
「ッ!?」
「な……ッ?」
不自然な、深い緑色をした脈が、そのまま腕から突き出した。びちゃり、とその気色の悪い脈から漏れた体液がイリーナの頬と服を、周囲の岩肌を、濡らす。
そして、その脈はずるり、と孤を描き、掲げられた少女の身体に突き刺さった。びくんッ、と彼女の体が痙攣する。
「あ、ぁ……ああ………」
どくんッ、と脈が鳴るたびに、イリーナの体が苦しげに痙攣する。ぼたり、と緑色をした体液が、脈の間からまた漏れた。
「イリーナぁッ!!」
ルナの叫びに、はっ、と気がついたカノンが刃を持ち上げて跳んだ。狙いは、脈と彼女の身体を拘束する太い腕。
振りかぶったその銀の刃を、渾身の力を込めて叩きつける!
が、
ぎんッ!
「……くッ!」
腕を中心として『盾』が広がる。腕にかかる圧力に、カノンの顔が苦悶に歪んだ。
イリーナの瞳から、光が、消えた。
瞬間、
悪魔の足元に広がった魔方陣から、膨大な赤い光が放たれた。
どれくらい目を閉じていたのか。
一瞬であることを願いたい。再び、吹き飛ばされて、赤い光に目を瞑っていた。我に返って身を起こした時には、既に赤い光は消えていて、馴れない暗闇に目を擦る。
そして、つい先ほどまで悪魔の鎮座していた場所を見やって―――
「・・・ッ! な、何で……ッ?」
言葉を、失った。
「い、イリーナ……ッ」
絶望的な呻きが、ルナの口から漏れた。アルティオも、シリアも、そしてレンさえも絶句してそれを見上げていた。
そこにいたのは、悪魔だった。
ああ、そうだ。悪魔だ。先ほどと同じ悪魔だ。
けれど、その肩口や脳天からはいつかと同じ、赤い、赤い亀裂が走って、細い眼は蠢くようにぎょろりぎょろりと動いていて、だらだらと足元に汚らしい黒とも緑ともつかない体液を垂らしている。
そして、最も異様だったのだのは。
その右の肩口に、そこだけ埋め込んだように、人間の上半身がめり込んでいた。
いや、違う。上半身だけが無事で、そこから下が悪魔の体の中に飲み込まれているのだ。肩口にぽっかりと開いた、二つ目の口に。脈のような触手が蠢いて、上半身をも飲み込もうと暴れている。
その上半身は、蜂蜜色の髪を振り乱して、眠るように目を閉じて、赤い血を流して、顔に、幼くそばかすを張りつけた、
「いッ、イリーナぁッ!!」
「な、何よ、これ……ッ!」
「こ、こいつは……ッ! ど、どういうことなんだッ!? おい、ルナッ!?」
半狂乱で囚われた友人の名を叫ぶ彼女に、なけなしの冷静さを振り絞ってアルティオが怒鳴る。しかし、彼女はやはり半狂乱でぶんぶん首を振るだけだった。
こんなものは知らない。
後付された、醜悪で、あってはならない悪魔の機能。
飲み込まれている。人が、彼女が、あの悪魔に、自ら召還したはずの合成獣に―――喰われているのだ。
ぎしゃぁああぁぁぁぁあぁあぁあぁああぁッ!!
無情を語るように、獣の雄叫びが上がる。
黒の少年は、もう既に、用意していたのだ。最後の、最悪な、悪魔の罠を。
「―――くッ!」
カノンは剣鎌[カリオ・ソード]を握り締める。とにかく、止めなくては。まだ完全に取り込まれたわけじゃない。急げば助かるかもしれない。一抹の希望であっても。
シリアとアルティオに激を飛ばす。アルティオは武具を構えて悪魔に向き直り、シリアは慌てて呪を紡ぎ出す。ルナの方を向く。
「ルナッ!! 止めるわよッ!! 急げばまだ間に合うかもしれないッ!!」
「くッ、け、けど……ッ! このまま倒せても……ッ!!」
ただ彼女を巻き込むだけになりかねない。迷いと、絶望が、きりきりと音を立てて彼女を覆う。
「ルナッ!!」
「ッ!?」
暗闇を切り裂くように、ルナの手元へ光る物が飛来した。反射的に受け止めると、それは、あの悪魔を封じていた小さな鏡だった。
鏡を拾い上げ、投げた本人―――レンは剣を携えながら怒鳴った。
「全員でサポートする。あれを封じてしまえッ!!」
「け、けど……ッ!」
「使ったら、あの娘も巻き込むの?」
「い、いや、封印具は悪魔の気にしか反応しないはず……ッ! たぶん、大丈夫だとは思うけど……ッ!」
「じゃあ、迷うことないでしょうッ!? 早くしないとッ!!」
「でも、あのときとは場合が―――ッ!」
レンの整った眉がつり上がる。次の瞬間、
「馬鹿かッ、貴様はッ!!」
普段の彼らしからぬ音量で、激が飛んだ。
「ここにいる全員が諦めてないんだッ! 貴様が真っ先に諦めてどうするッ!?
貴様の覚悟は、ルナ=ディスナーは、所詮、その程度の魔道師かッ!!?」
「・・・!」
侮辱にも等しい叱咤に、ルナは歯を食い縛る。彼女を飲み込みつつある悪魔を見上げる。
痛々しい姿に、汚れていく蜂蜜色の綺麗な髪に、ぎりぎりと胸が締め付けられた。
「ルナ」
「……」
「やろう。あたしたちを自由に使ってくれていいッ! 全力で、力を貸すよッ?」
「……ッ」
幼馴染で、妹分だと思っていた少女が、大人びたまっすぐな力強い瞳を向けてくる。
手の中の手鏡が、小さな音を立てる。それに映る自分の姿は随分とちっぽけで、惨めだった。
でも。
「―――」
ぎゅ、と力を込めて、彼女はその鏡を握った。
ぎゃしゃあああぁあぁぁぁぁッ!!!
「ぅおおおおおッ!!」
悪魔の咆哮と、アルティオの走り抜ける叫びが重なる。悪魔は頭を振り上げながら、左腕で彼の右の剣を受け止める。
ぎぎんッ!!
鈍い音で岩の肌と剣が軋み合う。僅かな瑕をつけるだけで留まった。アルティオは構わず、左のもう片方の剣を悪魔の体の側面へと叩きつける!
きんッ!!
『盾』が空を歪めて、その刃を受け止める。ぎりぎりと軋み合う双方の刃に、しかし、アルティオは小さく笑みを浮かべた。
「カノン!」
「覇ぁぁぁぁぁッ!!」
特攻をかけたアルティオの軌道から大きく外れたカノンが、刃に黒い力を携えて、悪魔の背後から切りかかる。悪魔のぎょろり、とした目がその残像を捕らえた。
きゅいん、と音がして、背後にもう一つ『盾』が具現化する。
「くッ!」
カノンは寸前で刃を止めて、後ろへと下がる。アルティオは刃を軋ませたまま、額に脂汗を浮かせて、唇を噛んだ。
「我望む、切り裂くは烈風の残歌、唸れフォーンバラッドッ!」
シリアの声が飛んだ。その呪が、アルティオの周りに白く空の弾を浮き上がらせる。刃を逸らせたアルティオは、その場にしゃがみ込む。
どむッ!!!
くぐもった音と共に、空弾が爆縮する。わずかに悪魔が怯んだその隙に、アルティオは引いて、構え直し、再び斬りかかった。
カノンは引いて、悪魔の正眼に回る。そして小さく、『魔変換』の呪を紡ぎ出す。
『盾』に向かって、刃を薙ぎ払ったアルティオが、不意に脇に逸れた。
「我放つ、貫くは勇なる炎華の矢、放てフレアアロー!」
きゅどどどどッ!!
そこへ、シリアの炎の矢が降り注ぐ。だが、それも、視えない『盾』に阻まれて虚しく散った。
アルティオの舌打ちが聞こえた。
――― 一点集中でも砕けない。『盾』は一つじゃない。
カノンの表情が歪む。
悪魔が、何事か呻いた。ぐにゃり、と胸の前の空間が歪む。ぼうッ、と浮かぶ紫色の光が見えた。暗闇に浮かぶ、魔力の光。
アルティオが引いた。
じゃき、と傍らで音がした。レンが破魔の剣を構えるところだった。
「……お願いね」
「お前もな」
シリアとルナの呪が、小さく背後で聞こえる。カノンは構えた剣鎌越しに、その光を睨んだ。レンが、正面から悪魔の胸板を狙って地を蹴った。
緊張が走る。
収束した紫色の光が悪魔の咆哮に呼応して、直線に放たれた。
ごうッ!!
身を屈めたレンの脇を、魔力光が通過する。棚引いたマントの端を焼いて、魔力光は彼の背後へと伸びる。
正面からその光を受け止めたのは、カノンだった。
「ッああああああああッ!!」
ぎりぎりを読みきって、魔力光の中へ刃を躍らせる。びゅるッ! と風を切る音がして、紫の光は黒へと姿を換え、渦巻いて、彼女の銀の刃へと収束した。『魔変換』の呪によって、悪魔の生み出した力が、カノンの力へと変換される。
同時に、カノンはレンを追って走る。
その間に、レンが振り上げられる悪魔の腕を交わし、懐へと飛び込む。
『盾』の形成に、空間が歪む。
シリアの呪が完成したのは、このときだった。
「我求む、奪うは強者が讃えし異能の力、失せよカオティックイレーズッ!!」
『盾』の真正面に、真っ白な光が浮かぶ。普段は術の解呪に使われる魔法だ。レンの剣は魔を否する護符の剣。
術と剣、二つが重なったとき、相乗効果はあらゆる魔力を奪い取る。
形成された、魔力の『盾』もまた、例外ではない。
ばぎッ!!
鈍い音を立てて、レンの一振りで『盾』が霧散する。新しい『盾』を生むために、空が歪む。
だが、それが形成されるより先に、レンを追うようにして走り抜けたカノンの刃が、彼の脇をすり抜けて、悪魔の、その無傷だった腹に突き刺さった!
ぎゃぁあぁぁああぁああぁぁぁぁッ!!!
悪魔の耳を裂くような声が轟く。しかし、カノンは少し表情を歪めただけで、刃に更なる力を込める。
「覇あああああああああああッ!!」
絶叫して、力任せに悪魔を刃で押し倒す。そして、その岩の肌を、冷たい石床に縫い止めた。
「ルナッ!」
後方のシリアの声と共に、きんッ、と音がして小さな鏡が頭上に投げられる。手を広げたルナに呼応して、悪魔を中心として、巨大な黄金の魔方陣が広がった。
光が走り、複雑な紋様を描きながら、魔力を高めていく。
悪魔が苦しげに呻く。肩口に張り付いた、蜂蜜色の髪がそれに合わせて揺れた。逃げようともがく悪魔の身体を、カノンは己の腕一本で必死に押さえつける。
その耳に、ろうろうと、呪が響く。
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、永現の槍、無知なる翼。
聖なる黄金を律する天使の在り処、此処に封じるは七つの大罪たる堕落の悪魔。
魔を統べる二つの月よ、我嘆かんと嘆くのならば、六大天の怒りと裁きを具現しさしめよ―――」
ルナは奥歯を噛み締める。減少していく魔力。魔力も、そして体力も限界を迎えていた。口の中に鉄錆の味。込み上げる吐き気は、尽きた魔力の証拠。
しかし、最後の力を振り絞って、その呪を紡ぐ。
「我求む、律するは黄金の天使、封ずるは闇黒の悪魔、誘え―――ッ」
「デモンズシールッ!!」
黄金の魔方陣が、洞穴を埋め尽くすまでの、眩い光を放った。
←12へ
ラーシャ=フィロ=ソルトは悩んでいた。
勿論、昨夜の彼らの衝突についてだ。
彼ら同士の決定の衝突だ。ラーシャに直接の原因はないだろうが、それでも一因はあるだろう。そしてその一因で頭を悩ませている。元来より、律儀な性格なのだ。
「ラーシャ様、あまりお悩みにならない方が」
「ああ、解っている」
肩を並べて高級住宅街を歩く従者に咎められた。
「……あれは彼らの決定で、彼女の決意です。我々がどうこう言えることではありません。
いえ、むしろ下手に否定や肯定することは侮辱にも当たるやも」
ラーシャに比べて、配下のデルタの方が幾分さっぱりしている。ただ割り切るのがラーシャよりほんの少し得意というだけで、けして冷たい人間ではない。むしろ、そういったところに、ラーシャは何度も助けられている。
短い溜め息を一つ、吐く。
「それに、どういうことだ。エイロネイアが、ルナ殿のご級友を誘拐などとは……」
ラーシャは親指の爪を小さく噛んだ。彼女にしてみれば、敵国といえどゼルゼイルの一部であるエイロネイアが、カノンたち他国の民間人を巻き込もうとしていること自体が許せなかった。だから、その友までもを翻弄しようとする彼らが信じ難いのだ。
ゼルゼイルの代表として、かどわかされた彼女を救いに行くべきなのはラーシャたちなのだろう。無論、それも主張した。だが、今の段階でルナと連絡可能なのはラーシャたちしかいなかった。
ラーシャの任務は、エイロネイアの刺客によって、他国の民間人―――カノンたちが傷害を負わないよう保護すること。任務からすれば選択は誤っているのかもしれない。
しかし、ルナに伝えなくてはと思うカノンの願いも、友人が傷つけられることを良しとしないルナの想いも無視できるほど、ラーシャは器用ではなかったのだ。
「ラーシャ様……」
「何も言うな。今は一刻も早くルナ殿に現状を伝える。そして共にカノン殿たちの援護に急ぐ。
それだけだ」
「はい」
シンシアの、いや、ゼルゼイルの騎士として、為さねばならないこと。果さなければならない任務。望んだゼルゼイルの在り方と、人としての矜持。どちらも、というのはやはり欲張りなのだろうか。
自然とラーシャの足並が速まった。
数日で馴れてしまった通りに差し掛かり―――
気がついた。
きな臭い。
郊外の屋敷のために人通りはほぼない。だというのに、向こう側が妙に騒がしいのは何故だ。
「ッ……ラーシャ様ッ!」
「な―――ッ!?」
デルタの鋭い声が飛ぶ。その視線は、高い上空にあった。
同じ視線の先を追い、ラーシャは絶句する。
「あれは……ッ!」
夕暮れの近い、蒼と黄昏のコントラストに、暗い影が下りる。ラーシャたちの爪先の向く方向、ディオル=フランシスの屋敷の周辺から、遠目にも判断できる、小さく舞う火の粉と火花、濃い灰色の煙が立ち昇っていた。
炎が舞っている。
目の前で、踊る。
発された熱が、容赦なく肌と肺を焼いていく。がらがらと崩れているのは、壁か床か、それとも己の自信なのか。
それは夢か、現だったか。
―――熱い……
全身が焼かれるような熱気が、辺りに満ちている。額から垂れた汗が、意識を取り戻した最初の感触だった。
そして、一気に目が覚める。
「―――ッ!!? ぐぅッ、けほッ、がッ……!」
気が付いて息を吸った瞬間、肺の中が焼ける。いつかの、あの炎の館を走り抜けたときのように。
そして、
「ッ! な……ッ!?」
目の前に赤い光が満ちている。いや、光なんてものじゃない。
木とレンガ、それから石が焼けて溶けるじりじりとした快音。ごうごうと耳障りな、暴風のような音。そして皮膚を炙る大量の熱。
絨毯の隅は焦げて灰に溶けていく。壁伝いに、ちろちろと紅い影が、建物を舐めるように立ち上る。ばちばちと、火花が散って、猫足のテーブルが轟音を立てて倒壊した。
向こう側の景色が揺らいでいる。
部屋全体を包み込んでいる、その焔の熱が生む陽炎で。
「こ、これは……ッ!」
動揺の声を漏らしながら、反射的に立ち上がろうとして、
ぐッ……
「ッつ!?」
出来なかった。後ろ髪を引かれて無様に転倒する。
「な……ッ」
振り向いて言葉を失う。
ルナの長い髪が、壁際のチェストに挟まれて固定されているのだ。無理矢理引き抜こうともがいてみるが、妙に深く噛まれている。びくともしない。魔法を使おうとするが、自身の体と近距離過ぎる。もし、外せたとしても、その後、怪我をして動けないのでは意味がない。
気絶するすぐ瞬間の映像を頭の中へフラッシュさせる。
確か、ディオル=フランシスを刺した。足元には彼が倒れていて―――
「ッ!」
そこで気が付いた。部屋中に、異様な、酸い匂いがし始めている。はっ、としてドアの方へ目を向けると、白いスーツを着たうつ伏せの肢体が伸びている。そのスーツには、はっきりと、ナイフ一本分の破けた痕があって、その下の絨毯にはじわり、と赤い体液が滴っている。
「……」
自分の手が肉を破る感触を思い出して、吐き気がした。
唇を噛んで、視線を彷徨わせる。足元にあったはずの、彼の体がどこにもない。
そこになって、ルナは眉を吊り上げる。腹が立った。早計すぎた自分の行動に。ルナが見たのは、散らばった白い髪と上着。ただそれだけなのだ。あれが彼だった、もしくは人間だったと、言い切る自信が今はない。
つまりは、罠。
ルナを利用して、ディオル=フランシスを殺させるための、罠。
―――でも、どうして……ッ!?
どうして、こんな面倒なことをしてまで、わざわざディオル=フランシスを殺させる必要があった?
そして、襲撃者は何故自分を殺していかなかった?
いや、そもそもを言うならば。
彼らにとって、ディオル=フランシスを始末するだけが目的ならば、こんな回りくどい方法は好ましくない。何故わざわざルナという目撃者を作る? 何故わざわざこんな不確かな方法で目撃者を殺す?
それにらしくない。屋敷内全体を虐殺など、あの黒衣の少年が行うか?
クオノリアでの合成獣の暴走、ランカースフィルでの医師の扇動。共に無関係な人間を巻き込んだ。だが、それは合成獣やフェルス医師を通してやってのけた。自身は何も手を出してはいない。こんな後に証拠が残るような、大胆で乱雑な真似はしなかったのだ。
ならば何故―――?
これではまるで……
これでは、まるで。
「ルナさんッ!」
「ルナ殿ッ!?」
「!」
声にはっ、と顔を上げる。
「ラーシャ! デルタッ!」
「ルナさん、今助け……くッ!」
倒壊したドアの向こうに焦燥を顔に貼り付けた女軍官と従者の姿が見える。デルタが必死に結界を保ち、炎から身を守っているようだった。
彼らは部屋の中に踏み込もうとしているが、倒壊したドアに阻まれて近づけない。
炎が回りすぎていて、ちょっとやそっと消したくらいではどうにもならないのだ。
止めを刺すかのように、ドアの近くにあった食器棚が熱に耐えられず、崩れ落ちてがちゃんッ! と中身を巻き散らしながら倒れ、炎上する。
陽炎の向こうにあった二人の顔が、それに阻まれて見えなくなる。
「ルナ殿……ッ!」
「駄目です、ラーシャ様!!」
ルナは歯噛みする。
このままでは、三人共々、炎に撒かれてお陀仏だ。
「ラーシャ! デルタッ! さっさと行ってッ! それでこのことをカノンたちに伝えてッ!!」
「ルナ殿ッ! だが……ッ!」
「あたしなら大丈夫ッ! 壁ぶっ壊してでも自力で脱出するッ! それより早く!!
奴らが何かしでかすつもりかもしれない!! 早く行ってッ!!」
「ルナ殿……ッ!」
激しい逡巡の色。続いてデルタが何かを諭すような小さな声が聞こえる。
土壇場では彼の方が冷静だ。やがて、炎の向こうから男性にしては高い声が響いてきた。
「ルナさんッ! 脱出したら、町の外の洞穴に来て下さいッ! カノンさんたちはそこに……ッ!!」
―――洞穴?
どういうことだ? 何のために、カノンたちは……。
「貴女の旧友―――イリーナ=ツォルベルンさんが奴らに誘拐されました!
それでカノンさんたちを誘い出しに……ッ!」
「ッ! 何ですって……ッ!?」
血が凍る。何故、イリーナが。彼女こそ、何も関係ないではないか。何故……ッ!
問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。だが、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。
天井の梁が、音を上げてがらんッ!と転がる音がした。
「……詳しいお話は後でッ! では、先に行きますッ!!」
「ッ! わかったわ……ッ! 頼んだわよッ!!」
「そちらこそご無事でッ!!」
ばたばたと、廊下をかける二人分の足音がする。それを遠くで聞きながら、ルナは茫然と炎の上がる食器棚の残骸を眺めていた。
何故……?
何故、イリーナが巻き込まれた? 何故、奴らはイリーナを……?
ゆらゆらと、瞳の中で炎が揺らめく。
それはいつかも見た光景。ルナの大嫌いな、すべてを焼き尽くした焔の脅威。そして、最初の思考に辿り着く。
これでは―――
これでは、まるで……、
「………は、ははは…」
空笑いと、こんな状況だというのに、目の奥が熱くなった。俯いた先の絨毯が、かすかに濡れた。
振り払うように、きっ、と視線を上げる。
確かめなければ。
こんなところで死んでいられない。
視線を巡らせたルナの視界に、先ほどディオルを刺したナイフが飛び込んでくる。どこに落としたか記憶はなかったが、ともかく、それが少し離れた場所にある。
「……」
手では届かない。
熱で焼けた絨毯に、足を伸ばす。届くすんでで、くんッ、と髪が引っ張られた。
「ッ! く……ッ!」
足先が震える。下手をすればもっと遠ざけてしまうだろう。
最初にして最後の賭けだ。もう手はありえない。
三センチ、二センチ、一センチ……
引かれる髪の痛みを堪え、必死に足を、身体を伸ばす。歯を食い縛り、走る痛みに耐えながら。
からん、とどこかで音がした。
「ッ!?」
天井を振り仰ぐ。
石埃が、砂が、わずかに振ってきた。天井に下がったタペストリが炎に塗れている。留め金が、熱にぐらりと揺らいだ。
そして、あっけなく。
ルナのちょうど頭上にあったその布切れは。
支えを失って彼女に降りかかった。
「―――ッ!」
声にならない悲鳴が、上がった。
「・・・くッ」
抜き放った剣の鞘を薙ぎ払ったレンは、呻いて利き手とは逆の二の腕を押さえた。剣の鞘の切っ先に胴を打ち付けられた少女は、数歩よろめき、二度跳んで距離を取る。
「レン!」
押さえた二の腕から、僅かに血の雫が垂れている。ナイフの突き立てられるすんでで、背に庇われたカノンが、悲痛な声を出した。
レンは傷口をちらり、と見て滴る血を拭う。
「安心しろ、ただの掠り傷だ」
「ッ!」
「く……ッ!」
シリアとアルティオが彼の両脇を固めるように、横に並ぶ。
レンの肩を押しのけて、カノンは前に出た。真正面に、ナイフを握り締めた少女が一人、項垂れて立っている。暗い洞穴内では、どんな表情を浮かべているのか、にわかには判断できない。
だが、聞きたいことは一つだった。
「あ、あんた、何やってんだッ!?」
カノンの第一声を、アルティオが代弁する。言葉を叩きつけられた彼女は、面を上げた。
「ッ!?」
全員の表情が戸惑いに歪む。
顔を上げた少女の瞳から、うっすらと、光る筋が流れていた。くしゃり、と歪んだ表情が、潤んだ瞳が懇願するように訴える。
「貴方たちのせいで……ッ! 貴方の、せいで……ッ!」
「……?」
「返して。私の、私の……私の大好きなルナちゃんと先輩を返してッッッ!!!」
「な……ッ!?」
少女の悲鳴に近い叫び声が、洞穴内に響いて木霊する。溢れ返る涙はそのままに、ローブが濡れていくのにも構わず。
「ちょ、どういうことよッ!? 私たちが何をしたって言うのかしらッ!?」
「とぼけないでッ! 私、見たんだもの。貴方たちと一緒にいたあの女の人。あの人! あの人、シンシアとかいう戦争屋なんでしょうッ!?」
レンの脳裏に、つい先日、この少女と目撃した光景が蘇った。
「……あの人が、貴方たちが、ルナちゃんを、先輩を騙してるって……!
シンシアが、ルナちゃんを利用して、先輩を、先輩を自分の国の駒にする気だって……ッ!
貴方たちも、その仲間だって、貴方たちがいるからルナちゃんは裏切れないってッッッ!!!」
「なん、ですって……?」
涙を流したまま少女は絶叫する。それを受け止めるカノンの方が、頭を混乱させていた。
騙している? 誰が? 自分たちが、ルナやあの魔道技師を? 一体、どういうことだ?
「そんな出鱈目、誰が……ッ!」
「出鱈目なんかじゃないッ! "あの人"が、"あの方"が教えてくれたもの! そうじゃないと納得できないッ! じゃなきゃあ、ルナちゃんが、ルナちゃんが先輩にあんなことするはずがないッ!!
先輩と、ルナちゃんの関係を利用して、味方につけて、戦争なんかに放り込む気なんだって!
自分たちの代わりにッ!!
返してッ! 私の、私の知ってるルナちゃんと先輩を、私のことを大好きでいてくれる二人をッ、私に優しくしてくれる二人を返してよぅッ!!」
「……ッ!」
レンは絶句する。
まただ。また"あの人"、"あの方"。
そう呼ばれる一人の少年の姿が頭を過ぎる。茫然とする三人とは対照的に、激しい後悔が、やるせなさが、レンの中を渦巻いていた。
あれは前戯だったのだ。あのとき、あの影に足止めをし、継いで現れた少女をまんまと足止めさせてしまい、ルナとラーシャ、二人の姿を目撃させた。
あれもまた、少女にこの刷り込みをさせる前戯だったのだ。
少女の激昂具合から、まさかあれだけで出鱈目を吹き込まれたのではないだろう。昨夜のうちに、一晩のうちに何かがあったのだ。何かが。
「待ちなさいッ! あたしたちは別に、あいつらと手を組んだりはしてないし、ルナを騙してもいないわッ!!」
「嘘ッ! そうじゃなきゃ納得できないッ! 絶対に信じないッ!!」
「ッ! あのねぇ……!」
「貴方たちが死ねば、先輩はずっと私のところにいてくれる。戦争なんかにいかないし、私のところに帰って来てくれる……! ルナちゃんだって……! 許せないけど、許せないけど……!
そう、許せないけど……ッ!!
でもでもでもッ! 貴方たちはもっと許せないッッッ!!!」
「……ッ!」
叫び、涙に濡れた瞳は、もう正気を宿してはいなかった。呻き、唇を噛む。
駄目だ。たぶん、彼女の耳に、自分たちの声は届かない。一体なんだ? 何が、彼女をここまで駆り立てる? 一晩のうちに、一体何が……ッ!?
落ち着け、落ち着け。彼女と戦ってはいけない。断じていけないのだ。彼女は騙されているだけだ。
何か、説得の方法を考えろ……!
「……ナイフ一本で、あたしたちを皆殺しに出来るつもりなの?」
「……しなきゃいけないんです。私が、私が先輩を助けなきゃ……。私が、先輩を救ってあげなきゃ。
私だけなんだもの、先輩を、助けてあげられるのは……」
きんッ!
小さな音がした。
同時に少女の足元に、淡い光を放つ魔方陣が広がる。
このときになって、全員が得物を抜いた。
「……我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア」
少女の前に、赤い光が何条か浮かび上がる。そしてそれは加速しながらカノン達へ襲い掛かった。
無論、そんなものには誰も当たらない。
横っ飛びに交わしたカノンは、そのまま少女に向かって走る。せめて峰打ちでもして止めなければ。もうどうしようもない。
イリーナが次の印を切るより先に、カノンが懐に飛び込んだ。
向けられたナイフの切っ先に、足を振るって叩き落す。はたかれたイリーナの顔が苦痛に歪んだ。
唇を噛んだイリーナが、その手を捻り上げようとするカノンに、懐から出した何か鏡のようなものを向ける。瞬間、その至近距離に火花が散った。
「ッ!」
慌てて距離を取る。
浮かんだ火花は、四散してカノンが飛び退る前の空間に被弾する。
魔法具だ。何度かお目にかかったことがある。事前に呪を込めておくことで発動させることが出来る、そんなものだろう。
忘れていた。ルナやカシスに劣っても、彼女も、名門『月の館』で学んだ優秀な魔道師なのだ。
やりにくい。すべてにおいて、やりにくい。
「カノンさん。貴女に初めてあったときは、ちょっとだけ驚いた。でも優しい人だな、って思った。
本当にルナちゃんのことを考えてくれてるんだな、って思った。
でも、でもッ! もう信じられないのッ! 貴方のことも、ルナちゃんのこともッ!!
もう信じられないッ!!」
「ッ!」
目の前に印が描かれる。光の線が、宙に舞い、形を作る。
カノンは舌打ちをして一歩引く。彼女を倒すのなんて簡単だ。『館』で修練は積んでいるといっても、彼女には圧倒的に経験が足りていない。けれど、
周りの、シリアやアルティオが剣の切っ先を向けながらも、迷いに満ちているのは同じ理由からだろう。
レンは静かに、周囲へ殺気を放っている。
確かにおかしいのだ。すぐに昏倒させられるような彼女を、あの周到な黒幕の少年が、一人でこんな包囲網の中に置いていくだけなんて。
カノンは目の前で光る印に構えを取る。
イリーナが、その呪を発動させるための、最後のセンテンスを口にしようと口を、開いた。
ばしゅんッ!!
「ッ!!」
「……?」
その一瞬に、宙に線を描いていた光の陣が掻き消えた。解除魔法だ。狂気に触れた少女の陣を掻き消した魔法は、天上から降って来た。
「る……ルナッ!?」
「………」
天上の、ぽっかりと穴が開けられた空の空間。その淵に、中を覗くようにして、黄昏を背にしながら彼女が立っていた。
おそらくは、飛行魔法で限界まで速度を上げて飛んで来たのだろう。息は上がって、遠目にも肩が上下しているのがわかる。服はところどころ破け、どうしたことか端々が焦げて煤けていた。
彼女は眉間に皺を寄せて天井の縁を蹴る。
そうしてカノンを背にしてイリーナとの中間地点に降り立った。
直に背を向けられたから、カノンはそれに気が付いた。
「る、ルナ……ッ? あんた、その髪……?」
「……」
腰に届かんとしていた彼女の美しいブラウンの髪が、煤けて、無残な長さになっていた。肩よりも短い長さで、記憶にある長い髪が切断されていた。
彼女は無言だった。それを問うのを拒絶するように。
ルナは周囲を伺う。ラーシャたちがいない。何かの妨害にあっているのか、それとも単に飛行魔法を全開にして飛んで来た自分が追い抜いてしまったのか。
それはともかく、一体これはどういうことだ。
何故、イリーナが、カノンに向けて攻撃印などを開いていた? 何故、攫われたはずの彼女と、それを助けに来たはずの彼らが対峙しているのだ。
「イリーナ……、何のつもり……?」
「ルナちゃん……? どうして? どうして、その人たちを庇うの?」
「……庇ってるわけじゃないわ。何で、こんなことになってるかを聞いてるの」
ルナの口調が静かに怒る。語尾には有無を言わせぬ強さが感じ取れた。
「私たちがあんたを騙して、あの魔道技師の男をシンシアに引き込もうとしてるとかどうとか……ッ! そういうほら話を吹き込まれてるのよ、このお嬢ちゃんはッ!」
苛立ったシリアの声が、イリーナの代わりに答えた。ルナが眉間に皺を寄せる。
解らないのだ。どうして、何故彼女が、そんな話を誰にされて、何故信じてしまったのか。
「イリーナ……あんた、何でそんな嘘……」
「嘘?」
きょとん、と。まるで、解らなかった問題を、教わるときのように、イリーナは小首を傾げる。
「うそ、なの?」
「当たり前でしょう!? 何でカノンたちがあたしを騙さなきゃいけないのッ!? 何でカシスをシンシアに、ゼルゼイルなんかに引き渡さなきゃいけないのよッ!?」
昔、よくそうしたように怒鳴りつける。イリーナは決まってその怒鳴り声に耳を抑えて泣きそうになりながら、子供のように俯くのだ。でも、今の彼女はそうしようとはしなかった。代わりに、くすり、と小さく笑ったのだ。
「嘘だよ。そんなはず、ないよ」
「何の根拠があって……ッ」
「……そうじゃなきゃ、納得、出来ないもの」
怒りに肩を震わせるルナを、イリーナは歪めた表情で見る。ひどく乾いた、ひどく哀しい表情だった。涙は、いつのまにか引いていた。
「じゃあ、ルナちゃん。説明出来るよね?
ルナちゃん、昨日の晩、どこで、何をしていたの?」
「―――ッ!?」
虚をつかれた。その一言だけで、胸が抉られる。
鼻と口とを片手で押さえつけ、ふらりと後方に傾く。慌てたカノンがそれを支えた。
顔は真っ青だった。
「自分の宿? 違うよね? カノンさんたちと一緒じゃなかったよね?
じゃあ、どこ?」
「ッ! それは……ッ!!」
言い澱むことなく、適当な嘘は吐けたかもしれない。しかし、少女の乾いた笑いは、幾重にも付いた涙の痕は、その嘘が到底通用するものではないのだ、と如実に語っていた。
乾いた表情を変えることなく、棒立ちのまま、イリーナはさらに問う。
「……いいよ。知ってるから」
「…ッ」
「ルナちゃん、先輩の部屋にいたもんね。仲、良さそうだったね。私、部屋まで行ったから知ってるよ」
「イリー……ナ………」
苦しげな声で、ルナは彼女の名を口にする。にこり、とイリーナの顔に不自然な笑顔が浮かんだ。面だけは可愛らしく、しかしその実、まったく笑えていない。
「・・・何で?」
「……」
「何で、あんなことしてたの?」
ルナは答えない。答えられるはずもない。背徳感だけが、胸の内を貪り喰らう。
青い顔をさらに歪めるルナに、カノンが眉を潜める。
「ルナちゃん、言ったよね? ルナちゃんは私の味方だって。私が先輩を好きなの応援してくれるって。ルナちゃんは何も思って無いからって。ずっと友達だからって。友達だから……勧めはしないけど、応援はしてくれる、って言ったよね」
「……」
ルナは無言だった。好きで無言なのではない。何も答える術を持っていなかったからだ。
自分で決めた道で行き詰まって、昔の仲間に信じてもらえなくて、さらに衝動的に仲間に言ってはいけない言葉を吐いて。そのあまりの惨めさに、昨日の晩、彼に縋った。縋られる人間であろうとしたのに、縋り付いて泣いた。
……それが、すべてを露呈させて、信じ難い嘘を、この親友だと語った少女に信じさせてしまった。
乾いた笑顔で、彼女は口にする。それは、真円の月を砕く、最後の言葉。
「嘘吐き」
「―――ッ!」
それは絶対的な氷の温度を持って、彼女の胸中を抉り取った。彼女の表情が、苦しげに歪む。
何も口に出来ない自分が、酷く情けなかった。
がくん、と彼女の体から力が失せた。
カノンは、自分の腕に支えられながら、今にも崩れ落ちそうな表情の親友を見下ろした。数日で少しだけ痩せてしまった頬と、よく見ればうっすらと隈の出来ている目。
眉を吊り上げて、唇を噛む。目の前の少女に対してでも、黒衣の少年に対してでもない。
彼女が、こんなになってしまうまでに、自分は一体、何をしていたんだろうと。
逆に彼女を追い詰めていただけじゃないか。
彼女たちの間に何があったのか―――シリアによれば、自分は大分鈍感な方に入るらしい。でも、それを推測できないほど鈍くはないつもりだった。
悔しい。その間にいる張本人を今、ここに引きずり出せれば良かったのに。
ぎり―――ッ、と奥歯を噛み締める。そして、今だ不自然な笑いを浮かべ続ける少女を睨みつけた。
「……それで? あんたはあたしたちをボコって、それでその先輩が振り返ってくれればそれで満足なわけ………?」
「……だって、貴方たちが倒れれば先輩はそんな怖い世界にいかなくて済むでしょう?
私と、ずっと一緒に平和なところにいてくれるはずです。だから―――先輩を助けられるのは私だけ。
………ルナちゃん」
ぽつり、と呟かれた少女の声に、びくりとルナの肩が震えた。
「ルナちゃんのこと。許せないけど。とっても許せないけど。
でも、その人たちを殺せたら、特別に許してあげる」
「……ッ!」
「それで、一緒に戻ろう? 昔に戻ろうよ。そうしたら、ルナちゃんもまた優しくしてくれるよね?」
爪が白くなるほど、ルナは拳を握り締める。できるわけがない。まだニード=フレイマーの組織に属していた頃、彼女たちと敵対していた頃。その時でさえ、カノンたちを殺すことなど出来なかった。
それなのに、今さらまた彼女たちを殺せというのか。許しを請うために。その言葉はそれ以上ないほど深く、彼女を抉り、切り裂いた。
カノンは悟る。ルナにはまだ、半年前の罪の意識がある。だからこそ、必死で誰も巻き込まないように一人で全部背負ってしまおうとしたのだ。
もう誰にも、カノンにさえ、自分のことで迷惑をかけたくないから。
カノンは今度こそきっ、とイリーナを正面から睨んだ。
「イリーナ……やめ」
「ふざけんじゃないわよッ!!」
ルナの力のない諫めの言葉を遮って、カノンの声が激を持って飛ぶ。
「カノン……?」
ルナが茫然と立ち上がった彼女の名を呼んだ。カノンは無言で、手にしていたクレイソードを振るう。石と擦れ合った刃が、きんッと澄んだ音を立てる。
「あんたがしたいことって何……? 先輩を助ける……? 昔に戻ろう……?
ふざけたこと言わないでッ!! あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!! それで人一人救うなんて傲慢、ほざくんじゃないわッ!!
そんな自分勝手な想いで人が救えてたら、世界中、哀しい人間なんて誰一人いないのよッ!!」
怒りと共に、カノンは目の前の少女に言葉を叩きつける。レンの目が細められる。小さく頷いた。その想いと汚れざるを得なかった手の意味を、誰よりも近くで見て来たから。
ちらりと、ルナと視線が合った。涙を溜めた目に、らしくないと笑いながら、小さく応えた。
「ごめん、ルナ」
「……」
「……あたしも、たぶん同じだった。
そりゃあ……あんたを、戦争なんかに行かせたくないのは本当だけど……。そんな場所に、行かせちゃいけないとは、今も思うけど……。
あたしにとって平和だと想う世界と、あんたが造りたい世界は……きっと、違うのよね。
あたしも、あたしのあって欲しい世界をあんたに押し付けた。……それで、たぶん、すごい傷つけた」
「カノン……、あんた……」
「ホントにさ……。あたし、いっつも、レンやあんたに甘えてるから……。……そんなふうに思われて………当然ね。
本当に大事なら……本当にあんたのこと考えるなら、違う仲間がいるからとか、魔道師と剣士じゃ違うからとか―――そんなんじゃなくて、何発かぶん殴ってでも本当のこと、聞き出してやるべきだった。そうしたら、戦争に行こうなんて考えるまで、あんたを追い詰めたりしなかったかもしれない。
…………ごめん」
「……ッ」
振るった刃を持ち上げる。一歩、踏み込むとイリーナは気圧されたように後退った。
「ルナにあたしたちを殺させて……、それで本当に昔に戻れると思ってるの……?」
「―――ッ!」
押し殺した声で、カノンが問う。初めて、イリーナの表情に動揺が走った。
だが、それは一瞬のことで、歯を食い縛った彼女はさらに空に印を切る。
「あんたが否定したい気持ちは……解るような気はする。きっと、ルナだって悪いところはいっぱいあったんだろうと思う。
……でも、だからって何の話もしないうちに、自分の空想で友達傷つけてんじゃないわよッ!!」
「うるさい……ッ! そんなの嘘、貴女たちを殺せば、殺したら……先輩も、ルナちゃんも、私のところに帰って来てくれる……! 元の二人に、私に優しい二人になってくれる……ッ!!
夢なんかじゃない……ッ、だから……だから、邪魔しないでッッッ!!!」
「―――解ったわ……」
カノンが剣を正眼に構える。吊り上げた碧眼が、涙の筋を描くイリーナの榛色の瞳を真正面から射抜いた。そして宣言する。
「そこまで言うなら―――
……あたしがあんたの目を覚まさしてあげるッ! 土下座してごめんなさい、って言えるまであたしが直々にぶん殴ってあげるわよッ!!」
じゃきん! と手にした剣が、澄んだ音を立てる。何よりもまっすぐな、力ある言葉と共に。
「ルナ、貴女は下がってなさい」
「シリア……?」
カツッ、とヒールを鳴らしてカノンの脇に並んだのは、同じく剣を抜いた魔道剣士の女。
薄く笑みを讃えながら、しかし、瞳の奥はやりきれない怒りを滲ませて。
「私ね、根性のない女の子は嫌いなの。恋愛なんてものは、根性がなきゃ出来ないものよ。
他人を好きになったなら、それが誰のものでも、まずその相手以上に自分を磨く。
それが出来なくて、ただ駄々を捏ねるだけの人間に、愛だの恋だの、説く資格はないわ」
「あんたの場合、根性より耐久力と人の話に耳を貸すスキルの方が必要だと思うけどね。そうすれば、もっといい女になれるんじゃない?」
「あら? 私は地上の誰よりもいい女になるまで自分を磨いた、って自信を常に持ってるわよ?
ねーぇ、レーンv」
「知らん」
一言で切り捨てたレンは、一つだけ溜め息を吐いて剣を抜く。隣では、双剣を抜いたアルティオが笑いながら首を振っていた。
「まあなぁ、女の子相手に喧嘩するってのは俺の主義に反するんだが。
女の子が泣いてるシーンを見逃すわけにゃあ、いかねぇしな。これまで俺だって数々の女の子を泣かしてきた身だし」
「戯言はそれで十分か?」
「……戯言って、レン君そりゃあねぇだろー?」
涙目になっているアルティオに小さく呆れ、カノンは今一度正面を見る。
「さあ、一度に四人を相手に出来る器が、果たしてあんたにあるかしらね……ッ?」
「……」
挑発とも警告とも取れるカノンの台詞に、イリーナはしかし、暗い瞳を変えずに、静かに印の上に手を置いた。
その手には、先ほどの手鏡が握られていた。
ルナがはっ、と息を飲む。
「私が、皆さんに敵うなんて……最初から思っていません。
でも、でもそのための力を、あの人は……あの方は、私にくれた」
「イリーナ、それは……ッ」
詰まった声でルナが何事か言いかける。だが、その言葉を遮るように彼女は言う。
「覚悟、してください」
「イリーナッ! やめなさいッ、それは、それじゃああんたが……ッ!!」
「ルナッ?」
堰を切った叫びが彼女の口から漏れる。だが、その言葉はもう、親友の耳には届かない。
彼女の描いた印が、音を立てて広がる。
「イリーナッ!!」
「……来よ、ベルフェゴール」
空間が軋み、膨大な闇が渦巻いた。
轟いた雄叫びに、思わず閉じた目を開ける。眼前に広がったのは、闇色の壁。暗い岩肌。
……いや、
「な……ッ!」
「これは……ッ」
ぎぃいしゃぁあああぁぁあぁッ!!
広がるのは暗い色をした二対の翼。羽という言葉は似つかわしくない、深い漆黒の色をした、鉤爪の悪魔の翼。
三メートル余りの身長。その肌はごつごつとした黒い岩。牛のような太い尾を揺らし、頭には二本の捻れた角を生やし、ずるりとした顎鬚を下げている。細い赤い瞳に光はなく、意志が測れない。
大仰な翼と体躯。その悪魔の足元で印を描くイリーナは、魔力消耗が激しいのか、肩で息を吐いている。
元・違法者狩りの身として、人が造りだした面妖な、現存するはずのない生き物は数多く見て来た。
しかし、それはそのカノンの記憶の中でも群を抜いた。
ふらつきながら立ち上がったルナが、茫然とそれを眺めていた。
「イリーナ……」
「ルナ……、あれは……?」
「……」
悔やむような表情を浮かべる。その顔が、あれもまた、『月の館』で製造された危険指定物なのだということを物語っていた。掌に立てた爪が白くなるまで、ルナは拳を握り締めた。
一度、口を開きかけて躊躇する。しかし、振り切るように首を振ると、カノンと同じように、干満ではあったがゆらり、と構えを取った。
「―――悪魔召還ベルフェゴール……。
本当は悪魔じゃないんだけどね……あれは創造された魔物。魔族や悪魔というよりは、合成獣に近いんだけど―――。
能力値的には最上級。ちょっとした悪魔くらいなら、平気で潰せる程度の能力を持っている……」
「ご、合成獣って言ったって……じゃあ、まんま悪魔じゃねぇかよッ!? 何であんなもん作って……」
「『月の館』の黒歴史よ。以前、クロード=サングリットのように暴走しかけた研究グループがあってね……。特定の魔道具に魔物を封印しておくことで、召還能力の特化していない魔道師でも悪魔級の魔物を呼び出せるように、ってね。
けれど、使い方を間違えたら兵器にしかなり得ない。そんなものを世の中に出すわけにいかないわ。あたしたちは、奴らが生成したあの魔物共々、凍結化して封印して、魔道具を破壊した………はずなのに」
「『ヴォルケーノ』のときと同じ、ってわけね……」
「―――くッ!」
突き出した右手の指で、ルナは拘束で印を解く。
「止めないと……でないと、あの娘が……」
「ルナ?」
「あれは、あの娘の魔力許容量で扱えるような代物じゃない……ッ! すぐに限界値を越えるッ、そうしたら―――ッ!」
その先は、数多の魔道師を相手にしてきたカノンにも理解できた。
魔力というものは、脳でその存在を受け止め、思考とイメージを描くことで具現する。魔力許容量を越えた魔道の使用、それが招くのは肉体と脳への過度な負担。
下手をすれば、何らかの障害を負う可能性もある。
数瞬、考えてカノンはクレイソードを剣鎌[カリオソード]へ持ち替えて、構えを直す。
「……ルナ。あれの封印方法は解るの?」
「……呪文だけは。でも、あのときはいろいろと魔道具やら人の手やら借りてたから―――。
正直、自信は、ない」
「……そう」
一抹の望みを抱いて聞いてみたが、返ってきたのは力のない答えだった。
「どうにせよ、あれを止めなくてはならんのだろう」
破魔聖を抜き放ったレンが、構えながら吐く。シリアとアルティオも、その構えに続いた。
「なら、止めるだけだ。避けては通れまい」
「……そうね。なら―――ッ!」
剣鎌[カリオソード]を持ち直す。三度、イリーナの、肩で息を吐いたままの彼女に向き直る。
苦しげに息を吐きながら、彼女はなお、暗い瞳でこちらを睨んでいた。その暗い瞳に、傍らで印を切るルナの表情が曇る。
カノンは歯を食い縛る。無駄なことは考えない。今は、あれを全力で止めなくてはならないのだ。
「行ってッ! ベルフェゴールッ!!」
しゃぎゃぁあぁああぁああああああぁあぁああッ!!!
洞穴内に、再度、悪魔の雄叫びが轟き渡った。
←11へ
勿論、昨夜の彼らの衝突についてだ。
彼ら同士の決定の衝突だ。ラーシャに直接の原因はないだろうが、それでも一因はあるだろう。そしてその一因で頭を悩ませている。元来より、律儀な性格なのだ。
「ラーシャ様、あまりお悩みにならない方が」
「ああ、解っている」
肩を並べて高級住宅街を歩く従者に咎められた。
「……あれは彼らの決定で、彼女の決意です。我々がどうこう言えることではありません。
いえ、むしろ下手に否定や肯定することは侮辱にも当たるやも」
ラーシャに比べて、配下のデルタの方が幾分さっぱりしている。ただ割り切るのがラーシャよりほんの少し得意というだけで、けして冷たい人間ではない。むしろ、そういったところに、ラーシャは何度も助けられている。
短い溜め息を一つ、吐く。
「それに、どういうことだ。エイロネイアが、ルナ殿のご級友を誘拐などとは……」
ラーシャは親指の爪を小さく噛んだ。彼女にしてみれば、敵国といえどゼルゼイルの一部であるエイロネイアが、カノンたち他国の民間人を巻き込もうとしていること自体が許せなかった。だから、その友までもを翻弄しようとする彼らが信じ難いのだ。
ゼルゼイルの代表として、かどわかされた彼女を救いに行くべきなのはラーシャたちなのだろう。無論、それも主張した。だが、今の段階でルナと連絡可能なのはラーシャたちしかいなかった。
ラーシャの任務は、エイロネイアの刺客によって、他国の民間人―――カノンたちが傷害を負わないよう保護すること。任務からすれば選択は誤っているのかもしれない。
しかし、ルナに伝えなくてはと思うカノンの願いも、友人が傷つけられることを良しとしないルナの想いも無視できるほど、ラーシャは器用ではなかったのだ。
「ラーシャ様……」
「何も言うな。今は一刻も早くルナ殿に現状を伝える。そして共にカノン殿たちの援護に急ぐ。
それだけだ」
「はい」
シンシアの、いや、ゼルゼイルの騎士として、為さねばならないこと。果さなければならない任務。望んだゼルゼイルの在り方と、人としての矜持。どちらも、というのはやはり欲張りなのだろうか。
自然とラーシャの足並が速まった。
数日で馴れてしまった通りに差し掛かり―――
気がついた。
きな臭い。
郊外の屋敷のために人通りはほぼない。だというのに、向こう側が妙に騒がしいのは何故だ。
「ッ……ラーシャ様ッ!」
「な―――ッ!?」
デルタの鋭い声が飛ぶ。その視線は、高い上空にあった。
同じ視線の先を追い、ラーシャは絶句する。
「あれは……ッ!」
夕暮れの近い、蒼と黄昏のコントラストに、暗い影が下りる。ラーシャたちの爪先の向く方向、ディオル=フランシスの屋敷の周辺から、遠目にも判断できる、小さく舞う火の粉と火花、濃い灰色の煙が立ち昇っていた。
炎が舞っている。
目の前で、踊る。
発された熱が、容赦なく肌と肺を焼いていく。がらがらと崩れているのは、壁か床か、それとも己の自信なのか。
それは夢か、現だったか。
―――熱い……
全身が焼かれるような熱気が、辺りに満ちている。額から垂れた汗が、意識を取り戻した最初の感触だった。
そして、一気に目が覚める。
「―――ッ!!? ぐぅッ、けほッ、がッ……!」
気が付いて息を吸った瞬間、肺の中が焼ける。いつかの、あの炎の館を走り抜けたときのように。
そして、
「ッ! な……ッ!?」
目の前に赤い光が満ちている。いや、光なんてものじゃない。
木とレンガ、それから石が焼けて溶けるじりじりとした快音。ごうごうと耳障りな、暴風のような音。そして皮膚を炙る大量の熱。
絨毯の隅は焦げて灰に溶けていく。壁伝いに、ちろちろと紅い影が、建物を舐めるように立ち上る。ばちばちと、火花が散って、猫足のテーブルが轟音を立てて倒壊した。
向こう側の景色が揺らいでいる。
部屋全体を包み込んでいる、その焔の熱が生む陽炎で。
「こ、これは……ッ!」
動揺の声を漏らしながら、反射的に立ち上がろうとして、
ぐッ……
「ッつ!?」
出来なかった。後ろ髪を引かれて無様に転倒する。
「な……ッ」
振り向いて言葉を失う。
ルナの長い髪が、壁際のチェストに挟まれて固定されているのだ。無理矢理引き抜こうともがいてみるが、妙に深く噛まれている。びくともしない。魔法を使おうとするが、自身の体と近距離過ぎる。もし、外せたとしても、その後、怪我をして動けないのでは意味がない。
気絶するすぐ瞬間の映像を頭の中へフラッシュさせる。
確か、ディオル=フランシスを刺した。足元には彼が倒れていて―――
「ッ!」
そこで気が付いた。部屋中に、異様な、酸い匂いがし始めている。はっ、としてドアの方へ目を向けると、白いスーツを着たうつ伏せの肢体が伸びている。そのスーツには、はっきりと、ナイフ一本分の破けた痕があって、その下の絨毯にはじわり、と赤い体液が滴っている。
「……」
自分の手が肉を破る感触を思い出して、吐き気がした。
唇を噛んで、視線を彷徨わせる。足元にあったはずの、彼の体がどこにもない。
そこになって、ルナは眉を吊り上げる。腹が立った。早計すぎた自分の行動に。ルナが見たのは、散らばった白い髪と上着。ただそれだけなのだ。あれが彼だった、もしくは人間だったと、言い切る自信が今はない。
つまりは、罠。
ルナを利用して、ディオル=フランシスを殺させるための、罠。
―――でも、どうして……ッ!?
どうして、こんな面倒なことをしてまで、わざわざディオル=フランシスを殺させる必要があった?
そして、襲撃者は何故自分を殺していかなかった?
いや、そもそもを言うならば。
彼らにとって、ディオル=フランシスを始末するだけが目的ならば、こんな回りくどい方法は好ましくない。何故わざわざルナという目撃者を作る? 何故わざわざこんな不確かな方法で目撃者を殺す?
それにらしくない。屋敷内全体を虐殺など、あの黒衣の少年が行うか?
クオノリアでの合成獣の暴走、ランカースフィルでの医師の扇動。共に無関係な人間を巻き込んだ。だが、それは合成獣やフェルス医師を通してやってのけた。自身は何も手を出してはいない。こんな後に証拠が残るような、大胆で乱雑な真似はしなかったのだ。
ならば何故―――?
これではまるで……
これでは、まるで。
「ルナさんッ!」
「ルナ殿ッ!?」
「!」
声にはっ、と顔を上げる。
「ラーシャ! デルタッ!」
「ルナさん、今助け……くッ!」
倒壊したドアの向こうに焦燥を顔に貼り付けた女軍官と従者の姿が見える。デルタが必死に結界を保ち、炎から身を守っているようだった。
彼らは部屋の中に踏み込もうとしているが、倒壊したドアに阻まれて近づけない。
炎が回りすぎていて、ちょっとやそっと消したくらいではどうにもならないのだ。
止めを刺すかのように、ドアの近くにあった食器棚が熱に耐えられず、崩れ落ちてがちゃんッ! と中身を巻き散らしながら倒れ、炎上する。
陽炎の向こうにあった二人の顔が、それに阻まれて見えなくなる。
「ルナ殿……ッ!」
「駄目です、ラーシャ様!!」
ルナは歯噛みする。
このままでは、三人共々、炎に撒かれてお陀仏だ。
「ラーシャ! デルタッ! さっさと行ってッ! それでこのことをカノンたちに伝えてッ!!」
「ルナ殿ッ! だが……ッ!」
「あたしなら大丈夫ッ! 壁ぶっ壊してでも自力で脱出するッ! それより早く!!
奴らが何かしでかすつもりかもしれない!! 早く行ってッ!!」
「ルナ殿……ッ!」
激しい逡巡の色。続いてデルタが何かを諭すような小さな声が聞こえる。
土壇場では彼の方が冷静だ。やがて、炎の向こうから男性にしては高い声が響いてきた。
「ルナさんッ! 脱出したら、町の外の洞穴に来て下さいッ! カノンさんたちはそこに……ッ!!」
―――洞穴?
どういうことだ? 何のために、カノンたちは……。
「貴女の旧友―――イリーナ=ツォルベルンさんが奴らに誘拐されました!
それでカノンさんたちを誘い出しに……ッ!」
「ッ! 何ですって……ッ!?」
血が凍る。何故、イリーナが。彼女こそ、何も関係ないではないか。何故……ッ!
問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。だが、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。
天井の梁が、音を上げてがらんッ!と転がる音がした。
「……詳しいお話は後でッ! では、先に行きますッ!!」
「ッ! わかったわ……ッ! 頼んだわよッ!!」
「そちらこそご無事でッ!!」
ばたばたと、廊下をかける二人分の足音がする。それを遠くで聞きながら、ルナは茫然と炎の上がる食器棚の残骸を眺めていた。
何故……?
何故、イリーナが巻き込まれた? 何故、奴らはイリーナを……?
ゆらゆらと、瞳の中で炎が揺らめく。
それはいつかも見た光景。ルナの大嫌いな、すべてを焼き尽くした焔の脅威。そして、最初の思考に辿り着く。
これでは―――
これでは、まるで……、
「………は、ははは…」
空笑いと、こんな状況だというのに、目の奥が熱くなった。俯いた先の絨毯が、かすかに濡れた。
振り払うように、きっ、と視線を上げる。
確かめなければ。
こんなところで死んでいられない。
視線を巡らせたルナの視界に、先ほどディオルを刺したナイフが飛び込んでくる。どこに落としたか記憶はなかったが、ともかく、それが少し離れた場所にある。
「……」
手では届かない。
熱で焼けた絨毯に、足を伸ばす。届くすんでで、くんッ、と髪が引っ張られた。
「ッ! く……ッ!」
足先が震える。下手をすればもっと遠ざけてしまうだろう。
最初にして最後の賭けだ。もう手はありえない。
三センチ、二センチ、一センチ……
引かれる髪の痛みを堪え、必死に足を、身体を伸ばす。歯を食い縛り、走る痛みに耐えながら。
からん、とどこかで音がした。
「ッ!?」
天井を振り仰ぐ。
石埃が、砂が、わずかに振ってきた。天井に下がったタペストリが炎に塗れている。留め金が、熱にぐらりと揺らいだ。
そして、あっけなく。
ルナのちょうど頭上にあったその布切れは。
支えを失って彼女に降りかかった。
「―――ッ!」
声にならない悲鳴が、上がった。
「・・・くッ」
抜き放った剣の鞘を薙ぎ払ったレンは、呻いて利き手とは逆の二の腕を押さえた。剣の鞘の切っ先に胴を打ち付けられた少女は、数歩よろめき、二度跳んで距離を取る。
「レン!」
押さえた二の腕から、僅かに血の雫が垂れている。ナイフの突き立てられるすんでで、背に庇われたカノンが、悲痛な声を出した。
レンは傷口をちらり、と見て滴る血を拭う。
「安心しろ、ただの掠り傷だ」
「ッ!」
「く……ッ!」
シリアとアルティオが彼の両脇を固めるように、横に並ぶ。
レンの肩を押しのけて、カノンは前に出た。真正面に、ナイフを握り締めた少女が一人、項垂れて立っている。暗い洞穴内では、どんな表情を浮かべているのか、にわかには判断できない。
だが、聞きたいことは一つだった。
「あ、あんた、何やってんだッ!?」
カノンの第一声を、アルティオが代弁する。言葉を叩きつけられた彼女は、面を上げた。
「ッ!?」
全員の表情が戸惑いに歪む。
顔を上げた少女の瞳から、うっすらと、光る筋が流れていた。くしゃり、と歪んだ表情が、潤んだ瞳が懇願するように訴える。
「貴方たちのせいで……ッ! 貴方の、せいで……ッ!」
「……?」
「返して。私の、私の……私の大好きなルナちゃんと先輩を返してッッッ!!!」
「な……ッ!?」
少女の悲鳴に近い叫び声が、洞穴内に響いて木霊する。溢れ返る涙はそのままに、ローブが濡れていくのにも構わず。
「ちょ、どういうことよッ!? 私たちが何をしたって言うのかしらッ!?」
「とぼけないでッ! 私、見たんだもの。貴方たちと一緒にいたあの女の人。あの人! あの人、シンシアとかいう戦争屋なんでしょうッ!?」
レンの脳裏に、つい先日、この少女と目撃した光景が蘇った。
「……あの人が、貴方たちが、ルナちゃんを、先輩を騙してるって……!
シンシアが、ルナちゃんを利用して、先輩を、先輩を自分の国の駒にする気だって……ッ!
貴方たちも、その仲間だって、貴方たちがいるからルナちゃんは裏切れないってッッッ!!!」
「なん、ですって……?」
涙を流したまま少女は絶叫する。それを受け止めるカノンの方が、頭を混乱させていた。
騙している? 誰が? 自分たちが、ルナやあの魔道技師を? 一体、どういうことだ?
「そんな出鱈目、誰が……ッ!」
「出鱈目なんかじゃないッ! "あの人"が、"あの方"が教えてくれたもの! そうじゃないと納得できないッ! じゃなきゃあ、ルナちゃんが、ルナちゃんが先輩にあんなことするはずがないッ!!
先輩と、ルナちゃんの関係を利用して、味方につけて、戦争なんかに放り込む気なんだって!
自分たちの代わりにッ!!
返してッ! 私の、私の知ってるルナちゃんと先輩を、私のことを大好きでいてくれる二人をッ、私に優しくしてくれる二人を返してよぅッ!!」
「……ッ!」
レンは絶句する。
まただ。また"あの人"、"あの方"。
そう呼ばれる一人の少年の姿が頭を過ぎる。茫然とする三人とは対照的に、激しい後悔が、やるせなさが、レンの中を渦巻いていた。
あれは前戯だったのだ。あのとき、あの影に足止めをし、継いで現れた少女をまんまと足止めさせてしまい、ルナとラーシャ、二人の姿を目撃させた。
あれもまた、少女にこの刷り込みをさせる前戯だったのだ。
少女の激昂具合から、まさかあれだけで出鱈目を吹き込まれたのではないだろう。昨夜のうちに、一晩のうちに何かがあったのだ。何かが。
「待ちなさいッ! あたしたちは別に、あいつらと手を組んだりはしてないし、ルナを騙してもいないわッ!!」
「嘘ッ! そうじゃなきゃ納得できないッ! 絶対に信じないッ!!」
「ッ! あのねぇ……!」
「貴方たちが死ねば、先輩はずっと私のところにいてくれる。戦争なんかにいかないし、私のところに帰って来てくれる……! ルナちゃんだって……! 許せないけど、許せないけど……!
そう、許せないけど……ッ!!
でもでもでもッ! 貴方たちはもっと許せないッッッ!!!」
「……ッ!」
叫び、涙に濡れた瞳は、もう正気を宿してはいなかった。呻き、唇を噛む。
駄目だ。たぶん、彼女の耳に、自分たちの声は届かない。一体なんだ? 何が、彼女をここまで駆り立てる? 一晩のうちに、一体何が……ッ!?
落ち着け、落ち着け。彼女と戦ってはいけない。断じていけないのだ。彼女は騙されているだけだ。
何か、説得の方法を考えろ……!
「……ナイフ一本で、あたしたちを皆殺しに出来るつもりなの?」
「……しなきゃいけないんです。私が、私が先輩を助けなきゃ……。私が、先輩を救ってあげなきゃ。
私だけなんだもの、先輩を、助けてあげられるのは……」
きんッ!
小さな音がした。
同時に少女の足元に、淡い光を放つ魔方陣が広がる。
このときになって、全員が得物を抜いた。
「……我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア」
少女の前に、赤い光が何条か浮かび上がる。そしてそれは加速しながらカノン達へ襲い掛かった。
無論、そんなものには誰も当たらない。
横っ飛びに交わしたカノンは、そのまま少女に向かって走る。せめて峰打ちでもして止めなければ。もうどうしようもない。
イリーナが次の印を切るより先に、カノンが懐に飛び込んだ。
向けられたナイフの切っ先に、足を振るって叩き落す。はたかれたイリーナの顔が苦痛に歪んだ。
唇を噛んだイリーナが、その手を捻り上げようとするカノンに、懐から出した何か鏡のようなものを向ける。瞬間、その至近距離に火花が散った。
「ッ!」
慌てて距離を取る。
浮かんだ火花は、四散してカノンが飛び退る前の空間に被弾する。
魔法具だ。何度かお目にかかったことがある。事前に呪を込めておくことで発動させることが出来る、そんなものだろう。
忘れていた。ルナやカシスに劣っても、彼女も、名門『月の館』で学んだ優秀な魔道師なのだ。
やりにくい。すべてにおいて、やりにくい。
「カノンさん。貴女に初めてあったときは、ちょっとだけ驚いた。でも優しい人だな、って思った。
本当にルナちゃんのことを考えてくれてるんだな、って思った。
でも、でもッ! もう信じられないのッ! 貴方のことも、ルナちゃんのこともッ!!
もう信じられないッ!!」
「ッ!」
目の前に印が描かれる。光の線が、宙に舞い、形を作る。
カノンは舌打ちをして一歩引く。彼女を倒すのなんて簡単だ。『館』で修練は積んでいるといっても、彼女には圧倒的に経験が足りていない。けれど、
周りの、シリアやアルティオが剣の切っ先を向けながらも、迷いに満ちているのは同じ理由からだろう。
レンは静かに、周囲へ殺気を放っている。
確かにおかしいのだ。すぐに昏倒させられるような彼女を、あの周到な黒幕の少年が、一人でこんな包囲網の中に置いていくだけなんて。
カノンは目の前で光る印に構えを取る。
イリーナが、その呪を発動させるための、最後のセンテンスを口にしようと口を、開いた。
ばしゅんッ!!
「ッ!!」
「……?」
その一瞬に、宙に線を描いていた光の陣が掻き消えた。解除魔法だ。狂気に触れた少女の陣を掻き消した魔法は、天上から降って来た。
「る……ルナッ!?」
「………」
天上の、ぽっかりと穴が開けられた空の空間。その淵に、中を覗くようにして、黄昏を背にしながら彼女が立っていた。
おそらくは、飛行魔法で限界まで速度を上げて飛んで来たのだろう。息は上がって、遠目にも肩が上下しているのがわかる。服はところどころ破け、どうしたことか端々が焦げて煤けていた。
彼女は眉間に皺を寄せて天井の縁を蹴る。
そうしてカノンを背にしてイリーナとの中間地点に降り立った。
直に背を向けられたから、カノンはそれに気が付いた。
「る、ルナ……ッ? あんた、その髪……?」
「……」
腰に届かんとしていた彼女の美しいブラウンの髪が、煤けて、無残な長さになっていた。肩よりも短い長さで、記憶にある長い髪が切断されていた。
彼女は無言だった。それを問うのを拒絶するように。
ルナは周囲を伺う。ラーシャたちがいない。何かの妨害にあっているのか、それとも単に飛行魔法を全開にして飛んで来た自分が追い抜いてしまったのか。
それはともかく、一体これはどういうことだ。
何故、イリーナが、カノンに向けて攻撃印などを開いていた? 何故、攫われたはずの彼女と、それを助けに来たはずの彼らが対峙しているのだ。
「イリーナ……、何のつもり……?」
「ルナちゃん……? どうして? どうして、その人たちを庇うの?」
「……庇ってるわけじゃないわ。何で、こんなことになってるかを聞いてるの」
ルナの口調が静かに怒る。語尾には有無を言わせぬ強さが感じ取れた。
「私たちがあんたを騙して、あの魔道技師の男をシンシアに引き込もうとしてるとかどうとか……ッ! そういうほら話を吹き込まれてるのよ、このお嬢ちゃんはッ!」
苛立ったシリアの声が、イリーナの代わりに答えた。ルナが眉間に皺を寄せる。
解らないのだ。どうして、何故彼女が、そんな話を誰にされて、何故信じてしまったのか。
「イリーナ……あんた、何でそんな嘘……」
「嘘?」
きょとん、と。まるで、解らなかった問題を、教わるときのように、イリーナは小首を傾げる。
「うそ、なの?」
「当たり前でしょう!? 何でカノンたちがあたしを騙さなきゃいけないのッ!? 何でカシスをシンシアに、ゼルゼイルなんかに引き渡さなきゃいけないのよッ!?」
昔、よくそうしたように怒鳴りつける。イリーナは決まってその怒鳴り声に耳を抑えて泣きそうになりながら、子供のように俯くのだ。でも、今の彼女はそうしようとはしなかった。代わりに、くすり、と小さく笑ったのだ。
「嘘だよ。そんなはず、ないよ」
「何の根拠があって……ッ」
「……そうじゃなきゃ、納得、出来ないもの」
怒りに肩を震わせるルナを、イリーナは歪めた表情で見る。ひどく乾いた、ひどく哀しい表情だった。涙は、いつのまにか引いていた。
「じゃあ、ルナちゃん。説明出来るよね?
ルナちゃん、昨日の晩、どこで、何をしていたの?」
「―――ッ!?」
虚をつかれた。その一言だけで、胸が抉られる。
鼻と口とを片手で押さえつけ、ふらりと後方に傾く。慌てたカノンがそれを支えた。
顔は真っ青だった。
「自分の宿? 違うよね? カノンさんたちと一緒じゃなかったよね?
じゃあ、どこ?」
「ッ! それは……ッ!!」
言い澱むことなく、適当な嘘は吐けたかもしれない。しかし、少女の乾いた笑いは、幾重にも付いた涙の痕は、その嘘が到底通用するものではないのだ、と如実に語っていた。
乾いた表情を変えることなく、棒立ちのまま、イリーナはさらに問う。
「……いいよ。知ってるから」
「…ッ」
「ルナちゃん、先輩の部屋にいたもんね。仲、良さそうだったね。私、部屋まで行ったから知ってるよ」
「イリー……ナ………」
苦しげな声で、ルナは彼女の名を口にする。にこり、とイリーナの顔に不自然な笑顔が浮かんだ。面だけは可愛らしく、しかしその実、まったく笑えていない。
「・・・何で?」
「……」
「何で、あんなことしてたの?」
ルナは答えない。答えられるはずもない。背徳感だけが、胸の内を貪り喰らう。
青い顔をさらに歪めるルナに、カノンが眉を潜める。
「ルナちゃん、言ったよね? ルナちゃんは私の味方だって。私が先輩を好きなの応援してくれるって。ルナちゃんは何も思って無いからって。ずっと友達だからって。友達だから……勧めはしないけど、応援はしてくれる、って言ったよね」
「……」
ルナは無言だった。好きで無言なのではない。何も答える術を持っていなかったからだ。
自分で決めた道で行き詰まって、昔の仲間に信じてもらえなくて、さらに衝動的に仲間に言ってはいけない言葉を吐いて。そのあまりの惨めさに、昨日の晩、彼に縋った。縋られる人間であろうとしたのに、縋り付いて泣いた。
……それが、すべてを露呈させて、信じ難い嘘を、この親友だと語った少女に信じさせてしまった。
乾いた笑顔で、彼女は口にする。それは、真円の月を砕く、最後の言葉。
「嘘吐き」
「―――ッ!」
それは絶対的な氷の温度を持って、彼女の胸中を抉り取った。彼女の表情が、苦しげに歪む。
何も口に出来ない自分が、酷く情けなかった。
がくん、と彼女の体から力が失せた。
カノンは、自分の腕に支えられながら、今にも崩れ落ちそうな表情の親友を見下ろした。数日で少しだけ痩せてしまった頬と、よく見ればうっすらと隈の出来ている目。
眉を吊り上げて、唇を噛む。目の前の少女に対してでも、黒衣の少年に対してでもない。
彼女が、こんなになってしまうまでに、自分は一体、何をしていたんだろうと。
逆に彼女を追い詰めていただけじゃないか。
彼女たちの間に何があったのか―――シリアによれば、自分は大分鈍感な方に入るらしい。でも、それを推測できないほど鈍くはないつもりだった。
悔しい。その間にいる張本人を今、ここに引きずり出せれば良かったのに。
ぎり―――ッ、と奥歯を噛み締める。そして、今だ不自然な笑いを浮かべ続ける少女を睨みつけた。
「……それで? あんたはあたしたちをボコって、それでその先輩が振り返ってくれればそれで満足なわけ………?」
「……だって、貴方たちが倒れれば先輩はそんな怖い世界にいかなくて済むでしょう?
私と、ずっと一緒に平和なところにいてくれるはずです。だから―――先輩を助けられるのは私だけ。
………ルナちゃん」
ぽつり、と呟かれた少女の声に、びくりとルナの肩が震えた。
「ルナちゃんのこと。許せないけど。とっても許せないけど。
でも、その人たちを殺せたら、特別に許してあげる」
「……ッ!」
「それで、一緒に戻ろう? 昔に戻ろうよ。そうしたら、ルナちゃんもまた優しくしてくれるよね?」
爪が白くなるほど、ルナは拳を握り締める。できるわけがない。まだニード=フレイマーの組織に属していた頃、彼女たちと敵対していた頃。その時でさえ、カノンたちを殺すことなど出来なかった。
それなのに、今さらまた彼女たちを殺せというのか。許しを請うために。その言葉はそれ以上ないほど深く、彼女を抉り、切り裂いた。
カノンは悟る。ルナにはまだ、半年前の罪の意識がある。だからこそ、必死で誰も巻き込まないように一人で全部背負ってしまおうとしたのだ。
もう誰にも、カノンにさえ、自分のことで迷惑をかけたくないから。
カノンは今度こそきっ、とイリーナを正面から睨んだ。
「イリーナ……やめ」
「ふざけんじゃないわよッ!!」
ルナの力のない諫めの言葉を遮って、カノンの声が激を持って飛ぶ。
「カノン……?」
ルナが茫然と立ち上がった彼女の名を呼んだ。カノンは無言で、手にしていたクレイソードを振るう。石と擦れ合った刃が、きんッと澄んだ音を立てる。
「あんたがしたいことって何……? 先輩を助ける……? 昔に戻ろう……?
ふざけたこと言わないでッ!! あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!! それで人一人救うなんて傲慢、ほざくんじゃないわッ!!
そんな自分勝手な想いで人が救えてたら、世界中、哀しい人間なんて誰一人いないのよッ!!」
怒りと共に、カノンは目の前の少女に言葉を叩きつける。レンの目が細められる。小さく頷いた。その想いと汚れざるを得なかった手の意味を、誰よりも近くで見て来たから。
ちらりと、ルナと視線が合った。涙を溜めた目に、らしくないと笑いながら、小さく応えた。
「ごめん、ルナ」
「……」
「……あたしも、たぶん同じだった。
そりゃあ……あんたを、戦争なんかに行かせたくないのは本当だけど……。そんな場所に、行かせちゃいけないとは、今も思うけど……。
あたしにとって平和だと想う世界と、あんたが造りたい世界は……きっと、違うのよね。
あたしも、あたしのあって欲しい世界をあんたに押し付けた。……それで、たぶん、すごい傷つけた」
「カノン……、あんた……」
「ホントにさ……。あたし、いっつも、レンやあんたに甘えてるから……。……そんなふうに思われて………当然ね。
本当に大事なら……本当にあんたのこと考えるなら、違う仲間がいるからとか、魔道師と剣士じゃ違うからとか―――そんなんじゃなくて、何発かぶん殴ってでも本当のこと、聞き出してやるべきだった。そうしたら、戦争に行こうなんて考えるまで、あんたを追い詰めたりしなかったかもしれない。
…………ごめん」
「……ッ」
振るった刃を持ち上げる。一歩、踏み込むとイリーナは気圧されたように後退った。
「ルナにあたしたちを殺させて……、それで本当に昔に戻れると思ってるの……?」
「―――ッ!」
押し殺した声で、カノンが問う。初めて、イリーナの表情に動揺が走った。
だが、それは一瞬のことで、歯を食い縛った彼女はさらに空に印を切る。
「あんたが否定したい気持ちは……解るような気はする。きっと、ルナだって悪いところはいっぱいあったんだろうと思う。
……でも、だからって何の話もしないうちに、自分の空想で友達傷つけてんじゃないわよッ!!」
「うるさい……ッ! そんなの嘘、貴女たちを殺せば、殺したら……先輩も、ルナちゃんも、私のところに帰って来てくれる……! 元の二人に、私に優しい二人になってくれる……ッ!!
夢なんかじゃない……ッ、だから……だから、邪魔しないでッッッ!!!」
「―――解ったわ……」
カノンが剣を正眼に構える。吊り上げた碧眼が、涙の筋を描くイリーナの榛色の瞳を真正面から射抜いた。そして宣言する。
「そこまで言うなら―――
……あたしがあんたの目を覚まさしてあげるッ! 土下座してごめんなさい、って言えるまであたしが直々にぶん殴ってあげるわよッ!!」
じゃきん! と手にした剣が、澄んだ音を立てる。何よりもまっすぐな、力ある言葉と共に。
「ルナ、貴女は下がってなさい」
「シリア……?」
カツッ、とヒールを鳴らしてカノンの脇に並んだのは、同じく剣を抜いた魔道剣士の女。
薄く笑みを讃えながら、しかし、瞳の奥はやりきれない怒りを滲ませて。
「私ね、根性のない女の子は嫌いなの。恋愛なんてものは、根性がなきゃ出来ないものよ。
他人を好きになったなら、それが誰のものでも、まずその相手以上に自分を磨く。
それが出来なくて、ただ駄々を捏ねるだけの人間に、愛だの恋だの、説く資格はないわ」
「あんたの場合、根性より耐久力と人の話に耳を貸すスキルの方が必要だと思うけどね。そうすれば、もっといい女になれるんじゃない?」
「あら? 私は地上の誰よりもいい女になるまで自分を磨いた、って自信を常に持ってるわよ?
ねーぇ、レーンv」
「知らん」
一言で切り捨てたレンは、一つだけ溜め息を吐いて剣を抜く。隣では、双剣を抜いたアルティオが笑いながら首を振っていた。
「まあなぁ、女の子相手に喧嘩するってのは俺の主義に反するんだが。
女の子が泣いてるシーンを見逃すわけにゃあ、いかねぇしな。これまで俺だって数々の女の子を泣かしてきた身だし」
「戯言はそれで十分か?」
「……戯言って、レン君そりゃあねぇだろー?」
涙目になっているアルティオに小さく呆れ、カノンは今一度正面を見る。
「さあ、一度に四人を相手に出来る器が、果たしてあんたにあるかしらね……ッ?」
「……」
挑発とも警告とも取れるカノンの台詞に、イリーナはしかし、暗い瞳を変えずに、静かに印の上に手を置いた。
その手には、先ほどの手鏡が握られていた。
ルナがはっ、と息を飲む。
「私が、皆さんに敵うなんて……最初から思っていません。
でも、でもそのための力を、あの人は……あの方は、私にくれた」
「イリーナ、それは……ッ」
詰まった声でルナが何事か言いかける。だが、その言葉を遮るように彼女は言う。
「覚悟、してください」
「イリーナッ! やめなさいッ、それは、それじゃああんたが……ッ!!」
「ルナッ?」
堰を切った叫びが彼女の口から漏れる。だが、その言葉はもう、親友の耳には届かない。
彼女の描いた印が、音を立てて広がる。
「イリーナッ!!」
「……来よ、ベルフェゴール」
空間が軋み、膨大な闇が渦巻いた。
轟いた雄叫びに、思わず閉じた目を開ける。眼前に広がったのは、闇色の壁。暗い岩肌。
……いや、
「な……ッ!」
「これは……ッ」
ぎぃいしゃぁあああぁぁあぁッ!!
広がるのは暗い色をした二対の翼。羽という言葉は似つかわしくない、深い漆黒の色をした、鉤爪の悪魔の翼。
三メートル余りの身長。その肌はごつごつとした黒い岩。牛のような太い尾を揺らし、頭には二本の捻れた角を生やし、ずるりとした顎鬚を下げている。細い赤い瞳に光はなく、意志が測れない。
大仰な翼と体躯。その悪魔の足元で印を描くイリーナは、魔力消耗が激しいのか、肩で息を吐いている。
元・違法者狩りの身として、人が造りだした面妖な、現存するはずのない生き物は数多く見て来た。
しかし、それはそのカノンの記憶の中でも群を抜いた。
ふらつきながら立ち上がったルナが、茫然とそれを眺めていた。
「イリーナ……」
「ルナ……、あれは……?」
「……」
悔やむような表情を浮かべる。その顔が、あれもまた、『月の館』で製造された危険指定物なのだということを物語っていた。掌に立てた爪が白くなるまで、ルナは拳を握り締めた。
一度、口を開きかけて躊躇する。しかし、振り切るように首を振ると、カノンと同じように、干満ではあったがゆらり、と構えを取った。
「―――悪魔召還ベルフェゴール……。
本当は悪魔じゃないんだけどね……あれは創造された魔物。魔族や悪魔というよりは、合成獣に近いんだけど―――。
能力値的には最上級。ちょっとした悪魔くらいなら、平気で潰せる程度の能力を持っている……」
「ご、合成獣って言ったって……じゃあ、まんま悪魔じゃねぇかよッ!? 何であんなもん作って……」
「『月の館』の黒歴史よ。以前、クロード=サングリットのように暴走しかけた研究グループがあってね……。特定の魔道具に魔物を封印しておくことで、召還能力の特化していない魔道師でも悪魔級の魔物を呼び出せるように、ってね。
けれど、使い方を間違えたら兵器にしかなり得ない。そんなものを世の中に出すわけにいかないわ。あたしたちは、奴らが生成したあの魔物共々、凍結化して封印して、魔道具を破壊した………はずなのに」
「『ヴォルケーノ』のときと同じ、ってわけね……」
「―――くッ!」
突き出した右手の指で、ルナは拘束で印を解く。
「止めないと……でないと、あの娘が……」
「ルナ?」
「あれは、あの娘の魔力許容量で扱えるような代物じゃない……ッ! すぐに限界値を越えるッ、そうしたら―――ッ!」
その先は、数多の魔道師を相手にしてきたカノンにも理解できた。
魔力というものは、脳でその存在を受け止め、思考とイメージを描くことで具現する。魔力許容量を越えた魔道の使用、それが招くのは肉体と脳への過度な負担。
下手をすれば、何らかの障害を負う可能性もある。
数瞬、考えてカノンはクレイソードを剣鎌[カリオソード]へ持ち替えて、構えを直す。
「……ルナ。あれの封印方法は解るの?」
「……呪文だけは。でも、あのときはいろいろと魔道具やら人の手やら借りてたから―――。
正直、自信は、ない」
「……そう」
一抹の望みを抱いて聞いてみたが、返ってきたのは力のない答えだった。
「どうにせよ、あれを止めなくてはならんのだろう」
破魔聖を抜き放ったレンが、構えながら吐く。シリアとアルティオも、その構えに続いた。
「なら、止めるだけだ。避けては通れまい」
「……そうね。なら―――ッ!」
剣鎌[カリオソード]を持ち直す。三度、イリーナの、肩で息を吐いたままの彼女に向き直る。
苦しげに息を吐きながら、彼女はなお、暗い瞳でこちらを睨んでいた。その暗い瞳に、傍らで印を切るルナの表情が曇る。
カノンは歯を食い縛る。無駄なことは考えない。今は、あれを全力で止めなくてはならないのだ。
「行ってッ! ベルフェゴールッ!!」
しゃぎゃぁあぁああぁああああああぁあぁああッ!!!
洞穴内に、再度、悪魔の雄叫びが轟き渡った。
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DeathPlayerHunterカノン[慟哭の月] EPISODE11
哀しいねぇ……。人を愛して、人を信じて、でも自分しか信じられなくて、ついには四面楚歌。哀れで一途な、美しい満月だったよ。くすくす。
哀しいねぇ……。人を愛して、人を信じて、でも自分しか信じられなくて、ついには四面楚歌。哀れで一途な、美しい満月だったよ。くすくす。
解っていたことだが。
起き出した朝方に、ルナの姿は宿屋になかった。
そうしていくら待ってみても、昼すぎまで彼女の姿を見ることはなかった。
「……」
カノンは痛む頭を抱えながら、昼食の席に着く。
「……大丈夫か?」
「……だいじょうぶよ」
アルティオからの問いに、小さく答えて紅茶のカップを持ち上げる。僅かな溜め息が紅色の水面に波紋を立てた。
「ルナは?」
「戻ってないわよ」
同じく、苛立ちの溜め息を吐くシリアから答えが返って来る。食欲も湧かなくて、極軽い食事だけを注文した。
食事が運ばれてくる間、誰も口を開かなかった。
やがて、甘さを抑えたフレンチ・トーストがカノンの前に置かれる。手もつけずに、しばらく眺めていると、不意に沈黙が破られる。
「で、どうする気だ?」
「……」
いつも通りの冷静な声に、問いかけられる。しかし、返答など浮かぶはずもない。
「この際、あいつがシンシアに加担していたことは置いておく。
あの分では、ちょっとやそっとで、易々と決意を揺るがすようなこともしないだろう。止める、というのは難しいな」
「そんなこと言ったってッ!!」
「お、落ち着けよ、カノン」
がたんッ、と立ち上がって身を乗り出した彼女を、アルティオが慌てて抑えた。剣呑な視線を向けられたレンは、僅かに眉間に皺を寄せる。
「事実だろう。あいつはお前以上に意地を張る天才だ。ここまで拗れてしまっては、修正も聞くまい」
「……あたしのせいだって言いたいの?」
「そんなことは言っていない。ルナの方にしても、クオノリアの一件から、いや、ひょっとしたら俺たちと再会する前から決めていたことなのかもしれん。
もしも、研究が流出することがあったなら、何をしてでも止める、とな。
そうだとしたら、今さら俺たちがどうこう言ったところで、あいつの態度は変わらんさ。
カノン、あれの強情さはお前もよく知っているだろう?」
「……」
そう強情。頑固。
飄々と生きているように見えて、その実、内面は他の誰よりも健気で一途。きっと、彼女の頑固さに比べたら、カノンの負けん気など到底及ばない。
そんなことは解りきっていた。
「でも……ッ! 何でッ、何でルナがそんな危ない場所に行かなきゃいけないのよッ!? おかしいでしょうッ!?」
「か、カノン、声でかいってッ!」
「せっかく、昔の仲間とも会えたってんじゃないッ! もういいじゃないッ! 何でそんな責務を負わなきゃいけないのッ!? ナンセンスにも程ってもんがあるわッ!!」
「……」
「カノン」
「何ッ!?」
声を荒げさせるカノンを制したのは、レンの声ではなかった。頬杖をついたシリアが、いつになく真剣な目を向けて来ていた。元来、美人で目は切れ長だ。その眼差しを向けられて、カノンは僅かにたじろいだ。
「皆、そんなに器用じゃないのよ」
「……」
「確かに、私だってそんなところに行こうとする知り合いがいたら、止めるけど。
でも、考えて見なさい。もしも、もしもの話よ?
この中の誰がどうしても戦争なんて場所に行かなくちゃいけなくなったら、貴方はどうする?」
「―――ッ」
ぎゅ、とカノンの眉間に皺が寄った。逡巡の色だ。シリアはきぃ、と小さく椅子を鳴らして椅子の背もたれに寄りかかった。
「私なら、レンが行こうとすれば止めるし、それくらいなら自分が行こうと思うわ。そんな知らないところで、無事に帰って来る保障もない場所で、好きな人の命を運に任せるなんてごめんだもの」
「……」
「あの娘はきっと、今、そういう心境なんでしょ。
ねぇ、カノン。いくら貴方が鈍い、って言ったって、いい加減解るでしょう? あの娘が、イリーナって子や、あの白子[アルビノ]のチーフにかけてる想いがどれだけのものか。
あの娘にとって、たぶん、自分が疑われてるかどうかなんて至極、些細な問題なのよ」
「それは……ッ」
「貴方の言いたいことも解るけど。でも、だからって人間、そんなに器用にいくものじゃあないじゃない」
「……」
がくり、と彼女の肩から力が抜けた。傾ぎかけた彼女の身体を、アルティオは慌てて抱え上げる。
それに支えられたまま、茫然とカノンはテーブルの端を見つめたまま、力なく口にする。
「………それでも、何も一人で抱え込むことないじゃない……」
「……」
「辛いなら、辛い、って言えばいいのよ……。泣きたいなら、泣けばいいじゃない。
あたしには気持ちが解らない、なんて……そんなの、言ってくれなきゃ解るはずないじゃない……。
あたしは、そんなに頼りないっての……?」
「カノン……」
ゆっくりと、カノンはアルティオの手を払う。そのまま、静かに椅子へ腰を落とした。
誰も何も言えなかった。
カノンが一番、激昂したのはルナがシンシアに加担していたことなどではない。ただ一人で、内密にことを運ぼうとしていたことだけだ。
誰にも言わず、誰にも言えず、ただ茨が生えた路を行く。それがどれだけ辛くて、痛みを伴うことなのか、カノンだって知っている。だからこそ、独りよがりに行こうとした彼女も許せないし、彼女のそんな想いに気づいてやれなかった自分も許せない。
ただ、それだけなのだ。
しばらく、くしゃくしゃになった自分の金の髪を眺めていた。
頭が冷えない。冷えてくれれば、きっとこれからどうすればいいか、考えることも出来るのに。
「あの……」
重い沈黙に割り込んだ声は、弱弱しく、申し訳なさそうな小声だった。
カノン以外の三人が、顔を上げる。テーブルの正面に、初老の小柄な男が、所在無げに立っていた。
ここ五日あまりで顔なじみになってしまった宿屋の主人だった。
「お取り込み中、すいません。ええっと、カノン=ティルザードさんは?」
「?」
名指しで呼ばれて、ようやくカノンは顔を上げた。それを見て、主人はテーブルの真ん中に、手に持っていた何かを置いた。
それを目にして、カノンの表情が疑念に揺らぐ。
真っ白な、飾り気の一切ない封書。その片隅に、カノンのフルネームが記述されている。それだけを見るなら、ただの手紙と受け取ってもいい。
だが、一つだけ異様だったのは、
封書の表面に、突き刺さるように糊付けされた鴉の羽。
黒、という色が否応無しに誰かを連想する。
「……店主、これは?」
「はい、いや、私も解らないんですが。いつのまにかカウンターに置かれていて……
宿帳に書かれているお名前と同じものでしたので、とりあえずお聞きしてみようと……」
場の重い雰囲気に押されてか、それとも差出人不明の封書に疑念を抱いてか、しどろもどろに答える主人。
「カノン……」
アルティオが問うようにカノンの名を呼んだ。
知らず知らずに固唾を呑む。
いつもいつも、大方の時間をカウンターで過ごしているはずの宿屋の主人。その目を掻い潜って、どうやってか届けられた手紙。
そしてこの最悪のタイミング。
睨むようにそれを見て、カノンはそっと手を伸ばす。
表面に何か薬のようなものが塗られていないか、刃が飛び出ていることはないか、いや、主人が普通に持っていたということは、そんな工作はないだろう。
となれば、重要なのは中身だ。
宿屋の主人に適当な礼を言って追い返す。他人の前で開けるようなものじゃない。
「レン、シリア、アルティオ」
覚悟を確かめるように、全員の名前を呼ぶ。全員が無言で頷いた。
軽く、カノンは頭を振る。切り替えろ、切り替えろ、あくまで冷静に。
「……代わるか?」
「いいえ、大丈夫」
紙の破る音が、いつもより神妙に聞こえる。破いた封書の隙間から、何の変哲もない羊皮紙が見える。
その手紙を、いつもの三倍は丁寧に開いて、
「・・・え?」
それを目にした途端、カノンの茫然とした声が辺りに漏れた。
「ん……」
頭ががんがんと痛む。いや、がんがんなんて優しいものじゃない。耳のすぐ脇で、遠慮無しにでかい鐘か何かがごんごん打ち鳴らされている、というか。
ともかく、そんな耐え難い痛み。
でも、もっと耐え難いのが、
「……ッつぅ」
身を起こした瞬間、腰から下に走った激痛に、またベッドの中へへたり込む。
「~~~あんの馬鹿、マジで無理矢理やりやがったわね……」
カーテンの隙間から日の光が見える。大体、昼過ぎ、だろうか。日が傾くまで熟睡していたらしい自分に少し呆れる。
―――まあ、あたしのせいじゃないけど……。
明け方まで身体を拘束していた腕の主の姿はもうなかった。意外ときちんと後始末はしていったらしく、落としたはずのマグカップは片付けられていて、代わりに既に乾いた服が折り畳まれて置かれていた。その上には、煙草の空箱と新しい印が刻まれた羽飾り。
気だるい身体を何とか起こして、髪を掻き揚げる。
早く体裁を整えなければ。夕方の約束に遅れてしまう。
―――とりあえず、ラーシャたちと訪問には行かないと……
行って、もし解決したとして、その後は、一体どうするべきなんだろう……?
大仰な溜め息が漏れる。知らず知らずのうちに、畳まれた服の上に置かれる箱に手を伸ばした。空だと思っていたそれには、一本だけ折れた煙草が残っていた。
「―――フレイ・フレイア」
極少に魔力を抑えた火炎魔法で着火して、口に加える。苦い煙が、口腔に広がった。
「………マズ」
何も言わぬ床だけを見つめながら、小さく吐き出した。
頬に伝う幾重もの涙の跡に、彼女が気づくことは、ついに、なかった。
違和感が、あった。
静か過ぎる。
だるい身体を引き摺って、フランシス邸の前まで来たルナは足を止める。
夕刻の町。フランシス邸は、街中から一本外れた郊外に近い場所に在り、人通りという人通りも少ない。ましてや、夕暮れ時は人一人さえ。高級街の一本道などに用件のある人間はいないのだろう。
だから、別段、騒がしさがないことは道理がいく。
いくのだが、
「……?」
今日はラーシャと直接現地で待ち合わせていた。昨晩、トラブルはあったがそれで放り出すような無責任なことをあの厳格な女軍官がするはずもないだろう。そもそも、昨日の騒動は彼らの任務と何ら関係があるはずもない。
少し早かったか、と思って辺りを見渡して。
ルナはその違和感に気が付いたのである。
遙か高みまで聳え立つフランシス邸の門。その門が、中途半端に開いているのだ。一応、言って置くが今までこんな無用心な構えだったことは一度もない。
フランシス家は豪族だ。敵も多い。こんな門構えを放置しておくなど、ありえない。普通なら。
―――……。
いやな予感がした。
クロード=サングリット、フェルス=ラント。どちらもあの黒衣の少年に、シンシアの聖騎士がエイロネイアの刺客だと語るあの少年に加担していた男の名。そしてその末路は哀れなものだった。
もしも、もしもディオル=フランシスが、エイロネイアに武器を密輸していたとしたら―――。
益をもたらす者だから、といういい訳は通用しない。だって、クロード=サングリットも、フェルス=ラントも、何らかの形であの少年の利益になっていたはずだ。だが、殺された。
同じ、だ。
「ッ!」
嫌な想像が頭を巡った。礼儀に反することだと知りながら、ルナは門の中に飛び込んだ。
広い庭をかける。訪れるたびに、美しい水の曲線を描いていた噴水は止まっていた。青い芝生は番犬に踏み荒らされたのだろうか、ところどころ剥げている。
そういえば、音を荒げればすぐさま黒い番犬たちが吠え立てて来たというのに、その声も聞こえない。その理由は、玄関に辿り着いて明らかになった。
「ッ! な……ッ!!」
異臭に、鼻を抑える。
玄関の白い、豪奢な扉が乱暴に開け放たれていた。その半壊した扉には、赤黒いモノが付いている。
歪に飛び散っているのは、異様な匂いを放つ正体。その体液を流すのは、扉の前に折り重なるようにして横たわった、三匹のブラックハウンドたちだった。
番犬としてのきりり、とした表情がだらしなく垂れて、涎と赤い舌をべろりと剥き出している。
そこに、命の灯火など感じるわけもなかった。
ぞくり、ぞくり、と悪寒が背中を駆け抜ける。こんなものは、こんな惨状は、閑静な郊外の邸にはあまりにも似つかわしくない……ッ!
ルナははっとして、屋敷の中に目を向ける。
石段にぽたり、ぽたりと続いた血液の跡が、屋敷の赤絨毯に続いていた。
「……ッ」
だんッ!!
石段を蹴って、ルナは犬たちの頭上を跳んだ。屋敷の赤絨毯を踏みしめて、屋敷の中へと入る。
傍目には何も変わっていない。だが圧倒的に違う。人の気配がしないのだ。普段は入ると同時に使用人の一人や二人とすれ違うのに、その気配もないとはどういうことか。
少し考えてから、屋敷の奥―――ディオルといつも謁見している間に行こうと思い至る。
何故、玄関が開け放たれているのか。理由は簡単。とんでもなく乱暴な客が来たのだ。客をもてなすのはどこか―――応接室だ。
吐き気が込み上げた。奥に行くほど、匂いが強くなっていくのだ。
何度も嗅いだ、そして未だに馴れない、血臭、というやつが。
周囲の扉が、中途半端に開け放たれている。だが、どの部屋からも人の―――生物の気配がしない。
自分の中の瑕を抉るような真似はしたくなかった。だから、ルナは気配にだけ賢明にアンテナを張り巡らせながら、ひたすらに奥に向かう。
それでもちらりと見えてしまったドアの内部。
赤かった。
そして、くすんでいた。
影が見えた。
凝視をすれば、それはきっと見知った形を取るのだろう。
人の影―――いや、命のもうないそれは人形だ。そんな人形が、玩具箱をひっくり返したときのように散らかされ、あるいは放り出され、あるいは幾重にも重ねられているのだ。
ありえない。
あんなものは、人殺しなんて可愛らしいものじゃない。虐殺だ。
脂汗が浮かんでいた。止まりそうになる歩みを、一歩一歩、堪えながら進めていく。直に見てしまえばその場でへたり込んでしまうかもしれない。だから、ルナは周囲なんかに気を配らぬよう、歩いていく。
鼻は抑えているのに、異様な吐き気だけが高まって、胃を焼いた。
―――………。
前にも、こんな空気の中を進んだことがある。
そうだ、あのニード=フレイマーが『月の館』を襲ったときのこと。ちょうど授業の最中だった。昼過ぎの授業中で、皆、心地良い眠気に耐えていたときだった。
火が放たれている、と叫んだのは誰だったか。窓の外から立ち込める白煙を目にした途端、その場は騒然となった。
教師たちは慌てて生徒たちを先導しようと奮闘した。だが、混乱に陥った生徒たちが言うことを聞くはずもなく、さらなる混乱を招くだけだった。
それでもルナはイリーナたちを、唯一火の気が届いていなかった通路まで送り届けると、踵を返して地下に向かったのだ。
理由は一つ。
授業の最中に、カシスがいなかったからだ。
あの男にとって、サボリなんてしょっちゅうで、しかもルナにも解らない研究か何かに数日前からずっと没頭していた。どうせ、また研究室で篭っているのだろうと考えて、ルナもそれほど気に留めていなかった。
けれど、地下研究室という場所は外部から遮断されて安全であると同時に、一番、異常に気づきにくい場所でもある。
今日に限って、サボリを叱り飛ばしにいかなかった自分を呪いながら、炎の熱をすり抜けて、研究室まで赴いた。
そこで見たのは―――
「―――ッ!」
激痛が胸に走る。
駄目だ、今、集中力を途切れさせるようなことはあってはならない。
首を振って、はっと気がつく。
「なッ……」
そこは、応接室の扉の前だった。
その前に、
「……」
仰向けにされた、人の体が、大の字に倒れていた。
ぱっと見は、ただ寝ているだけにも見えた。しかし、黒いタキシードを一部の隙もなく着込んだ、貧相な顔のその執事は、胸の中心に一振りのナイフを飾りに、まっすぐに倒れていた。
その様はまるで、ナイフの持ち主から主を守ろうとして、犯人を最期にかっと見開いた目に焼きつようとした、抵抗のよう。
ごくり、とルナの喉が鳴った。
青白い体から目を逸らす。歯軋りで吐き気を抑え、むかむかする胸を強引に諫めた。
笑い始める足を叱咤して、その眠る死体を跨いだ。いつのときも、そうして生き残ってきたように。
ぴったりと、扉の取っ手に手を重ねる。体重をかけて、果たして扉は開かれた。
心臓に悪い音がする。ぎぃぃぃ、と大層な音を立てて、細い隙間から中が明るみになっていく。眩しくも、開放感もない。ただ暗い口が、開く。
そして、その向こうに。
「・・・?」
初めは背が見えた。
自分のものより高く、しかし、筋力はそれほど感じられない。やがて、その背がスーツだと気がつくのに、そうそう時間はかからなかった。
「フランシス卿……?」
その背中と蒼い髪は、まさしく卿のものだった。問いかけると、その肩がびくり、と震える。
まだ、彼は生きている。
とりあえず、そのことに安堵して、ゆっくりと視線を下ろし―――
そこで見たのは―――
「・・・ッ!」
全身の血が凍った。
五年前の忌々しい記憶がリフレインする。あのとき、研究室に辿り着いたルナは、研究室の重い扉を開けて、開けてそして、見てしまったのだ。
研究室の中には、見慣れないものがいた。
顔さえ覚えていない。ただ、ただ薄ら笑いを浮かべた男たちが、各々得物を持った者たちが、数人立っていて、その中央には―――
横たえた、微動だにしない白子[アルビノ]の男の姿。
もう過去の話だ。
彼は生きていた。
生きていた、だからあれは幻想だ。彼は生きていた。生きていたのに。
「なん、で……」
なのに、何故?
何故……今、またその幻想が、目の前で起こっている―――?
見間違えなどあるはずがなかった。もともと目立つ髪の色。暗闇でも光る白い髪を振り乱して、うつ伏せで表情は見えないけれど、ああ、あの白い上着は、うん、そう―――彼のものなんだよね……?
ぽたり、と立ち尽くした男の手に握られた短刀から、一滴の血が、滴った。
がしゃんッ!!
ディオル=フランシスが慌てて刀を手放す音が、響いた。
「……ち、ちがう…」
「……」
「ぼ、僕はただ誰かに襲われて気を失って、目が覚めたらこの男が倒れていてッ!!」
「……」
「僕じゃない、僕じゃないッ! ほ、ほら、こんなものまで握らされてッ!
だ、大体、誰かもわからないこんな男、僕が殺す理由はないだろうッ! き、聞いているのかッ、ええッ!?」
聞こえなかった。
震えた声の戯言など、聞こえるはずもなかった。
ああ、あのときと同じなのだと。もう何も考えられなかった。考える? 一体、何を考えろというのか。全身が熱い。血が沸騰している。これは怒りじゃない。怒りなんてそんな、優しいものなんかじゃない。
目の前の光景が、あまりにも、同じだったから。
だから、ルナは何事か喚きたてる卿に耳など貸さず。
無言で腰に下げた短剣を抜いた。
男の断末魔は、ひしゃげた哀れな声だった。
「ッ、はぁ、……はぁッ……!」
返り血が、頬にかかった。頬だけじゃない。服に、全身に。ぬるぬると気持ちの悪い体液が、飛び散ってこびりつく。
がたん、と掌から短剣が滑り落ちた。赤い軌跡を描きながら、それは仰向けに倒れた男の脇へ落下した。
でもそんな死体など、彼女の目には見えていなかった。
「ッ! カシスッ!」
弾かれたように、彼女はうつ伏せた白い身体に手を伸ばした。
弾かれたように、そちらを、そちらだけを見た。
それはつまり、周囲に、先ほどまであれほど注意を払っていた周囲を、初めて疎かにしてしまった、ということで―――。
ゴッ!!
「―――ッ!」
首の後ろに衝撃が走った。がくり、と膝の力が抜ける。力を取り戻そうともがいてみるが、徒労だった。
受身を取る間もなく、肩が絨毯に打ち付けられる。
そのまま、ゆっくりと、瞼を黒いカーテンが覆っていった。
「か……し…す………」
最後の呟きは、うつぶせた身体に届くことなく、小さく消えた。
力なく倒れ伏す少女の背後に立って、少年は小さく溜め息を吐く。
「………最後の悲鳴が、愛した男の名前とはね…。随分と健気な娘だ……」
ふわり、と黒の残像が棚引いて、人の形を取り繕う。青白い顔の少年は、眠る少女の横顔にそう呟いた。
ふと気がついて、かつかつと、少女の視線の先にいたうつぶせた死体の方へ行く。徐に、少年はその死体を蹴り上げた。あまりに乱暴で、うつ伏せていた身体は傾いでその顔を曝した。
それを冷たい目で見下ろしながら、少年は再度、溜め息を吐く。
「哀しいねぇ……。人を愛して、人を信じて、でも自分しか信じられなくて、ついには四面楚歌。
哀れで一途な、美しい満月だったよ。
それに比べて、」
ふと、少年は顔を上げる。
開け放たれた扉の方へ目をやって、目を細めた。そこには僅かに―――悪戯好きの子供を窘めるような、静かな笑みが浮かんでいた。
「まったく酷い男もいたものだよ、ねぇ?」
きぃ、と扉が軋んだ音を立てる。いつのまにか、その扉を支えにして立っていた男は、薄い唇をにぃ、と吊り上がらせて、赤い舌で舐め取った。
暗闇の中、白い髪の鬘を振り乱した、能面の大きな人形が、だらりと少年の足元に転がっていた。
「ここ……よね?」
「みたいだな」
羊皮紙から顔を上げて、カノンは目の前の歪な光景を見上げた。
町の外、郊外の湿った森の中。かつて暗黒時代と呼ばれた、遥か昔には、銀が掘られた場所だったらしい。
森の一角に、ドーム上に広がる石の洞穴がある―――宿屋の主人から聞いた場所は、間違いではなかったようだ。
獣道を進んで、唐突に道が切れたと思ったら、その穴はぽっかりと口を開けていたのだ。
人が三人ほど並んで入れるような、洞穴にしては広い穴。視線を上げると、梢と蔦の向こうにけして高くはないが、低くもない山並みが見える。おそらくは、あそこに向かって掘られたものなのだろう。
カノンは唇を真一文字に引き締めた。辺りの気配を探る。とりあえずは、何もなさそうだ。山中の苔むした匂い以外、何も感じられない。
「まったくもって意味が解らないわ。何を考えているのかしら?」
シリアの苛立った声が上がる。警戒は緩めないまま、カノンはそのふざけた手紙に視線を落とした。
拝啓 カノン=ティルザード様
貴女のご友人の旧友イリーナ=ツォルベルン様をお預かり致しました。
憂いでありますならば、町外れの洞穴までいらしてくださいますよう。
普通の人攫いならば、脅迫状をカノンたちに渡すなどありえないだろう。お門違いにも程があるし、わざわざ旅の人で政団に所属する彼女を狙う理由が存在しない。
となれば、やはり最初の予想通り、連中の仕業なのだろうが……
「……何で、イリーナさんが」
「あんの野郎、相変わらずやることが汚ねぇぜ! 言うに事欠いて、女の子を、それも俺らと関係ない子を誘拐かよ!」
「いや、妙だな」
「あ?」
激昂して指を噛みながら言うアルティオへ、最後尾からレンが口を挟んだ。手紙を降ろしてカノンが後を継ぐ。
「街中であんなに派手にやらかしてくれたくせに、今度は今さらこんなこそこそと誘拐なんてやらかして、町の外に引っ張り出すなんて、確かに妙ね。
どんな罠を張ってるにしても、あれだけの事件を揉み消せるような手段があるなら、別にわざわざこんなところに呼び出す必要はないわ。
加えて、何でイリーナさんを攫ったのか、ってこと。あれだけの技量の持ち主よ。何で今さら人質なんて取る必要があるの? 何で、あたしたちの誰かでもなく、関係のないイリーナさんを巻き込むの?」
「ただ単に、攫いやすそうな人を狙っただけじゃあない?
町から離れさせたのは……例えば、ここの罠にまた『月の館』に関係するものを使用してて、ルナやあの魔道技師に悟られたくなかった、とか」
「だったら、イリーナさんを攫うにしたって、ただの人攫いの犯行に見せかけて脅迫状はあの男に送る、とか。
それでルナやあの男を挑発して、一方で別の事件を起こして分散させる……みたいな手段を取った方が効率的よ。それに、今回はルナもいなかったし、訪ねて行ってもあの男が不在だったから仕方なかったけど、いたら協力するはずでしょ? 奴らにとって、不利極まりないわ」
「……そう、だな」
不意に、レンが硬い声を出した。
「? どうかしたのか?」
「いや……何でもない。ともかく急ぐぞ」
「そうだな。カノン! 早くしようぜ。じゃないと奴らにイリーナさんが何されるか……」
「そうね。ここまで来たら虎穴に入らずんば虎子を得ず、だわ」
きっ、と彼女は洞穴の奥を睨んだ。シリアやアルティオと目配せをし、洞穴の中へ入っていく。それに続きながら、レンは顎に指を当て、思案する。
手紙を受け取り、店の主人に場所を聞き。イリーナらの宿屋に行ったが、そこには誰もいなかった。
仕方なく、その宿屋の主人と、ルナと会う予定があると言っていたラーシャとデルタに伝言を頼み、急遽、ここに駆けつけた。
罠だ、とは解り切っていた。
しかし、どんな罠かは推測できる状況になかった上、人命がかかってしまっていた。あまりにも情報が少なすぎた。これ以上の戦力の分散は危険を生むし、イリーナを見捨てるわけにもいかなかった。だから導かれるままの行動となった。それに異論はない。選択肢が元からなかったのだ。
奴らの動きがここ数日、まったくなかったのは、この局面でことを起こし、情報不足を憂いてこちらにこの行動を取らせるためだったのか。
いや。
そもそも。
この局面でルナやあの男と手を結べない、というのは、本当に偶然なのだろうか。
ぞくり。
薄ら寒さが、背筋を襲う。
昨晩、ルナがラーシャたちシンシアに加担していたことが露呈し、カノンと仲違いを起こした。あれほどの激昂を生むとは思わなかったが、何らかの亀裂を生むということは予測できた。
―――まさか、奴らはこれを待っていたのか……?
事実、レンは黒いあの影を目撃した直後にラーシャとルナを目撃した。それが決定的となり、ルナの加担はカノンの知るところとなった。
あれはもしや、誘いではなく、"レンの慎重さを読んだ上で、立ち止まらせるための動き"だとしたら……?
ぎり―――ッ、奥歯を噛み鳴らす。
いや、しかし、カノンとルナに、ここまでの亀裂を生じさせることが出来るとは、予測できたのか? 亀裂が生じたとしても、ルナがあそこで出て行かなければ、今、この場に彼女もいたはずだ。
それに、これはルナがシンシアに加担すると解っていなければ出来ない策だ。奴らが本当にエイロネイアの刺客ならば、シンシア側の自分やカノンに対する動きを悟ることは出来ても、ルナがシンシアに加担することと、それが露呈したルナがどんな行動に移るかを想像することは不可能だ。
ならば、何故、こんな手を使う……?
憶測だけがせめぎ合う。知らず知らずに、掌で踊らされているような、そんな感覚さえ。
良くないことだと知ってはいても、歯を噛み鳴らしてしまう。一体、何が正解で何が間違っているのか。ああ、もう噛み合わない最悪のピースを取るわけにはいかないというのに。
「イリーナさん!?」
カノンの声にはっ、と顔を上げる。
いつのまにか、目の前が開けていた。洞穴の道が急に広くなった、と思ったら、そこは妙に広い一室だった。ちょっとしたホールくらいの大きさはある。
ごつごつとした岩肌が、ドーム状の部屋を造り出し、また天井は抜けて吹き抜けとなっている。丸く切り取られた赤い空が、天上に見えていた。天然の要塞、と称してもいいだろう、その石のホールの隅に、見覚えのあるローブの後姿が見えた。
視線を巡らせる。周囲には誰もいない。気配も……ない。
「イリーナさんッ!」
「おい、大丈夫かッ!?」
もう一度、呼びかけてカノンが少女の後姿に駆け寄った。シリアとアルティオがそれに続く。
一歩遅れて背を追いながら、顔をしかめる。
おかしい。他に誰もいない、ということがあり得るのか? 一体、どういうことだ。
がんがんと、レンの頭の中で警鐘が鳴り響く。
カノンの手が、少女の肩を掴んで振り返らせる。少しだけ驚いたような、それでいて不安げな少女の顔が見えた。
瞳にカノンの姿を映した途端、その表情が和らいだ。
「カノンさん……、来てくれたんですね……」
「大丈夫ッ!? 何かされてないッ!?」
「ええ、大丈夫です……。来てくれて、ありがとうございます。良かった……」
そのやり取りに、一抹の違和感を覚える。シリアもアルティオも安堵した表情を見せているが、レンの表情は険しくなるばかりだった。
何だ? 何かが、おかしい。警鐘が、鳴る。
その違和感を、多少はカノンも感じたらしい。肩を掴む手を緩めて、ふと、真顔に戻る。
少女が、ローブの胸元を抑えた。
そして、にっこりと、いつもの笑みを讃えながら、言った。
「良かった…本当に、良かった。じゃあ、」
「死んで、ください」
胸元から抜き出された少女の小さな手には、歪んだラインを描くナイフが一振り、握られていた……。
←10へ
起き出した朝方に、ルナの姿は宿屋になかった。
そうしていくら待ってみても、昼すぎまで彼女の姿を見ることはなかった。
「……」
カノンは痛む頭を抱えながら、昼食の席に着く。
「……大丈夫か?」
「……だいじょうぶよ」
アルティオからの問いに、小さく答えて紅茶のカップを持ち上げる。僅かな溜め息が紅色の水面に波紋を立てた。
「ルナは?」
「戻ってないわよ」
同じく、苛立ちの溜め息を吐くシリアから答えが返って来る。食欲も湧かなくて、極軽い食事だけを注文した。
食事が運ばれてくる間、誰も口を開かなかった。
やがて、甘さを抑えたフレンチ・トーストがカノンの前に置かれる。手もつけずに、しばらく眺めていると、不意に沈黙が破られる。
「で、どうする気だ?」
「……」
いつも通りの冷静な声に、問いかけられる。しかし、返答など浮かぶはずもない。
「この際、あいつがシンシアに加担していたことは置いておく。
あの分では、ちょっとやそっとで、易々と決意を揺るがすようなこともしないだろう。止める、というのは難しいな」
「そんなこと言ったってッ!!」
「お、落ち着けよ、カノン」
がたんッ、と立ち上がって身を乗り出した彼女を、アルティオが慌てて抑えた。剣呑な視線を向けられたレンは、僅かに眉間に皺を寄せる。
「事実だろう。あいつはお前以上に意地を張る天才だ。ここまで拗れてしまっては、修正も聞くまい」
「……あたしのせいだって言いたいの?」
「そんなことは言っていない。ルナの方にしても、クオノリアの一件から、いや、ひょっとしたら俺たちと再会する前から決めていたことなのかもしれん。
もしも、研究が流出することがあったなら、何をしてでも止める、とな。
そうだとしたら、今さら俺たちがどうこう言ったところで、あいつの態度は変わらんさ。
カノン、あれの強情さはお前もよく知っているだろう?」
「……」
そう強情。頑固。
飄々と生きているように見えて、その実、内面は他の誰よりも健気で一途。きっと、彼女の頑固さに比べたら、カノンの負けん気など到底及ばない。
そんなことは解りきっていた。
「でも……ッ! 何でッ、何でルナがそんな危ない場所に行かなきゃいけないのよッ!? おかしいでしょうッ!?」
「か、カノン、声でかいってッ!」
「せっかく、昔の仲間とも会えたってんじゃないッ! もういいじゃないッ! 何でそんな責務を負わなきゃいけないのッ!? ナンセンスにも程ってもんがあるわッ!!」
「……」
「カノン」
「何ッ!?」
声を荒げさせるカノンを制したのは、レンの声ではなかった。頬杖をついたシリアが、いつになく真剣な目を向けて来ていた。元来、美人で目は切れ長だ。その眼差しを向けられて、カノンは僅かにたじろいだ。
「皆、そんなに器用じゃないのよ」
「……」
「確かに、私だってそんなところに行こうとする知り合いがいたら、止めるけど。
でも、考えて見なさい。もしも、もしもの話よ?
この中の誰がどうしても戦争なんて場所に行かなくちゃいけなくなったら、貴方はどうする?」
「―――ッ」
ぎゅ、とカノンの眉間に皺が寄った。逡巡の色だ。シリアはきぃ、と小さく椅子を鳴らして椅子の背もたれに寄りかかった。
「私なら、レンが行こうとすれば止めるし、それくらいなら自分が行こうと思うわ。そんな知らないところで、無事に帰って来る保障もない場所で、好きな人の命を運に任せるなんてごめんだもの」
「……」
「あの娘はきっと、今、そういう心境なんでしょ。
ねぇ、カノン。いくら貴方が鈍い、って言ったって、いい加減解るでしょう? あの娘が、イリーナって子や、あの白子[アルビノ]のチーフにかけてる想いがどれだけのものか。
あの娘にとって、たぶん、自分が疑われてるかどうかなんて至極、些細な問題なのよ」
「それは……ッ」
「貴方の言いたいことも解るけど。でも、だからって人間、そんなに器用にいくものじゃあないじゃない」
「……」
がくり、と彼女の肩から力が抜けた。傾ぎかけた彼女の身体を、アルティオは慌てて抱え上げる。
それに支えられたまま、茫然とカノンはテーブルの端を見つめたまま、力なく口にする。
「………それでも、何も一人で抱え込むことないじゃない……」
「……」
「辛いなら、辛い、って言えばいいのよ……。泣きたいなら、泣けばいいじゃない。
あたしには気持ちが解らない、なんて……そんなの、言ってくれなきゃ解るはずないじゃない……。
あたしは、そんなに頼りないっての……?」
「カノン……」
ゆっくりと、カノンはアルティオの手を払う。そのまま、静かに椅子へ腰を落とした。
誰も何も言えなかった。
カノンが一番、激昂したのはルナがシンシアに加担していたことなどではない。ただ一人で、内密にことを運ぼうとしていたことだけだ。
誰にも言わず、誰にも言えず、ただ茨が生えた路を行く。それがどれだけ辛くて、痛みを伴うことなのか、カノンだって知っている。だからこそ、独りよがりに行こうとした彼女も許せないし、彼女のそんな想いに気づいてやれなかった自分も許せない。
ただ、それだけなのだ。
しばらく、くしゃくしゃになった自分の金の髪を眺めていた。
頭が冷えない。冷えてくれれば、きっとこれからどうすればいいか、考えることも出来るのに。
「あの……」
重い沈黙に割り込んだ声は、弱弱しく、申し訳なさそうな小声だった。
カノン以外の三人が、顔を上げる。テーブルの正面に、初老の小柄な男が、所在無げに立っていた。
ここ五日あまりで顔なじみになってしまった宿屋の主人だった。
「お取り込み中、すいません。ええっと、カノン=ティルザードさんは?」
「?」
名指しで呼ばれて、ようやくカノンは顔を上げた。それを見て、主人はテーブルの真ん中に、手に持っていた何かを置いた。
それを目にして、カノンの表情が疑念に揺らぐ。
真っ白な、飾り気の一切ない封書。その片隅に、カノンのフルネームが記述されている。それだけを見るなら、ただの手紙と受け取ってもいい。
だが、一つだけ異様だったのは、
封書の表面に、突き刺さるように糊付けされた鴉の羽。
黒、という色が否応無しに誰かを連想する。
「……店主、これは?」
「はい、いや、私も解らないんですが。いつのまにかカウンターに置かれていて……
宿帳に書かれているお名前と同じものでしたので、とりあえずお聞きしてみようと……」
場の重い雰囲気に押されてか、それとも差出人不明の封書に疑念を抱いてか、しどろもどろに答える主人。
「カノン……」
アルティオが問うようにカノンの名を呼んだ。
知らず知らずに固唾を呑む。
いつもいつも、大方の時間をカウンターで過ごしているはずの宿屋の主人。その目を掻い潜って、どうやってか届けられた手紙。
そしてこの最悪のタイミング。
睨むようにそれを見て、カノンはそっと手を伸ばす。
表面に何か薬のようなものが塗られていないか、刃が飛び出ていることはないか、いや、主人が普通に持っていたということは、そんな工作はないだろう。
となれば、重要なのは中身だ。
宿屋の主人に適当な礼を言って追い返す。他人の前で開けるようなものじゃない。
「レン、シリア、アルティオ」
覚悟を確かめるように、全員の名前を呼ぶ。全員が無言で頷いた。
軽く、カノンは頭を振る。切り替えろ、切り替えろ、あくまで冷静に。
「……代わるか?」
「いいえ、大丈夫」
紙の破る音が、いつもより神妙に聞こえる。破いた封書の隙間から、何の変哲もない羊皮紙が見える。
その手紙を、いつもの三倍は丁寧に開いて、
「・・・え?」
それを目にした途端、カノンの茫然とした声が辺りに漏れた。
「ん……」
頭ががんがんと痛む。いや、がんがんなんて優しいものじゃない。耳のすぐ脇で、遠慮無しにでかい鐘か何かがごんごん打ち鳴らされている、というか。
ともかく、そんな耐え難い痛み。
でも、もっと耐え難いのが、
「……ッつぅ」
身を起こした瞬間、腰から下に走った激痛に、またベッドの中へへたり込む。
「~~~あんの馬鹿、マジで無理矢理やりやがったわね……」
カーテンの隙間から日の光が見える。大体、昼過ぎ、だろうか。日が傾くまで熟睡していたらしい自分に少し呆れる。
―――まあ、あたしのせいじゃないけど……。
明け方まで身体を拘束していた腕の主の姿はもうなかった。意外ときちんと後始末はしていったらしく、落としたはずのマグカップは片付けられていて、代わりに既に乾いた服が折り畳まれて置かれていた。その上には、煙草の空箱と新しい印が刻まれた羽飾り。
気だるい身体を何とか起こして、髪を掻き揚げる。
早く体裁を整えなければ。夕方の約束に遅れてしまう。
―――とりあえず、ラーシャたちと訪問には行かないと……
行って、もし解決したとして、その後は、一体どうするべきなんだろう……?
大仰な溜め息が漏れる。知らず知らずのうちに、畳まれた服の上に置かれる箱に手を伸ばした。空だと思っていたそれには、一本だけ折れた煙草が残っていた。
「―――フレイ・フレイア」
極少に魔力を抑えた火炎魔法で着火して、口に加える。苦い煙が、口腔に広がった。
「………マズ」
何も言わぬ床だけを見つめながら、小さく吐き出した。
頬に伝う幾重もの涙の跡に、彼女が気づくことは、ついに、なかった。
違和感が、あった。
静か過ぎる。
だるい身体を引き摺って、フランシス邸の前まで来たルナは足を止める。
夕刻の町。フランシス邸は、街中から一本外れた郊外に近い場所に在り、人通りという人通りも少ない。ましてや、夕暮れ時は人一人さえ。高級街の一本道などに用件のある人間はいないのだろう。
だから、別段、騒がしさがないことは道理がいく。
いくのだが、
「……?」
今日はラーシャと直接現地で待ち合わせていた。昨晩、トラブルはあったがそれで放り出すような無責任なことをあの厳格な女軍官がするはずもないだろう。そもそも、昨日の騒動は彼らの任務と何ら関係があるはずもない。
少し早かったか、と思って辺りを見渡して。
ルナはその違和感に気が付いたのである。
遙か高みまで聳え立つフランシス邸の門。その門が、中途半端に開いているのだ。一応、言って置くが今までこんな無用心な構えだったことは一度もない。
フランシス家は豪族だ。敵も多い。こんな門構えを放置しておくなど、ありえない。普通なら。
―――……。
いやな予感がした。
クロード=サングリット、フェルス=ラント。どちらもあの黒衣の少年に、シンシアの聖騎士がエイロネイアの刺客だと語るあの少年に加担していた男の名。そしてその末路は哀れなものだった。
もしも、もしもディオル=フランシスが、エイロネイアに武器を密輸していたとしたら―――。
益をもたらす者だから、といういい訳は通用しない。だって、クロード=サングリットも、フェルス=ラントも、何らかの形であの少年の利益になっていたはずだ。だが、殺された。
同じ、だ。
「ッ!」
嫌な想像が頭を巡った。礼儀に反することだと知りながら、ルナは門の中に飛び込んだ。
広い庭をかける。訪れるたびに、美しい水の曲線を描いていた噴水は止まっていた。青い芝生は番犬に踏み荒らされたのだろうか、ところどころ剥げている。
そういえば、音を荒げればすぐさま黒い番犬たちが吠え立てて来たというのに、その声も聞こえない。その理由は、玄関に辿り着いて明らかになった。
「ッ! な……ッ!!」
異臭に、鼻を抑える。
玄関の白い、豪奢な扉が乱暴に開け放たれていた。その半壊した扉には、赤黒いモノが付いている。
歪に飛び散っているのは、異様な匂いを放つ正体。その体液を流すのは、扉の前に折り重なるようにして横たわった、三匹のブラックハウンドたちだった。
番犬としてのきりり、とした表情がだらしなく垂れて、涎と赤い舌をべろりと剥き出している。
そこに、命の灯火など感じるわけもなかった。
ぞくり、ぞくり、と悪寒が背中を駆け抜ける。こんなものは、こんな惨状は、閑静な郊外の邸にはあまりにも似つかわしくない……ッ!
ルナははっとして、屋敷の中に目を向ける。
石段にぽたり、ぽたりと続いた血液の跡が、屋敷の赤絨毯に続いていた。
「……ッ」
だんッ!!
石段を蹴って、ルナは犬たちの頭上を跳んだ。屋敷の赤絨毯を踏みしめて、屋敷の中へと入る。
傍目には何も変わっていない。だが圧倒的に違う。人の気配がしないのだ。普段は入ると同時に使用人の一人や二人とすれ違うのに、その気配もないとはどういうことか。
少し考えてから、屋敷の奥―――ディオルといつも謁見している間に行こうと思い至る。
何故、玄関が開け放たれているのか。理由は簡単。とんでもなく乱暴な客が来たのだ。客をもてなすのはどこか―――応接室だ。
吐き気が込み上げた。奥に行くほど、匂いが強くなっていくのだ。
何度も嗅いだ、そして未だに馴れない、血臭、というやつが。
周囲の扉が、中途半端に開け放たれている。だが、どの部屋からも人の―――生物の気配がしない。
自分の中の瑕を抉るような真似はしたくなかった。だから、ルナは気配にだけ賢明にアンテナを張り巡らせながら、ひたすらに奥に向かう。
それでもちらりと見えてしまったドアの内部。
赤かった。
そして、くすんでいた。
影が見えた。
凝視をすれば、それはきっと見知った形を取るのだろう。
人の影―――いや、命のもうないそれは人形だ。そんな人形が、玩具箱をひっくり返したときのように散らかされ、あるいは放り出され、あるいは幾重にも重ねられているのだ。
ありえない。
あんなものは、人殺しなんて可愛らしいものじゃない。虐殺だ。
脂汗が浮かんでいた。止まりそうになる歩みを、一歩一歩、堪えながら進めていく。直に見てしまえばその場でへたり込んでしまうかもしれない。だから、ルナは周囲なんかに気を配らぬよう、歩いていく。
鼻は抑えているのに、異様な吐き気だけが高まって、胃を焼いた。
―――………。
前にも、こんな空気の中を進んだことがある。
そうだ、あのニード=フレイマーが『月の館』を襲ったときのこと。ちょうど授業の最中だった。昼過ぎの授業中で、皆、心地良い眠気に耐えていたときだった。
火が放たれている、と叫んだのは誰だったか。窓の外から立ち込める白煙を目にした途端、その場は騒然となった。
教師たちは慌てて生徒たちを先導しようと奮闘した。だが、混乱に陥った生徒たちが言うことを聞くはずもなく、さらなる混乱を招くだけだった。
それでもルナはイリーナたちを、唯一火の気が届いていなかった通路まで送り届けると、踵を返して地下に向かったのだ。
理由は一つ。
授業の最中に、カシスがいなかったからだ。
あの男にとって、サボリなんてしょっちゅうで、しかもルナにも解らない研究か何かに数日前からずっと没頭していた。どうせ、また研究室で篭っているのだろうと考えて、ルナもそれほど気に留めていなかった。
けれど、地下研究室という場所は外部から遮断されて安全であると同時に、一番、異常に気づきにくい場所でもある。
今日に限って、サボリを叱り飛ばしにいかなかった自分を呪いながら、炎の熱をすり抜けて、研究室まで赴いた。
そこで見たのは―――
「―――ッ!」
激痛が胸に走る。
駄目だ、今、集中力を途切れさせるようなことはあってはならない。
首を振って、はっと気がつく。
「なッ……」
そこは、応接室の扉の前だった。
その前に、
「……」
仰向けにされた、人の体が、大の字に倒れていた。
ぱっと見は、ただ寝ているだけにも見えた。しかし、黒いタキシードを一部の隙もなく着込んだ、貧相な顔のその執事は、胸の中心に一振りのナイフを飾りに、まっすぐに倒れていた。
その様はまるで、ナイフの持ち主から主を守ろうとして、犯人を最期にかっと見開いた目に焼きつようとした、抵抗のよう。
ごくり、とルナの喉が鳴った。
青白い体から目を逸らす。歯軋りで吐き気を抑え、むかむかする胸を強引に諫めた。
笑い始める足を叱咤して、その眠る死体を跨いだ。いつのときも、そうして生き残ってきたように。
ぴったりと、扉の取っ手に手を重ねる。体重をかけて、果たして扉は開かれた。
心臓に悪い音がする。ぎぃぃぃ、と大層な音を立てて、細い隙間から中が明るみになっていく。眩しくも、開放感もない。ただ暗い口が、開く。
そして、その向こうに。
「・・・?」
初めは背が見えた。
自分のものより高く、しかし、筋力はそれほど感じられない。やがて、その背がスーツだと気がつくのに、そうそう時間はかからなかった。
「フランシス卿……?」
その背中と蒼い髪は、まさしく卿のものだった。問いかけると、その肩がびくり、と震える。
まだ、彼は生きている。
とりあえず、そのことに安堵して、ゆっくりと視線を下ろし―――
そこで見たのは―――
「・・・ッ!」
全身の血が凍った。
五年前の忌々しい記憶がリフレインする。あのとき、研究室に辿り着いたルナは、研究室の重い扉を開けて、開けてそして、見てしまったのだ。
研究室の中には、見慣れないものがいた。
顔さえ覚えていない。ただ、ただ薄ら笑いを浮かべた男たちが、各々得物を持った者たちが、数人立っていて、その中央には―――
横たえた、微動だにしない白子[アルビノ]の男の姿。
もう過去の話だ。
彼は生きていた。
生きていた、だからあれは幻想だ。彼は生きていた。生きていたのに。
「なん、で……」
なのに、何故?
何故……今、またその幻想が、目の前で起こっている―――?
見間違えなどあるはずがなかった。もともと目立つ髪の色。暗闇でも光る白い髪を振り乱して、うつ伏せで表情は見えないけれど、ああ、あの白い上着は、うん、そう―――彼のものなんだよね……?
ぽたり、と立ち尽くした男の手に握られた短刀から、一滴の血が、滴った。
がしゃんッ!!
ディオル=フランシスが慌てて刀を手放す音が、響いた。
「……ち、ちがう…」
「……」
「ぼ、僕はただ誰かに襲われて気を失って、目が覚めたらこの男が倒れていてッ!!」
「……」
「僕じゃない、僕じゃないッ! ほ、ほら、こんなものまで握らされてッ!
だ、大体、誰かもわからないこんな男、僕が殺す理由はないだろうッ! き、聞いているのかッ、ええッ!?」
聞こえなかった。
震えた声の戯言など、聞こえるはずもなかった。
ああ、あのときと同じなのだと。もう何も考えられなかった。考える? 一体、何を考えろというのか。全身が熱い。血が沸騰している。これは怒りじゃない。怒りなんてそんな、優しいものなんかじゃない。
目の前の光景が、あまりにも、同じだったから。
だから、ルナは何事か喚きたてる卿に耳など貸さず。
無言で腰に下げた短剣を抜いた。
男の断末魔は、ひしゃげた哀れな声だった。
「ッ、はぁ、……はぁッ……!」
返り血が、頬にかかった。頬だけじゃない。服に、全身に。ぬるぬると気持ちの悪い体液が、飛び散ってこびりつく。
がたん、と掌から短剣が滑り落ちた。赤い軌跡を描きながら、それは仰向けに倒れた男の脇へ落下した。
でもそんな死体など、彼女の目には見えていなかった。
「ッ! カシスッ!」
弾かれたように、彼女はうつ伏せた白い身体に手を伸ばした。
弾かれたように、そちらを、そちらだけを見た。
それはつまり、周囲に、先ほどまであれほど注意を払っていた周囲を、初めて疎かにしてしまった、ということで―――。
ゴッ!!
「―――ッ!」
首の後ろに衝撃が走った。がくり、と膝の力が抜ける。力を取り戻そうともがいてみるが、徒労だった。
受身を取る間もなく、肩が絨毯に打ち付けられる。
そのまま、ゆっくりと、瞼を黒いカーテンが覆っていった。
「か……し…す………」
最後の呟きは、うつぶせた身体に届くことなく、小さく消えた。
力なく倒れ伏す少女の背後に立って、少年は小さく溜め息を吐く。
「………最後の悲鳴が、愛した男の名前とはね…。随分と健気な娘だ……」
ふわり、と黒の残像が棚引いて、人の形を取り繕う。青白い顔の少年は、眠る少女の横顔にそう呟いた。
ふと気がついて、かつかつと、少女の視線の先にいたうつぶせた死体の方へ行く。徐に、少年はその死体を蹴り上げた。あまりに乱暴で、うつ伏せていた身体は傾いでその顔を曝した。
それを冷たい目で見下ろしながら、少年は再度、溜め息を吐く。
「哀しいねぇ……。人を愛して、人を信じて、でも自分しか信じられなくて、ついには四面楚歌。
哀れで一途な、美しい満月だったよ。
それに比べて、」
ふと、少年は顔を上げる。
開け放たれた扉の方へ目をやって、目を細めた。そこには僅かに―――悪戯好きの子供を窘めるような、静かな笑みが浮かんでいた。
「まったく酷い男もいたものだよ、ねぇ?」
きぃ、と扉が軋んだ音を立てる。いつのまにか、その扉を支えにして立っていた男は、薄い唇をにぃ、と吊り上がらせて、赤い舌で舐め取った。
暗闇の中、白い髪の鬘を振り乱した、能面の大きな人形が、だらりと少年の足元に転がっていた。
「ここ……よね?」
「みたいだな」
羊皮紙から顔を上げて、カノンは目の前の歪な光景を見上げた。
町の外、郊外の湿った森の中。かつて暗黒時代と呼ばれた、遥か昔には、銀が掘られた場所だったらしい。
森の一角に、ドーム上に広がる石の洞穴がある―――宿屋の主人から聞いた場所は、間違いではなかったようだ。
獣道を進んで、唐突に道が切れたと思ったら、その穴はぽっかりと口を開けていたのだ。
人が三人ほど並んで入れるような、洞穴にしては広い穴。視線を上げると、梢と蔦の向こうにけして高くはないが、低くもない山並みが見える。おそらくは、あそこに向かって掘られたものなのだろう。
カノンは唇を真一文字に引き締めた。辺りの気配を探る。とりあえずは、何もなさそうだ。山中の苔むした匂い以外、何も感じられない。
「まったくもって意味が解らないわ。何を考えているのかしら?」
シリアの苛立った声が上がる。警戒は緩めないまま、カノンはそのふざけた手紙に視線を落とした。
拝啓 カノン=ティルザード様
貴女のご友人の旧友イリーナ=ツォルベルン様をお預かり致しました。
憂いでありますならば、町外れの洞穴までいらしてくださいますよう。
普通の人攫いならば、脅迫状をカノンたちに渡すなどありえないだろう。お門違いにも程があるし、わざわざ旅の人で政団に所属する彼女を狙う理由が存在しない。
となれば、やはり最初の予想通り、連中の仕業なのだろうが……
「……何で、イリーナさんが」
「あんの野郎、相変わらずやることが汚ねぇぜ! 言うに事欠いて、女の子を、それも俺らと関係ない子を誘拐かよ!」
「いや、妙だな」
「あ?」
激昂して指を噛みながら言うアルティオへ、最後尾からレンが口を挟んだ。手紙を降ろしてカノンが後を継ぐ。
「街中であんなに派手にやらかしてくれたくせに、今度は今さらこんなこそこそと誘拐なんてやらかして、町の外に引っ張り出すなんて、確かに妙ね。
どんな罠を張ってるにしても、あれだけの事件を揉み消せるような手段があるなら、別にわざわざこんなところに呼び出す必要はないわ。
加えて、何でイリーナさんを攫ったのか、ってこと。あれだけの技量の持ち主よ。何で今さら人質なんて取る必要があるの? 何で、あたしたちの誰かでもなく、関係のないイリーナさんを巻き込むの?」
「ただ単に、攫いやすそうな人を狙っただけじゃあない?
町から離れさせたのは……例えば、ここの罠にまた『月の館』に関係するものを使用してて、ルナやあの魔道技師に悟られたくなかった、とか」
「だったら、イリーナさんを攫うにしたって、ただの人攫いの犯行に見せかけて脅迫状はあの男に送る、とか。
それでルナやあの男を挑発して、一方で別の事件を起こして分散させる……みたいな手段を取った方が効率的よ。それに、今回はルナもいなかったし、訪ねて行ってもあの男が不在だったから仕方なかったけど、いたら協力するはずでしょ? 奴らにとって、不利極まりないわ」
「……そう、だな」
不意に、レンが硬い声を出した。
「? どうかしたのか?」
「いや……何でもない。ともかく急ぐぞ」
「そうだな。カノン! 早くしようぜ。じゃないと奴らにイリーナさんが何されるか……」
「そうね。ここまで来たら虎穴に入らずんば虎子を得ず、だわ」
きっ、と彼女は洞穴の奥を睨んだ。シリアやアルティオと目配せをし、洞穴の中へ入っていく。それに続きながら、レンは顎に指を当て、思案する。
手紙を受け取り、店の主人に場所を聞き。イリーナらの宿屋に行ったが、そこには誰もいなかった。
仕方なく、その宿屋の主人と、ルナと会う予定があると言っていたラーシャとデルタに伝言を頼み、急遽、ここに駆けつけた。
罠だ、とは解り切っていた。
しかし、どんな罠かは推測できる状況になかった上、人命がかかってしまっていた。あまりにも情報が少なすぎた。これ以上の戦力の分散は危険を生むし、イリーナを見捨てるわけにもいかなかった。だから導かれるままの行動となった。それに異論はない。選択肢が元からなかったのだ。
奴らの動きがここ数日、まったくなかったのは、この局面でことを起こし、情報不足を憂いてこちらにこの行動を取らせるためだったのか。
いや。
そもそも。
この局面でルナやあの男と手を結べない、というのは、本当に偶然なのだろうか。
ぞくり。
薄ら寒さが、背筋を襲う。
昨晩、ルナがラーシャたちシンシアに加担していたことが露呈し、カノンと仲違いを起こした。あれほどの激昂を生むとは思わなかったが、何らかの亀裂を生むということは予測できた。
―――まさか、奴らはこれを待っていたのか……?
事実、レンは黒いあの影を目撃した直後にラーシャとルナを目撃した。それが決定的となり、ルナの加担はカノンの知るところとなった。
あれはもしや、誘いではなく、"レンの慎重さを読んだ上で、立ち止まらせるための動き"だとしたら……?
ぎり―――ッ、奥歯を噛み鳴らす。
いや、しかし、カノンとルナに、ここまでの亀裂を生じさせることが出来るとは、予測できたのか? 亀裂が生じたとしても、ルナがあそこで出て行かなければ、今、この場に彼女もいたはずだ。
それに、これはルナがシンシアに加担すると解っていなければ出来ない策だ。奴らが本当にエイロネイアの刺客ならば、シンシア側の自分やカノンに対する動きを悟ることは出来ても、ルナがシンシアに加担することと、それが露呈したルナがどんな行動に移るかを想像することは不可能だ。
ならば、何故、こんな手を使う……?
憶測だけがせめぎ合う。知らず知らずに、掌で踊らされているような、そんな感覚さえ。
良くないことだと知ってはいても、歯を噛み鳴らしてしまう。一体、何が正解で何が間違っているのか。ああ、もう噛み合わない最悪のピースを取るわけにはいかないというのに。
「イリーナさん!?」
カノンの声にはっ、と顔を上げる。
いつのまにか、目の前が開けていた。洞穴の道が急に広くなった、と思ったら、そこは妙に広い一室だった。ちょっとしたホールくらいの大きさはある。
ごつごつとした岩肌が、ドーム状の部屋を造り出し、また天井は抜けて吹き抜けとなっている。丸く切り取られた赤い空が、天上に見えていた。天然の要塞、と称してもいいだろう、その石のホールの隅に、見覚えのあるローブの後姿が見えた。
視線を巡らせる。周囲には誰もいない。気配も……ない。
「イリーナさんッ!」
「おい、大丈夫かッ!?」
もう一度、呼びかけてカノンが少女の後姿に駆け寄った。シリアとアルティオがそれに続く。
一歩遅れて背を追いながら、顔をしかめる。
おかしい。他に誰もいない、ということがあり得るのか? 一体、どういうことだ。
がんがんと、レンの頭の中で警鐘が鳴り響く。
カノンの手が、少女の肩を掴んで振り返らせる。少しだけ驚いたような、それでいて不安げな少女の顔が見えた。
瞳にカノンの姿を映した途端、その表情が和らいだ。
「カノンさん……、来てくれたんですね……」
「大丈夫ッ!? 何かされてないッ!?」
「ええ、大丈夫です……。来てくれて、ありがとうございます。良かった……」
そのやり取りに、一抹の違和感を覚える。シリアもアルティオも安堵した表情を見せているが、レンの表情は険しくなるばかりだった。
何だ? 何かが、おかしい。警鐘が、鳴る。
その違和感を、多少はカノンも感じたらしい。肩を掴む手を緩めて、ふと、真顔に戻る。
少女が、ローブの胸元を抑えた。
そして、にっこりと、いつもの笑みを讃えながら、言った。
「良かった…本当に、良かった。じゃあ、」
「死んで、ください」
胸元から抜き出された少女の小さな手には、歪んだラインを描くナイフが一振り、握られていた……。
←10へ
無言で髪を拭いながら、憮然と腰掛けているのは、柔らかなシーツの敷かれたベッドの上だった。
思えば、何でこんなことになっているのか。
「おい」
「わぷッ……」
視界が布地で遮られる。もそもそと手を動かすと、晴れた視界に飛び込んで来たのはサイズの合わない大きなシャツだった。
「特別に貸してやる。ま、そのまんまがいいってなら止めねぇがな」
「……」
皮肉に視線を逸らしながら、シャツのボタンを外し始める。癪には障るが、このままでいいわけがない。
ベッドの上でルナは一枚毛布を被っている状態だった。その下は、下着一枚だ。雨のダメージで下着さえも湿っていて、本当はそれすら脱いだ方がいい状態だったのだが、さすがに女としての矜持が許さない。
もそもそと毛布の下で着替え始める。その間、カシスは自分の濡れた上着とシャツを替えていた。
―――……婦女子と同じ部屋で着替え始めるか、普通。
あまりのデリカシーのなさに、そう思いはしたものの、いきなり部屋に上がり込んだ身としては何も言えない。
湿った服を投げ出した後、彼はちらりと、こちらに一瞥をくれて(着替え中に何を考えているのか、遠慮無しに睨みつけた)、部屋を出て行った。
毛布の下で着替えるというのは、思いの他窮屈で、その隙に毛布を出て着替え始める。
最後のボタンが止まった頃に、きぃ、とドアが開いた。
「……あんたね、着替えてるって解るんだからノックくらいはしなさいよ」
「どうせ下着なんか濡れて透けて、元から丸見えだったつーの」
「―――ッ!!」
「飲め」
足でドアを閉めながら、右手を突き出してくる。持っていたのは湯気の立つマグカップだった。
反射的に受け取ると、冷え切っていた指先に熱が戻ってきた。久方ぶりに与えられた温かさに、身体が震える。また涙腺が緩むのを堪えて、ルナは顔を隠すようにカップを傾けた。
熱い液体が、舌の上に流れ込んで、
「―――・・・ん、ぅううッ!!?」
あまりのえぐみと苦味にカップを口から放す。
口を押さえて、何とか飲み込んで。ばっ、と面を上げると、カップを持ってきた張本人は備え付けの椅子の上で腹を抱えて笑い転げていた。
「えほッ、けほッ……―――カシスッ! 何淹れたのよッ、これッ!!」
「くッくッくッく、濃縮した複数の薬草のエキスをたっぷり使った薬草茶だ。ああ、多少だが東方の漢方も入ってる。苦さと濃さは一般の薬湯の三倍以上ッ、てな」
「先に言いなさいよッ! 思いっきり普通に飲んじゃったじゃないッ!!」
「何言ってやがる。最初に言ったら面白くねぇだろうが」
「~~~ッ、あんたねぇッ……!」
ふぅ、と短い溜め息が漏れた。カシスが椅子から立ち上がると、立て付けの悪い小さな椅子はぎしり、と軋む。狭い部屋の中を一歩進み、ベッドに腰掛ける少女のこめかみに小さく唇を落とした。
「な……ッ!」
「まあ、我慢して飲んどけ。風邪の予防くらいにはなるだろ」
「……」
ルナはしばらく、断りなく隣に腰掛けてくる彼を睨んでいたが、結局は従って鼻を摘みながら薬湯を口にし始めた。
カシスはそれを確認すると、その隣で伸びをする。ベッド脇の魔術書に手を伸ばすと、ぱらぱらと捲り、彼女がカップの中身を飲み干すのを待った。
やがて、カップから立ち上る湯気がなくなって、中身が半分より減った頃。
ちらちらと、彼を見やりながら、何かを考えていたルナが口を開く。
「……聞かないの?」
「言いたいなら言え。ぶっちゃけてこっちは聞きたくもないけどな」
「……あ、そ」
ぽつり、と言ってまた言葉を切る。
カシスは古いページから目を逸らして、俯いて床の木目をじっと見ている彼女を見た。
どこか拗ねたような、それでいて、少し突付けばそのまま崩れてしまいそうな表情。
苛立ちにがしがしと、白髪頭を掻き毟った。
「面倒くせぇ女だな、お前は」
「何よ、それ?」
「自分から言わねぇくせに、"聞いてください"オーラをびんびんに放ってんじゃねぇよ。らしくもねぇ、鬱陶しい」
「……悪かったわね」
萎縮した人間にかけるとも思えない言葉だ。だが、慣れきっていると、逆に心地良くもあった。
雨は、少し弱まったらしい。遠のいた雨足が、明確な沈黙を造る。
「……喧嘩」
「あん?」
「喧嘩、した」
ぽつり、と呟く。
「……あのお嬢ちゃんか」
「うん」
「で?」
「……まあ、あたしが悪いんだけど」
毛布に顔を埋めるように俯く。濡れた髪が、頬にかかって、冷たかった。
「最初に、あんたと会ったときに……ほら、女の人と男の子がいたじゃない?」
「ああ、いたな。そういえば」
「……」
言葉に詰まる。
どこまで、口にしていいものか、口にしてしまってから悩んだ。
巻き込みたくないから口を噤んだ。噤んだのに、もう口に上らせようとしている。どこまで迂闊で甘いのか。自分自身に嫌気が差した。
自分が何をしたいのか、ぐらぐらと揺れる頭では判断がつかない。
「……いいから言っちまえ」
「……」
「ここまで来て、何やってんだ? どうせ、ぶちまける人間もいないから来たんだろ?
お前はここに何しに来たんだ? 俺は理由もなく、理不尽に泣き喚く人間を拾ってやる気はさらさらねぇんだ。ここに来た時点で、お前に黙秘権なんかねぇんだよ。
だから、話せ」
「・・・」
きり―――ッ、と奥歯を噛み鳴らす。
煮えくり返る腸は、きっと自分の不甲斐なさのせい。本当に、何をやっているんだろう。支柱がなければ立てない人間になど、なりたくなかったのに。
否、人間は所詮、脆すぎるものなのかもしれない。
後悔はするだろうと思った。しかし、一度口に言葉を上らせると、堰を切ったように止まらない。
それでも、これ以上、涙だけは流すまいとずっと奥歯を噛み締めていた。
加速していく口調を押し留めながら、ルナは、それまでの経緯をすべて吐き出した。
黒衣の少年の暗躍、『ヴォルケーノ』を利用していたクロード=サングリットの目的、その最中に現れたゼルゼイルのシンシア側の使者、彼女たちの言う黒幕の少年の正体―――即ち、エイロネイアの刺客なのではないか、という推論。
「……カノンたちはシンシア側の申し出を断ったわ。でも、あたしはそこで引くわけにいかなかった。あたしが黒幕を、真相を突き止めるって決めてたから。
わざわざ目の前に都合の良い手掛かりが転がって来てるのに、それを利用しない手はないと思ったのよ」
「で、仲間に内緒でそいつに加担してた、ってわけだ」
「そう。エイロネイア側に武器を密輸してる、って噂が流れてる豪族を調べ上げてた。
今日の朝もね、そいつの屋敷に訪問してあれこれ突付いてたんだけど。そいつ―――ディオル=フランシス、ってまあ、二代目になって急成長した地方豪族なんだけどね。結構、やり手の人間で上手くいってなくて、さ。
今日も上手く行かなくて、明日の夕方に最後の訪問をする予定だった。
……で、そうこうしてるうちに、あっさりバレた」
「ンなもん、同じ町うろついてんだ。遅かれ早かれバレるに決まってるじゃねーか、解ってたことだろ?」
「……そうね」
「バカな女だな」
「……………そうね、否定しない」
「本当に、」
バカな女だと、重ねた。
不思議と胸も、身体も痛まなかった。代わりに、何故なのか、口元に笑みが浮かんだ。
本当に、大馬鹿者だ。
「……本当に馬鹿ね、あたし」
「……」
「偉そうなこと言って、やることも言うことも全部、中途半端で……。
こんなんじゃ、何一つ成功なんてするわけがない」
「どうする気だ?」
「………解らない。でも、」
ぐい、と身体が引っ張られた。
「ちょ……ッ!」
予測していなかった小柄な身体は、あっさりと傾いて倒れ込んだ。ぽすり、と倒れ込んだ先に痛みはない。昼間、砂と埃から守ってくれたものと同じ胸板が、目の前にあった。
背中に回された腕が、子供をあやす様に細い肩を抱いた。その腕が、ぎりッ、と、痛いほどの力を込めて抱いてくる。
「帰れ」
「!」
「俺に、帰れ。ルナ」
「かえ………?」
「俺の許に戻って来い。どうせ、一人で立てないなら、―――帰れ」
それが無理なことなど、ルナには解っていた。
そうすれば、ルナは一度に二人の親友を裏切ってしまう。カノンも、そしてイリーナも。
今まで積み上げた、無理もすべて水泡に帰すだろう。
すぐ側にあるあの少女の好意など、この男は知らない。いや、知っていて無視しているのかもしれない。どちらにせよ、頭の中にはきっとない。
それは彼が薄情な性分だから、というわけではなく、一方通行な想いというものがそういうものだからだ。
どこにでも転がっている、どこにでもあるような、下らない恋話。
友人と同じ男を好いていた、それだけのつまらない話。
ただ、親友がこの男に好意を抱いていることに気が付くのが、ほんの少し遅すぎた。だから、青い過去の自分はつまらない意地を張った。それが捻れと交錯の始まり。
そのつまらない意地が、五年も経過した今、こんなにも自分を苦しめる。
もっと早く気づいて、もっと早くに身を引いていたら、困らなかったのだ。
ルナはただ、カノン達と共に戦いながら、ただひたすらに二人の無事を、そしてこれからの幸せを願い続ければいい。息をつく間もないほど騒がしくて、忙しい幼馴染達との時間が、一人の男など忘れさせてくれるはずだった。
ただ、気づくのが遅かった。
そのときにはもう、戻れないところまで来てしまっていて。
とうに、女としての情も、姿かたちも、無垢であることの象徴も、初めて開く足の震えも。根こそぎ奪われた後だった。それなのに、奪われていたことを否定したかった自分は、つまらない意地を張った。
今、その意地を取り繕うために、中途半端に引き返そうとして。
それが、とんでもなく胸に痛い。
「んッ……」
茫然と思考していた唇に、何かが触れた。柔らかな、しかし驚くほど冷たい何か。
無意識のうちに顔を逸らして、放す。
だが、許されなかった。肩を支えていた手が、胸元を掴んで無理矢理振り向かされて、噛み付くように、ただ口付けられた。それこそ、一息も漏らせないほど。
一瞬だけ見えてしまった眼前の朱眼は、五年前と同じ、貪欲に人を射抜いて抜け殻にする。
がくり、と抵抗の力が抜けた。本能的に刻み付けられた衝動というものは恐ろしい。五年の月日を経ても、まだ忘却出来ていない。
それでも、ルナは最後の抵抗に、彼の胸板に拳を押し付ける。
楽しむようにぺろりと、赤い舌が離れた唇を舐めた。
「……だからお前は面白い。最後の最後まで、我を放棄しない」
「……」
「今まで逢ったことのある女はすべからく、俺に従順だった。くだらなく、退屈なほどな。
手応えも、歯応えもなかったさ。抱いてるのは人間じゃねぇ、ただの人形だ」
するり、と胸元を掴んでいた腕が離れる。ルナは軽く尻餅をついた。
カシスは脱ぎ捨てた上着に手を伸ばすと、ポケットをまさぐった。そこから出て来た代物に、ルナは慌てて自分の身体を弄ろうとして、脱ぎ捨てていたことに気が付いてベッドから立とうとする。が、あっさり捕まった。
ずい、と目の前まで持ち上げられたのは、小さな空箱だった。少し、不快な、煙たい匂いのする。けれど、先ほど顔を埋めていた胸と同じ匂いのする、ただの空箱。
「忘れもんだぜ」
「なん、で……」
「道具屋の親父から預かった。お前、確か禁煙派だったよな? 研究室内で煙草なんか吸うな、とか夜伽で吸うのは匂いが付くから止めろ、だとか何とか、昔はそりゃあもうぎゃあぎゃあ言われたもんだ」
「……ッ!」
「じゃあ、ここにあるのは何だ? 何であれほど煙草の匂いを嫌っていたお前が、俺と同じ銘柄の煙草を吸ってるんだ?」
「ッ! それは……ッ!」
言い澱んで、唇を噛む。
弱かったから。弱かったから、残像を求めたのだ。もう二度と戻らない風景の片鱗を、気持ちが悪くて、胸がむかむかとして、吐き気のする煙に映した。
だって、貴方は私に何も残してくれなかった。
何も残さないまま、ただ思い出だけを押し付けて、引き裂かれた。
どう足掻いても潤わない渇きを、苦い煙で誤魔化していただけ。そんな虚しいだけの行為。
そんな虚しいものに、求めていたものなど、解りきっているのに認められない。
焦がれただけだ。昔の思い出にではなく。この人でなしの綺麗過ぎる腹立だしい男に。
解ってはいる。ただ、認めることだけが許されない。
「吐け」
「………」
「そして俺に帰れ。
まだ、否定するのか? 出来ないだろう?」
返答は、なかった。出来なかった。云も否も、どちらも偽りを生んでしまう。
猜疑と、義務感と、惑い。片や、情と、熱と、がらんどうな喪失感。
思考して、思考して、思考して思考して思考して。今さら答えが出せるはずもない。それ故の沈黙。
彼は、この沈黙をどう見たのだろうか。視線を上げた先、目の前にあった彼の色素の薄い唇が、不意に僅かな笑みの形に吊り上がった。
「認められないなら―――」
「ッ!?」
急に世界が反転した。ごとり、と床で音がした。ああ、そういえばまだカップを手に持っていた。ぼんやりと、寒さと熱で劣化した頭で想う。ぎしり、とベッドが軋んだ音を立てた。
「ッ―――」
駄目だ、と理性が警鐘を鳴らす。感じ続けていた義務感と猜疑が頭を擡げて、縫い止められたシーツからルナの身体を立ち上がらせようとした。
しかし、それも虚しく、痛いほどの噛み付くようなキスが降って来る。
覗き込んだ、鮮やかな血の色の瞳に、今度こそ、射抜かれる。
胸元を押さえて、彼女をベッドの上に縫い止めていた腕が外れて、その手は、今度は異様に優しい手つきで首筋から肩の線をなぞった。
ずくり、と久しく忘れていた、切なさを伴う甘い痛みと痺れが、全身を支配する。
「認めさせてやる、吐かせてやるよ……無理矢理にでも、な」
「カシ―――ッ!」
声で咎めることは出来ても、雨と葛藤で凍ってしまった身体には、それを押し返すほどの力など、残っていなかった。
かしゃん、と外された羽飾りが、床で虚しい音を立てた。
―――う~ん……
イリーナ=ツォルベルンは悩んでいた。宿屋の廊下を歩きながら、手の中にあるメモをじっと凝視していた。
何かを千切って、走り書きだけがしてあるメモ。夜、部屋に来るように、という意味合いの旨だけが記載されていた。こんなメモを自分の部屋の机の上に放置出来るような人間は、今のところ一人しかいない。だから、誰が出したか、なんて詮索は愚問なのだが。
―――口で言えばいいのに。
何故、わざわざメモ書きなどしたのだろう。いや、単に自分がお使いに行っていて、いなかっただけの話かもしれないが。
「まあ、いいか」
―――それよりも、何の話だろう……?
咎められるような派手なドジは……お使いは若干、遅れてしまったが、別にわざわざ呼び出しを食うものでもないだろう。大体、そういった面倒なお説教の仕方は、カシス=エレメントという男の行動からはかけ離れている。ルナならば解る気がするが。
ともかく、呼び出しでお叱りを受けるようなドジはここ最近踏んでいない、気がする。
かといって、好意を寄せている男に夜、呼び出しを受けるというのは―――
「……」
ぼふッ!
自分で自分の想像に赤面した。
廊下で一人百面相も何だから、そんなはずがないと言い聞かせて咳払いをした。
「……そーだよね。そんなはずない、そんなはずない」
ぶんぶんと首を振って理性を保つ。
おそらくは、ルナに関する話だろう。自分が彼女に会いに行っているのがバレたのかもしれない。それで叱られることはないだろうが、彼の中で、もしくは彼らの間で、何か結論が出たのかもしれない。
―――先輩、今日出かけてたみたいだから、ルナちゃんのとこに行ったのかな……?
少しだけ、気分が落ちた。
いつのときも、ルナはイリーナの憧れだった。それはまた、カシスに向ける憧れとは少し違うけれども。
『月の館』の無二の天才。その天才の隣の椅子―――直接的な助手のポジションを狙う人間は、実はかなり多かった。イリーナのように女として焦がれる者、あるいは単純な知識欲から、あるいは嫉妬心からその周囲から『天才』と言わしめる人間の弱点を掴もうとする者。
良い意味でも、悪い意味でも、彼の元に群れたがる人間は多かった。
しかし、彼はそれまで、断固として助手を取ることはしなかった。
彼にどんな想いがあったのかは定かではないが、生半可な人間では、その椅子に座る資格などないのだろう、ということは理解できた。
だから、誰もが諦めた。
けれど、ある日突然、カシスはまだ新入生といって差し支えない少女を、ルナ=ディスナーを助手として据えたのだ。
当然、数多の羨望と敵意の眼差しが、彼女には集まった。
正直な話、イリーナもそんな眼差しをルナに向けなかったと言えば嘘になる。しかし、彼女に向けられる数々の嫌がらせや悪意があったことを知っているから、その最中でそれらを跳ね付けながら、最終的には天才の助手、という立場を周囲に認めさせてしまった彼女にも憧れを抱いた。
そして彼女は、誰もが憧れる立場に立ちながら、けして落ち零れであった自分を棄てようとはしなかった。
イリーナの、カシスに向ける気持ちを知ってか知らずか、同じプロジェクトに所属できるように計らってくれた。隣の椅子には座れなくても、憧れの人と同じデスクで研究が出来る、というだけでイリーナは踊り出したいほど嬉しかった。そして今、幸運の女神はイリーナに微笑んで、彼の一番側にいる。一緒に旅をしている。この仕事が終わったら、政団の開いているポジションを、カシスに紹介してみようと思っている。そうすれば、また一緒に、いや、もっと近くで研究が可能になるかもしれない。ルナも応援してくれると言っていた。
イリーナにとって、ルナは無敵で格好良い、『イリーナの正義』の味方だったのだ。
イリーナにも解らない話を、二人でこんこんと話しているカシスとルナに嫉妬するときもあった。でも、二人とも大好きだったから、その二人に亀裂が入ったとき、泣きそうなくらい悲しかった。
ルナが、イリーナにチャンスをくれた。だから、今度はその恩を返す番だと思って頑張った。
このまま、二人が仲違いしてしまえば、延々、彼を独り占めできるかもしれない。そんな暗い考えに陥ったことも……ないわけじゃない。でも、その瞬間には首を振って、そんなことを考えた自分を叱咤した。
ルナは、イリーナにとっての良い親友で、正義の味方で在り続けている。
だから、自分も良い親友で在り続ける。
だって、大好きだから。
信じているのだから。
―――大丈夫、大丈夫。絶対、上手くいく。
自分には、信じることしかできない。だから信じてる。カシスは勿論、ルナだって。
今一度、深呼吸をした。気を取り直して、隣室のドアを、
「……?」
叩こうとして、違和感に気づく。
室内から、僅かな声が漏れている。もう夜も遅いというのに、くぐもっていて良く聞こえないが、確かに人の声だ。
ひょっとしたら、ルナが来ている、とか。三人で話し合う、ということにでもなっているのだろうか。
―――あれ?
ふと見ると、わずかにドアが開いている。カシスらしからぬミスだ。珍しい。
とは言うものの、まさか勝手に入るわけにもいかない。しかし、本当にルナが来ているのか、気になるところでもある。
ノックの体制を取りながら、隙間から、自然と中を覗き見て―――
「・・・―――ッ!!!?」
口元を押さえ、一気に身を引いてしまった。後ろの壁に、背中をぶつけそうになるが、それよりも前に腰が抜けた。
ぺたん、と座り込み、目線を逸らそう逸らそうと努力するのだが、その暗い隙間から目が離せない。
口の中が乾いていく。急激に身体の温度が下がっていく。いや、上がっていくのだろうか。血の気は引いていくのだが、身体の熱は一気に上がっていく。
体中の臓器が、器官が、頭の中が、沸騰していく。
目の前が真っ白になった。
だって、だって、だって、何で?
―――な、な、ぁ、あぁ、ぇ、え……?
何が、起こっているのか、解らない。
イリーナの予想通りだった。確かに中にいたのは、憧れの人であるカシス=エレメントと、親友のルナ=ディスナーだった。
そう、そうだった。予想通りだった。
そこまでは予想通りだったのだ。
でも、でもこんなのは知らない。こんな予想なんて、してない。できるわけがない。するはずがない。
え、だって、だって、だって、だってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだって…………………………………………何で?
何で、二人とも、先輩と、ルナちゃんが、抱き合ってる、の?
いや、抱き合ってるなんて可愛らしいものじゃない。恋愛小説は読むけれど、イリーナが好むような少女的な小説には、あんなシーンは載っていない。
載っていないけど。
載っていないけど、何を、してるのか、イリーナだってもう年頃だから、だから、知っている。
抱き合って、キスをして、それでそれで……ッ!!
でも、何でそれが、目の前で、しかも良く知る、イリーナが大好きな、二人が………?
――― ……………何で?
「―――ッ!」
急に込み上げた吐き気が、喉の奥を抉った。口元を押さえる手に、ぼたぼたと、無意識の内に流れ出る透明な雫が落ちてくる。
抜けた腰に、吐き気が力を戻した。
それを悟った瞬間、イリーナは、膝を笑わせながら立ち上がり、ふらふらと不安定な足でその場から逃げ出した。
「……ぅうぉえ、え、ぁあああッ……」
込み上げた吐瀉物が、限界を迎えて撒き散らされる。涙と交じり合った体液は、もう出すものもないのに込み上げて、胸を焼いた。
がりッ……がりッ……!
苦しさに、掻き毟った暗い木の幹が剥げていく。爪の間に埋まった木屑は、容赦なく柔らかな皮膚を傷つけて血を滲ませていた。
人目につかぬ宿屋の裏手。やせ細った木の根元に跪くようにして、イリーナは肩を震わせていた。
身体の中心がぎりぎりと痛い。
夢なら覚めればいい。幻なら消えればいい。
でも、でも、それならこの圧倒的な胸の痛みは何?
知らない知らない知らない、聞いてない、ありえないッ!!
何で? 何で何で何で何でなんでなんでなんでなんでナンデナンデナンデナンデ……ッ!?
―――何で、なんで……ルナちゃんと、先輩が………ッ!?
言ってくれた。勧めはしないと言いながら、芽生えて幾年の淡い想いを応援すると言ってくれた。いつまでも、イリーナの味方だった。大好きだった。大好きだったッ! その彼女が何故、何故何故何故何故何故何故何故何故なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼ、何でッッッ!!!?
キスをして、指を絡ませて、抱き合って、触れて、触って、そしてそしてそして…………ッ!
「ぅ、くぅぅううう、おえぇえ……ッ!」
胃液が胸を焼く。胃の中には何も残ってやしないのに、痛みと熱だけが圧倒的な悲しみと共に吐き出される。それで収まるならいい。でも、痛みも熱も、収まるどころか、怒りに、悲しみに、孤独感に、様々な負の感情となって、高まっては身体を焼いた。
何で、なんで……?
取り留めのない疑問が、ループになって襲ってくる。答えなど出るはずもないのに、そればかりを問いかけた。
あんなに優しかったのに。
からかいながらも応援してくれた。勧めない、といいながらも頑張れと言ってくれた。ずっとずっと、親友でいてくれた。私の正義の味方だった。
なのに、なのに何で私の大好きなルナちゃんが、私の大好きな先輩と……?
「―――ッぁあぁ、ぅ、うう、ぅ、ううううううぅぅぅぅぅぅぅぅううぅぅううぅううぅッ!!」
言ったのに、応援してくれるって、頑張れって、言ったのに、言ったのに。
信じてたのにッッッ!!!
かつッ……。
「こんばんは、小さなお嬢さん[リトルレディ]」
「―――ッ!」
静謐な、どこか楽しげな響きさえ含んだ、澄んだ声が頭上から降った。
いつのまにか晴れた空には、半分の欠けた月。足元には暗い水の漂う水溜り。
水面に映るやせ細った月を壊すように、ぱしゃり、とその圧倒的な黒は、その場に降り立った。
←9へ
思えば、何でこんなことになっているのか。
「おい」
「わぷッ……」
視界が布地で遮られる。もそもそと手を動かすと、晴れた視界に飛び込んで来たのはサイズの合わない大きなシャツだった。
「特別に貸してやる。ま、そのまんまがいいってなら止めねぇがな」
「……」
皮肉に視線を逸らしながら、シャツのボタンを外し始める。癪には障るが、このままでいいわけがない。
ベッドの上でルナは一枚毛布を被っている状態だった。その下は、下着一枚だ。雨のダメージで下着さえも湿っていて、本当はそれすら脱いだ方がいい状態だったのだが、さすがに女としての矜持が許さない。
もそもそと毛布の下で着替え始める。その間、カシスは自分の濡れた上着とシャツを替えていた。
―――……婦女子と同じ部屋で着替え始めるか、普通。
あまりのデリカシーのなさに、そう思いはしたものの、いきなり部屋に上がり込んだ身としては何も言えない。
湿った服を投げ出した後、彼はちらりと、こちらに一瞥をくれて(着替え中に何を考えているのか、遠慮無しに睨みつけた)、部屋を出て行った。
毛布の下で着替えるというのは、思いの他窮屈で、その隙に毛布を出て着替え始める。
最後のボタンが止まった頃に、きぃ、とドアが開いた。
「……あんたね、着替えてるって解るんだからノックくらいはしなさいよ」
「どうせ下着なんか濡れて透けて、元から丸見えだったつーの」
「―――ッ!!」
「飲め」
足でドアを閉めながら、右手を突き出してくる。持っていたのは湯気の立つマグカップだった。
反射的に受け取ると、冷え切っていた指先に熱が戻ってきた。久方ぶりに与えられた温かさに、身体が震える。また涙腺が緩むのを堪えて、ルナは顔を隠すようにカップを傾けた。
熱い液体が、舌の上に流れ込んで、
「―――・・・ん、ぅううッ!!?」
あまりのえぐみと苦味にカップを口から放す。
口を押さえて、何とか飲み込んで。ばっ、と面を上げると、カップを持ってきた張本人は備え付けの椅子の上で腹を抱えて笑い転げていた。
「えほッ、けほッ……―――カシスッ! 何淹れたのよッ、これッ!!」
「くッくッくッく、濃縮した複数の薬草のエキスをたっぷり使った薬草茶だ。ああ、多少だが東方の漢方も入ってる。苦さと濃さは一般の薬湯の三倍以上ッ、てな」
「先に言いなさいよッ! 思いっきり普通に飲んじゃったじゃないッ!!」
「何言ってやがる。最初に言ったら面白くねぇだろうが」
「~~~ッ、あんたねぇッ……!」
ふぅ、と短い溜め息が漏れた。カシスが椅子から立ち上がると、立て付けの悪い小さな椅子はぎしり、と軋む。狭い部屋の中を一歩進み、ベッドに腰掛ける少女のこめかみに小さく唇を落とした。
「な……ッ!」
「まあ、我慢して飲んどけ。風邪の予防くらいにはなるだろ」
「……」
ルナはしばらく、断りなく隣に腰掛けてくる彼を睨んでいたが、結局は従って鼻を摘みながら薬湯を口にし始めた。
カシスはそれを確認すると、その隣で伸びをする。ベッド脇の魔術書に手を伸ばすと、ぱらぱらと捲り、彼女がカップの中身を飲み干すのを待った。
やがて、カップから立ち上る湯気がなくなって、中身が半分より減った頃。
ちらちらと、彼を見やりながら、何かを考えていたルナが口を開く。
「……聞かないの?」
「言いたいなら言え。ぶっちゃけてこっちは聞きたくもないけどな」
「……あ、そ」
ぽつり、と言ってまた言葉を切る。
カシスは古いページから目を逸らして、俯いて床の木目をじっと見ている彼女を見た。
どこか拗ねたような、それでいて、少し突付けばそのまま崩れてしまいそうな表情。
苛立ちにがしがしと、白髪頭を掻き毟った。
「面倒くせぇ女だな、お前は」
「何よ、それ?」
「自分から言わねぇくせに、"聞いてください"オーラをびんびんに放ってんじゃねぇよ。らしくもねぇ、鬱陶しい」
「……悪かったわね」
萎縮した人間にかけるとも思えない言葉だ。だが、慣れきっていると、逆に心地良くもあった。
雨は、少し弱まったらしい。遠のいた雨足が、明確な沈黙を造る。
「……喧嘩」
「あん?」
「喧嘩、した」
ぽつり、と呟く。
「……あのお嬢ちゃんか」
「うん」
「で?」
「……まあ、あたしが悪いんだけど」
毛布に顔を埋めるように俯く。濡れた髪が、頬にかかって、冷たかった。
「最初に、あんたと会ったときに……ほら、女の人と男の子がいたじゃない?」
「ああ、いたな。そういえば」
「……」
言葉に詰まる。
どこまで、口にしていいものか、口にしてしまってから悩んだ。
巻き込みたくないから口を噤んだ。噤んだのに、もう口に上らせようとしている。どこまで迂闊で甘いのか。自分自身に嫌気が差した。
自分が何をしたいのか、ぐらぐらと揺れる頭では判断がつかない。
「……いいから言っちまえ」
「……」
「ここまで来て、何やってんだ? どうせ、ぶちまける人間もいないから来たんだろ?
お前はここに何しに来たんだ? 俺は理由もなく、理不尽に泣き喚く人間を拾ってやる気はさらさらねぇんだ。ここに来た時点で、お前に黙秘権なんかねぇんだよ。
だから、話せ」
「・・・」
きり―――ッ、と奥歯を噛み鳴らす。
煮えくり返る腸は、きっと自分の不甲斐なさのせい。本当に、何をやっているんだろう。支柱がなければ立てない人間になど、なりたくなかったのに。
否、人間は所詮、脆すぎるものなのかもしれない。
後悔はするだろうと思った。しかし、一度口に言葉を上らせると、堰を切ったように止まらない。
それでも、これ以上、涙だけは流すまいとずっと奥歯を噛み締めていた。
加速していく口調を押し留めながら、ルナは、それまでの経緯をすべて吐き出した。
黒衣の少年の暗躍、『ヴォルケーノ』を利用していたクロード=サングリットの目的、その最中に現れたゼルゼイルのシンシア側の使者、彼女たちの言う黒幕の少年の正体―――即ち、エイロネイアの刺客なのではないか、という推論。
「……カノンたちはシンシア側の申し出を断ったわ。でも、あたしはそこで引くわけにいかなかった。あたしが黒幕を、真相を突き止めるって決めてたから。
わざわざ目の前に都合の良い手掛かりが転がって来てるのに、それを利用しない手はないと思ったのよ」
「で、仲間に内緒でそいつに加担してた、ってわけだ」
「そう。エイロネイア側に武器を密輸してる、って噂が流れてる豪族を調べ上げてた。
今日の朝もね、そいつの屋敷に訪問してあれこれ突付いてたんだけど。そいつ―――ディオル=フランシス、ってまあ、二代目になって急成長した地方豪族なんだけどね。結構、やり手の人間で上手くいってなくて、さ。
今日も上手く行かなくて、明日の夕方に最後の訪問をする予定だった。
……で、そうこうしてるうちに、あっさりバレた」
「ンなもん、同じ町うろついてんだ。遅かれ早かれバレるに決まってるじゃねーか、解ってたことだろ?」
「……そうね」
「バカな女だな」
「……………そうね、否定しない」
「本当に、」
バカな女だと、重ねた。
不思議と胸も、身体も痛まなかった。代わりに、何故なのか、口元に笑みが浮かんだ。
本当に、大馬鹿者だ。
「……本当に馬鹿ね、あたし」
「……」
「偉そうなこと言って、やることも言うことも全部、中途半端で……。
こんなんじゃ、何一つ成功なんてするわけがない」
「どうする気だ?」
「………解らない。でも、」
ぐい、と身体が引っ張られた。
「ちょ……ッ!」
予測していなかった小柄な身体は、あっさりと傾いて倒れ込んだ。ぽすり、と倒れ込んだ先に痛みはない。昼間、砂と埃から守ってくれたものと同じ胸板が、目の前にあった。
背中に回された腕が、子供をあやす様に細い肩を抱いた。その腕が、ぎりッ、と、痛いほどの力を込めて抱いてくる。
「帰れ」
「!」
「俺に、帰れ。ルナ」
「かえ………?」
「俺の許に戻って来い。どうせ、一人で立てないなら、―――帰れ」
それが無理なことなど、ルナには解っていた。
そうすれば、ルナは一度に二人の親友を裏切ってしまう。カノンも、そしてイリーナも。
今まで積み上げた、無理もすべて水泡に帰すだろう。
すぐ側にあるあの少女の好意など、この男は知らない。いや、知っていて無視しているのかもしれない。どちらにせよ、頭の中にはきっとない。
それは彼が薄情な性分だから、というわけではなく、一方通行な想いというものがそういうものだからだ。
どこにでも転がっている、どこにでもあるような、下らない恋話。
友人と同じ男を好いていた、それだけのつまらない話。
ただ、親友がこの男に好意を抱いていることに気が付くのが、ほんの少し遅すぎた。だから、青い過去の自分はつまらない意地を張った。それが捻れと交錯の始まり。
そのつまらない意地が、五年も経過した今、こんなにも自分を苦しめる。
もっと早く気づいて、もっと早くに身を引いていたら、困らなかったのだ。
ルナはただ、カノン達と共に戦いながら、ただひたすらに二人の無事を、そしてこれからの幸せを願い続ければいい。息をつく間もないほど騒がしくて、忙しい幼馴染達との時間が、一人の男など忘れさせてくれるはずだった。
ただ、気づくのが遅かった。
そのときにはもう、戻れないところまで来てしまっていて。
とうに、女としての情も、姿かたちも、無垢であることの象徴も、初めて開く足の震えも。根こそぎ奪われた後だった。それなのに、奪われていたことを否定したかった自分は、つまらない意地を張った。
今、その意地を取り繕うために、中途半端に引き返そうとして。
それが、とんでもなく胸に痛い。
「んッ……」
茫然と思考していた唇に、何かが触れた。柔らかな、しかし驚くほど冷たい何か。
無意識のうちに顔を逸らして、放す。
だが、許されなかった。肩を支えていた手が、胸元を掴んで無理矢理振り向かされて、噛み付くように、ただ口付けられた。それこそ、一息も漏らせないほど。
一瞬だけ見えてしまった眼前の朱眼は、五年前と同じ、貪欲に人を射抜いて抜け殻にする。
がくり、と抵抗の力が抜けた。本能的に刻み付けられた衝動というものは恐ろしい。五年の月日を経ても、まだ忘却出来ていない。
それでも、ルナは最後の抵抗に、彼の胸板に拳を押し付ける。
楽しむようにぺろりと、赤い舌が離れた唇を舐めた。
「……だからお前は面白い。最後の最後まで、我を放棄しない」
「……」
「今まで逢ったことのある女はすべからく、俺に従順だった。くだらなく、退屈なほどな。
手応えも、歯応えもなかったさ。抱いてるのは人間じゃねぇ、ただの人形だ」
するり、と胸元を掴んでいた腕が離れる。ルナは軽く尻餅をついた。
カシスは脱ぎ捨てた上着に手を伸ばすと、ポケットをまさぐった。そこから出て来た代物に、ルナは慌てて自分の身体を弄ろうとして、脱ぎ捨てていたことに気が付いてベッドから立とうとする。が、あっさり捕まった。
ずい、と目の前まで持ち上げられたのは、小さな空箱だった。少し、不快な、煙たい匂いのする。けれど、先ほど顔を埋めていた胸と同じ匂いのする、ただの空箱。
「忘れもんだぜ」
「なん、で……」
「道具屋の親父から預かった。お前、確か禁煙派だったよな? 研究室内で煙草なんか吸うな、とか夜伽で吸うのは匂いが付くから止めろ、だとか何とか、昔はそりゃあもうぎゃあぎゃあ言われたもんだ」
「……ッ!」
「じゃあ、ここにあるのは何だ? 何であれほど煙草の匂いを嫌っていたお前が、俺と同じ銘柄の煙草を吸ってるんだ?」
「ッ! それは……ッ!」
言い澱んで、唇を噛む。
弱かったから。弱かったから、残像を求めたのだ。もう二度と戻らない風景の片鱗を、気持ちが悪くて、胸がむかむかとして、吐き気のする煙に映した。
だって、貴方は私に何も残してくれなかった。
何も残さないまま、ただ思い出だけを押し付けて、引き裂かれた。
どう足掻いても潤わない渇きを、苦い煙で誤魔化していただけ。そんな虚しいだけの行為。
そんな虚しいものに、求めていたものなど、解りきっているのに認められない。
焦がれただけだ。昔の思い出にではなく。この人でなしの綺麗過ぎる腹立だしい男に。
解ってはいる。ただ、認めることだけが許されない。
「吐け」
「………」
「そして俺に帰れ。
まだ、否定するのか? 出来ないだろう?」
返答は、なかった。出来なかった。云も否も、どちらも偽りを生んでしまう。
猜疑と、義務感と、惑い。片や、情と、熱と、がらんどうな喪失感。
思考して、思考して、思考して思考して思考して。今さら答えが出せるはずもない。それ故の沈黙。
彼は、この沈黙をどう見たのだろうか。視線を上げた先、目の前にあった彼の色素の薄い唇が、不意に僅かな笑みの形に吊り上がった。
「認められないなら―――」
「ッ!?」
急に世界が反転した。ごとり、と床で音がした。ああ、そういえばまだカップを手に持っていた。ぼんやりと、寒さと熱で劣化した頭で想う。ぎしり、とベッドが軋んだ音を立てた。
「ッ―――」
駄目だ、と理性が警鐘を鳴らす。感じ続けていた義務感と猜疑が頭を擡げて、縫い止められたシーツからルナの身体を立ち上がらせようとした。
しかし、それも虚しく、痛いほどの噛み付くようなキスが降って来る。
覗き込んだ、鮮やかな血の色の瞳に、今度こそ、射抜かれる。
胸元を押さえて、彼女をベッドの上に縫い止めていた腕が外れて、その手は、今度は異様に優しい手つきで首筋から肩の線をなぞった。
ずくり、と久しく忘れていた、切なさを伴う甘い痛みと痺れが、全身を支配する。
「認めさせてやる、吐かせてやるよ……無理矢理にでも、な」
「カシ―――ッ!」
声で咎めることは出来ても、雨と葛藤で凍ってしまった身体には、それを押し返すほどの力など、残っていなかった。
かしゃん、と外された羽飾りが、床で虚しい音を立てた。
―――う~ん……
イリーナ=ツォルベルンは悩んでいた。宿屋の廊下を歩きながら、手の中にあるメモをじっと凝視していた。
何かを千切って、走り書きだけがしてあるメモ。夜、部屋に来るように、という意味合いの旨だけが記載されていた。こんなメモを自分の部屋の机の上に放置出来るような人間は、今のところ一人しかいない。だから、誰が出したか、なんて詮索は愚問なのだが。
―――口で言えばいいのに。
何故、わざわざメモ書きなどしたのだろう。いや、単に自分がお使いに行っていて、いなかっただけの話かもしれないが。
「まあ、いいか」
―――それよりも、何の話だろう……?
咎められるような派手なドジは……お使いは若干、遅れてしまったが、別にわざわざ呼び出しを食うものでもないだろう。大体、そういった面倒なお説教の仕方は、カシス=エレメントという男の行動からはかけ離れている。ルナならば解る気がするが。
ともかく、呼び出しでお叱りを受けるようなドジはここ最近踏んでいない、気がする。
かといって、好意を寄せている男に夜、呼び出しを受けるというのは―――
「……」
ぼふッ!
自分で自分の想像に赤面した。
廊下で一人百面相も何だから、そんなはずがないと言い聞かせて咳払いをした。
「……そーだよね。そんなはずない、そんなはずない」
ぶんぶんと首を振って理性を保つ。
おそらくは、ルナに関する話だろう。自分が彼女に会いに行っているのがバレたのかもしれない。それで叱られることはないだろうが、彼の中で、もしくは彼らの間で、何か結論が出たのかもしれない。
―――先輩、今日出かけてたみたいだから、ルナちゃんのとこに行ったのかな……?
少しだけ、気分が落ちた。
いつのときも、ルナはイリーナの憧れだった。それはまた、カシスに向ける憧れとは少し違うけれども。
『月の館』の無二の天才。その天才の隣の椅子―――直接的な助手のポジションを狙う人間は、実はかなり多かった。イリーナのように女として焦がれる者、あるいは単純な知識欲から、あるいは嫉妬心からその周囲から『天才』と言わしめる人間の弱点を掴もうとする者。
良い意味でも、悪い意味でも、彼の元に群れたがる人間は多かった。
しかし、彼はそれまで、断固として助手を取ることはしなかった。
彼にどんな想いがあったのかは定かではないが、生半可な人間では、その椅子に座る資格などないのだろう、ということは理解できた。
だから、誰もが諦めた。
けれど、ある日突然、カシスはまだ新入生といって差し支えない少女を、ルナ=ディスナーを助手として据えたのだ。
当然、数多の羨望と敵意の眼差しが、彼女には集まった。
正直な話、イリーナもそんな眼差しをルナに向けなかったと言えば嘘になる。しかし、彼女に向けられる数々の嫌がらせや悪意があったことを知っているから、その最中でそれらを跳ね付けながら、最終的には天才の助手、という立場を周囲に認めさせてしまった彼女にも憧れを抱いた。
そして彼女は、誰もが憧れる立場に立ちながら、けして落ち零れであった自分を棄てようとはしなかった。
イリーナの、カシスに向ける気持ちを知ってか知らずか、同じプロジェクトに所属できるように計らってくれた。隣の椅子には座れなくても、憧れの人と同じデスクで研究が出来る、というだけでイリーナは踊り出したいほど嬉しかった。そして今、幸運の女神はイリーナに微笑んで、彼の一番側にいる。一緒に旅をしている。この仕事が終わったら、政団の開いているポジションを、カシスに紹介してみようと思っている。そうすれば、また一緒に、いや、もっと近くで研究が可能になるかもしれない。ルナも応援してくれると言っていた。
イリーナにとって、ルナは無敵で格好良い、『イリーナの正義』の味方だったのだ。
イリーナにも解らない話を、二人でこんこんと話しているカシスとルナに嫉妬するときもあった。でも、二人とも大好きだったから、その二人に亀裂が入ったとき、泣きそうなくらい悲しかった。
ルナが、イリーナにチャンスをくれた。だから、今度はその恩を返す番だと思って頑張った。
このまま、二人が仲違いしてしまえば、延々、彼を独り占めできるかもしれない。そんな暗い考えに陥ったことも……ないわけじゃない。でも、その瞬間には首を振って、そんなことを考えた自分を叱咤した。
ルナは、イリーナにとっての良い親友で、正義の味方で在り続けている。
だから、自分も良い親友で在り続ける。
だって、大好きだから。
信じているのだから。
―――大丈夫、大丈夫。絶対、上手くいく。
自分には、信じることしかできない。だから信じてる。カシスは勿論、ルナだって。
今一度、深呼吸をした。気を取り直して、隣室のドアを、
「……?」
叩こうとして、違和感に気づく。
室内から、僅かな声が漏れている。もう夜も遅いというのに、くぐもっていて良く聞こえないが、確かに人の声だ。
ひょっとしたら、ルナが来ている、とか。三人で話し合う、ということにでもなっているのだろうか。
―――あれ?
ふと見ると、わずかにドアが開いている。カシスらしからぬミスだ。珍しい。
とは言うものの、まさか勝手に入るわけにもいかない。しかし、本当にルナが来ているのか、気になるところでもある。
ノックの体制を取りながら、隙間から、自然と中を覗き見て―――
「・・・―――ッ!!!?」
口元を押さえ、一気に身を引いてしまった。後ろの壁に、背中をぶつけそうになるが、それよりも前に腰が抜けた。
ぺたん、と座り込み、目線を逸らそう逸らそうと努力するのだが、その暗い隙間から目が離せない。
口の中が乾いていく。急激に身体の温度が下がっていく。いや、上がっていくのだろうか。血の気は引いていくのだが、身体の熱は一気に上がっていく。
体中の臓器が、器官が、頭の中が、沸騰していく。
目の前が真っ白になった。
だって、だって、だって、何で?
―――な、な、ぁ、あぁ、ぇ、え……?
何が、起こっているのか、解らない。
イリーナの予想通りだった。確かに中にいたのは、憧れの人であるカシス=エレメントと、親友のルナ=ディスナーだった。
そう、そうだった。予想通りだった。
そこまでは予想通りだったのだ。
でも、でもこんなのは知らない。こんな予想なんて、してない。できるわけがない。するはずがない。
え、だって、だって、だって、だってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだって…………………………………………何で?
何で、二人とも、先輩と、ルナちゃんが、抱き合ってる、の?
いや、抱き合ってるなんて可愛らしいものじゃない。恋愛小説は読むけれど、イリーナが好むような少女的な小説には、あんなシーンは載っていない。
載っていないけど。
載っていないけど、何を、してるのか、イリーナだってもう年頃だから、だから、知っている。
抱き合って、キスをして、それでそれで……ッ!!
でも、何でそれが、目の前で、しかも良く知る、イリーナが大好きな、二人が………?
――― ……………何で?
「―――ッ!」
急に込み上げた吐き気が、喉の奥を抉った。口元を押さえる手に、ぼたぼたと、無意識の内に流れ出る透明な雫が落ちてくる。
抜けた腰に、吐き気が力を戻した。
それを悟った瞬間、イリーナは、膝を笑わせながら立ち上がり、ふらふらと不安定な足でその場から逃げ出した。
「……ぅうぉえ、え、ぁあああッ……」
込み上げた吐瀉物が、限界を迎えて撒き散らされる。涙と交じり合った体液は、もう出すものもないのに込み上げて、胸を焼いた。
がりッ……がりッ……!
苦しさに、掻き毟った暗い木の幹が剥げていく。爪の間に埋まった木屑は、容赦なく柔らかな皮膚を傷つけて血を滲ませていた。
人目につかぬ宿屋の裏手。やせ細った木の根元に跪くようにして、イリーナは肩を震わせていた。
身体の中心がぎりぎりと痛い。
夢なら覚めればいい。幻なら消えればいい。
でも、でも、それならこの圧倒的な胸の痛みは何?
知らない知らない知らない、聞いてない、ありえないッ!!
何で? 何で何で何で何でなんでなんでなんでなんでナンデナンデナンデナンデ……ッ!?
―――何で、なんで……ルナちゃんと、先輩が………ッ!?
言ってくれた。勧めはしないと言いながら、芽生えて幾年の淡い想いを応援すると言ってくれた。いつまでも、イリーナの味方だった。大好きだった。大好きだったッ! その彼女が何故、何故何故何故何故何故何故何故何故なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼ、何でッッッ!!!?
キスをして、指を絡ませて、抱き合って、触れて、触って、そしてそしてそして…………ッ!
「ぅ、くぅぅううう、おえぇえ……ッ!」
胃液が胸を焼く。胃の中には何も残ってやしないのに、痛みと熱だけが圧倒的な悲しみと共に吐き出される。それで収まるならいい。でも、痛みも熱も、収まるどころか、怒りに、悲しみに、孤独感に、様々な負の感情となって、高まっては身体を焼いた。
何で、なんで……?
取り留めのない疑問が、ループになって襲ってくる。答えなど出るはずもないのに、そればかりを問いかけた。
あんなに優しかったのに。
からかいながらも応援してくれた。勧めない、といいながらも頑張れと言ってくれた。ずっとずっと、親友でいてくれた。私の正義の味方だった。
なのに、なのに何で私の大好きなルナちゃんが、私の大好きな先輩と……?
「―――ッぁあぁ、ぅ、うう、ぅ、ううううううぅぅぅぅぅぅぅぅううぅぅううぅううぅッ!!」
言ったのに、応援してくれるって、頑張れって、言ったのに、言ったのに。
信じてたのにッッッ!!!
かつッ……。
「こんばんは、小さなお嬢さん[リトルレディ]」
「―――ッ!」
静謐な、どこか楽しげな響きさえ含んだ、澄んだ声が頭上から降った。
いつのまにか晴れた空には、半分の欠けた月。足元には暗い水の漂う水溜り。
水面に映るやせ細った月を壊すように、ぱしゃり、とその圧倒的な黒は、その場に降り立った。
←9へ
「……」
―――ああ、面倒な。
宿屋の扉を開けた瞬間、浮かんだ思考がそれだった。
身体はぎしぎし軋むし、頭はずきずき、さらににわかに降り出した雨で服は湿っている。身体も精神も重かった。ぼろぼろもいいところだ。部屋に戻ってそのままベッドの上に沈み込もう、と思っていたのに。
「重々しい雰囲気ね……」
「……」
とぼける気もなかったルナは、ぼそっと呟いた。真正面から睨んでくる幼馴染の視線を、ぼんやりとした視界で受け止める。
宿屋の階下の食堂で、見知った顔が首を揃えている。
正面に仁王立ちしているのは、眉間に皺を寄せて可愛い顔を台無しにしている幼馴染の少女。
背後の椅子に腰掛けた旧友の男は、何とも言い難い表情―――歪んだ無表情を貼り付けながら、黙している。
別のテーブルには、何か煮え切らない表情のシリアと、厳しく顔を引き締めたアルティオ。
そして、また別のテーブルには、心底申し訳なさそうな顔をしたラーシャ=フィロ=ソルトと、やや俯いたデルタ=カーマイン。
ルナは溜め息を吐く。
カノンは無言で彼女を睨み続けていた。
「……まあ、言いたいことは解るけどね。ちょっと待……」
言いかけた言葉は遮られて、がしッ、とカノンに腕を掴まれる。
ああ、もう。何でこう、人の話を聞かない奴らばかりなんだ。
「―――何で?」
「……」
唇を噛み締めて、彼女は問いて来た。
「……フィロ=ソルト将官から聞いた。レンも、シリアも、あんたが彼女たちと一緒にいるのを見た、って。シリアは……あんたが、ディオル=フランシス、とかいう豪族の屋敷に出入りしてるのも見た、って」
―――余計なことを。
疲労でむき出しにされた感情が、暗い思考を持ってくる。
「……何で?」
彼女は重ねて問いて来た。
浅い深呼吸をする。こうなると、覚悟はしていたのだ。今さら、迷うことなどない。
「あんたには、いや、あんた達には関係ないことだわ」
「―――ッ!」
胸倉を掴まれた。シリアとアルティオが、慌てたように立ち上がる。まっすぐに、こちらを睨んでくる碧眼が、歪んで、雫に揺れていた。その目は裏切り者を見る目なのか、またいろんな痛みがぶり返す。
「あんたね! 正気なのッ!? あたしが言いたいことも、本当に解ってるわけッ!?
あんた、将官に全面的なシンシアへの協力を約束したそうねッ!? 大陸にいる間でもなく、あいつらを捕まえることでもなくッ!! 本気で、一人でゼルゼイルに行くってッ!?
馬鹿じゃないのッ!? 何が悲しくて戦争なんかに身体張るのッ!?」
「……」
「あんたの気持ちも解らないではないわよッ! 自分の研究が違法に使われて、そのせいで昔の仲間に疑われてッ! 何とかしたい、って気持ちは解るッ!!
でもねッ! 相手は一国なのよ、戦争がどんなもんか解らないものでもないでしょうッ!? それに首を突っ込んで、そんな危なっかしいことして何になるのッ!? 無駄に命削って、何が楽しいのッ!?
せっかく、仲間とも会えたんじゃないッ! どんな理由があろうと、命無駄にする理由になんてなりゃしないわッ! 死んだらそれまでよ、仲直りも何もないのよッ!?」
「………」
「何で、何で何も言わないのよ……ッ! 勝手な真似するのッ!? そんなに、そんなにあたしらはあんたにとって信用がないわけッ!?」
「・・・ッ!」
『……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か』
ぎり―――ッ!
掴まれた胸倉を襲う痛みが、吐き気を催した。全身を苛む痛みが、声を締め付ける。それでも平坦な、冷静に声を紡ぐ。
まずは、この娘を黙らせなくては。
「……あんたには、関係のない話よ。あんたは剣士、あたしは魔道師。生き方も違うし、育ち方も違った。ものの価値が、違うだけ。それだけよ」
「な―――ッ!!」
「あんたがどう言おうと、これはあたしが決めて、受けた依頼よ。あんたに反故にされるいわれはないわ」
「―――ッ!!」
彼女の顔がくしゃり、と歪む。目尻に浮かんだ涙と、紅潮した頬が、怒りに染まった。
当たり前だ。それだけのことをしているし、言っている。彼女にしてみれば、何故、こんなことを言われているのか、解らないのだろうから。
好き好んで、戦争に参加しようとするなど、正気の沙汰ではない。
鍛えられた拳が振り上がる。ああ、痛いんだろうな、と茫然とした頭で考えた。
「カノンッ!!」
アルティオの静止の声が耳に入る。だが、少女の手は止まらない。
目を閉じて、それが与える衝撃に耐えようとした、そのとき、
がしッ
「ッ!」
「……落ち着け」
握られた拳を、手首を掴んで止めたのは、冷静な表情を張り付かせた少女の相棒だった。
冷めた眼で、ルナはそれを見留める。だが、胸の中の苦く熱いものが反転するのは、次の瞬間だった。
反動で、泣きながらよろけた少女の軽い身体を、無表情な男は無言で肩を押さえ、支えた。
それだけ。
いつものことだ。いつものことだから、ルナだって、その光景を捕まえてはからかっていたのだ。鈍い少女と旧知の悪友のために。
たった、それだけのこと。
それだけのことだった。
だが、それだけで強烈な吐き気が喉元まで込み上げた。胃の中が、胸が焼け付いて、熱が、血が逆流する。全身の血液が、沸騰した。
「だって、レンッ!」
「逆上するな、と言ってるんだ。これでは話も何も……」
「……………ない」
「?」
ふと、レンは面を上げて、小さく何かを漏らしたルナを振り返る。
そこで目にしたのは、先ほどの相棒よりも激昂した目で、威嚇するように少女を、彼女にとっても大切な幼馴染であるはずの少女を憎憎しげに睨みつける彼女の姿だった。
「解らない……ッ! あんたなんかに解ってたまるもんかッ!!
そうやって頼りきれる人間がずっと側にいるような、あんたには解らないッ!! 解るわけなんかないッ!! あたしの気持ちなんかッッッ!!!」
「―――ッ!」
それは、きっと、ずっと隠してきた本音だったのかもしれない。
顔を真っ赤にして吐き出した。吐き出した、同時に襲い来るのはぐちゃぐちゃな後悔と罪悪感。でももう遅い。
信じられないものを見た、仲間の奇異の視線が突き刺さる。
カノンは茫然と、涙を滲ませた目で拳を握った幼馴染を凝視していた。
何を言われたのか、今、彼女が何に対して激情を吐き出したのか、理解するのに多大な時間を要した。
ルナはじっと、足の爪先を見つめたまま耐えている。惨めさが、頭を、胸を、全身を、苛んだ。
流してやるものか、と歯を噛み締めるのだけど、行き場をなくした瞳の雫は勝手に床を濡らしていく。耐え切れなかった。そんな姿を曝すのも、この惨めさを堪えるのも。
気がつけば、踵を返していた。旧友の、名前を怒鳴るような声が聞こえた気がする。だがそれも、雨の煩わしい音に解けた。
自分は、幸運なのだと思っていた。
だから、どれだけの不満も我慢できたのだと思う。
でも、いざ眼前に、求めたものがちらついた瞬間、衝動はさらなる欲を生んだ。人間は、ルナが思っていた以上に煩わしくて、欲張りな生き物だったらしい。
それでも、認めたくなくて、あるいは認めることができなくて、あるいは認めてはいけなくて。
すべてに嘘を吐いてきた。
そうしてやっと気がついた。
自分は欠片も、自分が幸運だなどと、謙虚なことは考えていないのだと。
浅ましいまでに、自分は人間なのだと。
そのがたがたに崩れた結果が、今、浮き彫りにされた気がする。
取り返しのつかない言葉。戻せない台詞。取り繕うことが出来ない人間は、理性的にはほど遠い。
………もう嘘を吐き続けることに疲れたのかもしれない。
仲間にも、友人にも、他人にも、
自分の心にも。
胸糞が悪かった。
吸い込む煙が、それに拍車をかける。舌に広がる苦い煙を吐き出すと、煙は白い影を描きながら雨音の中に消えていく。服の裾が濡れているのに気がついた。が、注意を払う気すら起きない。
胃がぎりぎりと痛んでいる。何で、こんな妙な痛みに苛まれているのか、理解出来ない。
何も自分が感情的になる必要はないのだ。
去るものは置いていく。要らないものは要らない。意に沿わないものは棄てる。逆に噛み付くようなものならば、最上の屈辱と決壊を。
人間としてそれ以上、理想的な生き方はない。
要るか要らないか。好むか嫌うか。愛するか憎むか。生まれた瞬間から宿っている、単純で原始的な本能だ。そのままに生きる。これ以上、簡単な生き方はない。
ただそれだけの話なのだ。
感情に踊らされるのは、その棄てられるか、否かのイキモノだけだ。選定する方が、選定されるものを躍らせるだけ。
なのに、
「ちッ……」
カシスはまだ長く残る紙煙草を投げ捨てて、踵で踏み潰した。踏み潰さなくても、この雨で勝手に消えるだろうが、苛立ち紛れだった。
空を見上げる。
こう曇天では、気分も晴れるわけがない。
昔は雨に濡れるのも、それほど嫌いではなかったが、今は夜という時間そのものを忌まわしく思うようになっていた。
昔、あれほど、雨に濡れるのを厭わなかったのは、一体何故なのだろうか。
大昔は嫌いだったのだ。雨に濡れて、いいことなど一つもなかったから。たとえ、びしょ濡れになったとしても、カシスの髪に、肌に触れて諫める人間はいなかった。長雨で肺を患ったとしても、ベッドの上で耐える彼を労わろうとする人間は一人としていなかったのだ。
だから、冷たいだけの雨は嫌いだった。
ふと、昼間の馬車を思い出す。同時に、咳き込んだ自分を怒鳴り散らす少女の姿も。
意に沿わない。あの程度で、何故怒鳴られなくてはいけなかったのか。馬鹿馬鹿しくて、逆に笑えてくる。笑えて、笑えて、腹は立たなかった。
ああ、同じだと思ったのだ。
昔、雨に濡れた自分を、初めて叱り飛ばしたあのときと、彼女は何も変わっていないのだと。
―――本当に、そうか?
否。
決定的な猜疑は、今さら拭えやしない。
舌打ちをしたカシスは、降り止まない雨に踵を返し、そのまま宿屋の扉を開ける。
……振り返ったのは、ただの気紛れだったのだ。
「―――ッ!?」
だがしかし、そこで彼は我が目を疑うことになる。
雨の霞む中、ぴちゃり、とかすかな音を聞いた。雨が降っているのだ、そんな音は何処にでも響く。だから、その音を気に留めたのは、本当に気紛れだったのだ。
水のために白く歪み、霞んだ視界に、ぼんやりと青い影が見えた。思わず目を凝らすと、その輪郭が見えてくる。汚れて、垂れ下がった白い羽が、ブラウンの髪にかかっている。その長く伸ばした髪も濡れそぼって力なく、身体に纏わりついていた。
茫然と光のない瞳は、こちらを見ているのかどうかすら解らない。
くしゃくしゃに歪んだ顔に滴るのが、雨なのか、それとも別のものなのかさえ。
「………ルナ?」
問いかけるように声を発する。彼女は答えなかった。ただびくり、と一瞬肩を震わせただけだ。
来い、と言ったのは自分だった。ただ解せない。何故、こんな雨の中、そんな体たらくで茫然と立っているのか、どうにも解せない。
呆れるとか、それ以前の問題だ。
「何、してる……」
「……」
声をかけると、またそのあどけなさを残す童顔な顔が歪む。歯を食い縛って耐えているのは、まさか寒さではないはずだ。
「か………し、す…」
「……」
名前を呼ばれた。
身体が弱いくせに、無駄に雨に濡れるなと、怒鳴り散らした彼女への幾つもの皮肉が頭をついて出る。けれど、それが口の端に登らない。
何故か。
ぴしゃり、と彼女の身体が傾いだ。正確には、こちらに一歩、踏み出したのだが、緩慢な動きと生気のない表情が、ただ傾いた、というふうにしか見えない。あまりにも弱弱しすぎる。
何のつもりだ。ああ、もう面倒だ。見たくもない。無駄なことを聞きたくもない。
「解った」
「…ぅ、……ぅう………」
「解った。解った、面倒だ。いいから、」
「来い」
ぷつん、と糸の切れる音。
「ふ、ぅ、ううぅ、……ぁ、うぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
雨音を劈く決壊の声。継いで来た衝撃に、カシスは後ろにたたらを踏む。濡れる服も構わずに、ずぶぬれの身体を白の上着の中に沈めて、彼女は縋るように泣いた。
濡れた髪が、服が、涙が、湿っていただけの自分の身体を濡らしていく。
だが気にも留めず、カシスは昼間もそうしたように、彼女の身体を腰から抱え上げた。
たぶん、意識は朦朧としているのだろう。抵抗さえせずに、彼女はそのまま体重を乗せてくる。
弱弱しい、あまりにもか細いその肢体に。
カシスはくすりと、口の端で、嘲笑[わら]った。
ああ、脆い。
人間は決まって、愛情と孤独には勝てないのだ。
←8へ
―――ああ、面倒な。
宿屋の扉を開けた瞬間、浮かんだ思考がそれだった。
身体はぎしぎし軋むし、頭はずきずき、さらににわかに降り出した雨で服は湿っている。身体も精神も重かった。ぼろぼろもいいところだ。部屋に戻ってそのままベッドの上に沈み込もう、と思っていたのに。
「重々しい雰囲気ね……」
「……」
とぼける気もなかったルナは、ぼそっと呟いた。真正面から睨んでくる幼馴染の視線を、ぼんやりとした視界で受け止める。
宿屋の階下の食堂で、見知った顔が首を揃えている。
正面に仁王立ちしているのは、眉間に皺を寄せて可愛い顔を台無しにしている幼馴染の少女。
背後の椅子に腰掛けた旧友の男は、何とも言い難い表情―――歪んだ無表情を貼り付けながら、黙している。
別のテーブルには、何か煮え切らない表情のシリアと、厳しく顔を引き締めたアルティオ。
そして、また別のテーブルには、心底申し訳なさそうな顔をしたラーシャ=フィロ=ソルトと、やや俯いたデルタ=カーマイン。
ルナは溜め息を吐く。
カノンは無言で彼女を睨み続けていた。
「……まあ、言いたいことは解るけどね。ちょっと待……」
言いかけた言葉は遮られて、がしッ、とカノンに腕を掴まれる。
ああ、もう。何でこう、人の話を聞かない奴らばかりなんだ。
「―――何で?」
「……」
唇を噛み締めて、彼女は問いて来た。
「……フィロ=ソルト将官から聞いた。レンも、シリアも、あんたが彼女たちと一緒にいるのを見た、って。シリアは……あんたが、ディオル=フランシス、とかいう豪族の屋敷に出入りしてるのも見た、って」
―――余計なことを。
疲労でむき出しにされた感情が、暗い思考を持ってくる。
「……何で?」
彼女は重ねて問いて来た。
浅い深呼吸をする。こうなると、覚悟はしていたのだ。今さら、迷うことなどない。
「あんたには、いや、あんた達には関係ないことだわ」
「―――ッ!」
胸倉を掴まれた。シリアとアルティオが、慌てたように立ち上がる。まっすぐに、こちらを睨んでくる碧眼が、歪んで、雫に揺れていた。その目は裏切り者を見る目なのか、またいろんな痛みがぶり返す。
「あんたね! 正気なのッ!? あたしが言いたいことも、本当に解ってるわけッ!?
あんた、将官に全面的なシンシアへの協力を約束したそうねッ!? 大陸にいる間でもなく、あいつらを捕まえることでもなくッ!! 本気で、一人でゼルゼイルに行くってッ!?
馬鹿じゃないのッ!? 何が悲しくて戦争なんかに身体張るのッ!?」
「……」
「あんたの気持ちも解らないではないわよッ! 自分の研究が違法に使われて、そのせいで昔の仲間に疑われてッ! 何とかしたい、って気持ちは解るッ!!
でもねッ! 相手は一国なのよ、戦争がどんなもんか解らないものでもないでしょうッ!? それに首を突っ込んで、そんな危なっかしいことして何になるのッ!? 無駄に命削って、何が楽しいのッ!?
せっかく、仲間とも会えたんじゃないッ! どんな理由があろうと、命無駄にする理由になんてなりゃしないわッ! 死んだらそれまでよ、仲直りも何もないのよッ!?」
「………」
「何で、何で何も言わないのよ……ッ! 勝手な真似するのッ!? そんなに、そんなにあたしらはあんたにとって信用がないわけッ!?」
「・・・ッ!」
『……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か』
ぎり―――ッ!
掴まれた胸倉を襲う痛みが、吐き気を催した。全身を苛む痛みが、声を締め付ける。それでも平坦な、冷静に声を紡ぐ。
まずは、この娘を黙らせなくては。
「……あんたには、関係のない話よ。あんたは剣士、あたしは魔道師。生き方も違うし、育ち方も違った。ものの価値が、違うだけ。それだけよ」
「な―――ッ!!」
「あんたがどう言おうと、これはあたしが決めて、受けた依頼よ。あんたに反故にされるいわれはないわ」
「―――ッ!!」
彼女の顔がくしゃり、と歪む。目尻に浮かんだ涙と、紅潮した頬が、怒りに染まった。
当たり前だ。それだけのことをしているし、言っている。彼女にしてみれば、何故、こんなことを言われているのか、解らないのだろうから。
好き好んで、戦争に参加しようとするなど、正気の沙汰ではない。
鍛えられた拳が振り上がる。ああ、痛いんだろうな、と茫然とした頭で考えた。
「カノンッ!!」
アルティオの静止の声が耳に入る。だが、少女の手は止まらない。
目を閉じて、それが与える衝撃に耐えようとした、そのとき、
がしッ
「ッ!」
「……落ち着け」
握られた拳を、手首を掴んで止めたのは、冷静な表情を張り付かせた少女の相棒だった。
冷めた眼で、ルナはそれを見留める。だが、胸の中の苦く熱いものが反転するのは、次の瞬間だった。
反動で、泣きながらよろけた少女の軽い身体を、無表情な男は無言で肩を押さえ、支えた。
それだけ。
いつものことだ。いつものことだから、ルナだって、その光景を捕まえてはからかっていたのだ。鈍い少女と旧知の悪友のために。
たった、それだけのこと。
それだけのことだった。
だが、それだけで強烈な吐き気が喉元まで込み上げた。胃の中が、胸が焼け付いて、熱が、血が逆流する。全身の血液が、沸騰した。
「だって、レンッ!」
「逆上するな、と言ってるんだ。これでは話も何も……」
「……………ない」
「?」
ふと、レンは面を上げて、小さく何かを漏らしたルナを振り返る。
そこで目にしたのは、先ほどの相棒よりも激昂した目で、威嚇するように少女を、彼女にとっても大切な幼馴染であるはずの少女を憎憎しげに睨みつける彼女の姿だった。
「解らない……ッ! あんたなんかに解ってたまるもんかッ!!
そうやって頼りきれる人間がずっと側にいるような、あんたには解らないッ!! 解るわけなんかないッ!! あたしの気持ちなんかッッッ!!!」
「―――ッ!」
それは、きっと、ずっと隠してきた本音だったのかもしれない。
顔を真っ赤にして吐き出した。吐き出した、同時に襲い来るのはぐちゃぐちゃな後悔と罪悪感。でももう遅い。
信じられないものを見た、仲間の奇異の視線が突き刺さる。
カノンは茫然と、涙を滲ませた目で拳を握った幼馴染を凝視していた。
何を言われたのか、今、彼女が何に対して激情を吐き出したのか、理解するのに多大な時間を要した。
ルナはじっと、足の爪先を見つめたまま耐えている。惨めさが、頭を、胸を、全身を、苛んだ。
流してやるものか、と歯を噛み締めるのだけど、行き場をなくした瞳の雫は勝手に床を濡らしていく。耐え切れなかった。そんな姿を曝すのも、この惨めさを堪えるのも。
気がつけば、踵を返していた。旧友の、名前を怒鳴るような声が聞こえた気がする。だがそれも、雨の煩わしい音に解けた。
自分は、幸運なのだと思っていた。
だから、どれだけの不満も我慢できたのだと思う。
でも、いざ眼前に、求めたものがちらついた瞬間、衝動はさらなる欲を生んだ。人間は、ルナが思っていた以上に煩わしくて、欲張りな生き物だったらしい。
それでも、認めたくなくて、あるいは認めることができなくて、あるいは認めてはいけなくて。
すべてに嘘を吐いてきた。
そうしてやっと気がついた。
自分は欠片も、自分が幸運だなどと、謙虚なことは考えていないのだと。
浅ましいまでに、自分は人間なのだと。
そのがたがたに崩れた結果が、今、浮き彫りにされた気がする。
取り返しのつかない言葉。戻せない台詞。取り繕うことが出来ない人間は、理性的にはほど遠い。
………もう嘘を吐き続けることに疲れたのかもしれない。
仲間にも、友人にも、他人にも、
自分の心にも。
胸糞が悪かった。
吸い込む煙が、それに拍車をかける。舌に広がる苦い煙を吐き出すと、煙は白い影を描きながら雨音の中に消えていく。服の裾が濡れているのに気がついた。が、注意を払う気すら起きない。
胃がぎりぎりと痛んでいる。何で、こんな妙な痛みに苛まれているのか、理解出来ない。
何も自分が感情的になる必要はないのだ。
去るものは置いていく。要らないものは要らない。意に沿わないものは棄てる。逆に噛み付くようなものならば、最上の屈辱と決壊を。
人間としてそれ以上、理想的な生き方はない。
要るか要らないか。好むか嫌うか。愛するか憎むか。生まれた瞬間から宿っている、単純で原始的な本能だ。そのままに生きる。これ以上、簡単な生き方はない。
ただそれだけの話なのだ。
感情に踊らされるのは、その棄てられるか、否かのイキモノだけだ。選定する方が、選定されるものを躍らせるだけ。
なのに、
「ちッ……」
カシスはまだ長く残る紙煙草を投げ捨てて、踵で踏み潰した。踏み潰さなくても、この雨で勝手に消えるだろうが、苛立ち紛れだった。
空を見上げる。
こう曇天では、気分も晴れるわけがない。
昔は雨に濡れるのも、それほど嫌いではなかったが、今は夜という時間そのものを忌まわしく思うようになっていた。
昔、あれほど、雨に濡れるのを厭わなかったのは、一体何故なのだろうか。
大昔は嫌いだったのだ。雨に濡れて、いいことなど一つもなかったから。たとえ、びしょ濡れになったとしても、カシスの髪に、肌に触れて諫める人間はいなかった。長雨で肺を患ったとしても、ベッドの上で耐える彼を労わろうとする人間は一人としていなかったのだ。
だから、冷たいだけの雨は嫌いだった。
ふと、昼間の馬車を思い出す。同時に、咳き込んだ自分を怒鳴り散らす少女の姿も。
意に沿わない。あの程度で、何故怒鳴られなくてはいけなかったのか。馬鹿馬鹿しくて、逆に笑えてくる。笑えて、笑えて、腹は立たなかった。
ああ、同じだと思ったのだ。
昔、雨に濡れた自分を、初めて叱り飛ばしたあのときと、彼女は何も変わっていないのだと。
―――本当に、そうか?
否。
決定的な猜疑は、今さら拭えやしない。
舌打ちをしたカシスは、降り止まない雨に踵を返し、そのまま宿屋の扉を開ける。
……振り返ったのは、ただの気紛れだったのだ。
「―――ッ!?」
だがしかし、そこで彼は我が目を疑うことになる。
雨の霞む中、ぴちゃり、とかすかな音を聞いた。雨が降っているのだ、そんな音は何処にでも響く。だから、その音を気に留めたのは、本当に気紛れだったのだ。
水のために白く歪み、霞んだ視界に、ぼんやりと青い影が見えた。思わず目を凝らすと、その輪郭が見えてくる。汚れて、垂れ下がった白い羽が、ブラウンの髪にかかっている。その長く伸ばした髪も濡れそぼって力なく、身体に纏わりついていた。
茫然と光のない瞳は、こちらを見ているのかどうかすら解らない。
くしゃくしゃに歪んだ顔に滴るのが、雨なのか、それとも別のものなのかさえ。
「………ルナ?」
問いかけるように声を発する。彼女は答えなかった。ただびくり、と一瞬肩を震わせただけだ。
来い、と言ったのは自分だった。ただ解せない。何故、こんな雨の中、そんな体たらくで茫然と立っているのか、どうにも解せない。
呆れるとか、それ以前の問題だ。
「何、してる……」
「……」
声をかけると、またそのあどけなさを残す童顔な顔が歪む。歯を食い縛って耐えているのは、まさか寒さではないはずだ。
「か………し、す…」
「……」
名前を呼ばれた。
身体が弱いくせに、無駄に雨に濡れるなと、怒鳴り散らした彼女への幾つもの皮肉が頭をついて出る。けれど、それが口の端に登らない。
何故か。
ぴしゃり、と彼女の身体が傾いだ。正確には、こちらに一歩、踏み出したのだが、緩慢な動きと生気のない表情が、ただ傾いた、というふうにしか見えない。あまりにも弱弱しすぎる。
何のつもりだ。ああ、もう面倒だ。見たくもない。無駄なことを聞きたくもない。
「解った」
「…ぅ、……ぅう………」
「解った。解った、面倒だ。いいから、」
「来い」
ぷつん、と糸の切れる音。
「ふ、ぅ、ううぅ、……ぁ、うぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
雨音を劈く決壊の声。継いで来た衝撃に、カシスは後ろにたたらを踏む。濡れる服も構わずに、ずぶぬれの身体を白の上着の中に沈めて、彼女は縋るように泣いた。
濡れた髪が、服が、涙が、湿っていただけの自分の身体を濡らしていく。
だが気にも留めず、カシスは昼間もそうしたように、彼女の身体を腰から抱え上げた。
たぶん、意識は朦朧としているのだろう。抵抗さえせずに、彼女はそのまま体重を乗せてくる。
弱弱しい、あまりにもか細いその肢体に。
カシスはくすりと、口の端で、嘲笑[わら]った。
ああ、脆い。
人間は決まって、愛情と孤独には勝てないのだ。
←8へ
「……」
「……おい」
「……」
「こら、お前……」
「………何よ?」
長い間を空けて、ルナはようやく返事を返す。
二皿目のトマトクリームパスタと格闘しながら、ちらり、と明らかに不機嫌な視線を上げる。対面には、椅子に背を預けながら紅茶のカップを傾ける赤眼の男。
男は呆れた視線でもうすぐ空になるパスタ皿を眺めながら、彼女の頭の先から爪先までを見渡した。その視線が一点で止まる。
「……そんだけのもんが、何で肝心な場所にいかねぇか疑問だな」
「あんた……いい加減、そろそろセクハラで訴えるわよ?」
「だってなぁ、顔付き体付きガキだろ? 性格アレだし、お前、女として三重苦だぞ、それ」
「超絶的に余計なお世話よッ! あたしはいーのよ! 取った栄養分、きちんと頭に回してんだからッ!」
かしゃん、と皿に叩き付けたフォークが鳴る。ルナは向けられた周囲の視線に、慌てて浮かしかけていた腰を下げる。オレンジジュースのストローを加えながら、恨みがましい目で睨みつける。
だが、相手は素知らぬ素振りでこちらを眺めているだけだ。
急に馬鹿らしくなって、ルナはもう一度、パスタ皿を平らげにかかった。
「……恥ずかしい奴」
「やかましい。誰のせいよ」
ストローの先を噛みながら悪態を吐く。
「……で、何よ?」
「こりゃあ、心外だ。俺を捜してたのは、お前の方だって聞いたがね」
「まあ……だって、ろくに連絡一つ、寄こさないじゃない。毎日、何やってるんだか知らないけど、会いに行ったってまともな話も出来ない状態だったし」
「何だ、そんなに寂しかったか」
「ち・が・うッ!!」
ドスを聞かせた声で言い放つ。しかし、カシスはくつくつと喉の奥で笑いながら受け流す。
「……もーいいわよ。あんたにまともな話をする気がない、ってのはよぉく解った。
解ったから一方的に話させてもらうわ」
ざく、とデザートのミルフィーユにフォークを突き刺して宣言する。
すッ、とカシスの顔付きが変わった。にやけた口元はそのままだが、細めた目は明らかに笑ってなどいない。
「……まず、言って置きたいことだけど。
この前言ったことは本当よ。あたしはこの五年間、『月の館』で培った知識は一つとして他人に口外してないわ。『ヴォルケーノ』はもちろん、『ツインルーン』なんて口にするわけがない。
……『月の館』を襲撃したあいつら……ニード=フレイマーの組織に逆らって、政団に尋問されたときだって口にしなかった」
ひくり、とカシスの薄い眉が動いた。
「……ニード=フレイマーの組織を潰したのは、やはりお前なのか?」
「……そう、ね。少なくとも、最初に反旗を翻したのはあたしだと思う。
あのとき、あたしはニードの研究に加担して……」
「―――魔族の器にされたか」
「―――ッ!」
小さく、ルナは息を飲む。忌々しい記憶だった。
「あんた、何で知って―――ッ!」
声を荒げかけて、場所を思い出し、口を塞いだ。カシスはさもつまらなさそうに、頭部を掻く。
「……この五年、俺が何をしてたか言ってなかったな。
お前同様、俺はあの糞野郎の組織の研究室で働かされてたさ。それで何を研究させられてたと思う?」
「……」
「答えは精神体の生物を物理世界に固定化させるための魔道具の生成だ」
「ッ!」
はっ、として顔を上げる。
ニード=フレイマーは人間の体の中に、上級魔族を召還し、融合させるという実験を行っていた。ルナは当時、その器として使われたのだ。
「奴らが魔族の降誕をやろうとしてることの察しはついた。となれば、物理的な器とは何か? 本来言うことを聞かない魔族を言うこと聞かせるようにするんだ。都合の良いのは人間だろ?
―――あとは簡単だ。お前の魔力許容量[キャパ]を考えれば、何をさせられるかは見えてくるさ。
『月の館』を襲撃した目的もそんなもんだろ? 圧倒的な魔力許容量[キャパ]を保有する魔道師探し、ってわけだ。それでお前に白羽の矢が立った。
察しがついてからは欠陥品しか作る気が起きなかったがな」
「そう、だったの……」
唖然としたまま、何を言えばいいのか解らずに、ルナはフォークを下ろす。
「……あたしは、そのまま魔族と融合されそうになって……。
直前で、カノンたちに助けられた。あの娘たちがいてくれたのは、本当に偶然で、運が良かったんだと思うわ。今でも、感謝してる。
でも、それとは別に、あんたの行方は知れなかったから―――これでも、一応、心配はしてたのよ。」
「……」
カップにつけていたカシスの唇が離れた。眉間に皺を寄せ、少し俯いて話す彼女をまじまじと見つめる。
「それなりに捜しもしたしね。今までなかなか手がかりも掴めなかったけど。
そんなときに例のクオノリアの話を聞いてね。カッと来た。だから、無理にMWOに取り入って調べ上げてやろうと思ったのよ。結局、それが仇となってあんたに疑われる結果になっちゃったわけだけど……」
「……」
やや自嘲気味に話すルナに、カシスはますます眉を潜めた。
ふと、その視線が外れる。長い間だった。店内の喧騒が、耳につくくらいに、騒がしい。
やがて、カシスがわずかに口を開く。だが、直前でそれは言葉にならずに、もう一度沈黙を呼んだ。
だが、その沈黙は刹那のことで、
「……―――本当に、バカな女だな」
「ちょ、何よ、そ……ッ!」
「それを証明出来る人間は?」
真顔で尋ねるカシスに、吐こうとした文句が飛んだ。拳を握り、口元に押し当てながら頭を回す。
「……あたしがMWOに取り入るときにいたクロード、っていう……まあ、この間言っていた黒幕から『ヴォルケーノ』の情報を買っていた男なんだけど……。
あの男は目の前で黒幕に……。あとは、その祖父の元MWO支部長がいるはず。その人ならたぶん……あとは政団で裁判されてるクロード側の関係者とか、かしら……?
『ツインルーン』の方は……関係者はもう、全員……ん…」
「って、ことはだ。最高の証人は、その黒幕、ってことか」
「そうなるんだけど……。詳しくは話せないけど、それが何故か、カノンたちを狙ってるらしくてね。同行させてもらってたのよ。
……だから、その黒幕から何か聞き出せれば、と思うんだけど……」
「上手くいってねぇわけだ」
「う゛……」
ずばり言い放たれて、ストローを握り締める。苦い表情でテーブルを見つめていると、すいっ、と長い腕が伸びた。
一瞬、何が起こったか解らなかった。気がついたときには、目の前からオレンジジュースのグラスが消えていた。
「・・・って、ちょっとッ!!?」
顔を上げたときにはもう、無残にもグラスの中から甘いジュースの姿は消えていた。ストローで一気に飲み干した犯人の男は、そのまま何事もなかったかのようにだんっ、とグラスをテーブルに置く。
「あんたねッ! 何、人のもん、勝手に飲んでんのよッ!? セクハラだけじゃなく、窃盗罪ッ!? ふざけるのもいい加減にしなさいよッ!」
「ああ? ンな程度でケチくせぇこと言ってんな。胸だけじゃなく、ケツの穴まで小せぇか?」
「あんたには言われたくないッ!! つか失礼なこと言うなッ!」
「あーあ、ったく。昔、両方、多少はでかくしてやったと思ってたんだがな」
「―――ッ! なッ、ちょ、ま……ッ!!!」
さらっと吐いたカシスの台詞に、ルナの顔が耳まで朱に染まる。
この男は、公共の場で何てことを口にしてくれるんだ、というか今さらだが本当にとんでもない。
金魚の呼吸よろしく口をぱくぱくさせるルナに、カシスは満足げに笑みを浮かべた。そして、すっ、と傍らにあった伝票を取って立ち上がった。
「出るぞ」
「は、う、うん、って、へ? え?」
「どーせ、暇だろ? ちょいと付き合えよ」
―――……っていうか、話はまだ終わってないと思うんだけど。
「おい、置いてくぞ」
「ちょ、ちょっと、少し待ちなさいよッ!」
やや釈然としないものを感じる。いや、ややとか多少とかのレベルではないはずなのだが。
問答無用で席を立ち、レジに向かう白髪の男は容赦なく大股で歩いていく。わだかまりはあったものの、彼の急な行動に動揺を隠せなかったルナは、慌てて荷物を持ってその背を追った。
「ちょっと! どこ行くのよ!?」
人込みでごった返すメインストリートを通り抜けながら、ルナは三歩先にある白衣の背中に怒鳴りつける。
別に好きで距離を取っているわけではない。ただ単に、上背が足りなくて体重も軽いルナでは彼のように周囲を押しのけながら歩く、という器用な真似は出来ないため、自然と距離が広がってしまっているだけだ。
「うるせぇなぁ、がたがた言わずにちったぁ黙って付いて来れねぇのか」
「付いて行けるかッ! アヤシイ人間に付いていくな、なんて、きょうび三歳の頃から教わってんのよ!」
振り返り、怒鳴り返されるが、従うわけにはいかない。
黙って付いて行く、なんてしようものなら、こんな場所、たちまちはぐれるに決まっている。
何とか人の足元を縫うようにして追いついたルナは、決死の思いでカシスの上着の裾を掴んで止まらせた。
「ッ、はぁーッ、はぁーッ……」
「何疲れてんだ、老化現象か?」
「死ねッ! あんたねッ! 前も再三、言った覚えがあるけど体格差とかリーチの長さとか考えなさいよッ! あんたはゆったり歩いてるつもりでも、あたしは競歩で十キロマラソンやらされてるようなもんなのよッ!?」
「競歩だったらマラソンじゃねぇだろーが」
「突っ込むべきなのはそこじゃないッ!!
とにかく、もっとゆっくり歩きなさいよ。さっきから人に押されまくって青痣だらけだっての。そうでなくたって他人に体触れるの嫌だしさ」
「どうせ他人に当たったって、どっちが胸だか背中だかわかりゃしねぇだろ?」
「あのさ、あんたさっきからマジで殺していい?」
敵意を通り越して軽く殺意を覚えてくる。
カシスはルナの剣呑な眼差しにもけらけらと、さも可笑しそうに笑いながら、少しだけ背を伸ばして人の頭の向こうを見やった。
「大体あんた、人込みって嫌いじゃなかったっけ?」
ルナの記憶にあるカシス=エレメント、という男は好き好んでこんな人混みを歩くような愉快な男ではない。人混み嫌い、というよりそもそも他人嫌いな男なのだ。対人するのが嫌で、ルナや下級生に頼まなくてもいい仕事を押し付けるような。
それがこんな場所に連れ出してくるなんて、どうにも解せない。
彼は小さく肩を竦めると、
「まあ、用がなきゃあわざわざンな場所には来ねぇわな」
「だから。その用、ってのは何なのよ? それはあたしがわざわざ、どっかのセクハラ男の腹の立つ言動に、耐えてでも来るような価値がある用件なわけ?」
「くっくっく……まあ、そうカリカリすんじゃねぇよ。価値があるかどうかは知らねぇが、それなりに……」
唐突に、言葉が切れる。
首を傾げるより先に、腕を引かれる方が先立った。
「わっ、ぷッ!?」
急なことにバランスを崩し、顔面を彼の胸板に強打する。普通の男女間なら、ほわほわした雰囲気の一つや二つは生まれるのかもしれないが、とりあえずは鼻の痛みが先に立つ。
「ちょっと、何す……ぅむ!?」
抗議の声を上げようとすると、そのまま胸板に顔を押し付けられた。声、どころではない、息が危うい。苦痛に握り締めた拳を、叩きつけようと振り上げた、瞬間。
「おら、どいたどいたどいたーッ!!!」
ががががががががが……ッ!!
けして平坦とは言えない石畳を削るようにして、たった今、ルナが居た空間を小型の荷馬車が砂煙を吐いて通り過ぎる。周囲の人々は慌てて避けて、巻き上がった砂を吸い込んだ者は口元を押さえて咳き込み始める。
すぐ脇の角からいきなり出て来たらしい、傍迷惑な暴走車だ。
ルナは茫然と目の前を通り過ぎていく馬車を眺めていた。
見るからに柄の悪い御者の中年男は、一瞬、こちらを振り向いて、
「ケッ、真っ昼間からいちゃついてんじゃねぇよ、邪魔なんだよッ!」
ぷちッ。
「うるさッ……」
「うるせぇッ!! 天下の往来で薄汚ねぇ口開いてんじゃねぇ、ゴミがッ!! 空気が汚れんだろうが、屑ッ!!」
去る馬車に怒鳴りつけるはずだった声は、さらに大きな声に遮られる。
というより頭上から降って来た。頭が少しガンガンする。
御者の男は唾を吐き出して、こちらを睨むと馬車を走らせて去っていった。カシスの声がどこまで聞こえていたかは知らないが、まあ、言いたいことは代弁してくれた―――というより内容的には遥かに酷いことを言ってくれたので良しとする。
残った砂埃に鼻と口を押さえる。渋い顔でカシスを見上げると、同じように口元を押さえながら、小さく咳き込んでいた。
そういえば。
―――この男、実はあんまり体強くないっけ……。特に気管支は。
彼が人混みを嫌う理由は、他人嫌いであることと、確かその実、あまり埃やら砂やらに耐久力のない体だったからのはずだ。
「ちょっと待ってなさい」
なかなか収まらないらしい咳に、ルナは周辺を見渡しながらその場を離れる。癪だが、あの暴走車のおかげで多少の人の切れ目が生まれていた。これならば、ルナでも楽に身動き出来る。
しばらくして戻って来たルナの手には、コーヒーの入った紙コップがあった。
「はい」
「……」
無言で受け取ると、カシスは一口だけ口に含む。口の中を洗うと、すぐに吐き出した。
「薬は? 持ってんの?」
ちらりと視線が自身の胸元に走る。それを見逃さなかったルナはすぐさま腕を伸ばし、
「―――ッ!」
ぱしんッ。
乾いた音が響く。手の甲に、ひりひりした痛みが走っている。
伸ばそうとした手が払われた。それに気がついたのは、一瞬、後だった。
「……」
「……構うんじゃねぇ。自分でやれる」
鋭い切れ長の目は、少なからず悪意を放ってこちらを睨んでいた。普通の人間なら、後退りくらいはするような。そんな、人に向けるには鋭すぎる視線。
だが、ルナは反射的に眉を吊り上げた。
「こっ……子供か、あんたはッ!!」
先ほどの路地の問答の、倍以上の声量で怒鳴りつけた。眉間に皺を寄せて顔をしかめる彼に構わず、ルナは上着の襟を掴み上げる。
「あのね! そうやって一人で自己満足してるのは勝手だけどッ!! こっちは甚だ迷惑よッ!!
一人でやれるかどうかなんて、今どーでもいいでしょーがッ!! いいから貸しなさいッ!!」
問答無用で胸ポケットに収められていた薬の小瓶をひったくった。使う機会は少なかったが、昔も何度か目にした覚えがある。
瓶の蓋を弾くと、コーヒーのカップの代わりに握らせる。
そこまでやって観念したらしい、彼は溜め息を吐き出して瓶の中身を飲み干した。今度は瓶を受け取り、薬の苦味のためか何なのか、渋い顔をする彼に再びコーヒーを差し出した。
瓶に蓋を閉め直す。中身は空でも、薬の水滴は内側にこびりついている。下手にそこら辺に放置するわけにもいかない。後でちゃんと洗って置かなくては。
小瓶をポケットに落すと、コーヒーで口の中を洗うカシスの背を何度か摩る。
「庇ってくれたのにはお礼言うけどッ! あんたは昔から体強くないんだから! いくら鍛えて、大方平気になったって言ったって、無駄に格好付けんじゃないわよッ! まったく世話が焼けるわねッ!!」
「……」
「何よ?」
無言で見下ろしてくる淡白な表情を睨みながら問いかける。
そしておもむろに。
その厳しい表情から力が抜けた。
「……何よ?」
「いーや、昔から進歩のない奴だ、と思っただけだ」
「はぁッ!? それ、あんたのことでしょッ!? 進歩って何よッ!!」
「何でそこで墓穴を掘るように胸を押さえてんだよ」
「う、五月蝿いッ!!」
カシスはくつくつと低い声で笑いながら依れた襟元を正した。屈むように腰を折ると、自分より低い位置にあるルナの顔を覗き込む。
目を逸らすのも何か負けな気がして、ルナはさらに眉を吊り上げて睨み返す。
不意に彼の顔が視界から消えた。
その刹那、一瞬だけ、唇に柔らかな感触が走る。
「―――ッ!!!?」
「礼と詫びの兼用だ。大人しく貰っとけ」
「な、な、なぁ……ッ!!」
「何、それくらいで沸騰してんだよ。今さらだろーが。それとも、もっと先までお望みかぁ?」
「ばッ、馬鹿言うなッ! このスケベッ! セクハラ男ッ! 役人に突き出すわよッ!!」
「くっくっく……されるのが嫌なら大人しくしておけよ。行くぞ」
「ちょ……ッ」
カップを握りつぶして放り投げたと思ったら、その手で手首を掴まれた。いきなり引かれてかくん、とまたバランスを崩しかけた。
「ちょっと! 怪我したらどーしてくれんのッ!?」
「ガタガタうるせぇな。ホントに身体ごと喰われてぇか。いいからちょっと付いて来い」
「どこまで勝手なのよッ! ああもう! 行ってやるから離せ、って言ってるのーッ!!」
口で言って聞くような相手じゃないと知りつつも。
あまりの理不尽さに、ルナは無駄を感じながら、気を抜けば反転してしまいそうな不安定な世界を、久しぶりの大声で怒鳴った。
そのまましばらく。
引き摺られるまま、転ばないようにバランスを保つのが精一杯だったルナは、急に立ち止まった彼の背に鼻の頭をぶつけた。
「何すんだ」
「人間は急には止まれないのよ! ともかく、一体何のよ……」
鼻を摩りながら視線を上げて、ふと気が付いた。
上げた視線の先にあったのは、メインストリートに門を構える、あの魔道具店だった。
「覚えてるか?」
「……言葉には主語と目的語を付けろ、って何度も言ったわよね?」
憮然として端的すぎる言葉に文句をつける。言われた当人は、自分から振った話のくせに、こちらを見ようともしない。
ルナは溜め息を吐いて、その場を見回した。
少しだけ土臭い、そして室温の高い。そこは工具と、製作途中の魔道具が転がる工房だった。奥の、そのまた奥の部屋の方では、鉱物精製のための高温の炎がごおごおと音を立てている。室温が高いのはそのせいだ。
こめかみに掻いた汗を拭って、ルナはもう一度、カシスを見る。
この男、しばらく見ない内にこの店の主人とやたら仲良くなっていたらしい。いや、それには語弊がある。何せ、向こうはこちらに彼の姿を認めた途端、卑屈になって、『工房を貸せ』なんていう無茶な申し出を見返りなしでOKしてしまったのだ。
―――まあ目の前で自分の歯が立たないような代物を、あっさり直した人間に尻込みするのは解るけど。
その後、店の主人との間にどんな確執があったのか。いや、知りたくはないが。
そんなこんなで、工房内にのさばった白子[アルビノ]の魔道技師は、工房の一角を陣取って、いきなり何かの魔方陣かそれとも呪法かを羊皮紙に書き出した。その行動が突発的過ぎて、完全に置いてきぼりを食らったルナは仕方なく、近くの椅子に逆座りしながらその作業を眺めていたのだった。
そして羊皮紙から手を離し、近くの呪を石に刻むための工具を取ったと思ったら、今の切れ切れの台詞。
カシスは答えの代わりに、いつもの、あのくつくつという含み笑いを漏らして、手の中の工具を弾いた。
すっ、とその手がこちらに伸びて、思わず身を固くする。噴き出された。
「別に取って喰おうって訳じゃねぇよ。大人しくしてろ」
「……」
無言で身体を固くしたままいると、さらり、と目の端にブラウンの髪が落ちてきた。自分の髪だ。
何をされたかはすぐに解った。髪につけていた羽飾りを取り外されたのだ。
「―――?」
別段、奪い返そうとはしなかった。いや、必要がなかったのだ。
何せ、
「まだ持ってるたぁ、思わなかったぜ」
「……別に。いいじゃないの」
ぷい、とそっぽを向く。知らずに鼻の頭が赤くなる。
「"思い出の品"なんか取って置くようなタイプじゃねぇだろーが。それとも何だ? 俺の形見のつもりだったのか?」
「まさか。いろいろ都合が良かっただけよ。自惚れないで」
ふーん、と素っ気無い返事を返して、彼は掌の上で羽飾りを遊ばせる。
あれは、もともと彼が作ったものだった。魔力干渉から持ち主を防護する呪符の一つ。その試験[テスト]のために渡されていたものだった。
ただし、それほど強い効果があるわけでもないし、時が経つと共に効果は薄らいでいく。実際、五年も経過した今では、ほんの少し、戦闘に置ける運を良くしてくれているだけだろう。
だから、自分の言葉が何の説得力もないことは知っているのだけれど。
彼はくつくつと笑いながら、赤石についた三番目の黒羽を引いた。厳重に括られたそれは、多少、引っ張ったところで外れはしない。
その羽根一つだけは、カシスの記憶からは外れていた。
「自分で付けたのか。変わった呪力を持ってるな。どこで見つけた?」
「いや……どこで、っていうか……。ちょっと、ある仕事を片付けたときに報酬代わりにパクったんだけど……。ちょっと変わってるなー、と思ってやってみたのよ」
「ほー、そりゃあまたお前、度胸があるな」
「別に危なそうな感じではなかったし、魔力相互も起こらなかったし……」
「ふん……。まあ、これは今度調べてみるか……」
黒い羽に触れながら、多少の興味を持ったらしい。口ではそう言っていても、目は子供のようにそれを見つめている。
少しだけ、ルナの表情が和らいだ。
こつり、とカシスは工具の切っ先を赤石に当てる。
「ちょ、ちょっと……ッ?」
「まあ、慌てんな。悪いようにはしねぇよ」
そのまま、工具を小刻みに動かしていく。時折、傍らに置いた羊皮紙を覗きながら手を動かしていく。
ちっ、と舌打ちが漏れた。
机の上に石を押し付けるようにして、片手で作業しているせいか、上手くいかないらしい。
「……」
かたん、とルナは椅子から立ち上がる。工具を動かす彼の手元に手を伸ばし、羽を押さえながら石を固定するように抑える。
工具の動きが止まる。
ちらりと、石と同じ色をした彼の目がこちらを向いた。
「……」
だが、それは一瞬だけで。
ふん、と軽く鼻を鳴らしただけで、後はかりかりと工具の擦れる音が工房に響くだけだった。
「……で、何がどうなったの、これ?」
店主に礼を言って魔道具店を出て、ルナは手元に置かれた羽飾りをしげしげと見つめた。
先ほどとは違って、石の部分に紋様が掘られている。形自身は防護の印だが、アレンジが加わっているらしく、見たことのない呪いがところどころに掘られていた。
傾き始めた日に透かして見るが、何が変わるわけでもない。
「ま、ちょいとしたメンテナンス兼アレンジだ。悔しかったら自分で勉強するんだな」
「む……」
魔道技師もものを造る人間だ。職人と同じで、自分の作ったものは例え、こんな呪符一つでも扱いに厳しい。
だから、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の悪用も、効力のなくなった呪符をそのままにして置くのも、我慢ならないのだろう。
形すべてを読み取ることは出来ないが、そもそもこれをルナに渡したのは、防護や回復の呪いを不得意とするルナの呪文の性格を知ってのことだった。だから、これもきっと、相違はないのだろう。
「防護系だってことは解るけど……。いや、待てよ……これは違うわよね、強化系も混じってるし……」
彫られた陣と紋を眺めて、ルナは何とも複雑な表情を浮かべる。悔しそうな、それでいて顔はやや赤い。
「……カシス」
「あ?」
「い、一応、言っておくけど……。その、ありがと……」
人間、礼を言うのに抵抗を覚える相手というのが必ず存在する。ルナにとってみれば、カシスがそうだった。
視線を背けながら絞り出すルナに、カシスはふん、と息を吐く。
「はッ、だから大人しく付いて来い、つったろーが。暴れ馬が」
「だぁれが暴れ馬よッ!? あんたねッ! いい加減にデリカシーってもんを……、きゃッ!?」
思わず漏れた小さな悲鳴に、屈辱を覚える。ふらり、と身体が宙に浮く感覚。
悲鳴を漏らしたことで、昼間よりはだいぶ減った、しかしゼロではない人の目がこちらを向いた気がした。腰には男の腕が回されていて、軽く抱え上げられている。
「何す……ッ」
「どうせだ、もう一件付き合え」
「は、はッ? ちょっと、もう……」
すぐ夕方だ、と抗議しようとした声は呪に遮られた。その呪の内容を理解した途端、ルナは無理矢理口を塞ごうと手を伸ばす。だが無駄だった。
「我望む、求めるは無垢なる風の加護、翔べフロウ・フライト」
風が渦巻いた。巻き上がる髪の合間から見えたのは、風で割れる植木鉢と、日傘を持っていたためによろけ、吹き飛ばされたおばさんA。
ルナは浮遊の感覚を味わいながら、溜め息を漏らす。
フロウ・フライト。上級魔道師が使う浮遊の呪だが、使い勝手は恐ろしく悪い。特に、浮き上がる際に巻き起こる風は、さっきのように周囲に迷惑をかけまくる。
ルナもまあ、周りに気を使って術を使う方ではないが、こいつにだけはとやかく言われない自信はある。
「あんた……」
「何だ?」
「……………もういい」
疲れた、とルナは吐き出した。町並みが眼下に遠くなる。見えるのは下だけで、上を見ようとするとカシスの白い上着に視界を遮られる。
逆らうのも疲れた。どうせ、何も聞きやしないのだ。
諦めて体の力を抜いた。腰に回された腕に抱え直される。拍子に頬が彼の胸板に当たった。
―――ん……
少しだけ、昔より広くなったかもしれない。とくり、と心臓の音が耳を打つ。
―――生きてる、よね……
「あん? どうした?」
「………何でもない」
くしゃり、と歪んだ顔を見られたくなくて、ルナはわざと胸板に顔を埋めた。脳裏に浮かんだのは、煩わしくて、忌々しくて、そして恐ろしい炎の光景は。
消した。
生きている。
彼は、ここで生きているのだ。
だから、あんな風景は、もういらない。
「何でも、ない」
自分に言い聞かせるように、ルナはもう一度だけ小さく呟いた。
「よっ、と」
「?」
とん、と地に足が付く感覚。ブーツを短い草の先が擽っている。同時に鼻を付くのは青の匂い。
断じて町中に存在するような感覚ではない。
身体を離すと、視界の中に白い姿と、その背後に疎らに生えた低木が飛び込んで来た。視線を上げると、彼の、切り方の悪い短い髪が金の光を反射している。はっとして背後を振り向いた。
そこは木陰だった。
町から少しだけ小高い丘。見晴らしが特に良いわけでもない。実際、町が見下ろせる場所、というわけでもない。遙か山の端に傾いた日が見えるだけだ。その光も、大方は梢に阻まれる。
利点、といえば、まあ、彼にしてみれば人がいないこと、だろうか。
特に特別な場所というわけでもない。彼の意図が図りかねず、もう一度、顔を見上げた。
「何……?」
「特に意味はねぇ」
「は……?」
「まあ、単に人がいなかったからな」
その場に腰を下ろすと、くい、と顎で同じようにするよう促す。警戒しながら、腰を落とす。
刹那。
「―――ッ!!?」
「お前、足太くなったか?」
「し、し、失礼なこと言うなッ!! っていうか何すんのよッ!?」
腕を引かれたと思ったら、この強欲が服着て歩いているような自己中男は、いきなり膝に頭を置いて寝転がる。加えて、失礼極まりない台詞のおまけ付きだった。
「いいじゃねぇか、減るもんでもあるまいし」
「精神的に減るのよッ!! どきなさいよッ!」
「断る」
きっぱりと、何故かこちらが悪いような気にさえなってくるほど明確に言い放たれる。
ルナは言葉を詰まらせて、振り上げた手のやり場を探す。妙に心地良さそうに目を閉じる男に、そのやり場がどこにもないことを知ると、素直に手を足の脇へ落とした。
悔しい。
何が悔しいかというと、良い様に使われている自分を許してしまっている自分が一番口惜しい。
「……ひょっとして、これだけのためにこんな辺鄙な場所に連れて来たの?」
「俺としちゃ、街中でやっても良かったんだがね。誰かがぐだぐだ文句付けそうだったしな」
当たり前だ。
言い返して、頭を振り落としてやりたくなる衝動を必死で堪える。
めっきり軽くなった溜め息を漏らすと、怒鳴るのも面倒になって木に背を預けた。
言葉を切ると沈黙が耳に五月蝿くなる。風もなかった。雨が来るのだろうか、少し湿った空気は、梢を鳴らすこともなく、周囲はまさしく無音を奏でている。
「昔はよくやったろうが。何を今さらがたがた言ってんだ」
「あのねぇ、その一回でもあたしが膝を枕にしていい、なんて言ったことあった?」
「硬いこと言うな。散々、授業フケて同じようなことしてただろ。こんなもんどころか、それ以上……」
「言わなくていい。っていうか軽々しく言うなッ!
大体、あんたが勝手に人を連れ出してただけでしょ。あんたは知らないだろうけど、あたし、出席日数で一回、呼び出し喰らったのよッ!?」
「何だ、つまんねぇことで悩むなよ。言えば圧力くらいかけてやったのに」
「……そういう危険性があるから言わなかったのよ……」
ふと、思い出す。
ああ、そうか。そういえば、前にもこんなことがあった。考えてみれば、今日の一日は、まるで昔をなぞったような。
口喧嘩を繰り返しながら食事を取って、技師としての仕事をして。まあ、結局つまるところ、すべてこの男に我侭に付き合っていただけなのだが。
口惜しい。
あいも変わらず、何か不公平。
それでも、居心地はけして悪くはない、なんて。
「……ひとつだけ、解った」
「あん?」
「あんたも一つも進歩して無い、ってこと」
「何だ、そりゃ?」
「だって、そうじゃない。人を振り回してくれるとこなんか相変わらず。人も空気も読まないし、態度も進歩なし。
ホントに、呆れるくらい昔と同じ」
だというのに。
今、ここには壁があるのだ。
絶対的な、猜疑という壁が。
乾いた笑いが、ルナの口から漏れた。それが自嘲めいて聞こえたのは、けして気のせいではないだろう。
「けっ、お前もだろーが。相変わらずガキだし、悉く詰めが甘いし、うるせーし」
「五月蝿いのはあんたのせいよ。少なくとも」
さらり、と数瞬だけ吹いた風が、ルナの髪を攫った。目の前に垂れてきた栗色の一房を、白い指が掴む。
「随分、伸びたもんだな」
「うん、まあ……。切らないまんまだったし」
「何だ、短いままじゃあ、男に間違われるからか?」
「……いい加減にしないと振り落とすわよ」
軽口を叩く彼の頬を、申し訳程度に軽く叩く。気紛れに指に髪を巻きつけて遊ぶ。何故、切らなかった? と訊かれた。
「戒め、かな……」
「あん?」
「まあ、下らないことよ。そういうあんたは切ったのね」
「ああ、まあな」
同じような問いを返してみると、「いろいろと重かった」と返って来た。それをそのまま受け止めるのは、余程の愚鈍がすることだ。
きっと二人とも、切りたくて、伸ばしたくて、髪をいじったのではないのだ。
言葉が途切れる。言葉を重ねようとするほど乾いていく。きっと、彼もふと気がついてしまったんだろう。
昔と寸分違わない自分たちの姿に。
されど徹底的に違ってしまった一点に。
「―――ルナ」
「何?」
無音の世界に、不意に声が上がった。ルナはすぐに答えた。
「お前は、本当に何も喋ってないんだな……?」
ぼそり、と呟かれたのは、聞き飽きた問いだった。
だから、聞き飽きただろう、答えを返す。
「喋ってないわ」
「そうか……」
テノールの声が平坦に響く。
急激に、温度が冷えていく。
その声はけして疑ってはいない。しかし、欠片も信じてはいない。ただのつまらない相槌だった。
くしゃり、とまた顔が歪む。だから寄りかかる木のてっぺんを見上げた。それなら、膝で眠る彼に表情が見えることはない。
自分は、ただ信じたいだけだ。信じてもらいたいわけじゃない。
言い訳のように繰り返して、言葉を紡ぐ。
「カシス」
「……」
「解ってるはずよ。もう、昔とは違うって」
「……」
「『ヴォルケーノ』のことがなければ、確かにお互い無事で良かった、で済んだのかもしれないけど。
でも、現実として、あんたはあたしを信じられていない。それを恨むつもりはないわ。仕方のないことだから」
「そうだな。自業自得だ」
「そうね。だと思う。
信じろ、なんて言わないけど、でも、一つだけ頼みを聞いてもらいたい」
「頼み?」
ルナは木のてっぺんを見続ける。彼はこちらを見上げているのかもしれない。もしくはまったく別の方向を向いているのかもしれない。
「……『ヴォルケーノ』と、『ツインルーン』を、忘れて」
「……」
「いや、正確じゃないわね。あの件について、これ以上、詮索するのをやめて」
「何だ、保身か」
「そんなんじゃないわ。前にも言ったように、あたしはクオノリア、ランカースであの二つを利用して事件を起こした黒幕を追っている。その黒幕がカノンたちを狙っていて、利害の一致からあの娘たちと一緒にいる」
「……」
「理由としては最低よ。協力と称して、あたしは結果的にあの娘たちを利用している。
でも、あの黒幕はただものじゃなかった。利用出来るものは利用しないと―――勝てないわ、きっと」
きり―――ッ。
奥歯を、噛み締める音が、カシスの耳にも届いた。
飛んだ馬鹿者だと、思った。
昔から、こんな甘い女に、そんなことが出来るものか。
そう思った。
「奴のことに関しては、あたしに、任せて欲しいの」
「……」
「あんたに信用されないまま、ってのは癪だけど……。
あんな無茶苦茶な奴相手の戦いに、あんたもイリーナも、巻き込むわけにいかないし。
昔の研究漏洩が後顧の憂いだってんなら、あたしが何とかする。もともとそのつもりで、あの娘たちに手を貸してるわけだし」
「……」
「あんたは、そんな過去のことで芽を潰されていい人間じゃないでしょう?
イリーナも、多少のコネはあるんだろうし、あんたの腕ならどうマイナス点があろうがいいポジションまでいけるはずよ。あの娘なら、サポートだってしてくれる。確かにドジだし、自分は馬鹿で何も出来ない、なんて言ってるけど、それでも研究者の端くれよ。あの娘にも、あの娘なりの才能があったから、あんたもプロジェクトへの参加を許可したんでしょ?
だったら―――さ。
何も、考えることないじゃない。
上に行きなさい。
それが、あんたの夢だったんでしょう?」
何度も言っていた。
いつか、あの小さな『館』の中だけじゃなくて。
大陸、いや、世界に認められる魔道技師として名を残す、と。
ただ聞いただけでは、拙い子供の夢。でも、相応の才能と、血の滲むような努力が伴ったそれは、夢想とは呼ばない。
ルナは、彼はそれだけのことが出来る人間だと、信じていた。
一度は業火に焼かれた夢だった。
だったら、やり直せばいい。傍らにいるのが自分でなくとも。
もう、昔とは違うのだ。それでいい。いや、それを望んでる。
「それで、お前はどうなる?」
「さぁ……? 解んない。
生きて帰れたら戻ってもいいし、むざむざ死ぬ気もないけど。ともかく、終わったら考える。
……話さなきゃいけないことが出来たら、それはちゃんと、話しに行くしさ。
だから―――」
「だから―――そいつを信じろ、ってか」
「……」
ルナは小さく呻く。
解っては、いたのだ。結局は、信じてもらうしかないのだと。そもそもそれが出来ないから、もどかしいのだ。
何て、煩わしい堂々巡り。
「気に喰わねぇな」
「―――ッ!!」
ふわり、と膝から重みが消える。その代わり、後頭部に鈍い痛み。がんッ、と音が聞こえたのは何故か一瞬後だった。
首に違和感が走っていて、後頭部と背中が幹に押し付けられている。いたい。
ぎり―――ッ
「かッ……ッ、は……」
口からなけなしの空気が漏れる。首の違和感は、ぎりぎりと気道を締め付けて、声と、酸素とを塞いでくる。
苦痛を訴えて正面を見ると、吊り上げられた暗い赤眼が、乱雑に切られた白髪の間からこちらを睨んでいた。絡みついているのは、細く、長く、白い指。魔道技師の器用に鍛えられた右腕が、喉を潰していた。
「疑いが濃厚な人間に全部任せろ、だ? はッ! 随分と調子のいいことを言うじゃねぇかッ。
仲間を利用する? "超"が何個付いても足りないくらい甘いお前に出来るわけねぇだろうッ!? とんだ笑い種だッ!
それが俺やイリーナのためだってかッ!? 気に喰わねぇッ、偽善者くせぇことをほざくなッ!!」
「―――ッ、く、ぅう……ッ!」
「……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か。
さぁ、言えッ、それはくだらねぇ自己犠牲の偽善なのかッ! それとも自分の保身かッ!? だとしたらどっちもくだらねぇッ! 下らない、くだらない、クダらないッ!!
ああ、信じてねぇのはお互い様だッ! 一瞬でも信用しかけた手前ぇ[オレ]が、心底馬鹿だったぜッ!! それがよぉく解ったッ!!」
「くっ、ぅ、ち、ちが、かは……ッ!」
空気が漏れる。漏れるばかりで入って来ない。声も出せない。縋るようにぎりぎりと締め付ける腕に、爪を立てる。
頭の後ろが朦朧として、重たくなって来た頃、ようやく首の枷が外れる。
ぐん、と広がった気道に咽て、咳き込んだ。喉元を押さえ、身体を折ろうとするが、相手はそれを許してはくれなかった。
「―――ッ!!?」
眼前に、細められた赤眼があった。近すぎて、睨んでいるのか素なのか、判別が付かない。たぶん、前者だろうが。
かりり、と唇に痛みが走る。噛まれた、と知覚する。同時に舌の上に緩い錆の味。
お礼や詫び、なんて可愛いモノじゃない。与えられているのは愛情ではなくて、暴走したただの苦痛。
―――ッ!
背中が太い木だったのを思い出した。
封じられる寸前だった右手に気づく。脳が危険信号を鳴らす。瞬間、手が動いていた。
ぱんッ!!
響いた音は、何かとても大きく聞こえた。
拍子に緩んだ拘束から身を離して、距離を置いた。
「……」
「……はぁ、はぁ…」
荒い息を吐き出しながら、ふらつく足で立ち上がった。血の滲む唇を拭って、押さえながら、視線を上げた。
腫れた頬を、打たれた頬を押さえながら、彼は無言でこちらを見ていた。
黄昏よりも暗い、朱い眼で。一抹の哀憐と、非難、いや敵意さえ感じさせるような、そんな眼で。
ぎり―――ッ、噛み締めた歯が痛い。もっと痛いのは頭。もっともっと痛いのは身体。絶対的に痛いのは、こころ。
じりッ、と後退る。妙に滲んだ視界が悔しい、悔しい悔しい口惜しい憎たらしいッ!
「―――ルナ」
なけなしの力を足に込めて、その場を逃げ出そうとした少女の背に、凍りついた言葉がかかる。反射的に、止めてしまった足を死ぬほど後悔した。
「明日、町を経つ」
「……」
「夜に、来い。それがお前の最後のチャンスだ」
「………ッ!」
擦り切れるような痛みが、身体を貫いた。がくがくと、膝が震えてしまう前に。頭の中の警鐘が、その場を離れることを訴えていた。
だから。
「―――ぅッ!」
呻き声だけを残して、彼女は振り返らず、逃げるように走り出した。
←7へ
「……おい」
「……」
「こら、お前……」
「………何よ?」
長い間を空けて、ルナはようやく返事を返す。
二皿目のトマトクリームパスタと格闘しながら、ちらり、と明らかに不機嫌な視線を上げる。対面には、椅子に背を預けながら紅茶のカップを傾ける赤眼の男。
男は呆れた視線でもうすぐ空になるパスタ皿を眺めながら、彼女の頭の先から爪先までを見渡した。その視線が一点で止まる。
「……そんだけのもんが、何で肝心な場所にいかねぇか疑問だな」
「あんた……いい加減、そろそろセクハラで訴えるわよ?」
「だってなぁ、顔付き体付きガキだろ? 性格アレだし、お前、女として三重苦だぞ、それ」
「超絶的に余計なお世話よッ! あたしはいーのよ! 取った栄養分、きちんと頭に回してんだからッ!」
かしゃん、と皿に叩き付けたフォークが鳴る。ルナは向けられた周囲の視線に、慌てて浮かしかけていた腰を下げる。オレンジジュースのストローを加えながら、恨みがましい目で睨みつける。
だが、相手は素知らぬ素振りでこちらを眺めているだけだ。
急に馬鹿らしくなって、ルナはもう一度、パスタ皿を平らげにかかった。
「……恥ずかしい奴」
「やかましい。誰のせいよ」
ストローの先を噛みながら悪態を吐く。
「……で、何よ?」
「こりゃあ、心外だ。俺を捜してたのは、お前の方だって聞いたがね」
「まあ……だって、ろくに連絡一つ、寄こさないじゃない。毎日、何やってるんだか知らないけど、会いに行ったってまともな話も出来ない状態だったし」
「何だ、そんなに寂しかったか」
「ち・が・うッ!!」
ドスを聞かせた声で言い放つ。しかし、カシスはくつくつと喉の奥で笑いながら受け流す。
「……もーいいわよ。あんたにまともな話をする気がない、ってのはよぉく解った。
解ったから一方的に話させてもらうわ」
ざく、とデザートのミルフィーユにフォークを突き刺して宣言する。
すッ、とカシスの顔付きが変わった。にやけた口元はそのままだが、細めた目は明らかに笑ってなどいない。
「……まず、言って置きたいことだけど。
この前言ったことは本当よ。あたしはこの五年間、『月の館』で培った知識は一つとして他人に口外してないわ。『ヴォルケーノ』はもちろん、『ツインルーン』なんて口にするわけがない。
……『月の館』を襲撃したあいつら……ニード=フレイマーの組織に逆らって、政団に尋問されたときだって口にしなかった」
ひくり、とカシスの薄い眉が動いた。
「……ニード=フレイマーの組織を潰したのは、やはりお前なのか?」
「……そう、ね。少なくとも、最初に反旗を翻したのはあたしだと思う。
あのとき、あたしはニードの研究に加担して……」
「―――魔族の器にされたか」
「―――ッ!」
小さく、ルナは息を飲む。忌々しい記憶だった。
「あんた、何で知って―――ッ!」
声を荒げかけて、場所を思い出し、口を塞いだ。カシスはさもつまらなさそうに、頭部を掻く。
「……この五年、俺が何をしてたか言ってなかったな。
お前同様、俺はあの糞野郎の組織の研究室で働かされてたさ。それで何を研究させられてたと思う?」
「……」
「答えは精神体の生物を物理世界に固定化させるための魔道具の生成だ」
「ッ!」
はっ、として顔を上げる。
ニード=フレイマーは人間の体の中に、上級魔族を召還し、融合させるという実験を行っていた。ルナは当時、その器として使われたのだ。
「奴らが魔族の降誕をやろうとしてることの察しはついた。となれば、物理的な器とは何か? 本来言うことを聞かない魔族を言うこと聞かせるようにするんだ。都合の良いのは人間だろ?
―――あとは簡単だ。お前の魔力許容量[キャパ]を考えれば、何をさせられるかは見えてくるさ。
『月の館』を襲撃した目的もそんなもんだろ? 圧倒的な魔力許容量[キャパ]を保有する魔道師探し、ってわけだ。それでお前に白羽の矢が立った。
察しがついてからは欠陥品しか作る気が起きなかったがな」
「そう、だったの……」
唖然としたまま、何を言えばいいのか解らずに、ルナはフォークを下ろす。
「……あたしは、そのまま魔族と融合されそうになって……。
直前で、カノンたちに助けられた。あの娘たちがいてくれたのは、本当に偶然で、運が良かったんだと思うわ。今でも、感謝してる。
でも、それとは別に、あんたの行方は知れなかったから―――これでも、一応、心配はしてたのよ。」
「……」
カップにつけていたカシスの唇が離れた。眉間に皺を寄せ、少し俯いて話す彼女をまじまじと見つめる。
「それなりに捜しもしたしね。今までなかなか手がかりも掴めなかったけど。
そんなときに例のクオノリアの話を聞いてね。カッと来た。だから、無理にMWOに取り入って調べ上げてやろうと思ったのよ。結局、それが仇となってあんたに疑われる結果になっちゃったわけだけど……」
「……」
やや自嘲気味に話すルナに、カシスはますます眉を潜めた。
ふと、その視線が外れる。長い間だった。店内の喧騒が、耳につくくらいに、騒がしい。
やがて、カシスがわずかに口を開く。だが、直前でそれは言葉にならずに、もう一度沈黙を呼んだ。
だが、その沈黙は刹那のことで、
「……―――本当に、バカな女だな」
「ちょ、何よ、そ……ッ!」
「それを証明出来る人間は?」
真顔で尋ねるカシスに、吐こうとした文句が飛んだ。拳を握り、口元に押し当てながら頭を回す。
「……あたしがMWOに取り入るときにいたクロード、っていう……まあ、この間言っていた黒幕から『ヴォルケーノ』の情報を買っていた男なんだけど……。
あの男は目の前で黒幕に……。あとは、その祖父の元MWO支部長がいるはず。その人ならたぶん……あとは政団で裁判されてるクロード側の関係者とか、かしら……?
『ツインルーン』の方は……関係者はもう、全員……ん…」
「って、ことはだ。最高の証人は、その黒幕、ってことか」
「そうなるんだけど……。詳しくは話せないけど、それが何故か、カノンたちを狙ってるらしくてね。同行させてもらってたのよ。
……だから、その黒幕から何か聞き出せれば、と思うんだけど……」
「上手くいってねぇわけだ」
「う゛……」
ずばり言い放たれて、ストローを握り締める。苦い表情でテーブルを見つめていると、すいっ、と長い腕が伸びた。
一瞬、何が起こったか解らなかった。気がついたときには、目の前からオレンジジュースのグラスが消えていた。
「・・・って、ちょっとッ!!?」
顔を上げたときにはもう、無残にもグラスの中から甘いジュースの姿は消えていた。ストローで一気に飲み干した犯人の男は、そのまま何事もなかったかのようにだんっ、とグラスをテーブルに置く。
「あんたねッ! 何、人のもん、勝手に飲んでんのよッ!? セクハラだけじゃなく、窃盗罪ッ!? ふざけるのもいい加減にしなさいよッ!」
「ああ? ンな程度でケチくせぇこと言ってんな。胸だけじゃなく、ケツの穴まで小せぇか?」
「あんたには言われたくないッ!! つか失礼なこと言うなッ!」
「あーあ、ったく。昔、両方、多少はでかくしてやったと思ってたんだがな」
「―――ッ! なッ、ちょ、ま……ッ!!!」
さらっと吐いたカシスの台詞に、ルナの顔が耳まで朱に染まる。
この男は、公共の場で何てことを口にしてくれるんだ、というか今さらだが本当にとんでもない。
金魚の呼吸よろしく口をぱくぱくさせるルナに、カシスは満足げに笑みを浮かべた。そして、すっ、と傍らにあった伝票を取って立ち上がった。
「出るぞ」
「は、う、うん、って、へ? え?」
「どーせ、暇だろ? ちょいと付き合えよ」
―――……っていうか、話はまだ終わってないと思うんだけど。
「おい、置いてくぞ」
「ちょ、ちょっと、少し待ちなさいよッ!」
やや釈然としないものを感じる。いや、ややとか多少とかのレベルではないはずなのだが。
問答無用で席を立ち、レジに向かう白髪の男は容赦なく大股で歩いていく。わだかまりはあったものの、彼の急な行動に動揺を隠せなかったルナは、慌てて荷物を持ってその背を追った。
「ちょっと! どこ行くのよ!?」
人込みでごった返すメインストリートを通り抜けながら、ルナは三歩先にある白衣の背中に怒鳴りつける。
別に好きで距離を取っているわけではない。ただ単に、上背が足りなくて体重も軽いルナでは彼のように周囲を押しのけながら歩く、という器用な真似は出来ないため、自然と距離が広がってしまっているだけだ。
「うるせぇなぁ、がたがた言わずにちったぁ黙って付いて来れねぇのか」
「付いて行けるかッ! アヤシイ人間に付いていくな、なんて、きょうび三歳の頃から教わってんのよ!」
振り返り、怒鳴り返されるが、従うわけにはいかない。
黙って付いて行く、なんてしようものなら、こんな場所、たちまちはぐれるに決まっている。
何とか人の足元を縫うようにして追いついたルナは、決死の思いでカシスの上着の裾を掴んで止まらせた。
「ッ、はぁーッ、はぁーッ……」
「何疲れてんだ、老化現象か?」
「死ねッ! あんたねッ! 前も再三、言った覚えがあるけど体格差とかリーチの長さとか考えなさいよッ! あんたはゆったり歩いてるつもりでも、あたしは競歩で十キロマラソンやらされてるようなもんなのよッ!?」
「競歩だったらマラソンじゃねぇだろーが」
「突っ込むべきなのはそこじゃないッ!!
とにかく、もっとゆっくり歩きなさいよ。さっきから人に押されまくって青痣だらけだっての。そうでなくたって他人に体触れるの嫌だしさ」
「どうせ他人に当たったって、どっちが胸だか背中だかわかりゃしねぇだろ?」
「あのさ、あんたさっきからマジで殺していい?」
敵意を通り越して軽く殺意を覚えてくる。
カシスはルナの剣呑な眼差しにもけらけらと、さも可笑しそうに笑いながら、少しだけ背を伸ばして人の頭の向こうを見やった。
「大体あんた、人込みって嫌いじゃなかったっけ?」
ルナの記憶にあるカシス=エレメント、という男は好き好んでこんな人混みを歩くような愉快な男ではない。人混み嫌い、というよりそもそも他人嫌いな男なのだ。対人するのが嫌で、ルナや下級生に頼まなくてもいい仕事を押し付けるような。
それがこんな場所に連れ出してくるなんて、どうにも解せない。
彼は小さく肩を竦めると、
「まあ、用がなきゃあわざわざンな場所には来ねぇわな」
「だから。その用、ってのは何なのよ? それはあたしがわざわざ、どっかのセクハラ男の腹の立つ言動に、耐えてでも来るような価値がある用件なわけ?」
「くっくっく……まあ、そうカリカリすんじゃねぇよ。価値があるかどうかは知らねぇが、それなりに……」
唐突に、言葉が切れる。
首を傾げるより先に、腕を引かれる方が先立った。
「わっ、ぷッ!?」
急なことにバランスを崩し、顔面を彼の胸板に強打する。普通の男女間なら、ほわほわした雰囲気の一つや二つは生まれるのかもしれないが、とりあえずは鼻の痛みが先に立つ。
「ちょっと、何す……ぅむ!?」
抗議の声を上げようとすると、そのまま胸板に顔を押し付けられた。声、どころではない、息が危うい。苦痛に握り締めた拳を、叩きつけようと振り上げた、瞬間。
「おら、どいたどいたどいたーッ!!!」
ががががががががが……ッ!!
けして平坦とは言えない石畳を削るようにして、たった今、ルナが居た空間を小型の荷馬車が砂煙を吐いて通り過ぎる。周囲の人々は慌てて避けて、巻き上がった砂を吸い込んだ者は口元を押さえて咳き込み始める。
すぐ脇の角からいきなり出て来たらしい、傍迷惑な暴走車だ。
ルナは茫然と目の前を通り過ぎていく馬車を眺めていた。
見るからに柄の悪い御者の中年男は、一瞬、こちらを振り向いて、
「ケッ、真っ昼間からいちゃついてんじゃねぇよ、邪魔なんだよッ!」
ぷちッ。
「うるさッ……」
「うるせぇッ!! 天下の往来で薄汚ねぇ口開いてんじゃねぇ、ゴミがッ!! 空気が汚れんだろうが、屑ッ!!」
去る馬車に怒鳴りつけるはずだった声は、さらに大きな声に遮られる。
というより頭上から降って来た。頭が少しガンガンする。
御者の男は唾を吐き出して、こちらを睨むと馬車を走らせて去っていった。カシスの声がどこまで聞こえていたかは知らないが、まあ、言いたいことは代弁してくれた―――というより内容的には遥かに酷いことを言ってくれたので良しとする。
残った砂埃に鼻と口を押さえる。渋い顔でカシスを見上げると、同じように口元を押さえながら、小さく咳き込んでいた。
そういえば。
―――この男、実はあんまり体強くないっけ……。特に気管支は。
彼が人混みを嫌う理由は、他人嫌いであることと、確かその実、あまり埃やら砂やらに耐久力のない体だったからのはずだ。
「ちょっと待ってなさい」
なかなか収まらないらしい咳に、ルナは周辺を見渡しながらその場を離れる。癪だが、あの暴走車のおかげで多少の人の切れ目が生まれていた。これならば、ルナでも楽に身動き出来る。
しばらくして戻って来たルナの手には、コーヒーの入った紙コップがあった。
「はい」
「……」
無言で受け取ると、カシスは一口だけ口に含む。口の中を洗うと、すぐに吐き出した。
「薬は? 持ってんの?」
ちらりと視線が自身の胸元に走る。それを見逃さなかったルナはすぐさま腕を伸ばし、
「―――ッ!」
ぱしんッ。
乾いた音が響く。手の甲に、ひりひりした痛みが走っている。
伸ばそうとした手が払われた。それに気がついたのは、一瞬、後だった。
「……」
「……構うんじゃねぇ。自分でやれる」
鋭い切れ長の目は、少なからず悪意を放ってこちらを睨んでいた。普通の人間なら、後退りくらいはするような。そんな、人に向けるには鋭すぎる視線。
だが、ルナは反射的に眉を吊り上げた。
「こっ……子供か、あんたはッ!!」
先ほどの路地の問答の、倍以上の声量で怒鳴りつけた。眉間に皺を寄せて顔をしかめる彼に構わず、ルナは上着の襟を掴み上げる。
「あのね! そうやって一人で自己満足してるのは勝手だけどッ!! こっちは甚だ迷惑よッ!!
一人でやれるかどうかなんて、今どーでもいいでしょーがッ!! いいから貸しなさいッ!!」
問答無用で胸ポケットに収められていた薬の小瓶をひったくった。使う機会は少なかったが、昔も何度か目にした覚えがある。
瓶の蓋を弾くと、コーヒーのカップの代わりに握らせる。
そこまでやって観念したらしい、彼は溜め息を吐き出して瓶の中身を飲み干した。今度は瓶を受け取り、薬の苦味のためか何なのか、渋い顔をする彼に再びコーヒーを差し出した。
瓶に蓋を閉め直す。中身は空でも、薬の水滴は内側にこびりついている。下手にそこら辺に放置するわけにもいかない。後でちゃんと洗って置かなくては。
小瓶をポケットに落すと、コーヒーで口の中を洗うカシスの背を何度か摩る。
「庇ってくれたのにはお礼言うけどッ! あんたは昔から体強くないんだから! いくら鍛えて、大方平気になったって言ったって、無駄に格好付けんじゃないわよッ! まったく世話が焼けるわねッ!!」
「……」
「何よ?」
無言で見下ろしてくる淡白な表情を睨みながら問いかける。
そしておもむろに。
その厳しい表情から力が抜けた。
「……何よ?」
「いーや、昔から進歩のない奴だ、と思っただけだ」
「はぁッ!? それ、あんたのことでしょッ!? 進歩って何よッ!!」
「何でそこで墓穴を掘るように胸を押さえてんだよ」
「う、五月蝿いッ!!」
カシスはくつくつと低い声で笑いながら依れた襟元を正した。屈むように腰を折ると、自分より低い位置にあるルナの顔を覗き込む。
目を逸らすのも何か負けな気がして、ルナはさらに眉を吊り上げて睨み返す。
不意に彼の顔が視界から消えた。
その刹那、一瞬だけ、唇に柔らかな感触が走る。
「―――ッ!!!?」
「礼と詫びの兼用だ。大人しく貰っとけ」
「な、な、なぁ……ッ!!」
「何、それくらいで沸騰してんだよ。今さらだろーが。それとも、もっと先までお望みかぁ?」
「ばッ、馬鹿言うなッ! このスケベッ! セクハラ男ッ! 役人に突き出すわよッ!!」
「くっくっく……されるのが嫌なら大人しくしておけよ。行くぞ」
「ちょ……ッ」
カップを握りつぶして放り投げたと思ったら、その手で手首を掴まれた。いきなり引かれてかくん、とまたバランスを崩しかけた。
「ちょっと! 怪我したらどーしてくれんのッ!?」
「ガタガタうるせぇな。ホントに身体ごと喰われてぇか。いいからちょっと付いて来い」
「どこまで勝手なのよッ! ああもう! 行ってやるから離せ、って言ってるのーッ!!」
口で言って聞くような相手じゃないと知りつつも。
あまりの理不尽さに、ルナは無駄を感じながら、気を抜けば反転してしまいそうな不安定な世界を、久しぶりの大声で怒鳴った。
そのまましばらく。
引き摺られるまま、転ばないようにバランスを保つのが精一杯だったルナは、急に立ち止まった彼の背に鼻の頭をぶつけた。
「何すんだ」
「人間は急には止まれないのよ! ともかく、一体何のよ……」
鼻を摩りながら視線を上げて、ふと気が付いた。
上げた視線の先にあったのは、メインストリートに門を構える、あの魔道具店だった。
「覚えてるか?」
「……言葉には主語と目的語を付けろ、って何度も言ったわよね?」
憮然として端的すぎる言葉に文句をつける。言われた当人は、自分から振った話のくせに、こちらを見ようともしない。
ルナは溜め息を吐いて、その場を見回した。
少しだけ土臭い、そして室温の高い。そこは工具と、製作途中の魔道具が転がる工房だった。奥の、そのまた奥の部屋の方では、鉱物精製のための高温の炎がごおごおと音を立てている。室温が高いのはそのせいだ。
こめかみに掻いた汗を拭って、ルナはもう一度、カシスを見る。
この男、しばらく見ない内にこの店の主人とやたら仲良くなっていたらしい。いや、それには語弊がある。何せ、向こうはこちらに彼の姿を認めた途端、卑屈になって、『工房を貸せ』なんていう無茶な申し出を見返りなしでOKしてしまったのだ。
―――まあ目の前で自分の歯が立たないような代物を、あっさり直した人間に尻込みするのは解るけど。
その後、店の主人との間にどんな確執があったのか。いや、知りたくはないが。
そんなこんなで、工房内にのさばった白子[アルビノ]の魔道技師は、工房の一角を陣取って、いきなり何かの魔方陣かそれとも呪法かを羊皮紙に書き出した。その行動が突発的過ぎて、完全に置いてきぼりを食らったルナは仕方なく、近くの椅子に逆座りしながらその作業を眺めていたのだった。
そして羊皮紙から手を離し、近くの呪を石に刻むための工具を取ったと思ったら、今の切れ切れの台詞。
カシスは答えの代わりに、いつもの、あのくつくつという含み笑いを漏らして、手の中の工具を弾いた。
すっ、とその手がこちらに伸びて、思わず身を固くする。噴き出された。
「別に取って喰おうって訳じゃねぇよ。大人しくしてろ」
「……」
無言で身体を固くしたままいると、さらり、と目の端にブラウンの髪が落ちてきた。自分の髪だ。
何をされたかはすぐに解った。髪につけていた羽飾りを取り外されたのだ。
「―――?」
別段、奪い返そうとはしなかった。いや、必要がなかったのだ。
何せ、
「まだ持ってるたぁ、思わなかったぜ」
「……別に。いいじゃないの」
ぷい、とそっぽを向く。知らずに鼻の頭が赤くなる。
「"思い出の品"なんか取って置くようなタイプじゃねぇだろーが。それとも何だ? 俺の形見のつもりだったのか?」
「まさか。いろいろ都合が良かっただけよ。自惚れないで」
ふーん、と素っ気無い返事を返して、彼は掌の上で羽飾りを遊ばせる。
あれは、もともと彼が作ったものだった。魔力干渉から持ち主を防護する呪符の一つ。その試験[テスト]のために渡されていたものだった。
ただし、それほど強い効果があるわけでもないし、時が経つと共に効果は薄らいでいく。実際、五年も経過した今では、ほんの少し、戦闘に置ける運を良くしてくれているだけだろう。
だから、自分の言葉が何の説得力もないことは知っているのだけれど。
彼はくつくつと笑いながら、赤石についた三番目の黒羽を引いた。厳重に括られたそれは、多少、引っ張ったところで外れはしない。
その羽根一つだけは、カシスの記憶からは外れていた。
「自分で付けたのか。変わった呪力を持ってるな。どこで見つけた?」
「いや……どこで、っていうか……。ちょっと、ある仕事を片付けたときに報酬代わりにパクったんだけど……。ちょっと変わってるなー、と思ってやってみたのよ」
「ほー、そりゃあまたお前、度胸があるな」
「別に危なそうな感じではなかったし、魔力相互も起こらなかったし……」
「ふん……。まあ、これは今度調べてみるか……」
黒い羽に触れながら、多少の興味を持ったらしい。口ではそう言っていても、目は子供のようにそれを見つめている。
少しだけ、ルナの表情が和らいだ。
こつり、とカシスは工具の切っ先を赤石に当てる。
「ちょ、ちょっと……ッ?」
「まあ、慌てんな。悪いようにはしねぇよ」
そのまま、工具を小刻みに動かしていく。時折、傍らに置いた羊皮紙を覗きながら手を動かしていく。
ちっ、と舌打ちが漏れた。
机の上に石を押し付けるようにして、片手で作業しているせいか、上手くいかないらしい。
「……」
かたん、とルナは椅子から立ち上がる。工具を動かす彼の手元に手を伸ばし、羽を押さえながら石を固定するように抑える。
工具の動きが止まる。
ちらりと、石と同じ色をした彼の目がこちらを向いた。
「……」
だが、それは一瞬だけで。
ふん、と軽く鼻を鳴らしただけで、後はかりかりと工具の擦れる音が工房に響くだけだった。
「……で、何がどうなったの、これ?」
店主に礼を言って魔道具店を出て、ルナは手元に置かれた羽飾りをしげしげと見つめた。
先ほどとは違って、石の部分に紋様が掘られている。形自身は防護の印だが、アレンジが加わっているらしく、見たことのない呪いがところどころに掘られていた。
傾き始めた日に透かして見るが、何が変わるわけでもない。
「ま、ちょいとしたメンテナンス兼アレンジだ。悔しかったら自分で勉強するんだな」
「む……」
魔道技師もものを造る人間だ。職人と同じで、自分の作ったものは例え、こんな呪符一つでも扱いに厳しい。
だから、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の悪用も、効力のなくなった呪符をそのままにして置くのも、我慢ならないのだろう。
形すべてを読み取ることは出来ないが、そもそもこれをルナに渡したのは、防護や回復の呪いを不得意とするルナの呪文の性格を知ってのことだった。だから、これもきっと、相違はないのだろう。
「防護系だってことは解るけど……。いや、待てよ……これは違うわよね、強化系も混じってるし……」
彫られた陣と紋を眺めて、ルナは何とも複雑な表情を浮かべる。悔しそうな、それでいて顔はやや赤い。
「……カシス」
「あ?」
「い、一応、言っておくけど……。その、ありがと……」
人間、礼を言うのに抵抗を覚える相手というのが必ず存在する。ルナにとってみれば、カシスがそうだった。
視線を背けながら絞り出すルナに、カシスはふん、と息を吐く。
「はッ、だから大人しく付いて来い、つったろーが。暴れ馬が」
「だぁれが暴れ馬よッ!? あんたねッ! いい加減にデリカシーってもんを……、きゃッ!?」
思わず漏れた小さな悲鳴に、屈辱を覚える。ふらり、と身体が宙に浮く感覚。
悲鳴を漏らしたことで、昼間よりはだいぶ減った、しかしゼロではない人の目がこちらを向いた気がした。腰には男の腕が回されていて、軽く抱え上げられている。
「何す……ッ」
「どうせだ、もう一件付き合え」
「は、はッ? ちょっと、もう……」
すぐ夕方だ、と抗議しようとした声は呪に遮られた。その呪の内容を理解した途端、ルナは無理矢理口を塞ごうと手を伸ばす。だが無駄だった。
「我望む、求めるは無垢なる風の加護、翔べフロウ・フライト」
風が渦巻いた。巻き上がる髪の合間から見えたのは、風で割れる植木鉢と、日傘を持っていたためによろけ、吹き飛ばされたおばさんA。
ルナは浮遊の感覚を味わいながら、溜め息を漏らす。
フロウ・フライト。上級魔道師が使う浮遊の呪だが、使い勝手は恐ろしく悪い。特に、浮き上がる際に巻き起こる風は、さっきのように周囲に迷惑をかけまくる。
ルナもまあ、周りに気を使って術を使う方ではないが、こいつにだけはとやかく言われない自信はある。
「あんた……」
「何だ?」
「……………もういい」
疲れた、とルナは吐き出した。町並みが眼下に遠くなる。見えるのは下だけで、上を見ようとするとカシスの白い上着に視界を遮られる。
逆らうのも疲れた。どうせ、何も聞きやしないのだ。
諦めて体の力を抜いた。腰に回された腕に抱え直される。拍子に頬が彼の胸板に当たった。
―――ん……
少しだけ、昔より広くなったかもしれない。とくり、と心臓の音が耳を打つ。
―――生きてる、よね……
「あん? どうした?」
「………何でもない」
くしゃり、と歪んだ顔を見られたくなくて、ルナはわざと胸板に顔を埋めた。脳裏に浮かんだのは、煩わしくて、忌々しくて、そして恐ろしい炎の光景は。
消した。
生きている。
彼は、ここで生きているのだ。
だから、あんな風景は、もういらない。
「何でも、ない」
自分に言い聞かせるように、ルナはもう一度だけ小さく呟いた。
「よっ、と」
「?」
とん、と地に足が付く感覚。ブーツを短い草の先が擽っている。同時に鼻を付くのは青の匂い。
断じて町中に存在するような感覚ではない。
身体を離すと、視界の中に白い姿と、その背後に疎らに生えた低木が飛び込んで来た。視線を上げると、彼の、切り方の悪い短い髪が金の光を反射している。はっとして背後を振り向いた。
そこは木陰だった。
町から少しだけ小高い丘。見晴らしが特に良いわけでもない。実際、町が見下ろせる場所、というわけでもない。遙か山の端に傾いた日が見えるだけだ。その光も、大方は梢に阻まれる。
利点、といえば、まあ、彼にしてみれば人がいないこと、だろうか。
特に特別な場所というわけでもない。彼の意図が図りかねず、もう一度、顔を見上げた。
「何……?」
「特に意味はねぇ」
「は……?」
「まあ、単に人がいなかったからな」
その場に腰を下ろすと、くい、と顎で同じようにするよう促す。警戒しながら、腰を落とす。
刹那。
「―――ッ!!?」
「お前、足太くなったか?」
「し、し、失礼なこと言うなッ!! っていうか何すんのよッ!?」
腕を引かれたと思ったら、この強欲が服着て歩いているような自己中男は、いきなり膝に頭を置いて寝転がる。加えて、失礼極まりない台詞のおまけ付きだった。
「いいじゃねぇか、減るもんでもあるまいし」
「精神的に減るのよッ!! どきなさいよッ!」
「断る」
きっぱりと、何故かこちらが悪いような気にさえなってくるほど明確に言い放たれる。
ルナは言葉を詰まらせて、振り上げた手のやり場を探す。妙に心地良さそうに目を閉じる男に、そのやり場がどこにもないことを知ると、素直に手を足の脇へ落とした。
悔しい。
何が悔しいかというと、良い様に使われている自分を許してしまっている自分が一番口惜しい。
「……ひょっとして、これだけのためにこんな辺鄙な場所に連れて来たの?」
「俺としちゃ、街中でやっても良かったんだがね。誰かがぐだぐだ文句付けそうだったしな」
当たり前だ。
言い返して、頭を振り落としてやりたくなる衝動を必死で堪える。
めっきり軽くなった溜め息を漏らすと、怒鳴るのも面倒になって木に背を預けた。
言葉を切ると沈黙が耳に五月蝿くなる。風もなかった。雨が来るのだろうか、少し湿った空気は、梢を鳴らすこともなく、周囲はまさしく無音を奏でている。
「昔はよくやったろうが。何を今さらがたがた言ってんだ」
「あのねぇ、その一回でもあたしが膝を枕にしていい、なんて言ったことあった?」
「硬いこと言うな。散々、授業フケて同じようなことしてただろ。こんなもんどころか、それ以上……」
「言わなくていい。っていうか軽々しく言うなッ!
大体、あんたが勝手に人を連れ出してただけでしょ。あんたは知らないだろうけど、あたし、出席日数で一回、呼び出し喰らったのよッ!?」
「何だ、つまんねぇことで悩むなよ。言えば圧力くらいかけてやったのに」
「……そういう危険性があるから言わなかったのよ……」
ふと、思い出す。
ああ、そうか。そういえば、前にもこんなことがあった。考えてみれば、今日の一日は、まるで昔をなぞったような。
口喧嘩を繰り返しながら食事を取って、技師としての仕事をして。まあ、結局つまるところ、すべてこの男に我侭に付き合っていただけなのだが。
口惜しい。
あいも変わらず、何か不公平。
それでも、居心地はけして悪くはない、なんて。
「……ひとつだけ、解った」
「あん?」
「あんたも一つも進歩して無い、ってこと」
「何だ、そりゃ?」
「だって、そうじゃない。人を振り回してくれるとこなんか相変わらず。人も空気も読まないし、態度も進歩なし。
ホントに、呆れるくらい昔と同じ」
だというのに。
今、ここには壁があるのだ。
絶対的な、猜疑という壁が。
乾いた笑いが、ルナの口から漏れた。それが自嘲めいて聞こえたのは、けして気のせいではないだろう。
「けっ、お前もだろーが。相変わらずガキだし、悉く詰めが甘いし、うるせーし」
「五月蝿いのはあんたのせいよ。少なくとも」
さらり、と数瞬だけ吹いた風が、ルナの髪を攫った。目の前に垂れてきた栗色の一房を、白い指が掴む。
「随分、伸びたもんだな」
「うん、まあ……。切らないまんまだったし」
「何だ、短いままじゃあ、男に間違われるからか?」
「……いい加減にしないと振り落とすわよ」
軽口を叩く彼の頬を、申し訳程度に軽く叩く。気紛れに指に髪を巻きつけて遊ぶ。何故、切らなかった? と訊かれた。
「戒め、かな……」
「あん?」
「まあ、下らないことよ。そういうあんたは切ったのね」
「ああ、まあな」
同じような問いを返してみると、「いろいろと重かった」と返って来た。それをそのまま受け止めるのは、余程の愚鈍がすることだ。
きっと二人とも、切りたくて、伸ばしたくて、髪をいじったのではないのだ。
言葉が途切れる。言葉を重ねようとするほど乾いていく。きっと、彼もふと気がついてしまったんだろう。
昔と寸分違わない自分たちの姿に。
されど徹底的に違ってしまった一点に。
「―――ルナ」
「何?」
無音の世界に、不意に声が上がった。ルナはすぐに答えた。
「お前は、本当に何も喋ってないんだな……?」
ぼそり、と呟かれたのは、聞き飽きた問いだった。
だから、聞き飽きただろう、答えを返す。
「喋ってないわ」
「そうか……」
テノールの声が平坦に響く。
急激に、温度が冷えていく。
その声はけして疑ってはいない。しかし、欠片も信じてはいない。ただのつまらない相槌だった。
くしゃり、とまた顔が歪む。だから寄りかかる木のてっぺんを見上げた。それなら、膝で眠る彼に表情が見えることはない。
自分は、ただ信じたいだけだ。信じてもらいたいわけじゃない。
言い訳のように繰り返して、言葉を紡ぐ。
「カシス」
「……」
「解ってるはずよ。もう、昔とは違うって」
「……」
「『ヴォルケーノ』のことがなければ、確かにお互い無事で良かった、で済んだのかもしれないけど。
でも、現実として、あんたはあたしを信じられていない。それを恨むつもりはないわ。仕方のないことだから」
「そうだな。自業自得だ」
「そうね。だと思う。
信じろ、なんて言わないけど、でも、一つだけ頼みを聞いてもらいたい」
「頼み?」
ルナは木のてっぺんを見続ける。彼はこちらを見上げているのかもしれない。もしくはまったく別の方向を向いているのかもしれない。
「……『ヴォルケーノ』と、『ツインルーン』を、忘れて」
「……」
「いや、正確じゃないわね。あの件について、これ以上、詮索するのをやめて」
「何だ、保身か」
「そんなんじゃないわ。前にも言ったように、あたしはクオノリア、ランカースであの二つを利用して事件を起こした黒幕を追っている。その黒幕がカノンたちを狙っていて、利害の一致からあの娘たちと一緒にいる」
「……」
「理由としては最低よ。協力と称して、あたしは結果的にあの娘たちを利用している。
でも、あの黒幕はただものじゃなかった。利用出来るものは利用しないと―――勝てないわ、きっと」
きり―――ッ。
奥歯を、噛み締める音が、カシスの耳にも届いた。
飛んだ馬鹿者だと、思った。
昔から、こんな甘い女に、そんなことが出来るものか。
そう思った。
「奴のことに関しては、あたしに、任せて欲しいの」
「……」
「あんたに信用されないまま、ってのは癪だけど……。
あんな無茶苦茶な奴相手の戦いに、あんたもイリーナも、巻き込むわけにいかないし。
昔の研究漏洩が後顧の憂いだってんなら、あたしが何とかする。もともとそのつもりで、あの娘たちに手を貸してるわけだし」
「……」
「あんたは、そんな過去のことで芽を潰されていい人間じゃないでしょう?
イリーナも、多少のコネはあるんだろうし、あんたの腕ならどうマイナス点があろうがいいポジションまでいけるはずよ。あの娘なら、サポートだってしてくれる。確かにドジだし、自分は馬鹿で何も出来ない、なんて言ってるけど、それでも研究者の端くれよ。あの娘にも、あの娘なりの才能があったから、あんたもプロジェクトへの参加を許可したんでしょ?
だったら―――さ。
何も、考えることないじゃない。
上に行きなさい。
それが、あんたの夢だったんでしょう?」
何度も言っていた。
いつか、あの小さな『館』の中だけじゃなくて。
大陸、いや、世界に認められる魔道技師として名を残す、と。
ただ聞いただけでは、拙い子供の夢。でも、相応の才能と、血の滲むような努力が伴ったそれは、夢想とは呼ばない。
ルナは、彼はそれだけのことが出来る人間だと、信じていた。
一度は業火に焼かれた夢だった。
だったら、やり直せばいい。傍らにいるのが自分でなくとも。
もう、昔とは違うのだ。それでいい。いや、それを望んでる。
「それで、お前はどうなる?」
「さぁ……? 解んない。
生きて帰れたら戻ってもいいし、むざむざ死ぬ気もないけど。ともかく、終わったら考える。
……話さなきゃいけないことが出来たら、それはちゃんと、話しに行くしさ。
だから―――」
「だから―――そいつを信じろ、ってか」
「……」
ルナは小さく呻く。
解っては、いたのだ。結局は、信じてもらうしかないのだと。そもそもそれが出来ないから、もどかしいのだ。
何て、煩わしい堂々巡り。
「気に喰わねぇな」
「―――ッ!!」
ふわり、と膝から重みが消える。その代わり、後頭部に鈍い痛み。がんッ、と音が聞こえたのは何故か一瞬後だった。
首に違和感が走っていて、後頭部と背中が幹に押し付けられている。いたい。
ぎり―――ッ
「かッ……ッ、は……」
口からなけなしの空気が漏れる。首の違和感は、ぎりぎりと気道を締め付けて、声と、酸素とを塞いでくる。
苦痛を訴えて正面を見ると、吊り上げられた暗い赤眼が、乱雑に切られた白髪の間からこちらを睨んでいた。絡みついているのは、細く、長く、白い指。魔道技師の器用に鍛えられた右腕が、喉を潰していた。
「疑いが濃厚な人間に全部任せろ、だ? はッ! 随分と調子のいいことを言うじゃねぇかッ。
仲間を利用する? "超"が何個付いても足りないくらい甘いお前に出来るわけねぇだろうッ!? とんだ笑い種だッ!
それが俺やイリーナのためだってかッ!? 気に喰わねぇッ、偽善者くせぇことをほざくなッ!!」
「―――ッ、く、ぅう……ッ!」
「……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か。
さぁ、言えッ、それはくだらねぇ自己犠牲の偽善なのかッ! それとも自分の保身かッ!? だとしたらどっちもくだらねぇッ! 下らない、くだらない、クダらないッ!!
ああ、信じてねぇのはお互い様だッ! 一瞬でも信用しかけた手前ぇ[オレ]が、心底馬鹿だったぜッ!! それがよぉく解ったッ!!」
「くっ、ぅ、ち、ちが、かは……ッ!」
空気が漏れる。漏れるばかりで入って来ない。声も出せない。縋るようにぎりぎりと締め付ける腕に、爪を立てる。
頭の後ろが朦朧として、重たくなって来た頃、ようやく首の枷が外れる。
ぐん、と広がった気道に咽て、咳き込んだ。喉元を押さえ、身体を折ろうとするが、相手はそれを許してはくれなかった。
「―――ッ!!?」
眼前に、細められた赤眼があった。近すぎて、睨んでいるのか素なのか、判別が付かない。たぶん、前者だろうが。
かりり、と唇に痛みが走る。噛まれた、と知覚する。同時に舌の上に緩い錆の味。
お礼や詫び、なんて可愛いモノじゃない。与えられているのは愛情ではなくて、暴走したただの苦痛。
―――ッ!
背中が太い木だったのを思い出した。
封じられる寸前だった右手に気づく。脳が危険信号を鳴らす。瞬間、手が動いていた。
ぱんッ!!
響いた音は、何かとても大きく聞こえた。
拍子に緩んだ拘束から身を離して、距離を置いた。
「……」
「……はぁ、はぁ…」
荒い息を吐き出しながら、ふらつく足で立ち上がった。血の滲む唇を拭って、押さえながら、視線を上げた。
腫れた頬を、打たれた頬を押さえながら、彼は無言でこちらを見ていた。
黄昏よりも暗い、朱い眼で。一抹の哀憐と、非難、いや敵意さえ感じさせるような、そんな眼で。
ぎり―――ッ、噛み締めた歯が痛い。もっと痛いのは頭。もっともっと痛いのは身体。絶対的に痛いのは、こころ。
じりッ、と後退る。妙に滲んだ視界が悔しい、悔しい悔しい口惜しい憎たらしいッ!
「―――ルナ」
なけなしの力を足に込めて、その場を逃げ出そうとした少女の背に、凍りついた言葉がかかる。反射的に、止めてしまった足を死ぬほど後悔した。
「明日、町を経つ」
「……」
「夜に、来い。それがお前の最後のチャンスだ」
「………ッ!」
擦り切れるような痛みが、身体を貫いた。がくがくと、膝が震えてしまう前に。頭の中の警鐘が、その場を離れることを訴えていた。
だから。
「―――ぅッ!」
呻き声だけを残して、彼女は振り返らず、逃げるように走り出した。
←7へ
どう考えても、不可思議だった。
あの日から、あの黒い少女が街中を混乱させてからゆうに三日は経っていた。
レンにしてみれば、ルナのことがあって、何日かの滞在が決まったと同時に何らかの襲撃があるものだと覚悟していたのだ。初日、あれだけ派手な歓迎をしてくれたのだ。それなのに、この三日、気を張り詰めるばかりで変わったことは何一つなかった。
カノンもそれには首を捻っていた。シリアやアルティオも右に同じだ。いくら楽天的思考保持者としても、不穏に感じるところはあるのだろう。
ともかくにも、ここ三日、忙しく動いているのはルナだけで、自分たちは思い思いに過ごしてしまっていた。
意味もない焦りが、レンの中には生まれていた。嵐の前の静けさ、というか。まさか、こちらを休ませてやろう、なんて慈悲深い考えではないだろう。
奴らは行く町々で周到な準備をしてくれていた。その"準備"とやらが、この町にはないのだろうか。だとしたら、初日のあれは、危険を感じてこの町を早く出て行かせようという工作……?
いや、そうだとすれば尚更この三日間の間に、然るべき襲撃を受けていて良いはずだ。
ならば、奴らが大人しいのは、何故なのか。
そこでまた思考の壁に会う。
メインストリートから一本はずれた通りで、煉瓦に背を預けながら、疎らな人波を眺めてレンは思考を巡らせる。
―――それとも。
何か、彼らの計画が、どこかで狂ったのか。
この町に着いてからの不確定要素は二つ。一つはラーシャ=フィロ=ソルト、と言ったか、彼らがレンとカノンに祖国の救援を求めて来たこと。一つはもちろん、ルナの旧友であるというあの男と少女。
どちらも偶然とは言い難い。
ラーシャたちはエイロネイアの視覚だと言及する"奴ら"に狙われた自分たちを追って来た。
カシス=エレメントは薬の護衛中だとか言っていたが、その実は違うだろう。現に、彼らが口にした"お使い"をする二つの町のルートからこの街道は、わずかに外れている。
おそらくだが―――彼がルートを変えたのだ。クオノリアで研究が漏れていることに気がついた彼が、その関係者の中にルナの名を見つけ、ここまで探してきた……というところだろう。でなければ、偶然にしては出来すぎている。
―――あの男は、最初からあれを疑ってきた、ということか……。
それならば、一筋縄で説得も出来まい。三日経っても、彼を説得出来ずにいるらしいルナを責められるはずもない。
ただ、彼を味方となった場合、漏れた情報を元に立ち回っている"奴ら"にとっては、裏をかかれる可能性が大きくなるだろう。彼はルナ以上に『月の館』で行われた研究に深く関わっている。
もう一つ、ラーシャとデルタの、シンシア側の人間だという二人が同じ町の中に存在しているという事実が、彼らの行動を抑制しているのだということも考えられる。
どちらが吉となっているのか、はたまたもしくはやはり嵐の前の静けさで、とうに凶が出てしまっているのか。
―――……堂々巡りだな。
答えの出ないと解りきっていることを考えるのは、思いの他、疲れる。
諦めにも似た溜め息をついて、レンは視線を爪先から上げた。
ちょうど、そのとき、だった。
「―――ッ」
人波の中に。
ゆったりとした黒が、浮かんだ気がした。
それはふい、と掻き消えて、一瞬でなくなってしまったけれど。
レンの頭の中に葛藤が生まれる。追うべきか、追わざるべきか。逡巡して―――踏み出しそうになる足を堪える。脳裏に浮かんだのは、ランカース・フィルでのあの罠。
レンはけして正義感のない男ではない。人としての感情も、あまり面に出さないだけで苛立ちと、黒の少年に対する疑惑、疑念は常に持ち続けていた。
だが―――同時に、彼の相棒よりは導火線が長く、なおかつ、切り刻まれた少女の身体を覚えている彼は堪えて足を止めた。
額に脂汗が浮いている。
―――なぜ、今……ッ!
あれは前回のように誘いなのか。もしそうならば、やはり奴は……?
「あれ……?」
「ッ!」
思考のためか、よほど厳しい顔をしていたらしい。振り向いた先にいた少女は、びくん、と肩を震わせた。
それに気がついて、レンは己の情けなさに軽く首を振る。
蜂蜜色の髪とどこかおどおどした榛色の瞳。地味なローブを纏っていて、やや涙目でこちらを見上げている。
……いつも強烈な個性を纏った女にばかり振り回されているせいか、こういった本当のただの少女に対してどう対処するかなど思いつかないのである。
「え、えっと、その……」
「ルナの旧友だったな。すまない、考え事をしていてつい警戒してしまった。気にするな」
「あ、あう、じゃ、じゃあ怒ってるわけじゃないんですね……?」
―――別に怒るような理由はどこにもないだろう……
どうにも苦手意識が働いて、レンは胸中で頭を抱えた。そう考えると、女性に対して、いつでも誰にでも同じ愛想を振り撒けるアルティオは凄いのかもしれない。無論、褒めていないが。
少女はほっとしたように、胸を撫で下ろす。
「えっと、間違ってたらすいません、レンさん、でしたっけ?」
「そうだ。そっちは確かイリーナ、と言ったか」
「あ、名前覚えててくれたんですね」
にこり、と少女は笑顔を向ける。そういえば、宿屋で何度か訪問してくるのを見てはいたが、まともに会話するのは初めてな気がする。カノンやアルティオは比較的、会話をしていたはずだが。
「そういえば、こうやってお話するの初めてですね。ごめんなさい、ろくに挨拶もしなくて」
「気にしなくていい。それはこっちも同じだ」
「今日はどうしたんですか? こんなところで」
「いや……」
別に言い難いわけでもないのだが、レンは答えに詰まる。言い難いというか、おそらく他人には理解出来まい。
「……少し五月蝿くてしつこい虫が出たんでな。あまり人目につくようなところは避けて、考え事をしていただけだ」
「???」
案の定、疑問符を浮かべるイリーナに、レンはもう一度、「気にするな」と口にした。この疲労感は、不死身で頭の中身の足りていない異性に襲われる経験をした者にしか解らない。
「こんなところで、と言うがそちらこそどうかしたのか?」
「あー、お使いです。ちょっと医療系の魔道研究で使う薬の補充に。今度は先輩の」
「あの男か……」
苦笑いするイリーナに、レンは挑発的なオーラを纏う件の魔道技師の男を思い出す。またいいように使われてるな、哀れなものだ、と心の中だけで思うと、彼女はそれを汲み取ったかのように、
「私、今日はお出かけする用事がありましたし。そのついでなんですけど、ちょっと迷っちゃって……この辺のお店なハズなんですけど」
「……」
えへへ、と舌を出す少女にレンは思わず引き締めた顔を潜ませるところだった。
大きな町、といってもこの町は比較的、道も整備され、標識も易しいものである。
「……帝都あたりに行くと完全に迷うな」
「あ、あう、た、確かに一回、上司のお供で行ったとき迷子になって何故か町の外に出ちゃったりしましたけど……」
ぽつりと呟いてしまったレンの言葉に、しどろもどろになりながら、必死で弁明する少女。
その様が思いの他、可笑しくて笑ってしまう。
「まあしかし、あんなとんでもない女を親友にしているのだからな。付き合うのには根性がいるだろう?」
「とんでもない、って、ルナちゃん、ですか?」
他に誰がいる? と問い返す。イリーナは少しだけ悩む素振りを見せると、
「確かにルナちゃん、ときどきホントにハラハラしますけど。でも、私には優しいですよ。
一番の親友ですから。私はルナちゃん大好きです!」
「……」
虚をつかれたように、レンの表情がぴくり、と動く。よもやあの暴走魔道師について、そんな評価を聞く日が来ようとは。
「? どうかしましたか?」
「いや……」
珍しく面食らうレンに、イリーナが首を傾げる。
「……それは本音か?」
「? はい」
「そうか……いや、気にするな。どうしてそう思う?」
「だって、私なんかよりずっと強いし、優秀だし。私はおちこぼれだったけど、それでも熱心に勉強教えてくれて。
私なんかがプロジェクトチームに所属できたのも、ルナちゃんのおかげです。
ちょっと素直じゃなくて、強情だけど」
―――ちょっと、というかかなりな。
つい、出そうになった本音を飲み込んだ。
「レンさん、ルナちゃんとは仲良いんですか?」
「仲が良いかどうかは知らんが……まあ、付き合いが長いことは確かだ。奴とは子供[ガキ]の頃から顔を合わせていたからな。
まあ、奴に対してそんな感想は抱けんが」
イリーナはくすり、と笑う。
「でも、子供の頃からずっと付き合いがある、ってことは悪く思ってるわけじゃないんでしょう?」
「まあ、な……」
「ホントに、ルナちゃんはすごいです。それに比べて―――」
少しだけ、少女は俯いた。眉根をぎゅ、と寄せる。
「それに比べて……。私は、ちっとも強くなんてないし、それに……」
……ズルいんです、私。とても」
「……狡い?」
「だって……」
言っていくうちに言い難くなって来たのか、そのままの渋い顔で小さく俯いた。
しばしの沈黙に、居心地が悪そうに顔をしかめる。別にこしらが何をしたわけでもないのだが、沈んでしまった少女へかける言葉を模索する。
どうしようか、ふと視線を空に投げ、
「……ッ?」
「え?」
小さく声を漏らしたレンに、イリーナも俯かせていた面を上げる。す、と眉を潜めているレンの視線を無意識に追って、
「あ」
声を漏らす。
人の合間から見える影。レンは眉を潜めたまま、無言でやや位置を移動する。つられてイリーナも半歩ほどずれた。
見慣れた羽飾りがふらふらと揺れている。
「ルナちゃん……?」
少女が呟く。小首を傾げているのは、その人物を見てなぜ目の前の男が隠れるような動作をしたのかが不可解だったのだろう。
視線を男から戻して、イリーナはようやく気づく。
「あ、あの人……」
ルナの傍らを歩いている人影に、イリーナも見覚えがあった。確かルナと再会した日も、彼女と共にいた。名前は何だったか。
表情はルナ共々、何だか深刻そうだ。ちょっと声をかけづらくなってしまうくらい。
「……」
レンは眉間の皺を深くする。
栗色の髪と、蒼い瞳。凛、とした雰囲気は人波の中でも目立つ。ラーシャ=フィロ=ソルト。一歩後ろには、生真面目な顔をした、青紫色のローブを引き摺った少年が付いている。彼もまた、表情を強張らせていた。三人は剣呑な表情のまま、何かを論じているようだ。
イリーナには無理だろうが―――
狩人としての訓練を受けたレンの五感は、普通の人のそれよりはるかに優れている。そのレンの耳には、雑踏の中でも、彼女らの声が途切れ途切れに聞こえていた。
レンの表情が、次第に険しくなっていく。
「えっと、その……?」
「すまないな。用事が出来た」
「え? え?」
「ちなみに薬屋ならあんたの目の前だ」
「あ゛……」
二軒向こうの大きな看板を指しながら言うと、イリーナは引き攣り笑いを浮かべて看板を凝視した。
じっとりと汗が浮かぶ。
「あ、えっとぉ……はい、ありがとうございま……?」
お礼と共に振り返ったとき。
そのときにはもう、群青のマントの、寡黙な男の姿はその場所から消えていた。
数刻後。
―――?
メインストリートを縫うように歩いていたカシスは、ふと歩みを止める。
元来、人込みは好きじゃない。というか大嫌いなものの一つに入る。なかなか引かない人の波に苛立っていたために、それに気がつくのに一瞬、遅れた。
目当ての魔道具店―――あのやたらと元気な金髪のお嬢ちゃんと会った店のベルがからん、と鳴って、慌てた様子の店主が何かを掴んで表へ出て来た。
そうして通りの向こうを背伸びして見ると、がっくりと面を落とした。
「……」
同じように通りの向こうを覗き見て、カシスは店主へ歩み寄る。
「おい、どうした?」
「へ? あ、ああ……この間の旦那……。
いえね、今しがた来たお客さんがお忘れ物をなさいまして。そういや、旦那が来なかったかと聞かれましたよ」
「女だな?」
「へぇ、まあ。旦那のお連れさんですか?」
「まあ、似たようなもんだ。で、忘れもんてのは何だ?」
「はぁ、たぶん大したもんじゃないんでしょうが……」
遠慮がちに差し出されたそれを見て、一瞬、眉間に皺を寄せる。
だが、それは一瞬で。カシスは笑みの形へ口角を吊り上げると、店主の手からそれをもぎ取って歩き出した。
苛立ち紛れに広場に出ると、噴水の淵に腰を下ろす。気を抜いた瞬間、どっとした疲れが襲って来た。広場には、屋台や物売りの声と、子供の笑い声が高らかに響いている。
―――まっずいなー……
正午はとっくに回っている。
昨日はあまり眠れなかった上に、今日は朝早くからラーシャと共にディオル邸に赴いていた。そのせいか、軽い眩暈がしている。そうでなくとも、最近はストレスの溜まることが多すぎた。精神的にも参っているのかもしれない。
まずい、と思いながらもお尻に根が生えてしまった。
ディオルは思った以上に手ごわい。ああ言えば、こう言う、すべての答えを最初から用意しているのだろう。考えてみれば当たり前だ、ああいう人間には敵も多いはず。ということは、押し問答は日頃から慣れているということなのだろう。
それでも、ラーシャがエイロネイアの者だというあの黒の少年たちがいる限り、何らかのモーションを起こすものだと思っていたのだ、最初は。
しかし、奴らは初日以来、何の行動も起こさない。ランカース・フィルのときのように、周囲への聞き込みも行ってみたが、以前より周到に姿を隠しているらしい、証言は得られなかった。
―――お先真っ暗……
とりあえず、ラーシャは明日あたりに祖国へ伝令を送ると言っていた。デルタは裏側から調べを進めると言っていた。
最悪は、ルナが政団のつてを使って、何か証拠となるようなものを探すしかないのだろうが、望みはけして高くない。
―――あいつもあいつで……、何考えてるかホントわかんないし……。
カシスのこともそうだ。イリーナにはこの三日間、何だかんだで顔を合わせていたが、カシスとは一回だけ顔を合わせたきりだった。しかも、訪ねていって、相手は出掛けだったらしく、ろくな話も出来なかった。
何を考えているか解らないのは昔からだが、本当に理解できない。
「話くらい、ちゃんと聞かせなさいよ……」
自然と表情が歪む。人の心労を何だと思っているのか。何だか力が入らない。
もう三日だ。これ以上、カノンたちを滞在させて、迷惑をかけるわけにもいかないだろう。ラーシャのことにしても、秘密裏で力を貸しているのだから、限度というものがある。
何から片付ければ良いのか。ルナには、時間がないのだ。
膝に肘をついて、頬杖をついたまま瞑目する。噴水の端だというのに、このまま眠ってしまいそうだ。
その彼女を揺り起こしたのは、存外に粗暴な声だった。
「よう、ねぇちゃん、一人かい」
「……」
―――まったく、こっちが参ってるってのに空気読まないってか読めないってか、人の纏ってる雰囲気くらい察してきなさいよ、朴念仁。
いろいろと悪態を吐きながら目を開く。
金髪に、入ったメッシュはド派手なピンク。纏った服は黒を基調としているものの、派手な印象を受ける男。軽薄なオーラ、にやけた笑みはどう見ても偽物。まあ、ちょっとは顔のいいチンピラと大差はない。
「……何よ?」
「怖い顔すんなよ。そんなシケた面しない方が可愛いよ、あんた。
なあ、気分悪いなら俺らと飲まねぇか? あっちで仲間も待ってるしさ」
カワイイ云々はともかく、どうしてそこに繋がるのかが解らない。視線を傾けると、ガーデン式の酒場で昼間から樽酒をかっ喰らう男たちの姿が目に入った。
―――……なるほど、ある程度、顔のいい男で女の子釣るのね。
嫌に冷めた思考が、そんな答えを導き出す。
溜め息が漏れた。ルナは無言で立ち上がって、男の側をすり抜けようとする。無視を決め込んだ彼女の手を、ぱしっと男が掴んだ。
汗ばんだ、気持ちの悪い感触に怖気が立った。
「何だよ、シカトすんなよ」
「……」
気色の悪い猫なで声を発してくる男を、力いっぱい睨みつける。無言の圧力も手伝って、男は怯むが手を離そうとはしなかった。
それどころか、一層力を込めて握ってくる。
「……ッ!」
「なあ、素直になろうぜー? あんただってそんな顔してたんだ、鬱憤晴らしたいだろ?」
たとえ素直になったところで、あんたらと酒の席を一緒にしようとは思わない。
生憎、気が長い方ではないのだ。怒鳴るか、それでもやめないようなら、軽い術で地に沈んでもらおう。
「ちょっと……、調子に乗るんじゃ……ッ!?」
声を張り上げたときだった。
ぐらり、と体が傾いで、目の前が暗くなる。足の力が抜けて、その拍子に男は腕を無理矢理に引いた。
―――く……ッ!
「何だ。 その気じゃんか」
―――そんな、わけ……ッ!
にやついた笑みを睨みつけるも、足の力が戻ってくれない。仕方がない、と無理に口の中で呪を唱え始める。
が、
「おいおい、ちょいと待て、そこのガキ」
「あぁッ? ッ、て、いでででッ!?」
「!?」
唐突に、握られていた腕が自由になる。驚いて顔を上げると、今しがたルナの腕を押さえていた男の腕が、逆に捻り挙げられていた。
その手首を捉えているのは、日に焼けた男の手とは真逆に、異様なまでに白かった。
す、と細められた緋色の瞳が、こちらを射抜いてきた。
「カシス……?」
―――どうしてここに?
眉を潜めるルナから視線を逸らし、彼は目の前の男を見下ろした。もともとつり目気味な、彼の切れ長の目は、それだけで威圧になるようで、男はひッ、と短い悲鳴を上げる。
「さて、その女にどんな用だ?」
「ハァ? あ、あんたにゃカンケーないだろ……」
「ああ? そうか?」
にやり、と嫌な笑いを浮かべて彼は振り返る。
「なあ、ルナ。俺は関係ないそうだが、どうだ?」
「……な、わけないでしょ」
飄々と言ってのける奴を睨み返す。ここで下手に言い澱んだりすれば、こっちがいくら力が入らなかろうと奴は自分を見捨てる。そういう最低なことを平気でする男だ、彼は。
「だ、そうだ。お前の出番はないとよ。大人しく消えな」
「な、なん……ッ!?」
男はなお、何かを言い募ろうとする。カシスはそれに、すっ、と大きく息を吸い込んだ。
……思えば、このときから嫌な予感はしていたのである。既に。
ただ、久しぶりすぎて、この男の歪んだ感性を忘れていただけで。
「やかましいんだよ、(差別用語)がッ!! 引き際ってもんを弁えろ、(放送禁止用語)て(暴力的表現)されてぇか、あぁッ!?」
ドスの効いた声に、広場に集まっていた町人たちが思わず歩みを止める。ルナはその場で頭を抱えた。先ほどとは異なる眩暈に襲われた。
―――真っ昼間の天下の往来で、何を口走ってくれやがんだ、この男。
ああ、突き刺さる周囲の視線がどうしようもなく痛い。
視線を上げると、男はぽかん、と口を開けたまま茫然と脂汗を流している。あれは自分が何を言われたのか解っていない顔だ。無理もない。昼間の往来でこんな罵詈雑言を揚げてくれるような人間、他にいるものか。
何も言わない、というか言えないでいる男の腕を、彼は乱暴に振り捨てた。
「っあ、あ、ぃひゃぁぁぁぁぁあッ!?」
拍子に関節が妙な方向に曲がったらしく、顔を引き攣らせて腕を押さえながら七転八倒する。
それを、何か汚いものでも見るかのような目つきで睥睨すると、カシスは逆の手でルナの手首を掴もうとして、
「……」
「な、何……って、へ、いや、ちょ……ッ、きゃあッ?」
何かを思い直して、その細腰に腕を回すと軽々と持ち上げられた。
「うるせぇな。人気のない場所まで運んでやるから静かにしろ」
「じゃあ、注目浴びるようなことすんなッ! っていうか降ろせッ!」
「いいから黙ってろ、爆弾女」
「なッ!!?」
担がれた状態ではろくな反撃も出来ずに。
思いつく限りの罵詈雑言は叩きつけるのだが、それをものともせずに、結局はそのまま近くの小路まで連行されてしまったのである。
人気のあまりない小路。その辺りの住民だと思われる人間が、ちらほらと歩いているだけで、広場とは対照的に極静かだ。
一本隔てたストリートから、遠い喧騒が響いている。
「……ッ、あんたね! いきなり何すんのよ!?」
「ああ? 何が?」
―――何が、じゃないッ!!
思い切り叫ぼうとして、先ほどの眩暈が戻ってくる。何とか踏ん張りながら、飄々とふんぞり返る赤眼を睨み上げた。
「あんなもん、一緒にいるこっちが恥ずかしいのよッ。いらん注目は浴びたくない、ってそりゃあ昔から何度も言ったわよね!?」
「俺としては、なけなしの良心からやったんだがね。大体、お前一人相手じゃあ、子供[ガキ]をおんぶしてんのと変わらねぇ、っての」
「あ・ん・た・ねぇッ!! あたしだってね! これでももう……ッ!!」
怒りに任せて大声を上げてしまった。気がついたときには後の祭り。ふらり、と足元がぐらつく。
―――ッ……
こいつにだけは無様な姿を見せるわけにはいかない。でなければ、また何を言われるか。
しかし、人がせっかく体裁を繕ったにも関わらず。
「お前、阿呆か? その顔だと貧血だろ? 大方、飯でも抜いたか?」
「……」
「どうせ、余計なところまでがりがりに痩せてんだ。これ以上、痩せたら乾いたミイラと変わらなくなるぜ?」
―――殺スッ!
決心して、握り締めた拳を振り上げたというのに。
ぱしッ。
あっさりと、眼前で受け止められる。
「くッ……」
「いつもの威力がないぜぇ? その状態で魔道使おうとした、ってんだから信じらんねぇな。
静電気でも起こすつもりだったのかね」
「あ、あのねぇ……ッ!」
一言どころか、二言も三言も多い口の悪さに、言い返そうと口を開いたとき、
小さく、ルナの虫が鳴いた。
「―――ッ!」
「……ハァ、まあ身体ってのは正直なもんだな」
真っ赤に顔を染めて拳を引く彼女に、嫌味なほどけらけらと笑いながら、拳を受け止めた手を下ろす。その片手を白の上着のポケットに突っ込んだ。
「とりあえず休戦、文句はその辺の飯屋でゆっくり聞いてやるよ。どうだ?」
「……」
余裕の表情で提案する彼に、
どうせ本当に聞くだけで反省は欠片もしないのだ、と知っていながら。
しかし生理現象には抗えるはずもなく、
ルナは顔を赤くしたまま、無言の肯定で返したのだった。
←6へ
あの日から、あの黒い少女が街中を混乱させてからゆうに三日は経っていた。
レンにしてみれば、ルナのことがあって、何日かの滞在が決まったと同時に何らかの襲撃があるものだと覚悟していたのだ。初日、あれだけ派手な歓迎をしてくれたのだ。それなのに、この三日、気を張り詰めるばかりで変わったことは何一つなかった。
カノンもそれには首を捻っていた。シリアやアルティオも右に同じだ。いくら楽天的思考保持者としても、不穏に感じるところはあるのだろう。
ともかくにも、ここ三日、忙しく動いているのはルナだけで、自分たちは思い思いに過ごしてしまっていた。
意味もない焦りが、レンの中には生まれていた。嵐の前の静けさ、というか。まさか、こちらを休ませてやろう、なんて慈悲深い考えではないだろう。
奴らは行く町々で周到な準備をしてくれていた。その"準備"とやらが、この町にはないのだろうか。だとしたら、初日のあれは、危険を感じてこの町を早く出て行かせようという工作……?
いや、そうだとすれば尚更この三日間の間に、然るべき襲撃を受けていて良いはずだ。
ならば、奴らが大人しいのは、何故なのか。
そこでまた思考の壁に会う。
メインストリートから一本はずれた通りで、煉瓦に背を預けながら、疎らな人波を眺めてレンは思考を巡らせる。
―――それとも。
何か、彼らの計画が、どこかで狂ったのか。
この町に着いてからの不確定要素は二つ。一つはラーシャ=フィロ=ソルト、と言ったか、彼らがレンとカノンに祖国の救援を求めて来たこと。一つはもちろん、ルナの旧友であるというあの男と少女。
どちらも偶然とは言い難い。
ラーシャたちはエイロネイアの視覚だと言及する"奴ら"に狙われた自分たちを追って来た。
カシス=エレメントは薬の護衛中だとか言っていたが、その実は違うだろう。現に、彼らが口にした"お使い"をする二つの町のルートからこの街道は、わずかに外れている。
おそらくだが―――彼がルートを変えたのだ。クオノリアで研究が漏れていることに気がついた彼が、その関係者の中にルナの名を見つけ、ここまで探してきた……というところだろう。でなければ、偶然にしては出来すぎている。
―――あの男は、最初からあれを疑ってきた、ということか……。
それならば、一筋縄で説得も出来まい。三日経っても、彼を説得出来ずにいるらしいルナを責められるはずもない。
ただ、彼を味方となった場合、漏れた情報を元に立ち回っている"奴ら"にとっては、裏をかかれる可能性が大きくなるだろう。彼はルナ以上に『月の館』で行われた研究に深く関わっている。
もう一つ、ラーシャとデルタの、シンシア側の人間だという二人が同じ町の中に存在しているという事実が、彼らの行動を抑制しているのだということも考えられる。
どちらが吉となっているのか、はたまたもしくはやはり嵐の前の静けさで、とうに凶が出てしまっているのか。
―――……堂々巡りだな。
答えの出ないと解りきっていることを考えるのは、思いの他、疲れる。
諦めにも似た溜め息をついて、レンは視線を爪先から上げた。
ちょうど、そのとき、だった。
「―――ッ」
人波の中に。
ゆったりとした黒が、浮かんだ気がした。
それはふい、と掻き消えて、一瞬でなくなってしまったけれど。
レンの頭の中に葛藤が生まれる。追うべきか、追わざるべきか。逡巡して―――踏み出しそうになる足を堪える。脳裏に浮かんだのは、ランカース・フィルでのあの罠。
レンはけして正義感のない男ではない。人としての感情も、あまり面に出さないだけで苛立ちと、黒の少年に対する疑惑、疑念は常に持ち続けていた。
だが―――同時に、彼の相棒よりは導火線が長く、なおかつ、切り刻まれた少女の身体を覚えている彼は堪えて足を止めた。
額に脂汗が浮いている。
―――なぜ、今……ッ!
あれは前回のように誘いなのか。もしそうならば、やはり奴は……?
「あれ……?」
「ッ!」
思考のためか、よほど厳しい顔をしていたらしい。振り向いた先にいた少女は、びくん、と肩を震わせた。
それに気がついて、レンは己の情けなさに軽く首を振る。
蜂蜜色の髪とどこかおどおどした榛色の瞳。地味なローブを纏っていて、やや涙目でこちらを見上げている。
……いつも強烈な個性を纏った女にばかり振り回されているせいか、こういった本当のただの少女に対してどう対処するかなど思いつかないのである。
「え、えっと、その……」
「ルナの旧友だったな。すまない、考え事をしていてつい警戒してしまった。気にするな」
「あ、あう、じゃ、じゃあ怒ってるわけじゃないんですね……?」
―――別に怒るような理由はどこにもないだろう……
どうにも苦手意識が働いて、レンは胸中で頭を抱えた。そう考えると、女性に対して、いつでも誰にでも同じ愛想を振り撒けるアルティオは凄いのかもしれない。無論、褒めていないが。
少女はほっとしたように、胸を撫で下ろす。
「えっと、間違ってたらすいません、レンさん、でしたっけ?」
「そうだ。そっちは確かイリーナ、と言ったか」
「あ、名前覚えててくれたんですね」
にこり、と少女は笑顔を向ける。そういえば、宿屋で何度か訪問してくるのを見てはいたが、まともに会話するのは初めてな気がする。カノンやアルティオは比較的、会話をしていたはずだが。
「そういえば、こうやってお話するの初めてですね。ごめんなさい、ろくに挨拶もしなくて」
「気にしなくていい。それはこっちも同じだ」
「今日はどうしたんですか? こんなところで」
「いや……」
別に言い難いわけでもないのだが、レンは答えに詰まる。言い難いというか、おそらく他人には理解出来まい。
「……少し五月蝿くてしつこい虫が出たんでな。あまり人目につくようなところは避けて、考え事をしていただけだ」
「???」
案の定、疑問符を浮かべるイリーナに、レンはもう一度、「気にするな」と口にした。この疲労感は、不死身で頭の中身の足りていない異性に襲われる経験をした者にしか解らない。
「こんなところで、と言うがそちらこそどうかしたのか?」
「あー、お使いです。ちょっと医療系の魔道研究で使う薬の補充に。今度は先輩の」
「あの男か……」
苦笑いするイリーナに、レンは挑発的なオーラを纏う件の魔道技師の男を思い出す。またいいように使われてるな、哀れなものだ、と心の中だけで思うと、彼女はそれを汲み取ったかのように、
「私、今日はお出かけする用事がありましたし。そのついでなんですけど、ちょっと迷っちゃって……この辺のお店なハズなんですけど」
「……」
えへへ、と舌を出す少女にレンは思わず引き締めた顔を潜ませるところだった。
大きな町、といってもこの町は比較的、道も整備され、標識も易しいものである。
「……帝都あたりに行くと完全に迷うな」
「あ、あう、た、確かに一回、上司のお供で行ったとき迷子になって何故か町の外に出ちゃったりしましたけど……」
ぽつりと呟いてしまったレンの言葉に、しどろもどろになりながら、必死で弁明する少女。
その様が思いの他、可笑しくて笑ってしまう。
「まあしかし、あんなとんでもない女を親友にしているのだからな。付き合うのには根性がいるだろう?」
「とんでもない、って、ルナちゃん、ですか?」
他に誰がいる? と問い返す。イリーナは少しだけ悩む素振りを見せると、
「確かにルナちゃん、ときどきホントにハラハラしますけど。でも、私には優しいですよ。
一番の親友ですから。私はルナちゃん大好きです!」
「……」
虚をつかれたように、レンの表情がぴくり、と動く。よもやあの暴走魔道師について、そんな評価を聞く日が来ようとは。
「? どうかしましたか?」
「いや……」
珍しく面食らうレンに、イリーナが首を傾げる。
「……それは本音か?」
「? はい」
「そうか……いや、気にするな。どうしてそう思う?」
「だって、私なんかよりずっと強いし、優秀だし。私はおちこぼれだったけど、それでも熱心に勉強教えてくれて。
私なんかがプロジェクトチームに所属できたのも、ルナちゃんのおかげです。
ちょっと素直じゃなくて、強情だけど」
―――ちょっと、というかかなりな。
つい、出そうになった本音を飲み込んだ。
「レンさん、ルナちゃんとは仲良いんですか?」
「仲が良いかどうかは知らんが……まあ、付き合いが長いことは確かだ。奴とは子供[ガキ]の頃から顔を合わせていたからな。
まあ、奴に対してそんな感想は抱けんが」
イリーナはくすり、と笑う。
「でも、子供の頃からずっと付き合いがある、ってことは悪く思ってるわけじゃないんでしょう?」
「まあ、な……」
「ホントに、ルナちゃんはすごいです。それに比べて―――」
少しだけ、少女は俯いた。眉根をぎゅ、と寄せる。
「それに比べて……。私は、ちっとも強くなんてないし、それに……」
……ズルいんです、私。とても」
「……狡い?」
「だって……」
言っていくうちに言い難くなって来たのか、そのままの渋い顔で小さく俯いた。
しばしの沈黙に、居心地が悪そうに顔をしかめる。別にこしらが何をしたわけでもないのだが、沈んでしまった少女へかける言葉を模索する。
どうしようか、ふと視線を空に投げ、
「……ッ?」
「え?」
小さく声を漏らしたレンに、イリーナも俯かせていた面を上げる。す、と眉を潜めているレンの視線を無意識に追って、
「あ」
声を漏らす。
人の合間から見える影。レンは眉を潜めたまま、無言でやや位置を移動する。つられてイリーナも半歩ほどずれた。
見慣れた羽飾りがふらふらと揺れている。
「ルナちゃん……?」
少女が呟く。小首を傾げているのは、その人物を見てなぜ目の前の男が隠れるような動作をしたのかが不可解だったのだろう。
視線を男から戻して、イリーナはようやく気づく。
「あ、あの人……」
ルナの傍らを歩いている人影に、イリーナも見覚えがあった。確かルナと再会した日も、彼女と共にいた。名前は何だったか。
表情はルナ共々、何だか深刻そうだ。ちょっと声をかけづらくなってしまうくらい。
「……」
レンは眉間の皺を深くする。
栗色の髪と、蒼い瞳。凛、とした雰囲気は人波の中でも目立つ。ラーシャ=フィロ=ソルト。一歩後ろには、生真面目な顔をした、青紫色のローブを引き摺った少年が付いている。彼もまた、表情を強張らせていた。三人は剣呑な表情のまま、何かを論じているようだ。
イリーナには無理だろうが―――
狩人としての訓練を受けたレンの五感は、普通の人のそれよりはるかに優れている。そのレンの耳には、雑踏の中でも、彼女らの声が途切れ途切れに聞こえていた。
レンの表情が、次第に険しくなっていく。
「えっと、その……?」
「すまないな。用事が出来た」
「え? え?」
「ちなみに薬屋ならあんたの目の前だ」
「あ゛……」
二軒向こうの大きな看板を指しながら言うと、イリーナは引き攣り笑いを浮かべて看板を凝視した。
じっとりと汗が浮かぶ。
「あ、えっとぉ……はい、ありがとうございま……?」
お礼と共に振り返ったとき。
そのときにはもう、群青のマントの、寡黙な男の姿はその場所から消えていた。
数刻後。
―――?
メインストリートを縫うように歩いていたカシスは、ふと歩みを止める。
元来、人込みは好きじゃない。というか大嫌いなものの一つに入る。なかなか引かない人の波に苛立っていたために、それに気がつくのに一瞬、遅れた。
目当ての魔道具店―――あのやたらと元気な金髪のお嬢ちゃんと会った店のベルがからん、と鳴って、慌てた様子の店主が何かを掴んで表へ出て来た。
そうして通りの向こうを背伸びして見ると、がっくりと面を落とした。
「……」
同じように通りの向こうを覗き見て、カシスは店主へ歩み寄る。
「おい、どうした?」
「へ? あ、ああ……この間の旦那……。
いえね、今しがた来たお客さんがお忘れ物をなさいまして。そういや、旦那が来なかったかと聞かれましたよ」
「女だな?」
「へぇ、まあ。旦那のお連れさんですか?」
「まあ、似たようなもんだ。で、忘れもんてのは何だ?」
「はぁ、たぶん大したもんじゃないんでしょうが……」
遠慮がちに差し出されたそれを見て、一瞬、眉間に皺を寄せる。
だが、それは一瞬で。カシスは笑みの形へ口角を吊り上げると、店主の手からそれをもぎ取って歩き出した。
苛立ち紛れに広場に出ると、噴水の淵に腰を下ろす。気を抜いた瞬間、どっとした疲れが襲って来た。広場には、屋台や物売りの声と、子供の笑い声が高らかに響いている。
―――まっずいなー……
正午はとっくに回っている。
昨日はあまり眠れなかった上に、今日は朝早くからラーシャと共にディオル邸に赴いていた。そのせいか、軽い眩暈がしている。そうでなくとも、最近はストレスの溜まることが多すぎた。精神的にも参っているのかもしれない。
まずい、と思いながらもお尻に根が生えてしまった。
ディオルは思った以上に手ごわい。ああ言えば、こう言う、すべての答えを最初から用意しているのだろう。考えてみれば当たり前だ、ああいう人間には敵も多いはず。ということは、押し問答は日頃から慣れているということなのだろう。
それでも、ラーシャがエイロネイアの者だというあの黒の少年たちがいる限り、何らかのモーションを起こすものだと思っていたのだ、最初は。
しかし、奴らは初日以来、何の行動も起こさない。ランカース・フィルのときのように、周囲への聞き込みも行ってみたが、以前より周到に姿を隠しているらしい、証言は得られなかった。
―――お先真っ暗……
とりあえず、ラーシャは明日あたりに祖国へ伝令を送ると言っていた。デルタは裏側から調べを進めると言っていた。
最悪は、ルナが政団のつてを使って、何か証拠となるようなものを探すしかないのだろうが、望みはけして高くない。
―――あいつもあいつで……、何考えてるかホントわかんないし……。
カシスのこともそうだ。イリーナにはこの三日間、何だかんだで顔を合わせていたが、カシスとは一回だけ顔を合わせたきりだった。しかも、訪ねていって、相手は出掛けだったらしく、ろくな話も出来なかった。
何を考えているか解らないのは昔からだが、本当に理解できない。
「話くらい、ちゃんと聞かせなさいよ……」
自然と表情が歪む。人の心労を何だと思っているのか。何だか力が入らない。
もう三日だ。これ以上、カノンたちを滞在させて、迷惑をかけるわけにもいかないだろう。ラーシャのことにしても、秘密裏で力を貸しているのだから、限度というものがある。
何から片付ければ良いのか。ルナには、時間がないのだ。
膝に肘をついて、頬杖をついたまま瞑目する。噴水の端だというのに、このまま眠ってしまいそうだ。
その彼女を揺り起こしたのは、存外に粗暴な声だった。
「よう、ねぇちゃん、一人かい」
「……」
―――まったく、こっちが参ってるってのに空気読まないってか読めないってか、人の纏ってる雰囲気くらい察してきなさいよ、朴念仁。
いろいろと悪態を吐きながら目を開く。
金髪に、入ったメッシュはド派手なピンク。纏った服は黒を基調としているものの、派手な印象を受ける男。軽薄なオーラ、にやけた笑みはどう見ても偽物。まあ、ちょっとは顔のいいチンピラと大差はない。
「……何よ?」
「怖い顔すんなよ。そんなシケた面しない方が可愛いよ、あんた。
なあ、気分悪いなら俺らと飲まねぇか? あっちで仲間も待ってるしさ」
カワイイ云々はともかく、どうしてそこに繋がるのかが解らない。視線を傾けると、ガーデン式の酒場で昼間から樽酒をかっ喰らう男たちの姿が目に入った。
―――……なるほど、ある程度、顔のいい男で女の子釣るのね。
嫌に冷めた思考が、そんな答えを導き出す。
溜め息が漏れた。ルナは無言で立ち上がって、男の側をすり抜けようとする。無視を決め込んだ彼女の手を、ぱしっと男が掴んだ。
汗ばんだ、気持ちの悪い感触に怖気が立った。
「何だよ、シカトすんなよ」
「……」
気色の悪い猫なで声を発してくる男を、力いっぱい睨みつける。無言の圧力も手伝って、男は怯むが手を離そうとはしなかった。
それどころか、一層力を込めて握ってくる。
「……ッ!」
「なあ、素直になろうぜー? あんただってそんな顔してたんだ、鬱憤晴らしたいだろ?」
たとえ素直になったところで、あんたらと酒の席を一緒にしようとは思わない。
生憎、気が長い方ではないのだ。怒鳴るか、それでもやめないようなら、軽い術で地に沈んでもらおう。
「ちょっと……、調子に乗るんじゃ……ッ!?」
声を張り上げたときだった。
ぐらり、と体が傾いで、目の前が暗くなる。足の力が抜けて、その拍子に男は腕を無理矢理に引いた。
―――く……ッ!
「何だ。 その気じゃんか」
―――そんな、わけ……ッ!
にやついた笑みを睨みつけるも、足の力が戻ってくれない。仕方がない、と無理に口の中で呪を唱え始める。
が、
「おいおい、ちょいと待て、そこのガキ」
「あぁッ? ッ、て、いでででッ!?」
「!?」
唐突に、握られていた腕が自由になる。驚いて顔を上げると、今しがたルナの腕を押さえていた男の腕が、逆に捻り挙げられていた。
その手首を捉えているのは、日に焼けた男の手とは真逆に、異様なまでに白かった。
す、と細められた緋色の瞳が、こちらを射抜いてきた。
「カシス……?」
―――どうしてここに?
眉を潜めるルナから視線を逸らし、彼は目の前の男を見下ろした。もともとつり目気味な、彼の切れ長の目は、それだけで威圧になるようで、男はひッ、と短い悲鳴を上げる。
「さて、その女にどんな用だ?」
「ハァ? あ、あんたにゃカンケーないだろ……」
「ああ? そうか?」
にやり、と嫌な笑いを浮かべて彼は振り返る。
「なあ、ルナ。俺は関係ないそうだが、どうだ?」
「……な、わけないでしょ」
飄々と言ってのける奴を睨み返す。ここで下手に言い澱んだりすれば、こっちがいくら力が入らなかろうと奴は自分を見捨てる。そういう最低なことを平気でする男だ、彼は。
「だ、そうだ。お前の出番はないとよ。大人しく消えな」
「な、なん……ッ!?」
男はなお、何かを言い募ろうとする。カシスはそれに、すっ、と大きく息を吸い込んだ。
……思えば、このときから嫌な予感はしていたのである。既に。
ただ、久しぶりすぎて、この男の歪んだ感性を忘れていただけで。
「やかましいんだよ、(差別用語)がッ!! 引き際ってもんを弁えろ、(放送禁止用語)て(暴力的表現)されてぇか、あぁッ!?」
ドスの効いた声に、広場に集まっていた町人たちが思わず歩みを止める。ルナはその場で頭を抱えた。先ほどとは異なる眩暈に襲われた。
―――真っ昼間の天下の往来で、何を口走ってくれやがんだ、この男。
ああ、突き刺さる周囲の視線がどうしようもなく痛い。
視線を上げると、男はぽかん、と口を開けたまま茫然と脂汗を流している。あれは自分が何を言われたのか解っていない顔だ。無理もない。昼間の往来でこんな罵詈雑言を揚げてくれるような人間、他にいるものか。
何も言わない、というか言えないでいる男の腕を、彼は乱暴に振り捨てた。
「っあ、あ、ぃひゃぁぁぁぁぁあッ!?」
拍子に関節が妙な方向に曲がったらしく、顔を引き攣らせて腕を押さえながら七転八倒する。
それを、何か汚いものでも見るかのような目つきで睥睨すると、カシスは逆の手でルナの手首を掴もうとして、
「……」
「な、何……って、へ、いや、ちょ……ッ、きゃあッ?」
何かを思い直して、その細腰に腕を回すと軽々と持ち上げられた。
「うるせぇな。人気のない場所まで運んでやるから静かにしろ」
「じゃあ、注目浴びるようなことすんなッ! っていうか降ろせッ!」
「いいから黙ってろ、爆弾女」
「なッ!!?」
担がれた状態ではろくな反撃も出来ずに。
思いつく限りの罵詈雑言は叩きつけるのだが、それをものともせずに、結局はそのまま近くの小路まで連行されてしまったのである。
人気のあまりない小路。その辺りの住民だと思われる人間が、ちらほらと歩いているだけで、広場とは対照的に極静かだ。
一本隔てたストリートから、遠い喧騒が響いている。
「……ッ、あんたね! いきなり何すんのよ!?」
「ああ? 何が?」
―――何が、じゃないッ!!
思い切り叫ぼうとして、先ほどの眩暈が戻ってくる。何とか踏ん張りながら、飄々とふんぞり返る赤眼を睨み上げた。
「あんなもん、一緒にいるこっちが恥ずかしいのよッ。いらん注目は浴びたくない、ってそりゃあ昔から何度も言ったわよね!?」
「俺としては、なけなしの良心からやったんだがね。大体、お前一人相手じゃあ、子供[ガキ]をおんぶしてんのと変わらねぇ、っての」
「あ・ん・た・ねぇッ!! あたしだってね! これでももう……ッ!!」
怒りに任せて大声を上げてしまった。気がついたときには後の祭り。ふらり、と足元がぐらつく。
―――ッ……
こいつにだけは無様な姿を見せるわけにはいかない。でなければ、また何を言われるか。
しかし、人がせっかく体裁を繕ったにも関わらず。
「お前、阿呆か? その顔だと貧血だろ? 大方、飯でも抜いたか?」
「……」
「どうせ、余計なところまでがりがりに痩せてんだ。これ以上、痩せたら乾いたミイラと変わらなくなるぜ?」
―――殺スッ!
決心して、握り締めた拳を振り上げたというのに。
ぱしッ。
あっさりと、眼前で受け止められる。
「くッ……」
「いつもの威力がないぜぇ? その状態で魔道使おうとした、ってんだから信じらんねぇな。
静電気でも起こすつもりだったのかね」
「あ、あのねぇ……ッ!」
一言どころか、二言も三言も多い口の悪さに、言い返そうと口を開いたとき、
小さく、ルナの虫が鳴いた。
「―――ッ!」
「……ハァ、まあ身体ってのは正直なもんだな」
真っ赤に顔を染めて拳を引く彼女に、嫌味なほどけらけらと笑いながら、拳を受け止めた手を下ろす。その片手を白の上着のポケットに突っ込んだ。
「とりあえず休戦、文句はその辺の飯屋でゆっくり聞いてやるよ。どうだ?」
「……」
余裕の表情で提案する彼に、
どうせ本当に聞くだけで反省は欠片もしないのだ、と知っていながら。
しかし生理現象には抗えるはずもなく、
ルナは顔を赤くしたまま、無言の肯定で返したのだった。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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THE First:降魔への序曲
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
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