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DeathPlayerHunterカノン[慟哭の月] EPISODE12
本当の悪魔は、何?
本当の悪魔は、何?
ラーシャ=フィロ=ソルトは悩んでいた。
勿論、昨夜の彼らの衝突についてだ。
彼ら同士の決定の衝突だ。ラーシャに直接の原因はないだろうが、それでも一因はあるだろう。そしてその一因で頭を悩ませている。元来より、律儀な性格なのだ。
「ラーシャ様、あまりお悩みにならない方が」
「ああ、解っている」
肩を並べて高級住宅街を歩く従者に咎められた。
「……あれは彼らの決定で、彼女の決意です。我々がどうこう言えることではありません。
いえ、むしろ下手に否定や肯定することは侮辱にも当たるやも」
ラーシャに比べて、配下のデルタの方が幾分さっぱりしている。ただ割り切るのがラーシャよりほんの少し得意というだけで、けして冷たい人間ではない。むしろ、そういったところに、ラーシャは何度も助けられている。
短い溜め息を一つ、吐く。
「それに、どういうことだ。エイロネイアが、ルナ殿のご級友を誘拐などとは……」
ラーシャは親指の爪を小さく噛んだ。彼女にしてみれば、敵国といえどゼルゼイルの一部であるエイロネイアが、カノンたち他国の民間人を巻き込もうとしていること自体が許せなかった。だから、その友までもを翻弄しようとする彼らが信じ難いのだ。
ゼルゼイルの代表として、かどわかされた彼女を救いに行くべきなのはラーシャたちなのだろう。無論、それも主張した。だが、今の段階でルナと連絡可能なのはラーシャたちしかいなかった。
ラーシャの任務は、エイロネイアの刺客によって、他国の民間人―――カノンたちが傷害を負わないよう保護すること。任務からすれば選択は誤っているのかもしれない。
しかし、ルナに伝えなくてはと思うカノンの願いも、友人が傷つけられることを良しとしないルナの想いも無視できるほど、ラーシャは器用ではなかったのだ。
「ラーシャ様……」
「何も言うな。今は一刻も早くルナ殿に現状を伝える。そして共にカノン殿たちの援護に急ぐ。
それだけだ」
「はい」
シンシアの、いや、ゼルゼイルの騎士として、為さねばならないこと。果さなければならない任務。望んだゼルゼイルの在り方と、人としての矜持。どちらも、というのはやはり欲張りなのだろうか。
自然とラーシャの足並が速まった。
数日で馴れてしまった通りに差し掛かり―――
気がついた。
きな臭い。
郊外の屋敷のために人通りはほぼない。だというのに、向こう側が妙に騒がしいのは何故だ。
「ッ……ラーシャ様ッ!」
「な―――ッ!?」
デルタの鋭い声が飛ぶ。その視線は、高い上空にあった。
同じ視線の先を追い、ラーシャは絶句する。
「あれは……ッ!」
夕暮れの近い、蒼と黄昏のコントラストに、暗い影が下りる。ラーシャたちの爪先の向く方向、ディオル=フランシスの屋敷の周辺から、遠目にも判断できる、小さく舞う火の粉と火花、濃い灰色の煙が立ち昇っていた。
炎が舞っている。
目の前で、踊る。
発された熱が、容赦なく肌と肺を焼いていく。がらがらと崩れているのは、壁か床か、それとも己の自信なのか。
それは夢か、現だったか。
―――熱い……
全身が焼かれるような熱気が、辺りに満ちている。額から垂れた汗が、意識を取り戻した最初の感触だった。
そして、一気に目が覚める。
「―――ッ!!? ぐぅッ、けほッ、がッ……!」
気が付いて息を吸った瞬間、肺の中が焼ける。いつかの、あの炎の館を走り抜けたときのように。
そして、
「ッ! な……ッ!?」
目の前に赤い光が満ちている。いや、光なんてものじゃない。
木とレンガ、それから石が焼けて溶けるじりじりとした快音。ごうごうと耳障りな、暴風のような音。そして皮膚を炙る大量の熱。
絨毯の隅は焦げて灰に溶けていく。壁伝いに、ちろちろと紅い影が、建物を舐めるように立ち上る。ばちばちと、火花が散って、猫足のテーブルが轟音を立てて倒壊した。
向こう側の景色が揺らいでいる。
部屋全体を包み込んでいる、その焔の熱が生む陽炎で。
「こ、これは……ッ!」
動揺の声を漏らしながら、反射的に立ち上がろうとして、
ぐッ……
「ッつ!?」
出来なかった。後ろ髪を引かれて無様に転倒する。
「な……ッ」
振り向いて言葉を失う。
ルナの長い髪が、壁際のチェストに挟まれて固定されているのだ。無理矢理引き抜こうともがいてみるが、妙に深く噛まれている。びくともしない。魔法を使おうとするが、自身の体と近距離過ぎる。もし、外せたとしても、その後、怪我をして動けないのでは意味がない。
気絶するすぐ瞬間の映像を頭の中へフラッシュさせる。
確か、ディオル=フランシスを刺した。足元には彼が倒れていて―――
「ッ!」
そこで気が付いた。部屋中に、異様な、酸い匂いがし始めている。はっ、としてドアの方へ目を向けると、白いスーツを着たうつ伏せの肢体が伸びている。そのスーツには、はっきりと、ナイフ一本分の破けた痕があって、その下の絨毯にはじわり、と赤い体液が滴っている。
「……」
自分の手が肉を破る感触を思い出して、吐き気がした。
唇を噛んで、視線を彷徨わせる。足元にあったはずの、彼の体がどこにもない。
そこになって、ルナは眉を吊り上げる。腹が立った。早計すぎた自分の行動に。ルナが見たのは、散らばった白い髪と上着。ただそれだけなのだ。あれが彼だった、もしくは人間だったと、言い切る自信が今はない。
つまりは、罠。
ルナを利用して、ディオル=フランシスを殺させるための、罠。
―――でも、どうして……ッ!?
どうして、こんな面倒なことをしてまで、わざわざディオル=フランシスを殺させる必要があった?
そして、襲撃者は何故自分を殺していかなかった?
いや、そもそもを言うならば。
彼らにとって、ディオル=フランシスを始末するだけが目的ならば、こんな回りくどい方法は好ましくない。何故わざわざルナという目撃者を作る? 何故わざわざこんな不確かな方法で目撃者を殺す?
それにらしくない。屋敷内全体を虐殺など、あの黒衣の少年が行うか?
クオノリアでの合成獣の暴走、ランカースフィルでの医師の扇動。共に無関係な人間を巻き込んだ。だが、それは合成獣やフェルス医師を通してやってのけた。自身は何も手を出してはいない。こんな後に証拠が残るような、大胆で乱雑な真似はしなかったのだ。
ならば何故―――?
これではまるで……
これでは、まるで。
「ルナさんッ!」
「ルナ殿ッ!?」
「!」
声にはっ、と顔を上げる。
「ラーシャ! デルタッ!」
「ルナさん、今助け……くッ!」
倒壊したドアの向こうに焦燥を顔に貼り付けた女軍官と従者の姿が見える。デルタが必死に結界を保ち、炎から身を守っているようだった。
彼らは部屋の中に踏み込もうとしているが、倒壊したドアに阻まれて近づけない。
炎が回りすぎていて、ちょっとやそっと消したくらいではどうにもならないのだ。
止めを刺すかのように、ドアの近くにあった食器棚が熱に耐えられず、崩れ落ちてがちゃんッ! と中身を巻き散らしながら倒れ、炎上する。
陽炎の向こうにあった二人の顔が、それに阻まれて見えなくなる。
「ルナ殿……ッ!」
「駄目です、ラーシャ様!!」
ルナは歯噛みする。
このままでは、三人共々、炎に撒かれてお陀仏だ。
「ラーシャ! デルタッ! さっさと行ってッ! それでこのことをカノンたちに伝えてッ!!」
「ルナ殿ッ! だが……ッ!」
「あたしなら大丈夫ッ! 壁ぶっ壊してでも自力で脱出するッ! それより早く!!
奴らが何かしでかすつもりかもしれない!! 早く行ってッ!!」
「ルナ殿……ッ!」
激しい逡巡の色。続いてデルタが何かを諭すような小さな声が聞こえる。
土壇場では彼の方が冷静だ。やがて、炎の向こうから男性にしては高い声が響いてきた。
「ルナさんッ! 脱出したら、町の外の洞穴に来て下さいッ! カノンさんたちはそこに……ッ!!」
―――洞穴?
どういうことだ? 何のために、カノンたちは……。
「貴女の旧友―――イリーナ=ツォルベルンさんが奴らに誘拐されました!
それでカノンさんたちを誘い出しに……ッ!」
「ッ! 何ですって……ッ!?」
血が凍る。何故、イリーナが。彼女こそ、何も関係ないではないか。何故……ッ!
問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。だが、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。
天井の梁が、音を上げてがらんッ!と転がる音がした。
「……詳しいお話は後でッ! では、先に行きますッ!!」
「ッ! わかったわ……ッ! 頼んだわよッ!!」
「そちらこそご無事でッ!!」
ばたばたと、廊下をかける二人分の足音がする。それを遠くで聞きながら、ルナは茫然と炎の上がる食器棚の残骸を眺めていた。
何故……?
何故、イリーナが巻き込まれた? 何故、奴らはイリーナを……?
ゆらゆらと、瞳の中で炎が揺らめく。
それはいつかも見た光景。ルナの大嫌いな、すべてを焼き尽くした焔の脅威。そして、最初の思考に辿り着く。
これでは―――
これでは、まるで……、
「………は、ははは…」
空笑いと、こんな状況だというのに、目の奥が熱くなった。俯いた先の絨毯が、かすかに濡れた。
振り払うように、きっ、と視線を上げる。
確かめなければ。
こんなところで死んでいられない。
視線を巡らせたルナの視界に、先ほどディオルを刺したナイフが飛び込んでくる。どこに落としたか記憶はなかったが、ともかく、それが少し離れた場所にある。
「……」
手では届かない。
熱で焼けた絨毯に、足を伸ばす。届くすんでで、くんッ、と髪が引っ張られた。
「ッ! く……ッ!」
足先が震える。下手をすればもっと遠ざけてしまうだろう。
最初にして最後の賭けだ。もう手はありえない。
三センチ、二センチ、一センチ……
引かれる髪の痛みを堪え、必死に足を、身体を伸ばす。歯を食い縛り、走る痛みに耐えながら。
からん、とどこかで音がした。
「ッ!?」
天井を振り仰ぐ。
石埃が、砂が、わずかに振ってきた。天井に下がったタペストリが炎に塗れている。留め金が、熱にぐらりと揺らいだ。
そして、あっけなく。
ルナのちょうど頭上にあったその布切れは。
支えを失って彼女に降りかかった。
「―――ッ!」
声にならない悲鳴が、上がった。
「・・・くッ」
抜き放った剣の鞘を薙ぎ払ったレンは、呻いて利き手とは逆の二の腕を押さえた。剣の鞘の切っ先に胴を打ち付けられた少女は、数歩よろめき、二度跳んで距離を取る。
「レン!」
押さえた二の腕から、僅かに血の雫が垂れている。ナイフの突き立てられるすんでで、背に庇われたカノンが、悲痛な声を出した。
レンは傷口をちらり、と見て滴る血を拭う。
「安心しろ、ただの掠り傷だ」
「ッ!」
「く……ッ!」
シリアとアルティオが彼の両脇を固めるように、横に並ぶ。
レンの肩を押しのけて、カノンは前に出た。真正面に、ナイフを握り締めた少女が一人、項垂れて立っている。暗い洞穴内では、どんな表情を浮かべているのか、にわかには判断できない。
だが、聞きたいことは一つだった。
「あ、あんた、何やってんだッ!?」
カノンの第一声を、アルティオが代弁する。言葉を叩きつけられた彼女は、面を上げた。
「ッ!?」
全員の表情が戸惑いに歪む。
顔を上げた少女の瞳から、うっすらと、光る筋が流れていた。くしゃり、と歪んだ表情が、潤んだ瞳が懇願するように訴える。
「貴方たちのせいで……ッ! 貴方の、せいで……ッ!」
「……?」
「返して。私の、私の……私の大好きなルナちゃんと先輩を返してッッッ!!!」
「な……ッ!?」
少女の悲鳴に近い叫び声が、洞穴内に響いて木霊する。溢れ返る涙はそのままに、ローブが濡れていくのにも構わず。
「ちょ、どういうことよッ!? 私たちが何をしたって言うのかしらッ!?」
「とぼけないでッ! 私、見たんだもの。貴方たちと一緒にいたあの女の人。あの人! あの人、シンシアとかいう戦争屋なんでしょうッ!?」
レンの脳裏に、つい先日、この少女と目撃した光景が蘇った。
「……あの人が、貴方たちが、ルナちゃんを、先輩を騙してるって……!
シンシアが、ルナちゃんを利用して、先輩を、先輩を自分の国の駒にする気だって……ッ!
貴方たちも、その仲間だって、貴方たちがいるからルナちゃんは裏切れないってッッッ!!!」
「なん、ですって……?」
涙を流したまま少女は絶叫する。それを受け止めるカノンの方が、頭を混乱させていた。
騙している? 誰が? 自分たちが、ルナやあの魔道技師を? 一体、どういうことだ?
「そんな出鱈目、誰が……ッ!」
「出鱈目なんかじゃないッ! "あの人"が、"あの方"が教えてくれたもの! そうじゃないと納得できないッ! じゃなきゃあ、ルナちゃんが、ルナちゃんが先輩にあんなことするはずがないッ!!
先輩と、ルナちゃんの関係を利用して、味方につけて、戦争なんかに放り込む気なんだって!
自分たちの代わりにッ!!
返してッ! 私の、私の知ってるルナちゃんと先輩を、私のことを大好きでいてくれる二人をッ、私に優しくしてくれる二人を返してよぅッ!!」
「……ッ!」
レンは絶句する。
まただ。また"あの人"、"あの方"。
そう呼ばれる一人の少年の姿が頭を過ぎる。茫然とする三人とは対照的に、激しい後悔が、やるせなさが、レンの中を渦巻いていた。
あれは前戯だったのだ。あのとき、あの影に足止めをし、継いで現れた少女をまんまと足止めさせてしまい、ルナとラーシャ、二人の姿を目撃させた。
あれもまた、少女にこの刷り込みをさせる前戯だったのだ。
少女の激昂具合から、まさかあれだけで出鱈目を吹き込まれたのではないだろう。昨夜のうちに、一晩のうちに何かがあったのだ。何かが。
「待ちなさいッ! あたしたちは別に、あいつらと手を組んだりはしてないし、ルナを騙してもいないわッ!!」
「嘘ッ! そうじゃなきゃ納得できないッ! 絶対に信じないッ!!」
「ッ! あのねぇ……!」
「貴方たちが死ねば、先輩はずっと私のところにいてくれる。戦争なんかにいかないし、私のところに帰って来てくれる……! ルナちゃんだって……! 許せないけど、許せないけど……!
そう、許せないけど……ッ!!
でもでもでもッ! 貴方たちはもっと許せないッッッ!!!」
「……ッ!」
叫び、涙に濡れた瞳は、もう正気を宿してはいなかった。呻き、唇を噛む。
駄目だ。たぶん、彼女の耳に、自分たちの声は届かない。一体なんだ? 何が、彼女をここまで駆り立てる? 一晩のうちに、一体何が……ッ!?
落ち着け、落ち着け。彼女と戦ってはいけない。断じていけないのだ。彼女は騙されているだけだ。
何か、説得の方法を考えろ……!
「……ナイフ一本で、あたしたちを皆殺しに出来るつもりなの?」
「……しなきゃいけないんです。私が、私が先輩を助けなきゃ……。私が、先輩を救ってあげなきゃ。
私だけなんだもの、先輩を、助けてあげられるのは……」
きんッ!
小さな音がした。
同時に少女の足元に、淡い光を放つ魔方陣が広がる。
このときになって、全員が得物を抜いた。
「……我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア」
少女の前に、赤い光が何条か浮かび上がる。そしてそれは加速しながらカノン達へ襲い掛かった。
無論、そんなものには誰も当たらない。
横っ飛びに交わしたカノンは、そのまま少女に向かって走る。せめて峰打ちでもして止めなければ。もうどうしようもない。
イリーナが次の印を切るより先に、カノンが懐に飛び込んだ。
向けられたナイフの切っ先に、足を振るって叩き落す。はたかれたイリーナの顔が苦痛に歪んだ。
唇を噛んだイリーナが、その手を捻り上げようとするカノンに、懐から出した何か鏡のようなものを向ける。瞬間、その至近距離に火花が散った。
「ッ!」
慌てて距離を取る。
浮かんだ火花は、四散してカノンが飛び退る前の空間に被弾する。
魔法具だ。何度かお目にかかったことがある。事前に呪を込めておくことで発動させることが出来る、そんなものだろう。
忘れていた。ルナやカシスに劣っても、彼女も、名門『月の館』で学んだ優秀な魔道師なのだ。
やりにくい。すべてにおいて、やりにくい。
「カノンさん。貴女に初めてあったときは、ちょっとだけ驚いた。でも優しい人だな、って思った。
本当にルナちゃんのことを考えてくれてるんだな、って思った。
でも、でもッ! もう信じられないのッ! 貴方のことも、ルナちゃんのこともッ!!
もう信じられないッ!!」
「ッ!」
目の前に印が描かれる。光の線が、宙に舞い、形を作る。
カノンは舌打ちをして一歩引く。彼女を倒すのなんて簡単だ。『館』で修練は積んでいるといっても、彼女には圧倒的に経験が足りていない。けれど、
周りの、シリアやアルティオが剣の切っ先を向けながらも、迷いに満ちているのは同じ理由からだろう。
レンは静かに、周囲へ殺気を放っている。
確かにおかしいのだ。すぐに昏倒させられるような彼女を、あの周到な黒幕の少年が、一人でこんな包囲網の中に置いていくだけなんて。
カノンは目の前で光る印に構えを取る。
イリーナが、その呪を発動させるための、最後のセンテンスを口にしようと口を、開いた。
ばしゅんッ!!
「ッ!!」
「……?」
その一瞬に、宙に線を描いていた光の陣が掻き消えた。解除魔法だ。狂気に触れた少女の陣を掻き消した魔法は、天上から降って来た。
「る……ルナッ!?」
「………」
天上の、ぽっかりと穴が開けられた空の空間。その淵に、中を覗くようにして、黄昏を背にしながら彼女が立っていた。
おそらくは、飛行魔法で限界まで速度を上げて飛んで来たのだろう。息は上がって、遠目にも肩が上下しているのがわかる。服はところどころ破け、どうしたことか端々が焦げて煤けていた。
彼女は眉間に皺を寄せて天井の縁を蹴る。
そうしてカノンを背にしてイリーナとの中間地点に降り立った。
直に背を向けられたから、カノンはそれに気が付いた。
「る、ルナ……ッ? あんた、その髪……?」
「……」
腰に届かんとしていた彼女の美しいブラウンの髪が、煤けて、無残な長さになっていた。肩よりも短い長さで、記憶にある長い髪が切断されていた。
彼女は無言だった。それを問うのを拒絶するように。
ルナは周囲を伺う。ラーシャたちがいない。何かの妨害にあっているのか、それとも単に飛行魔法を全開にして飛んで来た自分が追い抜いてしまったのか。
それはともかく、一体これはどういうことだ。
何故、イリーナが、カノンに向けて攻撃印などを開いていた? 何故、攫われたはずの彼女と、それを助けに来たはずの彼らが対峙しているのだ。
「イリーナ……、何のつもり……?」
「ルナちゃん……? どうして? どうして、その人たちを庇うの?」
「……庇ってるわけじゃないわ。何で、こんなことになってるかを聞いてるの」
ルナの口調が静かに怒る。語尾には有無を言わせぬ強さが感じ取れた。
「私たちがあんたを騙して、あの魔道技師の男をシンシアに引き込もうとしてるとかどうとか……ッ! そういうほら話を吹き込まれてるのよ、このお嬢ちゃんはッ!」
苛立ったシリアの声が、イリーナの代わりに答えた。ルナが眉間に皺を寄せる。
解らないのだ。どうして、何故彼女が、そんな話を誰にされて、何故信じてしまったのか。
「イリーナ……あんた、何でそんな嘘……」
「嘘?」
きょとん、と。まるで、解らなかった問題を、教わるときのように、イリーナは小首を傾げる。
「うそ、なの?」
「当たり前でしょう!? 何でカノンたちがあたしを騙さなきゃいけないのッ!? 何でカシスをシンシアに、ゼルゼイルなんかに引き渡さなきゃいけないのよッ!?」
昔、よくそうしたように怒鳴りつける。イリーナは決まってその怒鳴り声に耳を抑えて泣きそうになりながら、子供のように俯くのだ。でも、今の彼女はそうしようとはしなかった。代わりに、くすり、と小さく笑ったのだ。
「嘘だよ。そんなはず、ないよ」
「何の根拠があって……ッ」
「……そうじゃなきゃ、納得、出来ないもの」
怒りに肩を震わせるルナを、イリーナは歪めた表情で見る。ひどく乾いた、ひどく哀しい表情だった。涙は、いつのまにか引いていた。
「じゃあ、ルナちゃん。説明出来るよね?
ルナちゃん、昨日の晩、どこで、何をしていたの?」
「―――ッ!?」
虚をつかれた。その一言だけで、胸が抉られる。
鼻と口とを片手で押さえつけ、ふらりと後方に傾く。慌てたカノンがそれを支えた。
顔は真っ青だった。
「自分の宿? 違うよね? カノンさんたちと一緒じゃなかったよね?
じゃあ、どこ?」
「ッ! それは……ッ!!」
言い澱むことなく、適当な嘘は吐けたかもしれない。しかし、少女の乾いた笑いは、幾重にも付いた涙の痕は、その嘘が到底通用するものではないのだ、と如実に語っていた。
乾いた表情を変えることなく、棒立ちのまま、イリーナはさらに問う。
「……いいよ。知ってるから」
「…ッ」
「ルナちゃん、先輩の部屋にいたもんね。仲、良さそうだったね。私、部屋まで行ったから知ってるよ」
「イリー……ナ………」
苦しげな声で、ルナは彼女の名を口にする。にこり、とイリーナの顔に不自然な笑顔が浮かんだ。面だけは可愛らしく、しかしその実、まったく笑えていない。
「・・・何で?」
「……」
「何で、あんなことしてたの?」
ルナは答えない。答えられるはずもない。背徳感だけが、胸の内を貪り喰らう。
青い顔をさらに歪めるルナに、カノンが眉を潜める。
「ルナちゃん、言ったよね? ルナちゃんは私の味方だって。私が先輩を好きなの応援してくれるって。ルナちゃんは何も思って無いからって。ずっと友達だからって。友達だから……勧めはしないけど、応援はしてくれる、って言ったよね」
「……」
ルナは無言だった。好きで無言なのではない。何も答える術を持っていなかったからだ。
自分で決めた道で行き詰まって、昔の仲間に信じてもらえなくて、さらに衝動的に仲間に言ってはいけない言葉を吐いて。そのあまりの惨めさに、昨日の晩、彼に縋った。縋られる人間であろうとしたのに、縋り付いて泣いた。
……それが、すべてを露呈させて、信じ難い嘘を、この親友だと語った少女に信じさせてしまった。
乾いた笑顔で、彼女は口にする。それは、真円の月を砕く、最後の言葉。
「嘘吐き」
「―――ッ!」
それは絶対的な氷の温度を持って、彼女の胸中を抉り取った。彼女の表情が、苦しげに歪む。
何も口に出来ない自分が、酷く情けなかった。
がくん、と彼女の体から力が失せた。
カノンは、自分の腕に支えられながら、今にも崩れ落ちそうな表情の親友を見下ろした。数日で少しだけ痩せてしまった頬と、よく見ればうっすらと隈の出来ている目。
眉を吊り上げて、唇を噛む。目の前の少女に対してでも、黒衣の少年に対してでもない。
彼女が、こんなになってしまうまでに、自分は一体、何をしていたんだろうと。
逆に彼女を追い詰めていただけじゃないか。
彼女たちの間に何があったのか―――シリアによれば、自分は大分鈍感な方に入るらしい。でも、それを推測できないほど鈍くはないつもりだった。
悔しい。その間にいる張本人を今、ここに引きずり出せれば良かったのに。
ぎり―――ッ、と奥歯を噛み締める。そして、今だ不自然な笑いを浮かべ続ける少女を睨みつけた。
「……それで? あんたはあたしたちをボコって、それでその先輩が振り返ってくれればそれで満足なわけ………?」
「……だって、貴方たちが倒れれば先輩はそんな怖い世界にいかなくて済むでしょう?
私と、ずっと一緒に平和なところにいてくれるはずです。だから―――先輩を助けられるのは私だけ。
………ルナちゃん」
ぽつり、と呟かれた少女の声に、びくりとルナの肩が震えた。
「ルナちゃんのこと。許せないけど。とっても許せないけど。
でも、その人たちを殺せたら、特別に許してあげる」
「……ッ!」
「それで、一緒に戻ろう? 昔に戻ろうよ。そうしたら、ルナちゃんもまた優しくしてくれるよね?」
爪が白くなるほど、ルナは拳を握り締める。できるわけがない。まだニード=フレイマーの組織に属していた頃、彼女たちと敵対していた頃。その時でさえ、カノンたちを殺すことなど出来なかった。
それなのに、今さらまた彼女たちを殺せというのか。許しを請うために。その言葉はそれ以上ないほど深く、彼女を抉り、切り裂いた。
カノンは悟る。ルナにはまだ、半年前の罪の意識がある。だからこそ、必死で誰も巻き込まないように一人で全部背負ってしまおうとしたのだ。
もう誰にも、カノンにさえ、自分のことで迷惑をかけたくないから。
カノンは今度こそきっ、とイリーナを正面から睨んだ。
「イリーナ……やめ」
「ふざけんじゃないわよッ!!」
ルナの力のない諫めの言葉を遮って、カノンの声が激を持って飛ぶ。
「カノン……?」
ルナが茫然と立ち上がった彼女の名を呼んだ。カノンは無言で、手にしていたクレイソードを振るう。石と擦れ合った刃が、きんッと澄んだ音を立てる。
「あんたがしたいことって何……? 先輩を助ける……? 昔に戻ろう……?
ふざけたこと言わないでッ!! あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!! それで人一人救うなんて傲慢、ほざくんじゃないわッ!!
そんな自分勝手な想いで人が救えてたら、世界中、哀しい人間なんて誰一人いないのよッ!!」
怒りと共に、カノンは目の前の少女に言葉を叩きつける。レンの目が細められる。小さく頷いた。その想いと汚れざるを得なかった手の意味を、誰よりも近くで見て来たから。
ちらりと、ルナと視線が合った。涙を溜めた目に、らしくないと笑いながら、小さく応えた。
「ごめん、ルナ」
「……」
「……あたしも、たぶん同じだった。
そりゃあ……あんたを、戦争なんかに行かせたくないのは本当だけど……。そんな場所に、行かせちゃいけないとは、今も思うけど……。
あたしにとって平和だと想う世界と、あんたが造りたい世界は……きっと、違うのよね。
あたしも、あたしのあって欲しい世界をあんたに押し付けた。……それで、たぶん、すごい傷つけた」
「カノン……、あんた……」
「ホントにさ……。あたし、いっつも、レンやあんたに甘えてるから……。……そんなふうに思われて………当然ね。
本当に大事なら……本当にあんたのこと考えるなら、違う仲間がいるからとか、魔道師と剣士じゃ違うからとか―――そんなんじゃなくて、何発かぶん殴ってでも本当のこと、聞き出してやるべきだった。そうしたら、戦争に行こうなんて考えるまで、あんたを追い詰めたりしなかったかもしれない。
…………ごめん」
「……ッ」
振るった刃を持ち上げる。一歩、踏み込むとイリーナは気圧されたように後退った。
「ルナにあたしたちを殺させて……、それで本当に昔に戻れると思ってるの……?」
「―――ッ!」
押し殺した声で、カノンが問う。初めて、イリーナの表情に動揺が走った。
だが、それは一瞬のことで、歯を食い縛った彼女はさらに空に印を切る。
「あんたが否定したい気持ちは……解るような気はする。きっと、ルナだって悪いところはいっぱいあったんだろうと思う。
……でも、だからって何の話もしないうちに、自分の空想で友達傷つけてんじゃないわよッ!!」
「うるさい……ッ! そんなの嘘、貴女たちを殺せば、殺したら……先輩も、ルナちゃんも、私のところに帰って来てくれる……! 元の二人に、私に優しい二人になってくれる……ッ!!
夢なんかじゃない……ッ、だから……だから、邪魔しないでッッッ!!!」
「―――解ったわ……」
カノンが剣を正眼に構える。吊り上げた碧眼が、涙の筋を描くイリーナの榛色の瞳を真正面から射抜いた。そして宣言する。
「そこまで言うなら―――
……あたしがあんたの目を覚まさしてあげるッ! 土下座してごめんなさい、って言えるまであたしが直々にぶん殴ってあげるわよッ!!」
じゃきん! と手にした剣が、澄んだ音を立てる。何よりもまっすぐな、力ある言葉と共に。
「ルナ、貴女は下がってなさい」
「シリア……?」
カツッ、とヒールを鳴らしてカノンの脇に並んだのは、同じく剣を抜いた魔道剣士の女。
薄く笑みを讃えながら、しかし、瞳の奥はやりきれない怒りを滲ませて。
「私ね、根性のない女の子は嫌いなの。恋愛なんてものは、根性がなきゃ出来ないものよ。
他人を好きになったなら、それが誰のものでも、まずその相手以上に自分を磨く。
それが出来なくて、ただ駄々を捏ねるだけの人間に、愛だの恋だの、説く資格はないわ」
「あんたの場合、根性より耐久力と人の話に耳を貸すスキルの方が必要だと思うけどね。そうすれば、もっといい女になれるんじゃない?」
「あら? 私は地上の誰よりもいい女になるまで自分を磨いた、って自信を常に持ってるわよ?
ねーぇ、レーンv」
「知らん」
一言で切り捨てたレンは、一つだけ溜め息を吐いて剣を抜く。隣では、双剣を抜いたアルティオが笑いながら首を振っていた。
「まあなぁ、女の子相手に喧嘩するってのは俺の主義に反するんだが。
女の子が泣いてるシーンを見逃すわけにゃあ、いかねぇしな。これまで俺だって数々の女の子を泣かしてきた身だし」
「戯言はそれで十分か?」
「……戯言って、レン君そりゃあねぇだろー?」
涙目になっているアルティオに小さく呆れ、カノンは今一度正面を見る。
「さあ、一度に四人を相手に出来る器が、果たしてあんたにあるかしらね……ッ?」
「……」
挑発とも警告とも取れるカノンの台詞に、イリーナはしかし、暗い瞳を変えずに、静かに印の上に手を置いた。
その手には、先ほどの手鏡が握られていた。
ルナがはっ、と息を飲む。
「私が、皆さんに敵うなんて……最初から思っていません。
でも、でもそのための力を、あの人は……あの方は、私にくれた」
「イリーナ、それは……ッ」
詰まった声でルナが何事か言いかける。だが、その言葉を遮るように彼女は言う。
「覚悟、してください」
「イリーナッ! やめなさいッ、それは、それじゃああんたが……ッ!!」
「ルナッ?」
堰を切った叫びが彼女の口から漏れる。だが、その言葉はもう、親友の耳には届かない。
彼女の描いた印が、音を立てて広がる。
「イリーナッ!!」
「……来よ、ベルフェゴール」
空間が軋み、膨大な闇が渦巻いた。
轟いた雄叫びに、思わず閉じた目を開ける。眼前に広がったのは、闇色の壁。暗い岩肌。
……いや、
「な……ッ!」
「これは……ッ」
ぎぃいしゃぁあああぁぁあぁッ!!
広がるのは暗い色をした二対の翼。羽という言葉は似つかわしくない、深い漆黒の色をした、鉤爪の悪魔の翼。
三メートル余りの身長。その肌はごつごつとした黒い岩。牛のような太い尾を揺らし、頭には二本の捻れた角を生やし、ずるりとした顎鬚を下げている。細い赤い瞳に光はなく、意志が測れない。
大仰な翼と体躯。その悪魔の足元で印を描くイリーナは、魔力消耗が激しいのか、肩で息を吐いている。
元・違法者狩りの身として、人が造りだした面妖な、現存するはずのない生き物は数多く見て来た。
しかし、それはそのカノンの記憶の中でも群を抜いた。
ふらつきながら立ち上がったルナが、茫然とそれを眺めていた。
「イリーナ……」
「ルナ……、あれは……?」
「……」
悔やむような表情を浮かべる。その顔が、あれもまた、『月の館』で製造された危険指定物なのだということを物語っていた。掌に立てた爪が白くなるまで、ルナは拳を握り締めた。
一度、口を開きかけて躊躇する。しかし、振り切るように首を振ると、カノンと同じように、干満ではあったがゆらり、と構えを取った。
「―――悪魔召還ベルフェゴール……。
本当は悪魔じゃないんだけどね……あれは創造された魔物。魔族や悪魔というよりは、合成獣に近いんだけど―――。
能力値的には最上級。ちょっとした悪魔くらいなら、平気で潰せる程度の能力を持っている……」
「ご、合成獣って言ったって……じゃあ、まんま悪魔じゃねぇかよッ!? 何であんなもん作って……」
「『月の館』の黒歴史よ。以前、クロード=サングリットのように暴走しかけた研究グループがあってね……。特定の魔道具に魔物を封印しておくことで、召還能力の特化していない魔道師でも悪魔級の魔物を呼び出せるように、ってね。
けれど、使い方を間違えたら兵器にしかなり得ない。そんなものを世の中に出すわけにいかないわ。あたしたちは、奴らが生成したあの魔物共々、凍結化して封印して、魔道具を破壊した………はずなのに」
「『ヴォルケーノ』のときと同じ、ってわけね……」
「―――くッ!」
突き出した右手の指で、ルナは拘束で印を解く。
「止めないと……でないと、あの娘が……」
「ルナ?」
「あれは、あの娘の魔力許容量で扱えるような代物じゃない……ッ! すぐに限界値を越えるッ、そうしたら―――ッ!」
その先は、数多の魔道師を相手にしてきたカノンにも理解できた。
魔力というものは、脳でその存在を受け止め、思考とイメージを描くことで具現する。魔力許容量を越えた魔道の使用、それが招くのは肉体と脳への過度な負担。
下手をすれば、何らかの障害を負う可能性もある。
数瞬、考えてカノンはクレイソードを剣鎌[カリオソード]へ持ち替えて、構えを直す。
「……ルナ。あれの封印方法は解るの?」
「……呪文だけは。でも、あのときはいろいろと魔道具やら人の手やら借りてたから―――。
正直、自信は、ない」
「……そう」
一抹の望みを抱いて聞いてみたが、返ってきたのは力のない答えだった。
「どうにせよ、あれを止めなくてはならんのだろう」
破魔聖を抜き放ったレンが、構えながら吐く。シリアとアルティオも、その構えに続いた。
「なら、止めるだけだ。避けては通れまい」
「……そうね。なら―――ッ!」
剣鎌[カリオソード]を持ち直す。三度、イリーナの、肩で息を吐いたままの彼女に向き直る。
苦しげに息を吐きながら、彼女はなお、暗い瞳でこちらを睨んでいた。その暗い瞳に、傍らで印を切るルナの表情が曇る。
カノンは歯を食い縛る。無駄なことは考えない。今は、あれを全力で止めなくてはならないのだ。
「行ってッ! ベルフェゴールッ!!」
しゃぎゃぁあぁああぁああああああぁあぁああッ!!!
洞穴内に、再度、悪魔の雄叫びが轟き渡った。
←11へ
勿論、昨夜の彼らの衝突についてだ。
彼ら同士の決定の衝突だ。ラーシャに直接の原因はないだろうが、それでも一因はあるだろう。そしてその一因で頭を悩ませている。元来より、律儀な性格なのだ。
「ラーシャ様、あまりお悩みにならない方が」
「ああ、解っている」
肩を並べて高級住宅街を歩く従者に咎められた。
「……あれは彼らの決定で、彼女の決意です。我々がどうこう言えることではありません。
いえ、むしろ下手に否定や肯定することは侮辱にも当たるやも」
ラーシャに比べて、配下のデルタの方が幾分さっぱりしている。ただ割り切るのがラーシャよりほんの少し得意というだけで、けして冷たい人間ではない。むしろ、そういったところに、ラーシャは何度も助けられている。
短い溜め息を一つ、吐く。
「それに、どういうことだ。エイロネイアが、ルナ殿のご級友を誘拐などとは……」
ラーシャは親指の爪を小さく噛んだ。彼女にしてみれば、敵国といえどゼルゼイルの一部であるエイロネイアが、カノンたち他国の民間人を巻き込もうとしていること自体が許せなかった。だから、その友までもを翻弄しようとする彼らが信じ難いのだ。
ゼルゼイルの代表として、かどわかされた彼女を救いに行くべきなのはラーシャたちなのだろう。無論、それも主張した。だが、今の段階でルナと連絡可能なのはラーシャたちしかいなかった。
ラーシャの任務は、エイロネイアの刺客によって、他国の民間人―――カノンたちが傷害を負わないよう保護すること。任務からすれば選択は誤っているのかもしれない。
しかし、ルナに伝えなくてはと思うカノンの願いも、友人が傷つけられることを良しとしないルナの想いも無視できるほど、ラーシャは器用ではなかったのだ。
「ラーシャ様……」
「何も言うな。今は一刻も早くルナ殿に現状を伝える。そして共にカノン殿たちの援護に急ぐ。
それだけだ」
「はい」
シンシアの、いや、ゼルゼイルの騎士として、為さねばならないこと。果さなければならない任務。望んだゼルゼイルの在り方と、人としての矜持。どちらも、というのはやはり欲張りなのだろうか。
自然とラーシャの足並が速まった。
数日で馴れてしまった通りに差し掛かり―――
気がついた。
きな臭い。
郊外の屋敷のために人通りはほぼない。だというのに、向こう側が妙に騒がしいのは何故だ。
「ッ……ラーシャ様ッ!」
「な―――ッ!?」
デルタの鋭い声が飛ぶ。その視線は、高い上空にあった。
同じ視線の先を追い、ラーシャは絶句する。
「あれは……ッ!」
夕暮れの近い、蒼と黄昏のコントラストに、暗い影が下りる。ラーシャたちの爪先の向く方向、ディオル=フランシスの屋敷の周辺から、遠目にも判断できる、小さく舞う火の粉と火花、濃い灰色の煙が立ち昇っていた。
炎が舞っている。
目の前で、踊る。
発された熱が、容赦なく肌と肺を焼いていく。がらがらと崩れているのは、壁か床か、それとも己の自信なのか。
それは夢か、現だったか。
―――熱い……
全身が焼かれるような熱気が、辺りに満ちている。額から垂れた汗が、意識を取り戻した最初の感触だった。
そして、一気に目が覚める。
「―――ッ!!? ぐぅッ、けほッ、がッ……!」
気が付いて息を吸った瞬間、肺の中が焼ける。いつかの、あの炎の館を走り抜けたときのように。
そして、
「ッ! な……ッ!?」
目の前に赤い光が満ちている。いや、光なんてものじゃない。
木とレンガ、それから石が焼けて溶けるじりじりとした快音。ごうごうと耳障りな、暴風のような音。そして皮膚を炙る大量の熱。
絨毯の隅は焦げて灰に溶けていく。壁伝いに、ちろちろと紅い影が、建物を舐めるように立ち上る。ばちばちと、火花が散って、猫足のテーブルが轟音を立てて倒壊した。
向こう側の景色が揺らいでいる。
部屋全体を包み込んでいる、その焔の熱が生む陽炎で。
「こ、これは……ッ!」
動揺の声を漏らしながら、反射的に立ち上がろうとして、
ぐッ……
「ッつ!?」
出来なかった。後ろ髪を引かれて無様に転倒する。
「な……ッ」
振り向いて言葉を失う。
ルナの長い髪が、壁際のチェストに挟まれて固定されているのだ。無理矢理引き抜こうともがいてみるが、妙に深く噛まれている。びくともしない。魔法を使おうとするが、自身の体と近距離過ぎる。もし、外せたとしても、その後、怪我をして動けないのでは意味がない。
気絶するすぐ瞬間の映像を頭の中へフラッシュさせる。
確か、ディオル=フランシスを刺した。足元には彼が倒れていて―――
「ッ!」
そこで気が付いた。部屋中に、異様な、酸い匂いがし始めている。はっ、としてドアの方へ目を向けると、白いスーツを着たうつ伏せの肢体が伸びている。そのスーツには、はっきりと、ナイフ一本分の破けた痕があって、その下の絨毯にはじわり、と赤い体液が滴っている。
「……」
自分の手が肉を破る感触を思い出して、吐き気がした。
唇を噛んで、視線を彷徨わせる。足元にあったはずの、彼の体がどこにもない。
そこになって、ルナは眉を吊り上げる。腹が立った。早計すぎた自分の行動に。ルナが見たのは、散らばった白い髪と上着。ただそれだけなのだ。あれが彼だった、もしくは人間だったと、言い切る自信が今はない。
つまりは、罠。
ルナを利用して、ディオル=フランシスを殺させるための、罠。
―――でも、どうして……ッ!?
どうして、こんな面倒なことをしてまで、わざわざディオル=フランシスを殺させる必要があった?
そして、襲撃者は何故自分を殺していかなかった?
いや、そもそもを言うならば。
彼らにとって、ディオル=フランシスを始末するだけが目的ならば、こんな回りくどい方法は好ましくない。何故わざわざルナという目撃者を作る? 何故わざわざこんな不確かな方法で目撃者を殺す?
それにらしくない。屋敷内全体を虐殺など、あの黒衣の少年が行うか?
クオノリアでの合成獣の暴走、ランカースフィルでの医師の扇動。共に無関係な人間を巻き込んだ。だが、それは合成獣やフェルス医師を通してやってのけた。自身は何も手を出してはいない。こんな後に証拠が残るような、大胆で乱雑な真似はしなかったのだ。
ならば何故―――?
これではまるで……
これでは、まるで。
「ルナさんッ!」
「ルナ殿ッ!?」
「!」
声にはっ、と顔を上げる。
「ラーシャ! デルタッ!」
「ルナさん、今助け……くッ!」
倒壊したドアの向こうに焦燥を顔に貼り付けた女軍官と従者の姿が見える。デルタが必死に結界を保ち、炎から身を守っているようだった。
彼らは部屋の中に踏み込もうとしているが、倒壊したドアに阻まれて近づけない。
炎が回りすぎていて、ちょっとやそっと消したくらいではどうにもならないのだ。
止めを刺すかのように、ドアの近くにあった食器棚が熱に耐えられず、崩れ落ちてがちゃんッ! と中身を巻き散らしながら倒れ、炎上する。
陽炎の向こうにあった二人の顔が、それに阻まれて見えなくなる。
「ルナ殿……ッ!」
「駄目です、ラーシャ様!!」
ルナは歯噛みする。
このままでは、三人共々、炎に撒かれてお陀仏だ。
「ラーシャ! デルタッ! さっさと行ってッ! それでこのことをカノンたちに伝えてッ!!」
「ルナ殿ッ! だが……ッ!」
「あたしなら大丈夫ッ! 壁ぶっ壊してでも自力で脱出するッ! それより早く!!
奴らが何かしでかすつもりかもしれない!! 早く行ってッ!!」
「ルナ殿……ッ!」
激しい逡巡の色。続いてデルタが何かを諭すような小さな声が聞こえる。
土壇場では彼の方が冷静だ。やがて、炎の向こうから男性にしては高い声が響いてきた。
「ルナさんッ! 脱出したら、町の外の洞穴に来て下さいッ! カノンさんたちはそこに……ッ!!」
―――洞穴?
どういうことだ? 何のために、カノンたちは……。
「貴女の旧友―――イリーナ=ツォルベルンさんが奴らに誘拐されました!
それでカノンさんたちを誘い出しに……ッ!」
「ッ! 何ですって……ッ!?」
血が凍る。何故、イリーナが。彼女こそ、何も関係ないではないか。何故……ッ!
問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。だが、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。
天井の梁が、音を上げてがらんッ!と転がる音がした。
「……詳しいお話は後でッ! では、先に行きますッ!!」
「ッ! わかったわ……ッ! 頼んだわよッ!!」
「そちらこそご無事でッ!!」
ばたばたと、廊下をかける二人分の足音がする。それを遠くで聞きながら、ルナは茫然と炎の上がる食器棚の残骸を眺めていた。
何故……?
何故、イリーナが巻き込まれた? 何故、奴らはイリーナを……?
ゆらゆらと、瞳の中で炎が揺らめく。
それはいつかも見た光景。ルナの大嫌いな、すべてを焼き尽くした焔の脅威。そして、最初の思考に辿り着く。
これでは―――
これでは、まるで……、
「………は、ははは…」
空笑いと、こんな状況だというのに、目の奥が熱くなった。俯いた先の絨毯が、かすかに濡れた。
振り払うように、きっ、と視線を上げる。
確かめなければ。
こんなところで死んでいられない。
視線を巡らせたルナの視界に、先ほどディオルを刺したナイフが飛び込んでくる。どこに落としたか記憶はなかったが、ともかく、それが少し離れた場所にある。
「……」
手では届かない。
熱で焼けた絨毯に、足を伸ばす。届くすんでで、くんッ、と髪が引っ張られた。
「ッ! く……ッ!」
足先が震える。下手をすればもっと遠ざけてしまうだろう。
最初にして最後の賭けだ。もう手はありえない。
三センチ、二センチ、一センチ……
引かれる髪の痛みを堪え、必死に足を、身体を伸ばす。歯を食い縛り、走る痛みに耐えながら。
からん、とどこかで音がした。
「ッ!?」
天井を振り仰ぐ。
石埃が、砂が、わずかに振ってきた。天井に下がったタペストリが炎に塗れている。留め金が、熱にぐらりと揺らいだ。
そして、あっけなく。
ルナのちょうど頭上にあったその布切れは。
支えを失って彼女に降りかかった。
「―――ッ!」
声にならない悲鳴が、上がった。
「・・・くッ」
抜き放った剣の鞘を薙ぎ払ったレンは、呻いて利き手とは逆の二の腕を押さえた。剣の鞘の切っ先に胴を打ち付けられた少女は、数歩よろめき、二度跳んで距離を取る。
「レン!」
押さえた二の腕から、僅かに血の雫が垂れている。ナイフの突き立てられるすんでで、背に庇われたカノンが、悲痛な声を出した。
レンは傷口をちらり、と見て滴る血を拭う。
「安心しろ、ただの掠り傷だ」
「ッ!」
「く……ッ!」
シリアとアルティオが彼の両脇を固めるように、横に並ぶ。
レンの肩を押しのけて、カノンは前に出た。真正面に、ナイフを握り締めた少女が一人、項垂れて立っている。暗い洞穴内では、どんな表情を浮かべているのか、にわかには判断できない。
だが、聞きたいことは一つだった。
「あ、あんた、何やってんだッ!?」
カノンの第一声を、アルティオが代弁する。言葉を叩きつけられた彼女は、面を上げた。
「ッ!?」
全員の表情が戸惑いに歪む。
顔を上げた少女の瞳から、うっすらと、光る筋が流れていた。くしゃり、と歪んだ表情が、潤んだ瞳が懇願するように訴える。
「貴方たちのせいで……ッ! 貴方の、せいで……ッ!」
「……?」
「返して。私の、私の……私の大好きなルナちゃんと先輩を返してッッッ!!!」
「な……ッ!?」
少女の悲鳴に近い叫び声が、洞穴内に響いて木霊する。溢れ返る涙はそのままに、ローブが濡れていくのにも構わず。
「ちょ、どういうことよッ!? 私たちが何をしたって言うのかしらッ!?」
「とぼけないでッ! 私、見たんだもの。貴方たちと一緒にいたあの女の人。あの人! あの人、シンシアとかいう戦争屋なんでしょうッ!?」
レンの脳裏に、つい先日、この少女と目撃した光景が蘇った。
「……あの人が、貴方たちが、ルナちゃんを、先輩を騙してるって……!
シンシアが、ルナちゃんを利用して、先輩を、先輩を自分の国の駒にする気だって……ッ!
貴方たちも、その仲間だって、貴方たちがいるからルナちゃんは裏切れないってッッッ!!!」
「なん、ですって……?」
涙を流したまま少女は絶叫する。それを受け止めるカノンの方が、頭を混乱させていた。
騙している? 誰が? 自分たちが、ルナやあの魔道技師を? 一体、どういうことだ?
「そんな出鱈目、誰が……ッ!」
「出鱈目なんかじゃないッ! "あの人"が、"あの方"が教えてくれたもの! そうじゃないと納得できないッ! じゃなきゃあ、ルナちゃんが、ルナちゃんが先輩にあんなことするはずがないッ!!
先輩と、ルナちゃんの関係を利用して、味方につけて、戦争なんかに放り込む気なんだって!
自分たちの代わりにッ!!
返してッ! 私の、私の知ってるルナちゃんと先輩を、私のことを大好きでいてくれる二人をッ、私に優しくしてくれる二人を返してよぅッ!!」
「……ッ!」
レンは絶句する。
まただ。また"あの人"、"あの方"。
そう呼ばれる一人の少年の姿が頭を過ぎる。茫然とする三人とは対照的に、激しい後悔が、やるせなさが、レンの中を渦巻いていた。
あれは前戯だったのだ。あのとき、あの影に足止めをし、継いで現れた少女をまんまと足止めさせてしまい、ルナとラーシャ、二人の姿を目撃させた。
あれもまた、少女にこの刷り込みをさせる前戯だったのだ。
少女の激昂具合から、まさかあれだけで出鱈目を吹き込まれたのではないだろう。昨夜のうちに、一晩のうちに何かがあったのだ。何かが。
「待ちなさいッ! あたしたちは別に、あいつらと手を組んだりはしてないし、ルナを騙してもいないわッ!!」
「嘘ッ! そうじゃなきゃ納得できないッ! 絶対に信じないッ!!」
「ッ! あのねぇ……!」
「貴方たちが死ねば、先輩はずっと私のところにいてくれる。戦争なんかにいかないし、私のところに帰って来てくれる……! ルナちゃんだって……! 許せないけど、許せないけど……!
そう、許せないけど……ッ!!
でもでもでもッ! 貴方たちはもっと許せないッッッ!!!」
「……ッ!」
叫び、涙に濡れた瞳は、もう正気を宿してはいなかった。呻き、唇を噛む。
駄目だ。たぶん、彼女の耳に、自分たちの声は届かない。一体なんだ? 何が、彼女をここまで駆り立てる? 一晩のうちに、一体何が……ッ!?
落ち着け、落ち着け。彼女と戦ってはいけない。断じていけないのだ。彼女は騙されているだけだ。
何か、説得の方法を考えろ……!
「……ナイフ一本で、あたしたちを皆殺しに出来るつもりなの?」
「……しなきゃいけないんです。私が、私が先輩を助けなきゃ……。私が、先輩を救ってあげなきゃ。
私だけなんだもの、先輩を、助けてあげられるのは……」
きんッ!
小さな音がした。
同時に少女の足元に、淡い光を放つ魔方陣が広がる。
このときになって、全員が得物を抜いた。
「……我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア」
少女の前に、赤い光が何条か浮かび上がる。そしてそれは加速しながらカノン達へ襲い掛かった。
無論、そんなものには誰も当たらない。
横っ飛びに交わしたカノンは、そのまま少女に向かって走る。せめて峰打ちでもして止めなければ。もうどうしようもない。
イリーナが次の印を切るより先に、カノンが懐に飛び込んだ。
向けられたナイフの切っ先に、足を振るって叩き落す。はたかれたイリーナの顔が苦痛に歪んだ。
唇を噛んだイリーナが、その手を捻り上げようとするカノンに、懐から出した何か鏡のようなものを向ける。瞬間、その至近距離に火花が散った。
「ッ!」
慌てて距離を取る。
浮かんだ火花は、四散してカノンが飛び退る前の空間に被弾する。
魔法具だ。何度かお目にかかったことがある。事前に呪を込めておくことで発動させることが出来る、そんなものだろう。
忘れていた。ルナやカシスに劣っても、彼女も、名門『月の館』で学んだ優秀な魔道師なのだ。
やりにくい。すべてにおいて、やりにくい。
「カノンさん。貴女に初めてあったときは、ちょっとだけ驚いた。でも優しい人だな、って思った。
本当にルナちゃんのことを考えてくれてるんだな、って思った。
でも、でもッ! もう信じられないのッ! 貴方のことも、ルナちゃんのこともッ!!
もう信じられないッ!!」
「ッ!」
目の前に印が描かれる。光の線が、宙に舞い、形を作る。
カノンは舌打ちをして一歩引く。彼女を倒すのなんて簡単だ。『館』で修練は積んでいるといっても、彼女には圧倒的に経験が足りていない。けれど、
周りの、シリアやアルティオが剣の切っ先を向けながらも、迷いに満ちているのは同じ理由からだろう。
レンは静かに、周囲へ殺気を放っている。
確かにおかしいのだ。すぐに昏倒させられるような彼女を、あの周到な黒幕の少年が、一人でこんな包囲網の中に置いていくだけなんて。
カノンは目の前で光る印に構えを取る。
イリーナが、その呪を発動させるための、最後のセンテンスを口にしようと口を、開いた。
ばしゅんッ!!
「ッ!!」
「……?」
その一瞬に、宙に線を描いていた光の陣が掻き消えた。解除魔法だ。狂気に触れた少女の陣を掻き消した魔法は、天上から降って来た。
「る……ルナッ!?」
「………」
天上の、ぽっかりと穴が開けられた空の空間。その淵に、中を覗くようにして、黄昏を背にしながら彼女が立っていた。
おそらくは、飛行魔法で限界まで速度を上げて飛んで来たのだろう。息は上がって、遠目にも肩が上下しているのがわかる。服はところどころ破け、どうしたことか端々が焦げて煤けていた。
彼女は眉間に皺を寄せて天井の縁を蹴る。
そうしてカノンを背にしてイリーナとの中間地点に降り立った。
直に背を向けられたから、カノンはそれに気が付いた。
「る、ルナ……ッ? あんた、その髪……?」
「……」
腰に届かんとしていた彼女の美しいブラウンの髪が、煤けて、無残な長さになっていた。肩よりも短い長さで、記憶にある長い髪が切断されていた。
彼女は無言だった。それを問うのを拒絶するように。
ルナは周囲を伺う。ラーシャたちがいない。何かの妨害にあっているのか、それとも単に飛行魔法を全開にして飛んで来た自分が追い抜いてしまったのか。
それはともかく、一体これはどういうことだ。
何故、イリーナが、カノンに向けて攻撃印などを開いていた? 何故、攫われたはずの彼女と、それを助けに来たはずの彼らが対峙しているのだ。
「イリーナ……、何のつもり……?」
「ルナちゃん……? どうして? どうして、その人たちを庇うの?」
「……庇ってるわけじゃないわ。何で、こんなことになってるかを聞いてるの」
ルナの口調が静かに怒る。語尾には有無を言わせぬ強さが感じ取れた。
「私たちがあんたを騙して、あの魔道技師の男をシンシアに引き込もうとしてるとかどうとか……ッ! そういうほら話を吹き込まれてるのよ、このお嬢ちゃんはッ!」
苛立ったシリアの声が、イリーナの代わりに答えた。ルナが眉間に皺を寄せる。
解らないのだ。どうして、何故彼女が、そんな話を誰にされて、何故信じてしまったのか。
「イリーナ……あんた、何でそんな嘘……」
「嘘?」
きょとん、と。まるで、解らなかった問題を、教わるときのように、イリーナは小首を傾げる。
「うそ、なの?」
「当たり前でしょう!? 何でカノンたちがあたしを騙さなきゃいけないのッ!? 何でカシスをシンシアに、ゼルゼイルなんかに引き渡さなきゃいけないのよッ!?」
昔、よくそうしたように怒鳴りつける。イリーナは決まってその怒鳴り声に耳を抑えて泣きそうになりながら、子供のように俯くのだ。でも、今の彼女はそうしようとはしなかった。代わりに、くすり、と小さく笑ったのだ。
「嘘だよ。そんなはず、ないよ」
「何の根拠があって……ッ」
「……そうじゃなきゃ、納得、出来ないもの」
怒りに肩を震わせるルナを、イリーナは歪めた表情で見る。ひどく乾いた、ひどく哀しい表情だった。涙は、いつのまにか引いていた。
「じゃあ、ルナちゃん。説明出来るよね?
ルナちゃん、昨日の晩、どこで、何をしていたの?」
「―――ッ!?」
虚をつかれた。その一言だけで、胸が抉られる。
鼻と口とを片手で押さえつけ、ふらりと後方に傾く。慌てたカノンがそれを支えた。
顔は真っ青だった。
「自分の宿? 違うよね? カノンさんたちと一緒じゃなかったよね?
じゃあ、どこ?」
「ッ! それは……ッ!!」
言い澱むことなく、適当な嘘は吐けたかもしれない。しかし、少女の乾いた笑いは、幾重にも付いた涙の痕は、その嘘が到底通用するものではないのだ、と如実に語っていた。
乾いた表情を変えることなく、棒立ちのまま、イリーナはさらに問う。
「……いいよ。知ってるから」
「…ッ」
「ルナちゃん、先輩の部屋にいたもんね。仲、良さそうだったね。私、部屋まで行ったから知ってるよ」
「イリー……ナ………」
苦しげな声で、ルナは彼女の名を口にする。にこり、とイリーナの顔に不自然な笑顔が浮かんだ。面だけは可愛らしく、しかしその実、まったく笑えていない。
「・・・何で?」
「……」
「何で、あんなことしてたの?」
ルナは答えない。答えられるはずもない。背徳感だけが、胸の内を貪り喰らう。
青い顔をさらに歪めるルナに、カノンが眉を潜める。
「ルナちゃん、言ったよね? ルナちゃんは私の味方だって。私が先輩を好きなの応援してくれるって。ルナちゃんは何も思って無いからって。ずっと友達だからって。友達だから……勧めはしないけど、応援はしてくれる、って言ったよね」
「……」
ルナは無言だった。好きで無言なのではない。何も答える術を持っていなかったからだ。
自分で決めた道で行き詰まって、昔の仲間に信じてもらえなくて、さらに衝動的に仲間に言ってはいけない言葉を吐いて。そのあまりの惨めさに、昨日の晩、彼に縋った。縋られる人間であろうとしたのに、縋り付いて泣いた。
……それが、すべてを露呈させて、信じ難い嘘を、この親友だと語った少女に信じさせてしまった。
乾いた笑顔で、彼女は口にする。それは、真円の月を砕く、最後の言葉。
「嘘吐き」
「―――ッ!」
それは絶対的な氷の温度を持って、彼女の胸中を抉り取った。彼女の表情が、苦しげに歪む。
何も口に出来ない自分が、酷く情けなかった。
がくん、と彼女の体から力が失せた。
カノンは、自分の腕に支えられながら、今にも崩れ落ちそうな表情の親友を見下ろした。数日で少しだけ痩せてしまった頬と、よく見ればうっすらと隈の出来ている目。
眉を吊り上げて、唇を噛む。目の前の少女に対してでも、黒衣の少年に対してでもない。
彼女が、こんなになってしまうまでに、自分は一体、何をしていたんだろうと。
逆に彼女を追い詰めていただけじゃないか。
彼女たちの間に何があったのか―――シリアによれば、自分は大分鈍感な方に入るらしい。でも、それを推測できないほど鈍くはないつもりだった。
悔しい。その間にいる張本人を今、ここに引きずり出せれば良かったのに。
ぎり―――ッ、と奥歯を噛み締める。そして、今だ不自然な笑いを浮かべ続ける少女を睨みつけた。
「……それで? あんたはあたしたちをボコって、それでその先輩が振り返ってくれればそれで満足なわけ………?」
「……だって、貴方たちが倒れれば先輩はそんな怖い世界にいかなくて済むでしょう?
私と、ずっと一緒に平和なところにいてくれるはずです。だから―――先輩を助けられるのは私だけ。
………ルナちゃん」
ぽつり、と呟かれた少女の声に、びくりとルナの肩が震えた。
「ルナちゃんのこと。許せないけど。とっても許せないけど。
でも、その人たちを殺せたら、特別に許してあげる」
「……ッ!」
「それで、一緒に戻ろう? 昔に戻ろうよ。そうしたら、ルナちゃんもまた優しくしてくれるよね?」
爪が白くなるほど、ルナは拳を握り締める。できるわけがない。まだニード=フレイマーの組織に属していた頃、彼女たちと敵対していた頃。その時でさえ、カノンたちを殺すことなど出来なかった。
それなのに、今さらまた彼女たちを殺せというのか。許しを請うために。その言葉はそれ以上ないほど深く、彼女を抉り、切り裂いた。
カノンは悟る。ルナにはまだ、半年前の罪の意識がある。だからこそ、必死で誰も巻き込まないように一人で全部背負ってしまおうとしたのだ。
もう誰にも、カノンにさえ、自分のことで迷惑をかけたくないから。
カノンは今度こそきっ、とイリーナを正面から睨んだ。
「イリーナ……やめ」
「ふざけんじゃないわよッ!!」
ルナの力のない諫めの言葉を遮って、カノンの声が激を持って飛ぶ。
「カノン……?」
ルナが茫然と立ち上がった彼女の名を呼んだ。カノンは無言で、手にしていたクレイソードを振るう。石と擦れ合った刃が、きんッと澄んだ音を立てる。
「あんたがしたいことって何……? 先輩を助ける……? 昔に戻ろう……?
ふざけたこと言わないでッ!! あんたは自分にとって都合のいい人間が、都合のいい世界が欲しいだけッ! 自分で描いた夢物語を、他人に押し付けようとしてるだけじゃないのッ!! それで人一人救うなんて傲慢、ほざくんじゃないわッ!!
そんな自分勝手な想いで人が救えてたら、世界中、哀しい人間なんて誰一人いないのよッ!!」
怒りと共に、カノンは目の前の少女に言葉を叩きつける。レンの目が細められる。小さく頷いた。その想いと汚れざるを得なかった手の意味を、誰よりも近くで見て来たから。
ちらりと、ルナと視線が合った。涙を溜めた目に、らしくないと笑いながら、小さく応えた。
「ごめん、ルナ」
「……」
「……あたしも、たぶん同じだった。
そりゃあ……あんたを、戦争なんかに行かせたくないのは本当だけど……。そんな場所に、行かせちゃいけないとは、今も思うけど……。
あたしにとって平和だと想う世界と、あんたが造りたい世界は……きっと、違うのよね。
あたしも、あたしのあって欲しい世界をあんたに押し付けた。……それで、たぶん、すごい傷つけた」
「カノン……、あんた……」
「ホントにさ……。あたし、いっつも、レンやあんたに甘えてるから……。……そんなふうに思われて………当然ね。
本当に大事なら……本当にあんたのこと考えるなら、違う仲間がいるからとか、魔道師と剣士じゃ違うからとか―――そんなんじゃなくて、何発かぶん殴ってでも本当のこと、聞き出してやるべきだった。そうしたら、戦争に行こうなんて考えるまで、あんたを追い詰めたりしなかったかもしれない。
…………ごめん」
「……ッ」
振るった刃を持ち上げる。一歩、踏み込むとイリーナは気圧されたように後退った。
「ルナにあたしたちを殺させて……、それで本当に昔に戻れると思ってるの……?」
「―――ッ!」
押し殺した声で、カノンが問う。初めて、イリーナの表情に動揺が走った。
だが、それは一瞬のことで、歯を食い縛った彼女はさらに空に印を切る。
「あんたが否定したい気持ちは……解るような気はする。きっと、ルナだって悪いところはいっぱいあったんだろうと思う。
……でも、だからって何の話もしないうちに、自分の空想で友達傷つけてんじゃないわよッ!!」
「うるさい……ッ! そんなの嘘、貴女たちを殺せば、殺したら……先輩も、ルナちゃんも、私のところに帰って来てくれる……! 元の二人に、私に優しい二人になってくれる……ッ!!
夢なんかじゃない……ッ、だから……だから、邪魔しないでッッッ!!!」
「―――解ったわ……」
カノンが剣を正眼に構える。吊り上げた碧眼が、涙の筋を描くイリーナの榛色の瞳を真正面から射抜いた。そして宣言する。
「そこまで言うなら―――
……あたしがあんたの目を覚まさしてあげるッ! 土下座してごめんなさい、って言えるまであたしが直々にぶん殴ってあげるわよッ!!」
じゃきん! と手にした剣が、澄んだ音を立てる。何よりもまっすぐな、力ある言葉と共に。
「ルナ、貴女は下がってなさい」
「シリア……?」
カツッ、とヒールを鳴らしてカノンの脇に並んだのは、同じく剣を抜いた魔道剣士の女。
薄く笑みを讃えながら、しかし、瞳の奥はやりきれない怒りを滲ませて。
「私ね、根性のない女の子は嫌いなの。恋愛なんてものは、根性がなきゃ出来ないものよ。
他人を好きになったなら、それが誰のものでも、まずその相手以上に自分を磨く。
それが出来なくて、ただ駄々を捏ねるだけの人間に、愛だの恋だの、説く資格はないわ」
「あんたの場合、根性より耐久力と人の話に耳を貸すスキルの方が必要だと思うけどね。そうすれば、もっといい女になれるんじゃない?」
「あら? 私は地上の誰よりもいい女になるまで自分を磨いた、って自信を常に持ってるわよ?
ねーぇ、レーンv」
「知らん」
一言で切り捨てたレンは、一つだけ溜め息を吐いて剣を抜く。隣では、双剣を抜いたアルティオが笑いながら首を振っていた。
「まあなぁ、女の子相手に喧嘩するってのは俺の主義に反するんだが。
女の子が泣いてるシーンを見逃すわけにゃあ、いかねぇしな。これまで俺だって数々の女の子を泣かしてきた身だし」
「戯言はそれで十分か?」
「……戯言って、レン君そりゃあねぇだろー?」
涙目になっているアルティオに小さく呆れ、カノンは今一度正面を見る。
「さあ、一度に四人を相手に出来る器が、果たしてあんたにあるかしらね……ッ?」
「……」
挑発とも警告とも取れるカノンの台詞に、イリーナはしかし、暗い瞳を変えずに、静かに印の上に手を置いた。
その手には、先ほどの手鏡が握られていた。
ルナがはっ、と息を飲む。
「私が、皆さんに敵うなんて……最初から思っていません。
でも、でもそのための力を、あの人は……あの方は、私にくれた」
「イリーナ、それは……ッ」
詰まった声でルナが何事か言いかける。だが、その言葉を遮るように彼女は言う。
「覚悟、してください」
「イリーナッ! やめなさいッ、それは、それじゃああんたが……ッ!!」
「ルナッ?」
堰を切った叫びが彼女の口から漏れる。だが、その言葉はもう、親友の耳には届かない。
彼女の描いた印が、音を立てて広がる。
「イリーナッ!!」
「……来よ、ベルフェゴール」
空間が軋み、膨大な闇が渦巻いた。
轟いた雄叫びに、思わず閉じた目を開ける。眼前に広がったのは、闇色の壁。暗い岩肌。
……いや、
「な……ッ!」
「これは……ッ」
ぎぃいしゃぁあああぁぁあぁッ!!
広がるのは暗い色をした二対の翼。羽という言葉は似つかわしくない、深い漆黒の色をした、鉤爪の悪魔の翼。
三メートル余りの身長。その肌はごつごつとした黒い岩。牛のような太い尾を揺らし、頭には二本の捻れた角を生やし、ずるりとした顎鬚を下げている。細い赤い瞳に光はなく、意志が測れない。
大仰な翼と体躯。その悪魔の足元で印を描くイリーナは、魔力消耗が激しいのか、肩で息を吐いている。
元・違法者狩りの身として、人が造りだした面妖な、現存するはずのない生き物は数多く見て来た。
しかし、それはそのカノンの記憶の中でも群を抜いた。
ふらつきながら立ち上がったルナが、茫然とそれを眺めていた。
「イリーナ……」
「ルナ……、あれは……?」
「……」
悔やむような表情を浮かべる。その顔が、あれもまた、『月の館』で製造された危険指定物なのだということを物語っていた。掌に立てた爪が白くなるまで、ルナは拳を握り締めた。
一度、口を開きかけて躊躇する。しかし、振り切るように首を振ると、カノンと同じように、干満ではあったがゆらり、と構えを取った。
「―――悪魔召還ベルフェゴール……。
本当は悪魔じゃないんだけどね……あれは創造された魔物。魔族や悪魔というよりは、合成獣に近いんだけど―――。
能力値的には最上級。ちょっとした悪魔くらいなら、平気で潰せる程度の能力を持っている……」
「ご、合成獣って言ったって……じゃあ、まんま悪魔じゃねぇかよッ!? 何であんなもん作って……」
「『月の館』の黒歴史よ。以前、クロード=サングリットのように暴走しかけた研究グループがあってね……。特定の魔道具に魔物を封印しておくことで、召還能力の特化していない魔道師でも悪魔級の魔物を呼び出せるように、ってね。
けれど、使い方を間違えたら兵器にしかなり得ない。そんなものを世の中に出すわけにいかないわ。あたしたちは、奴らが生成したあの魔物共々、凍結化して封印して、魔道具を破壊した………はずなのに」
「『ヴォルケーノ』のときと同じ、ってわけね……」
「―――くッ!」
突き出した右手の指で、ルナは拘束で印を解く。
「止めないと……でないと、あの娘が……」
「ルナ?」
「あれは、あの娘の魔力許容量で扱えるような代物じゃない……ッ! すぐに限界値を越えるッ、そうしたら―――ッ!」
その先は、数多の魔道師を相手にしてきたカノンにも理解できた。
魔力というものは、脳でその存在を受け止め、思考とイメージを描くことで具現する。魔力許容量を越えた魔道の使用、それが招くのは肉体と脳への過度な負担。
下手をすれば、何らかの障害を負う可能性もある。
数瞬、考えてカノンはクレイソードを剣鎌[カリオソード]へ持ち替えて、構えを直す。
「……ルナ。あれの封印方法は解るの?」
「……呪文だけは。でも、あのときはいろいろと魔道具やら人の手やら借りてたから―――。
正直、自信は、ない」
「……そう」
一抹の望みを抱いて聞いてみたが、返ってきたのは力のない答えだった。
「どうにせよ、あれを止めなくてはならんのだろう」
破魔聖を抜き放ったレンが、構えながら吐く。シリアとアルティオも、その構えに続いた。
「なら、止めるだけだ。避けては通れまい」
「……そうね。なら―――ッ!」
剣鎌[カリオソード]を持ち直す。三度、イリーナの、肩で息を吐いたままの彼女に向き直る。
苦しげに息を吐きながら、彼女はなお、暗い瞳でこちらを睨んでいた。その暗い瞳に、傍らで印を切るルナの表情が曇る。
カノンは歯を食い縛る。無駄なことは考えない。今は、あれを全力で止めなくてはならないのだ。
「行ってッ! ベルフェゴールッ!!」
しゃぎゃぁあぁああぁああああああぁあぁああッ!!!
洞穴内に、再度、悪魔の雄叫びが轟き渡った。
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