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DeathPlayerHunterカノン[ゼルゼイルの旅路] EPISODE9
その平和は、形骸? 真実?
その平和は、形骸? 真実?
ふにっ。
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
←8へ
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
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★ 目次
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カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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