ざくっ!!
「っ!」
風の唸りが耳元で通り過ぎたと思えば、切り裂くような痛みが肩口に走った。じくじくとした尋常ではない痛みが、熱量を伴って襲ってくる。折れそうになる足を叱咤して駆け抜けながら、ちらりと目線を走らせると、矢がが掠った肩口から赤く染まっていた。
奥歯を噛み締めて痛みを堪えながら、目の前の灰色の藪を短剣で叩き斬る。開いた小さなスペースに、躊躇いなく飛び込んだ。
ごぉんッ!!
「……っ、無茶苦茶だわ……」
灰色に染まった藪のカーテンの向こうで、紫色の光が閃いて轟音を立てた。灰色の景色は燃え上がることはないが、ここが元の林の中だったら、と考えるとどうなっていたことか。想像に難くない。
疑念と不安に胸を痛める暇もなく、藪の向こうでこちらに向けて、紫色の矢が煌いた。
「くっ!」
さらに藪を裂いて駆け出す。藪の中の小さな棘が、服と肌を引っかいて、小さな痛みを残していった。
「!」
距離を取ろうと駆け出す刹那、一本の蔓がまるで意思でも持ったように、カノンのブーツの踵を捕らえた。ほんの二秒の遅れに息を呑む。
視線を上げると、木上で矢を番える女の姿。
「――っ!」
声も上げられずに目を瞑る。だが、無言のままに放たれた矢はカノンを貫くことはなく、突如、生まれた虚空の闇に飲み込まれた。
「……滅びの鬼か」
「……」
ぎちり、と重い、空気が軋むような音がして、カノンを庇うように小さな少女が現れた。空気の中に溶け込んでいたように、まるで最初からそこにいたように、黒髪に黒いドレスを着た無表情な少女が佇んで女をイランでいる。
桃色の髪の女が、滅びの鬼と呼んだ少女は、言葉では答えずに静かに右手を開く。
ぎゅんっ!!
「!」
少女の眼前の空気が歪んだ。
虚空に少女が描いた円の中から、三日月を描く黒い光の刃が三本、現れる。切っ先を女に向けた刃は、風を貫いて収束し、女を貫こうと飛び交った。
「ぬるい」
端的に女が口にすると、女の姿がぶれる。瞬時に女の姿が消えて、黒い刃は虚しく何も無い空間を貫いて消えた。
ドレスの少女は愛らしい見た目にそぐわない、悪意に満ちた舌打ちを一つする。
「今のは……」
「……転移も出来ない人間はどっかに隠れてるです。
シャルはお前なんか死んでも構わないですが、主様の意はシャルの意です」
少女はとても好意的とは言い難い視線でカノンを睨むと、吐き捨てるように口にした。以前、少年が見せたほどの圧力はないが、ぞくり、と背中に寒気が走る。
少女が首を頭上に傾ける。小さく息を呑むと、長いドレスの裾に包まれた足でカノンを蹴飛ばした。極、小さな少女のものなのに、叩きつけられるような衝撃がカノンを襲い、近くの木に吹き飛ばされる。
瞬間、カノンのいた空間のすぐ頭上に紫の矢が五本、浮かび上がって下生えを貫いた。
「……ただの木偶が」
口汚く吐き出して、少女はそのまま地面を蹴った。広げた両手に黒い光が立ち上り、三日月刀の形へ変化する。少女が両手で剣を振るうと、刀は刀身を伸ばして何も見えない空に伸びた。
ぎぃんっ!!
虚空に、耳障りな音が響いた。
少女の刃が向けられた先の空が歪んで、弓で刃を受け止める女の形を造り出す。
「……漆黒」
チェーンソーのような耳障りな音が響く中、少女がぼそりと呟いた。瞬時、滞空する女の背後に影が出来る。
女はちらりとそちらを振り向いて、そのまままた虚空へと消えた。
じゃきんっ!!
「っ!」
影の中からは凶悪なラインを描く黒刃が何本も現れて、女のいた空間を貫く。敵ながら、あの空間にまだ人がいたと思うと、目も当てられない想像をしてしまう。
「人間っ!」
般若のような形相をした少女に怒鳴られて、はっ、と気がつく。視界の中に女の姿を探して、片隅に紫色の光が見えた気がした。
ぞわり、と背後に寒気が走り、振り向かないまま前のめりに飛び込む。
ぞむっ!!
紫の光が、頭上と足の下――地面から生えた。震える足で立ち上がると、そのまま木の影へ入る。
たん、と地面に着地した少女が、黒い刃で紫の光を払う。散り返ると思った光は、吸い込まれるように黒刃に吸収されて、少女の翳す三日月刀が一回り大きくなる。
「……さすがは滅びの鬼。千年の眠りから覚めた後も、その力は変わらないか」
「……私は歴史の要に目覚めるだけです。要となる人に従うだけの存在。そう選んだだけのこと」
「解せない。誇り高き鬼の血を、どうして脆弱な種族の為に使うのか」
「そんなもの、お前には永遠に理解できませんですよ。父に従い、父に滅ぼされるだけのお前には」
ぎどんっ!
空間が、少女の発した重力に軋む。女はやはり表情を産まないまま、弓に新しい光の矢を番えた。
ざんっ!!
少年の槍が、飛来した光の粒すべてを切り裂いた。少年は黒衣の裾を翻すと、懐から取り出した符を掲げる。
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
紫の光が、間断なく少年を取り囲もうとする。少年はその脅威に、眉一つ動かすことなく静謐に佇んで、淡々と呪を口にする。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『壊れる硝子』[ブロークン・グラス]」
ばきぃんっ!!
少年の周囲に、透明な硝子の壁が浮かび、飛来した紫の光に弾け飛ぶ。しかし、光は少年の身体を貫くことなく、
「……行け」
少年の身体を狙ったはずの紫の光は、飛来する先を替え、自らを生み出した男の方へと牙を剥く。
男はふむ、と小さく頷くと、ひどくつまらなさそうに左手を振った。それだけで、紫の光は行き場を失い、消え失せる。
「つまらないですね。造形物は所詮、こんなものですか」
「……」
男の揶揄に、少年は無言のまますっ、と目を細めた。構えた槍が、かちゃり、と音を立てる。
「……――『奈落』[オールフォールヘルズ]」
「!」
少年の呟いた言葉に、男が小さく驚いて、腰かけていた木枝の上に立ち上がる。
ごぉんっ!!
鈍い音が響いて、男の立っていた大木が黒い炎に包まれた。そこだけぽっかりと空間に穴が開いたように、闇の炎が灰色の景色を飲み込む。
炎の瞬きが止んでも、そこは最初から何もなかったかのように、乾いた色のない地面が広がるだけで。そこの空間だけ、木も、下生えも、影すら消えていた。
しゅん、と空気が収束して、男が再び現れる。男は賞賛するようにひゅう、と口笛を吹いた。
「間力分成程度は可能ですか。彼のお人が、何故ただの失敗作を人形として操るのが疑念でしたが、確かに何にも利用せずに捨ててしまうのは勿体無いですね」
「……」
少年は無言で槍を立てた。氷のような無表情で、ただ静謐に男を眺めるように見る。
「人の造りし悪魔、私にはわからない。何故、そうまで悪魔の名を拒み、ただの人の器を庇い立てするのですか?」
「……」
少年はしばしの間だけ目を閉じた。すう、と息を吸い込み、軽く首を振ってまた口を開く。
「開いてはいけない、開かれたパンドラの箱。最後に何が残っていたのか、王はご存知ですか」
「……これは、くだらないことを」
「くだらなくとも結構。それが僕の唯一の望みです」
少年は感情なくそう答えると、槍を振るう。闇色の光が、漆黒の刃を包み込んで、オパールのようなさんざめく輝きを産んだ。
「いいでしょう。多少は楽しめそうです。ヴァレス=ヴィースト、貴殿の相手になりましょう。
人の産んだ悪魔がどれほどのものか、私の目に見せてください」
「戯言はいい加減にして頂きましょう、木偶の王。人形の王しか語れぬ者に、何が試せるものですか」
「く……っ!」
時間が経つほどに、左肩に受けた痛みは引くどころか、むしろカノンの行動力を奪っていた。血液を失って朦朧とする意識が、なけなしの感覚さえも奪いつつある。
ふらつく足元を庇いながら、なるたけ女の視界から隠れようと木々の合間を縫う。だが、あんな相手にどこまで通用しているのかわからない。
木々の向こうで、少女と女の立てる轟音が響いている。恐怖と、そして遠ざかる意識が、奇妙な諦観を連れて襲い掛かっていた。
傷も増え、小さな傷はひりひりとした痛みを、大きな傷はじくじくと熱の篭った痛みを、カノンの身体に与えてくる。これが戦場なのか、と改めて思い知らされる痛み。
もう諦めてしまおうか。
殺されたくない潜在意識と、意思とが、痛みと恐怖の前に折れていく。死んでしまえば、こんな胸の痛みも、身体の痛みも、感じなくて済むのだ。
この罪悪感も。苦痛も。何も考えなくて。
なら、いっそ――
殺された方が――
そうしてしまった方が――
『……彼は、何と言っていましたか?』
――……。
短剣を握り締めていると、少年の言葉が脳裏を通り過ぎた。
彼は、何を思ってそんな言葉を口にしたのだろう。彼は何も話してくれなかった。切なくなるほどに、何も口にしてくれなくて。
身体も、心臓も、ボロボロになって。
記憶が戻ればこの剣を、この大きな刃を振るえるというのだろうか。そんなことが、本当に私に出来たのだろうか。
「……っ、ひ、っく……ぅ」
泣いてる暇なんてないとわかっているのに、涙が滲んでくる。そんな場合じゃないとわかっているのに、頭は理解しているのに、勝手に溢れてくる雫は止められなくて。
私は、何をしたらいいというのだろう。
『……すまない、俺は、……』
そう、彼は謝っていた。ひどく耳につかない、謝罪の言葉。彼は何を罪としていたのか。罪とするくらいなら、すべて話して欲しかった。この得体の知れない切なさを、取り除いて欲しかった。
「……ぅ、ひくっ……」
灰色しか見えない世界で、涙を拭う。その刹那、
「人間っ!」
少女の切るような声が飛んだ。はっ、とカノンは顔を上げる。涙の雫が飛んだ先に、
禍々しく光る、紫の弓矢の切っ先があった。
――っ!
凍りついたように身体が動かなくなった。
けれど、どこかで何かが囁く。
これで、楽になれるんだ、と。
これで、何も考えなくて、苦しまなくて済むのだ、と。
すべてに目を閉じてしまえばいい。罪も、想いも、人も、血も、何も見なくていい。暗闇だけが、愛してくれる世界に行ける。
そう、思って、目を、閉じて。
誰かの、声が、聞こえた気がした。
『あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの』
あれは、誰の声だっけ。
ぱきん、と頭の中で声がする。目の前に迫る矢が、唐突にスローになったように動かなくなって。
また、声が一つ、二つ。
『あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで』
聞いた事がある言葉。聞いた事のある声。
知ってる。私は――否、あたしは、この言葉を誰よりも知っている。誰よりも言いたかった。誰に対しても想っていた。ただ一つの願いだった。この言葉の続きを、知っている。
『――生き残って、必ず』
「……」
知っている。知っていた。
あたしは誰よりも死を恐れながら、誰よりも死を望んでいた。いつかもそう。罪の意識から、自分の苦しみと痛みから逃げる為に、それを望んだ。
けれど、けれど――
『お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな』
『だが、それ以上に……救われた人間も、町もある』
それで、もう一度、剣を取れたんだ。
覚えてる。いや、覚えてた。
それを言ってくれたのは、あたしを知っててくれたのは、ずっと見てきてくれていたのは、彼だったんだ。
彼は、何と言っていましたか?
もう一度、少年の言葉が蘇った。彼は、あの人は、何と言っていた。何も言っていなかった? そんなのは、私が作り出した嘘だ。
言っていた。紫の矢に貫かれながら、私を庇いながら、守りながら、掠れた声で、言っていたじゃないか。
聞こえていた。けれど、罪の意識と心臓の痛みで、何も見えていなかった。何も見ようとしていなかった。何かを言って、と言いながら、私が何も見ていなかった。
『かの……ん』
聞いている。知っている。何よりも、あたしが願っていた。
『お前は、生き残れ――』
ちりん、と胸元で、音が、弾けた。
ぞぉんっ!!
「!」
女は無表情の瞳を動かして、小さく驚いた。切り裂かれた紫の禍々しい光が、飛び散って、灰色の空間に散る。
紫の光を貫いた、黒い鎌の刃が、灰色の空間さえも切り裂いて、木上の女へと疾走する。刃の許に、黄金の残像を描きながら。
「覇ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「な……っ!」
女が初めて動揺して声を漏らした。
金色の髪を靡かせて、黒の障気を刃に託して、カノンは女の弓矢へ己の刃を振り下ろす。
ざんっ!
動揺があったのだろう。女は慌てて弓を手放して、後退った。木の上から跳び退り、林の中へ逃げ込もうとして。
「木偶は、滅びなさいです」
「――っ!」
逃げ込もうとした先の、歪んだ空間の中に、少女の無簡素な顔が浮かび上がる。
少女はそのまま、無慈悲に、両手の三日月を彼女の身体へと突き刺した!
「あ、ひ……ひぎぃいいぃいいっぃぃぃぃいぃいっ………っ!!」
その悲鳴は、悲鳴にも聞こえない、どこか歪んだものだった。飛び散るはずの血液は、ただの紫の塵に変わり、突き刺された黒い刃へと吸収されていく。
悲鳴をあげながら女は滅茶苦茶に手足を暴れさせたが、無駄な抵抗なようで。
ひん剥かれた目が、これまで無表情だった女のものとは思えないほど醜悪に歪んで。
「――」
もう一度、少女の声が何かを呟くと、また耳障りな悲鳴をあげて、女は紫色の塵になって、消えた。
「っ!」
カノンは木の上から飛び降りる。女の飛び込んだ獣道の上に、細く紫の光が立ち上る、小さな木作りの木偶人形が落ちていた。
ぼろぼろに砕かれたそれを、両手に黒い刃を収めた少女がじっと見詰めている。
「……人間、じゃ、なかったのね」
「……同じです」
「え?」
さして興味もないように、シャルと呼ばれた少女は、その木偶人形を摘み上げた。
そうして、
「!」
小さな唇で、人形を加えると、そのまま何の慈悲もなく、音を立てて噛み砕く。木の砕ける音が、骨の折れる音にも聞こえて、嫌にカノンの耳についた。
完全に光塵となった人形を、そのままぺろり、と飲み下すと、少女は満足げにドレスの袖で口元を拭う。
「どうせ、すべて、砕けて消えるのは。同族同士で食い合うのは。所詮、人間と同じです」
「シャル! カノンさん!」
灰色の空間が崩壊して、また元の木漏れ日が差し込んで。
がさがさと藪を裂いて、少年がこちらに向かって駆けて来る。槍を仕舞い込んだその姿に、
「っ!」
「お前――っ!」
カノンの、剣鎌の刃が突きつけられた。
瞬時に殺気を噴出した少女に対して、少年は眉を潜めて片手を挙げ、彼女を諌める。カノンは碧い瞳を吊り上げて、少年を見上げた。
少年はふむ、と一呼吸置いて、カノンを見つめ、
「……思い出した、のですか? 自力で」
「……いいえ」
カノンは静かに答えて首を振る。
「でも、思い出したこともある」
「……」
「あんたが、あたしの敵だった、ってこと。それから――」
「あたしの記憶を封じたのが、あんただ、ってこと」
少年は悪びれもせずに肩を竦めて見せた。カノンは小さく唇を噛んで、掲げた刃は下ろさないままに、
「どういうつもり? あたしの記憶を奪って、あんたに何の得があるの?
それに……」
「……」
「それに、昨日のあの人は、彼を、あたしは知ってるわ。ずっと傍にいた。彼に何をしたの?」
低い声で、刃を煌かせながら問いかける。少年は背筋を伸ばしたまま、木漏れ日に目を細めながら、横に首を振った。
「そこまで思い出せるとは……貴方はいくつも僕の期待を裏切ってくれる」
「戯言はいいのよ。聞きたいのはそんなことじゃない」
「彼は貴方の傍を離れました。貴方を守る為にね」
「……あたしを守る為?」
「それ以上は、今は語れません」
「……」
少年は刃に怯む素振りもなく、小さな笑みすら称えながら、すらすらと答えて見せた。カノンは少年を睨みながら、舌打ちをする。
「……ヴェッセル――"器"って何? あたしを、どうするつもり?」
「とあるところに出向いて頂きたいのです」
「最初からそのつもりだったわけね」
「貴方を連中から守る為、というのも嘘ではありませんよ」
「嘘ではない、っていうのは真実でもない、って言ってるのと同じよ」
「仰る意味は解ります。けれど、不完全な記憶だけの貴方に、僕を脅す以外に何が出来ますか?」
「……っ」
カノンは一度、鎌を滑らせると、刃を背中へと収めた。少女の射るような殺気が背中から伝わってくる。脅されているのは、少年ではない。カノンもなのだ。
カノンは辺りを見回して、小さく息を吐いた。
「……あの男は」
「消えました。手勢を削られたわけですから、しばらくは姿を見せないでしょう。
元々、さほど情熱と信念のある方ではありませんしね。
もう来ない、という保証は致しませんが」
「……わかったわ。あんたたちに従う。でも、条件があるわ」
「何でしょう?」
「……あんたたちの目的が果たせるまでは、従う代わりに、あたしの命の保障をしてくれること。それから危険を感じたら、あたしはあんたたちを裏切ってでも生き延びる」
「結構です。元から、ただで貴方を従えさせられるとは思っていませんよ」
「それからもう一つ。あたしをどこに連れていくつもりか、それくらいは教えてもらって構わないわよね?」
少年がすっ、と黒曜の瞳を開いた。少女の殺気が一際大きくなる。カノンは無言のまま、貼り付けたような表情の少年を凝視した。
戻っていた鳥の声が、ちりりっ、と近くの梢から上がった。
飛び立った鳥が落とした木の葉が、はらり、と下生えの中へ、螺旋を描いて、落ちた。
「……神聖なる鬼の間。シンシア領、護法神殿ディーダヘ」
←20へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「っ!」
風の唸りが耳元で通り過ぎたと思えば、切り裂くような痛みが肩口に走った。じくじくとした尋常ではない痛みが、熱量を伴って襲ってくる。折れそうになる足を叱咤して駆け抜けながら、ちらりと目線を走らせると、矢がが掠った肩口から赤く染まっていた。
奥歯を噛み締めて痛みを堪えながら、目の前の灰色の藪を短剣で叩き斬る。開いた小さなスペースに、躊躇いなく飛び込んだ。
ごぉんッ!!
「……っ、無茶苦茶だわ……」
灰色に染まった藪のカーテンの向こうで、紫色の光が閃いて轟音を立てた。灰色の景色は燃え上がることはないが、ここが元の林の中だったら、と考えるとどうなっていたことか。想像に難くない。
疑念と不安に胸を痛める暇もなく、藪の向こうでこちらに向けて、紫色の矢が煌いた。
「くっ!」
さらに藪を裂いて駆け出す。藪の中の小さな棘が、服と肌を引っかいて、小さな痛みを残していった。
「!」
距離を取ろうと駆け出す刹那、一本の蔓がまるで意思でも持ったように、カノンのブーツの踵を捕らえた。ほんの二秒の遅れに息を呑む。
視線を上げると、木上で矢を番える女の姿。
「――っ!」
声も上げられずに目を瞑る。だが、無言のままに放たれた矢はカノンを貫くことはなく、突如、生まれた虚空の闇に飲み込まれた。
「……滅びの鬼か」
「……」
ぎちり、と重い、空気が軋むような音がして、カノンを庇うように小さな少女が現れた。空気の中に溶け込んでいたように、まるで最初からそこにいたように、黒髪に黒いドレスを着た無表情な少女が佇んで女をイランでいる。
桃色の髪の女が、滅びの鬼と呼んだ少女は、言葉では答えずに静かに右手を開く。
ぎゅんっ!!
「!」
少女の眼前の空気が歪んだ。
虚空に少女が描いた円の中から、三日月を描く黒い光の刃が三本、現れる。切っ先を女に向けた刃は、風を貫いて収束し、女を貫こうと飛び交った。
「ぬるい」
端的に女が口にすると、女の姿がぶれる。瞬時に女の姿が消えて、黒い刃は虚しく何も無い空間を貫いて消えた。
ドレスの少女は愛らしい見た目にそぐわない、悪意に満ちた舌打ちを一つする。
「今のは……」
「……転移も出来ない人間はどっかに隠れてるです。
シャルはお前なんか死んでも構わないですが、主様の意はシャルの意です」
少女はとても好意的とは言い難い視線でカノンを睨むと、吐き捨てるように口にした。以前、少年が見せたほどの圧力はないが、ぞくり、と背中に寒気が走る。
少女が首を頭上に傾ける。小さく息を呑むと、長いドレスの裾に包まれた足でカノンを蹴飛ばした。極、小さな少女のものなのに、叩きつけられるような衝撃がカノンを襲い、近くの木に吹き飛ばされる。
瞬間、カノンのいた空間のすぐ頭上に紫の矢が五本、浮かび上がって下生えを貫いた。
「……ただの木偶が」
口汚く吐き出して、少女はそのまま地面を蹴った。広げた両手に黒い光が立ち上り、三日月刀の形へ変化する。少女が両手で剣を振るうと、刀は刀身を伸ばして何も見えない空に伸びた。
ぎぃんっ!!
虚空に、耳障りな音が響いた。
少女の刃が向けられた先の空が歪んで、弓で刃を受け止める女の形を造り出す。
「……漆黒」
チェーンソーのような耳障りな音が響く中、少女がぼそりと呟いた。瞬時、滞空する女の背後に影が出来る。
女はちらりとそちらを振り向いて、そのまままた虚空へと消えた。
じゃきんっ!!
「っ!」
影の中からは凶悪なラインを描く黒刃が何本も現れて、女のいた空間を貫く。敵ながら、あの空間にまだ人がいたと思うと、目も当てられない想像をしてしまう。
「人間っ!」
般若のような形相をした少女に怒鳴られて、はっ、と気がつく。視界の中に女の姿を探して、片隅に紫色の光が見えた気がした。
ぞわり、と背後に寒気が走り、振り向かないまま前のめりに飛び込む。
ぞむっ!!
紫の光が、頭上と足の下――地面から生えた。震える足で立ち上がると、そのまま木の影へ入る。
たん、と地面に着地した少女が、黒い刃で紫の光を払う。散り返ると思った光は、吸い込まれるように黒刃に吸収されて、少女の翳す三日月刀が一回り大きくなる。
「……さすがは滅びの鬼。千年の眠りから覚めた後も、その力は変わらないか」
「……私は歴史の要に目覚めるだけです。要となる人に従うだけの存在。そう選んだだけのこと」
「解せない。誇り高き鬼の血を、どうして脆弱な種族の為に使うのか」
「そんなもの、お前には永遠に理解できませんですよ。父に従い、父に滅ぼされるだけのお前には」
ぎどんっ!
空間が、少女の発した重力に軋む。女はやはり表情を産まないまま、弓に新しい光の矢を番えた。
ざんっ!!
少年の槍が、飛来した光の粒すべてを切り裂いた。少年は黒衣の裾を翻すと、懐から取り出した符を掲げる。
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
紫の光が、間断なく少年を取り囲もうとする。少年はその脅威に、眉一つ動かすことなく静謐に佇んで、淡々と呪を口にする。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『壊れる硝子』[ブロークン・グラス]」
ばきぃんっ!!
少年の周囲に、透明な硝子の壁が浮かび、飛来した紫の光に弾け飛ぶ。しかし、光は少年の身体を貫くことなく、
「……行け」
少年の身体を狙ったはずの紫の光は、飛来する先を替え、自らを生み出した男の方へと牙を剥く。
男はふむ、と小さく頷くと、ひどくつまらなさそうに左手を振った。それだけで、紫の光は行き場を失い、消え失せる。
「つまらないですね。造形物は所詮、こんなものですか」
「……」
男の揶揄に、少年は無言のまますっ、と目を細めた。構えた槍が、かちゃり、と音を立てる。
「……――『奈落』[オールフォールヘルズ]」
「!」
少年の呟いた言葉に、男が小さく驚いて、腰かけていた木枝の上に立ち上がる。
ごぉんっ!!
鈍い音が響いて、男の立っていた大木が黒い炎に包まれた。そこだけぽっかりと空間に穴が開いたように、闇の炎が灰色の景色を飲み込む。
炎の瞬きが止んでも、そこは最初から何もなかったかのように、乾いた色のない地面が広がるだけで。そこの空間だけ、木も、下生えも、影すら消えていた。
しゅん、と空気が収束して、男が再び現れる。男は賞賛するようにひゅう、と口笛を吹いた。
「間力分成程度は可能ですか。彼のお人が、何故ただの失敗作を人形として操るのが疑念でしたが、確かに何にも利用せずに捨ててしまうのは勿体無いですね」
「……」
少年は無言で槍を立てた。氷のような無表情で、ただ静謐に男を眺めるように見る。
「人の造りし悪魔、私にはわからない。何故、そうまで悪魔の名を拒み、ただの人の器を庇い立てするのですか?」
「……」
少年はしばしの間だけ目を閉じた。すう、と息を吸い込み、軽く首を振ってまた口を開く。
「開いてはいけない、開かれたパンドラの箱。最後に何が残っていたのか、王はご存知ですか」
「……これは、くだらないことを」
「くだらなくとも結構。それが僕の唯一の望みです」
少年は感情なくそう答えると、槍を振るう。闇色の光が、漆黒の刃を包み込んで、オパールのようなさんざめく輝きを産んだ。
「いいでしょう。多少は楽しめそうです。ヴァレス=ヴィースト、貴殿の相手になりましょう。
人の産んだ悪魔がどれほどのものか、私の目に見せてください」
「戯言はいい加減にして頂きましょう、木偶の王。人形の王しか語れぬ者に、何が試せるものですか」
「く……っ!」
時間が経つほどに、左肩に受けた痛みは引くどころか、むしろカノンの行動力を奪っていた。血液を失って朦朧とする意識が、なけなしの感覚さえも奪いつつある。
ふらつく足元を庇いながら、なるたけ女の視界から隠れようと木々の合間を縫う。だが、あんな相手にどこまで通用しているのかわからない。
木々の向こうで、少女と女の立てる轟音が響いている。恐怖と、そして遠ざかる意識が、奇妙な諦観を連れて襲い掛かっていた。
傷も増え、小さな傷はひりひりとした痛みを、大きな傷はじくじくと熱の篭った痛みを、カノンの身体に与えてくる。これが戦場なのか、と改めて思い知らされる痛み。
もう諦めてしまおうか。
殺されたくない潜在意識と、意思とが、痛みと恐怖の前に折れていく。死んでしまえば、こんな胸の痛みも、身体の痛みも、感じなくて済むのだ。
この罪悪感も。苦痛も。何も考えなくて。
なら、いっそ――
殺された方が――
そうしてしまった方が――
『……彼は、何と言っていましたか?』
――……。
短剣を握り締めていると、少年の言葉が脳裏を通り過ぎた。
彼は、何を思ってそんな言葉を口にしたのだろう。彼は何も話してくれなかった。切なくなるほどに、何も口にしてくれなくて。
身体も、心臓も、ボロボロになって。
記憶が戻ればこの剣を、この大きな刃を振るえるというのだろうか。そんなことが、本当に私に出来たのだろうか。
「……っ、ひ、っく……ぅ」
泣いてる暇なんてないとわかっているのに、涙が滲んでくる。そんな場合じゃないとわかっているのに、頭は理解しているのに、勝手に溢れてくる雫は止められなくて。
私は、何をしたらいいというのだろう。
『……すまない、俺は、……』
そう、彼は謝っていた。ひどく耳につかない、謝罪の言葉。彼は何を罪としていたのか。罪とするくらいなら、すべて話して欲しかった。この得体の知れない切なさを、取り除いて欲しかった。
「……ぅ、ひくっ……」
灰色しか見えない世界で、涙を拭う。その刹那、
「人間っ!」
少女の切るような声が飛んだ。はっ、とカノンは顔を上げる。涙の雫が飛んだ先に、
禍々しく光る、紫の弓矢の切っ先があった。
――っ!
凍りついたように身体が動かなくなった。
けれど、どこかで何かが囁く。
これで、楽になれるんだ、と。
これで、何も考えなくて、苦しまなくて済むのだ、と。
すべてに目を閉じてしまえばいい。罪も、想いも、人も、血も、何も見なくていい。暗闇だけが、愛してくれる世界に行ける。
そう、思って、目を、閉じて。
誰かの、声が、聞こえた気がした。
『あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの』
あれは、誰の声だっけ。
ぱきん、と頭の中で声がする。目の前に迫る矢が、唐突にスローになったように動かなくなって。
また、声が一つ、二つ。
『あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで』
聞いた事がある言葉。聞いた事のある声。
知ってる。私は――否、あたしは、この言葉を誰よりも知っている。誰よりも言いたかった。誰に対しても想っていた。ただ一つの願いだった。この言葉の続きを、知っている。
『――生き残って、必ず』
「……」
知っている。知っていた。
あたしは誰よりも死を恐れながら、誰よりも死を望んでいた。いつかもそう。罪の意識から、自分の苦しみと痛みから逃げる為に、それを望んだ。
けれど、けれど――
『お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな』
『だが、それ以上に……救われた人間も、町もある』
それで、もう一度、剣を取れたんだ。
覚えてる。いや、覚えてた。
それを言ってくれたのは、あたしを知っててくれたのは、ずっと見てきてくれていたのは、彼だったんだ。
彼は、何と言っていましたか?
もう一度、少年の言葉が蘇った。彼は、あの人は、何と言っていた。何も言っていなかった? そんなのは、私が作り出した嘘だ。
言っていた。紫の矢に貫かれながら、私を庇いながら、守りながら、掠れた声で、言っていたじゃないか。
聞こえていた。けれど、罪の意識と心臓の痛みで、何も見えていなかった。何も見ようとしていなかった。何かを言って、と言いながら、私が何も見ていなかった。
『かの……ん』
聞いている。知っている。何よりも、あたしが願っていた。
『お前は、生き残れ――』
ちりん、と胸元で、音が、弾けた。
ぞぉんっ!!
「!」
女は無表情の瞳を動かして、小さく驚いた。切り裂かれた紫の禍々しい光が、飛び散って、灰色の空間に散る。
紫の光を貫いた、黒い鎌の刃が、灰色の空間さえも切り裂いて、木上の女へと疾走する。刃の許に、黄金の残像を描きながら。
「覇ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「な……っ!」
女が初めて動揺して声を漏らした。
金色の髪を靡かせて、黒の障気を刃に託して、カノンは女の弓矢へ己の刃を振り下ろす。
ざんっ!
動揺があったのだろう。女は慌てて弓を手放して、後退った。木の上から跳び退り、林の中へ逃げ込もうとして。
「木偶は、滅びなさいです」
「――っ!」
逃げ込もうとした先の、歪んだ空間の中に、少女の無簡素な顔が浮かび上がる。
少女はそのまま、無慈悲に、両手の三日月を彼女の身体へと突き刺した!
「あ、ひ……ひぎぃいいぃいいっぃぃぃぃいぃいっ………っ!!」
その悲鳴は、悲鳴にも聞こえない、どこか歪んだものだった。飛び散るはずの血液は、ただの紫の塵に変わり、突き刺された黒い刃へと吸収されていく。
悲鳴をあげながら女は滅茶苦茶に手足を暴れさせたが、無駄な抵抗なようで。
ひん剥かれた目が、これまで無表情だった女のものとは思えないほど醜悪に歪んで。
「――」
もう一度、少女の声が何かを呟くと、また耳障りな悲鳴をあげて、女は紫色の塵になって、消えた。
「っ!」
カノンは木の上から飛び降りる。女の飛び込んだ獣道の上に、細く紫の光が立ち上る、小さな木作りの木偶人形が落ちていた。
ぼろぼろに砕かれたそれを、両手に黒い刃を収めた少女がじっと見詰めている。
「……人間、じゃ、なかったのね」
「……同じです」
「え?」
さして興味もないように、シャルと呼ばれた少女は、その木偶人形を摘み上げた。
そうして、
「!」
小さな唇で、人形を加えると、そのまま何の慈悲もなく、音を立てて噛み砕く。木の砕ける音が、骨の折れる音にも聞こえて、嫌にカノンの耳についた。
完全に光塵となった人形を、そのままぺろり、と飲み下すと、少女は満足げにドレスの袖で口元を拭う。
「どうせ、すべて、砕けて消えるのは。同族同士で食い合うのは。所詮、人間と同じです」
「シャル! カノンさん!」
灰色の空間が崩壊して、また元の木漏れ日が差し込んで。
がさがさと藪を裂いて、少年がこちらに向かって駆けて来る。槍を仕舞い込んだその姿に、
「っ!」
「お前――っ!」
カノンの、剣鎌の刃が突きつけられた。
瞬時に殺気を噴出した少女に対して、少年は眉を潜めて片手を挙げ、彼女を諌める。カノンは碧い瞳を吊り上げて、少年を見上げた。
少年はふむ、と一呼吸置いて、カノンを見つめ、
「……思い出した、のですか? 自力で」
「……いいえ」
カノンは静かに答えて首を振る。
「でも、思い出したこともある」
「……」
「あんたが、あたしの敵だった、ってこと。それから――」
「あたしの記憶を封じたのが、あんただ、ってこと」
少年は悪びれもせずに肩を竦めて見せた。カノンは小さく唇を噛んで、掲げた刃は下ろさないままに、
「どういうつもり? あたしの記憶を奪って、あんたに何の得があるの?
それに……」
「……」
「それに、昨日のあの人は、彼を、あたしは知ってるわ。ずっと傍にいた。彼に何をしたの?」
低い声で、刃を煌かせながら問いかける。少年は背筋を伸ばしたまま、木漏れ日に目を細めながら、横に首を振った。
「そこまで思い出せるとは……貴方はいくつも僕の期待を裏切ってくれる」
「戯言はいいのよ。聞きたいのはそんなことじゃない」
「彼は貴方の傍を離れました。貴方を守る為にね」
「……あたしを守る為?」
「それ以上は、今は語れません」
「……」
少年は刃に怯む素振りもなく、小さな笑みすら称えながら、すらすらと答えて見せた。カノンは少年を睨みながら、舌打ちをする。
「……ヴェッセル――"器"って何? あたしを、どうするつもり?」
「とあるところに出向いて頂きたいのです」
「最初からそのつもりだったわけね」
「貴方を連中から守る為、というのも嘘ではありませんよ」
「嘘ではない、っていうのは真実でもない、って言ってるのと同じよ」
「仰る意味は解ります。けれど、不完全な記憶だけの貴方に、僕を脅す以外に何が出来ますか?」
「……っ」
カノンは一度、鎌を滑らせると、刃を背中へと収めた。少女の射るような殺気が背中から伝わってくる。脅されているのは、少年ではない。カノンもなのだ。
カノンは辺りを見回して、小さく息を吐いた。
「……あの男は」
「消えました。手勢を削られたわけですから、しばらくは姿を見せないでしょう。
元々、さほど情熱と信念のある方ではありませんしね。
もう来ない、という保証は致しませんが」
「……わかったわ。あんたたちに従う。でも、条件があるわ」
「何でしょう?」
「……あんたたちの目的が果たせるまでは、従う代わりに、あたしの命の保障をしてくれること。それから危険を感じたら、あたしはあんたたちを裏切ってでも生き延びる」
「結構です。元から、ただで貴方を従えさせられるとは思っていませんよ」
「それからもう一つ。あたしをどこに連れていくつもりか、それくらいは教えてもらって構わないわよね?」
少年がすっ、と黒曜の瞳を開いた。少女の殺気が一際大きくなる。カノンは無言のまま、貼り付けたような表情の少年を凝視した。
戻っていた鳥の声が、ちりりっ、と近くの梢から上がった。
飛び立った鳥が落とした木の葉が、はらり、と下生えの中へ、螺旋を描いて、落ちた。
「……神聖なる鬼の間。シンシア領、護法神殿ディーダヘ」
←20へ
→STORY5へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
目を開くと朝だった。
眠りから覚めれば、じゃない。目は閉じていても、まったく身体も意識も眠っていなかった。
カーテン越しに光は感じても、それを引く気力もなくて。蹲るようにベッドの上に横たわっていた。
「……っ」
下手に記憶を探ろうとして、口元に感じる違和感と吐き気に咳き込んで、やめた。目の端に涙が浮かんで、袖口で乱暴に擦る。もう何回も繰り返したせいで、目元がひりひりしている。鏡を見たら、きっと赤くなっているに違いない。
金縛りにあっているわけでもないのに、身体がベッドの上から動かない。
――っ!
シーツを握り締めた瞬間、掌にぬるりと生温かい血の感覚が蘇って、また吐き気が込み上げる。仕方なく、のそり、と起き上がり、水桶の中に吐き出すけれど、昨日からもう吐くものさえ残っていなくて。酸い胃液が喉元を無意味に灼くだけだった。
身体中が痛い。でも胸はもっと痛かった。
ちりん。
口元を拭うと同時に、胸にかかったネックレスのベルが小さく音を立てる。
「……レオン」
少年が男に向けて吐いた名前を繰り返す。けれど、どこかしっくり来ない。飲み込めない大きな遣えが、喉元に引っかかっている。
――……違う。
彼の名前は、そんな名前じゃない。
知っている。知っているはずなのに、思い出そうとする度に、頭の芯が痺れたように機能しなくなる。
――思い出さなきゃ、いけないのに……
何が起こっているのか、何をするべきなのか、見極めなくてはならない。何故、自分が殺されようとしているのか、その理由が知りたい。少年は彼は無事だと言った。けれど真偽が知りたい。自分の身を守る術が欲しい。
けれど、そのすべてが意図せず封じられてしまっているようで。
「……」
『何故、村を出た』
村を出なければ、こんな想いはしなかったかもしれない。けれど、カノンは一度、決断したのだ。その決断をさせたのは、他でもない。あの男だった。もう間違いない。あの人は、私を知っているんだ。
「おや、お出かけですか?」
「……」
億劫な身体を無理矢理動かして、部屋を出ると、木造廊下の柱に少年が背を預けていた。口元は笑っているが、目が否応のない厳しさを語っている。
「……少し、一人になりたいの」
「……お気持ちはお察ししますが。あまり遠くに行かれると、こちらとしても知覚できませんので」
もう少年は無関係だと主張する気もないらしい。されたところで嘘なのは、誰の目からも解るから、その必要もないのだろうが。
超人的な戦闘能力、宿や村を無慈悲に焼き払うような連中と互角に渡り合える手腕。この少年もまた、一体何者なのだろう。……解らない。問いたところで返っては来ない。聞き出すような力も、今のカノンにはない。
せめて、背中と腰にぶら下がった、剣の使い方だけでも覚えていれば。
「……わかってるわよ。すぐ、戻る」
何も知らないまま、守られるしかできない身が、ひどく恨めしかった。
メインストリートの喧騒を避けるように路地を歩き、賑やかなように見えても、どこか戦時の不安を煽るような不安げな人の顔に唇を噛んで。
そのうち上を見ることさえやめて、ひたすらに人のいない方向へ歩いた。
ゴミを漁っていた猫が、驚いて足元を駆け抜けていく。狭い路地を抜けた先は、石畳が途切れた村はずれの小さな水源だった。そこからちらり、と今しがた泊まっていた村を振り返り、また逆方向に歩き出す。
逃げるつもりじゃあない。どこに逃げても、あの少年なり、暗殺者[アサシン]なりが追って来ることは解っている。それなら、
「……また、一人で安全地帯を抜け出してくるなんて、大層な度胸のあるお嬢さんですね」
「……」
至極、丁寧な。けれど、毒のある物言いの男の声が、カノンの耳に届いた。形だけでも剣の柄に手をかけて、案外近くから聞こえた声に距離を取る。
疎らに生えた木の影から、昨夜見たばかりの、ローブを纏った男が姿を見せる。女の方の姿は見えない。きっとどこかにいるんだろうが、今のカノンではそれを見つけることなど至難の業だった。
じっとりと、手汗が柄を滑らせる。背中と肩に、同時に鳥肌が立った。
「お供の男の子はどうしました?」
「……わからないけど……。いずれ、ここに来るかもしれないわね」
「……」
「貴方に聞きたいことがあるの」
声に走る怯えと震えを隠しながら、言う。
「何故、私を狙うの? ヴェッセルって何? 私を殺すために村や宿屋を襲ったの? 彼――あの男の子と旅をするようになってから、無茶苦茶をするようになったのは何故?」
「贅沢な方ですね。質問は一つに纏めるのが礼儀ですよ」
仕草だけ、困ったように笑いながら、男は肩を竦めて見せる。
「それは、貴方のお供の男の子がよくご存知かと思われますが」
「……あの人は何も答えてくれないわ。だから、貴方たちに聞きに来たの。
教えて。記憶を失くす前の私が、殺されなくてはいけないような罪を犯したというなら、受け入れなきゃいけないと思う。でも、何も知らないまま死ぬのは嫌なのよ」
「どうせ刈り取られる命なら、知るも知らぬもそれほど問題ではないように思えますがねぇ」
「……」
カノンは唇を噛み締めて、男を睨んだ。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、己へ冷静を言い聞かせる。
「ヴェッセルはこの国の古い言葉です。"器"、という意味を持つと記憶しています」
「"器"……?」
「村や宿屋については貴方もよくご存知の通り。どうせ、燃やしてしまうなら、纏めて火を放ってしまった方が楽だし、始末もしやすいでしょう?」
「……私を始末するためだけに、あれだけ無関係な人を巻き込んだ、っていうの?」
「この国、国だけじゃあありません。世界全土に人間がどれほどいると思っています?
少しくらい減った方が生きやすくもなるでしょう。現に今このときでさえ、脆弱な人間など星の数ほど死に絶えています。貴方、蝿一匹殺すときでさえ、いちいち胸を痛めているのですか?」
「……あんたたち、何かおかしいわ」
爪が皮膚を抉るほど、拳を握り締めて。カノンは声を絞り出した。狂っている。この不和は一体、何なのだろう。カノンが持っている感情のすべてが、この暗殺者[アサシン]たちにはまるで通じていない。
「もう一つ――私の傍にいる彼は一体、何者なの? 貴方たちの仲間? 敵?」
「それを聞いてどうするつもりです?」
「彼が関わってからよ。貴方たちが無茶苦茶な手で私を殺そうとしたのは。
だから思ったの。貴方たちは、彼が関わっているときに、躍起になって無茶な手を使う。
最初にアレイアの村が燃えたとき、あの紅い髪の男を見たわ。昨日、あの男と彼が通じてるのを知った。……ひょっとしたら、あのとき、あの村に彼もいたんじゃないの?」
「……」
「貴方たちの本当の目的は、私を殺すことだけじゃない。私と、あの彼とを纏めて始末すること。違う?」
男はしばらく黙ってカノンの言葉を聴いていた。不意に、その隠した口元がふっ、と笑う。
拍手が、聞こえた。
「これはこれは。流されるだけの儚い身で、よくそこまで辿り着いたものですね」
「……」
男がふと、首を傾けた。
同時にカノンも気づく。遠くから、剣戟の音が響いている。段々と近づくそれが、耳を劈くようになり、男とカノンの合間をあの紫の矢の光が通り過ぎた。
どんっ!!
矢が突き刺さった古木が、落雷に打たれたように裂かれて倒壊した。ばりばりと、耳障りな音を立てて、燃えた葉を撒き散らしながら男とカノンの間を裂くように、横たわる。
風を切るような音と共に、二つ分の影が頭上を過ぎ去って、一つがカノンの傍に、一つが男の脇に着地する。カノンを庇うように黒衣の影が広がり、男を庇うように紫の切っ先がこちらに憎悪を向ける。
少年の黒曜の目が細められ、嫌悪にも近い表情で男を見る。
「……木偶の王」
「これはお早いお着きで、悪魔殿」
揶揄するように男が言った。少年は嫌悪を露わにしたままで、刺すような殺気を込めて男を見下す。
「貴方ほど酔狂な王もいませんね。余計なお喋りが過ぎますよ」
槍の切っ先を男に向けながら、少年は低い声で口にする。男は笑みを絶やさないまま、細い目を歪ませた。
「お嬢さん、先ほどの問いに答えましょう。
その通りですよ。私たちの目的は、貴方と、この少年とを始末すること。
私としては、纏めず、一人一人始末をしても何ら問題はないと思うのですが、……まあ、いろいろとこちらにも事情がありましてね」
少年が小さく舌打ちをするのが聞こえた。ばさり、と黒衣の裾を払って、槍を下ろす。
「……貴方がたが彼女を狙ったのは、彼女を殺す目的が半分、僕を誘き出す目的が半分。
彼女が流れ着いた村で、彼女を狙い、村を燃やし、僕に行動せざるを得ないように仕向けた。
彼女が巻き込まれて死んだならそれで良し。もし、生き残ったなら、僕は彼女――ヴェッセルを保護するために表に出なくてはいけなくなる。
貴方がたは本来、一を殺す為に百を犠牲にする。なのに、随分と丁寧な招待状でしたね」
「こんな身でして。派手に動けませんでね。人間とはかくも面倒なものです」
「本当に、酔狂だ。そして不毛です」
「不毛か否かは、我らで決めることですよ。人の造りし悪魔の子」
――……人の、造った?
男の言葉に、少年は静かに眉を伏せた。ゆっくりと面を上げると、もう一度、槍を構え直す。呼応するように、男の傍らの女が無言のまま、矢を番えた。
「どうして、私たちを? ”器”、ってどういう意味?」
「それは答えられません。答える、必要もありませんからね」
男の声色が、悪意に染まった。
轟っ!!
「っ!」
男の背後から、歪んだ音と共に、暗闇が立ち上った。灰色の影が、目の前を灼くように通り過ぎる。乱暴な風が、カノンの髪と服とを弄っていく。
息苦しい風が喉を詰まらせ、寒気が背中を震わせて、轟音が耳元で騒ぐ。
ざわめく音が止んで、ようやく恐る恐る目を開いて。そして、そのまま唖然とした。
「これ、って……?」
周りの木々が、空が、灰色に染まっていた。
木漏れ日も、風も、空も、音もない。梢の囁きさえない。すべての時間が止まったように、静謐な世界が広がっていた。目に届く範囲のものすべてが、生気を失っていた。
「なに、これ……」
「空間結界を張られましたね」
得体のしれない世界に、しかし、少年はさほど驚きもせずに小さく嘆息した。不自然に歪んだ男の笑みに、冷たい汗が背中を流れていく。
「これ以上、逃げられるのも煩わしいだけですからね」
嘲笑うように、男が言った。男の軍服の、至る所に括られている呪符が、妖しく光を放つ。
「いたちごっこは終わりにしましょう? 潔く、散っていくのが美しさというものですよ」
男が張り付いた笑みのまま、そっと手を翳す。少女の構える矢から立ち上る光と同じ、紫の焔が男の指先を煌々と照らした。
カノンは固唾を飲み込んで半歩後退る。この場に何が起きているかはわからない。けれど、今度はそう簡単に逃げられないのだろうことはわかる。
「……できるだけ、僕から離れないようお願いします」
「……」
「正直、木偶の王が本気になったら、貴方に気を配れると限りません。死にたくなければ、言うことを聞いてください」
「私……」
自分の顔から血の気が引いているのがわかった。手汗だらけの手で剣の柄を握る。けれど、今のカノンではこんなもの振るえない。振るう術も知らない。せいぜいが、無いほうが逃げるときに身軽、というくらいのものだ。
自分が殺される理由が知りたくて来た。それはどこかこの少年が、自分を庇うことを目的としているのに何となく気がついていたから出来たことだ。
けれど、けれどこんな戦いは、カノンが思っていたよりも、遥かに――
「……彼は、何と言っていましたか?」
「え?」
「会いたかったんでしょう?」
振り向きもせずに、少年が問いてくる。それが昨夜のことだと悟って、答えるよりも先に、
ぞんっ!!
……少女が番えた矢が、禍々しく火を噴いた。
←19へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
眠りから覚めれば、じゃない。目は閉じていても、まったく身体も意識も眠っていなかった。
カーテン越しに光は感じても、それを引く気力もなくて。蹲るようにベッドの上に横たわっていた。
「……っ」
下手に記憶を探ろうとして、口元に感じる違和感と吐き気に咳き込んで、やめた。目の端に涙が浮かんで、袖口で乱暴に擦る。もう何回も繰り返したせいで、目元がひりひりしている。鏡を見たら、きっと赤くなっているに違いない。
金縛りにあっているわけでもないのに、身体がベッドの上から動かない。
――っ!
シーツを握り締めた瞬間、掌にぬるりと生温かい血の感覚が蘇って、また吐き気が込み上げる。仕方なく、のそり、と起き上がり、水桶の中に吐き出すけれど、昨日からもう吐くものさえ残っていなくて。酸い胃液が喉元を無意味に灼くだけだった。
身体中が痛い。でも胸はもっと痛かった。
ちりん。
口元を拭うと同時に、胸にかかったネックレスのベルが小さく音を立てる。
「……レオン」
少年が男に向けて吐いた名前を繰り返す。けれど、どこかしっくり来ない。飲み込めない大きな遣えが、喉元に引っかかっている。
――……違う。
彼の名前は、そんな名前じゃない。
知っている。知っているはずなのに、思い出そうとする度に、頭の芯が痺れたように機能しなくなる。
――思い出さなきゃ、いけないのに……
何が起こっているのか、何をするべきなのか、見極めなくてはならない。何故、自分が殺されようとしているのか、その理由が知りたい。少年は彼は無事だと言った。けれど真偽が知りたい。自分の身を守る術が欲しい。
けれど、そのすべてが意図せず封じられてしまっているようで。
「……」
『何故、村を出た』
村を出なければ、こんな想いはしなかったかもしれない。けれど、カノンは一度、決断したのだ。その決断をさせたのは、他でもない。あの男だった。もう間違いない。あの人は、私を知っているんだ。
「おや、お出かけですか?」
「……」
億劫な身体を無理矢理動かして、部屋を出ると、木造廊下の柱に少年が背を預けていた。口元は笑っているが、目が否応のない厳しさを語っている。
「……少し、一人になりたいの」
「……お気持ちはお察ししますが。あまり遠くに行かれると、こちらとしても知覚できませんので」
もう少年は無関係だと主張する気もないらしい。されたところで嘘なのは、誰の目からも解るから、その必要もないのだろうが。
超人的な戦闘能力、宿や村を無慈悲に焼き払うような連中と互角に渡り合える手腕。この少年もまた、一体何者なのだろう。……解らない。問いたところで返っては来ない。聞き出すような力も、今のカノンにはない。
せめて、背中と腰にぶら下がった、剣の使い方だけでも覚えていれば。
「……わかってるわよ。すぐ、戻る」
何も知らないまま、守られるしかできない身が、ひどく恨めしかった。
メインストリートの喧騒を避けるように路地を歩き、賑やかなように見えても、どこか戦時の不安を煽るような不安げな人の顔に唇を噛んで。
そのうち上を見ることさえやめて、ひたすらに人のいない方向へ歩いた。
ゴミを漁っていた猫が、驚いて足元を駆け抜けていく。狭い路地を抜けた先は、石畳が途切れた村はずれの小さな水源だった。そこからちらり、と今しがた泊まっていた村を振り返り、また逆方向に歩き出す。
逃げるつもりじゃあない。どこに逃げても、あの少年なり、暗殺者[アサシン]なりが追って来ることは解っている。それなら、
「……また、一人で安全地帯を抜け出してくるなんて、大層な度胸のあるお嬢さんですね」
「……」
至極、丁寧な。けれど、毒のある物言いの男の声が、カノンの耳に届いた。形だけでも剣の柄に手をかけて、案外近くから聞こえた声に距離を取る。
疎らに生えた木の影から、昨夜見たばかりの、ローブを纏った男が姿を見せる。女の方の姿は見えない。きっとどこかにいるんだろうが、今のカノンではそれを見つけることなど至難の業だった。
じっとりと、手汗が柄を滑らせる。背中と肩に、同時に鳥肌が立った。
「お供の男の子はどうしました?」
「……わからないけど……。いずれ、ここに来るかもしれないわね」
「……」
「貴方に聞きたいことがあるの」
声に走る怯えと震えを隠しながら、言う。
「何故、私を狙うの? ヴェッセルって何? 私を殺すために村や宿屋を襲ったの? 彼――あの男の子と旅をするようになってから、無茶苦茶をするようになったのは何故?」
「贅沢な方ですね。質問は一つに纏めるのが礼儀ですよ」
仕草だけ、困ったように笑いながら、男は肩を竦めて見せる。
「それは、貴方のお供の男の子がよくご存知かと思われますが」
「……あの人は何も答えてくれないわ。だから、貴方たちに聞きに来たの。
教えて。記憶を失くす前の私が、殺されなくてはいけないような罪を犯したというなら、受け入れなきゃいけないと思う。でも、何も知らないまま死ぬのは嫌なのよ」
「どうせ刈り取られる命なら、知るも知らぬもそれほど問題ではないように思えますがねぇ」
「……」
カノンは唇を噛み締めて、男を睨んだ。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、己へ冷静を言い聞かせる。
「ヴェッセルはこの国の古い言葉です。"器"、という意味を持つと記憶しています」
「"器"……?」
「村や宿屋については貴方もよくご存知の通り。どうせ、燃やしてしまうなら、纏めて火を放ってしまった方が楽だし、始末もしやすいでしょう?」
「……私を始末するためだけに、あれだけ無関係な人を巻き込んだ、っていうの?」
「この国、国だけじゃあありません。世界全土に人間がどれほどいると思っています?
少しくらい減った方が生きやすくもなるでしょう。現に今このときでさえ、脆弱な人間など星の数ほど死に絶えています。貴方、蝿一匹殺すときでさえ、いちいち胸を痛めているのですか?」
「……あんたたち、何かおかしいわ」
爪が皮膚を抉るほど、拳を握り締めて。カノンは声を絞り出した。狂っている。この不和は一体、何なのだろう。カノンが持っている感情のすべてが、この暗殺者[アサシン]たちにはまるで通じていない。
「もう一つ――私の傍にいる彼は一体、何者なの? 貴方たちの仲間? 敵?」
「それを聞いてどうするつもりです?」
「彼が関わってからよ。貴方たちが無茶苦茶な手で私を殺そうとしたのは。
だから思ったの。貴方たちは、彼が関わっているときに、躍起になって無茶な手を使う。
最初にアレイアの村が燃えたとき、あの紅い髪の男を見たわ。昨日、あの男と彼が通じてるのを知った。……ひょっとしたら、あのとき、あの村に彼もいたんじゃないの?」
「……」
「貴方たちの本当の目的は、私を殺すことだけじゃない。私と、あの彼とを纏めて始末すること。違う?」
男はしばらく黙ってカノンの言葉を聴いていた。不意に、その隠した口元がふっ、と笑う。
拍手が、聞こえた。
「これはこれは。流されるだけの儚い身で、よくそこまで辿り着いたものですね」
「……」
男がふと、首を傾けた。
同時にカノンも気づく。遠くから、剣戟の音が響いている。段々と近づくそれが、耳を劈くようになり、男とカノンの合間をあの紫の矢の光が通り過ぎた。
どんっ!!
矢が突き刺さった古木が、落雷に打たれたように裂かれて倒壊した。ばりばりと、耳障りな音を立てて、燃えた葉を撒き散らしながら男とカノンの間を裂くように、横たわる。
風を切るような音と共に、二つ分の影が頭上を過ぎ去って、一つがカノンの傍に、一つが男の脇に着地する。カノンを庇うように黒衣の影が広がり、男を庇うように紫の切っ先がこちらに憎悪を向ける。
少年の黒曜の目が細められ、嫌悪にも近い表情で男を見る。
「……木偶の王」
「これはお早いお着きで、悪魔殿」
揶揄するように男が言った。少年は嫌悪を露わにしたままで、刺すような殺気を込めて男を見下す。
「貴方ほど酔狂な王もいませんね。余計なお喋りが過ぎますよ」
槍の切っ先を男に向けながら、少年は低い声で口にする。男は笑みを絶やさないまま、細い目を歪ませた。
「お嬢さん、先ほどの問いに答えましょう。
その通りですよ。私たちの目的は、貴方と、この少年とを始末すること。
私としては、纏めず、一人一人始末をしても何ら問題はないと思うのですが、……まあ、いろいろとこちらにも事情がありましてね」
少年が小さく舌打ちをするのが聞こえた。ばさり、と黒衣の裾を払って、槍を下ろす。
「……貴方がたが彼女を狙ったのは、彼女を殺す目的が半分、僕を誘き出す目的が半分。
彼女が流れ着いた村で、彼女を狙い、村を燃やし、僕に行動せざるを得ないように仕向けた。
彼女が巻き込まれて死んだならそれで良し。もし、生き残ったなら、僕は彼女――ヴェッセルを保護するために表に出なくてはいけなくなる。
貴方がたは本来、一を殺す為に百を犠牲にする。なのに、随分と丁寧な招待状でしたね」
「こんな身でして。派手に動けませんでね。人間とはかくも面倒なものです」
「本当に、酔狂だ。そして不毛です」
「不毛か否かは、我らで決めることですよ。人の造りし悪魔の子」
――……人の、造った?
男の言葉に、少年は静かに眉を伏せた。ゆっくりと面を上げると、もう一度、槍を構え直す。呼応するように、男の傍らの女が無言のまま、矢を番えた。
「どうして、私たちを? ”器”、ってどういう意味?」
「それは答えられません。答える、必要もありませんからね」
男の声色が、悪意に染まった。
轟っ!!
「っ!」
男の背後から、歪んだ音と共に、暗闇が立ち上った。灰色の影が、目の前を灼くように通り過ぎる。乱暴な風が、カノンの髪と服とを弄っていく。
息苦しい風が喉を詰まらせ、寒気が背中を震わせて、轟音が耳元で騒ぐ。
ざわめく音が止んで、ようやく恐る恐る目を開いて。そして、そのまま唖然とした。
「これ、って……?」
周りの木々が、空が、灰色に染まっていた。
木漏れ日も、風も、空も、音もない。梢の囁きさえない。すべての時間が止まったように、静謐な世界が広がっていた。目に届く範囲のものすべてが、生気を失っていた。
「なに、これ……」
「空間結界を張られましたね」
得体のしれない世界に、しかし、少年はさほど驚きもせずに小さく嘆息した。不自然に歪んだ男の笑みに、冷たい汗が背中を流れていく。
「これ以上、逃げられるのも煩わしいだけですからね」
嘲笑うように、男が言った。男の軍服の、至る所に括られている呪符が、妖しく光を放つ。
「いたちごっこは終わりにしましょう? 潔く、散っていくのが美しさというものですよ」
男が張り付いた笑みのまま、そっと手を翳す。少女の構える矢から立ち上る光と同じ、紫の焔が男の指先を煌々と照らした。
カノンは固唾を飲み込んで半歩後退る。この場に何が起きているかはわからない。けれど、今度はそう簡単に逃げられないのだろうことはわかる。
「……できるだけ、僕から離れないようお願いします」
「……」
「正直、木偶の王が本気になったら、貴方に気を配れると限りません。死にたくなければ、言うことを聞いてください」
「私……」
自分の顔から血の気が引いているのがわかった。手汗だらけの手で剣の柄を握る。けれど、今のカノンではこんなもの振るえない。振るう術も知らない。せいぜいが、無いほうが逃げるときに身軽、というくらいのものだ。
自分が殺される理由が知りたくて来た。それはどこかこの少年が、自分を庇うことを目的としているのに何となく気がついていたから出来たことだ。
けれど、けれどこんな戦いは、カノンが思っていたよりも、遥かに――
「……彼は、何と言っていましたか?」
「え?」
「会いたかったんでしょう?」
振り向きもせずに、少年が問いてくる。それが昨夜のことだと悟って、答えるよりも先に、
ぞんっ!!
……少女が番えた矢が、禍々しく火を噴いた。
←19へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
深夜の町の路地をいくつか抜けて、出た先は何の変哲もない町外れの水場だった。昼間は山中からポンプで引く清水を求める人々で溢れているそこも、こんな真夜中ではちょろちょろと水の音がするだけだ。積まれた薪用の木材が、風に軋んだ音を立てる。
人気のない暗闇に、ぶるりと肩を震わせる。本当にこんなところに来て、甲斐はあるのだろうか。疑念と共に少年を見上げた。そのときだ。
「……!」
「……あ」
がさり、と森へ通じる木々の合間から音がした。振り返ると、暗闇の中にカンテラが浮き上がって
その心許ない光に、見覚えのある影が映し出される。
「やあ、お疲れ様……」
「っ!」
舌打ちをした男は姿を現すなり、少年の胸倉を掴み上げた。平静から豹変した瞳には、あからさまな怒りが灯っている。
「……貴様。何のつもりだ」
「僕が望んだわけじゃあないよ」
詰め寄られた少年は、しかし、しれっとした顔で答えた。表情に怒りを滲ませたまま、男はもう一度舌打ちをすると、やや荒々しく手を離す。
少年は何事もなかったかのように襟元を正すと踵を返し、木材の上にランプを置いた。代わりにカンテラを持ち上げて、小さく笑う。
「それじゃあね。大体、30分くらいうろついたら戻って来るよ。……それと、」
少年は自分より高い位置にある男の肩を叩くと、急に声を低くする。
「わかっているとは思うけれど……妙な気は起こさないようにね?」
「……わかっている。むしろそれは貴様の方だ」
振り払うように男が肩の手を払うと、少年はくすり、と満足そうに嘲笑った。そのままこちらにひらひらと片手を振って、がさがさと茂みの中へ消えていく。
「――って」
――いきなり私だけ残して消えるか、普通っ!? そりゃ、会いたいとは言ったけど……!
思い切り背中に怒鳴り声を叩き付けてやりたかったが、怒鳴ろうにも相手は既に夜の森の中だった。カノンは伺うようにちらりと男を盗み見る。
男は少年の背中が完全に夜闇へ消えたのを知ると、呆れたように溜め息を吐いた。眉間に深く皺を寄せ、数秒何かを考え込んでから、ようやくこちらを振り返る。唇を引き締めたまあ、小さく唸ると、カノンの方を見下ろして、
「……何か、用か」
「え、ええと……」
聞きたいことは山程あった。だが、前に会ったときは話すらしてくれなかったのだ。何から問えば答えてくれるというのだろう。
「え、う……ひくしゅっ」
「……」
考えあぐねているうちに、肌寒さに負けた。男が何故かまた深々と息を吐く。だが今度のそれには、苛立ちや怒りはなく、ただ呆れているだけのようだった。
ぱさりっ。
「……え」
吹き付けてくる風が止んだ。いや、正確には薄着だった肌に風を感じなくなったのだ。
「夜中にそんななりで出て来る馬鹿がどこにいる。こんな状況で倒れたいのか」
「……」
男の着ていた暗緑のコートが、肩にかかっていた。カノンには明らかに大きいコートには、まだ温もりが残っている。
驚いて男を見上げると、彼はまた溜め息を吐きながらひどく無愛想に、しかし、けして無感情ではない目でカノンを見下ろしていた。しばらく見上げて気づく。その目には怒りも、憤りも、憎悪もなく――ただ呆れの中に純粋な好意があるだけだった。
「……う」
村を出てから、いや、アレイアの家で目を覚まして以来、記憶を失って、不穏な空気に巻き込まれて。ぴん、と張り詰めた糸が、何故だかそのとき、ぷつん、と切れたような気がした。
「おい……?」
「う、あ……」
――な、なんで……
いつのまにか、頬を滑り落ちた水が、ぽたりとコートを濡らしていた。やたらと温かな水だった。男は傍目に痛いほどきつく、唇を噛んだ。コートを脱いだ軍服の胸元を、抑えるような動作をしてから、ゆっくりと彼女の頭を撫でる。
「う……ひっく、うぅ……ふぁあああぁん……っ」
切れた糸は戻ってはくれなくて、彼女は男のコートを掴んだまま、少しだけ、泣いた。
カンテラの細い灯に浮かび上がった影に、少年はすっ、と目を細めた。どこか嘲ったように口の端を持ち上げると、対面する影は同じように笑って見せる。
「てっきり……木偶人形だけかと思いましたら」
「いえいえ、まさか。かの有名なエイロネイアの皇太子殿に、そんな無礼な真似はしませんよ」
にやついた微笑を浮かべる影は、くすくすと喉の奥で笑って見せた。品定めするような視線が、少年の頭の先から足元までを舐めるように上下する。少年は失笑しながら息を吐いた。
「このようなところまで何用ですか、シンシア特別護衛長ヴァレス=ヴィースト殿」
「それはこちらの台詞ですよ、皇太子殿……。こんな人里の辺境に居られる方ではないでしょうに?」
「皇太子といえど軍人です。己の行動くらいは、己で決めますよ」
「ほう」
すっ、とヴァレスの目が静かにつりあがった。ばさり、とどこかの闇の中で野鳥が羽音を立てて、甲高く戦慄いた。
気味の悪い沈黙が、暗闇の中に生まれた。鳥が起こしたかのように、強風が少年のカンテラの火を消して、仄かな月光だけが互いの顔半分を照らした。
「人の子が生んだ悪魔の子。貴方、ご自分の父親が何をしているのか、ご存知ですか?」
「……ええ、それはよく」
「では、知った上で……"貴方は何を考えて、動いている"のでしょうか?」
「……」
少年は不自然な笑顔のまま、答えるのをやめた。黒曜石の一つ目には何も映らない、灯らない。
「ヴェッセルに近づき、七人目[ザイン]を手懐け、私たちに引き渡さず――貴方は一体、誰の為に動くなんですか?」
「言ったはずですよ、木偶の王」
ヴァレスのこめかみがぴくり、と小さく動く。辺りの闇が軋む音がした。
「己の行動くらいは己で決める、と」
「――失敗作の人形が、偉そうに」
ヴァレスの手が高く翳された。少年は瞬時に反応して、脚をバネに背後の木上まで跳躍する。
ぎどんっ!!
たった今の今まで少年の立っていた地面が、綺麗に、容赦なく抉られていた。中心には暗い輝きを宿す紫の弓矢。火の消えたカンテラが、がしゃん、と音を立てて硝子の破片を撒き散らした。
静かに面を上げると、肩越しの闇の中に不気味に輝く紫の矢を構えた少女。
「消えて頂きましょう。ヴェッセルにも、貴殿にも。――人の造りし悪魔」
ひとしきり肩を震わせて泣いた後、カノンはいつのまにか倒れた大木の上に腰かけながらしゃくりあげていた。男はその間、ただ黙ったまま。一言も何も口にせずに、頭を撫でて、時折泣き声が激しくなるとあやすように肩を叩いた。それが嫌に懐かしくて、また胸に亀裂が走って、泣いた。
「……そろそろ泣き止め。きりがない」
「ごめ……っ、わかっ、って……る、けど……」
袖で目元を拭ってから、唇を噛み締めて顔を上げる。男は短く溜め息を吐いてから、もう一度、金色の頭を撫でようとして、
「……」
苦しげに、眉をひそめて、やめた。
「……?」
「何故、村を出た」
「……」
低い声で問いかけられて、カノンは空息を呑んだ。眉間に皺を寄せた男は、責めることさえしなかったが、無言のままさらに問いかけてくる。
「……だって」
「別に、居心地の悪い場所でもなかっただろう」
「それは、そうだけど……」
「どんな判断が利口だったか、自分の身を考えれば、それで良かっただろうに」
「――っ」
淡々と語る男にカノンは奥の歯を噛み締めた。握った手をさらに白くなるまで握り締めて、男を睨みあげる。
「じゃあ……じゃあ、自分の周りで起こってることもわからないまま、毎日、びくびくして暮らせって言うの!? 自分が殺されかけた、って知っててあの村にいろ、って!?」
「……」
「貴方だってそうよ! どうして何も言わないの? どうして、」
カノンの表情がもう一度、くしゃり、と歪んだ。知っている。確かに沈んだ記憶は頭の裏でそう訴えて来ているのに、どうしても、もやがかかったように、一枚薄い壁が阻むように、何かが邪魔をする。
歯がゆくて、悔しくて、苦しくて。
絞り出すように言葉を吐いた。
「どうして、知ってて、何も言ってくれないの……っ」
収まったはずの涙が、また身体の奥から湧いてくる。奥歯を噛み締めて堪えるのに、身体の震えが収まらなくて。縋りつきたくなる衝動を必死で我慢して。
俯いたせいで男の表情は見えなかった。だが、頭の上にふわり、と少し硬くなった掌だけが乗って。それが余計に胸に痛くて。
泣きたくないのに、泣かないと胸に刻んでいたのに、どうしてこんなものを抱えなくてはいけないんだろう。
「……すまない」
「……っく、ぅ、ふぇ……」
「……すまない、俺は、」
男が言いかけた一言は、強風に煽られて掻き消された。
ぞんっ!!
「っ!」
森の入り口が裂けた。裂けた、というのが正しい。強風に煽られた瞬時、袈裟懸けに一瞬だけ見えた空の残像が、カノンの髪を乱暴に靡かせた。目も開けられなくて、硬く閉じた瞬間、
「レオンっ!!」
切り裂くような少年の声がした。
ドシュっ!!
目が眩むほど目蓋の裏が明るくなる。ぐい、と手を引かれて、風を感じなくなるほど、厚い胸板の中に閉じ込められた。驚いて目を開けて、そして、
「・・・っ!」
「ぐ……っ」
言葉の代わりに、カノンを引き寄せて、庇うように抱き締めた彼は口の端から赤黒い体液を吐き出した。鉄錆の匂いが、鼻をついて、べしゃりとカノンの頬を濡らす。ぬるり、とした感触が頬を伝って滑り落ちた。
ずるり、と体勢を崩した彼の肩越しに、突き刺さる、紫の矢が見えた。
「――っ!!」
カノンの声にならない悲鳴が辺りを奮わせた。またずるり、と赤い軌跡を描きながら男の身体が傾いで、倒れ込んだ。
掠れた声が、最後にカノンの耳に届く。
「かの……ん、……」
「……っ、あ……あああああ……っ」
ばさりっ、と木々を払う音がした。
「シャルっ!!」
もう一度、少年の声が空気を劈いた。きんっ、と金属音がして、青い煌々が男の周りを走る。
闇と赤い痕だけを残して、男の身体がふつりと消えた。目の前に迫る紫の光が何なのか、理解するより前に身体が攫われる。
カノンを抱き上げて、少年はたんっ、と倒れた木の上に着地した。いつのまにか少年の傍らに、黒服の小さな少女が無表情で立っている。
「……滅びの化身、たかが廃棄人形に手を貸しますか」
「……」
弓矢を構える女と、見た記憶のない黒服の男が、静かに立っていた。男が漏らした言葉に、少女は静かな殺気を漏らして、無言で答える。
「頼んだよ、シャル」
「……主様の御心のままに」
傍らの少女にそれだけ告げると、少年はカノンを抱き上げたまま踵を返して駆け出した。
「ちょ、嫌……っ、待って、嫌あっ!!」
「落ち着いてください。彼は死んでない。安全なところに送っただけです」
「けどっ、嫌っ! ちょっと、待って、だって……っ!!」
それでも声を抑えないカノンに、少年は嘆息すると、そのまま自分の唇で彼女の口をあっさりと塞いだ。
唐突な感触に、カノンは目を見開いて、けれどそのまま意識が奪われる不可思議な感覚に抗えず、がくり、と彼女の身体から力が抜けた。
「……失礼。お詫びは後で致します」
少年は淡々と袖で唇を拭うと、力が抜けて重くなった彼女の身体を抱え直し、跳躍と共に闇の中へ消えた。
←18へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
人気のない暗闇に、ぶるりと肩を震わせる。本当にこんなところに来て、甲斐はあるのだろうか。疑念と共に少年を見上げた。そのときだ。
「……!」
「……あ」
がさり、と森へ通じる木々の合間から音がした。振り返ると、暗闇の中にカンテラが浮き上がって
その心許ない光に、見覚えのある影が映し出される。
「やあ、お疲れ様……」
「っ!」
舌打ちをした男は姿を現すなり、少年の胸倉を掴み上げた。平静から豹変した瞳には、あからさまな怒りが灯っている。
「……貴様。何のつもりだ」
「僕が望んだわけじゃあないよ」
詰め寄られた少年は、しかし、しれっとした顔で答えた。表情に怒りを滲ませたまま、男はもう一度舌打ちをすると、やや荒々しく手を離す。
少年は何事もなかったかのように襟元を正すと踵を返し、木材の上にランプを置いた。代わりにカンテラを持ち上げて、小さく笑う。
「それじゃあね。大体、30分くらいうろついたら戻って来るよ。……それと、」
少年は自分より高い位置にある男の肩を叩くと、急に声を低くする。
「わかっているとは思うけれど……妙な気は起こさないようにね?」
「……わかっている。むしろそれは貴様の方だ」
振り払うように男が肩の手を払うと、少年はくすり、と満足そうに嘲笑った。そのままこちらにひらひらと片手を振って、がさがさと茂みの中へ消えていく。
「――って」
――いきなり私だけ残して消えるか、普通っ!? そりゃ、会いたいとは言ったけど……!
思い切り背中に怒鳴り声を叩き付けてやりたかったが、怒鳴ろうにも相手は既に夜の森の中だった。カノンは伺うようにちらりと男を盗み見る。
男は少年の背中が完全に夜闇へ消えたのを知ると、呆れたように溜め息を吐いた。眉間に深く皺を寄せ、数秒何かを考え込んでから、ようやくこちらを振り返る。唇を引き締めたまあ、小さく唸ると、カノンの方を見下ろして、
「……何か、用か」
「え、ええと……」
聞きたいことは山程あった。だが、前に会ったときは話すらしてくれなかったのだ。何から問えば答えてくれるというのだろう。
「え、う……ひくしゅっ」
「……」
考えあぐねているうちに、肌寒さに負けた。男が何故かまた深々と息を吐く。だが今度のそれには、苛立ちや怒りはなく、ただ呆れているだけのようだった。
ぱさりっ。
「……え」
吹き付けてくる風が止んだ。いや、正確には薄着だった肌に風を感じなくなったのだ。
「夜中にそんななりで出て来る馬鹿がどこにいる。こんな状況で倒れたいのか」
「……」
男の着ていた暗緑のコートが、肩にかかっていた。カノンには明らかに大きいコートには、まだ温もりが残っている。
驚いて男を見上げると、彼はまた溜め息を吐きながらひどく無愛想に、しかし、けして無感情ではない目でカノンを見下ろしていた。しばらく見上げて気づく。その目には怒りも、憤りも、憎悪もなく――ただ呆れの中に純粋な好意があるだけだった。
「……う」
村を出てから、いや、アレイアの家で目を覚まして以来、記憶を失って、不穏な空気に巻き込まれて。ぴん、と張り詰めた糸が、何故だかそのとき、ぷつん、と切れたような気がした。
「おい……?」
「う、あ……」
――な、なんで……
いつのまにか、頬を滑り落ちた水が、ぽたりとコートを濡らしていた。やたらと温かな水だった。男は傍目に痛いほどきつく、唇を噛んだ。コートを脱いだ軍服の胸元を、抑えるような動作をしてから、ゆっくりと彼女の頭を撫でる。
「う……ひっく、うぅ……ふぁあああぁん……っ」
切れた糸は戻ってはくれなくて、彼女は男のコートを掴んだまま、少しだけ、泣いた。
カンテラの細い灯に浮かび上がった影に、少年はすっ、と目を細めた。どこか嘲ったように口の端を持ち上げると、対面する影は同じように笑って見せる。
「てっきり……木偶人形だけかと思いましたら」
「いえいえ、まさか。かの有名なエイロネイアの皇太子殿に、そんな無礼な真似はしませんよ」
にやついた微笑を浮かべる影は、くすくすと喉の奥で笑って見せた。品定めするような視線が、少年の頭の先から足元までを舐めるように上下する。少年は失笑しながら息を吐いた。
「このようなところまで何用ですか、シンシア特別護衛長ヴァレス=ヴィースト殿」
「それはこちらの台詞ですよ、皇太子殿……。こんな人里の辺境に居られる方ではないでしょうに?」
「皇太子といえど軍人です。己の行動くらいは、己で決めますよ」
「ほう」
すっ、とヴァレスの目が静かにつりあがった。ばさり、とどこかの闇の中で野鳥が羽音を立てて、甲高く戦慄いた。
気味の悪い沈黙が、暗闇の中に生まれた。鳥が起こしたかのように、強風が少年のカンテラの火を消して、仄かな月光だけが互いの顔半分を照らした。
「人の子が生んだ悪魔の子。貴方、ご自分の父親が何をしているのか、ご存知ですか?」
「……ええ、それはよく」
「では、知った上で……"貴方は何を考えて、動いている"のでしょうか?」
「……」
少年は不自然な笑顔のまま、答えるのをやめた。黒曜石の一つ目には何も映らない、灯らない。
「ヴェッセルに近づき、七人目[ザイン]を手懐け、私たちに引き渡さず――貴方は一体、誰の為に動くなんですか?」
「言ったはずですよ、木偶の王」
ヴァレスのこめかみがぴくり、と小さく動く。辺りの闇が軋む音がした。
「己の行動くらいは己で決める、と」
「――失敗作の人形が、偉そうに」
ヴァレスの手が高く翳された。少年は瞬時に反応して、脚をバネに背後の木上まで跳躍する。
ぎどんっ!!
たった今の今まで少年の立っていた地面が、綺麗に、容赦なく抉られていた。中心には暗い輝きを宿す紫の弓矢。火の消えたカンテラが、がしゃん、と音を立てて硝子の破片を撒き散らした。
静かに面を上げると、肩越しの闇の中に不気味に輝く紫の矢を構えた少女。
「消えて頂きましょう。ヴェッセルにも、貴殿にも。――人の造りし悪魔」
ひとしきり肩を震わせて泣いた後、カノンはいつのまにか倒れた大木の上に腰かけながらしゃくりあげていた。男はその間、ただ黙ったまま。一言も何も口にせずに、頭を撫でて、時折泣き声が激しくなるとあやすように肩を叩いた。それが嫌に懐かしくて、また胸に亀裂が走って、泣いた。
「……そろそろ泣き止め。きりがない」
「ごめ……っ、わかっ、って……る、けど……」
袖で目元を拭ってから、唇を噛み締めて顔を上げる。男は短く溜め息を吐いてから、もう一度、金色の頭を撫でようとして、
「……」
苦しげに、眉をひそめて、やめた。
「……?」
「何故、村を出た」
「……」
低い声で問いかけられて、カノンは空息を呑んだ。眉間に皺を寄せた男は、責めることさえしなかったが、無言のままさらに問いかけてくる。
「……だって」
「別に、居心地の悪い場所でもなかっただろう」
「それは、そうだけど……」
「どんな判断が利口だったか、自分の身を考えれば、それで良かっただろうに」
「――っ」
淡々と語る男にカノンは奥の歯を噛み締めた。握った手をさらに白くなるまで握り締めて、男を睨みあげる。
「じゃあ……じゃあ、自分の周りで起こってることもわからないまま、毎日、びくびくして暮らせって言うの!? 自分が殺されかけた、って知っててあの村にいろ、って!?」
「……」
「貴方だってそうよ! どうして何も言わないの? どうして、」
カノンの表情がもう一度、くしゃり、と歪んだ。知っている。確かに沈んだ記憶は頭の裏でそう訴えて来ているのに、どうしても、もやがかかったように、一枚薄い壁が阻むように、何かが邪魔をする。
歯がゆくて、悔しくて、苦しくて。
絞り出すように言葉を吐いた。
「どうして、知ってて、何も言ってくれないの……っ」
収まったはずの涙が、また身体の奥から湧いてくる。奥歯を噛み締めて堪えるのに、身体の震えが収まらなくて。縋りつきたくなる衝動を必死で我慢して。
俯いたせいで男の表情は見えなかった。だが、頭の上にふわり、と少し硬くなった掌だけが乗って。それが余計に胸に痛くて。
泣きたくないのに、泣かないと胸に刻んでいたのに、どうしてこんなものを抱えなくてはいけないんだろう。
「……すまない」
「……っく、ぅ、ふぇ……」
「……すまない、俺は、」
男が言いかけた一言は、強風に煽られて掻き消された。
ぞんっ!!
「っ!」
森の入り口が裂けた。裂けた、というのが正しい。強風に煽られた瞬時、袈裟懸けに一瞬だけ見えた空の残像が、カノンの髪を乱暴に靡かせた。目も開けられなくて、硬く閉じた瞬間、
「レオンっ!!」
切り裂くような少年の声がした。
ドシュっ!!
目が眩むほど目蓋の裏が明るくなる。ぐい、と手を引かれて、風を感じなくなるほど、厚い胸板の中に閉じ込められた。驚いて目を開けて、そして、
「・・・っ!」
「ぐ……っ」
言葉の代わりに、カノンを引き寄せて、庇うように抱き締めた彼は口の端から赤黒い体液を吐き出した。鉄錆の匂いが、鼻をついて、べしゃりとカノンの頬を濡らす。ぬるり、とした感触が頬を伝って滑り落ちた。
ずるり、と体勢を崩した彼の肩越しに、突き刺さる、紫の矢が見えた。
「――っ!!」
カノンの声にならない悲鳴が辺りを奮わせた。またずるり、と赤い軌跡を描きながら男の身体が傾いで、倒れ込んだ。
掠れた声が、最後にカノンの耳に届く。
「かの……ん、……」
「……っ、あ……あああああ……っ」
ばさりっ、と木々を払う音がした。
「シャルっ!!」
もう一度、少年の声が空気を劈いた。きんっ、と金属音がして、青い煌々が男の周りを走る。
闇と赤い痕だけを残して、男の身体がふつりと消えた。目の前に迫る紫の光が何なのか、理解するより前に身体が攫われる。
カノンを抱き上げて、少年はたんっ、と倒れた木の上に着地した。いつのまにか少年の傍らに、黒服の小さな少女が無表情で立っている。
「……滅びの化身、たかが廃棄人形に手を貸しますか」
「……」
弓矢を構える女と、見た記憶のない黒服の男が、静かに立っていた。男が漏らした言葉に、少女は静かな殺気を漏らして、無言で答える。
「頼んだよ、シャル」
「……主様の御心のままに」
傍らの少女にそれだけ告げると、少年はカノンを抱き上げたまま踵を返して駆け出した。
「ちょ、嫌……っ、待って、嫌あっ!!」
「落ち着いてください。彼は死んでない。安全なところに送っただけです」
「けどっ、嫌っ! ちょっと、待って、だって……っ!!」
それでも声を抑えないカノンに、少年は嘆息すると、そのまま自分の唇で彼女の口をあっさりと塞いだ。
唐突な感触に、カノンは目を見開いて、けれどそのまま意識が奪われる不可思議な感覚に抗えず、がくり、と彼女の身体から力が抜けた。
「……失礼。お詫びは後で致します」
少年は淡々と袖で唇を拭うと、力が抜けて重くなった彼女の身体を抱え直し、跳躍と共に闇の中へ消えた。
←18へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「……」
目の前に広がった光景に、カノンはただ、ただ絶句するしかなかった。灰色に曇った空から、黒い灰が落ちて来ている。それはあの暗殺者が起こした山火事が、未だもって燻っているのを意味している。
焼き枯れた木。灰になった藁の屋根。崩れた煉瓦は元の綺麗な赤茶色ではなく、煤ぼけた黒になって転がっていて。辺りに漂う異臭は、やたらに酸いものと苦いものが混じっていて。カノンは袖口を噛みながら吐き気を堪えるのが精一杯だった。
昨日までそこは村だったはずだ。山中に位置する小さな村。小さな広場と放牧用の敷地があって、焼け爛れた柵が強い風にきいきいと耳障りな音を立てる。
昨日まで村だったはずのそこは、今はただの廃屋の群れだった。
「どうして……」
「……蛮族が出たようですね」
「……蛮族?」
呆然としながら、カノンの耳はかろうじてその単語を捕らえていた。少年は灰の降る残骸の山を、どこか冷めた目で見上げながら頷く。
「昨日の山火事で動揺があったんだと思います。近くの蛮族がそれを利用して攻め入ったんでしょう。大分、人為的に破壊された跡がありますし、金属が焼け残っていませんから。強奪があったんでしょうね」
「蛮族、って……」
「戦で何らかの理由で郷里に戻れなくなったり、隊を追われた人間が暴徒化した集団です。山賊も同然ですが、彼らの場合は戦に便乗して村や町を狙う方が多いようですね」
「……」
カノンは無言で首を振って灰の上を歩く。積もった灰に、やたらと虚しく足跡を残った。
「……?」
足元に頭だけが残った人形が転がっている。不自然に焼けこびりついた塊が、きっと直前までこの人形を抱いていた主のものなのだろう。ただそれも拾い上げた途端にぼろりと崩れて手の平から失くなってしまった。
――これも、やっぱり私のせいなの……?
「お言葉のようですが……。
この国ではそうそう珍しいことではありません。蛮族が村を襲うのも、戦が原因で村同士がいざこざが起こることだってあります。あまり気に病まれませんよう」
「……だったら、どうして」
手の中に残った一握りの灰を見つめながら、搾り出すように声を出す。あまりにやり切れない苦いものが、喉元まで込み上げていた。
「だったらどうして戦争を起こしてるの? どうしてやめようとしない?」
「……やめる理由が存在しないからです」
少年は壊れた瓦礫の下まで行くと、隙間から中を覗き込んだ。けれど、そこで見た光景はあまり良いものではなかったようで、眉を潜めながら力なく首を振る。
「この国が戦を始めた理由を知っていますか? ある男がある日、自分だけの国を造りました。元の国の人たちはそれを良く思いませんでした。また男の方も皆を嫌っていました。
いつか、お互いに殺してやろうと思っていました」
「……」
「その中の誰かが、ある日、国と国とを細い糸で結んでいた人を殺しました。皆ははれて、お互いを殺し合うことができるようになりました」
「……そんなの、ただの」
「ただの大義名分です。原因なんか何でも良かったんです。誰が殺したかとか、誰が死んだかとか、どうでも良かったんですよ。彼らはたとえ殺されたのが鳥一羽であっても理由に掲げて戦を起こしたでしょう」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとお思いですか? ええ、確かに馬鹿馬鹿しい。
しかし、それを大義名分に掲げてしまった以上、もう両国とも後には引けなくなっていたのです」
「……負けた方が、その大義名分の罪を被る、ってわけ……」
「それだけではありません。五十年続いた戦、その間に何人が何人を殺したか、戦によってどれほど国が財産を使い果たしたか。その不利益と罪すべてを被ることになります。
勝った国で一番人を殺した人は英雄となるでしょう。負けた国で一番人を殺した人は戦犯となって処刑されるでしょう。
両方とも、己が勝ち得るまで戦を終わらせる気などないのです。彼らはたとえこの国が焦土と成り果てても戦をやめようとはしませんよ」
「……」
カノンは吐き出しそうになる言葉をかろうじて飲み込んだ。五十年、五十年の年月をかけて一体何が欲しいのだろうか。領土か、栄光か、それとも満たされた支配欲か。それを手に入れて、辺りに広がるのがただの焦土であっても、その誰とも知らない新しい支配者は自分の国であると胸を張るのだろうか。
やられたからやり返した。勝った方が正義。そんな子供の喧嘩で、こんなことが許されてしまうのか。
「……違う」
「……」
「……そんなの間違ってる」
苦く吐き出した言葉には、言い様のない感情がすべて詰まっていた。少年は無言のまま、それを受け入れると、どこかあさってを振り返る。
「……生贄が」
「え?」
「生贄が、要るのです」
唐突に、脈絡のない言葉が少年の口が滑り落ちる。
「生贄……?」
「戦が起こった原因も、多くの血が流れた原因も。すべてを負い、人々の怒りの矛先となって、死ぬ。そんな生贄が必要なんです。そうでなければ、この戦は止まりません。古来から人に神と崇められる人物は、人々を支配する存在ではなく、人の創り上げた原罪を贖う生き物でした。
戦が求めるのは一人の英雄ではなく、一人の犠牲者なのです」
「……」
カノンは爪が食い入るほど拳を握って少年を見上げた。全身を覆う包帯と、半分しか露になっていない顔。元から痛々しくはあったが、その白く不自然な包帯が、何故か増して酷く辛そうに見えた。
「……そんなことをしたって、」
カノンが言いかけるより先に、少年がはっとしてこちらを振り返った。言葉を言い終えることなく、少年は彼女の腕を引いた。
ドスッ!!
「!」
たった今までカノンがいた場所に、深々と紫炎に包まれた矢が突き刺さる。戦慄して顔を上げると、さらに数本の矢は容赦なく眼前に迫っていた。
「っ!?」
「ちっ」
舌打ちと共に、少年がカノンを抱え上げて跳ぶ。空を裂いた紫の矢は、そのまま背後の瓦礫へ突き刺さり、黒ずんだ煉瓦にさらに痛々しい痕を残す。
瓦礫の上へ着地した少年は、静謐に眉を吊り上げて、矢の放たれた方向を見やる。
「……木偶がまあ、よくも追いかけてくるものですね」
「……」
少年の罵倒にも、暗殺者の女は口を開かずにただ睥睨した。女は無感情な目を細めると、ゆっくり構えていた弓を下ろす。
「ヴェッセルを、渡せ」
「!」
まただ。またあの単語。聞いた覚えのない、けれど記憶の琴線にも触れない。けれどそう言う彼女の目はしっかりとカノンを捕らえている。これから刈取る獲物を見下すように。少年がカノンを背に庇うように袖を広げる。
「くどい」
ほら、この少年も。訂正することも、疑問に思うこともなくただ撥ね付ける。ということは、この少年も知っているのだ。意味のわからぬ言葉が指す意味を。カノン自身のことを。何が起きているのかを。
「……なら、力づくで」
「……いい加減にしなさいよ」
女の無機質な言葉が止まる。ひくり、と初めて眉が震えた。
「大人しく聞いてれば勝手なことを次々と……! ヴェッセルって何? こんなにまでしてどうして私を付け狙う!?
どこの誰だか知らないけどね、こっちにも我慢の限度ってものがあるわ! 一体、どういうつもりよ!?」
「どういう……?」
「私一人狙うなら、こんな関係ない他人まで巻き込む必要ないでしょうっ!?」
「……?」
憤りの篭ったカノンの激昂に、しかし、女は極不思議そうに――演技でも、挑発でもなく、やたらとそこだけ人間じみた動作できょとん、と首を傾げた。
「どうせ、人間なんか、放って置いても、後から湧いてくる」
「な――っ!?」
「カノンさん!」
再び番えられた矢に、少年は慌ててカノンを抱え直す。飛び退いた瞬間に、また紫の光がその場を貫いて、なけなしの村の痕跡さえも打ち砕く。
「カノンさん、あまり無茶は――」
「っ!」
忠告を投げる少年を思わず睨み上げた。憤った言葉が口を吐く。
「……私だって、私だって……っ! 自分のせいでこんないくつもいくつも村が焼かれたり、他人を巻き込まれたりして、平気でいられるほど人間出来ちゃいないのよ! 気に病むな!? そんなことできるわけないでしょう!?」
「……」
腰に下げていた剣の柄が、握り締めた拳に当たる。記憶を失くす前の自分だったなら、自分の身も、二つの村も守れたのだろうか。翻弄されるだけの自分が悔しくてたまらない。こんなに情けなくて口惜しいのに、柄を握っても握っても、肝心な記憶は零れ落ちて来ない。
いっそ大人しく殺された方がマシだったのだろうか。いっそ――
ぱしんっ!
「――っ!」
「……逃げますよ」
握り締めていた拳を叩かれる。我に返ると同時に、身体が浮き上がる。背後をちらりと見た少年は、厳しい表情で彼女を抱えたまま走り出した。
「……あんたも」
「……」
「あんたも、やっぱり、何か知ってるのね」
「……申し訳ありません」
表情を動かさずに言ったその言葉は、知っていても話す気がないということを表していた。背後でまた瓦礫が崩れる音がする。少年の肩越しに、あの紫の光が煌くのがわかった。
……守られているカノンは弱者でしかない。どうあってもその口を割ることは出来ないと悟る。カノンには、凍りついた黒曜の瞳を睨み返すことしか出来なかった。
「シェイリーンから連絡があった、って本当?」
砦の会議室に着くなりそう切り出したシリアに、ラーシャは難しい顔で頷いた。喜ばしいことのはずなのに、その表情には深く眉間に皺が刻まれている。
「何かあったのか?」
首を傾げたアルティオが問う。ラーシャは会議室の椅子から立ち上がって、二人に掛けるよう薦めながら、デルタへ何かの指示を出す。
「連絡があったのは喜ばしいのだが……それが、」
「こちらです」
デルタが簡素な封書をテーブルの上に置く。シリアとアルティオは顔を見合わせて、手に取るのを躊躇った。仮にも国家元首が国の将に送った物だ。ある意味では公式文書である。しかし、ラーシャは右手を翳して見るように薦めてくる。シリアは形の良い唇を歪めてから手を伸ばした。
真っ白な、封印もされていない封筒にただの紙。金印も、紋章さえもないが、裏に押された親指の血印が、本人からのものだと示している。一枚しかない便箋をめくって、覗き込んだシリアとアルティオは、そこに書かれていた文章に目を剥いた。
『ラーシャへ
私たちはディーダへ向かいます。そちらで合流しましょう。
シェイリーン』
「な、これ、ル……!」
がつっ!
「――っ!」
「る?」
「いいえ、何でもないわ」
口に出しかけたアルティオの足を、シリアはテーブルの下で思い切り踏みつけた。
『――何すんだよっ?』
『お馬鹿。詳しい状況もわからないのに、ぽこぽこ情報を口にするんじゃないのっ』
小声で文句を垂れるアルティオに、やはり小声で返してから、シリアはもう一度便箋を凝視する。ディーダ。ルナが示してきた場所と同じ場所。単なる偶然なのだろうか。それとも、ここに本当に重要な何かがあると言うのか――
「これは一体、どういうこと?」
「……」
問うとラーシャとデルタはお互いに顔を見合わせる。表情は怪訝そうで、どうにもこの一文を理解しているようには見えなかった。
「昨夜、密偵を通じて届けられた。ディーダというのは――」
「知っているわ。シンシア領にある神殿の名前でしょ?」
「ああ、そうだ。シェイリーン様はそこに向かわれているらしい。だが、どのような意図があるのかは私にも……」
なるほど、何となく、彼女が自分たちを呼んだ理由が理解できた。シリアはルナからシンシアの神話や伝承についての知識を預けられている。そしてディーダというのはシンシア、いや、ゼルゼイルにおいて最も価値のある文化遺産でもある。おそらくシリアなら、シェイリーンがディーダに向かった理由に心当たりがあるかもしれないと踏んだのだろう。
だが、シリアは力なく首を振った。
「……残念だけど。私にもよくはわからないわ。ルナから聞いてはいたけれど、ここの研究者が知っている以上のことは……。
ルナだったら、何か掴んでても不思議じゃあないけれど」
「そうか……」
「別にそこで合流しよう、ってだけじゃないのか?」
「お馬鹿」
シリアの拳がアルティオの脳天を直撃する。致命的な破壊力こそないものの、地味な痛みは感じているようで、アルティオは後頭部を抑えてテーブルへ突っ伏した。
「お前、最近暴力的だぞ!?」
「いつも加減の知らないカノンの殴りやら蹴りやら受けてるくせに、何言ってるのよ」
「愛があれば何だって耐えられる!」
「あの……」
脂汗を浮かべたラーシャが、顔を引きつらせた。さすがに居住まいを正したアルティオの足を、シリアはもう一度踏みつけてから、
「つまり、よ。合流するだけならこの砦とか、他の目立たない場所で十分だし、もっと早く合流できるじゃない? 神殿に行く目的があるにしても、ラーシャと合流してからの方が安全だもの。暗殺騒ぎがあったばかりなんでしょう?
どこから狙われているかわからないのに、人里離れた神殿を目指すなんて自殺行為だわ」
「ディーダへ向かう道はけして整備されているとは言い難い。野宿も必要になる場所だ。狙われる危険性も高くなる。
何故、ご自身でそのような場所に……」
「あのお嬢様、随分と正義感が強かったからね。自分で伝承を調べようと思ったのか、あるいは……」
シリアはふと言葉を止める。会議室の正面に下がった。ゼルゼイルの地図に目を留めて、無意識にディーダの位置を探し、頭の中でシンシアの帝都を置いて、ジルラニア平原を振り返り――
違和感があった。
――え?
思わず頭の中が白くなった。
――ちょっと、まさか……。
嫌な汗が背中から噴き出した。
「……ラーシャ」
「?」
「この……ディーダに向かう山脈、っていうのは、兵士が配備されていたりするのかしら?」
「ティファール山脈か? いや、小さな関所や拠点はあるが……何分、広く険しい山脈だ。すべてを管理するというのは――」
そこまで口にして、ラーシャもその事実に気がついたらしい。健康的な顔色から血の気がだんだんと引いていく。
「まさか――っ!」
ラーシャは慌てて己の頭上の地図を省みた。ディーダの示す場所から流れる川を辿り、険しいティファール山脈を抜けて、自分の指の指す場所に唖然とする。そこは数日前まで剣を振るっていた、
「ジルラニア平原……」
「……なるほどね。地形的に厳重な警備なんか置けそうにない場所だもの。平原を制覇した以上、今の奴らは少数精鋭ならいつでもディーダに侵略可能、ってこと」
「お、おい、ちょっと待てよ!」
ようやく事態を悟ったアルティオが慌てて立ち上がる。食い入るように地図を見つめ、
「エイロネイアっていうのは伝説だとか何だとか、戦争に利用してるわけだろ!? じゃあ、そのディーダってところも狙われて……!」
「……シェイリーンも気づいたのね、きっと。あくまで伝承の土地というだけだし、真偽は定かじゃないけれど、死人や獣なんて無茶な手で攻めて来る相手だもの。何をしでかすかわからないわね……」
そう言うシリアの頬にも、冷たい汗が滴っていた。ただの伝説とは言ったものの、神殿や魔性の地というものは、大抵は何かしがの理由があってそう呼ばれるもの。魔道に傾倒しているわけではないシリアには、推察することしか出来ないが、そういった場所には特殊な磁場や魔力が敷いてある場合があるらしい。
もし、連中が意地になって平原を攻めた理由が、そのディーダだとしたら――
「獣やら、死人やら、兵に使う国が何を企んでるか……。わかったものじゃあないわね」
「シェイリーン様は……そこに向かわれたというのか――っ!」
「……合流しよう、と言っているからにはそれほど無茶をするつもりはないのかもしれないけれど……」
「連中が来るかもしれない場所に行く、ってだけで十分無茶だろ!? 奴ら、何をしてくるかわかんねぇぞ!?」
ぎり――っ、とラーシャが奥歯を噛み締める。青くなっていたデルタが、はっと我に返って部屋を出て行った。おそらくはティルスとレスターを連れて来るつもりなのだろう。
ラーシャは唇を噛みながら二人に向き直る。そしていつかのように深々と頭を下げた。
「……すまない、お二人とも。どうかもう少しだけ、我々に力を貸して欲しい」
こん、こん。
……いつからそうしていただろうか。おそらく、夕刻に宿に着いてからずっとだった気がする。いつのまにか窓の外は闇に包まれていて、座り込んで硬くなった体が軋みと痛みをあげていた。
膝の間にうつ伏せていた頭を上げる。ずきずきと酷い頭痛がした。
ランプも灯していなかった部屋のドアが、もう一度、こんこんとやや控えめにノックされる。誰かはわかっている。旅の同行者なんて一人だけだからだ。けれど気力がついていかなくて、いまいちのろのろと身体を動かした。
「……何?」
「……お話があります」
ドアの向こうからしたのは件の少年の声で。理由はわからなかったが、何故か胸に落胆を覚えた。私は一体、何を期待したのだろう。
鍵を開けるとランプに火を灯したレアシスの白い顔が、暗闇の中に浮かび上がる。動かないその落ち着き払った表情が、今のカノンには能面のように見えた。
「話って、何? そんな気分じゃ……」
「……外に出ます。付いて来てください」
「外……? って、ち、ちょっと……」
一方的にそう告げると、少年は廊下を歩き出した。闇の中へ溶けそうになる少年の背へ、慌てて声をかける。立ち止まった少年は、溜め息を吐いて振り返った。
「貴方が村を出た本当の理由は何ですか?」
「え――?」
「……会いたい人が、いたんじゃあないですか?」
「!」
驚いた表紙に胸のベルがちりん、と鳴る。その音を知ってか知らずか、少年は再びきびすを返して言った。
「……会わせてあげますよ。会いたいのなら、付いて来なさい」
←17へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
目の前に広がった光景に、カノンはただ、ただ絶句するしかなかった。灰色に曇った空から、黒い灰が落ちて来ている。それはあの暗殺者が起こした山火事が、未だもって燻っているのを意味している。
焼き枯れた木。灰になった藁の屋根。崩れた煉瓦は元の綺麗な赤茶色ではなく、煤ぼけた黒になって転がっていて。辺りに漂う異臭は、やたらに酸いものと苦いものが混じっていて。カノンは袖口を噛みながら吐き気を堪えるのが精一杯だった。
昨日までそこは村だったはずだ。山中に位置する小さな村。小さな広場と放牧用の敷地があって、焼け爛れた柵が強い風にきいきいと耳障りな音を立てる。
昨日まで村だったはずのそこは、今はただの廃屋の群れだった。
「どうして……」
「……蛮族が出たようですね」
「……蛮族?」
呆然としながら、カノンの耳はかろうじてその単語を捕らえていた。少年は灰の降る残骸の山を、どこか冷めた目で見上げながら頷く。
「昨日の山火事で動揺があったんだと思います。近くの蛮族がそれを利用して攻め入ったんでしょう。大分、人為的に破壊された跡がありますし、金属が焼け残っていませんから。強奪があったんでしょうね」
「蛮族、って……」
「戦で何らかの理由で郷里に戻れなくなったり、隊を追われた人間が暴徒化した集団です。山賊も同然ですが、彼らの場合は戦に便乗して村や町を狙う方が多いようですね」
「……」
カノンは無言で首を振って灰の上を歩く。積もった灰に、やたらと虚しく足跡を残った。
「……?」
足元に頭だけが残った人形が転がっている。不自然に焼けこびりついた塊が、きっと直前までこの人形を抱いていた主のものなのだろう。ただそれも拾い上げた途端にぼろりと崩れて手の平から失くなってしまった。
――これも、やっぱり私のせいなの……?
「お言葉のようですが……。
この国ではそうそう珍しいことではありません。蛮族が村を襲うのも、戦が原因で村同士がいざこざが起こることだってあります。あまり気に病まれませんよう」
「……だったら、どうして」
手の中に残った一握りの灰を見つめながら、搾り出すように声を出す。あまりにやり切れない苦いものが、喉元まで込み上げていた。
「だったらどうして戦争を起こしてるの? どうしてやめようとしない?」
「……やめる理由が存在しないからです」
少年は壊れた瓦礫の下まで行くと、隙間から中を覗き込んだ。けれど、そこで見た光景はあまり良いものではなかったようで、眉を潜めながら力なく首を振る。
「この国が戦を始めた理由を知っていますか? ある男がある日、自分だけの国を造りました。元の国の人たちはそれを良く思いませんでした。また男の方も皆を嫌っていました。
いつか、お互いに殺してやろうと思っていました」
「……」
「その中の誰かが、ある日、国と国とを細い糸で結んでいた人を殺しました。皆ははれて、お互いを殺し合うことができるようになりました」
「……そんなの、ただの」
「ただの大義名分です。原因なんか何でも良かったんです。誰が殺したかとか、誰が死んだかとか、どうでも良かったんですよ。彼らはたとえ殺されたのが鳥一羽であっても理由に掲げて戦を起こしたでしょう」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとお思いですか? ええ、確かに馬鹿馬鹿しい。
しかし、それを大義名分に掲げてしまった以上、もう両国とも後には引けなくなっていたのです」
「……負けた方が、その大義名分の罪を被る、ってわけ……」
「それだけではありません。五十年続いた戦、その間に何人が何人を殺したか、戦によってどれほど国が財産を使い果たしたか。その不利益と罪すべてを被ることになります。
勝った国で一番人を殺した人は英雄となるでしょう。負けた国で一番人を殺した人は戦犯となって処刑されるでしょう。
両方とも、己が勝ち得るまで戦を終わらせる気などないのです。彼らはたとえこの国が焦土と成り果てても戦をやめようとはしませんよ」
「……」
カノンは吐き出しそうになる言葉をかろうじて飲み込んだ。五十年、五十年の年月をかけて一体何が欲しいのだろうか。領土か、栄光か、それとも満たされた支配欲か。それを手に入れて、辺りに広がるのがただの焦土であっても、その誰とも知らない新しい支配者は自分の国であると胸を張るのだろうか。
やられたからやり返した。勝った方が正義。そんな子供の喧嘩で、こんなことが許されてしまうのか。
「……違う」
「……」
「……そんなの間違ってる」
苦く吐き出した言葉には、言い様のない感情がすべて詰まっていた。少年は無言のまま、それを受け入れると、どこかあさってを振り返る。
「……生贄が」
「え?」
「生贄が、要るのです」
唐突に、脈絡のない言葉が少年の口が滑り落ちる。
「生贄……?」
「戦が起こった原因も、多くの血が流れた原因も。すべてを負い、人々の怒りの矛先となって、死ぬ。そんな生贄が必要なんです。そうでなければ、この戦は止まりません。古来から人に神と崇められる人物は、人々を支配する存在ではなく、人の創り上げた原罪を贖う生き物でした。
戦が求めるのは一人の英雄ではなく、一人の犠牲者なのです」
「……」
カノンは爪が食い入るほど拳を握って少年を見上げた。全身を覆う包帯と、半分しか露になっていない顔。元から痛々しくはあったが、その白く不自然な包帯が、何故か増して酷く辛そうに見えた。
「……そんなことをしたって、」
カノンが言いかけるより先に、少年がはっとしてこちらを振り返った。言葉を言い終えることなく、少年は彼女の腕を引いた。
ドスッ!!
「!」
たった今までカノンがいた場所に、深々と紫炎に包まれた矢が突き刺さる。戦慄して顔を上げると、さらに数本の矢は容赦なく眼前に迫っていた。
「っ!?」
「ちっ」
舌打ちと共に、少年がカノンを抱え上げて跳ぶ。空を裂いた紫の矢は、そのまま背後の瓦礫へ突き刺さり、黒ずんだ煉瓦にさらに痛々しい痕を残す。
瓦礫の上へ着地した少年は、静謐に眉を吊り上げて、矢の放たれた方向を見やる。
「……木偶がまあ、よくも追いかけてくるものですね」
「……」
少年の罵倒にも、暗殺者の女は口を開かずにただ睥睨した。女は無感情な目を細めると、ゆっくり構えていた弓を下ろす。
「ヴェッセルを、渡せ」
「!」
まただ。またあの単語。聞いた覚えのない、けれど記憶の琴線にも触れない。けれどそう言う彼女の目はしっかりとカノンを捕らえている。これから刈取る獲物を見下すように。少年がカノンを背に庇うように袖を広げる。
「くどい」
ほら、この少年も。訂正することも、疑問に思うこともなくただ撥ね付ける。ということは、この少年も知っているのだ。意味のわからぬ言葉が指す意味を。カノン自身のことを。何が起きているのかを。
「……なら、力づくで」
「……いい加減にしなさいよ」
女の無機質な言葉が止まる。ひくり、と初めて眉が震えた。
「大人しく聞いてれば勝手なことを次々と……! ヴェッセルって何? こんなにまでしてどうして私を付け狙う!?
どこの誰だか知らないけどね、こっちにも我慢の限度ってものがあるわ! 一体、どういうつもりよ!?」
「どういう……?」
「私一人狙うなら、こんな関係ない他人まで巻き込む必要ないでしょうっ!?」
「……?」
憤りの篭ったカノンの激昂に、しかし、女は極不思議そうに――演技でも、挑発でもなく、やたらとそこだけ人間じみた動作できょとん、と首を傾げた。
「どうせ、人間なんか、放って置いても、後から湧いてくる」
「な――っ!?」
「カノンさん!」
再び番えられた矢に、少年は慌ててカノンを抱え直す。飛び退いた瞬間に、また紫の光がその場を貫いて、なけなしの村の痕跡さえも打ち砕く。
「カノンさん、あまり無茶は――」
「っ!」
忠告を投げる少年を思わず睨み上げた。憤った言葉が口を吐く。
「……私だって、私だって……っ! 自分のせいでこんないくつもいくつも村が焼かれたり、他人を巻き込まれたりして、平気でいられるほど人間出来ちゃいないのよ! 気に病むな!? そんなことできるわけないでしょう!?」
「……」
腰に下げていた剣の柄が、握り締めた拳に当たる。記憶を失くす前の自分だったなら、自分の身も、二つの村も守れたのだろうか。翻弄されるだけの自分が悔しくてたまらない。こんなに情けなくて口惜しいのに、柄を握っても握っても、肝心な記憶は零れ落ちて来ない。
いっそ大人しく殺された方がマシだったのだろうか。いっそ――
ぱしんっ!
「――っ!」
「……逃げますよ」
握り締めていた拳を叩かれる。我に返ると同時に、身体が浮き上がる。背後をちらりと見た少年は、厳しい表情で彼女を抱えたまま走り出した。
「……あんたも」
「……」
「あんたも、やっぱり、何か知ってるのね」
「……申し訳ありません」
表情を動かさずに言ったその言葉は、知っていても話す気がないということを表していた。背後でまた瓦礫が崩れる音がする。少年の肩越しに、あの紫の光が煌くのがわかった。
……守られているカノンは弱者でしかない。どうあってもその口を割ることは出来ないと悟る。カノンには、凍りついた黒曜の瞳を睨み返すことしか出来なかった。
「シェイリーンから連絡があった、って本当?」
砦の会議室に着くなりそう切り出したシリアに、ラーシャは難しい顔で頷いた。喜ばしいことのはずなのに、その表情には深く眉間に皺が刻まれている。
「何かあったのか?」
首を傾げたアルティオが問う。ラーシャは会議室の椅子から立ち上がって、二人に掛けるよう薦めながら、デルタへ何かの指示を出す。
「連絡があったのは喜ばしいのだが……それが、」
「こちらです」
デルタが簡素な封書をテーブルの上に置く。シリアとアルティオは顔を見合わせて、手に取るのを躊躇った。仮にも国家元首が国の将に送った物だ。ある意味では公式文書である。しかし、ラーシャは右手を翳して見るように薦めてくる。シリアは形の良い唇を歪めてから手を伸ばした。
真っ白な、封印もされていない封筒にただの紙。金印も、紋章さえもないが、裏に押された親指の血印が、本人からのものだと示している。一枚しかない便箋をめくって、覗き込んだシリアとアルティオは、そこに書かれていた文章に目を剥いた。
『ラーシャへ
私たちはディーダへ向かいます。そちらで合流しましょう。
シェイリーン』
「な、これ、ル……!」
がつっ!
「――っ!」
「る?」
「いいえ、何でもないわ」
口に出しかけたアルティオの足を、シリアはテーブルの下で思い切り踏みつけた。
『――何すんだよっ?』
『お馬鹿。詳しい状況もわからないのに、ぽこぽこ情報を口にするんじゃないのっ』
小声で文句を垂れるアルティオに、やはり小声で返してから、シリアはもう一度便箋を凝視する。ディーダ。ルナが示してきた場所と同じ場所。単なる偶然なのだろうか。それとも、ここに本当に重要な何かがあると言うのか――
「これは一体、どういうこと?」
「……」
問うとラーシャとデルタはお互いに顔を見合わせる。表情は怪訝そうで、どうにもこの一文を理解しているようには見えなかった。
「昨夜、密偵を通じて届けられた。ディーダというのは――」
「知っているわ。シンシア領にある神殿の名前でしょ?」
「ああ、そうだ。シェイリーン様はそこに向かわれているらしい。だが、どのような意図があるのかは私にも……」
なるほど、何となく、彼女が自分たちを呼んだ理由が理解できた。シリアはルナからシンシアの神話や伝承についての知識を預けられている。そしてディーダというのはシンシア、いや、ゼルゼイルにおいて最も価値のある文化遺産でもある。おそらくシリアなら、シェイリーンがディーダに向かった理由に心当たりがあるかもしれないと踏んだのだろう。
だが、シリアは力なく首を振った。
「……残念だけど。私にもよくはわからないわ。ルナから聞いてはいたけれど、ここの研究者が知っている以上のことは……。
ルナだったら、何か掴んでても不思議じゃあないけれど」
「そうか……」
「別にそこで合流しよう、ってだけじゃないのか?」
「お馬鹿」
シリアの拳がアルティオの脳天を直撃する。致命的な破壊力こそないものの、地味な痛みは感じているようで、アルティオは後頭部を抑えてテーブルへ突っ伏した。
「お前、最近暴力的だぞ!?」
「いつも加減の知らないカノンの殴りやら蹴りやら受けてるくせに、何言ってるのよ」
「愛があれば何だって耐えられる!」
「あの……」
脂汗を浮かべたラーシャが、顔を引きつらせた。さすがに居住まいを正したアルティオの足を、シリアはもう一度踏みつけてから、
「つまり、よ。合流するだけならこの砦とか、他の目立たない場所で十分だし、もっと早く合流できるじゃない? 神殿に行く目的があるにしても、ラーシャと合流してからの方が安全だもの。暗殺騒ぎがあったばかりなんでしょう?
どこから狙われているかわからないのに、人里離れた神殿を目指すなんて自殺行為だわ」
「ディーダへ向かう道はけして整備されているとは言い難い。野宿も必要になる場所だ。狙われる危険性も高くなる。
何故、ご自身でそのような場所に……」
「あのお嬢様、随分と正義感が強かったからね。自分で伝承を調べようと思ったのか、あるいは……」
シリアはふと言葉を止める。会議室の正面に下がった。ゼルゼイルの地図に目を留めて、無意識にディーダの位置を探し、頭の中でシンシアの帝都を置いて、ジルラニア平原を振り返り――
違和感があった。
――え?
思わず頭の中が白くなった。
――ちょっと、まさか……。
嫌な汗が背中から噴き出した。
「……ラーシャ」
「?」
「この……ディーダに向かう山脈、っていうのは、兵士が配備されていたりするのかしら?」
「ティファール山脈か? いや、小さな関所や拠点はあるが……何分、広く険しい山脈だ。すべてを管理するというのは――」
そこまで口にして、ラーシャもその事実に気がついたらしい。健康的な顔色から血の気がだんだんと引いていく。
「まさか――っ!」
ラーシャは慌てて己の頭上の地図を省みた。ディーダの示す場所から流れる川を辿り、険しいティファール山脈を抜けて、自分の指の指す場所に唖然とする。そこは数日前まで剣を振るっていた、
「ジルラニア平原……」
「……なるほどね。地形的に厳重な警備なんか置けそうにない場所だもの。平原を制覇した以上、今の奴らは少数精鋭ならいつでもディーダに侵略可能、ってこと」
「お、おい、ちょっと待てよ!」
ようやく事態を悟ったアルティオが慌てて立ち上がる。食い入るように地図を見つめ、
「エイロネイアっていうのは伝説だとか何だとか、戦争に利用してるわけだろ!? じゃあ、そのディーダってところも狙われて……!」
「……シェイリーンも気づいたのね、きっと。あくまで伝承の土地というだけだし、真偽は定かじゃないけれど、死人や獣なんて無茶な手で攻めて来る相手だもの。何をしでかすかわからないわね……」
そう言うシリアの頬にも、冷たい汗が滴っていた。ただの伝説とは言ったものの、神殿や魔性の地というものは、大抵は何かしがの理由があってそう呼ばれるもの。魔道に傾倒しているわけではないシリアには、推察することしか出来ないが、そういった場所には特殊な磁場や魔力が敷いてある場合があるらしい。
もし、連中が意地になって平原を攻めた理由が、そのディーダだとしたら――
「獣やら、死人やら、兵に使う国が何を企んでるか……。わかったものじゃあないわね」
「シェイリーン様は……そこに向かわれたというのか――っ!」
「……合流しよう、と言っているからにはそれほど無茶をするつもりはないのかもしれないけれど……」
「連中が来るかもしれない場所に行く、ってだけで十分無茶だろ!? 奴ら、何をしてくるかわかんねぇぞ!?」
ぎり――っ、とラーシャが奥歯を噛み締める。青くなっていたデルタが、はっと我に返って部屋を出て行った。おそらくはティルスとレスターを連れて来るつもりなのだろう。
ラーシャは唇を噛みながら二人に向き直る。そしていつかのように深々と頭を下げた。
「……すまない、お二人とも。どうかもう少しだけ、我々に力を貸して欲しい」
こん、こん。
……いつからそうしていただろうか。おそらく、夕刻に宿に着いてからずっとだった気がする。いつのまにか窓の外は闇に包まれていて、座り込んで硬くなった体が軋みと痛みをあげていた。
膝の間にうつ伏せていた頭を上げる。ずきずきと酷い頭痛がした。
ランプも灯していなかった部屋のドアが、もう一度、こんこんとやや控えめにノックされる。誰かはわかっている。旅の同行者なんて一人だけだからだ。けれど気力がついていかなくて、いまいちのろのろと身体を動かした。
「……何?」
「……お話があります」
ドアの向こうからしたのは件の少年の声で。理由はわからなかったが、何故か胸に落胆を覚えた。私は一体、何を期待したのだろう。
鍵を開けるとランプに火を灯したレアシスの白い顔が、暗闇の中に浮かび上がる。動かないその落ち着き払った表情が、今のカノンには能面のように見えた。
「話って、何? そんな気分じゃ……」
「……外に出ます。付いて来てください」
「外……? って、ち、ちょっと……」
一方的にそう告げると、少年は廊下を歩き出した。闇の中へ溶けそうになる少年の背へ、慌てて声をかける。立ち止まった少年は、溜め息を吐いて振り返った。
「貴方が村を出た本当の理由は何ですか?」
「え――?」
「……会いたい人が、いたんじゃあないですか?」
「!」
驚いた表紙に胸のベルがちりん、と鳴る。その音を知ってか知らずか、少年は再びきびすを返して言った。
「……会わせてあげますよ。会いたいのなら、付いて来なさい」
←17へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「本っ当に何も知らないの?」
「何のことですか?」
眉間に皺を寄せて、今日、何度目かのやり取りがされる。夜が明けるのを待って街道に戻り、元の山道を歩き出して数刻。ゆるやかな山道に日は大分高く上がっていて、両足にも程ほどの疲れが溜まり始めた頃だ。
それでも前を歩く少年は、やはり汗一つ開かずに飄々と歩いている。きっと歩幅もこちらに合わせてくれているのだろう。数時間前とまったく変わらない返答に、カノンは腕を組んで唸る。
「……疑り深いですね」
「だってあんたを雇うまで、あんな無茶苦茶な手は使って来なかったもの」
村を出たのは三日前。それまで昨夜のような過激な襲撃などなかった。彼を雇っていなかったら、昨夜の時点で死んでいただろう。けれど彼が護衛として着いたその日に、襲撃が激化したことも事実である。多少の疑いは持っても仕方ないだろう。
――まあ、単純に偶然、追いつかれたのが昨日だった、っていう可能性も強いけど……。
「でも、相手はプロじゃなさそうですね」
「え?」
不意に少年が吐いた言葉に顔を上げる。
「どういうこと?」
「暗殺者[アサシン]は外部者の介入を好みません。顔を見られるのもね。いろいろと彼らにとっては不都合ですから。
つまり、プロの暗殺者[アサシン]だったら、他の人間が泊まっている宿屋で、あんな大規模な騒ぎを起こす、なんて真似はするはずないんですよ」
「プロじゃない、って……じゃあ、普通の傭兵か何か、ってこと?」
「もしくは何かの思惑があってのことか、さもなくば――」
少年は言葉を切って、顎に手を置いた。
「……カノンさん。村を出て来るときに、火事になったと仰いましたね?」
「う、うん……運良く私のいた家は村の外の方だったけど……」
「……」
少年の眉が険しく潜められる。口の中の苦いものを舐め取るように、一度唇を湿らせてから、
「あまり想像したくはないですが……。その火事は何が原因でしたか?」
「……わからない。今はもっと調べられてるあもしれないけど、少なくとも私が出て来たときは出火元不明だったわ」
少年の表情が険しい。カノンがふるふると首を振る動作にも、力はなかった。嫌な想像だけが膨らんでいく。
「まさか、貴方を焼き殺すために村ごと焼き払った、なんてことは――」
「まさか……っ! いくら何でもそんなの無茶苦茶すぎるわよっ!?」
直接的に口にした少年に、カノンは冷たい汗と共に言い返す。まさか、いくら何でも無茶苦茶だ。一人殺すために村一つ犠牲にするなんて、そんな人間がいてたまるものか。だが少年は無情にもゆっくりと首を振る。
「カノンさん、貴方がどんな理由で狙われているのかわからない以上、すべてのことに否定は出来ません。貴方一人を村からいぶり出すため……とも考えましたが、その後の行動にしても無茶苦茶です。いぶり出したとして、そのことに大した意味を感じない。説明が付きません。
それに、カノンさん。厳しいことを言うようですが、貴方だってその可能性を感じたからこそ、ご自分から村を出られたのではないのですか?」
「……」
その言葉に息を詰まらせる。そうだ、考えなかったわけじゃない。
己の記憶を追って、あの紅髪の戦士がいるかもしれない戦場へ向かおう、と思ったのも嘘ではない。けれどもう一つ。
あの業炎の中で明確に向けられた弓矢の殺意。あの禍々しい紫の光を見た瞬間に思ったのだ。
この火事は、もしかしたら、自分がここにいるがために起きたのではないか、と。
それまであの村は平和だったのだ。戦火からも遠く、皆、細々とだけどもひっそりと生きていた。だからこそ昔のアレイアとフィーナもあの村に逃げ込んだのだろう。アレイアも言っていたじゃないか。ただ一度、それ以来、一人も兵士など来ていないと。
それが、カノンの周囲に妙な影が付き纏い始め、そのあかつきに村が燃えた。その炎の中で、正体のわからぬ暗殺者が現れ、そして、
「八咫烏の紋……っ!」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
アレイアの焦燥に塗れた声が蘇る。
……自分を中心にして何かが起こっているのだと悟った。けれど認めたくなくて、逃げたのだ。そうなれば、束の間ではあったけれど健やかに過ごしたあの村を、崩壊に導いたのは他ならぬ自分になってしまう。そんな理不尽な。自分が何者かもわからないのに。
「私……」
誰に責められたわけでもない。けれど、胸にのしかかったあまりに一方的な重責が、苦くて堪らない。伺うように少年を見ると、彼は肩を竦ませて溜め息を吐いた。
「僕を巻き込んだことならお気にせずに。乗りかかった船、と言いますし、それに……」
少年の声が途切れた。一足遅れてカノンも気づく。風の流れが変わった。
一瞬、あの暗殺者かとも思った。けれど違う。はるかに粗雑で荒々しい気配が複数。少年がまたか、と言うように表情を歪める。
「まったく、空気の読めない方々ですね」
まるでその一言が号令にでもなったかのように、街道脇の茂みから木々の裏からわらわらと、昨日と同じような集団が湧いてくる。
「おう、兄ちゃん。女連れたあ、随分いいご身分じゃねぇか。ああ?」
少年は、今度は取り合う気がないようだった。ふう、と呆れたように一つ息を吐き出すと、すぐに手の平を返す。握られていたのは件の黒槍。無言のままにそれを構えて、
「……!」
ひやり、とカノンの背筋に恐ろしく冷たい汗が流れた。それは気のせいではなかったらしい。呆れた顔で槍を構えていた少年の表情がわずかに動き、槍の先へ敵意が篭る。かしゃん、と鋭利な切っ先が、図々しく街道を塞ぐ男たちとは別の方向へ向けられた。
「何だぁ? てめぇ、どこ見て……」
少年の槍の先――自分たちの背後に視線を移動させた男たちは、そのままぽかんと口を開く。男たちの山が裂けて、垣間見えた向こう側に、カノンは手の中の荷を抱きしめて、冷たい息を呑んだ。
桃色の髪、氷の瞳。大男たちの向こう側に、音もなく静かに佇んでいた彼女は、手前に位置する男たちよりも遥かに背など小さくて。けれど、冷えた瞳が撒き散らす、底の知れない威圧感はカノンの身体を容易く硬直させた。
「……なるほど。確かに"人形"だ……」
横で極小さな声で少年は呟いた。心なしか口調が凍っていた。
「何だぁ、姉ちゃん。こいつらの仲間か?」
粗暴な男の声に、しかし、女はちらりとも振り返ろうとはしなかった。視線は男たちを見ていない。見ているのはただ少年の向ける槍先とカノンの姿だけだった。
「何故、貴様が――」
「……?」
カノンは女の声を初めて聞いた。けれどその声は自分に向けられたものではなかった気がする。反射的に少年を見上げると、彼は片方だけの眉をゆっくりと細めて、何故か場にそぐわない微笑を作った。
ぞくっ――
まただ。少年が笑みを作るたびに、得体の知れない寒気が背筋を襲う。
「悲しいですね。貴方とは相容れない。それだけの話です」
「……ヴェッセルを渡せ」
「お断りします」
――ヴェッセル……?
「お、おい、てめぇら!」
女の吐き出した意味のわからない言葉に、カノンが思考に沈むより先に、賊たちの先頭に立っていた男が慌てて三日月刀を振り上げる。
「甘い顔してりゃあごちゃごちゃとわけのわからねぇことを……! 俺たちを無視してんじゃねぇ!」
「……?」
女が初めて存在に気づいたように、喚き散らす男を不思議そうに見上げた。やはり顔に表情と呼べるものは浮かばないまま、
「……お前も、ヴェッセルを、狙っているのか?」
「ああ? べ……? 何だか知らねぇが、どうせお前らまとめて俺たちに食われるんだよ」
「……そうか」
こくり、と不自然なまでにあっさりと頷いてみせる女。少年の眉がひくり、と動く。そして彼女は手にした弓を持ち上げて、表情のないまま無機質に言い放った。
「……なら、死ね」
鈍い、音がした。
「――っ!?」
「っ!」
全身の血が引くと同時に、カノンの視界を少年の黒い袖が覆い隠した。遮られた視界の向こうで、ごろり、という簡素で不気味な音がする。続けてどさり、という何か重たいものが落ちる音。
沈黙は一瞬だった。
「……う、うわあああああああっ!」
誰かの悲鳴を皮切りに、一気に混乱がその場に広がった。悲鳴とどたばたとした統率のない足音が重なる。
カノンは込み上げる吐き気に、口元を抑えて、笑い出す膝を必死になって堪えていた。座り込みそうになる身体を叱咤して耐える。
少年が視界を遮る直前、見えてしまった。女が無造作に弓を振り上げ、走った弦が男の首にかかるのを。きっと男の方も何が起きたのかわかっていないまま、首から血を噴いて、そして、
「っ!」
「逃げますよ」
また突然の浮遊感。カノンを抱き上げた少年は、有無を言わせずに跳躍し、また何かの呪文を口にする。そして、一際高く跳び上がり、その瞬間、
何の変哲もない街道は、一瞬にして朱の光に包まれた。
「……」
呪で滞空する少年に抱えられながら、カノンは言葉なく眼下を見下ろした。
つい先程まで歩いていた、周囲を森に囲まれた街道。それが、何だか見たことのある朱に光っている。轟々と猛る焔の舌が、侵食するように火の粉を撒き散らしている。人影と思えるものは既になく、きな臭い匂いの中に、鼻が曲がるような異臭が混じって漂っていた。
「これ、は……」
「……」
カノンの掠れた声に、少年はこ答えなかった。周りを覆う木々に炎は燃え盛り、その舌を伸ばしていく。
「……山の火は拡大が速い。このまま麓まで行きましょう。しっかり掴まっていてください」
「……」
淡々とした声で少年が言う。だがカノンには半分も聞こえていなかった。
黒の衣の向こうに垣間見えた。生々しい光景が目蓋の裏にちらつく。指先が急に血の気を失って冷えていった。冷たい指で自分の首に触れて、ただ吐き気を耐え続ける。
「……」
頭の上で少年が溜め息を吐く。ゆっくりと耳元で風が動いて、少年の足が空を駆け出して。
カノンが我に返る頃にはもう、小さく炎と黒煙が、遠くに見えているだけだった。
だだだだだっ! ばたんっ!
「おい、シ……っ!」
がっす!
「……レディのいる部屋ではノックをなさいと、何回目だったかしら?」
「……スンマセン」
ドアを開いた先で、いつかのようにアルティオの頭に間髪入れず辞書の角が突き刺さった。投じた本人は、椅子の上で腕を組みながら、床に沈むアルティオを見やって鼻を鳴らす。
「何だかデジャヴを感じるけど。今度は何事よ?」
「大変なんだよ! とにかく大変、つーかどーするべきか、つーか……」
「人間の言葉を喋りなさいな。大変て何が?」
「これだ、これ!」
「……?」
あまり舌も回らないまま一気に喋ると、アルティオは小さな紙切れを一枚差し出した。シリアはそれを不機嫌に覗き込み、思い切り顔をしかめさせた。折り畳まれた羊皮紙には、確かに見覚えのある筆跡で、
『ディーダに向かう。心配するな。 Luna』
ごす!
「……何考えてるのかしら、あの子」
「……いや、とりあえずそこで苛ついたからって、八つ当たりに俺を殴るのはどうかと思うぞ?」
「カノンの拳よりは加減してるでしょ。それよりこれはどうしたのよ?」
再び床に叩きつけられて、赤くなった鼻を押さえながらアルティオは身を起こす。弱ったように肩を竦めながら、
「いやさ……。今朝方、気がついたら俺んとこに届いてたんだよ。ぺらって。あいつのことだから、何かの手を使って届けたんだろうけど……。
何で直接来ないんだろうな」
「馬鹿ね。あの娘だって、自分の置かれた立場くらい想像できるでしょう? 誰が好き好んで自分を反逆者だと思ってる国の砦に近づくのよ」
シリアは息を吐いてもう一度紙切れを見下ろした。ディーダ。神羅[ディーダ]。そう、確かルナが行方不明になる前に渡されていた資料の中にあった。ゼルゼイルの北西に位置する神殿。心を司る神、護を重んじる鬼が眠る室[むろ]の名前だ。人の感情に呼応すると言われる、ゼルゼイルという閉ざされた地に自らを封じた神。
――何でいきなりそんなところに……。
確かに彼女はシンシアの領内に眠る伝承を調べていた。だが、状況が一変した今、それを続ける意味は何なのだろうか。そして、こっそりと自分たちにこれを届けたのには、何かの思惑があってのことなのか――。
「どうするんだ?」
「どうする、と言われてもね……」
シリアはこめかみを抑えて頭を回す。居場所がわかったのはいいことなのだろう。しかし、だからといって彼女を取り巻く状況が変わったわけではない。無闇に会いに行けば、シリアやアルティオまで反逆の汚名を着させられる可能性もある。
だが、彼女の今の状態がわからないのも確か。シリアの目から見て、今の彼女はこの上なく危険だ。彼女はきっと自分の身を守ろうとか、生き残ろうとか、まるで考えちゃいない。女は好きになった男のためなら、割と何でもしでかしてしまう。いい意味でも、悪い意味でも。
――……どうしたものかしらね。
こんこんっ
「はい?」
シリアが考えあぐねていると、やや控えめに部屋のドアが鳴った。
「失礼します」
アルティオとは真逆に、至極丁寧な所作と言動でドアを開けたのはデルタだった。平原を後にして、それから一向に晴れない表情は、今日も今一つ曇っている。
「デルタ、何か用かしら?」
「ええ、それが……。ラーシャ様がお二人にもご相談したい、と」
「相談?」
「実は……」
デルタは少し迷ったように言葉を切った。しばらく考えてから二人に近づいて、やや声を落としながら、
「――シェイリーン様から、ご連絡がありました」
←16へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「何のことですか?」
眉間に皺を寄せて、今日、何度目かのやり取りがされる。夜が明けるのを待って街道に戻り、元の山道を歩き出して数刻。ゆるやかな山道に日は大分高く上がっていて、両足にも程ほどの疲れが溜まり始めた頃だ。
それでも前を歩く少年は、やはり汗一つ開かずに飄々と歩いている。きっと歩幅もこちらに合わせてくれているのだろう。数時間前とまったく変わらない返答に、カノンは腕を組んで唸る。
「……疑り深いですね」
「だってあんたを雇うまで、あんな無茶苦茶な手は使って来なかったもの」
村を出たのは三日前。それまで昨夜のような過激な襲撃などなかった。彼を雇っていなかったら、昨夜の時点で死んでいただろう。けれど彼が護衛として着いたその日に、襲撃が激化したことも事実である。多少の疑いは持っても仕方ないだろう。
――まあ、単純に偶然、追いつかれたのが昨日だった、っていう可能性も強いけど……。
「でも、相手はプロじゃなさそうですね」
「え?」
不意に少年が吐いた言葉に顔を上げる。
「どういうこと?」
「暗殺者[アサシン]は外部者の介入を好みません。顔を見られるのもね。いろいろと彼らにとっては不都合ですから。
つまり、プロの暗殺者[アサシン]だったら、他の人間が泊まっている宿屋で、あんな大規模な騒ぎを起こす、なんて真似はするはずないんですよ」
「プロじゃない、って……じゃあ、普通の傭兵か何か、ってこと?」
「もしくは何かの思惑があってのことか、さもなくば――」
少年は言葉を切って、顎に手を置いた。
「……カノンさん。村を出て来るときに、火事になったと仰いましたね?」
「う、うん……運良く私のいた家は村の外の方だったけど……」
「……」
少年の眉が険しく潜められる。口の中の苦いものを舐め取るように、一度唇を湿らせてから、
「あまり想像したくはないですが……。その火事は何が原因でしたか?」
「……わからない。今はもっと調べられてるあもしれないけど、少なくとも私が出て来たときは出火元不明だったわ」
少年の表情が険しい。カノンがふるふると首を振る動作にも、力はなかった。嫌な想像だけが膨らんでいく。
「まさか、貴方を焼き殺すために村ごと焼き払った、なんてことは――」
「まさか……っ! いくら何でもそんなの無茶苦茶すぎるわよっ!?」
直接的に口にした少年に、カノンは冷たい汗と共に言い返す。まさか、いくら何でも無茶苦茶だ。一人殺すために村一つ犠牲にするなんて、そんな人間がいてたまるものか。だが少年は無情にもゆっくりと首を振る。
「カノンさん、貴方がどんな理由で狙われているのかわからない以上、すべてのことに否定は出来ません。貴方一人を村からいぶり出すため……とも考えましたが、その後の行動にしても無茶苦茶です。いぶり出したとして、そのことに大した意味を感じない。説明が付きません。
それに、カノンさん。厳しいことを言うようですが、貴方だってその可能性を感じたからこそ、ご自分から村を出られたのではないのですか?」
「……」
その言葉に息を詰まらせる。そうだ、考えなかったわけじゃない。
己の記憶を追って、あの紅髪の戦士がいるかもしれない戦場へ向かおう、と思ったのも嘘ではない。けれどもう一つ。
あの業炎の中で明確に向けられた弓矢の殺意。あの禍々しい紫の光を見た瞬間に思ったのだ。
この火事は、もしかしたら、自分がここにいるがために起きたのではないか、と。
それまであの村は平和だったのだ。戦火からも遠く、皆、細々とだけどもひっそりと生きていた。だからこそ昔のアレイアとフィーナもあの村に逃げ込んだのだろう。アレイアも言っていたじゃないか。ただ一度、それ以来、一人も兵士など来ていないと。
それが、カノンの周囲に妙な影が付き纏い始め、そのあかつきに村が燃えた。その炎の中で、正体のわからぬ暗殺者が現れ、そして、
「八咫烏の紋……っ!」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
アレイアの焦燥に塗れた声が蘇る。
……自分を中心にして何かが起こっているのだと悟った。けれど認めたくなくて、逃げたのだ。そうなれば、束の間ではあったけれど健やかに過ごしたあの村を、崩壊に導いたのは他ならぬ自分になってしまう。そんな理不尽な。自分が何者かもわからないのに。
「私……」
誰に責められたわけでもない。けれど、胸にのしかかったあまりに一方的な重責が、苦くて堪らない。伺うように少年を見ると、彼は肩を竦ませて溜め息を吐いた。
「僕を巻き込んだことならお気にせずに。乗りかかった船、と言いますし、それに……」
少年の声が途切れた。一足遅れてカノンも気づく。風の流れが変わった。
一瞬、あの暗殺者かとも思った。けれど違う。はるかに粗雑で荒々しい気配が複数。少年がまたか、と言うように表情を歪める。
「まったく、空気の読めない方々ですね」
まるでその一言が号令にでもなったかのように、街道脇の茂みから木々の裏からわらわらと、昨日と同じような集団が湧いてくる。
「おう、兄ちゃん。女連れたあ、随分いいご身分じゃねぇか。ああ?」
少年は、今度は取り合う気がないようだった。ふう、と呆れたように一つ息を吐き出すと、すぐに手の平を返す。握られていたのは件の黒槍。無言のままにそれを構えて、
「……!」
ひやり、とカノンの背筋に恐ろしく冷たい汗が流れた。それは気のせいではなかったらしい。呆れた顔で槍を構えていた少年の表情がわずかに動き、槍の先へ敵意が篭る。かしゃん、と鋭利な切っ先が、図々しく街道を塞ぐ男たちとは別の方向へ向けられた。
「何だぁ? てめぇ、どこ見て……」
少年の槍の先――自分たちの背後に視線を移動させた男たちは、そのままぽかんと口を開く。男たちの山が裂けて、垣間見えた向こう側に、カノンは手の中の荷を抱きしめて、冷たい息を呑んだ。
桃色の髪、氷の瞳。大男たちの向こう側に、音もなく静かに佇んでいた彼女は、手前に位置する男たちよりも遥かに背など小さくて。けれど、冷えた瞳が撒き散らす、底の知れない威圧感はカノンの身体を容易く硬直させた。
「……なるほど。確かに"人形"だ……」
横で極小さな声で少年は呟いた。心なしか口調が凍っていた。
「何だぁ、姉ちゃん。こいつらの仲間か?」
粗暴な男の声に、しかし、女はちらりとも振り返ろうとはしなかった。視線は男たちを見ていない。見ているのはただ少年の向ける槍先とカノンの姿だけだった。
「何故、貴様が――」
「……?」
カノンは女の声を初めて聞いた。けれどその声は自分に向けられたものではなかった気がする。反射的に少年を見上げると、彼は片方だけの眉をゆっくりと細めて、何故か場にそぐわない微笑を作った。
ぞくっ――
まただ。少年が笑みを作るたびに、得体の知れない寒気が背筋を襲う。
「悲しいですね。貴方とは相容れない。それだけの話です」
「……ヴェッセルを渡せ」
「お断りします」
――ヴェッセル……?
「お、おい、てめぇら!」
女の吐き出した意味のわからない言葉に、カノンが思考に沈むより先に、賊たちの先頭に立っていた男が慌てて三日月刀を振り上げる。
「甘い顔してりゃあごちゃごちゃとわけのわからねぇことを……! 俺たちを無視してんじゃねぇ!」
「……?」
女が初めて存在に気づいたように、喚き散らす男を不思議そうに見上げた。やはり顔に表情と呼べるものは浮かばないまま、
「……お前も、ヴェッセルを、狙っているのか?」
「ああ? べ……? 何だか知らねぇが、どうせお前らまとめて俺たちに食われるんだよ」
「……そうか」
こくり、と不自然なまでにあっさりと頷いてみせる女。少年の眉がひくり、と動く。そして彼女は手にした弓を持ち上げて、表情のないまま無機質に言い放った。
「……なら、死ね」
鈍い、音がした。
「――っ!?」
「っ!」
全身の血が引くと同時に、カノンの視界を少年の黒い袖が覆い隠した。遮られた視界の向こうで、ごろり、という簡素で不気味な音がする。続けてどさり、という何か重たいものが落ちる音。
沈黙は一瞬だった。
「……う、うわあああああああっ!」
誰かの悲鳴を皮切りに、一気に混乱がその場に広がった。悲鳴とどたばたとした統率のない足音が重なる。
カノンは込み上げる吐き気に、口元を抑えて、笑い出す膝を必死になって堪えていた。座り込みそうになる身体を叱咤して耐える。
少年が視界を遮る直前、見えてしまった。女が無造作に弓を振り上げ、走った弦が男の首にかかるのを。きっと男の方も何が起きたのかわかっていないまま、首から血を噴いて、そして、
「っ!」
「逃げますよ」
また突然の浮遊感。カノンを抱き上げた少年は、有無を言わせずに跳躍し、また何かの呪文を口にする。そして、一際高く跳び上がり、その瞬間、
何の変哲もない街道は、一瞬にして朱の光に包まれた。
「……」
呪で滞空する少年に抱えられながら、カノンは言葉なく眼下を見下ろした。
つい先程まで歩いていた、周囲を森に囲まれた街道。それが、何だか見たことのある朱に光っている。轟々と猛る焔の舌が、侵食するように火の粉を撒き散らしている。人影と思えるものは既になく、きな臭い匂いの中に、鼻が曲がるような異臭が混じって漂っていた。
「これ、は……」
「……」
カノンの掠れた声に、少年はこ答えなかった。周りを覆う木々に炎は燃え盛り、その舌を伸ばしていく。
「……山の火は拡大が速い。このまま麓まで行きましょう。しっかり掴まっていてください」
「……」
淡々とした声で少年が言う。だがカノンには半分も聞こえていなかった。
黒の衣の向こうに垣間見えた。生々しい光景が目蓋の裏にちらつく。指先が急に血の気を失って冷えていった。冷たい指で自分の首に触れて、ただ吐き気を耐え続ける。
「……」
頭の上で少年が溜め息を吐く。ゆっくりと耳元で風が動いて、少年の足が空を駆け出して。
カノンが我に返る頃にはもう、小さく炎と黒煙が、遠くに見えているだけだった。
だだだだだっ! ばたんっ!
「おい、シ……っ!」
がっす!
「……レディのいる部屋ではノックをなさいと、何回目だったかしら?」
「……スンマセン」
ドアを開いた先で、いつかのようにアルティオの頭に間髪入れず辞書の角が突き刺さった。投じた本人は、椅子の上で腕を組みながら、床に沈むアルティオを見やって鼻を鳴らす。
「何だかデジャヴを感じるけど。今度は何事よ?」
「大変なんだよ! とにかく大変、つーかどーするべきか、つーか……」
「人間の言葉を喋りなさいな。大変て何が?」
「これだ、これ!」
「……?」
あまり舌も回らないまま一気に喋ると、アルティオは小さな紙切れを一枚差し出した。シリアはそれを不機嫌に覗き込み、思い切り顔をしかめさせた。折り畳まれた羊皮紙には、確かに見覚えのある筆跡で、
『ディーダに向かう。心配するな。 Luna』
ごす!
「……何考えてるのかしら、あの子」
「……いや、とりあえずそこで苛ついたからって、八つ当たりに俺を殴るのはどうかと思うぞ?」
「カノンの拳よりは加減してるでしょ。それよりこれはどうしたのよ?」
再び床に叩きつけられて、赤くなった鼻を押さえながらアルティオは身を起こす。弱ったように肩を竦めながら、
「いやさ……。今朝方、気がついたら俺んとこに届いてたんだよ。ぺらって。あいつのことだから、何かの手を使って届けたんだろうけど……。
何で直接来ないんだろうな」
「馬鹿ね。あの娘だって、自分の置かれた立場くらい想像できるでしょう? 誰が好き好んで自分を反逆者だと思ってる国の砦に近づくのよ」
シリアは息を吐いてもう一度紙切れを見下ろした。ディーダ。神羅[ディーダ]。そう、確かルナが行方不明になる前に渡されていた資料の中にあった。ゼルゼイルの北西に位置する神殿。心を司る神、護を重んじる鬼が眠る室[むろ]の名前だ。人の感情に呼応すると言われる、ゼルゼイルという閉ざされた地に自らを封じた神。
――何でいきなりそんなところに……。
確かに彼女はシンシアの領内に眠る伝承を調べていた。だが、状況が一変した今、それを続ける意味は何なのだろうか。そして、こっそりと自分たちにこれを届けたのには、何かの思惑があってのことなのか――。
「どうするんだ?」
「どうする、と言われてもね……」
シリアはこめかみを抑えて頭を回す。居場所がわかったのはいいことなのだろう。しかし、だからといって彼女を取り巻く状況が変わったわけではない。無闇に会いに行けば、シリアやアルティオまで反逆の汚名を着させられる可能性もある。
だが、彼女の今の状態がわからないのも確か。シリアの目から見て、今の彼女はこの上なく危険だ。彼女はきっと自分の身を守ろうとか、生き残ろうとか、まるで考えちゃいない。女は好きになった男のためなら、割と何でもしでかしてしまう。いい意味でも、悪い意味でも。
――……どうしたものかしらね。
こんこんっ
「はい?」
シリアが考えあぐねていると、やや控えめに部屋のドアが鳴った。
「失礼します」
アルティオとは真逆に、至極丁寧な所作と言動でドアを開けたのはデルタだった。平原を後にして、それから一向に晴れない表情は、今日も今一つ曇っている。
「デルタ、何か用かしら?」
「ええ、それが……。ラーシャ様がお二人にもご相談したい、と」
「相談?」
「実は……」
デルタは少し迷ったように言葉を切った。しばらく考えてから二人に近づいて、やや声を落としながら、
「――シェイリーン様から、ご連絡がありました」
←16へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「レスター! 無事だったか!」
「姐さんっ! みんな無事っすか!?」
少し詰まった声でラーシャが歓喜と安堵が交じり合った声をあげた。領内の砦まで退いたシンシア軍は、しんがりを勤めていたレスターの小部隊になけなしの士気を取り戻す。
「シリア殿、アルティオ殿もよくぞご無事で……!」
「おっほっほ、この至高の美しさを誇る私があんな奴らにどうこうなると思って!?」
「当たり前よ! 俺には幸運の女神がついてるからな! ……と言いつつ今回ばかりはさすがの俺も死ぬかと思ったぜ」
おどけながらアルティオは肩を竦めてみせた。デルタはやや呆れたような目を向けたが、ラーシャはほんの少し力が抜けたように安堵の息を吐く。
「ライアント大尉、隊の損害は?」
「ああ……こいつらのおかげで全員生きてるぜ。みんな軽傷は負ってるが、まあ、俺の隊は頑丈なのがウリだからな」
「……そうですか。何よりです」
そう言いながらティルスの声色はどこか硬かった。事務的な口調を貫きながらも、声の中には拭えない不安と焦燥が混じっていた。
「……そっちは、ひどいのか……」
固い唾を飲んだレスターが問いかける。ティルスはふう、と重い溜め息を吐き、ラーシャとデルタの唇がぐっと引き結ばれる。目配せをした後、頷いたラーシャが深呼吸をして口を開いた。
「皆が迅速に動いてくれたのと、レスター、お前のおかげで予想よりも被害は少なく済んだ。だが……」
「……予想よりは、の話です。事実、かなりの兵力を失ったことは確かです。今の我々に、再び平原を攻める程の戦力はありません」
「……」
レスターの歯軋りが、他の者の耳まで届いた。その後ろで肩を怒らせるアルティオの肩を、シリアがなだめるように叩いていた。
「それと……悪い報せがあります」
「……この上にかよ」
「はい。悪い報せです。シェイリーン様が帝都から失踪されました」
「な……っ!?」
レスターの詰まった声が重なった。シリアの眉間にしわが寄り、ラーシャの表情に影が落ちる。
「な、何だそれっ!? どういうことだ!?」
「……暗殺騒ぎがあったそうです。その翌日には、行方がわからなくなっていた、と」
「ヴァレス殿たちも同時に行方知れずになっている。おそらくシェイリーン様はご自分の身の危険を感じて身を隠されたのだろう」
「……ちょっと、その暗殺騒ぎって」
一足早く推察をめぐらせたシリアが懸念を口にした。それを肯定するかのように、デルタが力なく首を振った。
「エイロネイアの手の者による……と思いたいですが、そうとばかりは決定付けられません」
「タカ派の貴族院にとっては、今のシェイリーン様は目の上のこぶだ。こうして我々が敗北した以上、風当たりは一層強くなるだろうしな……」
悔しさに歪む表情を抑えながら、ラーシャは搾り出すように吐き出した。レスターもまた、同じように表情で舌打ちをする。
「どこに隠れられたのかは……」
「……現在、捜索中です。もしかしたらこちらに向かわれている可能性もありますが……それから、もう一つ」
言葉を切ったティルスが、ちらりとアルティオとシリアを見た。眉を潜めた二人に、ラーシャとデルタが腑に落ちないような、居た堪れないような、微妙な表情をする。ティルスは何拍か置いて、観察するような素振りの後に言った。
「ルナ=ディスナー様に本国から反骨の疑いがかけられています」
「な……っ!?」
今度はアルティオとシリアの声が重なった。さあっ、と顔色が変わったアルティオが、涼しい顔で言ったティルスの襟首を掴みかける。ラーシャがそれを慌てて止めながら、
「我らは大陸でルナ殿に助太刀を頂いている。だから、彼女の人となりはわかっているつもりだし、けして悪人物ではないと知っている! ただ……」
「……別の国境近くで、小規模ですが諍いがありました」
言葉を濁すラーシャの代わりにデルタが口を開く。
「その最中でエイロネイアの重鎮と思しき人物がいたと。彼女はシンシア軍から彼を庇い立てし、軍の前から行方を眩ませたそうです」
「―― !!」
アルティオとシリアは顔を見合わせる。アルティオはティルスの首から手を離すと、そのまま顔を抑えて、「あの馬鹿野郎…っ!」と苦しく呟いた。
シリアは苦い顔で溜め息を吐き、首を振る。二人ともそれが虚偽と決め付けられないのを知っていた。大人ぶっておどけてみせてはいるが、彼女は根は驚くほど純朴だ。もし、目の前にいたのが"彼"だとしたら、それを軍の刃が狙っていたら。
……彼女は裏切り者の称号など厭わないだろう。
――恋は盲目、とは言うけど。
シリアは奥歯を噛み締める。気持ちは理解してやりたかった。しかし、それが必ずしも人を幸せにはしないのだと、彼女は知っていた。
「……私たちはどうすればいいのかしら?」
「……元より、これ以上進軍はできない」
シリアの問いに、ラーシャが沈痛な面持ちで口にする。
「シェイリーン様の行方もわからず。貴族院を野放しにするわけにもいかない。ルナ殿の立場を放って置くわけにもいかないだろう。我々は一時、帝都に帰還する。できれば――」
「……わかった。付き合うわ」
「シリア!?」
「落ち着きなさいよ、アルティオ。土地慣れしていない私たちが闇雲に探したって、あの子たちを見つけられるわけないわ。第一、私たちが離脱したら、ルナの立場きっともっと悪くなるわよ? これ以上、あの子の敵を増やしたりしたら……」
「……くそっ!」
舌打ちをして、アルティオは石畳を蹴り飛ばした。ラーシャは「すまない」と口にしたが、アルティオは黙って言葉を飲み込んだ。誰のせいでもない。厳しいことを言うなら、すべて当人の責任だ。シリアもアルティオも、どれほど変わってしまったとしても、、昔ながらの幼馴染を見捨てられるような人間ではなかった。そんな性格をしていたら、誰もこんなところまで来やしないのだ。
――……正念場、かしら……
シリアは顔を上げる。石造りの小窓から、相変わらずどんよりと曇った空が見える。突き抜けるような故国のあの青い空が、何故だか無性に懐かしかった。
デジャヴ、だとは思う。うん。というか思いたい。
「こんなところを女の一人旅なんて物騒だなぁ? おい」
一番物騒なのはあんたたちじゃないか、と思うのだがあえて口にしない。目の前にはやたら汚い、何日も洗濯されていなさそうなボロボロの服の男が数人。手には切れ味の悪そうな刃物や長い棒。中には申し訳程度の鎧を着込んだ男もいて、記憶を失っていても何となく彼らがどんな質の人間なのか判断がついた。
たぶん、追いはぎ、とか、山賊、とか言われる類の人間だ。
見るのは初めて、と言いたいところだが、街道を歩いていてわらわら湧いてきた彼らを見ても、特段、冷や汗の一つも出なかった。だから、これはきっとデジャヴではないのだろう。思い出せないけど。
「そうだぜ。何せ俺たちみたいなのがいるからな」
――あ、一応、自覚あるんだ。
さて、どうやって逃げようかと考えながら、頭のどこか冷めた部分がそんなことを紡ぎ出す。考えて、手が背中の大きな得物の柄に触れるが、出るのは溜め息だ。幸い、弓を構えたヤツはいないから、全速力で走れば逃げ切れないこともないかと思う。
「安心しな。女なら命まで取らねぇよ。大人しくしていれば……」
「大人しくしていても、ろくな目には合いませんよ」
『!?』
まったく予想のつかない場所から、予想のつかない声がした。ややトーンの高い、だが少年とわかるアルトの声。男たちが眉間にしわを寄せ、鬱陶しげな目をして辺りを見回し始める。
カノンの方が耳の精度は良かったようだ。声を追って頭上を仰ぐ。月桂の葉がはらり、と一枚目の前に落ちてきた。
「くすくす、こっちですよ」
未だに見つけられない男たちを嘲笑うように、彼はやたらと楽しそうに笑い声をあげた。男たちも、カノンもまた眉を潜めてそこにいた彼を見た。
太い枝を巡らせた月桂樹にゆらりと身を預け、少年はこちらを見下ろしていた。
歳は大体、カノンと同じ程度だろうか。判断しにくいのは、どう見ても言葉と物腰が相応でないのと、顔の半分と首、覗く手がすべて分厚い包帯に包まれていて、体つきの判然としないゆったりとしたローブ調の服を着込んでいるためだった。戦地の国、とは聞いていたが、それにしてもその容姿は異様にしか映らない。
カノンが言葉を失っていると、少年は躊躇いなく枝の上から身を躍らせた。反射的に肩が震えるが
少年は木の葉が風に落ちるかのように、ふわりといっそ美しいまでに綺麗に着地した。
「…………な、何だてめぇは……っ!?」
――あ、ひよった。
山賊の先頭に立っていた男が、大分遅れて反応した。これが剣を構えた屈強な剣士などだったなら、威勢良く「何だてめぇは!」と怒鳴りつけたのだろうが、相手はか細い感さえする少年である。どもった声がちょっと面白い。
少年はカノンを庇うように山賊との間に入り――
――……あれ?
一瞬、頭の中の警鐘が震えたような気がした。何かの違和感がカノンの喉元をくすぐってくる。
「何だ、と言われましても。そちらも名乗る気なんてないでしょうに。こちらにだけ強要するのは些か横暴ではありませんか?」
「うるせえ! 俺たちを見りゃ誰かなんて大体わかんだろうがっ!」
――大体、っていうかどういう方かはほとんどな。
「……そうですか」
ぞくっ……
間を置いて、少年が低くそう吐き出した。何に納得したのかはわからないが、静かに紡がれたその声が、異様なまでに体の芯に響く。
腹の底から冷やされるような。怒気を孕んでいるわけでもないのに、その一言に背筋が戦慄に凍った。それは彼女だけではなかったようで、刃を構えた男たちもまたそれぞれ小さくうめき声をあげた。
それでも少年一人に気圧された、などとは名折れなのだろう。肩を怒らせて刃を向ける。
「じ、邪魔するつもりなら……っ!」
「いいですよ? 相手になりましょう?」
ぎちっ!
空間が妙な音を立てた。少年の手の平に、いつの間にか真っ黒な槍が一振り、握られている。
「……あんまり動かないでください。怪我しますから」
ちらりとこちらを振り返り、小声の忠告を受ける。
「この……っ! おい、まとめて捕まえちまえ!」
先頭の男のかけ声と共に、男たちの得物が唸りをあげた。
――……ふーむ。
山中の小さな宿屋に場所を移し、添え物のサニーレタスにフォークを突き立てながら、カノンは正面に座る少年を凝視していた。少年はやや疑り深い視線に気づいているのかいないのか、何故だかやたらと不味そうにホットミルクを一口すすると顔を上げた。
「なかなか面白い話ですねぇ。記憶喪失で一人旅ですか」
事も無げに少年は頷いてみせる。場慣れなのか何なのか、驚いた風はない。
――まあ、他人事だもんね。
そう思いながら先程の戦闘を思い返す。いや、あれを戦闘と呼んでいいのだろうか。あまり動くな、といわれたが、むしろ少年の真後ろが一番安全だった。少年の肩越しに得物が振り上げられたかと思えば、次の瞬間には、その男の方が地に伏していて。カノンには、少年がほんのわずか摺り足をしたことしかわからなかった。気がつけば、周りには少年の頭二つ分はでかい大男たちが死屍累々と横たわっていて、当の本人は汗一つ掻いていないようだった。
振り返って、何食わぬ顔で微笑まれたときは、安堵というよりも戦慄さえ走ったものである。
――場数踏んだ傭兵……にも見えないけど。
レタスを口に運びながら少年を盗み見る。顔の半分を残して身体を覆う包帯、妙に大人びた物腰と洗練された動き、しかし相反してどこかこざっぱりしている。旅支度はしているが、どうにも正体が掴めない。
「でも、そういう事情なら、その村から出ない方が安全だったのでは? この国は……」
「戦地ばっかり、っていうのは知ってたけど……まあ……いろいろあってね。
それよりあんたは? どう見ても通りすがりの普通の旅人、には見えないけど」
多少、含みを持たせて言うと、彼は小さく肩を竦めた。やっぱり何故か不味そうにホットミルクを一口流し込むと、
「ただの軍人崩れですよ。ご覧の通り、先の戦いで少々跡の残る大怪我をしましてね。山奥で静養していたんです。ですが、最近になって山の向こうで大事があったようで、仕方なしに召還されに行くところですよ」
「……じゃあ、随分強いんだ」
そう見えないけど、と思ったことはとりあえず口に出さないでおく。
「多少、小隊を指揮した程度です。大したことはありませんよ」
すらすらと澱みなく答える。歳は大して変わらないのに、口をつくのは随分と不相応な言葉ばかり。やや幼くすら見える、包帯に覆われていない秀麗な顔の半分は、にこにことどこか食えない微笑を湛えている。
――うーむ…
しゃくり、とエシャロットをかじりながらカノンは沈思する。
「……じゃあ、あんたも山越えしようとしてる、ってこと?」
「ええ。どちらにしろ、戦場となっているのは山の向こうですから」
もう一度唸ってから、カノンは腕を組んで考える。ちらり、ともう一度、少年の涼しい顔を盗み見てから、がさがさと自分の荷を漁る。
「どうしたんですか?」
すぐには答えずに、カノンは包みをテーブルの上に広げてみせた。数枚の古びた金貨と、細かな貴金属。それから厳重に包まれた薬か何かの瓶が現れた。少年は目の前に広げられた交易品に、きゅ、と眉根を寄せた。
「……これは?」
「今の私じゃよくわかんないけど……記憶を失くしたときに路銀と一緒に持ってたの。人に聞いたらそれなりに価値のあるものだって」
「はあ、確かにこれは……そこそこ値打ちものですねえ」
少年はやや感嘆しながら、些か錆びた金貨を摘み上げた。伺うような視線を向けられて、カノンは再び口を開く。
「傭兵とかの相場ってどれくらいなのか知らないけど……私に出せるのはこれくらい。で、お願いがあるの。私を山の向こうまで連れていってもらえない?」
そう言うと、少年は潜めていた眉をぴくり、と動かした。半目しかない黒曜石のような瞳が見開かれる。
「もちろん、あんたの仕事場まで、なんて無茶は言わないわ。そうね……山を越えて、一番大きな街に着いたら」
「……要は貴方の護衛をしろと?」
通り良く聞き返す少年の言葉に頷く。
「確かに帯剣だけはしてるけど。正直な話、あんまり使い方とか覚えていないのよ。さっきみたいなヤツらから逃げるのが精一杯で……それに」
カノンはテーブルの上に身を乗り出した。少年は合わせて、少しだけ耳を傾ける。
「村を出る前からなんだけど……どうも誰かに狙われている気がして」
「狙われてる?」
少年の幼い眉間にしわが寄った。カノンはやや困った表情で首を傾げ、
「私もどう言っていいか、わかんないんだけど……村が焼けたときに、弓矢を射られたの。そのときはいろいろあって助かったんだけど……」
「焼いた村の村人に、ではなく、"貴方に"、ですか?」
「断言できないけど……その前から変な視線を感じたりすることはあったかな」
「狙われる心当たりは?」
「あったらこんな闇雲な頼み方しないわよ」
カノンは唇を尖らせて肩を竦める。少年は腕を組み、顎に手を置いて何事か思案し始める。
「その貴方を狙っている相手については一切わかりませんか?」
「正体はわからないけど……女だったわ。髪の毛は桃色で、ショート。歳はたぶん、まだ若いと思うんだけど、こう……人形みたいに無表情でよくわからなかったなあ……」
「……"人形"、ですか……」
ぽつり、と少年は繰り返して呟く。ことり、とミルクの入ったマグカップがテーブルに置かれて、白い波紋が広がった。
「……わかりました。どうせついでですし、いいですよ。ご一緒しましょう。
山を下りてしばらく行ったところに、バラック・シティという街があります。とりあえずそこまで、ということで……」
「おーけー、助かるわ。報酬は……」
カノンが言い終えるよりも先に、少年はテーブルの上の金貨を三枚拾い、一度手の平でくるりと躍らせてから懐へと収めた。
「これで十分です。貴方はわかっておられないようですが、随分、古い時代の金貨です。古物商にでも売れば容易く路銀になりますよ」
「そ、そう……」
「さて、と……。記憶がないんでしたね。貴方のことは何と呼べば良いですか?」
問われて一瞬だけ戸惑った。けれど、胸元からかすかに響いたちりん、というベルの音に首を振る。
「……カノン。カノン、て呼んでもらえる?」
気のせいだろうか。彼の表情が一瞬だけ凍ったような気がした。だが、不和が走ったのはほんの一瞬だけで、すぐに少年はにこやかに「カノンさんですね」と返す。
「そういえばこっちも聞いてなかったわね。あんたの名前は?」
最後まで不味そうにカップの残りを飲み干した少年は、何か考えるように天井を見た。そしてにっこりと笑って言った。
「レアシス=レベルト。レアシス、と呼んでください」
目が覚めたのは偶然なのか、それとも記憶を失くす前の自分が徐々にベールを脱ぎつつあるのか。
ともかくカノンが目を開けると、まだ辺りは闇の中だった。獣油の切れたランプが、カーテンを引いた窓越しの月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
山歩きの連続で身体はだるかったが、頭の方は瞬時に覚醒して、再び枕に顔を埋めるのを許さなかった。ほぼ無意識のうちに武器と荷物を引き寄せて腹に抱える。その瞬間、
ゴゥンっ!!
とんでもない轟音がカノンの耳を貫いた。
「……割と無茶をする相手のようですね」
呆然と、ちろちろと炎の舌を覗かせながら、黒煙をあげる元・自分の部屋を見上げるカノンに対し、彼女を抱えあげた少年は冷静な顔で呟いた。爆薬でも投げ込まれたのか、レアシスが間一髪で部屋から救い出してくれなかったなら、全身火だるまか、もっと悪ければ五体バラバラになっていたかもしれない。
「い、いくら何でも無茶苦茶じゃない……!」
「……そうですね」
カノンは青ざめる。村を出て二日ほど。妙な視線は度々感じたえれど、こんな無茶苦茶はなかったのに!
これでは宿屋にいた者も容易く巻き込むことになる。事実、轟音に目を覚ました旅人が、ちらほらと姿を現してはあがる黒煙に悲鳴をあげていた。
茂みに身を隠しながら、もう一度、夜空に立ち上る黒煙を見上げる。心臓の音がうるさい。落ち着け、私はまだ生きている。
「大分、相手方は本気のようですね」
「私……」
「早めにここを離れましょう。でないと――」
レアシスの言葉は最後まで続かなかった。背後から生まれた敵意にカノンが気づくよりも早く、彼は彼女の手を引いて飛び退った。
どすっ!!
「――っ!?」
奇妙な紫色の光の尾を引いた矢が、カノンのいた空間を貫いた。飛び散った光の残滓が、暗い茂みに目印の白石のように光っている。思わず飛来した方向に目をやって、
ぎぃんっ!!
再び狙い撃たれた光の矢を叩き落したのは、少年が手にしていた黒槍だった。ひゅっ、と低い息がレアシスの口から漏れる。
上手く言葉が吐き出せないカノンに、彼は苦い顔で茂みの向こうを見ると、
「……少々、失礼しますよ!」
「!? うわきゃ……っ」
ふわり、と身体が宙に浮く。一度下ろしたカノンの身体を、少年が再び抱えあげていた。口の中で何か早口で唱えると、彼はカノンを担いだまま、大木の枝まで一気に跳躍する。
かつッ!!
また何もない空間を裂いて飛来した矢が茂みに突き刺さる。その突き刺さった痕を見て、カノンは三度唖然とする。先程は暗くてよくわからなかった。けれどよくよく目を凝らせば、はっきりとわかる。
紫光の矢が突き刺さった痕、青々としていた茂みが、急激に黒く焼け焦げていた。圧倒的な熱量を持った炎に、一瞬で焼かれたかのように。もし、あれが人体だったら――答えは言うまでもない。
カノンが絶句している間に、レアシスは一気に森を走り抜けていた。木々の合間を尋常ではないスピードで駆け抜けていく。
「ち、ちょっと!? 宿の人たちは……っ!?」
「狙われているのは貴方です。見つかったなら疾く離れなくては余計、他の人間を巻き込むことになりますよ」
「っ!」
「お喋りは終わりです。口を閉じていないと舌を噛みますよ」
淡々とした口調でそう言って、少年はさらに大きく跳躍した。上がったスピードに慌てて少年の襟元にしがみつきながら、カノンは背後を振り返る。
暗い夜空に立ち上る黒煙が、月明かりに禍々しく移ろいでいた。
←15へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
「姐さんっ! みんな無事っすか!?」
少し詰まった声でラーシャが歓喜と安堵が交じり合った声をあげた。領内の砦まで退いたシンシア軍は、しんがりを勤めていたレスターの小部隊になけなしの士気を取り戻す。
「シリア殿、アルティオ殿もよくぞご無事で……!」
「おっほっほ、この至高の美しさを誇る私があんな奴らにどうこうなると思って!?」
「当たり前よ! 俺には幸運の女神がついてるからな! ……と言いつつ今回ばかりはさすがの俺も死ぬかと思ったぜ」
おどけながらアルティオは肩を竦めてみせた。デルタはやや呆れたような目を向けたが、ラーシャはほんの少し力が抜けたように安堵の息を吐く。
「ライアント大尉、隊の損害は?」
「ああ……こいつらのおかげで全員生きてるぜ。みんな軽傷は負ってるが、まあ、俺の隊は頑丈なのがウリだからな」
「……そうですか。何よりです」
そう言いながらティルスの声色はどこか硬かった。事務的な口調を貫きながらも、声の中には拭えない不安と焦燥が混じっていた。
「……そっちは、ひどいのか……」
固い唾を飲んだレスターが問いかける。ティルスはふう、と重い溜め息を吐き、ラーシャとデルタの唇がぐっと引き結ばれる。目配せをした後、頷いたラーシャが深呼吸をして口を開いた。
「皆が迅速に動いてくれたのと、レスター、お前のおかげで予想よりも被害は少なく済んだ。だが……」
「……予想よりは、の話です。事実、かなりの兵力を失ったことは確かです。今の我々に、再び平原を攻める程の戦力はありません」
「……」
レスターの歯軋りが、他の者の耳まで届いた。その後ろで肩を怒らせるアルティオの肩を、シリアがなだめるように叩いていた。
「それと……悪い報せがあります」
「……この上にかよ」
「はい。悪い報せです。シェイリーン様が帝都から失踪されました」
「な……っ!?」
レスターの詰まった声が重なった。シリアの眉間にしわが寄り、ラーシャの表情に影が落ちる。
「な、何だそれっ!? どういうことだ!?」
「……暗殺騒ぎがあったそうです。その翌日には、行方がわからなくなっていた、と」
「ヴァレス殿たちも同時に行方知れずになっている。おそらくシェイリーン様はご自分の身の危険を感じて身を隠されたのだろう」
「……ちょっと、その暗殺騒ぎって」
一足早く推察をめぐらせたシリアが懸念を口にした。それを肯定するかのように、デルタが力なく首を振った。
「エイロネイアの手の者による……と思いたいですが、そうとばかりは決定付けられません」
「タカ派の貴族院にとっては、今のシェイリーン様は目の上のこぶだ。こうして我々が敗北した以上、風当たりは一層強くなるだろうしな……」
悔しさに歪む表情を抑えながら、ラーシャは搾り出すように吐き出した。レスターもまた、同じように表情で舌打ちをする。
「どこに隠れられたのかは……」
「……現在、捜索中です。もしかしたらこちらに向かわれている可能性もありますが……それから、もう一つ」
言葉を切ったティルスが、ちらりとアルティオとシリアを見た。眉を潜めた二人に、ラーシャとデルタが腑に落ちないような、居た堪れないような、微妙な表情をする。ティルスは何拍か置いて、観察するような素振りの後に言った。
「ルナ=ディスナー様に本国から反骨の疑いがかけられています」
「な……っ!?」
今度はアルティオとシリアの声が重なった。さあっ、と顔色が変わったアルティオが、涼しい顔で言ったティルスの襟首を掴みかける。ラーシャがそれを慌てて止めながら、
「我らは大陸でルナ殿に助太刀を頂いている。だから、彼女の人となりはわかっているつもりだし、けして悪人物ではないと知っている! ただ……」
「……別の国境近くで、小規模ですが諍いがありました」
言葉を濁すラーシャの代わりにデルタが口を開く。
「その最中でエイロネイアの重鎮と思しき人物がいたと。彼女はシンシア軍から彼を庇い立てし、軍の前から行方を眩ませたそうです」
「―― !!」
アルティオとシリアは顔を見合わせる。アルティオはティルスの首から手を離すと、そのまま顔を抑えて、「あの馬鹿野郎…っ!」と苦しく呟いた。
シリアは苦い顔で溜め息を吐き、首を振る。二人ともそれが虚偽と決め付けられないのを知っていた。大人ぶっておどけてみせてはいるが、彼女は根は驚くほど純朴だ。もし、目の前にいたのが"彼"だとしたら、それを軍の刃が狙っていたら。
……彼女は裏切り者の称号など厭わないだろう。
――恋は盲目、とは言うけど。
シリアは奥歯を噛み締める。気持ちは理解してやりたかった。しかし、それが必ずしも人を幸せにはしないのだと、彼女は知っていた。
「……私たちはどうすればいいのかしら?」
「……元より、これ以上進軍はできない」
シリアの問いに、ラーシャが沈痛な面持ちで口にする。
「シェイリーン様の行方もわからず。貴族院を野放しにするわけにもいかない。ルナ殿の立場を放って置くわけにもいかないだろう。我々は一時、帝都に帰還する。できれば――」
「……わかった。付き合うわ」
「シリア!?」
「落ち着きなさいよ、アルティオ。土地慣れしていない私たちが闇雲に探したって、あの子たちを見つけられるわけないわ。第一、私たちが離脱したら、ルナの立場きっともっと悪くなるわよ? これ以上、あの子の敵を増やしたりしたら……」
「……くそっ!」
舌打ちをして、アルティオは石畳を蹴り飛ばした。ラーシャは「すまない」と口にしたが、アルティオは黙って言葉を飲み込んだ。誰のせいでもない。厳しいことを言うなら、すべて当人の責任だ。シリアもアルティオも、どれほど変わってしまったとしても、、昔ながらの幼馴染を見捨てられるような人間ではなかった。そんな性格をしていたら、誰もこんなところまで来やしないのだ。
――……正念場、かしら……
シリアは顔を上げる。石造りの小窓から、相変わらずどんよりと曇った空が見える。突き抜けるような故国のあの青い空が、何故だか無性に懐かしかった。
デジャヴ、だとは思う。うん。というか思いたい。
「こんなところを女の一人旅なんて物騒だなぁ? おい」
一番物騒なのはあんたたちじゃないか、と思うのだがあえて口にしない。目の前にはやたら汚い、何日も洗濯されていなさそうなボロボロの服の男が数人。手には切れ味の悪そうな刃物や長い棒。中には申し訳程度の鎧を着込んだ男もいて、記憶を失っていても何となく彼らがどんな質の人間なのか判断がついた。
たぶん、追いはぎ、とか、山賊、とか言われる類の人間だ。
見るのは初めて、と言いたいところだが、街道を歩いていてわらわら湧いてきた彼らを見ても、特段、冷や汗の一つも出なかった。だから、これはきっとデジャヴではないのだろう。思い出せないけど。
「そうだぜ。何せ俺たちみたいなのがいるからな」
――あ、一応、自覚あるんだ。
さて、どうやって逃げようかと考えながら、頭のどこか冷めた部分がそんなことを紡ぎ出す。考えて、手が背中の大きな得物の柄に触れるが、出るのは溜め息だ。幸い、弓を構えたヤツはいないから、全速力で走れば逃げ切れないこともないかと思う。
「安心しな。女なら命まで取らねぇよ。大人しくしていれば……」
「大人しくしていても、ろくな目には合いませんよ」
『!?』
まったく予想のつかない場所から、予想のつかない声がした。ややトーンの高い、だが少年とわかるアルトの声。男たちが眉間にしわを寄せ、鬱陶しげな目をして辺りを見回し始める。
カノンの方が耳の精度は良かったようだ。声を追って頭上を仰ぐ。月桂の葉がはらり、と一枚目の前に落ちてきた。
「くすくす、こっちですよ」
未だに見つけられない男たちを嘲笑うように、彼はやたらと楽しそうに笑い声をあげた。男たちも、カノンもまた眉を潜めてそこにいた彼を見た。
太い枝を巡らせた月桂樹にゆらりと身を預け、少年はこちらを見下ろしていた。
歳は大体、カノンと同じ程度だろうか。判断しにくいのは、どう見ても言葉と物腰が相応でないのと、顔の半分と首、覗く手がすべて分厚い包帯に包まれていて、体つきの判然としないゆったりとしたローブ調の服を着込んでいるためだった。戦地の国、とは聞いていたが、それにしてもその容姿は異様にしか映らない。
カノンが言葉を失っていると、少年は躊躇いなく枝の上から身を躍らせた。反射的に肩が震えるが
少年は木の葉が風に落ちるかのように、ふわりといっそ美しいまでに綺麗に着地した。
「…………な、何だてめぇは……っ!?」
――あ、ひよった。
山賊の先頭に立っていた男が、大分遅れて反応した。これが剣を構えた屈強な剣士などだったなら、威勢良く「何だてめぇは!」と怒鳴りつけたのだろうが、相手はか細い感さえする少年である。どもった声がちょっと面白い。
少年はカノンを庇うように山賊との間に入り――
――……あれ?
一瞬、頭の中の警鐘が震えたような気がした。何かの違和感がカノンの喉元をくすぐってくる。
「何だ、と言われましても。そちらも名乗る気なんてないでしょうに。こちらにだけ強要するのは些か横暴ではありませんか?」
「うるせえ! 俺たちを見りゃ誰かなんて大体わかんだろうがっ!」
――大体、っていうかどういう方かはほとんどな。
「……そうですか」
ぞくっ……
間を置いて、少年が低くそう吐き出した。何に納得したのかはわからないが、静かに紡がれたその声が、異様なまでに体の芯に響く。
腹の底から冷やされるような。怒気を孕んでいるわけでもないのに、その一言に背筋が戦慄に凍った。それは彼女だけではなかったようで、刃を構えた男たちもまたそれぞれ小さくうめき声をあげた。
それでも少年一人に気圧された、などとは名折れなのだろう。肩を怒らせて刃を向ける。
「じ、邪魔するつもりなら……っ!」
「いいですよ? 相手になりましょう?」
ぎちっ!
空間が妙な音を立てた。少年の手の平に、いつの間にか真っ黒な槍が一振り、握られている。
「……あんまり動かないでください。怪我しますから」
ちらりとこちらを振り返り、小声の忠告を受ける。
「この……っ! おい、まとめて捕まえちまえ!」
先頭の男のかけ声と共に、男たちの得物が唸りをあげた。
――……ふーむ。
山中の小さな宿屋に場所を移し、添え物のサニーレタスにフォークを突き立てながら、カノンは正面に座る少年を凝視していた。少年はやや疑り深い視線に気づいているのかいないのか、何故だかやたらと不味そうにホットミルクを一口すすると顔を上げた。
「なかなか面白い話ですねぇ。記憶喪失で一人旅ですか」
事も無げに少年は頷いてみせる。場慣れなのか何なのか、驚いた風はない。
――まあ、他人事だもんね。
そう思いながら先程の戦闘を思い返す。いや、あれを戦闘と呼んでいいのだろうか。あまり動くな、といわれたが、むしろ少年の真後ろが一番安全だった。少年の肩越しに得物が振り上げられたかと思えば、次の瞬間には、その男の方が地に伏していて。カノンには、少年がほんのわずか摺り足をしたことしかわからなかった。気がつけば、周りには少年の頭二つ分はでかい大男たちが死屍累々と横たわっていて、当の本人は汗一つ掻いていないようだった。
振り返って、何食わぬ顔で微笑まれたときは、安堵というよりも戦慄さえ走ったものである。
――場数踏んだ傭兵……にも見えないけど。
レタスを口に運びながら少年を盗み見る。顔の半分を残して身体を覆う包帯、妙に大人びた物腰と洗練された動き、しかし相反してどこかこざっぱりしている。旅支度はしているが、どうにも正体が掴めない。
「でも、そういう事情なら、その村から出ない方が安全だったのでは? この国は……」
「戦地ばっかり、っていうのは知ってたけど……まあ……いろいろあってね。
それよりあんたは? どう見ても通りすがりの普通の旅人、には見えないけど」
多少、含みを持たせて言うと、彼は小さく肩を竦めた。やっぱり何故か不味そうにホットミルクを一口流し込むと、
「ただの軍人崩れですよ。ご覧の通り、先の戦いで少々跡の残る大怪我をしましてね。山奥で静養していたんです。ですが、最近になって山の向こうで大事があったようで、仕方なしに召還されに行くところですよ」
「……じゃあ、随分強いんだ」
そう見えないけど、と思ったことはとりあえず口に出さないでおく。
「多少、小隊を指揮した程度です。大したことはありませんよ」
すらすらと澱みなく答える。歳は大して変わらないのに、口をつくのは随分と不相応な言葉ばかり。やや幼くすら見える、包帯に覆われていない秀麗な顔の半分は、にこにことどこか食えない微笑を湛えている。
――うーむ…
しゃくり、とエシャロットをかじりながらカノンは沈思する。
「……じゃあ、あんたも山越えしようとしてる、ってこと?」
「ええ。どちらにしろ、戦場となっているのは山の向こうですから」
もう一度唸ってから、カノンは腕を組んで考える。ちらり、ともう一度、少年の涼しい顔を盗み見てから、がさがさと自分の荷を漁る。
「どうしたんですか?」
すぐには答えずに、カノンは包みをテーブルの上に広げてみせた。数枚の古びた金貨と、細かな貴金属。それから厳重に包まれた薬か何かの瓶が現れた。少年は目の前に広げられた交易品に、きゅ、と眉根を寄せた。
「……これは?」
「今の私じゃよくわかんないけど……記憶を失くしたときに路銀と一緒に持ってたの。人に聞いたらそれなりに価値のあるものだって」
「はあ、確かにこれは……そこそこ値打ちものですねえ」
少年はやや感嘆しながら、些か錆びた金貨を摘み上げた。伺うような視線を向けられて、カノンは再び口を開く。
「傭兵とかの相場ってどれくらいなのか知らないけど……私に出せるのはこれくらい。で、お願いがあるの。私を山の向こうまで連れていってもらえない?」
そう言うと、少年は潜めていた眉をぴくり、と動かした。半目しかない黒曜石のような瞳が見開かれる。
「もちろん、あんたの仕事場まで、なんて無茶は言わないわ。そうね……山を越えて、一番大きな街に着いたら」
「……要は貴方の護衛をしろと?」
通り良く聞き返す少年の言葉に頷く。
「確かに帯剣だけはしてるけど。正直な話、あんまり使い方とか覚えていないのよ。さっきみたいなヤツらから逃げるのが精一杯で……それに」
カノンはテーブルの上に身を乗り出した。少年は合わせて、少しだけ耳を傾ける。
「村を出る前からなんだけど……どうも誰かに狙われている気がして」
「狙われてる?」
少年の幼い眉間にしわが寄った。カノンはやや困った表情で首を傾げ、
「私もどう言っていいか、わかんないんだけど……村が焼けたときに、弓矢を射られたの。そのときはいろいろあって助かったんだけど……」
「焼いた村の村人に、ではなく、"貴方に"、ですか?」
「断言できないけど……その前から変な視線を感じたりすることはあったかな」
「狙われる心当たりは?」
「あったらこんな闇雲な頼み方しないわよ」
カノンは唇を尖らせて肩を竦める。少年は腕を組み、顎に手を置いて何事か思案し始める。
「その貴方を狙っている相手については一切わかりませんか?」
「正体はわからないけど……女だったわ。髪の毛は桃色で、ショート。歳はたぶん、まだ若いと思うんだけど、こう……人形みたいに無表情でよくわからなかったなあ……」
「……"人形"、ですか……」
ぽつり、と少年は繰り返して呟く。ことり、とミルクの入ったマグカップがテーブルに置かれて、白い波紋が広がった。
「……わかりました。どうせついでですし、いいですよ。ご一緒しましょう。
山を下りてしばらく行ったところに、バラック・シティという街があります。とりあえずそこまで、ということで……」
「おーけー、助かるわ。報酬は……」
カノンが言い終えるよりも先に、少年はテーブルの上の金貨を三枚拾い、一度手の平でくるりと躍らせてから懐へと収めた。
「これで十分です。貴方はわかっておられないようですが、随分、古い時代の金貨です。古物商にでも売れば容易く路銀になりますよ」
「そ、そう……」
「さて、と……。記憶がないんでしたね。貴方のことは何と呼べば良いですか?」
問われて一瞬だけ戸惑った。けれど、胸元からかすかに響いたちりん、というベルの音に首を振る。
「……カノン。カノン、て呼んでもらえる?」
気のせいだろうか。彼の表情が一瞬だけ凍ったような気がした。だが、不和が走ったのはほんの一瞬だけで、すぐに少年はにこやかに「カノンさんですね」と返す。
「そういえばこっちも聞いてなかったわね。あんたの名前は?」
最後まで不味そうにカップの残りを飲み干した少年は、何か考えるように天井を見た。そしてにっこりと笑って言った。
「レアシス=レベルト。レアシス、と呼んでください」
目が覚めたのは偶然なのか、それとも記憶を失くす前の自分が徐々にベールを脱ぎつつあるのか。
ともかくカノンが目を開けると、まだ辺りは闇の中だった。獣油の切れたランプが、カーテンを引いた窓越しの月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
山歩きの連続で身体はだるかったが、頭の方は瞬時に覚醒して、再び枕に顔を埋めるのを許さなかった。ほぼ無意識のうちに武器と荷物を引き寄せて腹に抱える。その瞬間、
ゴゥンっ!!
とんでもない轟音がカノンの耳を貫いた。
「……割と無茶をする相手のようですね」
呆然と、ちろちろと炎の舌を覗かせながら、黒煙をあげる元・自分の部屋を見上げるカノンに対し、彼女を抱えあげた少年は冷静な顔で呟いた。爆薬でも投げ込まれたのか、レアシスが間一髪で部屋から救い出してくれなかったなら、全身火だるまか、もっと悪ければ五体バラバラになっていたかもしれない。
「い、いくら何でも無茶苦茶じゃない……!」
「……そうですね」
カノンは青ざめる。村を出て二日ほど。妙な視線は度々感じたえれど、こんな無茶苦茶はなかったのに!
これでは宿屋にいた者も容易く巻き込むことになる。事実、轟音に目を覚ました旅人が、ちらほらと姿を現してはあがる黒煙に悲鳴をあげていた。
茂みに身を隠しながら、もう一度、夜空に立ち上る黒煙を見上げる。心臓の音がうるさい。落ち着け、私はまだ生きている。
「大分、相手方は本気のようですね」
「私……」
「早めにここを離れましょう。でないと――」
レアシスの言葉は最後まで続かなかった。背後から生まれた敵意にカノンが気づくよりも早く、彼は彼女の手を引いて飛び退った。
どすっ!!
「――っ!?」
奇妙な紫色の光の尾を引いた矢が、カノンのいた空間を貫いた。飛び散った光の残滓が、暗い茂みに目印の白石のように光っている。思わず飛来した方向に目をやって、
ぎぃんっ!!
再び狙い撃たれた光の矢を叩き落したのは、少年が手にしていた黒槍だった。ひゅっ、と低い息がレアシスの口から漏れる。
上手く言葉が吐き出せないカノンに、彼は苦い顔で茂みの向こうを見ると、
「……少々、失礼しますよ!」
「!? うわきゃ……っ」
ふわり、と身体が宙に浮く。一度下ろしたカノンの身体を、少年が再び抱えあげていた。口の中で何か早口で唱えると、彼はカノンを担いだまま、大木の枝まで一気に跳躍する。
かつッ!!
また何もない空間を裂いて飛来した矢が茂みに突き刺さる。その突き刺さった痕を見て、カノンは三度唖然とする。先程は暗くてよくわからなかった。けれどよくよく目を凝らせば、はっきりとわかる。
紫光の矢が突き刺さった痕、青々としていた茂みが、急激に黒く焼け焦げていた。圧倒的な熱量を持った炎に、一瞬で焼かれたかのように。もし、あれが人体だったら――答えは言うまでもない。
カノンが絶句している間に、レアシスは一気に森を走り抜けていた。木々の合間を尋常ではないスピードで駆け抜けていく。
「ち、ちょっと!? 宿の人たちは……っ!?」
「狙われているのは貴方です。見つかったなら疾く離れなくては余計、他の人間を巻き込むことになりますよ」
「っ!」
「お喋りは終わりです。口を閉じていないと舌を噛みますよ」
淡々とした口調でそう言って、少年はさらに大きく跳躍した。上がったスピードに慌てて少年の襟元にしがみつきながら、カノンは背後を振り返る。
暗い夜空に立ち上る黒煙が、月明かりに禍々しく移ろいでいた。
←15へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
『彼女』とアレイアが眠っているケナをつれて表に出たときには、既にその炎の波は村中を包んでいた。どちらともなく固く喉を鳴らす。いくら狭い村だと言っても、一度に何箇所か同時に火の手が上がらなければ、もしくは余程大きな火種が撒かれなければ、こんな短時間にここまで燃え広がるなんてないだろう。
『彼女』の脳裏に浮かんだのは、つい先ほどアレイアが口にした言葉だった。
『それ以来、兵士は――』
『ここは奇跡的に戦火を逃れているが、山の向こうでは――』
首を振る。まさかそんな、タイミングが良すぎる。そんな都合の悪い話があるものか。けれど、ぞくりと『彼女』の肌は粟立って、背筋に緊張が走る。
昨日の昼間、村長の家で感じたあの透明な殺意と、見えざる手。じりじりと、首を絞めようと構えてくる、手。
――まさか……。
唇を噛んで再度、激しく首を振る。村の外にあるアレイアの家は未だ無事だったが、いつ炎に撒かれるとも限らない。『彼女』は示唆された場所に走り出すより一瞬前に、奇妙に明るい村を見下ろした。
赤い舌と煙とで何も見えない。ハンナは? 村長は? 本当に皆、こんなところから逃れられたんだろうか。そこには慣れ親しんだ菓子屋も八百屋も公園も、何も見えなかった。
が、
「……?」
『彼女』は目を凝らす。何か。何か、炎の中に影が見えたような。……まさか、まだ人が、
「フィーナ!」
「……っ!」
嫌な想像を掻き消すように、炎の海から逃げるように。『彼女』はケナを背負ったアレイアの後を追った。
「アレイアの旦那!」
聞き覚えのある声でそう呼ばれ、アレイアは反射的に振り返る。炎を逃れて林の中へ逃げ出した人波の中から、人好きのいいおばさんが手を振っていた。
「ハンナ! 無事だったか!」
「ああ、平気さ! フィーナちゃんもケナちゃんも無事かい!?」
「わ、私は平気」
「……」
平静を繕った、だがやはりどこか余裕のない大声で問われて、彼女は声を上ずらせた。アレイアの背中でショックを隠しきれないのだろう、青ざめて真っ白な顔をしたケナがほんお小さく頷く。
辺りはすすり泣きとヒステリックな怒号が混じっていた。それでもハンナのように冷静を保った人間が何人か、先導して地に足がついていない人々を纏め上げている。女、子供。けたたましい泣き声と、キナくさい空気が肺と胸を同時に焼いた。
「旦那、向こうで村長たちが火を食い止めてるんだ。手伝ってやってくれないかい? フィーナちゃんとケナちゃんは私が見てるからさ」
「ああ、わかった。フィーナ、ケナ、大人しくしてろよ?」
そう言ってアレイアは背中のケナをハンナに預け、走り去ってしまう。
「あ、あの、ハンナさん……。何か私も手伝うこと……」
「ああ、フィーナちゃんは落ち着いてるね。よかった、助かるよ。皆、浮き足立って、泣いてる子を世話するのが足りないんだ」
「あ、は……」
「ハンナさん!」
答える『彼女』の声遮って、半泣きの揺らいだ声が上がった。顔をあげるとほとんど転がるようにして、林の方から女性が駆けて来る。
村で何度か見かけたことがある。ただ、今は艶やかな髪も、下ろした服もすすで塗れていて、ところどころ破れていた。やや正気を失った表情で彼女は縋りつうようにハンナの腕を引いた。
「ハンナ! どうしようっ! リックが、あの子が、まだ村に……っ」
「!」
よく女性が男の子の手を引いていたのを思い出す。確かケナともよく遊んでいた。はっとしてハンナに抱かれた彼女を見ると、ただでさえ青ざめていた顔が、とうとうくしゃり、と歪むところだった。
「う……ふえええええっ!」
「ああっ、大丈夫だよ、大丈夫……だから落ち着いて」
一瞬後には火がついたように泣き出した。女性はさらに錯乱し始めて、ハンナが慌てて両方を宥めようとする。『彼女』ははっ、と顔をあげた。来る途中に見えた炎の中の影。大きさはわからなかったが、もしかしたら――
「……私、ちょっとだけ見てくる!」
「フィーナちゃん!?」
駆け出した『彼女』をハンナの声だけが追う。子供を抱えて女性に縋り疲れた格好のハンナが、彼女を追うことはできずに、『彼女』の背は瞬く間に林の向こうへと走り去ってしまったのである。
がらがらと焼けた木材が炭となって落ちる音。パチパチとうるさいほど叫ぶ火花。そして轟音にさえ聞こえる焔の鳴き声。ランプの中で小さく燃えているときにはあんなにも頼りになるのに、いざ姿かたちを変えると尋常ならざる恐怖になる。
あの女性のように、『彼女』も錯乱してもおかしくはなかった。けれど何故か『彼女』の脳は、混乱しつつも冷静を保っていた。明るすぎる村にに飛び込むときは足がすくんだが、焼けた村の門を潜った後は、まるで日の中の歩き方を知り尽くしているように、炎の赤い舌をかいくぐってストリートを駆けられた。今は炎よりも己自身に恐怖する。私は何者だったのだろう。何故、こんな場所を歩けるのか、ただ迷子の子供を助けるためだけに。
『彼女』は激しく首を振った。今はいい。今は自分が探しに来た子供のことだけ考えよう。
「!」
灰と火の粉の降る広場に差し掛かって、噴水の影に布切れを見つけた。だだっ広い広場は火の手の周りが遅いようだった。『彼女』は迷わず駆け抜ける。噴水の影に何度か見た覚えのある小さな男の子が倒れている。慌てて首を触ると、そこは確かに脈動していて、胸を撫で下ろした。
「とりあえず、早く逃げなきゃ……」
転びそうになるフレアスカートの裾を裂く。気になどしていられない。急いで子供を背に負ぶって――
「――っ!」
それを感じ取ることが出来たのは奇跡だったのか。それとも脳と身体に刻まれた本能だったのか。『彼女』は子供を庇うようにして、反射的に後退った。その足元に、
ざくっ!!
「・・・!」
自分のスカートの裾を裂いて飛来したそれに、『彼女』の背中に戦慄が走った。身体が凍りつく。
「何よ……これ……」
それが何なのかなんて知っている。きっと見たら誰だって判断がつく。でも、それが己に放たれるのを見た者と見たことがない者。数えたらきっと後者の方が圧倒的に決まってる!
肉を抉るために尖り、磨かれた切っ先が、今はやすやすと乾いた地面に突き刺さる。
・・・弓矢、だった。
足元から恐怖が駆け上がる。それでも膝が折れなかったのは、『彼女』の中に残っていた』本能が、一番の恐怖を理解していたからだ。
即ち――矢を放った者がどこかにいるのだ、と。
「!」
もう一度、殺気が背中を貫いた。『彼女』は子供を庇いながら、身体を反転させる。
ざくっ!
「――っ!」
鋭利な痛みが太股を裂いた。背中の子供を庇った『彼女』の足を掠めてとんだ弓矢は、そのままざっくりと裂けたスカートの布切れを地面に縫いとめる。
『彼女』は顔を上げた。
息が、詰まった。
明確な殺意が、真っ向から『彼女』を貫く。焼け残った屋根の上。舞う火の粉を背にして、彼女は静かに弓を構えていた。
凍りついた表情。淡い桃色の髪。無機質な、人形のような紫の瞳。灯るのは肉食獣が獲物に向けるような――悪意なき殺意。
見覚えがあった。村長の家の階段から転がり落ちた、あのときの――!
「――!」
彼女は、『彼女』を狙っていた。
悟った瞬間に、『彼女』は駆け出そうと足に力を込める。だが『彼女』の意思とは裏腹に、恐怖に竦んだ足には上手く力が入らずにがくりと膝が折れる。
かちかちと奥歯が鳴る。何、何なんだろう、この世界は。ここは本当につい先ほどまで平和だったあの穏やかな村の中なんだろうか。炎に包まれて、さらにあんなものが見える。悪夢なら早く覚めればいいのに、鏃の掠めた太股が、嫌が応にも現実を突きつける。
「……」
無感情な瞳がまた矢を番える。そこには何の躊躇いも見えない。
――っ!
声さえも出なかった。。殺される、と思った瞬間に、まだ気絶したままの子供を抱きしめて目を瞑る。何か考えられたわけじゃない。ただ本能的に、せめてと思っただけだ。暗闇の中でほぼ無意識に口を開く。助けを叫ぼうとした唇からは、しかし、とうとう何も出て来なかった。
「――っ!」
きぃんっ!
……澄んだ金属音が響いた。訪れると思っていた激痛は、いつまで経っても襲って来ない。
「……」
子供を抱きしめながら、『彼女』はゆっくりと面をあげる。そして、息を呑んだ。
炎の逆光に、大きな背中が聳えていた。
足元に折れた矢が転がって、ざくりと地面に突き立てられているのは複雑怪奇な紋様を描く大振りの剣。呆然とした頭で、その剣が飛来した矢を叩き落したのだと知る。火の粉の舞う中に佇む背中は、暗色の長いコートに覆われていて、コートの背にさらりと焔と同じ鮮やかな黄昏色の髪が落ちる。
「……」
ぴきん、とこめかみが、軋んだ。何故なのかは、わからなかった。
「――去れ」
「……」
低い。低くて、些か怒気を孕んだ声が耳を打った。静かだがけして無感情ではない。心地よいテノール。
男の背中越しにかろうじて見える屋根の上、弓の構えた女は、やはり無表情に男を見下ろしていた。しかし、しばらく無言を貫くと屋根を蹴る。猫か猿のような身軽さで隣の屋根へと飛び移った女は、瞬く間に炎の中へ姿を消した。
「……」
「あ……」
女の姿が完全に見えなくなるのを待って、男が振り返る。瞬間、
「・・・!」
鳶色の、鷹の瞳と目が合った。身体が動かなくなる。息が詰まる。でもそれは鋭い眼光に睨まれたせいじゃない。
黄昏と同じ色をした髪が炎に溶ける。逆光の中に光を放つ瞳が霧氷上位、彼女を見下ろした。
――あ、つ……っ!?
脳髄が急激に、焼けるような熱を持った。胃液が逆流して器官を焼く。異様に熱をあげた身体は、自身をいじめるようにがんがんと芯から、頭から、身体から自由を奪う。矢先を向けられたときとは違う感覚が、膝から力を奪う。
「うっ、く……っ!」
早く逃げなくてはならないのに、ぐらぐらと煮えくり返る脳が邪魔をする。そのときだった。
「……っ!」
「……こんな場所にいると、死ぬぞ」
容赦のない言葉と裏腹に、丸めた背中をまるで窘めるように大きな手のひらがなでた。視線を上げると、赤い光の中に影を作る。
暗緑のコート。胸元には奇妙な紋章。細められた鳶色の瞳は、無表情ではあるものの、先ほどの女のような冷たさは感じない。
むしろ、
―― ……?
「立てるか」
「……」
『彼女』の代わりに子供を片手で担ぎ上げた男が問う。頭一つ分半は高い背丈。黄昏の髪、何故だかどこか物悲しい瞳、背中に添えられた無骨でとても大きな手。
呆然と男の顔を見上げたまま、口から滑り出した言葉はほぼ無意識だった。
「……貴方、」
「?」
「貴方、私を知ってる?」
「――っ!」
無表情な男の顔に、明らかな同様が走った。わずかに見開かれた鳶色の目が、複雑な色に変化する。だが、それが何より明確な答えだった。
「知って……る、の?」
「……」
自らの困惑を押さえつけながら、『彼女』はよく回らない舌で言葉を紡ぎ出す。男は答えない。そして『彼女』がもう一度、同じ問いを繰り返そうとした、刹那、
「っ!?」
「――すまない」
首筋の辺りに軽い衝撃があった。歯を苦縛る間もなく、休息に意識が落ちる。
――うっ……く……っ!
暗闇のカーテンが落ち切る直前、『彼女』が最後に目にしたのは、苦痛と、何故だか痛ましいほど悲しく歪んだ男の顔だった。
アレイアは焦っていた。火の勢いが弱まり始め、疲労した老人たちを避難所へ送り届けてみると、そこにフィーナの姿はなかった。
わかっている。自分はそんな心配ができるような立場じゃない。ただ、まだ忘れ得ぬ想い人の面影を彼女に重ねているだけの、酷い男だ。自惚れることさえできない。
だがそれでも、見捨てられるはずはなかった。
――くそっ! あの馬鹿……っ! 後先考えずに……っ!
どこが火の元で何が原因かもわからない。それなのに。至極、彼女らしいと言えばそうなるが、笑い事でも冗談でも、済ませられるものじゃない。
林を抜けて、焼け残った村の柵の袂に差し掛かる。そのときだった。
「! フィーナ!」
「! アレイア!」
子供を抱きかかえたまま、すわり込むフィーなの後姿が見えた。声を張り上げると、金色の頭が振り返って、名前を呼び返す。
一瞬、安堵したアレイアだったが、彼女の傍に佇んでいた男に、即座に表情を強張らせた。
「アレイア……?」
「!」
"それ"に気がついたアレイアは迷わず腰に下げていた剣を抜いた。
「アレイア!?」
「フィーナ下がれ! その男から離れろ!」
「け、けど……!」
言い澱むフィーナを庇うように前に出て、長身の男を睨み上げる。鷹のような鋭い目。着込まれた軍服の胸元意、あの忌まわしい紋章が張り付いていた。
「八咫烏の紋……っ!」
「え……?」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
――っ!?
アレイアの吐き出した、にわかには信じがたい単語に、フィーナの瞳が見開かれる。男の眉がわずかにひくり、と動いた。アレイアはフィーナの腕を引き、後ろに下がらせると、剣の切っ先を男へと向けた。
「まさか、村を焼いたのも貴様らか!」
「……違う」
しかし、アレイアの瞳は疑惑を湛えたままだった。
『彼女』はアレイアと彼とを交互に見比べる。そして意を決したように唇を引き結んだ。
「待って、アレイア」
「フィーナ……っ!」
「貴方の気持ちもわからなくない、けど、でも……」
『彼女』は一度、言葉を切った。遮るアレイアの腕を押し退けて前に出ると、真っ向から高い鳶色の瞳を覗き込んだ。
「――貴方、私を知ってるのね」
「……」
男はわずかに顔をしかめてみせた。けれど何故だか彼女には解った。それが、何よりの肯定なのだと。
男は静かな瞳で、一度だけ『彼女』を見た。わずかに唇を噛み、それでも口は開くことなく踵を返す。
「ま……っ!」
「さっさと去れ。いつまでもここにいると死ぬぞ」
それだけ告げると男は地面を蹴った。凄まじい速さで林を駆け抜ける。子供を抱えたまあの彼女に、それが追えるはずもなく、その場で足を止める。
「フィーナ……?」
「……」
肌が妙に粟立っていた。地に足が着かない。アレイアが呼ぶその名前が、いつも異常に遠かった。
「……?」
視界の隅が光ったような気がして、視線を下ろす。固く焼けた地面の上に、きらりと小さく、何か鎖のようなものが落ちていた。拾い上げると、金属であるソレは妙なほど温かかった。つい先ほどまで人の手の中にあったかような。
――……ネックレス?
シルバーの鎖に繋がれたのは、小さな、透明なベルと銀色の指輪。シンプルで、けして華美ではなくて、飾り気のあまりない。
――……。
無意識に、彼女はそれを手の中へ握り締めた。
心臓が、何故だか痛いほど熱かった。
ぱさり、と床にワンピースが落ちた。昨日の今日で、呑気に朝から郊外を散歩しているような人間もいないだろうが、一応はカーテンを閉めておく。
郊外にあったアレイアの家は運良く庭を舐めた程度の被害で済んだ。今、狭いリビングでは何人かの村人たちが避難して来ている。早朝で疲れもあるのだろう。今は皆眠っている。少し経てば、皆起き出して村の復興を始めるんだろう。
火が消えたのはもう明け方近くになってからだった。呆然と立ち尽くす人、泣き疲れて切り株で眠ってしまった人、悲嘆にくれる人。そんな中で村長やハンナは残った家から食べ物や水をかき集め、手製の竃で温かいものを振舞っていた。それに元気付けられたのか、村人たちの間では、朝になる頃にはあそこはああ直して、今度は家をこうしたい、なんて会話がちらほら聞こえ始めていた。
「今まで戦火なんか遠くて、実感なんてなかったけどね。でも私らだって、そんなに弱くないさ。壊れちまったものを嘆いてばかりじゃ生き残れないしね」
ハンナは疲れた顔に笑顔を浮かべながら言った。
生物の生命力は凄い。それは人間も変わらずに、逆境に生きている人間ほど根底が強いのかもしれない。彼らも嘆いていないわけではないだろう。ただ生きるために一生懸命。それが、殊更に美しく見えた。
「……」
何故だろう。それを思ったとき、『彼女』の中に湧き上がったのは、小さな、されどけして弱くはない衝動だった。無意識に、意図的に遠ざけるように、クロゼットの奥に仕舞い込んでいた服を引っ張り出す。黒のシャツを被って、オレンジのコートを羽織、ベルトを締める。悩んだ後に髪を括ってバンドで締めた。磨かれずに曇った鏡の中には昨日までとまったく違う自分がいる。
だが、これが本来の『彼女』だった。あの日、アレイアの家へ運び込まれたときに、恐怖し、遠ざけた。彼女が自分自身を恐れた最大の理由は、
―― ……。
壁に持たせかけた、優美な、しかし曲々しいラインを描く、女の手には一見そぐわないもの。弧月を描く鎌は振り上げれば容易く命を奪うだろう。直に伸びる逆端の刃は、生ける者を貫くために造られた。美しくも見えるその凶器が、己の罪の象徴であるかのようで、『彼女』は記憶を失ったあの日、目と耳を閉ざすように、そっとそれを戸棚の中へ押し込めた。
今一度、その中心の柄を握ってみる。握り締めれば、それは驚くほどしっくりと『彼女』の手に馴染んだ。
「……ごめんね」
自然と言葉が零れ落ちた
「ずっと、一緒だったのいね」
それは手の中で弧を描く武器に対してだったのか。それとも――。
「……」
『彼女』はカーテンを開けた。淡く、薄暗い光が森の向こうから漏れてくる。黎明の明かりが、『彼女』に何かを告げていた。
ベッドサイドに置いたネックレスを手にする。ベルの澄んだ音がりん、と鳴る。朝の空気に冷たくなった鎖が、指先に熱い。『彼女』は括られていた銀の指輪を指に転がす。ほとんど無意識にその裏を返す。
そこには、その名が刻まれていた。
『Kanon』
「行くのか」
声をかけられたのはちょうどドアを開いたときだった。足音は聞こえていたから驚かない。振り返ると、徹夜で火を消し、避難を手伝っていたせいか、やや目の赤いアレイアが立っていた。
答えに迷う。でも、アレイアの目に宿っていたのは優しいものだった。
溜め息が漏れる。ほんの少しだけ眉を曲げて、アレイアはくしゃくしゃと頭を撫でてくる。
「そんな顔するなよ。美人が台無しだ」
「……ごめん」
頭を撫でるアレイアの目には、もう昨夜の悲痛な色は残っていなかった。いや、きっと見えないだけで奥には寂寥にも似た何かが潜んでいるのかもしれない。けれど、アレイアの手と目にあったのは、家族や兄弟に向けるような、慈愛の優しさだった。
何を言えばいいんだろう。楽しかった。去ることを決めても、ここに来てよかったと思えた。昨夜だって確かに心は揺らいだのだ。恐怖していた本当の自分を追うよりも、ここで安らかに暮らすのも幸せなのかもしれないと思った。
けれど、そのどれも言い訳のように聞こえて、残酷な置き土産となりそうで。『彼女』はただ歯を噛み締めることしか出来なかった。
ブーツの紐を締めて外に出る。早朝の切るように冷たい空気が、目を覚ましてくれる。
「元気でな」
「……うん」
「この村はなくならない。村長もハンナたちも、……俺も頑張るさ。お前も頑張れよ」
「…………うん」
声も息も詰まって、上手く言葉が出て来ない。何も問いたださないアレイアの優しさが、胸に響いた。
「……ごめんね、アレイア」
「……」
「でも、私思い出したから。思い出さなきゃいけないヤツがいるって」
曖昧に笑って、アレイアはもう一度頭を撫でた。
「何て呼べばいいかな」
「え?」
「もうフィーナ、はおかしいだろ。俺はお前を何て呼べばいい?」
「……」
『彼女』は少し俯いて悩んだ。でもすぐに顔をあげる。胸に下げた小さなベルが、ちりん、と音を立てて、『彼女』の背中を押してくれた。
「カノン」
「……そうか。いい名前だな」
アレイアはそっとカノンの肩に手を置いた。思わず肩を強張らせる。一瞬だけ、額に温かな感触が触れた。
「旅の行く先に幸あらんことを。俺の郷里のまじないだ」
「……ありがとう」
カノンはゆっくりとアレイアから離れる。アレイアはふう、と晴れ晴れとした息を吐いて笑顔を浮かべた。
「ケナには俺が上手く言って置くよ」
「……うん」
「疲れたり、何かあったら帰って来い。いつでも歓迎するからな」
「うん」
最後にお互いに微笑んで、朝の空気を吸い込んで。身体の中が澄み渡る。
「もうすぐ皆起きるな。そろそろ行け。……それじゃあな」
「うん。アレイア、ありがとう。……元気で」
「ああ。俺もだ。ありがとう。また、いつか」
「うん、またいつか」
少女の背中が見えなくなって。アレイアは大きく息を吐いた。
「……これで、良かったんだよな」
そう呟いて、家の中へ戻ろうと踵を返し、
「……アレイア=ブロード、だな」
その背中に声がかかった。気を抜いていたアレイアは、そのまま振り返る。顔色が変わるのが、自分でもわかった。
目を覚ますと、隣で眠っていたアレイアはいなくなっていた。ほとんど無意識に、ケナはふらふらと立ち上がって、父親の姿を探す。
足の裏に冷たい廊下を歩いて、玄関が妙に騒がしいのに気がついた。広い小屋でもないから、ケナはすぐに扉に辿り着く。背伸びをしていつものように扉を開ける。
「ん……おとうさ……………」
寝惚け眼でその向こうにいるだろう、父親に呼びかけて。
その声が凍りついた。
扉の向こう。乾いた地面の上。よく背負われる大きな背中が、うつぶせている。変な色の、赤黒いものがその下に流れている。扉が開いても、ケナの声が聞こえても、その背中が振り返ることはなく。
その動かない背中を取り囲むように、黒い鎧を着た大きな大人が何人か立って無表情にケナを見下ろしていた。一番、先頭に立った大人は、変に粘ついた変な色の液体がこびりつく剣をだらん、と下げていた。
ケナの顔からすべての表情が抜け落ちた。
何が、何が起こったのか理解できない。目の前が暗い。
「何だ……子供か」
「待て。ヴェッセルに関わった者を隠蔽せよ、との命令だ」
かちん、と嫌に澄んだ金属音が聞こえた。呆然としたケナの身体は、凍りついたように動かなかった。
「すまないな……。命令なんだ。恨まないでくれ」
妙に赤黒い剣がゆっくりと持ち上がる。いつも父親が握る守ってくれる刃しか見たことがなかった。けれど、その切っ先が自分に向けられる。
少女の視界の正面に、朝日に照り返す刃の先が煌いて、そして。
←14へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
『彼女』の脳裏に浮かんだのは、つい先ほどアレイアが口にした言葉だった。
『それ以来、兵士は――』
『ここは奇跡的に戦火を逃れているが、山の向こうでは――』
首を振る。まさかそんな、タイミングが良すぎる。そんな都合の悪い話があるものか。けれど、ぞくりと『彼女』の肌は粟立って、背筋に緊張が走る。
昨日の昼間、村長の家で感じたあの透明な殺意と、見えざる手。じりじりと、首を絞めようと構えてくる、手。
――まさか……。
唇を噛んで再度、激しく首を振る。村の外にあるアレイアの家は未だ無事だったが、いつ炎に撒かれるとも限らない。『彼女』は示唆された場所に走り出すより一瞬前に、奇妙に明るい村を見下ろした。
赤い舌と煙とで何も見えない。ハンナは? 村長は? 本当に皆、こんなところから逃れられたんだろうか。そこには慣れ親しんだ菓子屋も八百屋も公園も、何も見えなかった。
が、
「……?」
『彼女』は目を凝らす。何か。何か、炎の中に影が見えたような。……まさか、まだ人が、
「フィーナ!」
「……っ!」
嫌な想像を掻き消すように、炎の海から逃げるように。『彼女』はケナを背負ったアレイアの後を追った。
「アレイアの旦那!」
聞き覚えのある声でそう呼ばれ、アレイアは反射的に振り返る。炎を逃れて林の中へ逃げ出した人波の中から、人好きのいいおばさんが手を振っていた。
「ハンナ! 無事だったか!」
「ああ、平気さ! フィーナちゃんもケナちゃんも無事かい!?」
「わ、私は平気」
「……」
平静を繕った、だがやはりどこか余裕のない大声で問われて、彼女は声を上ずらせた。アレイアの背中でショックを隠しきれないのだろう、青ざめて真っ白な顔をしたケナがほんお小さく頷く。
辺りはすすり泣きとヒステリックな怒号が混じっていた。それでもハンナのように冷静を保った人間が何人か、先導して地に足がついていない人々を纏め上げている。女、子供。けたたましい泣き声と、キナくさい空気が肺と胸を同時に焼いた。
「旦那、向こうで村長たちが火を食い止めてるんだ。手伝ってやってくれないかい? フィーナちゃんとケナちゃんは私が見てるからさ」
「ああ、わかった。フィーナ、ケナ、大人しくしてろよ?」
そう言ってアレイアは背中のケナをハンナに預け、走り去ってしまう。
「あ、あの、ハンナさん……。何か私も手伝うこと……」
「ああ、フィーナちゃんは落ち着いてるね。よかった、助かるよ。皆、浮き足立って、泣いてる子を世話するのが足りないんだ」
「あ、は……」
「ハンナさん!」
答える『彼女』の声遮って、半泣きの揺らいだ声が上がった。顔をあげるとほとんど転がるようにして、林の方から女性が駆けて来る。
村で何度か見かけたことがある。ただ、今は艶やかな髪も、下ろした服もすすで塗れていて、ところどころ破れていた。やや正気を失った表情で彼女は縋りつうようにハンナの腕を引いた。
「ハンナ! どうしようっ! リックが、あの子が、まだ村に……っ」
「!」
よく女性が男の子の手を引いていたのを思い出す。確かケナともよく遊んでいた。はっとしてハンナに抱かれた彼女を見ると、ただでさえ青ざめていた顔が、とうとうくしゃり、と歪むところだった。
「う……ふえええええっ!」
「ああっ、大丈夫だよ、大丈夫……だから落ち着いて」
一瞬後には火がついたように泣き出した。女性はさらに錯乱し始めて、ハンナが慌てて両方を宥めようとする。『彼女』ははっ、と顔をあげた。来る途中に見えた炎の中の影。大きさはわからなかったが、もしかしたら――
「……私、ちょっとだけ見てくる!」
「フィーナちゃん!?」
駆け出した『彼女』をハンナの声だけが追う。子供を抱えて女性に縋り疲れた格好のハンナが、彼女を追うことはできずに、『彼女』の背は瞬く間に林の向こうへと走り去ってしまったのである。
がらがらと焼けた木材が炭となって落ちる音。パチパチとうるさいほど叫ぶ火花。そして轟音にさえ聞こえる焔の鳴き声。ランプの中で小さく燃えているときにはあんなにも頼りになるのに、いざ姿かたちを変えると尋常ならざる恐怖になる。
あの女性のように、『彼女』も錯乱してもおかしくはなかった。けれど何故か『彼女』の脳は、混乱しつつも冷静を保っていた。明るすぎる村にに飛び込むときは足がすくんだが、焼けた村の門を潜った後は、まるで日の中の歩き方を知り尽くしているように、炎の赤い舌をかいくぐってストリートを駆けられた。今は炎よりも己自身に恐怖する。私は何者だったのだろう。何故、こんな場所を歩けるのか、ただ迷子の子供を助けるためだけに。
『彼女』は激しく首を振った。今はいい。今は自分が探しに来た子供のことだけ考えよう。
「!」
灰と火の粉の降る広場に差し掛かって、噴水の影に布切れを見つけた。だだっ広い広場は火の手の周りが遅いようだった。『彼女』は迷わず駆け抜ける。噴水の影に何度か見た覚えのある小さな男の子が倒れている。慌てて首を触ると、そこは確かに脈動していて、胸を撫で下ろした。
「とりあえず、早く逃げなきゃ……」
転びそうになるフレアスカートの裾を裂く。気になどしていられない。急いで子供を背に負ぶって――
「――っ!」
それを感じ取ることが出来たのは奇跡だったのか。それとも脳と身体に刻まれた本能だったのか。『彼女』は子供を庇うようにして、反射的に後退った。その足元に、
ざくっ!!
「・・・!」
自分のスカートの裾を裂いて飛来したそれに、『彼女』の背中に戦慄が走った。身体が凍りつく。
「何よ……これ……」
それが何なのかなんて知っている。きっと見たら誰だって判断がつく。でも、それが己に放たれるのを見た者と見たことがない者。数えたらきっと後者の方が圧倒的に決まってる!
肉を抉るために尖り、磨かれた切っ先が、今はやすやすと乾いた地面に突き刺さる。
・・・弓矢、だった。
足元から恐怖が駆け上がる。それでも膝が折れなかったのは、『彼女』の中に残っていた』本能が、一番の恐怖を理解していたからだ。
即ち――矢を放った者がどこかにいるのだ、と。
「!」
もう一度、殺気が背中を貫いた。『彼女』は子供を庇いながら、身体を反転させる。
ざくっ!
「――っ!」
鋭利な痛みが太股を裂いた。背中の子供を庇った『彼女』の足を掠めてとんだ弓矢は、そのままざっくりと裂けたスカートの布切れを地面に縫いとめる。
『彼女』は顔を上げた。
息が、詰まった。
明確な殺意が、真っ向から『彼女』を貫く。焼け残った屋根の上。舞う火の粉を背にして、彼女は静かに弓を構えていた。
凍りついた表情。淡い桃色の髪。無機質な、人形のような紫の瞳。灯るのは肉食獣が獲物に向けるような――悪意なき殺意。
見覚えがあった。村長の家の階段から転がり落ちた、あのときの――!
「――!」
彼女は、『彼女』を狙っていた。
悟った瞬間に、『彼女』は駆け出そうと足に力を込める。だが『彼女』の意思とは裏腹に、恐怖に竦んだ足には上手く力が入らずにがくりと膝が折れる。
かちかちと奥歯が鳴る。何、何なんだろう、この世界は。ここは本当につい先ほどまで平和だったあの穏やかな村の中なんだろうか。炎に包まれて、さらにあんなものが見える。悪夢なら早く覚めればいいのに、鏃の掠めた太股が、嫌が応にも現実を突きつける。
「……」
無感情な瞳がまた矢を番える。そこには何の躊躇いも見えない。
――っ!
声さえも出なかった。。殺される、と思った瞬間に、まだ気絶したままの子供を抱きしめて目を瞑る。何か考えられたわけじゃない。ただ本能的に、せめてと思っただけだ。暗闇の中でほぼ無意識に口を開く。助けを叫ぼうとした唇からは、しかし、とうとう何も出て来なかった。
「――っ!」
きぃんっ!
……澄んだ金属音が響いた。訪れると思っていた激痛は、いつまで経っても襲って来ない。
「……」
子供を抱きしめながら、『彼女』はゆっくりと面をあげる。そして、息を呑んだ。
炎の逆光に、大きな背中が聳えていた。
足元に折れた矢が転がって、ざくりと地面に突き立てられているのは複雑怪奇な紋様を描く大振りの剣。呆然とした頭で、その剣が飛来した矢を叩き落したのだと知る。火の粉の舞う中に佇む背中は、暗色の長いコートに覆われていて、コートの背にさらりと焔と同じ鮮やかな黄昏色の髪が落ちる。
「……」
ぴきん、とこめかみが、軋んだ。何故なのかは、わからなかった。
「――去れ」
「……」
低い。低くて、些か怒気を孕んだ声が耳を打った。静かだがけして無感情ではない。心地よいテノール。
男の背中越しにかろうじて見える屋根の上、弓の構えた女は、やはり無表情に男を見下ろしていた。しかし、しばらく無言を貫くと屋根を蹴る。猫か猿のような身軽さで隣の屋根へと飛び移った女は、瞬く間に炎の中へ姿を消した。
「……」
「あ……」
女の姿が完全に見えなくなるのを待って、男が振り返る。瞬間、
「・・・!」
鳶色の、鷹の瞳と目が合った。身体が動かなくなる。息が詰まる。でもそれは鋭い眼光に睨まれたせいじゃない。
黄昏と同じ色をした髪が炎に溶ける。逆光の中に光を放つ瞳が霧氷上位、彼女を見下ろした。
――あ、つ……っ!?
脳髄が急激に、焼けるような熱を持った。胃液が逆流して器官を焼く。異様に熱をあげた身体は、自身をいじめるようにがんがんと芯から、頭から、身体から自由を奪う。矢先を向けられたときとは違う感覚が、膝から力を奪う。
「うっ、く……っ!」
早く逃げなくてはならないのに、ぐらぐらと煮えくり返る脳が邪魔をする。そのときだった。
「……っ!」
「……こんな場所にいると、死ぬぞ」
容赦のない言葉と裏腹に、丸めた背中をまるで窘めるように大きな手のひらがなでた。視線を上げると、赤い光の中に影を作る。
暗緑のコート。胸元には奇妙な紋章。細められた鳶色の瞳は、無表情ではあるものの、先ほどの女のような冷たさは感じない。
むしろ、
―― ……?
「立てるか」
「……」
『彼女』の代わりに子供を片手で担ぎ上げた男が問う。頭一つ分半は高い背丈。黄昏の髪、何故だかどこか物悲しい瞳、背中に添えられた無骨でとても大きな手。
呆然と男の顔を見上げたまま、口から滑り出した言葉はほぼ無意識だった。
「……貴方、」
「?」
「貴方、私を知ってる?」
「――っ!」
無表情な男の顔に、明らかな同様が走った。わずかに見開かれた鳶色の目が、複雑な色に変化する。だが、それが何より明確な答えだった。
「知って……る、の?」
「……」
自らの困惑を押さえつけながら、『彼女』はよく回らない舌で言葉を紡ぎ出す。男は答えない。そして『彼女』がもう一度、同じ問いを繰り返そうとした、刹那、
「っ!?」
「――すまない」
首筋の辺りに軽い衝撃があった。歯を苦縛る間もなく、休息に意識が落ちる。
――うっ……く……っ!
暗闇のカーテンが落ち切る直前、『彼女』が最後に目にしたのは、苦痛と、何故だか痛ましいほど悲しく歪んだ男の顔だった。
アレイアは焦っていた。火の勢いが弱まり始め、疲労した老人たちを避難所へ送り届けてみると、そこにフィーナの姿はなかった。
わかっている。自分はそんな心配ができるような立場じゃない。ただ、まだ忘れ得ぬ想い人の面影を彼女に重ねているだけの、酷い男だ。自惚れることさえできない。
だがそれでも、見捨てられるはずはなかった。
――くそっ! あの馬鹿……っ! 後先考えずに……っ!
どこが火の元で何が原因かもわからない。それなのに。至極、彼女らしいと言えばそうなるが、笑い事でも冗談でも、済ませられるものじゃない。
林を抜けて、焼け残った村の柵の袂に差し掛かる。そのときだった。
「! フィーナ!」
「! アレイア!」
子供を抱きかかえたまま、すわり込むフィーなの後姿が見えた。声を張り上げると、金色の頭が振り返って、名前を呼び返す。
一瞬、安堵したアレイアだったが、彼女の傍に佇んでいた男に、即座に表情を強張らせた。
「アレイア……?」
「!」
"それ"に気がついたアレイアは迷わず腰に下げていた剣を抜いた。
「アレイア!?」
「フィーナ下がれ! その男から離れろ!」
「け、けど……!」
言い澱むフィーナを庇うように前に出て、長身の男を睨み上げる。鷹のような鋭い目。着込まれた軍服の胸元意、あの忌まわしい紋章が張り付いていた。
「八咫烏の紋……っ!」
「え……?」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
――っ!?
アレイアの吐き出した、にわかには信じがたい単語に、フィーナの瞳が見開かれる。男の眉がわずかにひくり、と動いた。アレイアはフィーナの腕を引き、後ろに下がらせると、剣の切っ先を男へと向けた。
「まさか、村を焼いたのも貴様らか!」
「……違う」
しかし、アレイアの瞳は疑惑を湛えたままだった。
『彼女』はアレイアと彼とを交互に見比べる。そして意を決したように唇を引き結んだ。
「待って、アレイア」
「フィーナ……っ!」
「貴方の気持ちもわからなくない、けど、でも……」
『彼女』は一度、言葉を切った。遮るアレイアの腕を押し退けて前に出ると、真っ向から高い鳶色の瞳を覗き込んだ。
「――貴方、私を知ってるのね」
「……」
男はわずかに顔をしかめてみせた。けれど何故だか彼女には解った。それが、何よりの肯定なのだと。
男は静かな瞳で、一度だけ『彼女』を見た。わずかに唇を噛み、それでも口は開くことなく踵を返す。
「ま……っ!」
「さっさと去れ。いつまでもここにいると死ぬぞ」
それだけ告げると男は地面を蹴った。凄まじい速さで林を駆け抜ける。子供を抱えたまあの彼女に、それが追えるはずもなく、その場で足を止める。
「フィーナ……?」
「……」
肌が妙に粟立っていた。地に足が着かない。アレイアが呼ぶその名前が、いつも異常に遠かった。
「……?」
視界の隅が光ったような気がして、視線を下ろす。固く焼けた地面の上に、きらりと小さく、何か鎖のようなものが落ちていた。拾い上げると、金属であるソレは妙なほど温かかった。つい先ほどまで人の手の中にあったかような。
――……ネックレス?
シルバーの鎖に繋がれたのは、小さな、透明なベルと銀色の指輪。シンプルで、けして華美ではなくて、飾り気のあまりない。
――……。
無意識に、彼女はそれを手の中へ握り締めた。
心臓が、何故だか痛いほど熱かった。
ぱさり、と床にワンピースが落ちた。昨日の今日で、呑気に朝から郊外を散歩しているような人間もいないだろうが、一応はカーテンを閉めておく。
郊外にあったアレイアの家は運良く庭を舐めた程度の被害で済んだ。今、狭いリビングでは何人かの村人たちが避難して来ている。早朝で疲れもあるのだろう。今は皆眠っている。少し経てば、皆起き出して村の復興を始めるんだろう。
火が消えたのはもう明け方近くになってからだった。呆然と立ち尽くす人、泣き疲れて切り株で眠ってしまった人、悲嘆にくれる人。そんな中で村長やハンナは残った家から食べ物や水をかき集め、手製の竃で温かいものを振舞っていた。それに元気付けられたのか、村人たちの間では、朝になる頃にはあそこはああ直して、今度は家をこうしたい、なんて会話がちらほら聞こえ始めていた。
「今まで戦火なんか遠くて、実感なんてなかったけどね。でも私らだって、そんなに弱くないさ。壊れちまったものを嘆いてばかりじゃ生き残れないしね」
ハンナは疲れた顔に笑顔を浮かべながら言った。
生物の生命力は凄い。それは人間も変わらずに、逆境に生きている人間ほど根底が強いのかもしれない。彼らも嘆いていないわけではないだろう。ただ生きるために一生懸命。それが、殊更に美しく見えた。
「……」
何故だろう。それを思ったとき、『彼女』の中に湧き上がったのは、小さな、されどけして弱くはない衝動だった。無意識に、意図的に遠ざけるように、クロゼットの奥に仕舞い込んでいた服を引っ張り出す。黒のシャツを被って、オレンジのコートを羽織、ベルトを締める。悩んだ後に髪を括ってバンドで締めた。磨かれずに曇った鏡の中には昨日までとまったく違う自分がいる。
だが、これが本来の『彼女』だった。あの日、アレイアの家へ運び込まれたときに、恐怖し、遠ざけた。彼女が自分自身を恐れた最大の理由は、
―― ……。
壁に持たせかけた、優美な、しかし曲々しいラインを描く、女の手には一見そぐわないもの。弧月を描く鎌は振り上げれば容易く命を奪うだろう。直に伸びる逆端の刃は、生ける者を貫くために造られた。美しくも見えるその凶器が、己の罪の象徴であるかのようで、『彼女』は記憶を失ったあの日、目と耳を閉ざすように、そっとそれを戸棚の中へ押し込めた。
今一度、その中心の柄を握ってみる。握り締めれば、それは驚くほどしっくりと『彼女』の手に馴染んだ。
「……ごめんね」
自然と言葉が零れ落ちた
「ずっと、一緒だったのいね」
それは手の中で弧を描く武器に対してだったのか。それとも――。
「……」
『彼女』はカーテンを開けた。淡く、薄暗い光が森の向こうから漏れてくる。黎明の明かりが、『彼女』に何かを告げていた。
ベッドサイドに置いたネックレスを手にする。ベルの澄んだ音がりん、と鳴る。朝の空気に冷たくなった鎖が、指先に熱い。『彼女』は括られていた銀の指輪を指に転がす。ほとんど無意識にその裏を返す。
そこには、その名が刻まれていた。
『Kanon』
「行くのか」
声をかけられたのはちょうどドアを開いたときだった。足音は聞こえていたから驚かない。振り返ると、徹夜で火を消し、避難を手伝っていたせいか、やや目の赤いアレイアが立っていた。
答えに迷う。でも、アレイアの目に宿っていたのは優しいものだった。
溜め息が漏れる。ほんの少しだけ眉を曲げて、アレイアはくしゃくしゃと頭を撫でてくる。
「そんな顔するなよ。美人が台無しだ」
「……ごめん」
頭を撫でるアレイアの目には、もう昨夜の悲痛な色は残っていなかった。いや、きっと見えないだけで奥には寂寥にも似た何かが潜んでいるのかもしれない。けれど、アレイアの手と目にあったのは、家族や兄弟に向けるような、慈愛の優しさだった。
何を言えばいいんだろう。楽しかった。去ることを決めても、ここに来てよかったと思えた。昨夜だって確かに心は揺らいだのだ。恐怖していた本当の自分を追うよりも、ここで安らかに暮らすのも幸せなのかもしれないと思った。
けれど、そのどれも言い訳のように聞こえて、残酷な置き土産となりそうで。『彼女』はただ歯を噛み締めることしか出来なかった。
ブーツの紐を締めて外に出る。早朝の切るように冷たい空気が、目を覚ましてくれる。
「元気でな」
「……うん」
「この村はなくならない。村長もハンナたちも、……俺も頑張るさ。お前も頑張れよ」
「…………うん」
声も息も詰まって、上手く言葉が出て来ない。何も問いたださないアレイアの優しさが、胸に響いた。
「……ごめんね、アレイア」
「……」
「でも、私思い出したから。思い出さなきゃいけないヤツがいるって」
曖昧に笑って、アレイアはもう一度頭を撫でた。
「何て呼べばいいかな」
「え?」
「もうフィーナ、はおかしいだろ。俺はお前を何て呼べばいい?」
「……」
『彼女』は少し俯いて悩んだ。でもすぐに顔をあげる。胸に下げた小さなベルが、ちりん、と音を立てて、『彼女』の背中を押してくれた。
「カノン」
「……そうか。いい名前だな」
アレイアはそっとカノンの肩に手を置いた。思わず肩を強張らせる。一瞬だけ、額に温かな感触が触れた。
「旅の行く先に幸あらんことを。俺の郷里のまじないだ」
「……ありがとう」
カノンはゆっくりとアレイアから離れる。アレイアはふう、と晴れ晴れとした息を吐いて笑顔を浮かべた。
「ケナには俺が上手く言って置くよ」
「……うん」
「疲れたり、何かあったら帰って来い。いつでも歓迎するからな」
「うん」
最後にお互いに微笑んで、朝の空気を吸い込んで。身体の中が澄み渡る。
「もうすぐ皆起きるな。そろそろ行け。……それじゃあな」
「うん。アレイア、ありがとう。……元気で」
「ああ。俺もだ。ありがとう。また、いつか」
「うん、またいつか」
少女の背中が見えなくなって。アレイアは大きく息を吐いた。
「……これで、良かったんだよな」
そう呟いて、家の中へ戻ろうと踵を返し、
「……アレイア=ブロード、だな」
その背中に声がかかった。気を抜いていたアレイアは、そのまま振り返る。顔色が変わるのが、自分でもわかった。
目を覚ますと、隣で眠っていたアレイアはいなくなっていた。ほとんど無意識に、ケナはふらふらと立ち上がって、父親の姿を探す。
足の裏に冷たい廊下を歩いて、玄関が妙に騒がしいのに気がついた。広い小屋でもないから、ケナはすぐに扉に辿り着く。背伸びをしていつものように扉を開ける。
「ん……おとうさ……………」
寝惚け眼でその向こうにいるだろう、父親に呼びかけて。
その声が凍りついた。
扉の向こう。乾いた地面の上。よく背負われる大きな背中が、うつぶせている。変な色の、赤黒いものがその下に流れている。扉が開いても、ケナの声が聞こえても、その背中が振り返ることはなく。
その動かない背中を取り囲むように、黒い鎧を着た大きな大人が何人か立って無表情にケナを見下ろしていた。一番、先頭に立った大人は、変に粘ついた変な色の液体がこびりつく剣をだらん、と下げていた。
ケナの顔からすべての表情が抜け落ちた。
何が、何が起こったのか理解できない。目の前が暗い。
「何だ……子供か」
「待て。ヴェッセルに関わった者を隠蔽せよ、との命令だ」
かちん、と嫌に澄んだ金属音が聞こえた。呆然としたケナの身体は、凍りついたように動かなかった。
「すまないな……。命令なんだ。恨まないでくれ」
妙に赤黒い剣がゆっくりと持ち上がる。いつも父親が握る守ってくれる刃しか見たことがなかった。けれど、その切っ先が自分に向けられる。
少女の視界の正面に、朝日に照り返す刃の先が煌いて、そして。
←14へ
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
★ カレンダー
03 | 2024/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |
★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
★ 最新記事
(08/16)
(03/23)
(03/22)
(03/19)
(03/11)
★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
★ カテゴリー
★ 最新コメント
[10/13 梧香月]
[10/11 小春]
[10/05 香月]
[09/29 ヴァル]
[05/23 香月]
★ 最新トラックバック
★ ブログ内検索
★ アクセス解析
Copyright (c)DeathPlayerHunterカノン掲載ページ All Rights Reserved.
Photo material by 空色地図 Template by tsukika
Photo material by 空色地図 Template by tsukika
忍者ブログ [PR]