「……以上で説明を終わらせて頂きます」
固い声で吐き出した後、壇上から頭を下げる。形だけの寂しい拍手が、ぽつりぽつりと漏れた。
頭を下げ、床を眺めながら歯を噛み締める。ところどころから響いて来るひそひそ話が、シェイリーンの心臓をきりきりと痛めつけた。
―― ……先日の戦果も……
―― ……やはり総統の指揮が……
―― 采配が間違っていたのだ……
ぎり――ッ!
礼服の裾を思い切り握り締め、唇を噛み締める。頭を下げていたのはほんの数秒だったというのに、彼女には永遠にも等しいほどに感じられた。
顔を上げた先には、北の都ゼルフィリッシュの要塞に造られた最も大きい作戦会議の、ぐるりと発言者を取り囲む院員席。傍聴のために造られたその階段状の形状が、今は威圧を与える産物になっている。
ランプと松明の光は、奥まで行き届いてくれなくて。
ぐるりとシェイリーンを取り囲む貴族院の院員の表情までは伺えない。もっとも、その方が良かったのかもしれない。見えたら見えたで、きっと吐き気がするだけだろう。
「……ラタトス総統」
暫しの間があって、がたりと席を立つ音がした。シェイリーンは表情を引き締めてそちらを見上げた。
ランプの光に当てられて、微妙に歪んだ男の表情が見える。
院の礼服を着た老齢の男。老齢、といっても腰はぴん、とまっすぐで、貫禄と威圧を感じる眼光を周囲に振り撒いている。白いものが混じり始めた黒髪を撫でつけた、老齢の紳士は壇上の小娘の姿にぎろり、とその眼光を向ける。
シェイリーンは下腹に思い切り力を込める。
「……何でしょうか、ランバイン貴族院長」
貴族院を統括する、院長。それが男の肩書きだった。シェイリーンは目を尖らせて睨み返す。男はそれを平然と受け止めながら、
「……貴女の提案したい策は分かった。だがそれを、我々を無視して断行とは、些か勝手が過ぎるのではないかね、総統」
野次のような賞賛は飛ばないが、院員の席から彼の言葉を推すような空気が漂ってくる。彼にとっては追い風、シェイリーンにとっては向かい風だ。
厳しい眼差しをお互いに逸らさない。
「……それについてはお詫びを申し上げなければなりません。ですが、魔道や歴史の研究というものは、時間と手間がかかります。一秒でも惜しいのです。
我々は実に良い協力者を得ることが出来ました。ならば、シンシアのためにも……!」
「……エイロネイアとの境界線の後退を代償に、手に入れた協力者を、かね?」
「ッ!」
「ラタトス総統。君のしていることは本末転倒ではないのかね?
協力者を得るがために、戦況を傾け、その戦況を覆すために憎きエイロネイアと同じ鉄を踏もうと言う。
これでは、お父上も浮かばれんと思うがね」
「……」
場の空気は完全に傾いていた。シェイリーンは歯噛みしながら、壇上で胸を張り続けている。
詭弁だ。紡がれる、あまりにも一辺倒な理論。間違ってはいないが、すべてを語っているわけでもない。
シェイリーンは彼らの文句がひとしきり終わるまでの長い時間を、苛立ちを抑えながら耐えなくてはならなかった。
「……確かに最良の選択ではなかったことは認めましょう。ですが、現実として、我々はエイロネイアと同等の立場に立たなくてはなりません。
それに、エイロネイアのように死者を冒涜する行為を働こうと言っているのではありません。その対抗策となるものを編み出そうと言っているのです」
「君は魔道の研究には時間と手間がかかる、と言ったね?
その研究が実るのは何日後かね? 何ヵ月後、それとも何年後かね?
冗談ではない。我々は一刻も早く、逆賊エイロネイアを討たねばならないのだよ」
「……その策とは別に、我々とて策を練っています。ジルラニア平原の奪取についても、目下検討中です」
まるで堂々巡りだ。揚げ足ばかりを取られて、話が前に進んでいかない。苛立ちと焦燥ばかりが募って、冷静さを奪っていく。
「やはり一般の市民からも徴兵を行わなくては……」
「!」
ぽそり、と外野から漏れた声にシェイリーンは面を上げる。発言をした院員は鋭い視線に口を噤んだ。
しかし、老齢の院長はそれを擁護するように、厳かな口調で、
「そうですな。総統、以前から言われていたことですが、やはり訓練兵だけでは数が足りん。
たとえ烏合の衆とはいえ、兵の数はそれだけで威圧を与えることも出来る。私としては、その実りの望めない策より先に考えなくてはならない件だと思うがね」
「……前向きに検討します」
ペースが持っていかれている。自覚はあるが、その軌道を変えることが出来ない。
己の無力感を噛み締めながら、シェイリーンはもう一度立ち上がった老齢の男を見上げた。
貴族院、いや、今や議会で絶大な権力を持つ男。そもそもこの男が院の中で実権を握るようになってから、以前はシェイリーンを持ち上げていた議会も右翼派へと傾いていった。
原因は、金か名誉か。どちらにしても、この男がシェイリーンの立場を脅かしている元凶の一つ、ということに変わりはない。
エイロネイア皇太子の介入がなかったとしても、この男は貴族院を、そして議会を飲み込んで、和平へと流れつつあった政治思考を過激な方へと転ばせてしまっただろう。
その目的は、おそらくはこの総統の座か。だからこそ、シェイリーンの上げる策を叩き、戦況の好転を望んでいるようで望まないような発言を繰り返す。本末転倒なのはどちらなのか。
この男さえいなければ、貴族院もこれほど思い上がることはなかったのに……!
噛み締めた唇から血の味がする。
だが、シェイリーンは何としても前線で耐えているラーシャたちに朗報を届けなくてはならないのだ。
僅かな血の味を飲み込んでから、四面楚歌の壇上で。
シェイリーンは再び、小さな唇を開いた。
ぱんッ、と勢い良く青空に白が広がる。飛び散った僅かな水滴が顔にかかって、ケナがひゃぁ!と嬉しそうな悲鳴を上げた。
それにくすり、と笑いを漏らしてから、彼女は庭の木と木の間に引っ張った洗濯物用のロープへ、洗ったばかりのシーツをかけた。ふわり、と柔らかい風がわずかにシーツを靡かせる。
「フィーナちゃん、はい!」
足元の洗濯籠中から、ケナが両手で取り出したのは水を吸って大分重たくなっている父親のジャケット。もう少しで地面に着いてしまいそうで、フィーナはくすくすと笑いながらも取り上げる。
「洗濯物いっぱいだねぇ」
「昨日まで天気良くなかったしねー」
既に洗濯物で埋まってしまったもう一本のロープを見上げて、ケナが言う。ここ三日で随分と溜まってしまったものを、一気に洗濯桶に放り込んだ。
少し腕が痛いが気分的にはすっきりだ。
「フィーナちゃん、これで最後ー」
「あいよー」
ケナの声に片手を伸ばす。しかし、その最後の洗濯物の湿った感触が、いつまで経っても指先に当たらない。
「……?」
不信がって首を動かすと――
ケナは何故かフィーナの下着を胸に押し当てて眉間に皺を寄せていた。
「!!?」
「フィーナちゃんて胸大きいなー」
「ちょっとあんた、何してんの!?」
降って湧いた恥ずかしさに慌てて下着を奪取する。ケナは子供のくせに妙に大人びたふうにニヤニヤと笑い、真っ赤になっている彼女を見上げた。
「だって、それだけお母さんのサイズ合わなかったんでしょ?」
「……そうだけど」
今、フィーナが来ているものは、拾われて目が覚めたときにアレイアから借りたものだった。アレイアとケナしかいない家の中に、ちょうど良く女物があることに首を捻っていると、躊躇いがちにケナの亡くなった母親のものだと聞かされた。
少し考えてみれば分かりそうなものだった。問いに答えたときのアレイアの顔は、少しだけ寂しそうで、罰が悪かった覚えがある。
「いいなー、ケナも胸大きい方がいいなー」
「あのねー、子供が何言ってんの? 千年早いわよ」
「ぶぅ。だって、ケナ、お母さんの子供だからフィーナちゃんみたいにはならないってことじゃん」
「こらこら。そんなこと言うもんじゃないわよ」
「まったく」と呟いて、ケナの金色の頭にぽんぽんと手をやる。
「しかしまー、アレイアもアレイアで良く簡単に奥さんの服なんて貸してくれたもんよねぇ」
ロープに吊るされて揺れる、先日、自分が着ていたワンピースを眺めながら呟く。その一言に、ふとケナが真顔を上げて、
「……だからだよ」
「? 何か言った?」
「……ううん。何でもない」
小さく、何かを言ったような気がした。
けれど、それはあまりに小さすぎて聞こえなくて。
一瞬後には、ケナの表情は元の晴れ晴れとしたものに戻っていた。
「……ケナちゃん?」
「あははー、何でもないよぅ」
「……?」
首を傾げながら、空になった洗濯籠を持ち上げて、空を見上げる。
「そういえば、今日はアレイア。仕事は午前中って言ってたわね」
ケナがぱっ、と顔を上げる。
「買い物ついでに迎えに行こうか」
「うんッ!」
勢い良く頷いたケナに微笑んで、帽子を取ってくるように言う。ぱたぱた、というかばたばたと家の中に飛び込んでいく小さな背を追って、フィーナは籠を担いでリビングへと入った。
いつも籠を置いている棚にそれを片付けて、薄っすらと額に浮かんでいた汗を拭う。
一息ついて、次は買い物用の籠を探す。棚の上の段に手を伸ばし――手が空ぶった。
一瞬、首を傾げてすぐに手を打ち鳴らす。そうだ、昨日は結局荷物をアレイアに運んでもらって、キッチンに置きっ放しになっていたっけ。
狭いリビングを横切ってキッチンへ向かう。
「あったあった」
小さな食料庫の前の床に放り出されていた買い物籠を持ち上げる。折った身体を持ち上げようとして、
「……ん?」
普段は目につかない、食料棚の裏側が見えた。見えるのは木目だけのはずだが、ひらり、と何か薄っぺらな紙が張り付いている。
「何だろ……?」
手を、伸ばしかけて。
「フィーナちゃーん! 早く行こーよーッ!!」
小さなお姫様の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってー!」
大声で返して、急いでキッチンを出た。あの娘は活発すぎて、待たせるとどこに飛んでいくか分からない。
キッチンに背を向けて、テーブル脇にかけてあった家の鍵を取って玄関へと走った。
「……戦争、ですか?」
「ああ、そのせいで砂糖の値段が上がってしまいましてねぇ……」
馴染みの菓子屋の店主は、そう言って溜め息を吐いた。
アレイアとケナが郊外に住むこの小さな村には珍しいことに菓子屋というものがあった。店内は普通の民家のようにこぢんまりとした造りだが、おかみ手作りの素朴なクッキーやケーキが並び、また菓子の材料になる白糖や小麦粉が比較的安く手に入る。
アレイアの職業先に度々、差し入れとして持って行くことがあるため、またフィーナ自身も菓子作りのレシピだけは手に染み付いていて、短い間にも彼女はちょっとした常連になっていた。
その店で、今日、フィーナは首を傾げることになったのだ。
先週と比べて砂糖や小麦粉の値段が少しばかり上がっていたからだった。
疑問に思って店主に問い、返って来たのがその一言だった。
「小麦とか。そういうもんは全部、兵士さんたちに優先して流れていってしまうんですよ。私らはそのあまりを高い値で買うしかありませんでね。
うちも長らく耐えて来ましたが……今回ばかりは」
「そう……なんですか」
歯切れ悪く答える。
目覚めたとき、もちろんフィーナには、自分が今いるこの国がどうなっているかなどという記憶さえ残ってはいなかった。
アレイアに寄ると、このゼルゼイルという島国は、五十年もの間、北と南に分かれて戦争をしているらしい。
その戦争は、長らく拮抗した状態にあったが、最近になって南方の国であるエイロネイアの皇室の息子――つまりは皇太子になるわけだが、彼が戦の才を発揮し、徐々に境界線を北に押しやっているとか何とか。
そして、この村は北方シンシアと南方エイロネイアの境界線付近に存在する。一応、シンシアの領土内に当たるらしい。
戦火が降りかかっていないのは、山深い田舎で、まったく両者にとって戦略的価値がないためだそうだ。戦争や小競り合いが起こっているのはもっぱら平地の方らしい。
「ここは安全だけど物を運んでくるのにちょいと面倒なんだ。砂糖とかはどうしても平地の方から持ってこなきゃならん。
ちょっと高めになっちまうが、まあ、お金で安全は買えないからねぇ……」
「……」
そう言って仕方なさそうに頬を掻く店主。それを目の端に止めながら、彼女は腕を組む。
ここに暮らしているだけならば、そんな戦火など微塵も感じない。のどかなものだ。けれど、山を一つ越えてしまえば、平地で戦火が飛んでいる。
記憶を失くしたフィーナには、とても現実離れしていて――
「……」
いや、現実離れ、しているのだろうか。
戦火、シンシア、エイロネイア。まったく知らないはずのその単語を聞くたびに、胸のどこかがちりちりと得体の知れない感覚を抱くような……。
――ん、んー……
頭で考えても、やはり何も出て来ない。
深みに嵌るより先に、店主が「今日はどうするのか」と声をかけて来た。
思考を切り替えて、財布の中身を思い出す。
アレイアの仕事は力仕事だ。いわゆる運搬行。きこりが伐採した丸太を運んだり、農家で作物や肥料を運んだり。たまには雑貨屋で肉体労働もしている。
不安定と言うなかれ。田舎の野良仕事中心の村には良くある職業である。
しかし、それとは別に、特別な依頼で農業の弊害となる獣やゴブリンなどの害獣を退治したりもしている。どうやら腕に覚えがあるらしい。家にも錆び付いていない剣が何本か転がっていた。
そういう仕事の報酬はやはり少しばかり多い。といっても当然、それほど余裕がある家庭でもない。
皮算用を終えた彼女は、いつもより少しだけ少な目の砂糖と小麦粉を注文する。
店主は人の良い顔で、けれどもやはり少しだけ寂しそうな顔をして、「はいよ」と答えた。
店主が量を測っている間、彼女はめぼしいものがないか、あまり広くない店内を物色する。
いつもと同じ甘い香りが漂っていて、綺麗にラッピングされたクッキーと砂糖菓子が大きめのバスケットに並んでいる。
一つくらい、ケナに買ってやってもいいか。この間はちゃんとブロッコリーも食べたことだし。
そう思って青いリボンのついた飴玉の包みを持ち上げて、レジの向こうの店主へ声をかけようとして、
「!?」
ぞくり、と。
何故か、寒い、寒い悪寒が、彼女の背中を駆け抜けた。
身体の四肢がぴきん、と緊張する。その寒い感覚は身体を拘束し、一瞬で解放される。
それと同時に彼女は背後を振り返った。
「あ……」
きぃきぃと音が鳴っている。見慣れた赤いポップなカーテンがかけられた窓辺。確か、最近風が吹いた程度で軋んでしまうようになった、と言っていたっけ。
でも、それだけ。
見慣れた窓が、外の人波が見えているだけだった。
―― ……疲れて、るのかな……
何だったのだろう?
身体があんなふうになるなんて、今まで無かった。一体、今の違和感は……。
「……ナちゃん、フィーナちゃん!」
店主の呼ぶ声にはっ、と我に返る。カウンターを振り返れば、小袋を差し出している彼の姿があった。
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです……」
手に持っていた飴の包みをカウンターへ持っていく。店主が代金を計算し始める。
それを待ちながら、彼女はもう一度窓辺の方へ目を寄せる。
窓辺には、先ほどと同じように、静かに小さくカーテンが揺れるだけだった。
「はーぁ」
久しぶりに晴れた空を見上げて、ケナは小さく肩を竦める。
お菓子屋さんのドアの手前に立っている。目の前は人通りでごった返していて、中からは甘い香りが漂ってくる。
鼻をつく大好きな甘い香りに、また剥れた。
こんなにいい匂いなのにおあずけなんて、子供には酷過ぎる。むぅ、と膨れて冷たいガラスのドアに背をつける。
こつこつと流れていく人の踵だけが見える。がやがやと喧騒が耳に入る。
時間が長く感じられる。お父さんやフィーナちゃんと話しているときは、あんなに時間が短いのに。
剥れたままのケナの耳に、不意に甲高い笑い声が飛び込んで来た。どこかでも感じたことのある既視感に、表情を歪める。
顔を上げると、ドアの内側に自分と同じくらいの背丈の子供が見えた。慌ててドアの前からどける。
からからん、と店のベルが鳴って、ケナと同い年くらいの男の子が棒にささったキャンディを舐めながら上機嫌に出て来た。
飴の棒を握る反対側の手では、ぎゅ、としっかり母親の手を握っている。
「……」
ケナが道を譲ると、微笑ましく笑いあった親子はその脇を素通りする。男の子が店先の僅かな段差でよろけて、母親は慌てて手を引くことで転ばせないようにする。
「もう、気をつけなきゃ駄目でしょ」
「だ、大丈夫だよッ!」
母親の窘める声に、強がりで答える。だが、一瞬だけ損ねた機嫌も手に持った甘い飴でころっと直ってしまう。母親はふ、と笑って再び彼の手を引いた。
親子はそのまま、通りの向こうへ消えていく。
「……」
ケナは黙ってその後姿を眺めていた。人込みに紛れて二つの影が見えなくなると、足元に転がっていた小さな石ころを蹴った。
こつん、と音がして小石が階段を転げ落ちる。最後には、人波の靴の流れに紛れて見えなくなった。
「……」
ケナはふん、と鼻を鳴らす。
「……寂しくないもん」
からからん。
ケナの小さな呟きを、軽快なベルが掻き消した。背にしたドアが開いていた。
「ごめんねー、ケナちゃん。遅くなって」
「あ」
買い物袋を提げたフィーナがかがんで視点を合わせて来る。ケナは顔を上げた。笑顔を作る。胸を、張る。
「遅いよー、フィーナちゃん! 何してたのー!?」
「ごめんごめん。ちょっと話し込んじゃった」
「もー、フィーナちゃんてばー……」
「だからごめんって。はい、お詫びにこれ」
「?」
籠の中からフィーナが何かを取り出した。白い彼女の手の合間に青いリボンが広がる。差し出されて両手を出した。
小さな包みが、ケナの小さな掌に乗せられた。
「あ……」
小さな包みの中に見えたのは、べっ甲色の小さな砂糖菓子。
「あ、う、うん……」
「嫌い?」
今ひとつ鈍いケナの反応に、フィーナが不安げな声を出す。ケナは慌ててぶんぶんと首を振った。
がさがさと急くように、けれど包みを破らないように丁寧に開いて、べっ甲色の飴を取り出す。そのまま頬張った。
甘くて香ばしい味が口の中に広がった。
「ケナちゃん?」
飴を口の中へ放り込んだケナが、唐突にスカートにしがみ付いてきた。彼女は首を傾げながらも、自分と同じ金髪を撫でた。
「どうかした?」
「……」
少しの沈黙があった。だが、ケナはすぐに顔を上げて、いつものようににっ、と笑って、もう一度甘えるように抱き着いてきた。
「何でもないよー、ありがとう! フィーナちゃん、大好き!」
「?」
その様子に、フィーナはまた少し首を傾げたが、彼女の表情があまりにもいつも通りだったので気にかけないことにした。
離れたケナが、上機嫌で小さな手を伸ばしてくる。それに応えて小さな手を握る。彼女はまた満足げに微笑んで、フィーナを引き摺らんばかりの勢いで町中へと飛び出した。
「シリア、シリア!!」
大声と共に地下の研究室のドアを開く。その脳天に、
どがッ!
分厚い蔵書の角がクリティカルヒットした。
「……レディのいる部屋にノックも無しで飛び込んでくるなんて、些かマナーがなっていなくてよ、アルティオ」
「スイマセン……じゃなくって!」
普段よりも三倍速程度、早く復活したアルティオは鬼気迫る表情でがばり、と起き上がる。
その様子にさすがにただならぬものを感じたシリアは、憮然としていた表情を真顔に戻した。
「……何か、あったの?」
「ああ、なんて言うか……。まあ、来て見てくれよ」
「分かったわ」
研究室内に、他の魔道師たちが働いているのを慮ったのだろう。静止した魔道師たちに指示を出してから、シリアはアルティオを急かすように廊下に出た。
ごぅん、と背中で重い地下室の扉が閉まる。扉に阻まれていれば、こちらの声は中まで聞こえないはず。
「……で?」
「ああ」
苦い表情でアルティオは階上へと伸びる階段の上を指差した。そのまま先導するように歩き出す。
シリアは双剣を背負う背中について階段を上った。
地上に出ても、彼は階段を上り続ける。確か、彼は砦の塔の上で見張りをしていたはず。そこまで連れていく気なんだろう。
シリアの額に汗が浮かんだ。上り続けて疲れたわけじゃない。これは脂汗だ。
見張りに立っていた彼が、他の魔道師には気取られないように、シリアだけを呼びに来た。
それが一体何を意味するのか――想像には、難くない。
やがて塔の見張り台に着き、彼と共に見張りに立っていた数人の兵士の真っ青な顔色を見て、シリアの懸念は確信に変わった。
ごくり、と固唾を飲み下す。
「……で」
聞きたくもない先を促す。アルティオはやはり苦い顔で、額に同じような汗を浮かべながら、塔の小さな窓を指差した。
かりッ――数日で癖になってしまったらしい。爪を噛んで、シリアは笑いそうになる膝を叱咤して、その窓に近づいた。自分のヒールのかつん、という音が妙に五月蝿い。
シリアは、深呼吸をしてから、その窓を覗いた。
塔の上から見える、遠い丘の上に、幾つもの黒い点と、翻る八咫鴉の紋の旗が見えた――。
←9へ
固い声で吐き出した後、壇上から頭を下げる。形だけの寂しい拍手が、ぽつりぽつりと漏れた。
頭を下げ、床を眺めながら歯を噛み締める。ところどころから響いて来るひそひそ話が、シェイリーンの心臓をきりきりと痛めつけた。
―― ……先日の戦果も……
―― ……やはり総統の指揮が……
―― 采配が間違っていたのだ……
ぎり――ッ!
礼服の裾を思い切り握り締め、唇を噛み締める。頭を下げていたのはほんの数秒だったというのに、彼女には永遠にも等しいほどに感じられた。
顔を上げた先には、北の都ゼルフィリッシュの要塞に造られた最も大きい作戦会議の、ぐるりと発言者を取り囲む院員席。傍聴のために造られたその階段状の形状が、今は威圧を与える産物になっている。
ランプと松明の光は、奥まで行き届いてくれなくて。
ぐるりとシェイリーンを取り囲む貴族院の院員の表情までは伺えない。もっとも、その方が良かったのかもしれない。見えたら見えたで、きっと吐き気がするだけだろう。
「……ラタトス総統」
暫しの間があって、がたりと席を立つ音がした。シェイリーンは表情を引き締めてそちらを見上げた。
ランプの光に当てられて、微妙に歪んだ男の表情が見える。
院の礼服を着た老齢の男。老齢、といっても腰はぴん、とまっすぐで、貫禄と威圧を感じる眼光を周囲に振り撒いている。白いものが混じり始めた黒髪を撫でつけた、老齢の紳士は壇上の小娘の姿にぎろり、とその眼光を向ける。
シェイリーンは下腹に思い切り力を込める。
「……何でしょうか、ランバイン貴族院長」
貴族院を統括する、院長。それが男の肩書きだった。シェイリーンは目を尖らせて睨み返す。男はそれを平然と受け止めながら、
「……貴女の提案したい策は分かった。だがそれを、我々を無視して断行とは、些か勝手が過ぎるのではないかね、総統」
野次のような賞賛は飛ばないが、院員の席から彼の言葉を推すような空気が漂ってくる。彼にとっては追い風、シェイリーンにとっては向かい風だ。
厳しい眼差しをお互いに逸らさない。
「……それについてはお詫びを申し上げなければなりません。ですが、魔道や歴史の研究というものは、時間と手間がかかります。一秒でも惜しいのです。
我々は実に良い協力者を得ることが出来ました。ならば、シンシアのためにも……!」
「……エイロネイアとの境界線の後退を代償に、手に入れた協力者を、かね?」
「ッ!」
「ラタトス総統。君のしていることは本末転倒ではないのかね?
協力者を得るがために、戦況を傾け、その戦況を覆すために憎きエイロネイアと同じ鉄を踏もうと言う。
これでは、お父上も浮かばれんと思うがね」
「……」
場の空気は完全に傾いていた。シェイリーンは歯噛みしながら、壇上で胸を張り続けている。
詭弁だ。紡がれる、あまりにも一辺倒な理論。間違ってはいないが、すべてを語っているわけでもない。
シェイリーンは彼らの文句がひとしきり終わるまでの長い時間を、苛立ちを抑えながら耐えなくてはならなかった。
「……確かに最良の選択ではなかったことは認めましょう。ですが、現実として、我々はエイロネイアと同等の立場に立たなくてはなりません。
それに、エイロネイアのように死者を冒涜する行為を働こうと言っているのではありません。その対抗策となるものを編み出そうと言っているのです」
「君は魔道の研究には時間と手間がかかる、と言ったね?
その研究が実るのは何日後かね? 何ヵ月後、それとも何年後かね?
冗談ではない。我々は一刻も早く、逆賊エイロネイアを討たねばならないのだよ」
「……その策とは別に、我々とて策を練っています。ジルラニア平原の奪取についても、目下検討中です」
まるで堂々巡りだ。揚げ足ばかりを取られて、話が前に進んでいかない。苛立ちと焦燥ばかりが募って、冷静さを奪っていく。
「やはり一般の市民からも徴兵を行わなくては……」
「!」
ぽそり、と外野から漏れた声にシェイリーンは面を上げる。発言をした院員は鋭い視線に口を噤んだ。
しかし、老齢の院長はそれを擁護するように、厳かな口調で、
「そうですな。総統、以前から言われていたことですが、やはり訓練兵だけでは数が足りん。
たとえ烏合の衆とはいえ、兵の数はそれだけで威圧を与えることも出来る。私としては、その実りの望めない策より先に考えなくてはならない件だと思うがね」
「……前向きに検討します」
ペースが持っていかれている。自覚はあるが、その軌道を変えることが出来ない。
己の無力感を噛み締めながら、シェイリーンはもう一度立ち上がった老齢の男を見上げた。
貴族院、いや、今や議会で絶大な権力を持つ男。そもそもこの男が院の中で実権を握るようになってから、以前はシェイリーンを持ち上げていた議会も右翼派へと傾いていった。
原因は、金か名誉か。どちらにしても、この男がシェイリーンの立場を脅かしている元凶の一つ、ということに変わりはない。
エイロネイア皇太子の介入がなかったとしても、この男は貴族院を、そして議会を飲み込んで、和平へと流れつつあった政治思考を過激な方へと転ばせてしまっただろう。
その目的は、おそらくはこの総統の座か。だからこそ、シェイリーンの上げる策を叩き、戦況の好転を望んでいるようで望まないような発言を繰り返す。本末転倒なのはどちらなのか。
この男さえいなければ、貴族院もこれほど思い上がることはなかったのに……!
噛み締めた唇から血の味がする。
だが、シェイリーンは何としても前線で耐えているラーシャたちに朗報を届けなくてはならないのだ。
僅かな血の味を飲み込んでから、四面楚歌の壇上で。
シェイリーンは再び、小さな唇を開いた。
ぱんッ、と勢い良く青空に白が広がる。飛び散った僅かな水滴が顔にかかって、ケナがひゃぁ!と嬉しそうな悲鳴を上げた。
それにくすり、と笑いを漏らしてから、彼女は庭の木と木の間に引っ張った洗濯物用のロープへ、洗ったばかりのシーツをかけた。ふわり、と柔らかい風がわずかにシーツを靡かせる。
「フィーナちゃん、はい!」
足元の洗濯籠中から、ケナが両手で取り出したのは水を吸って大分重たくなっている父親のジャケット。もう少しで地面に着いてしまいそうで、フィーナはくすくすと笑いながらも取り上げる。
「洗濯物いっぱいだねぇ」
「昨日まで天気良くなかったしねー」
既に洗濯物で埋まってしまったもう一本のロープを見上げて、ケナが言う。ここ三日で随分と溜まってしまったものを、一気に洗濯桶に放り込んだ。
少し腕が痛いが気分的にはすっきりだ。
「フィーナちゃん、これで最後ー」
「あいよー」
ケナの声に片手を伸ばす。しかし、その最後の洗濯物の湿った感触が、いつまで経っても指先に当たらない。
「……?」
不信がって首を動かすと――
ケナは何故かフィーナの下着を胸に押し当てて眉間に皺を寄せていた。
「!!?」
「フィーナちゃんて胸大きいなー」
「ちょっとあんた、何してんの!?」
降って湧いた恥ずかしさに慌てて下着を奪取する。ケナは子供のくせに妙に大人びたふうにニヤニヤと笑い、真っ赤になっている彼女を見上げた。
「だって、それだけお母さんのサイズ合わなかったんでしょ?」
「……そうだけど」
今、フィーナが来ているものは、拾われて目が覚めたときにアレイアから借りたものだった。アレイアとケナしかいない家の中に、ちょうど良く女物があることに首を捻っていると、躊躇いがちにケナの亡くなった母親のものだと聞かされた。
少し考えてみれば分かりそうなものだった。問いに答えたときのアレイアの顔は、少しだけ寂しそうで、罰が悪かった覚えがある。
「いいなー、ケナも胸大きい方がいいなー」
「あのねー、子供が何言ってんの? 千年早いわよ」
「ぶぅ。だって、ケナ、お母さんの子供だからフィーナちゃんみたいにはならないってことじゃん」
「こらこら。そんなこと言うもんじゃないわよ」
「まったく」と呟いて、ケナの金色の頭にぽんぽんと手をやる。
「しかしまー、アレイアもアレイアで良く簡単に奥さんの服なんて貸してくれたもんよねぇ」
ロープに吊るされて揺れる、先日、自分が着ていたワンピースを眺めながら呟く。その一言に、ふとケナが真顔を上げて、
「……だからだよ」
「? 何か言った?」
「……ううん。何でもない」
小さく、何かを言ったような気がした。
けれど、それはあまりに小さすぎて聞こえなくて。
一瞬後には、ケナの表情は元の晴れ晴れとしたものに戻っていた。
「……ケナちゃん?」
「あははー、何でもないよぅ」
「……?」
首を傾げながら、空になった洗濯籠を持ち上げて、空を見上げる。
「そういえば、今日はアレイア。仕事は午前中って言ってたわね」
ケナがぱっ、と顔を上げる。
「買い物ついでに迎えに行こうか」
「うんッ!」
勢い良く頷いたケナに微笑んで、帽子を取ってくるように言う。ぱたぱた、というかばたばたと家の中に飛び込んでいく小さな背を追って、フィーナは籠を担いでリビングへと入った。
いつも籠を置いている棚にそれを片付けて、薄っすらと額に浮かんでいた汗を拭う。
一息ついて、次は買い物用の籠を探す。棚の上の段に手を伸ばし――手が空ぶった。
一瞬、首を傾げてすぐに手を打ち鳴らす。そうだ、昨日は結局荷物をアレイアに運んでもらって、キッチンに置きっ放しになっていたっけ。
狭いリビングを横切ってキッチンへ向かう。
「あったあった」
小さな食料庫の前の床に放り出されていた買い物籠を持ち上げる。折った身体を持ち上げようとして、
「……ん?」
普段は目につかない、食料棚の裏側が見えた。見えるのは木目だけのはずだが、ひらり、と何か薄っぺらな紙が張り付いている。
「何だろ……?」
手を、伸ばしかけて。
「フィーナちゃーん! 早く行こーよーッ!!」
小さなお姫様の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってー!」
大声で返して、急いでキッチンを出た。あの娘は活発すぎて、待たせるとどこに飛んでいくか分からない。
キッチンに背を向けて、テーブル脇にかけてあった家の鍵を取って玄関へと走った。
「……戦争、ですか?」
「ああ、そのせいで砂糖の値段が上がってしまいましてねぇ……」
馴染みの菓子屋の店主は、そう言って溜め息を吐いた。
アレイアとケナが郊外に住むこの小さな村には珍しいことに菓子屋というものがあった。店内は普通の民家のようにこぢんまりとした造りだが、おかみ手作りの素朴なクッキーやケーキが並び、また菓子の材料になる白糖や小麦粉が比較的安く手に入る。
アレイアの職業先に度々、差し入れとして持って行くことがあるため、またフィーナ自身も菓子作りのレシピだけは手に染み付いていて、短い間にも彼女はちょっとした常連になっていた。
その店で、今日、フィーナは首を傾げることになったのだ。
先週と比べて砂糖や小麦粉の値段が少しばかり上がっていたからだった。
疑問に思って店主に問い、返って来たのがその一言だった。
「小麦とか。そういうもんは全部、兵士さんたちに優先して流れていってしまうんですよ。私らはそのあまりを高い値で買うしかありませんでね。
うちも長らく耐えて来ましたが……今回ばかりは」
「そう……なんですか」
歯切れ悪く答える。
目覚めたとき、もちろんフィーナには、自分が今いるこの国がどうなっているかなどという記憶さえ残ってはいなかった。
アレイアに寄ると、このゼルゼイルという島国は、五十年もの間、北と南に分かれて戦争をしているらしい。
その戦争は、長らく拮抗した状態にあったが、最近になって南方の国であるエイロネイアの皇室の息子――つまりは皇太子になるわけだが、彼が戦の才を発揮し、徐々に境界線を北に押しやっているとか何とか。
そして、この村は北方シンシアと南方エイロネイアの境界線付近に存在する。一応、シンシアの領土内に当たるらしい。
戦火が降りかかっていないのは、山深い田舎で、まったく両者にとって戦略的価値がないためだそうだ。戦争や小競り合いが起こっているのはもっぱら平地の方らしい。
「ここは安全だけど物を運んでくるのにちょいと面倒なんだ。砂糖とかはどうしても平地の方から持ってこなきゃならん。
ちょっと高めになっちまうが、まあ、お金で安全は買えないからねぇ……」
「……」
そう言って仕方なさそうに頬を掻く店主。それを目の端に止めながら、彼女は腕を組む。
ここに暮らしているだけならば、そんな戦火など微塵も感じない。のどかなものだ。けれど、山を一つ越えてしまえば、平地で戦火が飛んでいる。
記憶を失くしたフィーナには、とても現実離れしていて――
「……」
いや、現実離れ、しているのだろうか。
戦火、シンシア、エイロネイア。まったく知らないはずのその単語を聞くたびに、胸のどこかがちりちりと得体の知れない感覚を抱くような……。
――ん、んー……
頭で考えても、やはり何も出て来ない。
深みに嵌るより先に、店主が「今日はどうするのか」と声をかけて来た。
思考を切り替えて、財布の中身を思い出す。
アレイアの仕事は力仕事だ。いわゆる運搬行。きこりが伐採した丸太を運んだり、農家で作物や肥料を運んだり。たまには雑貨屋で肉体労働もしている。
不安定と言うなかれ。田舎の野良仕事中心の村には良くある職業である。
しかし、それとは別に、特別な依頼で農業の弊害となる獣やゴブリンなどの害獣を退治したりもしている。どうやら腕に覚えがあるらしい。家にも錆び付いていない剣が何本か転がっていた。
そういう仕事の報酬はやはり少しばかり多い。といっても当然、それほど余裕がある家庭でもない。
皮算用を終えた彼女は、いつもより少しだけ少な目の砂糖と小麦粉を注文する。
店主は人の良い顔で、けれどもやはり少しだけ寂しそうな顔をして、「はいよ」と答えた。
店主が量を測っている間、彼女はめぼしいものがないか、あまり広くない店内を物色する。
いつもと同じ甘い香りが漂っていて、綺麗にラッピングされたクッキーと砂糖菓子が大きめのバスケットに並んでいる。
一つくらい、ケナに買ってやってもいいか。この間はちゃんとブロッコリーも食べたことだし。
そう思って青いリボンのついた飴玉の包みを持ち上げて、レジの向こうの店主へ声をかけようとして、
「!?」
ぞくり、と。
何故か、寒い、寒い悪寒が、彼女の背中を駆け抜けた。
身体の四肢がぴきん、と緊張する。その寒い感覚は身体を拘束し、一瞬で解放される。
それと同時に彼女は背後を振り返った。
「あ……」
きぃきぃと音が鳴っている。見慣れた赤いポップなカーテンがかけられた窓辺。確か、最近風が吹いた程度で軋んでしまうようになった、と言っていたっけ。
でも、それだけ。
見慣れた窓が、外の人波が見えているだけだった。
―― ……疲れて、るのかな……
何だったのだろう?
身体があんなふうになるなんて、今まで無かった。一体、今の違和感は……。
「……ナちゃん、フィーナちゃん!」
店主の呼ぶ声にはっ、と我に返る。カウンターを振り返れば、小袋を差し出している彼の姿があった。
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです……」
手に持っていた飴の包みをカウンターへ持っていく。店主が代金を計算し始める。
それを待ちながら、彼女はもう一度窓辺の方へ目を寄せる。
窓辺には、先ほどと同じように、静かに小さくカーテンが揺れるだけだった。
「はーぁ」
久しぶりに晴れた空を見上げて、ケナは小さく肩を竦める。
お菓子屋さんのドアの手前に立っている。目の前は人通りでごった返していて、中からは甘い香りが漂ってくる。
鼻をつく大好きな甘い香りに、また剥れた。
こんなにいい匂いなのにおあずけなんて、子供には酷過ぎる。むぅ、と膨れて冷たいガラスのドアに背をつける。
こつこつと流れていく人の踵だけが見える。がやがやと喧騒が耳に入る。
時間が長く感じられる。お父さんやフィーナちゃんと話しているときは、あんなに時間が短いのに。
剥れたままのケナの耳に、不意に甲高い笑い声が飛び込んで来た。どこかでも感じたことのある既視感に、表情を歪める。
顔を上げると、ドアの内側に自分と同じくらいの背丈の子供が見えた。慌ててドアの前からどける。
からからん、と店のベルが鳴って、ケナと同い年くらいの男の子が棒にささったキャンディを舐めながら上機嫌に出て来た。
飴の棒を握る反対側の手では、ぎゅ、としっかり母親の手を握っている。
「……」
ケナが道を譲ると、微笑ましく笑いあった親子はその脇を素通りする。男の子が店先の僅かな段差でよろけて、母親は慌てて手を引くことで転ばせないようにする。
「もう、気をつけなきゃ駄目でしょ」
「だ、大丈夫だよッ!」
母親の窘める声に、強がりで答える。だが、一瞬だけ損ねた機嫌も手に持った甘い飴でころっと直ってしまう。母親はふ、と笑って再び彼の手を引いた。
親子はそのまま、通りの向こうへ消えていく。
「……」
ケナは黙ってその後姿を眺めていた。人込みに紛れて二つの影が見えなくなると、足元に転がっていた小さな石ころを蹴った。
こつん、と音がして小石が階段を転げ落ちる。最後には、人波の靴の流れに紛れて見えなくなった。
「……」
ケナはふん、と鼻を鳴らす。
「……寂しくないもん」
からからん。
ケナの小さな呟きを、軽快なベルが掻き消した。背にしたドアが開いていた。
「ごめんねー、ケナちゃん。遅くなって」
「あ」
買い物袋を提げたフィーナがかがんで視点を合わせて来る。ケナは顔を上げた。笑顔を作る。胸を、張る。
「遅いよー、フィーナちゃん! 何してたのー!?」
「ごめんごめん。ちょっと話し込んじゃった」
「もー、フィーナちゃんてばー……」
「だからごめんって。はい、お詫びにこれ」
「?」
籠の中からフィーナが何かを取り出した。白い彼女の手の合間に青いリボンが広がる。差し出されて両手を出した。
小さな包みが、ケナの小さな掌に乗せられた。
「あ……」
小さな包みの中に見えたのは、べっ甲色の小さな砂糖菓子。
「あ、う、うん……」
「嫌い?」
今ひとつ鈍いケナの反応に、フィーナが不安げな声を出す。ケナは慌ててぶんぶんと首を振った。
がさがさと急くように、けれど包みを破らないように丁寧に開いて、べっ甲色の飴を取り出す。そのまま頬張った。
甘くて香ばしい味が口の中に広がった。
「ケナちゃん?」
飴を口の中へ放り込んだケナが、唐突にスカートにしがみ付いてきた。彼女は首を傾げながらも、自分と同じ金髪を撫でた。
「どうかした?」
「……」
少しの沈黙があった。だが、ケナはすぐに顔を上げて、いつものようににっ、と笑って、もう一度甘えるように抱き着いてきた。
「何でもないよー、ありがとう! フィーナちゃん、大好き!」
「?」
その様子に、フィーナはまた少し首を傾げたが、彼女の表情があまりにもいつも通りだったので気にかけないことにした。
離れたケナが、上機嫌で小さな手を伸ばしてくる。それに応えて小さな手を握る。彼女はまた満足げに微笑んで、フィーナを引き摺らんばかりの勢いで町中へと飛び出した。
「シリア、シリア!!」
大声と共に地下の研究室のドアを開く。その脳天に、
どがッ!
分厚い蔵書の角がクリティカルヒットした。
「……レディのいる部屋にノックも無しで飛び込んでくるなんて、些かマナーがなっていなくてよ、アルティオ」
「スイマセン……じゃなくって!」
普段よりも三倍速程度、早く復活したアルティオは鬼気迫る表情でがばり、と起き上がる。
その様子にさすがにただならぬものを感じたシリアは、憮然としていた表情を真顔に戻した。
「……何か、あったの?」
「ああ、なんて言うか……。まあ、来て見てくれよ」
「分かったわ」
研究室内に、他の魔道師たちが働いているのを慮ったのだろう。静止した魔道師たちに指示を出してから、シリアはアルティオを急かすように廊下に出た。
ごぅん、と背中で重い地下室の扉が閉まる。扉に阻まれていれば、こちらの声は中まで聞こえないはず。
「……で?」
「ああ」
苦い表情でアルティオは階上へと伸びる階段の上を指差した。そのまま先導するように歩き出す。
シリアは双剣を背負う背中について階段を上った。
地上に出ても、彼は階段を上り続ける。確か、彼は砦の塔の上で見張りをしていたはず。そこまで連れていく気なんだろう。
シリアの額に汗が浮かんだ。上り続けて疲れたわけじゃない。これは脂汗だ。
見張りに立っていた彼が、他の魔道師には気取られないように、シリアだけを呼びに来た。
それが一体何を意味するのか――想像には、難くない。
やがて塔の見張り台に着き、彼と共に見張りに立っていた数人の兵士の真っ青な顔色を見て、シリアの懸念は確信に変わった。
ごくり、と固唾を飲み下す。
「……で」
聞きたくもない先を促す。アルティオはやはり苦い顔で、額に同じような汗を浮かべながら、塔の小さな窓を指差した。
かりッ――数日で癖になってしまったらしい。爪を噛んで、シリアは笑いそうになる膝を叱咤して、その窓に近づいた。自分のヒールのかつん、という音が妙に五月蝿い。
シリアは、深呼吸をしてから、その窓を覗いた。
塔の上から見える、遠い丘の上に、幾つもの黒い点と、翻る八咫鴉の紋の旗が見えた――。
←9へ
ふにっ。
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
←8へ
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
←8へ
「くーださいなッ!」
店の中に幼い少女の声が轟き渡る。甲高い声に、他の客と世間話をしていた店主の女将は、視線を足元へと下げた。
金髪の、短めのツインテールが、視線の下でひょこひょこと弾んでいる。赤いリボンの可愛らしい、あどけない顔と表情。大きな葡萄色の瞳がくるくるきらきらと良く動く。歳は十を出ていないだろう。小さな身体の細い腕に、大きな買い物籠をぶらさげていた。
「おや、いらっしゃい! ケナちゃん、おつかいかい」
「うん! フィーナちゃんね、家のこと大変そうだから、ケナお手伝いするの!」
「そうかい、偉いねぇ。で、今日はなんだい?」
「えっとね、えっとね……」
んと、んと、と拙い言葉を連呼しながらごそごそと籠の中を漁る。小さなメモを取り出して、大きな声で読み上げる。
「えっとねー、たまねぎとねー、トマトとー、あとタマゴとブロッコリー!」
「おやおや、羨ましいねぇオムライスかい?」
「うん! フィーナちゃんがね、ちゃんとブロッコリー食べるなら作ってくれるって言ってたの! ケナ、オムライス大好きだから頑張って食べるの!」
「そうかいそうかい。じゃあ、おまけをつけてあげないとねぇ。ちょっと待っててね」
「わぁい!」
女将は読み上げられたものを籠に入れ、側にあった桃を丁寧に剥き始める。ケナは商品の積まれた台に両手をついて、果汁の垂れる桃に目を輝かせている。
女将と話をしていた買い物帰りの主婦も目を細めてそれを眺めていた。
しゅるしゅると剥かれていく桃色の皮に、飛び跳ね始めたケナ。待ちきれなくて、きょろきょろと視線を迷わせる。と、店の影から茶色の子犬がひょいと顔を出す。
「あ」
「? ケナちゃん?」
ぱっ、と明るい笑顔を向けると、買い物籠を置いてケナは走り出した。ぱたぱたという足音に驚いたのか、子犬はそのままストリートへと駆け出す。
「あ、こらー!」
くるり、と方向転換。少女の視界には、へっへっと駆けて行く子犬の背中が見えるはずだった。ケナもそれを期待していた。が、
ばふッ。
「ッ!?」
急に視界に影が差し、何かに衝突する。軽いケナの身体は、容易くころん、と後ろに転がった。
「たぁ~……」
「け、ケナちゃん!」
少し転がっただけなのに、血相を変えた女将がこちらに呼びかけてくる。何故、そんな青い顔をしているのだろう、とケナは目の前の障害物をきょとんとした目で見上げた。しかし、それが何なのか、確認が済むより先に、
「ぁあッ!? 何しやがる、このガキッ!?」
無駄に大きな野太い声がケナの鼓膜を突き抜けた。思わず追いかけていたはずの子犬のように両耳を抑えて縮こまった。
耳の痛みか、何なのか、反射的にじわり、と涙が滲む。
おそるおそる目を開くと、思い切りつり上がった黒目が、ケナを見下ろしていた。じゃらじゃらと耳に五月蝿い、変なアクセサリーをいっぱいぶら下げて、へんてこな服を着ている。逆光にアクセサリーのきらきらが目に痛い。大きな図体もあって、まるで熊のようだ。
「ふぇ……ッ」
「俺の大事な足に体当たりたぁ、いい度胸じゃねーか、ぁあッ!? てめぇ、どこのガキだッ!?」
「……ぅ、ぅう……」
ごめんなさい、と口にしかけたケナの表情が固まる。そのまま動けない。大声に足が竦んで、さっきまであんなに駆け回っていたのに、麻痺したように手足が動かない。怖い。
「ちょっとあんた!」
桃を剥いていた包丁を置いて、女将がケナの前に出た。
「こんなちっちゃい子にいちゃもんつけるんじゃないよ! 何さ、怪我もしてないだろ!?」
「ぁあッ!? ババァは引っ込んでろ! こいつぁ、オトシマエってやつだよ。人の足に突っ込んできたガキにゃあ、教育が必要なんだよ!」
「何が教育だい! いい大人が恥ずかしいね! 教育なんてものがやりたかったら、こんなところブラブラしていないで、きちんと働いたらどうなのさ!」
「こんのババァ……!」
人間は図星をつかれると、堪忍袋の尾が軟弱化するらしい。こんな粗暴を絵に描いたような男など、特に。
ぽかんと涙目のケナの前で、熊のような男が、拳を振り上げた。
ケナははっ、とする。女将は逃げない。むしろ男を睨みつけて、ケナを庇っている。
――だ、だめ……
逃げて、と言おうとした。けれど、恐怖で喉がつかえて、声にならない。
振り上げた拳が、動く。
ケナは思わず目を閉じた。けれど、
びしッ!!
「ッづ、だぁぁぁ~~~ッ!?」
奇妙な音がした。えっと、ああ、八百屋の女将さんが旦那さんをビンタしてたときに、同じような音がした。でも、あんな音よりずっと重い。それに、何か人の声と思えないようなひしゃげた声がした。
震えながら目を開けると、ちょっとだけ茫然とした女将の背中が見えた。その背中の向こうには、さっきケナがぶつかってしまった熊のような大男。
けれど目を開ける前の威圧感はなくて、ちょっと赤く腫れた右手を押さえて蹲ってる。……ちょっと泣いてる? そんなに痛いの?
何が起こったのかよく解らない。解らないケナの耳に、じゃり、と足が砂を踏みつける音が届いた。
棚引いた綺麗な金色の髪が、目に入った。
「あ……」
恐怖を忘れて立ち上がる。一歩歩くと、女将と男の合間に人影が見えた。
少しだけ小柄。華奢に見えるが、腕足にしっかりと筋肉は付いている。ふん、と鼻を鳴らして腕を組むと、また陽光に光を放つ長い金色の髪の房が跳ね上がった。意志の強い碧眼は軽蔑するように男を睨んでいる。
ケナと揃いの青いリボンと、ふわりとしたフレアスカートとカーディガン。歳相応の、可愛らしい村娘だが、浮かべた敵意の表情は肉食獣のそれだ。
彼女の顔が見えて、ケナがぱっと涙を引っ込める。
「フィーナちゃん!」
「まったくもぅ……。『私が行くー!』って言うもんだから、こっそり付いて来てみれば……」
「ごめんなさぁ~い……」
駆け寄って、女性のフレアスカートに飛び込んだ。汗と、ちょっと甘い匂いがして、そのまま抱きつく。かすかに笑う気配がして、ふわふわと頭を撫でられた。
「女ァ……てめぇ、何しやがる!?」
男の粗暴な声が飛ぶ。対してフィーナ、と呼ばれた彼女は、眉根を吊り上げて、強面の顔を真っ向から睨んだ。
「何しやがる、はこっちの科白よ! 子供が当たったくらいでどうこうなるような軟弱な図体でもなかろーし、挙句に何? 逆ギレして関係ない女の人に手を上げるわけ? でかい図体に乗ってるのは単なる飾り? 世の中はあんた中心に回ってるわけじゃないのよ!?」
「うるせぇ!」
一気にまくし立てた彼女に、男が語彙で反論するはずもなく。再び拳を握る。
彼女はケナを背中に隠すと、先ほどと同じように男の手を叩き落そうと半歩、後ろに下がった。が、今度は男の手が動くよりも先に、
「ぐ、いでででででッ!?」
拳を固めていたはずの男の手が、いつのまにか背後に回っていた。腕を捻り上げられ、ついでに背中に回されて完全に腕を封じられた男の哀れなくぐもった悲鳴が響く。
「あら、アレイア。おかえりなさい」
「おとーさん!」
男の背後に立っていた、また別の男――青年、と呼ぶには少々歳が出ているが、中年と呼ぶには若すぎる――が呆れた表情でフィーナを見た。フィーナの背中にいたケナが、ひょこりと顔を出して、これまた同じように目を輝かせる。
彼女が駆け出すより先に、男を拘束していた、アレイアと呼ばれた男が溜め息を吐いた。
「あのなぁ、ケナ。急に飛び出さないよういつも言っているだろう? 周りにもちゃんと気をつけなさい」
「はぁ~い……」
やや緑がかった黒髪を、汗で額に張り付けながら彼は言う。歳よりも大人びて見えるのは、窘める口調だからなのか。
しゅん、として答えるケナから、今度は少女を庇う彼女に紫紺の目を向ける。
「フィーナ、お前もなぁ……。街中で何かあったら呼べ、って言ってるだろ……。何でわざわざ火種を広げるんだよ」
「呼んでる暇なんてなかったし。大体、日中は仕事じゃない」
「そりゃそうだが……」
「おい! 離しやがれッ、てっめぇッ!!」
アレイアが言いよどんでいると、腕を掴まれたままの男が声を荒げて背後を睨む。しかし、彼は急にすっと無表情になって、恐ろしく冷めた表情でそれを見下ろした。気圧された男が、短い悲鳴を上げる。
げしッ!
「ッ!」
男が声にならない悲鳴を上げた。腕を放したアレイアが、男の足を思い切り皮のブーツで踏んづけたのだ。男は抗議しようと振り返るが、それよりも先に、喉元に手刀が突きつけられた。
目の前にある紫紺の瞳は、それ以上なく冷えていて。視線を合わせているだけなのに、だらだらと、嫌な汗が額を、背中を流れていく。
「……二度とフィーナとケナに余計な真似をするな」
先ほど彼女たちを窘めた声とは比べ物にならないほど低い声が発せられる。そうなって初めて男は程度というものを理解したらしい。可哀相なほど顔を歪めて、必死にこくこくと頷いた。
その様子を見て、アレイアはようやく手を離す。短い悲鳴を残しながら、男はあたふたと通りの向こうに消えていった。
ぱんッ! と拍手が上がる。
「やー、さすがアレイア! あっぱれ!」
「……本当に調子いいな、お前」
「おとーさん、すごぉいー!」
ぱたぱたと駆け出したケナが、男の上着へと飛びついた。たたらを踏みながらそれを受け止めたアレイアは、ふ、と微笑みを浮かべて少女の小さな身体を抱き上げた。
「いやー、良かった良かった」
「あ、すいませんー。ご迷惑おかけしました。大丈夫ですか?」
明るい笑顔を浮かべて話し掛けて来た女将に、フィーナは丁寧に頭を下げる。だが、女将は頭を振って、豪快に笑ってみせる。
「ぜんっぜん! 迷惑なんぞじゃないよ。あたしも助けてもらった身さぁ。
アレイアの旦那も相変わらず逞しいけど、フィーナちゃんも強いねぇ。尻込みもしないなんてさ」
「あっはっは、あんな奴、束になってかかって来るくらいじゃないと物足りませんよー」
「はははははッ! そうかい、頼もしいねぇ!」
女将と彼女の些か物騒な会話に、アレイアが不自然な咳をする。彼としては窘めているつもりなのだが、気づいているのかいないのか、意にも介さないのが彼女の恐ろしいところである。
「フィーナちゃん、ごめんね。だいじょうぶ?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとケナちゃんのおとーさんが助けてくれたし。全然平気。ケナちゃんは?」
「ケナもー」
ぱっ、と笑って再度、フィーナに抱きつく幼い少女。少女を腕に抱いたまま、彼女は勢いでくるりと一回転してみせる。はた、とその目が店頭に留まった。
そういえば、買い物の途中だった。
「ハンナさん、あの……」
「ああ、ごめんねぇ。あたしとしたことが。はい」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながらたまねぎとトマト、ブロッコリーが入った買い物籠を受け取る。中に入っていたはずの財布を取ろうとして、そのフィーナの手を女将が止めた。
「へ?」
「今日はあたしの奢りだよ。何だかんだで助けてもらっちまったしねぇ」
「そんな、だって迷惑かけたのはこっちですよ?」
「気にしなさんな、困ったときはお互い様さ! 早く帰ってケナちゃんに美味しいオムライス作っておあげよ」
「オムライス!」
思い出したようにケナが心底嬉しそうに騒ぎ出す。まだ匂いも嗅いでないのに、無邪気なものだ。
「で、でも……」
「ねぇ、旦那? これくらい、大の男なら喜んで受け取るよねぇ? いいからさ! 潔く行きなって!」
豊満な体を張って、からからと笑う女将に、アレイアは笑いながら溜め息を吐いた。フィーナよりもこの気さくな女将と付き合いが長いアレイアは、彼女の肩をぽん、と叩く。
「ほら、フィーナ、ケナも。お礼を言いなさい」
「え、えっと、うん……。あ、ありがとうございます」
「ありがとございますー!」
お辞儀をするフィーナと、やや舌っ足らずながら元気に声を上げるケナ。女将はうんうん、と頷くと、思い出したように果物籠の上に置いていた、皮の剥かれた桃を手に取った。
「ほぅら、おつかいのお駄賃だよ」
「うわぁい!」
「すいません、こんなに……」
「なぁに、桃は足が早いからねぇ。ちょうど良いってもんさ。ケナちゃん、中ほどの種はすっぱいからね。気をつけてお食べ」
「うん!」
既にくしゅくしゅと果実を頬張っていたケナは、口元を果汁に汚しながら大きく頷いた。それに呆れたように、くすりと笑うと、アレイアもフィーナも女将にもう一度頭を下げる。
「それはそうと、フィーナ」
「?」
「……いくら咄嗟だったからって、その格好で足を使うな。スカートだろ?」
「へ?」
「見えるぞ」
「!」
一瞬、きょとんとしたフィーナだったが、すぐに何のことか気が付くと買い物籠を下げていない方の手でスカートを押さえる。今さらなのに、顔は真っ赤だった。
「……見た?」
「…………………いや、それは」
「見たの?」
「……すまん」
「ッ!」
沸騰した。
赤い顔で彼女は男の顔を睨みつける。目尻には、心なしか涙が浮かんでいた。アレイアは何とかいい訳を探しだそうとするが、従来、正直者で性根の曲がっていない彼には無理な話だった。
別に彼が悪いわけではないのだが、だからといって割り切れるものでもない。
彼女は唇を尖らせたまま、「もー知らないッ!」と金切り声を吐き出して、ケナの手を握る。
「ケナ! すけべなお父さんはほっといて、さっさと帰るわよ! 今日はオムライスだから! お父さんの分はなし!」
「わぁい、オムライス、オムライスー!」
「待て! こら、ケナ! フィーナッ!」
ケナを引き摺るようにして唐突に走り出したフィーナ。ケナもケナで、子供特有の活発さで追いかけてゆくものだから、アレイアは慌てて二人を追いかける他はなかった。
石畳を騒がしく駆けて行くその背中に、女将がふぅ、と息を吐く。
「ケナちゃんも良かったわね。いいお母さん代わりが見つかって」
「まあ、お母さん、というよりは姉妹って感じだけどねぇ……。でもいい娘だよ。若いけど礼儀正しいしね。アレイアの旦那もなかなかいい娘を見つけて来たもんだ。
あそこの家はいろいろと訳アリだったみたいだからねぇ。いいことだよ」
「そうねぇ」
傍観していた女性客に答えて、女将は桃を剥いたナイフを片付け始めた。すぐに別の客から注文が入り、あいよ、といつも通りの声を返す。
世間話の相手だった女性客は、それを眺めながら、小首を傾げる。
「でもあの娘、一体どこの娘なのかしら……?」
「はい、出来上がり!」
ことん、と目の前に置かれた皿に、ケナは表情を輝かせた。綺麗な楕円の黄色い卵に、トマトソースがかかっている。側にあるブロッコリーが少しだけ気になるけれど、立派に綺麗なオムライス。
ケナはひとしきり感激した後、小さな手に大きなスプーンを取った。
「いただきまーす!」
元気に言って、いや叫んで卵にスプーンを入れる。ほかほかと湯気と共に顔を覗かせるチキンライス。トマトソースと卵と一緒に口に入れる。
ケナの輝いていた目が一層、きらきらと輝いた。
「おいしーい! フィーナちゃん、ありがとう!」
「あはは、ブロッコリー残すんじゃないわよ?」
「はーい」
そう答えた後はもう、すっかりオムライスに夢中だ。ときどきこぼすのが危なっかしいが、まあ、愛嬌というやつである。
その娘を見て、逆に溜め息を吐いたのは、対面に座っていたアレイアだ。だが、それは非難するような溜め息ではなく、仕方のない娘を呆れながら見守るような眼差しだった。
ふと、気が付いたように自分の分と彼女の分の食事を運んでくるフィーナに視線を向ける。
「すまないな。すっかりケナが世話になってる」
「別にー。それに世話になってるのはこっちだし。何も気にしてないわよ」
そう言って彼女はからっと笑った。テーブルに二人分の、ケナのものより些か大きめに作られたオムライスが置かれた。ケナがめざとくそれを見つける。
「あー、ずるいー! おとーさんとフィーナちゃんのの方が大きいー!」
「こら、ケナ!」
「それ全部食べて、ブロッコリーも全部食べたら私の分けてあげる」
「う……」
「もう一つだけ食べて、『ブロッコリー食べたー』なんて言わせないわよ。全部! だからね」
「うー、フィーナちゃんひどいー、ばかー、おにー」
「鬼でもないし、馬鹿でもない! 出されたものを手付かず残す方が、よっぽど酷いわよ!」
文句を言いつつも、皿にもっとブロッコリーが増えるのは避けたいケナはしぶしぶと手を引っ込める。スプーンの代わりにフォークを取ると、オムライスの脇にちょこんと邪魔をする緑の物体に突き刺す。
目に涙を溜めながら、鼻を摘んでぱくりと一口で飲み込んだ。すぐにジュースを流し込む。
何回か繰り返すと、皿の上からブロッコリーはすべて駆逐された。
「ん、んー、ぷはぁ! 食べたよ、フィーナちゃん!」
「よし、偉い! じゃあ、あとでちょっとだけね。デザートもあるからお腹残しておくのよ」
「デザート!? わーい、デザート! 今日は何?」
「知らないなー。ケナちゃんがちゃんと全部食べたら出てくるわよ」
「うん!」
頷いてケナは再びオムライスの解体に取り掛かった。急がなくても、きちんと食べればちゃんとデザートが出てくることを彼女は知っているのだ。
素直に嫌いなものを口に入れた娘に、アレイアは感嘆の息を吐く。
「やっぱりすごいな、フィーナ。子供の世話の才能あるんじゃないか?」
「まさか。ここ半月でコツを覚えただけよ。アレイアが甘やかしすぎるだけでしょ」
「……耳に痛いな」
頬に汗を掻きながら、アレイアは笑い返す。
自分の席に着いた彼女は、小皿に後でケナの分となるだけのオムライスを自分の皿から取り分けてから、自分のものに手を付け始める。
それを見届けてから、アレイアも自分の前に置かれた皿に手を伸ばした。
「……フィーナ」
「? 何?」
「……本当に、ありがとな」
「?」
彼女は何に礼を言われたのか解っていなかった。身勝手だが、それで良かった。
怪訝そうに眉間に皺を寄せる彼女だが、一瞬後にはケナに話し掛けられてその表情も瓦解する。二人の戯れに、もう一度柔らかく微笑んでから、アレイアはスプーンを手に取った。
「……南方の蛮族が駆逐された?」
「はい」
ラーシャは今しがた持ち越された報せに眉を潜めた。
「エイロネイアか?」
「解りません。ついでに近辺に放置されていた砦が一つ、占拠されたようです」
「そうか……」
ほ、と溜め息を吐く。戦争がある限り、その戦火から落ちぶれて、いや道を外す者は必ずいる。彼らは蛮族となって村や町を荒らす者が多い。
今しがた入った報せは、シンシアとエイロネイアの境にあり、蛮族の紛争地帯となりつつある区域の話だった。ゼルゼイルという土俵から見れば、極僅かな土地ではあるが、無視の出来るものでもない。
だが、先の戦で複数の蛮族の群れが網羅するようになり、シンシアもあえなく手を引いた土地でもあった。
その蛮族が、駆逐されたというのだ。
「近くい兵を置くわけにも行きませんので……しかし、一帯で見られていた蛮族が見られなくなりました。すべて解散したという噂もあります」
「噂を鵜呑みには出来ないが……本当なのか?」
「放置した砦に、人の出入りはあるらしいのですが……」
「エイロネイアの者か?」
「まだ、確認中です」
「そうか。確認出来次第、伝えてくれ」
「了解しました」
完結に答えたラーシャに、諜報兵は敬礼をして執務室を出て行く。
前線の要塞内に設けられた簡易の執務室には、余計なものは一切ない。デスクと水場くらいのものだ。しかし、節制を好むラーシャにとってはある種、心地良い空間だった。曇り空の暗い光の差す一室で、ラーシャは深呼吸を漏らす。
「……蛮族を駆逐。やはり、エイロネイアの手の者でしょうか」
「おそらくな。シンシアが手を引いたのを見て、掃討にかかったのだろう」
「しかし、あの土地にはエイロネイアも手を焼いていたはずでは?」
隣のデスクで山のような書簡を読み漁っていたデルタが問う。ラーシャは少し考えて、椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
「……三つ巴よりも、対戦の方が些か楽だ。我々には割ける戦力もなかったが、エイロネイアにはあるだろう」
「死人と、獣の話、ですか……」
「ああ、不快だが」
不快だが、ある意味、こちらも同罪のことをやろうとしている。
きり――ッ、とラーシャは唇を噛んだ。他に術があるはずもない。もう何度も逡巡し、諦めた問いだ。
大丈夫、ルナ殿ならば、上手くやってくれはずだ――。
大陸で交友を持った彼女を見て、彼女が言う言葉ならば任せられようと思っていた。けれど、この事態。
ルナだけではない。カノンも、レンも。未だに行方が知れないのだ。
一刻も早く、エイロネイアを押さえ込まねばならないのに。
ラーシャは首を振る。皆、頑張っている。魔道師も、シリアやアルティオ、それに勿論シェイリーンやシンシアの同士たちとて精一杯のことをやっているのだ。急ぐのはいい。だが焦ってはならない。
窓の外に薄暗い雲と荒野が見える。戦争が始まって、この土地はどれだけ荒れたのだろう。空はいつも曇っているように見えるし、たくさんの血を吸った大地は、またラーシャも知らない昔のように肥沃を取り戻すことが出来るのだろうか。
「ラーシャ様?」
「……また、大戦が起きるな」
「……」
前線の状況は芳しくない。先の戦は貴族院がシェイリーンを押し切って決行した侵攻戦だった。しかし、それが破れ、決行したのは貴族院であっても責任は采配を握っていたシェイリーンに押し付けられる。矛盾もいいところだ。
今度は防衛線になる。
エイロネイアはシンシアほど兵を消費していない。足場は前回同様、向こうが不利だろうが、だからこそこの機に進軍してくるはずだ。
ラーシャの帰還により、兵の士気は徐々に回復しつつある。だが、どれほどかも知れない兵力差は恐ろしい。
次の戦は近い。せめて、それまでに抵抗手段が見つけられていれば――。
いや、これは贅沢だ。魔道の研究には、本来膨大な時間と資料と人が必要になる、と教わったばかりだ。
ならば、ラーシャの仕事は、ここで進軍を食い止めること。それだけだった。
「ラーシャ様」
「すまない。私がこんなことでは駄目だな。兵の士気にも影響する」
「いえ。……顔色が優れません。残りの仕事は片付けて置きますから、少し休憩してきてはどうですか?」
ばさり、と書類の束を持ち上げてデルタが言い放つ。
「出来るわけがないだろう。お前に仕事を押し付けようとは……」
「いいから、休憩を取ってください。私が倒れても、軍事にはそれほど影響しないでしょうが、貴方が倒れればそれこそシンシアは危機を迎えるんです」
ラーシャはデルタの強情をよく知っていた。一目見ただけでは静かな印象のある彼だが、その実、かなり強情で一本気だ。こう、と言い出したら聞く耳すら持たない。
「……わかった。しかし、デルタ」
「はい?」
「お前も倒れるほどに無理はするな、魔道部隊の指揮は私では些か役者不足。お前にいて貰わねば困る」
「……」
デルタはしばし、言葉を切った。瞑目して、やがて彼にしては珍しい労わるような笑みを口元に浮かべた。
「……はい。光栄です」
いつも構えなくとも良い、と言っているのに、礼儀のスタンスを崩さないデルタに、ラーシャはこっそりと溜め息を吐く。
もう一度、ペンを持った彼に礼を言って、ラーシャは帯剣して部屋を出た。
肌寒い風だ。子供の頃は、こんなに風が冷たいものだとは思わなかったのに。
砦の最上、屋上の石段に登り、通り過ぎた風に羽織ったマントで腕を庇いながら、ラーシャはふと考える。
以前のゼルゼイルは、こんな天候ではなかったという。極めて温暖な気候で、晴れ空が続くような。
なのに、急な気象変化で今では曇り空が定番。太陽がなくなったわけではない。それでも、冷夏が毎年のように続くようになった。
――戦を続け、血を流す者への……罰なのかな、これは。
ふ、と自嘲気味に笑って、ラーシャは屋上に出た。
先ほどの窓辺以上に、戦場となるだろう荒野が見渡せる。
「……」
最後に眺望が美しいと感じたのは、いつだっただろうか。いつのまにか、景色はいつも灰色を被ってしまったような気がする。
姉がいなくなったあの日から、甘える人間のいなくなったあの日から――?
いや、違う。
ごそり、とラーシャは懐を弄った。手に当たる、優しい土の温もりを抜き出した。
オカリナだ。
「……本当に、駄目な人間だな、私は」
何かに、誰かに縋らないと生きていけないのか。
元々、ラーシャに楽才などなかった。姉がいなくなったあと、寂しさに泣いて暮らしていたラーシャの心を慰めたのが、初めて聞くオカリナの音だった。
後で知ったことだが、戦場に音楽を、楽器を持ち込む兵士は実は多い。楽器さえ、いや、音さえあれば楽しめる音楽というものは、戦場に立つ者に許された数少ない娯楽であったからだ。
そして、慰められたと思ったのに。
ラーシャに初めてオカリナの音を説いてくれた人も、やがて彼女の前から消えて。
また、景色は灰色になった。
結局は甘えてばかりなのだ。最初は姉に、次はその人に。今も、きっとそこから抜け出せてはいないのだろう。理由に縋って、何とかこの場所に立って、重い枷に耐えているだけ。
「……」
だが、人は成長する。いつかは、一人の力で立たなくてはならない。
ラーシャは曲がりなりにもこの国の指導者に認められ、中将という地位を手に入れた。けして万人に与えられるわけではない、数少ないチャンスを手にしているのだ。
義務も、権利も、手の中にある。
だから、剣を振るわなくてはならない。自分の力で。
オカリナの側面についた、不自然な傷をなぞる。
折れそうな決意を、奮い立たせながら、もう一度まっすぐに戦場を見渡す。この地を、この国を、終わらせたくはない。
いや、それは正しくない。ラーシャはまだスタートにも至っていない。この国を、変えるスタートにすら立っていないのだ。
悲観は、早すぎると、言ったばかり。
「そうだな。死ぬときは」
この景色が、美しく見えていればいい。
「――?」
不意に、耳慣れた音が聞こえた。優しく、耳に木霊する土の音色。ラーシャが初めて覚えた楽の音。かすかだが、確かに、耳に届いた。
少しだけ驚く。音の源を探してみようにも、風の具合でどこから聞こえているのか解らない。分からないが、ラーシャのものではないこの音色を聞くのは、実は初めてではなかった。
戦の度に、時折、ギターや鈴の音に混じって、かすかに響いて来るオカリナの音。
戦の最中で、音楽に束の間の休息を求める者は、何もラーシャだけではない。誰が吹いているかも分からないが、その者も、戦に立つべき者なのだろう。
もうじき始まる新たな戦に、戦意を奮い立たせているのか。あるいは、暗く寒い戦場に折れそうな自らの心を慰めているのか。あるいは……
「……悲しいな」
こんなにも、人を追い詰めているのは同じはずの人なのだ。
ラーシャはオカリナの吹き口を、唇まで持ち上げる。二、三度、空吹きしてから、気の早いレクイエムを奏で返した。
かすかに耳に響いて来るオカリナが、ふと止まる。
しばらく間を置いて、その音は、ラーシャのオカリナに合わせるように同じ旋律を紡ぎ出した。
少しだけ寒い風と共に、ほんの短いレクイエムが、戦場を駆けた。
戦は、もうすぐそこだった。
←7へ
店の中に幼い少女の声が轟き渡る。甲高い声に、他の客と世間話をしていた店主の女将は、視線を足元へと下げた。
金髪の、短めのツインテールが、視線の下でひょこひょこと弾んでいる。赤いリボンの可愛らしい、あどけない顔と表情。大きな葡萄色の瞳がくるくるきらきらと良く動く。歳は十を出ていないだろう。小さな身体の細い腕に、大きな買い物籠をぶらさげていた。
「おや、いらっしゃい! ケナちゃん、おつかいかい」
「うん! フィーナちゃんね、家のこと大変そうだから、ケナお手伝いするの!」
「そうかい、偉いねぇ。で、今日はなんだい?」
「えっとね、えっとね……」
んと、んと、と拙い言葉を連呼しながらごそごそと籠の中を漁る。小さなメモを取り出して、大きな声で読み上げる。
「えっとねー、たまねぎとねー、トマトとー、あとタマゴとブロッコリー!」
「おやおや、羨ましいねぇオムライスかい?」
「うん! フィーナちゃんがね、ちゃんとブロッコリー食べるなら作ってくれるって言ってたの! ケナ、オムライス大好きだから頑張って食べるの!」
「そうかいそうかい。じゃあ、おまけをつけてあげないとねぇ。ちょっと待っててね」
「わぁい!」
女将は読み上げられたものを籠に入れ、側にあった桃を丁寧に剥き始める。ケナは商品の積まれた台に両手をついて、果汁の垂れる桃に目を輝かせている。
女将と話をしていた買い物帰りの主婦も目を細めてそれを眺めていた。
しゅるしゅると剥かれていく桃色の皮に、飛び跳ね始めたケナ。待ちきれなくて、きょろきょろと視線を迷わせる。と、店の影から茶色の子犬がひょいと顔を出す。
「あ」
「? ケナちゃん?」
ぱっ、と明るい笑顔を向けると、買い物籠を置いてケナは走り出した。ぱたぱたという足音に驚いたのか、子犬はそのままストリートへと駆け出す。
「あ、こらー!」
くるり、と方向転換。少女の視界には、へっへっと駆けて行く子犬の背中が見えるはずだった。ケナもそれを期待していた。が、
ばふッ。
「ッ!?」
急に視界に影が差し、何かに衝突する。軽いケナの身体は、容易くころん、と後ろに転がった。
「たぁ~……」
「け、ケナちゃん!」
少し転がっただけなのに、血相を変えた女将がこちらに呼びかけてくる。何故、そんな青い顔をしているのだろう、とケナは目の前の障害物をきょとんとした目で見上げた。しかし、それが何なのか、確認が済むより先に、
「ぁあッ!? 何しやがる、このガキッ!?」
無駄に大きな野太い声がケナの鼓膜を突き抜けた。思わず追いかけていたはずの子犬のように両耳を抑えて縮こまった。
耳の痛みか、何なのか、反射的にじわり、と涙が滲む。
おそるおそる目を開くと、思い切りつり上がった黒目が、ケナを見下ろしていた。じゃらじゃらと耳に五月蝿い、変なアクセサリーをいっぱいぶら下げて、へんてこな服を着ている。逆光にアクセサリーのきらきらが目に痛い。大きな図体もあって、まるで熊のようだ。
「ふぇ……ッ」
「俺の大事な足に体当たりたぁ、いい度胸じゃねーか、ぁあッ!? てめぇ、どこのガキだッ!?」
「……ぅ、ぅう……」
ごめんなさい、と口にしかけたケナの表情が固まる。そのまま動けない。大声に足が竦んで、さっきまであんなに駆け回っていたのに、麻痺したように手足が動かない。怖い。
「ちょっとあんた!」
桃を剥いていた包丁を置いて、女将がケナの前に出た。
「こんなちっちゃい子にいちゃもんつけるんじゃないよ! 何さ、怪我もしてないだろ!?」
「ぁあッ!? ババァは引っ込んでろ! こいつぁ、オトシマエってやつだよ。人の足に突っ込んできたガキにゃあ、教育が必要なんだよ!」
「何が教育だい! いい大人が恥ずかしいね! 教育なんてものがやりたかったら、こんなところブラブラしていないで、きちんと働いたらどうなのさ!」
「こんのババァ……!」
人間は図星をつかれると、堪忍袋の尾が軟弱化するらしい。こんな粗暴を絵に描いたような男など、特に。
ぽかんと涙目のケナの前で、熊のような男が、拳を振り上げた。
ケナははっ、とする。女将は逃げない。むしろ男を睨みつけて、ケナを庇っている。
――だ、だめ……
逃げて、と言おうとした。けれど、恐怖で喉がつかえて、声にならない。
振り上げた拳が、動く。
ケナは思わず目を閉じた。けれど、
びしッ!!
「ッづ、だぁぁぁ~~~ッ!?」
奇妙な音がした。えっと、ああ、八百屋の女将さんが旦那さんをビンタしてたときに、同じような音がした。でも、あんな音よりずっと重い。それに、何か人の声と思えないようなひしゃげた声がした。
震えながら目を開けると、ちょっとだけ茫然とした女将の背中が見えた。その背中の向こうには、さっきケナがぶつかってしまった熊のような大男。
けれど目を開ける前の威圧感はなくて、ちょっと赤く腫れた右手を押さえて蹲ってる。……ちょっと泣いてる? そんなに痛いの?
何が起こったのかよく解らない。解らないケナの耳に、じゃり、と足が砂を踏みつける音が届いた。
棚引いた綺麗な金色の髪が、目に入った。
「あ……」
恐怖を忘れて立ち上がる。一歩歩くと、女将と男の合間に人影が見えた。
少しだけ小柄。華奢に見えるが、腕足にしっかりと筋肉は付いている。ふん、と鼻を鳴らして腕を組むと、また陽光に光を放つ長い金色の髪の房が跳ね上がった。意志の強い碧眼は軽蔑するように男を睨んでいる。
ケナと揃いの青いリボンと、ふわりとしたフレアスカートとカーディガン。歳相応の、可愛らしい村娘だが、浮かべた敵意の表情は肉食獣のそれだ。
彼女の顔が見えて、ケナがぱっと涙を引っ込める。
「フィーナちゃん!」
「まったくもぅ……。『私が行くー!』って言うもんだから、こっそり付いて来てみれば……」
「ごめんなさぁ~い……」
駆け寄って、女性のフレアスカートに飛び込んだ。汗と、ちょっと甘い匂いがして、そのまま抱きつく。かすかに笑う気配がして、ふわふわと頭を撫でられた。
「女ァ……てめぇ、何しやがる!?」
男の粗暴な声が飛ぶ。対してフィーナ、と呼ばれた彼女は、眉根を吊り上げて、強面の顔を真っ向から睨んだ。
「何しやがる、はこっちの科白よ! 子供が当たったくらいでどうこうなるような軟弱な図体でもなかろーし、挙句に何? 逆ギレして関係ない女の人に手を上げるわけ? でかい図体に乗ってるのは単なる飾り? 世の中はあんた中心に回ってるわけじゃないのよ!?」
「うるせぇ!」
一気にまくし立てた彼女に、男が語彙で反論するはずもなく。再び拳を握る。
彼女はケナを背中に隠すと、先ほどと同じように男の手を叩き落そうと半歩、後ろに下がった。が、今度は男の手が動くよりも先に、
「ぐ、いでででででッ!?」
拳を固めていたはずの男の手が、いつのまにか背後に回っていた。腕を捻り上げられ、ついでに背中に回されて完全に腕を封じられた男の哀れなくぐもった悲鳴が響く。
「あら、アレイア。おかえりなさい」
「おとーさん!」
男の背後に立っていた、また別の男――青年、と呼ぶには少々歳が出ているが、中年と呼ぶには若すぎる――が呆れた表情でフィーナを見た。フィーナの背中にいたケナが、ひょこりと顔を出して、これまた同じように目を輝かせる。
彼女が駆け出すより先に、男を拘束していた、アレイアと呼ばれた男が溜め息を吐いた。
「あのなぁ、ケナ。急に飛び出さないよういつも言っているだろう? 周りにもちゃんと気をつけなさい」
「はぁ~い……」
やや緑がかった黒髪を、汗で額に張り付けながら彼は言う。歳よりも大人びて見えるのは、窘める口調だからなのか。
しゅん、として答えるケナから、今度は少女を庇う彼女に紫紺の目を向ける。
「フィーナ、お前もなぁ……。街中で何かあったら呼べ、って言ってるだろ……。何でわざわざ火種を広げるんだよ」
「呼んでる暇なんてなかったし。大体、日中は仕事じゃない」
「そりゃそうだが……」
「おい! 離しやがれッ、てっめぇッ!!」
アレイアが言いよどんでいると、腕を掴まれたままの男が声を荒げて背後を睨む。しかし、彼は急にすっと無表情になって、恐ろしく冷めた表情でそれを見下ろした。気圧された男が、短い悲鳴を上げる。
げしッ!
「ッ!」
男が声にならない悲鳴を上げた。腕を放したアレイアが、男の足を思い切り皮のブーツで踏んづけたのだ。男は抗議しようと振り返るが、それよりも先に、喉元に手刀が突きつけられた。
目の前にある紫紺の瞳は、それ以上なく冷えていて。視線を合わせているだけなのに、だらだらと、嫌な汗が額を、背中を流れていく。
「……二度とフィーナとケナに余計な真似をするな」
先ほど彼女たちを窘めた声とは比べ物にならないほど低い声が発せられる。そうなって初めて男は程度というものを理解したらしい。可哀相なほど顔を歪めて、必死にこくこくと頷いた。
その様子を見て、アレイアはようやく手を離す。短い悲鳴を残しながら、男はあたふたと通りの向こうに消えていった。
ぱんッ! と拍手が上がる。
「やー、さすがアレイア! あっぱれ!」
「……本当に調子いいな、お前」
「おとーさん、すごぉいー!」
ぱたぱたと駆け出したケナが、男の上着へと飛びついた。たたらを踏みながらそれを受け止めたアレイアは、ふ、と微笑みを浮かべて少女の小さな身体を抱き上げた。
「いやー、良かった良かった」
「あ、すいませんー。ご迷惑おかけしました。大丈夫ですか?」
明るい笑顔を浮かべて話し掛けて来た女将に、フィーナは丁寧に頭を下げる。だが、女将は頭を振って、豪快に笑ってみせる。
「ぜんっぜん! 迷惑なんぞじゃないよ。あたしも助けてもらった身さぁ。
アレイアの旦那も相変わらず逞しいけど、フィーナちゃんも強いねぇ。尻込みもしないなんてさ」
「あっはっは、あんな奴、束になってかかって来るくらいじゃないと物足りませんよー」
「はははははッ! そうかい、頼もしいねぇ!」
女将と彼女の些か物騒な会話に、アレイアが不自然な咳をする。彼としては窘めているつもりなのだが、気づいているのかいないのか、意にも介さないのが彼女の恐ろしいところである。
「フィーナちゃん、ごめんね。だいじょうぶ?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとケナちゃんのおとーさんが助けてくれたし。全然平気。ケナちゃんは?」
「ケナもー」
ぱっ、と笑って再度、フィーナに抱きつく幼い少女。少女を腕に抱いたまま、彼女は勢いでくるりと一回転してみせる。はた、とその目が店頭に留まった。
そういえば、買い物の途中だった。
「ハンナさん、あの……」
「ああ、ごめんねぇ。あたしとしたことが。はい」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながらたまねぎとトマト、ブロッコリーが入った買い物籠を受け取る。中に入っていたはずの財布を取ろうとして、そのフィーナの手を女将が止めた。
「へ?」
「今日はあたしの奢りだよ。何だかんだで助けてもらっちまったしねぇ」
「そんな、だって迷惑かけたのはこっちですよ?」
「気にしなさんな、困ったときはお互い様さ! 早く帰ってケナちゃんに美味しいオムライス作っておあげよ」
「オムライス!」
思い出したようにケナが心底嬉しそうに騒ぎ出す。まだ匂いも嗅いでないのに、無邪気なものだ。
「で、でも……」
「ねぇ、旦那? これくらい、大の男なら喜んで受け取るよねぇ? いいからさ! 潔く行きなって!」
豊満な体を張って、からからと笑う女将に、アレイアは笑いながら溜め息を吐いた。フィーナよりもこの気さくな女将と付き合いが長いアレイアは、彼女の肩をぽん、と叩く。
「ほら、フィーナ、ケナも。お礼を言いなさい」
「え、えっと、うん……。あ、ありがとうございます」
「ありがとございますー!」
お辞儀をするフィーナと、やや舌っ足らずながら元気に声を上げるケナ。女将はうんうん、と頷くと、思い出したように果物籠の上に置いていた、皮の剥かれた桃を手に取った。
「ほぅら、おつかいのお駄賃だよ」
「うわぁい!」
「すいません、こんなに……」
「なぁに、桃は足が早いからねぇ。ちょうど良いってもんさ。ケナちゃん、中ほどの種はすっぱいからね。気をつけてお食べ」
「うん!」
既にくしゅくしゅと果実を頬張っていたケナは、口元を果汁に汚しながら大きく頷いた。それに呆れたように、くすりと笑うと、アレイアもフィーナも女将にもう一度頭を下げる。
「それはそうと、フィーナ」
「?」
「……いくら咄嗟だったからって、その格好で足を使うな。スカートだろ?」
「へ?」
「見えるぞ」
「!」
一瞬、きょとんとしたフィーナだったが、すぐに何のことか気が付くと買い物籠を下げていない方の手でスカートを押さえる。今さらなのに、顔は真っ赤だった。
「……見た?」
「…………………いや、それは」
「見たの?」
「……すまん」
「ッ!」
沸騰した。
赤い顔で彼女は男の顔を睨みつける。目尻には、心なしか涙が浮かんでいた。アレイアは何とかいい訳を探しだそうとするが、従来、正直者で性根の曲がっていない彼には無理な話だった。
別に彼が悪いわけではないのだが、だからといって割り切れるものでもない。
彼女は唇を尖らせたまま、「もー知らないッ!」と金切り声を吐き出して、ケナの手を握る。
「ケナ! すけべなお父さんはほっといて、さっさと帰るわよ! 今日はオムライスだから! お父さんの分はなし!」
「わぁい、オムライス、オムライスー!」
「待て! こら、ケナ! フィーナッ!」
ケナを引き摺るようにして唐突に走り出したフィーナ。ケナもケナで、子供特有の活発さで追いかけてゆくものだから、アレイアは慌てて二人を追いかける他はなかった。
石畳を騒がしく駆けて行くその背中に、女将がふぅ、と息を吐く。
「ケナちゃんも良かったわね。いいお母さん代わりが見つかって」
「まあ、お母さん、というよりは姉妹って感じだけどねぇ……。でもいい娘だよ。若いけど礼儀正しいしね。アレイアの旦那もなかなかいい娘を見つけて来たもんだ。
あそこの家はいろいろと訳アリだったみたいだからねぇ。いいことだよ」
「そうねぇ」
傍観していた女性客に答えて、女将は桃を剥いたナイフを片付け始めた。すぐに別の客から注文が入り、あいよ、といつも通りの声を返す。
世間話の相手だった女性客は、それを眺めながら、小首を傾げる。
「でもあの娘、一体どこの娘なのかしら……?」
「はい、出来上がり!」
ことん、と目の前に置かれた皿に、ケナは表情を輝かせた。綺麗な楕円の黄色い卵に、トマトソースがかかっている。側にあるブロッコリーが少しだけ気になるけれど、立派に綺麗なオムライス。
ケナはひとしきり感激した後、小さな手に大きなスプーンを取った。
「いただきまーす!」
元気に言って、いや叫んで卵にスプーンを入れる。ほかほかと湯気と共に顔を覗かせるチキンライス。トマトソースと卵と一緒に口に入れる。
ケナの輝いていた目が一層、きらきらと輝いた。
「おいしーい! フィーナちゃん、ありがとう!」
「あはは、ブロッコリー残すんじゃないわよ?」
「はーい」
そう答えた後はもう、すっかりオムライスに夢中だ。ときどきこぼすのが危なっかしいが、まあ、愛嬌というやつである。
その娘を見て、逆に溜め息を吐いたのは、対面に座っていたアレイアだ。だが、それは非難するような溜め息ではなく、仕方のない娘を呆れながら見守るような眼差しだった。
ふと、気が付いたように自分の分と彼女の分の食事を運んでくるフィーナに視線を向ける。
「すまないな。すっかりケナが世話になってる」
「別にー。それに世話になってるのはこっちだし。何も気にしてないわよ」
そう言って彼女はからっと笑った。テーブルに二人分の、ケナのものより些か大きめに作られたオムライスが置かれた。ケナがめざとくそれを見つける。
「あー、ずるいー! おとーさんとフィーナちゃんのの方が大きいー!」
「こら、ケナ!」
「それ全部食べて、ブロッコリーも全部食べたら私の分けてあげる」
「う……」
「もう一つだけ食べて、『ブロッコリー食べたー』なんて言わせないわよ。全部! だからね」
「うー、フィーナちゃんひどいー、ばかー、おにー」
「鬼でもないし、馬鹿でもない! 出されたものを手付かず残す方が、よっぽど酷いわよ!」
文句を言いつつも、皿にもっとブロッコリーが増えるのは避けたいケナはしぶしぶと手を引っ込める。スプーンの代わりにフォークを取ると、オムライスの脇にちょこんと邪魔をする緑の物体に突き刺す。
目に涙を溜めながら、鼻を摘んでぱくりと一口で飲み込んだ。すぐにジュースを流し込む。
何回か繰り返すと、皿の上からブロッコリーはすべて駆逐された。
「ん、んー、ぷはぁ! 食べたよ、フィーナちゃん!」
「よし、偉い! じゃあ、あとでちょっとだけね。デザートもあるからお腹残しておくのよ」
「デザート!? わーい、デザート! 今日は何?」
「知らないなー。ケナちゃんがちゃんと全部食べたら出てくるわよ」
「うん!」
頷いてケナは再びオムライスの解体に取り掛かった。急がなくても、きちんと食べればちゃんとデザートが出てくることを彼女は知っているのだ。
素直に嫌いなものを口に入れた娘に、アレイアは感嘆の息を吐く。
「やっぱりすごいな、フィーナ。子供の世話の才能あるんじゃないか?」
「まさか。ここ半月でコツを覚えただけよ。アレイアが甘やかしすぎるだけでしょ」
「……耳に痛いな」
頬に汗を掻きながら、アレイアは笑い返す。
自分の席に着いた彼女は、小皿に後でケナの分となるだけのオムライスを自分の皿から取り分けてから、自分のものに手を付け始める。
それを見届けてから、アレイアも自分の前に置かれた皿に手を伸ばした。
「……フィーナ」
「? 何?」
「……本当に、ありがとな」
「?」
彼女は何に礼を言われたのか解っていなかった。身勝手だが、それで良かった。
怪訝そうに眉間に皺を寄せる彼女だが、一瞬後にはケナに話し掛けられてその表情も瓦解する。二人の戯れに、もう一度柔らかく微笑んでから、アレイアはスプーンを手に取った。
「……南方の蛮族が駆逐された?」
「はい」
ラーシャは今しがた持ち越された報せに眉を潜めた。
「エイロネイアか?」
「解りません。ついでに近辺に放置されていた砦が一つ、占拠されたようです」
「そうか……」
ほ、と溜め息を吐く。戦争がある限り、その戦火から落ちぶれて、いや道を外す者は必ずいる。彼らは蛮族となって村や町を荒らす者が多い。
今しがた入った報せは、シンシアとエイロネイアの境にあり、蛮族の紛争地帯となりつつある区域の話だった。ゼルゼイルという土俵から見れば、極僅かな土地ではあるが、無視の出来るものでもない。
だが、先の戦で複数の蛮族の群れが網羅するようになり、シンシアもあえなく手を引いた土地でもあった。
その蛮族が、駆逐されたというのだ。
「近くい兵を置くわけにも行きませんので……しかし、一帯で見られていた蛮族が見られなくなりました。すべて解散したという噂もあります」
「噂を鵜呑みには出来ないが……本当なのか?」
「放置した砦に、人の出入りはあるらしいのですが……」
「エイロネイアの者か?」
「まだ、確認中です」
「そうか。確認出来次第、伝えてくれ」
「了解しました」
完結に答えたラーシャに、諜報兵は敬礼をして執務室を出て行く。
前線の要塞内に設けられた簡易の執務室には、余計なものは一切ない。デスクと水場くらいのものだ。しかし、節制を好むラーシャにとってはある種、心地良い空間だった。曇り空の暗い光の差す一室で、ラーシャは深呼吸を漏らす。
「……蛮族を駆逐。やはり、エイロネイアの手の者でしょうか」
「おそらくな。シンシアが手を引いたのを見て、掃討にかかったのだろう」
「しかし、あの土地にはエイロネイアも手を焼いていたはずでは?」
隣のデスクで山のような書簡を読み漁っていたデルタが問う。ラーシャは少し考えて、椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
「……三つ巴よりも、対戦の方が些か楽だ。我々には割ける戦力もなかったが、エイロネイアにはあるだろう」
「死人と、獣の話、ですか……」
「ああ、不快だが」
不快だが、ある意味、こちらも同罪のことをやろうとしている。
きり――ッ、とラーシャは唇を噛んだ。他に術があるはずもない。もう何度も逡巡し、諦めた問いだ。
大丈夫、ルナ殿ならば、上手くやってくれはずだ――。
大陸で交友を持った彼女を見て、彼女が言う言葉ならば任せられようと思っていた。けれど、この事態。
ルナだけではない。カノンも、レンも。未だに行方が知れないのだ。
一刻も早く、エイロネイアを押さえ込まねばならないのに。
ラーシャは首を振る。皆、頑張っている。魔道師も、シリアやアルティオ、それに勿論シェイリーンやシンシアの同士たちとて精一杯のことをやっているのだ。急ぐのはいい。だが焦ってはならない。
窓の外に薄暗い雲と荒野が見える。戦争が始まって、この土地はどれだけ荒れたのだろう。空はいつも曇っているように見えるし、たくさんの血を吸った大地は、またラーシャも知らない昔のように肥沃を取り戻すことが出来るのだろうか。
「ラーシャ様?」
「……また、大戦が起きるな」
「……」
前線の状況は芳しくない。先の戦は貴族院がシェイリーンを押し切って決行した侵攻戦だった。しかし、それが破れ、決行したのは貴族院であっても責任は采配を握っていたシェイリーンに押し付けられる。矛盾もいいところだ。
今度は防衛線になる。
エイロネイアはシンシアほど兵を消費していない。足場は前回同様、向こうが不利だろうが、だからこそこの機に進軍してくるはずだ。
ラーシャの帰還により、兵の士気は徐々に回復しつつある。だが、どれほどかも知れない兵力差は恐ろしい。
次の戦は近い。せめて、それまでに抵抗手段が見つけられていれば――。
いや、これは贅沢だ。魔道の研究には、本来膨大な時間と資料と人が必要になる、と教わったばかりだ。
ならば、ラーシャの仕事は、ここで進軍を食い止めること。それだけだった。
「ラーシャ様」
「すまない。私がこんなことでは駄目だな。兵の士気にも影響する」
「いえ。……顔色が優れません。残りの仕事は片付けて置きますから、少し休憩してきてはどうですか?」
ばさり、と書類の束を持ち上げてデルタが言い放つ。
「出来るわけがないだろう。お前に仕事を押し付けようとは……」
「いいから、休憩を取ってください。私が倒れても、軍事にはそれほど影響しないでしょうが、貴方が倒れればそれこそシンシアは危機を迎えるんです」
ラーシャはデルタの強情をよく知っていた。一目見ただけでは静かな印象のある彼だが、その実、かなり強情で一本気だ。こう、と言い出したら聞く耳すら持たない。
「……わかった。しかし、デルタ」
「はい?」
「お前も倒れるほどに無理はするな、魔道部隊の指揮は私では些か役者不足。お前にいて貰わねば困る」
「……」
デルタはしばし、言葉を切った。瞑目して、やがて彼にしては珍しい労わるような笑みを口元に浮かべた。
「……はい。光栄です」
いつも構えなくとも良い、と言っているのに、礼儀のスタンスを崩さないデルタに、ラーシャはこっそりと溜め息を吐く。
もう一度、ペンを持った彼に礼を言って、ラーシャは帯剣して部屋を出た。
肌寒い風だ。子供の頃は、こんなに風が冷たいものだとは思わなかったのに。
砦の最上、屋上の石段に登り、通り過ぎた風に羽織ったマントで腕を庇いながら、ラーシャはふと考える。
以前のゼルゼイルは、こんな天候ではなかったという。極めて温暖な気候で、晴れ空が続くような。
なのに、急な気象変化で今では曇り空が定番。太陽がなくなったわけではない。それでも、冷夏が毎年のように続くようになった。
――戦を続け、血を流す者への……罰なのかな、これは。
ふ、と自嘲気味に笑って、ラーシャは屋上に出た。
先ほどの窓辺以上に、戦場となるだろう荒野が見渡せる。
「……」
最後に眺望が美しいと感じたのは、いつだっただろうか。いつのまにか、景色はいつも灰色を被ってしまったような気がする。
姉がいなくなったあの日から、甘える人間のいなくなったあの日から――?
いや、違う。
ごそり、とラーシャは懐を弄った。手に当たる、優しい土の温もりを抜き出した。
オカリナだ。
「……本当に、駄目な人間だな、私は」
何かに、誰かに縋らないと生きていけないのか。
元々、ラーシャに楽才などなかった。姉がいなくなったあと、寂しさに泣いて暮らしていたラーシャの心を慰めたのが、初めて聞くオカリナの音だった。
後で知ったことだが、戦場に音楽を、楽器を持ち込む兵士は実は多い。楽器さえ、いや、音さえあれば楽しめる音楽というものは、戦場に立つ者に許された数少ない娯楽であったからだ。
そして、慰められたと思ったのに。
ラーシャに初めてオカリナの音を説いてくれた人も、やがて彼女の前から消えて。
また、景色は灰色になった。
結局は甘えてばかりなのだ。最初は姉に、次はその人に。今も、きっとそこから抜け出せてはいないのだろう。理由に縋って、何とかこの場所に立って、重い枷に耐えているだけ。
「……」
だが、人は成長する。いつかは、一人の力で立たなくてはならない。
ラーシャは曲がりなりにもこの国の指導者に認められ、中将という地位を手に入れた。けして万人に与えられるわけではない、数少ないチャンスを手にしているのだ。
義務も、権利も、手の中にある。
だから、剣を振るわなくてはならない。自分の力で。
オカリナの側面についた、不自然な傷をなぞる。
折れそうな決意を、奮い立たせながら、もう一度まっすぐに戦場を見渡す。この地を、この国を、終わらせたくはない。
いや、それは正しくない。ラーシャはまだスタートにも至っていない。この国を、変えるスタートにすら立っていないのだ。
悲観は、早すぎると、言ったばかり。
「そうだな。死ぬときは」
この景色が、美しく見えていればいい。
「――?」
不意に、耳慣れた音が聞こえた。優しく、耳に木霊する土の音色。ラーシャが初めて覚えた楽の音。かすかだが、確かに、耳に届いた。
少しだけ驚く。音の源を探してみようにも、風の具合でどこから聞こえているのか解らない。分からないが、ラーシャのものではないこの音色を聞くのは、実は初めてではなかった。
戦の度に、時折、ギターや鈴の音に混じって、かすかに響いて来るオカリナの音。
戦の最中で、音楽に束の間の休息を求める者は、何もラーシャだけではない。誰が吹いているかも分からないが、その者も、戦に立つべき者なのだろう。
もうじき始まる新たな戦に、戦意を奮い立たせているのか。あるいは、暗く寒い戦場に折れそうな自らの心を慰めているのか。あるいは……
「……悲しいな」
こんなにも、人を追い詰めているのは同じはずの人なのだ。
ラーシャはオカリナの吹き口を、唇まで持ち上げる。二、三度、空吹きしてから、気の早いレクイエムを奏で返した。
かすかに耳に響いて来るオカリナが、ふと止まる。
しばらく間を置いて、その音は、ラーシャのオカリナに合わせるように同じ旋律を紡ぎ出した。
少しだけ寒い風と共に、ほんの短いレクイエムが、戦場を駆けた。
戦は、もうすぐそこだった。
←7へ
黒毛の馬の顔を撫でてやりながら、ラーシャは小窓から真昼の光を見上げた。
薄暗い厩から光を求めたのではない。現に、その目は光を追うためではなく、思案のためにどこか遠くを眺めるために彷徨っていた。
今朝方、客将たちを送り出した。ラーシャも、あと少ししたら前線へと戻る。それが彼女の務めだった。そして、貴族院の説得のためにシェイリーンもまた、シンシアの都ゼルフィリッシュへと発つ。
前門に虎、後門の狼。そんな言葉が頭を過ぎる。
いや、虎や狼だったなら、爪と牙をもいでしまえば、それで終わりだというのに。
――いかんな。
嫌な想像を振り払うように頭を振る。
ルナの提示した策が、果たして打開となり得るのだろうか。ラーシャには解らない。解らないが、何らかの礎となるだろう。
縋るものが藁一本でもいい。何かを、何かを掴まなくては、勝利も引き分けもありえない。
「……エイロネイアの、皇太子、か」
彼が台頭してきたのは、わずか二年ほど前のこと。その二年で、戦場は激的な変化を遂げていた。
ルナの話で、その圧倒的な力の片鱗を見せ付けられた気がする。
大陸で見たあの少年。あれが、本物の皇太子だというのなら、一体彼は何者だというのだろう。戦場と、人の心を意のままに操る、化け物。
斬りかかった一瞬に見た、暗い、ひたすらに冷たい眼差しが、頭から離れない。
何故、彼にはあんな冷たい目が出来るのだろうか。
「……」
馬の毛を梳く手が止まる。
勝てる、いや、このゼルゼイルを平穏に導くことなど、出来るのだろうか。ラーシャにとって、戦争を止める事は、その入り口でしかない。
けれど、彼女は、まだ道を歩むどころか、切り開けてもいないのだ。
剣の柄を握る。立ちはだかる茨を切り裂く力が欲しかった。自身がこんなにも矮小なのに、立ちはだかる茨の壁はあんなにも冷たく、高い。
策が上手く行くことを願い、剣と指揮を振るい続けるしか、今の彼女に出来ることは、ない。
「ラーシャ様ッ!!」
「?」
厩の入り口から、やたらと切羽詰まった声が響いた。戦士の勘だろうか、ぞくり、とラーシャの背中を怖気が走り抜けた。
向かい風が激しく、かといって背中から追い風が吹いているわけでもない。これ以上の逆風は、g面被る。けれど、その声を上げた兵士の顔は、明らかに真っ青だった。
「れ、レスター大尉が、き、帰還なされたんですが……ッ!」
「何……ッ!?」
レスターが客将と出立したのは今朝方だ。一週間は戻らない予定だった。だから、それは不運の予兆だと、ラーシャの頭は瞬時に叩き出す。
耳を塞いでしまいたくなるのをぐっ、と堪えて、ラーシャは先を促したのだった。
「な、何だそりゃぁッ!? ふざけんじゃねぇぞッ!? 馬鹿言うんじゃねぇッ!!!」
会議室とは名ばかりの、石造りの小部屋に響き渡ったのは、レスターの胸倉を掴んだアルティオの怒鳴り声だった。
相手に威圧を与えるというよりは、感情をそのまま叩きつけているという感じ。当たり前だ。威圧を与えようとして、怒鳴り声を上げるなど、そこまで彼は頭のいい人間じゃない。
シリアは奥歯を軋ませながら、必死に頭の冷静な部分を引きずり出していた。耳元に当たるアルティオの怒声は、ほんの少しの安定感と、そしてその静かな作業の邪魔をしてくれる。
「カノンが、カノンたちがいなくなっただとッ!? どういうことだよッ!!」
がりッ……
アルティオの、先ほど聞いた耳が痛くなる報告の復唱に、シリアは伸ばした爪を噛む。
胸倉を掴まれたままのレスターは歯軋りをしながら、同じ報告を繰り返すだけだった。
「……ガリア平原の林で、エイロネイアの皇太子を名乗る男に遭遇した。
……お三方は、そのまま、何処かへ姿を消した。男も、いつのまにか、どこかへ……」
「ンなバカなことがあってたまるかッ!! 何処だ、カノンは、レンはルナはッ!? あいつら、何処行ったってんだよ……ッ!!」
シリアは爪が砕けているのに気が付いて、ようやく口元から指を離す。
レスターの隣に立ったライラは、困惑を浮かべるでもなく、相変わらずの無表情を貫いている。それもまた、アルティオの怒りに火をつけているのだろう。
シェイリーンは上座に座ったまま、束ねた髪を握り締めている。慌しくやって来たラーシャとデルタ、ティルスは、一時はアルティオをたしなめようとしたものの、無駄だと悟ってからは窓辺に立って唇を噛んでいる。
ヴァレスは、普段通りの飄々とした態度で、ちっとも困っていない表情で困りましたね、と呟いていた。
「アルティオ様、あの……」
「……ッ」
おずおずとシェイリーンが声をかけようとする。アルティオが、彼女にまで罵声を浴びせなかったのは、見上げたフェミニスト根性だと思う。
けれど、そんな形相をしていては同じこと。
シリアは冷静さを引き絞る。ここには、彼女に代わって冷静な言葉で彼をたしなめてくれる人間が、いないのだから。
「アルティオ、少し落ち着きなさい。怒鳴り声で女の子を萎縮させるのは、どう見ても貴方のスタンスじゃないでしょう?」
「シリア! お前、何でそんなに冷静なんだよッ!!」
叩き付けられた大声に、シリアはしかし、溜め息を吐いた。一瞬の間の後に、形の良い眉を吊り上げる。
「あのね! 私だって今すぐここを出てレンを探しに行きたいわよッ!! 普段だったらとっくにやっているわッ!!
でもね、貴方、あいつの話を聞いてたのッ!? 相手は大陸にいたあの男だったのよッ!?
あいつが私たちの前でどれだけ面妖なことをやってくれたと思ってるのッ!?
……私やルナですら、理解不能だったのよ。それを、魔道やら何やらに何の造詣もない一兵士を捕まえて、どうにかなると思ってッ!?」
「ぐ……ッ」
今度はシリアがアルティオの胸倉を掴み上げる番だった。シリアにも、アルティオにも、互いの焦りと怒りは十分すぎるほど理解できた。
だから、その仲間からの声は、一番胸に痛く叩きつけられる。
いざというときは、シリアの方が冷静だった。もしかしたら、こんなときは仲間内で最も冷静になれる人間かもしれない。だからといって、けして冷たい人間なわけではないことを、アルティオは知っていた。
「……悪ぃ」
「いいけれど。私も貴方のそういう直情的なところは嫌いじゃないから。
でもね、今は短気に走るときじゃないわ」
ふぅ、とアルティオの肩から力が抜ける。シリアの冷静さに、驚くと同時に浮き足立っている自分が情けなく見えたからだ。
「……お前のそういうところは尊敬するぜ」
「あら、全部が尊敬に値すると思うけれど?
まあ、それは今はいいわ」
真顔に戻ったシリアは、襟元を正していたレスターに向き直る。
「あの娘たちは、本当に突然消えたのね?」
「あ、ああ……。何というか……黒い霧、みたいなのが出てきて……。気が付いたときには……」
「……そこに、黒い服の、あの男の子がいたのね?」
「ああ。顔の半分を包帯で隠した……二十くらいの男だった」
シリアはぎゅ、と表情を固くする。黒い霧。そんな風に表現できるものを、シリアたちは目にしている。何度も、とは言わないが、少なくとも数回は。
頭を振る。今は彼女の代わりに、冷静に頭を動かしてくれる人間はいないのだ。
冷静に、冷静にならなくては。
「……その場で、殺された、とかじゃないのね……?」
「ああ、たぶん……」
自信なさげに口にするのは、おそらく、目にした現象が不可思議極まりないものだからだろう。死体を目にしていたのなら、そんな表現はしない。
死体があったわけじゃない。その場で殺したわけでもない。
……ということは、まだ、彼らは――。
「シェイリーン様」
シリアと同じ思考に辿り着き、声を発したのはラーシャだった。顔色を白くしながらも、生真面目な表情を保ちながら、
「彼らは大切な客将です。我らには、彼らの身の安全を確認する義務があります」
「……その通りです」
「すぐに捜索隊を組みましょう。隊の先頭には私が」
「いえ」
言いかけたラーシャの言葉を遮って、シェイリーンは立ち上がった。ゆっくりと、面を上げた。
「……ラーシャ、貴方は戦地の頭としての責を全うしてもらわねばなりません。
捜索隊の筆頭には、レスター、それから」
唇を噛んでいたレスターに呼びかけ、そして苦い顔を見せているシリアとアルティオへ、紫色の瞳を向ける。
「シリア様、アルティオ様。捜索隊の副隊長として、立って頂けませんか?」
「!」
「お、俺たちがかッ!?」
「シェイリーン様!?」
シェイリーンは俯いて、ぐっと目を瞑る。ぎゅ、と拳を握って石のテーブルに押し付けながら、口を開く。
「ラーシャをこれ以上、前線から離れさせるわけには行きません。かといって捜索をしないわけにも行きません。
……私はこれから貴族院との交渉のために北都に向かいます。ルナ様たちが失踪したと知れれば、交渉も不利となる。大掛かりな捜索は出来ません。精鋭で、迅速な対処が必要です」
「ンな……ッ!」
憤りかけたアルティオの肩を、シリアの手が押さえた。その二人に、シェイリーンは居た堪れない、苦い表情を浮かべ、ゆっくりと頭を垂れた。
「……申し訳なく、大変失礼なこととは存じております。けれど、私たちは、貴方方が授けて下さった計画を頓挫させるわけには行かないのです」
「……」
アルティオは歯を軋ませながら、それを見下ろしていた。どうすべきかが、判断出来ない。頭に熱が集まっている。
彼ほどではないが、同じような表情で唇を噛んでいたデルタが、何事か言いかける。しかし、それよりも先に飄々とした声が遮った。
「しかし……。そんなことをして、皇太子は何の益にしようと言うのですかね……」
「……」
何かを含ませたような声色に、シリアが柱に背を預けるヴァレスを睨む。だが、彼はそれはあっさりと受け流した。
「……エイロネイアが内部に密偵を送っているのだとしたら。シェイリーン様が貴族院に睨まれている状況を知っていてもおかしくありません。
シェイリーン様の客将を捕らえることで、さらなる内部抗争を招くつもりか……。
あるいは、こちらの計画を形振り構わず止めに来たか。
ならば、なおさら計画を頓挫させるわけには行きません」
「ふむ。そうですね……。彼らにとって、この計画が何らかの痛みである可能性は高いでしょう。
ですが、それだけならば、わざわざそんなややこしい方法など取らずに、一思いに殺せばいい。
何故、それをしなかったのか、という話になります」
「それは……」
「後々、人質にでも使うつもり……でしょうか……」
抑えた声で、デルタが口にする。はっ、として目を見開くアルティオだが、ヴァレスはゆっくりと首を振った。
「まあ、それもあるかもしれませんが――。
私には別の目的があるように思えますがね」
「別の目的、ですって?」
「そう。例えば――
捜索隊の結成自体が目的、ということは考えられませんか?」
ティルスとラーシャ、シェイリーンの表情が歪む。少し遅れてデルタが声を漏らした。
シリアも同じ発想に行き着く。
「自軍の将が生死不明という自体よりも、他の国からの客将が行方不明、という方が、重みがあります。信用問題に関わる話ですからね。捜索隊を設けないわけにはいかないでしょう。
必然的に我々はそちらに戦力の多少を削がざるを得なくなる。ルナ嬢がいなくなる、ということは計画の遅延も意味しますから一石二鳥、ということではないですか?」
「エイロネイアは……また、いずこかへの侵攻を考えている、ということですか……?」
「そうは言い切れませんが。ともかく、我々は彼の術中に嵌りかけているのでは、ということです」
「じゃあ、何だ!? あの三人を見捨てろ、ってことかッ!? 捜索すんな、って言いたいのかよ!?」
再び声を荒げるアルティオの手が、ヴァレスの胸倉を掴む。ラーシャとシェイリーンが慌てて駆け寄った。
「お待ちください、アルティオ様!
ヴァレス! 貴方がどう言おうと捜索隊は結成せざるを得ません。たとえ、あの皇太子の思惑が働いていたとしても、それがシンシアとしての義務と彼らの権利です!」
「……」
ヴァレスの細い目を真っ向から睨んで、シェイリーンは言い放つ。彼はひょい、と軽く肩を竦めただけだった。
「これは失礼。閣下のご命令に背くようなつもりはなかったのですが。貴方がそう仰るのでしたら、それに従いますよ。
ああ、でも、捜索隊を出されるのでしたら、計画の先頭に立っていらしたルナ嬢を真っ先に保護すべきでしょうね」
「……? な、何でだ?」
ヴァレスの意味深な口調に、不安を煽られたアルティオが問う。シェイリーンは何故か黙っていた。
ヴァレスはそれに、僅かにせせら笑った。
「シェイリーン様、貴方もお気づきのはずですよ。彼女のかつての友人が、七征の中にいると知った時点で、考え付いたことがあるはずです」
「……何の話ですか」
「彼女のかつての知り合いは、七征の中でかなり重要なブレーンになっています。戦況を覆した要因と言ってもいいでしょう。
……以前も話しましたが、勝負を拮抗に持っていく方法は二通りあります。
一つはルナ嬢が考案された通り、こちらの戦力を増強すること。
もう一つは、相手の戦力を削いでしまうことです」
「……」
「その男が、エイロネイアの戦力の源であるのなら、話は簡単です。もいでしまえば、これ以上のエイロネイアの戦力増強は止まります。
勿論、簡単ではないですよ? けれど、ルナ嬢とその男の関係を利用すれば、彼女を囮として何らかの策を練ることは可能だったはずです」
「な……ッ!?」
アルティオが喉の奥から声を上げる。シリアはもう一度、爪をかりり、と噛んだ。
ラーシャははっ、としてシェイリーンを、自らの主を見る。彼女は無表情のまま、ヴァレスを見上げていた。
僅かの沈黙。そして、彼女が厳かにそれを破る。
「……可能、だったかもしれません。けれど、私はそれを選びませんでした。詮無きことです」
「確かにそうですねぇ。貴方好みではないですからね。
ですが、彼女が何らかの形で切り札として使えることは確かです。人道的にも、非人道的にも。
エイロネイア皇太子とて、それは悟っているでしょう。彼女がシンシアにいる、ということは彼にとっては不安材料になります。
だから。
不安材料は真っ先に、始末したくなるものじゃないですか?」
「……」
シェイリーンは睨むようにヴァレスを見上げた。そのまましばし、睨みあったままで――
やがて彼女は深い息を一つ吐く。
そして振り返った。
「……ティルス、レスター。今すぐ、捜索隊の手配を始めなさい。事は急を要します」
「へ、へい!」
「はい」
「シリア様、アルティオ様。聞いての通りです。
このような事態、申し訳なく思います。恥を忍んでお願いいたします。どうか――」
「……」
額に汗を浮かべたまま、アルティオはシリアと顔を見合わせる。シリアは回答を求められているようで、憂鬱に目を伏せながら、こめかみを押さえた。
そして考える。最善の選択を模索する。
どうしたら、あの娘たちを救える? どうすれば、あの黒の皇太子を退けられる?
思考をめぐらせる。そして、ゆっくりと面を上げた。
「……シェイリーン」
「……はい」
「……捜索隊の、副隊長に、ティルスをつけてちょうだい。彼が担ってた魔道師の収集と指示は、私が請け負うわ」
「シリアッ!?」
思ってもみない決断に、アルティオが声を上げる。シリアの顔を見下ろし、しっかりと意志のある瞳に、今の言葉は冗談でも何でもないことを悟る。
「考えてもみなさい。ゼルゼイルって土地にまったく土地勘のない私たちが探したところで大した戦力になれるわけはないわ。
だったら、土地勘のある人間に変わってもらった方がいいでしょう?
私もここ数日で、ルナにかなりの知識を教え込まれたから……。地元の魔道師の助けがあれば、指示くらいは出せるわ。それに、皇太子が計画の頓挫を望んでいるなら、魔道師の集まっているこの砦を野放しにするとは思えないし……。
ヴァレスさんはシェイリーンさんの護衛があるでしょ。少しでも、戦力があった方がいいじゃない。
それに、何かの形で裏をかけるかも……」
「だからって……! お前、あいつらのこと、心配じゃないのかよ!?」
「勿論、心配よ。でも、私はあの娘たちの死体を見たわけじゃない。生きているなら、あの娘たちなら大丈夫よ。
――貴方だって聞いたじゃない。あの娘が、あんな顔して何が何でも生き残れ、って言ったのよ? 死ねるわけないでしょう?」
「……」
「私は、あの娘たちを信じるわ。自分の仕事を全うする。
じゃなきゃあ……あの娘たちが帰って来たときに、合わす顔がないじゃない……」
少しだけ震えながら、それでも胸を張って彼女は呟いた。
触れれば折れてしまいそうな決意だ。想い人の命を、運に任せたくなどない、と言った彼女だ。その彼の命を他人任せにするなど、悔しくて仕方ないに違いない。
それでも、自分の責がどこにあるか自覚して、道を選んでいる。
アルティオは息を吐いた。これでは、自分が駄々っ子のようではないか。
「そういうわけだから、アルティオ。あの娘たちのこと、よろしく頼んだ……」
「ンじゃあ、俺も残るかな」
「!」
さらりと言ったアルティオの返答に、シリアの形の良い眉が歪む。
「貴方、何を……」
「まー、確かに俺だって今すぐ飛び出したいけどさ。一人だけ抜け駆け、ってのもな。
襲撃を考えるなら、俺もいた方がいいだろ? 頭使う方はちっと協力できないけどよ。無駄にうろうろして捜索隊の足手まといになるより、よっぽどマシってもんだ。
それに、」
言いかけて、彼は少しだけ苦いながらも、いつもの明るい笑みを浮かべる。
「こんな場所に仲間の女の子一人残してく、ってのも、俺のスタンスじゃないんでね」
「……」
一瞬、意味が解らなかった。しかし、すぐに我に返るとシリアは仕方のない笑みで首を振る。
「仕方ないわね……。好きになさい」
「おう」
「シリア様、アルティオ様……」
アルティオが答えると同時に面を上げたシェイリーンが、ぎゅ、と眉根を寄せて彼らの名を呼んだ。
長いローブに、直らない皺をつくるほど拳を握っていた彼女に、彼らは、
「そういうことだから。貴方たちにとっても悪い条件じゃないでしょう?」
「そうですねぇ。効率を考えれば、コンチェルト少佐が捜索に当たった方が早く済むでしょう。
それに、砦の護衛に付いてくださるとなれば心強い。私はシェイリーン様の護衛に当たらなければなりませんし、フィロ=ソルト中将には前線に出てもらわねばなりませんからね」
「しかし、お二方とも……本当にそれで良いのですか?」
ヴァレスの分析に継いで、ラーシャが二人に問いかける。二人は視線を合わせて、深々と頷いた。
シェイリーンの顔が、一瞬くしゃり、と歪んだ。
「ありがとう、ございます……。本当に……」
涙声で呟いた後、彼女は一つ深呼吸をする。数日前もそうしたように、ぐるり、と周囲を見回して、
「レスター、ティルス。急ぎ捜索隊を結成してください。精鋭とはいえ、多少の人海も必要でしょう。私の護衛に付くはずだった兵士も使用して構いません。
その代わり、ライラ、貴方もヴァレスと共に私の護衛をお願いします」
こくん、とライラは無言で頷く。レスターとティルス、ヴァレスはその場で敬礼の姿勢を取った。
「ラーシャ、デルタ。貴方方は予定通り、前線指揮に戻ること。ただし、客人が戦場に巻き込まれていないかの確認をしっかり取ってください」
「はっ」
「承知しました」
「……シリア様、アルティオ様」
最後に、彼女は二人の方へと向き直る。
「……心苦しいですが、この場を、どうかお願いいたします」
「……解ったわ」
「うっす」
「魔道師の収集がある程度、完了したなら場所を北都近くに移しましょう。その手はずはこちらにお任せください」
シェイリーンの言葉に、ティルスが追加する。彼らが頷くのを待って、彼は何事かを傍らで肩を怒らせていたレスターに言った。
そうして、真っ先にその辺に散らばっていた書類を集めて行動を起こそうとする。
しかし、
「あ、あの……!」
呼び止めたのは、同席していた、カノンたちと同行していた魔道師の一人だった。
「何ですか?」
「……」
ティルスが問い返すと、真っ青な顔で俯いてしまった。同じく、真っ青な顔でいた隣の同僚の魔道師が、彼を下がらせて声を上げる。
「……信じ難いことですが……エイロネイアは、あの皇太子は、あの男は、もう既にとんでもない力を手に入れている可能性が……。
あの場で、ルナ=ディスナー様との会話の内容が、本当だとしたら……」
ティルスは視線でレスターに問いかける。しかし、知識に疎い彼は白い顔で首を振るだけだった。彼には、自分で見たものが何なのか説明が付けられない。今、この場でその説明が出来るのは、同行していた、知識を持つ魔道師たちだけだろう。
かつり、と沈黙を破るように、シリアのヒールが鳴った。
「……ルナがいない以上、魔道関係の指揮は私が執るわ。貴方が見たもの、聞いたもの、全部教えてちょうだい」
重い責が、両肩に襲い掛かるような、そんな痛みを感じた。
「アリッシュ」
聞き慣れた涼やかな声に、男ははっとして振り返った。
たった一月ほど前まで戦場だった場所を眺めて、少し意識が飛んでいたようだった。
砂埃に汚れた白いローブと、長く伸びた水色の髪を押さえて、彼は目を細める。背後に立っていたのは、予想通りの――ゆったりとした黒衣に身を包んだ、顔の片側を包帯で隠している少年の姿に右恭しく頭を下げる。
そのあまりにも綺麗な礼に、少年は息を吐きながら頬を掻いた。
「……エリシアやカシスの態度も問題だけど。君のその律儀さも問題だね……。
別に僕はそんなに偉くなった覚えはないよ」
「殿下は、今は我が主です。敬うのは当然のこと。これは私の矜持にございます」
少年はやれやれと首を振る。しかし、それは侮蔑ではなく、長い付き合いの友人の癖を窘めるような仕草だった。
歳は二十半ばほどだろうか。水の色の長髪を、金の刺繍が施された白いローブの背に流し、胸元には無論八咫鴉の紋。
精悍な、引き締まった表情が、彼の性格をそのまま表している。
彼は面を上げると、自らの主を見、そしてまたその背後に目を止めて、少しばかり目を見開いた。だがそれは一瞬で、すぐに生真面目な顔へと戻る。
少年は男の脇を素通りすると、風の吹く高い崖の上から、今しがた彼が見下ろしていた場所を同じように眺めた。
眼下には深緑の木々がこんもりと森を作っていて、その先に唐突に砂塵の上がる荒野が広がっている。だが、そうしたことか、その砂塵が妙に濃い。
理由はすぐに割れた。
小隊ほどの規模の人の群れが、荒野を馬で乗り回しているのだ。
どうやら群れ同士の抗争なのか、血気は荒く、砂塵のが、妙に赤い。甲高い悲鳴と掛け声が、離れた崖の上まで届く。
「先の戦で出た落ち武者たちの蛮族です」
「シンシアの? それとも自軍のかい?」
「両方です。敵も味方もありません。近隣の村や町で強盗や殺人を起こしているようです。その群れ同士の衝突でしょう」
「まだ規模は小さいようだが……捨て置くわけにもいかないな」
ふむ、と少年は肩膝を付きながら頷いた。しばし、何事か思案する。
そして、抗争を目に留めたまま立ち上がる。
「……初陣、というには些か役不足な気がするけど。
せっかくだ。お願いできるね――?」
そう口にしながら。
彼は、背後を振り向いた――。
部屋に入るなり、アルティオは小さく溜め息を吐いた。机に突っ伏したまま、こちらに背を向けて寝入る幼馴染の背中に気が付いたからである。
灯りはランプ一つだけ。薄暗い部屋の机の脇を素通りして、奥の部屋へ行く。すぐに戻ったその手には、厚手の毛布が抱えられていた。
「ったく、うちの姫どもは皆して、どうしてこう手がかかるんだか……」
呆れた声で呟きながら、薄手(薄手以前に布地が極端に少ない)の服の肩に毛布をかけてやる。そのときにちらりと見えた彼女の手元に軽く首を振った。
膨大な書簡と魔道語の辞書と、アルティオには何が書かれているかまったく解らない書本。
シリアは浄療術の初級認定を受けている。魔道については多少だが、詳しいはずだ。しかし、それは多少であり、ルナのように専門に研究しているわけではない。
加えて一国の書簡を綴る、なんて経験もない。昼方、捜索指揮の傍ら、砦に顔を出しているティルスに指示されながら、物凄く不機嫌な顔で唸りながら書いていた。
不慣れな作業ほど疲れるものはない。ルナのように器用にはいかない。それでも彼女は砦に集まった魔道師たちに指示を出し、各地での調査の調整を行っている。
――なっさけねー……
アルティオは自分の馬鹿さ加減を知っていた。知識の足りなさも解っている。同時に下手に手伝うと、返って邪魔になってしまう自分の情けなさも。
「いっつも、こんなんだな……俺」
思えば、ステイシアの事件のときもそうだった。何も出来なかった。一人では立ち直ることさえも、出来なかった。出来ないまま……一人の、女の子を、犠牲にした。
アルティオはさらに激しく首を振る。駄目だ、忘れるのだ。痛みはいつかしかるべきときに思い出せばいい。
朗報は来ない。あれから既に一週間が経過しているというのに、カノンたちの姿はおろか、目撃情報さえも一報すら入って来ない。
――やっぱり、エイロネイア、ってことなんかなぁ……
エイロネイアの領内についても、密偵に依頼はしているらしい。しかし、先のエイロネイア皇太子の思惑もある。派手な動きは出来ない。
カノンもレンも、ルナもいて、破れなかった、エイロネイアの滅法鬼神。皇太子。やはり、周到な人間なんだろう。
知らず知らず、表情が強張る。
嫌な想像を振り払うように、持ってきたマグカップを一気に煽った。
この怒りを、このやるせなさを晴らせる場所は、いつか来るのだろうか。
「本当に……どこ行っちまったんだよ……カノン……」
呟いた悔しさの塊は、カップの底に残っていたコーヒーの黒い雫に、溶けて消えた。
←6-02へ
薄暗い厩から光を求めたのではない。現に、その目は光を追うためではなく、思案のためにどこか遠くを眺めるために彷徨っていた。
今朝方、客将たちを送り出した。ラーシャも、あと少ししたら前線へと戻る。それが彼女の務めだった。そして、貴族院の説得のためにシェイリーンもまた、シンシアの都ゼルフィリッシュへと発つ。
前門に虎、後門の狼。そんな言葉が頭を過ぎる。
いや、虎や狼だったなら、爪と牙をもいでしまえば、それで終わりだというのに。
――いかんな。
嫌な想像を振り払うように頭を振る。
ルナの提示した策が、果たして打開となり得るのだろうか。ラーシャには解らない。解らないが、何らかの礎となるだろう。
縋るものが藁一本でもいい。何かを、何かを掴まなくては、勝利も引き分けもありえない。
「……エイロネイアの、皇太子、か」
彼が台頭してきたのは、わずか二年ほど前のこと。その二年で、戦場は激的な変化を遂げていた。
ルナの話で、その圧倒的な力の片鱗を見せ付けられた気がする。
大陸で見たあの少年。あれが、本物の皇太子だというのなら、一体彼は何者だというのだろう。戦場と、人の心を意のままに操る、化け物。
斬りかかった一瞬に見た、暗い、ひたすらに冷たい眼差しが、頭から離れない。
何故、彼にはあんな冷たい目が出来るのだろうか。
「……」
馬の毛を梳く手が止まる。
勝てる、いや、このゼルゼイルを平穏に導くことなど、出来るのだろうか。ラーシャにとって、戦争を止める事は、その入り口でしかない。
けれど、彼女は、まだ道を歩むどころか、切り開けてもいないのだ。
剣の柄を握る。立ちはだかる茨を切り裂く力が欲しかった。自身がこんなにも矮小なのに、立ちはだかる茨の壁はあんなにも冷たく、高い。
策が上手く行くことを願い、剣と指揮を振るい続けるしか、今の彼女に出来ることは、ない。
「ラーシャ様ッ!!」
「?」
厩の入り口から、やたらと切羽詰まった声が響いた。戦士の勘だろうか、ぞくり、とラーシャの背中を怖気が走り抜けた。
向かい風が激しく、かといって背中から追い風が吹いているわけでもない。これ以上の逆風は、g面被る。けれど、その声を上げた兵士の顔は、明らかに真っ青だった。
「れ、レスター大尉が、き、帰還なされたんですが……ッ!」
「何……ッ!?」
レスターが客将と出立したのは今朝方だ。一週間は戻らない予定だった。だから、それは不運の予兆だと、ラーシャの頭は瞬時に叩き出す。
耳を塞いでしまいたくなるのをぐっ、と堪えて、ラーシャは先を促したのだった。
「な、何だそりゃぁッ!? ふざけんじゃねぇぞッ!? 馬鹿言うんじゃねぇッ!!!」
会議室とは名ばかりの、石造りの小部屋に響き渡ったのは、レスターの胸倉を掴んだアルティオの怒鳴り声だった。
相手に威圧を与えるというよりは、感情をそのまま叩きつけているという感じ。当たり前だ。威圧を与えようとして、怒鳴り声を上げるなど、そこまで彼は頭のいい人間じゃない。
シリアは奥歯を軋ませながら、必死に頭の冷静な部分を引きずり出していた。耳元に当たるアルティオの怒声は、ほんの少しの安定感と、そしてその静かな作業の邪魔をしてくれる。
「カノンが、カノンたちがいなくなっただとッ!? どういうことだよッ!!」
がりッ……
アルティオの、先ほど聞いた耳が痛くなる報告の復唱に、シリアは伸ばした爪を噛む。
胸倉を掴まれたままのレスターは歯軋りをしながら、同じ報告を繰り返すだけだった。
「……ガリア平原の林で、エイロネイアの皇太子を名乗る男に遭遇した。
……お三方は、そのまま、何処かへ姿を消した。男も、いつのまにか、どこかへ……」
「ンなバカなことがあってたまるかッ!! 何処だ、カノンは、レンはルナはッ!? あいつら、何処行ったってんだよ……ッ!!」
シリアは爪が砕けているのに気が付いて、ようやく口元から指を離す。
レスターの隣に立ったライラは、困惑を浮かべるでもなく、相変わらずの無表情を貫いている。それもまた、アルティオの怒りに火をつけているのだろう。
シェイリーンは上座に座ったまま、束ねた髪を握り締めている。慌しくやって来たラーシャとデルタ、ティルスは、一時はアルティオをたしなめようとしたものの、無駄だと悟ってからは窓辺に立って唇を噛んでいる。
ヴァレスは、普段通りの飄々とした態度で、ちっとも困っていない表情で困りましたね、と呟いていた。
「アルティオ様、あの……」
「……ッ」
おずおずとシェイリーンが声をかけようとする。アルティオが、彼女にまで罵声を浴びせなかったのは、見上げたフェミニスト根性だと思う。
けれど、そんな形相をしていては同じこと。
シリアは冷静さを引き絞る。ここには、彼女に代わって冷静な言葉で彼をたしなめてくれる人間が、いないのだから。
「アルティオ、少し落ち着きなさい。怒鳴り声で女の子を萎縮させるのは、どう見ても貴方のスタンスじゃないでしょう?」
「シリア! お前、何でそんなに冷静なんだよッ!!」
叩き付けられた大声に、シリアはしかし、溜め息を吐いた。一瞬の間の後に、形の良い眉を吊り上げる。
「あのね! 私だって今すぐここを出てレンを探しに行きたいわよッ!! 普段だったらとっくにやっているわッ!!
でもね、貴方、あいつの話を聞いてたのッ!? 相手は大陸にいたあの男だったのよッ!?
あいつが私たちの前でどれだけ面妖なことをやってくれたと思ってるのッ!?
……私やルナですら、理解不能だったのよ。それを、魔道やら何やらに何の造詣もない一兵士を捕まえて、どうにかなると思ってッ!?」
「ぐ……ッ」
今度はシリアがアルティオの胸倉を掴み上げる番だった。シリアにも、アルティオにも、互いの焦りと怒りは十分すぎるほど理解できた。
だから、その仲間からの声は、一番胸に痛く叩きつけられる。
いざというときは、シリアの方が冷静だった。もしかしたら、こんなときは仲間内で最も冷静になれる人間かもしれない。だからといって、けして冷たい人間なわけではないことを、アルティオは知っていた。
「……悪ぃ」
「いいけれど。私も貴方のそういう直情的なところは嫌いじゃないから。
でもね、今は短気に走るときじゃないわ」
ふぅ、とアルティオの肩から力が抜ける。シリアの冷静さに、驚くと同時に浮き足立っている自分が情けなく見えたからだ。
「……お前のそういうところは尊敬するぜ」
「あら、全部が尊敬に値すると思うけれど?
まあ、それは今はいいわ」
真顔に戻ったシリアは、襟元を正していたレスターに向き直る。
「あの娘たちは、本当に突然消えたのね?」
「あ、ああ……。何というか……黒い霧、みたいなのが出てきて……。気が付いたときには……」
「……そこに、黒い服の、あの男の子がいたのね?」
「ああ。顔の半分を包帯で隠した……二十くらいの男だった」
シリアはぎゅ、と表情を固くする。黒い霧。そんな風に表現できるものを、シリアたちは目にしている。何度も、とは言わないが、少なくとも数回は。
頭を振る。今は彼女の代わりに、冷静に頭を動かしてくれる人間はいないのだ。
冷静に、冷静にならなくては。
「……その場で、殺された、とかじゃないのね……?」
「ああ、たぶん……」
自信なさげに口にするのは、おそらく、目にした現象が不可思議極まりないものだからだろう。死体を目にしていたのなら、そんな表現はしない。
死体があったわけじゃない。その場で殺したわけでもない。
……ということは、まだ、彼らは――。
「シェイリーン様」
シリアと同じ思考に辿り着き、声を発したのはラーシャだった。顔色を白くしながらも、生真面目な表情を保ちながら、
「彼らは大切な客将です。我らには、彼らの身の安全を確認する義務があります」
「……その通りです」
「すぐに捜索隊を組みましょう。隊の先頭には私が」
「いえ」
言いかけたラーシャの言葉を遮って、シェイリーンは立ち上がった。ゆっくりと、面を上げた。
「……ラーシャ、貴方は戦地の頭としての責を全うしてもらわねばなりません。
捜索隊の筆頭には、レスター、それから」
唇を噛んでいたレスターに呼びかけ、そして苦い顔を見せているシリアとアルティオへ、紫色の瞳を向ける。
「シリア様、アルティオ様。捜索隊の副隊長として、立って頂けませんか?」
「!」
「お、俺たちがかッ!?」
「シェイリーン様!?」
シェイリーンは俯いて、ぐっと目を瞑る。ぎゅ、と拳を握って石のテーブルに押し付けながら、口を開く。
「ラーシャをこれ以上、前線から離れさせるわけには行きません。かといって捜索をしないわけにも行きません。
……私はこれから貴族院との交渉のために北都に向かいます。ルナ様たちが失踪したと知れれば、交渉も不利となる。大掛かりな捜索は出来ません。精鋭で、迅速な対処が必要です」
「ンな……ッ!」
憤りかけたアルティオの肩を、シリアの手が押さえた。その二人に、シェイリーンは居た堪れない、苦い表情を浮かべ、ゆっくりと頭を垂れた。
「……申し訳なく、大変失礼なこととは存じております。けれど、私たちは、貴方方が授けて下さった計画を頓挫させるわけには行かないのです」
「……」
アルティオは歯を軋ませながら、それを見下ろしていた。どうすべきかが、判断出来ない。頭に熱が集まっている。
彼ほどではないが、同じような表情で唇を噛んでいたデルタが、何事か言いかける。しかし、それよりも先に飄々とした声が遮った。
「しかし……。そんなことをして、皇太子は何の益にしようと言うのですかね……」
「……」
何かを含ませたような声色に、シリアが柱に背を預けるヴァレスを睨む。だが、彼はそれはあっさりと受け流した。
「……エイロネイアが内部に密偵を送っているのだとしたら。シェイリーン様が貴族院に睨まれている状況を知っていてもおかしくありません。
シェイリーン様の客将を捕らえることで、さらなる内部抗争を招くつもりか……。
あるいは、こちらの計画を形振り構わず止めに来たか。
ならば、なおさら計画を頓挫させるわけには行きません」
「ふむ。そうですね……。彼らにとって、この計画が何らかの痛みである可能性は高いでしょう。
ですが、それだけならば、わざわざそんなややこしい方法など取らずに、一思いに殺せばいい。
何故、それをしなかったのか、という話になります」
「それは……」
「後々、人質にでも使うつもり……でしょうか……」
抑えた声で、デルタが口にする。はっ、として目を見開くアルティオだが、ヴァレスはゆっくりと首を振った。
「まあ、それもあるかもしれませんが――。
私には別の目的があるように思えますがね」
「別の目的、ですって?」
「そう。例えば――
捜索隊の結成自体が目的、ということは考えられませんか?」
ティルスとラーシャ、シェイリーンの表情が歪む。少し遅れてデルタが声を漏らした。
シリアも同じ発想に行き着く。
「自軍の将が生死不明という自体よりも、他の国からの客将が行方不明、という方が、重みがあります。信用問題に関わる話ですからね。捜索隊を設けないわけにはいかないでしょう。
必然的に我々はそちらに戦力の多少を削がざるを得なくなる。ルナ嬢がいなくなる、ということは計画の遅延も意味しますから一石二鳥、ということではないですか?」
「エイロネイアは……また、いずこかへの侵攻を考えている、ということですか……?」
「そうは言い切れませんが。ともかく、我々は彼の術中に嵌りかけているのでは、ということです」
「じゃあ、何だ!? あの三人を見捨てろ、ってことかッ!? 捜索すんな、って言いたいのかよ!?」
再び声を荒げるアルティオの手が、ヴァレスの胸倉を掴む。ラーシャとシェイリーンが慌てて駆け寄った。
「お待ちください、アルティオ様!
ヴァレス! 貴方がどう言おうと捜索隊は結成せざるを得ません。たとえ、あの皇太子の思惑が働いていたとしても、それがシンシアとしての義務と彼らの権利です!」
「……」
ヴァレスの細い目を真っ向から睨んで、シェイリーンは言い放つ。彼はひょい、と軽く肩を竦めただけだった。
「これは失礼。閣下のご命令に背くようなつもりはなかったのですが。貴方がそう仰るのでしたら、それに従いますよ。
ああ、でも、捜索隊を出されるのでしたら、計画の先頭に立っていらしたルナ嬢を真っ先に保護すべきでしょうね」
「……? な、何でだ?」
ヴァレスの意味深な口調に、不安を煽られたアルティオが問う。シェイリーンは何故か黙っていた。
ヴァレスはそれに、僅かにせせら笑った。
「シェイリーン様、貴方もお気づきのはずですよ。彼女のかつての友人が、七征の中にいると知った時点で、考え付いたことがあるはずです」
「……何の話ですか」
「彼女のかつての知り合いは、七征の中でかなり重要なブレーンになっています。戦況を覆した要因と言ってもいいでしょう。
……以前も話しましたが、勝負を拮抗に持っていく方法は二通りあります。
一つはルナ嬢が考案された通り、こちらの戦力を増強すること。
もう一つは、相手の戦力を削いでしまうことです」
「……」
「その男が、エイロネイアの戦力の源であるのなら、話は簡単です。もいでしまえば、これ以上のエイロネイアの戦力増強は止まります。
勿論、簡単ではないですよ? けれど、ルナ嬢とその男の関係を利用すれば、彼女を囮として何らかの策を練ることは可能だったはずです」
「な……ッ!?」
アルティオが喉の奥から声を上げる。シリアはもう一度、爪をかりり、と噛んだ。
ラーシャははっ、としてシェイリーンを、自らの主を見る。彼女は無表情のまま、ヴァレスを見上げていた。
僅かの沈黙。そして、彼女が厳かにそれを破る。
「……可能、だったかもしれません。けれど、私はそれを選びませんでした。詮無きことです」
「確かにそうですねぇ。貴方好みではないですからね。
ですが、彼女が何らかの形で切り札として使えることは確かです。人道的にも、非人道的にも。
エイロネイア皇太子とて、それは悟っているでしょう。彼女がシンシアにいる、ということは彼にとっては不安材料になります。
だから。
不安材料は真っ先に、始末したくなるものじゃないですか?」
「……」
シェイリーンは睨むようにヴァレスを見上げた。そのまましばし、睨みあったままで――
やがて彼女は深い息を一つ吐く。
そして振り返った。
「……ティルス、レスター。今すぐ、捜索隊の手配を始めなさい。事は急を要します」
「へ、へい!」
「はい」
「シリア様、アルティオ様。聞いての通りです。
このような事態、申し訳なく思います。恥を忍んでお願いいたします。どうか――」
「……」
額に汗を浮かべたまま、アルティオはシリアと顔を見合わせる。シリアは回答を求められているようで、憂鬱に目を伏せながら、こめかみを押さえた。
そして考える。最善の選択を模索する。
どうしたら、あの娘たちを救える? どうすれば、あの黒の皇太子を退けられる?
思考をめぐらせる。そして、ゆっくりと面を上げた。
「……シェイリーン」
「……はい」
「……捜索隊の、副隊長に、ティルスをつけてちょうだい。彼が担ってた魔道師の収集と指示は、私が請け負うわ」
「シリアッ!?」
思ってもみない決断に、アルティオが声を上げる。シリアの顔を見下ろし、しっかりと意志のある瞳に、今の言葉は冗談でも何でもないことを悟る。
「考えてもみなさい。ゼルゼイルって土地にまったく土地勘のない私たちが探したところで大した戦力になれるわけはないわ。
だったら、土地勘のある人間に変わってもらった方がいいでしょう?
私もここ数日で、ルナにかなりの知識を教え込まれたから……。地元の魔道師の助けがあれば、指示くらいは出せるわ。それに、皇太子が計画の頓挫を望んでいるなら、魔道師の集まっているこの砦を野放しにするとは思えないし……。
ヴァレスさんはシェイリーンさんの護衛があるでしょ。少しでも、戦力があった方がいいじゃない。
それに、何かの形で裏をかけるかも……」
「だからって……! お前、あいつらのこと、心配じゃないのかよ!?」
「勿論、心配よ。でも、私はあの娘たちの死体を見たわけじゃない。生きているなら、あの娘たちなら大丈夫よ。
――貴方だって聞いたじゃない。あの娘が、あんな顔して何が何でも生き残れ、って言ったのよ? 死ねるわけないでしょう?」
「……」
「私は、あの娘たちを信じるわ。自分の仕事を全うする。
じゃなきゃあ……あの娘たちが帰って来たときに、合わす顔がないじゃない……」
少しだけ震えながら、それでも胸を張って彼女は呟いた。
触れれば折れてしまいそうな決意だ。想い人の命を、運に任せたくなどない、と言った彼女だ。その彼の命を他人任せにするなど、悔しくて仕方ないに違いない。
それでも、自分の責がどこにあるか自覚して、道を選んでいる。
アルティオは息を吐いた。これでは、自分が駄々っ子のようではないか。
「そういうわけだから、アルティオ。あの娘たちのこと、よろしく頼んだ……」
「ンじゃあ、俺も残るかな」
「!」
さらりと言ったアルティオの返答に、シリアの形の良い眉が歪む。
「貴方、何を……」
「まー、確かに俺だって今すぐ飛び出したいけどさ。一人だけ抜け駆け、ってのもな。
襲撃を考えるなら、俺もいた方がいいだろ? 頭使う方はちっと協力できないけどよ。無駄にうろうろして捜索隊の足手まといになるより、よっぽどマシってもんだ。
それに、」
言いかけて、彼は少しだけ苦いながらも、いつもの明るい笑みを浮かべる。
「こんな場所に仲間の女の子一人残してく、ってのも、俺のスタンスじゃないんでね」
「……」
一瞬、意味が解らなかった。しかし、すぐに我に返るとシリアは仕方のない笑みで首を振る。
「仕方ないわね……。好きになさい」
「おう」
「シリア様、アルティオ様……」
アルティオが答えると同時に面を上げたシェイリーンが、ぎゅ、と眉根を寄せて彼らの名を呼んだ。
長いローブに、直らない皺をつくるほど拳を握っていた彼女に、彼らは、
「そういうことだから。貴方たちにとっても悪い条件じゃないでしょう?」
「そうですねぇ。効率を考えれば、コンチェルト少佐が捜索に当たった方が早く済むでしょう。
それに、砦の護衛に付いてくださるとなれば心強い。私はシェイリーン様の護衛に当たらなければなりませんし、フィロ=ソルト中将には前線に出てもらわねばなりませんからね」
「しかし、お二方とも……本当にそれで良いのですか?」
ヴァレスの分析に継いで、ラーシャが二人に問いかける。二人は視線を合わせて、深々と頷いた。
シェイリーンの顔が、一瞬くしゃり、と歪んだ。
「ありがとう、ございます……。本当に……」
涙声で呟いた後、彼女は一つ深呼吸をする。数日前もそうしたように、ぐるり、と周囲を見回して、
「レスター、ティルス。急ぎ捜索隊を結成してください。精鋭とはいえ、多少の人海も必要でしょう。私の護衛に付くはずだった兵士も使用して構いません。
その代わり、ライラ、貴方もヴァレスと共に私の護衛をお願いします」
こくん、とライラは無言で頷く。レスターとティルス、ヴァレスはその場で敬礼の姿勢を取った。
「ラーシャ、デルタ。貴方方は予定通り、前線指揮に戻ること。ただし、客人が戦場に巻き込まれていないかの確認をしっかり取ってください」
「はっ」
「承知しました」
「……シリア様、アルティオ様」
最後に、彼女は二人の方へと向き直る。
「……心苦しいですが、この場を、どうかお願いいたします」
「……解ったわ」
「うっす」
「魔道師の収集がある程度、完了したなら場所を北都近くに移しましょう。その手はずはこちらにお任せください」
シェイリーンの言葉に、ティルスが追加する。彼らが頷くのを待って、彼は何事かを傍らで肩を怒らせていたレスターに言った。
そうして、真っ先にその辺に散らばっていた書類を集めて行動を起こそうとする。
しかし、
「あ、あの……!」
呼び止めたのは、同席していた、カノンたちと同行していた魔道師の一人だった。
「何ですか?」
「……」
ティルスが問い返すと、真っ青な顔で俯いてしまった。同じく、真っ青な顔でいた隣の同僚の魔道師が、彼を下がらせて声を上げる。
「……信じ難いことですが……エイロネイアは、あの皇太子は、あの男は、もう既にとんでもない力を手に入れている可能性が……。
あの場で、ルナ=ディスナー様との会話の内容が、本当だとしたら……」
ティルスは視線でレスターに問いかける。しかし、知識に疎い彼は白い顔で首を振るだけだった。彼には、自分で見たものが何なのか説明が付けられない。今、この場でその説明が出来るのは、同行していた、知識を持つ魔道師たちだけだろう。
かつり、と沈黙を破るように、シリアのヒールが鳴った。
「……ルナがいない以上、魔道関係の指揮は私が執るわ。貴方が見たもの、聞いたもの、全部教えてちょうだい」
重い責が、両肩に襲い掛かるような、そんな痛みを感じた。
「アリッシュ」
聞き慣れた涼やかな声に、男ははっとして振り返った。
たった一月ほど前まで戦場だった場所を眺めて、少し意識が飛んでいたようだった。
砂埃に汚れた白いローブと、長く伸びた水色の髪を押さえて、彼は目を細める。背後に立っていたのは、予想通りの――ゆったりとした黒衣に身を包んだ、顔の片側を包帯で隠している少年の姿に右恭しく頭を下げる。
そのあまりにも綺麗な礼に、少年は息を吐きながら頬を掻いた。
「……エリシアやカシスの態度も問題だけど。君のその律儀さも問題だね……。
別に僕はそんなに偉くなった覚えはないよ」
「殿下は、今は我が主です。敬うのは当然のこと。これは私の矜持にございます」
少年はやれやれと首を振る。しかし、それは侮蔑ではなく、長い付き合いの友人の癖を窘めるような仕草だった。
歳は二十半ばほどだろうか。水の色の長髪を、金の刺繍が施された白いローブの背に流し、胸元には無論八咫鴉の紋。
精悍な、引き締まった表情が、彼の性格をそのまま表している。
彼は面を上げると、自らの主を見、そしてまたその背後に目を止めて、少しばかり目を見開いた。だがそれは一瞬で、すぐに生真面目な顔へと戻る。
少年は男の脇を素通りすると、風の吹く高い崖の上から、今しがた彼が見下ろしていた場所を同じように眺めた。
眼下には深緑の木々がこんもりと森を作っていて、その先に唐突に砂塵の上がる荒野が広がっている。だが、そうしたことか、その砂塵が妙に濃い。
理由はすぐに割れた。
小隊ほどの規模の人の群れが、荒野を馬で乗り回しているのだ。
どうやら群れ同士の抗争なのか、血気は荒く、砂塵のが、妙に赤い。甲高い悲鳴と掛け声が、離れた崖の上まで届く。
「先の戦で出た落ち武者たちの蛮族です」
「シンシアの? それとも自軍のかい?」
「両方です。敵も味方もありません。近隣の村や町で強盗や殺人を起こしているようです。その群れ同士の衝突でしょう」
「まだ規模は小さいようだが……捨て置くわけにもいかないな」
ふむ、と少年は肩膝を付きながら頷いた。しばし、何事か思案する。
そして、抗争を目に留めたまま立ち上がる。
「……初陣、というには些か役不足な気がするけど。
せっかくだ。お願いできるね――?」
そう口にしながら。
彼は、背後を振り向いた――。
部屋に入るなり、アルティオは小さく溜め息を吐いた。机に突っ伏したまま、こちらに背を向けて寝入る幼馴染の背中に気が付いたからである。
灯りはランプ一つだけ。薄暗い部屋の机の脇を素通りして、奥の部屋へ行く。すぐに戻ったその手には、厚手の毛布が抱えられていた。
「ったく、うちの姫どもは皆して、どうしてこう手がかかるんだか……」
呆れた声で呟きながら、薄手(薄手以前に布地が極端に少ない)の服の肩に毛布をかけてやる。そのときにちらりと見えた彼女の手元に軽く首を振った。
膨大な書簡と魔道語の辞書と、アルティオには何が書かれているかまったく解らない書本。
シリアは浄療術の初級認定を受けている。魔道については多少だが、詳しいはずだ。しかし、それは多少であり、ルナのように専門に研究しているわけではない。
加えて一国の書簡を綴る、なんて経験もない。昼方、捜索指揮の傍ら、砦に顔を出しているティルスに指示されながら、物凄く不機嫌な顔で唸りながら書いていた。
不慣れな作業ほど疲れるものはない。ルナのように器用にはいかない。それでも彼女は砦に集まった魔道師たちに指示を出し、各地での調査の調整を行っている。
――なっさけねー……
アルティオは自分の馬鹿さ加減を知っていた。知識の足りなさも解っている。同時に下手に手伝うと、返って邪魔になってしまう自分の情けなさも。
「いっつも、こんなんだな……俺」
思えば、ステイシアの事件のときもそうだった。何も出来なかった。一人では立ち直ることさえも、出来なかった。出来ないまま……一人の、女の子を、犠牲にした。
アルティオはさらに激しく首を振る。駄目だ、忘れるのだ。痛みはいつかしかるべきときに思い出せばいい。
朗報は来ない。あれから既に一週間が経過しているというのに、カノンたちの姿はおろか、目撃情報さえも一報すら入って来ない。
――やっぱり、エイロネイア、ってことなんかなぁ……
エイロネイアの領内についても、密偵に依頼はしているらしい。しかし、先のエイロネイア皇太子の思惑もある。派手な動きは出来ない。
カノンもレンも、ルナもいて、破れなかった、エイロネイアの滅法鬼神。皇太子。やはり、周到な人間なんだろう。
知らず知らず、表情が強張る。
嫌な想像を振り払うように、持ってきたマグカップを一気に煽った。
この怒りを、このやるせなさを晴らせる場所は、いつか来るのだろうか。
「本当に……どこ行っちまったんだよ……カノン……」
呟いた悔しさの塊は、カップの底に残っていたコーヒーの黒い雫に、溶けて消えた。
←6-02へ
「あんた今は護衛でしょ!? 護衛がぽやーっとしててどうすんのよッ!?」
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してた」
瓦礫から舞い戻って、やはり最初に降りかかったのは甲高い文句の声だった。耳に響くが、まったく正論なので何も言い返せない。
「ったく、しっかりしてよね。いざってときに頼りにならないじゃない」
「あー、まったくだなー。何でシェイリーン様と姐さんが、こんな奴らを選んだんだか不思議だぜ」
無遠慮極まりない声を上げたのは、ラーシャ=フィロ=ソルト配下のレスター=ライアント。建前上は、護衛隊の隊長である。
内部にも秘密裏とされたルナの単独行動だ。護衛も大層なものは、用意出来ない。それ故の抜擢だそうだが、カノンにしてみれば納得がいかないにも程がある。
何故、魔道の"ま"の字も理解していない奴が、隊長なんてものにのさばっているのか。
「大体、こんながらくたの山を調査して、本当にエイロネイアへの対抗手段になるのかよ」
予想通りの言動が返って来た。自分たちに反発心があるのは十分わかった。わかったから黙っていて欲しいものだ。
ルナが露骨な血管を額に浮かべる。心なしか、調査団の魔道師たちの顔色も芳しくはない。
カノンは陰鬱に首を振る。
「あのね、まあ、あたしも本職じゃないからでかいことは言えないけど……。
魔道歴史の調査、探索ってのは言葉ほど派手なものじゃないのよ。それこそ石一つ、紙切れ一つに太古の記録が残っていないか血眼になって探すしかないの。
本当は時間も手間もかかるシロモノなのよ。
それを、短期間で集中的にやろう、って言ってんだから、ここまでぎゅうぎゅうに彼らが資料集めしてんじゃない。
それともあんた、一欠片でも彼らの作業を手伝ったわけ?」
「ぐ……」
目の下に隈を作った魔道師たちがうんうんと頷く。一見、平気そうなルナも、さすがに濃い疲労の色はシリアに借りた薄化粧でも隠せていない。
歯がゆいのは解るのだ。
ラーシャも、デルタも。シェイリーンは勿論、あの冷静な顔を張り付けたティルスとて。
焦燥と、怒りに駆られているはず。激的な変化が欲しいのだ。戦況を今すぐにでも覆せるような。
けれど彼らは人間だ。そんな変化を生み出せるのは、いるとしたら、神なのか、悪魔なのか。
ルナは溜め息を吐き出す。説明したところで理解は得られないことを悟って。
感情論は嫌いではない。感情があるからこそ、人は機能する。だが、それと戦略的な行動はまったく別。
「……焦るのは解らなくもないけど。
焦ったところで人間は、目の前の出来ることをやるしかないの。……出来ることが何なのかさえ解らないこともある。解るきっかけがあっても、気づけないことだってある。
それに比べたら、たとえ低い可能性であっても、出来ることがある今は、まだいい方よ……」
「……ッ」
沈痛なカノンの表情に、さしものレスターも何かを悟ったのか、それきり悪態を吐こうとはしなかった。
ルナは無言で知らぬ振りを通し、レンは先ほどから何も言わずに柱にもたれたままだった。ふい、と視線を逸らして、指示を待っている魔道師たちにきびきびと言葉を発し始める。
カノンは剥れながらも静かになったレスターを見やり、そちらの方に駆け寄った。
それに気が付いたルナは、一人の魔道師に資料を押し付けると、こちらを向く。
「どう?」
「……駄目ね。完全に倒壊してて。大幅な瓦礫の撤去作業が必要よ。
上手くすれば中に入り込めるかもしれないけど、あまりに危険すぎるわ。止めて置いた方が無難ね」
「……そう」
「ま、別に調査対象はここだけじゃないし。最終的には、護法鬼神の巣・神羅[ディーダ]にまで行ってみるつもりだから。
鬼神と会えるなんて思ってないけど、ここの魔道師に聞いたら結構古い祭壇が残ってる、って話だから。見てみて損はないかな、って感じよ。護衛の人たちには面倒をかけるけどね」
最後の言葉は、やや皮肉めいたものがあった。ちらりと視線を向けられたレスターは、罰が悪いのか、知らぬ振りを貫いた。
「……解った。次は?」
「ここからもうちょい南西なんだけど。古代ヘルヴェキア時代のお墓が残ってるらしいのね。お墓、って言っても結構な偉人のお墓だから、ちょっとした神殿的な造りになってるらしいんだけど。
今日はそこを見て終わりかな。近くにまた砦があるらしいから一泊させてもらいましょ」
「ん、了解」
ばさり、と彼女が広げた地図を確認する。
先導役がルナと魔道師たちであっても、経路を頭に入れておく必要がある。いざというときに、分散しても、経路さえ解っていれば合流は可能だ。
がらがらと音がして瓦礫の一部が小さく崩れる。
今までずっと上にいたライラが戻って来たのだった。弓矢を担ぎながら軽快に降りて、すとん、と着地する。
何気なく視線を送っていると、彼女は唐突に宙を見た。そのままじっと空を見る。
「ライラ、さん?」
微動だにしない彼女に、カノンは声をかける。半ば、反応がないのを覚悟していたが、視線が動いた。じっ、とカノンの顔を覗き込み、くい、と上を指差す。
「上、って……」
カノンが碧い瞳を瓦礫の上へと向ける。
はらり……
灰色の青さと、霞んだ白が支配する空に。ひらりと、風に吹かれる一枚の、
「――ッ! 伏せてッ!!」
言うが早いか、カノンは隣にいたルナの肩を引き摺り倒す。その刹那、
どぉぉぉぉおぉぉんッ!!
――く、ぅ……ッ!?
固く閉じた瞼の向こうで、閃光が炸裂する。ちりちりとした痛みが目の上に走る。
それと共に、伏せた身体に感じたのは熱量を伴う乱暴な風。目を腕で庇いながらも、カノンは目を開く。
あの舞い降りた白い紙――符の持ち主が、カノンの知り得る人物だとしたら、間違いなく、この隙に――来る!
目を開くと同時に背中の剣鎌[カリオソード]を引き抜いた。
瞬間に、目の前で踊る、黒の残像。
「――ッ!!」
ぎぎぃんッ!!
咄嗟に振るった刃は、何かと衝突して鈍い音を立てた。
上げた、まだ少しだけ霞む視界に、黒の人形と哂う秀麗な少年の顔。その顔は不自然に割れていた。少年が手にしたあの真っ黒な槍が、眼前に突きつけられていて、その刃をかろうじて剣鎌[カリオソード]が食い止めていた。
「我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア!」
「!」
カノンの足元から上半身を起き上がらせたルナが、突き上げた掌に赤い光を収束させる。ごうっ、と音を立てて燃え上がったそれが、自らの身体を貫く前に、少年は振りかぶっていた槍を引いた。
光弾はあさっての方角に飛び、瓦礫に衝突するより先に、小さく消える。
少年は引き様に後方へ重い蹴りを放つ。それは側にあった瓦礫の欠片を弾いただけだ。だが、その欠片は背後から剣を抜いていたレンの眼前に飛び、彼がそれを振り払ったときにはもう、少年は大剣の間合いの外に逃れていた。
……相変わらず、無茶苦茶な。
槍先が風を叩く。爆炎が晴れて、瓦礫の山を背にしたカノンたちと対峙するように、とん、と少年は地面に降り立った。
このときになって、ようやくレスターたちは身を起こして、少年の姿に眉間に皺を寄せた。
ルナが動作で呪を唱えようとしていた魔道師たちを下がらせる。普通の相手ならともかく、分が悪すぎる。
何てことだ。まさか直球で来るなんて……!
「なん……だ、お前……」
「……」
掠れたレスターの声に、彼はふ、と嘲るような微笑で答える。
レスターとて、先日のカノンたちの話を聞いていなかったはずはない。カノンたちの話の中に出て来た『皇太子を名乗る黒衣の少年』の話も、記憶に新しい。
けれど。
予測など出来ない。
出来るはずがない。
こんな、非公式的なお忍びの調査に、襲撃はあったとしても、それと酷似した外見の『現物』が目の前に出てくるなんて……!
勿論、カノンたちだって思っていなかった。
国境があるといえ、境目でいちいち目くじらを立てて検査してるわけじゃない。だから、敵国の間者が味方国に入る込むことはそう難しいことじゃない。
ましてや、こんな瓦礫の山以外には、何の変哲もない場所に。
けれど、けれど、そんな場所に、自ら敵軍の大将を名乗った人間がいるなど。
そんな馬鹿なことが――
「――馬鹿なこととお思いですか?」
「ッ!?」
レスターの思考を読んだように、かの皇太子はくすりと嘲笑[わら]う。ぎりぎりと、噛み締めたレスターの歯軋りが、口内に響く。
「……はったりだ! 本物が、こんな場所に来るわけねぇ! こいつの方が偽物だ、うろたえるな!」
レスターが吼える。その虚勢は、先日のカノンたちの話を聞いていて、目の前の少年の姿に竦んでいた兵士たちをほんの少しだけ奮い立たせた。
だが、反してカノンたちは険しい顔で剣を構えたままだった。
カノンたちにとっては、彼が本物だろうが偽者だろうが、差たる問題ではなかった。本物でも、偽者でも、彼が西大陸であれだけのことをやってくれた張本人であり、敵の要人なのだという事実に変わりはない。
少年は震えを堪えた兵士たちを眺めながら、陰鬱な、ひどくつまらなさそうな息を吐く。
「どう思われようと構いませんが――
重要なのは、本物か偽者か、ではなく、貴方方が敵うかどうかだと思いますがね」
「てっめぇ……!」
ちゃき、と柄を鳴らすレスターの手を、一歩前に出たルナが止める。そのまま飄々とした顔の彼を睨みながら、
「……なんで、ここに」
「……内部に密偵を放っているのは、何もシンシアだけではありませんよ。
それに、こちらには貴方も良く知る通り、その道のプロがいますからね。シンシア領のめぼしい遺跡や曰くつきの場所を割り出すのはそう難しいことじゃあありません」
「なるほど。ばれるのは覚悟していたし、妨害もあると思ってたけど。まさか、天下の皇太子直々にお出ましとは思わなかった。
けど、あんたみたいなのが直接来る、ってことはあたしたちの作戦の方向はあながち間違っていなかった、ってことね」
「さて、自惚れは感心しませんよ。第一、ここで生き残れなければ語っても仕方のないことでしょう?」
少年の手にした漆黒の槍が、澄んだ音を立てる。ルナは無言でそれを見据えた。
後方からカノンとレンが、彼女の隣に並ぶ。けれど、彼女はそれを片手で制した。
「……? ルナ……?」
「カノン、レン。それからあんたたちも。下がってて」
「ちょっと、何言ってるのよ!? あんた一人でなんて……」
彼女は魔道師だ。白兵戦は得意としない。だが、あの少年、槍術と符術を使い分けるという何とも器用な真似をしてくれる。現に、レンとアルティオ、シリアの三人を相手に互角に戦った相手なのだ。
そんな相手に、彼女一人では……!
彼女は小さく笑みを漏らす。それが、少しだけ自嘲めいて見えたのは、カノンの錯覚だったろうか?
「平気。大丈夫だから」
「……」
――ルナ……?
何か、考えでもあるのだろうか。ルナは言い切って、再度少年へ目を向ける。
少年とルナの、足が砂を掻く音が重なった。
「解っては、いると思いますが。勇気と無謀は全く別の言葉ですよ?」
「……自惚れてるのは、どっちかしらね」
「……」
彼は僅かに眉を潜ませる。彼女の自信が、理解できない。ふっ、と彼女は息を抜く。何を思ったか、嵌めていた右のグローブを剥ぎ取るように、脱いだ。
「ホントは最後の最後まで使わないつもりだったんだけどね……。けど、こんなところであんたごときに時間食ってる暇なんかないのよ」
少年の瞳がすっ、と細められる。何かを感じたのか、槍を構え直した。正眼の突きの構え。ルナは素手となった右手を頭の羽飾りに添える。
初動は、早かった。少年が、砂を蹴る。ルナが、何かのセンテンスを呟く。
カノンとレンは、反射的に構えた得物を繰り出そうとして、
「――リミットブレイク」
「ッ?!」
少年が、足を止めた。巻き上がった砂が、包帯と擦れて、耳障りな感触を残した。
目の前を、黒い羽が舞った気がした。
「これは……!」
「る、ルナ……ッ!?」
「な、何だ……ッ!?」
「……」
件の魔道師の足元に、黒く輝く魔方陣が敷かれている。舞い上がった黒い風。それが彼女の、短く切られた髪をばらばらに振り乱した。
禍々しい威圧感と、何より尋常ではなく強い風が、傍らのカノンとレンさえ近づけない領域を作り出す。兵士たちは理解を超えた、しかし肌で感じる威圧に、射すくめられる。その風の渦中で、彼女は目を見開いて少年を睨んだ。
彼女の髪を止める飾りの、一つだけ黒い羽に目を止めて、彼女の直前の所作で、その奔流の源がソレだということに気が付いて、少年は絶句する。
そこにいた全員を庇うようにして立つ少女の右手の甲に、べったりと。
抉ったような傷が、浮かんでいる。
普段なら目に付かないそれが、眼前に曝されている。正方形の形を素として、紋様と奇怪な文字とが刻まれた方陣。それは少女の足元にあるものと同じものだった。
少年は眉間に皺を寄せる。
「四角は死角。黒の羽は死の使いの印。死神の印は神と悪魔が、自らの力を分け与えるに足る人間に刻む目印」
「え……?」
「……」
ぼそり、と呟いた少年の言葉を、カノンは胸中で必死に噛み砕く。神と悪魔。つまりは、神魔族。
昨夜も彼女と話をしたように、神魔族には稀に人間に加担するような者も存在する。千、いや万に一人だとしても、過去、そんな人間は確かに存在した。
「……どこでそんなものを手にしたのかは知りませんが。所詮、人間には過ぎたもの。
貴方、死んでも、天国には行けませんよ?」
「……死んでから考えればいい話よ」
重い、返答。
少年は、無言だった。
轟ッ!!
黒い残影が、収束する。びりびりと、重圧がか細い肩にかかって、ずん、と彼女の足が砂に埋まった。四肢を砕かれそうな思い圧力に、悲鳴を飲み込んだ。
「く……ッ」
「ルナ……ッ!?」
カノンは迷う。もし、それがカノンの想像する通り、人に過ぎた力だとするのなら、下手に手出しなど出来ない。いや、どう手を出していいかも解らない。下手をすれば、巻き込まれてしまうだけだ。
その逡巡を振り切るように、ルナは黒い風を、両手に掲げた。
空間が、空間そのものが、ぐにゃりと歪む。
空気が、人の世界の風が、悲鳴を高らかに上げた。
「――我望む、我が加護の灯火となれ、堕天の誘い、月下の夜想、壊せエンジェリックハウルッ!!」
黒の奔流が、空を歪めながら、少年のいた空間を切り裂いた。
霧が晴れるように、空間が戻る。黒の残滓が、解けるように消えて、ルナは地面に膝と手をついた。
荒い息を吐いて、あの少年が、跡形もなく消し飛んだのを確認しようと顔を上げて。
絶句、した。
「……」
少年は、まだそこに佇んでいた。いや、彼女が絶句したのはそればかりが理由ではない。
カノンも、レンさえも、絶大な奔流に身体が竦んでいた。硬直が解けたら、真っ先にルナに、この得体の知れない力の正体を問いただすつもりだった。けれど、それよりも前に、目の前の少年にもう何度目になるか、言葉を失った。
『大丈夫ですか、主様』
「……ああ、ありがとう。直撃だったら、ちょっと危なかった」
くぐもった、どこから漏れているのかも解らない声に、少年は平然と答える。一歩、少年が僅かに動くと、かしゃり、と音が立った。
衣擦れではない。少年のあのゆったりとした黒衣では、そんな音が立つはずも無いのに。
カノンは息を飲む。隣でレンが、それ以上ないくらい顔を顰めていた。
眼前で、何が起こっているのか解らない。
「な、な、な……」
「……あんた…」
カノン以上に困惑し、呻き声を上げるレスターと。
彼やカノンたちとは、違い、少しだけ理解の色を見せるルナ。
少年の、包帯の合間から見える唇が笑みの形につり上がる。その肢体は、今は黒衣ではなく、別のものに包まれていた。
「な、何だ、ありゃあ……!」
ようやく、レスターの声が言葉となった。
陽光さえ通さない漆黒の輝き。無機質なその輝きが、彼の全身を包んでいる。禍々しい輝きなのに、形だけは忠誠を示す騎士の形状。
肩と胸は、簡素な、しかし鋭いフォルムをした胸甲冑[ブレスとプレート]に包まれて、腰から下は造りは細いが沈んだ黒の輝きが覆う。頭部には王の冠のように載せられた、黒い兜。
漆黒の、騎士鎧を纏い、対となる漆黒の槍を振りかざした、"ナニカ"が、そこにいた。
「……まさか」
「……」
漆黒の鎧の、騎士。その鎧は、人が纏った、魔力の塊。
それにあの声は。
う゛ん……ッ!
風が唸って、幻影が浮かぶ。少年の背に立つように、あの黒髪の少女の幻が、大気に浮き上がる。
ゆっくりと、その"モノ"が、瞳を開いた。
「な、何だ、あの化け物はッ!?」
ルナは思う。化け物。人間の観点からすれば、正解なのかもしれない。だが、ただのお化けの方が、何倍も可愛い。
だから呪う。最悪の想像を描いてしまい、それを認めざるを得ない我が身を呪う。
「まさか、あんた……!」
「そういえば……彼女の紹介は、まだでしたね……」
ありえない。ありえないのだ。彼らが、"彼女"が、ここにいるなど……!
だって、六千年、ありえなかった!
いや、ありえるとしても、この長い年月、存在しなかった!
「彼女の本名は、de Eltrushe Sheraiv gura deephir ……まあ、人間には少々発音が難しくてね。
かといって不本意に人間に命名された名も気に食わないそうだから。仕方ないから、僕はシャルと呼んでいるけれど。
君たちには、そちらの名の方が解りやすいだろう」
そんなことが、この局面で、そんなバカなことが……ッ!
あっていいはずが、ない!
「――彼女の名はシャライヴ。六千年前、この地に眠りに付いた、悲しい悪魔の成れの果て」
「滅法鬼神シャライヴが、彼女の本名だ」
伝説は、もう既に、実在していたのだ。
「鬼神、闘士……」
凍りついた空気を無理矢理割るように、ルナがそんな単語を口にする。
「おや、その呼び名を知っているとはね。そう、人間の世界では鬼神に見初められ、力を得た人間をそう揶揄する。
敬称なのか、蔑称なのか、微妙なところだけど。
ともかく、人外の力を持つ人間は君だけじゃない、ってことだよ」
「……」
ぎりッ――ルナは歯を噛み鳴らす。迂闊だった。エイロネイアが伝承の力を持っていたとしても、まさか、まさかあの伝説の鬼神を既に蘇らせているなんて。本物の悪魔を、味方としているなんて……!
考えなかったわけでない。現に、ルナが鬼神伝説を調べ上げたのは、伝説が本当なら、彼らの力を利用できないか考えたからだった。
けれど、半ば諦めていた。実在して、簡単に利用出来るものなら、この六千年の間に誰かが利用しているに決まっている。でもその目測が、こんなにもあっさりと……!
訳が分からず絶句するレスターと、この期に及んで表情を変えないライラと。
必死に眼の前の現実を認めようとしているカノン。レンは、表情は読めない。読めないが、心中で何かが葛藤しているのは明白だった。
「……あんたこそ、死んでも天国に行けないわよ」
くすり、と皇太子は笑う。
何をそんなことを、という当然のような表情で。
「元から、そんな場所に興味はないよ」
「!」
漆黒の槍が一閃する。ルナは構えを取り、黒の障壁を張る。が、少し遅かったらしい。
どぅんッ!!
「……ッ! く、ぅ……ッ」
「ルナ!?」
見えない衝撃波に、彼女の軽い身体が障壁ごと吹き飛んだ。そのまま背後の瓦礫に背中を強打する。
カノンの声に、呻きは漏らせたが、圧力で肺から空気が漏れてそれ以上答えられない。
冷静さを欠いた頭は、カノンとレンの意識を、眼の前の敵から攻撃を受けた味方へと向けさせてしまう。その隙に、少年は槍をもう一閃させた。
空間が、軋んだ音を立てた。
「!?」
カノンの視界に、奇妙な霧がかかる。いや、違う。霧などではない。
薄い膜のようなものが、何か障壁のようなものが彼女の身体を包んだのだ。それを理解した瞬間、カノンは、眼の前の不透明な障壁に銀の刃を叩き付けた。
が、
「! な、何、これ……ッ!?」
乾いた音すら立てず、障壁はいとも簡単にカノンの刃を受け止めた。はっ、と気が付いて霞んだ視界で周囲を見渡すと、レンと、それからかろうじて身を起こしたルナの周囲にも、同じような障壁が見えた。
音が、聞こえない。
大声のレスターが何かを喚いているが、それさえも聞こえない。
ゆっくりと、カノンの足元から黒い霧が立ち上る。それには、見覚えがあった。視線を上げると、当然のようにレンやルナの身体も、薄っすらと霧に覆われて――
「! レンッ、ルナッ!!」
解らない。解らない、解らない。あれは、あの少年は何をしようとしているのだ。カノンの身を、彼らをどうしようとしているのだ!?
殺すならこの場でやればいい。なら、これは何の真似だ!?
ちりん、と皮肉に、悲しく胸元で鈴が鳴る。
その音が聞こえたように、障壁に剣を叩きつけていたレンが、黒い霧の中で彼女を振り返った。ぎりり、と歯を食い縛り、無駄と解っていながら、障壁に剣を振るわせる。
力任せに障壁を叩き、叫ぶように、何かを口にする。
ああ、音なんか聞こえなくても解る。呼ばれているのに、あれは自分の名前なのに、呼ばれても、呼ばれても、声が届かない。
「レ、レン……ッ! レンッッッ!!」
叫んだはずなのに、自分の耳にさえ届かない。聞こえない。届かない。
誓ったのに。全力で、守るって誓ったのに! こんなところで、こんなところで、己の矮小さを思い知らされるなんて!
「れッ…………!?」
縋りつくようにして障壁を引っかいていたカノンの手が止まる。
がくり、と膝から力が抜けて、視界が靄のような黒い色に染まる。ゆっくりと、眠りに落ちる直前のように、意識が遠のいた。
――く……ッ、駄目、こんな、こん、な……ッ!
完全に、闇に飲まれるより前に。
「・・・!?」
「……」
黒の残像を纏う少年の、白い顔が、眼の前に浮かんだ。睫毛を伏せた、どこか憂いた顔をした。
その唇が、何かを紡ぐ。
白い手が、視界を塞いで、額に何か冷たい感触。
意識を失う直前、カノンは、そのかすかな声を確かに聞いた気がした。
「おやすみ。――ごめんね」
←6-01へ
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してた」
瓦礫から舞い戻って、やはり最初に降りかかったのは甲高い文句の声だった。耳に響くが、まったく正論なので何も言い返せない。
「ったく、しっかりしてよね。いざってときに頼りにならないじゃない」
「あー、まったくだなー。何でシェイリーン様と姐さんが、こんな奴らを選んだんだか不思議だぜ」
無遠慮極まりない声を上げたのは、ラーシャ=フィロ=ソルト配下のレスター=ライアント。建前上は、護衛隊の隊長である。
内部にも秘密裏とされたルナの単独行動だ。護衛も大層なものは、用意出来ない。それ故の抜擢だそうだが、カノンにしてみれば納得がいかないにも程がある。
何故、魔道の"ま"の字も理解していない奴が、隊長なんてものにのさばっているのか。
「大体、こんながらくたの山を調査して、本当にエイロネイアへの対抗手段になるのかよ」
予想通りの言動が返って来た。自分たちに反発心があるのは十分わかった。わかったから黙っていて欲しいものだ。
ルナが露骨な血管を額に浮かべる。心なしか、調査団の魔道師たちの顔色も芳しくはない。
カノンは陰鬱に首を振る。
「あのね、まあ、あたしも本職じゃないからでかいことは言えないけど……。
魔道歴史の調査、探索ってのは言葉ほど派手なものじゃないのよ。それこそ石一つ、紙切れ一つに太古の記録が残っていないか血眼になって探すしかないの。
本当は時間も手間もかかるシロモノなのよ。
それを、短期間で集中的にやろう、って言ってんだから、ここまでぎゅうぎゅうに彼らが資料集めしてんじゃない。
それともあんた、一欠片でも彼らの作業を手伝ったわけ?」
「ぐ……」
目の下に隈を作った魔道師たちがうんうんと頷く。一見、平気そうなルナも、さすがに濃い疲労の色はシリアに借りた薄化粧でも隠せていない。
歯がゆいのは解るのだ。
ラーシャも、デルタも。シェイリーンは勿論、あの冷静な顔を張り付けたティルスとて。
焦燥と、怒りに駆られているはず。激的な変化が欲しいのだ。戦況を今すぐにでも覆せるような。
けれど彼らは人間だ。そんな変化を生み出せるのは、いるとしたら、神なのか、悪魔なのか。
ルナは溜め息を吐き出す。説明したところで理解は得られないことを悟って。
感情論は嫌いではない。感情があるからこそ、人は機能する。だが、それと戦略的な行動はまったく別。
「……焦るのは解らなくもないけど。
焦ったところで人間は、目の前の出来ることをやるしかないの。……出来ることが何なのかさえ解らないこともある。解るきっかけがあっても、気づけないことだってある。
それに比べたら、たとえ低い可能性であっても、出来ることがある今は、まだいい方よ……」
「……ッ」
沈痛なカノンの表情に、さしものレスターも何かを悟ったのか、それきり悪態を吐こうとはしなかった。
ルナは無言で知らぬ振りを通し、レンは先ほどから何も言わずに柱にもたれたままだった。ふい、と視線を逸らして、指示を待っている魔道師たちにきびきびと言葉を発し始める。
カノンは剥れながらも静かになったレスターを見やり、そちらの方に駆け寄った。
それに気が付いたルナは、一人の魔道師に資料を押し付けると、こちらを向く。
「どう?」
「……駄目ね。完全に倒壊してて。大幅な瓦礫の撤去作業が必要よ。
上手くすれば中に入り込めるかもしれないけど、あまりに危険すぎるわ。止めて置いた方が無難ね」
「……そう」
「ま、別に調査対象はここだけじゃないし。最終的には、護法鬼神の巣・神羅[ディーダ]にまで行ってみるつもりだから。
鬼神と会えるなんて思ってないけど、ここの魔道師に聞いたら結構古い祭壇が残ってる、って話だから。見てみて損はないかな、って感じよ。護衛の人たちには面倒をかけるけどね」
最後の言葉は、やや皮肉めいたものがあった。ちらりと視線を向けられたレスターは、罰が悪いのか、知らぬ振りを貫いた。
「……解った。次は?」
「ここからもうちょい南西なんだけど。古代ヘルヴェキア時代のお墓が残ってるらしいのね。お墓、って言っても結構な偉人のお墓だから、ちょっとした神殿的な造りになってるらしいんだけど。
今日はそこを見て終わりかな。近くにまた砦があるらしいから一泊させてもらいましょ」
「ん、了解」
ばさり、と彼女が広げた地図を確認する。
先導役がルナと魔道師たちであっても、経路を頭に入れておく必要がある。いざというときに、分散しても、経路さえ解っていれば合流は可能だ。
がらがらと音がして瓦礫の一部が小さく崩れる。
今までずっと上にいたライラが戻って来たのだった。弓矢を担ぎながら軽快に降りて、すとん、と着地する。
何気なく視線を送っていると、彼女は唐突に宙を見た。そのままじっと空を見る。
「ライラ、さん?」
微動だにしない彼女に、カノンは声をかける。半ば、反応がないのを覚悟していたが、視線が動いた。じっ、とカノンの顔を覗き込み、くい、と上を指差す。
「上、って……」
カノンが碧い瞳を瓦礫の上へと向ける。
はらり……
灰色の青さと、霞んだ白が支配する空に。ひらりと、風に吹かれる一枚の、
「――ッ! 伏せてッ!!」
言うが早いか、カノンは隣にいたルナの肩を引き摺り倒す。その刹那、
どぉぉぉぉおぉぉんッ!!
――く、ぅ……ッ!?
固く閉じた瞼の向こうで、閃光が炸裂する。ちりちりとした痛みが目の上に走る。
それと共に、伏せた身体に感じたのは熱量を伴う乱暴な風。目を腕で庇いながらも、カノンは目を開く。
あの舞い降りた白い紙――符の持ち主が、カノンの知り得る人物だとしたら、間違いなく、この隙に――来る!
目を開くと同時に背中の剣鎌[カリオソード]を引き抜いた。
瞬間に、目の前で踊る、黒の残像。
「――ッ!!」
ぎぎぃんッ!!
咄嗟に振るった刃は、何かと衝突して鈍い音を立てた。
上げた、まだ少しだけ霞む視界に、黒の人形と哂う秀麗な少年の顔。その顔は不自然に割れていた。少年が手にしたあの真っ黒な槍が、眼前に突きつけられていて、その刃をかろうじて剣鎌[カリオソード]が食い止めていた。
「我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア!」
「!」
カノンの足元から上半身を起き上がらせたルナが、突き上げた掌に赤い光を収束させる。ごうっ、と音を立てて燃え上がったそれが、自らの身体を貫く前に、少年は振りかぶっていた槍を引いた。
光弾はあさっての方角に飛び、瓦礫に衝突するより先に、小さく消える。
少年は引き様に後方へ重い蹴りを放つ。それは側にあった瓦礫の欠片を弾いただけだ。だが、その欠片は背後から剣を抜いていたレンの眼前に飛び、彼がそれを振り払ったときにはもう、少年は大剣の間合いの外に逃れていた。
……相変わらず、無茶苦茶な。
槍先が風を叩く。爆炎が晴れて、瓦礫の山を背にしたカノンたちと対峙するように、とん、と少年は地面に降り立った。
このときになって、ようやくレスターたちは身を起こして、少年の姿に眉間に皺を寄せた。
ルナが動作で呪を唱えようとしていた魔道師たちを下がらせる。普通の相手ならともかく、分が悪すぎる。
何てことだ。まさか直球で来るなんて……!
「なん……だ、お前……」
「……」
掠れたレスターの声に、彼はふ、と嘲るような微笑で答える。
レスターとて、先日のカノンたちの話を聞いていなかったはずはない。カノンたちの話の中に出て来た『皇太子を名乗る黒衣の少年』の話も、記憶に新しい。
けれど。
予測など出来ない。
出来るはずがない。
こんな、非公式的なお忍びの調査に、襲撃はあったとしても、それと酷似した外見の『現物』が目の前に出てくるなんて……!
勿論、カノンたちだって思っていなかった。
国境があるといえ、境目でいちいち目くじらを立てて検査してるわけじゃない。だから、敵国の間者が味方国に入る込むことはそう難しいことじゃない。
ましてや、こんな瓦礫の山以外には、何の変哲もない場所に。
けれど、けれど、そんな場所に、自ら敵軍の大将を名乗った人間がいるなど。
そんな馬鹿なことが――
「――馬鹿なこととお思いですか?」
「ッ!?」
レスターの思考を読んだように、かの皇太子はくすりと嘲笑[わら]う。ぎりぎりと、噛み締めたレスターの歯軋りが、口内に響く。
「……はったりだ! 本物が、こんな場所に来るわけねぇ! こいつの方が偽物だ、うろたえるな!」
レスターが吼える。その虚勢は、先日のカノンたちの話を聞いていて、目の前の少年の姿に竦んでいた兵士たちをほんの少しだけ奮い立たせた。
だが、反してカノンたちは険しい顔で剣を構えたままだった。
カノンたちにとっては、彼が本物だろうが偽者だろうが、差たる問題ではなかった。本物でも、偽者でも、彼が西大陸であれだけのことをやってくれた張本人であり、敵の要人なのだという事実に変わりはない。
少年は震えを堪えた兵士たちを眺めながら、陰鬱な、ひどくつまらなさそうな息を吐く。
「どう思われようと構いませんが――
重要なのは、本物か偽者か、ではなく、貴方方が敵うかどうかだと思いますがね」
「てっめぇ……!」
ちゃき、と柄を鳴らすレスターの手を、一歩前に出たルナが止める。そのまま飄々とした顔の彼を睨みながら、
「……なんで、ここに」
「……内部に密偵を放っているのは、何もシンシアだけではありませんよ。
それに、こちらには貴方も良く知る通り、その道のプロがいますからね。シンシア領のめぼしい遺跡や曰くつきの場所を割り出すのはそう難しいことじゃあありません」
「なるほど。ばれるのは覚悟していたし、妨害もあると思ってたけど。まさか、天下の皇太子直々にお出ましとは思わなかった。
けど、あんたみたいなのが直接来る、ってことはあたしたちの作戦の方向はあながち間違っていなかった、ってことね」
「さて、自惚れは感心しませんよ。第一、ここで生き残れなければ語っても仕方のないことでしょう?」
少年の手にした漆黒の槍が、澄んだ音を立てる。ルナは無言でそれを見据えた。
後方からカノンとレンが、彼女の隣に並ぶ。けれど、彼女はそれを片手で制した。
「……? ルナ……?」
「カノン、レン。それからあんたたちも。下がってて」
「ちょっと、何言ってるのよ!? あんた一人でなんて……」
彼女は魔道師だ。白兵戦は得意としない。だが、あの少年、槍術と符術を使い分けるという何とも器用な真似をしてくれる。現に、レンとアルティオ、シリアの三人を相手に互角に戦った相手なのだ。
そんな相手に、彼女一人では……!
彼女は小さく笑みを漏らす。それが、少しだけ自嘲めいて見えたのは、カノンの錯覚だったろうか?
「平気。大丈夫だから」
「……」
――ルナ……?
何か、考えでもあるのだろうか。ルナは言い切って、再度少年へ目を向ける。
少年とルナの、足が砂を掻く音が重なった。
「解っては、いると思いますが。勇気と無謀は全く別の言葉ですよ?」
「……自惚れてるのは、どっちかしらね」
「……」
彼は僅かに眉を潜ませる。彼女の自信が、理解できない。ふっ、と彼女は息を抜く。何を思ったか、嵌めていた右のグローブを剥ぎ取るように、脱いだ。
「ホントは最後の最後まで使わないつもりだったんだけどね……。けど、こんなところであんたごときに時間食ってる暇なんかないのよ」
少年の瞳がすっ、と細められる。何かを感じたのか、槍を構え直した。正眼の突きの構え。ルナは素手となった右手を頭の羽飾りに添える。
初動は、早かった。少年が、砂を蹴る。ルナが、何かのセンテンスを呟く。
カノンとレンは、反射的に構えた得物を繰り出そうとして、
「――リミットブレイク」
「ッ?!」
少年が、足を止めた。巻き上がった砂が、包帯と擦れて、耳障りな感触を残した。
目の前を、黒い羽が舞った気がした。
「これは……!」
「る、ルナ……ッ!?」
「な、何だ……ッ!?」
「……」
件の魔道師の足元に、黒く輝く魔方陣が敷かれている。舞い上がった黒い風。それが彼女の、短く切られた髪をばらばらに振り乱した。
禍々しい威圧感と、何より尋常ではなく強い風が、傍らのカノンとレンさえ近づけない領域を作り出す。兵士たちは理解を超えた、しかし肌で感じる威圧に、射すくめられる。その風の渦中で、彼女は目を見開いて少年を睨んだ。
彼女の髪を止める飾りの、一つだけ黒い羽に目を止めて、彼女の直前の所作で、その奔流の源がソレだということに気が付いて、少年は絶句する。
そこにいた全員を庇うようにして立つ少女の右手の甲に、べったりと。
抉ったような傷が、浮かんでいる。
普段なら目に付かないそれが、眼前に曝されている。正方形の形を素として、紋様と奇怪な文字とが刻まれた方陣。それは少女の足元にあるものと同じものだった。
少年は眉間に皺を寄せる。
「四角は死角。黒の羽は死の使いの印。死神の印は神と悪魔が、自らの力を分け与えるに足る人間に刻む目印」
「え……?」
「……」
ぼそり、と呟いた少年の言葉を、カノンは胸中で必死に噛み砕く。神と悪魔。つまりは、神魔族。
昨夜も彼女と話をしたように、神魔族には稀に人間に加担するような者も存在する。千、いや万に一人だとしても、過去、そんな人間は確かに存在した。
「……どこでそんなものを手にしたのかは知りませんが。所詮、人間には過ぎたもの。
貴方、死んでも、天国には行けませんよ?」
「……死んでから考えればいい話よ」
重い、返答。
少年は、無言だった。
轟ッ!!
黒い残影が、収束する。びりびりと、重圧がか細い肩にかかって、ずん、と彼女の足が砂に埋まった。四肢を砕かれそうな思い圧力に、悲鳴を飲み込んだ。
「く……ッ」
「ルナ……ッ!?」
カノンは迷う。もし、それがカノンの想像する通り、人に過ぎた力だとするのなら、下手に手出しなど出来ない。いや、どう手を出していいかも解らない。下手をすれば、巻き込まれてしまうだけだ。
その逡巡を振り切るように、ルナは黒い風を、両手に掲げた。
空間が、空間そのものが、ぐにゃりと歪む。
空気が、人の世界の風が、悲鳴を高らかに上げた。
「――我望む、我が加護の灯火となれ、堕天の誘い、月下の夜想、壊せエンジェリックハウルッ!!」
黒の奔流が、空を歪めながら、少年のいた空間を切り裂いた。
霧が晴れるように、空間が戻る。黒の残滓が、解けるように消えて、ルナは地面に膝と手をついた。
荒い息を吐いて、あの少年が、跡形もなく消し飛んだのを確認しようと顔を上げて。
絶句、した。
「……」
少年は、まだそこに佇んでいた。いや、彼女が絶句したのはそればかりが理由ではない。
カノンも、レンさえも、絶大な奔流に身体が竦んでいた。硬直が解けたら、真っ先にルナに、この得体の知れない力の正体を問いただすつもりだった。けれど、それよりも前に、目の前の少年にもう何度目になるか、言葉を失った。
『大丈夫ですか、主様』
「……ああ、ありがとう。直撃だったら、ちょっと危なかった」
くぐもった、どこから漏れているのかも解らない声に、少年は平然と答える。一歩、少年が僅かに動くと、かしゃり、と音が立った。
衣擦れではない。少年のあのゆったりとした黒衣では、そんな音が立つはずも無いのに。
カノンは息を飲む。隣でレンが、それ以上ないくらい顔を顰めていた。
眼前で、何が起こっているのか解らない。
「な、な、な……」
「……あんた…」
カノン以上に困惑し、呻き声を上げるレスターと。
彼やカノンたちとは、違い、少しだけ理解の色を見せるルナ。
少年の、包帯の合間から見える唇が笑みの形につり上がる。その肢体は、今は黒衣ではなく、別のものに包まれていた。
「な、何だ、ありゃあ……!」
ようやく、レスターの声が言葉となった。
陽光さえ通さない漆黒の輝き。無機質なその輝きが、彼の全身を包んでいる。禍々しい輝きなのに、形だけは忠誠を示す騎士の形状。
肩と胸は、簡素な、しかし鋭いフォルムをした胸甲冑[ブレスとプレート]に包まれて、腰から下は造りは細いが沈んだ黒の輝きが覆う。頭部には王の冠のように載せられた、黒い兜。
漆黒の、騎士鎧を纏い、対となる漆黒の槍を振りかざした、"ナニカ"が、そこにいた。
「……まさか」
「……」
漆黒の鎧の、騎士。その鎧は、人が纏った、魔力の塊。
それにあの声は。
う゛ん……ッ!
風が唸って、幻影が浮かぶ。少年の背に立つように、あの黒髪の少女の幻が、大気に浮き上がる。
ゆっくりと、その"モノ"が、瞳を開いた。
「な、何だ、あの化け物はッ!?」
ルナは思う。化け物。人間の観点からすれば、正解なのかもしれない。だが、ただのお化けの方が、何倍も可愛い。
だから呪う。最悪の想像を描いてしまい、それを認めざるを得ない我が身を呪う。
「まさか、あんた……!」
「そういえば……彼女の紹介は、まだでしたね……」
ありえない。ありえないのだ。彼らが、"彼女"が、ここにいるなど……!
だって、六千年、ありえなかった!
いや、ありえるとしても、この長い年月、存在しなかった!
「彼女の本名は、de Eltrushe Sheraiv gura deephir ……まあ、人間には少々発音が難しくてね。
かといって不本意に人間に命名された名も気に食わないそうだから。仕方ないから、僕はシャルと呼んでいるけれど。
君たちには、そちらの名の方が解りやすいだろう」
そんなことが、この局面で、そんなバカなことが……ッ!
あっていいはずが、ない!
「――彼女の名はシャライヴ。六千年前、この地に眠りに付いた、悲しい悪魔の成れの果て」
「滅法鬼神シャライヴが、彼女の本名だ」
伝説は、もう既に、実在していたのだ。
「鬼神、闘士……」
凍りついた空気を無理矢理割るように、ルナがそんな単語を口にする。
「おや、その呼び名を知っているとはね。そう、人間の世界では鬼神に見初められ、力を得た人間をそう揶揄する。
敬称なのか、蔑称なのか、微妙なところだけど。
ともかく、人外の力を持つ人間は君だけじゃない、ってことだよ」
「……」
ぎりッ――ルナは歯を噛み鳴らす。迂闊だった。エイロネイアが伝承の力を持っていたとしても、まさか、まさかあの伝説の鬼神を既に蘇らせているなんて。本物の悪魔を、味方としているなんて……!
考えなかったわけでない。現に、ルナが鬼神伝説を調べ上げたのは、伝説が本当なら、彼らの力を利用できないか考えたからだった。
けれど、半ば諦めていた。実在して、簡単に利用出来るものなら、この六千年の間に誰かが利用しているに決まっている。でもその目測が、こんなにもあっさりと……!
訳が分からず絶句するレスターと、この期に及んで表情を変えないライラと。
必死に眼の前の現実を認めようとしているカノン。レンは、表情は読めない。読めないが、心中で何かが葛藤しているのは明白だった。
「……あんたこそ、死んでも天国に行けないわよ」
くすり、と皇太子は笑う。
何をそんなことを、という当然のような表情で。
「元から、そんな場所に興味はないよ」
「!」
漆黒の槍が一閃する。ルナは構えを取り、黒の障壁を張る。が、少し遅かったらしい。
どぅんッ!!
「……ッ! く、ぅ……ッ」
「ルナ!?」
見えない衝撃波に、彼女の軽い身体が障壁ごと吹き飛んだ。そのまま背後の瓦礫に背中を強打する。
カノンの声に、呻きは漏らせたが、圧力で肺から空気が漏れてそれ以上答えられない。
冷静さを欠いた頭は、カノンとレンの意識を、眼の前の敵から攻撃を受けた味方へと向けさせてしまう。その隙に、少年は槍をもう一閃させた。
空間が、軋んだ音を立てた。
「!?」
カノンの視界に、奇妙な霧がかかる。いや、違う。霧などではない。
薄い膜のようなものが、何か障壁のようなものが彼女の身体を包んだのだ。それを理解した瞬間、カノンは、眼の前の不透明な障壁に銀の刃を叩き付けた。
が、
「! な、何、これ……ッ!?」
乾いた音すら立てず、障壁はいとも簡単にカノンの刃を受け止めた。はっ、と気が付いて霞んだ視界で周囲を見渡すと、レンと、それからかろうじて身を起こしたルナの周囲にも、同じような障壁が見えた。
音が、聞こえない。
大声のレスターが何かを喚いているが、それさえも聞こえない。
ゆっくりと、カノンの足元から黒い霧が立ち上る。それには、見覚えがあった。視線を上げると、当然のようにレンやルナの身体も、薄っすらと霧に覆われて――
「! レンッ、ルナッ!!」
解らない。解らない、解らない。あれは、あの少年は何をしようとしているのだ。カノンの身を、彼らをどうしようとしているのだ!?
殺すならこの場でやればいい。なら、これは何の真似だ!?
ちりん、と皮肉に、悲しく胸元で鈴が鳴る。
その音が聞こえたように、障壁に剣を叩きつけていたレンが、黒い霧の中で彼女を振り返った。ぎりり、と歯を食い縛り、無駄と解っていながら、障壁に剣を振るわせる。
力任せに障壁を叩き、叫ぶように、何かを口にする。
ああ、音なんか聞こえなくても解る。呼ばれているのに、あれは自分の名前なのに、呼ばれても、呼ばれても、声が届かない。
「レ、レン……ッ! レンッッッ!!」
叫んだはずなのに、自分の耳にさえ届かない。聞こえない。届かない。
誓ったのに。全力で、守るって誓ったのに! こんなところで、こんなところで、己の矮小さを思い知らされるなんて!
「れッ…………!?」
縋りつくようにして障壁を引っかいていたカノンの手が止まる。
がくり、と膝から力が抜けて、視界が靄のような黒い色に染まる。ゆっくりと、眠りに落ちる直前のように、意識が遠のいた。
――く……ッ、駄目、こんな、こん、な……ッ!
完全に、闇に飲まれるより前に。
「・・・!?」
「……」
黒の残像を纏う少年の、白い顔が、眼の前に浮かんだ。睫毛を伏せた、どこか憂いた顔をした。
その唇が、何かを紡ぐ。
白い手が、視界を塞いで、額に何か冷たい感触。
意識を失う直前、カノンは、そのかすかな声を確かに聞いた気がした。
「おやすみ。――ごめんね」
←6-01へ
「よーしゃ! おーい、そこの者どもーッ! ここはもう撤収ーッ!!
次、行くわよーッ!!」
ゼルゼイルという土地は、曇り空が多いのだろうか。
青空は見えているものの、白い雲がやたらと多くて、太陽光を遮っている。日射病になる心配はないだろうが、ここは比較的南に位置する国のはずじゃなかったっけ……?
無為にそんなことを考えながら、カノンは瓦礫の上で声を張り上げるルナを見上げた。
――者ども、て……。
今朝方、バラック・ソルディーアを出立したばかり。既に砦に集まっていた魔道師を数人と、護衛役としてシンシアの兵士が三人あまり。
ルナはやはり魔道師としてはかなり優秀な方なのだろう。彼らとは出会って数日、いや一日と少ししか経っていないはずなのに、瓦礫の向こうであれこれ見回っていた魔道師たちは素直にひょこひょこと戻ってくる。そして、羊皮紙の束を振りかざしているルナの指示を真剣に待っているのだ。
それはひとえに、彼らがルナの才能を認め、指示に従うのを良としている証だった。
対して、護衛の兵士の一人は先ほどから欠伸を噛み殺している。
無理もない。知識も興味の片鱗さえないものにとっては、この荒廃した瓦礫の山は、ただのゴミの山くらいにしか映らないのだから。
ふぅ、と息を吐いて、カノンは固まって何事かを相談する魔道師たちをちらりと見てから、瓦礫の山に登った。側の石柱に背中を預けていたレンが、ちらりとこちらを見てくるが、咎められたりはしなかった。
元は何かの神殿か、教会か何かだったのだろうか。風化しかけたステンドグラスが、瓦礫の狭間に悲しく砕けている。
積み上がった瓦礫は人の背を軽く越えていて、その上からは広がる平地と周囲を取り囲む林が点々と見えた。土地の大きさは、大体大きな町の礼拝堂くらいだろう。肌に冷たい風が、流れていった。
魔道師陣の方からは、教典がどうのこうのという会話が聞こえてくる。と、いうことはやはり何かの宗教施設であったのだろう。
破壊の爪痕がそれほど古くない、ということは、十年、二十年前の抗争か何かに巻き込まれたのだろうか。
ふぅ、と息を吐くと、今朝の出立を思い出す。
やはりというか何と言うか。シリアもアルティオは、最後の最後まで自分たちも付いて来ると言い張った。いつものわがままというよりは、知らない土地で二手に分かれるのが心配で仕方がない、という感じだった。
その思いは、カノンも、たぶんレンやルナも同じだったはずだ。
けれど、今はそれぞれ、各々に役割がある。ルナにはルナにしか出来ないことが、カノンたちには、カノンたちが最適と思われる役割を与えられている。
それを解っているから、しぶしぶとだが、最終的には二人とも頷いてくれた。
不安ではあるが、あれで二人とも一流以上の剣士と魔道師だ。きっと上手くやってくれるだろう……。
そう自己完結して。
背中に、一つ、気配が生まれる。
「――ッ! ……あ、ああ……なんだ、あんたか……」
「……」
心臓に悪い。
眼前に、微動だにしない紫の瞳があった。瞬きもしないのだろうか、こいつは、と思っていると、ちょうどぱちくりと可愛らしい瞼が動く。
涼しい風に、薄桃色の髪が攫われる。
無言無口。会ったときから一言も彼女の声を聞いていない。ヴァレスが特別に派遣する、と言って付いて来た将校のライラ=バートンだ。
「えーと、な、何……?」
「……」
「カーノーンッ! 聞こえてんでしょ、こらぁッ!!」
彼女が無言で下を指差すのと、喚き声が上がるのは同時だった。余程ぼーっとしていたらしい。声を発した当人が、随分と肩を怒らせている。
「ごめん! ありがとッ!」
「……」
一言だけ礼を言って、カノンは慌てて瓦礫を降りる。彼女はそれに続こうとすらせずに、やはり終始無言のままだった。
そのカノンの背を見送って、ライラは明後日の方向に目をやる。
けれど、それが何を見ていたのか、悟れる者は、いなかった。
かさり、と歩く度に乾いた土が音を立てる。ゼルゼイルの土、というのはこんなにも痩せていたものだったろうか。
どこか埃っぽい空気が漂う。西大陸の空気は、こんな味がしただろうか……?
「主様?」
「……ああ、ごめん。何でもないよ」
主に代わって、重たそうな剣を包んだ布を抱えながら、シャルは不安げな声を上げる。無難な答えを返しながら、もう一度眼下を見下ろした。
僅かな日光に煌いた、金の髪が、目に、痛い。
「……彼には左腕の代わりに、千里眼でもついてるのかなぁ」
「それはないです。人間ごときに、そんなものはついているわけがないのです。シャルだってそんなこと出来ないのです」
「ははは、ごめん。シャルをけなしたわけじゃないよ。単なる例え話だ」
そんなつもりで言ったのではないのだが。
何とも的外れな解答をしてくれる少女が可笑しくて、つい、笑ってしまった。それに反して、シャル、と呼ばれる少女の顔は晴れない。
「主様。本当にお一人で良いんですか?」
「まあ、ね。これくらいなら、たぶん。それにシャルがいるからね、一人ではないよ。いざというときは存分に頼れる」
「……はいです。主様は、シャルが、絶対にお守りします」
妙に気合を入れて、肩に力を入れる傍らの少女の仕草が、つい可愛らしく、可笑しくて頭をぽんぽんと叩いてしまう。
彼女には、その意味がよく解っていないらしい。あどけない顔をこくん、と傾げただけだった。
今度は、それには構おうとせず、少年は眼下に広がる瓦礫の山を見る。……正確には、その場所に、群がる彼の贄たちを。
「そろそろ行こうか。シャル」
その声に、彼女は答える。無機質な、義務めいた、声色で。
「――yes,MyLord」
←5へ
次、行くわよーッ!!」
ゼルゼイルという土地は、曇り空が多いのだろうか。
青空は見えているものの、白い雲がやたらと多くて、太陽光を遮っている。日射病になる心配はないだろうが、ここは比較的南に位置する国のはずじゃなかったっけ……?
無為にそんなことを考えながら、カノンは瓦礫の上で声を張り上げるルナを見上げた。
――者ども、て……。
今朝方、バラック・ソルディーアを出立したばかり。既に砦に集まっていた魔道師を数人と、護衛役としてシンシアの兵士が三人あまり。
ルナはやはり魔道師としてはかなり優秀な方なのだろう。彼らとは出会って数日、いや一日と少ししか経っていないはずなのに、瓦礫の向こうであれこれ見回っていた魔道師たちは素直にひょこひょこと戻ってくる。そして、羊皮紙の束を振りかざしているルナの指示を真剣に待っているのだ。
それはひとえに、彼らがルナの才能を認め、指示に従うのを良としている証だった。
対して、護衛の兵士の一人は先ほどから欠伸を噛み殺している。
無理もない。知識も興味の片鱗さえないものにとっては、この荒廃した瓦礫の山は、ただのゴミの山くらいにしか映らないのだから。
ふぅ、と息を吐いて、カノンは固まって何事かを相談する魔道師たちをちらりと見てから、瓦礫の山に登った。側の石柱に背中を預けていたレンが、ちらりとこちらを見てくるが、咎められたりはしなかった。
元は何かの神殿か、教会か何かだったのだろうか。風化しかけたステンドグラスが、瓦礫の狭間に悲しく砕けている。
積み上がった瓦礫は人の背を軽く越えていて、その上からは広がる平地と周囲を取り囲む林が点々と見えた。土地の大きさは、大体大きな町の礼拝堂くらいだろう。肌に冷たい風が、流れていった。
魔道師陣の方からは、教典がどうのこうのという会話が聞こえてくる。と、いうことはやはり何かの宗教施設であったのだろう。
破壊の爪痕がそれほど古くない、ということは、十年、二十年前の抗争か何かに巻き込まれたのだろうか。
ふぅ、と息を吐くと、今朝の出立を思い出す。
やはりというか何と言うか。シリアもアルティオは、最後の最後まで自分たちも付いて来ると言い張った。いつものわがままというよりは、知らない土地で二手に分かれるのが心配で仕方がない、という感じだった。
その思いは、カノンも、たぶんレンやルナも同じだったはずだ。
けれど、今はそれぞれ、各々に役割がある。ルナにはルナにしか出来ないことが、カノンたちには、カノンたちが最適と思われる役割を与えられている。
それを解っているから、しぶしぶとだが、最終的には二人とも頷いてくれた。
不安ではあるが、あれで二人とも一流以上の剣士と魔道師だ。きっと上手くやってくれるだろう……。
そう自己完結して。
背中に、一つ、気配が生まれる。
「――ッ! ……あ、ああ……なんだ、あんたか……」
「……」
心臓に悪い。
眼前に、微動だにしない紫の瞳があった。瞬きもしないのだろうか、こいつは、と思っていると、ちょうどぱちくりと可愛らしい瞼が動く。
涼しい風に、薄桃色の髪が攫われる。
無言無口。会ったときから一言も彼女の声を聞いていない。ヴァレスが特別に派遣する、と言って付いて来た将校のライラ=バートンだ。
「えーと、な、何……?」
「……」
「カーノーンッ! 聞こえてんでしょ、こらぁッ!!」
彼女が無言で下を指差すのと、喚き声が上がるのは同時だった。余程ぼーっとしていたらしい。声を発した当人が、随分と肩を怒らせている。
「ごめん! ありがとッ!」
「……」
一言だけ礼を言って、カノンは慌てて瓦礫を降りる。彼女はそれに続こうとすらせずに、やはり終始無言のままだった。
そのカノンの背を見送って、ライラは明後日の方向に目をやる。
けれど、それが何を見ていたのか、悟れる者は、いなかった。
かさり、と歩く度に乾いた土が音を立てる。ゼルゼイルの土、というのはこんなにも痩せていたものだったろうか。
どこか埃っぽい空気が漂う。西大陸の空気は、こんな味がしただろうか……?
「主様?」
「……ああ、ごめん。何でもないよ」
主に代わって、重たそうな剣を包んだ布を抱えながら、シャルは不安げな声を上げる。無難な答えを返しながら、もう一度眼下を見下ろした。
僅かな日光に煌いた、金の髪が、目に、痛い。
「……彼には左腕の代わりに、千里眼でもついてるのかなぁ」
「それはないです。人間ごときに、そんなものはついているわけがないのです。シャルだってそんなこと出来ないのです」
「ははは、ごめん。シャルをけなしたわけじゃないよ。単なる例え話だ」
そんなつもりで言ったのではないのだが。
何とも的外れな解答をしてくれる少女が可笑しくて、つい、笑ってしまった。それに反して、シャル、と呼ばれる少女の顔は晴れない。
「主様。本当にお一人で良いんですか?」
「まあ、ね。これくらいなら、たぶん。それにシャルがいるからね、一人ではないよ。いざというときは存分に頼れる」
「……はいです。主様は、シャルが、絶対にお守りします」
妙に気合を入れて、肩に力を入れる傍らの少女の仕草が、つい可愛らしく、可笑しくて頭をぽんぽんと叩いてしまう。
彼女には、その意味がよく解っていないらしい。あどけない顔をこくん、と傾げただけだった。
今度は、それには構おうとせず、少年は眼下に広がる瓦礫の山を見る。……正確には、その場所に、群がる彼の贄たちを。
「そろそろ行こうか。シャル」
その声に、彼女は答える。無機質な、義務めいた、声色で。
「――yes,MyLord」
←5へ
「ルナー? 入るわよー?」
ノックをしながら呼びかけると、間延びした返事が返って来た。軽食の乗ったトレイを片手に持ち替えて、ノブを回す。
砦の扉というものは、どこもかしこも重いもので、カノンはトレイが通るほどドアを開け放つのに体重をかけなくてはならなかった。
入ると同時に鼻先を掠めるのは、湿った石煉瓦と、紙と墨の匂い。
背丈ほどにも積み上がった蔵書の山に、カノンは一瞬、彼女の姿を見失った。何せ、部屋の中にあるはずのデスクが本と投げ出された羊皮紙の山で霞んで見えるのだ。
とりあえず、速攻で集められるだけの魔道関連、歴史関連の書を集めてくれとルナが言い出したのが昨日。ティルスが手配したのは、最も近い町に位置する図書館だった。
それこそ秘蔵室や禁書架の中まであさり、とりあえずはこれだけ。『とりあえず、これだけ』の量がこれだ。全体量は一体どれほどのものか。
さすが、精霊都市と揶揄される魔道都市ルーアンシェイルと並ぶほど、伝承の多い土地ゼルゼイル。
立て付けのあまり良くない椅子に腰掛けて、振り返ることなく机に向かう幼馴染の姿を見つけて、山を倒さないように気を使いながらデスクへ辿り着く。
「ほい、食事。軽いやつだけど」
「ん、さんきゅー」
羽ペンをインク壺に浸しながら、彼女は軽い返事をした。
ちょうど、きりが良かったのだろうか、疲れた溜め息を盛大に吐き出すと背もたれにもたれて、大きく伸びをする。
「……別に、あたしも手伝えるわよ? 魔道文字とか古代文字なんて、狩人時代に死ぬほど覚えたし」
「気持ちだけで結構。あんたとレンには、十分なコンディションで護衛を頼みたいんだから、こんなデスクワークで体力を使うなんて馬鹿な真似はしないように」
「……ったく」
強情な、と呟いて、カノンは備え付けのベッドに腰掛ける。当然、そこにも紙の束が転がっていたので、避けて座る。
ルナはトレイの上のサンドイッチに手を伸ばし、口に加えると、もう片方の手で机の隅に放っていた蔵書を引き寄せる。
「あたしが言えたことじゃないけど、あんまり無理すんじゃないわよ」
「その言葉をそのままそっくり返すわよ。客将の筆頭だからって、軍人じゃないんだから、あんたは頑張る必要ないんだからね」
「そういうことじゃないでしょ!?」
つい、声が荒くなる。一瞬、驚いた彼女がサンドイッチを取り落としかけた。
大きな猫目に、まじまじと見つめられて、やっと我に返る。
「あ、う……ごめん」
「……まあ、いいけどさ」
ルナは無言でサンドイッチを半分だけかじると、トレイに戻した。同じトレイに乗っていた湯気の立つマグカップを手に取った。
「……あの、さ」
「何?」
「聞いちゃいけないのかもしれないけど……。
その、大陸の魔道師って、普通、あんまりゼルゼイルの伝承になんか詳しくないじゃない……。
何で、ちょっとなのかもしれないけど、知ってたの……?」
「……」
おそるおそる。
返答を求めているのに、その返答を聞きたくないような表情で、カノンは口にした。
するり、とルナの顔から表情が抜ける。その真顔に、カノンは慌てて訂正を口にしようとするが、彼女はそれよりも前に苦い笑みを作った。
「たぶん、あんたの想像通りだと思うけど?
……月の館で研究、いや、研究とは言えないわね。研究の内容を聞かされたから、かな」
「そ、そっか。やっぱり、『月の館』で……」
「まあ、でも『月の館』だって馬鹿じゃないわ。ゼルゼイルに纏わる直接的な研究なんかやってなかった。むしろ、ゼルゼイルに関係する研究はすべからく、伏せられていたと言っても過言じゃないわ」
「へ……? じゃあ、何で……?」
ルナは曖昧に声を漏らす。言うべきか言わないべきか迷ってる、というよりは、口にするのが些か億劫に感じているように見えた。
「……昔ね。とんでもない馬鹿がいたからよ。
禁書、禁句、禁止。そんなものを聞けば聞くほど、見れば見るほど、深く掘りたがる……。人間の三大欲求の中の食欲が、知識欲に摩り替わってんじゃないか、って思えるくらいの馬鹿がいたのよ」
「あ……」
「どこから知識を引っ張って来たんだか知らないけど……。
まるでガキみたいに話し出すと止まんなくてね。特に幻大陸の話は、三十回は聞かされたかな……。他にもいろいろとね。ま、素直に聞いてたあたしも大概、馬鹿だったんだろうけど。
だから、良く覚えてただけの話」
「……」
「あんな魔道歴史の宝庫が放って置かれていいはずがない、って。いつか、内戦が収まったら、自分で出向いて調べ上げてやる、ってのが口癖だったっけか……。そのときは雇ってやるから、せいぜい助手として付いて来い、って……。
ははは、ほんとに皮肉なもんよ……。そんな戯れの夢物語が、こんな形で叶うなんてね……」
「……」
何も、言うことが出来なかった。いや、何を言えと言うのだろう。
奥歯を噛み締める。あまりにも言葉を持たない我が身を呪いながら、カノンはこっそり拳を握り締めた。
大きな、息が漏れた。
浮かんだ笑みは、もうほとんど、笑みに見えなかった。
「……大丈夫?」
「……平気。ありがとね」
礼など、言われるような立場じゃない。だって、カノンは今の今まで何も出来なかった。何も出来なくて、たった今この場でも、彼女の心傷を抉るような真似しか出来ないのだ。
悔しい。口惜しい。今、この場にあの薄笑いを浮かべた白子の魔道師がいたら、全力で殴り飛ばしてやれるのに。
「……カノン」
「ん?」
「まあ、確かに他人には好かれない奴よ。好かれようとも思ってないから当然なんだけど。
けどね、あいつの中に、本来あるのは探究心だけ。真理・真実が欲しいだけ。
間違っても、あのWMOのお坊ちゃんみたいな思想の人間じゃなかった。もっと幼くて、ある意味で純粋な奴だったわ。……少なくとも、当時はね」
「……」
「安心して。
この五年間で、何があったのかは解らない。
でも、あいつの頭は戦争の道具なんてちっぽけなものに使われていいものじゃないわ。それは……本人が一番よく知ってたはず。
五年間で何かがあって……本気であいつが道を踏み外してるなら、目を覚ましてやらなきゃいけない。
……もし、出来なかったら――
覚悟は、してるから」
「……」
何の覚悟かなんて、聞くだけ無粋だった。カノンは自分の手を見つめる。錯覚、なのは解る。指先が、少しだけ赤く見えたことなんて。
カノンは剣士だ。人の肉を斬れば、骨を砕けば、その感触が直に掌を襲う。
だから尚更、その覚悟が悲壮すぎることを知っていた。
「……出来なかったら、いつでも代わるよ」
否定も肯定もせずに、それだけを告げた。ルナは苦笑を浮かべながら、冷めたマグカップを煽る。
「ありがと。気持ちだけ貰っとくわ。第一、あんたにこれ以上そんなことさせたら、あたしがレンに殺されるし」
「?」
「ま、とにかく心配しないで。ここまで来たら、やることをやるしかないわ。
……あたしには、その義務があるからね」
彼女はいつのまにか軽食をすべて片付けていた。ことん、とマグカップがトレイに置かれて、細い指が再びインク壺の中の羽ペンを握る。
「……あ、そうだ」
「?」
「いや、どうせあたしたちはルナと一緒に遺跡探索とか、それっぽいことやるんでしょ?」
「そうだけど?」
「だったら、さ。前、言ってたじゃない。ゼルゼイルで一番有名な伝説がどうのこうの、とか。
あんたはそういう分野が本業なんだし、ちょっとかじっただけのあたしなんかじゃあ、大した助力にならないかもしれないけど……。
それだけでも聞いて置こうかな、と思って」
カノンの問いに、ルナはあー、と声を上げる。ペンから手を離し、腕を組み、眉間に皺を寄せる。
やがて、ふっと肩から力が抜けた。
「まあ……そうね。話しといて損はないか。どうにしろ、知って置いた方がためになるんだろうし」
くるり、と彼女はデスクから視線を外して、カノンの座るベッドへと向き直る。
「……ことの真偽は知らないわ。だから、今、ちょっとだけ調べた内容と昔伝え聞いたものを交えて喋るけど。
全面的な信用はしないように。いいわね?」
カノンが嫌に神妙に頷くのを見ると、ルナは満足そうに胸を張る。目の前にあった蔵書を引っ張り出すと、しおり代わりに羊皮紙の挟んであったページを捲る。
出て来たのは、どこかで見たことのある――そう、ゼルゼイルの地図だ。しかし、数日前に見たはずのそれとは微妙に形が異なっていて、記された地名も一致しない。
「何年前かしらね。暗黒時代なんかよりもっと前のものよ――。
堕天使ルカシエルは覚えてる?」
「あー……うん、まあ」
カノンの表情が少しだけ苦い。
堕天使ルカシエル。多くの神話に登場する、その崇められし天使の名を聞いたことのない者はいないだろう。
かく言うカノンも聞いたことはある。
……いや、それどころか、むしろ。
彼女――神話の神に性別をつけるのも奇妙な話だが――によって、神話の実在をまざまざと見せ付けられた一人だった。
「一年と半年前。あたしは魔族の中でも大きな力を持ち、筆頭と恐れられるヴァン一族の端くれに身体を明け渡したことがあった」
こくり、とカノンの喉が鳴る。
一年と半年前――。
ルナは、『月の館』を襲撃したニード=フレイマー率いるある組織に身柄を拘束されていた。その組織が崇拝していたのが、他ならぬ、その魔族。名を絶空雷[ヴァン・シレア]、と言ったか。
「偶像崇拝。最初はね。
でも、神話も魔族も実在した。古の欠片から復活した、ヴァン・シレアが、人間の器を利用してどんな猛威を振るうに至ったか――それは、あんたが誰よりも知っているはずよ」
「……」
頷く。
その魔族の存在は、一つの荒野を永遠の砂漠へと変えた。誰からも忘れられたような荒野だったからまだいい。
あの場所がもし、人の賑わう町であろうものなら――
記憶と、想像にカノンは身震いする。
「そのときに、助力してくれたのが堕天使ルカシエル。
まあ、助力というのは似つかわしくなくて、彼女からすれば人に取り憑いた恥知らずな魔族にお灸を据えるのに、あんたたちを利用した、ってところなのかしらね。
そのおかげであたしは、こうして人間やれてるわけだけど」
「……まあ、たぶん。神話は神話のままでいい、って思った覚えはある……」
記憶の中で、六対の翼が広がる。いや、やめよう。なるべくなら思い出したくない。思い出したところで重厚な神話のイメージががた崩れになるだけだ。
ふむ、とルナが一拍置いた。
「じゃあ、そのルカシエルがどうして堕天使になったかは?」
「えっと、確か昔、魔物と戦ってその魔物の血が白い六対の翼を黒く染めて……。
それで神の国にいられなくなって離反した、ってお話だったわね。それくらいしか知らないけど」
「正解。ルカシエルは元々は、神の国では大天使だった。天使としては最高の位よ。
その最高クラスの天使が、相対する魔族の象徴である黒い翼を持ってたんじゃ示しがつかなかった、っていうまあ、実に人間臭い、人間が喜びそうな、人間のための物語よ」
「?」
ルナの言葉に含みがある。確かにそうだ。示しがつかないから首、とは何とも人間社会の片鱗を表した一説に見える。人間好みなストーリーだからこそ、その話は後世まで残されたのだろう。
「じゃあ、そのときに争った魔物、って何者か知ってる?」
「さぁ……? そんなところまでは」
「……ここからは上級魔道師内での一般説になるんだけど」
カノンの眉がひくり、と動く。
「その魔物が実は、幻大陸の正体、ヴァン一族の長、――羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンなんじゃないか、って言われてるのよ」
「へ? そうなのッ!?」
カノンが素っ頓狂な声を上げる。古い知識を頭の隅から引きずり出して、整理する。
「えっと、幻大陸ってのは六千年前に沈んだ大陸の一部よね?
かつて、西と東は陸続きになっていて、六千年前、移し身の術を会得していたグライオンはこの"世界"そのものと同化して、地上のすべて――歴史も、大地も、生命をも操ろうとした。
それが失敗して、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は大陸の一部に封じられて海に沈んで、その大陸の一部と共に眠り続けている――って」
「さすがカノンちゃん、優秀~。
その通り。六千年前、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は分化した大陸の一部と共に海に封じられた。
で、ルカシエルが堕天したと言われてるのも、ちょうどその頃なのよ。これが偶然か、否か、って話になる」
「あ……」
「公式的な文書にちゃんと記されてるわけじゃないから、一説に過ぎないけど。
ま、魔道師間ではこれが通説ね」
顎に指を当て、彼女はほぼ断定のように話す。しかし、些か納得がいかない。
「けど、何でルカシエルの伝説には、魔物、なんて曖昧な書き方がされてるの?」
「んー……まあ、それは昔と今の信仰による文化レベルの違いじゃないかしらねぇ……。
例えば、昔はもっと悪魔崇拝が力を持っていて、それじゃー、最強の悪魔が神サマに負けたことになって信仰上悪かったとか。もしくは神信仰にしたって、最高神が堕天ていうこと自体が、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の名前を出すと屈して傅くような印象を与えた、とか。
そういうところが人間のご都合主義なんだけど。よくあることよ。
まあ、それはさておき。
このとき、西と東、両方の大陸の狭間に位置するこのゼルゼイルっていう島国は、ちょっと魔道師内にとっては特別になって来るのよ」
「……幻大陸に関係する島、と見られる?」
ぱちん、とルナが指を鳴らす。弾かれたように頷く彼女。
「ビンゴ! ゼルゼイルって大陸は、そのテの研究では、幻大陸の一部が浮上、もしくは沈む過程で分離した一部なんじゃないか、って言われてるのよ。
そのためなのか何なのか、この地には多くの伝説・伝承が眠ってる。
精霊都市ルーアンシェイルもそうだけど、昔からでかい伝説が一つあるところには集まるようにして小さな伝承が眠ってる。そういう伝承の中心は決まって神魔族が絡む。
そういう特性なのかしらね。一度、魔力が集まったところには、また別の魔力が引き寄せられる。
ゼルゼイルの場合、それを裏付ける最大の後発的伝承が二代鬼神伝説」
「鬼神?」
カノンが復唱して首を傾げた。耳慣れない単語だ。
ルナは少しだけ悪戯っぽく笑い、古びた地図の二点を指差す。
「ゼルゼイルの北西と東南。まあ、それぞれシンシア領とエイロネイア領なんだけど。
二対になった神殿が存在するの。一方は北西に位置する神羅[ディーダ]、一方は東南に位置する冥羅[ヴィーラ]。
それぞれにはそれぞれ一体の鬼神が奉られていてね。
一方は護法鬼神ヴェネヅエラ。一方は滅法鬼神シャライヴ。二人の鬼神はこの地の善悪の均衡を保ってる、なんて言われてるけど。実際は違うわね」
「違う?」
頷きながら、ルナはにやりと笑う。再び、別の蔵書を取り出しながら、年号を指差す。
「二人の鬼神がゼルゼイルの史上に出た頃と同じ時期にね。神話の歴史では同時に二人の神魔族が姿を消している。
彼らはちょいと特殊な神魔族だったらしくてね。人の感情だの、想いだのに感応して、力を発揮する神魔族だった。まあ、明記はされてないけど、あんたの魔変換[ガストチャージ]みたいなものだと思うわ。
だからこそ、人一倍人の動向やら、憂いやらにも敏感だった。
戦争ばかりを繰り返していた自らの同胞、神々と、魔族たちに、そして人間そのものにも絶望を覚えた二人は、唐突に戦いの最中から姿を消した。
神話側の伝承はこれで終わってるわ。
でもね、この地の鬼神について調べてると――。
護法鬼神は人の正の感情を司り、加護する。滅法鬼神は人の負の感情を司り、憂いを晴らす。
人の想いが鬼神によって見初められるとき、かの者たちは再び蘇る。
……なんとなーく、接点があるじゃない?
だから、姿を消してから二人の神魔族は、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の残り香であるこの島に、帰属して自ら身を封じ、目覚めるときを待っている、なんて言われてるのよ」
「ふーん……。人の感情に……、ねぇ……。酔狂な神魔族もいたものね」
「まあ、神話の神とか悪魔ってのは、やたらと人間臭かったりもするし。人間の祖が神だ、とか言われる所以はそんなところにあるんじゃないかしらね。
で、話を戻すけど。
さっきも言った通り、幻大陸が沈んでから、ルカシエルは堕天するわけだけど。
あたしはこれはただの堕天じゃないと思ってる」
「……?」
ふと、先ほどのルナの言葉の棘を思い出す。彼女は椅子に座りなおして、脚を組み、腕を組んで胸を張ると、
「だってそうでしょ? 血で汚れたから解雇、なんて人間社会のリストラじゃないのよ?
実際、彼女はその後も度々歴史に登場しては、人間に力を貸したり、魔族を倒したりしてるのよ。あのとき、あたしたちに手を貸してくれたようにね。
彼女がそれをする益は何? もう天使ではない彼女に、善行の義務なんてないわ。
じゃあ、何?」
「何、って……。 まさか、カミサマが人間が好きだから、とかいうんじゃないだろうし……」
そんなまさか、とルナは息を吐いた。表情が緩んだのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。
「あたしは、彼女は人間の世界にいるためなんじゃないかと思ってる。もっと言うなら、幻大陸の監視をしてるんじゃないか、って」
「幻大陸の、監視……?」
何で、そんなことを? と問いかける。ルナは考え込むような仕草を見せて、苦い表情で口を開く。
「……神様が人間臭い、って定義で話をしちゃうけど。
人間が人間を殺して、どこかに埋めたりしたとしたら、一番気になるのは何だと思う?」
「い、いきなり物騒になったわね……。そうね……やっぱり、誰かに見つからないか、ってことでしょうね……」
「そう。しかも、その死体は本当に死体だったかどうかも不安に思うわよね? 後で息を吹き返して、ゾンビよろしく出てくるんじゃないか、って」
「まあ、素人なら死んでるかの判断も難しいだろうし……って、ルナ……。まさか……」
頷きながら、カノンも彼女が何を言おうとしているのか、大体の予想がついたらしい。訝しげに眉を寄せる。ルナはそれに頷き返す。
「……ルカシエル側の伝承によれば"魔物"は死んだことになってるけど。羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の伝承によれば、奴は封じられたとなってるわ。
どちらが正しいかは解らないけど――
自分の殺した相手を守り続けるのに、一番確実な方法は何か――
答えは完全に息絶えて、誰も探そうとする者がいなくなるまで見張り続けることよ」
「……ちょっとちょっと」
さすがにストップをかける。話が突拍子もなくなってきた。
「話が飛躍してるわよ、ルナ。何? ルカシエルは幻大陸の番人で、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が――復活しないかどうか、見張ってる、なんて言いたいの?」
「……勿論、これはあたしの自説。一般論なんて言う気はないわ。そういうことも考えられないか、ってこと。
大体、ここ六千年、幻大陸そのものの存在さえ魔道師たちの間では疑われてきた。
まあ、言葉遊びだと思ってくれて構わないわ。ただ、堕天使ルカシエルが実在するなら、幻大陸と羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が存在してもおかしくないなー、と思って、離れた点を無理矢理線で結んでみた推論よ。それだけの話。
調子に乗っちゃったけど、ゼルゼイルの幻大陸の話はこんなところかしらね」
ぱたん、と目の前で蔵書が閉じられる。反動の風が、カノンの前髪を巻き込んだ。
耳慣れない話を聞いたためか、少し頭がぼんやりしていた。その彼女に、ルナはくすりと笑いを漏らした。
蔵書を片付けて、講義は終わりだと言うようにペンを握る。
それにはっ、と気が付いて、カノンも慌てて立ち上がった。ルナの脇に置かれていたトレイを持つ。もうすっかり冷えていた。
「ごめん、大分邪魔したわね」
「いや、別に。必要なこともあったでしょうしね。
もうちょっと……そうね。進行状況によるけど、たぶん、明後日あたり、出ることになるかもしれないわ。レンに伝えておいて。」
「うん、解ったわ」
相槌を打って、来たときと同じように山の合間をすり抜けながら、ドアに向かう。ドアを開く寸前で、一度振り返ったが、そこでは小さな背中が、かりかりとペンの擦れる音を響かせるだけだ。
こっそりと溜め息を吐いて、カノンは部屋を後に――しようとして。
「……カノン」
「?」
逆に、呼び止められた。
「……ありがと。少し、気が紛れた」
「……」
少しだけ、驚いた。けれど、ゆっくりと笑みを浮かべる。見えはしないけれど。
言うべきではないのかもしれない。だって、彼女はもう十分以上に耐えて、必死になっている。けれど、せめてその背中をほんの少し押してあげたくて。
彼女が求めるのは、評価ではなく、結果だと知っていたから。
「…………うん、がんばって」
「……さんきゅ」
小さく、伝えた一言に。
返った返事が、自然な優しさを纏っていたことを、信じて。
カノンは、その小さな部屋のドアを閉じた。
背後で、扉が閉じる音が聞こえて。
ルナのペンを走らせる手が、止まった。いつのまにか口の中に溜まってしまった固唾を飲み込む。
ぱたん、とペンを倒すと、漏れたインクが羊皮紙を汚す。けれど、それにも構わずに、ルナはその手の甲を抑えた。
とうとう、扉が閉まるよりも先に、口に出来なかった。
「……ごめんね、カノン」
――本当に、あんたの親友とやらは、隠し事ばっかりね……
胸の中だけで、揶揄しながら。
ルナは椅子の上で宙を見る。
「エイロネイアの、皇太子……」
ぽつりと、呟いた瞳は、鋭く、その先の天井を貫くほどに、尖っていた。
――もし、またあの娘を狙うことがあったら、そのときは……!
石の床とはこんなにも音が響きやすいものだったのか。
先ほどからかつん、かつんと上がる自らの靴音を煩わしく思いながら、薄暗い照明だけを頼りに、レンは砦の内を巡回していた。
別に見回りの任を受けたわけでも何でもない。考え事をするときは、部屋にこもらないのが彼の主義だっただけである。
ぼんやりと見える石段に彩られた簡素な視界が、頭の中から余計なものを拭い去る。
シンシアに降りたその日に、カノンとルナの立てた立案は採用された。本来なら、いくらシェイリーンの承諾があったとしても、こう上手くは採択されない。
シンシアが、どれだけ土壇場に立たされているのかが伺える。
ルナは資料となる本や書類と共に、部屋に篭っている。バラック・ソルディーア周辺に位置する伝承の地を探索するためだ。
内戦真っ只中のシンシアが、それらを観光用に整備しているはずもない。ということは、未踏の遺跡を掘り返すような、調査団的な探索になるだろう。
万が一の場合を考えて、対魔道、対死術の能力に特化したカノンとレンを、調査団内に入れた彼女の判断は間違ってはいないと思う。シリアとアルティオは、留守番なんて、と最後まで愚痴ったが、客将として招かれている以上、誰一人、シンシアの拠点に残らないというのはまずい。シェイリーンの座を妬む貴族院に見立てが立たないし、特にシリアはヴァレスと共に、もう数日で結集する魔道師団の先導をルナから任せられていた。
魔道師団の動きにエイロネイアか貴族院か、どちらかが気づけば、荒事を招くことも考えられる。そのためにも要人護衛のためにアルティオがいた方がいい。
数日の間に、ティルスは各地の魔道師団に召集をかけ、シェイリーンは、貴族院に、この作戦の認証を得るため、帰都と演説の準備に追われている。シリアとアルティオはこの護衛も請け負う予定だった。
ラーシャは何枚かの書状を書いていた。各地の戦地に向けた帰島の連絡だろうか。もう少しすれば、彼女も戦場の最先端に戻るのかもしれない。
動きといえばそれだけだ。
しかし、どうにも、どこにもかしこにもぴりぴりとした空気が漂っていて肌に痛い。誰もが、背後から誰かに狙われていて、いきなり背中を刺されないか警戒している。疑心暗鬼を張り付けている。
これが戦場というものか。だとしたら、とてもじゃないが耐え切れない世界だ。
レンは疲労の溜め息を吐き出す。
彼の懸念はそれだけではなかった。
エイロネイアは、あの黒衣の皇太子は、この程度のことが読めない男だろうか。
大陸から来訪した一団に、優秀な魔道師が一人、違法者狩りが二人、混じっていて、この二番煎じの作戦が発布されることを予測していなかったのだろうか。
おそらくは、否だ。カノンやルナだって、それは解っているはず。解っていながら提案を出したのは、とりあえず、エイロネイアと同じ土俵に上がらなければ何も生まれないと考えたからだろう。
エイロネイア以上のことをする必要はない、と言っていたが、それは嘘だ。あの周到な皇太子は、これくらいのことが読めない男ではない。だとしたら、何らかの対策を練ってくるはず。
それが何なのかは解らない。しかし、今度は、今度はそれを防げなければ勝ちは、いや、引き分けもないのだ。
――シンシア以上に……俺たち自身も詰め、ということだな……。
そもそもあの皇太子は、何故このゼルゼイルという土地に、自分たちを呼び込んだのか――
それが、何より解らない。
「……前と、同じだな」
堂々巡り。答えの出ない問い。答えを出せるのは当人だけだろう。そのときにはもう、きっと手遅れなのだろうが……。
レンは力なく首を振る。滅入ってしまうより前に、気を張って、神経を研ぎ澄ます。
こんなことでは駄目だ。自らの役割一つ、こなせなくなってしまう。
レンにとっては、シンシアの勝利も敗北も、それこそエイロネイアの策謀も、どうでもいいことなのだ。本来なら。
ただ、止まることを知らない相棒が、親しい友人を慮った結果、こんな場所まで付き合って来てしまっただけのこと。
エイロネイア皇太子に向ける怒りはあっても、導火線に火がつくまでには至らない。どちらかといえば、火が着きやすい連中を花器から遠ざけて置きたかった。
……どこかの、自分に最も近しい無鉄砲者は、特に。
それでもなお、火に触れてしまったなら。その火に燃え尽きてしまわないように。
それだけは、己の役目だと決めていた。
あの誰よりも強く、そして弱い少女が、一人で歩ける日が来るまでは。
『……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?』
「……」
この島を訪れる前、不意に問われた一言だった。あのときは有耶無耶となったが――
いつまで? そして、それからは? 自らが、遂げたいことは何なのか?
狩人に従事し、それ故に、それ以外の生き方を知らない。その袋小路に、最も囚われているのは、自分なのだろう。
そんなものへの、答えは、持っていなかった。
いつか、彼女と離れる日が来て、それからは、一体彼はどう生きていくのだろう。
……答えは出ない。エイロネイア皇太子の思惑なんかよりも余程、質が悪い。だって、答えが"ない"のだから。
考えたところで、
「……無駄だな」
思考を切った。そんなことを考えたところで、今は何の益にもならない。妙な迷いが生じるだけだ。
振り払うように首を振る。肩の力を抜くと、神経が昂ぶっていたのか、疲労感が身体を突き抜ける。
そのとき、不意に、
「・・・?」
その音が、聞こえた。
土の奏でる音色が、耳に届いて、名残を残しながらゆっくりと消える。
少しだけざらついた感触から唇を離すと、音色は途絶えて、余韻を残しながらもすっきりと消える。ふぅ、と息を吐くと、自然と体の力も抜けた。
大分、気が抜けていたのか。それとも、彼人がよほど気配を消すのが上手いのか。
足音に気がつくのが、一瞬、遅れた。
はっ、として警戒を叩きつけながら振り返る。自然と剣の柄に伸びた手が、視界に飛び込んだ、無表情な顔に止まる。
「れ、レン殿か。すまない。これは失礼を」
「……いや、逆なら同じことをしただろうな。気に止む必要はない」
返答があったことにラーシャは胸を撫で下ろす。どうもこの御人の鋭すぎる気配と目には馴れない。
敵愾心、なのだろうか。無理もないかもしれない。思えば、彼は終始、ゼルゼイルに客将として来訪することを良く思っていなかった。
彼はこちらを、信用も信頼もしていない。
「どうかなされましたか? こんな夜分に」
「――こんな夜分に、随分と風流な音が聞こえたものでな」
「………ああ」
合点がいった。
「すまない。耳障りでしたな」
「そんなこともないが……」
ラーシャは手の中の簡素な、素焼きの塊を眺めながら頭を下げた。
レンがそれを否定したのは本心からだったが、ラーシャはそうは思わなかったのだろうか。罰の悪そうな顔をして、それを懐に、隠すようにしまった。
「オカリナ、か。大分、吹き慣れているようだったが」
「………どうということは。遠い昔、ある人にいい加減に教わった程度です。
軍人の中には、楽器を嗜む者も多いのです。戦に身を置く者にとって、音楽というのは数少ない娯楽ですから」
「なるほど」
淡白な頷きを返して、彼はラーシャが持たれていた窓から外を覗き見る。
黒い森に隔たれていて、月は見えない。僅かな輝きが、存在を表しているだけで、あとは頼りない星明りだけが暗い石の居城を照らしている。
思えば、珍しい空間だ。向こうがラーシャを嫌っていたのか、不思議なほどにラーシャがレンと話を交わすことは少なかった。あるといえば、以前、機密でルナの手を借りていた際、問い詰められたときくらいだろうか。
平面状は静かで、冷静な男だが――
「……すいません」
「?」
唐突にラーシャが口にした謝罪を、不可思議に感じたのか、レンはほんの僅かな、訝しげな表情を作って無言で問い返す。
「貴方方を、この地へとお招きしたことです」
「……」
彼は尚も無言だった。機嫌は、良くないようだ。
当たり前だ。そんなこと、謝るくらいなら、最初から彼らに接触しなければ良かっただけの話なのだ。
けれど、結果的に接触してしまった。そして、こんな深い、戦の根幹を担うような場所に身を置かせてしまっている。
当初、彼らの手を借りるという案が出されたとき、軍人たちは様々な反応を見せた。
大陸人の力を借りるなんて。馬が合うはずがない。否定的な意見。
新しい風は必要だ。外との交流において、アドバンテージを執るべきだ。肯定的な意見。
ラーシャはシェイリーン側の人間だった。彼女を敬愛しているし、尊敬もしている。だから、基本的には肯定的な立場にいた。けれども、疑念がなかったと言えば嘘になる。
――何の非もない人間を、何の所以もないはずの、身勝手な戦に巻き込んでしまっていいものか。
彼が最初にきっぱりと断ったとき、ラーシャは軽い安堵さえ覚えたのだ。軍人としては失格だ。けれど、何の厭いもないのなら、きっと人間として失格なのかもしれない、と思った。
「……貴女は何のために、軍人をしているんだ?」
「え?」
思ってもいない問いだった。
「何のために、シンシアへ軍人として身を置いているんだ?」
「……何故、それを?」
「嫌なら聞き流してくれても構わない。だが、何の目的も信念もない人間に手を貸している、というのは些か気に障るのでな」
ああ、それはとても彼らしい理由だ。不謹慎だったが、少しだけ笑みが漏れてしまう。
ラーシャは灯りの暗い空に視線を迷わせる。少しだけ、表情をしかめて、短い溜め息を吐く。
「……まあ、そこまで大義ある理由ではないのだが」
「構わん」
「そうか。……退屈な話になる。一個人の、つまらない昔話だ。
私が騎士としてシンシアに仕官した理由は……私の生家が、代々ゼルゼイルの騎士だったことも勿論、理由の一つではあるのだが」
言葉を切って、窓辺にもたれ掛かる。浮かんだのは、やるせない憂いを秘めた表情。何故だか、ひどく寂しげな。
「……昔、私には、姉が一人いた」
昔は、という言い方をした。どういうことなのかは、想像に難くない。
「今は――いない。生きているのかも、解らない。
昔の私は、泣き虫の弱虫もいいところでな。少し転んだくらいで、まるで世界の終わりでも来たかのように泣き叫んでいた。父も母も手に負えなくてな。いつも姉に甘やかされて、やっと泣き止むほどだった。
呆れるほど、姉に頼りっぱなしの子供だったよ。私は」
「……」
「でも、姉は、ある日突然、私の前から姿を消した」
「姿を、消した?」
力なく頷くと、僅かな笑みを浮かべながら、二の腕を抱いた爪に力を入れる。
「……父上の出張中にな。行方知れずになった。当時はエイロネイアに誘拐されたのではないか、という話も流れたが、脅迫も何もなかった。
当時はエイロネイアとシンシアの関係も、今ほど露骨で深刻なものではなかったからな。冷戦のような状態だった。だからその話もいつの間にか流れてしまったが。
近くの谷川に落ちたのだとか、森に迷い込んで獣に食われてしまった、とか。
いくらでも要因が思いつく出来事だった。口さがない連中も多くてな。多数の噂に埋もれて、そのうち捜索も打ち切られてしまった。そのまま……今まで。延々と音沙汰も、噂さえ、何もない」
「……」
「子供だったからな。自分の周りで何が起きているのか解らなくて、また、泣いた。
でも、今度は慰めてくれる手もなかったからな……。
そのしばらく後だ。私が、騎士を志すようになったのは」
かちり、と彼女の腰に下げた剣が音を立てる。胸に下げた紋章が、星明りに嫌に生々しく反射した。
重い枷を選んだのは、彼女だ。
「思えば、ただの子供の妄想なのだが。姉は今もどこかで生きていると、何の根拠もなく信じて。
ならば、彼女が帰って来る家を、このシンシアという場所を、守り続けることが私の責務だと……思った。いや、教えられて、それが真理だと思った、だけの話だが」
窓辺にもたれていた足を退けて、剣の柄を掴む。
「……私にその生きがいとオカリナの吹き方を教えてくれた子も、あっさりと、唐突にいなくなってしまったよ。この時世だからな。生きているのか、死んでいるのかも、解らない。
それから気づいた。ただ、守られ、教えられているだけでは、共にいたいと思った人は、いなくなってしまうものなのだと。
……私は、もう二度と、目の前で誰かを失うのは御免だ。
そして過去の償いに……このゼルゼイルという地を、美しい国にしたい。姉と、私に真理を伝えてくれたような人が、今、生きているかもしれない。生きたかもしれないこの国を、良い国にしたい。
戦争が終わったとしても、その爪痕はこの国を苦しめるだろう。私は、その盾となりたい。
……それだけだ」
「……」
自身を軽視するように、静かに、しかし、小さな決意を宿しながら呟いた。レンの顔から毒気が抜ける。レンはずきずきと痛む頭を振り、胸のうちから込み上げる得体の知れないぞわぞわしたものを飲み下した。
「……妙なことを聞いた。すまない」
「いいや、私の方こそつまらない話を聞かせた。まあ、そんな下らない一個人の話だ。気にしなくでくれ」
ふっ、と彼女は笑う。懐に手を当てたのは、先ほどのオカリナに手を置いているのだろうか。
ほんの少し、表情を緩ませた後、きっ、と元のように目を尖らせて敬礼をする。
「この度の協力を感謝します。シンシアの名に懸けて、貴方方の想いを無にすることは致しませぬ。
……貴方方の身の上は、責任を持って、大陸へお返しいたします」
「……」
しっかりと、シンシアの、上級軍官の表情で。生きる理由を背負いながら、彼女は背を伸ばして立っていた。
レンは考え込むように目を伏せる。長い、長い溜め息が漏れた。
今の彼に、彼女の姿は、どう映ったのか。定かではなかったが。
彼は、極端的に、「解った」と口にしたのだった。
出立は、近かった。
←4へ
ノックをしながら呼びかけると、間延びした返事が返って来た。軽食の乗ったトレイを片手に持ち替えて、ノブを回す。
砦の扉というものは、どこもかしこも重いもので、カノンはトレイが通るほどドアを開け放つのに体重をかけなくてはならなかった。
入ると同時に鼻先を掠めるのは、湿った石煉瓦と、紙と墨の匂い。
背丈ほどにも積み上がった蔵書の山に、カノンは一瞬、彼女の姿を見失った。何せ、部屋の中にあるはずのデスクが本と投げ出された羊皮紙の山で霞んで見えるのだ。
とりあえず、速攻で集められるだけの魔道関連、歴史関連の書を集めてくれとルナが言い出したのが昨日。ティルスが手配したのは、最も近い町に位置する図書館だった。
それこそ秘蔵室や禁書架の中まであさり、とりあえずはこれだけ。『とりあえず、これだけ』の量がこれだ。全体量は一体どれほどのものか。
さすが、精霊都市と揶揄される魔道都市ルーアンシェイルと並ぶほど、伝承の多い土地ゼルゼイル。
立て付けのあまり良くない椅子に腰掛けて、振り返ることなく机に向かう幼馴染の姿を見つけて、山を倒さないように気を使いながらデスクへ辿り着く。
「ほい、食事。軽いやつだけど」
「ん、さんきゅー」
羽ペンをインク壺に浸しながら、彼女は軽い返事をした。
ちょうど、きりが良かったのだろうか、疲れた溜め息を盛大に吐き出すと背もたれにもたれて、大きく伸びをする。
「……別に、あたしも手伝えるわよ? 魔道文字とか古代文字なんて、狩人時代に死ぬほど覚えたし」
「気持ちだけで結構。あんたとレンには、十分なコンディションで護衛を頼みたいんだから、こんなデスクワークで体力を使うなんて馬鹿な真似はしないように」
「……ったく」
強情な、と呟いて、カノンは備え付けのベッドに腰掛ける。当然、そこにも紙の束が転がっていたので、避けて座る。
ルナはトレイの上のサンドイッチに手を伸ばし、口に加えると、もう片方の手で机の隅に放っていた蔵書を引き寄せる。
「あたしが言えたことじゃないけど、あんまり無理すんじゃないわよ」
「その言葉をそのままそっくり返すわよ。客将の筆頭だからって、軍人じゃないんだから、あんたは頑張る必要ないんだからね」
「そういうことじゃないでしょ!?」
つい、声が荒くなる。一瞬、驚いた彼女がサンドイッチを取り落としかけた。
大きな猫目に、まじまじと見つめられて、やっと我に返る。
「あ、う……ごめん」
「……まあ、いいけどさ」
ルナは無言でサンドイッチを半分だけかじると、トレイに戻した。同じトレイに乗っていた湯気の立つマグカップを手に取った。
「……あの、さ」
「何?」
「聞いちゃいけないのかもしれないけど……。
その、大陸の魔道師って、普通、あんまりゼルゼイルの伝承になんか詳しくないじゃない……。
何で、ちょっとなのかもしれないけど、知ってたの……?」
「……」
おそるおそる。
返答を求めているのに、その返答を聞きたくないような表情で、カノンは口にした。
するり、とルナの顔から表情が抜ける。その真顔に、カノンは慌てて訂正を口にしようとするが、彼女はそれよりも前に苦い笑みを作った。
「たぶん、あんたの想像通りだと思うけど?
……月の館で研究、いや、研究とは言えないわね。研究の内容を聞かされたから、かな」
「そ、そっか。やっぱり、『月の館』で……」
「まあ、でも『月の館』だって馬鹿じゃないわ。ゼルゼイルに纏わる直接的な研究なんかやってなかった。むしろ、ゼルゼイルに関係する研究はすべからく、伏せられていたと言っても過言じゃないわ」
「へ……? じゃあ、何で……?」
ルナは曖昧に声を漏らす。言うべきか言わないべきか迷ってる、というよりは、口にするのが些か億劫に感じているように見えた。
「……昔ね。とんでもない馬鹿がいたからよ。
禁書、禁句、禁止。そんなものを聞けば聞くほど、見れば見るほど、深く掘りたがる……。人間の三大欲求の中の食欲が、知識欲に摩り替わってんじゃないか、って思えるくらいの馬鹿がいたのよ」
「あ……」
「どこから知識を引っ張って来たんだか知らないけど……。
まるでガキみたいに話し出すと止まんなくてね。特に幻大陸の話は、三十回は聞かされたかな……。他にもいろいろとね。ま、素直に聞いてたあたしも大概、馬鹿だったんだろうけど。
だから、良く覚えてただけの話」
「……」
「あんな魔道歴史の宝庫が放って置かれていいはずがない、って。いつか、内戦が収まったら、自分で出向いて調べ上げてやる、ってのが口癖だったっけか……。そのときは雇ってやるから、せいぜい助手として付いて来い、って……。
ははは、ほんとに皮肉なもんよ……。そんな戯れの夢物語が、こんな形で叶うなんてね……」
「……」
何も、言うことが出来なかった。いや、何を言えと言うのだろう。
奥歯を噛み締める。あまりにも言葉を持たない我が身を呪いながら、カノンはこっそり拳を握り締めた。
大きな、息が漏れた。
浮かんだ笑みは、もうほとんど、笑みに見えなかった。
「……大丈夫?」
「……平気。ありがとね」
礼など、言われるような立場じゃない。だって、カノンは今の今まで何も出来なかった。何も出来なくて、たった今この場でも、彼女の心傷を抉るような真似しか出来ないのだ。
悔しい。口惜しい。今、この場にあの薄笑いを浮かべた白子の魔道師がいたら、全力で殴り飛ばしてやれるのに。
「……カノン」
「ん?」
「まあ、確かに他人には好かれない奴よ。好かれようとも思ってないから当然なんだけど。
けどね、あいつの中に、本来あるのは探究心だけ。真理・真実が欲しいだけ。
間違っても、あのWMOのお坊ちゃんみたいな思想の人間じゃなかった。もっと幼くて、ある意味で純粋な奴だったわ。……少なくとも、当時はね」
「……」
「安心して。
この五年間で、何があったのかは解らない。
でも、あいつの頭は戦争の道具なんてちっぽけなものに使われていいものじゃないわ。それは……本人が一番よく知ってたはず。
五年間で何かがあって……本気であいつが道を踏み外してるなら、目を覚ましてやらなきゃいけない。
……もし、出来なかったら――
覚悟は、してるから」
「……」
何の覚悟かなんて、聞くだけ無粋だった。カノンは自分の手を見つめる。錯覚、なのは解る。指先が、少しだけ赤く見えたことなんて。
カノンは剣士だ。人の肉を斬れば、骨を砕けば、その感触が直に掌を襲う。
だから尚更、その覚悟が悲壮すぎることを知っていた。
「……出来なかったら、いつでも代わるよ」
否定も肯定もせずに、それだけを告げた。ルナは苦笑を浮かべながら、冷めたマグカップを煽る。
「ありがと。気持ちだけ貰っとくわ。第一、あんたにこれ以上そんなことさせたら、あたしがレンに殺されるし」
「?」
「ま、とにかく心配しないで。ここまで来たら、やることをやるしかないわ。
……あたしには、その義務があるからね」
彼女はいつのまにか軽食をすべて片付けていた。ことん、とマグカップがトレイに置かれて、細い指が再びインク壺の中の羽ペンを握る。
「……あ、そうだ」
「?」
「いや、どうせあたしたちはルナと一緒に遺跡探索とか、それっぽいことやるんでしょ?」
「そうだけど?」
「だったら、さ。前、言ってたじゃない。ゼルゼイルで一番有名な伝説がどうのこうの、とか。
あんたはそういう分野が本業なんだし、ちょっとかじっただけのあたしなんかじゃあ、大した助力にならないかもしれないけど……。
それだけでも聞いて置こうかな、と思って」
カノンの問いに、ルナはあー、と声を上げる。ペンから手を離し、腕を組み、眉間に皺を寄せる。
やがて、ふっと肩から力が抜けた。
「まあ……そうね。話しといて損はないか。どうにしろ、知って置いた方がためになるんだろうし」
くるり、と彼女はデスクから視線を外して、カノンの座るベッドへと向き直る。
「……ことの真偽は知らないわ。だから、今、ちょっとだけ調べた内容と昔伝え聞いたものを交えて喋るけど。
全面的な信用はしないように。いいわね?」
カノンが嫌に神妙に頷くのを見ると、ルナは満足そうに胸を張る。目の前にあった蔵書を引っ張り出すと、しおり代わりに羊皮紙の挟んであったページを捲る。
出て来たのは、どこかで見たことのある――そう、ゼルゼイルの地図だ。しかし、数日前に見たはずのそれとは微妙に形が異なっていて、記された地名も一致しない。
「何年前かしらね。暗黒時代なんかよりもっと前のものよ――。
堕天使ルカシエルは覚えてる?」
「あー……うん、まあ」
カノンの表情が少しだけ苦い。
堕天使ルカシエル。多くの神話に登場する、その崇められし天使の名を聞いたことのない者はいないだろう。
かく言うカノンも聞いたことはある。
……いや、それどころか、むしろ。
彼女――神話の神に性別をつけるのも奇妙な話だが――によって、神話の実在をまざまざと見せ付けられた一人だった。
「一年と半年前。あたしは魔族の中でも大きな力を持ち、筆頭と恐れられるヴァン一族の端くれに身体を明け渡したことがあった」
こくり、とカノンの喉が鳴る。
一年と半年前――。
ルナは、『月の館』を襲撃したニード=フレイマー率いるある組織に身柄を拘束されていた。その組織が崇拝していたのが、他ならぬ、その魔族。名を絶空雷[ヴァン・シレア]、と言ったか。
「偶像崇拝。最初はね。
でも、神話も魔族も実在した。古の欠片から復活した、ヴァン・シレアが、人間の器を利用してどんな猛威を振るうに至ったか――それは、あんたが誰よりも知っているはずよ」
「……」
頷く。
その魔族の存在は、一つの荒野を永遠の砂漠へと変えた。誰からも忘れられたような荒野だったからまだいい。
あの場所がもし、人の賑わう町であろうものなら――
記憶と、想像にカノンは身震いする。
「そのときに、助力してくれたのが堕天使ルカシエル。
まあ、助力というのは似つかわしくなくて、彼女からすれば人に取り憑いた恥知らずな魔族にお灸を据えるのに、あんたたちを利用した、ってところなのかしらね。
そのおかげであたしは、こうして人間やれてるわけだけど」
「……まあ、たぶん。神話は神話のままでいい、って思った覚えはある……」
記憶の中で、六対の翼が広がる。いや、やめよう。なるべくなら思い出したくない。思い出したところで重厚な神話のイメージががた崩れになるだけだ。
ふむ、とルナが一拍置いた。
「じゃあ、そのルカシエルがどうして堕天使になったかは?」
「えっと、確か昔、魔物と戦ってその魔物の血が白い六対の翼を黒く染めて……。
それで神の国にいられなくなって離反した、ってお話だったわね。それくらいしか知らないけど」
「正解。ルカシエルは元々は、神の国では大天使だった。天使としては最高の位よ。
その最高クラスの天使が、相対する魔族の象徴である黒い翼を持ってたんじゃ示しがつかなかった、っていうまあ、実に人間臭い、人間が喜びそうな、人間のための物語よ」
「?」
ルナの言葉に含みがある。確かにそうだ。示しがつかないから首、とは何とも人間社会の片鱗を表した一説に見える。人間好みなストーリーだからこそ、その話は後世まで残されたのだろう。
「じゃあ、そのときに争った魔物、って何者か知ってる?」
「さぁ……? そんなところまでは」
「……ここからは上級魔道師内での一般説になるんだけど」
カノンの眉がひくり、と動く。
「その魔物が実は、幻大陸の正体、ヴァン一族の長、――羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンなんじゃないか、って言われてるのよ」
「へ? そうなのッ!?」
カノンが素っ頓狂な声を上げる。古い知識を頭の隅から引きずり出して、整理する。
「えっと、幻大陸ってのは六千年前に沈んだ大陸の一部よね?
かつて、西と東は陸続きになっていて、六千年前、移し身の術を会得していたグライオンはこの"世界"そのものと同化して、地上のすべて――歴史も、大地も、生命をも操ろうとした。
それが失敗して、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は大陸の一部に封じられて海に沈んで、その大陸の一部と共に眠り続けている――って」
「さすがカノンちゃん、優秀~。
その通り。六千年前、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は分化した大陸の一部と共に海に封じられた。
で、ルカシエルが堕天したと言われてるのも、ちょうどその頃なのよ。これが偶然か、否か、って話になる」
「あ……」
「公式的な文書にちゃんと記されてるわけじゃないから、一説に過ぎないけど。
ま、魔道師間ではこれが通説ね」
顎に指を当て、彼女はほぼ断定のように話す。しかし、些か納得がいかない。
「けど、何でルカシエルの伝説には、魔物、なんて曖昧な書き方がされてるの?」
「んー……まあ、それは昔と今の信仰による文化レベルの違いじゃないかしらねぇ……。
例えば、昔はもっと悪魔崇拝が力を持っていて、それじゃー、最強の悪魔が神サマに負けたことになって信仰上悪かったとか。もしくは神信仰にしたって、最高神が堕天ていうこと自体が、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の名前を出すと屈して傅くような印象を与えた、とか。
そういうところが人間のご都合主義なんだけど。よくあることよ。
まあ、それはさておき。
このとき、西と東、両方の大陸の狭間に位置するこのゼルゼイルっていう島国は、ちょっと魔道師内にとっては特別になって来るのよ」
「……幻大陸に関係する島、と見られる?」
ぱちん、とルナが指を鳴らす。弾かれたように頷く彼女。
「ビンゴ! ゼルゼイルって大陸は、そのテの研究では、幻大陸の一部が浮上、もしくは沈む過程で分離した一部なんじゃないか、って言われてるのよ。
そのためなのか何なのか、この地には多くの伝説・伝承が眠ってる。
精霊都市ルーアンシェイルもそうだけど、昔からでかい伝説が一つあるところには集まるようにして小さな伝承が眠ってる。そういう伝承の中心は決まって神魔族が絡む。
そういう特性なのかしらね。一度、魔力が集まったところには、また別の魔力が引き寄せられる。
ゼルゼイルの場合、それを裏付ける最大の後発的伝承が二代鬼神伝説」
「鬼神?」
カノンが復唱して首を傾げた。耳慣れない単語だ。
ルナは少しだけ悪戯っぽく笑い、古びた地図の二点を指差す。
「ゼルゼイルの北西と東南。まあ、それぞれシンシア領とエイロネイア領なんだけど。
二対になった神殿が存在するの。一方は北西に位置する神羅[ディーダ]、一方は東南に位置する冥羅[ヴィーラ]。
それぞれにはそれぞれ一体の鬼神が奉られていてね。
一方は護法鬼神ヴェネヅエラ。一方は滅法鬼神シャライヴ。二人の鬼神はこの地の善悪の均衡を保ってる、なんて言われてるけど。実際は違うわね」
「違う?」
頷きながら、ルナはにやりと笑う。再び、別の蔵書を取り出しながら、年号を指差す。
「二人の鬼神がゼルゼイルの史上に出た頃と同じ時期にね。神話の歴史では同時に二人の神魔族が姿を消している。
彼らはちょいと特殊な神魔族だったらしくてね。人の感情だの、想いだのに感応して、力を発揮する神魔族だった。まあ、明記はされてないけど、あんたの魔変換[ガストチャージ]みたいなものだと思うわ。
だからこそ、人一倍人の動向やら、憂いやらにも敏感だった。
戦争ばかりを繰り返していた自らの同胞、神々と、魔族たちに、そして人間そのものにも絶望を覚えた二人は、唐突に戦いの最中から姿を消した。
神話側の伝承はこれで終わってるわ。
でもね、この地の鬼神について調べてると――。
護法鬼神は人の正の感情を司り、加護する。滅法鬼神は人の負の感情を司り、憂いを晴らす。
人の想いが鬼神によって見初められるとき、かの者たちは再び蘇る。
……なんとなーく、接点があるじゃない?
だから、姿を消してから二人の神魔族は、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の残り香であるこの島に、帰属して自ら身を封じ、目覚めるときを待っている、なんて言われてるのよ」
「ふーん……。人の感情に……、ねぇ……。酔狂な神魔族もいたものね」
「まあ、神話の神とか悪魔ってのは、やたらと人間臭かったりもするし。人間の祖が神だ、とか言われる所以はそんなところにあるんじゃないかしらね。
で、話を戻すけど。
さっきも言った通り、幻大陸が沈んでから、ルカシエルは堕天するわけだけど。
あたしはこれはただの堕天じゃないと思ってる」
「……?」
ふと、先ほどのルナの言葉の棘を思い出す。彼女は椅子に座りなおして、脚を組み、腕を組んで胸を張ると、
「だってそうでしょ? 血で汚れたから解雇、なんて人間社会のリストラじゃないのよ?
実際、彼女はその後も度々歴史に登場しては、人間に力を貸したり、魔族を倒したりしてるのよ。あのとき、あたしたちに手を貸してくれたようにね。
彼女がそれをする益は何? もう天使ではない彼女に、善行の義務なんてないわ。
じゃあ、何?」
「何、って……。 まさか、カミサマが人間が好きだから、とかいうんじゃないだろうし……」
そんなまさか、とルナは息を吐いた。表情が緩んだのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。
「あたしは、彼女は人間の世界にいるためなんじゃないかと思ってる。もっと言うなら、幻大陸の監視をしてるんじゃないか、って」
「幻大陸の、監視……?」
何で、そんなことを? と問いかける。ルナは考え込むような仕草を見せて、苦い表情で口を開く。
「……神様が人間臭い、って定義で話をしちゃうけど。
人間が人間を殺して、どこかに埋めたりしたとしたら、一番気になるのは何だと思う?」
「い、いきなり物騒になったわね……。そうね……やっぱり、誰かに見つからないか、ってことでしょうね……」
「そう。しかも、その死体は本当に死体だったかどうかも不安に思うわよね? 後で息を吹き返して、ゾンビよろしく出てくるんじゃないか、って」
「まあ、素人なら死んでるかの判断も難しいだろうし……って、ルナ……。まさか……」
頷きながら、カノンも彼女が何を言おうとしているのか、大体の予想がついたらしい。訝しげに眉を寄せる。ルナはそれに頷き返す。
「……ルカシエル側の伝承によれば"魔物"は死んだことになってるけど。羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の伝承によれば、奴は封じられたとなってるわ。
どちらが正しいかは解らないけど――
自分の殺した相手を守り続けるのに、一番確実な方法は何か――
答えは完全に息絶えて、誰も探そうとする者がいなくなるまで見張り続けることよ」
「……ちょっとちょっと」
さすがにストップをかける。話が突拍子もなくなってきた。
「話が飛躍してるわよ、ルナ。何? ルカシエルは幻大陸の番人で、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が――復活しないかどうか、見張ってる、なんて言いたいの?」
「……勿論、これはあたしの自説。一般論なんて言う気はないわ。そういうことも考えられないか、ってこと。
大体、ここ六千年、幻大陸そのものの存在さえ魔道師たちの間では疑われてきた。
まあ、言葉遊びだと思ってくれて構わないわ。ただ、堕天使ルカシエルが実在するなら、幻大陸と羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が存在してもおかしくないなー、と思って、離れた点を無理矢理線で結んでみた推論よ。それだけの話。
調子に乗っちゃったけど、ゼルゼイルの幻大陸の話はこんなところかしらね」
ぱたん、と目の前で蔵書が閉じられる。反動の風が、カノンの前髪を巻き込んだ。
耳慣れない話を聞いたためか、少し頭がぼんやりしていた。その彼女に、ルナはくすりと笑いを漏らした。
蔵書を片付けて、講義は終わりだと言うようにペンを握る。
それにはっ、と気が付いて、カノンも慌てて立ち上がった。ルナの脇に置かれていたトレイを持つ。もうすっかり冷えていた。
「ごめん、大分邪魔したわね」
「いや、別に。必要なこともあったでしょうしね。
もうちょっと……そうね。進行状況によるけど、たぶん、明後日あたり、出ることになるかもしれないわ。レンに伝えておいて。」
「うん、解ったわ」
相槌を打って、来たときと同じように山の合間をすり抜けながら、ドアに向かう。ドアを開く寸前で、一度振り返ったが、そこでは小さな背中が、かりかりとペンの擦れる音を響かせるだけだ。
こっそりと溜め息を吐いて、カノンは部屋を後に――しようとして。
「……カノン」
「?」
逆に、呼び止められた。
「……ありがと。少し、気が紛れた」
「……」
少しだけ、驚いた。けれど、ゆっくりと笑みを浮かべる。見えはしないけれど。
言うべきではないのかもしれない。だって、彼女はもう十分以上に耐えて、必死になっている。けれど、せめてその背中をほんの少し押してあげたくて。
彼女が求めるのは、評価ではなく、結果だと知っていたから。
「…………うん、がんばって」
「……さんきゅ」
小さく、伝えた一言に。
返った返事が、自然な優しさを纏っていたことを、信じて。
カノンは、その小さな部屋のドアを閉じた。
背後で、扉が閉じる音が聞こえて。
ルナのペンを走らせる手が、止まった。いつのまにか口の中に溜まってしまった固唾を飲み込む。
ぱたん、とペンを倒すと、漏れたインクが羊皮紙を汚す。けれど、それにも構わずに、ルナはその手の甲を抑えた。
とうとう、扉が閉まるよりも先に、口に出来なかった。
「……ごめんね、カノン」
――本当に、あんたの親友とやらは、隠し事ばっかりね……
胸の中だけで、揶揄しながら。
ルナは椅子の上で宙を見る。
「エイロネイアの、皇太子……」
ぽつりと、呟いた瞳は、鋭く、その先の天井を貫くほどに、尖っていた。
――もし、またあの娘を狙うことがあったら、そのときは……!
石の床とはこんなにも音が響きやすいものだったのか。
先ほどからかつん、かつんと上がる自らの靴音を煩わしく思いながら、薄暗い照明だけを頼りに、レンは砦の内を巡回していた。
別に見回りの任を受けたわけでも何でもない。考え事をするときは、部屋にこもらないのが彼の主義だっただけである。
ぼんやりと見える石段に彩られた簡素な視界が、頭の中から余計なものを拭い去る。
シンシアに降りたその日に、カノンとルナの立てた立案は採用された。本来なら、いくらシェイリーンの承諾があったとしても、こう上手くは採択されない。
シンシアが、どれだけ土壇場に立たされているのかが伺える。
ルナは資料となる本や書類と共に、部屋に篭っている。バラック・ソルディーア周辺に位置する伝承の地を探索するためだ。
内戦真っ只中のシンシアが、それらを観光用に整備しているはずもない。ということは、未踏の遺跡を掘り返すような、調査団的な探索になるだろう。
万が一の場合を考えて、対魔道、対死術の能力に特化したカノンとレンを、調査団内に入れた彼女の判断は間違ってはいないと思う。シリアとアルティオは、留守番なんて、と最後まで愚痴ったが、客将として招かれている以上、誰一人、シンシアの拠点に残らないというのはまずい。シェイリーンの座を妬む貴族院に見立てが立たないし、特にシリアはヴァレスと共に、もう数日で結集する魔道師団の先導をルナから任せられていた。
魔道師団の動きにエイロネイアか貴族院か、どちらかが気づけば、荒事を招くことも考えられる。そのためにも要人護衛のためにアルティオがいた方がいい。
数日の間に、ティルスは各地の魔道師団に召集をかけ、シェイリーンは、貴族院に、この作戦の認証を得るため、帰都と演説の準備に追われている。シリアとアルティオはこの護衛も請け負う予定だった。
ラーシャは何枚かの書状を書いていた。各地の戦地に向けた帰島の連絡だろうか。もう少しすれば、彼女も戦場の最先端に戻るのかもしれない。
動きといえばそれだけだ。
しかし、どうにも、どこにもかしこにもぴりぴりとした空気が漂っていて肌に痛い。誰もが、背後から誰かに狙われていて、いきなり背中を刺されないか警戒している。疑心暗鬼を張り付けている。
これが戦場というものか。だとしたら、とてもじゃないが耐え切れない世界だ。
レンは疲労の溜め息を吐き出す。
彼の懸念はそれだけではなかった。
エイロネイアは、あの黒衣の皇太子は、この程度のことが読めない男だろうか。
大陸から来訪した一団に、優秀な魔道師が一人、違法者狩りが二人、混じっていて、この二番煎じの作戦が発布されることを予測していなかったのだろうか。
おそらくは、否だ。カノンやルナだって、それは解っているはず。解っていながら提案を出したのは、とりあえず、エイロネイアと同じ土俵に上がらなければ何も生まれないと考えたからだろう。
エイロネイア以上のことをする必要はない、と言っていたが、それは嘘だ。あの周到な皇太子は、これくらいのことが読めない男ではない。だとしたら、何らかの対策を練ってくるはず。
それが何なのかは解らない。しかし、今度は、今度はそれを防げなければ勝ちは、いや、引き分けもないのだ。
――シンシア以上に……俺たち自身も詰め、ということだな……。
そもそもあの皇太子は、何故このゼルゼイルという土地に、自分たちを呼び込んだのか――
それが、何より解らない。
「……前と、同じだな」
堂々巡り。答えの出ない問い。答えを出せるのは当人だけだろう。そのときにはもう、きっと手遅れなのだろうが……。
レンは力なく首を振る。滅入ってしまうより前に、気を張って、神経を研ぎ澄ます。
こんなことでは駄目だ。自らの役割一つ、こなせなくなってしまう。
レンにとっては、シンシアの勝利も敗北も、それこそエイロネイアの策謀も、どうでもいいことなのだ。本来なら。
ただ、止まることを知らない相棒が、親しい友人を慮った結果、こんな場所まで付き合って来てしまっただけのこと。
エイロネイア皇太子に向ける怒りはあっても、導火線に火がつくまでには至らない。どちらかといえば、火が着きやすい連中を花器から遠ざけて置きたかった。
……どこかの、自分に最も近しい無鉄砲者は、特に。
それでもなお、火に触れてしまったなら。その火に燃え尽きてしまわないように。
それだけは、己の役目だと決めていた。
あの誰よりも強く、そして弱い少女が、一人で歩ける日が来るまでは。
『……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?』
「……」
この島を訪れる前、不意に問われた一言だった。あのときは有耶無耶となったが――
いつまで? そして、それからは? 自らが、遂げたいことは何なのか?
狩人に従事し、それ故に、それ以外の生き方を知らない。その袋小路に、最も囚われているのは、自分なのだろう。
そんなものへの、答えは、持っていなかった。
いつか、彼女と離れる日が来て、それからは、一体彼はどう生きていくのだろう。
……答えは出ない。エイロネイア皇太子の思惑なんかよりも余程、質が悪い。だって、答えが"ない"のだから。
考えたところで、
「……無駄だな」
思考を切った。そんなことを考えたところで、今は何の益にもならない。妙な迷いが生じるだけだ。
振り払うように首を振る。肩の力を抜くと、神経が昂ぶっていたのか、疲労感が身体を突き抜ける。
そのとき、不意に、
「・・・?」
その音が、聞こえた。
土の奏でる音色が、耳に届いて、名残を残しながらゆっくりと消える。
少しだけざらついた感触から唇を離すと、音色は途絶えて、余韻を残しながらもすっきりと消える。ふぅ、と息を吐くと、自然と体の力も抜けた。
大分、気が抜けていたのか。それとも、彼人がよほど気配を消すのが上手いのか。
足音に気がつくのが、一瞬、遅れた。
はっ、として警戒を叩きつけながら振り返る。自然と剣の柄に伸びた手が、視界に飛び込んだ、無表情な顔に止まる。
「れ、レン殿か。すまない。これは失礼を」
「……いや、逆なら同じことをしただろうな。気に止む必要はない」
返答があったことにラーシャは胸を撫で下ろす。どうもこの御人の鋭すぎる気配と目には馴れない。
敵愾心、なのだろうか。無理もないかもしれない。思えば、彼は終始、ゼルゼイルに客将として来訪することを良く思っていなかった。
彼はこちらを、信用も信頼もしていない。
「どうかなされましたか? こんな夜分に」
「――こんな夜分に、随分と風流な音が聞こえたものでな」
「………ああ」
合点がいった。
「すまない。耳障りでしたな」
「そんなこともないが……」
ラーシャは手の中の簡素な、素焼きの塊を眺めながら頭を下げた。
レンがそれを否定したのは本心からだったが、ラーシャはそうは思わなかったのだろうか。罰の悪そうな顔をして、それを懐に、隠すようにしまった。
「オカリナ、か。大分、吹き慣れているようだったが」
「………どうということは。遠い昔、ある人にいい加減に教わった程度です。
軍人の中には、楽器を嗜む者も多いのです。戦に身を置く者にとって、音楽というのは数少ない娯楽ですから」
「なるほど」
淡白な頷きを返して、彼はラーシャが持たれていた窓から外を覗き見る。
黒い森に隔たれていて、月は見えない。僅かな輝きが、存在を表しているだけで、あとは頼りない星明りだけが暗い石の居城を照らしている。
思えば、珍しい空間だ。向こうがラーシャを嫌っていたのか、不思議なほどにラーシャがレンと話を交わすことは少なかった。あるといえば、以前、機密でルナの手を借りていた際、問い詰められたときくらいだろうか。
平面状は静かで、冷静な男だが――
「……すいません」
「?」
唐突にラーシャが口にした謝罪を、不可思議に感じたのか、レンはほんの僅かな、訝しげな表情を作って無言で問い返す。
「貴方方を、この地へとお招きしたことです」
「……」
彼は尚も無言だった。機嫌は、良くないようだ。
当たり前だ。そんなこと、謝るくらいなら、最初から彼らに接触しなければ良かっただけの話なのだ。
けれど、結果的に接触してしまった。そして、こんな深い、戦の根幹を担うような場所に身を置かせてしまっている。
当初、彼らの手を借りるという案が出されたとき、軍人たちは様々な反応を見せた。
大陸人の力を借りるなんて。馬が合うはずがない。否定的な意見。
新しい風は必要だ。外との交流において、アドバンテージを執るべきだ。肯定的な意見。
ラーシャはシェイリーン側の人間だった。彼女を敬愛しているし、尊敬もしている。だから、基本的には肯定的な立場にいた。けれども、疑念がなかったと言えば嘘になる。
――何の非もない人間を、何の所以もないはずの、身勝手な戦に巻き込んでしまっていいものか。
彼が最初にきっぱりと断ったとき、ラーシャは軽い安堵さえ覚えたのだ。軍人としては失格だ。けれど、何の厭いもないのなら、きっと人間として失格なのかもしれない、と思った。
「……貴女は何のために、軍人をしているんだ?」
「え?」
思ってもいない問いだった。
「何のために、シンシアへ軍人として身を置いているんだ?」
「……何故、それを?」
「嫌なら聞き流してくれても構わない。だが、何の目的も信念もない人間に手を貸している、というのは些か気に障るのでな」
ああ、それはとても彼らしい理由だ。不謹慎だったが、少しだけ笑みが漏れてしまう。
ラーシャは灯りの暗い空に視線を迷わせる。少しだけ、表情をしかめて、短い溜め息を吐く。
「……まあ、そこまで大義ある理由ではないのだが」
「構わん」
「そうか。……退屈な話になる。一個人の、つまらない昔話だ。
私が騎士としてシンシアに仕官した理由は……私の生家が、代々ゼルゼイルの騎士だったことも勿論、理由の一つではあるのだが」
言葉を切って、窓辺にもたれ掛かる。浮かんだのは、やるせない憂いを秘めた表情。何故だか、ひどく寂しげな。
「……昔、私には、姉が一人いた」
昔は、という言い方をした。どういうことなのかは、想像に難くない。
「今は――いない。生きているのかも、解らない。
昔の私は、泣き虫の弱虫もいいところでな。少し転んだくらいで、まるで世界の終わりでも来たかのように泣き叫んでいた。父も母も手に負えなくてな。いつも姉に甘やかされて、やっと泣き止むほどだった。
呆れるほど、姉に頼りっぱなしの子供だったよ。私は」
「……」
「でも、姉は、ある日突然、私の前から姿を消した」
「姿を、消した?」
力なく頷くと、僅かな笑みを浮かべながら、二の腕を抱いた爪に力を入れる。
「……父上の出張中にな。行方知れずになった。当時はエイロネイアに誘拐されたのではないか、という話も流れたが、脅迫も何もなかった。
当時はエイロネイアとシンシアの関係も、今ほど露骨で深刻なものではなかったからな。冷戦のような状態だった。だからその話もいつの間にか流れてしまったが。
近くの谷川に落ちたのだとか、森に迷い込んで獣に食われてしまった、とか。
いくらでも要因が思いつく出来事だった。口さがない連中も多くてな。多数の噂に埋もれて、そのうち捜索も打ち切られてしまった。そのまま……今まで。延々と音沙汰も、噂さえ、何もない」
「……」
「子供だったからな。自分の周りで何が起きているのか解らなくて、また、泣いた。
でも、今度は慰めてくれる手もなかったからな……。
そのしばらく後だ。私が、騎士を志すようになったのは」
かちり、と彼女の腰に下げた剣が音を立てる。胸に下げた紋章が、星明りに嫌に生々しく反射した。
重い枷を選んだのは、彼女だ。
「思えば、ただの子供の妄想なのだが。姉は今もどこかで生きていると、何の根拠もなく信じて。
ならば、彼女が帰って来る家を、このシンシアという場所を、守り続けることが私の責務だと……思った。いや、教えられて、それが真理だと思った、だけの話だが」
窓辺にもたれていた足を退けて、剣の柄を掴む。
「……私にその生きがいとオカリナの吹き方を教えてくれた子も、あっさりと、唐突にいなくなってしまったよ。この時世だからな。生きているのか、死んでいるのかも、解らない。
それから気づいた。ただ、守られ、教えられているだけでは、共にいたいと思った人は、いなくなってしまうものなのだと。
……私は、もう二度と、目の前で誰かを失うのは御免だ。
そして過去の償いに……このゼルゼイルという地を、美しい国にしたい。姉と、私に真理を伝えてくれたような人が、今、生きているかもしれない。生きたかもしれないこの国を、良い国にしたい。
戦争が終わったとしても、その爪痕はこの国を苦しめるだろう。私は、その盾となりたい。
……それだけだ」
「……」
自身を軽視するように、静かに、しかし、小さな決意を宿しながら呟いた。レンの顔から毒気が抜ける。レンはずきずきと痛む頭を振り、胸のうちから込み上げる得体の知れないぞわぞわしたものを飲み下した。
「……妙なことを聞いた。すまない」
「いいや、私の方こそつまらない話を聞かせた。まあ、そんな下らない一個人の話だ。気にしなくでくれ」
ふっ、と彼女は笑う。懐に手を当てたのは、先ほどのオカリナに手を置いているのだろうか。
ほんの少し、表情を緩ませた後、きっ、と元のように目を尖らせて敬礼をする。
「この度の協力を感謝します。シンシアの名に懸けて、貴方方の想いを無にすることは致しませぬ。
……貴方方の身の上は、責任を持って、大陸へお返しいたします」
「……」
しっかりと、シンシアの、上級軍官の表情で。生きる理由を背負いながら、彼女は背を伸ばして立っていた。
レンは考え込むように目を伏せる。長い、長い溜め息が漏れた。
今の彼に、彼女の姿は、どう映ったのか。定かではなかったが。
彼は、極端的に、「解った」と口にしたのだった。
出立は、近かった。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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THE First:降魔への序曲
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
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