「……目的をはっきりさせましょう」
重苦しい沈黙に、しっかりと腰を据えて。
沈黙が造り出す重たさに、気圧されぬよう拳を固めて、カノンは立ち上がる。
膝の上で小さく手を組んでいたシェイリーンは、その気配に顔を上げる。ティルスとレスター、ヴァレスも細い目を彼女に向ける。
カノンは頬にかかった金の髪を払う。そうして、しっかりと碧い眼を見開いた。
「そっちの目的はあくまで和平条約の締結。でも、内部からも、当然外部からも圧力がかかってる。
このままじゃ身動きが取れない。それはいいわね?」
「そうです……」
「このままじゃとてもじゃないけど和平なんか結べないわ。
となれば、やらなくちゃいけないのは二点。
一つは、議会内の説得。あるいは権力の獲得。でも、これはあたしたちの本分じゃないし、この国にとっては余所者のあたしたちが何とか出来るようなもんじゃないわ。
シェイリーンの発言権を高めないとどうしようもない。
けど、もう一つ。
これが実現すれば、議会内でも発言権は高められるかもしれない」
「と、言いますと?」
ティルスが疑わしい目付きで彼女を見る。軍人ではない彼女が、何を説くつもりなのか、値踏みしている目だった。
それを真っ向から受け止めて、彼女は言う。
「エイロネイアとの戦力の拮抗を測ること」
ティルスは眉間に皺を寄せる。出来るものならとっくにやっている、という顔だ。
「まあ、待ちなさいよ。
軍人サンの方がこういうことは本分なんでしょうけど、言わせてもらうわ。
和平条約を結ぶ条件、ってのはいくつかあるわ。
大昔の大戦に倣うなら、ある国との他の国から戦争をしかけられた場合。でもこれは当てはまらない。
もしくは致命的な内部分裂を生んでしまった場合。これはシンシアに当てはまる。でも向こうさんには当てはまらない。その状態で和平を頼み込んでも、向こうには何の利益もないからむしろ好機と攻め込まれるのがオチ。
敵軍の戦力が自分の国を遥かに上回っている場合もこれに同じ。
……もう一つ。
お互いに戦力が拮抗していて、消耗戦にしかなりえない場合」
「それは……」
「ゼルゼイルはそんなに肥沃の土地でもないわよね? 海を隔てた土地で、西帝国も東大陸も、正式には援助なんかしていない。
消耗戦になれば、不毛な点がいくつも出てくる。
可能性があるとしたら、これしかないわ。
この状況を造り出すには、互いの戦力が常に拮抗していなければならない。
でも、逆に言えばよ。今の絶望的な戦力差を埋めることが出来れば、要するに戦果を上げることが出来れば、シェイリーンの議会での発言力も増すだろうし、和平とまではいかないかもしれないけど、あちらさんだって戦争を停止する理由にはなるわ」
「それは、そうですが……」
そんなことは解っている。言外にそう含んでティルスは言い募る。カノンはさらに言葉を重ねた。
「このとき、間違っても相手の戦力を大幅に上回っては駄目。シンシアの、国内、議会内ののタカ派を煽る結果にしかならないわ。
あくまでぎりぎりのところの戦力比を保つ。そうすれば、議会内にも、エイロネイアにも戦争停止を訴えるきっかけにはなる。
まあ、いきなり和平ってのは難しいだろうけど、シェイリーン様。貴方の目的は、とりあえず今の戦争を止めたいと、そういうことなんでしょ?」
「ええ、それはまあ……」
「だったら、あとは政治手腕の問題。それをあたしたちにどうこうすることは出来ないけど。
戦争を停止して、今まで戦争に回していた費用やら人件やらを国交にでも回せば、いろいろと事情は変わってくるでしょうよ。帝国でも味方につければ、万々歳ね。
その世代のことは解らないけど、ともかくそういう筋書きを描くなら、必要なのは戦力拮抗。
で、拮抗をどうやって導くか。
これもまた二通りの方法がある」
「……自分たちの戦力増強、もしくは敵陣の戦力減弱、ですね?」
カノンの提唱に、ヴァレスがふむ、と頷きながら答える。カノンはそれに頷き返した。対して、ティルスは憂鬱の溜め息を漏らした。
「で、それをどうやってやるんですか?
言って置きますが、シンシアに余計な戦力はありません。先ほど、ご説明した通り、今の戦力で相手の戦力を削げるとも思えません」
「何で?」
「ですから……」
「要求されているのはあくまで拮抗。相手の戦力を上回れ、なんて言っていないわ。
戦力を上回ろうとするなら、真似事じゃ無理。でも拮抗が目的なら、何も、こっちがやるのは二番煎じで構わないのよ」
「!?」
ティルスの眼鏡を弄くる所作が止まった。耳慣れない、信じ難い言葉を聞いた気がした。
それはラーシャもデルタも、またシェイリーンやレスターも同じだった。ライラは終始、無表情だがヴァレスは興味深げに息を吐いて、薄っすらと笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと待てカノン!」
慌てて彼女の言葉を止めたのはアルティオだった。
「お前、冗談だろ!? 自分が何言ってるか解ってるのか!?
二番煎じ、って! 違法者狩りのお前が、死術[ヴァン]の力を力を使おう、ってのか!?」
それはありえない矛盾だった。
違法者狩りの任を請け負っていた彼女が、その違法者の元凶である死術[ヴァン]を利用する。そんなことがあっていいものか。 彼女は、しばらくだけ瞑目する。
「別に死術[ヴァン]を使おう、ってわけじゃないわ。
そもそもその死術[ヴァン]は、このゼルゼイルの伝説や伝承を元に創られた、もしくはこの地に残っていた死術[ヴァン]が解放されたものと推測出来るんでしょう?
後者ならあたしたちの本分、前者なら……」
ふむ、と頷いて立ち上がったのはルナだった。
「やるしか、なさそうね……」
「ルナ殿?」
「ゼルゼイルの伝承ってのはね、大陸魔道師の造詣はあまり深くないわ。でも、あたしはいくつか知ってる。
……あの馬鹿が、昔話して、残していったからね。
伝承、伝説を元に戦争の道具を創った。なら、それは何千、何万年前かもその元となる術や呪法は作動していた。にもかかわらず、現代では片鱗しか残されていない。
―――ってことは、伝説には付き物の『何者かに封印されて』、『何かに相殺されて』、っていう節が伝承にあるはず。そこを探れば、弱点が着ける」
「しかし、そんなに簡単に……ッ!」
「簡単にはいかないわ。でもやってみる価値は十分にある。
……それに、突き詰めれば、本当にエイロネイアと同じ手になるかもしれないけど―――。
伝承・伝説から何かの武具や魔道具なんかを生成、もしくは発掘でもいい。そういうことが可能なら、十分利用出来る。
そうぽこぽことは見つからないと思うかもしれないけど、『月の館』の大陸魔道師として言わせてもらえば、一般的にそういったものが見つからないとされるのは、上の連中が秘密裏に処理してるからよ。
でも、ここに魔道師の上、なんてものは存在しない。けれど、ゼルゼイルにはまだまだ眠った魔道的な伝承が幾つもあるはず。 だからこそ、エイロネイアは半年でここまでの戦力を作り上げることが出来たんでしょう?
シンシア領内にだって、手付かずのそういう伝承上の怪しい場所は存在する。
……やってみる価値はあるわ」
「伝説、伝承を洗い出し、対抗策を模索する。
……それが成功すれば、エイロネイアへの対抗策が練られると同時に、新しい戦力が手に入る」
茫然と、シェイリーンが反芻する。同時にぎゅ、と拳を握り、
「でも、でも、それは本当に正しいことなんでしょうか……?
死人や、獣を操って、人を冒涜する、エイロネイアと、同じにならないと、言えるのでしょうか……?」
不安げに、紡ぐ。
二番煎じ、それは二の舞にも通じてしまう言葉。一歩間違えれば、いや、その思想をすること自体が、自分たちが非難するエイロネイアと同じことをしてしまう結果になるのではないか―――。
カノンは一瞬だけ、逡巡する。
だが、すぐに口を開いた。
「……確かに、利用するものは同じ。やることも同じ。
強い力を利用する、っていう点では、目的が違うだけでやってることはエイロネイアと同じなのかもしれないわ。
強い力を利用するのも狂気。……かつて、その狂気を狩るために、強い力を求めたあたしたちも、同じく狂気なのかもしれない」
カノンの言葉に、レンは腕を組んだまま、渋い顔で床を見る。そこにある感情がどんなものかは、図ることが出来ない。
「罵られてもいい。あたしも所詮は、強い力に溺れた一人なんだ、って。
でも、でも、それで救えたものがあるんだ、ってあたしは信じてる。たった一人の人間でも、救うことが出来たんだ、って信じてる。
このまま戦争が続いたらどうなの?
命は数量じゃ計れないけど、でも、何人が死ぬの?
あんたはそれが見たく無いから、和平を結びたいんじゃないの?
……力は強さだけが問題なんじゃない。そりゃ、強い力なんかない方がきっと幸せよ。無駄な戦いに巻き込まれたりしないし、謂れのない中傷を受けたりもしないし、戦争なんか起きないわ。
でも、それはきっと人間がいる限り不可能ね。
なら、一番大事なのはその力をどう使うか。どう守るか―――じゃないの?
シンシア領にある伝承の種がエイロネイアに渡ったら―――
このまま、歪んで生み出されたモノが戦争の道具に使われ続けたら―――
どうなるのか、あんたはあたしたちよりずっとよく知ってるでしょう?」
誰もが、シェイリーンのを"あんた"呼ばわりしているカノンを責めなかった。
彼女は決断を迫っているのだ。
新しい風は、シェイリーンが直々に求めたもののはずだった。その新しい風が、提唱したとんでもない策。
一歩間違えれば、とんでもないことになるかもしれない。エイロネイアを非難する資格さえ、失うかもしれない。
けれど。
その汚れた痛みを知らずして、一体何が救えるというのか。
目の前のカノンという少女は、たった一人の人間を救ったと言った。シェイリーンはその何倍もの人間を救わなければいけない立場にいた。
だから、彼女はカノンよりも、何十倍も心を痛めなくては、ならないのだ。
ならば―――
シェイリーンは大きく息を吸った。瞑目した瞳が、決意に染まる。そして不意に面を上げて、アメシストの瞳をかっと見開いた。
「……解りました」
ラーシャが、デルタが、ティルスが、レスターが、固唾を飲み込んだ。
「ティルス、レスター。至急、魔道部隊の隊長クラスを集めてください。私では、ゼルゼイルの魔道的伝承をカバーすることは出来ません。皆の協力を得なくては」
「はっ」
ティルスが最敬礼を構える。レスターも椅子から立ち上がると右に倣った。
「ラーシャ、準備が整うまでの前線指揮は任せます。これ以上、南方との境界線を譲るわけにはいきません」
「はっ」
「それと、ルナ様」
シェイリーンが立ち上がったままだったルナへ目をやる。
「どうやら貴方は、そちらの魔道学において、かなりの造詣が深い方のようです。
……願わくば、こちらの魔道師陣に、その手腕、授けていただけますか?」
「……私のような未熟者の腕でよろしいなら、ぜひ」
「でも、いいの、ルナ?」
傍らからシリアが横槍を入れる。
「伝承を集めて、それを戦争に使う―――シンシア側で。
それって、つまり、」
「いいのよ」
ルナは皆まで言わせなかった。
シンシア側で、エイロネイアと同じ策を実行する。その中心に身を置く。それはつまり―――
エイロネイアと、敵側の魔道師であるカシスと、真っ向から対決するということだ。
彼女は重い息を吐き出す。だが、それは憂鬱ではなく、小さな決意の前戯だった。
「―――覚悟は、決めてる。闇雲に会いに行ったって、あいつは人の話なんかこれっぽっちも聞きやしないわ。
だったら―――同じ土俵に上がる。それだけよ」
「……そう。だったら、何も言うことはないわね」
がたん、と椅子を蹴飛ばして彼女もまた立ち上がった。
「なら、さっさと手をつけましょう! さっさとあのお坊ちゃんの鼻の頭を明かしてやらないと、私は腹の虫が治まらないわ」
「同じく! 上等だ! 死人だろうが獣だろうが、敵じゃあねぇぜ! 返り討ちだぁ!!」
興奮気味のアルティオが双剣を担いで立ち上がる。
カノンはそれに呆れた息を吐いた。本当にもう、うちの連中はどうしてこう、揃いも揃って馬鹿ばかりなんだろうと。
息を吐いて。
相棒の姿を目に留める。
同じように、立ち上がった連中へ呆れた視線を送りながら、だがしかし、口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
「本当に、頼もしい方々ですね」
くすくすと、笑いながらシェイリーンは口にする。ラーシャが同意するように微笑んだ。
ルナがふと、てきぱきと書類を用意し始めていたティルスに目を止める。
「ちょっと聞きたいんだけど―――」
「?」
「シンシア領の、遺跡だの何だのまで描かれた地図、ってある?」
「ええ、御座いますが。何か?」
「ルナ?」
唐突な申し出に、カノンは首を傾げた。伝承を調べる、ということはそういう場所も調べなくてはならないだろう。
その土地の伝承を把握するのに、歴史的な遺跡や遺物を探索するのは定石だ。
けれど、彼女の問うたその言葉は、何か別の意図があったような気がした。
ティルスが棚の後ろから引きずり出した、古びた地図を受け取ったルナは、こちらに―――カノンとレンへ振り返って、視線を寄こす。
「ルナ?」
「……伝承と死術[ヴァン]を机上で調べるのなら、軍内の魔道師にも出来る。
だから、カノン、レン。一つ、提案があるんだけど……」
その地図を広げながら。
決意を秘めた魔道師は、緑青の瞳を上げた。
がらがっしゃん!
「……」
背後から聞こえた粗暴な音に、カシスの額に血管が浮く。
その音にも、目の前でぐにゃりと曲がってしまった、たった今細工していた魔道具の基となるはずだったバングルにも。
その元凶にも、勿論。
砦の最奥にある、大して広くもない部屋に物が詰め込まれているのだ。背後にある惨状を想像するのは難くなく。
背後で聞こえる「いつつ……」という声にも振り向かない。彼は机上に上げていた、膨大な数の蔵書中でも、もっとも重そうなものを手に取った。
「こんの……くそガキがぁッ!!」
どすッ!! ばささッ!!
分厚い本の角はそれだけで凶器になる。にも関わらず、遠慮も何もなく放った蔵書は、放物線を描いて、その場にへたり込んでいた少年の、薄炎色の頭にクリーンヒットした。
凶器紛いの塊から受けた痛みに、エノはたまらずに蹲る。蹲るが、頭を押さえながら上げた顔は、カシスに負けず劣らずの怒りの形相だった。
「いってぇな! 何しやがるんだ、若年寄りッ!!」
「黙りやがれこのくそガキ、この髪は生まれつきだッ! 俺のいる部屋でがたがた騒ぐんじゃねぇって何度言ったら理解出来る、低脳がッ!! そこら辺のモンやたら滅多に触るんじゃねぇ、てめぇの一生分の給料の何倍すると思ってんだ、あァッ!?」
耳を劈くような柄の悪い声を上げて、カシスは少年の胸倉を掴み上げる。エノは目を血走らせながら、それを睨み返し、ぶら下げられた状態で拳を握った。
だが、固められた拳が、その威力を発揮するよりも早く、乾いた拍手が二度、鳴った。それは賞賛ではなく、人を諫めるためのものだ。
その手の持ち主が誰か、真っ先に勘付いたエノは握っていた拳を解いた。カシスは忌々しげな目をドアへと投げる。
「はいはい、そこまで。暴力沙汰は許可してないよ、二人共」
ドアの向こうの、廊下の闇を背にして、黒衣を纏った少年が呆れた視線を向けている。腰元にしがみ付いた黒髪の少女は、脅えるような、しかし非難の眼差しを投げている。
カシスはその姿に舌打ちをすると、どさり、と吊り下げていたエノを床へと解放する。
尻餅をついたエノはわたわたと空を掻いて、少年の元に行く。傍らの少女と同じく、その背に隠れて、カシスを睨みながら、うーッ! と威嚇のような声を上げた。
「犬か」
「ンだとてめーッ!」
「エノ、少しは感情をコントロールすることを覚えなさい。カシスも。無駄に煽るのはやめてくれ。
……まったく、何で君たちはこう上手くやれないんだろうねぇ」
「冗談言うな、皇太子。どんな人間にも相性がある。俺にはどうもそこの、原始人のガキの行動が信じらんなくてね」
カシスは溜め息を吐くと、彼によって撒き散らされた工具の山に座り込む。歪んでしまった幾つかの細工物を手にとって、大仰に二度目の溜め息を吐いて首を振った。
常人から見たそれはガラクタにしか見えない。が、彼にとっては宝を造り出すための礎だ。それを理解できる人間は、あまりに少ないのだけれど。
皇太子と呼ばれる黒の少年は、似たような溜め息を吐く。
「エノ。何度も言うようだけど、彼はエイロネイアにとって貴重なブレーンであり、協力者だ。
あまり邪魔しないように」
「だって……ッ!」
「彼の研究はそのままエイロネイアの戦果に結びつく。逆に言えば、彼の研究が遅延すればするほど、戦力が低下する恐れがある。
……君は、エイロネイアの邪魔をしたいわけじゃないだろう?」
「……ッ!」
さらりと向けられた正論に、反する術を彼が持っているはずもない。
納得のいかない顔で、唇を尖らせながらも、押し黙ってしまった頭を皇太子はぽんぽん、と二度叩く。
「少し頭を冷やしておいで。そろそろ食事の時間だから、先に食堂に行っていなさい。
僕は少し彼と話がある」
少年は『食事』の一言にぱっ、と顔を上げた。うんうんと頷くと、先ほどまでの遺恨が嘘のように軽快に廊下へと向かう。
慌しい足音を聞きながら、部屋の主はけっと唾を吐き出した。
「何だかんだでメシか。ガキ丸出しだ」
「子供がぐずるときは決まって眠いときか、お腹が空いているときだよ。大して難しいものじゃない。
僕からすれば、君の方が余程扱いづらい」
「だったらさっさと手を切るか?」
「冗談。何のために膨大な軍費を君に渡してると思う?」
はっ、と嘲笑うように吐き出すと、カシスはデスクへ戻る。普通だったら火気厳禁の場所だが、彼は平気な顔で煙草を取り出した。きな臭さが鼻をつく。
加えて火をつけて、紫煙が昇るよりも先に、皇太子は口を開く。
「朗報だよ。シンシアの魔道師勢が動き出したようだ」
「へぇ?」
煙草を加えたカシスの口元が、笑みの形につり上がる。
「で、目的は何だ?」
「君が睨んだ通り。シンシアもゼルゼイル内の魔道書に着手したようだね。おそらく、目的はこちらと同じだよ」
ふーっ、と細い紫煙が吐き出される。煙たい匂いに、皇太子は僅かに顔を顰めたが、彼がそれに気を使うことはなかった。
「まぁなぁ……。その程度の発想はするよなぁ?
シンシアも結局は同じ穴のムジナ、ってことか。世の中綺麗事で収まりなんぞつかねぇもんなぁ?
ましてや、指揮が取れそうな魔道師を手に入れられたら尚更だ。くっくっく、あいつめ、俺と全面戦争する腹積もりか」
「たぶんね。まあ、戦争にまで持っていくのか疑問だけど」
「そりゃあ、そうだろう。シェイリーン=ラタトスはご丁寧にも、和平をお題目に掲げてる。戦力を上回ろう、なんて考えちゃあいねぇさ。せいぜい、あちら側は二番煎じで十分目的が果せるんだ」
「……正攻法なら、それでもいいんだろう。でも、それじゃ駄目なんだ、それじゃあ……」
少年は細い顎に指を乗せる。「それじゃあ駄目だ」と繰り返し唱えながら、何事か思考する。
「……ルナ=ディスナーは、本当に君の思った通りの行動に出ると思う?」
「十中八九。まあ、元々あいつはインドアよりアウトドア派の魔道師だからな。全部、机上で済まそうとはしねぇはずだ。
ましてや違法者狩りなんてものがいれば、死術[ヴァン]の発想は絶対にする。
だったら、何を起こすか読むのは簡単だ」
「けれど、もし彼女がシンシア領の探索に乗り出したとしても、だ。
その護衛にヴェッセルとザインが就く、というのは些か早計じゃないかい?」
「さて、そりゃあどうかな?
軍隊内じゃあ、そんな早急に護衛なんぞ付けられねぇ。けど、事は急を要する。だったら仲間内から護衛を引っ張るさ。だったら、ベストなのは違法者狩りなんて経験持ってる奴を連れていくだろ。
さすがに二人共引っ張っていくかは知らんがな。
けど、あいつらはタッグ組みだろ? 戦い方を見りゃ解る。揃って戦ったときが一番、ベストの状態だ。だったら、普通の司令官なら組ませるさ」
「まあ、確かにそうだけど……」
ふむ、と声を漏らして皇太子は頷く。しばし、思案してぼそぼそと独り言を繰り返すと、大きく息を吐き出した。
「……解った。その筋で行こう。
一応、保険はかけておくけどね。シンシア内部の諜報員に連絡を取っておくよ」
「おいおい、ちょいと面倒な事態にならねぇか?」
「大丈夫だよ。どうにしろ、今の内部員もそろそろ潮時だ。引き際だね。最後に一仕事してもらう、くらいに考えればいい」
「尻尾切りか。くっくっく、怖ぇ怖ぇ……」
「人聞きの悪い事は言わないでくれるかな。最善手があれば、それに帰順する。限った話じゃないよ。
それより、例の準備は終わってる?」
問い返されて、カシスはふと笑いを止める。毒々しい赤い眼をきろり、と動かしてやや斜めの壁を見た。形の良い顎でくい、と指す。
少年はそれに従って、彼の指す壁際に視線を向ける。
一振りの、剣が掲げられていた。
長さ、重量、共にバスタード並に見受けられる。刃は銀の鞘に閉ざされて、けして明るくない照明を紫に照り返す宝石を中心に、銀の蔦がすらりと伸びた柄に絡まっている。
重量を感じさせる沈んだ輝き。触れれば、そのまま指先が凍りついてしまうのではないかと、錯覚さえ覚えそうな。
視線で触れても大丈夫か、と問いかけると、「まだ起動させてない」という返答が返って来た。良い、ということだ。
少年は剣の柄に手を伸ばす。どっしりとした重みが手にかかった。柄と、鞘とを支えて、壁から降ろす。不釣合いな重さに、少しだけふらついた。
「……結構、重いね」
「そっちの方が都合が良いと思ったからな。遠慮なくやらせてもらった」
「ああ、そうかもね。いい出来だ」
「ったりまえだ、俺を誰だと思ってやがる」
青年の悪態に、皇太子はふ、と満足げに笑みを浮かべた。紫の、妖気を放つ柄を撫でると、ひやりとした感触が指先を走る。
「あー、いたいた。殿下ー……って、薬臭!
ちょっと、どうにかならないの、この部屋ッ」
呼ばれると同時に文句が飛んで来る。振り返ると、ドアの側に装飾を貼り付けた白い軍服の男と、紺のローブを纏った栗色の髪の女が立っていて、共に鼻を抑えていた。
その来客に、カシスは天井を仰いで舌を打つ。
「え、エレメント中尉~……。こんなところでよく平気ですね……」
「カシスー、貴方そのうち中毒になるわよ。というよりもうなってるんじゃない?」
「余計なお世話だカマじじぃ。それと引っ込んでろ厚化粧」
「はぁッ!? あんた、今、言ってはならないことを言ったわねーッ! 表に出なさいこの若白髪ッ!!」
「ああもう……ッ。 カシスッ! 誰彼構わず、喧嘩は売らない。エリシアは買わないッ。
頼むからこれ以上、僕の頭痛の種を増やさないでくれ」
包帯の巻かれた額を抑えながら、覇気のない声で叱り飛ばす。さすがに彼にまで文句を垂れる気はないらしく、エリシアはふん、と鼻を鳴らしながらも腕を組んで黙す。
リーゼリアは何か言いたげだったが、皇太子の手前、我慢することを選んだらしい。両手で自らの唇を押さえていた。
「それで、二人共、僕に何か用?」
「え、ええと……あの、港の警備体制のランクを下げたことと……。
あと、あの、殿下当てに帝都から通達が……」
「通達? 誰から?」
「陛下からよ」
「…………ああ」
言われて彼は、すぐにはその意を解することが出来なかったらしい。陛下。現エイロネイア皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア。
つまりは、彼の父親だ。
しかし、答えた彼の声は甚だ無感情な相槌だった。
「大陸から帰って来て、帝都には行かないで直接こっちまで来たんですって? お仕事熱心なのはいいけれど、親子のコミュニケーションが足りてないんじゃなぁい?
陛下、寂しがってるんじゃないの?」
「寂しがる? あの人が?」
エリシアの言葉に、彼は小さく笑った。心底、可笑しそうに。それでいて、何故か少しだけ自嘲めいて。
「……冗談。あの人にそんな高尚な感情はないさ。
大方、新しい種馬でも見つけたんだろうよ。適当にあしらって置いてくれ。僕はどうも、貴族間の性欲と野心旺盛なご婦人方は苦手でね」
「あらあら、陛下も報われないこと。早く孫の顔が見たいんじゃないの?」
「かもね。自分が生きているうちに、自分の遺伝子が受け継がれた証が見たいんだろうさ」
「殿下……そんなこと」
「……」
リーゼリアが居た堪れない表情で、何かを口にする。だが、それは言葉にはならなかった。
表情こそ変えないが、彼の腰元に張り付いたシャルも、哀れむように、くん、と彼の袖を引いた。笑いを漏らした彼は、優しく彼女の頭を撫でる。
「くすっ……大丈夫。ちゃんと半分くらいは冗談だ。
まあ、でも今すぐには戻れないよ。これから、ちょっと大仕事がある」
「大仕事?」
リーゼリアはこくん、と首を傾げたが、エリシアはひゅう、と口笛を吹いて、彼の手にある剣を、そしてカシスを見た。
もっとも、カシスはそれに答えることなどせずに、ふと気がついたように近くの棚を漁り始める。
さして間を置かず、人の頭ほどの大きさをした紙袋を取り出した。その袋の大きさに、エリシアがぴくり、と反応する。
ふと気がついた皇太子が、袋を受け取ると、がさりと音がした。
「まあ一応、一ヶ月分だ。いつもと同じだな。中にそいつの使用書も入ってる。好きにしろ」
「……ありがとう。助かるよ」
言葉では例を述べているのに、その声は何故だかひどく無機質だった。心配の二文字を顔に張り付かせたシャルが、もう一度、彼の服の裾を引いた。
今度は、彼は小さく首を振るだけだった。
彼は剣を両手で支えながら、袋を腰に吊り下げた。その場にいた三人の顔を見回して、頷く。
「……君たちは僕の代わりに一度、帝都に帰還してくれ。アリッシュにはこれからの動きのことを伝えてあるから問題ない」
「あの人、最近音沙汰ないけど。大丈夫なんでしょうねぇ……」
「大丈夫。それは古い付き合いの君が一番、よく知っているだろう? 彼のことだ。いろいろと事後処理をしてくれているんだと思うよ。
心配はいらない。帝都に戻ったら歓迎の準備をして置いてくれ」
「歓迎……?」
「はーい、殿下ぁ。いってらしゃーい」
リーゼリアの訝しげな声と、エリシアの軽快な声に見送られて、かの皇太子は意味ありげな微笑みだけを残し、一振りの重厚な剣を抱えたまま部屋を後にする。シャルと呼ばれる少女も、無感情な顔を下げた後、いつものようにその背を追って行った。
リーゼリアは密かにそれに舌を出して、異性のくせに金の髪のやたらと美人な同僚を見上げた。
「エリシア様ー? ロレン様の言ってた『歓迎』、って何のことですかぁ?」
「あァ? てめぇ、何も聞いてねぇのか?」
「はい? エレメント中尉もご存知なんですか?」
「あらあら、リーゼちゃんてば遅れてるわねぇ。駄目よー、年頃の女の子なら速攻で流行を追わないと」
「それとこれとは関係ないですし、余計なお世話です。何の話なんですか?」
自分だけ置いていかれたような気がして、少しむっとしながらリーゼリアが言う。エリシアはそれに笑みを返す。微笑みではない。朱を引いた唇の端を吊り上げて、何かを含んだような、楽しむかのような、嘲り笑い。
くっくっく、と耳慣れてしまった不気味な笑いがその背後から漏れる。
どうやら彼らにとっては、余程愉快なことらしいが、リーゼリアは首を傾げるばかりだった。
「何の『歓迎』かなんて、そんなの、決まっているじゃない」
数秒の間を空けて、ようやくエリシアが答える。
「――― 七人目の、よ」
←3-02へ
重苦しい沈黙に、しっかりと腰を据えて。
沈黙が造り出す重たさに、気圧されぬよう拳を固めて、カノンは立ち上がる。
膝の上で小さく手を組んでいたシェイリーンは、その気配に顔を上げる。ティルスとレスター、ヴァレスも細い目を彼女に向ける。
カノンは頬にかかった金の髪を払う。そうして、しっかりと碧い眼を見開いた。
「そっちの目的はあくまで和平条約の締結。でも、内部からも、当然外部からも圧力がかかってる。
このままじゃ身動きが取れない。それはいいわね?」
「そうです……」
「このままじゃとてもじゃないけど和平なんか結べないわ。
となれば、やらなくちゃいけないのは二点。
一つは、議会内の説得。あるいは権力の獲得。でも、これはあたしたちの本分じゃないし、この国にとっては余所者のあたしたちが何とか出来るようなもんじゃないわ。
シェイリーンの発言権を高めないとどうしようもない。
けど、もう一つ。
これが実現すれば、議会内でも発言権は高められるかもしれない」
「と、言いますと?」
ティルスが疑わしい目付きで彼女を見る。軍人ではない彼女が、何を説くつもりなのか、値踏みしている目だった。
それを真っ向から受け止めて、彼女は言う。
「エイロネイアとの戦力の拮抗を測ること」
ティルスは眉間に皺を寄せる。出来るものならとっくにやっている、という顔だ。
「まあ、待ちなさいよ。
軍人サンの方がこういうことは本分なんでしょうけど、言わせてもらうわ。
和平条約を結ぶ条件、ってのはいくつかあるわ。
大昔の大戦に倣うなら、ある国との他の国から戦争をしかけられた場合。でもこれは当てはまらない。
もしくは致命的な内部分裂を生んでしまった場合。これはシンシアに当てはまる。でも向こうさんには当てはまらない。その状態で和平を頼み込んでも、向こうには何の利益もないからむしろ好機と攻め込まれるのがオチ。
敵軍の戦力が自分の国を遥かに上回っている場合もこれに同じ。
……もう一つ。
お互いに戦力が拮抗していて、消耗戦にしかなりえない場合」
「それは……」
「ゼルゼイルはそんなに肥沃の土地でもないわよね? 海を隔てた土地で、西帝国も東大陸も、正式には援助なんかしていない。
消耗戦になれば、不毛な点がいくつも出てくる。
可能性があるとしたら、これしかないわ。
この状況を造り出すには、互いの戦力が常に拮抗していなければならない。
でも、逆に言えばよ。今の絶望的な戦力差を埋めることが出来れば、要するに戦果を上げることが出来れば、シェイリーンの議会での発言力も増すだろうし、和平とまではいかないかもしれないけど、あちらさんだって戦争を停止する理由にはなるわ」
「それは、そうですが……」
そんなことは解っている。言外にそう含んでティルスは言い募る。カノンはさらに言葉を重ねた。
「このとき、間違っても相手の戦力を大幅に上回っては駄目。シンシアの、国内、議会内ののタカ派を煽る結果にしかならないわ。
あくまでぎりぎりのところの戦力比を保つ。そうすれば、議会内にも、エイロネイアにも戦争停止を訴えるきっかけにはなる。
まあ、いきなり和平ってのは難しいだろうけど、シェイリーン様。貴方の目的は、とりあえず今の戦争を止めたいと、そういうことなんでしょ?」
「ええ、それはまあ……」
「だったら、あとは政治手腕の問題。それをあたしたちにどうこうすることは出来ないけど。
戦争を停止して、今まで戦争に回していた費用やら人件やらを国交にでも回せば、いろいろと事情は変わってくるでしょうよ。帝国でも味方につければ、万々歳ね。
その世代のことは解らないけど、ともかくそういう筋書きを描くなら、必要なのは戦力拮抗。
で、拮抗をどうやって導くか。
これもまた二通りの方法がある」
「……自分たちの戦力増強、もしくは敵陣の戦力減弱、ですね?」
カノンの提唱に、ヴァレスがふむ、と頷きながら答える。カノンはそれに頷き返した。対して、ティルスは憂鬱の溜め息を漏らした。
「で、それをどうやってやるんですか?
言って置きますが、シンシアに余計な戦力はありません。先ほど、ご説明した通り、今の戦力で相手の戦力を削げるとも思えません」
「何で?」
「ですから……」
「要求されているのはあくまで拮抗。相手の戦力を上回れ、なんて言っていないわ。
戦力を上回ろうとするなら、真似事じゃ無理。でも拮抗が目的なら、何も、こっちがやるのは二番煎じで構わないのよ」
「!?」
ティルスの眼鏡を弄くる所作が止まった。耳慣れない、信じ難い言葉を聞いた気がした。
それはラーシャもデルタも、またシェイリーンやレスターも同じだった。ライラは終始、無表情だがヴァレスは興味深げに息を吐いて、薄っすらと笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと待てカノン!」
慌てて彼女の言葉を止めたのはアルティオだった。
「お前、冗談だろ!? 自分が何言ってるか解ってるのか!?
二番煎じ、って! 違法者狩りのお前が、死術[ヴァン]の力を力を使おう、ってのか!?」
それはありえない矛盾だった。
違法者狩りの任を請け負っていた彼女が、その違法者の元凶である死術[ヴァン]を利用する。そんなことがあっていいものか。 彼女は、しばらくだけ瞑目する。
「別に死術[ヴァン]を使おう、ってわけじゃないわ。
そもそもその死術[ヴァン]は、このゼルゼイルの伝説や伝承を元に創られた、もしくはこの地に残っていた死術[ヴァン]が解放されたものと推測出来るんでしょう?
後者ならあたしたちの本分、前者なら……」
ふむ、と頷いて立ち上がったのはルナだった。
「やるしか、なさそうね……」
「ルナ殿?」
「ゼルゼイルの伝承ってのはね、大陸魔道師の造詣はあまり深くないわ。でも、あたしはいくつか知ってる。
……あの馬鹿が、昔話して、残していったからね。
伝承、伝説を元に戦争の道具を創った。なら、それは何千、何万年前かもその元となる術や呪法は作動していた。にもかかわらず、現代では片鱗しか残されていない。
―――ってことは、伝説には付き物の『何者かに封印されて』、『何かに相殺されて』、っていう節が伝承にあるはず。そこを探れば、弱点が着ける」
「しかし、そんなに簡単に……ッ!」
「簡単にはいかないわ。でもやってみる価値は十分にある。
……それに、突き詰めれば、本当にエイロネイアと同じ手になるかもしれないけど―――。
伝承・伝説から何かの武具や魔道具なんかを生成、もしくは発掘でもいい。そういうことが可能なら、十分利用出来る。
そうぽこぽことは見つからないと思うかもしれないけど、『月の館』の大陸魔道師として言わせてもらえば、一般的にそういったものが見つからないとされるのは、上の連中が秘密裏に処理してるからよ。
でも、ここに魔道師の上、なんてものは存在しない。けれど、ゼルゼイルにはまだまだ眠った魔道的な伝承が幾つもあるはず。 だからこそ、エイロネイアは半年でここまでの戦力を作り上げることが出来たんでしょう?
シンシア領内にだって、手付かずのそういう伝承上の怪しい場所は存在する。
……やってみる価値はあるわ」
「伝説、伝承を洗い出し、対抗策を模索する。
……それが成功すれば、エイロネイアへの対抗策が練られると同時に、新しい戦力が手に入る」
茫然と、シェイリーンが反芻する。同時にぎゅ、と拳を握り、
「でも、でも、それは本当に正しいことなんでしょうか……?
死人や、獣を操って、人を冒涜する、エイロネイアと、同じにならないと、言えるのでしょうか……?」
不安げに、紡ぐ。
二番煎じ、それは二の舞にも通じてしまう言葉。一歩間違えれば、いや、その思想をすること自体が、自分たちが非難するエイロネイアと同じことをしてしまう結果になるのではないか―――。
カノンは一瞬だけ、逡巡する。
だが、すぐに口を開いた。
「……確かに、利用するものは同じ。やることも同じ。
強い力を利用する、っていう点では、目的が違うだけでやってることはエイロネイアと同じなのかもしれないわ。
強い力を利用するのも狂気。……かつて、その狂気を狩るために、強い力を求めたあたしたちも、同じく狂気なのかもしれない」
カノンの言葉に、レンは腕を組んだまま、渋い顔で床を見る。そこにある感情がどんなものかは、図ることが出来ない。
「罵られてもいい。あたしも所詮は、強い力に溺れた一人なんだ、って。
でも、でも、それで救えたものがあるんだ、ってあたしは信じてる。たった一人の人間でも、救うことが出来たんだ、って信じてる。
このまま戦争が続いたらどうなの?
命は数量じゃ計れないけど、でも、何人が死ぬの?
あんたはそれが見たく無いから、和平を結びたいんじゃないの?
……力は強さだけが問題なんじゃない。そりゃ、強い力なんかない方がきっと幸せよ。無駄な戦いに巻き込まれたりしないし、謂れのない中傷を受けたりもしないし、戦争なんか起きないわ。
でも、それはきっと人間がいる限り不可能ね。
なら、一番大事なのはその力をどう使うか。どう守るか―――じゃないの?
シンシア領にある伝承の種がエイロネイアに渡ったら―――
このまま、歪んで生み出されたモノが戦争の道具に使われ続けたら―――
どうなるのか、あんたはあたしたちよりずっとよく知ってるでしょう?」
誰もが、シェイリーンのを"あんた"呼ばわりしているカノンを責めなかった。
彼女は決断を迫っているのだ。
新しい風は、シェイリーンが直々に求めたもののはずだった。その新しい風が、提唱したとんでもない策。
一歩間違えれば、とんでもないことになるかもしれない。エイロネイアを非難する資格さえ、失うかもしれない。
けれど。
その汚れた痛みを知らずして、一体何が救えるというのか。
目の前のカノンという少女は、たった一人の人間を救ったと言った。シェイリーンはその何倍もの人間を救わなければいけない立場にいた。
だから、彼女はカノンよりも、何十倍も心を痛めなくては、ならないのだ。
ならば―――
シェイリーンは大きく息を吸った。瞑目した瞳が、決意に染まる。そして不意に面を上げて、アメシストの瞳をかっと見開いた。
「……解りました」
ラーシャが、デルタが、ティルスが、レスターが、固唾を飲み込んだ。
「ティルス、レスター。至急、魔道部隊の隊長クラスを集めてください。私では、ゼルゼイルの魔道的伝承をカバーすることは出来ません。皆の協力を得なくては」
「はっ」
ティルスが最敬礼を構える。レスターも椅子から立ち上がると右に倣った。
「ラーシャ、準備が整うまでの前線指揮は任せます。これ以上、南方との境界線を譲るわけにはいきません」
「はっ」
「それと、ルナ様」
シェイリーンが立ち上がったままだったルナへ目をやる。
「どうやら貴方は、そちらの魔道学において、かなりの造詣が深い方のようです。
……願わくば、こちらの魔道師陣に、その手腕、授けていただけますか?」
「……私のような未熟者の腕でよろしいなら、ぜひ」
「でも、いいの、ルナ?」
傍らからシリアが横槍を入れる。
「伝承を集めて、それを戦争に使う―――シンシア側で。
それって、つまり、」
「いいのよ」
ルナは皆まで言わせなかった。
シンシア側で、エイロネイアと同じ策を実行する。その中心に身を置く。それはつまり―――
エイロネイアと、敵側の魔道師であるカシスと、真っ向から対決するということだ。
彼女は重い息を吐き出す。だが、それは憂鬱ではなく、小さな決意の前戯だった。
「―――覚悟は、決めてる。闇雲に会いに行ったって、あいつは人の話なんかこれっぽっちも聞きやしないわ。
だったら―――同じ土俵に上がる。それだけよ」
「……そう。だったら、何も言うことはないわね」
がたん、と椅子を蹴飛ばして彼女もまた立ち上がった。
「なら、さっさと手をつけましょう! さっさとあのお坊ちゃんの鼻の頭を明かしてやらないと、私は腹の虫が治まらないわ」
「同じく! 上等だ! 死人だろうが獣だろうが、敵じゃあねぇぜ! 返り討ちだぁ!!」
興奮気味のアルティオが双剣を担いで立ち上がる。
カノンはそれに呆れた息を吐いた。本当にもう、うちの連中はどうしてこう、揃いも揃って馬鹿ばかりなんだろうと。
息を吐いて。
相棒の姿を目に留める。
同じように、立ち上がった連中へ呆れた視線を送りながら、だがしかし、口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
「本当に、頼もしい方々ですね」
くすくすと、笑いながらシェイリーンは口にする。ラーシャが同意するように微笑んだ。
ルナがふと、てきぱきと書類を用意し始めていたティルスに目を止める。
「ちょっと聞きたいんだけど―――」
「?」
「シンシア領の、遺跡だの何だのまで描かれた地図、ってある?」
「ええ、御座いますが。何か?」
「ルナ?」
唐突な申し出に、カノンは首を傾げた。伝承を調べる、ということはそういう場所も調べなくてはならないだろう。
その土地の伝承を把握するのに、歴史的な遺跡や遺物を探索するのは定石だ。
けれど、彼女の問うたその言葉は、何か別の意図があったような気がした。
ティルスが棚の後ろから引きずり出した、古びた地図を受け取ったルナは、こちらに―――カノンとレンへ振り返って、視線を寄こす。
「ルナ?」
「……伝承と死術[ヴァン]を机上で調べるのなら、軍内の魔道師にも出来る。
だから、カノン、レン。一つ、提案があるんだけど……」
その地図を広げながら。
決意を秘めた魔道師は、緑青の瞳を上げた。
がらがっしゃん!
「……」
背後から聞こえた粗暴な音に、カシスの額に血管が浮く。
その音にも、目の前でぐにゃりと曲がってしまった、たった今細工していた魔道具の基となるはずだったバングルにも。
その元凶にも、勿論。
砦の最奥にある、大して広くもない部屋に物が詰め込まれているのだ。背後にある惨状を想像するのは難くなく。
背後で聞こえる「いつつ……」という声にも振り向かない。彼は机上に上げていた、膨大な数の蔵書中でも、もっとも重そうなものを手に取った。
「こんの……くそガキがぁッ!!」
どすッ!! ばささッ!!
分厚い本の角はそれだけで凶器になる。にも関わらず、遠慮も何もなく放った蔵書は、放物線を描いて、その場にへたり込んでいた少年の、薄炎色の頭にクリーンヒットした。
凶器紛いの塊から受けた痛みに、エノはたまらずに蹲る。蹲るが、頭を押さえながら上げた顔は、カシスに負けず劣らずの怒りの形相だった。
「いってぇな! 何しやがるんだ、若年寄りッ!!」
「黙りやがれこのくそガキ、この髪は生まれつきだッ! 俺のいる部屋でがたがた騒ぐんじゃねぇって何度言ったら理解出来る、低脳がッ!! そこら辺のモンやたら滅多に触るんじゃねぇ、てめぇの一生分の給料の何倍すると思ってんだ、あァッ!?」
耳を劈くような柄の悪い声を上げて、カシスは少年の胸倉を掴み上げる。エノは目を血走らせながら、それを睨み返し、ぶら下げられた状態で拳を握った。
だが、固められた拳が、その威力を発揮するよりも早く、乾いた拍手が二度、鳴った。それは賞賛ではなく、人を諫めるためのものだ。
その手の持ち主が誰か、真っ先に勘付いたエノは握っていた拳を解いた。カシスは忌々しげな目をドアへと投げる。
「はいはい、そこまで。暴力沙汰は許可してないよ、二人共」
ドアの向こうの、廊下の闇を背にして、黒衣を纏った少年が呆れた視線を向けている。腰元にしがみ付いた黒髪の少女は、脅えるような、しかし非難の眼差しを投げている。
カシスはその姿に舌打ちをすると、どさり、と吊り下げていたエノを床へと解放する。
尻餅をついたエノはわたわたと空を掻いて、少年の元に行く。傍らの少女と同じく、その背に隠れて、カシスを睨みながら、うーッ! と威嚇のような声を上げた。
「犬か」
「ンだとてめーッ!」
「エノ、少しは感情をコントロールすることを覚えなさい。カシスも。無駄に煽るのはやめてくれ。
……まったく、何で君たちはこう上手くやれないんだろうねぇ」
「冗談言うな、皇太子。どんな人間にも相性がある。俺にはどうもそこの、原始人のガキの行動が信じらんなくてね」
カシスは溜め息を吐くと、彼によって撒き散らされた工具の山に座り込む。歪んでしまった幾つかの細工物を手にとって、大仰に二度目の溜め息を吐いて首を振った。
常人から見たそれはガラクタにしか見えない。が、彼にとっては宝を造り出すための礎だ。それを理解できる人間は、あまりに少ないのだけれど。
皇太子と呼ばれる黒の少年は、似たような溜め息を吐く。
「エノ。何度も言うようだけど、彼はエイロネイアにとって貴重なブレーンであり、協力者だ。
あまり邪魔しないように」
「だって……ッ!」
「彼の研究はそのままエイロネイアの戦果に結びつく。逆に言えば、彼の研究が遅延すればするほど、戦力が低下する恐れがある。
……君は、エイロネイアの邪魔をしたいわけじゃないだろう?」
「……ッ!」
さらりと向けられた正論に、反する術を彼が持っているはずもない。
納得のいかない顔で、唇を尖らせながらも、押し黙ってしまった頭を皇太子はぽんぽん、と二度叩く。
「少し頭を冷やしておいで。そろそろ食事の時間だから、先に食堂に行っていなさい。
僕は少し彼と話がある」
少年は『食事』の一言にぱっ、と顔を上げた。うんうんと頷くと、先ほどまでの遺恨が嘘のように軽快に廊下へと向かう。
慌しい足音を聞きながら、部屋の主はけっと唾を吐き出した。
「何だかんだでメシか。ガキ丸出しだ」
「子供がぐずるときは決まって眠いときか、お腹が空いているときだよ。大して難しいものじゃない。
僕からすれば、君の方が余程扱いづらい」
「だったらさっさと手を切るか?」
「冗談。何のために膨大な軍費を君に渡してると思う?」
はっ、と嘲笑うように吐き出すと、カシスはデスクへ戻る。普通だったら火気厳禁の場所だが、彼は平気な顔で煙草を取り出した。きな臭さが鼻をつく。
加えて火をつけて、紫煙が昇るよりも先に、皇太子は口を開く。
「朗報だよ。シンシアの魔道師勢が動き出したようだ」
「へぇ?」
煙草を加えたカシスの口元が、笑みの形につり上がる。
「で、目的は何だ?」
「君が睨んだ通り。シンシアもゼルゼイル内の魔道書に着手したようだね。おそらく、目的はこちらと同じだよ」
ふーっ、と細い紫煙が吐き出される。煙たい匂いに、皇太子は僅かに顔を顰めたが、彼がそれに気を使うことはなかった。
「まぁなぁ……。その程度の発想はするよなぁ?
シンシアも結局は同じ穴のムジナ、ってことか。世の中綺麗事で収まりなんぞつかねぇもんなぁ?
ましてや、指揮が取れそうな魔道師を手に入れられたら尚更だ。くっくっく、あいつめ、俺と全面戦争する腹積もりか」
「たぶんね。まあ、戦争にまで持っていくのか疑問だけど」
「そりゃあ、そうだろう。シェイリーン=ラタトスはご丁寧にも、和平をお題目に掲げてる。戦力を上回ろう、なんて考えちゃあいねぇさ。せいぜい、あちら側は二番煎じで十分目的が果せるんだ」
「……正攻法なら、それでもいいんだろう。でも、それじゃ駄目なんだ、それじゃあ……」
少年は細い顎に指を乗せる。「それじゃあ駄目だ」と繰り返し唱えながら、何事か思考する。
「……ルナ=ディスナーは、本当に君の思った通りの行動に出ると思う?」
「十中八九。まあ、元々あいつはインドアよりアウトドア派の魔道師だからな。全部、机上で済まそうとはしねぇはずだ。
ましてや違法者狩りなんてものがいれば、死術[ヴァン]の発想は絶対にする。
だったら、何を起こすか読むのは簡単だ」
「けれど、もし彼女がシンシア領の探索に乗り出したとしても、だ。
その護衛にヴェッセルとザインが就く、というのは些か早計じゃないかい?」
「さて、そりゃあどうかな?
軍隊内じゃあ、そんな早急に護衛なんぞ付けられねぇ。けど、事は急を要する。だったら仲間内から護衛を引っ張るさ。だったら、ベストなのは違法者狩りなんて経験持ってる奴を連れていくだろ。
さすがに二人共引っ張っていくかは知らんがな。
けど、あいつらはタッグ組みだろ? 戦い方を見りゃ解る。揃って戦ったときが一番、ベストの状態だ。だったら、普通の司令官なら組ませるさ」
「まあ、確かにそうだけど……」
ふむ、と声を漏らして皇太子は頷く。しばし、思案してぼそぼそと独り言を繰り返すと、大きく息を吐き出した。
「……解った。その筋で行こう。
一応、保険はかけておくけどね。シンシア内部の諜報員に連絡を取っておくよ」
「おいおい、ちょいと面倒な事態にならねぇか?」
「大丈夫だよ。どうにしろ、今の内部員もそろそろ潮時だ。引き際だね。最後に一仕事してもらう、くらいに考えればいい」
「尻尾切りか。くっくっく、怖ぇ怖ぇ……」
「人聞きの悪い事は言わないでくれるかな。最善手があれば、それに帰順する。限った話じゃないよ。
それより、例の準備は終わってる?」
問い返されて、カシスはふと笑いを止める。毒々しい赤い眼をきろり、と動かしてやや斜めの壁を見た。形の良い顎でくい、と指す。
少年はそれに従って、彼の指す壁際に視線を向ける。
一振りの、剣が掲げられていた。
長さ、重量、共にバスタード並に見受けられる。刃は銀の鞘に閉ざされて、けして明るくない照明を紫に照り返す宝石を中心に、銀の蔦がすらりと伸びた柄に絡まっている。
重量を感じさせる沈んだ輝き。触れれば、そのまま指先が凍りついてしまうのではないかと、錯覚さえ覚えそうな。
視線で触れても大丈夫か、と問いかけると、「まだ起動させてない」という返答が返って来た。良い、ということだ。
少年は剣の柄に手を伸ばす。どっしりとした重みが手にかかった。柄と、鞘とを支えて、壁から降ろす。不釣合いな重さに、少しだけふらついた。
「……結構、重いね」
「そっちの方が都合が良いと思ったからな。遠慮なくやらせてもらった」
「ああ、そうかもね。いい出来だ」
「ったりまえだ、俺を誰だと思ってやがる」
青年の悪態に、皇太子はふ、と満足げに笑みを浮かべた。紫の、妖気を放つ柄を撫でると、ひやりとした感触が指先を走る。
「あー、いたいた。殿下ー……って、薬臭!
ちょっと、どうにかならないの、この部屋ッ」
呼ばれると同時に文句が飛んで来る。振り返ると、ドアの側に装飾を貼り付けた白い軍服の男と、紺のローブを纏った栗色の髪の女が立っていて、共に鼻を抑えていた。
その来客に、カシスは天井を仰いで舌を打つ。
「え、エレメント中尉~……。こんなところでよく平気ですね……」
「カシスー、貴方そのうち中毒になるわよ。というよりもうなってるんじゃない?」
「余計なお世話だカマじじぃ。それと引っ込んでろ厚化粧」
「はぁッ!? あんた、今、言ってはならないことを言ったわねーッ! 表に出なさいこの若白髪ッ!!」
「ああもう……ッ。 カシスッ! 誰彼構わず、喧嘩は売らない。エリシアは買わないッ。
頼むからこれ以上、僕の頭痛の種を増やさないでくれ」
包帯の巻かれた額を抑えながら、覇気のない声で叱り飛ばす。さすがに彼にまで文句を垂れる気はないらしく、エリシアはふん、と鼻を鳴らしながらも腕を組んで黙す。
リーゼリアは何か言いたげだったが、皇太子の手前、我慢することを選んだらしい。両手で自らの唇を押さえていた。
「それで、二人共、僕に何か用?」
「え、ええと……あの、港の警備体制のランクを下げたことと……。
あと、あの、殿下当てに帝都から通達が……」
「通達? 誰から?」
「陛下からよ」
「…………ああ」
言われて彼は、すぐにはその意を解することが出来なかったらしい。陛下。現エイロネイア皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア。
つまりは、彼の父親だ。
しかし、答えた彼の声は甚だ無感情な相槌だった。
「大陸から帰って来て、帝都には行かないで直接こっちまで来たんですって? お仕事熱心なのはいいけれど、親子のコミュニケーションが足りてないんじゃなぁい?
陛下、寂しがってるんじゃないの?」
「寂しがる? あの人が?」
エリシアの言葉に、彼は小さく笑った。心底、可笑しそうに。それでいて、何故か少しだけ自嘲めいて。
「……冗談。あの人にそんな高尚な感情はないさ。
大方、新しい種馬でも見つけたんだろうよ。適当にあしらって置いてくれ。僕はどうも、貴族間の性欲と野心旺盛なご婦人方は苦手でね」
「あらあら、陛下も報われないこと。早く孫の顔が見たいんじゃないの?」
「かもね。自分が生きているうちに、自分の遺伝子が受け継がれた証が見たいんだろうさ」
「殿下……そんなこと」
「……」
リーゼリアが居た堪れない表情で、何かを口にする。だが、それは言葉にはならなかった。
表情こそ変えないが、彼の腰元に張り付いたシャルも、哀れむように、くん、と彼の袖を引いた。笑いを漏らした彼は、優しく彼女の頭を撫でる。
「くすっ……大丈夫。ちゃんと半分くらいは冗談だ。
まあ、でも今すぐには戻れないよ。これから、ちょっと大仕事がある」
「大仕事?」
リーゼリアはこくん、と首を傾げたが、エリシアはひゅう、と口笛を吹いて、彼の手にある剣を、そしてカシスを見た。
もっとも、カシスはそれに答えることなどせずに、ふと気がついたように近くの棚を漁り始める。
さして間を置かず、人の頭ほどの大きさをした紙袋を取り出した。その袋の大きさに、エリシアがぴくり、と反応する。
ふと気がついた皇太子が、袋を受け取ると、がさりと音がした。
「まあ一応、一ヶ月分だ。いつもと同じだな。中にそいつの使用書も入ってる。好きにしろ」
「……ありがとう。助かるよ」
言葉では例を述べているのに、その声は何故だかひどく無機質だった。心配の二文字を顔に張り付かせたシャルが、もう一度、彼の服の裾を引いた。
今度は、彼は小さく首を振るだけだった。
彼は剣を両手で支えながら、袋を腰に吊り下げた。その場にいた三人の顔を見回して、頷く。
「……君たちは僕の代わりに一度、帝都に帰還してくれ。アリッシュにはこれからの動きのことを伝えてあるから問題ない」
「あの人、最近音沙汰ないけど。大丈夫なんでしょうねぇ……」
「大丈夫。それは古い付き合いの君が一番、よく知っているだろう? 彼のことだ。いろいろと事後処理をしてくれているんだと思うよ。
心配はいらない。帝都に戻ったら歓迎の準備をして置いてくれ」
「歓迎……?」
「はーい、殿下ぁ。いってらしゃーい」
リーゼリアの訝しげな声と、エリシアの軽快な声に見送られて、かの皇太子は意味ありげな微笑みだけを残し、一振りの重厚な剣を抱えたまま部屋を後にする。シャルと呼ばれる少女も、無感情な顔を下げた後、いつものようにその背を追って行った。
リーゼリアは密かにそれに舌を出して、異性のくせに金の髪のやたらと美人な同僚を見上げた。
「エリシア様ー? ロレン様の言ってた『歓迎』、って何のことですかぁ?」
「あァ? てめぇ、何も聞いてねぇのか?」
「はい? エレメント中尉もご存知なんですか?」
「あらあら、リーゼちゃんてば遅れてるわねぇ。駄目よー、年頃の女の子なら速攻で流行を追わないと」
「それとこれとは関係ないですし、余計なお世話です。何の話なんですか?」
自分だけ置いていかれたような気がして、少しむっとしながらリーゼリアが言う。エリシアはそれに笑みを返す。微笑みではない。朱を引いた唇の端を吊り上げて、何かを含んだような、楽しむかのような、嘲り笑い。
くっくっく、と耳慣れてしまった不気味な笑いがその背後から漏れる。
どうやら彼らにとっては、余程愉快なことらしいが、リーゼリアは首を傾げるばかりだった。
「何の『歓迎』かなんて、そんなの、決まっているじゃない」
数秒の間を空けて、ようやくエリシアが答える。
「――― 七人目の、よ」
←3-02へ
「ラーシャ!」
「シェイリーン様……ッ!」
砦の奥へ案内されて。最も重々しい扉を開いて、真っ先に飛んできたのはラーシャの名前を呼ぶ甲高い女性の声だった。
狭くもなく、また何十人も収容出来るほど広くもない部屋。中央に石造りのテーブルが幅を利かせていて、その回りには申し訳程度に装飾された椅子が並んでいる。正面には、ゼルゼイルの島を描いたものだろう、大きな地図がタペストリとしてかかっていた。
よくある会議室と同じ造りだ。だが、この場では軍議室や作戦会議室、と呼んだ方が正しいのかもしれない。
扉の脇にはガーディアン代わりの衛兵が二人いて、それぞれラーシャの姿を認めると敬礼を返してきた。
そして、部屋の中の、正面に立っていた女性。
白を基調としたやや長めのローブを纏い、その上からラーシャのものを少々装飾過多にしたような礼服を着込んでいる。背はそれほど高くなく、金の髪を足元まで伸ばしている。年の頃はおそらく二十を出ないだろう。若い。というより、あどけない表情はやや幼くさえ見える。
ラーシャの姿を認めた瞬間、淡いアメジストを思わせる紫の瞳を潤ませてぱたぱたと駆け寄った。
―――……えーと。
皆、何も言わない。言わない、というか絶句しているのだ。
ラーシャは、この年端もいかない少女のことを、今、何と呼んだ?
混乱しかける頭を叱咤して、視線だけでデルタに問いかける。その視線の意味を即座に汲み取ったデルタは、何とも複雑そうな表情を浮かべて、
「こちらが、現シンシア総統シェイリーン=ラタトス様にあらせられます。……前総統は少々、晩婚だったようで、シェイリーン様は御年十七歳になります」
「ず、ずいぶん若いわね……」
「そうは仰いますが、エイロネイアの皇太子殿もそれほどお歳を召されてはいなかったでしょう?
年代的には相違ありませんよ」
「まあ、そう考えるとそうだけど……」
「あんまりあの方を甘く見るなよ。ああ見えても十歳でゼルゼイルの一流大学を卒業した身だ。幼い頃から帝王学も学ばれている。
でなけりゃあ、あのトシで総統になれるわけはないだろ?」
―――ああ見えても、ってことは案外、こいつらも見た目は気にしてるってことか……
冷めた脳みそが捻くれた思考を弾き出す。
少女は一頻りラーシャに抱きつくと、やがて身を離してこちらに向き直る。ローブの裾を持ち上げて、綺麗な礼を一つした。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。皆様、お待ちしておりました。この度は不躾なお願いをお聞き入れくださり、感謝の言葉もありません」
「あ、いえ……」
丁寧な物腰に、カノンが思わず謙遜の声を上げる。それに彼女は陽だまりのような笑顔を返し、
「私はシェイリーン=ラタトス。ゼルゼイル北方シンシア共和国にて、総統の任を勤めさせていただいています。以後、お見知りおきを」
「あ、どうも……。えっと、あたし……いえ、私はカノン=ティルザード。で、こっちがレン=フィティルアーグ。後ろの三人は私たちの幼馴染で、ルナ=ディスナー、シリア=アレンタイル、アルティオ=バーガックス」
「頼りになる方々です、総統」
「そうですか。それは心強い」
カノンの紹介に、ラーシャが一言だけ付け足す。その言葉に、彼女は実に満足げに頷いた。
「ティルス、レスター、貴方方、自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
「一応は」
「そうですか。結構です。
それで、カノン様、こちらにもですね……」
「自分でしますよ、総統閣下」
シェイリーンの声を遮って、窓際に控えていた赤い軍服の男が進み出た。その傍らには、同じ軍服を着た女性が控えていて、軽く礼をする。
男の方は、歳はおそらく二十代後半。黒い髪を腰まで伸ばし、手は腰に添えて、ぴしっと背筋を伸ばしている。口元と不思議な灰色の瞳の目元に浮かんでいるのは柔和な微笑。腰から細剣[レイピア]を下げているが、腕に通したバングルやところどころに括りつけられた呪符が、彼の本当の武器はそれではないことを物語っている。
傍らに控える女性は、男とは対照的に生真面目な表情を一切崩さずにこちらを見据えていた。ラーシャやティルス、デルタも普段から生真面目な表情をしているが、ややつり目な顔付きがそうさせるのだろうか、一段と厳しい表情をしているように見える。
淡い桃色の髪を一房だけ耳元で括り、残りは背中で垂らしている。きつめの瞳は、シェイリーンとはまた違う色の紫で、どこか張り詰めていた。ぴしっ、と着こなされた軍服の腰には、短剣が刺さっていて、さらに背中には矢筒が見えている。その中身を活用させるものは、と探してみれば、彼女の寄りかかっていた壁際に、弦の張った銀細工の長弓が立てかけられていた。
ラーシャが厳しい面を上げる。
男の方が軽く咳払いをした。
「ラーシャ殿がお出かけの間、シェイリーン様の親衛を努めておりました。ヴァレス=ヴィーストと申します。ああ、元は傭兵ですので大した階級は頂いていません」
「……同じく、ライラ=バートン」
柔和な笑みでにこにこと返してくる男に対し、女性からはその一言だけしか返って来なかった。
耳元でレスターが「無愛想な女だぜ」と極小さく悪態を吐いて、ティルスに向う脛を蹴飛ばされていた。
部屋の温度が些か下がった気がする。どうやら表情を歪ませたデルタの反応を見ても、ラーシャたちと彼らとの関係はけしていいものではないらしい。
まあ、お抱えの騎士団と傭兵が気を合わせられない、なんて話は良くあることだ。
「あー、えっと、どうもご丁寧に……」
「皆様、お待ちしていましたよ。何せ、戦況は芳しくないもので。たとえ一人でも、戦力になる方がいらっしゃると心強い」
「ヴァレス殿!」
にこにこと、だがあからさまな物言いをするヴァレスを咎めるようにラーシャの声が飛ぶ。なるほど、こんな性格なら彼らと馬が合わないのも納得がいく。
爽やかな顔であっけらかんと、おおよそ、初対面の人間に向ける言葉とも思えないものを吐いてくれる。しかも国の総統とその懐刀の目の前で、第三者に『戦況は良くない』とはその神経の太さはどれだけのものか。
ラーシャの厳しい視線に、しかしヴァレスは「これは失礼」と答えて肩を竦めるだけだった。女性―――ライラの方はまったくの無反応。
一方で、シェイリーンの方はというと、懐が深いのか、はたまた彼の物言いには慣れているだけか、意に関せず、と言ったふうに元いた席へと戻る。
「ごめんなさい、ラーシャ。驚いたでしょう? ノール港には行ったのですか?」
「ええ……。波止場はエイロネイア軍に占拠されていました」
「本当に、着いたと思ったらいきなり矢の嵐よ。この落とし前はどうしてくれるのかしら?」
剣呑な声で言ったのはシリアだった。彼女の場合は、矢の嵐、というより嫌いな船に余計な時間、乗せられていたという恨みの方が強い気がするが。
シェイリーンは眉を上げて、口元を軽く抑える。
「そんなことが……。申し訳ありません、こちらの不手際ですわ……もっと早く、連絡が着けば良かったのですけれど……。皆様、よくぞご無事で」
「こちらのルナ殿の機転で何とか助かりました。後ほど、お礼とお詫びを用意させましょう」
「お詫びはいいけど、あれはどういうことだったのよ?」
ルナは不機嫌な表情を隠さずに、つっけんどんに言う。機嫌が芳しくないのは、らしくなく、"お礼"に食いつかなかったことからも分かる。
シェイリーンは押し黙って、しばらく視線を宙に彷徨わせる。やがて、困ったような視線をティルスに向けた。
その視線を命令と受け取ったか、ティルスは一息吐いて、全員に席に着くよう勧める。自分はレスターを伴ってシェイリーンの傍らに着いた。
カノンは少し迷ったが、レンに促されて結局は上座の席に腰掛けた。
シェイリーンの右側にはヴァレスとライラ、左側にはティルスとレスター。席の上座にカノンたち、ラーシャとデルタは正面に立ったまま背を伸ばす。
「……ラーシャ様とデルタはご存知だと思いますが。
ラーシャ様がご出立なされる前、つまりは一月ほど前になりますか。シンシアとエイロネイアは、この、」
言いかけて、ティルスは背後の大きな地図に赤印をつける。島国を二分して、その線の向かってやや右側の荒野だった。
「ジルラニア平原を戦地としていました。シンシアの拠点は三つ、エイロネイアの拠点は二つ。
それほど大きな戦ではありませんが、小さな抗争というわけではありません」
「要は小競り合い、ってレベルではない。でも大局を決める戦ではなかった。そういうことね」
「そうです。戦力はほぼ互角。エイロネイア軍は強大な軍隊ですが、この平原に置いて、エイロネイア側は山脈地帯を跨いでいます。その場合、物資などの輸送にも労力がいる戦になります。
地理的条件で、有利な戦になるはずでした」
「ああ。それに平原においてシンシア軍はエイロネイア軍を押していた。だからこそ、私は現場を離れることが出来たのだからな」
「はい。……ですが、ラーシャ様がお発ちになった一週間後のことです。ジルラニア平原から少々離れた、この、」
ティルスは新たな印を地図に書き込む。赤く引かれた線は、先ほどの線よりもやや左に寄った箇所の大地だった。彼は続けてそのすぐ近くの海辺に印をつける。
「……ノーストリア高原に、エイロネイアの小隊が現れました。ノール港のすぐ近くです」
「ノーストリア高原だと!? 馬鹿な、あんな場所からエイロネイアが攻められるものか……ッ!」
淡々としたティルスの言葉に、ラーシャが動揺を露にして声を張り上げる。
「何だ、そののーすとりあ、って?」
「地図を見れば分かりますが……。この地も、エイロネイア側にとってはいい地形ではないのです。
シンシアの領土から見れば平坦な道上にありますが、エイロネイアからすれば山脈の合間に位置する高原です。また、川も挟みますから増援も易々とは呼べません。
エイロネイアにとっては、わざわざ足場の悪い場所を取ったことになります。
ノール港は我々にとっては要になる港、しかし、攻められにくい場所に位置していたために、警備の手が厳重、というわけではありませんでした。それが油断だったのでしょう……。
加えて、この小隊の出現と同時に、ジルラニア平原のエイロネイア兵が撤退し始めたのです」
「撤退?」
「はい。ですので急遽、兵を何割かノーストリア高原に派遣することとなりました。
……貴族院の判断です。我々も混乱していました。戦地であるはずの場所から敵兵が引き、戦地となりえない場所に兵が出現したわけですから。
ジルラニア平原においては、今まで押して来た戦という油断があり、一方でノーストリア高原においては、地形の勝利という油断がありました。
それが……」
カノンははっ、と顔を上げる。ティルスが、初めて感情を露にして、口惜しそうに唇を噛んだのだ。
隣のレスターはぶるぶると拳を震わせている。それを気遣うように、シェイリーンが居た堪れないような、表情で眉間に皺を寄せている。
ラーシャは、テーブルに両手を着いて、唇を引き結んで話に聞き入っていた。
「……命取り、でした。
それがエイロネイアの思惑だったのです……。ジルラニア平原から進撃を開始した兵軍は、山中で山頂付近に布陣し、兵を忍ばせていたエイロネイアの増軍に対してあまりに無力でした。
あの布陣と伏兵は、きっと予てから用意されていたものだったんでしょう。相手の有利な平原から、自分たちに有利な山脈に戦地を移す。そのために、一時的に兵を撤退させたのです。
戦力分散もその策です。混乱して兵力の減った軍隊を叩くのは、そう難しいことではありません」
「しかしッ! そうにしたって、そこまでの混乱を招くとは、一体何があったのだ!?
ノーストリア高原にしたって、あそこには十分な兵力を備えていたはずだ! エイロネイアにとっては鬼門の場所だ! それが何故……ッ!?」
「……皇太子、だよ。姐さん」
「……ッ!」
いくら何でも、そうことが上手くいくはずがない。声を荒げるラーシャに、レスターが一言で答える。
カノンが顔を上げ、ルナは腰を上げかける。シリアもアルティオも、身を乗り出した。
「……小隊を率いていた奴がな。山頂からシンシア軍に向かって言ったんだよ。
『自分はエイロネイア軍を束ねるエイロネイア皇太子だ。大人しく降伏しろ』ってさ」
「―――ッ!」
「皇太子の悪評は有名さ。妾や捕虜の話だけじゃねぇ。戦の中でもそうさ。
曰く、百の大軍を相手にたった一人で勝利した、とか。曰く、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とかな。まあ、怪談チックな噂のひれから、薄ら寒いもんまでいろいろあるわけだ。
ノーストリアは兵力としては十分だけど、戦地から離れてたし、場所が場所だから、経験不足のひよっこも多かっただろ?
度胸のついてない一兵士の目の前に、そんな化け物が名乗り出てみろ。あっと言う間に、その場は大混乱さ。士気も駄々下がり。どうしようもない」
「我々も、皇太子はジルラニア平原の戦で指導者として動いていると思っていましたからね……。
情報の交錯も敗因の一つと言えるでしょう。実際、ジルラニア平原の兵の中にも、皇太子が同時に二箇所の戦場に存在するなどとナンセンスな思い込みをして、混乱を起こす者が少なくありませんでした。
つまり、彼は自分の悪評を利用したのです。それで兵の混乱を招き、不利な戦を有利に進めた。
ラーシャ様が不在だったのも明らかな敗因の一つです。……上の仕事ばかりで、下の戦場のことは何も知らない貴族院などのの決定に、素直に従ってしまったのですからね」
「……」
「で、でもよ。それっておかしかないか?」
必死で物事を咀嚼していたアルティオが、ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げる。傍らのシリアがそれに大仰に頷いて、
「そーよ。だって、それはラーシャが大陸に発ってから……少なくとも、二週間とか一週間前だったわけでしょ?
その間、私たちにちょっかい出してきたあいつ-―――エイロネイアの刺客、って奴も自分は皇太子だ、って言ってたわよ?」
『!』
シェイリーン、そしてずっと口を閉じていた傍らのヴァレスとライラが同時に顔を上げる。表情は驚愕の一言。
それこそ、そんな馬鹿なことはない。ゼルゼイルの地と西方大陸に、同時に一人の人間が存在するなど、そんな馬鹿なことはあるはずがないのだ。
「……影武者、か」
無言を貫いていたレンが初めて口を割った。その一言に、ティルスが深く頷く。
「……あり得ない話ではない、と思います。というより、それしか考えられません」
「確かに。いくらエイロネイア軍の総指揮を執ってる、つっても、これまで明確に姿を見た人間てのは数えるほどしかいないだろうし……
いても、殺されちまってる方が多いからな……」
「つまり、どっちかの皇太子は『皇太子』を名乗ってるだけのただの一般兵、ってこと?」
「……兵の目撃証言は取れています。淡い青髪の長い、背の高い男だったと。それだけですが」
シリアとアルティオが顔を見合わせる。ラーシャとデルタは眉間に皺を寄せ、レンの眉が少しだけ弾む。
カノンは一瞬だけ瞑目して、言葉を紡ぐ。瞼の上に、あの黒い残像が、隠せない怒りと共に浮かんだ。
「……違うわ。あたしたちの前に現れたあいつは、黒い髪で、全身に包帯を巻いて、真っ黒な服で。見たら一目で特徴は分かるはずよ」
「背もそんなに高くなかったわね。見た目には華奢な男の子、って感じよ」
「ということは、そのどちらかが影武者ということになりますねぇ……」
場違いに呑気なヴァレスの声が、結論を弾き出す。
どちらが本物で、どちらが偽物か。はたまた、どちらも偽物なのか―――。
煮詰まった雰囲気の中。誰もが、その問いかけに答えられはしない。だがしかし、その冷えた空気の中で、
「……あたしは…。私は、大陸に来ていた方の奴が本物だと思う」
「? ルナ?」
ぽつり、と漏らした少女の声に、全員が反応する。カノンがその名前を呼びかけて、その呼びかけが終わるより先に、彼女は椅子を引いて立ち上がる。
そしてシェイリーンを見た。傍らの、ティルスの余談を許さない目が、じっと彼女を観察していた。
デルタが慌ててフォローするように身を乗り出す。
「ルナさん。確かに彼は」
「……違う。違うのよ。そんなことが言いたいんじゃないわ。
―――『七征』、って言うんでしたっけ? エイロネイアの七大幹部。戦軍の要。
……その、七人の中には、私のかつての知り合いがいます」
「え?」
思っても見ない告白に、シェイリーンの目が見開かれる。彼女だけではない。ラーシャとデルタ、無表情なライラ以外の、シンシア派の全員が反応する。
ティルスは訝しげに眉間を寄せて、レスターは大げさに目を剥いた。ヴァレスはそれよりも薄い反応だったが、笑みに細めていた目をすっ、と真顔に戻す。
「ルナ殿!」
「ごめん、ありがとうラーシャ。でも、いずれバレることよ。どうせバレるなら、早い内がいい」
それは彼女のために、とラーシャがあえて伝達でも伏せていた事実だった。真相が知れれば、軍の内部と彼女との間に摩擦が起こりかねない。貴族院の人間に知れたら、それこそそれを利用しようとする人間も出てくるかもしれない。
ルナ自身にとっても、そして迎える立場であるシェイリーンにとっても、あらゆる面でマイナス要素になりかねない。だから、ラーシャは伝達上でも、デルタにも、口を止めて置いたのだ。
それを、本人があっさりと破る。
シェイリーンが唖然としながらも、はっ、と我に返った表情でルナを見る。そこにあったのは、けして軽蔑の色ではない。
ラーシャは彼女を頼れる人間だと言った。ラーシャは実直で嘘を言わない。だから、その根拠は絶対にあるはずなのだ。その告白だけで、彼女をどういう人間なのか判断するには、まだ早い。
「その、お知り合いというのは……?」
「……どんな目的でエイロネイアに加担しているのかは分かりません。でも、彼はたとえ、どんな場合であったって、生半可な人間に従うような人間じゃありません。他人に従うこと自体を嫌ってるはずです。
その彼が、誰かの指図で動くこと自体が信じられない。あるとしたら、それはその人間が協力に値すると判断できたときだけ。彼のその基準は、あたしが今まで出会ったどんな人間より高い。……プライドからも、技術力からも。
そんな奴を扱えるような器を持った人間なんか、数えるほどしかいません。エイロネイアで言うなら―――」
「その、エイロネイア皇太子しかいない、と?」
ルナは深く頷いてみせる。彼女には妙な確信があった。彼が従っていること、そうでなくともあの少年に相対した際の、歳不相応の貫禄。あんな人間が二人も三人もいてはたまらない。いるはずがない。
あの喪服のような黒装束を思い出し、隣でカノンも渋く顔を歪ませる。
「しかし、あの皇太子が指揮を離れるなんて……」
「……ありえない話ではありませんねぇ」
「ヴァレス?」
シェイリーンの言葉に、ヴァレスが首を振る。彼は顎に手を当てて、ふむ、と声を漏らしながら、首を傾げたシェイリーンと憮然としたティルスを振り返る。
「ノーストリア高原の……髪の長い、背の高い男、ですか。少々前の話ですが、魔道隊を指揮させて頂いていたときに、似たような男が敵陣で指揮を執っていたのを見かけた覚えがあります。
大陸の皆さんは、黒装束を纏った少年、と仰いましたね?
クラングインの砦が陥落した戦がありました。エイロネイアの皇太子殿が台頭してくる少し前、でしたね。
初陣、だったのかもしれません。砦が破棄されて、その後、しばらく近くのシンシアの砦からクラングインの砦を観察させていましたが、青い髪の男を従えた少年の目撃情報があったはずです」
「……確かに、指揮者らしい男の姿があった、という報告はあったな」
ラーシャは爪を噛む。小戦の記録だった。戦の記録は、彼女やティルスといった陣頭指揮官たちの下に膨大なほど送られてくる。その膨大な資料は、小戦のもの、終わった戦のものほど極薄い。
クラングインの砦はそれほど重視されていない砦だった。一度はトカゲの尻尾切りに利用する、という一案さえ出たような場所だ。
何故、その情報を数多の資料の中に埋めてしまったのだろう。
別段、ラーシャの責ではない。指揮官の職務にも限界がある。だから彼女は基本に忠実な職務をしていて、その小戦以上に重大な戦の報告が重なっていた。それだけだ。
だが、言い様のない後悔が頭の中で暴れ出す。
「その目撃証言が本当なら、その背の高い男はエイロネイア皇太子の腹心、ということでしょう。まあ、逆もありえますが。皇太子の腹心、というのならその男も『七征』でしょうね。
皇太子とその腹心の二人が『七征』である、という密偵の情報が確かなら」
「……あるいは、完全に嵌められたのかもしれないわね」
「嵌められた?」
涼しく言ったヴァレスに、じっと何かを考えていたカノンが口を開く。ヴァレスが訝しがるような息を吐き、シェイリーンが先ほどヴァレスに向けたものと同じような問いかけの視線を彼女に投げる。
会議室内の視線が集められた。
緊張が高まる。その雰囲気に飲まれないように、カノンは下腹に力を込めなくてはならなかった。
「相手に情報を掴ませる、もしくは信じさせるのに一番大事なものは何?」
「リアリティ、ですね」
ティルスが即答する。カノンはそれに頷いて、
「そうよ。今回、前線指揮を執っているはずのラーシャがわざわざ大陸に来たのは何故?
あたしたちを招くため、武器の密輸を止めるため。粗相がないように、とか何とか言ってたけど、そんな理由だけじゃないでしょう?
密偵でエイロネイアがあたしたちを狙ってることを知った、って言ってたけど……。皇太子が直々に刺客になってる、なんて情報は掴めないまでも。その密偵の情報ってのはひょっとして、大陸への来訪が、エイロネイアにとって最重要ランクの任務扱いになってた、ってことなんじゃないの?
相手にとって最重要。だから重鎮であるラーシャが前線指揮を離れてまで止めに来た」
「……仰る通り、ですね」
ティルスが苦々しい顔で頷く。カノンの言わんとしていることを、彼もまた悟ったのだ。彼だけではない。彼の傍らのレスターはあからさまな舌打ちをして、デルタは静かに拳を握り締める。
数秒経ってから、絞り出すような声でラーシャが口にする。
「つまり……こちらに密偵がいると知っていて、それを利用して私をまんまと戦場から離れさせた」
「戦争を目の前にしたことのある人間じゃないから、その場その場で戦況がどう翻るかは解らないけれど……。
少なくともラーシャは最上級の指揮官なんでしょう? いるといないとでは、兵士の士気だって大違いのはず。だから、ひょっとしたら、奴は奇襲の成功率を上げるために密偵を利用して、大陸行きを決行した。
……もっとも、その任務が大陸での騒ぎでなければならなかった理由は……ん…」
「……まさか配下の人間のわがままに付き合うためじゃないだろうし、大陸との既に役に立たなくなっていた、腐った繋がりを払拭……でも弱いわね」
言い澱んだカノンの言葉を飄々と繋いで見せたのは、言葉を濁した理由の当人であるルナだった。
わずかにいたたまれない表情を見せたカノンだが、すぐに面を上げる。
「ともかく、目的が何にしろ、そういう効果も狙ったことなんじゃないか、って思うのよ。
相手側に何人、密偵を送ってるのかは知らないけど、それを逆手に取られたってことね」
「おいおい……そんな」
レスターが青ざめた顔で眉間に皺を寄せる。室内で感じるはずのない寒気に、鳥肌の立つ二の腕を摩りながら、
「じゃあ、密偵はとっくの昔に相手に気づかれてる、ってことじゃねぇかよ……。
まずいぜ。エイロネイアの皇太子なんぞ、捕虜殺しで有名だ。下手したら拷問、ってこともある」
「……密偵が特定されているかは定かではないですが、一度密偵を下がらせましょう。もし、カノンさんが言っておられることが事実ならば、逆に危険なだけです」
レスターの言葉に、ティルスは眼鏡を抑えて深く息を吐く。
「でもさ、ちょっと待てよ」
末席に座っていたアルティオが口を挟んだ。
「ラーシャサンもエイロネイアの最上級指揮者。でもその皇太子も戦場じゃ、最高指揮官なんだろ?
一緒にいなくなったら、兵士の士気を考えたら条件は互角なんじゃないか?」
「……傍目には、そうですね……。
けれど、奇襲を仕掛ける方と仕掛けられる方では、元から士気の在り方が違います。絶体絶命の窮地に立たされるほど、士気というものは重要なのです。
足をもがれたネズミを狩るのに、士気を必要とする虎もいないでしょう。
……加えて、相手方にいる幹部『七征』は皇太子から絶大な信用を受けています。軍内の威光も生半可ではないはず。
何しろ、あの計算高いエイロネイア皇太子が、戦場を離れても大丈夫だと判断したのですからね」
「……エイロネイアはともかく……シンシアの兵士にとっても、『七征』はとんでもない脅威なのね」
「はい。『七征』はエイロネイア皇太子台頭の象徴とも言える存在ですから。彼らが介入するようになってから、五分五分に保たれていた均衡は、すべて崩れ去りました。
……シンシアは完全に後手に回ってしまっています」
冷静に言葉を選びながらも、口惜しさを隠せない表情でティルスは歯噛みする。シェイリーンはずっと俯いて、何かを祈るように手を組んでいる。
気遣うように、ラーシャがその細い肩を支えた。
「ちょっといい?」
「はい」
すっ、と手を上げたのは訝しげに唇を尖らせたシリアだった。立ち上がり、テーブルから乗り出すような格好で、唾を吐く。
「『七征』とやらが場を動かしていて、そいつが脅威だ、ってのは分かったわ。
けど、いくら何でも誇張が過ぎない? 皇太子にしたってそうよ。いきなり均衡が崩れたとか、兵士皆が恐れてるとか。そんな急な戦力転換なんか聞いたことないわ。
『七征』とやらが高い能力を持った連中だってのは分かった。皇太子って奴が狡猾で、やりづらい奴だ、ってのも分かったわ。
でもいくら指揮が良くたって、腕っ節が強くたって、戦争ってもんは個人の力でそうそう勝負が決まるものじゃないわ。昔だって、腕のいい奴を召抱えていたけど、結局は滅ぼされた国がごろごろあるじゃない。
戦争は風向き一つでどうとでも転がるでしょう?
そんな戦争全体を掌握できるような、超常的な、都合のいい連中がいてたまるもんですか」
「……」
すらすらと述べたシリアに、ティルスは書類の束を抱えて押し黙る。レスターも、押し黙ったまま、同じような微妙な表情を浮かべた。
デルタは避けるように視線を下げて、ラーシャは何かを考え込むように腕を組む。シェイリーンは、白い喉を上下させて、迷うような仕草を見せた。
シリアに続き、椅子に寄りかかったルナが軽く手を上げる。
「それについてはあたしからも質問」
今度はティルスは答えなかった。だから彼女は勝手に続ける。
「さっき、そっちのガタイのいいにーちゃんが言ったわよね? 皇太子の噂について。
百の大軍を相手にたった一人で勝利した、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とか何とか。
確かに誇張された、怪談ちっくなものかもしれないけど。
けど、元がなけりゃ噂だって尾ひれはつかないのよ。身がなけりゃあ、ね。火のないところに煙は立たないとはよく言ったもんよ。
そういう噂がある、ってことはその皇太子殿と『七征』たちが、明らかに人間離れした芸当をやらかしてる、ってことじゃないの?
それが兵士の士気に直に影響しちゃってる。どう?」
「……」
ティルスは無言だった。それが肯定の返事だったのかどうかは分からないが、少なくとも、否定は出来ないということだ。
カノンたちはその"人間離れ"の片鱗を既に目にしている。素っ頓狂な声を上げる者はいなかったが、息を飲む声は幾つも聞こえた。
「……さてさて、大陸人というのは遠慮というものがありませんね。いきなり確信をついて来ます」
「ヴァレス殿!」
あっさりと認める発言をしたヴァレスに、ティルスの眼鏡の奥からの厳しい視線が向けられる、だが、彼は少しだけ肩を竦めて、その視線をやり過ごす。
「ティルスさん。どの道、協力を仰ぐならこの方たちには知る権利があり、我々には話す義務があります。
彼女たちも戦場に身を置くことになるかもしれない。ならば、隠しておけるはずはないし、隠しておけばシンシアは詐欺師の集団になるかもしれませんよ?」
「……」
「…………分かりました」
何も言い返せないティルスの沈黙を、早々に破った声があった。鈴のようにか細い。シェイリーンだった。
「シェイリーン様!」
「ティルス、お話しましょう。どの道、分かるときには分かる話です。なら、今のうちに皆さんに話しておく必要はあると思います。
……どんな話でも、です」
「……」
シェイリーンはあどけない顔に、確かな威厳を宿しながら口にする。厳かなその雰囲気に、口を出せる者はいなかった。
ティルスも、歯を噛み締めながら敬礼をして項垂れる。
深呼吸を一つ。それで腹を据えたように、シェイリーンは正面からカノンたちと向き直った。
「……皆さんにとっては、気持ちの悪い話になるかと思います。ですが、お話しないわけには参りません」
「……」
カノンは固唾を飲み込む。いつのまにか、喉がからからに渇いていた。
それはシェイリーンも同じようだった。ふーっ、と息を吐き、肩を上下させる。
シリアとアルティオは身を乗り出した。
ルナはそのままの体制で、レンは何事もなかったかのように涼しく。しかし、内心気にならないわけはないだろう。
「……エイロネイア皇太子の噂については――
ルナさんがご推察なさった通りです。火のないところに煙が立つはずがありません」
「じゃあ、その百人相手に一人で勝っただとか、千人の魂を抜いたとかいうのはホントだってことか!? いくらなんでも……ッ!」
「いえ、それ自体が事実として認識されているわけではありません。
ですが、幾つかの小隊が戦地に向かう途中で、軍隊同士の衝突の跡もないのに全員虐殺死体で見つかったり、神隠しにあったように姿を消したりしたことがあったのは事実です」
「軍同士の衝突もなく……?」
「はい。それも、一隊や二隊ではなく。その時期は、ちょうど皇太子が戦場で猛威を振るい始めた矢先の出来事で、密偵の情報からも彼が戦地に出向いている記録がある、との報告を受けていました。
口で言うだけでは想像出来ないかもしれませんが……。
あのようなことは、物理的な世界では無理です。小隊といっても、五十人ほどの編成はされています。それが幾つも、瞬く間に消されるなんて……」
「……」
普通なら笑うところだ。笑って、何をそんなバカなと切り捨てるところだ。
だが、カノンたちに、それぞれの、それぞれが記憶する情景が過ぎる。町中で暴れる合成獣、人の血を吸う剣、錯乱し、互いを傷つけあう町人たち―――。
それは、皆『ありえないこと』。
けれど『あったこと』。
だから、誰にも、笑い飛ばせない。否定できない。
「もう一つ。
私たちが相手にしているのは、人間ばかりではありません」
「……? 人間、ばかりじゃない?」
きっぱりと言ったシェイリーンの言葉。すぐには意図を読めなかった。人間ばかりを相手にしているわけじゃない。では一体、何を相手にしているというのか。
"人間離れ"していると言った。けれどそれは"人間"に使う言葉、いや、"人間"と思っているモノに使う言葉だ。
"人間"でなければ、一体何なのか。
シェイリーンはもう一度、悩む。言って、彼らは信用してくれるのだろうか。いや、思えない。自分だって報告を聞いたとき、まさかと思ったのだ。
けれど、長として彼女は言わなくてはならないのだ。奇異の視線を受けることを覚悟で。
「……エイロネイアの軍隊の中に、死人や獣が混じっている、と言ったら、皆さんは信じますか?」
「・・・!」
カノンとルナが同時に息を飲み、シリアが苦く端整な顔を歪める。アルティオが怒りに拳を震わせていた。
レンだけは無反応を装っている。だが、苛立だしげにした舌打ちが、カノンの耳には届いていた。
カノンは浅い深呼吸をする。腰を落ち着けてから、今一度シェイリーンを見返した。
「……それは、どういうこと、ですか?」
「……文字通りの意味です。
彼らの軍隊の中には、生気のない顔をした人間でない人間と、恐ろしい形相をした……私は直接は見たことがないのですが……
デーモンや合成獣、と言いましたか。その類のものが混じっています。
それも、尋常ではない規模で。一部隊に何十、何百、という数」
「何十、何百ッ!?」
驚愕の声を出したのはシリアだ。彼女だって多少なりとも魔道の心得がある。
だから分かるのだ。そんなことが、どれだけ無謀なのか。
絶句する彼女に、シェイリーンの傍らに立っていたヴァレスが肩を竦めた。
「ええ、お察しの通り。
この世の中には、外法と称されていても、死霊術[ネクロマンシー]や獣召還[サモン]といったものが存在します。
文字通り、方や死人をゾンビやスケルトンといった歪んだ形で蘇らせるもの。方や、闇の世界の住人と称される獰猛な獣をこの世に生み出すものです」
死霊術[ネクロマンシー]、獣召還[サモン]。
共に、カノンやレンといった元・違法者狩り、また魔道師にとっては極身近な単語だった。
だが、この事態はそれだけでは説明がつかない。なぜなら、
「ご存知の通り、これらが戦争という現場で使われることは殆どありません。何故かというと、生み出されたものが非常に扱いづらいものになるからです。
死人や獣は明確な意思を持ちません。だから、人間の指示など元々聞かないシロモノです。
戦争に使うとしても、霍乱程度にしか使えません。ましてや、そんな何十、何百なんて数、制御できる人間がいるとも思えません。
しかし、」
「……エイロネイアの『七征』は、それを実現しているのね?」
徹底的な一言を、ルナが放つ。異様なまでに、声が硬い。彼女は、その先の返答まで既に予測しているようだった。
彼女の予測通り、ヴァレスはあっさりと頷いてみせる。
「今回の場合、ノーストリア高原の襲撃において、それが使われました。
死人や獣に、物資の補給は必要ありません。だから、いくら物資配達がし難い場所であっても関係はありません。死人は言うまでもなく、獣は腹が減れば、目の前の"兵[エサ]"を食いますからね」
えげつない一言だ。だが、その言葉を咎められる人間はいなかった。カノンたちの中にも、シンシアの中にも。
カノンたちは愕然と彼の言葉を聞き、シンシアの軍勢たちは揃って唇を噛むことしか出来なかった。
「先にも言った通り、これは非現実な事象です。何故、エイロネイアがこれを実現できているのか。理解に苦しみますが、可能性があるといえば……」
「……」
ヴァレスが濁した言葉に、カノンはすべてを悟る。
いくらエイロネイアが自分たちに接触していたとしても。
何故、シンシアが、カノンたちよりももっと高名な騎士や戦士に助けを求めなかったか。
何故、カノンとレンであったのか。
その一つ一つを噛み砕いて、硬い声で、カノンは口にする。
「……ねぇ、レン」
「……」
「政団の、違法者狩り団体はもう解散してるわ……。理由は記録にあるすべての大陸内の死術[ヴァン]を狩り終えたから」
死術[ヴァン]。太古の魔道師が残した負の遺物。けして残ってはいけなかったもの。不慮の事故によって、大陸中に散らばってしまったもの。
太古の大戦で、人間が生んでしまった、脅威の外法。禁呪。
人の身では為し得なかったいくつもの外道な呪を、紡ぎ出した、失われた術。
「でも、でもそれは……『記録にある』、『大陸内の』、なのよね……?」
「……」
自分で言った言葉を反芻する。もう誰もが想像、いや理解していた。彼女が一体、何を口にしているのか。
「じょ、冗談言うなよ……ッ! じゃあ、エイロネイアは……」
「『記録されていなかった』、死術[ヴァン]を既に復活させてるっていうの……ッ!?」
茫然としたアルティオの声を、シリアが継ぐ。その乾いた言葉を、さらに、ルナが継ぐ。
「……そればかりとは限らないわ。
シェイリーンさん。ゼルゼイルには、数々の伝承や伝説が眠っている。魔道的な、今の時代だったら信じられないようなものがたくさん、ね」
「……ええ、私もお話の中でしか聞いたことがありませんが」
「曰く、かつて大天使ルカシエルに滅ぼされた魔族、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンが眠るとされる幻大陸の存在。
曰く、人と神と魔の世界、すべてに絶望した対となる神魔族の鬼神が、自らの身を封じて眠りについた室の地。
有名なのはその二つ。けれど、ゼルゼイルの土地は、それに惹かれてなのかしらね。他にも信じられないような伝説のお話が転がっている。何のわけか、その中にはそういう類のとんでもない術や武具のお話が多いのよ。
……太古の魔道師が、どうやって『死術』を造ったか知ってる?
あれもね、準えたのよ。
それよりももっと太古、古に造られた神話の時代のオーパーツを歪めてね」
「ちょっとルナ……、それって……」
カノンが声を上げる。そんな、そんな馬鹿なことがあるはずがないのだ。
彼女が何を言っているのか。分かる人間はいても解る人間はいなかった。それは、不可能なこと。いや、不可能だとされてきたこと。
そんな人間は、今の時代にはいなかったから。
今の時代に、いるはずがいなかったから。
太古の、古を、たとえ準えでも、復活させることの出来る人間がいるなどと……ッ!
だが、少なくとも大陸で大戦が起こったあの暗黒時代には、多数いた。だから死術[ヴァン]が生まれた。
だから、否定できない。誰も出来ない。
そんな人間が現在するなんて。
でも否定する。認めたくはないから。
「そんな、そんな人間がいるはずは……ッ!」
デルタが上げた声に、ルナは沈思する。いつのまにか、彼女は親指の爪を噛んでいた。もう少しで皮膚を抉るだろう。それでも、そんな痛みに気がつかないほど、彼女の中には疑惑が、疑念が渦巻いていた。
彼女は知っていたからだ。
そんな馬鹿げたことが出来る人間を、一人だけ。
二十年という短い半生の中で、たった一人にだけ、出会っていたからだ。
「……その、獣やら死人が、戦場で使われ出したのはいつ?」
「……皇太子が台頭し始めて、まもなくですから……一年、少し前、ですね」
カノンははっ、とする。一年と、少し前。それからもう少し前に、カノンやルナに関する事件が、あったのだ。
そうだ、一年と半年前。
ちょうど、ニード=フレイマーの組織にルナが反旗を翻し、弾圧したのが同じ頃。
あの組織の中には、ルナのように『月の館』から引き抜かれていた魔道師が何人かいた。
カノンは直接"彼"から話を聞いたわけではなかったから、想像しか出来なかった。けれどルナは、直接、"彼"から話を聞いていたから、断言できた。
"彼"もまた、組織に囚われていた人間の一人であったと。
でも、組織が潰されて、行方不明。行方不明であった。行方不明であったから、彼がどこで何をしていたかなんて、誰も知らなかった。
誰も知らないから、否定が出来ない。
"彼"が、稀代の天才が、この地で、次々と戦争の道具を作り出していたことなんて……ッ!
「カシス……ッ、あの馬鹿、なんてことを……ッ!」
感情に支配されたルナは、断定的な言葉を吐き出した。彼にとって見れば、太古のサンプルから、新しい術を生み出すのに、半年という期間があれば十分だったのか。
がりッ……
噛んでいた爪が根を上げて、極少量の血が滲み出す。
見かねたシリアが彼女の腕を掴んだ。無言で、表情を変えずにルナはのろのろと手を離す。眉間に刻んだ皺が、力の入らない腕が、最大の傷心を表していた。
「……あんたの、本当にやりたかったことは、そんな馬鹿げたことじゃないでしょう……ッ!」
「……ルナ……」
喉の置くまで込み上げた熱い感覚を、必死で抑えながらも、しかし言葉では押さえきれなかった。
沈黙が支配する。誰も、何も言えなかった。
事情を知らないシェイリーンやレスター、ティルスもただならぬ雰囲気に押されて何も言えなかった。
やがて、ヴァレスが咳払いをするまで、誰も我に返れなかった。
「……どうやら状況はお察し頂けたようですね。ご覧の通り、後にも引けず、前にも進めない状況です。
それと、フィロ=ソルト中将に、もう一つ、嫌なお知らせです」
「……」
ラーシャは無言で、しかし、やや憮然として顔を上げる。
これ以上の凶報、そしてヴァレスの無神経な言葉、その渋い表情はどちらに向けてのことか。
「『七征』に関してです。
皆さんも既に知っていると思いますが、『七征』はエイロネイア皇帝ヴェニアの提唱した『エイロネイアの七つの柱』です。
だが、実際には少しだけずれています」
「ずれている?」
カノンの問い返しに、ヴァレスは頷く。
「提唱こそ、ヴェニア帝のものですが、実際に『七征』というのはエイロネイア皇太子の直属部隊です。指揮も指示も、ヴェニア帝ではなく、彼の手中です。
要するに、『七征』というのは自分の周りを固めるため、人材集めのための単なる箱なのでしょう。
現在、確認されている七征は、四人。皇太子と、その側近と思われる男―――大陸に出現した男と、ノーストリア高原で指揮を執った男です。
そして、ジルラニア平原で指揮を執っていた男と女。金の髪の軍服の男と、もう一人、女が目撃されています。内部の情報からも、おそらくは、『七征』だと思われます」
カノンははっ、としてラーシャと顔を見合わせる。ノール港で襲撃を仕掛けてきた人影。
あれも、金の髪の、軍服の人影じゃなかったっけ……?
ラーシャは額に汗を掻いて、固唾を飲み込むとこくり、と頷いた。ヴァレスを見返して、口を開く。
「……プラス、二人、だ。大陸に来た、皇太子と二人の男。一人は……ルナ殿のご級友、そしてもう一人は少年だ。
もう一人、少女がいたが名乗らなかった。彼女も『七征』なのかは、確認が取れていない。
皇太子は、目の前にしていてあの少女だけは『七征』と名指さなかった。と、なると違うのかもしれない。油断ならない相手ではあったが」
「そう、ですか……。ならば、これで確認されたのは六人。
―――いえ、ノーストリア高原に出現した男が、少々、気になる言葉を残しまして、ね。
そのまま伝えます」
ラーシャは眉を潜めて身を乗り出した。ティルスとレスターは不快感を顔に浮かべる。
ヴァレスは飄々とした表情を崩さないまま、さらりと、それを口にした。
宣告のように、それは耳を打つ。
「『七つの要はもうじき揃う。七つの要の、最後の一人が現れる。七つの要は、もうすぐ完成される。
そうなれば、我の描くシナリオも、容易なものとなるだろう―――』と」
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「シェイリーン様……ッ!」
砦の奥へ案内されて。最も重々しい扉を開いて、真っ先に飛んできたのはラーシャの名前を呼ぶ甲高い女性の声だった。
狭くもなく、また何十人も収容出来るほど広くもない部屋。中央に石造りのテーブルが幅を利かせていて、その回りには申し訳程度に装飾された椅子が並んでいる。正面には、ゼルゼイルの島を描いたものだろう、大きな地図がタペストリとしてかかっていた。
よくある会議室と同じ造りだ。だが、この場では軍議室や作戦会議室、と呼んだ方が正しいのかもしれない。
扉の脇にはガーディアン代わりの衛兵が二人いて、それぞれラーシャの姿を認めると敬礼を返してきた。
そして、部屋の中の、正面に立っていた女性。
白を基調としたやや長めのローブを纏い、その上からラーシャのものを少々装飾過多にしたような礼服を着込んでいる。背はそれほど高くなく、金の髪を足元まで伸ばしている。年の頃はおそらく二十を出ないだろう。若い。というより、あどけない表情はやや幼くさえ見える。
ラーシャの姿を認めた瞬間、淡いアメジストを思わせる紫の瞳を潤ませてぱたぱたと駆け寄った。
―――……えーと。
皆、何も言わない。言わない、というか絶句しているのだ。
ラーシャは、この年端もいかない少女のことを、今、何と呼んだ?
混乱しかける頭を叱咤して、視線だけでデルタに問いかける。その視線の意味を即座に汲み取ったデルタは、何とも複雑そうな表情を浮かべて、
「こちらが、現シンシア総統シェイリーン=ラタトス様にあらせられます。……前総統は少々、晩婚だったようで、シェイリーン様は御年十七歳になります」
「ず、ずいぶん若いわね……」
「そうは仰いますが、エイロネイアの皇太子殿もそれほどお歳を召されてはいなかったでしょう?
年代的には相違ありませんよ」
「まあ、そう考えるとそうだけど……」
「あんまりあの方を甘く見るなよ。ああ見えても十歳でゼルゼイルの一流大学を卒業した身だ。幼い頃から帝王学も学ばれている。
でなけりゃあ、あのトシで総統になれるわけはないだろ?」
―――ああ見えても、ってことは案外、こいつらも見た目は気にしてるってことか……
冷めた脳みそが捻くれた思考を弾き出す。
少女は一頻りラーシャに抱きつくと、やがて身を離してこちらに向き直る。ローブの裾を持ち上げて、綺麗な礼を一つした。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。皆様、お待ちしておりました。この度は不躾なお願いをお聞き入れくださり、感謝の言葉もありません」
「あ、いえ……」
丁寧な物腰に、カノンが思わず謙遜の声を上げる。それに彼女は陽だまりのような笑顔を返し、
「私はシェイリーン=ラタトス。ゼルゼイル北方シンシア共和国にて、総統の任を勤めさせていただいています。以後、お見知りおきを」
「あ、どうも……。えっと、あたし……いえ、私はカノン=ティルザード。で、こっちがレン=フィティルアーグ。後ろの三人は私たちの幼馴染で、ルナ=ディスナー、シリア=アレンタイル、アルティオ=バーガックス」
「頼りになる方々です、総統」
「そうですか。それは心強い」
カノンの紹介に、ラーシャが一言だけ付け足す。その言葉に、彼女は実に満足げに頷いた。
「ティルス、レスター、貴方方、自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
「一応は」
「そうですか。結構です。
それで、カノン様、こちらにもですね……」
「自分でしますよ、総統閣下」
シェイリーンの声を遮って、窓際に控えていた赤い軍服の男が進み出た。その傍らには、同じ軍服を着た女性が控えていて、軽く礼をする。
男の方は、歳はおそらく二十代後半。黒い髪を腰まで伸ばし、手は腰に添えて、ぴしっと背筋を伸ばしている。口元と不思議な灰色の瞳の目元に浮かんでいるのは柔和な微笑。腰から細剣[レイピア]を下げているが、腕に通したバングルやところどころに括りつけられた呪符が、彼の本当の武器はそれではないことを物語っている。
傍らに控える女性は、男とは対照的に生真面目な表情を一切崩さずにこちらを見据えていた。ラーシャやティルス、デルタも普段から生真面目な表情をしているが、ややつり目な顔付きがそうさせるのだろうか、一段と厳しい表情をしているように見える。
淡い桃色の髪を一房だけ耳元で括り、残りは背中で垂らしている。きつめの瞳は、シェイリーンとはまた違う色の紫で、どこか張り詰めていた。ぴしっ、と着こなされた軍服の腰には、短剣が刺さっていて、さらに背中には矢筒が見えている。その中身を活用させるものは、と探してみれば、彼女の寄りかかっていた壁際に、弦の張った銀細工の長弓が立てかけられていた。
ラーシャが厳しい面を上げる。
男の方が軽く咳払いをした。
「ラーシャ殿がお出かけの間、シェイリーン様の親衛を努めておりました。ヴァレス=ヴィーストと申します。ああ、元は傭兵ですので大した階級は頂いていません」
「……同じく、ライラ=バートン」
柔和な笑みでにこにこと返してくる男に対し、女性からはその一言だけしか返って来なかった。
耳元でレスターが「無愛想な女だぜ」と極小さく悪態を吐いて、ティルスに向う脛を蹴飛ばされていた。
部屋の温度が些か下がった気がする。どうやら表情を歪ませたデルタの反応を見ても、ラーシャたちと彼らとの関係はけしていいものではないらしい。
まあ、お抱えの騎士団と傭兵が気を合わせられない、なんて話は良くあることだ。
「あー、えっと、どうもご丁寧に……」
「皆様、お待ちしていましたよ。何せ、戦況は芳しくないもので。たとえ一人でも、戦力になる方がいらっしゃると心強い」
「ヴァレス殿!」
にこにこと、だがあからさまな物言いをするヴァレスを咎めるようにラーシャの声が飛ぶ。なるほど、こんな性格なら彼らと馬が合わないのも納得がいく。
爽やかな顔であっけらかんと、おおよそ、初対面の人間に向ける言葉とも思えないものを吐いてくれる。しかも国の総統とその懐刀の目の前で、第三者に『戦況は良くない』とはその神経の太さはどれだけのものか。
ラーシャの厳しい視線に、しかしヴァレスは「これは失礼」と答えて肩を竦めるだけだった。女性―――ライラの方はまったくの無反応。
一方で、シェイリーンの方はというと、懐が深いのか、はたまた彼の物言いには慣れているだけか、意に関せず、と言ったふうに元いた席へと戻る。
「ごめんなさい、ラーシャ。驚いたでしょう? ノール港には行ったのですか?」
「ええ……。波止場はエイロネイア軍に占拠されていました」
「本当に、着いたと思ったらいきなり矢の嵐よ。この落とし前はどうしてくれるのかしら?」
剣呑な声で言ったのはシリアだった。彼女の場合は、矢の嵐、というより嫌いな船に余計な時間、乗せられていたという恨みの方が強い気がするが。
シェイリーンは眉を上げて、口元を軽く抑える。
「そんなことが……。申し訳ありません、こちらの不手際ですわ……もっと早く、連絡が着けば良かったのですけれど……。皆様、よくぞご無事で」
「こちらのルナ殿の機転で何とか助かりました。後ほど、お礼とお詫びを用意させましょう」
「お詫びはいいけど、あれはどういうことだったのよ?」
ルナは不機嫌な表情を隠さずに、つっけんどんに言う。機嫌が芳しくないのは、らしくなく、"お礼"に食いつかなかったことからも分かる。
シェイリーンは押し黙って、しばらく視線を宙に彷徨わせる。やがて、困ったような視線をティルスに向けた。
その視線を命令と受け取ったか、ティルスは一息吐いて、全員に席に着くよう勧める。自分はレスターを伴ってシェイリーンの傍らに着いた。
カノンは少し迷ったが、レンに促されて結局は上座の席に腰掛けた。
シェイリーンの右側にはヴァレスとライラ、左側にはティルスとレスター。席の上座にカノンたち、ラーシャとデルタは正面に立ったまま背を伸ばす。
「……ラーシャ様とデルタはご存知だと思いますが。
ラーシャ様がご出立なされる前、つまりは一月ほど前になりますか。シンシアとエイロネイアは、この、」
言いかけて、ティルスは背後の大きな地図に赤印をつける。島国を二分して、その線の向かってやや右側の荒野だった。
「ジルラニア平原を戦地としていました。シンシアの拠点は三つ、エイロネイアの拠点は二つ。
それほど大きな戦ではありませんが、小さな抗争というわけではありません」
「要は小競り合い、ってレベルではない。でも大局を決める戦ではなかった。そういうことね」
「そうです。戦力はほぼ互角。エイロネイア軍は強大な軍隊ですが、この平原に置いて、エイロネイア側は山脈地帯を跨いでいます。その場合、物資などの輸送にも労力がいる戦になります。
地理的条件で、有利な戦になるはずでした」
「ああ。それに平原においてシンシア軍はエイロネイア軍を押していた。だからこそ、私は現場を離れることが出来たのだからな」
「はい。……ですが、ラーシャ様がお発ちになった一週間後のことです。ジルラニア平原から少々離れた、この、」
ティルスは新たな印を地図に書き込む。赤く引かれた線は、先ほどの線よりもやや左に寄った箇所の大地だった。彼は続けてそのすぐ近くの海辺に印をつける。
「……ノーストリア高原に、エイロネイアの小隊が現れました。ノール港のすぐ近くです」
「ノーストリア高原だと!? 馬鹿な、あんな場所からエイロネイアが攻められるものか……ッ!」
淡々としたティルスの言葉に、ラーシャが動揺を露にして声を張り上げる。
「何だ、そののーすとりあ、って?」
「地図を見れば分かりますが……。この地も、エイロネイア側にとってはいい地形ではないのです。
シンシアの領土から見れば平坦な道上にありますが、エイロネイアからすれば山脈の合間に位置する高原です。また、川も挟みますから増援も易々とは呼べません。
エイロネイアにとっては、わざわざ足場の悪い場所を取ったことになります。
ノール港は我々にとっては要になる港、しかし、攻められにくい場所に位置していたために、警備の手が厳重、というわけではありませんでした。それが油断だったのでしょう……。
加えて、この小隊の出現と同時に、ジルラニア平原のエイロネイア兵が撤退し始めたのです」
「撤退?」
「はい。ですので急遽、兵を何割かノーストリア高原に派遣することとなりました。
……貴族院の判断です。我々も混乱していました。戦地であるはずの場所から敵兵が引き、戦地となりえない場所に兵が出現したわけですから。
ジルラニア平原においては、今まで押して来た戦という油断があり、一方でノーストリア高原においては、地形の勝利という油断がありました。
それが……」
カノンははっ、と顔を上げる。ティルスが、初めて感情を露にして、口惜しそうに唇を噛んだのだ。
隣のレスターはぶるぶると拳を震わせている。それを気遣うように、シェイリーンが居た堪れないような、表情で眉間に皺を寄せている。
ラーシャは、テーブルに両手を着いて、唇を引き結んで話に聞き入っていた。
「……命取り、でした。
それがエイロネイアの思惑だったのです……。ジルラニア平原から進撃を開始した兵軍は、山中で山頂付近に布陣し、兵を忍ばせていたエイロネイアの増軍に対してあまりに無力でした。
あの布陣と伏兵は、きっと予てから用意されていたものだったんでしょう。相手の有利な平原から、自分たちに有利な山脈に戦地を移す。そのために、一時的に兵を撤退させたのです。
戦力分散もその策です。混乱して兵力の減った軍隊を叩くのは、そう難しいことではありません」
「しかしッ! そうにしたって、そこまでの混乱を招くとは、一体何があったのだ!?
ノーストリア高原にしたって、あそこには十分な兵力を備えていたはずだ! エイロネイアにとっては鬼門の場所だ! それが何故……ッ!?」
「……皇太子、だよ。姐さん」
「……ッ!」
いくら何でも、そうことが上手くいくはずがない。声を荒げるラーシャに、レスターが一言で答える。
カノンが顔を上げ、ルナは腰を上げかける。シリアもアルティオも、身を乗り出した。
「……小隊を率いていた奴がな。山頂からシンシア軍に向かって言ったんだよ。
『自分はエイロネイア軍を束ねるエイロネイア皇太子だ。大人しく降伏しろ』ってさ」
「―――ッ!」
「皇太子の悪評は有名さ。妾や捕虜の話だけじゃねぇ。戦の中でもそうさ。
曰く、百の大軍を相手にたった一人で勝利した、とか。曰く、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とかな。まあ、怪談チックな噂のひれから、薄ら寒いもんまでいろいろあるわけだ。
ノーストリアは兵力としては十分だけど、戦地から離れてたし、場所が場所だから、経験不足のひよっこも多かっただろ?
度胸のついてない一兵士の目の前に、そんな化け物が名乗り出てみろ。あっと言う間に、その場は大混乱さ。士気も駄々下がり。どうしようもない」
「我々も、皇太子はジルラニア平原の戦で指導者として動いていると思っていましたからね……。
情報の交錯も敗因の一つと言えるでしょう。実際、ジルラニア平原の兵の中にも、皇太子が同時に二箇所の戦場に存在するなどとナンセンスな思い込みをして、混乱を起こす者が少なくありませんでした。
つまり、彼は自分の悪評を利用したのです。それで兵の混乱を招き、不利な戦を有利に進めた。
ラーシャ様が不在だったのも明らかな敗因の一つです。……上の仕事ばかりで、下の戦場のことは何も知らない貴族院などのの決定に、素直に従ってしまったのですからね」
「……」
「で、でもよ。それっておかしかないか?」
必死で物事を咀嚼していたアルティオが、ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げる。傍らのシリアがそれに大仰に頷いて、
「そーよ。だって、それはラーシャが大陸に発ってから……少なくとも、二週間とか一週間前だったわけでしょ?
その間、私たちにちょっかい出してきたあいつ-―――エイロネイアの刺客、って奴も自分は皇太子だ、って言ってたわよ?」
『!』
シェイリーン、そしてずっと口を閉じていた傍らのヴァレスとライラが同時に顔を上げる。表情は驚愕の一言。
それこそ、そんな馬鹿なことはない。ゼルゼイルの地と西方大陸に、同時に一人の人間が存在するなど、そんな馬鹿なことはあるはずがないのだ。
「……影武者、か」
無言を貫いていたレンが初めて口を割った。その一言に、ティルスが深く頷く。
「……あり得ない話ではない、と思います。というより、それしか考えられません」
「確かに。いくらエイロネイア軍の総指揮を執ってる、つっても、これまで明確に姿を見た人間てのは数えるほどしかいないだろうし……
いても、殺されちまってる方が多いからな……」
「つまり、どっちかの皇太子は『皇太子』を名乗ってるだけのただの一般兵、ってこと?」
「……兵の目撃証言は取れています。淡い青髪の長い、背の高い男だったと。それだけですが」
シリアとアルティオが顔を見合わせる。ラーシャとデルタは眉間に皺を寄せ、レンの眉が少しだけ弾む。
カノンは一瞬だけ瞑目して、言葉を紡ぐ。瞼の上に、あの黒い残像が、隠せない怒りと共に浮かんだ。
「……違うわ。あたしたちの前に現れたあいつは、黒い髪で、全身に包帯を巻いて、真っ黒な服で。見たら一目で特徴は分かるはずよ」
「背もそんなに高くなかったわね。見た目には華奢な男の子、って感じよ」
「ということは、そのどちらかが影武者ということになりますねぇ……」
場違いに呑気なヴァレスの声が、結論を弾き出す。
どちらが本物で、どちらが偽物か。はたまた、どちらも偽物なのか―――。
煮詰まった雰囲気の中。誰もが、その問いかけに答えられはしない。だがしかし、その冷えた空気の中で、
「……あたしは…。私は、大陸に来ていた方の奴が本物だと思う」
「? ルナ?」
ぽつり、と漏らした少女の声に、全員が反応する。カノンがその名前を呼びかけて、その呼びかけが終わるより先に、彼女は椅子を引いて立ち上がる。
そしてシェイリーンを見た。傍らの、ティルスの余談を許さない目が、じっと彼女を観察していた。
デルタが慌ててフォローするように身を乗り出す。
「ルナさん。確かに彼は」
「……違う。違うのよ。そんなことが言いたいんじゃないわ。
―――『七征』、って言うんでしたっけ? エイロネイアの七大幹部。戦軍の要。
……その、七人の中には、私のかつての知り合いがいます」
「え?」
思っても見ない告白に、シェイリーンの目が見開かれる。彼女だけではない。ラーシャとデルタ、無表情なライラ以外の、シンシア派の全員が反応する。
ティルスは訝しげに眉間を寄せて、レスターは大げさに目を剥いた。ヴァレスはそれよりも薄い反応だったが、笑みに細めていた目をすっ、と真顔に戻す。
「ルナ殿!」
「ごめん、ありがとうラーシャ。でも、いずれバレることよ。どうせバレるなら、早い内がいい」
それは彼女のために、とラーシャがあえて伝達でも伏せていた事実だった。真相が知れれば、軍の内部と彼女との間に摩擦が起こりかねない。貴族院の人間に知れたら、それこそそれを利用しようとする人間も出てくるかもしれない。
ルナ自身にとっても、そして迎える立場であるシェイリーンにとっても、あらゆる面でマイナス要素になりかねない。だから、ラーシャは伝達上でも、デルタにも、口を止めて置いたのだ。
それを、本人があっさりと破る。
シェイリーンが唖然としながらも、はっ、と我に返った表情でルナを見る。そこにあったのは、けして軽蔑の色ではない。
ラーシャは彼女を頼れる人間だと言った。ラーシャは実直で嘘を言わない。だから、その根拠は絶対にあるはずなのだ。その告白だけで、彼女をどういう人間なのか判断するには、まだ早い。
「その、お知り合いというのは……?」
「……どんな目的でエイロネイアに加担しているのかは分かりません。でも、彼はたとえ、どんな場合であったって、生半可な人間に従うような人間じゃありません。他人に従うこと自体を嫌ってるはずです。
その彼が、誰かの指図で動くこと自体が信じられない。あるとしたら、それはその人間が協力に値すると判断できたときだけ。彼のその基準は、あたしが今まで出会ったどんな人間より高い。……プライドからも、技術力からも。
そんな奴を扱えるような器を持った人間なんか、数えるほどしかいません。エイロネイアで言うなら―――」
「その、エイロネイア皇太子しかいない、と?」
ルナは深く頷いてみせる。彼女には妙な確信があった。彼が従っていること、そうでなくともあの少年に相対した際の、歳不相応の貫禄。あんな人間が二人も三人もいてはたまらない。いるはずがない。
あの喪服のような黒装束を思い出し、隣でカノンも渋く顔を歪ませる。
「しかし、あの皇太子が指揮を離れるなんて……」
「……ありえない話ではありませんねぇ」
「ヴァレス?」
シェイリーンの言葉に、ヴァレスが首を振る。彼は顎に手を当てて、ふむ、と声を漏らしながら、首を傾げたシェイリーンと憮然としたティルスを振り返る。
「ノーストリア高原の……髪の長い、背の高い男、ですか。少々前の話ですが、魔道隊を指揮させて頂いていたときに、似たような男が敵陣で指揮を執っていたのを見かけた覚えがあります。
大陸の皆さんは、黒装束を纏った少年、と仰いましたね?
クラングインの砦が陥落した戦がありました。エイロネイアの皇太子殿が台頭してくる少し前、でしたね。
初陣、だったのかもしれません。砦が破棄されて、その後、しばらく近くのシンシアの砦からクラングインの砦を観察させていましたが、青い髪の男を従えた少年の目撃情報があったはずです」
「……確かに、指揮者らしい男の姿があった、という報告はあったな」
ラーシャは爪を噛む。小戦の記録だった。戦の記録は、彼女やティルスといった陣頭指揮官たちの下に膨大なほど送られてくる。その膨大な資料は、小戦のもの、終わった戦のものほど極薄い。
クラングインの砦はそれほど重視されていない砦だった。一度はトカゲの尻尾切りに利用する、という一案さえ出たような場所だ。
何故、その情報を数多の資料の中に埋めてしまったのだろう。
別段、ラーシャの責ではない。指揮官の職務にも限界がある。だから彼女は基本に忠実な職務をしていて、その小戦以上に重大な戦の報告が重なっていた。それだけだ。
だが、言い様のない後悔が頭の中で暴れ出す。
「その目撃証言が本当なら、その背の高い男はエイロネイア皇太子の腹心、ということでしょう。まあ、逆もありえますが。皇太子の腹心、というのならその男も『七征』でしょうね。
皇太子とその腹心の二人が『七征』である、という密偵の情報が確かなら」
「……あるいは、完全に嵌められたのかもしれないわね」
「嵌められた?」
涼しく言ったヴァレスに、じっと何かを考えていたカノンが口を開く。ヴァレスが訝しがるような息を吐き、シェイリーンが先ほどヴァレスに向けたものと同じような問いかけの視線を彼女に投げる。
会議室内の視線が集められた。
緊張が高まる。その雰囲気に飲まれないように、カノンは下腹に力を込めなくてはならなかった。
「相手に情報を掴ませる、もしくは信じさせるのに一番大事なものは何?」
「リアリティ、ですね」
ティルスが即答する。カノンはそれに頷いて、
「そうよ。今回、前線指揮を執っているはずのラーシャがわざわざ大陸に来たのは何故?
あたしたちを招くため、武器の密輸を止めるため。粗相がないように、とか何とか言ってたけど、そんな理由だけじゃないでしょう?
密偵でエイロネイアがあたしたちを狙ってることを知った、って言ってたけど……。皇太子が直々に刺客になってる、なんて情報は掴めないまでも。その密偵の情報ってのはひょっとして、大陸への来訪が、エイロネイアにとって最重要ランクの任務扱いになってた、ってことなんじゃないの?
相手にとって最重要。だから重鎮であるラーシャが前線指揮を離れてまで止めに来た」
「……仰る通り、ですね」
ティルスが苦々しい顔で頷く。カノンの言わんとしていることを、彼もまた悟ったのだ。彼だけではない。彼の傍らのレスターはあからさまな舌打ちをして、デルタは静かに拳を握り締める。
数秒経ってから、絞り出すような声でラーシャが口にする。
「つまり……こちらに密偵がいると知っていて、それを利用して私をまんまと戦場から離れさせた」
「戦争を目の前にしたことのある人間じゃないから、その場その場で戦況がどう翻るかは解らないけれど……。
少なくともラーシャは最上級の指揮官なんでしょう? いるといないとでは、兵士の士気だって大違いのはず。だから、ひょっとしたら、奴は奇襲の成功率を上げるために密偵を利用して、大陸行きを決行した。
……もっとも、その任務が大陸での騒ぎでなければならなかった理由は……ん…」
「……まさか配下の人間のわがままに付き合うためじゃないだろうし、大陸との既に役に立たなくなっていた、腐った繋がりを払拭……でも弱いわね」
言い澱んだカノンの言葉を飄々と繋いで見せたのは、言葉を濁した理由の当人であるルナだった。
わずかにいたたまれない表情を見せたカノンだが、すぐに面を上げる。
「ともかく、目的が何にしろ、そういう効果も狙ったことなんじゃないか、って思うのよ。
相手側に何人、密偵を送ってるのかは知らないけど、それを逆手に取られたってことね」
「おいおい……そんな」
レスターが青ざめた顔で眉間に皺を寄せる。室内で感じるはずのない寒気に、鳥肌の立つ二の腕を摩りながら、
「じゃあ、密偵はとっくの昔に相手に気づかれてる、ってことじゃねぇかよ……。
まずいぜ。エイロネイアの皇太子なんぞ、捕虜殺しで有名だ。下手したら拷問、ってこともある」
「……密偵が特定されているかは定かではないですが、一度密偵を下がらせましょう。もし、カノンさんが言っておられることが事実ならば、逆に危険なだけです」
レスターの言葉に、ティルスは眼鏡を抑えて深く息を吐く。
「でもさ、ちょっと待てよ」
末席に座っていたアルティオが口を挟んだ。
「ラーシャサンもエイロネイアの最上級指揮者。でもその皇太子も戦場じゃ、最高指揮官なんだろ?
一緒にいなくなったら、兵士の士気を考えたら条件は互角なんじゃないか?」
「……傍目には、そうですね……。
けれど、奇襲を仕掛ける方と仕掛けられる方では、元から士気の在り方が違います。絶体絶命の窮地に立たされるほど、士気というものは重要なのです。
足をもがれたネズミを狩るのに、士気を必要とする虎もいないでしょう。
……加えて、相手方にいる幹部『七征』は皇太子から絶大な信用を受けています。軍内の威光も生半可ではないはず。
何しろ、あの計算高いエイロネイア皇太子が、戦場を離れても大丈夫だと判断したのですからね」
「……エイロネイアはともかく……シンシアの兵士にとっても、『七征』はとんでもない脅威なのね」
「はい。『七征』はエイロネイア皇太子台頭の象徴とも言える存在ですから。彼らが介入するようになってから、五分五分に保たれていた均衡は、すべて崩れ去りました。
……シンシアは完全に後手に回ってしまっています」
冷静に言葉を選びながらも、口惜しさを隠せない表情でティルスは歯噛みする。シェイリーンはずっと俯いて、何かを祈るように手を組んでいる。
気遣うように、ラーシャがその細い肩を支えた。
「ちょっといい?」
「はい」
すっ、と手を上げたのは訝しげに唇を尖らせたシリアだった。立ち上がり、テーブルから乗り出すような格好で、唾を吐く。
「『七征』とやらが場を動かしていて、そいつが脅威だ、ってのは分かったわ。
けど、いくら何でも誇張が過ぎない? 皇太子にしたってそうよ。いきなり均衡が崩れたとか、兵士皆が恐れてるとか。そんな急な戦力転換なんか聞いたことないわ。
『七征』とやらが高い能力を持った連中だってのは分かった。皇太子って奴が狡猾で、やりづらい奴だ、ってのも分かったわ。
でもいくら指揮が良くたって、腕っ節が強くたって、戦争ってもんは個人の力でそうそう勝負が決まるものじゃないわ。昔だって、腕のいい奴を召抱えていたけど、結局は滅ぼされた国がごろごろあるじゃない。
戦争は風向き一つでどうとでも転がるでしょう?
そんな戦争全体を掌握できるような、超常的な、都合のいい連中がいてたまるもんですか」
「……」
すらすらと述べたシリアに、ティルスは書類の束を抱えて押し黙る。レスターも、押し黙ったまま、同じような微妙な表情を浮かべた。
デルタは避けるように視線を下げて、ラーシャは何かを考え込むように腕を組む。シェイリーンは、白い喉を上下させて、迷うような仕草を見せた。
シリアに続き、椅子に寄りかかったルナが軽く手を上げる。
「それについてはあたしからも質問」
今度はティルスは答えなかった。だから彼女は勝手に続ける。
「さっき、そっちのガタイのいいにーちゃんが言ったわよね? 皇太子の噂について。
百の大軍を相手にたった一人で勝利した、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とか何とか。
確かに誇張された、怪談ちっくなものかもしれないけど。
けど、元がなけりゃ噂だって尾ひれはつかないのよ。身がなけりゃあ、ね。火のないところに煙は立たないとはよく言ったもんよ。
そういう噂がある、ってことはその皇太子殿と『七征』たちが、明らかに人間離れした芸当をやらかしてる、ってことじゃないの?
それが兵士の士気に直に影響しちゃってる。どう?」
「……」
ティルスは無言だった。それが肯定の返事だったのかどうかは分からないが、少なくとも、否定は出来ないということだ。
カノンたちはその"人間離れ"の片鱗を既に目にしている。素っ頓狂な声を上げる者はいなかったが、息を飲む声は幾つも聞こえた。
「……さてさて、大陸人というのは遠慮というものがありませんね。いきなり確信をついて来ます」
「ヴァレス殿!」
あっさりと認める発言をしたヴァレスに、ティルスの眼鏡の奥からの厳しい視線が向けられる、だが、彼は少しだけ肩を竦めて、その視線をやり過ごす。
「ティルスさん。どの道、協力を仰ぐならこの方たちには知る権利があり、我々には話す義務があります。
彼女たちも戦場に身を置くことになるかもしれない。ならば、隠しておけるはずはないし、隠しておけばシンシアは詐欺師の集団になるかもしれませんよ?」
「……」
「…………分かりました」
何も言い返せないティルスの沈黙を、早々に破った声があった。鈴のようにか細い。シェイリーンだった。
「シェイリーン様!」
「ティルス、お話しましょう。どの道、分かるときには分かる話です。なら、今のうちに皆さんに話しておく必要はあると思います。
……どんな話でも、です」
「……」
シェイリーンはあどけない顔に、確かな威厳を宿しながら口にする。厳かなその雰囲気に、口を出せる者はいなかった。
ティルスも、歯を噛み締めながら敬礼をして項垂れる。
深呼吸を一つ。それで腹を据えたように、シェイリーンは正面からカノンたちと向き直った。
「……皆さんにとっては、気持ちの悪い話になるかと思います。ですが、お話しないわけには参りません」
「……」
カノンは固唾を飲み込む。いつのまにか、喉がからからに渇いていた。
それはシェイリーンも同じようだった。ふーっ、と息を吐き、肩を上下させる。
シリアとアルティオは身を乗り出した。
ルナはそのままの体制で、レンは何事もなかったかのように涼しく。しかし、内心気にならないわけはないだろう。
「……エイロネイア皇太子の噂については――
ルナさんがご推察なさった通りです。火のないところに煙が立つはずがありません」
「じゃあ、その百人相手に一人で勝っただとか、千人の魂を抜いたとかいうのはホントだってことか!? いくらなんでも……ッ!」
「いえ、それ自体が事実として認識されているわけではありません。
ですが、幾つかの小隊が戦地に向かう途中で、軍隊同士の衝突の跡もないのに全員虐殺死体で見つかったり、神隠しにあったように姿を消したりしたことがあったのは事実です」
「軍同士の衝突もなく……?」
「はい。それも、一隊や二隊ではなく。その時期は、ちょうど皇太子が戦場で猛威を振るい始めた矢先の出来事で、密偵の情報からも彼が戦地に出向いている記録がある、との報告を受けていました。
口で言うだけでは想像出来ないかもしれませんが……。
あのようなことは、物理的な世界では無理です。小隊といっても、五十人ほどの編成はされています。それが幾つも、瞬く間に消されるなんて……」
「……」
普通なら笑うところだ。笑って、何をそんなバカなと切り捨てるところだ。
だが、カノンたちに、それぞれの、それぞれが記憶する情景が過ぎる。町中で暴れる合成獣、人の血を吸う剣、錯乱し、互いを傷つけあう町人たち―――。
それは、皆『ありえないこと』。
けれど『あったこと』。
だから、誰にも、笑い飛ばせない。否定できない。
「もう一つ。
私たちが相手にしているのは、人間ばかりではありません」
「……? 人間、ばかりじゃない?」
きっぱりと言ったシェイリーンの言葉。すぐには意図を読めなかった。人間ばかりを相手にしているわけじゃない。では一体、何を相手にしているというのか。
"人間離れ"していると言った。けれどそれは"人間"に使う言葉、いや、"人間"と思っているモノに使う言葉だ。
"人間"でなければ、一体何なのか。
シェイリーンはもう一度、悩む。言って、彼らは信用してくれるのだろうか。いや、思えない。自分だって報告を聞いたとき、まさかと思ったのだ。
けれど、長として彼女は言わなくてはならないのだ。奇異の視線を受けることを覚悟で。
「……エイロネイアの軍隊の中に、死人や獣が混じっている、と言ったら、皆さんは信じますか?」
「・・・!」
カノンとルナが同時に息を飲み、シリアが苦く端整な顔を歪める。アルティオが怒りに拳を震わせていた。
レンだけは無反応を装っている。だが、苛立だしげにした舌打ちが、カノンの耳には届いていた。
カノンは浅い深呼吸をする。腰を落ち着けてから、今一度シェイリーンを見返した。
「……それは、どういうこと、ですか?」
「……文字通りの意味です。
彼らの軍隊の中には、生気のない顔をした人間でない人間と、恐ろしい形相をした……私は直接は見たことがないのですが……
デーモンや合成獣、と言いましたか。その類のものが混じっています。
それも、尋常ではない規模で。一部隊に何十、何百、という数」
「何十、何百ッ!?」
驚愕の声を出したのはシリアだ。彼女だって多少なりとも魔道の心得がある。
だから分かるのだ。そんなことが、どれだけ無謀なのか。
絶句する彼女に、シェイリーンの傍らに立っていたヴァレスが肩を竦めた。
「ええ、お察しの通り。
この世の中には、外法と称されていても、死霊術[ネクロマンシー]や獣召還[サモン]といったものが存在します。
文字通り、方や死人をゾンビやスケルトンといった歪んだ形で蘇らせるもの。方や、闇の世界の住人と称される獰猛な獣をこの世に生み出すものです」
死霊術[ネクロマンシー]、獣召還[サモン]。
共に、カノンやレンといった元・違法者狩り、また魔道師にとっては極身近な単語だった。
だが、この事態はそれだけでは説明がつかない。なぜなら、
「ご存知の通り、これらが戦争という現場で使われることは殆どありません。何故かというと、生み出されたものが非常に扱いづらいものになるからです。
死人や獣は明確な意思を持ちません。だから、人間の指示など元々聞かないシロモノです。
戦争に使うとしても、霍乱程度にしか使えません。ましてや、そんな何十、何百なんて数、制御できる人間がいるとも思えません。
しかし、」
「……エイロネイアの『七征』は、それを実現しているのね?」
徹底的な一言を、ルナが放つ。異様なまでに、声が硬い。彼女は、その先の返答まで既に予測しているようだった。
彼女の予測通り、ヴァレスはあっさりと頷いてみせる。
「今回の場合、ノーストリア高原の襲撃において、それが使われました。
死人や獣に、物資の補給は必要ありません。だから、いくら物資配達がし難い場所であっても関係はありません。死人は言うまでもなく、獣は腹が減れば、目の前の"兵[エサ]"を食いますからね」
えげつない一言だ。だが、その言葉を咎められる人間はいなかった。カノンたちの中にも、シンシアの中にも。
カノンたちは愕然と彼の言葉を聞き、シンシアの軍勢たちは揃って唇を噛むことしか出来なかった。
「先にも言った通り、これは非現実な事象です。何故、エイロネイアがこれを実現できているのか。理解に苦しみますが、可能性があるといえば……」
「……」
ヴァレスが濁した言葉に、カノンはすべてを悟る。
いくらエイロネイアが自分たちに接触していたとしても。
何故、シンシアが、カノンたちよりももっと高名な騎士や戦士に助けを求めなかったか。
何故、カノンとレンであったのか。
その一つ一つを噛み砕いて、硬い声で、カノンは口にする。
「……ねぇ、レン」
「……」
「政団の、違法者狩り団体はもう解散してるわ……。理由は記録にあるすべての大陸内の死術[ヴァン]を狩り終えたから」
死術[ヴァン]。太古の魔道師が残した負の遺物。けして残ってはいけなかったもの。不慮の事故によって、大陸中に散らばってしまったもの。
太古の大戦で、人間が生んでしまった、脅威の外法。禁呪。
人の身では為し得なかったいくつもの外道な呪を、紡ぎ出した、失われた術。
「でも、でもそれは……『記録にある』、『大陸内の』、なのよね……?」
「……」
自分で言った言葉を反芻する。もう誰もが想像、いや理解していた。彼女が一体、何を口にしているのか。
「じょ、冗談言うなよ……ッ! じゃあ、エイロネイアは……」
「『記録されていなかった』、死術[ヴァン]を既に復活させてるっていうの……ッ!?」
茫然としたアルティオの声を、シリアが継ぐ。その乾いた言葉を、さらに、ルナが継ぐ。
「……そればかりとは限らないわ。
シェイリーンさん。ゼルゼイルには、数々の伝承や伝説が眠っている。魔道的な、今の時代だったら信じられないようなものがたくさん、ね」
「……ええ、私もお話の中でしか聞いたことがありませんが」
「曰く、かつて大天使ルカシエルに滅ぼされた魔族、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンが眠るとされる幻大陸の存在。
曰く、人と神と魔の世界、すべてに絶望した対となる神魔族の鬼神が、自らの身を封じて眠りについた室の地。
有名なのはその二つ。けれど、ゼルゼイルの土地は、それに惹かれてなのかしらね。他にも信じられないような伝説のお話が転がっている。何のわけか、その中にはそういう類のとんでもない術や武具のお話が多いのよ。
……太古の魔道師が、どうやって『死術』を造ったか知ってる?
あれもね、準えたのよ。
それよりももっと太古、古に造られた神話の時代のオーパーツを歪めてね」
「ちょっとルナ……、それって……」
カノンが声を上げる。そんな、そんな馬鹿なことがあるはずがないのだ。
彼女が何を言っているのか。分かる人間はいても解る人間はいなかった。それは、不可能なこと。いや、不可能だとされてきたこと。
そんな人間は、今の時代にはいなかったから。
今の時代に、いるはずがいなかったから。
太古の、古を、たとえ準えでも、復活させることの出来る人間がいるなどと……ッ!
だが、少なくとも大陸で大戦が起こったあの暗黒時代には、多数いた。だから死術[ヴァン]が生まれた。
だから、否定できない。誰も出来ない。
そんな人間が現在するなんて。
でも否定する。認めたくはないから。
「そんな、そんな人間がいるはずは……ッ!」
デルタが上げた声に、ルナは沈思する。いつのまにか、彼女は親指の爪を噛んでいた。もう少しで皮膚を抉るだろう。それでも、そんな痛みに気がつかないほど、彼女の中には疑惑が、疑念が渦巻いていた。
彼女は知っていたからだ。
そんな馬鹿げたことが出来る人間を、一人だけ。
二十年という短い半生の中で、たった一人にだけ、出会っていたからだ。
「……その、獣やら死人が、戦場で使われ出したのはいつ?」
「……皇太子が台頭し始めて、まもなくですから……一年、少し前、ですね」
カノンははっ、とする。一年と、少し前。それからもう少し前に、カノンやルナに関する事件が、あったのだ。
そうだ、一年と半年前。
ちょうど、ニード=フレイマーの組織にルナが反旗を翻し、弾圧したのが同じ頃。
あの組織の中には、ルナのように『月の館』から引き抜かれていた魔道師が何人かいた。
カノンは直接"彼"から話を聞いたわけではなかったから、想像しか出来なかった。けれどルナは、直接、"彼"から話を聞いていたから、断言できた。
"彼"もまた、組織に囚われていた人間の一人であったと。
でも、組織が潰されて、行方不明。行方不明であった。行方不明であったから、彼がどこで何をしていたかなんて、誰も知らなかった。
誰も知らないから、否定が出来ない。
"彼"が、稀代の天才が、この地で、次々と戦争の道具を作り出していたことなんて……ッ!
「カシス……ッ、あの馬鹿、なんてことを……ッ!」
感情に支配されたルナは、断定的な言葉を吐き出した。彼にとって見れば、太古のサンプルから、新しい術を生み出すのに、半年という期間があれば十分だったのか。
がりッ……
噛んでいた爪が根を上げて、極少量の血が滲み出す。
見かねたシリアが彼女の腕を掴んだ。無言で、表情を変えずにルナはのろのろと手を離す。眉間に刻んだ皺が、力の入らない腕が、最大の傷心を表していた。
「……あんたの、本当にやりたかったことは、そんな馬鹿げたことじゃないでしょう……ッ!」
「……ルナ……」
喉の置くまで込み上げた熱い感覚を、必死で抑えながらも、しかし言葉では押さえきれなかった。
沈黙が支配する。誰も、何も言えなかった。
事情を知らないシェイリーンやレスター、ティルスもただならぬ雰囲気に押されて何も言えなかった。
やがて、ヴァレスが咳払いをするまで、誰も我に返れなかった。
「……どうやら状況はお察し頂けたようですね。ご覧の通り、後にも引けず、前にも進めない状況です。
それと、フィロ=ソルト中将に、もう一つ、嫌なお知らせです」
「……」
ラーシャは無言で、しかし、やや憮然として顔を上げる。
これ以上の凶報、そしてヴァレスの無神経な言葉、その渋い表情はどちらに向けてのことか。
「『七征』に関してです。
皆さんも既に知っていると思いますが、『七征』はエイロネイア皇帝ヴェニアの提唱した『エイロネイアの七つの柱』です。
だが、実際には少しだけずれています」
「ずれている?」
カノンの問い返しに、ヴァレスは頷く。
「提唱こそ、ヴェニア帝のものですが、実際に『七征』というのはエイロネイア皇太子の直属部隊です。指揮も指示も、ヴェニア帝ではなく、彼の手中です。
要するに、『七征』というのは自分の周りを固めるため、人材集めのための単なる箱なのでしょう。
現在、確認されている七征は、四人。皇太子と、その側近と思われる男―――大陸に出現した男と、ノーストリア高原で指揮を執った男です。
そして、ジルラニア平原で指揮を執っていた男と女。金の髪の軍服の男と、もう一人、女が目撃されています。内部の情報からも、おそらくは、『七征』だと思われます」
カノンははっ、としてラーシャと顔を見合わせる。ノール港で襲撃を仕掛けてきた人影。
あれも、金の髪の、軍服の人影じゃなかったっけ……?
ラーシャは額に汗を掻いて、固唾を飲み込むとこくり、と頷いた。ヴァレスを見返して、口を開く。
「……プラス、二人、だ。大陸に来た、皇太子と二人の男。一人は……ルナ殿のご級友、そしてもう一人は少年だ。
もう一人、少女がいたが名乗らなかった。彼女も『七征』なのかは、確認が取れていない。
皇太子は、目の前にしていてあの少女だけは『七征』と名指さなかった。と、なると違うのかもしれない。油断ならない相手ではあったが」
「そう、ですか……。ならば、これで確認されたのは六人。
―――いえ、ノーストリア高原に出現した男が、少々、気になる言葉を残しまして、ね。
そのまま伝えます」
ラーシャは眉を潜めて身を乗り出した。ティルスとレスターは不快感を顔に浮かべる。
ヴァレスは飄々とした表情を崩さないまま、さらりと、それを口にした。
宣告のように、それは耳を打つ。
「『七つの要はもうじき揃う。七つの要の、最後の一人が現れる。七つの要は、もうすぐ完成される。
そうなれば、我の描くシナリオも、容易なものとなるだろう―――』と」
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申し訳程度に整備された、砂利と土、短い草が混じり合う細い街道。林立した木々が、視界を悪くする。日差しはなく、アルケミア海に浮かぶ大陸の中では、最も南に位置する国だというのに、鳥肌の立つような寒気が辺りを覆っていた。先ほどからヒールで転びかけたシリアが、何度か誰かに支えられている。
九人分の足音が唱和する。
その足場の悪い、細い道を一列になって歩きながら、ティルス=コンチェルトは静謐に語りだした。
「ラーシャ様が大陸へお発ちになられた後すぐ、シンシア内では貴族院の集会が開かれました」
「貴族院?」
声を上げ、首を傾げたのはカノンだった。
デルタが忌々しげな表情を隠さずに、ラーシャを見上げる。彼ほどではないが、やはり彼女も、渋い表情を顔に張り付けている。
林の中の下生えを、さくさくと踏みしめながら先導するティルスの表情は伺えないが、淡的なその口調の中に、小さな棘が感じられる。
「昔から、シンシアを……いえ、ゼルゼイルを率いてきた重鎮たちで造られた組織です。政治的にも正式な組織と認められており、莫大な権力を持っています。シンシアはシェイリーン様を中心とする議会が規則を作り、守っていますが、その議会への影響力も計り知れません」
「要するに、くたばり損ないのご老人たちが、年寄りの冷や水で幅を利かせてて。下手に権力が増徴しちゃったもんだから、その総統との間で意見が合わなくて、下らない内部抗争が起こってる、っていう構図なわけね」
「無礼な言い方は謹んでください!」
ルナの見も蓋もない言い分に、デルタが声を飛ばす。不快そうな顔で振り返ったティルスとレスターを諫めるように、ラーシャが小さく溜め息を吐いて首を振った。
「っていうか、ルナ、ばっさり切りすぎでしょ……」
「そんなの、一昔前の政団と一緒じゃない。内部圧力が強まって、結局何も出来ないでいる。どうせその貴族院てのが前、言ってた反対派の奴らの中心なんでしょ?
暗黒時代の政治家だってそうだったわ。なまじ、魔道師の力が強すぎて、防護策を練る前に暴走した。
まあ、どんな規模かは知らないけど、対処がないならこのまま勢力三つ巴、みたいなことになりかねないんじゃないの?」
「……確かに、貴族院が右翼派で、シェイリーン様の思想と反発しているのは事実だ。
その集会というのも、私の大陸行きを巡った論争だったのだな?」
「はい」
ルナの言葉を肯定するように、ラーシャがティルスへ問いかける。彼はあっさりと肯定を返した。
「貴族院の奴らはシェイリーン様の、和解の思想を読んでいて。懐刀の姐さんが不在なのを言いことに、徹底的に軍部とシェイリーン様を叩きに出たんだよ。おまけに議会の有力な何人かを、汚い手で味方につけやがった」
「地固めが甘かったのでしょう。軍部はラーシャ様やシェイリーン様の指示内にありますが、議会では貴族院がのさばっています……」
「……」
ラーシャは唇を噛み締めた。シェイリーンは父である前総統クラヴェール=イオ=ラタトスの良心を受け継いでいる。その父を悼み、総統となり、ラーシャやデルタたち、軍部を味方につけ、無用な戦いを減らしてきた。
だが、一方で貴族院が中心となっていた議会での、タカ派の増長を止められず、それどころかエイロネイア皇太子の台頭と過度な挑発によって、貴族院はますます頭に血を上らせている。
その中で、総統といえどもシェイリーンが一人、和平を叫び続けるというのは、どう見たところで無理が生じる。
シェイリーンは和平への風潮を受けた民衆が選んだ総統であったが、それは戦争が長引いて貧しくなりつつある民衆の支持の賜物であって、裕福な血族に守られた貴族院のご老公たちの支持ではないのだ。
「悪いことに、民衆内のタカ派もこのところ目に余るようになって来ています。以前は小さな種でしかなかったものですが……このところ、ちらほらですが暴動が起きています」
「な……ッ!?」
「筋を辿ってみましたが―――どうやら裏で、あのエイロネイア皇太子が糸を引きながら民衆を煽っているようです」
ぴくり、とカノンの形の良い眉が動く。レンもルナも、アルティオも。項垂れていたシリアも、一様に顔を上げる。アルティオはあからさまに不快を露にした表情で、唇を噛んでいた。
「そんなことが……ッ!?」
「可能です。タカ派の集会自体は些細なものですが、融資を得られるスポンサーが背後につけば、暴動やデモの一つや二つ、起こしても不思議ではないでしょう。
暴動を起こした連中の背後を洗ってみましたが、スポンサーとなっている貴族や商人は架空のもので、実在しない人物でした。しかし、金銭に関してはどうもエイロネイア軍のものが動いている気配が……」
「つまり、実在しない人物を語ることでそれ以上の明確な追求が防がれている。
でも、シンシア内に民衆のタカ派に投資している人間は見受けられない。どうせ投資するんだったら貴族院に投資して、商売上でいろいろ目をかけててもらった方が良いものね。
だったら、内部分裂を狙ったエイロネイアの策、ってことになる」
「はい。暴徒はタカ派を語ったエイロネイアの兵も一緒でしょう。けれど、法律上、彼らをエイロネイア兵の捕虜として裁くことは出来ません。
あのエイロネイア皇太子―――実に頭の切れる人間です」
ティルスは冷静な表情を崩さぬように努めるが、それでも声に少々の怒りが滲んでいる。ましてや、隣を歩くレスターは感情を抑えようとすらせずに、きしり、と歯を噛み締める。
「頭が切れる上に非人道だ。あの野郎、戦場でも政治でも汚ねぇことしやがる……ッ!」
「……貴族院も表立って戦争を支持するような発言は出来ません。なので、シェイリーン様への批判、糾弾も、一応の終結は見ました。
けれど、その後です。
シェイリーン様の周囲を怪しげな連中が付回すようになったのは」
「それは……」
はっ、として顔を上げるラーシャ。デルタも同じだ。
その青ざめた表情に、カノンは大陸で二人から聞かされた話を思い出す。現総統シェイリーン=ラタトスの父親である前総統の末路が、どんなものだったのか。
同じ結論に至ったらしい、アルティオの舌打ちが聞こえた。彼だけではない。シリアは眉間に皺を寄せて、嫌悪の表情を浮かべる。レンもルナも、差たる反応は見せないがやはりどこか苦い顔で押し黙っている。
ティルスは全員の悪い想像を肯定付けるように溜め息を吐いた。
「……クラヴェール様のときと同じ、暗殺者の集団だと、私は考えています」
「なら、やっぱりさ、そんな危険な王都に総統を置いとくわけにいかねぇだろ?」
さくり、と彼らの踏み出した足音が、一際高く聞こえた。
「和平の旗頭であるシェイリーン様を失うわけには行きません。シェイリーン様は前線指揮の名目で、こちらの付近にある砦に留まっておいでなのです」
「……ノール港が閉鎖されれば、私の船はこちらの港を選ぶ予定だった。そのためだな?」
「はい。シェイリーン様はラーシャ様のお帰りと皆様のご到着を頼りに、長い間、お待ちになっておりました」
瞑目して答えるティルスに、ラーシャは長い息を吐く。そして、ゆっくりと首を振って、天を仰ぐ。
「何ということだ……。やはり、私がシンシアを離れるべきではなかったか……ッ!」
「……あの野郎……。どこでもかしこでも、汚ねぇ手を使っていやがるな……ッ!」
堪えきれない怒りを押さえつけるように、押し殺した声でアルティオが漏らす。その言葉に、先頭を歩いていたティルスが不意に反応して振り返る。
「皆様はエイロネイア皇太子をご存知で? デルタ、既に説明したのですか?」
「いえ、それが実は……」
「エイロネイアの手の者が、彼らに接触しているらしい、とのことだったろう?
驚くことに、その手の者が、エイロネイア皇太子ロレンツィア=エイロネイア本人だった……今でも、信じ難いが―――
あの者はエイロネイアの帝国紋章を所持していた。おそらくは本物だろう」
「何ですって……?」
ティルスは眼鏡を抑えて軽く驚愕する。レスターの眉がつり上がり、二人は表情を歪ませて顔を見合わせた。レスターは小さく肩を竦める。
―――……?
その反応に、カノンは訝しげに眉をひそめた。その視線に気が付いたティルスは、何かを逡巡していたが、やがて軽く咳払いをして踵を返す。
「……どうやら、我々は今も彼の思う壺に入っているようですね……」
「何?」
「詳しくは、主の前ですることに致しましょう。ノール港のことも、重ねてお答えします。
―――着きました」
言って、彼は歩みを止める。同時にカノンたちもその場で足を止めた。止まり損ねたらしいシリアが、前を歩いていたアルティオに鼻先をぶつけたらしく、後ろでひしゃげた声がしたが。
呆れた溜め息を吐いてからカノンは視線を上げる。
ばさり、とレスターが視界を狭める木々の低い枝を避けてくれた。そのおかげで、女性の割に背の高いラーシャの後ろからでも、それの外観を眺めることが出来た。
細い街道が、視界の開けた草原の先で太い街道と交わっている。
そして、そのさらに先の太い街道が途切れていて、
「……」
知らず知らずのうちに固唾を飲み込んでいた。
広がる灰色の空が、途中で消えている。いや、遮られている。重々しい雲を背景に、その居城は聳え立っていた。
黒いシルエットを描く、幾つもの塔が生えた石造りの建造物。
砦、と呼ばれるそれと同じようなものを、カノンは何度か目にしたことがある。貴族の住むような、美しさを追求した城などではなく、防壁と有事に備えて陣配置のされた堅固な城。ただ、帝国で目にするそれは、古び、寂れた旧世代の異物にすぎない。
その現物が、目の前で機能して、こうして聳えている。
ぶるり、と肩が震えたのは武者震いが、それとも得体の知れない寒気なのか。
「―――シンシア第三関所、バラック・ソルディーアと呼ばれる砦です。あそこに我らの主、シェイリーン=ラタトス様がいらっしゃいます」
振り返ったティルスが厳かに言う。
ラーシャが感慨深げにその城を見上げて、拳を握り締めた。そして、戦場で指揮を執る、そのときのようにデルタやレスターを数歩だけ下がらせて、
「……ようこそ、ゼルゼイル北方シンシア国へ。我らは皆様を歓迎いたします。どうぞ、我らが主にご面会を」
「……」
格式ばった言葉を並べ、丁寧に頭を下げる。デルタとティルス、そしてやや不服そうにしながらレスターもその礼に倣う。
カノンは無言でそれを受け止めると、今一度、黒い影を作る砦へと目をやった。
振り返って、全員と目を合わせる。レン、ルナ、シリア、アルティオ。些か表情は硬かったが、四人ともが、静かに頷いた。
その意志を伝えるように、カノンは面を上げたラーシャに居住まいを正し、ゆっくりと、深く頷いたのだった。
←2へ
九人分の足音が唱和する。
その足場の悪い、細い道を一列になって歩きながら、ティルス=コンチェルトは静謐に語りだした。
「ラーシャ様が大陸へお発ちになられた後すぐ、シンシア内では貴族院の集会が開かれました」
「貴族院?」
声を上げ、首を傾げたのはカノンだった。
デルタが忌々しげな表情を隠さずに、ラーシャを見上げる。彼ほどではないが、やはり彼女も、渋い表情を顔に張り付けている。
林の中の下生えを、さくさくと踏みしめながら先導するティルスの表情は伺えないが、淡的なその口調の中に、小さな棘が感じられる。
「昔から、シンシアを……いえ、ゼルゼイルを率いてきた重鎮たちで造られた組織です。政治的にも正式な組織と認められており、莫大な権力を持っています。シンシアはシェイリーン様を中心とする議会が規則を作り、守っていますが、その議会への影響力も計り知れません」
「要するに、くたばり損ないのご老人たちが、年寄りの冷や水で幅を利かせてて。下手に権力が増徴しちゃったもんだから、その総統との間で意見が合わなくて、下らない内部抗争が起こってる、っていう構図なわけね」
「無礼な言い方は謹んでください!」
ルナの見も蓋もない言い分に、デルタが声を飛ばす。不快そうな顔で振り返ったティルスとレスターを諫めるように、ラーシャが小さく溜め息を吐いて首を振った。
「っていうか、ルナ、ばっさり切りすぎでしょ……」
「そんなの、一昔前の政団と一緒じゃない。内部圧力が強まって、結局何も出来ないでいる。どうせその貴族院てのが前、言ってた反対派の奴らの中心なんでしょ?
暗黒時代の政治家だってそうだったわ。なまじ、魔道師の力が強すぎて、防護策を練る前に暴走した。
まあ、どんな規模かは知らないけど、対処がないならこのまま勢力三つ巴、みたいなことになりかねないんじゃないの?」
「……確かに、貴族院が右翼派で、シェイリーン様の思想と反発しているのは事実だ。
その集会というのも、私の大陸行きを巡った論争だったのだな?」
「はい」
ルナの言葉を肯定するように、ラーシャがティルスへ問いかける。彼はあっさりと肯定を返した。
「貴族院の奴らはシェイリーン様の、和解の思想を読んでいて。懐刀の姐さんが不在なのを言いことに、徹底的に軍部とシェイリーン様を叩きに出たんだよ。おまけに議会の有力な何人かを、汚い手で味方につけやがった」
「地固めが甘かったのでしょう。軍部はラーシャ様やシェイリーン様の指示内にありますが、議会では貴族院がのさばっています……」
「……」
ラーシャは唇を噛み締めた。シェイリーンは父である前総統クラヴェール=イオ=ラタトスの良心を受け継いでいる。その父を悼み、総統となり、ラーシャやデルタたち、軍部を味方につけ、無用な戦いを減らしてきた。
だが、一方で貴族院が中心となっていた議会での、タカ派の増長を止められず、それどころかエイロネイア皇太子の台頭と過度な挑発によって、貴族院はますます頭に血を上らせている。
その中で、総統といえどもシェイリーンが一人、和平を叫び続けるというのは、どう見たところで無理が生じる。
シェイリーンは和平への風潮を受けた民衆が選んだ総統であったが、それは戦争が長引いて貧しくなりつつある民衆の支持の賜物であって、裕福な血族に守られた貴族院のご老公たちの支持ではないのだ。
「悪いことに、民衆内のタカ派もこのところ目に余るようになって来ています。以前は小さな種でしかなかったものですが……このところ、ちらほらですが暴動が起きています」
「な……ッ!?」
「筋を辿ってみましたが―――どうやら裏で、あのエイロネイア皇太子が糸を引きながら民衆を煽っているようです」
ぴくり、とカノンの形の良い眉が動く。レンもルナも、アルティオも。項垂れていたシリアも、一様に顔を上げる。アルティオはあからさまに不快を露にした表情で、唇を噛んでいた。
「そんなことが……ッ!?」
「可能です。タカ派の集会自体は些細なものですが、融資を得られるスポンサーが背後につけば、暴動やデモの一つや二つ、起こしても不思議ではないでしょう。
暴動を起こした連中の背後を洗ってみましたが、スポンサーとなっている貴族や商人は架空のもので、実在しない人物でした。しかし、金銭に関してはどうもエイロネイア軍のものが動いている気配が……」
「つまり、実在しない人物を語ることでそれ以上の明確な追求が防がれている。
でも、シンシア内に民衆のタカ派に投資している人間は見受けられない。どうせ投資するんだったら貴族院に投資して、商売上でいろいろ目をかけててもらった方が良いものね。
だったら、内部分裂を狙ったエイロネイアの策、ってことになる」
「はい。暴徒はタカ派を語ったエイロネイアの兵も一緒でしょう。けれど、法律上、彼らをエイロネイア兵の捕虜として裁くことは出来ません。
あのエイロネイア皇太子―――実に頭の切れる人間です」
ティルスは冷静な表情を崩さぬように努めるが、それでも声に少々の怒りが滲んでいる。ましてや、隣を歩くレスターは感情を抑えようとすらせずに、きしり、と歯を噛み締める。
「頭が切れる上に非人道だ。あの野郎、戦場でも政治でも汚ねぇことしやがる……ッ!」
「……貴族院も表立って戦争を支持するような発言は出来ません。なので、シェイリーン様への批判、糾弾も、一応の終結は見ました。
けれど、その後です。
シェイリーン様の周囲を怪しげな連中が付回すようになったのは」
「それは……」
はっ、として顔を上げるラーシャ。デルタも同じだ。
その青ざめた表情に、カノンは大陸で二人から聞かされた話を思い出す。現総統シェイリーン=ラタトスの父親である前総統の末路が、どんなものだったのか。
同じ結論に至ったらしい、アルティオの舌打ちが聞こえた。彼だけではない。シリアは眉間に皺を寄せて、嫌悪の表情を浮かべる。レンもルナも、差たる反応は見せないがやはりどこか苦い顔で押し黙っている。
ティルスは全員の悪い想像を肯定付けるように溜め息を吐いた。
「……クラヴェール様のときと同じ、暗殺者の集団だと、私は考えています」
「なら、やっぱりさ、そんな危険な王都に総統を置いとくわけにいかねぇだろ?」
さくり、と彼らの踏み出した足音が、一際高く聞こえた。
「和平の旗頭であるシェイリーン様を失うわけには行きません。シェイリーン様は前線指揮の名目で、こちらの付近にある砦に留まっておいでなのです」
「……ノール港が閉鎖されれば、私の船はこちらの港を選ぶ予定だった。そのためだな?」
「はい。シェイリーン様はラーシャ様のお帰りと皆様のご到着を頼りに、長い間、お待ちになっておりました」
瞑目して答えるティルスに、ラーシャは長い息を吐く。そして、ゆっくりと首を振って、天を仰ぐ。
「何ということだ……。やはり、私がシンシアを離れるべきではなかったか……ッ!」
「……あの野郎……。どこでもかしこでも、汚ねぇ手を使っていやがるな……ッ!」
堪えきれない怒りを押さえつけるように、押し殺した声でアルティオが漏らす。その言葉に、先頭を歩いていたティルスが不意に反応して振り返る。
「皆様はエイロネイア皇太子をご存知で? デルタ、既に説明したのですか?」
「いえ、それが実は……」
「エイロネイアの手の者が、彼らに接触しているらしい、とのことだったろう?
驚くことに、その手の者が、エイロネイア皇太子ロレンツィア=エイロネイア本人だった……今でも、信じ難いが―――
あの者はエイロネイアの帝国紋章を所持していた。おそらくは本物だろう」
「何ですって……?」
ティルスは眼鏡を抑えて軽く驚愕する。レスターの眉がつり上がり、二人は表情を歪ませて顔を見合わせた。レスターは小さく肩を竦める。
―――……?
その反応に、カノンは訝しげに眉をひそめた。その視線に気が付いたティルスは、何かを逡巡していたが、やがて軽く咳払いをして踵を返す。
「……どうやら、我々は今も彼の思う壺に入っているようですね……」
「何?」
「詳しくは、主の前ですることに致しましょう。ノール港のことも、重ねてお答えします。
―――着きました」
言って、彼は歩みを止める。同時にカノンたちもその場で足を止めた。止まり損ねたらしいシリアが、前を歩いていたアルティオに鼻先をぶつけたらしく、後ろでひしゃげた声がしたが。
呆れた溜め息を吐いてからカノンは視線を上げる。
ばさり、とレスターが視界を狭める木々の低い枝を避けてくれた。そのおかげで、女性の割に背の高いラーシャの後ろからでも、それの外観を眺めることが出来た。
細い街道が、視界の開けた草原の先で太い街道と交わっている。
そして、そのさらに先の太い街道が途切れていて、
「……」
知らず知らずのうちに固唾を飲み込んでいた。
広がる灰色の空が、途中で消えている。いや、遮られている。重々しい雲を背景に、その居城は聳え立っていた。
黒いシルエットを描く、幾つもの塔が生えた石造りの建造物。
砦、と呼ばれるそれと同じようなものを、カノンは何度か目にしたことがある。貴族の住むような、美しさを追求した城などではなく、防壁と有事に備えて陣配置のされた堅固な城。ただ、帝国で目にするそれは、古び、寂れた旧世代の異物にすぎない。
その現物が、目の前で機能して、こうして聳えている。
ぶるり、と肩が震えたのは武者震いが、それとも得体の知れない寒気なのか。
「―――シンシア第三関所、バラック・ソルディーアと呼ばれる砦です。あそこに我らの主、シェイリーン=ラタトス様がいらっしゃいます」
振り返ったティルスが厳かに言う。
ラーシャが感慨深げにその城を見上げて、拳を握り締めた。そして、戦場で指揮を執る、そのときのようにデルタやレスターを数歩だけ下がらせて、
「……ようこそ、ゼルゼイル北方シンシア国へ。我らは皆様を歓迎いたします。どうぞ、我らが主にご面会を」
「……」
格式ばった言葉を並べ、丁寧に頭を下げる。デルタとティルス、そしてやや不服そうにしながらレスターもその礼に倣う。
カノンは無言でそれを受け止めると、今一度、黒い影を作る砦へと目をやった。
振り返って、全員と目を合わせる。レン、ルナ、シリア、アルティオ。些か表情は硬かったが、四人ともが、静かに頷いた。
その意志を伝えるように、カノンは面を上げたラーシャに居住まいを正し、ゆっくりと、深く頷いたのだった。
←2へ
港の外郭が、次第に明確になって来て。
最初に異変に気が付いたのは、甲板でシリアの世話を焼いていたアルティオだった。
皆、荷物を纏めるために、一度船内に入っていた。甲板で口元を押さえながら呻くシリアの背中を摩って、ふと、段々と近づく港の方へと目線を向けたとき。
「……ん?」
初めは何かの間違いかと思った。
港や砂浜といった場所に、鳥や獣の類が群れていることは稀にある。一瞬、それかとも思った。……いや、違う。願ったのだ。あまりに、あまりの光景だったから。
目を凝らして、凝視して、次の瞬間には驚愕した。
「な……ッ!」
くぐもった声を上げて、シリアをとりあえず座らせると乱暴に船内の扉を開く。
そこにはちょうど、甲板に出ようとしていた将官、ラーシャ=フィロ=ソルト中将が、目を丸くして立っていた。
「アルティオ殿? どうかしたのか?」
「……どうかした、じゃねぇよ! あんた! あれは何だッ!?」
「あれ、とは……?」
眉間に皺を寄せて問い返すラーシャに、唾を飛ばしながら怒鳴り返す。だが、相手はまったく何のことか理解していないようだった。
舌を打って、アルティオは甲板に出るよう合図する。
彼の上げた怒号に、船内にいた全員が驚いて顔を出した。
「ち、ちょっと何、アルティオ。どうしたの?」
「どうしたの、とか言ってる場合じゃねぇ! ヤバイぞ、あれはッ!!」
「はぁ?」
「な……ッ! あッ、あれは……ッ!!」
甲板から響いたのは、ラーシャの切羽詰った声だった。それからどたどたと走る音が聞こえて、やがて、船長室へ向けて舵の方角を変えるようにと怒鳴る声が聞こえた。
その異様なまでに甲高い声に、カノンは傍らにいたルナと顔を見合わせる。彼女らより判断が早かったレンは、船内のドア近くにいたアルティオを押しのけて甲板に出た。
次に我に返ったデルタが、その後を追う。
甲板に出て、船先に身を乗り出して。
そして絶句した。
彼の頬を、額を、冷たい汗が流れていく。
その彼らの背を追って、船内から飛び出したカノンとルナも、それぞれに言葉を失った。騒ぎに身を起こしたシリアも右に同じ。
アルティオがそう感じたのと同様に、港に群がる影は、何かの動物の群れにも見えた。しかし、違う。
そこに群れているのは人だった。それが皆、一様に同じ色の服を纏い、不自然に整然と並んでいたから、そのように見えてしまっただけ。
紺と基調にした礼服、いや、軍服。そして、遠目に見えるその手に握られていたのは、―――弓と、銀の矢尻が光る矢。
馬に乗っているのだろうか。先頭に、他の人間より頭二つ分ほど突き出した格好で、一人だけ白の軍服を着た将兵が見える。細身の剣を手にし、海風に金の長い髪を揺らし……。
しかし、ここからでは性別の判断はつけられない。
そして。
ばさりッ、と風に音を立てて、不意に群れ―――いや、その小隊の真ん中に翻る旗には、八咫鴉の紋。
「バカな……ッ! 何故、シンシアの港にエイロネイアが……ッ!!」
息の詰まった声で、デルタが吐き出す。その瞬間、小隊の先頭に立つ白い軍服の持つ剣が、孤を描くように振られた。
彼よりも一瞬早く、平静を取り戻したレンは、弓隊の引き絞る矢に気が付いて、声を飛ばした。
「伏せろッ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん………ッッッ!
はっ、としたカノンが傍らにいたルナを引き摺り倒し、レンがデルタの腕を掴んで床に縫い止める。アルティオが、蹲ったままのシリアを庇うように伏せた、刹那。
小さな船体に、小隊から放たれた無数の矢が降り注いだ。
カノンの頬を浅く傷つけて、あるいは髪を一本削ぎ落とし、かつッ! と背後の木板に銀の矢尻が突き刺さる。
「ふざけんなよッ! どんな歓迎の仕方だよ、あれはッ!」
「デルタ! ノール港ってのはシンシア領地に属する安全な港の一つじゃなかったのッ!?」
「……ッ!」
カノンの問いに、デルタは答えない。答えられないのだ。ノール港から戦地は、確かに遠いとは言えなかった。しかし、ラーシャとデルタが出国してから半月余り、とてもではないがそんな短期間で侵略されるような近い距離にある港でもなかった。
シンシア王都であるゼルフィリッシュまでは、海から距離がある。
急ぎであったラーシャとデルタは、国の中程に位置するノール港に入り、そこから軍車を使って王都に向かうというプランを立てていた。それが迅速と安全を兼ね備えた、最適なルートであったはずなのに……ッ!
船体が傾き出している。ラーシャの指示によって、船長が港と反対方向に舵を取ったのだ。
しかし、帆船というのは厄介なもので、いつも風の影響が出る。船体が完全に向きを変えて滑り出すよりも、弓矢の第二陣が来る方が、圧倒的に早い!
「く……ッ」
デルタは唇を噛む。客将を護衛することも出来ないなんて、シンシア軍の将官として恥だ。
―――どうする……ッ!? とりあえず、全員船内へ……ッ!?
だんッ!!
「ッ、ルナ!?」
伏せたままの一同を尻目に、不意に立ち上がったのは何かの詠唱を終えたルナだった。立ち上がって、弓矢を引き絞る小隊の真正面の船縁へ走る。
「ちょ、ルナッ!? 何を……ッ!?」
「………我望む、覇するは白き永遠の衝撃……」
小声で響いた詠唱は、大規模破壊呪文。ルナのストックの中でも、最強を誇る嚇光術。船縁から、自ら身を捧げるように乗り出して、彼女はたゆたう水面に両手を翳す!
白い軍服の将官が、剣を振るったのは、それとほぼ同時だった。
「放て、セイアリーバーストッ!!」
どぉぉぉぉぉぉぉぅんッ!!
「うぉ……ッ!?」
「きゃぁぁぁッ!?」
呻き声と悲鳴が重なって、カノンたちは甲板をころころと転がった。船体は大幅に傾いて、転がった全員がだるまになって船倉の入り口に押し潰される。
「お、重い~~~……」
「ッ! っていうか、ドサクサに紛れてどこ触ってんのよ、あんたはッ!?」
「いって、カノン! 不可抗力だって、今のは!」
ルナの放った閃光は、海を抉り、海面に巨大な波を生み出した。舞い上がった大きなうねりは、飛来する矢を飲み込んで、また波の反動は小さな船体を沖へと押し流す。
波が引いた後は、船はかなり沖まで流されていて、そこはもう小さな弓矢ごときが届くような距離ではなかった。しばらく伏せて待っていると、船体は向きを変えて、港とは反対の方向へ動き出す。
……代償として、海水がかなり甲板を濡らしたけれど。
「うっぷ……ッ、ったく、無茶するわね……」
「きゃぁぁ!? もぉ、せっかくマント買い換えたばっかりなのに、どうしてくれるのよ!? 塩水でぐちゃぐちゃじゃないッ!」
「船酔いは直ったみたいだからいーじゃねぇかよ。それより俺の麗しい顔が! っていうか俺どうなってんだ!? 暗くて何も見えねぇ!」
「……顔云々以前にアルティオ、頭にわかめ乗ってるわよ。そのせいだと思うけど」
「皆様、すまない! ご無事か!?」
船長室から顔を出したラーシャが、駆け寄りながら声を上げる。海水に塗れた服を払いながら、各々に立ち上がって、
「ッ! 伏せてッ!!」
「へ?」
港の向こうを凝視していたルナが、再度、声を上げた。疑問符を浮かべるカノンの背を、レンが強制的に押す。同時に反射的に全員が屈みこんで、
瞬間。
どぉおおおおぉおおおおぉおおおおおおおんッ!!!
「―――ッ!?」
轟音が、全員の耳を貫いた。閃光に、目が焼かれる。光が視界を埋め尽くすより先に見えたものは、港の方向から飛来する、
巨大な、黒い光弾。
眩暈がした。ぐらりと、閃光と轟音による衝撃が、船を左右に揺さぶった。
―――ぅく……ッ!
膝をついて、カノンは目を覆う。瞼の上に光がないことを知ると、身を起こす。怪我は……ない。
目を開ける。ゆらゆらと揺れる船の床に立ち上がって、周囲を見渡して。
先ほどより荒々しい波を立てる海以外は、何もない……? いや、
「……ッ!」
視線を上げて、唖然とした。
帆船、というものはマストに帆を張り、風を捕まえて、航行する。小さな船だがこの船もまた、羊皮をなめした、まずまず丈夫で立派な帆を備えていた。
その帆が。
半分だけ。面積の半分だけを残して、大きく抉られていた。抉られている先には、何もない。灰色の空が、空洞となって見えているだけ。煤けた跡もない。文字通り、"消失している"のだ。
薄ら寒い汗が、カノンの背を伝う。
物質消失。物を焼いたり燃やしたりせずに、一瞬にして塵と化す術は、確かに存在する。
だが、こんな遠距離で、こんな船の帆をそのまま抉ってしまうような範囲の広いものなど……! 少なくとも、正常な人間が使っているのを見たことは、一度も、ない。
ましてや、あの範囲の中に人間などが存在したら―――
思考速度の違いさえあったが、やがて全員がその答えに行き着く。カノンは言葉もなく、唇を引き締めた。
ルナはひたすらに、黒の光弾が放たれた港を凝視し、シリアとアルティオは妙な汗を掻きながら、誰かの言葉を待っている。
レンはじっと、その消失した帆を眺め、沈思していた。
そして気が付いたように、唖然とする女軍官を振り向いて、
「……どういうことになっているのかは知らないが……。
この派手な歓迎に心当たりがないのなら、あの港から上陸するのは、いや、今この海域にいることさえ愚考だな」
「……」
彼の言葉を受けて、ラーシャは茫然とさせていた表情を引き締める。客将を預かっている身、という責任感が、彼女に冷静さを取り戻させた。
ラーシャは少し離れた場所で帆を見上げていた従者を振り返る。その視線に気が付いた銀髪の少年は、生真面目な表情を取り戻して、深く頷いた。
彼女はそのまま船長室へ向かって、何事かを告げる。
そして、港をちらりと振り返り、小さく首を振った。
「……すまない。私たちでは、十分な説明が出来そうにない。とりあえず、ここから離れた港に案内する。説明は……仲間と合流してからにして欲しい」
吐き出した言葉からは、やや力が抜けていた。カノンはしばらく瞑目し、遠ざかる港と破壊された帆を改めて見比べて。
彼女と同じような、困惑と小さな焦燥を張り付かせた表情で、頷いた。
海上に消えていく小さな船影に、黒い光弾を放った人物は、金の髪を掻き揚げて小さく舌を打った。
「はずれ~」
「く……ッ」
「エリシア様、相変わらずノーコンですよね~」
「うるさいわよ、小娘。お尻が青いうちはいっちょ前に抗議なんてするんじゃないの」
ふん、と鼻を鳴らして彼女……いや、彼か。中世的な顔立ちと、しっかり手入れされたウェーブのかかる金の長い髪、派手に飾り付けられた白い軍服に、判断が狂わされる。だが、大柄の背格好を見る限り、やはり男性なのだろう。……言葉遣いにも、優雅な動作にも、何故か女性的なものが色濃く映ってはいるが。
その彼を野次ったのは、こちらは明らかに女性。軍服こそ着てはいないが、長い裾のローブにはしっかり八咫鴉の紋が刻まれている。紺を基調に、赤や桃色の華やかな線が描かれたローブは、彼女の豊かなボディーラインを強調していた。
海風に攫われる、腰まで伸ばした栗色の髪を押さえて、彼女は切れ長の蒼い瞳を細めて軍服の―――エリシアと自らが呼んだ男を見た。
「あら、私はお尻、青くなんてないですよ。なんでしたらお見せしましょうか?」
「止めなさい。そんな小娘のお尻なんて、見るだけ反吐が出るから」
「エリシア、リーゼリア。はしたない話は止しなさい。エイロネイアの品格が疑われるよ」
小隊の後方から響いた、澄んだ静かな声に、エリシアも女性も―――リーゼリアと呼ばれた彼女も口を閉ざして振り返った。
小隊の弓兵は同じように振り返って、慌てて面を下げて敬礼する。小隊の人の波が、自然と割れた。
かつり、と硬い靴音が響く。立っていたのは、海風へ、ゆるやかに黒服の袖を靡かせる少年。柔らかな黒髪がさらさらと揺れて、半分だけ露になっている秀麗な顔には苦笑が浮かんでいる。
「あ……」
「あら、殿下。おかえりなさい」
その場にいた黒い影に、極涼しく声をかけたエリシアと反して、リーゼリアは声を漏らして僅かに瞳を潤ませた。
「ロレン様ッ!」
ぱたぱたと、割れた小隊の中を駆けると、リーゼリアはそのまま黒い装束を纏う少年の首に抱き付いた。しがみ付く彼女の身体を難なく受け止めると、黒の少年は小さく微笑みを浮かべる。
その所作に、少年の背後にいた黒髪の少女―――シャルが、ひどくつまらなさそうに唇を尖らせて、少年の黒服を少しだけ引っ張った。
しばらくそのまま身を寄せると、リーゼリアは満足がいったのか、身を離して正面から白い彼の顔を覗き込む。
「おかえりなさいませ、ロレン様。西方大陸でのお仕事はいかがでしたか?」
「上々だね。リーゼもエリシアもご苦労様。長らく留守にしてすまなかった」
「そうよぅ? まったく殿下ってば、戦時真っ只中だっていうのに、こっちに丸投げで遠征しちゃうんだもの。ボーナスは弾んで貰えるかしらぁ?」
「そういう交渉は経理に頼んでね、エリシア。まあ、口添えくらいはしてあげるよ」
「わ、私は別に何もいりませんよ? その、ロレン様が無事なら、それで……」
慌てて取り繕うように口にするリーゼリアに、少年は可笑しそうに笑う。
「ありがとう、リーゼ。君たちには感謝してるよ」
くすり、と笑ってから、彼は不意に表情を正す。彼の視線が、波がたゆたう海上の向こうを差しているのに気が付いたエリシアは、小さく肩を竦めた。
「ごめんねぇ。逃がしちゃったみたい。意外とヤる魔道師の娘がいてさぁ」
「あ、ひょっとしてあの娘がエレメント中尉の昔の恋人って奴ですか?」
「あら、そうなの!? 意外ねぇ、小娘もいいところだったけど。ふーん、あの人あんなのが趣味だったのねぇ」
「エリシア、リーゼリア。露骨な話は慎むように。特に当人の目の前では口にしないように頼むよ。
彼は気分屋で激情する癖がある。仕事に差し支えがあってはたまらないからね」
静かに叱咤すると、エリシアもリーゼリアも罰が悪そうに口を閉じた。少年は海上と空を仰ぎ見てから踵を返す。
「まあ、戻ってくるということはないだろうけれど。引き続き、警戒を頼む。
ああ、沈める必要はないよ。むしろ、追い払う程度で良い」
「はぁい。くすくす、また何か考えてるわけね?」
「ノーコメント。僕はまた別の準備があるから、先の砦にいる。何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
「殿下ぁ。大陸から帰ったばかりでしょー? 少し休んだらぁ?」
「気遣いをありがとう。そして不要だよ、エリシア。それじゃあ、二人とも頑張って。行くよ、シャル」
ひらひらと、包帯を巻きつけた手を後ろに振りながら、少年は港を後にする。背後で縮こまっていた幼い黒服の少女は、やや憮然としながらも、ぺこり、と小さく頭を下げた後に、小走りで主の後を追ったのだった。
やや霧が深くなった。
帆の半分を失った小型の船は、鈍足を余儀なくされていたが、それでも陸に沿いながら航行を続けていた。
岩陰が連なる断崖から、次第に等高は下がり、船体の右側に広がる陸地には、森や林が見えるようになっていく。
ラーシャは船先に近い船縁から身を乗り出して、辺りを警戒しながら目を凝らしていた。
カノンたちもまた、場所こそ違うが甲板から辺りを見回していた。ゼルゼイルの地理の知識など皆無に等しい彼らには、船がどの場所を航行しているかなど分かるわけもなかった。しかし、それでも陸地に隠れた兵士や海上の軍船の影が見えないかどうか、警戒することは可能だ。
「ラーシャ様」
不意に、ラーシャの傍らで目を凝らしていたデルタが彼女の名を呼んだ。呼ばれるまでもなく、彼が目にしたものに気が付いていたラーシャは、さらに身を乗り出した。
陸地の際に続いていた林が途切れて、針の止まった小さな時計塔が見えた。その隣には、港に不可欠な管制塔。
その塔から身を乗り出した誰かが、白旗を振っている。旗には、彼女の胸に刻まれているものと同じ、鷲の紋章が。
ラーシャはほう、と胸を撫で下ろした。船長に指示を出し、接岸の準備をするようにと伝える。
「おいおい、ここは大丈夫なんだろうな? もう、わかめなんぞ被りたくねぇぞ」
「ああ。戦地からはかなり離れた場所だからな。あの旗も……振っている人間には心当たりがある」
不信を顔に張り付けて問うアルティオに、ラーシャ生真面目に答える。接岸のための波止場が見えてくると、そこに立つ二つの人影が手を振っているのが見えた。
おそらくは、旗を振っていた人物と同じ人間だろう。
「あれは……」
「ライアント大尉とコンチェルト少佐、のようですね」
船縁から身を乗り出したデルタが、人影を差して言う。
船が波止場に近づくにつれて、その顔もまた明確に見えて来た。
一人は大柄な男。腰に少々長めの(見立て的にはバスタードクラスと見た)、重量感がある剣を差している。やや癖のある黒髪を赤のバンダナで束ねていて、そのバンダナと同じ色の赤い軍服を着込んでいる。胸には、無論のこと鷲の紋章。ややつり目の黒い眼を見開いて、両手を振っている。
その傍らには、すらりと背筋を伸ばして敬礼を崩さない中肉中背の男。隣の男同様、赤い軍服をぴしっと着込み、薄い唇を真一文字に引き結んでいる。短剣を二振りずつ両腰に差して、両手首には何かの文字が刻まれた腕輪を通していた。藍色の瞳にシャープな造りの眼鏡をかけて、白金の髪を束ねてきっちりと括っている。
船が接岸作業に入ると、二人の男は波止場の上を走り、船に駆け寄った。
赤いバンダナの男は、船上を見上げてラーシャとデルタに手を伸ばしたが、白金の髪をした男は船体に突き刺さった矢と、大穴の開いた帆を眺めて厳しく目を吊り上げた。
「姐さん、無事ッスか!?」
「フィロ=ソルト中将、この矢は……。ノール港に向かわれたようですね……。
連絡が行き届かず、申し訳ありません」
「レスター、ティルス。すまない、心配をかけたようだな」
がこん、と船体が揺れた。船着場に接岸されたようだ。船室から中年の船長が現れて、太い綱を持ち、埠頭のほうへと飛び移る。差たる間も置かずに下船用の橋がかけられる。
ひらり、とラーシャが身を翻して埠頭へと着地する。荷を担いだデルタが、その後に続いた。その彼女に、二人の男が駆け寄る。
ティルス、と呼ばれた白金の男は、彼女に深く礼をして、その脇を素通りし、橋板に駆け寄った。そうして、船長に声をかけて、橋板を降りようとしていたカノンへ優雅に片手を伸ばす。
「いらっしゃいませ、ご客人。どうぞ、お手を」
「え、あ、……えっと」
「カノン殿。貴方方を招くこちらにとっては、これが礼儀なのだ。受け取ってやってくれ」
不慣れで戸惑う彼女に、ラーシャが助言する。言われたカノンはしばらく迷っていたが、小さく頷いて、大人しく好意を受け取る。
律儀な性格なのか、それともそうするように教育されているのか、ティルスはそのまま全員の下船を手伝った。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。遠いところをご足労いただき、誠にありがとうございます。
……そして、ご迷惑をおかけしました」
「まったくだぜ! 着いたと思ったらいきなり矢の洗礼かよ!
安全な港に行く、つってたのに何だありゃあ!? わかめなんぞ初めて被ったぞ!?」
「……そぅよぅ。そのせいで無駄な距離を船なんかに乗ることになったじゃないのぅ……ぅぅぅ……」
「いや、わかめもういいから。引っ張るなって。シリアも。文句は復活してからでいいから」
「……? と、ともかく、申し訳ありません。こちらの連絡不行き届きで、港の指定を十分に行えませんでした。深く、お詫びいたします」
ティルスは頭を下げる。ラーシャは一拍置いてから、同じように「申し訳ない」と頭を下げる。デルタが大きく息を吐いて渋い表情を作った。
「レスター、ティルス。あれはどういうことなんだ?
何故、ノール港が……あそこはまだシンシア領内だったはずだ。それも戦地からは離れていたはずだし……」
「デルタ。それは後で詳しく話すよ。説明するのには少し、時間がかかりそうだ……。
それより、」
「姐さん。姐さんが言ってた二人、ってのはどいつなんだよ?」
デルタの追求を止めたティルスの言葉を遮って、傍らにいたレスターと呼ばれた男が問いかける。つり目気味の目を、品定めするようにこちらに向けてくる。
好印象とは言い難いその反応に、カノンは眉間に皺を寄せるが、背後にいたレンに肩を叩かれ、諫められる。
ラーシャは小さく、呆れた息を吐いて、片手でカノンとレンを指しながら、
「レスター、失礼な言動は慎め。
こちらが先に言っていたカノン=ティルザード殿、そしてレン=フィティルアーグ殿だ。
そちらはお二人のご友人、ルナ=ディスナー殿、シリア=アレンタイル殿、アルティオ=バーガックス殿。訳あって、共に来て頂いた。
……頼りになる方々だ」
「ふーん……」
レスターは気のない返事で、じろじろとこちらを観察する。そしておもむろに、けっ、と唾を吐く。
ぴくり、とカノンの右の眉が動いた。
「何だよ。ただの小娘と優男じゃんか」
ぷちッ。
「人が大人しくして置けば言ってくれんじゃないのよ! 腕っ節しかとりえがなさそうな脳筋男に、小娘呼ばわりされるいわれはないわね!!
軍の中でどんだけお偉いさんか知らないけど、どうせ腕相撲の強さだけで出世したんでしょう!?」
「ンなッ!?」
「はん、脳みそ使わないとそのうち禿げるんじゃないの!? 女の子にフラれるわよ!?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「ああ、そういえば先日、やたらとブッラシングの毛を気にしてましたね」
「気にしてねぇよッ! てめぇ、ヘンなこと言うなッ!!」
「ふんッ。どうせ、頭がないもんだから実家からも恋人からも、能無し邪魔者宿六扱いされてんじゃあないのッ!?」
「て、てめぇ、この女……ッ!」
きりのないカノンの暴言に、レスターはふるふると拳を震わせた。その隣で汗を掻きながら、ラーシャがどう止めようかと首を傾げ始める。
だがレスターの拳が動くよりも、ラーシャが止めに入るよりも先に、
ごちッ!
「ッ! い、いったぁ……」
『……』
後頭部を直撃した援護射撃に、カノンが頭を押さえて蹲る方が早かった。すぐ背後にいた拳骨の持ち主は、無言で彼女の頭を打った手の甲に息を吹きかけた。
「レン……。そろそろあたしの脳細胞、死に過ぎなんじゃないかと思うんだけど……」
「安心しろ。細胞なんてものは、毎日生まれ変わっている」
唸りを上げる相棒に、無碍にもなく返すと彼は赤い軍服を着た二人の男へと向き直る。
「連れが失礼したな。まあ、そう言われると元も子もないが……。
別に俺たちは望んでここに来たわけじゃない。無論、ゼルゼイルに用があるにはあるが、必ずしもシンシアに帰属しなければならないわけでもない」
「……ちッ」
すらすらと、吐き出された彼の言葉の意味を理解できないほど頭が悪いわけではなかったらしい。レスターと呼ばれた男は舌打ちをして、素っ気無く余所を向く。
つまり、レンはこう言ったのだ。
シンシアに加担する明確な理由があるわけじゃない。手を切るならいつでも出来る、と。
そうなれば、レスターははるばる彼らを連れて来たラーシャや、ホストであるシンシア総統シェイリーン=ラタトスの面子を潰すことになりかねない。
「こちらも、異国で唯一の後ろ盾をなくすような馬鹿なことをやるつもりはないが……。
相棒はこの通り、火が着きやすいのでな。勘弁してやってくれ」
レンの言葉に、カノンが頭を摩りながら唇を尖らせる。それじゃあ、自分が子供みたいじゃないか。文句はあったが、ここでつまらない問答を延々とやっていても仕方がない。
とりあえず、場が収まったことを確かめて、ラーシャはこっそりと安堵の溜め息を吐く。
「カノン殿、レン殿。彼らは我がシンシア軍の幹部、ティルス=コンチェルト少佐、並びにレスター=ライアント大尉だ。
二人共、私の部下の中でも特に優秀な人材だ。これからの前線の指揮も取っている」
「ティルス=コンチェルトと申します。
片割れが無礼を致しました。代わりにお詫び致します。どうか禍根を残されませんよう、お願い致します」
「……」
ティルスは深々と頭を下げる。憮然としていたレスターも、さすがに大人気ないことに気が付いたか、浅くではあるが彼に倣って頭を低くした。
それを見て、軽くカノンも返す。レンも、その後ろにいたアルティオやシリアも倣う。
だが、ルナだけはそれに従わずに、腕を組み、眉間に皺を寄せて前に出る。
猫目の大きな瞳を周囲に向けて、シンシアの重臣たちを見回すと、ふとティルスに目を留めた。
「……あっちの茂みの中にいるのは、あんたの部下? あれも礼儀の一端?」
「はッ!?」
「……」
ストレートな彼女の物言いに、カノンもレンも眉を潜めて面を上げる。その手は自然と剣の柄に近い場所にあった。
素っ頓狂な声を上げたのはアルティオだ。シリアは構えようとして、しかし、船酔いの余韻が残っているらしく、渋い表情を作るのに留まった。
ラーシャは表情に緊張を走らせる。デルタとレスターは、罰が悪そうな顔をティルスに向けた。
注目されたティルスは、しかし、落ち着き払いながらはぁ、と息を漏らす。そして、ぱちん、と彼が指を鳴らすと、その僅かな気配は一瞬の内に掻き消えた。
「……失礼しました。恐れながら、貴方方にエイロネイアの手の者たちが接触しているとのお話でしたので……」
「で、その過程で。既にエイロネイアの間者として勧誘されている可能性を考えていた、と」
「左様です。ご無礼の程、お許しください」
ぴん、と線の張り詰めた緊張が走る。油断のならない、綺麗過ぎるティルス=コンチェルトの言葉。
ルナはふ、と肩を落してカノンを見た。判断は任せる、ということだろう。
カノンはしばし、顎に手を当てて、悩む。周囲の気配を探り、それ以上の気配が存在しないことを知ると、一度、空を仰いでから、ラーシャとティルスを振り返る。
「……説明はお仲間と合流してから、って言われてたけど。
さっきの港でのことも、今の状況も、大陸であたしたちにちょっかいを出してきた奴らの詳しいことも、全部ひっくるめて。
説明してもらえる?」
「……そのすべてをここで、というのは難しい要求です」
カノンの問いに、ティルスは一言で答えた。そして、唐突に踵を返す。
「この先の、シンシアの関所に我らの主がいらっしゃいます」
「何……?」
声を漏らしたのはラーシャだった。付き従うデルタもまた、眉を潜めてティルスの姿を目で追った。
彼らの主―――おそらくは、シンシア総統であるというシェイリーン=ラタトス。ラーシャの濁った声も当たり前だ。何故、そんな北方シンシアという国の要となる人物が、こんな王都から離れた場所にいるというのか。
ラーシャたちの反応から、彼女たちにも想定外の事実だったことが伺える。
「詳しくは、そこでお話します。中将が大陸に遠征されている間に、何が起こったかも、今何が起こっているのかも、すべて」
「……」
そう言って、それ以上の問答を許さないかのようにティルスは静かに歩き出す。レスターが肩を竦めて、ラーシャに謝るような動作をしてから、その後を追った。
ラーシャはその二人の背に、少しだけ瞑目し、顔をしかめる。そうして、カノンたちを振り返った。
「……」
カノンは、彼女が何かを言う前に頷く。
追おう、という意思表示だった。罠にしろ、何にしろ、カノンたちには海に戻るか陸に上がるかの選択肢しかないのだ。
頷き返して、ラーシャは波止場を歩き出す。デルタが続いて、カノンたちもその後ろに付いた。
波止場から陸地に上がる寸前、カノンは一瞬だけ振り返る。
霧が深くて、海の向こうはもう見えない。いや、晴れていたとしても、そこに西方大陸が、たとえ米粒ほどの大きさとしても見ることが出来るのかどうかは解らない。
随分と、遠い。
――― ……。
ふと、海の上で浮かんだ不安が、また胸の中に舞い戻る。果たして、自分は、自分たちは、またあの故郷の大陸に戻ることが出来るのだろうか。
誰一人、欠けることなく。
そこまで考えて、首を振る。考えても甲斐のないこと。剣を、意志を、皆との思い出を、持っている。だから、全力で守る。
カノンに出来るのは、それだけだ。
不安を振り切るように、霧の海から目を逸らし、波止場を降りて。
カノンは、その奈落の大地の土を踏んだ。
←1へ
最初に異変に気が付いたのは、甲板でシリアの世話を焼いていたアルティオだった。
皆、荷物を纏めるために、一度船内に入っていた。甲板で口元を押さえながら呻くシリアの背中を摩って、ふと、段々と近づく港の方へと目線を向けたとき。
「……ん?」
初めは何かの間違いかと思った。
港や砂浜といった場所に、鳥や獣の類が群れていることは稀にある。一瞬、それかとも思った。……いや、違う。願ったのだ。あまりに、あまりの光景だったから。
目を凝らして、凝視して、次の瞬間には驚愕した。
「な……ッ!」
くぐもった声を上げて、シリアをとりあえず座らせると乱暴に船内の扉を開く。
そこにはちょうど、甲板に出ようとしていた将官、ラーシャ=フィロ=ソルト中将が、目を丸くして立っていた。
「アルティオ殿? どうかしたのか?」
「……どうかした、じゃねぇよ! あんた! あれは何だッ!?」
「あれ、とは……?」
眉間に皺を寄せて問い返すラーシャに、唾を飛ばしながら怒鳴り返す。だが、相手はまったく何のことか理解していないようだった。
舌を打って、アルティオは甲板に出るよう合図する。
彼の上げた怒号に、船内にいた全員が驚いて顔を出した。
「ち、ちょっと何、アルティオ。どうしたの?」
「どうしたの、とか言ってる場合じゃねぇ! ヤバイぞ、あれはッ!!」
「はぁ?」
「な……ッ! あッ、あれは……ッ!!」
甲板から響いたのは、ラーシャの切羽詰った声だった。それからどたどたと走る音が聞こえて、やがて、船長室へ向けて舵の方角を変えるようにと怒鳴る声が聞こえた。
その異様なまでに甲高い声に、カノンは傍らにいたルナと顔を見合わせる。彼女らより判断が早かったレンは、船内のドア近くにいたアルティオを押しのけて甲板に出た。
次に我に返ったデルタが、その後を追う。
甲板に出て、船先に身を乗り出して。
そして絶句した。
彼の頬を、額を、冷たい汗が流れていく。
その彼らの背を追って、船内から飛び出したカノンとルナも、それぞれに言葉を失った。騒ぎに身を起こしたシリアも右に同じ。
アルティオがそう感じたのと同様に、港に群がる影は、何かの動物の群れにも見えた。しかし、違う。
そこに群れているのは人だった。それが皆、一様に同じ色の服を纏い、不自然に整然と並んでいたから、そのように見えてしまっただけ。
紺と基調にした礼服、いや、軍服。そして、遠目に見えるその手に握られていたのは、―――弓と、銀の矢尻が光る矢。
馬に乗っているのだろうか。先頭に、他の人間より頭二つ分ほど突き出した格好で、一人だけ白の軍服を着た将兵が見える。細身の剣を手にし、海風に金の長い髪を揺らし……。
しかし、ここからでは性別の判断はつけられない。
そして。
ばさりッ、と風に音を立てて、不意に群れ―――いや、その小隊の真ん中に翻る旗には、八咫鴉の紋。
「バカな……ッ! 何故、シンシアの港にエイロネイアが……ッ!!」
息の詰まった声で、デルタが吐き出す。その瞬間、小隊の先頭に立つ白い軍服の持つ剣が、孤を描くように振られた。
彼よりも一瞬早く、平静を取り戻したレンは、弓隊の引き絞る矢に気が付いて、声を飛ばした。
「伏せろッ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん………ッッッ!
はっ、としたカノンが傍らにいたルナを引き摺り倒し、レンがデルタの腕を掴んで床に縫い止める。アルティオが、蹲ったままのシリアを庇うように伏せた、刹那。
小さな船体に、小隊から放たれた無数の矢が降り注いだ。
カノンの頬を浅く傷つけて、あるいは髪を一本削ぎ落とし、かつッ! と背後の木板に銀の矢尻が突き刺さる。
「ふざけんなよッ! どんな歓迎の仕方だよ、あれはッ!」
「デルタ! ノール港ってのはシンシア領地に属する安全な港の一つじゃなかったのッ!?」
「……ッ!」
カノンの問いに、デルタは答えない。答えられないのだ。ノール港から戦地は、確かに遠いとは言えなかった。しかし、ラーシャとデルタが出国してから半月余り、とてもではないがそんな短期間で侵略されるような近い距離にある港でもなかった。
シンシア王都であるゼルフィリッシュまでは、海から距離がある。
急ぎであったラーシャとデルタは、国の中程に位置するノール港に入り、そこから軍車を使って王都に向かうというプランを立てていた。それが迅速と安全を兼ね備えた、最適なルートであったはずなのに……ッ!
船体が傾き出している。ラーシャの指示によって、船長が港と反対方向に舵を取ったのだ。
しかし、帆船というのは厄介なもので、いつも風の影響が出る。船体が完全に向きを変えて滑り出すよりも、弓矢の第二陣が来る方が、圧倒的に早い!
「く……ッ」
デルタは唇を噛む。客将を護衛することも出来ないなんて、シンシア軍の将官として恥だ。
―――どうする……ッ!? とりあえず、全員船内へ……ッ!?
だんッ!!
「ッ、ルナ!?」
伏せたままの一同を尻目に、不意に立ち上がったのは何かの詠唱を終えたルナだった。立ち上がって、弓矢を引き絞る小隊の真正面の船縁へ走る。
「ちょ、ルナッ!? 何を……ッ!?」
「………我望む、覇するは白き永遠の衝撃……」
小声で響いた詠唱は、大規模破壊呪文。ルナのストックの中でも、最強を誇る嚇光術。船縁から、自ら身を捧げるように乗り出して、彼女はたゆたう水面に両手を翳す!
白い軍服の将官が、剣を振るったのは、それとほぼ同時だった。
「放て、セイアリーバーストッ!!」
どぉぉぉぉぉぉぉぅんッ!!
「うぉ……ッ!?」
「きゃぁぁぁッ!?」
呻き声と悲鳴が重なって、カノンたちは甲板をころころと転がった。船体は大幅に傾いて、転がった全員がだるまになって船倉の入り口に押し潰される。
「お、重い~~~……」
「ッ! っていうか、ドサクサに紛れてどこ触ってんのよ、あんたはッ!?」
「いって、カノン! 不可抗力だって、今のは!」
ルナの放った閃光は、海を抉り、海面に巨大な波を生み出した。舞い上がった大きなうねりは、飛来する矢を飲み込んで、また波の反動は小さな船体を沖へと押し流す。
波が引いた後は、船はかなり沖まで流されていて、そこはもう小さな弓矢ごときが届くような距離ではなかった。しばらく伏せて待っていると、船体は向きを変えて、港とは反対の方向へ動き出す。
……代償として、海水がかなり甲板を濡らしたけれど。
「うっぷ……ッ、ったく、無茶するわね……」
「きゃぁぁ!? もぉ、せっかくマント買い換えたばっかりなのに、どうしてくれるのよ!? 塩水でぐちゃぐちゃじゃないッ!」
「船酔いは直ったみたいだからいーじゃねぇかよ。それより俺の麗しい顔が! っていうか俺どうなってんだ!? 暗くて何も見えねぇ!」
「……顔云々以前にアルティオ、頭にわかめ乗ってるわよ。そのせいだと思うけど」
「皆様、すまない! ご無事か!?」
船長室から顔を出したラーシャが、駆け寄りながら声を上げる。海水に塗れた服を払いながら、各々に立ち上がって、
「ッ! 伏せてッ!!」
「へ?」
港の向こうを凝視していたルナが、再度、声を上げた。疑問符を浮かべるカノンの背を、レンが強制的に押す。同時に反射的に全員が屈みこんで、
瞬間。
どぉおおおおぉおおおおぉおおおおおおおんッ!!!
「―――ッ!?」
轟音が、全員の耳を貫いた。閃光に、目が焼かれる。光が視界を埋め尽くすより先に見えたものは、港の方向から飛来する、
巨大な、黒い光弾。
眩暈がした。ぐらりと、閃光と轟音による衝撃が、船を左右に揺さぶった。
―――ぅく……ッ!
膝をついて、カノンは目を覆う。瞼の上に光がないことを知ると、身を起こす。怪我は……ない。
目を開ける。ゆらゆらと揺れる船の床に立ち上がって、周囲を見渡して。
先ほどより荒々しい波を立てる海以外は、何もない……? いや、
「……ッ!」
視線を上げて、唖然とした。
帆船、というものはマストに帆を張り、風を捕まえて、航行する。小さな船だがこの船もまた、羊皮をなめした、まずまず丈夫で立派な帆を備えていた。
その帆が。
半分だけ。面積の半分だけを残して、大きく抉られていた。抉られている先には、何もない。灰色の空が、空洞となって見えているだけ。煤けた跡もない。文字通り、"消失している"のだ。
薄ら寒い汗が、カノンの背を伝う。
物質消失。物を焼いたり燃やしたりせずに、一瞬にして塵と化す術は、確かに存在する。
だが、こんな遠距離で、こんな船の帆をそのまま抉ってしまうような範囲の広いものなど……! 少なくとも、正常な人間が使っているのを見たことは、一度も、ない。
ましてや、あの範囲の中に人間などが存在したら―――
思考速度の違いさえあったが、やがて全員がその答えに行き着く。カノンは言葉もなく、唇を引き締めた。
ルナはひたすらに、黒の光弾が放たれた港を凝視し、シリアとアルティオは妙な汗を掻きながら、誰かの言葉を待っている。
レンはじっと、その消失した帆を眺め、沈思していた。
そして気が付いたように、唖然とする女軍官を振り向いて、
「……どういうことになっているのかは知らないが……。
この派手な歓迎に心当たりがないのなら、あの港から上陸するのは、いや、今この海域にいることさえ愚考だな」
「……」
彼の言葉を受けて、ラーシャは茫然とさせていた表情を引き締める。客将を預かっている身、という責任感が、彼女に冷静さを取り戻させた。
ラーシャは少し離れた場所で帆を見上げていた従者を振り返る。その視線に気が付いた銀髪の少年は、生真面目な表情を取り戻して、深く頷いた。
彼女はそのまま船長室へ向かって、何事かを告げる。
そして、港をちらりと振り返り、小さく首を振った。
「……すまない。私たちでは、十分な説明が出来そうにない。とりあえず、ここから離れた港に案内する。説明は……仲間と合流してからにして欲しい」
吐き出した言葉からは、やや力が抜けていた。カノンはしばらく瞑目し、遠ざかる港と破壊された帆を改めて見比べて。
彼女と同じような、困惑と小さな焦燥を張り付かせた表情で、頷いた。
海上に消えていく小さな船影に、黒い光弾を放った人物は、金の髪を掻き揚げて小さく舌を打った。
「はずれ~」
「く……ッ」
「エリシア様、相変わらずノーコンですよね~」
「うるさいわよ、小娘。お尻が青いうちはいっちょ前に抗議なんてするんじゃないの」
ふん、と鼻を鳴らして彼女……いや、彼か。中世的な顔立ちと、しっかり手入れされたウェーブのかかる金の長い髪、派手に飾り付けられた白い軍服に、判断が狂わされる。だが、大柄の背格好を見る限り、やはり男性なのだろう。……言葉遣いにも、優雅な動作にも、何故か女性的なものが色濃く映ってはいるが。
その彼を野次ったのは、こちらは明らかに女性。軍服こそ着てはいないが、長い裾のローブにはしっかり八咫鴉の紋が刻まれている。紺を基調に、赤や桃色の華やかな線が描かれたローブは、彼女の豊かなボディーラインを強調していた。
海風に攫われる、腰まで伸ばした栗色の髪を押さえて、彼女は切れ長の蒼い瞳を細めて軍服の―――エリシアと自らが呼んだ男を見た。
「あら、私はお尻、青くなんてないですよ。なんでしたらお見せしましょうか?」
「止めなさい。そんな小娘のお尻なんて、見るだけ反吐が出るから」
「エリシア、リーゼリア。はしたない話は止しなさい。エイロネイアの品格が疑われるよ」
小隊の後方から響いた、澄んだ静かな声に、エリシアも女性も―――リーゼリアと呼ばれた彼女も口を閉ざして振り返った。
小隊の弓兵は同じように振り返って、慌てて面を下げて敬礼する。小隊の人の波が、自然と割れた。
かつり、と硬い靴音が響く。立っていたのは、海風へ、ゆるやかに黒服の袖を靡かせる少年。柔らかな黒髪がさらさらと揺れて、半分だけ露になっている秀麗な顔には苦笑が浮かんでいる。
「あ……」
「あら、殿下。おかえりなさい」
その場にいた黒い影に、極涼しく声をかけたエリシアと反して、リーゼリアは声を漏らして僅かに瞳を潤ませた。
「ロレン様ッ!」
ぱたぱたと、割れた小隊の中を駆けると、リーゼリアはそのまま黒い装束を纏う少年の首に抱き付いた。しがみ付く彼女の身体を難なく受け止めると、黒の少年は小さく微笑みを浮かべる。
その所作に、少年の背後にいた黒髪の少女―――シャルが、ひどくつまらなさそうに唇を尖らせて、少年の黒服を少しだけ引っ張った。
しばらくそのまま身を寄せると、リーゼリアは満足がいったのか、身を離して正面から白い彼の顔を覗き込む。
「おかえりなさいませ、ロレン様。西方大陸でのお仕事はいかがでしたか?」
「上々だね。リーゼもエリシアもご苦労様。長らく留守にしてすまなかった」
「そうよぅ? まったく殿下ってば、戦時真っ只中だっていうのに、こっちに丸投げで遠征しちゃうんだもの。ボーナスは弾んで貰えるかしらぁ?」
「そういう交渉は経理に頼んでね、エリシア。まあ、口添えくらいはしてあげるよ」
「わ、私は別に何もいりませんよ? その、ロレン様が無事なら、それで……」
慌てて取り繕うように口にするリーゼリアに、少年は可笑しそうに笑う。
「ありがとう、リーゼ。君たちには感謝してるよ」
くすり、と笑ってから、彼は不意に表情を正す。彼の視線が、波がたゆたう海上の向こうを差しているのに気が付いたエリシアは、小さく肩を竦めた。
「ごめんねぇ。逃がしちゃったみたい。意外とヤる魔道師の娘がいてさぁ」
「あ、ひょっとしてあの娘がエレメント中尉の昔の恋人って奴ですか?」
「あら、そうなの!? 意外ねぇ、小娘もいいところだったけど。ふーん、あの人あんなのが趣味だったのねぇ」
「エリシア、リーゼリア。露骨な話は慎むように。特に当人の目の前では口にしないように頼むよ。
彼は気分屋で激情する癖がある。仕事に差し支えがあってはたまらないからね」
静かに叱咤すると、エリシアもリーゼリアも罰が悪そうに口を閉じた。少年は海上と空を仰ぎ見てから踵を返す。
「まあ、戻ってくるということはないだろうけれど。引き続き、警戒を頼む。
ああ、沈める必要はないよ。むしろ、追い払う程度で良い」
「はぁい。くすくす、また何か考えてるわけね?」
「ノーコメント。僕はまた別の準備があるから、先の砦にいる。何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
「殿下ぁ。大陸から帰ったばかりでしょー? 少し休んだらぁ?」
「気遣いをありがとう。そして不要だよ、エリシア。それじゃあ、二人とも頑張って。行くよ、シャル」
ひらひらと、包帯を巻きつけた手を後ろに振りながら、少年は港を後にする。背後で縮こまっていた幼い黒服の少女は、やや憮然としながらも、ぺこり、と小さく頭を下げた後に、小走りで主の後を追ったのだった。
やや霧が深くなった。
帆の半分を失った小型の船は、鈍足を余儀なくされていたが、それでも陸に沿いながら航行を続けていた。
岩陰が連なる断崖から、次第に等高は下がり、船体の右側に広がる陸地には、森や林が見えるようになっていく。
ラーシャは船先に近い船縁から身を乗り出して、辺りを警戒しながら目を凝らしていた。
カノンたちもまた、場所こそ違うが甲板から辺りを見回していた。ゼルゼイルの地理の知識など皆無に等しい彼らには、船がどの場所を航行しているかなど分かるわけもなかった。しかし、それでも陸地に隠れた兵士や海上の軍船の影が見えないかどうか、警戒することは可能だ。
「ラーシャ様」
不意に、ラーシャの傍らで目を凝らしていたデルタが彼女の名を呼んだ。呼ばれるまでもなく、彼が目にしたものに気が付いていたラーシャは、さらに身を乗り出した。
陸地の際に続いていた林が途切れて、針の止まった小さな時計塔が見えた。その隣には、港に不可欠な管制塔。
その塔から身を乗り出した誰かが、白旗を振っている。旗には、彼女の胸に刻まれているものと同じ、鷲の紋章が。
ラーシャはほう、と胸を撫で下ろした。船長に指示を出し、接岸の準備をするようにと伝える。
「おいおい、ここは大丈夫なんだろうな? もう、わかめなんぞ被りたくねぇぞ」
「ああ。戦地からはかなり離れた場所だからな。あの旗も……振っている人間には心当たりがある」
不信を顔に張り付けて問うアルティオに、ラーシャ生真面目に答える。接岸のための波止場が見えてくると、そこに立つ二つの人影が手を振っているのが見えた。
おそらくは、旗を振っていた人物と同じ人間だろう。
「あれは……」
「ライアント大尉とコンチェルト少佐、のようですね」
船縁から身を乗り出したデルタが、人影を差して言う。
船が波止場に近づくにつれて、その顔もまた明確に見えて来た。
一人は大柄な男。腰に少々長めの(見立て的にはバスタードクラスと見た)、重量感がある剣を差している。やや癖のある黒髪を赤のバンダナで束ねていて、そのバンダナと同じ色の赤い軍服を着込んでいる。胸には、無論のこと鷲の紋章。ややつり目の黒い眼を見開いて、両手を振っている。
その傍らには、すらりと背筋を伸ばして敬礼を崩さない中肉中背の男。隣の男同様、赤い軍服をぴしっと着込み、薄い唇を真一文字に引き結んでいる。短剣を二振りずつ両腰に差して、両手首には何かの文字が刻まれた腕輪を通していた。藍色の瞳にシャープな造りの眼鏡をかけて、白金の髪を束ねてきっちりと括っている。
船が接岸作業に入ると、二人の男は波止場の上を走り、船に駆け寄った。
赤いバンダナの男は、船上を見上げてラーシャとデルタに手を伸ばしたが、白金の髪をした男は船体に突き刺さった矢と、大穴の開いた帆を眺めて厳しく目を吊り上げた。
「姐さん、無事ッスか!?」
「フィロ=ソルト中将、この矢は……。ノール港に向かわれたようですね……。
連絡が行き届かず、申し訳ありません」
「レスター、ティルス。すまない、心配をかけたようだな」
がこん、と船体が揺れた。船着場に接岸されたようだ。船室から中年の船長が現れて、太い綱を持ち、埠頭のほうへと飛び移る。差たる間も置かずに下船用の橋がかけられる。
ひらり、とラーシャが身を翻して埠頭へと着地する。荷を担いだデルタが、その後に続いた。その彼女に、二人の男が駆け寄る。
ティルス、と呼ばれた白金の男は、彼女に深く礼をして、その脇を素通りし、橋板に駆け寄った。そうして、船長に声をかけて、橋板を降りようとしていたカノンへ優雅に片手を伸ばす。
「いらっしゃいませ、ご客人。どうぞ、お手を」
「え、あ、……えっと」
「カノン殿。貴方方を招くこちらにとっては、これが礼儀なのだ。受け取ってやってくれ」
不慣れで戸惑う彼女に、ラーシャが助言する。言われたカノンはしばらく迷っていたが、小さく頷いて、大人しく好意を受け取る。
律儀な性格なのか、それともそうするように教育されているのか、ティルスはそのまま全員の下船を手伝った。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。遠いところをご足労いただき、誠にありがとうございます。
……そして、ご迷惑をおかけしました」
「まったくだぜ! 着いたと思ったらいきなり矢の洗礼かよ!
安全な港に行く、つってたのに何だありゃあ!? わかめなんぞ初めて被ったぞ!?」
「……そぅよぅ。そのせいで無駄な距離を船なんかに乗ることになったじゃないのぅ……ぅぅぅ……」
「いや、わかめもういいから。引っ張るなって。シリアも。文句は復活してからでいいから」
「……? と、ともかく、申し訳ありません。こちらの連絡不行き届きで、港の指定を十分に行えませんでした。深く、お詫びいたします」
ティルスは頭を下げる。ラーシャは一拍置いてから、同じように「申し訳ない」と頭を下げる。デルタが大きく息を吐いて渋い表情を作った。
「レスター、ティルス。あれはどういうことなんだ?
何故、ノール港が……あそこはまだシンシア領内だったはずだ。それも戦地からは離れていたはずだし……」
「デルタ。それは後で詳しく話すよ。説明するのには少し、時間がかかりそうだ……。
それより、」
「姐さん。姐さんが言ってた二人、ってのはどいつなんだよ?」
デルタの追求を止めたティルスの言葉を遮って、傍らにいたレスターと呼ばれた男が問いかける。つり目気味の目を、品定めするようにこちらに向けてくる。
好印象とは言い難いその反応に、カノンは眉間に皺を寄せるが、背後にいたレンに肩を叩かれ、諫められる。
ラーシャは小さく、呆れた息を吐いて、片手でカノンとレンを指しながら、
「レスター、失礼な言動は慎め。
こちらが先に言っていたカノン=ティルザード殿、そしてレン=フィティルアーグ殿だ。
そちらはお二人のご友人、ルナ=ディスナー殿、シリア=アレンタイル殿、アルティオ=バーガックス殿。訳あって、共に来て頂いた。
……頼りになる方々だ」
「ふーん……」
レスターは気のない返事で、じろじろとこちらを観察する。そしておもむろに、けっ、と唾を吐く。
ぴくり、とカノンの右の眉が動いた。
「何だよ。ただの小娘と優男じゃんか」
ぷちッ。
「人が大人しくして置けば言ってくれんじゃないのよ! 腕っ節しかとりえがなさそうな脳筋男に、小娘呼ばわりされるいわれはないわね!!
軍の中でどんだけお偉いさんか知らないけど、どうせ腕相撲の強さだけで出世したんでしょう!?」
「ンなッ!?」
「はん、脳みそ使わないとそのうち禿げるんじゃないの!? 女の子にフラれるわよ!?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「ああ、そういえば先日、やたらとブッラシングの毛を気にしてましたね」
「気にしてねぇよッ! てめぇ、ヘンなこと言うなッ!!」
「ふんッ。どうせ、頭がないもんだから実家からも恋人からも、能無し邪魔者宿六扱いされてんじゃあないのッ!?」
「て、てめぇ、この女……ッ!」
きりのないカノンの暴言に、レスターはふるふると拳を震わせた。その隣で汗を掻きながら、ラーシャがどう止めようかと首を傾げ始める。
だがレスターの拳が動くよりも、ラーシャが止めに入るよりも先に、
ごちッ!
「ッ! い、いったぁ……」
『……』
後頭部を直撃した援護射撃に、カノンが頭を押さえて蹲る方が早かった。すぐ背後にいた拳骨の持ち主は、無言で彼女の頭を打った手の甲に息を吹きかけた。
「レン……。そろそろあたしの脳細胞、死に過ぎなんじゃないかと思うんだけど……」
「安心しろ。細胞なんてものは、毎日生まれ変わっている」
唸りを上げる相棒に、無碍にもなく返すと彼は赤い軍服を着た二人の男へと向き直る。
「連れが失礼したな。まあ、そう言われると元も子もないが……。
別に俺たちは望んでここに来たわけじゃない。無論、ゼルゼイルに用があるにはあるが、必ずしもシンシアに帰属しなければならないわけでもない」
「……ちッ」
すらすらと、吐き出された彼の言葉の意味を理解できないほど頭が悪いわけではなかったらしい。レスターと呼ばれた男は舌打ちをして、素っ気無く余所を向く。
つまり、レンはこう言ったのだ。
シンシアに加担する明確な理由があるわけじゃない。手を切るならいつでも出来る、と。
そうなれば、レスターははるばる彼らを連れて来たラーシャや、ホストであるシンシア総統シェイリーン=ラタトスの面子を潰すことになりかねない。
「こちらも、異国で唯一の後ろ盾をなくすような馬鹿なことをやるつもりはないが……。
相棒はこの通り、火が着きやすいのでな。勘弁してやってくれ」
レンの言葉に、カノンが頭を摩りながら唇を尖らせる。それじゃあ、自分が子供みたいじゃないか。文句はあったが、ここでつまらない問答を延々とやっていても仕方がない。
とりあえず、場が収まったことを確かめて、ラーシャはこっそりと安堵の溜め息を吐く。
「カノン殿、レン殿。彼らは我がシンシア軍の幹部、ティルス=コンチェルト少佐、並びにレスター=ライアント大尉だ。
二人共、私の部下の中でも特に優秀な人材だ。これからの前線の指揮も取っている」
「ティルス=コンチェルトと申します。
片割れが無礼を致しました。代わりにお詫び致します。どうか禍根を残されませんよう、お願い致します」
「……」
ティルスは深々と頭を下げる。憮然としていたレスターも、さすがに大人気ないことに気が付いたか、浅くではあるが彼に倣って頭を低くした。
それを見て、軽くカノンも返す。レンも、その後ろにいたアルティオやシリアも倣う。
だが、ルナだけはそれに従わずに、腕を組み、眉間に皺を寄せて前に出る。
猫目の大きな瞳を周囲に向けて、シンシアの重臣たちを見回すと、ふとティルスに目を留めた。
「……あっちの茂みの中にいるのは、あんたの部下? あれも礼儀の一端?」
「はッ!?」
「……」
ストレートな彼女の物言いに、カノンもレンも眉を潜めて面を上げる。その手は自然と剣の柄に近い場所にあった。
素っ頓狂な声を上げたのはアルティオだ。シリアは構えようとして、しかし、船酔いの余韻が残っているらしく、渋い表情を作るのに留まった。
ラーシャは表情に緊張を走らせる。デルタとレスターは、罰が悪そうな顔をティルスに向けた。
注目されたティルスは、しかし、落ち着き払いながらはぁ、と息を漏らす。そして、ぱちん、と彼が指を鳴らすと、その僅かな気配は一瞬の内に掻き消えた。
「……失礼しました。恐れながら、貴方方にエイロネイアの手の者たちが接触しているとのお話でしたので……」
「で、その過程で。既にエイロネイアの間者として勧誘されている可能性を考えていた、と」
「左様です。ご無礼の程、お許しください」
ぴん、と線の張り詰めた緊張が走る。油断のならない、綺麗過ぎるティルス=コンチェルトの言葉。
ルナはふ、と肩を落してカノンを見た。判断は任せる、ということだろう。
カノンはしばし、顎に手を当てて、悩む。周囲の気配を探り、それ以上の気配が存在しないことを知ると、一度、空を仰いでから、ラーシャとティルスを振り返る。
「……説明はお仲間と合流してから、って言われてたけど。
さっきの港でのことも、今の状況も、大陸であたしたちにちょっかいを出してきた奴らの詳しいことも、全部ひっくるめて。
説明してもらえる?」
「……そのすべてをここで、というのは難しい要求です」
カノンの問いに、ティルスは一言で答えた。そして、唐突に踵を返す。
「この先の、シンシアの関所に我らの主がいらっしゃいます」
「何……?」
声を漏らしたのはラーシャだった。付き従うデルタもまた、眉を潜めてティルスの姿を目で追った。
彼らの主―――おそらくは、シンシア総統であるというシェイリーン=ラタトス。ラーシャの濁った声も当たり前だ。何故、そんな北方シンシアという国の要となる人物が、こんな王都から離れた場所にいるというのか。
ラーシャたちの反応から、彼女たちにも想定外の事実だったことが伺える。
「詳しくは、そこでお話します。中将が大陸に遠征されている間に、何が起こったかも、今何が起こっているのかも、すべて」
「……」
そう言って、それ以上の問答を許さないかのようにティルスは静かに歩き出す。レスターが肩を竦めて、ラーシャに謝るような動作をしてから、その後を追った。
ラーシャはその二人の背に、少しだけ瞑目し、顔をしかめる。そうして、カノンたちを振り返った。
「……」
カノンは、彼女が何かを言う前に頷く。
追おう、という意思表示だった。罠にしろ、何にしろ、カノンたちには海に戻るか陸に上がるかの選択肢しかないのだ。
頷き返して、ラーシャは波止場を歩き出す。デルタが続いて、カノンたちもその後ろに付いた。
波止場から陸地に上がる寸前、カノンは一瞬だけ振り返る。
霧が深くて、海の向こうはもう見えない。いや、晴れていたとしても、そこに西方大陸が、たとえ米粒ほどの大きさとしても見ることが出来るのかどうかは解らない。
随分と、遠い。
――― ……。
ふと、海の上で浮かんだ不安が、また胸の中に舞い戻る。果たして、自分は、自分たちは、またあの故郷の大陸に戻ることが出来るのだろうか。
誰一人、欠けることなく。
そこまで考えて、首を振る。考えても甲斐のないこと。剣を、意志を、皆との思い出を、持っている。だから、全力で守る。
カノンに出来るのは、それだけだ。
不安を振り切るように、霧の海から目を逸らし、波止場を降りて。
カノンは、その奈落の大地の土を踏んだ。
←1へ
泣いている声が聞こえる。
まだ小さな、小さな子供の声。
子供が泣く理由など些細なこと。お気に入りの玩具がたまたま見当たらないだけでも、母親が少し席を立ってしまっただけでも、寂しさと不安に涙を流す。
不安なのだ。
お気に入りの玩具も、母親も、優しくしてくれる手も。
不意に、どこかにいなくなってしまうのではないかと。
いきなり、自分ひとりだけが取り残されてしまうのではないかと。
不安で、不安で、仕方なくて、子供は泣く。
泣けば泣くほどに、その妄想は現実味を帯びて。
そうして、泣きじゃくる小さな頭に、そっと添えられる手に気づくまで、泣き止まない。
ああ、そうだ。あのときも。
泣いていた私は、すっと添えられた手で泣き止んだ。
「―――ふぇ?」
「どうしたの?」
「ぅ、ぅえ、ぇ…………」
今、思えば情け無いものだ。気紛れに見えた虹に、自宅の石畳を駆け出そうとして、躓いた。それだけのこと。
けれど、擦り剥いた足の痛みに堪えきれなくて、泣いていた。
頭を撫でてくれた姉は、すぐにそれに気がついて、仕方なさそうな溜め息を一つ吐いたのだ。
「しょうがないなぁ、そんなことで泣いちゃダメじゃない」
「ぅぇ、ぇ……でもぉ…」
「こんなので泣かないの。お姉ちゃんも貴女も、すごく強いお父さんの娘なんだよ?
だからこんなことでないちゃダメ。強い子になれないよ?」
「うっ、ぐすっ…………うん」
泣きながら頷いた。
その返事に、姉はにこりと笑って、擦り剥いた足に二枚の絆創膏を張ってくれた。
それはほんの些細なこと。
些細なことで泣いてしまう、弱虫だった私が泣いてるときは、必ず姉が来てくれて、慰めて、宥めてくれた。そんな姉に甘えて、甘えて、私はいつもようやく泣き止むのだ。
そんな些細な愛情。
当然のように与えられていた無償の愛情。
けれど、それは―――
酷く懐かしい夢を見た。………気がする。
瞼の裏に暗闇が戻ってきて、頭の中が冴えていく目覚めの感覚を覚えたときには、もう既に先ほどまで頭に描いていたはずの夢の内容は消え失せてしまっていた。目を閉じたまま、逡巡して思い出そうとはするのだが、どうにも上手くいかない。
仕方なく、早々に諦めて、ラーシャ=フィロ=ソルトは瞳を開く。
かすかにゆらゆらと揺れる天井が目に入った。別に地震でも何でもない。ここは今、海の上なのだから、揺れるのは当たり前なのである。
しばらくの間、数回、目を瞬かせて目が、頭が完全に冴えるのを待つ。
天井の木目の途切れが明確になって、しばし。長い息を吐いた彼女は、ようやく簡素なベッドの上から身を起こす。同時にノックの音がした。控えめな音だった。
「ラーシャ様、そろそろノール港に着くそうです」
ドアは閉められたままで、向こうから生真面目な少年の声がした。
「ああ、分かった。ありがとう。客人たちにもご連絡申し上げてくれ」
「皆様、甲板にいらっしゃいます。支度をお急ぎください」
「……すまない。すぐに行く」
言葉を返すと、少年の気配はすぐにドアの前から消える。微妙な揺れの中を立ち上がって、椅子にかけて置いた上着を手に取った。
ゼルゼイル北方王国シンシアの鷲の紋章が縫い付けられた、白の礼服。
「……」
これを纏うようになってから、どれほど経っただろう。
年数にしたら、きっと鼻で笑われるほどかもしれない。だが、ラーシャにしてみれば、もう随分と長くこの枷を纏い続けていたような気がする。
けれど。
どんな重い枷でも構わない。
その枷が、あの灰色の国を豊かな優しい国へ導けるというのなら。
どれだけ手が汚れても。
この誓いは忘れない。
今一度、深呼吸をした。髪を掻き揚げて、礼服を着込んで。立てかけていた一振りの長剣を手に取って、顔を上げた。
Death Player Hunterカノン
―ゼルゼイルの旅路―
――――――――――――――――――――――――――――――――― The viewpoint of Kanon…
海上の風は肌寒い。
今日のように些か天気の悪い日なら、尚更。
どんより、というわけでもないが、灰色の雲の広がる空はお世辞にも天気が良いとは言い難い。
暗い空模様に、クオノリアからはあんなに青く見えていた清々しい海が、酷く黒く澱んだ波に見えた。やや高い波が、船体に当たる度に、ざぷん、さぷんと音を立てる。
……ということは、風も寒いと同時に少し強いわけで。小型の帆船というものは、その微風にめっぽう弱かったりするもので。
「……」
「……えーと、シリア……。とりあえず、大丈夫?」
日頃、何だかんだといちゃもんを付けられる相手でも、さすがに甲板で長時間、突き出した梁に掴まった状態で動かない人間がいると心配になってくるわけで。
「水とかいる? 持ってくるけど?」
「………~~~っ」
「……えーと、何?」
明らかに血の気の引いた、らしくない真っ青な顔で、ぼそぼそと喋るのだが、言葉にも声にもなっていないので何と言っているのかまったく分からない。
……何故か睨まれているのは分かるのだけれど。
「――ッ! ~~~ッ!!」
「え、えーと……」
口元をハンカチで押さえながら呻かれても分からないものは分からない。甲板でマストに寄りかかりながら寛いでいたレンが、見かねて傍らにいた大男の肩を叩く。
「通訳しろ」
「『随分と余裕じゃないの、敵に塩を送るつもりね! けれどこれしきのことで勝ったと思うんじゃないわ!』……とか?」
すらすらと言ったアルティオの台詞に、蹲ったままのシリアは賢明に頷いた。が、その振動でまた気分が悪くなったらしく、ますます身体を折って、
「だーッ! 待て、お前! こんなところで吐くなッ! 吐くなら海にやれ、海にッ!」
慌てたアルティオが、蹲る彼女を立ち上がらせて甲板に引き摺っていく。
何となく可哀相なので、カノンも申し訳程度にその背中を摩ってやる。
「しかし、アルティオ。あんた、良く分かるわね……」
「いや、まあ、付き合い長いからなぁ……」
「頭が足りない者同士でフィーリングが合うだけの話じゃないか?」
「うっわ、酷」
―――少しは心配してやれよ、嘘でも形だけでも良いから。
相手が船酔いでも、彼は容赦がなかった。まあ、この状況は、普段シリアに最も迷惑を被っている彼にとっては束の間の安息なのかもしれない。
「で、シリア。大丈夫?」
「……ッ、はーッ、はー……。
ふっ、カノン。これで勝ったと思わないことね……弱点の一つや二つ、曝したところでこの私の可憐さに傷はつかな……ッ
ぅ、うぇぇぇぇぇ……ッ」
「……気持ち悪くなるくらいなら無理して口上挙げんでも」
呆れて溜め息を一つ。
確かに、船は自分たちしか客がいないような小型の船。加えて天候も良くないとくれば、乗り物に弱い人間にとっては地獄なのだろう。
それほど船に乗った経験が豊富なわけではないが、確かに揺れは激しい方かもしれない。
かくいうカノンも、実は気分が良いわけではなかった。吐くほどではないけれど。
「あたし、水貰ってくるわ……」
「ああ、悪いな。頼む」
「~~~ッ! ―――ッ!」
「あー、いいから。塩送るだの何だの、別に考えて無いから。いいから黙って吐くだけ吐いときなさいよ……」
小さく首を振りながら、船縁を離れようとするカノンになおも何か言い募ろうとするシリア。
とりあえず、根性だけは認めておく。
力なく突っ込んで、踵を返し、船内へ戻ろうとして―――
「あ……」
別の方向にある甲板の船縁に、もたれ掛かっていた人物と目があった。こちらの視線に気が付くと、彼女ははっとして目を逸らす。
そして元のように、睨むような視線を暗い海へと送る。
「……ルナ」
「……」
へなへなとへたり込むシリアを、アルティオがきちんと介抱してくれているのを確認すると、カノンは少しだけ迷いながら彼女の隣へ肘をついた。
視線の先では、船体に当たる波がちゃぷんちゃぷん、と小さな音を立てているだけだ。
きっと、何も見ていないんだろう。
冷たい風に、髪に括られた羽飾りの白い羽が、寂しく靡いた。
「……大丈夫?」
「ん……まぁね」
ふと、聞いた声に彼女はひどく曖昧に頷いて、小さく笑った。大陸を出たときよりは、些か回復しているようだが、それでも声に覇気はなかった。
その横顔を覗き込んで、まだ迷いながら、けれど口を開いた。
「……あ、あのさ、ルナ」
「ん?」
「えと………あの、その……さ。イリーナ、さんのことだけど………」
「……」
その名前に、少しだけ彼女は反応を示す。けれど、結局はどこか生気の欠けた目で、波を追うのを止めようとはしなかった。
おそるおそる、カノンは小さな声で続きを口にする。
「えっと、あの……。
あ、あんたたちの間に、何があったのか、ってのは……大体、あたしでも理解してたつもりだけど。
見当違いのこと言ってたら、ごめん。
でも、あの、さ……たぶん、イリーナさん……。あんたと……あの男が、その、そういう仲だって、最初から気づいてたと思うんだよね……」
「……」
「あ、べ、別に、当人に聞いたわけじゃないしッ。これは、あたしのただの推測なんだけど……。
あんたやシリアは、あたしを鈍感とか何とか言うけど……。
その鈍感なあたしだって、薄っすらとは感付いてた、っていうか、そうじゃないかなー、くらいのことは思ってたから……。
だから、あたし以上にあんたやあの男のことを良く見て、知ってたイリーナさんが、きっとまったく知らないなんてことはなかったんじゃないかな、って……」
「……」
「………だから、たぶん……。ゼルゼイルとか、あのエイロネイアの皇太子だかいう奴とか。
そういうのが絡んだりしなければ、イリーナさんだって、納得してもらうのに時間はかかったかもしれないけど……あんたを、あんな風に憎んだりしなかったと思う。
最期は……きっと、後悔してたんだと思う。
あの男が、何で、何を思って、あんなことしたのかは分かんないけど……けど、ええと、何ていうか言いたいのは………」
きゅ、と眉根を寄せる幼馴染に、彼女はふ、と苦笑した。少しだけ、首を振る。身を起こして、仕方のない年下の妹を宥めるように、風に揺れる金の髪を撫でた。
癖のない髪は、さらりと掌を流れて棚引いた。
「……?」
「ありがとね。けど平気。敵を間違ったりはしないわよ。
あたしもイリーナも、もうちょっと何とかなったはず。何ともならなかったのは……あたしのせいなのか、あの皇太子のせいなのか、それとも、全部カシスが最初から仕組んでたのか……分からないし。
考えてもしょうがないことを、延々と考えるのもなし。
当人に会って、ちゃんと聞く。がたがた悩むのは、そこからよ」
「……」
がしがしと頭を撫でる手に、カノンはぎこちなく、しかし精一杯微笑んだ。それに応えるように、彼女も凍った表情で、けれど頑張って笑う。
暗い海が、またざぷん、と音を立てた。
かつん、かつんと船内への階段を上る音がして、カノンとルナはそちらを振り向いた。
生真面目に口を真一文字に結んだ、緑がかった銀の髪の少年―――デルタ=カーマインが、甲板の床板を跨いだ。そうして無表情に辺りを見渡す。
「デルタ……」
「……皆さん、お揃いですか?」
「うん、まあ。そっちの上官様は?」
「すぐに甲板に来るそうです。それより、そろそろ港が見えてくる頃だそうです」
言い放ってデルタは、甲板を素通りして船先へ向かう。紫の法衣を正すと、すっ、と片手で船先の丸太が差している暗い海の先を示した。
そこに、はっ、と気が付く。
薄い霧の向こうに、黒い影が見える。
山の裾野が広がるようにして、大きな投影が、霧の中に鎮座している。浮かんで、いる。
地図上では何度か目にしていた。だが、所詮は丸い島の図が描かれているだけで、大した説明もなく、存在だけが記されていた島。
大陸人にとっては、あるようで、ないような。そんな存在だった島の国。
その無形の島が、目の前に広がっている。
「………あれが、」
「アルケミア海に浮かぶ南方大陸サウス・イルネシア、統一ゼルゼイル皇国。
……正確には、統一皇国と称していたのは、五十年前までですが」
些か、緊張を張った硬い声で、デルタが宣言する。カノンは彼と同じ、船先へ移動し、霧の中の大陸を見据えた。
地図で見るよりも、それは広大で、壁のようにそびえていて。
そして何故だか。
ここは、西方大陸よりも南に位置するはずなのに。
肌には鳥肌が立っていて。
「あれが、ゼルゼイルか……」
アルティオの吐き出した、感嘆とも、茫然ともつかない声に、カノンはいつの間にか口の中に溜まっていた固唾を飲み込んだ。
そして、全員を振り返る。
黒い島影から目を離した彼女に、小さく彼らは首を傾げた。その彼らの顔を、カノンは一人一人眺めていく。シリア、アルティオ、ルナ、―――そしてレン。
最後に相棒の姿を目に留めると、居住まいを正して、口を開く。
「……あたしは、戦争ってものを知らないわ」
「………」
「けれど、どんな規模にしろ、ろくでもないものだ、ってことは知ってる。かつての西方で行われた戦争が、今の時代に膨大な負債しか残さなかったようにね。
戦いも争いも知ってる。今まで、何人も………人を殺めたこともある。
……罪のない人間だっていた」
「……」
誰も茶々など入れなかった。静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「だから―――そんなあたしが、言えるようなことじゃないのは、十分解ってる。
それぞれ、ここにいる理由は、いろいろあるんだと思う」
ふと、ルナが視線を落す。彼女だけではない。アルティオも、シリアも、忌々しげな視線を彼方に投げた。
「でもね」
カノンの声の、トーンが上がる。
その高らかな声が、全員の視線を上げさせた。
「あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの」
「……カノン」
「あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで」
「……」
全員が沈黙する。悲痛にすら等しい声で、彼女は紡ぐ。まっすぐに。
「―――生き残って、必ず」
それが、ただ一つの彼女の願いだった。
シンシアの勝利など願わない。エイロネイアの敗北など望まない。戦争の勝敗など、どうでもいいことだ。
けれど、ただ一つ、それだけは。
誰もが解っていた。体感したことなどないが、理屈では解っている。戦争は甘いものではない。
生きるときは生きて、死ぬときは死ぬ。それは、戦争でなくともそうだ。彼らが従事している他愛もない戦いさえ、その危険性を孕んでいる。
だから、彼女が言ったことは至極、今さらなことなのだけれど。
茶化す者は、誰一人いなかった。
「当たり前、だろ。そんなもん」
沈黙を破ったのは、アルティオの場違いな明るい声だった。真っ青な顔をしながらも、彼に支えられながら、シリアは無理に胸を突き出そうとして、込み上げる吐き気に身を折った。
「……お前さ。根性あるのも、自分のスタイルを貫こうとするのも嫌いじゃないけど、場合を考えようや」
「………ふっ、随分と弱気じゃない、カノン=ティルザード。その程度のことも解ってないと思われるなんて、この私も見くびられたもの……
うぅぅ……ッ」
「いや、だからさぁ」
アルティオでさえ呆れた声を出した。小さく溜め息を吐いてから、その脇を素通りして、ルナが曖昧な笑顔で進み出る。
「カノン。あんたが、そう心配するのも解らないではないけれど……。
別にあたしたちは、ゼルゼイルやシンシアやらに命を売りに来たんじゃないわ。そんなことを解っていない奴はいないわよ。心配しないで。ねぇ、レン?」
「……」
彼女がレンに話を振ったのは、おそらくわざとだった。彼はもたれていたマストから背中を離し、いつもの無表情を崩さないまま、相棒へと歩み寄る。
「レン……」
「……」
なおも不安を表情に浮かべたカノンの頭に、レンは無言で手を添えた。ん、とカノンは小さく声を漏らす。
「按ずるな。お前が心配することじゃあない」
「けど……」
「何度も生死を懸けた。ここにいる全員だ。けれど、死なずにここにいる。
―――それが、何よりの証拠だとは思わないか?」
「…………うん」
逡巡を繰り返し、その果てに顔を上げて、カノンは頷いた。その彼女の頭を、レンはまた数回撫でる。
何度も失いかけた温もりだった。けれど、まだここにある。
力も、戦うための武器も、仲間もある。
だから、きっと全力で守ることが出来る。
カノンはもう一度、全員の顔を見渡した。苦笑を浮かべながら、自信に満ちた笑みを浮かべながら、それぞれに、彼らは頷いた。
しゃきんッ
小さな金属音。カノンが、腰に下げていたクレイ・ソードを抜く音だった。その切っ先を、黒々と佇む島影に向ける。
霧を切り裂いて、その刃は、銀に気高く光を放った。
「……行ってやろうじゃないの。覚悟しなさいよ……ッ」
得体の知れない闇の中、くすくすと上がる笑い声。剣はすべて、その闇を払うために。
←STORY3へ
まだ小さな、小さな子供の声。
子供が泣く理由など些細なこと。お気に入りの玩具がたまたま見当たらないだけでも、母親が少し席を立ってしまっただけでも、寂しさと不安に涙を流す。
不安なのだ。
お気に入りの玩具も、母親も、優しくしてくれる手も。
不意に、どこかにいなくなってしまうのではないかと。
いきなり、自分ひとりだけが取り残されてしまうのではないかと。
不安で、不安で、仕方なくて、子供は泣く。
泣けば泣くほどに、その妄想は現実味を帯びて。
そうして、泣きじゃくる小さな頭に、そっと添えられる手に気づくまで、泣き止まない。
ああ、そうだ。あのときも。
泣いていた私は、すっと添えられた手で泣き止んだ。
「―――ふぇ?」
「どうしたの?」
「ぅ、ぅえ、ぇ…………」
今、思えば情け無いものだ。気紛れに見えた虹に、自宅の石畳を駆け出そうとして、躓いた。それだけのこと。
けれど、擦り剥いた足の痛みに堪えきれなくて、泣いていた。
頭を撫でてくれた姉は、すぐにそれに気がついて、仕方なさそうな溜め息を一つ吐いたのだ。
「しょうがないなぁ、そんなことで泣いちゃダメじゃない」
「ぅぇ、ぇ……でもぉ…」
「こんなので泣かないの。お姉ちゃんも貴女も、すごく強いお父さんの娘なんだよ?
だからこんなことでないちゃダメ。強い子になれないよ?」
「うっ、ぐすっ…………うん」
泣きながら頷いた。
その返事に、姉はにこりと笑って、擦り剥いた足に二枚の絆創膏を張ってくれた。
それはほんの些細なこと。
些細なことで泣いてしまう、弱虫だった私が泣いてるときは、必ず姉が来てくれて、慰めて、宥めてくれた。そんな姉に甘えて、甘えて、私はいつもようやく泣き止むのだ。
そんな些細な愛情。
当然のように与えられていた無償の愛情。
けれど、それは―――
酷く懐かしい夢を見た。………気がする。
瞼の裏に暗闇が戻ってきて、頭の中が冴えていく目覚めの感覚を覚えたときには、もう既に先ほどまで頭に描いていたはずの夢の内容は消え失せてしまっていた。目を閉じたまま、逡巡して思い出そうとはするのだが、どうにも上手くいかない。
仕方なく、早々に諦めて、ラーシャ=フィロ=ソルトは瞳を開く。
かすかにゆらゆらと揺れる天井が目に入った。別に地震でも何でもない。ここは今、海の上なのだから、揺れるのは当たり前なのである。
しばらくの間、数回、目を瞬かせて目が、頭が完全に冴えるのを待つ。
天井の木目の途切れが明確になって、しばし。長い息を吐いた彼女は、ようやく簡素なベッドの上から身を起こす。同時にノックの音がした。控えめな音だった。
「ラーシャ様、そろそろノール港に着くそうです」
ドアは閉められたままで、向こうから生真面目な少年の声がした。
「ああ、分かった。ありがとう。客人たちにもご連絡申し上げてくれ」
「皆様、甲板にいらっしゃいます。支度をお急ぎください」
「……すまない。すぐに行く」
言葉を返すと、少年の気配はすぐにドアの前から消える。微妙な揺れの中を立ち上がって、椅子にかけて置いた上着を手に取った。
ゼルゼイル北方王国シンシアの鷲の紋章が縫い付けられた、白の礼服。
「……」
これを纏うようになってから、どれほど経っただろう。
年数にしたら、きっと鼻で笑われるほどかもしれない。だが、ラーシャにしてみれば、もう随分と長くこの枷を纏い続けていたような気がする。
けれど。
どんな重い枷でも構わない。
その枷が、あの灰色の国を豊かな優しい国へ導けるというのなら。
どれだけ手が汚れても。
この誓いは忘れない。
今一度、深呼吸をした。髪を掻き揚げて、礼服を着込んで。立てかけていた一振りの長剣を手に取って、顔を上げた。
Death Player Hunterカノン
―ゼルゼイルの旅路―
――――――――――――――――――――――――――――――――― The viewpoint of Kanon…
海上の風は肌寒い。
今日のように些か天気の悪い日なら、尚更。
どんより、というわけでもないが、灰色の雲の広がる空はお世辞にも天気が良いとは言い難い。
暗い空模様に、クオノリアからはあんなに青く見えていた清々しい海が、酷く黒く澱んだ波に見えた。やや高い波が、船体に当たる度に、ざぷん、さぷんと音を立てる。
……ということは、風も寒いと同時に少し強いわけで。小型の帆船というものは、その微風にめっぽう弱かったりするもので。
「……」
「……えーと、シリア……。とりあえず、大丈夫?」
日頃、何だかんだといちゃもんを付けられる相手でも、さすがに甲板で長時間、突き出した梁に掴まった状態で動かない人間がいると心配になってくるわけで。
「水とかいる? 持ってくるけど?」
「………~~~っ」
「……えーと、何?」
明らかに血の気の引いた、らしくない真っ青な顔で、ぼそぼそと喋るのだが、言葉にも声にもなっていないので何と言っているのかまったく分からない。
……何故か睨まれているのは分かるのだけれど。
「――ッ! ~~~ッ!!」
「え、えーと……」
口元をハンカチで押さえながら呻かれても分からないものは分からない。甲板でマストに寄りかかりながら寛いでいたレンが、見かねて傍らにいた大男の肩を叩く。
「通訳しろ」
「『随分と余裕じゃないの、敵に塩を送るつもりね! けれどこれしきのことで勝ったと思うんじゃないわ!』……とか?」
すらすらと言ったアルティオの台詞に、蹲ったままのシリアは賢明に頷いた。が、その振動でまた気分が悪くなったらしく、ますます身体を折って、
「だーッ! 待て、お前! こんなところで吐くなッ! 吐くなら海にやれ、海にッ!」
慌てたアルティオが、蹲る彼女を立ち上がらせて甲板に引き摺っていく。
何となく可哀相なので、カノンも申し訳程度にその背中を摩ってやる。
「しかし、アルティオ。あんた、良く分かるわね……」
「いや、まあ、付き合い長いからなぁ……」
「頭が足りない者同士でフィーリングが合うだけの話じゃないか?」
「うっわ、酷」
―――少しは心配してやれよ、嘘でも形だけでも良いから。
相手が船酔いでも、彼は容赦がなかった。まあ、この状況は、普段シリアに最も迷惑を被っている彼にとっては束の間の安息なのかもしれない。
「で、シリア。大丈夫?」
「……ッ、はーッ、はー……。
ふっ、カノン。これで勝ったと思わないことね……弱点の一つや二つ、曝したところでこの私の可憐さに傷はつかな……ッ
ぅ、うぇぇぇぇぇ……ッ」
「……気持ち悪くなるくらいなら無理して口上挙げんでも」
呆れて溜め息を一つ。
確かに、船は自分たちしか客がいないような小型の船。加えて天候も良くないとくれば、乗り物に弱い人間にとっては地獄なのだろう。
それほど船に乗った経験が豊富なわけではないが、確かに揺れは激しい方かもしれない。
かくいうカノンも、実は気分が良いわけではなかった。吐くほどではないけれど。
「あたし、水貰ってくるわ……」
「ああ、悪いな。頼む」
「~~~ッ! ―――ッ!」
「あー、いいから。塩送るだの何だの、別に考えて無いから。いいから黙って吐くだけ吐いときなさいよ……」
小さく首を振りながら、船縁を離れようとするカノンになおも何か言い募ろうとするシリア。
とりあえず、根性だけは認めておく。
力なく突っ込んで、踵を返し、船内へ戻ろうとして―――
「あ……」
別の方向にある甲板の船縁に、もたれ掛かっていた人物と目があった。こちらの視線に気が付くと、彼女ははっとして目を逸らす。
そして元のように、睨むような視線を暗い海へと送る。
「……ルナ」
「……」
へなへなとへたり込むシリアを、アルティオがきちんと介抱してくれているのを確認すると、カノンは少しだけ迷いながら彼女の隣へ肘をついた。
視線の先では、船体に当たる波がちゃぷんちゃぷん、と小さな音を立てているだけだ。
きっと、何も見ていないんだろう。
冷たい風に、髪に括られた羽飾りの白い羽が、寂しく靡いた。
「……大丈夫?」
「ん……まぁね」
ふと、聞いた声に彼女はひどく曖昧に頷いて、小さく笑った。大陸を出たときよりは、些か回復しているようだが、それでも声に覇気はなかった。
その横顔を覗き込んで、まだ迷いながら、けれど口を開いた。
「……あ、あのさ、ルナ」
「ん?」
「えと………あの、その……さ。イリーナ、さんのことだけど………」
「……」
その名前に、少しだけ彼女は反応を示す。けれど、結局はどこか生気の欠けた目で、波を追うのを止めようとはしなかった。
おそるおそる、カノンは小さな声で続きを口にする。
「えっと、あの……。
あ、あんたたちの間に、何があったのか、ってのは……大体、あたしでも理解してたつもりだけど。
見当違いのこと言ってたら、ごめん。
でも、あの、さ……たぶん、イリーナさん……。あんたと……あの男が、その、そういう仲だって、最初から気づいてたと思うんだよね……」
「……」
「あ、べ、別に、当人に聞いたわけじゃないしッ。これは、あたしのただの推測なんだけど……。
あんたやシリアは、あたしを鈍感とか何とか言うけど……。
その鈍感なあたしだって、薄っすらとは感付いてた、っていうか、そうじゃないかなー、くらいのことは思ってたから……。
だから、あたし以上にあんたやあの男のことを良く見て、知ってたイリーナさんが、きっとまったく知らないなんてことはなかったんじゃないかな、って……」
「……」
「………だから、たぶん……。ゼルゼイルとか、あのエイロネイアの皇太子だかいう奴とか。
そういうのが絡んだりしなければ、イリーナさんだって、納得してもらうのに時間はかかったかもしれないけど……あんたを、あんな風に憎んだりしなかったと思う。
最期は……きっと、後悔してたんだと思う。
あの男が、何で、何を思って、あんなことしたのかは分かんないけど……けど、ええと、何ていうか言いたいのは………」
きゅ、と眉根を寄せる幼馴染に、彼女はふ、と苦笑した。少しだけ、首を振る。身を起こして、仕方のない年下の妹を宥めるように、風に揺れる金の髪を撫でた。
癖のない髪は、さらりと掌を流れて棚引いた。
「……?」
「ありがとね。けど平気。敵を間違ったりはしないわよ。
あたしもイリーナも、もうちょっと何とかなったはず。何ともならなかったのは……あたしのせいなのか、あの皇太子のせいなのか、それとも、全部カシスが最初から仕組んでたのか……分からないし。
考えてもしょうがないことを、延々と考えるのもなし。
当人に会って、ちゃんと聞く。がたがた悩むのは、そこからよ」
「……」
がしがしと頭を撫でる手に、カノンはぎこちなく、しかし精一杯微笑んだ。それに応えるように、彼女も凍った表情で、けれど頑張って笑う。
暗い海が、またざぷん、と音を立てた。
かつん、かつんと船内への階段を上る音がして、カノンとルナはそちらを振り向いた。
生真面目に口を真一文字に結んだ、緑がかった銀の髪の少年―――デルタ=カーマインが、甲板の床板を跨いだ。そうして無表情に辺りを見渡す。
「デルタ……」
「……皆さん、お揃いですか?」
「うん、まあ。そっちの上官様は?」
「すぐに甲板に来るそうです。それより、そろそろ港が見えてくる頃だそうです」
言い放ってデルタは、甲板を素通りして船先へ向かう。紫の法衣を正すと、すっ、と片手で船先の丸太が差している暗い海の先を示した。
そこに、はっ、と気が付く。
薄い霧の向こうに、黒い影が見える。
山の裾野が広がるようにして、大きな投影が、霧の中に鎮座している。浮かんで、いる。
地図上では何度か目にしていた。だが、所詮は丸い島の図が描かれているだけで、大した説明もなく、存在だけが記されていた島。
大陸人にとっては、あるようで、ないような。そんな存在だった島の国。
その無形の島が、目の前に広がっている。
「………あれが、」
「アルケミア海に浮かぶ南方大陸サウス・イルネシア、統一ゼルゼイル皇国。
……正確には、統一皇国と称していたのは、五十年前までですが」
些か、緊張を張った硬い声で、デルタが宣言する。カノンは彼と同じ、船先へ移動し、霧の中の大陸を見据えた。
地図で見るよりも、それは広大で、壁のようにそびえていて。
そして何故だか。
ここは、西方大陸よりも南に位置するはずなのに。
肌には鳥肌が立っていて。
「あれが、ゼルゼイルか……」
アルティオの吐き出した、感嘆とも、茫然ともつかない声に、カノンはいつの間にか口の中に溜まっていた固唾を飲み込んだ。
そして、全員を振り返る。
黒い島影から目を離した彼女に、小さく彼らは首を傾げた。その彼らの顔を、カノンは一人一人眺めていく。シリア、アルティオ、ルナ、―――そしてレン。
最後に相棒の姿を目に留めると、居住まいを正して、口を開く。
「……あたしは、戦争ってものを知らないわ」
「………」
「けれど、どんな規模にしろ、ろくでもないものだ、ってことは知ってる。かつての西方で行われた戦争が、今の時代に膨大な負債しか残さなかったようにね。
戦いも争いも知ってる。今まで、何人も………人を殺めたこともある。
……罪のない人間だっていた」
「……」
誰も茶々など入れなかった。静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「だから―――そんなあたしが、言えるようなことじゃないのは、十分解ってる。
それぞれ、ここにいる理由は、いろいろあるんだと思う」
ふと、ルナが視線を落す。彼女だけではない。アルティオも、シリアも、忌々しげな視線を彼方に投げた。
「でもね」
カノンの声の、トーンが上がる。
その高らかな声が、全員の視線を上げさせた。
「あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの」
「……カノン」
「あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで」
「……」
全員が沈黙する。悲痛にすら等しい声で、彼女は紡ぐ。まっすぐに。
「―――生き残って、必ず」
それが、ただ一つの彼女の願いだった。
シンシアの勝利など願わない。エイロネイアの敗北など望まない。戦争の勝敗など、どうでもいいことだ。
けれど、ただ一つ、それだけは。
誰もが解っていた。体感したことなどないが、理屈では解っている。戦争は甘いものではない。
生きるときは生きて、死ぬときは死ぬ。それは、戦争でなくともそうだ。彼らが従事している他愛もない戦いさえ、その危険性を孕んでいる。
だから、彼女が言ったことは至極、今さらなことなのだけれど。
茶化す者は、誰一人いなかった。
「当たり前、だろ。そんなもん」
沈黙を破ったのは、アルティオの場違いな明るい声だった。真っ青な顔をしながらも、彼に支えられながら、シリアは無理に胸を突き出そうとして、込み上げる吐き気に身を折った。
「……お前さ。根性あるのも、自分のスタイルを貫こうとするのも嫌いじゃないけど、場合を考えようや」
「………ふっ、随分と弱気じゃない、カノン=ティルザード。その程度のことも解ってないと思われるなんて、この私も見くびられたもの……
うぅぅ……ッ」
「いや、だからさぁ」
アルティオでさえ呆れた声を出した。小さく溜め息を吐いてから、その脇を素通りして、ルナが曖昧な笑顔で進み出る。
「カノン。あんたが、そう心配するのも解らないではないけれど……。
別にあたしたちは、ゼルゼイルやシンシアやらに命を売りに来たんじゃないわ。そんなことを解っていない奴はいないわよ。心配しないで。ねぇ、レン?」
「……」
彼女がレンに話を振ったのは、おそらくわざとだった。彼はもたれていたマストから背中を離し、いつもの無表情を崩さないまま、相棒へと歩み寄る。
「レン……」
「……」
なおも不安を表情に浮かべたカノンの頭に、レンは無言で手を添えた。ん、とカノンは小さく声を漏らす。
「按ずるな。お前が心配することじゃあない」
「けど……」
「何度も生死を懸けた。ここにいる全員だ。けれど、死なずにここにいる。
―――それが、何よりの証拠だとは思わないか?」
「…………うん」
逡巡を繰り返し、その果てに顔を上げて、カノンは頷いた。その彼女の頭を、レンはまた数回撫でる。
何度も失いかけた温もりだった。けれど、まだここにある。
力も、戦うための武器も、仲間もある。
だから、きっと全力で守ることが出来る。
カノンはもう一度、全員の顔を見渡した。苦笑を浮かべながら、自信に満ちた笑みを浮かべながら、それぞれに、彼らは頷いた。
しゃきんッ
小さな金属音。カノンが、腰に下げていたクレイ・ソードを抜く音だった。その切っ先を、黒々と佇む島影に向ける。
霧を切り裂いて、その刃は、銀に気高く光を放った。
「……行ってやろうじゃないの。覚悟しなさいよ……ッ」
得体の知れない闇の中、くすくすと上がる笑い声。剣はすべて、その闇を払うために。
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「……」
鍵の締められたドアに、カノンは無言で踵を返した。すっかり冷めてしまった手の中のパンとスープを見て、やりきれない表情を浮かべる。
「……やっぱり、駄目なの?」
「……」
宿屋の階段を下りて、テーブルに着いていたシリアが顔を上げたカノンに問う。吐いた溜め息が、すべてを物語っていた。シリアは軽く首を振りながら席に着く。
薄暗いランプの下で、同じような沈痛な表情を浮かべたラーシャが、ぽつり、と口にする。
「……謝って済むようなものではないが……
軽率に協力を求めた私たちのせいだな……。すまない……」
ラーシャは頭を下げる。隣に掛けていたデルタは、瞑目しながら主に従った。
トレイをカウンターに片付けようとしていたカノンの動作が止まる。肩が、小刻みに、小さく、震えていた。
「別にあんたらのせいじゃないだろ……」
「そうね……。仮に貴方たちがいなくても、あの娘は躍起になって真相を知ろうとしたでしょうし……」
さすがのアルティオやシリアの声にも覇気がない。
腹立だしさと物悲しさ。
気の毒とか、可哀相とか。そんな言葉はあまりに温くて似つかわしくない。
激動を歩み、他人の目からしてもけして幸運とは言えない人生を送り。
ようやくサイコロの目が最高値を出したと思えば、そのサイコロは脆くも崩れてしまうような偽物で。
彼女の心境を語れる者など、その場にはいなかった。
「誰のせい、といえば―――私かもしれないわ」
「シリア?」
「あの娘、ね……煙草を吸ってたのよ。ちょっと前まではあんなに嫌がってたのに、いきなりよ?
まあ、隠してたつもりらしかったけれど……
何で、って思ってたけど……」
シリアは彼女らしからぬ深い溜め息を吐く。額に手を当てて、暗闇に消えた白子の魔道技師の姿を思い出す。
「あの男から……同じ、煙の匂いがしたわ―――」
「……」
アルティオが舌打ちをした。
「……何だよ…。普段、ぎゃあぎゃあ茶化してるくせして……
あの馬鹿…しっかり、女やってるんじゃんか……。だったら、何で一言わねぇんだよ……」
悔しさに歯軋りをしながら、彼は拳を握り締める。
「俺だって……俺だって、あいつが変わったのは分かってたさ……。昔なんかより、断然女っぽくなってた。何人も女の子を見て来た俺が言うんだから、間違いない。
………もっと、何とか、きっと出来たんだよ。何で、」
「―――何で」
背を向けたままのカノンが小さく漏らす。声は、嫌に硬い。
目を閉じて、ずっと腕を組んでいたレンが初めて顔を上げる。彼女の肩が、かたかたと震えていた。
それは、哀憐なのか。あるいは、
「何で……気づかなかったのよ……」
「カノン……?」
ばんッ!!
それは、彼女が思い切りカウンターを両手で殴りつける音だった。きっ、と振り返った目には、極僅かながら、光るものが滲んでいた。
「何でッ! 何で誰も気づかなかったのよッ!?
あいつが何か抱え込んでることなんて、分かってたことじゃないッ! 何で、何で誰一人、気づいてやれなかったのッ!?」
普段、気遣いと心配りの出来る彼女とは思えないほど、粗暴な言葉が口をついて出る。
分かっていたことのはずだった。彼女が一人で、何かを抱え込んでいることは。けれど誰一人、それを聞き出そうとする人間はいなかった。
だから、カノンたちの知らないところで、取り返しのつかないことが、奴らの思惑が、進行していることに、誰も気づいてやれなかった。
彼女が、あんなにぼろぼろになるまで、気づいてやれなかった。
腹立だしかった。やるせなくて、情けなかった。
カノンの怒り任せの言葉に、答えられる者は誰一人いなかった。全員、罪は同じなのだ。だから、力なく項垂れることしか出来ない。
「何で……ッ、何でよッ!? ずっと、あれだけ一緒にいたじゃないッ!
そんなに気づいてたことは、気づいてやるチャンスはいっぱいあったんじゃないッ! 何で、誰も気づかなかったのッ!? 何で―――ッ」
さらに声を荒げるカノンに、レンが椅子を蹴って立ち上がった。つかつかと、喚き散らす彼女に近づくと、
ぱしんッ!
「―――ッ!」
胸倉を掴んで、頬を張った。
声が詰まって、言葉が止まる。予想だにしないそれに、アルティオもシリアも、ラーシャさえ腰を浮かしかける。
カノンははたかれた頬を押さえて、涙を滲ませた目で、頬を張った本人を睨み上げる。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、それ以上の暴言を許さない厳しい目で彼はその視線を受け止める。
きり―――ッ、歯を軋ませてカノンは大きく首を振る。堪りかねたように、踵を返して、乱暴に宿屋のドアを開け放ち、その場を出て行った。
「れ、レン……」
その背を見送ることもなく、立ち尽くしていた彼に、アルティオが遠慮がちに声をかける。
レンは不意に額に拳を当て、はぁ、と息を漏らす。
「……『魔変換』[ガストチャージ]、というのは、面倒な力だな」
「は?」
「カノンにとっての『魔』っていうのは、別に魔力や魔族の精神力みたいなものに限らないのよ」
レンの言わんとすることを悟って、シリアが補足する。開け放たれたままの、きぃきぃ軋みを上げるドアに目をやって、
「死者の未練や無念みたいなものも感じる、って聞いたことがあるわ。それは、つまり―――人間の『負』の感情そのものを直に感じてしまう、ってことでしょ……?
身近な人間だったら、尚更―――」
「あ……」
アルティオのときもそうだったのだ。彼女は、アルティオの無念も、あの少女―――ステイシア=フォーリィの慟哭も、しっかり耳に入れて、胸に留めていた。
だから、折れそうなまでに、必死だった。
「……あいつは自分以外の人間の感情を、自分に投影しすぎる。悪い方のものばかり、な。
―――すまないが、許してやってくれ」
「い、いや、私は……」
後半はラーシャとデルタに向けた言葉だった。ラーシャは慌てて首を振る。
レンはそれを見届けると、マントを翻して開け放しのドアへと向かう。
「お、おい、レン。追うのか?」
「……」
「……そうか。何か、悔しいけど―――頼んだぜ」
無言でもって答えた彼に、アルティオは眉間に皺を寄せたまま、悔しそうに、だがそれ以上何も言わなかった。シリアは視線を合わせないようにそっぽを向いている。
彼は短く息を吐く。
「―――シリア」
「……?」
「…………すまないな」
呟くように言ったレンの一言に、シリアはきょとんと目を瞬かせる。しばらくの間、目を丸くしたままレンを見ていたが、不意に心底仕方なさそうに笑って、形の良い顎をドアの方へ向けた。
それを見届けて、レンは踵を返し、ドアの向こうへと消えた。
「……ちょっと、悔しいな」
「ちょっと、どころじゃあないわ。けど……仕方ないじゃない。
今は―――二人のお姫様をどうにかしないといけないでしょ?」
言ってシリアは視線を階上へと向ける。アルティオもその視線を追って、暗いその上の廊下を、さらにはその先の一室に首を振る。
シリアが何かを思いついたように顎へ手を当てた。
そして正面に座るラーシャを見る。
「ねぇ、中将」
「私のことはラーシャ、で構わない。何か……?」
「どうせだから、今のうちにお願いしておくわ。あのね……」
夜風が頭を冷やしてくれるかと思えば、それは甘かった。夏が通り過ぎつつある深夜の風は、確かに肌寒さをレンの身体へと与えてくるのだが、そよ風程度では今の熱は冷めてくれそうになかった。
先ほど、少女の頬を張った右の掌がじんじんと、得体の知れない痛みを放つ。
諫めるつもりが、結局は自分自身が抱えていた憤りをぶつけてしまっただけなのかもしれない。歯がゆく、そして情けない。
誰も責められるわけもなければ、責めるわけもないというのに。
宿の裏に回って、初めて、嗚咽を堪えるような小さな声が聞こえた。首を回すと視界の端に薄濡れた金の神が映った。
「……カノン」
声をかけると背を向けていた彼女の肩が小さく震える。それきり反応を示そうとしない。
レンはわざと音を立てながら近寄った。彼女の肩へ手を伸ばす。その手が、僅かに触れた瞬間、
ぱしッ
「……」
拒むように、その手が振り払われる。こちらを向いた彼女は歯を食い縛って、浮かびそうになる雫を必死に拭って、耐えていた。泣くのも、そして泣きたいのも自分ではないと言わんばかりに。
レンは伸ばしかけた手をゆっくりと引く。
「カノン」
「……」
もう一度、名を呼ぶと彼女はくしゃり、と表情を歪ませる。何かを振り払うかのように、首を振った。
「誰も同じだ。知りながら、気づきながら、今の今まで何も出来なかったことを悔いている。
だが、誰のせいでもない。ラーシャ=フィロ=ソルトや、デルタ=カーマインのせいでも、ましてやシリアやアルティオのせいであるはずがない」
「………分かってる……ッ! そんなことは分かってる……ッ!!」
激しく首を振りながら、それ以上の言葉を拒絶するように、カノンは詰まった声を上げる。
混乱していく頭を両手で押さえる。怒りと、憤りと、激情と、……物悲しさと。どうにかなってしまいそうだった。
けれど、本当にそうなのは、自分ではないのだ。だから、
「でも……ッ! でも、思ってしまうの……ッ! 何で何もしなかった、って……ッ!!
誰も何も出来なかった、何で、どうして……ッ!? 気がつくチャンスなんか、たくさんあったはずじゃないの……ッ!
どうして、どうして皆……ッ!」
「どうしてあたし……ッ、今まで何も出来なかったの……ッ!?」
それが、本音だった。
いろんなものが許せない。直接手を下してきたあの男も、裏で彼を操っていたエイロネイアの少年も、何も言ってくれなった親友も。
けれど、それ以上に、何も出来なかった、何もしてやれなかった自分が、何より一番許せない。
彼女にとって助けられなかった親友は、ルナだけではないのだ。ルナの友達なら、自分にとっても友達だと。屈託なく笑った、あの何も罪のない少女さえ、カノンは救えなかった。
自分の無力を、情けなさを、まざまざと突きつけられた。
こめかみに爪を立てる彼女の手を、レンは静かに外した。今度は振り払われなかった。
溢れてしまいそうな涙を隠そうと、カノンは彼のマントを掴んで顔を埋めた。泣きたいのは自分じゃない。他人に頼っていいのも自分じゃない。けれど、走る痛みには耐え切れなくて。
レンは小刻みに震える小さな頭に手を被せる。
「……誰のせいでもない。責があるとしたら全員だ。誰も責められはしない。誰も責める資格はない。
だから誰も憎むな、怒りを向けるな。
―――向けるとしたら」
「……」
彼女はゆっくりと面を上げる。涙を食い止めて、前を見る。
そして、虚空の闇の彼方へ宣言するように、
「―――許さない。あいつら……ッ、あたしは、あたしは絶対に許さないわ……ッ!」
「……」
決意するように、けたけたと笑い声を上げる闇の奥を睨みながら、カノンは言い放つ。その声は、もう、震えてはいなかった。
目を開ける。
眠っては、いなかった。
ただ、目を閉じてベッドの上に横たわっていただけだった。
瞼の上から嫌というほどの光が、目を焼いてくる。朝、いや、昼。
眠たくないわけではない。身体は泥のような疲れを訴えて、睡眠を要求してくるのだが、じりじりと熱を伴う痛みを放つ頭の芯と、瞼を閉じては熱くなる目の奥が、それを許すことはなかった。
だから結果的に、極浅い眠りと目覚めの間を何度も行き来する羽目になった。
だが、その浅い眠りのせいで、ひどく懐かしい夢を見た。
あの炎の夢を見るようになってからは、久しく封印されていた夢だった。
「ゼルゼイル、って国を知ってるか?」
普通なら、誰もが渋い顔をするであろう国の名を、かつての彼はよく口にした。彼がゼルゼイルの内戦についての知識がないわけはないと悟っていたルナは、極普通に知っている、と返した気がする。
内戦国ゼルゼイル。
魔道師内では一昔前まで―――内戦が激化する前まで、数々の古代伝説が眠る精霊都市ルーアンシェイルと並ぶほど、魔道歴史的価値の高い国だった。
それは様々な伝承や、伝説に由来する。
いわく、大天使ルカシエルと戦い、倒れた最高の地位を持つ魔族・ヴァン一族の一人である羅刹鬼グライオンが眠るとされている海中大陸ファントムが沖合いに存在するだとか。
いわく、神、魔、人の世界すべてに絶望した神と悪魔の化身がそれぞれの伝承が残る神殿で、自らの主を待って眠っているだとか。
眉唾物から正式な伝承まで。
数ある逸話が残されている場所。
内戦が始まってから、魔道師内の間でもある種のタブーとなってしまって、封じられつつあった伝承の数々。
その一つ一つを語っては、まるで子供のように目を光らせて、こちらが一つでも知らないことがあると冗談交じりに馬鹿にして。
そして、最後にいつも言っていた。
いつか、共に行ってみないか、と。
「……」
のろのろと身体を擡げると、サイドテーブルの上に、くたびれた赤石の羽飾りがあった。
叩き壊してしまおうかとも思ったのだ。最初は。
けれど、………どうしても、壊せなかった。
未だに、自分はあの男に帰属しているのだと、馬鹿馬鹿しくなった。
べっどを抜ける。どさり、と枕が落ちた。でも、気にならなかった。
姿見に顔を映すと、酷く情けない、腫れぼったい顔とまだ僅かに赤い首が目に入った。町外れのあのとき、締められた手の跡が、少しだけ残ってしまったらしい。
「…………ッ」
その跡に触れて、肩を震わせる。床を見下ろして、その床が、ぽたりと濡れた。
握り締めた拳、鏡の自分を睨みつける目。
顔を上げる。鏡の袂に置かれた小さな鋏が目に入った。しばらく瞑目して、そして、その小さな鋏に手を伸ばした。
風が吹き抜ける。
晩夏の風は、温かさと冷たさの二つを併せ持っている。ルナには、少しだけ肌寒く感じていたが。
少しだけくすんだ緑の匂い。その緑と、白い石がコントラストを生んでいる。
墓、というのはどこの町も大抵小高い丘に造る。それは、少しでも天に近い場所から、旅立ちを見送ろうという信仰の表れなのだろうか。
白い柵に囲まれた、白い石十字の並ぶ丘。感じるのは場違いな清潔感と、物悲しさと、……それから数多の小さな祈り。
ただ、ここに眠る人々が天へ昇れることを信じて。
献花の花の匂いが香る。また、風が過ぎ去るとその匂いは一層強くなって、寂寥感を生んだ。
切り揃えたばかりの短い髪が、僅かに靡く。それに自嘲的な苦笑を漏らして、ルナはその墓場の一番隅に造られた、小さな十字の前で立ち止まる。
途中、買ってきた桃色の花を添える。
彼女が一番好きだった色。好きならば、その色の服を買えばいいのに、自分には似合わないからといつも地味な色の服ばかり着ていた。
……皮肉にも、白い墓石に桃色の花は良く映えた。
「……ごめんね」
跪くように片膝をついて、ただそれだけを口にする。他の言葉は、言い訳にしかならないことを、彼女は知っていた。
「―――もし、生まれ変わったら……
間違っても、あたしみたいなのを親友にしちゃ駄目よ。それから、もっと派手な服も着て、しっかり女の子やりなさい。それから―――いい人、見つけなさいね」
生まれ変わりなど、元から信じているわけじゃない。ただ、それだけでは、たった二十年余りの人生がこれでは、あまりに哀しすぎたから。
「……………………おやすみ、イリーナ」
それだけを告げて、立ち上がる。
踵を返すと、墓場の入り口に、二つの影が見えた。すっ、と自然と表情が引き締まる。
ラーシャとデルタだった。
「……良いのですか?」
「……ええ。行くわ、あんたたちと一緒に」
硬い声で問いかけたデルタに、同じように返す。何故だか彼は嘆息してラーシャを見上げた。彼女は大分、複雑そうな表情を浮かべている。
ルナはその二人の間をすり抜けて、丘を下ろうとする。
でも出来なかった。
かつッ、と石段に響いた足音が、それを止めたからだ。顔を上げて、ルナは目を見開いて声を漏らす。
「カノン……?」
「……」
腰に手を当てて、仁王立ちするように彼女は立っていた。表情は、どこか晴れやかで笑みを浮かべている。……少しだけ、ぎこちなかったけれど。
「あんた、何でここに……?」
「今さら何で、も何もないでしょ。何、水臭いこと言ってんの」
かつかつと、茫然とする彼女に近づいて、いつも通りの、挑戦的な笑みで肩を叩く。
ルナにはカノンの言わんとしていることが分からない。分からないから、首を傾げて、眉間に皺を寄せる。
「あたしたちも一緒に行く、って言ってんのよ」
「・・・はッ!?」
思わず間の抜けた声を漏らす。はっ、と顔を上げ、彼女の背後を見やると、
「よぉっす。何だ、一人でなんて水臭いぜッ! 俺は留守番、てのが一番嫌いなんだよ」
「ま、私はどうでもいいんだけど。レンが行く、っていうのなら見過ごすわけにいかなしぃ?
確かにあのお坊ちゃんたち、一度鼻を明かしてあげないと私の気が収まらないしねぇ」
「……」
唖然とした表情で、あり得ない気軽さで声を上げる二人に顔を引き攣らせる。溜め息を漏らしながら腕を組む、赤毛の幼馴染に目を留める。
「………レン、あんた……」
「……仕方あるまい。火の付いた連中を説得するより、お守りをしていた方が幾分か楽だ」
彼はふん、と鼻を鳴らして、いつものように答える。
カノンはそれを見て、満足げに微笑んだ。そして、呆気に取られているルナの方へ振り返る。
「ラーシャ、プラス四人分の船代くらい何とかなるでしょ」
「ああ……。昨日のうちに既にシリア殿に言われてな。手続きは済んである。心配ない」
カノンの問いに、ラーシャは事も無げに答えた。
その会話に、はっ、と我に返ったルナは慌ててカノンの肩を掴む。
「あ、あんたたち……ッ! 馬鹿じゃないの……ッ、何だって……ッ!」
「馬鹿なのはあんたも一緒でしょ。馬鹿を一人で行かせるよりも、五人固まって行った方がいいに決まってるでしょうが」
「だって……ッ!」
「ルナ」
何かを咎めるような声で、カノンはルナの名を呼んだ。
「あたしだって、罠だってのは分かってる。あんなにちょっかい出してくれたんだもの。挑発されてるんだ、って分かってるわ。
けど、けどね。
こんだけのことされて、黙っていってらっしゃい、なんて言えるほど、人間出来ちゃいないのよ」
「……」
「あんたは行かなきゃいけないし、あたしだってあいつらにはたくさんの借りがある。
こんだけ人を舐めた真似してくれたんだもの。一発がつーんッ、とくれてやんなきゃ」
拳を振り上げて、カノンは笑った。そうして拳を解いた後に、笑顔のままで手を伸ばす。
「……一緒に行こう、ルナ」
「……」
言葉が、出なかった。
この数日間で感じたものとはまた別の、熱い感覚が目の奥に込み上げる。
久方ぶりに忘れていた、その感覚が、自然と唇を笑みの形へ吊り上げた。
「………ほんとに…、ほんとにあんたたちってば……。馬鹿ばっかりね………」
自分から、溝に飛び込むなんて。
「……カノン」
「うん」
「あの夜。あたしはあいつから、今夜自分の宿に来るように、って言われてた。
最後のチャンスだ。信じて欲しいなら、来い、みたいな感じでね」
「……うん」
「でもね……。
あたしを部屋に来させるのだけが目的なら―――そんな言い方するはずないのよ。話し合いたいから来い、って言うのが一番確実よ。
でも、あいつはそうしなかった。そんなことが思いつかないような人間じゃないのにね」
「………」
「……でも、あいつが―――
カシスが、イリーナを殺したのも、事実だわ」
カノンが顔を歪める。ルナはまっすぐに、きっ、と正面を向いた。
「あたしはあいつの真意を確かめなくちゃいけない。この五年間、あいつがどこでどうやって来て、何でこんなことになったのか―――
真相を、確かめなきゃいけない」
「……うん」
カノンは頷く。そのために、今、彼女はここにいるのだ。
「恥知らずの恩知らずと思われても、仕方ないことね。けど、カノン」
ルナはゆっくりと、片手を上げる。ずっと、ずっと安寧な温い関係が壊れるのに、その手が離れていくことに、脅え、恐れ、臆病すぎて掴めなかった、その手を取るために。
寸前で、少しだけ躊躇した手を、カノンは握り返す。
「……お願い。少しだけ、力を貸してくれる?」
ずっと、その一言が、聞きたかった。
「―――ええ、勿論!」
そう言って、彼女は満面の笑みで微笑んだ。
カノンは勢い良く、全員のいる方へと振り返る。
「さぁ、あんたたち! ここまでされて、まさか縮こまる気はないでしょうッ!?
反撃開始よ、気合入れ直しなさいッ!! 行くわよ、ゼルゼイルにッ!!」
『応ッ!!』
―――夜が明けて、晴れ渡った空に。
叫んだ少女の声に、拳を振り上げた彼らの声が、唱和して、響き渡った。
―――闇が晴れて。
ようやく自由になった視界に、少年はふぅ、と息を吐いて髪を掻き揚げる。久しぶりに地に足が付く。何度も味わっているはずなのに、どうにも馴れない。
「……主様?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。ありがとう、シャル。お疲れ様」
言って低い位置にある頭を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
「んあ? おい、白髪頭。どこ行くんだ?」
「……うるせーよ。話しかけんじゃねぇ」
「んだと、てめッ……」
「エノ」
地に足を付けると同時に、くるり、と踵を返したカシスにエノが憮然と怒鳴り声を上げる。
名前を呼んで、黒衣の少年は彼を咎めた。唇を尖らせながらも、竜の翼を生やした少年は押し黙る。
白子の魔道技師は、それから彼らを一瞥することもなく、朽ちかけた館の闇の中へと消えていった。
その背を見送って、少し困ったような表情で少年は息を吐く。
「少し、一人にしてあげなよ」
「ああ?」
「あるまじき失態を恥じてるんだ。彼なりに、ね……」
くすり、と少年はいつものように笑う。その服の裾を、小さな少女がくい、と引いた。
視線を下げると、少女は何故だかとても居た堪れない表情でこちらを見ている。少年は変わらぬ笑みでその頭をもう一度撫でた。
そうしてから、踵を返す。
「僕も少し休ませてもらうよ……。長旅で身体が参るといけないからね。君たちも一休みするといい。
ああ、それから。
目を離しているからって無駄に喧嘩しないように」
言われてエノとシャル、と呼ばれる少女は顔を見合わせた。が、すぐにぷい、とお互いにそっぽを向く。
皇太子はやれやれと息を吐いて、小さな笑みを漏らし、踵を返す。
返したその途端に、その顔からは、表情が、消えた。
「……」
きぃ……
背後で何事か言い合う二人の声を耳に入れながら、彼は隣室への扉を開く。老朽化の進んだ暗い館。軋みもする。とりあえずの小休止だ。一目に付かない場所ならどこでも良かった。
見渡せば極暗い部屋に、埃の被るベッドとソファ。食器棚は崩れ落ちて、中身の皿やグラスは風化している。常人ならとてもいられないだろう、その空間に、少年はしかし、安堵の表情を浮かべた。
人の目に触れなければ、邪魔が入らなければ、どんな場所でも構わない。
明るい場所は、目に痛い。
「……」
比較的、埃の少ないソファに腰掛けると疲労がどっ、と押し寄せて来た。いつもそうだ。立っている間は気が付かない。腰を下ろすと根が生える。
最も、いくら疲れていても、安寧と眠れる時間は彼にとっては皆無に等しかった。
眠りはいつも浅くて、あるもないも同然。起きて目を閉じているだけなのか、それとも眠っているのか、それすら判然としないほどの、曖昧なもの。
それでも、休息を求めてソファに横たわる。
舞い上がった埃が、目の前で僅かな光を受けて踊った。鼻と口を押さえながら、目を細める。
包帯の巻かれた右手が目に入る。ゆっくり動かして、指を折る。
「……カノン=ティルザード…、レン=フィティルアーグ………」
小さく、名を上げながら、指を折る。
自らが追っていた二人の名前。同時に、彼女らを取り巻いていた三人の仲間と、そして、
「………ラーシャ、=フィロ=ソルト…」
ゼルゼイル北方シンシアの騎士。そしてその従者。薄目を開けていた彼の目が、険しく歪められる。
天井を仰ぎ、指を折った手を額に当てながら、呟く。
「……少し、プランを変えないといけないな……」
それだけを口にして、少年は、いつも通りの浅い眠りの中へと落ちていった。
嵐の前の、束の間の休息を楽しむかのように―――。
より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
←14へ
鍵の締められたドアに、カノンは無言で踵を返した。すっかり冷めてしまった手の中のパンとスープを見て、やりきれない表情を浮かべる。
「……やっぱり、駄目なの?」
「……」
宿屋の階段を下りて、テーブルに着いていたシリアが顔を上げたカノンに問う。吐いた溜め息が、すべてを物語っていた。シリアは軽く首を振りながら席に着く。
薄暗いランプの下で、同じような沈痛な表情を浮かべたラーシャが、ぽつり、と口にする。
「……謝って済むようなものではないが……
軽率に協力を求めた私たちのせいだな……。すまない……」
ラーシャは頭を下げる。隣に掛けていたデルタは、瞑目しながら主に従った。
トレイをカウンターに片付けようとしていたカノンの動作が止まる。肩が、小刻みに、小さく、震えていた。
「別にあんたらのせいじゃないだろ……」
「そうね……。仮に貴方たちがいなくても、あの娘は躍起になって真相を知ろうとしたでしょうし……」
さすがのアルティオやシリアの声にも覇気がない。
腹立だしさと物悲しさ。
気の毒とか、可哀相とか。そんな言葉はあまりに温くて似つかわしくない。
激動を歩み、他人の目からしてもけして幸運とは言えない人生を送り。
ようやくサイコロの目が最高値を出したと思えば、そのサイコロは脆くも崩れてしまうような偽物で。
彼女の心境を語れる者など、その場にはいなかった。
「誰のせい、といえば―――私かもしれないわ」
「シリア?」
「あの娘、ね……煙草を吸ってたのよ。ちょっと前まではあんなに嫌がってたのに、いきなりよ?
まあ、隠してたつもりらしかったけれど……
何で、って思ってたけど……」
シリアは彼女らしからぬ深い溜め息を吐く。額に手を当てて、暗闇に消えた白子の魔道技師の姿を思い出す。
「あの男から……同じ、煙の匂いがしたわ―――」
「……」
アルティオが舌打ちをした。
「……何だよ…。普段、ぎゃあぎゃあ茶化してるくせして……
あの馬鹿…しっかり、女やってるんじゃんか……。だったら、何で一言わねぇんだよ……」
悔しさに歯軋りをしながら、彼は拳を握り締める。
「俺だって……俺だって、あいつが変わったのは分かってたさ……。昔なんかより、断然女っぽくなってた。何人も女の子を見て来た俺が言うんだから、間違いない。
………もっと、何とか、きっと出来たんだよ。何で、」
「―――何で」
背を向けたままのカノンが小さく漏らす。声は、嫌に硬い。
目を閉じて、ずっと腕を組んでいたレンが初めて顔を上げる。彼女の肩が、かたかたと震えていた。
それは、哀憐なのか。あるいは、
「何で……気づかなかったのよ……」
「カノン……?」
ばんッ!!
それは、彼女が思い切りカウンターを両手で殴りつける音だった。きっ、と振り返った目には、極僅かながら、光るものが滲んでいた。
「何でッ! 何で誰も気づかなかったのよッ!?
あいつが何か抱え込んでることなんて、分かってたことじゃないッ! 何で、何で誰一人、気づいてやれなかったのッ!?」
普段、気遣いと心配りの出来る彼女とは思えないほど、粗暴な言葉が口をついて出る。
分かっていたことのはずだった。彼女が一人で、何かを抱え込んでいることは。けれど誰一人、それを聞き出そうとする人間はいなかった。
だから、カノンたちの知らないところで、取り返しのつかないことが、奴らの思惑が、進行していることに、誰も気づいてやれなかった。
彼女が、あんなにぼろぼろになるまで、気づいてやれなかった。
腹立だしかった。やるせなくて、情けなかった。
カノンの怒り任せの言葉に、答えられる者は誰一人いなかった。全員、罪は同じなのだ。だから、力なく項垂れることしか出来ない。
「何で……ッ、何でよッ!? ずっと、あれだけ一緒にいたじゃないッ!
そんなに気づいてたことは、気づいてやるチャンスはいっぱいあったんじゃないッ! 何で、誰も気づかなかったのッ!? 何で―――ッ」
さらに声を荒げるカノンに、レンが椅子を蹴って立ち上がった。つかつかと、喚き散らす彼女に近づくと、
ぱしんッ!
「―――ッ!」
胸倉を掴んで、頬を張った。
声が詰まって、言葉が止まる。予想だにしないそれに、アルティオもシリアも、ラーシャさえ腰を浮かしかける。
カノンははたかれた頬を押さえて、涙を滲ませた目で、頬を張った本人を睨み上げる。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、それ以上の暴言を許さない厳しい目で彼はその視線を受け止める。
きり―――ッ、歯を軋ませてカノンは大きく首を振る。堪りかねたように、踵を返して、乱暴に宿屋のドアを開け放ち、その場を出て行った。
「れ、レン……」
その背を見送ることもなく、立ち尽くしていた彼に、アルティオが遠慮がちに声をかける。
レンは不意に額に拳を当て、はぁ、と息を漏らす。
「……『魔変換』[ガストチャージ]、というのは、面倒な力だな」
「は?」
「カノンにとっての『魔』っていうのは、別に魔力や魔族の精神力みたいなものに限らないのよ」
レンの言わんとすることを悟って、シリアが補足する。開け放たれたままの、きぃきぃ軋みを上げるドアに目をやって、
「死者の未練や無念みたいなものも感じる、って聞いたことがあるわ。それは、つまり―――人間の『負』の感情そのものを直に感じてしまう、ってことでしょ……?
身近な人間だったら、尚更―――」
「あ……」
アルティオのときもそうだったのだ。彼女は、アルティオの無念も、あの少女―――ステイシア=フォーリィの慟哭も、しっかり耳に入れて、胸に留めていた。
だから、折れそうなまでに、必死だった。
「……あいつは自分以外の人間の感情を、自分に投影しすぎる。悪い方のものばかり、な。
―――すまないが、許してやってくれ」
「い、いや、私は……」
後半はラーシャとデルタに向けた言葉だった。ラーシャは慌てて首を振る。
レンはそれを見届けると、マントを翻して開け放しのドアへと向かう。
「お、おい、レン。追うのか?」
「……」
「……そうか。何か、悔しいけど―――頼んだぜ」
無言でもって答えた彼に、アルティオは眉間に皺を寄せたまま、悔しそうに、だがそれ以上何も言わなかった。シリアは視線を合わせないようにそっぽを向いている。
彼は短く息を吐く。
「―――シリア」
「……?」
「…………すまないな」
呟くように言ったレンの一言に、シリアはきょとんと目を瞬かせる。しばらくの間、目を丸くしたままレンを見ていたが、不意に心底仕方なさそうに笑って、形の良い顎をドアの方へ向けた。
それを見届けて、レンは踵を返し、ドアの向こうへと消えた。
「……ちょっと、悔しいな」
「ちょっと、どころじゃあないわ。けど……仕方ないじゃない。
今は―――二人のお姫様をどうにかしないといけないでしょ?」
言ってシリアは視線を階上へと向ける。アルティオもその視線を追って、暗いその上の廊下を、さらにはその先の一室に首を振る。
シリアが何かを思いついたように顎へ手を当てた。
そして正面に座るラーシャを見る。
「ねぇ、中将」
「私のことはラーシャ、で構わない。何か……?」
「どうせだから、今のうちにお願いしておくわ。あのね……」
夜風が頭を冷やしてくれるかと思えば、それは甘かった。夏が通り過ぎつつある深夜の風は、確かに肌寒さをレンの身体へと与えてくるのだが、そよ風程度では今の熱は冷めてくれそうになかった。
先ほど、少女の頬を張った右の掌がじんじんと、得体の知れない痛みを放つ。
諫めるつもりが、結局は自分自身が抱えていた憤りをぶつけてしまっただけなのかもしれない。歯がゆく、そして情けない。
誰も責められるわけもなければ、責めるわけもないというのに。
宿の裏に回って、初めて、嗚咽を堪えるような小さな声が聞こえた。首を回すと視界の端に薄濡れた金の神が映った。
「……カノン」
声をかけると背を向けていた彼女の肩が小さく震える。それきり反応を示そうとしない。
レンはわざと音を立てながら近寄った。彼女の肩へ手を伸ばす。その手が、僅かに触れた瞬間、
ぱしッ
「……」
拒むように、その手が振り払われる。こちらを向いた彼女は歯を食い縛って、浮かびそうになる雫を必死に拭って、耐えていた。泣くのも、そして泣きたいのも自分ではないと言わんばかりに。
レンは伸ばしかけた手をゆっくりと引く。
「カノン」
「……」
もう一度、名を呼ぶと彼女はくしゃり、と表情を歪ませる。何かを振り払うかのように、首を振った。
「誰も同じだ。知りながら、気づきながら、今の今まで何も出来なかったことを悔いている。
だが、誰のせいでもない。ラーシャ=フィロ=ソルトや、デルタ=カーマインのせいでも、ましてやシリアやアルティオのせいであるはずがない」
「………分かってる……ッ! そんなことは分かってる……ッ!!」
激しく首を振りながら、それ以上の言葉を拒絶するように、カノンは詰まった声を上げる。
混乱していく頭を両手で押さえる。怒りと、憤りと、激情と、……物悲しさと。どうにかなってしまいそうだった。
けれど、本当にそうなのは、自分ではないのだ。だから、
「でも……ッ! でも、思ってしまうの……ッ! 何で何もしなかった、って……ッ!!
誰も何も出来なかった、何で、どうして……ッ!? 気がつくチャンスなんか、たくさんあったはずじゃないの……ッ!
どうして、どうして皆……ッ!」
「どうしてあたし……ッ、今まで何も出来なかったの……ッ!?」
それが、本音だった。
いろんなものが許せない。直接手を下してきたあの男も、裏で彼を操っていたエイロネイアの少年も、何も言ってくれなった親友も。
けれど、それ以上に、何も出来なかった、何もしてやれなかった自分が、何より一番許せない。
彼女にとって助けられなかった親友は、ルナだけではないのだ。ルナの友達なら、自分にとっても友達だと。屈託なく笑った、あの何も罪のない少女さえ、カノンは救えなかった。
自分の無力を、情けなさを、まざまざと突きつけられた。
こめかみに爪を立てる彼女の手を、レンは静かに外した。今度は振り払われなかった。
溢れてしまいそうな涙を隠そうと、カノンは彼のマントを掴んで顔を埋めた。泣きたいのは自分じゃない。他人に頼っていいのも自分じゃない。けれど、走る痛みには耐え切れなくて。
レンは小刻みに震える小さな頭に手を被せる。
「……誰のせいでもない。責があるとしたら全員だ。誰も責められはしない。誰も責める資格はない。
だから誰も憎むな、怒りを向けるな。
―――向けるとしたら」
「……」
彼女はゆっくりと面を上げる。涙を食い止めて、前を見る。
そして、虚空の闇の彼方へ宣言するように、
「―――許さない。あいつら……ッ、あたしは、あたしは絶対に許さないわ……ッ!」
「……」
決意するように、けたけたと笑い声を上げる闇の奥を睨みながら、カノンは言い放つ。その声は、もう、震えてはいなかった。
目を開ける。
眠っては、いなかった。
ただ、目を閉じてベッドの上に横たわっていただけだった。
瞼の上から嫌というほどの光が、目を焼いてくる。朝、いや、昼。
眠たくないわけではない。身体は泥のような疲れを訴えて、睡眠を要求してくるのだが、じりじりと熱を伴う痛みを放つ頭の芯と、瞼を閉じては熱くなる目の奥が、それを許すことはなかった。
だから結果的に、極浅い眠りと目覚めの間を何度も行き来する羽目になった。
だが、その浅い眠りのせいで、ひどく懐かしい夢を見た。
あの炎の夢を見るようになってからは、久しく封印されていた夢だった。
「ゼルゼイル、って国を知ってるか?」
普通なら、誰もが渋い顔をするであろう国の名を、かつての彼はよく口にした。彼がゼルゼイルの内戦についての知識がないわけはないと悟っていたルナは、極普通に知っている、と返した気がする。
内戦国ゼルゼイル。
魔道師内では一昔前まで―――内戦が激化する前まで、数々の古代伝説が眠る精霊都市ルーアンシェイルと並ぶほど、魔道歴史的価値の高い国だった。
それは様々な伝承や、伝説に由来する。
いわく、大天使ルカシエルと戦い、倒れた最高の地位を持つ魔族・ヴァン一族の一人である羅刹鬼グライオンが眠るとされている海中大陸ファントムが沖合いに存在するだとか。
いわく、神、魔、人の世界すべてに絶望した神と悪魔の化身がそれぞれの伝承が残る神殿で、自らの主を待って眠っているだとか。
眉唾物から正式な伝承まで。
数ある逸話が残されている場所。
内戦が始まってから、魔道師内の間でもある種のタブーとなってしまって、封じられつつあった伝承の数々。
その一つ一つを語っては、まるで子供のように目を光らせて、こちらが一つでも知らないことがあると冗談交じりに馬鹿にして。
そして、最後にいつも言っていた。
いつか、共に行ってみないか、と。
「……」
のろのろと身体を擡げると、サイドテーブルの上に、くたびれた赤石の羽飾りがあった。
叩き壊してしまおうかとも思ったのだ。最初は。
けれど、………どうしても、壊せなかった。
未だに、自分はあの男に帰属しているのだと、馬鹿馬鹿しくなった。
べっどを抜ける。どさり、と枕が落ちた。でも、気にならなかった。
姿見に顔を映すと、酷く情けない、腫れぼったい顔とまだ僅かに赤い首が目に入った。町外れのあのとき、締められた手の跡が、少しだけ残ってしまったらしい。
「…………ッ」
その跡に触れて、肩を震わせる。床を見下ろして、その床が、ぽたりと濡れた。
握り締めた拳、鏡の自分を睨みつける目。
顔を上げる。鏡の袂に置かれた小さな鋏が目に入った。しばらく瞑目して、そして、その小さな鋏に手を伸ばした。
風が吹き抜ける。
晩夏の風は、温かさと冷たさの二つを併せ持っている。ルナには、少しだけ肌寒く感じていたが。
少しだけくすんだ緑の匂い。その緑と、白い石がコントラストを生んでいる。
墓、というのはどこの町も大抵小高い丘に造る。それは、少しでも天に近い場所から、旅立ちを見送ろうという信仰の表れなのだろうか。
白い柵に囲まれた、白い石十字の並ぶ丘。感じるのは場違いな清潔感と、物悲しさと、……それから数多の小さな祈り。
ただ、ここに眠る人々が天へ昇れることを信じて。
献花の花の匂いが香る。また、風が過ぎ去るとその匂いは一層強くなって、寂寥感を生んだ。
切り揃えたばかりの短い髪が、僅かに靡く。それに自嘲的な苦笑を漏らして、ルナはその墓場の一番隅に造られた、小さな十字の前で立ち止まる。
途中、買ってきた桃色の花を添える。
彼女が一番好きだった色。好きならば、その色の服を買えばいいのに、自分には似合わないからといつも地味な色の服ばかり着ていた。
……皮肉にも、白い墓石に桃色の花は良く映えた。
「……ごめんね」
跪くように片膝をついて、ただそれだけを口にする。他の言葉は、言い訳にしかならないことを、彼女は知っていた。
「―――もし、生まれ変わったら……
間違っても、あたしみたいなのを親友にしちゃ駄目よ。それから、もっと派手な服も着て、しっかり女の子やりなさい。それから―――いい人、見つけなさいね」
生まれ変わりなど、元から信じているわけじゃない。ただ、それだけでは、たった二十年余りの人生がこれでは、あまりに哀しすぎたから。
「……………………おやすみ、イリーナ」
それだけを告げて、立ち上がる。
踵を返すと、墓場の入り口に、二つの影が見えた。すっ、と自然と表情が引き締まる。
ラーシャとデルタだった。
「……良いのですか?」
「……ええ。行くわ、あんたたちと一緒に」
硬い声で問いかけたデルタに、同じように返す。何故だか彼は嘆息してラーシャを見上げた。彼女は大分、複雑そうな表情を浮かべている。
ルナはその二人の間をすり抜けて、丘を下ろうとする。
でも出来なかった。
かつッ、と石段に響いた足音が、それを止めたからだ。顔を上げて、ルナは目を見開いて声を漏らす。
「カノン……?」
「……」
腰に手を当てて、仁王立ちするように彼女は立っていた。表情は、どこか晴れやかで笑みを浮かべている。……少しだけ、ぎこちなかったけれど。
「あんた、何でここに……?」
「今さら何で、も何もないでしょ。何、水臭いこと言ってんの」
かつかつと、茫然とする彼女に近づいて、いつも通りの、挑戦的な笑みで肩を叩く。
ルナにはカノンの言わんとしていることが分からない。分からないから、首を傾げて、眉間に皺を寄せる。
「あたしたちも一緒に行く、って言ってんのよ」
「・・・はッ!?」
思わず間の抜けた声を漏らす。はっ、と顔を上げ、彼女の背後を見やると、
「よぉっす。何だ、一人でなんて水臭いぜッ! 俺は留守番、てのが一番嫌いなんだよ」
「ま、私はどうでもいいんだけど。レンが行く、っていうのなら見過ごすわけにいかなしぃ?
確かにあのお坊ちゃんたち、一度鼻を明かしてあげないと私の気が収まらないしねぇ」
「……」
唖然とした表情で、あり得ない気軽さで声を上げる二人に顔を引き攣らせる。溜め息を漏らしながら腕を組む、赤毛の幼馴染に目を留める。
「………レン、あんた……」
「……仕方あるまい。火の付いた連中を説得するより、お守りをしていた方が幾分か楽だ」
彼はふん、と鼻を鳴らして、いつものように答える。
カノンはそれを見て、満足げに微笑んだ。そして、呆気に取られているルナの方へ振り返る。
「ラーシャ、プラス四人分の船代くらい何とかなるでしょ」
「ああ……。昨日のうちに既にシリア殿に言われてな。手続きは済んである。心配ない」
カノンの問いに、ラーシャは事も無げに答えた。
その会話に、はっ、と我に返ったルナは慌ててカノンの肩を掴む。
「あ、あんたたち……ッ! 馬鹿じゃないの……ッ、何だって……ッ!」
「馬鹿なのはあんたも一緒でしょ。馬鹿を一人で行かせるよりも、五人固まって行った方がいいに決まってるでしょうが」
「だって……ッ!」
「ルナ」
何かを咎めるような声で、カノンはルナの名を呼んだ。
「あたしだって、罠だってのは分かってる。あんなにちょっかい出してくれたんだもの。挑発されてるんだ、って分かってるわ。
けど、けどね。
こんだけのことされて、黙っていってらっしゃい、なんて言えるほど、人間出来ちゃいないのよ」
「……」
「あんたは行かなきゃいけないし、あたしだってあいつらにはたくさんの借りがある。
こんだけ人を舐めた真似してくれたんだもの。一発がつーんッ、とくれてやんなきゃ」
拳を振り上げて、カノンは笑った。そうして拳を解いた後に、笑顔のままで手を伸ばす。
「……一緒に行こう、ルナ」
「……」
言葉が、出なかった。
この数日間で感じたものとはまた別の、熱い感覚が目の奥に込み上げる。
久方ぶりに忘れていた、その感覚が、自然と唇を笑みの形へ吊り上げた。
「………ほんとに…、ほんとにあんたたちってば……。馬鹿ばっかりね………」
自分から、溝に飛び込むなんて。
「……カノン」
「うん」
「あの夜。あたしはあいつから、今夜自分の宿に来るように、って言われてた。
最後のチャンスだ。信じて欲しいなら、来い、みたいな感じでね」
「……うん」
「でもね……。
あたしを部屋に来させるのだけが目的なら―――そんな言い方するはずないのよ。話し合いたいから来い、って言うのが一番確実よ。
でも、あいつはそうしなかった。そんなことが思いつかないような人間じゃないのにね」
「………」
「……でも、あいつが―――
カシスが、イリーナを殺したのも、事実だわ」
カノンが顔を歪める。ルナはまっすぐに、きっ、と正面を向いた。
「あたしはあいつの真意を確かめなくちゃいけない。この五年間、あいつがどこでどうやって来て、何でこんなことになったのか―――
真相を、確かめなきゃいけない」
「……うん」
カノンは頷く。そのために、今、彼女はここにいるのだ。
「恥知らずの恩知らずと思われても、仕方ないことね。けど、カノン」
ルナはゆっくりと、片手を上げる。ずっと、ずっと安寧な温い関係が壊れるのに、その手が離れていくことに、脅え、恐れ、臆病すぎて掴めなかった、その手を取るために。
寸前で、少しだけ躊躇した手を、カノンは握り返す。
「……お願い。少しだけ、力を貸してくれる?」
ずっと、その一言が、聞きたかった。
「―――ええ、勿論!」
そう言って、彼女は満面の笑みで微笑んだ。
カノンは勢い良く、全員のいる方へと振り返る。
「さぁ、あんたたち! ここまでされて、まさか縮こまる気はないでしょうッ!?
反撃開始よ、気合入れ直しなさいッ!! 行くわよ、ゼルゼイルにッ!!」
『応ッ!!』
―――夜が明けて、晴れ渡った空に。
叫んだ少女の声に、拳を振り上げた彼らの声が、唱和して、響き渡った。
―――闇が晴れて。
ようやく自由になった視界に、少年はふぅ、と息を吐いて髪を掻き揚げる。久しぶりに地に足が付く。何度も味わっているはずなのに、どうにも馴れない。
「……主様?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。ありがとう、シャル。お疲れ様」
言って低い位置にある頭を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
「んあ? おい、白髪頭。どこ行くんだ?」
「……うるせーよ。話しかけんじゃねぇ」
「んだと、てめッ……」
「エノ」
地に足を付けると同時に、くるり、と踵を返したカシスにエノが憮然と怒鳴り声を上げる。
名前を呼んで、黒衣の少年は彼を咎めた。唇を尖らせながらも、竜の翼を生やした少年は押し黙る。
白子の魔道技師は、それから彼らを一瞥することもなく、朽ちかけた館の闇の中へと消えていった。
その背を見送って、少し困ったような表情で少年は息を吐く。
「少し、一人にしてあげなよ」
「ああ?」
「あるまじき失態を恥じてるんだ。彼なりに、ね……」
くすり、と少年はいつものように笑う。その服の裾を、小さな少女がくい、と引いた。
視線を下げると、少女は何故だかとても居た堪れない表情でこちらを見ている。少年は変わらぬ笑みでその頭をもう一度撫でた。
そうしてから、踵を返す。
「僕も少し休ませてもらうよ……。長旅で身体が参るといけないからね。君たちも一休みするといい。
ああ、それから。
目を離しているからって無駄に喧嘩しないように」
言われてエノとシャル、と呼ばれる少女は顔を見合わせた。が、すぐにぷい、とお互いにそっぽを向く。
皇太子はやれやれと息を吐いて、小さな笑みを漏らし、踵を返す。
返したその途端に、その顔からは、表情が、消えた。
「……」
きぃ……
背後で何事か言い合う二人の声を耳に入れながら、彼は隣室への扉を開く。老朽化の進んだ暗い館。軋みもする。とりあえずの小休止だ。一目に付かない場所ならどこでも良かった。
見渡せば極暗い部屋に、埃の被るベッドとソファ。食器棚は崩れ落ちて、中身の皿やグラスは風化している。常人ならとてもいられないだろう、その空間に、少年はしかし、安堵の表情を浮かべた。
人の目に触れなければ、邪魔が入らなければ、どんな場所でも構わない。
明るい場所は、目に痛い。
「……」
比較的、埃の少ないソファに腰掛けると疲労がどっ、と押し寄せて来た。いつもそうだ。立っている間は気が付かない。腰を下ろすと根が生える。
最も、いくら疲れていても、安寧と眠れる時間は彼にとっては皆無に等しかった。
眠りはいつも浅くて、あるもないも同然。起きて目を閉じているだけなのか、それとも眠っているのか、それすら判然としないほどの、曖昧なもの。
それでも、休息を求めてソファに横たわる。
舞い上がった埃が、目の前で僅かな光を受けて踊った。鼻と口を押さえながら、目を細める。
包帯の巻かれた右手が目に入る。ゆっくり動かして、指を折る。
「……カノン=ティルザード…、レン=フィティルアーグ………」
小さく、名を上げながら、指を折る。
自らが追っていた二人の名前。同時に、彼女らを取り巻いていた三人の仲間と、そして、
「………ラーシャ、=フィロ=ソルト…」
ゼルゼイル北方シンシアの騎士。そしてその従者。薄目を開けていた彼の目が、険しく歪められる。
天井を仰ぎ、指を折った手を額に当てながら、呟く。
「……少し、プランを変えないといけないな……」
それだけを口にして、少年は、いつも通りの浅い眠りの中へと落ちていった。
嵐の前の、束の間の休息を楽しむかのように―――。
より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
←14へ
「ッ……はぁ、…はぁッ……」
黄金の光が止んで。
がくり、とルナの膝から力が抜ける。半端ない魔力の消費。目の前に、黒く染まった小さな手鏡がかしゃん、と小さく音を立てて落下する。
荒い息を吐きながら、視線を上げる。
黄金の魔方陣が描かれていた場所に、ぐったりと、血だらけのローブを纏いながら小さな身体が倒れ込んでいる。
「はぁッ……くッ…、し、シリア……、お願い……アルティオも………
『月』の剣の癒しの力なら、はぁッ、多少、使えるはずだから……はぁッ………」
「ルナ!」
ルナが途切れ途切れに言い放つより前に、シリアとアルティオは力なく伏した少女の身体に駆け寄っていた。
膝をつきながらも、無理矢理立ち上がろうとするルナの肩を、慌てて近寄ったカノンが支えた。一歩遅れて逆の肩を、レンが無言で持ち上げる。
その支えを、片手を挙げて断って。
だが、カノンは彼女の肩を支えたまま、倒れ伏した彼女の元まで行く。
ルナはふらつく足を叱咤しながら、イリーナの元まで歩く。アルティオは剣を構えて、額に脂汗を浮かべる。シリアは渋い顔をしながら、賢明に連続で浄療術を唱えている。彼女は下級ながら医療師の免許を取得している。その彼女が、これ以上ないほど渋い表情をしている。
胸の出血は止まっているが、その出血量が半端ではない。さらに、少し見ただけでは身体の内部のどこが傷を負っているのか解らない。
肺、気管支、もっと悪ければ―――。
ぎりッ―――カノンは歯を噛み締める。その隣で、茫然と親友の哀れな姿を見つめながら、ゆっくりと、俯いた。握り締めた拳からは、もう既に血が滲んでしまっている。
瞑目した瞼が、ふるふると震えている。
その瞼から一滴だけ落ちた雫に気がついて、カノンが声をかける。
「・・・ルナ?」
「………ほんとにね。馬鹿ね。あたし……。
こんなに、こんなに取り返しのつかないことになるまで……、つまんない意地、張ってるなんて、ね……」
「………?」
それは諦観にも似た呟きだった。何か、含みのある言い方だった気がする。
問いかけようと口を開くより先に、彼女は本当に、本当に小さな声で口にする。
「よくもまあ……ここまで上等にやってくれたじゃない………。
イリーナを駒として使って、ディオル=フランシスを誘発的に殺させて。こんな、こんな面倒なこと、本当に良くやったものだわ……」
ディオル=フランシスをあのような、不確かな殺し方をするのはまったく建設的じゃない。
始末するだけならば、もっと確実に、もっと安全な方法でやれたはずだった。
そう、わざわざルナを待ち伏せて、中まで誘導し、その上、屋敷に炎を放った。
あれでは。
あれではまるで、ディオル=フランシスを殺すためにルナを利用したのではなく―――
彼女の、心的外傷[トラウマ]を抉るために、ディオル=フランシスを利用したような。
「本当に、考えなしだわね、あたしは……。甘いも甘い、どうしようもない、情けない女だわ―――」
「ルナ、あんた……」
ばたばたと、遠くから二人分の足音が聞こえる。はっ、としてカノンが振り返ると同時に、洞穴の入り口方面から、髪と服とを振り乱して鬼気迫る表情をした女性将官と、後を走るのはその従者の、神衣を纏った緑銀の髪の少年。
「申し訳ないッ! 途中、連中の仲間と思しき少年に妨害を―――ッ!?」
二人とも息を切らしていたが、一目、カノンたちの集まるその場の惨状に絶句する。
「る、ルナ殿、カノン殿……ッ! こ、これは、一体……ッ?」
「……ッ」
「ラーシャ、デルタ……」
ルナを支えながら、どう説明していいものかカノンは眉を寄せる。
その傍らで、顔を真っ白に、表情という表情を失って、ルナはのろのろと面を上げる。
都合よく、イリーナに昨晩のことを目撃させることが出来たのも。
ルナとラーシャの間の事情を知り、尚且つ、夕刻に屋敷の中で待ち伏せることが出来たのも。
………そんな人間は、一人しか、いない。
「さあ、役者は揃ったわよ……?
………どうせ、そこら辺にいるんでしょう? なら、いい加減出てきなさいよ―――」
入り口とは別方向。今だ踏み入れていない闇の空間を、静かに睨む。そこにあった感情は―――当人でさえ、解らない。
「―――・・・カシスッ!!」
その場にわだかまる、色のない闇が、高らかに哄笑を上げた。
かつり、とブーツの音が鳴る。
ふわり、と外からの風が彼の白い上着を軽くはためかせた。いつもように、喉の奥から小さな笑いを漏らしながら、ゆっくりと、見えない闇から見える闇へと、彼は舞台に上がった。
天上から差しているのは僅かな月の光。半分ほどに姿を欠けさせたか細い月は、彼の白い糸を銀に照り返す。
細められた朱の瞳が、鮮やかに嘲笑[わら]った。
ようやく姿を認めることが出来るまで、闇を振り払った彼に、第一声を上げたのはずっと剣を翳していたアルティオだった。
「あ、あんた……。
何で……、こんな、ところに………」
「……」
対面するシリアも、治療の手は止めぬまま、しかし彼と問いたいことは同じだった。
ラーシャやデルタも、あまりにも目の前で起こっている出来事が自分たちの予想とかけ離れていて、混乱を顔に張り付けている。
カノンは眉間に皺を寄せ、睨むように彼の歩みを見ていた。
彼女から見ればあまりに突発的で、直接的に推論することは出来なかった。が、この場になって今ここにいて、尚且つそのいつもと変わらぬ余裕ぶった表情が、カノンの頭の中に、最悪の想像を描いていく。
レンも同じだっただろう。その証拠に、彼は収めかけていた剣を再度、抜いた。
ルナは微動だにしないまま、ただ静謐に彼を睨み、いや、眺めている。感情が抜けてしまったような表情で、ずっと唇を噛んでいる。
それを彼は一人一人眺め、最後に支えられながら何とか立っている形の魔道師の女を認めると、薄っすらと唇を吊り上げる。
「さぁてねぇ……そいつは、お前らの真ん中にいる女が良くご存知じゃねぇのか? 気になるなら問いただしゃあいいさ……まあ、まっとうな返事が返って来るかは知らねぇけどな」
ぱちんッ、と左手の指を鳴らす。
瞬間、気配が降って湧いた。
「ッ!?」
「ぐぅッ!?」
「シリア、アルティオッ!?」
天上の穴から竜の翼を振るわせて、赤い髪の少年が二人に跳びかかった。呆気に取られていた二人は、避けるのが精一杯で、少年の生んだ風の圧力に床の上へ吹き飛ばされる。
中心にいた少女の小さな身体は、ころころとその場で数回転して、漏れた赤い体液を撒き散らす。
構えを取るシリアとアルティオに、しかし、少年は子供のように剥れながら起き上がって胸を逸らした。
「だぁーッ! たくよぉ、つまんねぇことに俺を使うな、つってんだろぉッ? 言っとくけどな、普通ならてめぇの命令なんか死んだって聞かねぇんだからな! 特別だぞッ!」
「言ってろ、喚くな、くそガキ」
「ンなッ!! てめー、てめーなんかなぁ……ッ!!」
傲岸不遜に言い放つ少年の言を、カシスは涼しい顔で片付けた。良い文句が思いつかないらしい少年を放って、カシスはつかつかと歩みを進める。
そして、倒れた少女の前で足を止める。
呆気に取られて、彼を見上げるシリアたちを、彼はふんッ、と鼻で笑いながらちらりと喚き立てる少年を見た。
「……ま、こういうことだ。どんな頭の悪ぃ人間でも、いい加減解るだろ?」
「ッ!」
「てっめぇッ!! グルだったのかッ!?」
アルティオが激昂する。ぎりぎりと歯を噛み鳴らして、怒りに頭に血を上らせる。その彼を嘲笑うように睥睨して、もう一度、正面に向き直る。
ルナは何も言わない。言えない、と言った方が正しいのか。
はっ、としたカノンが嘲る朱眼を睨み返す。
「どういうこと……ッ!? 彼女を、イリーナさんをたきつけたのも、あんただってこと……ッ!?」
「ま、直接的にではねぇけどな。ちょいとショッキングな場面を見てもらって、後はまあ、有能な雇い主に任せたさ。
あれは人間の心を操るエキスパートだからな。正直、予想以上の成果だった。
ああ、ついでに言うとラーシャ=フィロ=ソルト、だったか? そっちの女将官様よ」
「ッ!」
名を呼ばれ、ラーシャは節くれだった剣を構える。その隣で、神衣の少年も構えを取った。
「あんたの敵―――ディオル=フランシスとかいう豪族の屋敷を燃やしたのも俺だ。
正直、あいつは最近、自惚れが酷かったらしくてな。あんたの敵国にとっても、そろそろ扱い難い邪魔者になってたそうだぜ。
そのおかげで気兼ねなく利用させてもらった。真面目で一本気なあんたの性格も役に立ったぜ……面白いように、思った通りに転がってくれたからな」
「―――ッ!」
ラーシャは剣の柄を握りながら絶句する。その拳がぶるぶると震えていた。デルタが諫めるように彼女の肩に手を置く。
「さて、と。ルナ」
「……」
名を呼ばれても、ルナはすぐには反応を返さなかった。静かに睨みながら、数拍の間を置いて、震えた声で問う。
「……最初に、街中であの娘を暴れさせたのも―――
豪族であるディオル=フランシスの名が、カノンたちの耳に入りやすくするため、後々ラーシャの話を彼女たちが受け入れやすくするため、出来るだけ派手な事件を起こしたってこと、ね……」
「プラス、俺がこっち側の人間じゃないことをアピールするためもあったけどなぁ。まあ、こっちはさほど重要じゃない。
何もしなくても、俺の素性はお前がきっちり解説してくれただろうからな」
するすると、澱みなく言葉が紡がれていく。それが、妙に異様だった。
奥歯を噛み締めながら、何かにずっと耐えるように、ルナは肩を震わせる。
何がなくとも、これだけは聞いて置かなくては。確かめなくては、ならない。
「じゃあ……あの男に。あの男に、『月の館』の研究を受け渡したのも―――ッ!」
「……」
カシスは言葉で応えない。
しかし、沈黙と何よりまったく変わらぬ口元の笑みが、答えを雄弁に物語っている。小さく息を飲んだルナは、そのままがくり、と面を下げた。
彼女を支えるカノンの手が、怒りにふるふると震える。
「嘘だろ……ッ! ふざけんじゃねぇぞッ! てめぇ何で、ンな……ッ」
「うッ……」
小さな呻き声に、全員がはっ、と顔を上げる。カシスはゆっくりと足元を見下ろした。
かすかにだけ意識を取り戻したイリーナが、極僅か、身動ぎをしていた。固く閉じていた瞼が、薄っすらと開いて自分を見下ろす朱眼の男を捕らえた。
「ぁ、ぅ……せ、ん……ぱ………」
「ああ、イリーナ。良くやったな。安心しろ……お前は最上の駒だった」
「せ、んぱ……わ、…わた、し………」
「本当に良くやった。安心していいぞ。安心して、」
「殺されろ」
「ッ! やめッ……!」
ばしゅッ!!!
「―――ッ!?」
一瞬だった。
カシスの左手が、見慣れない印を描くのも。
その印からまっすぐに伸びた白い残像が、イリーナの胸を、心臓部を、的確に打ち抜くのも。
最期に、彼女が出来たことは、ありえないほど瞳孔を開いて、声にならない息を漏らすことだけだった。
一瞬、反動で浮かんだイリーナの小さな身体が、スローモーションのように優雅に、静かに床板に沈み込む。神経だけが蠢いて、彼女の身体は二、三、痙攣し。
そして、完全に、動かなくなった。
「ぁ、ぃ……ぃり…ぁ………」
言葉にならない呻き声が、ルナの口から漏れる。そして、
「ぃ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
耐え切れずに、器の臨界点を越えた悲鳴は、堪え続けた涙と共に吐き出された。
「イリーナッ! イリーナぁぁぁッ!!」
「ッ! ルナッ、駄目ッ!!」
半狂乱になって叫びながら、親友の亡骸に駆け寄ろうとする彼女を、カノンは必死にしがみ付いて止める。髪を振り乱し、彼女はしばらく、喚き散らしながら拘束を取ろうともがいていたが、唐突に、ぷっつりと。
まるで操り人形の糸が切れたように。
がくり、と膝をついて。
瞼から涙を流しながら、それにも気がつかないかのように、彼女と共に感情も死んでしまったかのように、静かに、折れた。
ぽっきりと。
ぎゅ、と彼女の煤けた服の端を、カノンは掴む。
「………何で」
「?」
「何でッ!? どうしてッ!!?」
動けない彼女の代わりに、激昂して叫ぶ。
「どうしてッ!? あんた、彼女たちと一緒に研究してた仲間なんでしょ……ッ!?
この娘たち、あんたを慕ってただけじゃないッ!! 研究だって、ずっとずっと自分の胸にしまって一生懸命になって、守って……ッ!! 何で騙したのッ!? どうしてッ!!?」
「……」
怒りをそのまま叩きつけるカノンに、彼は面倒そうな溜め息を一つ、吐いた。
言葉には出していないが、レンも、アルティオも、シリアも。皆、同じような表情で、唇を噛んでいる。レンとアルティオは剣の切っ先を彼から逸らさない。
「騙し、ね。けどそれを言うなら、そいつだってどっこいどっこいだろ?」
「そりゃ……ッ!」
「ああ、解ってねぇか。だから"騙し"になるんだよ。なぁ、ルナ?」
びくり、と砕かれた肩が弱弱しく震える。
「ルナ……?」
「お前が悪ぃんだぜ? 意地になっていつまでも夢物語を描くからこうなった。
なあ、ルナ。
確かに―――『ヴォルケーノ』は複数の人間が開発に携わった。『ベルフェゴール』を知る人間なんて、それこそ俺たちの範疇じゃねぇ
だがな、『ツインルーン』だけは違う」
「………やめてッ」
彼が言わんとしていることを察して、ルナは小さく抗議して首を振る。だが、あまりにも弱弱しすぎるそれは、彼の耳には届かない。
ニィ、と笑った彼の唇が、徹底的な一言を放つ。
「くっくっく、何しろあれは俺とお前が独自に、秘密裏に開発を進めていたシロモノだからなぁ……ッ! 他の人間が知るわけはねぇ、だろう?」
「・・・ッ!」
この言葉の意味を、カノンは瞬時に理解する。
つまり、『ツインルーン』……アルティオが持つ双剣だけ、あの魔道具を知る魔道研究者は、彼とルナだけ。
だから―――
だから、
「ルナ……貴女、まさか、最初から……ッ?」
「……」
シリアの茫然とした声に、ルナはさらに項垂れた。カノンは息を飲む。そして思い出す。
宿屋での問答の後、去っていくカシスに、ルナがかけた言葉。
『信じてるから』
……カノンはずっと、衝突しても、いずれは分かり合えるのを信じている、という意味だと思っていた。
けれど、違う。
魔道具を知るのは、二人だけ。
2-1=1。
自分でないなら、相手しかありえない。
ノイズの混じることのない、絶対的な方程式。
けれど、人としての感情が混じったとき、それは致命的なノイズになった。
彼女は……最後の、最後。この瞬間まで、信じることを選んだのだ。彼しかありえない。でも、それでも、違うと、彼ではないと否定し続けて、信じ続けて、そして、
……解っていながら、裏切られた。
「くっくっく……無様なもんだなぁ? 『月の館』でトップの魔力許容量を測った魔女も、やっぱり所詮は人間だ。だから甘い、って言うんだよ。2-1、そんな単純な計算式が解けなかった時点で、お前の負けだ」
「……」
カノンは俯いた。怒りに手が震える。頭に血が上る。レンは、自分は導火線が短いと言っていた。でも、この圧倒的な怒りは、どんなに気が長い人間だって、打ち消せるような生易しいものじゃないッ!
「―――許せない」
「ん……?」
じゃきんッ!!
手元に置いていた剣鎌[カリオソード]が、音を立てて伸ばされる。全員の押し迫った沈黙を破るように、カノンは碧い瞳を余裕じみた表情を浮かべる魔道技師の男に叩きつける。
澄んだ銀の刃が、真っ向から男と対立する。
瞳に浮かんでいるのは、怒りと、そして込み上げる哀しい痛み。
「許せない……ッ! あんただけは、絶対にッ! 絶対に許せない……ッ!!」
「かの…ん……?」
ふらり、とルナが弱弱しい面を上げる。黙っていた、騙していたのはルナの方だ。けれど、彼女の怒りは、激昂は、明らかに心底楽しそうな笑みを浮かべる男へと向けられている。
「人の好意を知ってて、全部利用して、ズタズタにして……ッ!!
それで平然と、お前のせいッ!? っざけんじゃないわよッ!!
許さない―――ッ! あんただけは、ぜっっったいに許さないッ!!!」
衝動のままに、カノンは刃を振り上げて地を蹴った。脇にいた少年がムッ、として直線状に入ろうとする。が、
「ッ!」
「邪魔すんじゃねぇッ!! てめぇら纏めて、俺が説教してやるッ!!」
背後から剣を振るったアルティオに、少年の足が止まる。その隙に、カノンは刃を振りかぶった。
けれど、
「―――ッ!?」
間に割って入った人影に、カノンの刃が止まる。その表情が、苦悶に歪む。
「ルナッ!?」
「……」
「あんたッ! 何でッ……」
「……カノン、やめて………お願いだから、もう、やめて………」
「……ッ!」
ぎりッ―――カノンは唇を噛む。泣きながら、懇願するように両手を広げる彼女に、何が出来るというのか。
「! カノン、ルナッ!!」
「ッ!」
彼女の肩越しに見えた光に、レンが声を飛ばす。カノンは横にそれ、一瞬遅れて気づいたシリアがルナを庇いながら倒れ込む。
放たれた魔力光は、彼女たちを素通りし、レンの破魔聖に切られて消えた。
放った当人は、俯きながら舌を打つ。
「……どいつもこいつも。がたがた、がたがた、うるせぇんだよッッッ!!!」
「!」
吼えた魔道師の眼前に、白い方陣が描かれる。それに反応して身を起こしたカノンが、剣鎌[カリオソード]を振るった。その切っ先に、黒い闇が収束する。
カノンは再び石床を蹴った。
「覇ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「我望む、放ち貫くは光神の無垢なる証、貫けセイクリッドデスッ!!」
カノンの掛け声と、カシスの呪とが唱和する。黒の刃と満ち満ちた白い光が相対する。
双方、互いが互いを貫こうと、それぞれの光を放つ!
瞬時。
どんッ!! ……ずしゅッ
衝撃と、鈍い音が、同時に聞こえた。
光の余韻が、空に擦れて消える。それを目にしたカノンの目が、驚愕に見開かれる。片やカシスは眉間にわずかに皺を寄せただけだった。
カシスの放った白い魔力光は、カノンに届くより前に、現れた方陣に消し飛ばされていた。
そして、カノンの刃は、
「……ぁ、ぅ…」
「……」
カノンと、そしてカシスとの間に、突如として降り立った少年の左腕に、深々と突き刺さっていた。
暗闇の中で、白い肌が妙に生える、さらり、と長い前髪の間から、少年は感情なく、二の腕に突き刺さった刃を見た。
黒い気が呆気なく霧散する。
「……おや、お早いお着きで」
「……」
茶化すような口調でカシスが言った。少年は無言で答える。
カノンは動くことも出来ずに、その場に硬直したままだった。少年は、言葉を失う一同の顔を見渡して、小さく溜め息を吐き、カシスの方を見る。
「……君といい、エノといい、僕の配下には言うことを聞かない人間が多すぎる」
「くっくっく、そいつぁご挨拶だ、殿下」
ずるり、と少年は刃から左手を引き抜いた。本来なら、体液が垂れるはずの腕からは、何も滴らずに少年は腕を懐にしまう。
そして右手を振るった。
「ッ!」
「カノンッ!」
「カノン殿ッ!」
それだけで、彼女の身体が宙に吹き飛んだ。石床に叩きつけられるより前に、レンが支えの手を出した。茫然と、カノンは唐突に姿を現した少年を眺める。
だが、それ以上に茫然と、信じられないものを見たような目をしていたのは、デルタ=カーマインだった。
「でん、か……ですって?」
カシスが口にしたのは、余りに耳慣れない言葉だった。
通常ならそれは、王国の王族に属する者たちを指す敬称だ。その隣で、ラーシャも愕然とその言葉を反芻する。
彼らは、エイロネイアの放った刺客。それは調査の上でも間違いはないと断定している。
だから、つまり、殿下、というのは。
その畏怖の視線に曝されて、少年は天を仰いではぁ、と乾いた溜め息を吐く。軽く首を振って居住まいを正すと、黒衣をばさり、と鳴らし、少年はこちらに向き直る。
優雅に。
一部の隙もなく、思わず見惚れるような、実に綺麗な礼を一つ。
「配下の者が粗相をしたようで、実に申し訳ない。
……こうして直々に名乗るのは初めて、だね」
くすり、と笑いながら少年は面を上げる。
「我が名はロレンツィア=エイロネイア。本名はレアシス=レベルト=ロレンツィア=エイロネイア。
ゼルゼイル南方統制帝国皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア帝の第二子にして、次期皇帝。
……まあ、そちらの二人には巷で噂の現エイロネイア皇太子、と言った方が早いかな」
『な……ッ!?』
全員の、くぐもった声が唱和する。するり、と少年は左手を滑らせると、その包帯の巻かれた掌には黒に金縁で描かれた紋章が落とされた。
四対の翼を広げた 鴉。ラーシャたちにとっては、毎日のように目にしている、エイロネイアの王族紋章だった。
それが、何よりも正確で、明確な答えだった。
「そんな……ッ! まさか、そんなまさか、ロレンツィア皇太子が直々に刺客としてなんて―――ッ!」
デルタは冷静に、目の前の混乱を沈めようと懸命だった。その彼に、黒衣の少年―――エイロネイア皇太子・レアシス=レベルト=ロレンツィア=エイロネイアはにこり、と笑いかけながら答える。
「前線は他人に任せられない質なんだよ……これでもね。
シンシア総統シェイリーン=ラタトスの懐刀。ラーシャ=フィロ=ソルト中将とデルタ=カーマイン大尉。
くすくす、こちらこそ、こんな場所で初見するなんて思わなかったよ。シンシアから誰かしが人が派遣された、という話は知っていたけど。
ああ、そうだ。ついでに紹介して置こうか……」
ちらり、と彼は背後の白子の魔道師と、不貞腐れて頬を膨らませる竜の翼を少年を振り返る。
「エイロネイアの戦軍七つの柱。七つの要。軍内では『七征』と呼ばれている。
その一片、カシス=エレメント中尉、ならびにエノ=ルーデンス曹長。
以後、お見知り置きを」
「なん……ですって……?」
やっと顔を上げたルナが、カシスを見上げる。しかし、彼がその視線に答えることはなく、聞こえたのは少年の小さな笑いだけだった。
「約束だったからね。君と会わせてあげる、って。彼は軍師としても非常に優秀だから助かってるよ。
まあ、扱い辛さが唯一の欠点だけど」
「……」
カシスは無言でふん、と鼻を鳴らす。
それを静かに眺めながら、しかし、ラーシャは小さく肩を震わせていた。
「貴様が……貴様が、我が同胞を……ッ!」
「ラーシャ様……ッ!?」
デルタが制止しようとしたときにはもう、ラーシャは剣を正眼に構えて走り込んでいた。刺突の構えで、まっすぐに、黒衣の少年へ向かって突進する。
それを冷めた目で眺めながら、だが、ほんの僅か、少年の表情が憮然と歪んだ。
瞬間、
どんッ!!
「ッ!?」
「ラーシャ様ッ!」
見えない衝撃破が、彼女を襲った。そのまま岩壁に吹き飛ばされて、沈黙する。
少年の前の空間がゆらり、と歪んで黒いスカートが棚引いた。黒い髪、黒い服の少女が、いつのまにかそこに鎮座していた。
「……主様には、触れさせない、です」
「……ッ」
カノンが肩を怒らせた。諫めるようにレンは肩を支える。それをちらり、と見た少年はふっ、と笑って天上を仰ぐ。
「さて、目的は済んだだろう、カシス。そろそろお開きだ。
シャル」
「……」
少女が目を閉じる。すぅ、と息を吸い込むと、黒く、柔らかな光がその場に広がった。
はっ、と我に返ったアルティオが剣を構える。
「待ちやがれッ! 逃げんじゃねぇッ!!」
駆ける彼を、冷たい目で見た少女は、無言で右手を突き出した。
「ぐッ!?」
その小さな手に押されたかのように、アルティオの動きが止まる。数歩後退り、膝をつく。
苦し紛れにシリアは炎の矢を放つ。だが、その炎はいずれもゆっくりと四人を覆っていく黒の光に阻まれて、呆気なく霧散した。
「おい、ルナ」
「……」
黒の光に消える直前、白子の魔道師は、膝をついたままの彼女の名を呼んだ。
「俺が何故お前たちを裏切ったか―――知りたいか?」
「……ッ」
唇を噛んで、ルナは溢れてくる涙を堪えて顔を上げる。
「知りたいなら追ってくるといい。まあ、今度は全力でお前を殺しに行ってやるよ……そのときまで、つまんねぇ死に方するんじゃねぇぞ」
「ッ!」
拳を握り締める。その言葉を継ぐように、かのエイロネイア皇太子は、言う。
天上のかけた月へ、膝をつく敗北者に告げるように。
「ゼルゼイルは悲運の牢獄。人が造り出した狂った王国。罪人が集う残虐な楽園。
望むのならば、ぜひ、」
「美しく、鮮やかな絶望の世界へ。奈落の底へ、突き落としてあげましょう―――」
「ッ! 待ちなさいッ!!」
叫んでルナは立ち上がる。黒い光に消えていく、人の姿に、白い影に手を伸ばしかけて。
しかし、その黒の光は一瞬早く、その手を逃れるように渦巻いて四散する。それが散った後には、いつかと同じように、もう、何も残ってはいなかった。
彼女は茫然と、天上を見上げた。そして、膝をついて、跪くように両手を床に押し付けた。
「ルナ!」
カノンはレンの手から立ち上がって、彼女に駆け寄った。支えるように肩を抱く。
ぽたり、ぽたり、と彼女の見つめる石の床が、透明な雫に濡れていく。噛み締めた唇は、もうとうに切ってしまっていて、血が滲んでいた。
感情の消えた顔からは、もう何を考えているのか、はたまた何も考えられていないのか、読み取ることは出来なかった。
「…………たわ」
「え……?」
ルナ? と名前を呼んで、小さく聞こえた声を促す。硬い声。感情の灯らない、か細い声。
「あんな奴………。裏切ってくれて、清々したわ……」
「……ッ!」
「デリカシーの欠片もなくて……、口は悪くて……、人のこと、何にも考えてなくて………
あんなやつ……ッ、あん、な……く、ぅ、ぅうッ……ぅぅぅ……」
「……ルナ…」
「ぅ、ふ、…く、ぅ……ぅううぅ……うぅ、う…………
うわああああああああああああああああああああああああああッ!!」
「……!」
ふわり、と少女の髪に飾られた羽だけが、軽やかに棚引いた。長い間、堪えていた支えが決壊するように、一年と半年前のあのときのように、彼女は親友の胸に縋って、声を上げて、泣いた。
空には少し前までの、満ちた姿から大分欠けてしまった酷薄な月が、悲しげに、雲に隠れながら淡い光を放っていた……。
←13へ
黄金の光が止んで。
がくり、とルナの膝から力が抜ける。半端ない魔力の消費。目の前に、黒く染まった小さな手鏡がかしゃん、と小さく音を立てて落下する。
荒い息を吐きながら、視線を上げる。
黄金の魔方陣が描かれていた場所に、ぐったりと、血だらけのローブを纏いながら小さな身体が倒れ込んでいる。
「はぁッ……くッ…、し、シリア……、お願い……アルティオも………
『月』の剣の癒しの力なら、はぁッ、多少、使えるはずだから……はぁッ………」
「ルナ!」
ルナが途切れ途切れに言い放つより前に、シリアとアルティオは力なく伏した少女の身体に駆け寄っていた。
膝をつきながらも、無理矢理立ち上がろうとするルナの肩を、慌てて近寄ったカノンが支えた。一歩遅れて逆の肩を、レンが無言で持ち上げる。
その支えを、片手を挙げて断って。
だが、カノンは彼女の肩を支えたまま、倒れ伏した彼女の元まで行く。
ルナはふらつく足を叱咤しながら、イリーナの元まで歩く。アルティオは剣を構えて、額に脂汗を浮かべる。シリアは渋い顔をしながら、賢明に連続で浄療術を唱えている。彼女は下級ながら医療師の免許を取得している。その彼女が、これ以上ないほど渋い表情をしている。
胸の出血は止まっているが、その出血量が半端ではない。さらに、少し見ただけでは身体の内部のどこが傷を負っているのか解らない。
肺、気管支、もっと悪ければ―――。
ぎりッ―――カノンは歯を噛み締める。その隣で、茫然と親友の哀れな姿を見つめながら、ゆっくりと、俯いた。握り締めた拳からは、もう既に血が滲んでしまっている。
瞑目した瞼が、ふるふると震えている。
その瞼から一滴だけ落ちた雫に気がついて、カノンが声をかける。
「・・・ルナ?」
「………ほんとにね。馬鹿ね。あたし……。
こんなに、こんなに取り返しのつかないことになるまで……、つまんない意地、張ってるなんて、ね……」
「………?」
それは諦観にも似た呟きだった。何か、含みのある言い方だった気がする。
問いかけようと口を開くより先に、彼女は本当に、本当に小さな声で口にする。
「よくもまあ……ここまで上等にやってくれたじゃない………。
イリーナを駒として使って、ディオル=フランシスを誘発的に殺させて。こんな、こんな面倒なこと、本当に良くやったものだわ……」
ディオル=フランシスをあのような、不確かな殺し方をするのはまったく建設的じゃない。
始末するだけならば、もっと確実に、もっと安全な方法でやれたはずだった。
そう、わざわざルナを待ち伏せて、中まで誘導し、その上、屋敷に炎を放った。
あれでは。
あれではまるで、ディオル=フランシスを殺すためにルナを利用したのではなく―――
彼女の、心的外傷[トラウマ]を抉るために、ディオル=フランシスを利用したような。
「本当に、考えなしだわね、あたしは……。甘いも甘い、どうしようもない、情けない女だわ―――」
「ルナ、あんた……」
ばたばたと、遠くから二人分の足音が聞こえる。はっ、としてカノンが振り返ると同時に、洞穴の入り口方面から、髪と服とを振り乱して鬼気迫る表情をした女性将官と、後を走るのはその従者の、神衣を纏った緑銀の髪の少年。
「申し訳ないッ! 途中、連中の仲間と思しき少年に妨害を―――ッ!?」
二人とも息を切らしていたが、一目、カノンたちの集まるその場の惨状に絶句する。
「る、ルナ殿、カノン殿……ッ! こ、これは、一体……ッ?」
「……ッ」
「ラーシャ、デルタ……」
ルナを支えながら、どう説明していいものかカノンは眉を寄せる。
その傍らで、顔を真っ白に、表情という表情を失って、ルナはのろのろと面を上げる。
都合よく、イリーナに昨晩のことを目撃させることが出来たのも。
ルナとラーシャの間の事情を知り、尚且つ、夕刻に屋敷の中で待ち伏せることが出来たのも。
………そんな人間は、一人しか、いない。
「さあ、役者は揃ったわよ……?
………どうせ、そこら辺にいるんでしょう? なら、いい加減出てきなさいよ―――」
入り口とは別方向。今だ踏み入れていない闇の空間を、静かに睨む。そこにあった感情は―――当人でさえ、解らない。
「―――・・・カシスッ!!」
その場にわだかまる、色のない闇が、高らかに哄笑を上げた。
かつり、とブーツの音が鳴る。
ふわり、と外からの風が彼の白い上着を軽くはためかせた。いつもように、喉の奥から小さな笑いを漏らしながら、ゆっくりと、見えない闇から見える闇へと、彼は舞台に上がった。
天上から差しているのは僅かな月の光。半分ほどに姿を欠けさせたか細い月は、彼の白い糸を銀に照り返す。
細められた朱の瞳が、鮮やかに嘲笑[わら]った。
ようやく姿を認めることが出来るまで、闇を振り払った彼に、第一声を上げたのはずっと剣を翳していたアルティオだった。
「あ、あんた……。
何で……、こんな、ところに………」
「……」
対面するシリアも、治療の手は止めぬまま、しかし彼と問いたいことは同じだった。
ラーシャやデルタも、あまりにも目の前で起こっている出来事が自分たちの予想とかけ離れていて、混乱を顔に張り付けている。
カノンは眉間に皺を寄せ、睨むように彼の歩みを見ていた。
彼女から見ればあまりに突発的で、直接的に推論することは出来なかった。が、この場になって今ここにいて、尚且つそのいつもと変わらぬ余裕ぶった表情が、カノンの頭の中に、最悪の想像を描いていく。
レンも同じだっただろう。その証拠に、彼は収めかけていた剣を再度、抜いた。
ルナは微動だにしないまま、ただ静謐に彼を睨み、いや、眺めている。感情が抜けてしまったような表情で、ずっと唇を噛んでいる。
それを彼は一人一人眺め、最後に支えられながら何とか立っている形の魔道師の女を認めると、薄っすらと唇を吊り上げる。
「さぁてねぇ……そいつは、お前らの真ん中にいる女が良くご存知じゃねぇのか? 気になるなら問いただしゃあいいさ……まあ、まっとうな返事が返って来るかは知らねぇけどな」
ぱちんッ、と左手の指を鳴らす。
瞬間、気配が降って湧いた。
「ッ!?」
「ぐぅッ!?」
「シリア、アルティオッ!?」
天上の穴から竜の翼を振るわせて、赤い髪の少年が二人に跳びかかった。呆気に取られていた二人は、避けるのが精一杯で、少年の生んだ風の圧力に床の上へ吹き飛ばされる。
中心にいた少女の小さな身体は、ころころとその場で数回転して、漏れた赤い体液を撒き散らす。
構えを取るシリアとアルティオに、しかし、少年は子供のように剥れながら起き上がって胸を逸らした。
「だぁーッ! たくよぉ、つまんねぇことに俺を使うな、つってんだろぉッ? 言っとくけどな、普通ならてめぇの命令なんか死んだって聞かねぇんだからな! 特別だぞッ!」
「言ってろ、喚くな、くそガキ」
「ンなッ!! てめー、てめーなんかなぁ……ッ!!」
傲岸不遜に言い放つ少年の言を、カシスは涼しい顔で片付けた。良い文句が思いつかないらしい少年を放って、カシスはつかつかと歩みを進める。
そして、倒れた少女の前で足を止める。
呆気に取られて、彼を見上げるシリアたちを、彼はふんッ、と鼻で笑いながらちらりと喚き立てる少年を見た。
「……ま、こういうことだ。どんな頭の悪ぃ人間でも、いい加減解るだろ?」
「ッ!」
「てっめぇッ!! グルだったのかッ!?」
アルティオが激昂する。ぎりぎりと歯を噛み鳴らして、怒りに頭に血を上らせる。その彼を嘲笑うように睥睨して、もう一度、正面に向き直る。
ルナは何も言わない。言えない、と言った方が正しいのか。
はっ、としたカノンが嘲る朱眼を睨み返す。
「どういうこと……ッ!? 彼女を、イリーナさんをたきつけたのも、あんただってこと……ッ!?」
「ま、直接的にではねぇけどな。ちょいとショッキングな場面を見てもらって、後はまあ、有能な雇い主に任せたさ。
あれは人間の心を操るエキスパートだからな。正直、予想以上の成果だった。
ああ、ついでに言うとラーシャ=フィロ=ソルト、だったか? そっちの女将官様よ」
「ッ!」
名を呼ばれ、ラーシャは節くれだった剣を構える。その隣で、神衣の少年も構えを取った。
「あんたの敵―――ディオル=フランシスとかいう豪族の屋敷を燃やしたのも俺だ。
正直、あいつは最近、自惚れが酷かったらしくてな。あんたの敵国にとっても、そろそろ扱い難い邪魔者になってたそうだぜ。
そのおかげで気兼ねなく利用させてもらった。真面目で一本気なあんたの性格も役に立ったぜ……面白いように、思った通りに転がってくれたからな」
「―――ッ!」
ラーシャは剣の柄を握りながら絶句する。その拳がぶるぶると震えていた。デルタが諫めるように彼女の肩に手を置く。
「さて、と。ルナ」
「……」
名を呼ばれても、ルナはすぐには反応を返さなかった。静かに睨みながら、数拍の間を置いて、震えた声で問う。
「……最初に、街中であの娘を暴れさせたのも―――
豪族であるディオル=フランシスの名が、カノンたちの耳に入りやすくするため、後々ラーシャの話を彼女たちが受け入れやすくするため、出来るだけ派手な事件を起こしたってこと、ね……」
「プラス、俺がこっち側の人間じゃないことをアピールするためもあったけどなぁ。まあ、こっちはさほど重要じゃない。
何もしなくても、俺の素性はお前がきっちり解説してくれただろうからな」
するすると、澱みなく言葉が紡がれていく。それが、妙に異様だった。
奥歯を噛み締めながら、何かにずっと耐えるように、ルナは肩を震わせる。
何がなくとも、これだけは聞いて置かなくては。確かめなくては、ならない。
「じゃあ……あの男に。あの男に、『月の館』の研究を受け渡したのも―――ッ!」
「……」
カシスは言葉で応えない。
しかし、沈黙と何よりまったく変わらぬ口元の笑みが、答えを雄弁に物語っている。小さく息を飲んだルナは、そのままがくり、と面を下げた。
彼女を支えるカノンの手が、怒りにふるふると震える。
「嘘だろ……ッ! ふざけんじゃねぇぞッ! てめぇ何で、ンな……ッ」
「うッ……」
小さな呻き声に、全員がはっ、と顔を上げる。カシスはゆっくりと足元を見下ろした。
かすかにだけ意識を取り戻したイリーナが、極僅か、身動ぎをしていた。固く閉じていた瞼が、薄っすらと開いて自分を見下ろす朱眼の男を捕らえた。
「ぁ、ぅ……せ、ん……ぱ………」
「ああ、イリーナ。良くやったな。安心しろ……お前は最上の駒だった」
「せ、んぱ……わ、…わた、し………」
「本当に良くやった。安心していいぞ。安心して、」
「殺されろ」
「ッ! やめッ……!」
ばしゅッ!!!
「―――ッ!?」
一瞬だった。
カシスの左手が、見慣れない印を描くのも。
その印からまっすぐに伸びた白い残像が、イリーナの胸を、心臓部を、的確に打ち抜くのも。
最期に、彼女が出来たことは、ありえないほど瞳孔を開いて、声にならない息を漏らすことだけだった。
一瞬、反動で浮かんだイリーナの小さな身体が、スローモーションのように優雅に、静かに床板に沈み込む。神経だけが蠢いて、彼女の身体は二、三、痙攣し。
そして、完全に、動かなくなった。
「ぁ、ぃ……ぃり…ぁ………」
言葉にならない呻き声が、ルナの口から漏れる。そして、
「ぃ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
耐え切れずに、器の臨界点を越えた悲鳴は、堪え続けた涙と共に吐き出された。
「イリーナッ! イリーナぁぁぁッ!!」
「ッ! ルナッ、駄目ッ!!」
半狂乱になって叫びながら、親友の亡骸に駆け寄ろうとする彼女を、カノンは必死にしがみ付いて止める。髪を振り乱し、彼女はしばらく、喚き散らしながら拘束を取ろうともがいていたが、唐突に、ぷっつりと。
まるで操り人形の糸が切れたように。
がくり、と膝をついて。
瞼から涙を流しながら、それにも気がつかないかのように、彼女と共に感情も死んでしまったかのように、静かに、折れた。
ぽっきりと。
ぎゅ、と彼女の煤けた服の端を、カノンは掴む。
「………何で」
「?」
「何でッ!? どうしてッ!!?」
動けない彼女の代わりに、激昂して叫ぶ。
「どうしてッ!? あんた、彼女たちと一緒に研究してた仲間なんでしょ……ッ!?
この娘たち、あんたを慕ってただけじゃないッ!! 研究だって、ずっとずっと自分の胸にしまって一生懸命になって、守って……ッ!! 何で騙したのッ!? どうしてッ!!?」
「……」
怒りをそのまま叩きつけるカノンに、彼は面倒そうな溜め息を一つ、吐いた。
言葉には出していないが、レンも、アルティオも、シリアも。皆、同じような表情で、唇を噛んでいる。レンとアルティオは剣の切っ先を彼から逸らさない。
「騙し、ね。けどそれを言うなら、そいつだってどっこいどっこいだろ?」
「そりゃ……ッ!」
「ああ、解ってねぇか。だから"騙し"になるんだよ。なぁ、ルナ?」
びくり、と砕かれた肩が弱弱しく震える。
「ルナ……?」
「お前が悪ぃんだぜ? 意地になっていつまでも夢物語を描くからこうなった。
なあ、ルナ。
確かに―――『ヴォルケーノ』は複数の人間が開発に携わった。『ベルフェゴール』を知る人間なんて、それこそ俺たちの範疇じゃねぇ
だがな、『ツインルーン』だけは違う」
「………やめてッ」
彼が言わんとしていることを察して、ルナは小さく抗議して首を振る。だが、あまりにも弱弱しすぎるそれは、彼の耳には届かない。
ニィ、と笑った彼の唇が、徹底的な一言を放つ。
「くっくっく、何しろあれは俺とお前が独自に、秘密裏に開発を進めていたシロモノだからなぁ……ッ! 他の人間が知るわけはねぇ、だろう?」
「・・・ッ!」
この言葉の意味を、カノンは瞬時に理解する。
つまり、『ツインルーン』……アルティオが持つ双剣だけ、あの魔道具を知る魔道研究者は、彼とルナだけ。
だから―――
だから、
「ルナ……貴女、まさか、最初から……ッ?」
「……」
シリアの茫然とした声に、ルナはさらに項垂れた。カノンは息を飲む。そして思い出す。
宿屋での問答の後、去っていくカシスに、ルナがかけた言葉。
『信じてるから』
……カノンはずっと、衝突しても、いずれは分かり合えるのを信じている、という意味だと思っていた。
けれど、違う。
魔道具を知るのは、二人だけ。
2-1=1。
自分でないなら、相手しかありえない。
ノイズの混じることのない、絶対的な方程式。
けれど、人としての感情が混じったとき、それは致命的なノイズになった。
彼女は……最後の、最後。この瞬間まで、信じることを選んだのだ。彼しかありえない。でも、それでも、違うと、彼ではないと否定し続けて、信じ続けて、そして、
……解っていながら、裏切られた。
「くっくっく……無様なもんだなぁ? 『月の館』でトップの魔力許容量を測った魔女も、やっぱり所詮は人間だ。だから甘い、って言うんだよ。2-1、そんな単純な計算式が解けなかった時点で、お前の負けだ」
「……」
カノンは俯いた。怒りに手が震える。頭に血が上る。レンは、自分は導火線が短いと言っていた。でも、この圧倒的な怒りは、どんなに気が長い人間だって、打ち消せるような生易しいものじゃないッ!
「―――許せない」
「ん……?」
じゃきんッ!!
手元に置いていた剣鎌[カリオソード]が、音を立てて伸ばされる。全員の押し迫った沈黙を破るように、カノンは碧い瞳を余裕じみた表情を浮かべる魔道技師の男に叩きつける。
澄んだ銀の刃が、真っ向から男と対立する。
瞳に浮かんでいるのは、怒りと、そして込み上げる哀しい痛み。
「許せない……ッ! あんただけは、絶対にッ! 絶対に許せない……ッ!!」
「かの…ん……?」
ふらり、とルナが弱弱しい面を上げる。黙っていた、騙していたのはルナの方だ。けれど、彼女の怒りは、激昂は、明らかに心底楽しそうな笑みを浮かべる男へと向けられている。
「人の好意を知ってて、全部利用して、ズタズタにして……ッ!!
それで平然と、お前のせいッ!? っざけんじゃないわよッ!!
許さない―――ッ! あんただけは、ぜっっったいに許さないッ!!!」
衝動のままに、カノンは刃を振り上げて地を蹴った。脇にいた少年がムッ、として直線状に入ろうとする。が、
「ッ!」
「邪魔すんじゃねぇッ!! てめぇら纏めて、俺が説教してやるッ!!」
背後から剣を振るったアルティオに、少年の足が止まる。その隙に、カノンは刃を振りかぶった。
けれど、
「―――ッ!?」
間に割って入った人影に、カノンの刃が止まる。その表情が、苦悶に歪む。
「ルナッ!?」
「……」
「あんたッ! 何でッ……」
「……カノン、やめて………お願いだから、もう、やめて………」
「……ッ!」
ぎりッ―――カノンは唇を噛む。泣きながら、懇願するように両手を広げる彼女に、何が出来るというのか。
「! カノン、ルナッ!!」
「ッ!」
彼女の肩越しに見えた光に、レンが声を飛ばす。カノンは横にそれ、一瞬遅れて気づいたシリアがルナを庇いながら倒れ込む。
放たれた魔力光は、彼女たちを素通りし、レンの破魔聖に切られて消えた。
放った当人は、俯きながら舌を打つ。
「……どいつもこいつも。がたがた、がたがた、うるせぇんだよッッッ!!!」
「!」
吼えた魔道師の眼前に、白い方陣が描かれる。それに反応して身を起こしたカノンが、剣鎌[カリオソード]を振るった。その切っ先に、黒い闇が収束する。
カノンは再び石床を蹴った。
「覇ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「我望む、放ち貫くは光神の無垢なる証、貫けセイクリッドデスッ!!」
カノンの掛け声と、カシスの呪とが唱和する。黒の刃と満ち満ちた白い光が相対する。
双方、互いが互いを貫こうと、それぞれの光を放つ!
瞬時。
どんッ!! ……ずしゅッ
衝撃と、鈍い音が、同時に聞こえた。
光の余韻が、空に擦れて消える。それを目にしたカノンの目が、驚愕に見開かれる。片やカシスは眉間にわずかに皺を寄せただけだった。
カシスの放った白い魔力光は、カノンに届くより前に、現れた方陣に消し飛ばされていた。
そして、カノンの刃は、
「……ぁ、ぅ…」
「……」
カノンと、そしてカシスとの間に、突如として降り立った少年の左腕に、深々と突き刺さっていた。
暗闇の中で、白い肌が妙に生える、さらり、と長い前髪の間から、少年は感情なく、二の腕に突き刺さった刃を見た。
黒い気が呆気なく霧散する。
「……おや、お早いお着きで」
「……」
茶化すような口調でカシスが言った。少年は無言で答える。
カノンは動くことも出来ずに、その場に硬直したままだった。少年は、言葉を失う一同の顔を見渡して、小さく溜め息を吐き、カシスの方を見る。
「……君といい、エノといい、僕の配下には言うことを聞かない人間が多すぎる」
「くっくっく、そいつぁご挨拶だ、殿下」
ずるり、と少年は刃から左手を引き抜いた。本来なら、体液が垂れるはずの腕からは、何も滴らずに少年は腕を懐にしまう。
そして右手を振るった。
「ッ!」
「カノンッ!」
「カノン殿ッ!」
それだけで、彼女の身体が宙に吹き飛んだ。石床に叩きつけられるより前に、レンが支えの手を出した。茫然と、カノンは唐突に姿を現した少年を眺める。
だが、それ以上に茫然と、信じられないものを見たような目をしていたのは、デルタ=カーマインだった。
「でん、か……ですって?」
カシスが口にしたのは、余りに耳慣れない言葉だった。
通常ならそれは、王国の王族に属する者たちを指す敬称だ。その隣で、ラーシャも愕然とその言葉を反芻する。
彼らは、エイロネイアの放った刺客。それは調査の上でも間違いはないと断定している。
だから、つまり、殿下、というのは。
その畏怖の視線に曝されて、少年は天を仰いではぁ、と乾いた溜め息を吐く。軽く首を振って居住まいを正すと、黒衣をばさり、と鳴らし、少年はこちらに向き直る。
優雅に。
一部の隙もなく、思わず見惚れるような、実に綺麗な礼を一つ。
「配下の者が粗相をしたようで、実に申し訳ない。
……こうして直々に名乗るのは初めて、だね」
くすり、と笑いながら少年は面を上げる。
「我が名はロレンツィア=エイロネイア。本名はレアシス=レベルト=ロレンツィア=エイロネイア。
ゼルゼイル南方統制帝国皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア帝の第二子にして、次期皇帝。
……まあ、そちらの二人には巷で噂の現エイロネイア皇太子、と言った方が早いかな」
『な……ッ!?』
全員の、くぐもった声が唱和する。するり、と少年は左手を滑らせると、その包帯の巻かれた掌には黒に金縁で描かれた紋章が落とされた。
四対の翼を広げた 鴉。ラーシャたちにとっては、毎日のように目にしている、エイロネイアの王族紋章だった。
それが、何よりも正確で、明確な答えだった。
「そんな……ッ! まさか、そんなまさか、ロレンツィア皇太子が直々に刺客としてなんて―――ッ!」
デルタは冷静に、目の前の混乱を沈めようと懸命だった。その彼に、黒衣の少年―――エイロネイア皇太子・レアシス=レベルト=ロレンツィア=エイロネイアはにこり、と笑いかけながら答える。
「前線は他人に任せられない質なんだよ……これでもね。
シンシア総統シェイリーン=ラタトスの懐刀。ラーシャ=フィロ=ソルト中将とデルタ=カーマイン大尉。
くすくす、こちらこそ、こんな場所で初見するなんて思わなかったよ。シンシアから誰かしが人が派遣された、という話は知っていたけど。
ああ、そうだ。ついでに紹介して置こうか……」
ちらり、と彼は背後の白子の魔道師と、不貞腐れて頬を膨らませる竜の翼を少年を振り返る。
「エイロネイアの戦軍七つの柱。七つの要。軍内では『七征』と呼ばれている。
その一片、カシス=エレメント中尉、ならびにエノ=ルーデンス曹長。
以後、お見知り置きを」
「なん……ですって……?」
やっと顔を上げたルナが、カシスを見上げる。しかし、彼がその視線に答えることはなく、聞こえたのは少年の小さな笑いだけだった。
「約束だったからね。君と会わせてあげる、って。彼は軍師としても非常に優秀だから助かってるよ。
まあ、扱い辛さが唯一の欠点だけど」
「……」
カシスは無言でふん、と鼻を鳴らす。
それを静かに眺めながら、しかし、ラーシャは小さく肩を震わせていた。
「貴様が……貴様が、我が同胞を……ッ!」
「ラーシャ様……ッ!?」
デルタが制止しようとしたときにはもう、ラーシャは剣を正眼に構えて走り込んでいた。刺突の構えで、まっすぐに、黒衣の少年へ向かって突進する。
それを冷めた目で眺めながら、だが、ほんの僅か、少年の表情が憮然と歪んだ。
瞬間、
どんッ!!
「ッ!?」
「ラーシャ様ッ!」
見えない衝撃破が、彼女を襲った。そのまま岩壁に吹き飛ばされて、沈黙する。
少年の前の空間がゆらり、と歪んで黒いスカートが棚引いた。黒い髪、黒い服の少女が、いつのまにかそこに鎮座していた。
「……主様には、触れさせない、です」
「……ッ」
カノンが肩を怒らせた。諫めるようにレンは肩を支える。それをちらり、と見た少年はふっ、と笑って天上を仰ぐ。
「さて、目的は済んだだろう、カシス。そろそろお開きだ。
シャル」
「……」
少女が目を閉じる。すぅ、と息を吸い込むと、黒く、柔らかな光がその場に広がった。
はっ、と我に返ったアルティオが剣を構える。
「待ちやがれッ! 逃げんじゃねぇッ!!」
駆ける彼を、冷たい目で見た少女は、無言で右手を突き出した。
「ぐッ!?」
その小さな手に押されたかのように、アルティオの動きが止まる。数歩後退り、膝をつく。
苦し紛れにシリアは炎の矢を放つ。だが、その炎はいずれもゆっくりと四人を覆っていく黒の光に阻まれて、呆気なく霧散した。
「おい、ルナ」
「……」
黒の光に消える直前、白子の魔道師は、膝をついたままの彼女の名を呼んだ。
「俺が何故お前たちを裏切ったか―――知りたいか?」
「……ッ」
唇を噛んで、ルナは溢れてくる涙を堪えて顔を上げる。
「知りたいなら追ってくるといい。まあ、今度は全力でお前を殺しに行ってやるよ……そのときまで、つまんねぇ死に方するんじゃねぇぞ」
「ッ!」
拳を握り締める。その言葉を継ぐように、かのエイロネイア皇太子は、言う。
天上のかけた月へ、膝をつく敗北者に告げるように。
「ゼルゼイルは悲運の牢獄。人が造り出した狂った王国。罪人が集う残虐な楽園。
望むのならば、ぜひ、」
「美しく、鮮やかな絶望の世界へ。奈落の底へ、突き落としてあげましょう―――」
「ッ! 待ちなさいッ!!」
叫んでルナは立ち上がる。黒い光に消えていく、人の姿に、白い影に手を伸ばしかけて。
しかし、その黒の光は一瞬早く、その手を逃れるように渦巻いて四散する。それが散った後には、いつかと同じように、もう、何も残ってはいなかった。
彼女は茫然と、天上を見上げた。そして、膝をついて、跪くように両手を床に押し付けた。
「ルナ!」
カノンはレンの手から立ち上がって、彼女に駆け寄った。支えるように肩を抱く。
ぽたり、ぽたり、と彼女の見つめる石の床が、透明な雫に濡れていく。噛み締めた唇は、もうとうに切ってしまっていて、血が滲んでいた。
感情の消えた顔からは、もう何を考えているのか、はたまた何も考えられていないのか、読み取ることは出来なかった。
「…………たわ」
「え……?」
ルナ? と名前を呼んで、小さく聞こえた声を促す。硬い声。感情の灯らない、か細い声。
「あんな奴………。裏切ってくれて、清々したわ……」
「……ッ!」
「デリカシーの欠片もなくて……、口は悪くて……、人のこと、何にも考えてなくて………
あんなやつ……ッ、あん、な……く、ぅ、ぅうッ……ぅぅぅ……」
「……ルナ…」
「ぅ、ふ、…く、ぅ……ぅううぅ……うぅ、う…………
うわああああああああああああああああああああああああああッ!!」
「……!」
ふわり、と少女の髪に飾られた羽だけが、軽やかに棚引いた。長い間、堪えていた支えが決壊するように、一年と半年前のあのときのように、彼女は親友の胸に縋って、声を上げて、泣いた。
空には少し前までの、満ちた姿から大分欠けてしまった酷薄な月が、悲しげに、雲に隠れながら淡い光を放っていた……。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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