胸騒ぎがする。
先刻から、相棒が図書館に行くと言ったきり、夕刻まで戻らない。各国の如何わしい、それこそ眉唾物の伝承やら都市伝説やら、言葉を悪くすればオカルトマニアな彼女のこと。
一風変わった本に気を取られて、時間を忘れることは度々あるが、場合が場合だ。こんなときに、落ち合う時間を過ぎてまで熱中しているとは珍しい、いや、初めてだ。
―――最も……こんなときだからこそ、本に熱中している以外の理由も十二分考えられるがな。
「全く、どれだけトラブルに巻き込まれ易いんだ、あいつは……」
柱につけていた背を離し、雑踏に混じってレンは歩き出した。
図書館と宿屋のちょうど半分ほどの場所にある食堂。今朝、別れ際に帰りに本を持つのを手伝って欲しいから、聞き込みが終わったらここで待っていろと命じたのは一体誰だったのか。ゆうに半刻が過ぎている。
「レンッ!!」
歩き始めたと同時に、進行方向から甲高い声が上がる。似たトーンだがまさか相棒と間違えるなどということはない。
視線を上げると人込みを掻き分ける……いや、無理矢理押し退け、分け入るような格好で覚えのある少女が近づいて来ていた。頑張っているのは解るが、さすがに小柄な身体では全ての人を押し退けるなんてことは出来ずになかなか難儀しているようだ。
速度を上げ、自らの身体で適当に人をあしらう。
「はー、助かった、さんきゅー……」
「息を切らせてまでどうした?」
まだ約束の時間まで大分あるが、と続ける。ルナは息を整えてから面を上げ、
「クロードってもうそっちに行ってる?」
「いや、俺は聞き込みの後すぐ此処に来たからホテルの状況は知らん。だが、見てないな」
「そう、ホテル行くならここ通るはずよね……」
「いないのか?」
自らが狙われている自覚があるなら下手に裏通りを通るなどと愚かな真似はしないだろう。WMOからホテルに通じる大通りはこの一本しかない。
「ちょっと、行く前に軽く声かけようかと探したんだけどどこにも、ね。スケジュール見てみたんだけど、今日はもう何も公務入ってないから。
外に出たにしても狙われてるかもしれないときに何やってんだ、と思って探してたのよ」
「奇遇だな」
「は?」
「俺も人を探そうとしていたところだ。あいつを見なかったか?」
「あいつ、ってカノン?」
頷く彼を見て、ルナは顎に手を当てる。
「午前中、図書館に行ったときに一回会って声かけたけどそれっきり。急いでたし、大した話してないわ。
いないの?」
「待ち合わせていたはずなんだがな。半刻過ぎてもまだ、といった状況だ」
「けど、今あたしもクロード探すために図書館寄ったけどいなかったわよ。確かに広いけど、いたら気が付くと思うし。
……って」
ふと思いついて言葉を止める。
「ねえ、レン。カノンて午前中からずっと図書館にいた?」
「さぁな。今日の大半はあそこで過ごすとは言っていたが。朝方、別れたきりだったからな」
「あの、ね。落ち着きなさいよ? 落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
頭に血が上ったこの男の恐ろしさはルナも十二分に理解している。あの五人の中では最も古い付き合いだ、何を触発すればこの滅多なことでは冷静さを欠かない男を怒らせることが出来るのかくらいは知っている。
だからこそ。
慎重に前置いた。
「さっき探してたときに、さ。派手に割れてる窓を見つけてね、気になったからちょっと見てみたんだけど……
端っこがちょっと炭化してたのよね。たぶん、何かの魔法を喰らったんだろうけど。まあ、魔道師が多数出入りするんだから何かの呪文を口ずさんじゃった奴がいただけかもしんないけど。
気になったから聞いてみたんだけど、昼過ぎに割れちゃったんだ、って。
で、ね。図書館の入出記録って自分がするときに簡単に見られるんだけど、ちょうどその頃ってWMO権限で貸切になってたのよ」
「……」
「で、ね? あ、あのさ、これはあたしも今日情報収集してて初めて知ったんだけど。
あそこの図書館て表向き公共だけど、WMOの司書施設と統合してて、資金は豊富なWMOがほとんど出してるから実質あそこの管理下っていうか統括っていうか……って、こらこらこらッ!!」
話半分に歩き出したレンの腕を掴みながら声を荒げる。引き摺られそうになるのを何とか止めながら、
「だーかーらッ! もしもッ! 何かあったんじゃないかなー、って想像は出来るって話ッ!!
本当は何も無かったのかもしれないし、クロードだってカノンだってどっか別のとこに行っただけのことかもしれないしッ!!
全部、不確かなんだから短気に行動起こすんじゃないわよ、ホテルにシリアやアルティオだっているんでしょーがッ! クロードももしかしたらそっちに居るかもしれないんだしッ!!」
「誰が短気を起こしているんだ」
呆れた息を吐き出し、彼はようやく足を止めて振り返る。
「何があったにしろWMO関連だろう? ローランを訪ねて少し穏便に聞いてやればいいだけの話だ。
相手は俺たちがクロードに接触してることを知ってるはずだ。普通に知らないと返すか、白々しく受け流すかで白か黒が判断できる。万一、慌て出したんだとしても、それはそれで部下の暴走と判断できるだろう? つまりは誰に付くかの判断材料だ」
「あ、あぁそぅ……。びっくりした。あんたのことだからこのままローラン切り殺しに行くかと思ったわ……」
「……貴様、俺を何だと…」
「……誘発的自動辻斬り凶器?」
「……」
「いや、まあそれはいいや。けど、あんたもそのまま無事に帰してくれるか解んないし、あたしも……」
言いかけて。
ルナの言葉が止まる。レンもまた身を硬くした。
殺気。
ルナが呻く。その額には珠のように汗が浮き、赤みを帯びた頬を滴って落ちた。背筋がびりびりと震えた。
しかし、それは一瞬のことで。
レンとルナの動きを止めたとんでもないその強烈な殺気はしかし、次の瞬間には跡形もなく霧散していて。
数秒のうちに掻いた大量の汗を拭いつつ肩を落とす。
「何……今の…」
「……」
感じたことのない黒い殺気。冷えた空気が辺りに漂い、会話することも忘れた。
しかし、
「きゃああぁあぁあぁぁぁッ!!」
沈黙を劈いて、すぐ側の通りの向こうから重なった悲鳴が轟いた。はっとして顔を向ける。
「げッ!?」
最初に声を上げたのはルナの方だ。
視線の先に居たのは、通りの真ん中に陣取って奇声を上げる……二メートルほどのねずみ、もどき。
汚らしい溝の色の身体に、どう見ても外骨格の、毒を持っていることを見せ付けるかのような八本の足。おったてた尻尾だけが白く長い。
「な、何でこんなところにッ!?」
「言っている場合か。行くぞ」
「お、おっけ……」
明らかな動揺を張り付かせながら通りの向こうへ駆ける。逃げようと逆進してくる人の群れを何とか交わしながらルナは小声で呪を唱え始め、レンは腰に下げたショートソードの方を抜く。
さすがにこんな人込みの中で大剣は使えない。
割れた人込みの前に躍り出て、迫った足の一本を叩く。小剣ではさほどの威力は出ないが、傷をつけることは出来たようだ。
き、ききぃいきぃッ!!
甲高い奇声を上げて、憎しみの篭もった赤い目をレンへと向ける。その一瞬、他への注意は散漫になり、
「我求む、繰り出すは惨禍の刃、貫けレイジングソードッ!!」
虚空に浮き上がった空気の塊が刃になり、ねずみもどきを貫いた。そのまま爆縮、派手な音を立ててねずみの身体が四散する。
どろりとした体液が噴き出して、辺りを異臭が包む。その匂いに鼻を曲げながら、レンとルナは顔を見合わせる。
そのとき、
「おーいッ!!」
焦りを含んだ怒鳴り声が鼓膜を響かせる。振り返るとホテルの方角から、それぞれ剣を背負ったアルティオとシリアが駆けてくるところだった。表情に余裕がない。
「お前ら、一緒だったのか?」
「いや、たまたまそこで会ったら、こいつが出て来てね。それよりクロード見なかった? ホテル行ってない?」
「い、いや、そのことなんだけどよ、昨日捕まえたあの野郎が……」
「そんな話は後でも出来るでしょうッ!」
「いだッ!!」
シリアの肘打ちがアルティオの背中にヒットする。いつも張り倒されている人間が別の人間を倒すと何となく違和感を感じる。
まあ、それはどうでもいい。
「悠長にしてる場合じゃないわッ! ホテル近くにも出たのよ、あれがッ!」
「合成獣か?」
「そーよッ! 集まってるギャラリーとかホテルの従業員とかに襲い掛かろうとして……」
「ち、ちょっと待ってよ! 何でッ!? そんな違う場所に同時に、なんて今まで無かったじゃないッ! 何でいきなりッ!?」
「そんなの私が知るわけ……ッ」
叫んだシリアの声を遮って、
しゃぎゃぁぁあああぁああああぁぁぁッ!!
一つ、外れた通りの向こうから、どこかで聞いたような奇声と多数の悲鳴が轟きあがる。
「ち、ちょっと……」
「まさか……」
きりッ―――レンが歯を噛み鳴らす。明らかに青ざめた一同の、胸に浮かんだ、しかし口にするには憚れる嫌な予感をいやに断定的に下す。
ありえない。正気を失った行動としか思えない。しかし、現実として起こってしまっているのだ。
「まさか、町中で合成獣が暴れてるというのかッ―――!?」
町に狂騒が走っている。上がる悲鳴と咆哮、宵闇が落ちかけた夕刻のBGMとしてはあまりにも不釣合いな。
昼の長いクオノリアとて、既に太陽は海の端に沈もうとしている。赤い夕べの映る水面の幻想さに対して、随分とこの喧騒は耳障りだ。
やや涼しさを増した風が頬を抜ける。最も、その風を感じることが出来るのは、片方でしかないのだけれど。
「……」
町を一望することの出来る時計塔の片隅で。
少年は喧騒に塗れた町をただ静かに眺めていた。
口の端にうっすらと微笑みさえ浮かべながら。
黒い髪が、衣装が、風になびいて残像を残す。
「……さて、最終幕[ラストヴァージン]、いや、それともまだ始まりの章[オープニングセレモニー]かな。
先鋭なる戦士諸君は一体、どう動く……?」
まるで何かの享楽を見ているかのように。
少年はくすり、とかすかに笑った。
ざんッ!!
一薙ぎしたレンの破魔聖が目の前の蜘蛛を両断する。背中に針を張り付けた、気味の悪い体が崩れていくのを見ながら、嫌悪の呻きを吐き出す。
「シリアッ、アルティオッ!」
頭上から響いた声に、二人がその場を飛び退いた。それと同時に、
「我滅す、叫ぶは精美なる亡びの咆哮、唸れブレイズシェルッ!!」
轟ッ!!
真上から放たれた閃光の渦が、三体の異形を消し去って消え失せる。
閃光が収まるのを待って、ルナは術を浮遊の術を解いた。
「どーなってんのよ、いくら倒しても追いつかないわ、こんなッ!!」
「私に八つ当たりすんじゃないわよッ! ともかくッ! 元を断たなきゃどうしようもないわッ!!」
「元って言ったってなぁ……」
「……少しは落ち着かんか、お前ら」
揃うなり罵り合いを始めた要領の得ない連中を制しながらレンは剣に付着した体液を払う。
軽く首を振り、青みを帯び始めた空を仰ぐ。
―――いかんな。
まったくの夜になってしまえば、合成獣の姿も気配も感じにくくなる。いくら暑い気候とはいえ気温も下がり、冷えた汗は体温を下げさせて動きを鈍くさせる。
良いことは一つもない。
となれば、
「……シリア、アルティオ、お前たちはこのまま街中の合成獣を掃除しろ」
「へ?」
「ルナ、行くぞ」
「行く、って……」
「決まっているだろう」
「ちょっと、レン! まさか……」
「そのまさかだ」
言ってレンはくるり、と背を向ける。視線の先には無論、黄昏を映してどこかの居城のように佇む巨大な建築物―――WMOクオノリア支部。
「ち、ちょっと待てレンッ!」
「この期に及んで何だ……急を要する件に馬鹿な苦情は」
「いや、とりあえず聞けってッ! 昨日のあいつが目を覚ました、って言っただろッ! でな、そいつが……ッ!!」
どんッ!!
その声を遮るかのように。
通りから光と轟音が漏れた。振り返ると、光と炎に身体を焼かれた一匹のねずみが、霧散しながら地に伏せるところだった。
「何故、民間人がこんなところにいるッ!?」
叩きつけられた声にプライドの高いルナとシリアの額に血管が浮いた。
ねずみが倒れた向こうから現れた青い礼服を着た若い男たちが、焦燥を顔に張り付けながら立っていた。礼服と紋章には見覚えがある。
「あんたたち、WMOの……」
「民間人にはとっくに避難勧告が出されているはずだッ! 早く安全な場所に避難しろッ!」
ぶちッ!
鈍い音がレンとアルティオの耳だけに確かに聞こえ、響く。
「やかましいッ! こっちを何だと思ってんのよッ!」
「ほーっほっほっほ、大体にして今まで合成獣を喰い止めていたのは誰だと思っているのかしらッ!? 無礼な態度もそこまでにするのねッ!!」
「なッ……」
『何だとぉッ!?』
男たち全員の声が唱和する。レンは呆れて肩を下ろし、
「……こんな状況で挑発する相手が違うだろう」
「その通りだ。お前たちも怒る相手を間違うな」
はっ、と全員が顔を上げる。
レンの声を継いだ重厚な言葉と声。聞き覚えがあった。いや、この状況下で解らないはずがない。
男たちの動きを止めさせた、年輪の刻まれた声と精悍な顔。落ち着き払った表情だが、そこにはやはりわずかな焦りが見て取れる。
「ローラン……さん」
「……」
宵闇を背にして立っていた彼に、ルナが掠れた声を上げる。
「えーっと、あの」
罰が悪そうにルナはローランとレン達とを見比べる。ローランはそれに溜め息をついて首を振り、
「……もう良い。貴女がそこの者たちと何らかの繋がりがあることには気がついていた。しかし、今さらそれを問い詰めたところで何にもなりはしない」
「すいません……」
敵か味方か、判然としない今でもそれでも雇い主は雇い主。一応の礼儀というものがある。素直に彼女は頭を下げた。
「もう良い。もう良いのだ」
「ローランさん?」
違和感にルナは面を上げる。何故だろう。彼の口調から諦観というか達観というか。ともかく、何かの諦めのようなものを感じる。
何故?
彼が黒幕だとしたら、何故そんな諦めが湧いてくる?
それともこれもまた部下の暴走が招いた憂いなのか、はたまた失策に終わったことを嘆いているのか。そもそも何故このような手段に……
「こうなるまであれを止められなかった私に非がある」
「はい……?」
「……」
その言葉の違和感に、レンとルナが顔を見合わせる。
「あれ、とは?」
「……」
レンの発した問いに、ローランは陰鬱な溜め息を吐き出した。
空を仰ぎ、何かを悟ったかのように目を閉じて、何かを覚悟をしたかのように開く。
「貴殿らに頼みたいことがある」
「支部長ッ!!」
事情を知る者たちなのか、男たちが慌てた様子でローランの肩を掴む。しかし、ローランはそれをやんわりと制した。
「良いのだ。どの道、我らにあれは裁けぬ。ならば、かすかな希望に縋る他あるまい」
「ですがッ―――」
男が唇を噛む。宥めるようにローランは男の背を叩いた。
苦々しくも男たちが首を縦に振るのを確認すると、再びこちらへ向き直る。
「……何でしょう?」
「この合成獣を、あれを止めなくてはいけない……。こうなったのは私の責任だ。
身内だからと告発も出来ず、あまつさえ内輪で済めばとこうなるまで匿っていた私が悪いのだ」
「身内、って……」
ルナの戸惑いに。
ローランは肩を落して、どこか疲れたように、憂いを吐き出すように口を開く。
「貴殿らも接触しているであろう。
あれ―――この合成獣を生み出したのは、私の孫……クロード=サングリットだ」
「なッ……」
数秒してようやくルナの口から呻きが漏れた。
沈痛な面持ちのローランは眉間に皺を寄せたまま。
凍りつく空気の中でレンはアルティオの方へ視線を向ける。それに気が付いた彼はばりばりと短髪頭を掻き毟り、
「ああ、それを言おうとしたんだよ。昨日の奴が目を覚まして、あいつの名前……は、言ってないけど、『銀髪の若い男に頼まれた』ってさ。もしかしたら、って思ってお前らを探してたんだ」
「何故早く言わん」
「言えなかったんだよッ! つーか、何度も言おうとしてたしッ!!」
「というかこんな騒ぎになってまで何でカノンはいないのッ!? あの小娘、怖気づいて逃げたんじゃないでしょーねッ!」
「だから急いでいると言っている」
「はぁッ!?」
「待て待て待てッ! 短文で情報交換しようとすな、あんたらッ!!
と、とにかく、ローランさん! それって本当のことなんですかッ!? クロードさん、いやクロードが黒幕ってッ!」
好き勝手に会話とも言えない会話を飛ばす一同の首根っこを掴みながら、ルナが詰め寄った。
ローランは力無く頷く。
「なるほどね。ようやくカノンがいなくなった理由が知れたわ」
ルナの言葉に、レンの舌打ちが重なる。
「ち、ちょっと待てッ! 何だ、カノンがいなくなったってッ!?」
「文字通りの意味ね。懸念はしてたけど、これではっきりしたわ。
たぶん、クロードの仕業よ」
「おいッ! 待てよッ! カノンが捕まったっていうのかッ!? 何でッ!? クロードはこっちを味方につけようとしてたじゃねぇかッ!」「タイムリミットが今日の夕方だったからよ。今日の夕方には、昨日捕まった奴が全部吐くと踏んで、カノンを攫ってこっちの足並みを乱した後に一網打尽、みたいに考えてたんでしょ。
だからってこんな合成獣大量発生みたいなことをする理由はどこにも見当たらないんだけど……むしろ、今、こんなことを起こすなんて愚策としか思えないし……」
「ぐちゃぐちゃ考えてる場合かッ!! さっさとカノンを助けに行かねぇと……ッ!」
「……どこによ?」
「へ……?」
鼻息荒く勇んだアルティオの勢いを、いやに冷静なシリアの冷たい声が凍らせた。
「まあ……。候補があるといえばあるが、この余裕のないときに無駄な場所に行くのは避けたいな」
呆れた息を吐きながら、レンが視線を移す。切れ長の目を、さらに細め、睨むようにローランを見据える。
「あんたに直談判するつもりでWMOに行こうとしていたが、都合がいい。こんな事態になっているんだ。隠したところで何も得なことはない。
知っていることは全て話せ」
「……私が悪いのだ。私は昔からあれにWMOに対する不平不満ばかりを言っていた気がする。
あれが狂った野望を抱くようになったのはひとえに私の責任なのだろう」
「野望、って例のWMOを陥れて逆に実権を……ってやつ?」
シリアが首を傾げて問いかける。ローランは迷いを見せながら頷いて、
「確かにそれもあろう……。だが、奴が企んでおるのはそればかりではあるまい」
「それ以外……って」
「あれは異常なほど魔道研究にのめりこんでいる……古今東西、過ちを犯す魔道師の動機は自身の実力を世に知らしめる場所を求めてのものだ」
「まあ……」
「間違ってはいないな」
「あれも同じこと。貴殿らも知っているだろう、そしてこのクオノリアにはそのための恰好の餌がある……」
ローランが空を、海を仰ぐ。視線を辿る。その先にはただ、途切れることの無い水平線が不気味な青を宿しているだけだった。
意識が回復して最初に感じたのは冷たい壁の感触。
お世辞にも寝覚めがいいとは言えない。次に痺れた手足と走る痛み。
「う……ッ?」
「お早いお目覚めで、眠り姫[スリーピングビューティー]」
芝居がかった声に意識が覚醒する。
反射的に身体を動かそうとして、無駄だった。ぎり、と締め付けるような痛みが手首と足に走る。
―――って、またこのパターンか……
意識の下に、木を失う直前の情景の記憶がゆっくりと戻ってくる。そうだ。確か図書館で……
強制的に背伸びをさせられているような体勢だ。疲れることこの上ない。
心の内でありったけの悪態を吐きながら、カノンはうっすらと目を開けた。暗い。ぼんやりした視界の向こうで、薄暗いどこかの部屋に、幾つかのおぼろげな光が見える。
頭を振って視界を正す。
反動で手首を縛る鎖がじゃり、と耳障りな音を立てた。
「案外、体力はあるんですね。ここまで早い目覚めだとは思わなかった」
「……こんな薄暗い場所に女を縛りつけて置くなんて随分といい趣味してるわね」
あえて相手の言葉を無視して、辺りを見渡す。そこは以前、良く見かけたような魔道師のラボだった。死術狩りをしていた当時はこういった部屋を何度も見た。
薄暗く、日の光は一切差してこない。今は何時ぐらいなのか? 強制的に眠らされていた今では、体内時計も狂っていて判別できない。
石造りの壁と天井。居並ぶ何かしがの実験用具と何語か解らない文字で書かれた蔵書の載る机。
そして、付き物なのが趣味の悪いインテリア。
―――しかし、まあ……
渋い顔を作りながらカノンはそのインテリアを見上げる。合計十はあるだろうか。生命維持のための用水が入れられた三メートル大の巨大なケース。
ほとんどのものが空だが、部屋の向こうには黒い影の映るケースもちらほら見える。
魔道生物を眠ったまま保管する装置だ。
自分の運の悪さを呪いながら、その部屋の真ん中でまるで天下でも手にしたように微笑む男に視線を向ける。
「体のお加減はいかがですか?」
「最悪」
カノンは正直に答えた。その男―――嫌な笑みを浮かべて佇む、クロード=サングリットへ。
「で、何のつもりよ」
「割と冷静ですね」
「考えてみたら、ね。別にローランが犯人であっておかしくはないけど、あんたが犯人て聞くとそれもあー、なるほど、って思えちゃうのよ。
随分と付け焼き刃でいい加減な策だとは思うけど……。
昨日、話してくれてた動機だって別にローランじゃなく、あんたが抱いてても何の不思議もない理由だったし、それに昨日の夜、わざわざ椅子に座らないでドアの近くに座ったのも、窓側から襲撃が来ることを知ってたからなんでしょ」
「……」
「わざわざ自分が狙われてるみたいな演出まで凝らして、自分の祖父に罪をなすりつけようとした。
聞けばあんた、ローランに邪魔されて上階級貰い損ねたって話じゃない。だから腹も痛まなかったわけ?
ただ唯一の誤算は昨日のために雇った連中の一人が捕まっちゃったこと。なもんだから、逆に全部バレる前にあたしたちを始末しなきゃならなくなった。で、まずあたしたちの統率力を奪うためにあたしを攫った。
まあ、そんなとこ?」
「貴女方の中心にいるのは貴女のような感触を受けましたからね。それに貴女は明らかに危険因子です。放って置いたら、いずれ真実に行き当たるでしょうし」
ケースガラスに手を付きながら言う。浮かべられた穏やかな微笑に嫌悪さえ抱きながら、痛む腕を庇いつつ、
「クレイヴのこともやっぱりあんたが?」
「とんでもない」
クロードは肩を竦めて白々しく首を振る。
「クレイヴさんに金銭面や貿易の面で協力願っていたのは本当ですが……あの方はまだ利用価値がありました。
こちらとしても困っていたんですよ。まあ、下の者の暴走かもしれませんが、惜しい方を亡くしたものです」
「……」
「もっとも、最近は―――特にあのビーチの一件以来、すっかり脅えてしまっていたようですから、好都合だったと言えばそうなんでしょうかね。
あの分ではいずれ誰かに口を割りかねなかったでしょうから」
―――そういう……ことか…
あの夜のクレイヴが、フロント係からの伝言を受け取った後、何故あんなに蒼白だったか解った気がした。
つまり、あれは脅迫だったのだ。
何か喋れば命はない、とクロードからの。
「ともかく、彼を殺したのは僕じゃあありませんよ」
「……一般人の真ん中に合成獣なんてもの放り込んでくる奴のことなんかを信じろ、っていうの?」
カノンの挑発に、クロードは初めて不快に眉を歪ませた。唇を噛み、ガラスケースに拳を押し付ける。
「そうなんですよ、僕もそれが知りたい」
「……?」
「一体、誰があんなところに『獣の華』を放ったのか。あの一件が起こってからです。全部、計画が狂い出したのは」
「何ですって?」
「一般人の目にあれが触れ、クレイヴが殺され……そして貴方たちというジョーカーが事件に絡んで来た。
僕としても不本意なんですよ。そのせいであんな穴だらけの策を講じなくてはならなくなったのですからね。一体、誰が……」
―――こいつ、本気で言ってるのか?
しかし、クロードの表情に浮かぶ苦いものは到底偽物とは思えないものだった。
今までの合成獣を造り出していたのはクロード。
ならば、この事件が露呈するきっかけとなった一連の事件を起こしたのは一体……?
そこでふと、耳慣れない単語を拾ったことに気がつく。
「『獣の華』……」
「ああ、言っていませんでしたね」
呟きながら、カノンの脳裏にビーチで拾ったあの欠片が掠める。真っ白な、花弁のような形状をしたあの石。
まさか。
「これですよ」
「・・・!」
言ってクロードが懐から取り出したのは大きさこそ違うが、あの白い鉱石とまったく同じ形をした石だった。
「貴女が図書館で言っていたでしょう。
合成獣の形が滅茶苦茶だったのは、そうしたかったんじゃない、そうしなければならなかったんじゃないか、って。
まあ、半分正解です。正確にはそうにしかならないんですよ、これはね」
「何なのよ……それ。あの合成獣たちは一体何なの?」
気味の悪い光沢を放ちながら、彼の手で転がされるそれ。
クロードはにやり、と口の端に笑みを、カノンはその笑みに寒気を覚えながら、真実が告げられるのをただひたすらに待った。
←8へ
先刻から、相棒が図書館に行くと言ったきり、夕刻まで戻らない。各国の如何わしい、それこそ眉唾物の伝承やら都市伝説やら、言葉を悪くすればオカルトマニアな彼女のこと。
一風変わった本に気を取られて、時間を忘れることは度々あるが、場合が場合だ。こんなときに、落ち合う時間を過ぎてまで熱中しているとは珍しい、いや、初めてだ。
―――最も……こんなときだからこそ、本に熱中している以外の理由も十二分考えられるがな。
「全く、どれだけトラブルに巻き込まれ易いんだ、あいつは……」
柱につけていた背を離し、雑踏に混じってレンは歩き出した。
図書館と宿屋のちょうど半分ほどの場所にある食堂。今朝、別れ際に帰りに本を持つのを手伝って欲しいから、聞き込みが終わったらここで待っていろと命じたのは一体誰だったのか。ゆうに半刻が過ぎている。
「レンッ!!」
歩き始めたと同時に、進行方向から甲高い声が上がる。似たトーンだがまさか相棒と間違えるなどということはない。
視線を上げると人込みを掻き分ける……いや、無理矢理押し退け、分け入るような格好で覚えのある少女が近づいて来ていた。頑張っているのは解るが、さすがに小柄な身体では全ての人を押し退けるなんてことは出来ずになかなか難儀しているようだ。
速度を上げ、自らの身体で適当に人をあしらう。
「はー、助かった、さんきゅー……」
「息を切らせてまでどうした?」
まだ約束の時間まで大分あるが、と続ける。ルナは息を整えてから面を上げ、
「クロードってもうそっちに行ってる?」
「いや、俺は聞き込みの後すぐ此処に来たからホテルの状況は知らん。だが、見てないな」
「そう、ホテル行くならここ通るはずよね……」
「いないのか?」
自らが狙われている自覚があるなら下手に裏通りを通るなどと愚かな真似はしないだろう。WMOからホテルに通じる大通りはこの一本しかない。
「ちょっと、行く前に軽く声かけようかと探したんだけどどこにも、ね。スケジュール見てみたんだけど、今日はもう何も公務入ってないから。
外に出たにしても狙われてるかもしれないときに何やってんだ、と思って探してたのよ」
「奇遇だな」
「は?」
「俺も人を探そうとしていたところだ。あいつを見なかったか?」
「あいつ、ってカノン?」
頷く彼を見て、ルナは顎に手を当てる。
「午前中、図書館に行ったときに一回会って声かけたけどそれっきり。急いでたし、大した話してないわ。
いないの?」
「待ち合わせていたはずなんだがな。半刻過ぎてもまだ、といった状況だ」
「けど、今あたしもクロード探すために図書館寄ったけどいなかったわよ。確かに広いけど、いたら気が付くと思うし。
……って」
ふと思いついて言葉を止める。
「ねえ、レン。カノンて午前中からずっと図書館にいた?」
「さぁな。今日の大半はあそこで過ごすとは言っていたが。朝方、別れたきりだったからな」
「あの、ね。落ち着きなさいよ? 落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
頭に血が上ったこの男の恐ろしさはルナも十二分に理解している。あの五人の中では最も古い付き合いだ、何を触発すればこの滅多なことでは冷静さを欠かない男を怒らせることが出来るのかくらいは知っている。
だからこそ。
慎重に前置いた。
「さっき探してたときに、さ。派手に割れてる窓を見つけてね、気になったからちょっと見てみたんだけど……
端っこがちょっと炭化してたのよね。たぶん、何かの魔法を喰らったんだろうけど。まあ、魔道師が多数出入りするんだから何かの呪文を口ずさんじゃった奴がいただけかもしんないけど。
気になったから聞いてみたんだけど、昼過ぎに割れちゃったんだ、って。
で、ね。図書館の入出記録って自分がするときに簡単に見られるんだけど、ちょうどその頃ってWMO権限で貸切になってたのよ」
「……」
「で、ね? あ、あのさ、これはあたしも今日情報収集してて初めて知ったんだけど。
あそこの図書館て表向き公共だけど、WMOの司書施設と統合してて、資金は豊富なWMOがほとんど出してるから実質あそこの管理下っていうか統括っていうか……って、こらこらこらッ!!」
話半分に歩き出したレンの腕を掴みながら声を荒げる。引き摺られそうになるのを何とか止めながら、
「だーかーらッ! もしもッ! 何かあったんじゃないかなー、って想像は出来るって話ッ!!
本当は何も無かったのかもしれないし、クロードだってカノンだってどっか別のとこに行っただけのことかもしれないしッ!!
全部、不確かなんだから短気に行動起こすんじゃないわよ、ホテルにシリアやアルティオだっているんでしょーがッ! クロードももしかしたらそっちに居るかもしれないんだしッ!!」
「誰が短気を起こしているんだ」
呆れた息を吐き出し、彼はようやく足を止めて振り返る。
「何があったにしろWMO関連だろう? ローランを訪ねて少し穏便に聞いてやればいいだけの話だ。
相手は俺たちがクロードに接触してることを知ってるはずだ。普通に知らないと返すか、白々しく受け流すかで白か黒が判断できる。万一、慌て出したんだとしても、それはそれで部下の暴走と判断できるだろう? つまりは誰に付くかの判断材料だ」
「あ、あぁそぅ……。びっくりした。あんたのことだからこのままローラン切り殺しに行くかと思ったわ……」
「……貴様、俺を何だと…」
「……誘発的自動辻斬り凶器?」
「……」
「いや、まあそれはいいや。けど、あんたもそのまま無事に帰してくれるか解んないし、あたしも……」
言いかけて。
ルナの言葉が止まる。レンもまた身を硬くした。
殺気。
ルナが呻く。その額には珠のように汗が浮き、赤みを帯びた頬を滴って落ちた。背筋がびりびりと震えた。
しかし、それは一瞬のことで。
レンとルナの動きを止めたとんでもないその強烈な殺気はしかし、次の瞬間には跡形もなく霧散していて。
数秒のうちに掻いた大量の汗を拭いつつ肩を落とす。
「何……今の…」
「……」
感じたことのない黒い殺気。冷えた空気が辺りに漂い、会話することも忘れた。
しかし、
「きゃああぁあぁあぁぁぁッ!!」
沈黙を劈いて、すぐ側の通りの向こうから重なった悲鳴が轟いた。はっとして顔を向ける。
「げッ!?」
最初に声を上げたのはルナの方だ。
視線の先に居たのは、通りの真ん中に陣取って奇声を上げる……二メートルほどのねずみ、もどき。
汚らしい溝の色の身体に、どう見ても外骨格の、毒を持っていることを見せ付けるかのような八本の足。おったてた尻尾だけが白く長い。
「な、何でこんなところにッ!?」
「言っている場合か。行くぞ」
「お、おっけ……」
明らかな動揺を張り付かせながら通りの向こうへ駆ける。逃げようと逆進してくる人の群れを何とか交わしながらルナは小声で呪を唱え始め、レンは腰に下げたショートソードの方を抜く。
さすがにこんな人込みの中で大剣は使えない。
割れた人込みの前に躍り出て、迫った足の一本を叩く。小剣ではさほどの威力は出ないが、傷をつけることは出来たようだ。
き、ききぃいきぃッ!!
甲高い奇声を上げて、憎しみの篭もった赤い目をレンへと向ける。その一瞬、他への注意は散漫になり、
「我求む、繰り出すは惨禍の刃、貫けレイジングソードッ!!」
虚空に浮き上がった空気の塊が刃になり、ねずみもどきを貫いた。そのまま爆縮、派手な音を立ててねずみの身体が四散する。
どろりとした体液が噴き出して、辺りを異臭が包む。その匂いに鼻を曲げながら、レンとルナは顔を見合わせる。
そのとき、
「おーいッ!!」
焦りを含んだ怒鳴り声が鼓膜を響かせる。振り返るとホテルの方角から、それぞれ剣を背負ったアルティオとシリアが駆けてくるところだった。表情に余裕がない。
「お前ら、一緒だったのか?」
「いや、たまたまそこで会ったら、こいつが出て来てね。それよりクロード見なかった? ホテル行ってない?」
「い、いや、そのことなんだけどよ、昨日捕まえたあの野郎が……」
「そんな話は後でも出来るでしょうッ!」
「いだッ!!」
シリアの肘打ちがアルティオの背中にヒットする。いつも張り倒されている人間が別の人間を倒すと何となく違和感を感じる。
まあ、それはどうでもいい。
「悠長にしてる場合じゃないわッ! ホテル近くにも出たのよ、あれがッ!」
「合成獣か?」
「そーよッ! 集まってるギャラリーとかホテルの従業員とかに襲い掛かろうとして……」
「ち、ちょっと待ってよ! 何でッ!? そんな違う場所に同時に、なんて今まで無かったじゃないッ! 何でいきなりッ!?」
「そんなの私が知るわけ……ッ」
叫んだシリアの声を遮って、
しゃぎゃぁぁあああぁああああぁぁぁッ!!
一つ、外れた通りの向こうから、どこかで聞いたような奇声と多数の悲鳴が轟きあがる。
「ち、ちょっと……」
「まさか……」
きりッ―――レンが歯を噛み鳴らす。明らかに青ざめた一同の、胸に浮かんだ、しかし口にするには憚れる嫌な予感をいやに断定的に下す。
ありえない。正気を失った行動としか思えない。しかし、現実として起こってしまっているのだ。
「まさか、町中で合成獣が暴れてるというのかッ―――!?」
町に狂騒が走っている。上がる悲鳴と咆哮、宵闇が落ちかけた夕刻のBGMとしてはあまりにも不釣合いな。
昼の長いクオノリアとて、既に太陽は海の端に沈もうとしている。赤い夕べの映る水面の幻想さに対して、随分とこの喧騒は耳障りだ。
やや涼しさを増した風が頬を抜ける。最も、その風を感じることが出来るのは、片方でしかないのだけれど。
「……」
町を一望することの出来る時計塔の片隅で。
少年は喧騒に塗れた町をただ静かに眺めていた。
口の端にうっすらと微笑みさえ浮かべながら。
黒い髪が、衣装が、風になびいて残像を残す。
「……さて、最終幕[ラストヴァージン]、いや、それともまだ始まりの章[オープニングセレモニー]かな。
先鋭なる戦士諸君は一体、どう動く……?」
まるで何かの享楽を見ているかのように。
少年はくすり、とかすかに笑った。
ざんッ!!
一薙ぎしたレンの破魔聖が目の前の蜘蛛を両断する。背中に針を張り付けた、気味の悪い体が崩れていくのを見ながら、嫌悪の呻きを吐き出す。
「シリアッ、アルティオッ!」
頭上から響いた声に、二人がその場を飛び退いた。それと同時に、
「我滅す、叫ぶは精美なる亡びの咆哮、唸れブレイズシェルッ!!」
轟ッ!!
真上から放たれた閃光の渦が、三体の異形を消し去って消え失せる。
閃光が収まるのを待って、ルナは術を浮遊の術を解いた。
「どーなってんのよ、いくら倒しても追いつかないわ、こんなッ!!」
「私に八つ当たりすんじゃないわよッ! ともかくッ! 元を断たなきゃどうしようもないわッ!!」
「元って言ったってなぁ……」
「……少しは落ち着かんか、お前ら」
揃うなり罵り合いを始めた要領の得ない連中を制しながらレンは剣に付着した体液を払う。
軽く首を振り、青みを帯び始めた空を仰ぐ。
―――いかんな。
まったくの夜になってしまえば、合成獣の姿も気配も感じにくくなる。いくら暑い気候とはいえ気温も下がり、冷えた汗は体温を下げさせて動きを鈍くさせる。
良いことは一つもない。
となれば、
「……シリア、アルティオ、お前たちはこのまま街中の合成獣を掃除しろ」
「へ?」
「ルナ、行くぞ」
「行く、って……」
「決まっているだろう」
「ちょっと、レン! まさか……」
「そのまさかだ」
言ってレンはくるり、と背を向ける。視線の先には無論、黄昏を映してどこかの居城のように佇む巨大な建築物―――WMOクオノリア支部。
「ち、ちょっと待てレンッ!」
「この期に及んで何だ……急を要する件に馬鹿な苦情は」
「いや、とりあえず聞けってッ! 昨日のあいつが目を覚ました、って言っただろッ! でな、そいつが……ッ!!」
どんッ!!
その声を遮るかのように。
通りから光と轟音が漏れた。振り返ると、光と炎に身体を焼かれた一匹のねずみが、霧散しながら地に伏せるところだった。
「何故、民間人がこんなところにいるッ!?」
叩きつけられた声にプライドの高いルナとシリアの額に血管が浮いた。
ねずみが倒れた向こうから現れた青い礼服を着た若い男たちが、焦燥を顔に張り付けながら立っていた。礼服と紋章には見覚えがある。
「あんたたち、WMOの……」
「民間人にはとっくに避難勧告が出されているはずだッ! 早く安全な場所に避難しろッ!」
ぶちッ!
鈍い音がレンとアルティオの耳だけに確かに聞こえ、響く。
「やかましいッ! こっちを何だと思ってんのよッ!」
「ほーっほっほっほ、大体にして今まで合成獣を喰い止めていたのは誰だと思っているのかしらッ!? 無礼な態度もそこまでにするのねッ!!」
「なッ……」
『何だとぉッ!?』
男たち全員の声が唱和する。レンは呆れて肩を下ろし、
「……こんな状況で挑発する相手が違うだろう」
「その通りだ。お前たちも怒る相手を間違うな」
はっ、と全員が顔を上げる。
レンの声を継いだ重厚な言葉と声。聞き覚えがあった。いや、この状況下で解らないはずがない。
男たちの動きを止めさせた、年輪の刻まれた声と精悍な顔。落ち着き払った表情だが、そこにはやはりわずかな焦りが見て取れる。
「ローラン……さん」
「……」
宵闇を背にして立っていた彼に、ルナが掠れた声を上げる。
「えーっと、あの」
罰が悪そうにルナはローランとレン達とを見比べる。ローランはそれに溜め息をついて首を振り、
「……もう良い。貴女がそこの者たちと何らかの繋がりがあることには気がついていた。しかし、今さらそれを問い詰めたところで何にもなりはしない」
「すいません……」
敵か味方か、判然としない今でもそれでも雇い主は雇い主。一応の礼儀というものがある。素直に彼女は頭を下げた。
「もう良い。もう良いのだ」
「ローランさん?」
違和感にルナは面を上げる。何故だろう。彼の口調から諦観というか達観というか。ともかく、何かの諦めのようなものを感じる。
何故?
彼が黒幕だとしたら、何故そんな諦めが湧いてくる?
それともこれもまた部下の暴走が招いた憂いなのか、はたまた失策に終わったことを嘆いているのか。そもそも何故このような手段に……
「こうなるまであれを止められなかった私に非がある」
「はい……?」
「……」
その言葉の違和感に、レンとルナが顔を見合わせる。
「あれ、とは?」
「……」
レンの発した問いに、ローランは陰鬱な溜め息を吐き出した。
空を仰ぎ、何かを悟ったかのように目を閉じて、何かを覚悟をしたかのように開く。
「貴殿らに頼みたいことがある」
「支部長ッ!!」
事情を知る者たちなのか、男たちが慌てた様子でローランの肩を掴む。しかし、ローランはそれをやんわりと制した。
「良いのだ。どの道、我らにあれは裁けぬ。ならば、かすかな希望に縋る他あるまい」
「ですがッ―――」
男が唇を噛む。宥めるようにローランは男の背を叩いた。
苦々しくも男たちが首を縦に振るのを確認すると、再びこちらへ向き直る。
「……何でしょう?」
「この合成獣を、あれを止めなくてはいけない……。こうなったのは私の責任だ。
身内だからと告発も出来ず、あまつさえ内輪で済めばとこうなるまで匿っていた私が悪いのだ」
「身内、って……」
ルナの戸惑いに。
ローランは肩を落して、どこか疲れたように、憂いを吐き出すように口を開く。
「貴殿らも接触しているであろう。
あれ―――この合成獣を生み出したのは、私の孫……クロード=サングリットだ」
「なッ……」
数秒してようやくルナの口から呻きが漏れた。
沈痛な面持ちのローランは眉間に皺を寄せたまま。
凍りつく空気の中でレンはアルティオの方へ視線を向ける。それに気が付いた彼はばりばりと短髪頭を掻き毟り、
「ああ、それを言おうとしたんだよ。昨日の奴が目を覚まして、あいつの名前……は、言ってないけど、『銀髪の若い男に頼まれた』ってさ。もしかしたら、って思ってお前らを探してたんだ」
「何故早く言わん」
「言えなかったんだよッ! つーか、何度も言おうとしてたしッ!!」
「というかこんな騒ぎになってまで何でカノンはいないのッ!? あの小娘、怖気づいて逃げたんじゃないでしょーねッ!」
「だから急いでいると言っている」
「はぁッ!?」
「待て待て待てッ! 短文で情報交換しようとすな、あんたらッ!!
と、とにかく、ローランさん! それって本当のことなんですかッ!? クロードさん、いやクロードが黒幕ってッ!」
好き勝手に会話とも言えない会話を飛ばす一同の首根っこを掴みながら、ルナが詰め寄った。
ローランは力無く頷く。
「なるほどね。ようやくカノンがいなくなった理由が知れたわ」
ルナの言葉に、レンの舌打ちが重なる。
「ち、ちょっと待てッ! 何だ、カノンがいなくなったってッ!?」
「文字通りの意味ね。懸念はしてたけど、これではっきりしたわ。
たぶん、クロードの仕業よ」
「おいッ! 待てよッ! カノンが捕まったっていうのかッ!? 何でッ!? クロードはこっちを味方につけようとしてたじゃねぇかッ!」「タイムリミットが今日の夕方だったからよ。今日の夕方には、昨日捕まった奴が全部吐くと踏んで、カノンを攫ってこっちの足並みを乱した後に一網打尽、みたいに考えてたんでしょ。
だからってこんな合成獣大量発生みたいなことをする理由はどこにも見当たらないんだけど……むしろ、今、こんなことを起こすなんて愚策としか思えないし……」
「ぐちゃぐちゃ考えてる場合かッ!! さっさとカノンを助けに行かねぇと……ッ!」
「……どこによ?」
「へ……?」
鼻息荒く勇んだアルティオの勢いを、いやに冷静なシリアの冷たい声が凍らせた。
「まあ……。候補があるといえばあるが、この余裕のないときに無駄な場所に行くのは避けたいな」
呆れた息を吐きながら、レンが視線を移す。切れ長の目を、さらに細め、睨むようにローランを見据える。
「あんたに直談判するつもりでWMOに行こうとしていたが、都合がいい。こんな事態になっているんだ。隠したところで何も得なことはない。
知っていることは全て話せ」
「……私が悪いのだ。私は昔からあれにWMOに対する不平不満ばかりを言っていた気がする。
あれが狂った野望を抱くようになったのはひとえに私の責任なのだろう」
「野望、って例のWMOを陥れて逆に実権を……ってやつ?」
シリアが首を傾げて問いかける。ローランは迷いを見せながら頷いて、
「確かにそれもあろう……。だが、奴が企んでおるのはそればかりではあるまい」
「それ以外……って」
「あれは異常なほど魔道研究にのめりこんでいる……古今東西、過ちを犯す魔道師の動機は自身の実力を世に知らしめる場所を求めてのものだ」
「まあ……」
「間違ってはいないな」
「あれも同じこと。貴殿らも知っているだろう、そしてこのクオノリアにはそのための恰好の餌がある……」
ローランが空を、海を仰ぐ。視線を辿る。その先にはただ、途切れることの無い水平線が不気味な青を宿しているだけだった。
意識が回復して最初に感じたのは冷たい壁の感触。
お世辞にも寝覚めがいいとは言えない。次に痺れた手足と走る痛み。
「う……ッ?」
「お早いお目覚めで、眠り姫[スリーピングビューティー]」
芝居がかった声に意識が覚醒する。
反射的に身体を動かそうとして、無駄だった。ぎり、と締め付けるような痛みが手首と足に走る。
―――って、またこのパターンか……
意識の下に、木を失う直前の情景の記憶がゆっくりと戻ってくる。そうだ。確か図書館で……
強制的に背伸びをさせられているような体勢だ。疲れることこの上ない。
心の内でありったけの悪態を吐きながら、カノンはうっすらと目を開けた。暗い。ぼんやりした視界の向こうで、薄暗いどこかの部屋に、幾つかのおぼろげな光が見える。
頭を振って視界を正す。
反動で手首を縛る鎖がじゃり、と耳障りな音を立てた。
「案外、体力はあるんですね。ここまで早い目覚めだとは思わなかった」
「……こんな薄暗い場所に女を縛りつけて置くなんて随分といい趣味してるわね」
あえて相手の言葉を無視して、辺りを見渡す。そこは以前、良く見かけたような魔道師のラボだった。死術狩りをしていた当時はこういった部屋を何度も見た。
薄暗く、日の光は一切差してこない。今は何時ぐらいなのか? 強制的に眠らされていた今では、体内時計も狂っていて判別できない。
石造りの壁と天井。居並ぶ何かしがの実験用具と何語か解らない文字で書かれた蔵書の載る机。
そして、付き物なのが趣味の悪いインテリア。
―――しかし、まあ……
渋い顔を作りながらカノンはそのインテリアを見上げる。合計十はあるだろうか。生命維持のための用水が入れられた三メートル大の巨大なケース。
ほとんどのものが空だが、部屋の向こうには黒い影の映るケースもちらほら見える。
魔道生物を眠ったまま保管する装置だ。
自分の運の悪さを呪いながら、その部屋の真ん中でまるで天下でも手にしたように微笑む男に視線を向ける。
「体のお加減はいかがですか?」
「最悪」
カノンは正直に答えた。その男―――嫌な笑みを浮かべて佇む、クロード=サングリットへ。
「で、何のつもりよ」
「割と冷静ですね」
「考えてみたら、ね。別にローランが犯人であっておかしくはないけど、あんたが犯人て聞くとそれもあー、なるほど、って思えちゃうのよ。
随分と付け焼き刃でいい加減な策だとは思うけど……。
昨日、話してくれてた動機だって別にローランじゃなく、あんたが抱いてても何の不思議もない理由だったし、それに昨日の夜、わざわざ椅子に座らないでドアの近くに座ったのも、窓側から襲撃が来ることを知ってたからなんでしょ」
「……」
「わざわざ自分が狙われてるみたいな演出まで凝らして、自分の祖父に罪をなすりつけようとした。
聞けばあんた、ローランに邪魔されて上階級貰い損ねたって話じゃない。だから腹も痛まなかったわけ?
ただ唯一の誤算は昨日のために雇った連中の一人が捕まっちゃったこと。なもんだから、逆に全部バレる前にあたしたちを始末しなきゃならなくなった。で、まずあたしたちの統率力を奪うためにあたしを攫った。
まあ、そんなとこ?」
「貴女方の中心にいるのは貴女のような感触を受けましたからね。それに貴女は明らかに危険因子です。放って置いたら、いずれ真実に行き当たるでしょうし」
ケースガラスに手を付きながら言う。浮かべられた穏やかな微笑に嫌悪さえ抱きながら、痛む腕を庇いつつ、
「クレイヴのこともやっぱりあんたが?」
「とんでもない」
クロードは肩を竦めて白々しく首を振る。
「クレイヴさんに金銭面や貿易の面で協力願っていたのは本当ですが……あの方はまだ利用価値がありました。
こちらとしても困っていたんですよ。まあ、下の者の暴走かもしれませんが、惜しい方を亡くしたものです」
「……」
「もっとも、最近は―――特にあのビーチの一件以来、すっかり脅えてしまっていたようですから、好都合だったと言えばそうなんでしょうかね。
あの分ではいずれ誰かに口を割りかねなかったでしょうから」
―――そういう……ことか…
あの夜のクレイヴが、フロント係からの伝言を受け取った後、何故あんなに蒼白だったか解った気がした。
つまり、あれは脅迫だったのだ。
何か喋れば命はない、とクロードからの。
「ともかく、彼を殺したのは僕じゃあありませんよ」
「……一般人の真ん中に合成獣なんてもの放り込んでくる奴のことなんかを信じろ、っていうの?」
カノンの挑発に、クロードは初めて不快に眉を歪ませた。唇を噛み、ガラスケースに拳を押し付ける。
「そうなんですよ、僕もそれが知りたい」
「……?」
「一体、誰があんなところに『獣の華』を放ったのか。あの一件が起こってからです。全部、計画が狂い出したのは」
「何ですって?」
「一般人の目にあれが触れ、クレイヴが殺され……そして貴方たちというジョーカーが事件に絡んで来た。
僕としても不本意なんですよ。そのせいであんな穴だらけの策を講じなくてはならなくなったのですからね。一体、誰が……」
―――こいつ、本気で言ってるのか?
しかし、クロードの表情に浮かぶ苦いものは到底偽物とは思えないものだった。
今までの合成獣を造り出していたのはクロード。
ならば、この事件が露呈するきっかけとなった一連の事件を起こしたのは一体……?
そこでふと、耳慣れない単語を拾ったことに気がつく。
「『獣の華』……」
「ああ、言っていませんでしたね」
呟きながら、カノンの脳裏にビーチで拾ったあの欠片が掠める。真っ白な、花弁のような形状をしたあの石。
まさか。
「これですよ」
「・・・!」
言ってクロードが懐から取り出したのは大きさこそ違うが、あの白い鉱石とまったく同じ形をした石だった。
「貴女が図書館で言っていたでしょう。
合成獣の形が滅茶苦茶だったのは、そうしたかったんじゃない、そうしなければならなかったんじゃないか、って。
まあ、半分正解です。正確にはそうにしかならないんですよ、これはね」
「何なのよ……それ。あの合成獣たちは一体何なの?」
気味の悪い光沢を放ちながら、彼の手で転がされるそれ。
クロードはにやり、と口の端に笑みを、カノンはその笑みに寒気を覚えながら、真実が告げられるのをただひたすらに待った。
←8へ
夕飯を早々に平らげてしばらく。
ホテルへと戻った四人はレンとアルティオが泊まっている部屋に集まっていた。表で話をするわけにもいかない。部屋自体も鍵をかけ、声が届かないようシリアが声を掻き消す風の魔法をかけている。
「俺の方はそんなとこだ」
トップを買って出たアルティオが、締めくくる。カノンは顎に手を当てて唸りながら、
「つまり……収穫なし、と」
「うッ……!」
はっきり言ったカノンの科白に、詰まる。
「まあ……町の人間の噂にいいものがあると思ってなかったけど。
途中から仕事忘れてナンパに走ってたんじゃないでしょーね?」
「ううッ!」
「……あんたさぁ」
「い、いやッ! それでもその女の子からいろいろ話は聞けたんだぞッ!!」
「どんな?」
「いや、WMOに最近所属したらしい子だったんだけどさ」
呪文が効いてるというのに、何故かそこだけ潜めた声で、
「最近、ローランの跡継ぎ……まあ、WMOのお偉いさんのポジションだな。
一度は孫のクロードが昇格、なんて話が出たんだけどよ……ローランが押し切って、とっくに現役退いててもいいのに無理矢理続けてる、なんて言ってたな」
「年寄りの冷や水、ってやつじゃないの?」
シリアが冷やかすが、カノンは眉間に皺を寄せて腕を組む。クロード、確か最初にホテルで会ったときに共に付いていたあの青年だ。
―――実の血縁といえど、ローランを恨む動機はあるわけか……。いや、でも、ローランだっていずれ辞めることになるだろうに、そこまでして今地位が欲しいものか……?
「まあ、とりあえずいいわ。ありがと。シリアは?」
「ふっ、この私に敗北を認め、一生恩に着るというのなら……」
「じゃあいいや。レン、あんたの方は……」
「……カノンちゃん、つめたい」
「涙目になるくらいなら最初から正直に言わんかい。で?」
年上のくせに縋るように相好を崩すシリアに、呆れた視線を送りつつ促す。彼女はふっ、と真顔を作り、
「そうね。確かにクレイヴさんを恨んでいる人はいそうだけど。
このホテルを建てるときにも土地の分譲とかいろいろとあったけど。けれど、殺人まで考える人間がいたようには見えないわね。
ホテルを建てたのは今は亡くなってる先代らしくて、そっちのオーナーはかなり無理矢理なこともやってたみたいだけど、クレイヴに対しては特に聞かないわ。
殺人を考えるなら、先代が生きていた頃にとっくにやってるでしょうし。
あ、でも」
「でも?」
「最近、身辺警備を厳しくしていた、って話もあるわ。お金を使って用心棒を雇ったり、ね。
もちろん、事件に関して私たちのような人間を雇うこともあったというけれど」
「ってことはクレイヴは自分がいずれ狙われることを知ってた、ってことになるわね……」
だんまりを決め込んでいたレンの手が上がる。
「はい、レン君どうぞ」
「それについてはこっちも情報がある。"事件解決"に関して、クレイヴは観光協会側から強い要望を受けていたらしい」
「要望?」
「クレイヴはこの辺りでは一番の資産家だった。なら、観光協会がそれを頼って、事件を解決出来る人間を雇ってくれと期待するのも無理はない話だろう?」
「確かに。って、ちょっと待って」
不意に、カノンはあることに気が付いて、指を鳴らす。
「ってことは、クレイヴは事件解決には本当は積極的じゃなかった、ってこと?」
「―――ッ!」
シリアとアルティオが息を飲む。
「そうだ。少なくとも、今までとは違う解釈が生まれる。
クレイヴはWMOの圧力を避けるために、わざわざ単発で人を雇ってはあちこちを調べさせていた……という解釈の他に。
クレイヴは観光協会への建前のために、"事件解決"へ協力しているという姿勢を見せるためにあちこちの人間を雇っていた、とも解釈できる。
この場合、クレイヴはその"事件解決"を望んでいなかったことになる。観光というサービス業の中心に立ちながら、な」
「……」
茫然と、シリアもアルティオも顔を見合わせる。カノンは唇の端を歪ませて、乾ききった唇を舌で舐め取った。
「なるほどね……ってことは、ローランとクレイヴの関係を掘って行けば何か出てきそうだけど」
「お前の方はどうだったんだ、カノン?」
「……」
問い返されて、答えに詰まる。
「何ていうか……この件に関わるな、の一点張りって感じでね。
今、考えると最初にチップ一枚であっさり館のことを教えてくれたのも、出来るだけ早くあたしたちをこの件から手を引かせたかったんじゃないか、って」
「そうか……」
力なく首を振るカノン。落ち込んでいても仕方がない。情報は少ない。打開策に通じるものは何一つないと言ってもいい。
唯一の頼みといえば、カノンが拾ったあの石だが、どの文献を調べてもあんなもののことは一切載ってはいなかった。確かに、全ての文献を調べられたわけではないのだから、断言は出来ないのだけれど。
―――手詰まりか? いや、でも……
一つでも、何か一つでも掘り出さなければ。
「! シリア」
「え?」
思考の海に沈んでいると、不意にレンが面を上げる。唐突に呼びかけられたシリアの方は、首を傾げて頭をもたげる。
「術を解け」
「え、でもぉ……」
「客だ」
―――客?
シリアが術を解除し、その瞬間にこんこん、とやや苛立ったノックの音。慌ててアルティオが周囲を見回し、確認をしてから声をかける。
―――そっか、風の術って外に声が聞こえない代わりに中から外も聞こえないのね……
場違いな分析をしながら、細く開けられたドアを見る。
薄暗い廊下を背に、ドアが開く。
そこに立っていた顔に、カノンは、いやカノンたちは目を疑った。
「……こんばんは、お邪魔します」
そうして丁寧なお辞儀を一つしてきたのは、たった今話に上っていたローランの孫クロード。そしてその後ろに憮然とした顔で控えているのは、件の魔道師ルナ=ディスナー。
―――こりゃあ……なかなかタイムリーな……。
「……とりあえず、御用をお聞きしましょうか」
「ご相談に、参りました」
カノンの声に、クロードは静かに答える。
「相談?」
「……今日の昼、貴方とこちらのルナさんがカフェであの話をしているのを見かけまして」
―――う゛っ。
ちらりとルナを見る。彼女はやはり憮然としたまま、力無く首を振るだけだ。
「失礼ながら、貴方方のことを調べさせて頂きました。ルナさんからも少々、お聞きしました。
頼りになる方々だと」
「……」
「貴方方を見込んで一つ、お願いがあるのです」
クロードは言葉を切って、息を飲み込んだ。彼の喉が上下する。真剣な眼差しをこちらに向けて、彼は言った。
「お祖父様を……止めて頂きたいのです」
「ローラン、を?」
「はい」
問い返しに彼は一つ、神妙に頷くと、
「今回の件―――あの合成獣たちを造って放っているのは他でもない、僕の祖父―――ローラン=サングリットなんです」
―――オイオイ……
―――これまた…面倒な事態になって来た……。
「思えば祖父は良く、WMOについて愚痴を溢していました……」
とにかくクロードを部屋に入れ、椅子を勧めるカノンに構わないでくれとドアの近くに腰掛けて。
ルナとシリアで風の結界を張り直し。
どこか疲れたような声色で、クロードがぽつりと呟いた言葉がそれだった。
「今の体制は腐っている、と。
確かに、権力が高まるにつれ、WMO内にも賄賂が横行し、違法行為を黙認する空気が蔓延しているのは確かです」
「ちょっとちょっと……」
―――何気に凄いこと口にしてますけど、この人……
異様なまでにあっさりと、WMOの裏事情を吐露し始めたクロードに、カノンが軽くストップをかける。
「いいの? そんな簡単に喋っちゃって……」
「本当はいけないことですけど……」
―――こらこら……
「ですが、場合が場合です。致し方ないでしょう。
肉親がしでかしたことながら、今度の件はあまりに酷過ぎる」
「けど、何で……? こんなことすれば責任問題は絶対に自分に降りかかるに決まってるじゃない」
「確かに、自分の手が加わっていることが世間に知れたら、お祖父様はそれこそ再起不能なまでに社会的地位を失うでしょう。
でも、こんな件を自身で解決したというなら、WMOはお祖父様へそれなりの評価を下すはずです。
祖父はじわじわと、この件が一般の中にも浸透し、問題視されるのを待っていました。時間をかけてWMOの上層部に威圧を与え、恩を着せ、己の地位を高め、上層部からWMOの浄化を図る……というのが祖父の目的です」
「だからって、一般人の真ん中にいくらできそこないと言っても合成獣一匹放り込むってのは、尋常じゃないじゃない」
「それなんです!」
クロードは我慢ならない様子でだんッ! と拳で床を打った。
「いくら何でも、こんなことが許されるはずはありません! これではWMOの浄化どころか、本末転倒だ!」
「まあ、確かに」
カノンは肩を竦めて答える。良くある、目的のために手段をないがしろにするタイプ、というやつだ。
「あのこと自体はお祖父様も寝耳に水だったようです。ラグンビーチでの一件を聞いたときには、顔を青ざめさせていましたから。あれは演技じゃできないでしょう。
お祖父様のプランは何もお祖父様だけで実行しているものではありません。もしかしたら……」
「ローランに賛同してる人の中の、痺れを切らした誰かが起こした暴走か離反行動か、ってこと?」
クロードは力なく頷いた。カノンは眉根を寄せる。
「ってことは、これからもああいうことが起こりかねない、ってことね……。
クレイヴの殺害については?」
「祖父はクレイヴさんのお父上ととても懇意にしていました。その繋がりで、クレイヴさんもお祖父様に協力していたようです。
……魔道生物の創造のみならず、正規から外れた研究というのは、少なからず資金が必要ですから。
クレイヴさんとしてはお祖父様は昔からの馴染みですし、ビジネス上の付き合いもあるから断れない、でも観光協会としては事件が起こっているのを放って置くわけにもいかない。
板ばさみの状態に置かれて、追い詰められていたんでしょう。何かしがのモーションを起こそうとしたところを、裏切りと判断されて……たぶん…僕は、そう考えています。
祖父の指示か、それとも配下の者たちの判断なのかは解りませんが」
「……」
それが正しいとするなら、クレイヴは板ばさみの状況に耐えられず、カノンたちに真実を、もしくはそれに順ずる何かを伝えようとして―――殺された、ということになる。
きり―――ッ、カノンが奥歯を小さく鳴らした。
「もし、それが本当だとして、あんたはあたし達に何をして欲しいっていうの?」
「……近々、祖父と会談を開こうと思っています。その場での護衛と、クレイヴさんのことについての証人を……」
「待て」
クロードの言葉を遮って、レンが制するように手を上げる。そこでようやく、カノンも剣鎌を自分の方へ引き寄せた。
「クロード、と言っていたな? お前を護衛する、という依頼に対しての報酬は幾らだ?」
「え?」
「今はそれだけでいい。答えろ」
「えっと、ポケットマネーですのであまり多くは出せませんが……」
クロードの口にした金額は、まあまあ妥当なものだった。
「いいだろう」
それだけ答えてレンはすらり、と剣を抜く。シリアとアルティオはそれに合わせて慌てて立ち上がり、カノンとルナはクロードを庇うように側に寄る。
瞬間、
「窓際ッ!」
轟ッ!!
カノンの激と共に、シリアとルナが指を鳴らす。結界を張っていた風が乱れ、強風となって窓を粉砕した。
同時に。
ぐぉがッ!!
「ッ!!」
窓際で炎が渦巻いて風に掻き消える。
―――外側から爆破するつもりかッ!? クロードもいるってのにッ!
風が鳴り止まぬうちに、カノンは床を蹴る。
身を乗り出すと、二階の屋根を滑り落ちるように駆けて行く影が二つ。
「クロードをお願いッ!」
―――逃がすかッ!
躊躇い無く、窓枠を蹴る。二つの影は屋根からそのまま飛び降りる。一つが、もう一つの影に飛びついて、急激に落ちる速度が減速する。
浮遊の呪。
悠長にロープなど手繰っている暇はない。そのままの勢いで屋根の渕まで下りると、覚悟を決めて屋根を蹴る。
がりッ!! がこッ!!
ホテルの石壁に突き立てた剣が悲鳴を上げ、落ちる速度が激減する。かなり無茶だが、弁償代はクロードにツケて置くとしよう。
十分な距離まで下りて、後はそのまま飛び降りるだけ。
影は正面の十字路をそれぞれ別の方向に曲がる。一瞬の迷いの後、
「カノン、右ッ!!」
空から声が落ちる。浮遊と風の呪を利用した飛行の呪で空に浮いたルナが、街道を突っ切って左側の角へと向かう。
……雇われ人が雇い主の側を離れて大丈夫なのか、疑問は残るが細かいことを気にしている暇はない。カノンは曲がり角、左の民家の壁に手をついて、
ききいぃぃんッ!
「うわわッ!!」
いきなり飛んで来たナイフに慌てて身を交わす。貫く対象を失ったナイフは石畳に敢え無く落ちた。
通りの向こうへ消え行く影。追いかけるカノン。
街灯も乏しい時間帯、これ以上引き離されれば完全に見失う。
「待ちなさいッ!」
一声、吼えてカノンは石畳を走り出す。速度は自信があったが、相手もどうしてなかなか。しかし、それでも距離は確実に縮まっていく。
―――これなら!
細い路地に身体を潜らせ、今日のスコールの名残だろうか、わずかな水溜りを影が踏む。弾けた飛沫を追い縋るカノンがさらに踏みつけようとして、
―――ッ!
何かの違和感が、足の裏に触れた。
ずひゅッ!!!
「な……ッ!」
反射的に飛び退いた刹那。
水溜りの中から細く、黒い影が飛び出してくる。
「毒蛇[ポイゾン・スネイク]ッ……」
見たことがある。召還獣の一種、姿形は蛇そのものだが、背丈はざっと人の背丈分。
牙をむき出しながら、顎を広げ、噛み付いて来る蛇。その牙を紙一重で交わし、抜き身の剣を翳す。
「はっ!」
ざんッ!!
蛇は頭を切り離されて、あっさり地に落ちる。刃に付いた青黒い血液を振るって、はっと気が付くと。
追っていた人影は、既に夜の闇の中へと消えてしまっていた。
「邪魔するわねー」
「はいはい」
遠慮も何もなく、一言だけ言って人のベッドに乗り込んでくるルナに、カノンは短い溜め息を吐く。
あの後。
思いがけない妨害に一人は取り逃がしてしまったが、ルナの方は一名をふん縛って連れて来てくれた。覆面を剥いでは見たが、クロードにも見覚えが無い顔だという。
あの刺客が祖父の所業を告白しに来たクロードを監視、もしくは始末しに来た連中だという可能性は高い。
……ルナが使った精神衰弱系の術により、今日中に尋問することは出来なかったが。
ともあれ、そういった可能性がある限り、今、WMO支部に帰還するのは危険行為である。なので護衛に来たルナ共々、今日は互いの部屋で寝泊りとなったのだ。
ルナは女部屋、クロードは男部屋。
今頃、どちらかが二つしかないベッドをどう使うか揉めているだろう。たぶん、床に寝るのはアルティオになるだろうが。
こちらの場合は『こうなったのは不用意に会いに来たあんたの責任』と押し切られて、ベッドの半分を貸し出すことになった。ちなみにシリアは町中巡り歩いて疲れた、と言いながらもう一つのベッドに大の字になりながら寝ている。あの女。
―――まあ、あのお坊ちゃんの言うこともそうそう信じ切らない方がいいんだろうけど……
首を振って毛布の中に潜り込む。
「ねぇ、ルナ」
「なーに? あー、気持ちいい。さすが天下のウィンダリアホテルのベッドねー」
「いや、寛いでないで。あのお坊ちゃん、本当に信用出来るんでしょーね?」
「んー……」
枕に顔を埋めて幸せそうに相好を崩していた彼女は面を上げて、
「まあ、ローランと五分五分、ってところじゃない? 話は筋が通っているように見えるけど、別の見方だって幾らでも出来るし、別の誰かがあのお坊ちゃんを利用してるだけ、ってのもあるかもしれないし。
どっちにしろ、明日の夕方くらいには捕まえたのが目を覚ますだろうから、全部ゲロさせれば済む話よ」
「そーだけど……」
「なら今出来ることは最終決戦に向けて体力回復ってところでしょ」
「……」
彼女の、こちらを関わらせないようにする策は諦めたのだろうか、極当然のように話してしまっている。それとも土壇場で出し抜く覚悟があるのか。
敢えて二人とも触れないようにしている。
もそもそと毛布が蠢いて、彼女が向こうを向いた。
「カノン」
「ん?」
「……ごめん」
「……」
小さく。
聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、呻くように発せられた謝罪が、カノンの鼓膜を打った。
「いいよ、別に」
暗い天井を眺めながら、カノンは、そう答える他の術を持ってはいなかった。
「……調べ物ですか?」
横合いからかけられた声に、カノンは手を止めて振り返った。そこには今朝方、別れたはずの柔和な笑顔を浮かべた顔が。
「クロード、さん」
「クロード、で結構ですよ」
手元の本を棚に戻しながら頷く。WMO付近の図書館内だ、会うこと自体は不思議ではない。
あのまま朝を向かえ、ルナとクロードは一度WMOに帰還した。クロードには公務があるだろうし、ルナはローランに雇われている身だ。丸一日、支部を空けるわけにもいかない。
日昼、堂々とクロードを襲う、ということはいくら何でもないだろう。周りには一般の魔道師もいるはずだ。あまりにもリスクがありすぎる。
夕刻、再びホテルで落ち合うことを約束し、今朝方別れてきたのだが。
「他の方々は?」
みんなバラバラです。アルティオは昨日、とっ捕まえた奴の監視、レンとシリアは周辺への聞き込み。私はちょっと調べ物」
「今回の件に関して、ですか?」
眉根を寄せて、クロードは彼女が眺めていた本の棚を見上げる。
「失礼ですが何を、ですか?」
「ちょっとその……思うところありまして」
カノンはその視線の先を辿って腕を組んで唸る。棚の上のプレートの文字は"歴史‐history‐"となっていた。
「……正直、今回の件とはあまり関連性がないと思うのですが」
「んー」
目を閉じる。話して置いていいものだろうか―――いや、WMOの表向きの正式調査とて、同じような結論には至っているだろう。おそらく、今日も似たような話は出るだろう。
「まあ、実は……」
昨日、ルナにした話をそのまま話すと、クロードは渋い顔で頷いた。
「WMOではそういう話、出て来てないの?」
「出て来てはいますが……ほとんどが無意味、でしょうね。筋の通った説ほど、祖父に握りつぶされてしまいますから」
「あー、なるほど……」
「ですが言ったでしょう? 祖父はWMOに打撃を与えるために合成獣を造り出しているんです。
それだけなら、別に駄作の合成獣でも構わなかったのではないですか?」
「確かにね。でもどんな駄作でも、造り出すのにはそれなりに先立つものが必要でしょう? そんな資金の無駄遣いをするとは思えないのよ。
どう考えても、研究と実用を兼ねるのが一番いい方法じゃない。研究過程で造った合成獣をデータを取るのを兼ねて放逐、とかね。WMOの中にも合成獣の研究をしてる奴なんか山ほどいるだろうし、一人くらいローラン側に付いてる奴がいるはずだわ。
なのに何故、こんな無駄なことを繰り返してるのか。
だから思ったのよ、出さないんじゃ無くて出せなかったんじゃないか、って」
「出せなかった、ですか?」
「そう、研究の主体になっているのは性能のいい合成獣を造ることじゃなくてもっと別のことにあるんじゃないか、ってね。
そこまで考えたらふと思い出したのよ。死術、は解るわよね? あれの中に、核に触れると誰彼構わず、生物を凶暴化―――狂戦士化させる、っていう傍迷惑かつ危険極まりない術があってね」
「……それはまた」
「でしょ? 死術じゃなくても、危険な魔法なんて世の中に腐るほどあるわけで。もしかしたらそういう術が他にも存在した事例があるんじゃないかあるんじゃないか、ってさ。
まあ、そんな術が正規の魔道書に載ってるわけないし、ってか載ってもらってても困るし。過去の事件か史上に類似例を探してるわけ。
あったらあったでまたそれを掘らなきゃいけないわけだから回りくどいテではあるんだけど」
「なるほど……良く、そこまで思い至ったものですね。感心しました」
「そこは馴れっていうか……」
―――ッ?
かすかな違和感。それはクロードの声色だったか、それとも言葉の使い方だったか。
『思い至る』……おかしくはないだろうが、こういった場合、普通はそういう言葉を使うだろうか。
新たに本を抜こうとしていた手が止まる。顔を上げてクロードを盗み見る。先程と変わらぬ笑顔を浮かべている―――瞳の奥に、かすかな嘲りを灯らせながら。
カノンの中の、研ぎ澄まされた勘が警鐘を告げる。詰まらない理屈染みた願望と、十九年付き合ってきた自らの勘ではカノンは己の勘の方を信じる!
だんッ!!!
手の中の蔵書を床へ叩き付けると、後ろ飛びにその場を退く。そのまま踵を返し、振り向く事無く走り出す。
小さな詠唱が耳に届く。気配と勘とだけを頼りに左側へ飛ぶ。なびいた髪の一房を焼いて、青白い光の孤影がその先の窓ガラスを容赦なく、砕いた。
躊躇い無く割れた窓の桟へ足をかける。一階でだいぶ助かった。割れた窓を開け放ち、外へと着地。瞬時、
複数の、気配。
「―――ッ!!」
剣を抜く。繰り出した先はすぐ脇の茂み。
確かな手ごたえと共にくぐもった悲鳴。引き抜いた刃は赤い残像を残し、粘ついた体液を芝生の上へ撒き散らした。
顔を顰めながら距離を取る。
茂みの中から影が躍る。フードを目深に被った、おそらくは昨日取り逃がした襲撃者。怪我を負っていないということは、どうやら茂みの中に二人潜んでいたうち、一人を片付けることは出来たらしい。
が、
「くッ―――!」
「諦めた方がいいですよ」
木の陰から、階上から降って湧いた同じような影に、カノンは足を止めた。後ろの割れた窓からは余裕の笑みを浮かべたクロード。
魔道師なら空からでも逃げられただろうが、残念ながらカノンには出来ない芸当だ。
「まさか―――」
「まさかこんな場所で、ですか? ご心配なく。この図書館はWMOの管轄でもありましてね、人払いは出来ています。多少のことなら揉み消しが効きますしね」
迂闊だった、まさか―――。
「無用な怪我はしたくないでしょう? カノンさん、我々とご同行願います。よろしいですね―――?」
←7へ
ホテルへと戻った四人はレンとアルティオが泊まっている部屋に集まっていた。表で話をするわけにもいかない。部屋自体も鍵をかけ、声が届かないようシリアが声を掻き消す風の魔法をかけている。
「俺の方はそんなとこだ」
トップを買って出たアルティオが、締めくくる。カノンは顎に手を当てて唸りながら、
「つまり……収穫なし、と」
「うッ……!」
はっきり言ったカノンの科白に、詰まる。
「まあ……町の人間の噂にいいものがあると思ってなかったけど。
途中から仕事忘れてナンパに走ってたんじゃないでしょーね?」
「ううッ!」
「……あんたさぁ」
「い、いやッ! それでもその女の子からいろいろ話は聞けたんだぞッ!!」
「どんな?」
「いや、WMOに最近所属したらしい子だったんだけどさ」
呪文が効いてるというのに、何故かそこだけ潜めた声で、
「最近、ローランの跡継ぎ……まあ、WMOのお偉いさんのポジションだな。
一度は孫のクロードが昇格、なんて話が出たんだけどよ……ローランが押し切って、とっくに現役退いててもいいのに無理矢理続けてる、なんて言ってたな」
「年寄りの冷や水、ってやつじゃないの?」
シリアが冷やかすが、カノンは眉間に皺を寄せて腕を組む。クロード、確か最初にホテルで会ったときに共に付いていたあの青年だ。
―――実の血縁といえど、ローランを恨む動機はあるわけか……。いや、でも、ローランだっていずれ辞めることになるだろうに、そこまでして今地位が欲しいものか……?
「まあ、とりあえずいいわ。ありがと。シリアは?」
「ふっ、この私に敗北を認め、一生恩に着るというのなら……」
「じゃあいいや。レン、あんたの方は……」
「……カノンちゃん、つめたい」
「涙目になるくらいなら最初から正直に言わんかい。で?」
年上のくせに縋るように相好を崩すシリアに、呆れた視線を送りつつ促す。彼女はふっ、と真顔を作り、
「そうね。確かにクレイヴさんを恨んでいる人はいそうだけど。
このホテルを建てるときにも土地の分譲とかいろいろとあったけど。けれど、殺人まで考える人間がいたようには見えないわね。
ホテルを建てたのは今は亡くなってる先代らしくて、そっちのオーナーはかなり無理矢理なこともやってたみたいだけど、クレイヴに対しては特に聞かないわ。
殺人を考えるなら、先代が生きていた頃にとっくにやってるでしょうし。
あ、でも」
「でも?」
「最近、身辺警備を厳しくしていた、って話もあるわ。お金を使って用心棒を雇ったり、ね。
もちろん、事件に関して私たちのような人間を雇うこともあったというけれど」
「ってことはクレイヴは自分がいずれ狙われることを知ってた、ってことになるわね……」
だんまりを決め込んでいたレンの手が上がる。
「はい、レン君どうぞ」
「それについてはこっちも情報がある。"事件解決"に関して、クレイヴは観光協会側から強い要望を受けていたらしい」
「要望?」
「クレイヴはこの辺りでは一番の資産家だった。なら、観光協会がそれを頼って、事件を解決出来る人間を雇ってくれと期待するのも無理はない話だろう?」
「確かに。って、ちょっと待って」
不意に、カノンはあることに気が付いて、指を鳴らす。
「ってことは、クレイヴは事件解決には本当は積極的じゃなかった、ってこと?」
「―――ッ!」
シリアとアルティオが息を飲む。
「そうだ。少なくとも、今までとは違う解釈が生まれる。
クレイヴはWMOの圧力を避けるために、わざわざ単発で人を雇ってはあちこちを調べさせていた……という解釈の他に。
クレイヴは観光協会への建前のために、"事件解決"へ協力しているという姿勢を見せるためにあちこちの人間を雇っていた、とも解釈できる。
この場合、クレイヴはその"事件解決"を望んでいなかったことになる。観光というサービス業の中心に立ちながら、な」
「……」
茫然と、シリアもアルティオも顔を見合わせる。カノンは唇の端を歪ませて、乾ききった唇を舌で舐め取った。
「なるほどね……ってことは、ローランとクレイヴの関係を掘って行けば何か出てきそうだけど」
「お前の方はどうだったんだ、カノン?」
「……」
問い返されて、答えに詰まる。
「何ていうか……この件に関わるな、の一点張りって感じでね。
今、考えると最初にチップ一枚であっさり館のことを教えてくれたのも、出来るだけ早くあたしたちをこの件から手を引かせたかったんじゃないか、って」
「そうか……」
力なく首を振るカノン。落ち込んでいても仕方がない。情報は少ない。打開策に通じるものは何一つないと言ってもいい。
唯一の頼みといえば、カノンが拾ったあの石だが、どの文献を調べてもあんなもののことは一切載ってはいなかった。確かに、全ての文献を調べられたわけではないのだから、断言は出来ないのだけれど。
―――手詰まりか? いや、でも……
一つでも、何か一つでも掘り出さなければ。
「! シリア」
「え?」
思考の海に沈んでいると、不意にレンが面を上げる。唐突に呼びかけられたシリアの方は、首を傾げて頭をもたげる。
「術を解け」
「え、でもぉ……」
「客だ」
―――客?
シリアが術を解除し、その瞬間にこんこん、とやや苛立ったノックの音。慌ててアルティオが周囲を見回し、確認をしてから声をかける。
―――そっか、風の術って外に声が聞こえない代わりに中から外も聞こえないのね……
場違いな分析をしながら、細く開けられたドアを見る。
薄暗い廊下を背に、ドアが開く。
そこに立っていた顔に、カノンは、いやカノンたちは目を疑った。
「……こんばんは、お邪魔します」
そうして丁寧なお辞儀を一つしてきたのは、たった今話に上っていたローランの孫クロード。そしてその後ろに憮然とした顔で控えているのは、件の魔道師ルナ=ディスナー。
―――こりゃあ……なかなかタイムリーな……。
「……とりあえず、御用をお聞きしましょうか」
「ご相談に、参りました」
カノンの声に、クロードは静かに答える。
「相談?」
「……今日の昼、貴方とこちらのルナさんがカフェであの話をしているのを見かけまして」
―――う゛っ。
ちらりとルナを見る。彼女はやはり憮然としたまま、力無く首を振るだけだ。
「失礼ながら、貴方方のことを調べさせて頂きました。ルナさんからも少々、お聞きしました。
頼りになる方々だと」
「……」
「貴方方を見込んで一つ、お願いがあるのです」
クロードは言葉を切って、息を飲み込んだ。彼の喉が上下する。真剣な眼差しをこちらに向けて、彼は言った。
「お祖父様を……止めて頂きたいのです」
「ローラン、を?」
「はい」
問い返しに彼は一つ、神妙に頷くと、
「今回の件―――あの合成獣たちを造って放っているのは他でもない、僕の祖父―――ローラン=サングリットなんです」
―――オイオイ……
―――これまた…面倒な事態になって来た……。
「思えば祖父は良く、WMOについて愚痴を溢していました……」
とにかくクロードを部屋に入れ、椅子を勧めるカノンに構わないでくれとドアの近くに腰掛けて。
ルナとシリアで風の結界を張り直し。
どこか疲れたような声色で、クロードがぽつりと呟いた言葉がそれだった。
「今の体制は腐っている、と。
確かに、権力が高まるにつれ、WMO内にも賄賂が横行し、違法行為を黙認する空気が蔓延しているのは確かです」
「ちょっとちょっと……」
―――何気に凄いこと口にしてますけど、この人……
異様なまでにあっさりと、WMOの裏事情を吐露し始めたクロードに、カノンが軽くストップをかける。
「いいの? そんな簡単に喋っちゃって……」
「本当はいけないことですけど……」
―――こらこら……
「ですが、場合が場合です。致し方ないでしょう。
肉親がしでかしたことながら、今度の件はあまりに酷過ぎる」
「けど、何で……? こんなことすれば責任問題は絶対に自分に降りかかるに決まってるじゃない」
「確かに、自分の手が加わっていることが世間に知れたら、お祖父様はそれこそ再起不能なまでに社会的地位を失うでしょう。
でも、こんな件を自身で解決したというなら、WMOはお祖父様へそれなりの評価を下すはずです。
祖父はじわじわと、この件が一般の中にも浸透し、問題視されるのを待っていました。時間をかけてWMOの上層部に威圧を与え、恩を着せ、己の地位を高め、上層部からWMOの浄化を図る……というのが祖父の目的です」
「だからって、一般人の真ん中にいくらできそこないと言っても合成獣一匹放り込むってのは、尋常じゃないじゃない」
「それなんです!」
クロードは我慢ならない様子でだんッ! と拳で床を打った。
「いくら何でも、こんなことが許されるはずはありません! これではWMOの浄化どころか、本末転倒だ!」
「まあ、確かに」
カノンは肩を竦めて答える。良くある、目的のために手段をないがしろにするタイプ、というやつだ。
「あのこと自体はお祖父様も寝耳に水だったようです。ラグンビーチでの一件を聞いたときには、顔を青ざめさせていましたから。あれは演技じゃできないでしょう。
お祖父様のプランは何もお祖父様だけで実行しているものではありません。もしかしたら……」
「ローランに賛同してる人の中の、痺れを切らした誰かが起こした暴走か離反行動か、ってこと?」
クロードは力なく頷いた。カノンは眉根を寄せる。
「ってことは、これからもああいうことが起こりかねない、ってことね……。
クレイヴの殺害については?」
「祖父はクレイヴさんのお父上ととても懇意にしていました。その繋がりで、クレイヴさんもお祖父様に協力していたようです。
……魔道生物の創造のみならず、正規から外れた研究というのは、少なからず資金が必要ですから。
クレイヴさんとしてはお祖父様は昔からの馴染みですし、ビジネス上の付き合いもあるから断れない、でも観光協会としては事件が起こっているのを放って置くわけにもいかない。
板ばさみの状態に置かれて、追い詰められていたんでしょう。何かしがのモーションを起こそうとしたところを、裏切りと判断されて……たぶん…僕は、そう考えています。
祖父の指示か、それとも配下の者たちの判断なのかは解りませんが」
「……」
それが正しいとするなら、クレイヴは板ばさみの状況に耐えられず、カノンたちに真実を、もしくはそれに順ずる何かを伝えようとして―――殺された、ということになる。
きり―――ッ、カノンが奥歯を小さく鳴らした。
「もし、それが本当だとして、あんたはあたし達に何をして欲しいっていうの?」
「……近々、祖父と会談を開こうと思っています。その場での護衛と、クレイヴさんのことについての証人を……」
「待て」
クロードの言葉を遮って、レンが制するように手を上げる。そこでようやく、カノンも剣鎌を自分の方へ引き寄せた。
「クロード、と言っていたな? お前を護衛する、という依頼に対しての報酬は幾らだ?」
「え?」
「今はそれだけでいい。答えろ」
「えっと、ポケットマネーですのであまり多くは出せませんが……」
クロードの口にした金額は、まあまあ妥当なものだった。
「いいだろう」
それだけ答えてレンはすらり、と剣を抜く。シリアとアルティオはそれに合わせて慌てて立ち上がり、カノンとルナはクロードを庇うように側に寄る。
瞬間、
「窓際ッ!」
轟ッ!!
カノンの激と共に、シリアとルナが指を鳴らす。結界を張っていた風が乱れ、強風となって窓を粉砕した。
同時に。
ぐぉがッ!!
「ッ!!」
窓際で炎が渦巻いて風に掻き消える。
―――外側から爆破するつもりかッ!? クロードもいるってのにッ!
風が鳴り止まぬうちに、カノンは床を蹴る。
身を乗り出すと、二階の屋根を滑り落ちるように駆けて行く影が二つ。
「クロードをお願いッ!」
―――逃がすかッ!
躊躇い無く、窓枠を蹴る。二つの影は屋根からそのまま飛び降りる。一つが、もう一つの影に飛びついて、急激に落ちる速度が減速する。
浮遊の呪。
悠長にロープなど手繰っている暇はない。そのままの勢いで屋根の渕まで下りると、覚悟を決めて屋根を蹴る。
がりッ!! がこッ!!
ホテルの石壁に突き立てた剣が悲鳴を上げ、落ちる速度が激減する。かなり無茶だが、弁償代はクロードにツケて置くとしよう。
十分な距離まで下りて、後はそのまま飛び降りるだけ。
影は正面の十字路をそれぞれ別の方向に曲がる。一瞬の迷いの後、
「カノン、右ッ!!」
空から声が落ちる。浮遊と風の呪を利用した飛行の呪で空に浮いたルナが、街道を突っ切って左側の角へと向かう。
……雇われ人が雇い主の側を離れて大丈夫なのか、疑問は残るが細かいことを気にしている暇はない。カノンは曲がり角、左の民家の壁に手をついて、
ききいぃぃんッ!
「うわわッ!!」
いきなり飛んで来たナイフに慌てて身を交わす。貫く対象を失ったナイフは石畳に敢え無く落ちた。
通りの向こうへ消え行く影。追いかけるカノン。
街灯も乏しい時間帯、これ以上引き離されれば完全に見失う。
「待ちなさいッ!」
一声、吼えてカノンは石畳を走り出す。速度は自信があったが、相手もどうしてなかなか。しかし、それでも距離は確実に縮まっていく。
―――これなら!
細い路地に身体を潜らせ、今日のスコールの名残だろうか、わずかな水溜りを影が踏む。弾けた飛沫を追い縋るカノンがさらに踏みつけようとして、
―――ッ!
何かの違和感が、足の裏に触れた。
ずひゅッ!!!
「な……ッ!」
反射的に飛び退いた刹那。
水溜りの中から細く、黒い影が飛び出してくる。
「毒蛇[ポイゾン・スネイク]ッ……」
見たことがある。召還獣の一種、姿形は蛇そのものだが、背丈はざっと人の背丈分。
牙をむき出しながら、顎を広げ、噛み付いて来る蛇。その牙を紙一重で交わし、抜き身の剣を翳す。
「はっ!」
ざんッ!!
蛇は頭を切り離されて、あっさり地に落ちる。刃に付いた青黒い血液を振るって、はっと気が付くと。
追っていた人影は、既に夜の闇の中へと消えてしまっていた。
「邪魔するわねー」
「はいはい」
遠慮も何もなく、一言だけ言って人のベッドに乗り込んでくるルナに、カノンは短い溜め息を吐く。
あの後。
思いがけない妨害に一人は取り逃がしてしまったが、ルナの方は一名をふん縛って連れて来てくれた。覆面を剥いでは見たが、クロードにも見覚えが無い顔だという。
あの刺客が祖父の所業を告白しに来たクロードを監視、もしくは始末しに来た連中だという可能性は高い。
……ルナが使った精神衰弱系の術により、今日中に尋問することは出来なかったが。
ともあれ、そういった可能性がある限り、今、WMO支部に帰還するのは危険行為である。なので護衛に来たルナ共々、今日は互いの部屋で寝泊りとなったのだ。
ルナは女部屋、クロードは男部屋。
今頃、どちらかが二つしかないベッドをどう使うか揉めているだろう。たぶん、床に寝るのはアルティオになるだろうが。
こちらの場合は『こうなったのは不用意に会いに来たあんたの責任』と押し切られて、ベッドの半分を貸し出すことになった。ちなみにシリアは町中巡り歩いて疲れた、と言いながらもう一つのベッドに大の字になりながら寝ている。あの女。
―――まあ、あのお坊ちゃんの言うこともそうそう信じ切らない方がいいんだろうけど……
首を振って毛布の中に潜り込む。
「ねぇ、ルナ」
「なーに? あー、気持ちいい。さすが天下のウィンダリアホテルのベッドねー」
「いや、寛いでないで。あのお坊ちゃん、本当に信用出来るんでしょーね?」
「んー……」
枕に顔を埋めて幸せそうに相好を崩していた彼女は面を上げて、
「まあ、ローランと五分五分、ってところじゃない? 話は筋が通っているように見えるけど、別の見方だって幾らでも出来るし、別の誰かがあのお坊ちゃんを利用してるだけ、ってのもあるかもしれないし。
どっちにしろ、明日の夕方くらいには捕まえたのが目を覚ますだろうから、全部ゲロさせれば済む話よ」
「そーだけど……」
「なら今出来ることは最終決戦に向けて体力回復ってところでしょ」
「……」
彼女の、こちらを関わらせないようにする策は諦めたのだろうか、極当然のように話してしまっている。それとも土壇場で出し抜く覚悟があるのか。
敢えて二人とも触れないようにしている。
もそもそと毛布が蠢いて、彼女が向こうを向いた。
「カノン」
「ん?」
「……ごめん」
「……」
小さく。
聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、呻くように発せられた謝罪が、カノンの鼓膜を打った。
「いいよ、別に」
暗い天井を眺めながら、カノンは、そう答える他の術を持ってはいなかった。
「……調べ物ですか?」
横合いからかけられた声に、カノンは手を止めて振り返った。そこには今朝方、別れたはずの柔和な笑顔を浮かべた顔が。
「クロード、さん」
「クロード、で結構ですよ」
手元の本を棚に戻しながら頷く。WMO付近の図書館内だ、会うこと自体は不思議ではない。
あのまま朝を向かえ、ルナとクロードは一度WMOに帰還した。クロードには公務があるだろうし、ルナはローランに雇われている身だ。丸一日、支部を空けるわけにもいかない。
日昼、堂々とクロードを襲う、ということはいくら何でもないだろう。周りには一般の魔道師もいるはずだ。あまりにもリスクがありすぎる。
夕刻、再びホテルで落ち合うことを約束し、今朝方別れてきたのだが。
「他の方々は?」
みんなバラバラです。アルティオは昨日、とっ捕まえた奴の監視、レンとシリアは周辺への聞き込み。私はちょっと調べ物」
「今回の件に関して、ですか?」
眉根を寄せて、クロードは彼女が眺めていた本の棚を見上げる。
「失礼ですが何を、ですか?」
「ちょっとその……思うところありまして」
カノンはその視線の先を辿って腕を組んで唸る。棚の上のプレートの文字は"歴史‐history‐"となっていた。
「……正直、今回の件とはあまり関連性がないと思うのですが」
「んー」
目を閉じる。話して置いていいものだろうか―――いや、WMOの表向きの正式調査とて、同じような結論には至っているだろう。おそらく、今日も似たような話は出るだろう。
「まあ、実は……」
昨日、ルナにした話をそのまま話すと、クロードは渋い顔で頷いた。
「WMOではそういう話、出て来てないの?」
「出て来てはいますが……ほとんどが無意味、でしょうね。筋の通った説ほど、祖父に握りつぶされてしまいますから」
「あー、なるほど……」
「ですが言ったでしょう? 祖父はWMOに打撃を与えるために合成獣を造り出しているんです。
それだけなら、別に駄作の合成獣でも構わなかったのではないですか?」
「確かにね。でもどんな駄作でも、造り出すのにはそれなりに先立つものが必要でしょう? そんな資金の無駄遣いをするとは思えないのよ。
どう考えても、研究と実用を兼ねるのが一番いい方法じゃない。研究過程で造った合成獣をデータを取るのを兼ねて放逐、とかね。WMOの中にも合成獣の研究をしてる奴なんか山ほどいるだろうし、一人くらいローラン側に付いてる奴がいるはずだわ。
なのに何故、こんな無駄なことを繰り返してるのか。
だから思ったのよ、出さないんじゃ無くて出せなかったんじゃないか、って」
「出せなかった、ですか?」
「そう、研究の主体になっているのは性能のいい合成獣を造ることじゃなくてもっと別のことにあるんじゃないか、ってね。
そこまで考えたらふと思い出したのよ。死術、は解るわよね? あれの中に、核に触れると誰彼構わず、生物を凶暴化―――狂戦士化させる、っていう傍迷惑かつ危険極まりない術があってね」
「……それはまた」
「でしょ? 死術じゃなくても、危険な魔法なんて世の中に腐るほどあるわけで。もしかしたらそういう術が他にも存在した事例があるんじゃないかあるんじゃないか、ってさ。
まあ、そんな術が正規の魔道書に載ってるわけないし、ってか載ってもらってても困るし。過去の事件か史上に類似例を探してるわけ。
あったらあったでまたそれを掘らなきゃいけないわけだから回りくどいテではあるんだけど」
「なるほど……良く、そこまで思い至ったものですね。感心しました」
「そこは馴れっていうか……」
―――ッ?
かすかな違和感。それはクロードの声色だったか、それとも言葉の使い方だったか。
『思い至る』……おかしくはないだろうが、こういった場合、普通はそういう言葉を使うだろうか。
新たに本を抜こうとしていた手が止まる。顔を上げてクロードを盗み見る。先程と変わらぬ笑顔を浮かべている―――瞳の奥に、かすかな嘲りを灯らせながら。
カノンの中の、研ぎ澄まされた勘が警鐘を告げる。詰まらない理屈染みた願望と、十九年付き合ってきた自らの勘ではカノンは己の勘の方を信じる!
だんッ!!!
手の中の蔵書を床へ叩き付けると、後ろ飛びにその場を退く。そのまま踵を返し、振り向く事無く走り出す。
小さな詠唱が耳に届く。気配と勘とだけを頼りに左側へ飛ぶ。なびいた髪の一房を焼いて、青白い光の孤影がその先の窓ガラスを容赦なく、砕いた。
躊躇い無く割れた窓の桟へ足をかける。一階でだいぶ助かった。割れた窓を開け放ち、外へと着地。瞬時、
複数の、気配。
「―――ッ!!」
剣を抜く。繰り出した先はすぐ脇の茂み。
確かな手ごたえと共にくぐもった悲鳴。引き抜いた刃は赤い残像を残し、粘ついた体液を芝生の上へ撒き散らした。
顔を顰めながら距離を取る。
茂みの中から影が躍る。フードを目深に被った、おそらくは昨日取り逃がした襲撃者。怪我を負っていないということは、どうやら茂みの中に二人潜んでいたうち、一人を片付けることは出来たらしい。
が、
「くッ―――!」
「諦めた方がいいですよ」
木の陰から、階上から降って湧いた同じような影に、カノンは足を止めた。後ろの割れた窓からは余裕の笑みを浮かべたクロード。
魔道師なら空からでも逃げられただろうが、残念ながらカノンには出来ない芸当だ。
「まさか―――」
「まさかこんな場所で、ですか? ご心配なく。この図書館はWMOの管轄でもありましてね、人払いは出来ています。多少のことなら揉み消しが効きますしね」
迂闊だった、まさか―――。
「無用な怪我はしたくないでしょう? カノンさん、我々とご同行願います。よろしいですね―――?」
←7へ
――― 一体、どうなってるってのよ……。
人込みから逃げるようにホテルを出て、ようやく落ち着けた町の片隅にある食堂。物価の高いクオノリアでそこそこの値段でそこそこのものを食べさせてくれた。
まあ、確かにホテルでの食事の方が美味しいことは確かだが、あんな騒ぎの中心でゆっくり食事も何もあったものじゃない。
朝食の席は珍しく静かだった。
さしものシリアも自嘲して、今朝ばかりは大人しく、どこか憮然とモーニングセットを口にしている。
「さて、」
食後に運ばれてきたホットコーヒーの半分を飲み終えた辺りで、カノンはそこにいる全員を見回した。
「さっき、ホテルの支配人に尋ねたら、今日明日にあそこを追い出される心配はないそうよ。
ホテル側にとっては大惨事だし、即対応しなきゃいけないんだろうけど……
少なくとも、ビジネスだから。今泊まってる人たちに失礼な真似はしない、ってさ。つまり、騒ぎを気にしなければもう二、三日は普通にレジャーを楽しめる」
頷くシリアとアルティオ。レンは承諾済みなのか、コーヒーカップを空ける手を休めない。
「まあ、気にしなければ、の話だけど」
カノンが何を言いたいのか、解らないほどここに居るメンバーは愚鈍ではないだろう。
―――つまり、クレイヴは昨夜、何かをカノンたちに話そうとしていた。
その何かは今となっては解らない。しかし、カノンはてっきり最初に受けた依頼についてか、もしくは昨日の件を重く見て、なりふり構わず"事件の解決"を依頼しに来たのか。
そのどちらかと思っていた。
だが……
その矢先に、クレイヴは殺された。
いくらローラン……WMOにとって彼が目の上のたんこぶだったとしても、仮にも公共機関の人間が、そんな手荒な真似をしたりはしないだろう。下手をすれば、それこそ面目の丸つぶれになる。
話をようとした矢先―――
クレイヴは誰かに、フロントを通じて呼び出されていた。
それが誰だったのか、何があったのか、おそらく彼はあの後に殺されたのではないか……
「クレイヴが、あたしたちに何を話そうとしていたのかは知らないわ。今となっては解らない」
神妙に首を振ってカノンは前置いた。
「けど、その"誰か"にとってクレイヴが話そうと……もしくは打ち明けようとしていたことが、何らかの形で不都合だった、ってことになるわ」
「不都合、って……やっぱり例の件に関して、だよな?」
「たぶんね。まあ、仮にもホテル主だし、狙われる理由ってのは逆恨み含めていろいろとあるんだろうけど……。
けど、このタイミングで、ってのはちょっと……」
「けどー、このタイミングを狙って、ってのもあるんじゃない?」
珍しくレン以外のことに頭を働かせているシリアが発した言葉に頷くカノン。
「確かにね。今なら、他人に罪を着せられるいい機会よ。
でもね、クレイヴはWMOやら政団にも機密でこの探索をしていたの。一般の中で、クレイヴがこの件に関わっていたことを知る人は極少数、観光団体の一部と依頼を受けた、あたしたちみたいな傭兵くらい。
観光団体の人間にいくら何でもこんな、『観光』そのものが不安定になるような事件を起こす理由はないし、傭兵にしたってクレイヴはそんな不法千万な依頼人じゃなかったわ。
まあ、観光団体については、それほどの恨みがあった、って人もいるかもしれないけど……その線で考えたって、一歩も進まないわ。
最悪のパターンを考えるなら、やっぱりあの件絡みになるはずよ」
「……確かに、最悪だな」
カノンの言葉をレンが継ぐ。
彼は不意に自分の指を立て、
「一つ、WMO、もしくは何かの理由で"事件の解決"を望まない人間が、目の上のたんこぶであるクレイヴを煙たがって消した。
しかし、これはクレイヴが何らかの成果を上げていない限り、そしてそれが公になっていない限り、考え難い。ましてやWMOがそんな手段に出るとは考え辛い。
二つ、クレイヴが事件について何らかの形で直結、もしくは間接的に関係する事柄……犯人を告発する証拠を掴んでしまっていた場合。
これは"消される"理由として十分だし、そうなれば俺たちに護衛や告発の手伝いを頼んでくることもあるだろう。
……後はあまり考えたくないが、三つ」
レンの声が潜んだものになる。
「クレイヴ自身が、この件に関して何らかの形で直接的に関わっていた場合」
「―――っ!」
アルティオが飲んだばかりのコーヒーを噴出すのを堪えている。シリアもまた、目を丸くして彼を見た。
「真実はわからん。
この説は、ならどうして"事件の解決"に繋がる依頼を俺たちにして来たのか理由が解らなくなるし、根拠も薄い。
昨日、あんなことが―――合成獣が人を傷つけるようなことがあって、昨日の件自体に疑問を抱いた、もしくは腰の引けた奴が俺たちに"事件の解決"を依頼し、自分だけ火の粉を避けるためか、それとも本当の真実を明かすつもりだったのか……。推測はいくらでも成り立つ意見だがな」
「どっちにしろ、クレイヴの真意は解らないことだらけよ。
これ以上は、ここで考えてても仕方ないことばっかりだわ。で、それを踏まえてあんたたちに聞きたいのは、」
もう一度、カノンは一同を見渡す。
「一つ、こんな件とは金輪際、関わらずに楽しくレジャーを満喫した後に速やかにこんな縁起の悪い町はおさらばする。
二つ、やっぱり寝覚めが悪いからハイリスク覚悟で分の悪い真似をする。
二つに一つよ」
「……」
シリアとアルティオは無言でお互いの顔を見合わせた。レンは短い溜め息と共に、早々に口を開く。
「俺としては前者、だな。
わざわざ見返りのない厄介事に首を突っ込むのははっきり言って歓迎しない」
「……まあ、あんたはそう言うと思ってたわ。で、あんたたちは?」
首を回して、シリアとアルティオの方を向く。二人とも答え辛いらしく、渋い顔で固まったままだ。
数瞬の沈黙の後、アルティオが顔を上げる。
「俺としては……ちょっとやっぱり寝覚めが悪すぎるぜ。納得はいかないけど……けどどっちが正しいのかもよくわかんねぇ。
カノン、お前はどう思うんだ?」
「……」
問われて腕を組む。ちらり、とレンの方を盗み見ると、知らぬ顔でカップを傾けている。
「……あたしはやっぱり、寝覚めが悪いわね」
その一言に意外そうな目を向けるアルティオ。
「それに、気になることがあるの」
「ルナのこと?」
「そりゃそれもあるけどね……。
何で、いきなり事件が凶悪化したのか、ってことよ。これまで事件は人気のない、山の中とか人知れない岩場とか。
そりゃあ、襲われた人の一人や二人、いたかもしれないけど、真昼間のビーチの真ん中に現れたことは今までなかった。にも関わらず、昨日は一般人が大勢いるあの場所が狙われて、今朝、その調査をしていたクレイヴが殺された。
いくら何でも程度が違うわ。
で、何のために犯人はわざわざこんな騒ぎを起こしたのか。何が目的なのか。
これは良くない推測よ……推測なんだけど」
こくり、と生唾を飲み下す。
「犯人が、あたし達を……いや、あたしとレンを挑発しようとしている、もしくは直接に狙っている場合」
「―――!?」
「ちょ、何でそうなるのよ!?」
「考えたくないけど……。
半年前のことはあんた達も知ってるでしょ?」
言ってシリアもアルティオも、一瞬言葉に詰まる。
半年前―――回収した死術を利用しようとした政団の指導者が暴走を始め、それを止めるためにカノンとレン、他一名が深く関わった事件。
公式には伏せられているが、裏の方では名前が流れてしまっていてもそうおかしくはない。
あの事件は政団の第三革命とも呼ばれ、おそらく歴史上にも残る大事件だったのだから。
その最中にいたカノンたちに降りかかるのは、けして名声や栄誉ばかりではない。元・指導者の残党に襲われたこともある。
歴史に名を残すということは、表にしろ裏にしろ、いつのときもろくな結果を生み出さない。自らの親族に置いて、カノンもレンもそのことは良く知っている。
だからこそ。
無用な危険を避けたがるレンの言葉の意も解る。が、
「自意識過剰なのは解ってるわ。これはあたしの単なるもしかしたら、っていう気がかりに過ぎない。杞憂にじゃないか、って程度のね。
でも、それを放って置いて、ってのは少なくともいいことじゃないと思うのよ」
カノンは全員に、というよりもレンに向かって言う。
彼はようやく弄んでいたカップを置いた。手元の剣を引き寄せて、天井を仰ぐ。しばし、目を閉じた後、
「で、具体的にどうするんだ?」
さすがに決まると決断が早い男だ。
「ありがと、レン」
「ふん。まあ、俺はいい。どの道、ここに滞在するのなら部外者ではいられまい。
カノンと俺はともかくとして、お前らはどうするんだ?」
「決まってるじゃない!」
問いかけにいきなり元気になったシリアが立ち上がる。傍迷惑にもレン、そしてカノンを交互にびしっ、と指差すと、
「最初に言ったことをもう忘れたのかしらッ!? この私がいる限り、二人きりなんて許されないって!
ふっ、不本意だけどこの私の協力が得られることを感謝することね、カノン=ティルザードッ!」
「押し売りはお断りよ、残念だけど」
「そんな危ない境地に愛しい俺のフィアンセを一人にして置けるわけがないだろうッ!?
ましてや、こんなむっつり野郎の側に置かせておいてたまるかッ!」
「……貴様」
「店の中でそういう発言はやめろッ! ったく……まあ、いいわ。
二人共、それでいいのね?」
カノンの最後の問いかけに、力強く頷く二人。カノンは呆れ混じりに息を吐くと、それでもくすり、と笑って立ち上がった。
「そうと決まれば、早速打って出ないとね。これに関しては防御姿勢はマイナスしか生まないわ。待ちもなし。とっくに事態は最悪の方向に向いてるんだから、攻めあるのみよ。
とりあえず、シリア、アルティオ!」
「おう!」
「アルティオは町で、件の事件について何か耳にした話はないか町の人に片っ端から聞いて来て。ナンパでも何でも構わないわ、根拠のない噂でも全然OK。
シリアはクレイヴ本人について、誰かに恨まれるような話はないか、最近彼の周りで変わったことはなかったか、下町で聞き込んで」
「ふっ、その程度のこと、愚問ね」
「よっしゃ、そういうことなら俺の得意分野だな!」
「いや、得意かどうかは知らないけどね……。レンは、」
「ホテル関係者、もしくは観光団体、それともう一度支配人の首を絞めてくる」
「……くれぐれも殺さないよーにね。あと心の傷とか作らせないよーに」
「善処する」
「……いや、善処するって最初っから善処する気のない奴が使う言葉じゃ……。まあいいや、とりあえず、そっちは任すわ」
「ちょっと、じゃあ貴方はどうするのよ?」
何故か剥れた顔でシリアが問いてくる。カノンはす、と真顔を作り、口内の生唾を飲み下した。
「まずは調べ物、ね。もう一度、合成獣についての知識を仕入れて……
それから、WMOに行って来る」
「!」
「ま、待て、カノン! お前……」
慌てたアルティオの声に、視線を尖らせる。
「……もう一度、ルナに会って来る」
「……本気?」
シリアが眉を潜めて問いてくる。それはそうだろう、彼女のところを訪れるというのは、即ち彼女の仕事を妨害することに繋がりかねない。
尚且つ、今はクレイヴの殺害について、WMO―――ひいてはローランは、まさか役所から疑われているわけではないだろうが、いい立場にはいないだろう。
警戒されるのは間違いない。
二人が呆気に取られる中、レンはわずかに残ったコーヒーが揺れるカップの中身を眺め、やがてそれを一度に飲み干した。
「……気を付けろ」
その言葉に、カノンは深く頷いた。
食堂を出てカノンは一つ、大きく身体を伸ばした。うみねこの鳴く声が聞こえる。
青い空と海とに惹かれてやって来たクオノリアだが、今はどこか霞んで見え、道行く人たちの顔にも陰りを感じる。
覇気がないというか。
と思えば、道端で会議をしている近所のおば様方の間では、生々しく今朝の騒ぎが囁かれている。
慌しさと、不気味な寂しさが同居する、肌に悪い空気。
―――こんな中でレジャーも何もあったものじゃないわね、よく考えれば。
「全く、つくづく運が悪いっていうか。それともあたし自身が疫病神なのかしらね」
苦笑するしかない。
「さて」
ボートと漁師が群がる海岸線を、歩く。図書館は確か、町の南側にあったはず。
詳しい場所は聞けなかったが、その都度人に聞けばいい。
潮風が乱暴に髪を弄び、ちらちらと横目に建ち並ぶ小さな雑貨店を眺めながら、一つの路地に入る。
路地を抜け、大通りの人並みの中を身をかわし、再び路地へ。人がごった返すとはこのことだ。
―――うっ、レンに送るだけ送ってもらえばよかったかも。
せめて彼の長身さえあれば、人並みの中でも多少強引に歩けたのに。
―――ごちゃごちゃ文句言っても仕方ないか。早速、方向感覚なくなったけど……
まあ、路地を抜けた先で聞けばいい。こういうときはひたすら楽観的に行くに限る。今さらになって治安が気になったが、まあ、まさかこんな時間からそんな輩は活動していないだろう。第一、大声を出せば一発で誰かが聞きつける、大通りのすぐ脇の路地なんて誰も狙わない。
やや生臭い匂いに軽く鼻を抑えながら路地をすり抜ける。足元にいた猫がふーっ、と威嚇しながら逃げていった。
「よっ、と」
石造りの家の壁に手をかけて、路地の終点に飛び出る。
目の前に突如として広がる海。
―――見事に間違えたな、こりゃ。
どうやらどこかの船が出入りする船着場らしい。石畳で組まれた停泊所に、小さいながら、貿易船らしい二艘ほど船が停泊している。
海は開けているものの、停泊場自体も小さく、船が三艘泊まればいっぱいになる程度だろう。
人影が少ないのが気になったが、あまり活発でない貿易場ならそう不思議でない光景だ。
―――ん?
数少ない船員が船を出入りする中、一人だけ、立ち止まって船を見上げる人影に気がついた。影、というのが正しいだろう、黒い髪に黒い服、夏だというのに同じ色の長いコートを羽織っている。
広い袖から見えた手は異様なまでに白い……いや、あれは肌じゃない。
唐突に思い出した。
昨日の事情聴取で、レンが妙な風体の少年の話を持ち出していたのを。
何とはなしに眺めていると、開いた距離に吹き抜けた潮風が一瞬、少年の髪を攫う。
「―――ッ!」
思わず息を飲んだ。
顔の半分を包帯で隠している、とは聞いていた。だが、もう左半分の整った顔。瞳は髪と同じ深い黒水晶。白く映るのは包帯だったが、肌もまた真綿のように白かった。
迂闊にも一瞬、見とれてしまった。
視線に気がついたのか、ふと少年が小首を傾げてこちらを振り向く。
―――あ゛。
「……何かご用ですか」
抑揚のあまりない、だが物腰柔らかな、年不相応に落ち着いた声音だ。
話しかけられては仕方がない。カノンは少年との距離を詰めようと、数歩移動する。
―――?
先程は気がつかなかったが、少年の腰の辺りに小さな女の子が一人、しがみ付いているのが見えた。黒い長い髪に、瞳、雪のような肌、フリルのついた何とも可愛らしいゴシック服を着ている。
兄弟、だろうか、どこか似ている気もする。
カノンが自分を見ていることに気がつくと、何故かびくっ、と肩を震わせ、目を見開いて慌てて少年の背に隠れてしまった。
―――嫌われてる?
「……えーっと、妹さん?」
そう問いかけると、少年もまたわずかに左の目を見開いた。
まじまじとこちらを見つめ、背中に隠れた少女の方にちらりと目線を投げる。空を眺めて何事か逡巡し、
「彼女ですか?」
「ええ、背中に隠れてる」
「……」
細い顎に指をかけて、感嘆したように息を吐く。
「……そういう人もいるのか」
「へ?」
「いえ、失礼。そうですね、そのようなものです」
にこり、と笑って頷く少年。
「それで、何か僕にご用ですか?」
「あー、えっと……。
ここ、貿易船の船着場ですよね?」
「そうですよ」
「失礼ですけど、あんまりこんなとこにいそうなタイプじゃないなぁ……、って」
ともすれば機嫌を損ねても致し方のない科白だった。しかし、少年はカノンの懸念を吹き飛ばすように可笑しそうに微笑を浮かべ、
「正直な人だ」
「あ、う、ごめん」
「いえ、いいんですよ。事実ですしね。
お察しの通りです。船員なんてものじゃないんですよ。ただ、ちょっと珍しい船着場なので見てみたくなりましてね」
「珍しい?」
言われてカノンは周囲を見回す。
……これといって変わったことはない。着場の形も特に変わった点はないし、泊まっている船も全く普通の木船。船員が人間外ということもない。どこそこの貿易港では半魚人の種族が活躍しているなどと言うけれど、そんなこともない。
海だって、穏やかな波が立っているだけで、別にそこだけ色が違ったりするわけでもない。
他の船着場に比べたら、確かに小規模だろうが、それほど変わっているわけではない。
意図が解らずに、眉間に皺を寄せて彼を見ると、少年は船のマストを見上げ、
「ここはね、大陸唯一のゼルゼイルへの輸出が行われている貿易場なんですよ。
ご存知ありません?」
「ゼルゼイル!?」
カノンは正直に驚いた。
ゼルゼイル。
西国大陸でも、東方大陸でもない、それ以外で人が居住する唯一の国。
中央アルケミア海の南方に位置する島国で、五十年前までは南国特有の果物や海産物、採掘される特殊鉱石などの貿易で栄えていた。
五十年前までは、と区切ったのには訳がある。今現在、ゼルゼイルは必要最低限の航路しか西・東両大陸に対して引いていない。五十年前、唐突としてゼルゼイルは極端な閉鎖国となった。
理由は国内部で起こった分断、そして内戦の勃発だった。
元々、ゼルゼイルは北ゼルゼイルと南ゼルゼイルとで大陸で言う領のような区分で別れていた。それでも昔は一つの国であり、それで上手く機能していたはずだったのだ。
しかし、五十年前、南ゼルゼイルの総統となった男が突如として独立を宣言。そのまま、国は分断され、冷たい内戦は今もまだ続いている。
不毛な内戦を続けるゼルゼイルに対して、東西大陸はやがて手を引いて行き……
ゼルゼイルは訪れる者も久しい、完全な独立国と化した。
そのゼルゼイルとの唯一の航路がクオノリアに開かれているとは知っていたが、まさか。
「小さいものでしょう?」
「まあ……でも、何となく人気がないのも合点がいったわ」
大陸人はゼルゼイルを遠ざける傾向がある。五十年、戦争を続けている国だ。
死術が横行した魔道大戦以来、曲がりなりにも(裏側ではそうでもなかったりするのだが)平和を貫いて来た大陸人にとっては似て非なるもの、という意識が働くのだろう。
「貴方はどう思います?」
「え?」
「五十年、不毛な戦争を続け、国力を疲弊させるばかりの愚かな二国を、ですよ」
「……えーと」
初めて会った人間にまさかそんな国家レベルの質問をされると思わなかった。
答えに迷って、上目遣いで少年を見る。
―――っ?
少年は変わらず、船のマストの先を眺めていた。いや、本当は何も眺めていなかったのかもしれない。
遠くを。
ひたすら遠くを眺める瞳で。
「……なんてことをいきなり聞かれても困りますよね」
何も言えないでいるカノンに、少年は苦笑混じりに首を振った。悪戯が失敗した子供のような笑み、しかし、瞳はどこか笑っていない。
「貴方が戦を気にするのは、自分がそんな大怪我をしてるから?」
「……さあ、どうでしょう」
「もし、そうなら……どう思うも何もないじゃないの」
「?」
「人間は間違う生き物よ。だから戦争はする、喧嘩はする、下らないことで死んだりするし、後悔もする。当たり前のことよ」
「……そうですね」
「いつの時代だって、戦争が正当化されることはないわ。後から、あの戦争は間違いだった、とか言うけどそれは戦争なんかする前から解ってたことよ。
人間は馬鹿だからとんでもないことが起こってからしか後悔できない。でもね、後悔して置きながら戦争を繰り返そうとする奴がいたら、それは馬鹿を通り越して愚かとしか言えないわ」
「……それが、貴方の考え方、ですか…」
少々、陶然となりながら返って来た声に肩を竦め、
「あくまで自論。これでもいろいろな戦いは見て来たからね。
でも、戦争ってのは見たことないから……本当の戦争を知ってる人は、また違うことを言うのかもしんないわね」
「……」
顎に指を置くのが癖らしい。少年はしばし、その格好のままで何事か考え耽っていた。
何となく、去るタイミングを失ってカノンがただ突っ立っていると、少年はやがて面を上げて、
「なかなか面白い意見を聞かせていただきました。
初めての方にお話するような話ではなかったですね、お詫びを言わせてください」
「いや、別に……。
あ、そーだ。あの、あたし……」
「大通りに出るならそこの路地を右です。この時間は混んでいますから、WMOに行くならそちらの道からまっすぐ行った方がいいでしょう。あの建物は、街中で一番大きいですからすぐわかります。
図書館はその右手にあるはずですよ」
「え、あ、えっと……?」
かすかな声が聞こえた。遠くの路地で、誰かが声を張り上げている。それが何と言っているのかは解らなかったが、少年は自分が呼ばれているのだと解釈したらしい。
「それでは。クオノリアは発展した観光都市のようですが、治安は良くないようなので女性の一人歩きはあまりお勧め出来ませんよ。どうかお気をつけて」
「え、あ、ありがとう……」
「いいえ、こちらこそ」
一礼した後に、音も立てずに去っていく。それに慌てて付き従う少女。
カノンは頬を掻いてその背を見送っていたが、やがて踵を返して走り出した。
―――悪いヒトではなかったみたいだけど……
走りながら、彼の言葉を反芻する。
「何であの人、あたしが図書館に行きたいこと知ってたんだろ……?」
少女が消えた先を眺めて、少年は息を吐いた。ふと視界に、黒髪の少女の姿が目に入る。まだぽかんとしている彼女に、
「『魔変換』の所有者、か。見える人には、見えるのかな。ねぇ、シャル?」
そう言って口元だけでくすり、と微笑んだ。
図書館の造りはまあまあだった。
大きくもないし、小さくもない。トップクラスの学者が調べ物をするにはやや物足りない、という程度か。
しかし、予備知識は持っているもののカノンが専門外の事柄を調べるにはちょうど良いくらいだ。
「んーと、魔道関係、魔道関係……」
ずらり、と硬い背表紙が並ぶ本棚の合間を、棚の上部に付いているプレートをチェックしながら進んでいく。
こういう場所には結構、慣れている。これでも狩人時代は調べ物というものが欠かせないもので、しょっちゅう町の図書館や政団の司書室に出入りしていたのだ。
高台に上り、棚の上の蔵書に手を伸ばす。
数冊、取ったところで肩を撫で下ろす。この台というもの、そこそこに頑丈でないと容易く壊れてしまうのだから油断が出来ない。
―――けして、体重が重いわけではないんだけどね……よっと。
とりあえず、台を元の場所に戻さなくてはいけない。本を台の上に乗せ、両手で抱えるように持ち上げて―――
「あ、すいません、その台……」
「ん?」
後ろからかかった声に反射的に振り返る。振り返ってから、その声が聞き馴れたものだということに気が付いた。
「あ……」
本棚の向こうから首だけを出して、おそらく、台を持っていることで咄嗟に声を出してしまったのだろう、見知った顔が覗いていた。
「ルナ……」
「カノン……?」
あの図書館ではWMOの目がありすぎる。場所を移し、通りを二つ挟んだ街中のカフェの片隅を陣取って、彼女たちは向かい合っていた。
ルナはカノンが口にする状況説明を、腕を組みながら静かに聞いている。
……いや、ただ単に運ばれてきたオレンジスフレに集中力を奪われているだけかもしれないが。
話、と言っても長い話ではない。ルナがスフレの半分ほどを平らげた頃合で、カノンの話は終わりを告げた。
最後の句を告げたと同時に、ルナの白い喉が上下する。
フォークが止まった。そのまま銀の食器は置き皿に軽い音を立てて寝そべる。
「……で?」
「……」
「あんたはあたしに何を聞きに来ようと思ったの?」
「いろいろあるわ。
WMOの調査内容を教えろとか馬鹿なことを言うつもりはないの。まず一つ。一流の魔道師として答えて欲しいことがある」
「随分と意地の悪い言い分ね。まあ、いいわ。何?」
「例の合成獣のこと。WMOもクレイヴも、これはどこかの魔道師が造った合成獣が暴れている―――そういう事件だ、って言ってたわ。
あたしはこれでも色んな化け物を見て来たし、合成獣ってのも数多く見て来た自信があるわ。でも、今回の件についてはどうしても納得できないことがあるの」
「納得できない?」
「ルナ、一流の魔道師として意見を聞かせてちょうだい。あの合成獣、一体誰が何の目的で造ったんだと思う?」
ルナの眉がひくり、と小さく震える。
「そんなことは……」
「犯人の目的を聞いてるんじゃないわ。
魔道師が合成獣を造り出す最大の目的は、現存する生物を利用してそれ以上の性能を持つ生物へと進化させる、もしくは強化させる、ってことよね?
例えば陸の生き物と海の生き物をかけ合わせて水陸両用の生物を造ったり」
「まあ、大抵の場合はそうでしょうね」
「けど、今まで証言されてる合成獣の一つ一つを見てみて。
まず、あたしたちが最初に会ったあいつ。
ミノタウロスの体力はいいわ。スライムの溶解液は厄介だったけど、足部があれじゃあ、犬の脚力や兎の敏感さをプラスしたところで動きが遅すぎて意味がない。ましてや、あんなでかぶつに翼をつけても飛べるわけはない。
連絡は行ってると思うけど、昨日ビーチを襲った奴もそう。
蟹はいいわ。見た目は悪いけど、鋏は立派な武器になるし、グロテスクだったけど触手もそれなりに厄介だった。
でも、胴体の真ん中に口があって牙があっても、食事くらいにか使えないし、周りにくっついてたちっちゃい魚のヒレなんか泳ぐわけでもないのに明らかに邪魔なだけよ。
つまり。
どれもこれも合成獣としての意味を成していないのよ。あれもこれも欲張りすぎて形成に失敗した駄作……にしても酷すぎるわ。
ちょっと考えれば、別に魔道師じゃなくてももっと良い物が造れると判断できるはず。
なのに、今回、発見される合成獣はそんな失敗作ばっかり」
「……」
「ルナ、魔道師としてどう思う? あたしの考えは間違っている? それとも、あれにはあれであたしにはわからない優秀な面があるっていうの?」
「……」
ルナはふっ、と力を抜いて紅茶のカップを手に取った。酸味の程好く利いたローズティーを一口、飲み下してから口を開く。
「まあ……死術の狩人なんかやってたあんたを、口先だけの三寸で誤魔化せるわけないわね。
その通りよ。だからWMOも混乱してる。
魔道師で合成魔道学をちょっとでも齧った人間なら、あんな合成獣が何の役にも立たないのはすぐ理解できる」
「……」
「どうせカノン。あんたのことだから、その先もちょっとは察しがついてるんじゃないの?」
「……あの合成獣が魔道師の単なる腕自慢とか不注意でないなら……。
目的はもっと別のもの。クオノリアそのもの、いや、合成獣によってクオノリアが撹乱されること。直接のダメージが行くのは観光協会かどこかだけど、それならわざわざこんな手を使う理由はない。
クオノリアが魔道生物に撹乱されて、最も不利益を被るのはそれで面目を潰される……」
自然と、言葉に力が篭もる。
「WMO……」
「それも、魔道関係の事件解決に責任がある者、ね」
深く、息を吸い込んで吐き出す。
「……ローランに個人的に恨みを持つ人間は?」
「それこそ星の数。権力者にはつきものよ。容疑者はそれこそWMOの中に石一個を投げれば当たるくらいたくさん」
首を振りながら、ルナが答える。
ローランが頑なに他者の事件への関与を嫌ったのは、つまり、そういった背景があってのものだったのだ。
他者が事件を解決してしまえば、揉み消しが効く場所までそれが出来なくなる。
ましてや、動機が己の不始末等に関係することだったなら、それだけで自分の地位を危うくする。
まったく、何てことだ。
「……今朝、前の依頼人だったクレイヴが殺されたわ」
「そうらしいわね」
「何か心当たりは?」
「ないわ。最も、私は表向きに雇われた人間だから、別の場所で誰が何をやってるのかなんて知らないわけだけど」
「そう……」
ルナが再びフォークを手に取る。オレンジスフレの山になった箇所に、切っ先が食い込むのを眺めながら、カノンは懐に手を入れた。
「もう一つ、"これ"に見覚えは?」
「―――ッ!」
明らかに。
ルナの顔に動揺が走った。
カノンが取り出したのは、一つの小さな石。いや、石に見える"何か"。
砂漠の花、と呼ばれる鉱石がある。高温の砂砂漠で、水が干上がる前にその水に溶けていた石膏が結晶化し、その結晶が花弁のように見えるのでそう呼ばれる。
それはその特殊な鉱石によく似ていた。
だが、それとは明らかに違う。あれは結晶化の際に砂と取り込む。黄色や赤や、色の付いた結晶が出来上がるはずだが、カノンの手の平にあるそれは反して真っ白な色をしていた。
「それは?」
平静を装いながら、彼女が問う。
「正体はわからないけどね。蟹モドキを倒した現場に転がってたの。
見たことのないものだし、珊瑚、にしては汚れ一つないのが気になるわ。生態系に属するものならそれまでだけど、これが何なのか調べてみる価値はあると思って。
けど、見覚えがあるんなら」
かしゃんッ。
彼女の置いたフォークが、少々荒い音を立てる。
「ルナ?」
「カノン、この件からは手を引きなさい」
立ち上がり、言い放たれた一言に、カノンの表情が引き締まる。
「それはWMOに預けることを薦めるわ。容疑者はいずれ捕まるでしょうし、後は任せて町を出なさい」
「……ッ」
そのままテーブルを立つ彼女の背を、カノンは反射的に追っていた。
「ルナッ」
「……」
「もう一つだけッ! あんた、何のつもりで彼に付いてるのッ?
わかってんでしょッ、相手がどんな人間かッ! らしくないじゃない、何のつもりなのッ!?」
背中に叩き付けた言葉に、彼女の足が止まる。店の中の視線が集まるが、覚悟の上だ。
数瞬後、彼女は俯いた顔をほんの少しだけ上げて、
「もう一度言うわ。早く、町を出なさい」
「―――ッ!」
それだけ言い放って、彼女は無言でカフェを去った。
カノンは首を振って席に戻る。取り残されたスフレの残りが、何だか妙に寂しげだ。
―――何か、隠してるわね……
ルナが忘れていることが一つ。
―――そういう態度ならこっちもとことんまで調べ上げてやろうじゃないのッ! あたしはそういう性分の持ち主よッ!
鼻息を荒げて、カノンは彼女が残したデザートを始末するべくフォークを手に取った。
←6へ
人込みから逃げるようにホテルを出て、ようやく落ち着けた町の片隅にある食堂。物価の高いクオノリアでそこそこの値段でそこそこのものを食べさせてくれた。
まあ、確かにホテルでの食事の方が美味しいことは確かだが、あんな騒ぎの中心でゆっくり食事も何もあったものじゃない。
朝食の席は珍しく静かだった。
さしものシリアも自嘲して、今朝ばかりは大人しく、どこか憮然とモーニングセットを口にしている。
「さて、」
食後に運ばれてきたホットコーヒーの半分を飲み終えた辺りで、カノンはそこにいる全員を見回した。
「さっき、ホテルの支配人に尋ねたら、今日明日にあそこを追い出される心配はないそうよ。
ホテル側にとっては大惨事だし、即対応しなきゃいけないんだろうけど……
少なくとも、ビジネスだから。今泊まってる人たちに失礼な真似はしない、ってさ。つまり、騒ぎを気にしなければもう二、三日は普通にレジャーを楽しめる」
頷くシリアとアルティオ。レンは承諾済みなのか、コーヒーカップを空ける手を休めない。
「まあ、気にしなければ、の話だけど」
カノンが何を言いたいのか、解らないほどここに居るメンバーは愚鈍ではないだろう。
―――つまり、クレイヴは昨夜、何かをカノンたちに話そうとしていた。
その何かは今となっては解らない。しかし、カノンはてっきり最初に受けた依頼についてか、もしくは昨日の件を重く見て、なりふり構わず"事件の解決"を依頼しに来たのか。
そのどちらかと思っていた。
だが……
その矢先に、クレイヴは殺された。
いくらローラン……WMOにとって彼が目の上のたんこぶだったとしても、仮にも公共機関の人間が、そんな手荒な真似をしたりはしないだろう。下手をすれば、それこそ面目の丸つぶれになる。
話をようとした矢先―――
クレイヴは誰かに、フロントを通じて呼び出されていた。
それが誰だったのか、何があったのか、おそらく彼はあの後に殺されたのではないか……
「クレイヴが、あたしたちに何を話そうとしていたのかは知らないわ。今となっては解らない」
神妙に首を振ってカノンは前置いた。
「けど、その"誰か"にとってクレイヴが話そうと……もしくは打ち明けようとしていたことが、何らかの形で不都合だった、ってことになるわ」
「不都合、って……やっぱり例の件に関して、だよな?」
「たぶんね。まあ、仮にもホテル主だし、狙われる理由ってのは逆恨み含めていろいろとあるんだろうけど……。
けど、このタイミングで、ってのはちょっと……」
「けどー、このタイミングを狙って、ってのもあるんじゃない?」
珍しくレン以外のことに頭を働かせているシリアが発した言葉に頷くカノン。
「確かにね。今なら、他人に罪を着せられるいい機会よ。
でもね、クレイヴはWMOやら政団にも機密でこの探索をしていたの。一般の中で、クレイヴがこの件に関わっていたことを知る人は極少数、観光団体の一部と依頼を受けた、あたしたちみたいな傭兵くらい。
観光団体の人間にいくら何でもこんな、『観光』そのものが不安定になるような事件を起こす理由はないし、傭兵にしたってクレイヴはそんな不法千万な依頼人じゃなかったわ。
まあ、観光団体については、それほどの恨みがあった、って人もいるかもしれないけど……その線で考えたって、一歩も進まないわ。
最悪のパターンを考えるなら、やっぱりあの件絡みになるはずよ」
「……確かに、最悪だな」
カノンの言葉をレンが継ぐ。
彼は不意に自分の指を立て、
「一つ、WMO、もしくは何かの理由で"事件の解決"を望まない人間が、目の上のたんこぶであるクレイヴを煙たがって消した。
しかし、これはクレイヴが何らかの成果を上げていない限り、そしてそれが公になっていない限り、考え難い。ましてやWMOがそんな手段に出るとは考え辛い。
二つ、クレイヴが事件について何らかの形で直結、もしくは間接的に関係する事柄……犯人を告発する証拠を掴んでしまっていた場合。
これは"消される"理由として十分だし、そうなれば俺たちに護衛や告発の手伝いを頼んでくることもあるだろう。
……後はあまり考えたくないが、三つ」
レンの声が潜んだものになる。
「クレイヴ自身が、この件に関して何らかの形で直接的に関わっていた場合」
「―――っ!」
アルティオが飲んだばかりのコーヒーを噴出すのを堪えている。シリアもまた、目を丸くして彼を見た。
「真実はわからん。
この説は、ならどうして"事件の解決"に繋がる依頼を俺たちにして来たのか理由が解らなくなるし、根拠も薄い。
昨日、あんなことが―――合成獣が人を傷つけるようなことがあって、昨日の件自体に疑問を抱いた、もしくは腰の引けた奴が俺たちに"事件の解決"を依頼し、自分だけ火の粉を避けるためか、それとも本当の真実を明かすつもりだったのか……。推測はいくらでも成り立つ意見だがな」
「どっちにしろ、クレイヴの真意は解らないことだらけよ。
これ以上は、ここで考えてても仕方ないことばっかりだわ。で、それを踏まえてあんたたちに聞きたいのは、」
もう一度、カノンは一同を見渡す。
「一つ、こんな件とは金輪際、関わらずに楽しくレジャーを満喫した後に速やかにこんな縁起の悪い町はおさらばする。
二つ、やっぱり寝覚めが悪いからハイリスク覚悟で分の悪い真似をする。
二つに一つよ」
「……」
シリアとアルティオは無言でお互いの顔を見合わせた。レンは短い溜め息と共に、早々に口を開く。
「俺としては前者、だな。
わざわざ見返りのない厄介事に首を突っ込むのははっきり言って歓迎しない」
「……まあ、あんたはそう言うと思ってたわ。で、あんたたちは?」
首を回して、シリアとアルティオの方を向く。二人とも答え辛いらしく、渋い顔で固まったままだ。
数瞬の沈黙の後、アルティオが顔を上げる。
「俺としては……ちょっとやっぱり寝覚めが悪すぎるぜ。納得はいかないけど……けどどっちが正しいのかもよくわかんねぇ。
カノン、お前はどう思うんだ?」
「……」
問われて腕を組む。ちらり、とレンの方を盗み見ると、知らぬ顔でカップを傾けている。
「……あたしはやっぱり、寝覚めが悪いわね」
その一言に意外そうな目を向けるアルティオ。
「それに、気になることがあるの」
「ルナのこと?」
「そりゃそれもあるけどね……。
何で、いきなり事件が凶悪化したのか、ってことよ。これまで事件は人気のない、山の中とか人知れない岩場とか。
そりゃあ、襲われた人の一人や二人、いたかもしれないけど、真昼間のビーチの真ん中に現れたことは今までなかった。にも関わらず、昨日は一般人が大勢いるあの場所が狙われて、今朝、その調査をしていたクレイヴが殺された。
いくら何でも程度が違うわ。
で、何のために犯人はわざわざこんな騒ぎを起こしたのか。何が目的なのか。
これは良くない推測よ……推測なんだけど」
こくり、と生唾を飲み下す。
「犯人が、あたし達を……いや、あたしとレンを挑発しようとしている、もしくは直接に狙っている場合」
「―――!?」
「ちょ、何でそうなるのよ!?」
「考えたくないけど……。
半年前のことはあんた達も知ってるでしょ?」
言ってシリアもアルティオも、一瞬言葉に詰まる。
半年前―――回収した死術を利用しようとした政団の指導者が暴走を始め、それを止めるためにカノンとレン、他一名が深く関わった事件。
公式には伏せられているが、裏の方では名前が流れてしまっていてもそうおかしくはない。
あの事件は政団の第三革命とも呼ばれ、おそらく歴史上にも残る大事件だったのだから。
その最中にいたカノンたちに降りかかるのは、けして名声や栄誉ばかりではない。元・指導者の残党に襲われたこともある。
歴史に名を残すということは、表にしろ裏にしろ、いつのときもろくな結果を生み出さない。自らの親族に置いて、カノンもレンもそのことは良く知っている。
だからこそ。
無用な危険を避けたがるレンの言葉の意も解る。が、
「自意識過剰なのは解ってるわ。これはあたしの単なるもしかしたら、っていう気がかりに過ぎない。杞憂にじゃないか、って程度のね。
でも、それを放って置いて、ってのは少なくともいいことじゃないと思うのよ」
カノンは全員に、というよりもレンに向かって言う。
彼はようやく弄んでいたカップを置いた。手元の剣を引き寄せて、天井を仰ぐ。しばし、目を閉じた後、
「で、具体的にどうするんだ?」
さすがに決まると決断が早い男だ。
「ありがと、レン」
「ふん。まあ、俺はいい。どの道、ここに滞在するのなら部外者ではいられまい。
カノンと俺はともかくとして、お前らはどうするんだ?」
「決まってるじゃない!」
問いかけにいきなり元気になったシリアが立ち上がる。傍迷惑にもレン、そしてカノンを交互にびしっ、と指差すと、
「最初に言ったことをもう忘れたのかしらッ!? この私がいる限り、二人きりなんて許されないって!
ふっ、不本意だけどこの私の協力が得られることを感謝することね、カノン=ティルザードッ!」
「押し売りはお断りよ、残念だけど」
「そんな危ない境地に愛しい俺のフィアンセを一人にして置けるわけがないだろうッ!?
ましてや、こんなむっつり野郎の側に置かせておいてたまるかッ!」
「……貴様」
「店の中でそういう発言はやめろッ! ったく……まあ、いいわ。
二人共、それでいいのね?」
カノンの最後の問いかけに、力強く頷く二人。カノンは呆れ混じりに息を吐くと、それでもくすり、と笑って立ち上がった。
「そうと決まれば、早速打って出ないとね。これに関しては防御姿勢はマイナスしか生まないわ。待ちもなし。とっくに事態は最悪の方向に向いてるんだから、攻めあるのみよ。
とりあえず、シリア、アルティオ!」
「おう!」
「アルティオは町で、件の事件について何か耳にした話はないか町の人に片っ端から聞いて来て。ナンパでも何でも構わないわ、根拠のない噂でも全然OK。
シリアはクレイヴ本人について、誰かに恨まれるような話はないか、最近彼の周りで変わったことはなかったか、下町で聞き込んで」
「ふっ、その程度のこと、愚問ね」
「よっしゃ、そういうことなら俺の得意分野だな!」
「いや、得意かどうかは知らないけどね……。レンは、」
「ホテル関係者、もしくは観光団体、それともう一度支配人の首を絞めてくる」
「……くれぐれも殺さないよーにね。あと心の傷とか作らせないよーに」
「善処する」
「……いや、善処するって最初っから善処する気のない奴が使う言葉じゃ……。まあいいや、とりあえず、そっちは任すわ」
「ちょっと、じゃあ貴方はどうするのよ?」
何故か剥れた顔でシリアが問いてくる。カノンはす、と真顔を作り、口内の生唾を飲み下した。
「まずは調べ物、ね。もう一度、合成獣についての知識を仕入れて……
それから、WMOに行って来る」
「!」
「ま、待て、カノン! お前……」
慌てたアルティオの声に、視線を尖らせる。
「……もう一度、ルナに会って来る」
「……本気?」
シリアが眉を潜めて問いてくる。それはそうだろう、彼女のところを訪れるというのは、即ち彼女の仕事を妨害することに繋がりかねない。
尚且つ、今はクレイヴの殺害について、WMO―――ひいてはローランは、まさか役所から疑われているわけではないだろうが、いい立場にはいないだろう。
警戒されるのは間違いない。
二人が呆気に取られる中、レンはわずかに残ったコーヒーが揺れるカップの中身を眺め、やがてそれを一度に飲み干した。
「……気を付けろ」
その言葉に、カノンは深く頷いた。
食堂を出てカノンは一つ、大きく身体を伸ばした。うみねこの鳴く声が聞こえる。
青い空と海とに惹かれてやって来たクオノリアだが、今はどこか霞んで見え、道行く人たちの顔にも陰りを感じる。
覇気がないというか。
と思えば、道端で会議をしている近所のおば様方の間では、生々しく今朝の騒ぎが囁かれている。
慌しさと、不気味な寂しさが同居する、肌に悪い空気。
―――こんな中でレジャーも何もあったものじゃないわね、よく考えれば。
「全く、つくづく運が悪いっていうか。それともあたし自身が疫病神なのかしらね」
苦笑するしかない。
「さて」
ボートと漁師が群がる海岸線を、歩く。図書館は確か、町の南側にあったはず。
詳しい場所は聞けなかったが、その都度人に聞けばいい。
潮風が乱暴に髪を弄び、ちらちらと横目に建ち並ぶ小さな雑貨店を眺めながら、一つの路地に入る。
路地を抜け、大通りの人並みの中を身をかわし、再び路地へ。人がごった返すとはこのことだ。
―――うっ、レンに送るだけ送ってもらえばよかったかも。
せめて彼の長身さえあれば、人並みの中でも多少強引に歩けたのに。
―――ごちゃごちゃ文句言っても仕方ないか。早速、方向感覚なくなったけど……
まあ、路地を抜けた先で聞けばいい。こういうときはひたすら楽観的に行くに限る。今さらになって治安が気になったが、まあ、まさかこんな時間からそんな輩は活動していないだろう。第一、大声を出せば一発で誰かが聞きつける、大通りのすぐ脇の路地なんて誰も狙わない。
やや生臭い匂いに軽く鼻を抑えながら路地をすり抜ける。足元にいた猫がふーっ、と威嚇しながら逃げていった。
「よっ、と」
石造りの家の壁に手をかけて、路地の終点に飛び出る。
目の前に突如として広がる海。
―――見事に間違えたな、こりゃ。
どうやらどこかの船が出入りする船着場らしい。石畳で組まれた停泊所に、小さいながら、貿易船らしい二艘ほど船が停泊している。
海は開けているものの、停泊場自体も小さく、船が三艘泊まればいっぱいになる程度だろう。
人影が少ないのが気になったが、あまり活発でない貿易場ならそう不思議でない光景だ。
―――ん?
数少ない船員が船を出入りする中、一人だけ、立ち止まって船を見上げる人影に気がついた。影、というのが正しいだろう、黒い髪に黒い服、夏だというのに同じ色の長いコートを羽織っている。
広い袖から見えた手は異様なまでに白い……いや、あれは肌じゃない。
唐突に思い出した。
昨日の事情聴取で、レンが妙な風体の少年の話を持ち出していたのを。
何とはなしに眺めていると、開いた距離に吹き抜けた潮風が一瞬、少年の髪を攫う。
「―――ッ!」
思わず息を飲んだ。
顔の半分を包帯で隠している、とは聞いていた。だが、もう左半分の整った顔。瞳は髪と同じ深い黒水晶。白く映るのは包帯だったが、肌もまた真綿のように白かった。
迂闊にも一瞬、見とれてしまった。
視線に気がついたのか、ふと少年が小首を傾げてこちらを振り向く。
―――あ゛。
「……何かご用ですか」
抑揚のあまりない、だが物腰柔らかな、年不相応に落ち着いた声音だ。
話しかけられては仕方がない。カノンは少年との距離を詰めようと、数歩移動する。
―――?
先程は気がつかなかったが、少年の腰の辺りに小さな女の子が一人、しがみ付いているのが見えた。黒い長い髪に、瞳、雪のような肌、フリルのついた何とも可愛らしいゴシック服を着ている。
兄弟、だろうか、どこか似ている気もする。
カノンが自分を見ていることに気がつくと、何故かびくっ、と肩を震わせ、目を見開いて慌てて少年の背に隠れてしまった。
―――嫌われてる?
「……えーっと、妹さん?」
そう問いかけると、少年もまたわずかに左の目を見開いた。
まじまじとこちらを見つめ、背中に隠れた少女の方にちらりと目線を投げる。空を眺めて何事か逡巡し、
「彼女ですか?」
「ええ、背中に隠れてる」
「……」
細い顎に指をかけて、感嘆したように息を吐く。
「……そういう人もいるのか」
「へ?」
「いえ、失礼。そうですね、そのようなものです」
にこり、と笑って頷く少年。
「それで、何か僕にご用ですか?」
「あー、えっと……。
ここ、貿易船の船着場ですよね?」
「そうですよ」
「失礼ですけど、あんまりこんなとこにいそうなタイプじゃないなぁ……、って」
ともすれば機嫌を損ねても致し方のない科白だった。しかし、少年はカノンの懸念を吹き飛ばすように可笑しそうに微笑を浮かべ、
「正直な人だ」
「あ、う、ごめん」
「いえ、いいんですよ。事実ですしね。
お察しの通りです。船員なんてものじゃないんですよ。ただ、ちょっと珍しい船着場なので見てみたくなりましてね」
「珍しい?」
言われてカノンは周囲を見回す。
……これといって変わったことはない。着場の形も特に変わった点はないし、泊まっている船も全く普通の木船。船員が人間外ということもない。どこそこの貿易港では半魚人の種族が活躍しているなどと言うけれど、そんなこともない。
海だって、穏やかな波が立っているだけで、別にそこだけ色が違ったりするわけでもない。
他の船着場に比べたら、確かに小規模だろうが、それほど変わっているわけではない。
意図が解らずに、眉間に皺を寄せて彼を見ると、少年は船のマストを見上げ、
「ここはね、大陸唯一のゼルゼイルへの輸出が行われている貿易場なんですよ。
ご存知ありません?」
「ゼルゼイル!?」
カノンは正直に驚いた。
ゼルゼイル。
西国大陸でも、東方大陸でもない、それ以外で人が居住する唯一の国。
中央アルケミア海の南方に位置する島国で、五十年前までは南国特有の果物や海産物、採掘される特殊鉱石などの貿易で栄えていた。
五十年前までは、と区切ったのには訳がある。今現在、ゼルゼイルは必要最低限の航路しか西・東両大陸に対して引いていない。五十年前、唐突としてゼルゼイルは極端な閉鎖国となった。
理由は国内部で起こった分断、そして内戦の勃発だった。
元々、ゼルゼイルは北ゼルゼイルと南ゼルゼイルとで大陸で言う領のような区分で別れていた。それでも昔は一つの国であり、それで上手く機能していたはずだったのだ。
しかし、五十年前、南ゼルゼイルの総統となった男が突如として独立を宣言。そのまま、国は分断され、冷たい内戦は今もまだ続いている。
不毛な内戦を続けるゼルゼイルに対して、東西大陸はやがて手を引いて行き……
ゼルゼイルは訪れる者も久しい、完全な独立国と化した。
そのゼルゼイルとの唯一の航路がクオノリアに開かれているとは知っていたが、まさか。
「小さいものでしょう?」
「まあ……でも、何となく人気がないのも合点がいったわ」
大陸人はゼルゼイルを遠ざける傾向がある。五十年、戦争を続けている国だ。
死術が横行した魔道大戦以来、曲がりなりにも(裏側ではそうでもなかったりするのだが)平和を貫いて来た大陸人にとっては似て非なるもの、という意識が働くのだろう。
「貴方はどう思います?」
「え?」
「五十年、不毛な戦争を続け、国力を疲弊させるばかりの愚かな二国を、ですよ」
「……えーと」
初めて会った人間にまさかそんな国家レベルの質問をされると思わなかった。
答えに迷って、上目遣いで少年を見る。
―――っ?
少年は変わらず、船のマストの先を眺めていた。いや、本当は何も眺めていなかったのかもしれない。
遠くを。
ひたすら遠くを眺める瞳で。
「……なんてことをいきなり聞かれても困りますよね」
何も言えないでいるカノンに、少年は苦笑混じりに首を振った。悪戯が失敗した子供のような笑み、しかし、瞳はどこか笑っていない。
「貴方が戦を気にするのは、自分がそんな大怪我をしてるから?」
「……さあ、どうでしょう」
「もし、そうなら……どう思うも何もないじゃないの」
「?」
「人間は間違う生き物よ。だから戦争はする、喧嘩はする、下らないことで死んだりするし、後悔もする。当たり前のことよ」
「……そうですね」
「いつの時代だって、戦争が正当化されることはないわ。後から、あの戦争は間違いだった、とか言うけどそれは戦争なんかする前から解ってたことよ。
人間は馬鹿だからとんでもないことが起こってからしか後悔できない。でもね、後悔して置きながら戦争を繰り返そうとする奴がいたら、それは馬鹿を通り越して愚かとしか言えないわ」
「……それが、貴方の考え方、ですか…」
少々、陶然となりながら返って来た声に肩を竦め、
「あくまで自論。これでもいろいろな戦いは見て来たからね。
でも、戦争ってのは見たことないから……本当の戦争を知ってる人は、また違うことを言うのかもしんないわね」
「……」
顎に指を置くのが癖らしい。少年はしばし、その格好のままで何事か考え耽っていた。
何となく、去るタイミングを失ってカノンがただ突っ立っていると、少年はやがて面を上げて、
「なかなか面白い意見を聞かせていただきました。
初めての方にお話するような話ではなかったですね、お詫びを言わせてください」
「いや、別に……。
あ、そーだ。あの、あたし……」
「大通りに出るならそこの路地を右です。この時間は混んでいますから、WMOに行くならそちらの道からまっすぐ行った方がいいでしょう。あの建物は、街中で一番大きいですからすぐわかります。
図書館はその右手にあるはずですよ」
「え、あ、えっと……?」
かすかな声が聞こえた。遠くの路地で、誰かが声を張り上げている。それが何と言っているのかは解らなかったが、少年は自分が呼ばれているのだと解釈したらしい。
「それでは。クオノリアは発展した観光都市のようですが、治安は良くないようなので女性の一人歩きはあまりお勧め出来ませんよ。どうかお気をつけて」
「え、あ、ありがとう……」
「いいえ、こちらこそ」
一礼した後に、音も立てずに去っていく。それに慌てて付き従う少女。
カノンは頬を掻いてその背を見送っていたが、やがて踵を返して走り出した。
―――悪いヒトではなかったみたいだけど……
走りながら、彼の言葉を反芻する。
「何であの人、あたしが図書館に行きたいこと知ってたんだろ……?」
少女が消えた先を眺めて、少年は息を吐いた。ふと視界に、黒髪の少女の姿が目に入る。まだぽかんとしている彼女に、
「『魔変換』の所有者、か。見える人には、見えるのかな。ねぇ、シャル?」
そう言って口元だけでくすり、と微笑んだ。
図書館の造りはまあまあだった。
大きくもないし、小さくもない。トップクラスの学者が調べ物をするにはやや物足りない、という程度か。
しかし、予備知識は持っているもののカノンが専門外の事柄を調べるにはちょうど良いくらいだ。
「んーと、魔道関係、魔道関係……」
ずらり、と硬い背表紙が並ぶ本棚の合間を、棚の上部に付いているプレートをチェックしながら進んでいく。
こういう場所には結構、慣れている。これでも狩人時代は調べ物というものが欠かせないもので、しょっちゅう町の図書館や政団の司書室に出入りしていたのだ。
高台に上り、棚の上の蔵書に手を伸ばす。
数冊、取ったところで肩を撫で下ろす。この台というもの、そこそこに頑丈でないと容易く壊れてしまうのだから油断が出来ない。
―――けして、体重が重いわけではないんだけどね……よっと。
とりあえず、台を元の場所に戻さなくてはいけない。本を台の上に乗せ、両手で抱えるように持ち上げて―――
「あ、すいません、その台……」
「ん?」
後ろからかかった声に反射的に振り返る。振り返ってから、その声が聞き馴れたものだということに気が付いた。
「あ……」
本棚の向こうから首だけを出して、おそらく、台を持っていることで咄嗟に声を出してしまったのだろう、見知った顔が覗いていた。
「ルナ……」
「カノン……?」
あの図書館ではWMOの目がありすぎる。場所を移し、通りを二つ挟んだ街中のカフェの片隅を陣取って、彼女たちは向かい合っていた。
ルナはカノンが口にする状況説明を、腕を組みながら静かに聞いている。
……いや、ただ単に運ばれてきたオレンジスフレに集中力を奪われているだけかもしれないが。
話、と言っても長い話ではない。ルナがスフレの半分ほどを平らげた頃合で、カノンの話は終わりを告げた。
最後の句を告げたと同時に、ルナの白い喉が上下する。
フォークが止まった。そのまま銀の食器は置き皿に軽い音を立てて寝そべる。
「……で?」
「……」
「あんたはあたしに何を聞きに来ようと思ったの?」
「いろいろあるわ。
WMOの調査内容を教えろとか馬鹿なことを言うつもりはないの。まず一つ。一流の魔道師として答えて欲しいことがある」
「随分と意地の悪い言い分ね。まあ、いいわ。何?」
「例の合成獣のこと。WMOもクレイヴも、これはどこかの魔道師が造った合成獣が暴れている―――そういう事件だ、って言ってたわ。
あたしはこれでも色んな化け物を見て来たし、合成獣ってのも数多く見て来た自信があるわ。でも、今回の件についてはどうしても納得できないことがあるの」
「納得できない?」
「ルナ、一流の魔道師として意見を聞かせてちょうだい。あの合成獣、一体誰が何の目的で造ったんだと思う?」
ルナの眉がひくり、と小さく震える。
「そんなことは……」
「犯人の目的を聞いてるんじゃないわ。
魔道師が合成獣を造り出す最大の目的は、現存する生物を利用してそれ以上の性能を持つ生物へと進化させる、もしくは強化させる、ってことよね?
例えば陸の生き物と海の生き物をかけ合わせて水陸両用の生物を造ったり」
「まあ、大抵の場合はそうでしょうね」
「けど、今まで証言されてる合成獣の一つ一つを見てみて。
まず、あたしたちが最初に会ったあいつ。
ミノタウロスの体力はいいわ。スライムの溶解液は厄介だったけど、足部があれじゃあ、犬の脚力や兎の敏感さをプラスしたところで動きが遅すぎて意味がない。ましてや、あんなでかぶつに翼をつけても飛べるわけはない。
連絡は行ってると思うけど、昨日ビーチを襲った奴もそう。
蟹はいいわ。見た目は悪いけど、鋏は立派な武器になるし、グロテスクだったけど触手もそれなりに厄介だった。
でも、胴体の真ん中に口があって牙があっても、食事くらいにか使えないし、周りにくっついてたちっちゃい魚のヒレなんか泳ぐわけでもないのに明らかに邪魔なだけよ。
つまり。
どれもこれも合成獣としての意味を成していないのよ。あれもこれも欲張りすぎて形成に失敗した駄作……にしても酷すぎるわ。
ちょっと考えれば、別に魔道師じゃなくてももっと良い物が造れると判断できるはず。
なのに、今回、発見される合成獣はそんな失敗作ばっかり」
「……」
「ルナ、魔道師としてどう思う? あたしの考えは間違っている? それとも、あれにはあれであたしにはわからない優秀な面があるっていうの?」
「……」
ルナはふっ、と力を抜いて紅茶のカップを手に取った。酸味の程好く利いたローズティーを一口、飲み下してから口を開く。
「まあ……死術の狩人なんかやってたあんたを、口先だけの三寸で誤魔化せるわけないわね。
その通りよ。だからWMOも混乱してる。
魔道師で合成魔道学をちょっとでも齧った人間なら、あんな合成獣が何の役にも立たないのはすぐ理解できる」
「……」
「どうせカノン。あんたのことだから、その先もちょっとは察しがついてるんじゃないの?」
「……あの合成獣が魔道師の単なる腕自慢とか不注意でないなら……。
目的はもっと別のもの。クオノリアそのもの、いや、合成獣によってクオノリアが撹乱されること。直接のダメージが行くのは観光協会かどこかだけど、それならわざわざこんな手を使う理由はない。
クオノリアが魔道生物に撹乱されて、最も不利益を被るのはそれで面目を潰される……」
自然と、言葉に力が篭もる。
「WMO……」
「それも、魔道関係の事件解決に責任がある者、ね」
深く、息を吸い込んで吐き出す。
「……ローランに個人的に恨みを持つ人間は?」
「それこそ星の数。権力者にはつきものよ。容疑者はそれこそWMOの中に石一個を投げれば当たるくらいたくさん」
首を振りながら、ルナが答える。
ローランが頑なに他者の事件への関与を嫌ったのは、つまり、そういった背景があってのものだったのだ。
他者が事件を解決してしまえば、揉み消しが効く場所までそれが出来なくなる。
ましてや、動機が己の不始末等に関係することだったなら、それだけで自分の地位を危うくする。
まったく、何てことだ。
「……今朝、前の依頼人だったクレイヴが殺されたわ」
「そうらしいわね」
「何か心当たりは?」
「ないわ。最も、私は表向きに雇われた人間だから、別の場所で誰が何をやってるのかなんて知らないわけだけど」
「そう……」
ルナが再びフォークを手に取る。オレンジスフレの山になった箇所に、切っ先が食い込むのを眺めながら、カノンは懐に手を入れた。
「もう一つ、"これ"に見覚えは?」
「―――ッ!」
明らかに。
ルナの顔に動揺が走った。
カノンが取り出したのは、一つの小さな石。いや、石に見える"何か"。
砂漠の花、と呼ばれる鉱石がある。高温の砂砂漠で、水が干上がる前にその水に溶けていた石膏が結晶化し、その結晶が花弁のように見えるのでそう呼ばれる。
それはその特殊な鉱石によく似ていた。
だが、それとは明らかに違う。あれは結晶化の際に砂と取り込む。黄色や赤や、色の付いた結晶が出来上がるはずだが、カノンの手の平にあるそれは反して真っ白な色をしていた。
「それは?」
平静を装いながら、彼女が問う。
「正体はわからないけどね。蟹モドキを倒した現場に転がってたの。
見たことのないものだし、珊瑚、にしては汚れ一つないのが気になるわ。生態系に属するものならそれまでだけど、これが何なのか調べてみる価値はあると思って。
けど、見覚えがあるんなら」
かしゃんッ。
彼女の置いたフォークが、少々荒い音を立てる。
「ルナ?」
「カノン、この件からは手を引きなさい」
立ち上がり、言い放たれた一言に、カノンの表情が引き締まる。
「それはWMOに預けることを薦めるわ。容疑者はいずれ捕まるでしょうし、後は任せて町を出なさい」
「……ッ」
そのままテーブルを立つ彼女の背を、カノンは反射的に追っていた。
「ルナッ」
「……」
「もう一つだけッ! あんた、何のつもりで彼に付いてるのッ?
わかってんでしょッ、相手がどんな人間かッ! らしくないじゃない、何のつもりなのッ!?」
背中に叩き付けた言葉に、彼女の足が止まる。店の中の視線が集まるが、覚悟の上だ。
数瞬後、彼女は俯いた顔をほんの少しだけ上げて、
「もう一度言うわ。早く、町を出なさい」
「―――ッ!」
それだけ言い放って、彼女は無言でカフェを去った。
カノンは首を振って席に戻る。取り残されたスフレの残りが、何だか妙に寂しげだ。
―――何か、隠してるわね……
ルナが忘れていることが一つ。
―――そういう態度ならこっちもとことんまで調べ上げてやろうじゃないのッ! あたしはそういう性分の持ち主よッ!
鼻息を荒げて、カノンは彼女が残したデザートを始末するべくフォークを手に取った。
←6へ
泣きじゃくる子をあやしながら、カノンは色々なニュアンスを含めた溜め息を吐く。
なかなか泣き止まない子供と、そして人の群れる場所に姿を現した不可思議な合成獣。
何故?
人が集まる場所に?
何故今さらになって?
観光客の金切声が響く中、レンは何かを探すように騒がしい浜の向こうを眺めてる。カノンは向う脛までを埋める波の方へ視線を投げて、
「……?」
波の間に白い、小さなものが見えた。
一瞬、ただの貝殻か珊瑚の一種かとも思ったが。
「……」
足元まで流れてきた"それ"を眺める。
「カノン」
ぼーっとしていたらしい、呼ばれて慌てて振り返る。パレオを振り乱した女性が向こうから駆けて来るのが見えた。たぶん、この子の母親だろう。
立ち上がる直前に、もう一度、彼女はそれを見つめ、何とはなしに拾い上げた。
クオノリア市街は騒然としていた。
それはそうだ。今まで、一般市民の中では可愛い噂として留まってきたものが、公に姿を現し、一般の観光客に危害を加えようとしたのだ。
WMOとしても揉み消しは効くまい。
かく言うカノンたちも撃退した本人たちと言うことで役所から長々と事情聴取をされ、やっとホテルに戻ってきたのは深夜も回った頃合だった。
「信じらんない! 何でこんな時間まで長々とつき合わされなきゃならないわけ!?」
「WMO、ローランが最後の最後まで政団支部に圧力をかけていたようだからな。困ったことに、ここじゃ役所より奴の方がでかい顔が出来るようだ」
「人が休暇で来てるってのに連日連日何だってのよ、ったく」
「諦めろ、このタイミングで来た俺たちの負けだ」
先頭を歩きつつ、文句を垂れるカノンを冷静に窘めるレン。延々と政団の手際の悪さと、ローランへの悪態を吐きながらホテルのロビーに向かう。
無理はない。
あの後、飛んできたWMOの機関員に捕まえられ、施設にてたっぷりと事情を聞かれた後、出たところで再び政団の関係者にも呼び出され。
結局、こんな時間まで帰ることを許されなかった。休暇も何もあったものではない。
カノンの怒った背を眺めながら沈思する。
あのとき。
獣に張り付いた護符はおそらく、昼間会ったあの少年が放ったものだろう。後ろは振り向かなかったが、妙に確信染みたものがある。
一応、政団にも彼のことは口にしていたので、今頃探し出されている頃合だろうが。
妙な少年だった。
―――それにしても、
『……あそこは些か危ないですね』
―――俺たちよりも先に"あれ"に気がついていた、っていうのか……? 一体……
「に、してもWMOの支部ってでかいのね」
ふと、悪態を切ってカノンが呟いたのはそんな一言だった。思考に沈みそうになっていたレンは、やや遅れて反応する。
彼女が振り返った先に佇むのは、すっかり暗い夜空に伸びる円筒形の、市街で最も大きな建物だった。
町を訪れたときから目立っていたが、まさかあれがWMOの施設だとは思っていなかった。
それだけクオノリアに分けられているWMOの財政が大きい、即ち、ローランの権力の程もわかる。あんなものが相手では政団も苦労するだろう。
「聞いた話じゃ、地下もあって町の数ブロックくらい覆ってるんだってさ。
権力の肥大にも程があるわよね」
「傾きすぎていらんことにならなければいいがな。まあ、知ったことじゃない」
「それは知ったことじゃないわ。けど権力に感けて、人の自由を奪っていいもんじゃないわよ、ったく!!」
夜中だというのに、近所迷惑も何のそので不機嫌に地団太を踏み鳴らす。
気持ちはわからないでもないが……
「少し落ち着け、とっくに夜中だぞ」
「~~~……」
納得はいかないながらも、とりあえず静かになるカノン。その足でロビーに足を踏み入れて、
「レン、おかえりぃぃぃ~~~~~ッ!!」
「うあッ!?」
黄色い声に耳を劈かれる。
ああ、一日も終わりだというのに疲れた身体でなんて奴の相手をしなくちゃならんのだ。
レンと言えば気力体力共になくなっているらしい。飛びついて来た塊を、何とか片手であしらいながらロビーに入る。
「よー、ようやく帰ったかお前ら。
カノン、夜道だからって何かされなかったろうな?」
「レン、大丈夫ぅ? こんな暗い中で、あの女に変なことされなかったぁ?」
「また訳のわからんことを……って」
自分たちとフロント係だけが残っているロビーを見渡して、カノンは違和感に気がついた。シリアが立ち上がって突進してきたソファに、彼ら二人とは別の人影がある。
顔は整っているのに、何かおどおど落ち着きのない物腰。
昨日会ったばかりの顔だ。見間違えるはずもない。
「クレイヴさん? どうかしましたか?」
何でもないように問いかけるが、内心は気が気ではない。まさかローラン側のルナから情報を買ったことがバレたとか。
声をかけるとびくっ、と肩を震わせる。
「いやぁ、あのそのですねぇ……」
とりあえずソファから立ち上がるが、やはりきょときょとと落ち着きがない。まあ、もともとこんな人だった気がするが……
それにしたって顔色が悪い。
―――まあ、無理もないか……
あんなことがあった後だ。顧客だって激減したに違いない。ホテル経営者としては遺憾だろう。
―――しかし、何か面倒そうな嫌な匂いがするなぁ……
軽く頭を振って、何のつもりか肩に手を置いて来るアルティオを叩いてからソファに向かう。
「その、皆さんにちょっとお話がありまして……。
ああ、どうぞ、お疲れでしょうからまずは寛いで……」
「オーナー」
言いかけたクレイヴの声を、フロント係の男が遮った。
―――いや、どうでもいいけど従業員の声にまでびくついた反応すんなよ、頼むから。
ここまでチキンハートというか何と言うか、情けないと呆れを通り越して涙が出てくる。
「ああ、すいません。―――どうしました?」
どこかよたよたとした歩きでフロントまで駆けて、いや、半分転がって、と称した方が正しい。あたふたとフロントまで辿り着くと、フロント係の男はぼそぼそと、何かをクレイヴの耳元に耳打ちする。
人の顔はすぐに色を変えるものなのだと納得した。
先程まで青かったクレイヴの顔色が、それを通り越して真っ白になっている。良くない報せ、というか絶望的な連絡事項なのだろう。
観光閉鎖とか、政団かWMOの監査とか。
よろよろ身を起こすと、体裁だけは何とか整えて、こちらを振り向いた。
「すいません……少し、用が出来てしまったようです。お話は明日の朝にでも、ということで、よろしいでしょうか? 朝食のわずかな時間でも結構ですから」
正直、これ以上こんな事件に関わることなど御免被りたい気分だったが、悲痛な表情でやつれた声で言われると無下に断るのも忍びない。一度は依頼人になった人物なら尚更。
カノンは後ろの方を振り向いた。
シリアは相変わらず、レンの腕にぶら下がろうとして失敗しているだけなので無視するとして。
アルティオは軽く肩を竦めて再び肩に手を回してこようとする。振り払う気力もなかったが、とりあえず反対ではないらしい。レンもレンで渋い表情のまま黙ったまま……ということはカノンと同じく気は進まないが話だけなら、ということだろう。
どうにしろ聞くだけならただだ。
「解りました。では、朝食の時間に」
「ありがとうございます。では……」
そのままクレイヴはフロント係の男に支えられるようにして、ホテルの『関係者以外お断り』の扉に消えていく。
数瞬経って、ロビー内に下りた静寂を打ち破ったのはアルティオの一声だった。
「あー、じゃあそろそろ休むか? 疲れたんだろ?」
「そーね……また明日、面倒なことになりそうだし」
「レーン、そんなに疲れたなら私が特別マッサージで癒してあげよーかv」
―――って、あんたは思いっきりあたしと同室だろーが。
「断る。そんなつまらないものを受けるくらいなら一時間、湯に浸かった方がマシだ。アルティオ、鍵を貸せ」
「あー、ほいよっと」
ポケットから出した鍵を放り投げる。放物線を描いたそれは、ずれる事無くレンの手の中に落ちた。こういった辺り、アルティオもやはり一級の剣士である。
「ねー、レン、じゃあ一緒にはい……」
ばきッ!!
―――ああ、お約束。
「ああ、そうだカノン」
「何?」
そのまま階上に上がっていこうとしたレンの足が止まる。振り返ってかけられた声に、顔を上げる。
「あまり気にするんじゃない。あれもあれで他人の数倍過激な人生を送ってるんだ。自分のことに対してくらい、責任は持っている」
「……」
―――バレバレ、か……
小さく笑って、『了解』と随分力のない返事を返した。彼は少しだけ眉を潜めて踵を返す。
「あ、ちょっと待ってよ、れぇぇん」
その背中を慌てて起き上がったシリアが追いかけていく。諦めが悪いというか、それともその行動力に感服するところなのか。
ホテルの長い階段の上にシリアの長い黒髪が完全に消えるのを待って、カノンは身体を伸ばしながらソファへと向かった。
「お疲れさん」
「あー、全くよ」
まだ部屋に戻る気はないのか、それともいらないちょっかいをかけてくる気なのか、階段の下に佇んだままだったアルティオが声をかけてくる。
「さっきの、ルナのことか?」
「まあ……って、あたしってひょっとしてそんなに解りやすい?」
「いや、今の状況でお前が気にすること、って言ったらあいつのことだろ? 一応、親友なんだし」
許可した覚えはないが、勝手に隣に座って来る。どうこう言う気力も今はない。
「そ、ね……。今日の取調べ、っていうか事情聴取っていうか……ちらっと会ったんだけどさ。
あの状況じゃあ、気安く声をかける、なんて出来ないのはわかるんだけど……」
天井を仰ぐ。深夜のホテルのわずかな明かりが、ゆらゆらと目の中に入って来る。
疲労感が増した。
「何か……黙って、権力者に従ってる図、ってのがどうもいつもとらしくないなぁ、って気になってね」
「確かになぁ……」
笑い飛ばしながらアルティオは相槌を打つ。
「いつもならアヤシイ場所とか人があれば呪文一発で片付けるような奴だもんなぁ……」
「そうそう。何か勢いに欠ける、っていうかね。でなもんだから、何かあったのかなぁ、って。柄にもなく心配してたのよ」
「ま、確かにあいつ、何でもかんでも抱え込む癖はあるけどな。一切、人に昔のことも話したりしないし」
アルティオはやれやれと首を振る。
す、とカノンは真顔になってその言葉を受け止めた。
ルナは。
彼女は確かに普通の人間にない壮絶な半生を歩いてきたと言っていい。
十三歳のとき、彼女は故郷であるアゼルフィリーを出て行った。彼女の姉も旅立った、当時の惑う教育の最高峰、WMOの教育機関『月の館』に入学するために。
常人とはかけ離れた教育の場だったが、数年の間は途切れ途切れでも手紙が届き、やれ大変だと大変だと書かれていた記憶があるが、文面が弾んでいたということは、彼女なりに楽しい学生生活を送っていたのだろう。
顔なじみが故郷を起った寂しさはあったが、だからと言って彼女の道を邪魔するわけはない。
むしろ、魔道研究の前線に立とうと、その未来を約束されつつあった彼女を彼女の家族も、カノンたちも祝福した。
しかし。
その夢は、ある日、いきなり断たれることになった。
彼女が『月の館』に入ってどれだけ経った頃だろうか。唐突に、その報せはアゼルフィリーに届いた。
寝耳に水の話だった。
ある犯罪組織によって、『月の館』は襲撃を受けた。
当時の事件は、今でも最悪の虐殺事件として紙面に残っている。
A級犯罪人ニード=フレイマー率いるその一団の放った火は、悪い風の具合で瞬く間に『館』を包み込み、教師や生徒たちが気がついたときには、周囲は既に火の海だったという。
全校生徒、教師含めて五百六名のうち、生き残った者はたった百名以下。行方不明者は三十六名。そのうちの何名かは、その犯罪組織に捕らえられ、組織の一員として犯罪行為の手伝いを強いられていたという。
ルナもその中の一人。
彼女の場合は最悪だった。
"ディスナー"の特殊な魔道師としての血に目を付けられ、魔道許容量が人よりはるかに高かったのが災いした。
彼女はその体を、組織が崇拝するある魔族の器として利用されたのだ。
それが、約一年と半年前。
結局、彼女は組織に反旗を翻し、逆にその組織を壊滅に追い込んだ。その功績を讃えられ、今では政団にもWMOでも一目置かれる存在となっている。
普段、ふざけてはいるが、自分が犯罪行為に加担していた罪は消えるはずもなく。
心のどこかではその傷に痛めつけられているはずなのに。
カノンは、彼女の泣き言の一切を聞いた記憶はない。
だからこそ、不安なのだ。
「大丈夫だって」
「……」
「ルナの考えてることなんて正直、俺たち誰もわかっちゃいねーよ。肝心なときに誰もあれの側にいなかったんだからな。
でもさ、ルナはそんなに俺たちのことを信用してないと思うか?」
「……まあ、そうだけど」
「どうにもこうにもなくなって、万が一、ってときは何かしが言って来るだろ。今は、あいつを信じてやろうや」
ぱん、と膝を打ってアルティオは断言する。
ふー、と長い息を吐き、
「ったく、あんたみたいなのに諭されると思わなかったわよ」
「ひでーなー。これでもちゃんと心配してたんだぜ。何せ、お前ら昔から仲良かったしな、傍から見てて姉妹みたいだったぜ」
「そう?」
「ああ。正直、ちょっと嫉妬してた」
「あのねー……」
「じょーだんだって。それにさ」
苦笑混じりに先程、彼らが消えた階段の方を振り向くと、
「信じられないかもしれねーけど。シリアも心配してた」
「あいつが?」
―――それは本気で信じ難い。
ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げるカノンにアルティオは笑いながら手をぱたぱたと振って見せる。
「いや、まあ……『あいつら何つまんないことやってるのかしら?』みたいな可愛くない言い方だったけどよ。
昔からああいう奴だったろ? まあ、お前には特に絶対そういう顔はしないけど、影で結構気にかけてんだぜ?」
「そうなの?」
初耳だ。本気で信じられない。
「まー、信じられないのはあいつの普段の行いのせいだろうけどな」
「あんたが言うか……」
「ま、それはそれとして。俺だってシリアだって、レンの野郎……は、言うまでもないか。
皆、心配してるのは一緒なんだ。あんまり根詰めて考えんなよ」
「……そうね。ごめん」
素直に謝罪が口を告い出た。
「まあ……ためにはなったわ。ありがと。少しは男は上げたじゃないの」
さりげなく吐いたその一言に、アルティオは一瞬固まってから目を輝かせてソファから立ち上がる。
鼻息荒く、カノンの手を取って、
「ホントかッ!? カノン、ようやく俺の魅力に気がついてくれたんだなッ!? くくぅッ! 感涙だ、長かったぜここまでッ! そうと決まればすぐ教会に……ッ」
「ンなわけあるかッ!!」
どがッ!!
「ぐあッ!?」
顎を蹴り飛ばしてやると、そのまま絨毯の上で大人しくなる。
「―――ったく、たまーに多少褒めてやっただけですぐに図に乗る……」
すっかり疲労が溜まってしまった肩を解しながら立ち上がる。ガラス張りのロビーの外に、大分傾いた月が静かに佇んでいた。
考え込んでいても仕方がない。
この件、深くは関わらないことを決めたのだ。
明日、クレイヴの話を聞いて、しっかり断りの言を入れて置こう。
それでもなお、ルナが何かしがの事情を抱えてやってきたなら、そのときまた話し合えばいい。
「よしッ」
そうと決まればさっさと寝てしまおう。休暇で来たというのに休めなければ何もならない。
そう決意して、カノンは軽薄な男の伸びる静まりかえったロビーを後にしたのだった。
しっかりと断りを入れる―――つもりだった、のだが。
「……ん?」
その朝、カノンは外から響いて来る騒がしさで目を覚ました。ぼやけた視界の中で時計を見る。
まだ早い時間だというのに、外から人の声が聞こえるというのはどういうことなのか。それも一人や二人の話し声ではない。大勢の、それも話し声などではなく、いきり立った喧しい騒音だ。
「ふにゃ……レン、もぉ、恥ずかしいってばぁ……」
そんな中でも熟睡し、何やら幸せそうに寝言をのたまうシリアを横目に、スプリングが効いた高級ホテルのふかふかのベッドを降りる。
……普段、安宿に泊まり慣れているせいで、妙に寝辛かったりするのだ、これが。
まあ、それはともかく。
テラスになっている窓に近づくと、騒音はなお大きく聞こえるようになる。
―――ったく、昨日あんだけ遅かったってのに……。
何故、こんな朝っぱらからこんなものに起こされなければいけないのか。我が身を嘆きながらカーテンに手をかける。
朝日が染みているカーテンを、細く開ける。
「……何よ…、あれ……」
ホテルの前に人が集まっている。正面玄関に、まるでそこが何かのアトラクションの入り口であるかのように人が群がって、それこそ芋を洗うようだ。
気がつけば、一歩引いて観察している野次馬も見て取れる。
「一体、何事よ……」
一度、カーテンを閉めて部屋の奥へ戻る。ホテル側に常備されていたパジャマを脱いで、いつもの服に着替える。コートは着ずに、とりあえず帯剣だけして部屋を出る。
ホテルの中まで何か慌しい。従業員と何度も擦れ違うが、皆、どこか浮き足立っていた。階下へ階段を下り、ロビーに出ようとしたところで、
「レン?」
従業員の一人……支配人か誰かだろうか、ぴしっとしたスーツを着た初老の男性を捕まえている彼を見つけた。
いつもと変わらぬ無表情だが、どこか苦いものが混じっている気がする。対する支配人の顔色は真っ青で、地に足が着いていない。まったく、どうしたことだ。
しばらく眺めていると、レンの方がこちらに気がついたようだ。
「……起きたか」
「おはよ。結構な騒ぎになってるけど、何かあったの?」
「そ、それが……」
震える声で口にしようとする支配人。が、それも全身のがくがくした震えに消え失せてしまう。
陰鬱な息を吐いて、レンが言葉を繋いでくれる。
「カノン、冷静になって聞け」
「うん……?」
レンは今一度、騒ぎになっている正面玄関を見た。慌てふためいた従業員が、そちら側に集まっていく。騒ぎを止めるためだろう。
それを眺めながら、レンは普段よりか小さくボリュームを落とした声で、言った。
「クレイヴが殺された」
「―――・・・え?」
←5へ
なかなか泣き止まない子供と、そして人の群れる場所に姿を現した不可思議な合成獣。
何故?
人が集まる場所に?
何故今さらになって?
観光客の金切声が響く中、レンは何かを探すように騒がしい浜の向こうを眺めてる。カノンは向う脛までを埋める波の方へ視線を投げて、
「……?」
波の間に白い、小さなものが見えた。
一瞬、ただの貝殻か珊瑚の一種かとも思ったが。
「……」
足元まで流れてきた"それ"を眺める。
「カノン」
ぼーっとしていたらしい、呼ばれて慌てて振り返る。パレオを振り乱した女性が向こうから駆けて来るのが見えた。たぶん、この子の母親だろう。
立ち上がる直前に、もう一度、彼女はそれを見つめ、何とはなしに拾い上げた。
クオノリア市街は騒然としていた。
それはそうだ。今まで、一般市民の中では可愛い噂として留まってきたものが、公に姿を現し、一般の観光客に危害を加えようとしたのだ。
WMOとしても揉み消しは効くまい。
かく言うカノンたちも撃退した本人たちと言うことで役所から長々と事情聴取をされ、やっとホテルに戻ってきたのは深夜も回った頃合だった。
「信じらんない! 何でこんな時間まで長々とつき合わされなきゃならないわけ!?」
「WMO、ローランが最後の最後まで政団支部に圧力をかけていたようだからな。困ったことに、ここじゃ役所より奴の方がでかい顔が出来るようだ」
「人が休暇で来てるってのに連日連日何だってのよ、ったく」
「諦めろ、このタイミングで来た俺たちの負けだ」
先頭を歩きつつ、文句を垂れるカノンを冷静に窘めるレン。延々と政団の手際の悪さと、ローランへの悪態を吐きながらホテルのロビーに向かう。
無理はない。
あの後、飛んできたWMOの機関員に捕まえられ、施設にてたっぷりと事情を聞かれた後、出たところで再び政団の関係者にも呼び出され。
結局、こんな時間まで帰ることを許されなかった。休暇も何もあったものではない。
カノンの怒った背を眺めながら沈思する。
あのとき。
獣に張り付いた護符はおそらく、昼間会ったあの少年が放ったものだろう。後ろは振り向かなかったが、妙に確信染みたものがある。
一応、政団にも彼のことは口にしていたので、今頃探し出されている頃合だろうが。
妙な少年だった。
―――それにしても、
『……あそこは些か危ないですね』
―――俺たちよりも先に"あれ"に気がついていた、っていうのか……? 一体……
「に、してもWMOの支部ってでかいのね」
ふと、悪態を切ってカノンが呟いたのはそんな一言だった。思考に沈みそうになっていたレンは、やや遅れて反応する。
彼女が振り返った先に佇むのは、すっかり暗い夜空に伸びる円筒形の、市街で最も大きな建物だった。
町を訪れたときから目立っていたが、まさかあれがWMOの施設だとは思っていなかった。
それだけクオノリアに分けられているWMOの財政が大きい、即ち、ローランの権力の程もわかる。あんなものが相手では政団も苦労するだろう。
「聞いた話じゃ、地下もあって町の数ブロックくらい覆ってるんだってさ。
権力の肥大にも程があるわよね」
「傾きすぎていらんことにならなければいいがな。まあ、知ったことじゃない」
「それは知ったことじゃないわ。けど権力に感けて、人の自由を奪っていいもんじゃないわよ、ったく!!」
夜中だというのに、近所迷惑も何のそので不機嫌に地団太を踏み鳴らす。
気持ちはわからないでもないが……
「少し落ち着け、とっくに夜中だぞ」
「~~~……」
納得はいかないながらも、とりあえず静かになるカノン。その足でロビーに足を踏み入れて、
「レン、おかえりぃぃぃ~~~~~ッ!!」
「うあッ!?」
黄色い声に耳を劈かれる。
ああ、一日も終わりだというのに疲れた身体でなんて奴の相手をしなくちゃならんのだ。
レンと言えば気力体力共になくなっているらしい。飛びついて来た塊を、何とか片手であしらいながらロビーに入る。
「よー、ようやく帰ったかお前ら。
カノン、夜道だからって何かされなかったろうな?」
「レン、大丈夫ぅ? こんな暗い中で、あの女に変なことされなかったぁ?」
「また訳のわからんことを……って」
自分たちとフロント係だけが残っているロビーを見渡して、カノンは違和感に気がついた。シリアが立ち上がって突進してきたソファに、彼ら二人とは別の人影がある。
顔は整っているのに、何かおどおど落ち着きのない物腰。
昨日会ったばかりの顔だ。見間違えるはずもない。
「クレイヴさん? どうかしましたか?」
何でもないように問いかけるが、内心は気が気ではない。まさかローラン側のルナから情報を買ったことがバレたとか。
声をかけるとびくっ、と肩を震わせる。
「いやぁ、あのそのですねぇ……」
とりあえずソファから立ち上がるが、やはりきょときょとと落ち着きがない。まあ、もともとこんな人だった気がするが……
それにしたって顔色が悪い。
―――まあ、無理もないか……
あんなことがあった後だ。顧客だって激減したに違いない。ホテル経営者としては遺憾だろう。
―――しかし、何か面倒そうな嫌な匂いがするなぁ……
軽く頭を振って、何のつもりか肩に手を置いて来るアルティオを叩いてからソファに向かう。
「その、皆さんにちょっとお話がありまして……。
ああ、どうぞ、お疲れでしょうからまずは寛いで……」
「オーナー」
言いかけたクレイヴの声を、フロント係の男が遮った。
―――いや、どうでもいいけど従業員の声にまでびくついた反応すんなよ、頼むから。
ここまでチキンハートというか何と言うか、情けないと呆れを通り越して涙が出てくる。
「ああ、すいません。―――どうしました?」
どこかよたよたとした歩きでフロントまで駆けて、いや、半分転がって、と称した方が正しい。あたふたとフロントまで辿り着くと、フロント係の男はぼそぼそと、何かをクレイヴの耳元に耳打ちする。
人の顔はすぐに色を変えるものなのだと納得した。
先程まで青かったクレイヴの顔色が、それを通り越して真っ白になっている。良くない報せ、というか絶望的な連絡事項なのだろう。
観光閉鎖とか、政団かWMOの監査とか。
よろよろ身を起こすと、体裁だけは何とか整えて、こちらを振り向いた。
「すいません……少し、用が出来てしまったようです。お話は明日の朝にでも、ということで、よろしいでしょうか? 朝食のわずかな時間でも結構ですから」
正直、これ以上こんな事件に関わることなど御免被りたい気分だったが、悲痛な表情でやつれた声で言われると無下に断るのも忍びない。一度は依頼人になった人物なら尚更。
カノンは後ろの方を振り向いた。
シリアは相変わらず、レンの腕にぶら下がろうとして失敗しているだけなので無視するとして。
アルティオは軽く肩を竦めて再び肩に手を回してこようとする。振り払う気力もなかったが、とりあえず反対ではないらしい。レンもレンで渋い表情のまま黙ったまま……ということはカノンと同じく気は進まないが話だけなら、ということだろう。
どうにしろ聞くだけならただだ。
「解りました。では、朝食の時間に」
「ありがとうございます。では……」
そのままクレイヴはフロント係の男に支えられるようにして、ホテルの『関係者以外お断り』の扉に消えていく。
数瞬経って、ロビー内に下りた静寂を打ち破ったのはアルティオの一声だった。
「あー、じゃあそろそろ休むか? 疲れたんだろ?」
「そーね……また明日、面倒なことになりそうだし」
「レーン、そんなに疲れたなら私が特別マッサージで癒してあげよーかv」
―――って、あんたは思いっきりあたしと同室だろーが。
「断る。そんなつまらないものを受けるくらいなら一時間、湯に浸かった方がマシだ。アルティオ、鍵を貸せ」
「あー、ほいよっと」
ポケットから出した鍵を放り投げる。放物線を描いたそれは、ずれる事無くレンの手の中に落ちた。こういった辺り、アルティオもやはり一級の剣士である。
「ねー、レン、じゃあ一緒にはい……」
ばきッ!!
―――ああ、お約束。
「ああ、そうだカノン」
「何?」
そのまま階上に上がっていこうとしたレンの足が止まる。振り返ってかけられた声に、顔を上げる。
「あまり気にするんじゃない。あれもあれで他人の数倍過激な人生を送ってるんだ。自分のことに対してくらい、責任は持っている」
「……」
―――バレバレ、か……
小さく笑って、『了解』と随分力のない返事を返した。彼は少しだけ眉を潜めて踵を返す。
「あ、ちょっと待ってよ、れぇぇん」
その背中を慌てて起き上がったシリアが追いかけていく。諦めが悪いというか、それともその行動力に感服するところなのか。
ホテルの長い階段の上にシリアの長い黒髪が完全に消えるのを待って、カノンは身体を伸ばしながらソファへと向かった。
「お疲れさん」
「あー、全くよ」
まだ部屋に戻る気はないのか、それともいらないちょっかいをかけてくる気なのか、階段の下に佇んだままだったアルティオが声をかけてくる。
「さっきの、ルナのことか?」
「まあ……って、あたしってひょっとしてそんなに解りやすい?」
「いや、今の状況でお前が気にすること、って言ったらあいつのことだろ? 一応、親友なんだし」
許可した覚えはないが、勝手に隣に座って来る。どうこう言う気力も今はない。
「そ、ね……。今日の取調べ、っていうか事情聴取っていうか……ちらっと会ったんだけどさ。
あの状況じゃあ、気安く声をかける、なんて出来ないのはわかるんだけど……」
天井を仰ぐ。深夜のホテルのわずかな明かりが、ゆらゆらと目の中に入って来る。
疲労感が増した。
「何か……黙って、権力者に従ってる図、ってのがどうもいつもとらしくないなぁ、って気になってね」
「確かになぁ……」
笑い飛ばしながらアルティオは相槌を打つ。
「いつもならアヤシイ場所とか人があれば呪文一発で片付けるような奴だもんなぁ……」
「そうそう。何か勢いに欠ける、っていうかね。でなもんだから、何かあったのかなぁ、って。柄にもなく心配してたのよ」
「ま、確かにあいつ、何でもかんでも抱え込む癖はあるけどな。一切、人に昔のことも話したりしないし」
アルティオはやれやれと首を振る。
す、とカノンは真顔になってその言葉を受け止めた。
ルナは。
彼女は確かに普通の人間にない壮絶な半生を歩いてきたと言っていい。
十三歳のとき、彼女は故郷であるアゼルフィリーを出て行った。彼女の姉も旅立った、当時の惑う教育の最高峰、WMOの教育機関『月の館』に入学するために。
常人とはかけ離れた教育の場だったが、数年の間は途切れ途切れでも手紙が届き、やれ大変だと大変だと書かれていた記憶があるが、文面が弾んでいたということは、彼女なりに楽しい学生生活を送っていたのだろう。
顔なじみが故郷を起った寂しさはあったが、だからと言って彼女の道を邪魔するわけはない。
むしろ、魔道研究の前線に立とうと、その未来を約束されつつあった彼女を彼女の家族も、カノンたちも祝福した。
しかし。
その夢は、ある日、いきなり断たれることになった。
彼女が『月の館』に入ってどれだけ経った頃だろうか。唐突に、その報せはアゼルフィリーに届いた。
寝耳に水の話だった。
ある犯罪組織によって、『月の館』は襲撃を受けた。
当時の事件は、今でも最悪の虐殺事件として紙面に残っている。
A級犯罪人ニード=フレイマー率いるその一団の放った火は、悪い風の具合で瞬く間に『館』を包み込み、教師や生徒たちが気がついたときには、周囲は既に火の海だったという。
全校生徒、教師含めて五百六名のうち、生き残った者はたった百名以下。行方不明者は三十六名。そのうちの何名かは、その犯罪組織に捕らえられ、組織の一員として犯罪行為の手伝いを強いられていたという。
ルナもその中の一人。
彼女の場合は最悪だった。
"ディスナー"の特殊な魔道師としての血に目を付けられ、魔道許容量が人よりはるかに高かったのが災いした。
彼女はその体を、組織が崇拝するある魔族の器として利用されたのだ。
それが、約一年と半年前。
結局、彼女は組織に反旗を翻し、逆にその組織を壊滅に追い込んだ。その功績を讃えられ、今では政団にもWMOでも一目置かれる存在となっている。
普段、ふざけてはいるが、自分が犯罪行為に加担していた罪は消えるはずもなく。
心のどこかではその傷に痛めつけられているはずなのに。
カノンは、彼女の泣き言の一切を聞いた記憶はない。
だからこそ、不安なのだ。
「大丈夫だって」
「……」
「ルナの考えてることなんて正直、俺たち誰もわかっちゃいねーよ。肝心なときに誰もあれの側にいなかったんだからな。
でもさ、ルナはそんなに俺たちのことを信用してないと思うか?」
「……まあ、そうだけど」
「どうにもこうにもなくなって、万が一、ってときは何かしが言って来るだろ。今は、あいつを信じてやろうや」
ぱん、と膝を打ってアルティオは断言する。
ふー、と長い息を吐き、
「ったく、あんたみたいなのに諭されると思わなかったわよ」
「ひでーなー。これでもちゃんと心配してたんだぜ。何せ、お前ら昔から仲良かったしな、傍から見てて姉妹みたいだったぜ」
「そう?」
「ああ。正直、ちょっと嫉妬してた」
「あのねー……」
「じょーだんだって。それにさ」
苦笑混じりに先程、彼らが消えた階段の方を振り向くと、
「信じられないかもしれねーけど。シリアも心配してた」
「あいつが?」
―――それは本気で信じ難い。
ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げるカノンにアルティオは笑いながら手をぱたぱたと振って見せる。
「いや、まあ……『あいつら何つまんないことやってるのかしら?』みたいな可愛くない言い方だったけどよ。
昔からああいう奴だったろ? まあ、お前には特に絶対そういう顔はしないけど、影で結構気にかけてんだぜ?」
「そうなの?」
初耳だ。本気で信じられない。
「まー、信じられないのはあいつの普段の行いのせいだろうけどな」
「あんたが言うか……」
「ま、それはそれとして。俺だってシリアだって、レンの野郎……は、言うまでもないか。
皆、心配してるのは一緒なんだ。あんまり根詰めて考えんなよ」
「……そうね。ごめん」
素直に謝罪が口を告い出た。
「まあ……ためにはなったわ。ありがと。少しは男は上げたじゃないの」
さりげなく吐いたその一言に、アルティオは一瞬固まってから目を輝かせてソファから立ち上がる。
鼻息荒く、カノンの手を取って、
「ホントかッ!? カノン、ようやく俺の魅力に気がついてくれたんだなッ!? くくぅッ! 感涙だ、長かったぜここまでッ! そうと決まればすぐ教会に……ッ」
「ンなわけあるかッ!!」
どがッ!!
「ぐあッ!?」
顎を蹴り飛ばしてやると、そのまま絨毯の上で大人しくなる。
「―――ったく、たまーに多少褒めてやっただけですぐに図に乗る……」
すっかり疲労が溜まってしまった肩を解しながら立ち上がる。ガラス張りのロビーの外に、大分傾いた月が静かに佇んでいた。
考え込んでいても仕方がない。
この件、深くは関わらないことを決めたのだ。
明日、クレイヴの話を聞いて、しっかり断りの言を入れて置こう。
それでもなお、ルナが何かしがの事情を抱えてやってきたなら、そのときまた話し合えばいい。
「よしッ」
そうと決まればさっさと寝てしまおう。休暇で来たというのに休めなければ何もならない。
そう決意して、カノンは軽薄な男の伸びる静まりかえったロビーを後にしたのだった。
しっかりと断りを入れる―――つもりだった、のだが。
「……ん?」
その朝、カノンは外から響いて来る騒がしさで目を覚ました。ぼやけた視界の中で時計を見る。
まだ早い時間だというのに、外から人の声が聞こえるというのはどういうことなのか。それも一人や二人の話し声ではない。大勢の、それも話し声などではなく、いきり立った喧しい騒音だ。
「ふにゃ……レン、もぉ、恥ずかしいってばぁ……」
そんな中でも熟睡し、何やら幸せそうに寝言をのたまうシリアを横目に、スプリングが効いた高級ホテルのふかふかのベッドを降りる。
……普段、安宿に泊まり慣れているせいで、妙に寝辛かったりするのだ、これが。
まあ、それはともかく。
テラスになっている窓に近づくと、騒音はなお大きく聞こえるようになる。
―――ったく、昨日あんだけ遅かったってのに……。
何故、こんな朝っぱらからこんなものに起こされなければいけないのか。我が身を嘆きながらカーテンに手をかける。
朝日が染みているカーテンを、細く開ける。
「……何よ…、あれ……」
ホテルの前に人が集まっている。正面玄関に、まるでそこが何かのアトラクションの入り口であるかのように人が群がって、それこそ芋を洗うようだ。
気がつけば、一歩引いて観察している野次馬も見て取れる。
「一体、何事よ……」
一度、カーテンを閉めて部屋の奥へ戻る。ホテル側に常備されていたパジャマを脱いで、いつもの服に着替える。コートは着ずに、とりあえず帯剣だけして部屋を出る。
ホテルの中まで何か慌しい。従業員と何度も擦れ違うが、皆、どこか浮き足立っていた。階下へ階段を下り、ロビーに出ようとしたところで、
「レン?」
従業員の一人……支配人か誰かだろうか、ぴしっとしたスーツを着た初老の男性を捕まえている彼を見つけた。
いつもと変わらぬ無表情だが、どこか苦いものが混じっている気がする。対する支配人の顔色は真っ青で、地に足が着いていない。まったく、どうしたことだ。
しばらく眺めていると、レンの方がこちらに気がついたようだ。
「……起きたか」
「おはよ。結構な騒ぎになってるけど、何かあったの?」
「そ、それが……」
震える声で口にしようとする支配人。が、それも全身のがくがくした震えに消え失せてしまう。
陰鬱な息を吐いて、レンが言葉を繋いでくれる。
「カノン、冷静になって聞け」
「うん……?」
レンは今一度、騒ぎになっている正面玄関を見た。慌てふためいた従業員が、そちら側に集まっていく。騒ぎを止めるためだろう。
それを眺めながら、レンは普段よりか小さくボリュームを落とした声で、言った。
「クレイヴが殺された」
「―――・・・え?」
←5へ
青い海、白い雲、さんさんと照りつける爽やかな太陽。
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
←4へ
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
←4へ
「と、いうわけであの屋敷は一連の事件と関係なかったみたいです」
「そーですかー、それは残念です」
―――オイオイ。
予想外にっさり頷かれて、カノンは頬に汗が浮かぶのを感じた。
森から帰還して一夜明け。ウィンダリアホテルの面接室に報告をしに来たはいいが……。
簡潔に言ったカノンの言葉に、ホテル主のクレイヴは間延びした声であっさりと首を縦に振ってくれた。
さすがにこの出方は予測していなかったカノンの方が、ややうろたえる。
「えーと……あの、聞いたりしないんですか?」
「何をですか?」
こくり、と小首を傾げるクレイヴ=ロン=ウィンダリア。
「だから、どこがどうでどんな風になってたとか。どんな感じだったとか」
カノンの答えに、彼はさらに首を傾げつつ、
「……聞かなきゃいけないんでしょーか?」
「……いや、貴方がいいなら別にいいんでしょうが、ふつーは聞かれるもんだと思ってましたから……」
「そーなんですかー……」
―――そーなんですかー、ってオイオイ……。
「まあ、別に細部が知りたいわけじゃないですからー……、あそこが異変の原因になっているかどうかを知りたかったわけであって」
―――そうは言っても……
何となく、釈然としないものを胸に抱きつつも、カノンにやれることといえば作り笑顔のまま礼金の袋を準備し始めるクレイヴを見守ることだけだった。
「んー……」
「どーしたんだ、カノン?」
嫌ににやけた顔を近づけてきたアルティオの顎に拳をくれながら、カノンは唸る。報酬と共に解約手続きを済ませたはいいのだが、やはり何か釈然としない。
正直、この件自体を押し付けられる覚悟くらいはしていたのだ。
他の街であっても十二分に大事だろうが、ましてやクオノリアは観光地。観光地というものは一度傷が付くとなかなか汚名を払拭するのは難しい。観光関係者、政団支部、店舗経営者、その他この町に住む殆どの人間が早期解決を望んでいるはずだ。それも一流ホテルのオーナーなら率先して事件解決に取り組むべきなのだろうが。
「どうも、何か消極的というか納得いかないっていうか……」
「まあ、この町のことはこの町の人間の問題だ」
ぶつぶつと呟くカノンを、ロビーのソファに腰掛けたレンが窘める。
「これ以上、依頼を受けて関わらない限り、な。依頼は終了したんだ。いらん危険に足を突っ込むこともないだろう」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「そーよッ! いつまでもあんな変な生物に構ってる時間があったらしっかりレンと愛を育まなきゃ!!」
「いや、シリア、あんたの意見は心の底から聞いてない。
……っていうかルナはどこ行ったの? 見えないけど」
気が付けば、応接室に行く前にはあった彼女の姿がない。きょろきょろとロビーを見渡してみても、見慣れたブラウン頭は何処にも見つからず。
「ああ、やっこさん、さっさと依頼人のとこに行っちまったぜ。こっちも仕事だから、ってさ」
「ふーん、相変わらずね。
まあ、いいわ。とりあえずクオノリア滞在中はホテルでお寛ぎください、って」
「このホテルでッ!?」
「うわッ!!」
いきなりアップで顔を寄せてきたシリアを押し戻しながら、
「そりゃそーよッ! カウンターの者にお話しください、って言ってたし!! っていうか少しは落ち着いて話せんのかッ!」
「これのどこが落ち着いていられるっていうのッ! 天下のウィンダリアホテルでの宿泊、見たことのない俯瞰の景色、」
「はいはい、いいから。ここロビーだから。妄想は自分の部屋で孤独に誰にも恥かかせないようにやってちょーだいね……」
「ふんっ、そんなことを恥じているなんてやっぱりお子様はお子様ね。ま、お子様は夜の九時にぐっすり眠っているのが丁度いいんじゃないのぉ?」
―――殺ス。
側にころがっていた椅子という凶器の背もたれを握りつつ、得体の知れない力が細腕に灯る。高そうなソファが血で汚れるのを、クレイヴへ心の中だけで謝ってから片腕を持ち上げて。
「皆様、お揃いですかな?」
『・・・?』
ふと、呼び止められてカノンの手が止まる。
男の声だ。刻まれた年輪が、ただ声の中にも重厚に見え隠れする。
―――ちっ、邪魔が入ったか。
カノンは椅子を下ろす。カノンには見えていないが、対面に位置するシリアやアルティオ、加えてレンには後ろの人物の顔が見えているはずだ。そう思って視線を上げるとシリアは眉間に皺を寄せて背後を見ているし、アルティオは何やら驚いた顔でぽかん、としている。彼の反応が一番不明だ。
頼みの綱の相棒は、……ああ、大分渋い表情。カラスが生ゴミしょってやって来たようなときの顔だ。
―――こりゃ面倒ごとかな。
そのまま無視してしまいたくなるのを堪えて振り返ると、三人の表情に合点がいった。
撫で付けた銀の髪と眼光鋭い青い瞳。若い頃は結構な美形だったのではないだろうか、顔に刻まれた幾つもの皺が人の歴史を語り、ぴしっと伸びた背筋が精悍な顔付きと相俟って威厳を宿す。
紫のローブを纏った初老の男。ちらほらとひそひそ話が周りから漏れているということはそれなりの地位の人間なのかもしれない。
そのお供に付いていたのは二人。
一人は……おそらく、老人の息子か孫か、ともかく血縁を匂わせる同じ銀髪の青年。そこそこにハンサムで嫌味がない表情は好感触だ。着ているものは青いローブで、しっかりと止め布を巻いて何かの証章で止めているあたり、几帳面な性格が伺える。
そして問題はもう一人。何と無く不機嫌な、加えて戸惑うような雰囲気を混ぜ込んだ複雑な表情で立っているのは―――見間違えるはずもない。先程、立ち去ったはずのルナ=ディスナー。
なるほど、アルティオが茫然としてレンがあれだけ憮然としていた理由が知れた。
「カノン=ティルザード殿、でよろしいかな?」
「……ええ、まあ」
はぐらかそうかと思ったが、ルナがいて、クレイヴがオーナーのこのホテルに来て、尚且つ声をかけてくるということははぐらかすだけ無駄なのだろう。
「ホテルオーナーからお話は伺っている。あの館の調査をした者たち、だな?」
「本題に入るより先に名乗るのが礼儀、ってもんじゃないの?」
返した言葉に男は一瞬、渋い顔をしてから、
「失礼した。私はこの町のWMOクオノリア支部支部長ローランと申す者。こちらは私の孫のクロード、そしてそちらは今回の一件について助力をお願いした……」
「ルナ=ディスナーです。どうぞ、・・・・・初めまして」
「!」
ローランの言葉を遮って口にしたルナの言葉に唖然とする。
「お、おい、ちょっと何言って……」
ばきッ!!
―――ふぅ、椅子が役に立って良かった。
「あ、あの……」
「ああ、気にしないでください。ちょっとこっちのことですから」
引き気味で声を発したクロードに手を振りながら誤魔化すカノン。ついでにシリアの口も眼光で塞ぎながら身を正す。
WMO。正式名称を西大陸魔道機構という。もともとは政団の一部でただ、普通の政団員には手に負えない魔道と深く関わりのある事件を請け負うだけの部署、だったはずなのだが。
言うに及ばず、魔道というものはそもそもこの世ならざる力を扱うものであり、それを覚えたがる輩は大勢存在し、太古の昔から魔道に魅入られた人間が起こす事件にはきりがない。そうこうあって、結局魔道機関の肥大化は必然と起こり、ついには政団から独立した一つの機関として機能することになった。
というと、あまりいい印象を抱かない機関であるが、このこと自体は別にマイナスでも何でもない。政団内に縛られなくなったことで、WMOは独自の正式な魔道研究法や、施設を持てることになったし、尚且つ元は政治団体の名目で政団とも深い繋がりを有しており、結果的に法の独走を防ぐ一つの役目を担うことにもなった。
まあ、資金面やら政団への信用性やらマイナス要素もなくはなかったが、その問題ももう過去の話。現在の情勢として、一つの大きな機関として正常に動いているのだから特に問題という問題は無い。
年々、地方で不始末がどうの、と騒がれる時世もあるが、それはそれ、政団とて不始末はあるし、そう珍しくもない。きちんと相応の適切な処断は下される。
それが大まかなWMOの発祥。ルナの雇い主としても、頷ける。彼女は政団にもWMOにも色々な意味で一目置かれている魔道師だ。
しかし、今は別段、問題じゃない。問題は、
「で、WMOのお偉いさんが、あたし達に何の用です?」
「いいえ、大したことではない。
このホテルのオーナーから事件の調査を依頼された者たちがいる、と聞いてな。聞くと私が雇ったルナ殿ともお会いしたと」
「それがどうかしましたか?」
「単刀直入にお聞きしたい。貴方方が請け負ったのは"館の調査"か、それとも"事件の解決"か?」
「……っ?」
違和感が駆け抜ける。反射的にカノンはルナの方へ視線を走らせるが、彼女はこっそりと小さく肩を竦めて見せただけだった。
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「それは私が決めることだ」
取り付く島はなさそうだ。ローランはまっすぐこちらをねめつけたまま、重厚な声を響かせる。
カノンはがりがりと後ろ頭を掻く。
何も言わなければ。
ローランは自分たちがまだ依頼を終えていない、イコール"事件の解決"に携わっていると思うだろう。ローランの目的はわからないが、どちらを疎ましく思うかと言うならおそらく"事件の解決"。
自分たちが事件を解決し、株の上昇を狙っているとか、どう見ても魔道的なこの事件をただの傭兵であるカノン達が解決したなどとなるとWMOとしての体裁が悪いとか。
……考えたくはないが、事件に直接・間接的な関わりがあるとか。
不安定な職業を営む身としては、信用問題に関わるのであまり依頼内容など喋りたくはないのだが。
だからと言って下らないことに巻き込まれて、休暇を丸潰しにされるのはもっと嫌だった。
クオノリアに来てからの溜め息の多いことと言ったらない。
「あたしたちが請け負ったのはただの館の調査です。もう仕事は終わってます。
ホテルにいるのは報酬の一部として宿泊させていただいてるだけです」
「ふむ……」
―――信用してる目じゃないし、このオヤジ。
「確かに疑われても致し方ないが……」
トーンの低い、静かな声がフォローをかけて来る。
「そいつの言っていることは事実だ。あんたが何を考えているのかは知らんが、WMOに反感を買ってまでもともと何の関係もない事件に巻き込まれるような酔狂者でもない」
「……なるほど」
―――あー、そうですか。レンの言葉は素直に頷きますか。どうせあたしは子供ですよ。
「何を剥れているのかしら?」
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に心の底から腹が立った。
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に何だか心の底から腹が立った。
「となると……貴方方がこれ以上、この件に関わることはない、と?」
「また誰かが依頼に来て受けない限りは、な」
「そうか……。いや、失礼した。我々の要件はそれだけだ。
不快な思いはさせてしまったろうが、このクオノリアはシエジアス領自慢の観光地。どうか楽しんで行ってくれ」
「……ち、ちょっと待てよ」
言うだけ言って去っていこうとするローランを、腫れた頭を抑えながらアルティオが呼び止める。
「言いたいだけ言ってさよなら、は無いだろ? 何でそんなこと聞かれなきゃいけねぇんだよ?」
「まあ、確かに……。逐一、動向を探られているようで、いい気分はしないわね。
私はこれから愛の絆を確かめるという重大な仕事があるのだけど」髪を掻き揚げながらシリア。さらりと言っているようで、実のところ目線はきっちりローランの傍らのルナを睨んでいる。
最も、彼女の方と言えばこれまたこめかみを掻きつつ、受け流すだけだったが。
ローランは皺の深い顔をさらに歪めて、品定めするようにこちらを眺めていたが、やがて折れたようだ。重い溜め息を一つ、改めて背をぴん、と伸ばしながら、
「私たちは件の事件について責任を負っている。公の場なので詳しいことは言えないが、誰がどう見ても魔道が絡んだ今回の件……WMOとしても見過ごせないものがある。
聞こえや体裁は悪いが……倫理観のなっていない魔道師がその力を示すために、度々ことを起こす事実に対しては言い訳が出来ん。
逆に言えば、そういった事件を我々正規の魔道機関が処理できなければ、魔道師というものに対する世論を悪くするばかりだ」
「つまり……この事件は自分たちが解決するから余所者は黙っていろ、ってこと?」
一瞬、ローランの眼光がカノンを射抜く。相手が怯まないことを知って、ローランは小さく首を振った。
「まあ……極論を言えばそうなる。だが、君たちもこの事件が目的でここに来たわけではないだろう?」
「そりゃあまあ……」
「ならば、煩わしいものは関係者に任せてしまうのが君たちにとっても良いと思うのだが?」
確かに。
クオノリアを訪れた元々の理由は休暇だったはずである。今回の依頼は、まあカノンたちにとっては"館の調査"という馴れた仕事かつ、意外に高い報酬という好条件に釣られたに過ぎない。
第一、好き好んでこんな事件に首を突っ込む理由はないのだ。
ひたすらに死術を追っては事件と破壊を繰り返していた、あのときとは違うのだから。
「元より」
不意に下りた沈黙を破ったのはレンが発した言葉だった。
「これ以上、この件に関わるつもりはない。余程のことがない限りな。
ただの一般市民として、安心して休暇が楽しめるように事件の早期解決を願うのみだ」
「異論ないわ」
生来の好奇心が多少疼くが、わざわざ休暇に来た意味がなくなる。それだけは避けたい。
ローランは満足げに頷くと、もう一度、浅くだが頭を下げた。そのまま背を向ける。供の青年もそれに習い、
「……」
ルナはこちらにやや困惑したような、申し訳なさそうな、珍しい表情を向けて謝罪代わりか軽く肩を竦めて雇い主を追ったのだった。
←3へ
「そーですかー、それは残念です」
―――オイオイ。
予想外にっさり頷かれて、カノンは頬に汗が浮かぶのを感じた。
森から帰還して一夜明け。ウィンダリアホテルの面接室に報告をしに来たはいいが……。
簡潔に言ったカノンの言葉に、ホテル主のクレイヴは間延びした声であっさりと首を縦に振ってくれた。
さすがにこの出方は予測していなかったカノンの方が、ややうろたえる。
「えーと……あの、聞いたりしないんですか?」
「何をですか?」
こくり、と小首を傾げるクレイヴ=ロン=ウィンダリア。
「だから、どこがどうでどんな風になってたとか。どんな感じだったとか」
カノンの答えに、彼はさらに首を傾げつつ、
「……聞かなきゃいけないんでしょーか?」
「……いや、貴方がいいなら別にいいんでしょうが、ふつーは聞かれるもんだと思ってましたから……」
「そーなんですかー……」
―――そーなんですかー、ってオイオイ……。
「まあ、別に細部が知りたいわけじゃないですからー……、あそこが異変の原因になっているかどうかを知りたかったわけであって」
―――そうは言っても……
何となく、釈然としないものを胸に抱きつつも、カノンにやれることといえば作り笑顔のまま礼金の袋を準備し始めるクレイヴを見守ることだけだった。
「んー……」
「どーしたんだ、カノン?」
嫌ににやけた顔を近づけてきたアルティオの顎に拳をくれながら、カノンは唸る。報酬と共に解約手続きを済ませたはいいのだが、やはり何か釈然としない。
正直、この件自体を押し付けられる覚悟くらいはしていたのだ。
他の街であっても十二分に大事だろうが、ましてやクオノリアは観光地。観光地というものは一度傷が付くとなかなか汚名を払拭するのは難しい。観光関係者、政団支部、店舗経営者、その他この町に住む殆どの人間が早期解決を望んでいるはずだ。それも一流ホテルのオーナーなら率先して事件解決に取り組むべきなのだろうが。
「どうも、何か消極的というか納得いかないっていうか……」
「まあ、この町のことはこの町の人間の問題だ」
ぶつぶつと呟くカノンを、ロビーのソファに腰掛けたレンが窘める。
「これ以上、依頼を受けて関わらない限り、な。依頼は終了したんだ。いらん危険に足を突っ込むこともないだろう」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「そーよッ! いつまでもあんな変な生物に構ってる時間があったらしっかりレンと愛を育まなきゃ!!」
「いや、シリア、あんたの意見は心の底から聞いてない。
……っていうかルナはどこ行ったの? 見えないけど」
気が付けば、応接室に行く前にはあった彼女の姿がない。きょろきょろとロビーを見渡してみても、見慣れたブラウン頭は何処にも見つからず。
「ああ、やっこさん、さっさと依頼人のとこに行っちまったぜ。こっちも仕事だから、ってさ」
「ふーん、相変わらずね。
まあ、いいわ。とりあえずクオノリア滞在中はホテルでお寛ぎください、って」
「このホテルでッ!?」
「うわッ!!」
いきなりアップで顔を寄せてきたシリアを押し戻しながら、
「そりゃそーよッ! カウンターの者にお話しください、って言ってたし!! っていうか少しは落ち着いて話せんのかッ!」
「これのどこが落ち着いていられるっていうのッ! 天下のウィンダリアホテルでの宿泊、見たことのない俯瞰の景色、」
「はいはい、いいから。ここロビーだから。妄想は自分の部屋で孤独に誰にも恥かかせないようにやってちょーだいね……」
「ふんっ、そんなことを恥じているなんてやっぱりお子様はお子様ね。ま、お子様は夜の九時にぐっすり眠っているのが丁度いいんじゃないのぉ?」
―――殺ス。
側にころがっていた椅子という凶器の背もたれを握りつつ、得体の知れない力が細腕に灯る。高そうなソファが血で汚れるのを、クレイヴへ心の中だけで謝ってから片腕を持ち上げて。
「皆様、お揃いですかな?」
『・・・?』
ふと、呼び止められてカノンの手が止まる。
男の声だ。刻まれた年輪が、ただ声の中にも重厚に見え隠れする。
―――ちっ、邪魔が入ったか。
カノンは椅子を下ろす。カノンには見えていないが、対面に位置するシリアやアルティオ、加えてレンには後ろの人物の顔が見えているはずだ。そう思って視線を上げるとシリアは眉間に皺を寄せて背後を見ているし、アルティオは何やら驚いた顔でぽかん、としている。彼の反応が一番不明だ。
頼みの綱の相棒は、……ああ、大分渋い表情。カラスが生ゴミしょってやって来たようなときの顔だ。
―――こりゃ面倒ごとかな。
そのまま無視してしまいたくなるのを堪えて振り返ると、三人の表情に合点がいった。
撫で付けた銀の髪と眼光鋭い青い瞳。若い頃は結構な美形だったのではないだろうか、顔に刻まれた幾つもの皺が人の歴史を語り、ぴしっと伸びた背筋が精悍な顔付きと相俟って威厳を宿す。
紫のローブを纏った初老の男。ちらほらとひそひそ話が周りから漏れているということはそれなりの地位の人間なのかもしれない。
そのお供に付いていたのは二人。
一人は……おそらく、老人の息子か孫か、ともかく血縁を匂わせる同じ銀髪の青年。そこそこにハンサムで嫌味がない表情は好感触だ。着ているものは青いローブで、しっかりと止め布を巻いて何かの証章で止めているあたり、几帳面な性格が伺える。
そして問題はもう一人。何と無く不機嫌な、加えて戸惑うような雰囲気を混ぜ込んだ複雑な表情で立っているのは―――見間違えるはずもない。先程、立ち去ったはずのルナ=ディスナー。
なるほど、アルティオが茫然としてレンがあれだけ憮然としていた理由が知れた。
「カノン=ティルザード殿、でよろしいかな?」
「……ええ、まあ」
はぐらかそうかと思ったが、ルナがいて、クレイヴがオーナーのこのホテルに来て、尚且つ声をかけてくるということははぐらかすだけ無駄なのだろう。
「ホテルオーナーからお話は伺っている。あの館の調査をした者たち、だな?」
「本題に入るより先に名乗るのが礼儀、ってもんじゃないの?」
返した言葉に男は一瞬、渋い顔をしてから、
「失礼した。私はこの町のWMOクオノリア支部支部長ローランと申す者。こちらは私の孫のクロード、そしてそちらは今回の一件について助力をお願いした……」
「ルナ=ディスナーです。どうぞ、・・・・・初めまして」
「!」
ローランの言葉を遮って口にしたルナの言葉に唖然とする。
「お、おい、ちょっと何言って……」
ばきッ!!
―――ふぅ、椅子が役に立って良かった。
「あ、あの……」
「ああ、気にしないでください。ちょっとこっちのことですから」
引き気味で声を発したクロードに手を振りながら誤魔化すカノン。ついでにシリアの口も眼光で塞ぎながら身を正す。
WMO。正式名称を西大陸魔道機構という。もともとは政団の一部でただ、普通の政団員には手に負えない魔道と深く関わりのある事件を請け負うだけの部署、だったはずなのだが。
言うに及ばず、魔道というものはそもそもこの世ならざる力を扱うものであり、それを覚えたがる輩は大勢存在し、太古の昔から魔道に魅入られた人間が起こす事件にはきりがない。そうこうあって、結局魔道機関の肥大化は必然と起こり、ついには政団から独立した一つの機関として機能することになった。
というと、あまりいい印象を抱かない機関であるが、このこと自体は別にマイナスでも何でもない。政団内に縛られなくなったことで、WMOは独自の正式な魔道研究法や、施設を持てることになったし、尚且つ元は政治団体の名目で政団とも深い繋がりを有しており、結果的に法の独走を防ぐ一つの役目を担うことにもなった。
まあ、資金面やら政団への信用性やらマイナス要素もなくはなかったが、その問題ももう過去の話。現在の情勢として、一つの大きな機関として正常に動いているのだから特に問題という問題は無い。
年々、地方で不始末がどうの、と騒がれる時世もあるが、それはそれ、政団とて不始末はあるし、そう珍しくもない。きちんと相応の適切な処断は下される。
それが大まかなWMOの発祥。ルナの雇い主としても、頷ける。彼女は政団にもWMOにも色々な意味で一目置かれている魔道師だ。
しかし、今は別段、問題じゃない。問題は、
「で、WMOのお偉いさんが、あたし達に何の用です?」
「いいえ、大したことではない。
このホテルのオーナーから事件の調査を依頼された者たちがいる、と聞いてな。聞くと私が雇ったルナ殿ともお会いしたと」
「それがどうかしましたか?」
「単刀直入にお聞きしたい。貴方方が請け負ったのは"館の調査"か、それとも"事件の解決"か?」
「……っ?」
違和感が駆け抜ける。反射的にカノンはルナの方へ視線を走らせるが、彼女はこっそりと小さく肩を竦めて見せただけだった。
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「それは私が決めることだ」
取り付く島はなさそうだ。ローランはまっすぐこちらをねめつけたまま、重厚な声を響かせる。
カノンはがりがりと後ろ頭を掻く。
何も言わなければ。
ローランは自分たちがまだ依頼を終えていない、イコール"事件の解決"に携わっていると思うだろう。ローランの目的はわからないが、どちらを疎ましく思うかと言うならおそらく"事件の解決"。
自分たちが事件を解決し、株の上昇を狙っているとか、どう見ても魔道的なこの事件をただの傭兵であるカノン達が解決したなどとなるとWMOとしての体裁が悪いとか。
……考えたくはないが、事件に直接・間接的な関わりがあるとか。
不安定な職業を営む身としては、信用問題に関わるのであまり依頼内容など喋りたくはないのだが。
だからと言って下らないことに巻き込まれて、休暇を丸潰しにされるのはもっと嫌だった。
クオノリアに来てからの溜め息の多いことと言ったらない。
「あたしたちが請け負ったのはただの館の調査です。もう仕事は終わってます。
ホテルにいるのは報酬の一部として宿泊させていただいてるだけです」
「ふむ……」
―――信用してる目じゃないし、このオヤジ。
「確かに疑われても致し方ないが……」
トーンの低い、静かな声がフォローをかけて来る。
「そいつの言っていることは事実だ。あんたが何を考えているのかは知らんが、WMOに反感を買ってまでもともと何の関係もない事件に巻き込まれるような酔狂者でもない」
「……なるほど」
―――あー、そうですか。レンの言葉は素直に頷きますか。どうせあたしは子供ですよ。
「何を剥れているのかしら?」
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に心の底から腹が立った。
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に何だか心の底から腹が立った。
「となると……貴方方がこれ以上、この件に関わることはない、と?」
「また誰かが依頼に来て受けない限りは、な」
「そうか……。いや、失礼した。我々の要件はそれだけだ。
不快な思いはさせてしまったろうが、このクオノリアはシエジアス領自慢の観光地。どうか楽しんで行ってくれ」
「……ち、ちょっと待てよ」
言うだけ言って去っていこうとするローランを、腫れた頭を抑えながらアルティオが呼び止める。
「言いたいだけ言ってさよなら、は無いだろ? 何でそんなこと聞かれなきゃいけねぇんだよ?」
「まあ、確かに……。逐一、動向を探られているようで、いい気分はしないわね。
私はこれから愛の絆を確かめるという重大な仕事があるのだけど」髪を掻き揚げながらシリア。さらりと言っているようで、実のところ目線はきっちりローランの傍らのルナを睨んでいる。
最も、彼女の方と言えばこれまたこめかみを掻きつつ、受け流すだけだったが。
ローランは皺の深い顔をさらに歪めて、品定めするようにこちらを眺めていたが、やがて折れたようだ。重い溜め息を一つ、改めて背をぴん、と伸ばしながら、
「私たちは件の事件について責任を負っている。公の場なので詳しいことは言えないが、誰がどう見ても魔道が絡んだ今回の件……WMOとしても見過ごせないものがある。
聞こえや体裁は悪いが……倫理観のなっていない魔道師がその力を示すために、度々ことを起こす事実に対しては言い訳が出来ん。
逆に言えば、そういった事件を我々正規の魔道機関が処理できなければ、魔道師というものに対する世論を悪くするばかりだ」
「つまり……この事件は自分たちが解決するから余所者は黙っていろ、ってこと?」
一瞬、ローランの眼光がカノンを射抜く。相手が怯まないことを知って、ローランは小さく首を振った。
「まあ……極論を言えばそうなる。だが、君たちもこの事件が目的でここに来たわけではないだろう?」
「そりゃあまあ……」
「ならば、煩わしいものは関係者に任せてしまうのが君たちにとっても良いと思うのだが?」
確かに。
クオノリアを訪れた元々の理由は休暇だったはずである。今回の依頼は、まあカノンたちにとっては"館の調査"という馴れた仕事かつ、意外に高い報酬という好条件に釣られたに過ぎない。
第一、好き好んでこんな事件に首を突っ込む理由はないのだ。
ひたすらに死術を追っては事件と破壊を繰り返していた、あのときとは違うのだから。
「元より」
不意に下りた沈黙を破ったのはレンが発した言葉だった。
「これ以上、この件に関わるつもりはない。余程のことがない限りな。
ただの一般市民として、安心して休暇が楽しめるように事件の早期解決を願うのみだ」
「異論ないわ」
生来の好奇心が多少疼くが、わざわざ休暇に来た意味がなくなる。それだけは避けたい。
ローランは満足げに頷くと、もう一度、浅くだが頭を下げた。そのまま背を向ける。供の青年もそれに習い、
「……」
ルナはこちらにやや困惑したような、申し訳なさそうな、珍しい表情を向けて謝罪代わりか軽く肩を竦めて雇い主を追ったのだった。
←3へ
「あっはっはー、まっさかあんたたちだとは思わなかったわーv」
枯れ木の丸太に腰掛けながらからからと笑う能天気魔道師は、漂う微妙な空気にもめげずにそう吐き出した。ちなみに彼女とカノンの後頭部に痛々しげなたんこぶが見えるのは、お互いの姿を認めた瞬間に不毛な言い合いを始めた二人をレンの拳骨が直撃したためである。
「まあ、大した怪我も無かったんだしそれでいいじゃない」
「いいわけがあるか。危うく死ぬところだった」
「死ぬところだったのはあんたたちじゃないと思うけどねぇ……」
レンの至極冷静な声色に、ルナは頭のこぶを摩りながら後ろを振り返る。ひくひくと微妙な痙攣を繰り返しながら、炭と化した女剣士と少々コゲたまま動かない大柄な双刀剣士が倒れ伏していた。
「相手も確かめずに爆炎魔法撃つ方も撃つ方だけど、そのまん前に知り合いを放り投げる方もアレな気はするんだけど」
「熱風の盾に幾ら大柄で丈夫だからと顔見知りを立てる奴も相当だと思うが」
「……やめとこっか」
「そうだな」
珍しく始まりかけた口論をやめるカノンとレン。
まあ……レンが放り投げたたまたまそこにあった、生きた防御壁で威力が殺された魔道風をカノンがたまたま間近にいた生きた盾で防いだという人聞きの悪い事情など、わざわざ掘り合うものでもないだろう。
―――そもそも悪いのあたしらじゃないし。
溜め息を吐いて、カノンは抗議の視線を何処吹く風でコゲた炭をつんつん突付いている彼女へ目を向けて、
「で、ルナ。あんた、何でこんなとこにいるわけ?」
「説明しなきゃ解んない? どーせあんた達も合成獣の大量発生の調査でも頼まれてたんでしょ?」
「あんた達も、ってことはあんたもそうなの?」
不必要に鷹揚に頷く彼女。
「うん、まあ。依頼人は別だろうケドね」
「そーね。同じところに来させられてるし。けど、あっさり出て来たってことはやっぱりあそこには何も無かったの?」
「教えると思う?」
「いや、言ってみてからそれはないか、と気が付いた」
「ご名答」
あっさりと言い放ち、ひらひらと手を振る。と、思いきや、
「と、言いたいところだけど。まあ、教えてあげてもいいわ。お礼はチップ程度でいいわよ」
「ちゃっかりしてるわね」
レンがマントの裏へ手を忍ばせる。取り出した大き目の硬貨をピンっ、とルナの方へ放ると受け取った彼女は手の中を見て満足そうにそれをポケットへ落す。
「用意がいいじゃない」
「世の中、欲の深い連中は多いからな」
「それ、遠回しにあたしに欲深い奴、って言ってる?」
「違うのか?」
相変わらず、人の神経を逆なですることに関しては一流である。馴れがそうさせるのが、怒り狂うかと思った彼女はカノンの予想に反して小さく肩を竦めただけだった。
そういえば、レンとルナはこの五人の中でも最も付き合いが古かった。
別にチップなど払わなくてもこの後、自分たちで探索すればいい話なのだが。ただ、この年中発情期に当てられている二人組みを連れての屋敷探索と、ささやかなチップを払うのとなら、迷わずチップを犠牲にする。彼も考えは同じだったらしい。
滅多にないルナのやたら寛大なサービスだ。依頼料がやたら多いのか、何かの思惑でもあるのか。まあ、とにかく受け取って置こう。
「結論から言うとハズレだったわよ。単なる廃屋、まあ、ちょちょいっと昔の罠が未だに作動することもあってそれには感心したけどね。
肝心の研究施設ときたらまあ、埃の山というか山脈というか。確かに合成獣を作ってた形跡はあったけど、ここ最近何かが作動したり壊れたり、って風ではなかったわね。っていうか施設そのものがおじゃんよ、もう随分昔に死んでたわね、アレは」
「ふーん。ほらじゃないでしょうね?」
「金を貰っての嘘は言わないわよ。別に損するわけじゃないし」
「じゃあ、ルナ。あんたが請け負ったのはやっぱりここの調査であって、事件の解決ではないのね?」
「まーね。じゃなきゃ情報漏洩なんてやんないわよ」
なるほど、チップ程度で済んだ理由が何となくわかった。
つまり、彼女の請け負った依頼はただの屋敷調査であり、この合成獣事件の解決ではないということ。事件の解決が依頼内容ならば、とどのつまり、自分で事件を解決しなければ依頼料は入って来ない。となればカノン達に先に解決されてしまわぬよう、情報を隠す必要が出てくる。
しかし、ただの屋敷調査ならばそこまでの責任感はいらない。『あの屋敷、やっぱ何も関係なかったです』の一言で十分なのだから。
……もちろん、ルナが事件解決を狙ってやっぱり嘘の情報を流している可能性が消えたわけではないのだが……。
はっきり言って、それを確認するほどの体力・気力が充実していない。
まあ、先程の詳しい状況説明を信じてさっさと終わらせてしまうに限る。
「まあ、ところで」
すっく、とルナが立ち上がる。
「……やれやれ、猛獣は二人で十分なんだが」
かちり、とレンが触れた剣の柄が小さく唸る。
「ちょっと、その二人って誰のことよ?」
「ああ、悪かった。そこで転がってるのを含めて四人だな」
「増やすな! ってかせめて三人でしょ!?」
軽口を叩きながらもカノンもまた、背に負っていた剣鎌をずらり、と引き抜いた。
「ほらあんたたちも! いつまでも寝てないで加勢しなさい!!」
「いでッ!!」
「ひゃんッ!?」
丸太裏に転がして置いた約二名を蹴り起こす。細かい分類はともかく、一応は生物なのだから自分の判断で動いてもらわなければ。
「痛いわねッ! 何するのよ!?」
「何するのよ、じゃないッ! あんたらも一応、剣の修行した有段者でしょ!? 自分の周りの異変にくらい気づきなさいよッ!!」
カノンに怒鳴り散らされて、すっ、とシリアの表情が真顔に戻る。焦げていたアルティオも起き上がって、目を細め、周囲を観察し始める。
静かだった。
いや、静か過ぎたというべきか。鳥の声一つしないのは異常としか言い用がない。
もう一つ。
ここに五人のみが存在すると言うのに―――。
「何よ、あの音……」
シリアから硬い声が漏れる。
ぱきん、ぱきん、と下生えに転がる小枝の割れる音が響く。同時に何かを引き摺るような、ずる、ずる、という水気を伴う不快な怪音。
例えるならスライムが森の中を這って歩いているような。しかし、その音はスライムなんかよりも余程重量のある生き物の歩く音だ。
嫌な予感が胸を掠める。そもそもこの以来の発端は何だったか。思い出せば簡単なこと。
『唐突に発生した合成獣が観光客を襲う。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から』
誰かが溜め息を吐いた。刹那。
「っ、カノンッ!!」
「―――っ!」
レンの声が飛んだ。カノンは瞬時に反応し、横っ飛びにその場を離れる。
ずひゅるッ!!!
「なっ……!!」
アルティオのくぐもった呻き。
辺りに群生する背の低い茂みを形成する木々の合間から、太い触手が一本伸びて今しがたカノンが構えていた空間を貫いていた。
いや、―――
「触手、っていうか蔓ッ!?」
「我求める、途往くは銀の閃光、従えシルフィードッ!!」
カノンの吃驚の声とルナの呪文とが重なった。生まれた光は幾つもの筋へと分散し、そして、
きっぎゃぁぁぁぁあああぁああぁぁッ!!!
耳を劈く雄叫びが鼓膜を揺るがした。彼女の呪文は、周囲の小枝や茂みを薙ぎ払い、視界を確保するためのものだったが、どうやら中の一条が素通りして奴を掠めてしまったらしい。
細木が薙ぎ倒されて露になった茂みの向こう。そこにいたものに、
『―――――ひあッ!!』
生理的嫌悪感に、カノンもルナも、そしてシリアも思わず悲鳴にならない悲鳴を上げた。
「な、何だ、こいつッ!!」
掠れた声でアルティオが双剣を抜く。
―――ご、合成獣とは聞いてたけどさッ!!
頭は不自然に巨大な牛(おそらくはバッファローかミノタウロス辺りだろうが)、上半身は野犬のようにしなやかだが、背中には不自然な角度に曲がった煤けた翼が生えており、尻尾はどうしたことか兎のような短い毛玉がちょろっと付いているだけ。
ここまでは、まあ見ていて不快といえば不快だが、まだいい。
だがしかし、その下というと足というものがなく、付け根の部分からは今しがたカノンを貫こうとした太い植物の蔓が四本うねうねと蠢き、さらにその下は足代わりにスライム状のどろどろしたものが下生えを溶かしながら広がっている。
―――出来れば一生、見なくて良かったこんなもの。
表情を引き攣らせながら、思わず固まった。が、しかし、闘争心は旺盛なのか先程のルナの一撃に怒り狂っているのかびしゅ、と奇怪な音を立てて蔓を伸ばす。
「うわわッ!」
「いやぁぁぁッ!!」
溶解液に塗れた蔓が(溶けないのかと思うが独自進化なのか溶けていない)変則的にうねうねと動き回る。その蔓が太く長いものだから、でたらめに振り回しているように見えても避けなければ当たるわけで。
加えて足場と空間が狭い。相手も不利だろうがこちらも当然不利だ。
当たり前だがスライムの溶解液は金属―――つまりは刀身を溶かす。懐に飛び込めればいいのだが、この状況でははっきり言って無理だ。
―――くっ、蔓が邪魔で近寄れない! こりゃルナとシリア頼みかッ!?
縋る思いで二人の方を盗み見るが、二人も迫り来る蔓のせいで呪文が中断されるらしい。唱えかけては撤退を余儀なくされている。
―――と、なると、やるべきなのは援護ッ!
だんっ、とその場を蹴って二人の方角へと飛ぶ。伸びた蔓が頭の上を掠めて風を感じた。髪の毛の一本くらいは溶かされたかもしれない。
腰に下げたクレイソードを抜く、いくら何でもあんなのと戦って剣鎌[カリオソード]の刃を痛めたくはない。
一度集約し、再び伸びてくる蔓。
「っせいッ!!」
足元に転がっていた小枝を蹴り飛ばす。止められるなどとは思っていない。ただの牽制だ。
案の定、痛みは感じるのが蔓の動きが一瞬だけ止まった。カノンはその隙に、クレイソードを蔓へと突き立てる。
ずしゅッ!!
きぃぃぃあああぁぁっぁぁあああッ!!
聞くに堪えない悲鳴がもう一度上がる。構わず力任せに地面に縫い止める。
―――これで一本。
背後に殺気。
「っとぉッ!?」
転がるようにして背後から迫る別の蔓を避ける。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
転がった背後からシリアの放った青い光弾が飛来する。
とりあえず背後で『ちっ!』だのと舌を打ちやがった奴は後でしばいて置こう、と決意するカノン。光の弾はカノンを襲った自由な蔓の根元へ着弾し、歪んだ音を立てて氷の結晶を生む。
「アルティオ!!」
「よっせぃ!!」
掛け声と共にアルティオが自分を狙う蔓を連れたまま、右往左往に逃げ回る。一瞬、一本目の蔓と二本目の蔓とが重なり合って、
「避けろッ!!」
レンの激が飛んだ。
同時に下がるアルティオとカノンの脇を、
どぉぉぉおおおぉおおぉぉんッ!!!
レンの切り倒した枯れ木が蔓を押し潰す。苦痛の雄叫びが再度上がり、しゅうしゅうと音を立てて枯れ木が溶け始める。
だが、すべて溶かしてから反撃したところで遅いのだ。
剣も、氷の弾も、枯れ木も全ては所詮、援護。
馴れたもので、その詠唱が終わる頃には全員が安全地帯へと退避済みだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
どんッ!!!
赤い閃光が森林を凪いだ。導火線の切っ先は凍りついた蔓の根元を打ち砕き、そのまま合成獣の身体組織そのものを一瞬にして破壊し、打ち砕く。
光の冷めた後には、乾いた生き物の残骸が残るだけ。
だがそれが醸し出す醜悪な匂いに鼻を抑えながらカノンは伏せていた頭を上げ、立ち上がってその残骸の方へ近寄る。
「いやぁん、気持ち悪かったぁッ!」
「どさくさに紛れて抱きつこうとするんじゃない」
「レンッ、お前さっき俺狙って木、倒したろッ! マジ危なかったぞッ!!」
……まあ、背後できゃんきゃん騒いでる野郎らは無視して置くとして。
「合成獣、ねぇ……」
カノンは哀れなその末路の残骸を眺めながら、腕を組み、溜め息と共に首を傾げたのだった。
←2へ
枯れ木の丸太に腰掛けながらからからと笑う能天気魔道師は、漂う微妙な空気にもめげずにそう吐き出した。ちなみに彼女とカノンの後頭部に痛々しげなたんこぶが見えるのは、お互いの姿を認めた瞬間に不毛な言い合いを始めた二人をレンの拳骨が直撃したためである。
「まあ、大した怪我も無かったんだしそれでいいじゃない」
「いいわけがあるか。危うく死ぬところだった」
「死ぬところだったのはあんたたちじゃないと思うけどねぇ……」
レンの至極冷静な声色に、ルナは頭のこぶを摩りながら後ろを振り返る。ひくひくと微妙な痙攣を繰り返しながら、炭と化した女剣士と少々コゲたまま動かない大柄な双刀剣士が倒れ伏していた。
「相手も確かめずに爆炎魔法撃つ方も撃つ方だけど、そのまん前に知り合いを放り投げる方もアレな気はするんだけど」
「熱風の盾に幾ら大柄で丈夫だからと顔見知りを立てる奴も相当だと思うが」
「……やめとこっか」
「そうだな」
珍しく始まりかけた口論をやめるカノンとレン。
まあ……レンが放り投げたたまたまそこにあった、生きた防御壁で威力が殺された魔道風をカノンがたまたま間近にいた生きた盾で防いだという人聞きの悪い事情など、わざわざ掘り合うものでもないだろう。
―――そもそも悪いのあたしらじゃないし。
溜め息を吐いて、カノンは抗議の視線を何処吹く風でコゲた炭をつんつん突付いている彼女へ目を向けて、
「で、ルナ。あんた、何でこんなとこにいるわけ?」
「説明しなきゃ解んない? どーせあんた達も合成獣の大量発生の調査でも頼まれてたんでしょ?」
「あんた達も、ってことはあんたもそうなの?」
不必要に鷹揚に頷く彼女。
「うん、まあ。依頼人は別だろうケドね」
「そーね。同じところに来させられてるし。けど、あっさり出て来たってことはやっぱりあそこには何も無かったの?」
「教えると思う?」
「いや、言ってみてからそれはないか、と気が付いた」
「ご名答」
あっさりと言い放ち、ひらひらと手を振る。と、思いきや、
「と、言いたいところだけど。まあ、教えてあげてもいいわ。お礼はチップ程度でいいわよ」
「ちゃっかりしてるわね」
レンがマントの裏へ手を忍ばせる。取り出した大き目の硬貨をピンっ、とルナの方へ放ると受け取った彼女は手の中を見て満足そうにそれをポケットへ落す。
「用意がいいじゃない」
「世の中、欲の深い連中は多いからな」
「それ、遠回しにあたしに欲深い奴、って言ってる?」
「違うのか?」
相変わらず、人の神経を逆なですることに関しては一流である。馴れがそうさせるのが、怒り狂うかと思った彼女はカノンの予想に反して小さく肩を竦めただけだった。
そういえば、レンとルナはこの五人の中でも最も付き合いが古かった。
別にチップなど払わなくてもこの後、自分たちで探索すればいい話なのだが。ただ、この年中発情期に当てられている二人組みを連れての屋敷探索と、ささやかなチップを払うのとなら、迷わずチップを犠牲にする。彼も考えは同じだったらしい。
滅多にないルナのやたら寛大なサービスだ。依頼料がやたら多いのか、何かの思惑でもあるのか。まあ、とにかく受け取って置こう。
「結論から言うとハズレだったわよ。単なる廃屋、まあ、ちょちょいっと昔の罠が未だに作動することもあってそれには感心したけどね。
肝心の研究施設ときたらまあ、埃の山というか山脈というか。確かに合成獣を作ってた形跡はあったけど、ここ最近何かが作動したり壊れたり、って風ではなかったわね。っていうか施設そのものがおじゃんよ、もう随分昔に死んでたわね、アレは」
「ふーん。ほらじゃないでしょうね?」
「金を貰っての嘘は言わないわよ。別に損するわけじゃないし」
「じゃあ、ルナ。あんたが請け負ったのはやっぱりここの調査であって、事件の解決ではないのね?」
「まーね。じゃなきゃ情報漏洩なんてやんないわよ」
なるほど、チップ程度で済んだ理由が何となくわかった。
つまり、彼女の請け負った依頼はただの屋敷調査であり、この合成獣事件の解決ではないということ。事件の解決が依頼内容ならば、とどのつまり、自分で事件を解決しなければ依頼料は入って来ない。となればカノン達に先に解決されてしまわぬよう、情報を隠す必要が出てくる。
しかし、ただの屋敷調査ならばそこまでの責任感はいらない。『あの屋敷、やっぱ何も関係なかったです』の一言で十分なのだから。
……もちろん、ルナが事件解決を狙ってやっぱり嘘の情報を流している可能性が消えたわけではないのだが……。
はっきり言って、それを確認するほどの体力・気力が充実していない。
まあ、先程の詳しい状況説明を信じてさっさと終わらせてしまうに限る。
「まあ、ところで」
すっく、とルナが立ち上がる。
「……やれやれ、猛獣は二人で十分なんだが」
かちり、とレンが触れた剣の柄が小さく唸る。
「ちょっと、その二人って誰のことよ?」
「ああ、悪かった。そこで転がってるのを含めて四人だな」
「増やすな! ってかせめて三人でしょ!?」
軽口を叩きながらもカノンもまた、背に負っていた剣鎌をずらり、と引き抜いた。
「ほらあんたたちも! いつまでも寝てないで加勢しなさい!!」
「いでッ!!」
「ひゃんッ!?」
丸太裏に転がして置いた約二名を蹴り起こす。細かい分類はともかく、一応は生物なのだから自分の判断で動いてもらわなければ。
「痛いわねッ! 何するのよ!?」
「何するのよ、じゃないッ! あんたらも一応、剣の修行した有段者でしょ!? 自分の周りの異変にくらい気づきなさいよッ!!」
カノンに怒鳴り散らされて、すっ、とシリアの表情が真顔に戻る。焦げていたアルティオも起き上がって、目を細め、周囲を観察し始める。
静かだった。
いや、静か過ぎたというべきか。鳥の声一つしないのは異常としか言い用がない。
もう一つ。
ここに五人のみが存在すると言うのに―――。
「何よ、あの音……」
シリアから硬い声が漏れる。
ぱきん、ぱきん、と下生えに転がる小枝の割れる音が響く。同時に何かを引き摺るような、ずる、ずる、という水気を伴う不快な怪音。
例えるならスライムが森の中を這って歩いているような。しかし、その音はスライムなんかよりも余程重量のある生き物の歩く音だ。
嫌な予感が胸を掠める。そもそもこの以来の発端は何だったか。思い出せば簡単なこと。
『唐突に発生した合成獣が観光客を襲う。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から』
誰かが溜め息を吐いた。刹那。
「っ、カノンッ!!」
「―――っ!」
レンの声が飛んだ。カノンは瞬時に反応し、横っ飛びにその場を離れる。
ずひゅるッ!!!
「なっ……!!」
アルティオのくぐもった呻き。
辺りに群生する背の低い茂みを形成する木々の合間から、太い触手が一本伸びて今しがたカノンが構えていた空間を貫いていた。
いや、―――
「触手、っていうか蔓ッ!?」
「我求める、途往くは銀の閃光、従えシルフィードッ!!」
カノンの吃驚の声とルナの呪文とが重なった。生まれた光は幾つもの筋へと分散し、そして、
きっぎゃぁぁぁぁあああぁああぁぁッ!!!
耳を劈く雄叫びが鼓膜を揺るがした。彼女の呪文は、周囲の小枝や茂みを薙ぎ払い、視界を確保するためのものだったが、どうやら中の一条が素通りして奴を掠めてしまったらしい。
細木が薙ぎ倒されて露になった茂みの向こう。そこにいたものに、
『―――――ひあッ!!』
生理的嫌悪感に、カノンもルナも、そしてシリアも思わず悲鳴にならない悲鳴を上げた。
「な、何だ、こいつッ!!」
掠れた声でアルティオが双剣を抜く。
―――ご、合成獣とは聞いてたけどさッ!!
頭は不自然に巨大な牛(おそらくはバッファローかミノタウロス辺りだろうが)、上半身は野犬のようにしなやかだが、背中には不自然な角度に曲がった煤けた翼が生えており、尻尾はどうしたことか兎のような短い毛玉がちょろっと付いているだけ。
ここまでは、まあ見ていて不快といえば不快だが、まだいい。
だがしかし、その下というと足というものがなく、付け根の部分からは今しがたカノンを貫こうとした太い植物の蔓が四本うねうねと蠢き、さらにその下は足代わりにスライム状のどろどろしたものが下生えを溶かしながら広がっている。
―――出来れば一生、見なくて良かったこんなもの。
表情を引き攣らせながら、思わず固まった。が、しかし、闘争心は旺盛なのか先程のルナの一撃に怒り狂っているのかびしゅ、と奇怪な音を立てて蔓を伸ばす。
「うわわッ!」
「いやぁぁぁッ!!」
溶解液に塗れた蔓が(溶けないのかと思うが独自進化なのか溶けていない)変則的にうねうねと動き回る。その蔓が太く長いものだから、でたらめに振り回しているように見えても避けなければ当たるわけで。
加えて足場と空間が狭い。相手も不利だろうがこちらも当然不利だ。
当たり前だがスライムの溶解液は金属―――つまりは刀身を溶かす。懐に飛び込めればいいのだが、この状況でははっきり言って無理だ。
―――くっ、蔓が邪魔で近寄れない! こりゃルナとシリア頼みかッ!?
縋る思いで二人の方を盗み見るが、二人も迫り来る蔓のせいで呪文が中断されるらしい。唱えかけては撤退を余儀なくされている。
―――と、なると、やるべきなのは援護ッ!
だんっ、とその場を蹴って二人の方角へと飛ぶ。伸びた蔓が頭の上を掠めて風を感じた。髪の毛の一本くらいは溶かされたかもしれない。
腰に下げたクレイソードを抜く、いくら何でもあんなのと戦って剣鎌[カリオソード]の刃を痛めたくはない。
一度集約し、再び伸びてくる蔓。
「っせいッ!!」
足元に転がっていた小枝を蹴り飛ばす。止められるなどとは思っていない。ただの牽制だ。
案の定、痛みは感じるのが蔓の動きが一瞬だけ止まった。カノンはその隙に、クレイソードを蔓へと突き立てる。
ずしゅッ!!
きぃぃぃあああぁぁっぁぁあああッ!!
聞くに堪えない悲鳴がもう一度上がる。構わず力任せに地面に縫い止める。
―――これで一本。
背後に殺気。
「っとぉッ!?」
転がるようにして背後から迫る別の蔓を避ける。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
転がった背後からシリアの放った青い光弾が飛来する。
とりあえず背後で『ちっ!』だのと舌を打ちやがった奴は後でしばいて置こう、と決意するカノン。光の弾はカノンを襲った自由な蔓の根元へ着弾し、歪んだ音を立てて氷の結晶を生む。
「アルティオ!!」
「よっせぃ!!」
掛け声と共にアルティオが自分を狙う蔓を連れたまま、右往左往に逃げ回る。一瞬、一本目の蔓と二本目の蔓とが重なり合って、
「避けろッ!!」
レンの激が飛んだ。
同時に下がるアルティオとカノンの脇を、
どぉぉぉおおおぉおおぉぉんッ!!!
レンの切り倒した枯れ木が蔓を押し潰す。苦痛の雄叫びが再度上がり、しゅうしゅうと音を立てて枯れ木が溶け始める。
だが、すべて溶かしてから反撃したところで遅いのだ。
剣も、氷の弾も、枯れ木も全ては所詮、援護。
馴れたもので、その詠唱が終わる頃には全員が安全地帯へと退避済みだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
どんッ!!!
赤い閃光が森林を凪いだ。導火線の切っ先は凍りついた蔓の根元を打ち砕き、そのまま合成獣の身体組織そのものを一瞬にして破壊し、打ち砕く。
光の冷めた後には、乾いた生き物の残骸が残るだけ。
だがそれが醸し出す醜悪な匂いに鼻を抑えながらカノンは伏せていた頭を上げ、立ち上がってその残骸の方へ近寄る。
「いやぁん、気持ち悪かったぁッ!」
「どさくさに紛れて抱きつこうとするんじゃない」
「レンッ、お前さっき俺狙って木、倒したろッ! マジ危なかったぞッ!!」
……まあ、背後できゃんきゃん騒いでる野郎らは無視して置くとして。
「合成獣、ねぇ……」
カノンは哀れなその末路の残骸を眺めながら、腕を組み、溜め息と共に首を傾げたのだった。
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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