アルティオはただひたすらに自分を責めていた。
先頭を切って、彼の腕に自分の腕を絡ませて歩く少女に罪悪の文字は一欠片もない。当たり前だ。元はと言えば声をかけたのは彼の方。
これで突き放したりした日には完全に悪者扱い……というかきっぱりと悪人である。
加えて彼は目を輝かせて通りを歩く少女を放置する、好意を込めた目で自分を見上げて来る年端もいかない少女を切り捨てるなどという非情な真似が出来るような人間ではなかったし、上手く誤魔化せるような器用さを持ち合わせているわけでもない。
―――まあ、仕方ないか。
しかしながら割り切ってしまえば、それほど悪い状況でもない。
シリア並に変わった少女だが、美少女であることに代わりはない。何よりアルティオはそんな少女が楽しく笑っているところを見ているのが好きなのである。
「アルティオさん?」
どうかしましたか? というニュアンスを込めてステイシアが顔を覗き込んで来る。
それににへら、と引き締まらない笑顔を向けた。
「いや、何でも。それよりサンキューな、カノンを助けてくれて」
「私は大したことはしていません。重傷のカノンさんを運んだのはレンさんですし、治療したのはうちの先生です」
「……」
恋敵と書いて『ライバル』と読む。
何故、現場に居合わせたのが奴だったんだ。確かにカノンがいないと解ったときに真っ先に飛び出したのはあいつだったけど、俺だって町中駆けずり回っていたのに。
いや、それ以前に何であいつなんだ、カノン。別にお前は顔で人を選ぶ人間じゃないだろう? 確かに悪い奴じゃないし、いざって時になんだかんだで頼りになってるのはあいつだし、そりゃ冷静な目で見て人間的に出来てるのはあっちで、ああ非が見当たらねぇじゃねぇかド畜生。
「ど、どうしたんですかッ? しっかりしてください、アルティオさんッ!」
萎れていく大男をステイシアは慌てて揺さぶった。アルティオはそれを見てはっと気がつく。
「なあ、ステイシア」
「はい?」
「俺のこと好きか?」
「ええ」
「何でだ?」
涼しく答えた彼女は、首を傾げた。理由はさっき言っていたのに、という顔だ。
「いや、そうだけどあれはちょっと……」
頑丈だ何だというのではあまりにあまりな気はする。大体、レンくらいなら捕まれるより前に固めるか何かして防ぎそうだし。
そういえばこの少女はレンには見向きもしなかったのだろうか。
「そういうのが理由ならレンでもきっと大丈夫だと思うぞ」
「う~ん、でも」
ステイシアは小首を傾げて、少し困った笑顔で肩を竦める。
「あの人がどこを見てるかなんて初対面の私でも解りましたし。かなりの剣幕で詰め寄られましたから、ああと思って。正直そんなこと考えが及ばなかったですね」
ああ、なるほど。
思わず納得してしまうアルティオ。後で女の子に詰め寄ったりするなよ、と言って置こう。いや、どうせ聞かないだろうし、その状況下では仕方がなかったのかもしれないが、(というかその状況に自分がいても同じことをした可能性は否めない)この娘の精神衛生上良くない。
「じゃあ、何で俺なんだ?」
最も聞きたかった問いを口にする。
彼女はうーん、と唸ってから何かを探るような目でこちらを見た。上目遣いできゅ、と眉間に皺を寄せる。
「……怒りません?」
そう言われても何を? と問うしかないアルティオは言葉を詰まらせる。
ステイシアは疑問符を浮かべたままの彼からぱっ、と離れた。それなりに流れている人波の中の数歩先を行く。見失ってはぐれてしまわないかと不安になったアルティオは、慌ててその小さな背を追った。
「誰でも良かったのかもしれません」
「は?」
ますます理解に苦しむその返答に、今度こそアルティオは間の抜けた声をあげた。
それは何か。寂しそうな顔の人間なら誰でもいい、とそういうことか。それならこれより傷つく事はない。ある意味、ただフラれるよりも苦痛である。
いや、ナンパというのは総じてそういうものなのかもしれないが、少なくともアルティオは一定のモットーのもとに女の子に声をかけているのだ。
アルティオの思考を汲み取ったのか、ステイシアは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ご、ごめんなさい。えっと、そういう意味ではなくてですね」
えっと、えっとと詰まりながらも空を見て言葉を選ぶ。アルティオは少女が言葉を選ぶのをじっと待っていた。
「アルティオさんは旅の方、ですよね?」
「まあ……」
「もし私が旅なんかやめてこの町にいてください! って頼んだらどうします?」
「それは……」
唐突な問いに答えが途切れる。
アルティオが旅を続けているのはカノンについて行くためだ。アルティオがどこかに留まる、と言えばそれを咎める人間は今の面子にはいないだろう。
それはお互いに全員が全員、個々を持った人間だと認めあっているからである。
皆、アゼルフィリーの野を駆けずり回っていた頃とは違う。それぞれに大人なのだ。それぞれの決断にはそれ相応の敬意を払う。
だが、今現在、アルティオのカノンへの恋心が失せたわけではない。カノンが他に誰一人、と決めたわけでもない。
それに、たとえそうであっても、アルティオにとって気心の知れた彼女らといるのはとても心地良いものだった。
その案寧の場を、つい先程出会ったばかりの少女と天秤にかけろ、というのは……
「困りますよね?」
「そりゃあ……」
アルティオが何とか答えを絞り出すより先に、少女が答えを言ってしまった。ソフトな言い方だったが、その通りだ。
ステイシアは少しだけ寂しそうに、しかし華やかに笑う。
「ええ、わかってます。カノンさんの怪我が治ったらさっさとこんな小さな町、出ていっちゃうんだろうなー、と思います。
だからこれは私のわがままなんですが」
言葉を切って彼女はぴしっ、とこちらに向き直った。子供の頃、騎士ごっこなんてことをしたのを思い出す。幼い彼女が背を伸ばして敬礼をする様は、その想い出を彷彿とさせた。
「アルティオさんならそういうわがままにつき合ってくれるかなー、と思いました」
「はい……?」
今だ疑問符の取れないアルティオに、ステイシアはくすくすと、声を漏らしてまた笑い、やがて可愛く困ったようにうなった。
ふ、と息をついて何か決心したように顔をあげる。
「お笑いになると思うんですが」
「?」
「その……私、恋愛ってものをしたことがないんですよ」
ひたり、とアルティオは動きを止める。目を瞬かせて彼女を見、そして眉間に皺を寄せた。
おそらく齢十七は数えるだろう少女が、それもカノンやルナのように特別な仕事に従事していたわけでも、高貴な家柄というわけでもない、だろう、おそらくは。
「だから、えっと、そのしたことがないっていうか、説明が難しいんですけど……」
初恋、というのははしかと同じだ。生きているうちに余程奇特な人間でない限り、体験する。実るか実らないかの差はあるが、それは少なからず経験値になる。
……その経験値が致命的に足りて無いからカノンはああなわけで。
ともかく、何となくだが事情は察せた気がする。
「……ははッ」
乾いた笑いを漏らす。
何のことはない。要するにあれだ。彼女はそう、今時珍しい『恋に恋する乙女』というやつで、恋愛をしてみたくてしてみたくて仕方がない子なわけだ。
それで自分がいろいろと夢想して、こう! と決めた条件にアルティオが当てはまってしまい、尚且つそんな『ごっこ遊び』に付き合ってくれそうなお人よしな顔をしていた、と。
加えて旅人ならば、別れも後腐れなく済む。どちらが悪いわけでもないからだ。
そういうことなんだろう。
―――まー、一目惚れって響きにもちょっと憧れてたんだけどなー。
思って苦笑する。
だが逆にすっきりした。どうせカノンの怪我が治るまでは足止めなのだ。
けれどこの幼稚な少女に付き合うのも悪くない。自分から振って置いて放置、なんてその方がカノンや仲間の反感を買ってしまうだろうし。
―――って、俺も悪人なんだなー……
こんなときも打算が働くなんて。
アルティオは空笑いを漏らしてから、今だもじもじと恥ずかしそうに俯く彼女に近寄った。少し考えてから手を取って歩き出す。
「え?」
「ほら、行こうぜ。あんまり遅いと、仕事もあるだろうし、色々まずいだろ? な、ステイシア」
極フランクに、アルティオは彼女を呼び捨てて促した。その意図は彼女にも伝わったのだろう。
ステイシアはマメと硬い皮だらけの大きな手を、痛いほど握り返した。というより、
「痛ッ! ち、ちょっと待て、痛いってッ!」
「あッ、ご、ごめんなさいッ!」
思いの他、彼女が力持ちだということを忘れていた。アルティオの情けない悲鳴に反応して、慌ててステイシアは手を緩める。
肩を下ろしてもう一度大げさに痛がるアルティオに、ステイシアはしばし申し訳なさそうに俯いたが、彼がへらり、と笑ってみせると、やがてくすくすと声を上げて笑ったのだった。
ああ、やっぱり可愛い女の子には笑顔が似合うな。
アルティオが己の主義を再確認した瞬間だった。
町行く人波に紛れる彼らを。
またくすくすと笑いを漏らしながら眺めていたモノがいた。
彼は確かにそこにいるのに、誰もその異様な姿に指さえ差そうとしない。晴れた青空と澄み切った森の空気にそぐわない、闇を一角だけ切り取って張り付けたような。
そんな違和感を撒き散らしながらも、誰も彼の気配には気が付かない。
いつも通りに陣取った高みからの景色。俯瞰の視界にその仮初の恋人たちを見つけて、笑う、いや、嘲笑[わら]う。
その傍らに不満そうに胡坐を掻いていた少年は剣呑とした眼差しで主を見た。
「なーにが楽しいんだよ。あんな小芝居、虫唾が走るだけだろ?」
「さてね。何事にも小芝居は重要だよ。
着飾ることで本質を隠す。まあ、一般には綺麗事、なんて嫌われていることだろうけど。
これがまた、いろいろと便利なんだ」
「はぁ?」
さっぱりわからない、と言った目で少年は黒い影を見上げる。いつもこの人は訳の解らないことを言う。こちらが理解しようがしまいが。
理解できないのは悔しい気もするが、少年にとって重要なのはそんなことでない。如何にしてその笑いの後に出される指示を完璧にこなすか。
一を言われれば十を、十を教えれば百を実行しろ。
それが理想。けれど、昨日も叱られたばかりだ。やり過ぎだと怒られてしまう。なかなか上手くいってくれなくて、正直イライラする。
その機微が伝わったのか、不意に彼は少年の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。
「そう剥れないで。僕は君の能力を高く買っている。万が一にも無駄にしたりはしないさ」
「……」
子供扱いされている気分にもなるが、その言葉は少年にとって叱りの言葉を受けたことを差し引いても余りあるものだった。この人の言うことがすべてだ。この人の言う通りに動く。それは無償の全幅の信頼だった。
だって、こんな言葉をこの人からもらえる奴なんて、他に数えるほどしかいない。
「そろそろ行こうか」
「おう。今度はちゃんとした仕事なんだよな?」
笑みを絶やさずに立ち上がった彼を、少年はそんな言葉を吐きながら、追った。
額の辺りがくすぐったい。柔らかくて、少し硬い無骨な、そんな不思議な感触が前髪を梳いている。
熱は大分、収まったようだがまだ頭はぼんやりと霞がかかっている。それともこれは単なる寝過ぎか、薬の副作用か。
頬の下には枕の柔らかさ、額には何だか懐かしい温もり。
……懐かしい? 違う、しばらく接していなかったせいでそう思うだけで、実は馴れた温かさだ。
ああ、そうか。これは……
「ん……」
喉の奥から声が漏れる。意識が覚醒して、最初に知覚したのがそれだった。その声にひくり、と反応した指はふと動きを止める。
全身を襲う気だるさを堪えて、ゆっくりと少しずつ瞼を押し上げる。薄く、朧に開いた視界に黄昏色の髪が逆光に煌いた。
「…………レン?」
「……悪かった。起こしたな」
「ううん、平気」
そう答えると、添えられていた手は前髪を押し上げて額を覆う。少々、冷たい体温が気持ちいい。
「レン、少し冷えてる?」
なんてことを言ったらぺち、と額を叩かれた。
「……何すんの」
「馬鹿なことを言うからだ。俺の手が冷えているんじゃない、お前が熱いだけだろう。大人しく寝ていろ」
すっ、と手を引いた彼は朝方はルナが腰掛けていた椅子を引き寄せて座った。傍らの看護用サイドテーブルに備えられた水差しでタオルを濡らすと、そのまま額に乗せてくれた。
―――きもちいい……
タオルが落ちないように窓に目をやる。確認が済むより先に、『もう夕方だ』という返答が返って来た。確かに窓の外はもう青い空は見えなくて、代わりに紅い日の光が差していた。部屋の中もまた然り。
部屋を見渡すと、隅に積まれた荷物と衣服、武具がある。アルティオたちが持って来てくれたのだろう。
………部屋の外が何だか『離しなさい、ルナこんな…』『いーから時と場合を弁えなさい』とか何とかやたら五月蝿いのは熱による幻聴だとして置こう、うん。
―――ってかここ病院だぞ、こら。
「具合は?」
「うん……朝より大分いいかな。我慢すれば身体も動かせそうだし」
「我慢して動かすな。それだけ治りが遅くなる」
「ん」
何だっけ、言わなきゃいけなかったことがあった気がする。眠りに付く前、数時間前に話したことだったのに。
「レン……」
「何だ」
「その、怒ってないの?」
「……」
恐る恐る問いた科白に、レンは切れ長の目でじっとカノンの顔を凝視する。睨まれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
気恥ずかしさと緊張に耐えられず、視線を逸らすとちょうど彼は息を吐いた。
「無論、苛立ちもする。説教どころか、怒鳴りたい気分だ」
―――う゛……
「だが熱を出している怪我人相手に怒鳴り散らすほど考えなしのつもりはないのでな」
「うん……ごめん」
「治ってから改めて怒鳴る」
―――うう゛……
さすがレンだ。一切の妥協を許すつもりはないらしい。
「まったく、あんな目にあって置きながら……。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ。狙われているという自覚を持て」
「だって……」
解っているのに、悪いのは他でもないカノン自身だ。一人で突っ走った結果だ。
相手がどれだけ許せない相手だったとしても、判断を間違ったのは明白。だから全面的に悪いのはこちら。だってもかももない。
それでも、口を吐いて出たのは言い訳の言葉。
―――やだ、あたし、やな奴だ……
助けられて置きながら、なんて可愛くない。
レンは先程より深い、深い息を一つ吐いた。
「……過ぎたことだ。しかし、二度とあんな真似はするな。気持ちは解らなくもないが、本末転倒だ」
「わ、解ってるわよ……、結構……やばいことになってたみたいだし……」
取り繕うつもりでそう言うと、彼の表情が唐突に歪んだ。普段から穏やかとは言えない表情を、さらに険しくさせて、そう、言うなれば苦虫を噛み潰したような、そんな表情だ。
眉間に皺を寄せて、奥歯を噛み締めて。何かに耐えるように、瞑目して肩で一つ、呼吸する。
「……レン?」
「……」
頭痛を抑えるような仕草で眉間に指を押し当てる。何か嫌なものを見てしまったときの、彼の良くする癖だ。
そこまで考えて、ふと思い出す。そうだ、自分のその醜態を、傷だらけの身を間近にしたのは彼と医師、それにステイシアだけだったっけ。
それを思い出したんだろう。人間の手足が取れかけて、骨を砕かれ、血に塗れた姿など、気持ちのいいものじゃない。カノンだって出来ればそんな姿は見られたくなかった。
硬い瞑目を、深呼吸と共に解いて、ゆっくりと瞼を開く。
それでも顔を顰めてこちらを眺め、不意に訓練で固くなった手で再び前髪を梳かれた。
突然の所作に、目を瞬いていると、
「………まえが」
「?」
「無事で良かった」
「……」
小さく漏れた本音に、自然と目が見開いた。はっとしてもう一度、彼の顔を見る。
苦痛に歪んだ表情。普段、滅多に表情なんて作らないから、その変化はきっと普通の人から見たら『少し顰めれた』だけに見えるかもしれない。
けれど、伊達にこれまで共に旅をして来た仲じゃない。だから解る。本当に辛[から]い、重いときにしか、その背中の傷が疼くときくらいにしかこんな表情はしないのに。
罪悪感と、何故だろう、ほんの少しの優越感。
ああもう、これじゃああたしって本当に極悪人じゃないか。
「……ごめん。……もうしない」
「当たり前だ」
俯いてそう言った瞬間には、彼の表情はすぐに元の無表情に戻っていた。安堵感と、ちょっと残念にも思うのは何故なのだろう。
彼は軽く首を振って、しきりに『まったく』と呟いている。
肩を下ろして懐を弄って、何かを引き出すとカノンの首元へと手を伸ばした。
「まったく、それでは高い買い物をした意味がないだろう」
「へ?」
ちりん。
どこかで聞いた金属音が耳につく。首に触れた感触は、ここ半年ですっかり付け慣れてしまったものより、ほんの少し太い……やや冷たく感じる細い鎖。
かちり、と別の金属音が耳元で鳴る。ちりん、とまた鳴る―――透明な鈴の音色。
ばっ、と身を起こそうとして、そういえば体が動かないのを忘れていた。貫いた痛みに悶絶していると、『何をやっているんだ、馬鹿かお前は』と呆れながら身体を正され、毛布を掛け直された。
……何でそう、一言多いのだろう。
じゃなくて。
「レン、これ……」
「誰かが盛大にぶち壊していったようだからな。小さな町だから直せる職人を見つけるのにも苦労した」
「ふぇ?」
―――えっと、えっと……?
カノンの中で朝方聞いた情報と、たった今本人の口から聞かされた科白の意味が交錯する。
だから、つまり。
「あの、じゃあ、レン。今日朝いなかったのって、っていうか今まで顔見せなかったの……
もしかして、これ直しに行って……」
―――って、何で訊いてる方が照れなきゃいけないのよ!
さらに熱が集まってくる顔。逆流する血液に、叱咤してカノンは椅子に腰掛け直した彼を見る。彼はその視線をややジト目で受けながら腕を組む。
「それなりに気に入っているものだと思っていたからな。直し損だったか?」
咄嗟に言葉が出て来なくて、代わりにぶんぶんと首を振った。高揚感が心臓の辺りから込み上げる。ああ、何かやだ、目尻が濡れてきたじゃないか、みっともない。
通されたリングとベルを動く左手で持ち上げると、またちりん、と鳴る。
その何でもない音が何だか嬉しくて、思わず何度も鳴らしてしまった。とびきりお気に入りの玩具を貰った子供のよう。それはそれで子供っぽいということなのだから、恥じるべきことなのだが、はしゃぐ高揚はなかなか収まってくれない。
ふと、もう一度、黙したままの相棒に目をやる。眠そうに眉間を押さえ、時折目を拭うように擦っていた。
当たり前だ。昨日、あの時間にカノンを探していて、朝方までついて、その上今日は町に出ていたなら殆ど寝ていないはず。
そう考え付くと、先程は出て来なかった、言わなくては言わなくてはと思っていた言葉がするすると紐が解かれるように口をついた。
「……レン」
「何だ」
「その……ありがとう」
それでもまた照れくささは拭えなくて、何となく、宙を見ながらそう言った。
←3へ
先頭を切って、彼の腕に自分の腕を絡ませて歩く少女に罪悪の文字は一欠片もない。当たり前だ。元はと言えば声をかけたのは彼の方。
これで突き放したりした日には完全に悪者扱い……というかきっぱりと悪人である。
加えて彼は目を輝かせて通りを歩く少女を放置する、好意を込めた目で自分を見上げて来る年端もいかない少女を切り捨てるなどという非情な真似が出来るような人間ではなかったし、上手く誤魔化せるような器用さを持ち合わせているわけでもない。
―――まあ、仕方ないか。
しかしながら割り切ってしまえば、それほど悪い状況でもない。
シリア並に変わった少女だが、美少女であることに代わりはない。何よりアルティオはそんな少女が楽しく笑っているところを見ているのが好きなのである。
「アルティオさん?」
どうかしましたか? というニュアンスを込めてステイシアが顔を覗き込んで来る。
それににへら、と引き締まらない笑顔を向けた。
「いや、何でも。それよりサンキューな、カノンを助けてくれて」
「私は大したことはしていません。重傷のカノンさんを運んだのはレンさんですし、治療したのはうちの先生です」
「……」
恋敵と書いて『ライバル』と読む。
何故、現場に居合わせたのが奴だったんだ。確かにカノンがいないと解ったときに真っ先に飛び出したのはあいつだったけど、俺だって町中駆けずり回っていたのに。
いや、それ以前に何であいつなんだ、カノン。別にお前は顔で人を選ぶ人間じゃないだろう? 確かに悪い奴じゃないし、いざって時になんだかんだで頼りになってるのはあいつだし、そりゃ冷静な目で見て人間的に出来てるのはあっちで、ああ非が見当たらねぇじゃねぇかド畜生。
「ど、どうしたんですかッ? しっかりしてください、アルティオさんッ!」
萎れていく大男をステイシアは慌てて揺さぶった。アルティオはそれを見てはっと気がつく。
「なあ、ステイシア」
「はい?」
「俺のこと好きか?」
「ええ」
「何でだ?」
涼しく答えた彼女は、首を傾げた。理由はさっき言っていたのに、という顔だ。
「いや、そうだけどあれはちょっと……」
頑丈だ何だというのではあまりにあまりな気はする。大体、レンくらいなら捕まれるより前に固めるか何かして防ぎそうだし。
そういえばこの少女はレンには見向きもしなかったのだろうか。
「そういうのが理由ならレンでもきっと大丈夫だと思うぞ」
「う~ん、でも」
ステイシアは小首を傾げて、少し困った笑顔で肩を竦める。
「あの人がどこを見てるかなんて初対面の私でも解りましたし。かなりの剣幕で詰め寄られましたから、ああと思って。正直そんなこと考えが及ばなかったですね」
ああ、なるほど。
思わず納得してしまうアルティオ。後で女の子に詰め寄ったりするなよ、と言って置こう。いや、どうせ聞かないだろうし、その状況下では仕方がなかったのかもしれないが、(というかその状況に自分がいても同じことをした可能性は否めない)この娘の精神衛生上良くない。
「じゃあ、何で俺なんだ?」
最も聞きたかった問いを口にする。
彼女はうーん、と唸ってから何かを探るような目でこちらを見た。上目遣いできゅ、と眉間に皺を寄せる。
「……怒りません?」
そう言われても何を? と問うしかないアルティオは言葉を詰まらせる。
ステイシアは疑問符を浮かべたままの彼からぱっ、と離れた。それなりに流れている人波の中の数歩先を行く。見失ってはぐれてしまわないかと不安になったアルティオは、慌ててその小さな背を追った。
「誰でも良かったのかもしれません」
「は?」
ますます理解に苦しむその返答に、今度こそアルティオは間の抜けた声をあげた。
それは何か。寂しそうな顔の人間なら誰でもいい、とそういうことか。それならこれより傷つく事はない。ある意味、ただフラれるよりも苦痛である。
いや、ナンパというのは総じてそういうものなのかもしれないが、少なくともアルティオは一定のモットーのもとに女の子に声をかけているのだ。
アルティオの思考を汲み取ったのか、ステイシアは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ご、ごめんなさい。えっと、そういう意味ではなくてですね」
えっと、えっとと詰まりながらも空を見て言葉を選ぶ。アルティオは少女が言葉を選ぶのをじっと待っていた。
「アルティオさんは旅の方、ですよね?」
「まあ……」
「もし私が旅なんかやめてこの町にいてください! って頼んだらどうします?」
「それは……」
唐突な問いに答えが途切れる。
アルティオが旅を続けているのはカノンについて行くためだ。アルティオがどこかに留まる、と言えばそれを咎める人間は今の面子にはいないだろう。
それはお互いに全員が全員、個々を持った人間だと認めあっているからである。
皆、アゼルフィリーの野を駆けずり回っていた頃とは違う。それぞれに大人なのだ。それぞれの決断にはそれ相応の敬意を払う。
だが、今現在、アルティオのカノンへの恋心が失せたわけではない。カノンが他に誰一人、と決めたわけでもない。
それに、たとえそうであっても、アルティオにとって気心の知れた彼女らといるのはとても心地良いものだった。
その案寧の場を、つい先程出会ったばかりの少女と天秤にかけろ、というのは……
「困りますよね?」
「そりゃあ……」
アルティオが何とか答えを絞り出すより先に、少女が答えを言ってしまった。ソフトな言い方だったが、その通りだ。
ステイシアは少しだけ寂しそうに、しかし華やかに笑う。
「ええ、わかってます。カノンさんの怪我が治ったらさっさとこんな小さな町、出ていっちゃうんだろうなー、と思います。
だからこれは私のわがままなんですが」
言葉を切って彼女はぴしっ、とこちらに向き直った。子供の頃、騎士ごっこなんてことをしたのを思い出す。幼い彼女が背を伸ばして敬礼をする様は、その想い出を彷彿とさせた。
「アルティオさんならそういうわがままにつき合ってくれるかなー、と思いました」
「はい……?」
今だ疑問符の取れないアルティオに、ステイシアはくすくすと、声を漏らしてまた笑い、やがて可愛く困ったようにうなった。
ふ、と息をついて何か決心したように顔をあげる。
「お笑いになると思うんですが」
「?」
「その……私、恋愛ってものをしたことがないんですよ」
ひたり、とアルティオは動きを止める。目を瞬かせて彼女を見、そして眉間に皺を寄せた。
おそらく齢十七は数えるだろう少女が、それもカノンやルナのように特別な仕事に従事していたわけでも、高貴な家柄というわけでもない、だろう、おそらくは。
「だから、えっと、そのしたことがないっていうか、説明が難しいんですけど……」
初恋、というのははしかと同じだ。生きているうちに余程奇特な人間でない限り、体験する。実るか実らないかの差はあるが、それは少なからず経験値になる。
……その経験値が致命的に足りて無いからカノンはああなわけで。
ともかく、何となくだが事情は察せた気がする。
「……ははッ」
乾いた笑いを漏らす。
何のことはない。要するにあれだ。彼女はそう、今時珍しい『恋に恋する乙女』というやつで、恋愛をしてみたくてしてみたくて仕方がない子なわけだ。
それで自分がいろいろと夢想して、こう! と決めた条件にアルティオが当てはまってしまい、尚且つそんな『ごっこ遊び』に付き合ってくれそうなお人よしな顔をしていた、と。
加えて旅人ならば、別れも後腐れなく済む。どちらが悪いわけでもないからだ。
そういうことなんだろう。
―――まー、一目惚れって響きにもちょっと憧れてたんだけどなー。
思って苦笑する。
だが逆にすっきりした。どうせカノンの怪我が治るまでは足止めなのだ。
けれどこの幼稚な少女に付き合うのも悪くない。自分から振って置いて放置、なんてその方がカノンや仲間の反感を買ってしまうだろうし。
―――って、俺も悪人なんだなー……
こんなときも打算が働くなんて。
アルティオは空笑いを漏らしてから、今だもじもじと恥ずかしそうに俯く彼女に近寄った。少し考えてから手を取って歩き出す。
「え?」
「ほら、行こうぜ。あんまり遅いと、仕事もあるだろうし、色々まずいだろ? な、ステイシア」
極フランクに、アルティオは彼女を呼び捨てて促した。その意図は彼女にも伝わったのだろう。
ステイシアはマメと硬い皮だらけの大きな手を、痛いほど握り返した。というより、
「痛ッ! ち、ちょっと待て、痛いってッ!」
「あッ、ご、ごめんなさいッ!」
思いの他、彼女が力持ちだということを忘れていた。アルティオの情けない悲鳴に反応して、慌ててステイシアは手を緩める。
肩を下ろしてもう一度大げさに痛がるアルティオに、ステイシアはしばし申し訳なさそうに俯いたが、彼がへらり、と笑ってみせると、やがてくすくすと声を上げて笑ったのだった。
ああ、やっぱり可愛い女の子には笑顔が似合うな。
アルティオが己の主義を再確認した瞬間だった。
町行く人波に紛れる彼らを。
またくすくすと笑いを漏らしながら眺めていたモノがいた。
彼は確かにそこにいるのに、誰もその異様な姿に指さえ差そうとしない。晴れた青空と澄み切った森の空気にそぐわない、闇を一角だけ切り取って張り付けたような。
そんな違和感を撒き散らしながらも、誰も彼の気配には気が付かない。
いつも通りに陣取った高みからの景色。俯瞰の視界にその仮初の恋人たちを見つけて、笑う、いや、嘲笑[わら]う。
その傍らに不満そうに胡坐を掻いていた少年は剣呑とした眼差しで主を見た。
「なーにが楽しいんだよ。あんな小芝居、虫唾が走るだけだろ?」
「さてね。何事にも小芝居は重要だよ。
着飾ることで本質を隠す。まあ、一般には綺麗事、なんて嫌われていることだろうけど。
これがまた、いろいろと便利なんだ」
「はぁ?」
さっぱりわからない、と言った目で少年は黒い影を見上げる。いつもこの人は訳の解らないことを言う。こちらが理解しようがしまいが。
理解できないのは悔しい気もするが、少年にとって重要なのはそんなことでない。如何にしてその笑いの後に出される指示を完璧にこなすか。
一を言われれば十を、十を教えれば百を実行しろ。
それが理想。けれど、昨日も叱られたばかりだ。やり過ぎだと怒られてしまう。なかなか上手くいってくれなくて、正直イライラする。
その機微が伝わったのか、不意に彼は少年の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。
「そう剥れないで。僕は君の能力を高く買っている。万が一にも無駄にしたりはしないさ」
「……」
子供扱いされている気分にもなるが、その言葉は少年にとって叱りの言葉を受けたことを差し引いても余りあるものだった。この人の言うことがすべてだ。この人の言う通りに動く。それは無償の全幅の信頼だった。
だって、こんな言葉をこの人からもらえる奴なんて、他に数えるほどしかいない。
「そろそろ行こうか」
「おう。今度はちゃんとした仕事なんだよな?」
笑みを絶やさずに立ち上がった彼を、少年はそんな言葉を吐きながら、追った。
額の辺りがくすぐったい。柔らかくて、少し硬い無骨な、そんな不思議な感触が前髪を梳いている。
熱は大分、収まったようだがまだ頭はぼんやりと霞がかかっている。それともこれは単なる寝過ぎか、薬の副作用か。
頬の下には枕の柔らかさ、額には何だか懐かしい温もり。
……懐かしい? 違う、しばらく接していなかったせいでそう思うだけで、実は馴れた温かさだ。
ああ、そうか。これは……
「ん……」
喉の奥から声が漏れる。意識が覚醒して、最初に知覚したのがそれだった。その声にひくり、と反応した指はふと動きを止める。
全身を襲う気だるさを堪えて、ゆっくりと少しずつ瞼を押し上げる。薄く、朧に開いた視界に黄昏色の髪が逆光に煌いた。
「…………レン?」
「……悪かった。起こしたな」
「ううん、平気」
そう答えると、添えられていた手は前髪を押し上げて額を覆う。少々、冷たい体温が気持ちいい。
「レン、少し冷えてる?」
なんてことを言ったらぺち、と額を叩かれた。
「……何すんの」
「馬鹿なことを言うからだ。俺の手が冷えているんじゃない、お前が熱いだけだろう。大人しく寝ていろ」
すっ、と手を引いた彼は朝方はルナが腰掛けていた椅子を引き寄せて座った。傍らの看護用サイドテーブルに備えられた水差しでタオルを濡らすと、そのまま額に乗せてくれた。
―――きもちいい……
タオルが落ちないように窓に目をやる。確認が済むより先に、『もう夕方だ』という返答が返って来た。確かに窓の外はもう青い空は見えなくて、代わりに紅い日の光が差していた。部屋の中もまた然り。
部屋を見渡すと、隅に積まれた荷物と衣服、武具がある。アルティオたちが持って来てくれたのだろう。
………部屋の外が何だか『離しなさい、ルナこんな…』『いーから時と場合を弁えなさい』とか何とかやたら五月蝿いのは熱による幻聴だとして置こう、うん。
―――ってかここ病院だぞ、こら。
「具合は?」
「うん……朝より大分いいかな。我慢すれば身体も動かせそうだし」
「我慢して動かすな。それだけ治りが遅くなる」
「ん」
何だっけ、言わなきゃいけなかったことがあった気がする。眠りに付く前、数時間前に話したことだったのに。
「レン……」
「何だ」
「その、怒ってないの?」
「……」
恐る恐る問いた科白に、レンは切れ長の目でじっとカノンの顔を凝視する。睨まれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
気恥ずかしさと緊張に耐えられず、視線を逸らすとちょうど彼は息を吐いた。
「無論、苛立ちもする。説教どころか、怒鳴りたい気分だ」
―――う゛……
「だが熱を出している怪我人相手に怒鳴り散らすほど考えなしのつもりはないのでな」
「うん……ごめん」
「治ってから改めて怒鳴る」
―――うう゛……
さすがレンだ。一切の妥協を許すつもりはないらしい。
「まったく、あんな目にあって置きながら……。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ。狙われているという自覚を持て」
「だって……」
解っているのに、悪いのは他でもないカノン自身だ。一人で突っ走った結果だ。
相手がどれだけ許せない相手だったとしても、判断を間違ったのは明白。だから全面的に悪いのはこちら。だってもかももない。
それでも、口を吐いて出たのは言い訳の言葉。
―――やだ、あたし、やな奴だ……
助けられて置きながら、なんて可愛くない。
レンは先程より深い、深い息を一つ吐いた。
「……過ぎたことだ。しかし、二度とあんな真似はするな。気持ちは解らなくもないが、本末転倒だ」
「わ、解ってるわよ……、結構……やばいことになってたみたいだし……」
取り繕うつもりでそう言うと、彼の表情が唐突に歪んだ。普段から穏やかとは言えない表情を、さらに険しくさせて、そう、言うなれば苦虫を噛み潰したような、そんな表情だ。
眉間に皺を寄せて、奥歯を噛み締めて。何かに耐えるように、瞑目して肩で一つ、呼吸する。
「……レン?」
「……」
頭痛を抑えるような仕草で眉間に指を押し当てる。何か嫌なものを見てしまったときの、彼の良くする癖だ。
そこまで考えて、ふと思い出す。そうだ、自分のその醜態を、傷だらけの身を間近にしたのは彼と医師、それにステイシアだけだったっけ。
それを思い出したんだろう。人間の手足が取れかけて、骨を砕かれ、血に塗れた姿など、気持ちのいいものじゃない。カノンだって出来ればそんな姿は見られたくなかった。
硬い瞑目を、深呼吸と共に解いて、ゆっくりと瞼を開く。
それでも顔を顰めてこちらを眺め、不意に訓練で固くなった手で再び前髪を梳かれた。
突然の所作に、目を瞬いていると、
「………まえが」
「?」
「無事で良かった」
「……」
小さく漏れた本音に、自然と目が見開いた。はっとしてもう一度、彼の顔を見る。
苦痛に歪んだ表情。普段、滅多に表情なんて作らないから、その変化はきっと普通の人から見たら『少し顰めれた』だけに見えるかもしれない。
けれど、伊達にこれまで共に旅をして来た仲じゃない。だから解る。本当に辛[から]い、重いときにしか、その背中の傷が疼くときくらいにしかこんな表情はしないのに。
罪悪感と、何故だろう、ほんの少しの優越感。
ああもう、これじゃああたしって本当に極悪人じゃないか。
「……ごめん。……もうしない」
「当たり前だ」
俯いてそう言った瞬間には、彼の表情はすぐに元の無表情に戻っていた。安堵感と、ちょっと残念にも思うのは何故なのだろう。
彼は軽く首を振って、しきりに『まったく』と呟いている。
肩を下ろして懐を弄って、何かを引き出すとカノンの首元へと手を伸ばした。
「まったく、それでは高い買い物をした意味がないだろう」
「へ?」
ちりん。
どこかで聞いた金属音が耳につく。首に触れた感触は、ここ半年ですっかり付け慣れてしまったものより、ほんの少し太い……やや冷たく感じる細い鎖。
かちり、と別の金属音が耳元で鳴る。ちりん、とまた鳴る―――透明な鈴の音色。
ばっ、と身を起こそうとして、そういえば体が動かないのを忘れていた。貫いた痛みに悶絶していると、『何をやっているんだ、馬鹿かお前は』と呆れながら身体を正され、毛布を掛け直された。
……何でそう、一言多いのだろう。
じゃなくて。
「レン、これ……」
「誰かが盛大にぶち壊していったようだからな。小さな町だから直せる職人を見つけるのにも苦労した」
「ふぇ?」
―――えっと、えっと……?
カノンの中で朝方聞いた情報と、たった今本人の口から聞かされた科白の意味が交錯する。
だから、つまり。
「あの、じゃあ、レン。今日朝いなかったのって、っていうか今まで顔見せなかったの……
もしかして、これ直しに行って……」
―――って、何で訊いてる方が照れなきゃいけないのよ!
さらに熱が集まってくる顔。逆流する血液に、叱咤してカノンは椅子に腰掛け直した彼を見る。彼はその視線をややジト目で受けながら腕を組む。
「それなりに気に入っているものだと思っていたからな。直し損だったか?」
咄嗟に言葉が出て来なくて、代わりにぶんぶんと首を振った。高揚感が心臓の辺りから込み上げる。ああ、何かやだ、目尻が濡れてきたじゃないか、みっともない。
通されたリングとベルを動く左手で持ち上げると、またちりん、と鳴る。
その何でもない音が何だか嬉しくて、思わず何度も鳴らしてしまった。とびきりお気に入りの玩具を貰った子供のよう。それはそれで子供っぽいということなのだから、恥じるべきことなのだが、はしゃぐ高揚はなかなか収まってくれない。
ふと、もう一度、黙したままの相棒に目をやる。眠そうに眉間を押さえ、時折目を拭うように擦っていた。
当たり前だ。昨日、あの時間にカノンを探していて、朝方までついて、その上今日は町に出ていたなら殆ど寝ていないはず。
そう考え付くと、先程は出て来なかった、言わなくては言わなくてはと思っていた言葉がするすると紐が解かれるように口をついた。
「……レン」
「何だ」
「その……ありがとう」
それでもまた照れくささは拭えなくて、何となく、宙を見ながらそう言った。
←3へ
「うっ、ん……」
初めに知覚したのは自身が漏らした呻き声。それから鈍い痛みが身体を劈く。
―――痛……
どこか冷めた思考が、平坦な感覚を紡ぐ。身体を縮ませて押さえつけたい衝動に駆られたが、何故だか自分の体が重い。
―――あれ……あたし、どうしたんだっけ……
鈍い痛みに襲われながらも、重い瞼を持ち上げる。薄く開いた視界に、目に染みるような白い光と天井が飛び込んでくる。
もちろん、その天井に見覚えはない。
「あれ……」
「あ、気がつきましたぁ?」
能天気な声が聞こえる。聞き覚えはない。
そう思った瞬間に、ひょい、と視界に飛び込んでくる少女の顔。大きなエメラルドの瞳が印象的だ。ふわり、と白い肌に金の髪がかかる。
少々幼いが、可愛らしいという形容詞がよく似合う少女だ。
「あたし……う、くッ……」
「あ、まだ動かない方がいいですよ」
反射的に身体を動かそうとするカノンの胸に手を置いて制してくる彼女。
「えっと、ちょっと両腕が取れかけてていろんなところの骨にひびが入ってたんで。うちの先生がリザレクションを使えて良かったですよー。
もうほとんど骨も繋がってますけど、かなりの違和感は残ってるでしょうから数日は動かさないでくださいね」
「……」
―――ほ、朗らかな笑顔でなかなかエグイことを……
思い出した。
そうだ。あの黒衣の少年が連れていた子供と戦って、負傷したのだった。とすると、
「ここは…病院……?」
喉がからからで上手く声が出ない。
「はい。あ、申し遅れました。私、ここで看護士をやっておりますステイシアです。どうぞよろしく」
にこにこと語りかけてきてはくれるのだが、生憎、鈍痛に塗れていて返すのは難しい。
わずかに動く首をもたげて周囲を見渡す。白い天井と壁、清潔感漂うカーテンと真っ白なベッド。棚とサイドテーブルは備わっていて、そこには熱を下げるための水布と幾つかの薬が並んでいる。なるほど、確かに病室だ。
軽く息を吐く。どうやら生き延びたらしい。
「あ、喉渇いてますよね。ちょっと待っててくださいね」
かたん、と椅子を鳴らしてステイシアが立ち上がる。備え付けのポットの中から薄緑色の茶をマグカップへ注いで手渡してくる。
「はい、ちょっとだけ熱いので気を付けてくださいね」
「あ、ありがとう……」
上手く身体を動かせない怪我人への気遣いなのだろう。少々、温めのお茶を口にする。
口腔を流れていく感触に、初めて自分の喉が痛いほど乾いていたことを知る。何とか動く左手で喉を揉み解しながら一杯のお茶を飲み干した。
「大丈夫ですか?」
「あ、あー、あっ、あー……うん、平気。それより何がどうなってあたし、こんなところにいるの?」
「覚えてないんですか?」
「えっと……、自分が大怪我したところまでは」
首を傾げようとして出来なかった。違和感を駆け抜けた首を押さえて呻く。
ここまで自由が利かないのは久方ぶりだ。あの少年、余程本気で弄ってくれたらしい。溜め息を吐いて少女を見る。彼女は頬に手を当てて思い出すかのように、
「えっと、ですね。昨日、偶然貴方が怪我してる現場に遭遇してですね。
連れの方に病院の場所を聞かれたものでご案内したんです。ちょうど良かったですよー、病室も一つ空いてましたし」
「偶然会った、って……」
おそらくは気絶した後に、ステイシアがあの場所に来たのだろう。だが、確かあのときは相当夜も更けていたし、女の子一人で出歩くには些か不似合いだ。
疑問を投げるより先に答えが返って来た。
「あ、一人ではなかったですから。同僚と一緒でしたし。
昨日は夜中にちょっと急患が出ましてあの界隈にある薬屋さんに一っ走りしてたんです。そしたら騒ぎが聞こえたんで……
こんな小さい町なのに急患が一度に出て大変でしたよー」
―――イヤミか、それは……
にこにこと語ってはくれるのだが、毒があるのかないのかいまいち判然としない人だ。
「まあ……何にせよ、助けてもらったのにはお礼を言わないとね。ありがとう」
「いえいえー。私は案内しただけですから。
お礼を言うなら先生とここまで貴方を運んでくれたあの人に言ってください」
「……そうね。後者は気が進まないけど」
「あははは、でも格好いいですよねー、お連れの方。彼氏さんなんですか?」
「違う!」
電光石火で答える。彼女は大げさに驚きながら、
「そうなんですか? てっきりそうなものだと」
「何でよ?」
「だって、私、物凄い剣幕で聞かれましたし。病院はどこだー、って。
だからそうなんだろうなー、って」
―――そりゃ腕取れかかってる人間抱えてたら、普通焦るだろ。いくらあいつでもそこまで淡白じゃないっての。
胸中で突っ込みながら、頭のどこか冷めた部分が無駄だと語る。唐突に湧き上がった頭痛を抑えて、顔を上げる。
「……まあ、いいや。とにかく、宿の連中に伝えて置かないと」
「ああ、それでしたら、」
ステイシアが何か言いかけたときだった。
どたたたたたたたたたッ!!
廊下の向こうから轟音が響く。ステイシアが驚いてドアを見るが、カノンは達観した表情で明後日を見やった。
「大丈夫か、カノンッ!!」
ドアの蝶番が悲鳴を上げる速度で部屋の中へ突進してきた男へ、カノンは呆れた視線を送る。
「アルティオ……あんたさ、ここどこだか解ってる?」
「大丈夫か、誰にやられたんだ、死ぬなよ俺はまだお前を幸せにぐはぁッ!」
「って、噛むし。聞けよ人の話」
一人で騒いできっちり自爆してくれた彼に、特大の溜め息が漏れる。涙と鼻水で汚れた顔を近づけてくるアルティオを左手で何とか押し戻して睨んだ。
「あたしはこの通り、死んじゃいないからとりあえず落ち着きなさいって」
「いやッ! この仇討ちは絶対に俺が成す! 見ていてくれカノン!」
「って、ニュアンスで人を殺すんじゃない! 待てこら……」
止めようにもいつも通りに体が動くはずはなく、踵を返して再びドアに突進していくアルティオを……
ごがんッ!
……の、後頭部を点滴用のポールが強襲した。
「きゃあッ!?」
「ういーっす、無事、カノン?」
「……はいはい、一応無事よ」
何事もなかったかのようにポールを立て直すルナに、疲れた声色で答える。隣でステイシアが悲鳴を上げた気がしたが、まあいきなり人を殴り倒したりすれば当然の話なのかもしれない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
「ステイシア、放って置いていいわよ。すぐ復活するから」
「で、でも……」
駆け寄る看護士に諫めるカノン。ルナはそれこそ我関せずで近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。
「やー、災難だったらしいわねー」
「他人事……いや、他人事なんだろうけど何かムカつくわね」
「いてて……」
「あの、お怪我ありませんか?」
頭を摩りながら身を起こしたアルティオに、楚々と声をかけるステイシア。殊勝な娘だ。
いつもの通り、五体満足で復活したアルティオは、心配そうに覗き込んでくるいたいけな少女の姿を視界に捉え、ばっと凄まじい勢いで身を起こす。
少女の両手をしっかりと握りながら。
「お嬢さん、いや、白衣の天使様、ありがとうございます。出来ればどうかこの不肖の本当の天使に……」
カノンとルナの冷えた目が『また始まった』と語っている。アルティオのいつもの悪い癖だ。どうせフラれて終わりなのだから二人とも今さら気にもしない。
興味を失って自分たちの話に戻ろうとして、
「や、やめてくださいッ!!」
どがッ! ばきばきィッ!!
『……』
……数瞬後、目の前で起こった奇妙な現象にカノンもルナも言葉を失った。赤い頬で肩を上下させながら佇むステイシアと、つい先程までと同じような体勢で倒れこんでいるアルティオ=バーガックス。
いや、見てはいたのだ。刺客から取り込んだ情報を脳が受け入れきれていないだけで。
「……ねえ、ルナ」
「何?」
「今、あたしには彼女がアルティオの手を逆手に取って転がして床に打ち付けたように見えたんだけど?」
「奇遇ね、あたしにも同じように見えてたわよ」
その答えに固まりながら(実際、ろくに身体は動かせないのだが)頷く。うん、まさか二人一緒に白昼夢が見られるものだとは思っていなかった。
それとも自分は実は助かっておらず、ここは俗に言う死後の世界というやつなのか?
「す、ステイシア?」
やや引いた声をかける。と、彼女ははっとして居住まいを正しながら、
「やだ私ったら患者さんの前で……」
「いや、そういう問題じゃなくて……、貴方、強かったんだ……」
「いえ、いい加減に習った程度ですよ? 薬を届けにとか、患者さんの定期訪問とか、一人で遅くまで外にいることもありますから」
―――それにしちゃ逞しいだろ、手加減できてないっぽいし。
呆けた表情で顔を赤らめる彼女に、それ以上言う言葉もなく、
「いつつ……何だぁ?」
戸惑っているうちにアルティオが目を覚ます。さすが頑丈さが取り柄なだけはある。むくりと頭を抑えて起きる彼に、ステイシアが息を飲んだ。
それはそうだ。手加減なく投げ飛ばした相手が間もなく起き上がるなど、そうそう見ない光景だろう。
「見境なく手ぇ出すからよ」
「あっはっは、これくらい! カノンのいつもの愛のムチに比べたら屁でもねぇぜ!」
「そこであたしを引き合いに出すか……」
怪我で何も出来ないのが心底口惜しい。奴に代わってステイシアに謝って置こう。睨みを利かせて置いてから彼女を彼女を見上げ、
「……」
異変に気づく。
不自然に頬をさらに紅潮させた彼女がそこにいた。
どこかで見たことがある、というか常日頃見てる。これはあれだ、どこかの脳みそに花が咲いている極身近な女魔剣士が件の相棒に黄色い声を上げるときとそっくりな表情だ。
カノンでもそれくらいは察することが出来る。出来るのだが、何故このタイミングで、この状況下でこの人がそんな表情を浮かべているのかが理解できない。
自分よりはその手の手管に長けているだろう親友へ目を向けるが、彼女も彼女でステイシアへ目をやって眉間に皺を寄せている。どうやら同じ心境らしい。
カノンが葛藤しているうちにステイシアの方は色々と自己完結を終えたらしい。ぱたぱたとへたり込むアルティオへ駆け寄って、勢いづけて頭を下げる。
「ごめんなさい! 私のせいで……ッ!」
「へ? あ、いや、見ての通りぴんぴんしてるから大丈夫ッスよ。
けどお詫びにデートの一回くらいしてくれたら嬉しいかなー、ってくらいで」
二撃目くらいくれてやれ、とカノンもルナも思うのだが、しかし、彼女は逆にきらきらと目を輝かせ、
「はいッ! ぜひお連れくださいッ! そ、その、私、貴方となら……」
頬を染めたまま、もじもじし始めるステイシア。思わず顔を見合わせるカノンとルナ。言った当人さえも予想とかけ離れた返答だったらしく。ぽかんとしたまま、間の抜けた顔で彼女を眺めている。
生温い混沌と化した場を砕くようにカノンは彼女に声をかける。
「えーと、ステイシアさん?」
「はい?」
「つかぬことをお聞きしますけど……貴方、もしかしてそいつのこと気に入った、とか……」
顔色を伺いつつの問い。が、彼女はそれはそれは華やかな微笑みで、
「はい!」
「……ごめん、もの凄い失礼なこと聞くけど、どこが?」
「だって素敵じゃないですか。私、恋人にするならアルティオさんみたいに、私の技を喰らっても全然平気な丈夫な人って決めてたんです!」
確かに鮮やかに投げを決めた彼女を見る限り、彼女とそういう仲に当たって必要なのは頑丈さと忍耐な気はするが。
だがその定理はカノンの理解力を軽く超えていた。傷でただでさえ微熱が出ているというのに、さらに熱が上がりそうだ。
「何? 世の中には私の理解できない基準が存在するわけ? 何がどうなればそんな考えに……」
困惑から抜け出せないカノンの肩をぽん、と叩く手が一つ。
「世の中には色々な人がいるの。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものよ」
「……前から思ってたけどさ、あんたのそのやたらと達観した言動ってどっからくる」
「ときにステイシア」
―――うっわ、誤魔化しやがったこのアマ。
「そんなにそいつが気に入ったなら貸してあげるから、一緒に宿屋からカノンの荷物持って来てやってくれない?」
「はッ!?」
「いいんですかッ!?」
本人そっちのけで話を進めていくルナに、アルティオはうろたえてステイシアは目を輝かせる。
「仮にも女の子の荷物だし、男に任せるわけにいかないでしょ。あたしはちょこーっとカノンとお話があるし」
「でも私、看護士ですからカノンさんについてないと……」
「ついてるならそれなりの入院準備も手伝うのが一流看護士ってもんでしょ」
そんな定義は聞いたことがない。
しかし、ルナとの話を他人に聞かせていいものではないと理解していたカノンは矢継ぎ早に、
「あたしなら大丈夫だし、ルナについててもらうから。お願いします、ステイシアさん」
「カノンー!」
涙目でアルティオが何かを訴えるが見て見ぬ振りだ。自分で声をかけたのだからエスコートくらいしてもらわないと紳士とは言えまい。
カノンからの冷たい眼差しに、アルティオも覚悟を決めたらしい。
短く息を吐いて気合を入れるようにステイシアを振り返る。
「では参りましょう、お嬢さん。お手をどうぞ」
出来るなら最初からやれ。
ステイシアに聞こえる心配がなかったら遠慮なく口にしていただろう文句が頭に浮かぶ。差し出された無骨な手に、彼女は頬を染めながら細い自分の手を重ねる。
そこにあったのはさながら三流恋愛小説の一シーンだ。
異様なむず痒さがカノンの背を走る。
「カノン、すぐ戻ってくるからな! 待っててくれ、必ず俺がお前の仇をぉうッ!」
「さあ、アルティオさん! 早く行きましょう!」
拳を固めかけたアルティオは、腕を突かんで振り回したステイシアの力に負けてドアに激突した。そのまま彼女は引き摺るようにして彼を連こ……ではなく、デートへと誘っていく。
ぱたん、と閉められたドアを眺めてカノンは眉間に皺を寄せた。
「……大丈夫かしら?」
「まあ、あれでも一応自称フェミニストだし、頑丈が取り柄だし、大丈夫なんじゃない?」
自分で送り出しておいて難だが、無責任な言動だ。
「まあ、奴のことはさて置いて。とりあえず、カノン、あんたは大丈夫なの?」
持ち前の切り替えの速さでルナはベッドの上のカノンを見下ろした。身体を起こせないカノンはへらっ、と愛嬌程度に笑いながら、
「何とか。傷は塞がってるんだけど、体中の違和感が取れなくて」
「へぇ、こんな町に随分と腕のいい魔法医がいたもんね。それなら良かった。
……で」
ルナの声のトーンが下がる。その意味が理解できないほどカノンも愚鈍ではなかった。
おおよそのことはレンから聞いているはずだ。それが証拠に急に表情が暗く、厳しく吊りあがる。
「……あいつ、だったの?」
それが差すのは言うまでもなくクオノリアのあの"もの"。
彼女の機密研究をどこからか手に入れた、得体の知れないヒトガタの黒影。
「やられたのはあいつの……部下、なのかな? ともかく下に付いてるっぽい子供だけど」
「子供?」
きゅ、と眉根を寄せる。言いたいことは解る。子供相手にこんな重傷を負ったのか、と言いたいのだろう。
自分の汚点を語るのは好きではないのだが、今回に限ってはそれで彼女が納得するとも思えない。
「実は……」
「なるほど、ね……」
昨夜、気絶するまでの記憶のありったけを話し終え、ルナが呟いたのはその一言だった。
「何か心当たりある?」
「……いや、話だけじゃさすがに解んないわ。
竜種族との混血種[ハイブリッド]か、あるいはそれそのものが魔的な……そうね、使い魔みたいなものなのか。
あくまで仮説だから大きなことは言えないけど」
「そっか……」
はふ、と息を吐く。相手がわからないということは対抗手段が見つけにくい、ということだ。
敗北感と憂鬱。
その二つが重くカノンの肩に圧し掛かる。
前回もそうだった。結局、クオノリアに渦巻いていた陰謀を阻止することは出来たものの、到底勝ちとは言い難い代物だ。すべてはあの謎の人物に対して、すべてが後手後手に回ってしまった結果と言える。
「で、そいつはこっちを目的なく襲って来ただけなの?」
「……解らないわ。
何の算段もなく、人を襲ってくるような人間には見えないんだけど。理由なんて喋ってくれるわけないし。
ただ」
「ただ?」
「殺すつもりはない、みたいなことは言ってたわ。エノとかいう奴に『やりすぎだ』って随分怒ってたみたいだし。
前回も陰に隠れてあたしたちを観察してた、みたいなこと言ってたじゃない。
だから殺すというより何かに利用しようとしてるんだと思う。自信はないけど」
珍しく目尻を下げて口にする。
ルナはしばらく目を閉じて何事か考え込んでいた。カノンはぼうっとした頭で情報を整理しながらそれを待つ。
昨夜。
あの使い魔の少年の言い分はともかくとして、彼らはこちらを殺しに来たわけではないらしい。
だが、何故、わざわざ外におびき出してまでカノンを襲ったのか。深夜だったとはいえ、他人に目撃されるリスクを負ってまで、無目的な無意味な襲撃をするだろうか。
答えはノーだ。
あれだけ周到な人物だ。あの目立つ風貌を自覚しながらそんなリスクを負ってまで、戯れに人を襲ったりしないだろう。戦力を落すためか。いや、効率が悪すぎる。だったら一思いに殺されていてもいいはずだ。
となればそこには何らかの意図が存在する。
クオノリアの悲劇のように、周到に張り巡らされた意図が。
だがそれが見えて来ない。一体、何故。カノン一人をいたぶる必要があったのか。
堂々巡りの思考を続けているうちにルナが顔を上げた。気を取り直すべく、吐いた息。上げた顔はほんの少し笑んでいて、開いた手でカノンの前髪をそっと撫でた。
「ん……ちょっと、くすぐったいってば」
「怪我人は大人しくしてるもんよ。お疲れ様。
まあ、出来ることと言ったらもう一度あんたを襲ってくることを仮定して護衛することと、それとなく街中に聞き込みにいくことくらいね。
後手には回りたくないけど、情報が少なすぎるわ。
聞き込みやら何やらはあたしたちで何とかするから、あんたはとりあえず大人しく傷を治しなさい」
「う……」
「不満そうにしないの。
……一応、傷害罪だからね。政団にも応援を頼んで、護衛の形で数人張り付かせてるけど、あんまり期待は出来ないわ」
それはそうだ。何しろ相手はMWOを手玉に取った男。
政団員の数人で相手に出来るような奴じゃない。
「だからさっさとあんた自身が回復するのが一番いいのよ。悔しいのは解るけど、理解出来んでしょ、子供じゃないんだから」
「わ、わかってるわよ……それくらい」
拗ねたように毛布に顔を埋めるカノン。
妹分のその仕草が可愛くて、ルナはふっと微笑んで髪を梳いてやる。
「……ねえ、あの、ルナ」
「何?」
「その……怒って、た?」
主語や目的語などいらない。誰のことを差しているかなど明白だ。ルナは苦笑いを漏らす。ちょっとした悪戯心が、ああ、最近は疼きっ放しだなと思いながらもその悪魔の誘惑には勝てずに意地悪にも口を開く。
「うん、まー、見たところかーなりね。
無理ないんじゃない? 前回の今回だし。今回なんて文字通り一人で突っ走った結果だし。
お説教の一つや二つ、覚悟しておいた方がいいわね」
「うう……」
反論する術を持たないカノンは、被告人席に座られたような心持で視線を下げた。
その予想通りの反応に満足しながらルナはくすくすと声を上げて笑う。
「まあ、いいじゃない。あいつもしたくてしてるんじゃないんだから。
実際、かなりやばい状態だったわけだし。あいつはその状態のあんたを目の当たりにしたわけでしょ。
自分の相棒がそんなになったんだから、お説教の一つくらいしないと気が気じゃないのよ。
やー、もうカノンちゃんてば愛されてるぅv」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよッ! そんなわけないでしょ!」
そういえば何処に行ったのだろう。怪我で入院という事態だ。いつもなら目が覚めて、最初に喰らうのが彼のお説教なのに。
無意識に胸元を探って。
急に原因不明の激しい心細さが彼女を襲う。
―――ああ、そうか。壊れちゃったんだっけ……
「どうかした?」
「ううん、別に……」
気絶する寸前の千切れた鎖を思い出す。今もあの石畳に転がったままだろうか。かといって探しにいくことも出来ない。
悔しさとは別の苦い感情が喉元に込み上げて、カノンは顔が見えなくなるくらい深く毛布を被った。
ルナは特に何も言わない。
「ルナ」
「んー?」
「……あいつ、今どこにいるかな?」
彼女は「うーん」と軽く唸って、天井を眺めながら。
「あんたの熱が下がるまではいたらしいんだけどね。朝方、さっきの看護士さんに任せてどっか出かけたって。ちなみにシリアはそれ追っかけてった」
「……そ、っか」
「寂しい?」
「だからそんなわけないじゃないッ!!」
ムキになってなってカノンは毛布を跳ね上げた。あまりにも楽しそうなルナの表情に、手中にはまっていることに気づく。
頭に血が上っていく。ただでさえ微熱で精神制御が上手くいかないのに。
「あたし寝るッ!」
「はいはい、おやすみなさい♪」
ますます剥れた彼女はそれまでよりなお深く、干渉を拒絶するように毛布を被り直したのだった。
丸まった毛布の中身が静かになった頃合に、ルナはそっと毛布を剥がす。
ほんのり上気した頬を枕に押し付けて、目を閉じる少女がいた。ちょうどいいように毛布をかけ直してやると、「ううん」と呻いた後に寝返りを打とうとして体が動かないのか顔をしかめる。
が、さすがに体力が落ちているのだろう、そのまま目を覚ます事無く再び深い眠りに落ちていく。
その様に笑いを漏らしながら、ルナは椅子に座り直す。
「レンじゃなくても甘やかしたくなるわよねー、これじゃ」
妹分の幼馴染は文句なしに可愛いと思う。どこかの仏頂面や単純体力馬鹿ではないが、守ってやりたいとは思うし、心細そうにしていれば手を差し伸べずにはいられないだろう。
時折、その真っ直ぐな生き方に、焦がれてしまうけれど。
だが人一人を支えるという行為は言うほど易いものではない。
からからと笑いながら。
しかし、その目はふと途切れた笑いにすっと細められ、生真面目に吊りあがった。自然と握り締めた拳に力が入る。
「……………たら」
声にさえならない呟きが漏れる。……こんなことでは駄目だ。
ルナ=ディスナーという人間は能天気な魔道師。どんな場合でもお茶らけて突拍子もなくて、空気が重くなりかけたら可笑しな言動で払拭して。
そうして彼女のいい姉貴分でなくてはならない。
そういう人間なのだから。
ぱんぱんッ、と彼女は両側の頬を張る。
「う……ん…」
少女は呻いて寝返りの代わりか、ますます枕に頬を押し付ける。眉根を寄せているところを見ると、それほど快適な眠りではないらしい。
当たり前か、まだ微熱は引いていないのだ。
ふ、と笑ってルナはその額に浮いた汗を拭ってやる。
―――クオノリアの地で、かつて、自らが生み出した存在が彼女を傷つけた、その事実に悔恨と謝罪を、いつまでも繰り返しながら。
ああ、もう、自分以外の誰も傷付いて欲しくはないのに。
空回るのは誰も彼も同じ。
←2へ
初めに知覚したのは自身が漏らした呻き声。それから鈍い痛みが身体を劈く。
―――痛……
どこか冷めた思考が、平坦な感覚を紡ぐ。身体を縮ませて押さえつけたい衝動に駆られたが、何故だか自分の体が重い。
―――あれ……あたし、どうしたんだっけ……
鈍い痛みに襲われながらも、重い瞼を持ち上げる。薄く開いた視界に、目に染みるような白い光と天井が飛び込んでくる。
もちろん、その天井に見覚えはない。
「あれ……」
「あ、気がつきましたぁ?」
能天気な声が聞こえる。聞き覚えはない。
そう思った瞬間に、ひょい、と視界に飛び込んでくる少女の顔。大きなエメラルドの瞳が印象的だ。ふわり、と白い肌に金の髪がかかる。
少々幼いが、可愛らしいという形容詞がよく似合う少女だ。
「あたし……う、くッ……」
「あ、まだ動かない方がいいですよ」
反射的に身体を動かそうとするカノンの胸に手を置いて制してくる彼女。
「えっと、ちょっと両腕が取れかけてていろんなところの骨にひびが入ってたんで。うちの先生がリザレクションを使えて良かったですよー。
もうほとんど骨も繋がってますけど、かなりの違和感は残ってるでしょうから数日は動かさないでくださいね」
「……」
―――ほ、朗らかな笑顔でなかなかエグイことを……
思い出した。
そうだ。あの黒衣の少年が連れていた子供と戦って、負傷したのだった。とすると、
「ここは…病院……?」
喉がからからで上手く声が出ない。
「はい。あ、申し遅れました。私、ここで看護士をやっておりますステイシアです。どうぞよろしく」
にこにこと語りかけてきてはくれるのだが、生憎、鈍痛に塗れていて返すのは難しい。
わずかに動く首をもたげて周囲を見渡す。白い天井と壁、清潔感漂うカーテンと真っ白なベッド。棚とサイドテーブルは備わっていて、そこには熱を下げるための水布と幾つかの薬が並んでいる。なるほど、確かに病室だ。
軽く息を吐く。どうやら生き延びたらしい。
「あ、喉渇いてますよね。ちょっと待っててくださいね」
かたん、と椅子を鳴らしてステイシアが立ち上がる。備え付けのポットの中から薄緑色の茶をマグカップへ注いで手渡してくる。
「はい、ちょっとだけ熱いので気を付けてくださいね」
「あ、ありがとう……」
上手く身体を動かせない怪我人への気遣いなのだろう。少々、温めのお茶を口にする。
口腔を流れていく感触に、初めて自分の喉が痛いほど乾いていたことを知る。何とか動く左手で喉を揉み解しながら一杯のお茶を飲み干した。
「大丈夫ですか?」
「あ、あー、あっ、あー……うん、平気。それより何がどうなってあたし、こんなところにいるの?」
「覚えてないんですか?」
「えっと……、自分が大怪我したところまでは」
首を傾げようとして出来なかった。違和感を駆け抜けた首を押さえて呻く。
ここまで自由が利かないのは久方ぶりだ。あの少年、余程本気で弄ってくれたらしい。溜め息を吐いて少女を見る。彼女は頬に手を当てて思い出すかのように、
「えっと、ですね。昨日、偶然貴方が怪我してる現場に遭遇してですね。
連れの方に病院の場所を聞かれたものでご案内したんです。ちょうど良かったですよー、病室も一つ空いてましたし」
「偶然会った、って……」
おそらくは気絶した後に、ステイシアがあの場所に来たのだろう。だが、確かあのときは相当夜も更けていたし、女の子一人で出歩くには些か不似合いだ。
疑問を投げるより先に答えが返って来た。
「あ、一人ではなかったですから。同僚と一緒でしたし。
昨日は夜中にちょっと急患が出ましてあの界隈にある薬屋さんに一っ走りしてたんです。そしたら騒ぎが聞こえたんで……
こんな小さい町なのに急患が一度に出て大変でしたよー」
―――イヤミか、それは……
にこにこと語ってはくれるのだが、毒があるのかないのかいまいち判然としない人だ。
「まあ……何にせよ、助けてもらったのにはお礼を言わないとね。ありがとう」
「いえいえー。私は案内しただけですから。
お礼を言うなら先生とここまで貴方を運んでくれたあの人に言ってください」
「……そうね。後者は気が進まないけど」
「あははは、でも格好いいですよねー、お連れの方。彼氏さんなんですか?」
「違う!」
電光石火で答える。彼女は大げさに驚きながら、
「そうなんですか? てっきりそうなものだと」
「何でよ?」
「だって、私、物凄い剣幕で聞かれましたし。病院はどこだー、って。
だからそうなんだろうなー、って」
―――そりゃ腕取れかかってる人間抱えてたら、普通焦るだろ。いくらあいつでもそこまで淡白じゃないっての。
胸中で突っ込みながら、頭のどこか冷めた部分が無駄だと語る。唐突に湧き上がった頭痛を抑えて、顔を上げる。
「……まあ、いいや。とにかく、宿の連中に伝えて置かないと」
「ああ、それでしたら、」
ステイシアが何か言いかけたときだった。
どたたたたたたたたたッ!!
廊下の向こうから轟音が響く。ステイシアが驚いてドアを見るが、カノンは達観した表情で明後日を見やった。
「大丈夫か、カノンッ!!」
ドアの蝶番が悲鳴を上げる速度で部屋の中へ突進してきた男へ、カノンは呆れた視線を送る。
「アルティオ……あんたさ、ここどこだか解ってる?」
「大丈夫か、誰にやられたんだ、死ぬなよ俺はまだお前を幸せにぐはぁッ!」
「って、噛むし。聞けよ人の話」
一人で騒いできっちり自爆してくれた彼に、特大の溜め息が漏れる。涙と鼻水で汚れた顔を近づけてくるアルティオを左手で何とか押し戻して睨んだ。
「あたしはこの通り、死んじゃいないからとりあえず落ち着きなさいって」
「いやッ! この仇討ちは絶対に俺が成す! 見ていてくれカノン!」
「って、ニュアンスで人を殺すんじゃない! 待てこら……」
止めようにもいつも通りに体が動くはずはなく、踵を返して再びドアに突進していくアルティオを……
ごがんッ!
……の、後頭部を点滴用のポールが強襲した。
「きゃあッ!?」
「ういーっす、無事、カノン?」
「……はいはい、一応無事よ」
何事もなかったかのようにポールを立て直すルナに、疲れた声色で答える。隣でステイシアが悲鳴を上げた気がしたが、まあいきなり人を殴り倒したりすれば当然の話なのかもしれない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
「ステイシア、放って置いていいわよ。すぐ復活するから」
「で、でも……」
駆け寄る看護士に諫めるカノン。ルナはそれこそ我関せずで近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。
「やー、災難だったらしいわねー」
「他人事……いや、他人事なんだろうけど何かムカつくわね」
「いてて……」
「あの、お怪我ありませんか?」
頭を摩りながら身を起こしたアルティオに、楚々と声をかけるステイシア。殊勝な娘だ。
いつもの通り、五体満足で復活したアルティオは、心配そうに覗き込んでくるいたいけな少女の姿を視界に捉え、ばっと凄まじい勢いで身を起こす。
少女の両手をしっかりと握りながら。
「お嬢さん、いや、白衣の天使様、ありがとうございます。出来ればどうかこの不肖の本当の天使に……」
カノンとルナの冷えた目が『また始まった』と語っている。アルティオのいつもの悪い癖だ。どうせフラれて終わりなのだから二人とも今さら気にもしない。
興味を失って自分たちの話に戻ろうとして、
「や、やめてくださいッ!!」
どがッ! ばきばきィッ!!
『……』
……数瞬後、目の前で起こった奇妙な現象にカノンもルナも言葉を失った。赤い頬で肩を上下させながら佇むステイシアと、つい先程までと同じような体勢で倒れこんでいるアルティオ=バーガックス。
いや、見てはいたのだ。刺客から取り込んだ情報を脳が受け入れきれていないだけで。
「……ねえ、ルナ」
「何?」
「今、あたしには彼女がアルティオの手を逆手に取って転がして床に打ち付けたように見えたんだけど?」
「奇遇ね、あたしにも同じように見えてたわよ」
その答えに固まりながら(実際、ろくに身体は動かせないのだが)頷く。うん、まさか二人一緒に白昼夢が見られるものだとは思っていなかった。
それとも自分は実は助かっておらず、ここは俗に言う死後の世界というやつなのか?
「す、ステイシア?」
やや引いた声をかける。と、彼女ははっとして居住まいを正しながら、
「やだ私ったら患者さんの前で……」
「いや、そういう問題じゃなくて……、貴方、強かったんだ……」
「いえ、いい加減に習った程度ですよ? 薬を届けにとか、患者さんの定期訪問とか、一人で遅くまで外にいることもありますから」
―――それにしちゃ逞しいだろ、手加減できてないっぽいし。
呆けた表情で顔を赤らめる彼女に、それ以上言う言葉もなく、
「いつつ……何だぁ?」
戸惑っているうちにアルティオが目を覚ます。さすが頑丈さが取り柄なだけはある。むくりと頭を抑えて起きる彼に、ステイシアが息を飲んだ。
それはそうだ。手加減なく投げ飛ばした相手が間もなく起き上がるなど、そうそう見ない光景だろう。
「見境なく手ぇ出すからよ」
「あっはっは、これくらい! カノンのいつもの愛のムチに比べたら屁でもねぇぜ!」
「そこであたしを引き合いに出すか……」
怪我で何も出来ないのが心底口惜しい。奴に代わってステイシアに謝って置こう。睨みを利かせて置いてから彼女を彼女を見上げ、
「……」
異変に気づく。
不自然に頬をさらに紅潮させた彼女がそこにいた。
どこかで見たことがある、というか常日頃見てる。これはあれだ、どこかの脳みそに花が咲いている極身近な女魔剣士が件の相棒に黄色い声を上げるときとそっくりな表情だ。
カノンでもそれくらいは察することが出来る。出来るのだが、何故このタイミングで、この状況下でこの人がそんな表情を浮かべているのかが理解できない。
自分よりはその手の手管に長けているだろう親友へ目を向けるが、彼女も彼女でステイシアへ目をやって眉間に皺を寄せている。どうやら同じ心境らしい。
カノンが葛藤しているうちにステイシアの方は色々と自己完結を終えたらしい。ぱたぱたとへたり込むアルティオへ駆け寄って、勢いづけて頭を下げる。
「ごめんなさい! 私のせいで……ッ!」
「へ? あ、いや、見ての通りぴんぴんしてるから大丈夫ッスよ。
けどお詫びにデートの一回くらいしてくれたら嬉しいかなー、ってくらいで」
二撃目くらいくれてやれ、とカノンもルナも思うのだが、しかし、彼女は逆にきらきらと目を輝かせ、
「はいッ! ぜひお連れくださいッ! そ、その、私、貴方となら……」
頬を染めたまま、もじもじし始めるステイシア。思わず顔を見合わせるカノンとルナ。言った当人さえも予想とかけ離れた返答だったらしく。ぽかんとしたまま、間の抜けた顔で彼女を眺めている。
生温い混沌と化した場を砕くようにカノンは彼女に声をかける。
「えーと、ステイシアさん?」
「はい?」
「つかぬことをお聞きしますけど……貴方、もしかしてそいつのこと気に入った、とか……」
顔色を伺いつつの問い。が、彼女はそれはそれは華やかな微笑みで、
「はい!」
「……ごめん、もの凄い失礼なこと聞くけど、どこが?」
「だって素敵じゃないですか。私、恋人にするならアルティオさんみたいに、私の技を喰らっても全然平気な丈夫な人って決めてたんです!」
確かに鮮やかに投げを決めた彼女を見る限り、彼女とそういう仲に当たって必要なのは頑丈さと忍耐な気はするが。
だがその定理はカノンの理解力を軽く超えていた。傷でただでさえ微熱が出ているというのに、さらに熱が上がりそうだ。
「何? 世の中には私の理解できない基準が存在するわけ? 何がどうなればそんな考えに……」
困惑から抜け出せないカノンの肩をぽん、と叩く手が一つ。
「世の中には色々な人がいるの。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものよ」
「……前から思ってたけどさ、あんたのそのやたらと達観した言動ってどっからくる」
「ときにステイシア」
―――うっわ、誤魔化しやがったこのアマ。
「そんなにそいつが気に入ったなら貸してあげるから、一緒に宿屋からカノンの荷物持って来てやってくれない?」
「はッ!?」
「いいんですかッ!?」
本人そっちのけで話を進めていくルナに、アルティオはうろたえてステイシアは目を輝かせる。
「仮にも女の子の荷物だし、男に任せるわけにいかないでしょ。あたしはちょこーっとカノンとお話があるし」
「でも私、看護士ですからカノンさんについてないと……」
「ついてるならそれなりの入院準備も手伝うのが一流看護士ってもんでしょ」
そんな定義は聞いたことがない。
しかし、ルナとの話を他人に聞かせていいものではないと理解していたカノンは矢継ぎ早に、
「あたしなら大丈夫だし、ルナについててもらうから。お願いします、ステイシアさん」
「カノンー!」
涙目でアルティオが何かを訴えるが見て見ぬ振りだ。自分で声をかけたのだからエスコートくらいしてもらわないと紳士とは言えまい。
カノンからの冷たい眼差しに、アルティオも覚悟を決めたらしい。
短く息を吐いて気合を入れるようにステイシアを振り返る。
「では参りましょう、お嬢さん。お手をどうぞ」
出来るなら最初からやれ。
ステイシアに聞こえる心配がなかったら遠慮なく口にしていただろう文句が頭に浮かぶ。差し出された無骨な手に、彼女は頬を染めながら細い自分の手を重ねる。
そこにあったのはさながら三流恋愛小説の一シーンだ。
異様なむず痒さがカノンの背を走る。
「カノン、すぐ戻ってくるからな! 待っててくれ、必ず俺がお前の仇をぉうッ!」
「さあ、アルティオさん! 早く行きましょう!」
拳を固めかけたアルティオは、腕を突かんで振り回したステイシアの力に負けてドアに激突した。そのまま彼女は引き摺るようにして彼を連こ……ではなく、デートへと誘っていく。
ぱたん、と閉められたドアを眺めてカノンは眉間に皺を寄せた。
「……大丈夫かしら?」
「まあ、あれでも一応自称フェミニストだし、頑丈が取り柄だし、大丈夫なんじゃない?」
自分で送り出しておいて難だが、無責任な言動だ。
「まあ、奴のことはさて置いて。とりあえず、カノン、あんたは大丈夫なの?」
持ち前の切り替えの速さでルナはベッドの上のカノンを見下ろした。身体を起こせないカノンはへらっ、と愛嬌程度に笑いながら、
「何とか。傷は塞がってるんだけど、体中の違和感が取れなくて」
「へぇ、こんな町に随分と腕のいい魔法医がいたもんね。それなら良かった。
……で」
ルナの声のトーンが下がる。その意味が理解できないほどカノンも愚鈍ではなかった。
おおよそのことはレンから聞いているはずだ。それが証拠に急に表情が暗く、厳しく吊りあがる。
「……あいつ、だったの?」
それが差すのは言うまでもなくクオノリアのあの"もの"。
彼女の機密研究をどこからか手に入れた、得体の知れないヒトガタの黒影。
「やられたのはあいつの……部下、なのかな? ともかく下に付いてるっぽい子供だけど」
「子供?」
きゅ、と眉根を寄せる。言いたいことは解る。子供相手にこんな重傷を負ったのか、と言いたいのだろう。
自分の汚点を語るのは好きではないのだが、今回に限ってはそれで彼女が納得するとも思えない。
「実は……」
「なるほど、ね……」
昨夜、気絶するまでの記憶のありったけを話し終え、ルナが呟いたのはその一言だった。
「何か心当たりある?」
「……いや、話だけじゃさすがに解んないわ。
竜種族との混血種[ハイブリッド]か、あるいはそれそのものが魔的な……そうね、使い魔みたいなものなのか。
あくまで仮説だから大きなことは言えないけど」
「そっか……」
はふ、と息を吐く。相手がわからないということは対抗手段が見つけにくい、ということだ。
敗北感と憂鬱。
その二つが重くカノンの肩に圧し掛かる。
前回もそうだった。結局、クオノリアに渦巻いていた陰謀を阻止することは出来たものの、到底勝ちとは言い難い代物だ。すべてはあの謎の人物に対して、すべてが後手後手に回ってしまった結果と言える。
「で、そいつはこっちを目的なく襲って来ただけなの?」
「……解らないわ。
何の算段もなく、人を襲ってくるような人間には見えないんだけど。理由なんて喋ってくれるわけないし。
ただ」
「ただ?」
「殺すつもりはない、みたいなことは言ってたわ。エノとかいう奴に『やりすぎだ』って随分怒ってたみたいだし。
前回も陰に隠れてあたしたちを観察してた、みたいなこと言ってたじゃない。
だから殺すというより何かに利用しようとしてるんだと思う。自信はないけど」
珍しく目尻を下げて口にする。
ルナはしばらく目を閉じて何事か考え込んでいた。カノンはぼうっとした頭で情報を整理しながらそれを待つ。
昨夜。
あの使い魔の少年の言い分はともかくとして、彼らはこちらを殺しに来たわけではないらしい。
だが、何故、わざわざ外におびき出してまでカノンを襲ったのか。深夜だったとはいえ、他人に目撃されるリスクを負ってまで、無目的な無意味な襲撃をするだろうか。
答えはノーだ。
あれだけ周到な人物だ。あの目立つ風貌を自覚しながらそんなリスクを負ってまで、戯れに人を襲ったりしないだろう。戦力を落すためか。いや、効率が悪すぎる。だったら一思いに殺されていてもいいはずだ。
となればそこには何らかの意図が存在する。
クオノリアの悲劇のように、周到に張り巡らされた意図が。
だがそれが見えて来ない。一体、何故。カノン一人をいたぶる必要があったのか。
堂々巡りの思考を続けているうちにルナが顔を上げた。気を取り直すべく、吐いた息。上げた顔はほんの少し笑んでいて、開いた手でカノンの前髪をそっと撫でた。
「ん……ちょっと、くすぐったいってば」
「怪我人は大人しくしてるもんよ。お疲れ様。
まあ、出来ることと言ったらもう一度あんたを襲ってくることを仮定して護衛することと、それとなく街中に聞き込みにいくことくらいね。
後手には回りたくないけど、情報が少なすぎるわ。
聞き込みやら何やらはあたしたちで何とかするから、あんたはとりあえず大人しく傷を治しなさい」
「う……」
「不満そうにしないの。
……一応、傷害罪だからね。政団にも応援を頼んで、護衛の形で数人張り付かせてるけど、あんまり期待は出来ないわ」
それはそうだ。何しろ相手はMWOを手玉に取った男。
政団員の数人で相手に出来るような奴じゃない。
「だからさっさとあんた自身が回復するのが一番いいのよ。悔しいのは解るけど、理解出来んでしょ、子供じゃないんだから」
「わ、わかってるわよ……それくらい」
拗ねたように毛布に顔を埋めるカノン。
妹分のその仕草が可愛くて、ルナはふっと微笑んで髪を梳いてやる。
「……ねえ、あの、ルナ」
「何?」
「その……怒って、た?」
主語や目的語などいらない。誰のことを差しているかなど明白だ。ルナは苦笑いを漏らす。ちょっとした悪戯心が、ああ、最近は疼きっ放しだなと思いながらもその悪魔の誘惑には勝てずに意地悪にも口を開く。
「うん、まー、見たところかーなりね。
無理ないんじゃない? 前回の今回だし。今回なんて文字通り一人で突っ走った結果だし。
お説教の一つや二つ、覚悟しておいた方がいいわね」
「うう……」
反論する術を持たないカノンは、被告人席に座られたような心持で視線を下げた。
その予想通りの反応に満足しながらルナはくすくすと声を上げて笑う。
「まあ、いいじゃない。あいつもしたくてしてるんじゃないんだから。
実際、かなりやばい状態だったわけだし。あいつはその状態のあんたを目の当たりにしたわけでしょ。
自分の相棒がそんなになったんだから、お説教の一つくらいしないと気が気じゃないのよ。
やー、もうカノンちゃんてば愛されてるぅv」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよッ! そんなわけないでしょ!」
そういえば何処に行ったのだろう。怪我で入院という事態だ。いつもなら目が覚めて、最初に喰らうのが彼のお説教なのに。
無意識に胸元を探って。
急に原因不明の激しい心細さが彼女を襲う。
―――ああ、そうか。壊れちゃったんだっけ……
「どうかした?」
「ううん、別に……」
気絶する寸前の千切れた鎖を思い出す。今もあの石畳に転がったままだろうか。かといって探しにいくことも出来ない。
悔しさとは別の苦い感情が喉元に込み上げて、カノンは顔が見えなくなるくらい深く毛布を被った。
ルナは特に何も言わない。
「ルナ」
「んー?」
「……あいつ、今どこにいるかな?」
彼女は「うーん」と軽く唸って、天井を眺めながら。
「あんたの熱が下がるまではいたらしいんだけどね。朝方、さっきの看護士さんに任せてどっか出かけたって。ちなみにシリアはそれ追っかけてった」
「……そ、っか」
「寂しい?」
「だからそんなわけないじゃないッ!!」
ムキになってなってカノンは毛布を跳ね上げた。あまりにも楽しそうなルナの表情に、手中にはまっていることに気づく。
頭に血が上っていく。ただでさえ微熱で精神制御が上手くいかないのに。
「あたし寝るッ!」
「はいはい、おやすみなさい♪」
ますます剥れた彼女はそれまでよりなお深く、干渉を拒絶するように毛布を被り直したのだった。
丸まった毛布の中身が静かになった頃合に、ルナはそっと毛布を剥がす。
ほんのり上気した頬を枕に押し付けて、目を閉じる少女がいた。ちょうどいいように毛布をかけ直してやると、「ううん」と呻いた後に寝返りを打とうとして体が動かないのか顔をしかめる。
が、さすがに体力が落ちているのだろう、そのまま目を覚ます事無く再び深い眠りに落ちていく。
その様に笑いを漏らしながら、ルナは椅子に座り直す。
「レンじゃなくても甘やかしたくなるわよねー、これじゃ」
妹分の幼馴染は文句なしに可愛いと思う。どこかの仏頂面や単純体力馬鹿ではないが、守ってやりたいとは思うし、心細そうにしていれば手を差し伸べずにはいられないだろう。
時折、その真っ直ぐな生き方に、焦がれてしまうけれど。
だが人一人を支えるという行為は言うほど易いものではない。
からからと笑いながら。
しかし、その目はふと途切れた笑いにすっと細められ、生真面目に吊りあがった。自然と握り締めた拳に力が入る。
「……………たら」
声にさえならない呟きが漏れる。……こんなことでは駄目だ。
ルナ=ディスナーという人間は能天気な魔道師。どんな場合でもお茶らけて突拍子もなくて、空気が重くなりかけたら可笑しな言動で払拭して。
そうして彼女のいい姉貴分でなくてはならない。
そういう人間なのだから。
ぱんぱんッ、と彼女は両側の頬を張る。
「う……ん…」
少女は呻いて寝返りの代わりか、ますます枕に頬を押し付ける。眉根を寄せているところを見ると、それほど快適な眠りではないらしい。
当たり前か、まだ微熱は引いていないのだ。
ふ、と笑ってルナはその額に浮いた汗を拭ってやる。
―――クオノリアの地で、かつて、自らが生み出した存在が彼女を傷つけた、その事実に悔恨と謝罪を、いつまでも繰り返しながら。
ああ、もう、自分以外の誰も傷付いて欲しくはないのに。
空回るのは誰も彼も同じ。
←2へ
―――ったく、何であたしがこんなことで煩わせられなきゃいけないのよ……
湿った髪を乱暴に掻き回しながら、ベッドに腰掛け、タオルを放り投げてそのまま横たわる。放り投げたタオルは狙い通りに側の椅子にかかって項垂れた。
はぁ、と吐き出した溜め息は夜の静寂に遮られて消える。
ちらり、と隣を見やると同室の彼女は既に可愛らしい寝息を立てていた。悩みを突きつけてくれた張本人のくせに呑気な。
―――……いや、まあ自分のことなんだから呑気も何もないんだけど……
「結婚、ねぇ……」
考えたこともなかった、というのが正直なところだ。そもそもこの五年間、色恋沙汰自体、疎遠だったと思われる。
……いや、だったというかそんなものを考えられるほどの暇はなかった、と言った方が正しいのか。確かにカノンに対して恋情を抱く者はアルティオを始め、ゼロではなかった。
もう随分前の、グリドリードで出会ったセルリアなど、なかなか大胆な真似をしてくれた。今頃、どこで何をしているだろうか。あまり心配はしていないけれど。
―――って、いかんいかん。
思考が逸れる。
結論から言えば考えても無駄なのだ。自分の周りにはあまりにも男の影がなさ過ぎる……いや、意図的に遠ざけ過ぎたというべきか。
そんな状態で生産的な答えがぱっ、と見つかるわけもない。
……それとも、今、接している男共のことを改めろとでも言うのだろうか。
確かにアルティオの周囲お構いなしの求愛には子供の頃からうんざりしている。だが、うんざりするの一言で切り捨てるにはもう子供ではいられない。
迷惑極まりない求愛の仕方だが、あれほど長く続いているのだから彼の気持ちはきっと嘘でも偽りでもないのだろう。そのこと自体に悪い気はしない。あれはあれでいいところもあるし、人情家で周囲さえ見ていればそれなりに好人物である。
今朝方、顔がどうのこうのでからかわれていたが、そう言われるほど醜悪な顔をしているわけでもない。むしろレンより愛嬌がある分、解りやすくていいというのがカノンの評価だった。
今までの人生の半分以上を剣技に費やしてきた自分やレンに比べたら劣るだろうが、あれでもいっぱしの双剣士だ。……つまりは実は取り立てて駄目な男というわけでもないのである。
「んー……」
じゃあ、何故その男の求愛を受ける気にならないのだろう。
―――簡単に言えば……好き、じゃないんだろうなぁ……
勿論、人間的な意味ではなく、伴侶や恋人として考えた場合である。一般的なものの見方なんて知らないが、少なくともカノンは彼とそういう仲になろうとは思っていないのだ。
……今のところはの話だけれど。
顔を横に向けた拍子にサイドテーブルに置いてあったネックレスが目に入った。手を伸ばし、何とはなしに拾い上げる。
第三政団に革命をもたらし、死術の全消滅と共に終局を見せたわずか半年前の事件。
すべてが目まぐるしくて、その最中に通り過ぎた誕生日のことなんて当人ですら忘れていたのに。
手渡した本人はいつも通りの無表情で照れてさえなかったけれど、考えてみれば随分とらしいものを貰ったものだ。
繰り返す戦いに気が休まらなかった中で、彼なりにご褒美でもくれたつもりなのか。それとも当時の狩人仲間との別離を済ませた直後で、それなりに寂しさを感じていたカノンを励ますつもりだったのか。
はたまた狩人の任を解かれ、ただの年頃の娘となったカノンに対して、普通の女の子が持つようなものを持たせる目的だったのか。
それ自体はやつれていた心身に、心底嬉しかったけれど。
考えてみれば真意は聞けないままで、いつのまにか半年も経過していた。
―――大した真意じゃない、って言っちゃえばそうなんだろうけど……
無条件に信頼出来る人間を一人挙げろと言われたら、カノンは当然レンの名前を出すだろう。やはり苦楽を共にした五年間は重い。
―――でもそれだけなのよね……
それ以上でも以下でもない。その間に何か色めいたことがあるかというと、ルナに言った通りなわけで……。
―――まあ、あいつがあたしに感けるわけないか……
呟いた脳裏に、朝の暴言が掠める。
『どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい』
ぷちっ。
「わぁるかったわね! どーせあたしは色気も可愛げも何もないただのガキよッ!!」
叫んでしまってからはっ、と口を押さえる。慌てて傍らを見やるが、杞憂だったらしい。ルナは小さく呻いただけで、相変わらず規則正しい寝息を立てていた。
ほっ、と肩を撫で下ろしてもそもそと毛布の中に戻る。
「……って、冷静になって考えようとしてたのに何で頭に来てるのよ、あたしは……」
気分が悪い。
―――ッたく! やっぱりこんなことは考えたって無駄よッ!
白馬の王子様を夢見るシンデレラなんてちゃんちゃらおかしいが、考えても仕方のないことだ。大体、全人類が結婚しなくてはいけないなんて法律は存在しない。
―――そんなのはないけど……
ちらり、と毛布から目だけを出して深い眠りについているルナを覗き見る。彼女もいつかどこかの誰かに嫁いだりするのだろうか。そんな物好きに知り合いはいなかったと思うが。
ルナだけではない。シリアもアルティオも、レンさえも。そういった可能性は秘めているのだ。相手が誰であるにしろ。
そうなったら。
そうなったら、そのとき自分はどんな顔をしていればいいのだろうか。
―――って、ああもう……取らぬ狸の皮算用だわ。誰が誰とくっつこうとあたしには関係ないじゃないの。
いらない思考ですっかり眠気が取れてしまった。幸い、クオノリアの一件が教えた用心のために服は上着を羽織ればいつもの状態になるようにして寝転がっていた。
オレンジのコートを羽織り、ベルトを締めて帯剣を欠かさずに。
髪を束ねて外に出る。
適当に夜風にでも当たれば気分も落ち着くだろう……。
「はー……」
酒臭い階下の空気を抜けると、一転してやや冷たい夜の風が髪を弄らせる。
つい一週間ほど前は夜になっても昼間の内に溜まった熱気が夜まで冷めやらず、寝苦しい夜を送っていたのに今では風が素肌に肌寒いくらいだ。
クオノリアの風は潮の香りがしたが、ここ―――ランカース・フィルの風は緑と水の匂いが混じる。
「どっちかっていうとこっちの匂いの方が好きかな。あたしは」
海の匂いも嫌いではなかった。だがカノンは元来、どちらかというと山の方の土地の出身だ。こういった匂いには懐かしさを感じる。
―――故郷、ね。
ふとルナの言葉を思い出す。
五年前、家出同然に家を出てそれから連絡も何も取っていない。カノンの育て親である祖母のカリスは裏の社会でもいろいろと顔の効く大人物だった。その気になれば自分の居場所などすぐに知れただろうに、連れ戻そうとしなかったのは旅に出ることを許してくれたのだ、と勝手に解釈してきたが、道理に外れたことをやっているのは否定できない。
―――……まあ、許す許さないはともかく、お仕置きのフルコースは確実だろーね……
昔、受けた修行と称する半虐待の仕置きを思い出し、身を震わせる。風の温度が一、二度下がった気さえした。
さすがに冷えてきてむき出しの二の腕を摩りながら宿へ戻ろうと―――
とんっ
「……?」
かすかな物音がカノンの鼓膜を振るわせる。時刻は深夜に届くか否か。宿屋が兼任でやっている酒場の灯ももうじき消える頃で、中にいるのは完全に酔いつぶれた独り者くらいのものだ。
そんな帳に。
聞こえる音など限られている。
無意識の内に、音の方向へ目をやって、
「!!」
カノンは息を飲んだ。
宿屋の向かいに佇む家屋の屋根の上。今日の月は半月。それを背景に、
たおやかに広がる黒の影。
「あれは―――ッ」
カノンの脳裏につい二週間ほど前に見た光景が鮮やかに蘇る。そのとき"それ"は血に染められた大地に立っていた。
漏らした声に、"彼"は一瞬だけ振り返る。風で肌蹴た黒髪に、包帯に包まれた素顔に、一点だけ全てを飲み込んでしまいそうな黒耀の瞳[かがやき]。
……あんな人間が二人も三人もいるわけがない。
彼はふい、と背を向けると軽やかに屋根を飛んで通りの向こうに消えていく。
一瞬の逡巡がカノンの中を駆け巡る。即ち追うか、否か。
得策ではないと知っていた。罠である可能性を危惧しなかったわけでもない。相手は何の技を使うかどころか、本当に人間なのかさえわからないのだ。深い詮索はしないのが身のためになる。
だが、先の事件が示す、"彼"を野放しにして置く危険性と手口の残酷さと卑劣さを知っていて、尚且つ人並み程度の正義感を持ち合わせていた彼女は、その暗い背を、夜風を切りながら追っていた。
空を見上げながら駆けるのは思いの外、難しい。
しかも夜道だ。足元の確認が出来ない。知らない道を目隠しで歩かされているのと変わらない。少しでも視線を外すと夜空に浮かぶ黒い影は、溶けて消えてしまうのだ。
―――くッ……
足場は当然こちらの方が有利なはずだ。屋根と屋根とを渡り歩くなどという芸当、普通なら絶対にとは言わないが容易なことでないのは明白だ。
そのはずなのに、距離は一向に縮まらない。
「くっそ!!」
これしきで息が乱れることはないが、終わりの見えない追いかけっこに不安が過ぎる。だが、それに潰されれば負けだ。
―――ッ!
不意に影が立ち止まる。ばさッ、と纏ったコートが風に鳴る。
「ッ! 待ちなさいッ!!」
屋根から影が下りた。下りた先は狭い向こう側の路地。
迷いなく石畳を蹴る。が、
「―――ッ!? いない……」
思わず呟く。
だが、その背後に。
「ッ!」
耳元で風が唸った。鍛え上げた神経が自然に身体を右側へと持っていく。
ちりッ、とした痛みが左腕に走った。
―――掠ったッ!?
顔を上げるよりも先に後ろ飛びに路地を逃れる。狭い場所を舞台にすることほど愚かなことはない。
左の腕に赤い線が走り、血が滲み出ていた。それに舌打ちしながら剣を抜く。
「ちぇ、はずしたか」
トーンの高い、少年の声が響いた。あの黒衣の少年のものではない。どちらかというと荒っぽい、粗暴な印象を受けるアルト。
視線を上げて目に入ったのは、
「――― 子供ッ?」
「子供じゃねぇよッ!!」
思わず口にすると倍以上のボリュームで怒鳴られた。
夜闇に浮かび上がった輪郭は、カノンよりも背が低い……年の頃なら十三、四の少年。
猫背に構えた姿で余計に低く感じる。
薄炎色の跳ねた髪、曝された肌は月明かりのせいで白く見えるが、その実やや焼けているのが伺えた。簡易的な服を纏っているが、肩掛けにかけた布だけがしっとりとした上質な光を返している。
紫がかった瞳はややつり目でひたすらな闘争心だけがその色を支配している。
「ンなこと言ったって……」
「ガキっていう方がガキだッ!」
―――小学生か、あんたは……
頭が痛くなってきた。
「ムッカつく! 殺すな、って言われてたけどお前、殺すッ!」
「ち、ちょっとッ!?」
問答無用もいいところだ。物騒な言葉を吐いて石畳を蹴る少年。
―――ッ!!
カノンの表情が引き攣った。反射的に左へ避ける。すぐさま、耳の脇を風が唸って過ぎた。
「ちッ!」
少年の舌打ちが聞こえる。筋肉質な二の腕を引いて、少年は間合いを取り直す。
カノンの頬を冷たい汗が伝う。
―――この子……速いッ!
攻撃は単調だが、ひたすら速い。動き自体はカノンの目でも追いきれない。動揺が彼女を襲う。
―――くッ!
背を向けるのは自殺行為だ。抜き放った剣を構え、迎撃態勢を取る。
ひゅんッ!
「ッ?」
カノンの目の前で少年の右の爪が伸びる。醜悪な曲線を描くそれは、さながら斬首刀[エクゼキューショナー]を髣髴とさせる。先程、カノンの腕を掠めたのもこれだろう。
―――冗談じゃないわよッ!
「うぉあああぁあぁあぁあぁッ!!」
「ッ!」
正面からの爪撃を何とか受け流し、隙だらけになった背へ斬撃を叩き込む。子供に刃を向けるのは気が進むものではないがこんな相手にそんな甘いことは言っていられない。
到底、避けられない間合い。が、
ぎんッ!!
「なッ!?」
無理な体勢から少年はなんと、カノンの剣の柄を後ろ蹴りで蹴飛ばした。既に人間技ではないが、さすがに威力はなく、カノンは飛ばされそうになる剣を握り直す。
が、その拍子に一瞬、動きが止まる。
ざしゅッ!!
「―――づあッ!?」
足を軸に反転した少年の爪がカノンの肩口を切り裂いた。焼け付くような痛みが身体を打ち付ける。
普通の人間ならショック死していたかもしれない。
それでもカノンは足に力を込めてその場を飛び退いた。
「う、くッ……」
膝を付きたくなるような痛みが左の肩を襲っている。だらだらと腕を伝う温い雫が痛みに現実味を突きつける。その場で気絶してしまいそうな激痛。
―――まずいな、こりゃ……
骨を痛めたか、左の腕がまったく動かない。
目の前の少年が爪に残った血液を五月蝿そうに払って、至極、詰まらなさそうに唇を尖らせる。
「なんだ……やる、って言ってたのに大したことないじゃん」
「……」
カノンは無言で刃を払った。
苦痛に歪む表情を繕いながら顔を上げる。
―――これは……ちょっと、引くしかないか……。
圧し掛かるような重い痛みが判断力を奪う。このまま刃を振るったところで、戦いが長引けば長引くほど最悪な想像が広がっていく。
幸いこの少年、信じ難い身体能力の持ち主だが戦い方のムラは隠せていない。要するに大雑把で隙が多いのだ。
その隙を突けば、痛みのハンデがあっても戦線離脱程度のことは出来るはず。
じりッ、とカノンは右足を下がらせる。
「逃げんなよッ!」
それに気がついた少年が跳んだ。カノンは左腕を庇いながら体勢を低く構える。少年は爪を振りかざし、首を抉ろうと切り込んで来る。
カノンは逆に一歩踏み出して右手の刃を振るった。
銀の煌きに、少年が爪の起動を逸らす。その一瞬の隙に、カノンは大きく後ろへ跳んだ。
少年が舌打ちをする。少年は前のめりに倒れていくような、不安定な体勢だ。さすがにここからでは立て直しがなくては動けまい。
そのわずかな合間にカノンは踵を返そうと、
「よっとッ!!」
「―――ッ!?」
少年は重力に任せるまま、石畳に右の手の平を着いた。その状態で勢いを殺さずに、腕のばねだけで前方に跳ぶ。
普通なら、そのまま石畳に突っ込んで終わりだ。だが、
ばさッ!!!
「な―――ッ!?」
少年の背に。
唐突に浅黒い緑色の翼が広がった。蝙蝠のそれを思わせる二翼は風に弄られて広がって、少年の身体を持ち上げる。
―――半竜人ッ!? いや、まさか無茶苦茶なッ!?
「おらあぁぁああぁああぁあッ!!」
「―――ッ!」
握り締めた左の拳がカノンに迫る。何とか身を捻る、が拍子の悪い体勢にそれだけでは足りず、
がごッ!!
「―――ッ!」
苦痛の悲鳴が喉元に持ち上がって、あまりの鈍痛に逆に消え失せる。
少年の拳がカノンの右肩を石畳に縫い止めていた。重い馬鹿力の拳と固い石畳に挟まれた脆い骨は悲鳴を上げて妙な音を立てた。からん、と乾いた声を残して剣が手の平から滑り落ちる。
鈍痛が肩から全身を駆け抜けて脳天まで突き上げる。
その痛みに呻きさえ漏らすことが出来ない。
それでも耐性の出来た身体は意識を手放すことは許さずに、はっとしてカノンは足に力を込めて無理矢理身を起こし、体当たりで少年を突き飛ばす。
だが、少年は突き飛ばされるより前にわずかに身を引いて鋭い蹴りを放っていた。
―――しまッ……
避けられるはずもない。
どがッ!! ちりん。
―――が、ぁ……ッ
吐き出した胃液に血が混じっていた。みぞおちを直撃した一撃は、そのままカノンの身体を吹き飛ばし、近くの民家の壁へ彼女の体を激突させる。
何故か耳元で、わずかな金属音が鳴った気がした。
咄嗟に取った受身のおかげで何とか内臓は守れたようだが、口の中を切ってしまった。
叩きつけられた全身がずきずきと、体全体にひびが入っていくような錯覚に囚われる。
咳き込みながら何とか顔を上げる。不自然に薄笑いを浮かべた少年が、爪を歪めて近づいて来る。
低い、笑いが漏れた。
「言っただろ、殺してやるってッ!!!」
「ッ!」
振りあがる爪に、奥歯を噛み締める。動かない身体を圧倒的な痛みに堪えながら交わそうと……
「……やり過ぎだよ、エノ」
静かな。
熱の上がったその場に不釣合いな、全てを凍りつかせるような、冷ややかな声が降りた。
少年の顔から血の気が引いていく。はっ、として顔を上げ、慌てたように周囲を見回す。
黒々と佇む町並みの、一つの屋根の上に、その影は腰掛けていた。靡く黒の暗幕に、少年が息を飲んで萎縮する。
"彼"はしばらく無言だった。
やがて少年を見下ろすのを止め、身体の動かせない少女を見やって息を吐く。
「誰もそこまでやれ、とは指示を出していないよ?」
「だ、だってよッ……」
「エノ」
少年の名前だろうか。有無を言わさぬ響きを孕んで、心なしか怒りさえ漂わせながら"彼"は何かの宣告のように告げる。
威圧か、身体に走る得体の知れない恐怖にか、少年はそれ以上何も言うことが出来ずに項垂れる。きりきりと歯を鳴らし、凄まじい形相でこちらを睨んでから翼を広げた。
「わぁったよ! ここまでにしとくよッ! それでいいんだろッ!
けどオマエッ! 次は絶対に殺すからなッ!!!」
少年はびっ、と指を差してこちらを威嚇してから背を向ける。
そのとき。
「エノッ!」
安穏と見守っていた"彼"から激が飛んだ。声に少年が振り返るより先に、黒衣の影から白い符が放たれて、少年の背で軽く爆縮する。
「な、なんだ……ッ!」
「ちッ」
とん、と軽く石畳を蹴る音。
薄い煙を刃で払って、少年の背に斬り込もうとしていた男はカノンを庇うようにして剣を持ち上げる。
―――レン……
背を向ける青い背中が、何かどうしようもなく悔しかった。結局、彼の言う通りになってしまった。
「……引くよ、エノ」
「いいのかよッ」
「エノ」
「―――ッ!」
容赦のない、一方的な宣言に少年は唇を噛みながらも後退る。そのまま翼を広げて屋根まで逃れ、暗闇に溶けるように消える影を追って飛び去った。
レンは追わない。
完全に気配が消えたことを確認してから剣を収める。
がくり、と力が抜ける。壁からずるり、と身体が落ちて石畳へ情けなくも横たわった。
踵を返して振り返ったレンの表情が、珍しくも変わる。……そんなに、まずいなりをしていたのだろうか。彼の血相が変わる様を久しぶりに見た。
何かを口にしている。何度も。必死の形相で。
あれは……ああ、そうか、自分の名前だ。でもそれも聞こえないくらい眠かった。
抱き上げられた体に、何故か痛みは走らなかった。
―――あ
霞がかった視界に、石畳に散った血液と投げ出された何かきらきら光るもの。
あれは、……そうか、鎖だ。蹴り飛ばされた瞬間に、首にかけていたネックレスの鎖がはじけ飛んだのか。
側に落ちているだろうリングを探そうにもまともに首も動かない。
ない。
―――っ、うっく……
悔しさと、得体の知れない苦い感情が体の中を渦巻いた。目の端に熱い何かが込み上げる。
体が熱い。圧倒的な喪失感が喉元まで吐き気を上らせる。
抱え上げた彼女にはっきりした反応がないことを不安に思ったのか、レンが立ち上がる。その空に浮かぶ感覚を最後に、カノンの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
←1へ
湿った髪を乱暴に掻き回しながら、ベッドに腰掛け、タオルを放り投げてそのまま横たわる。放り投げたタオルは狙い通りに側の椅子にかかって項垂れた。
はぁ、と吐き出した溜め息は夜の静寂に遮られて消える。
ちらり、と隣を見やると同室の彼女は既に可愛らしい寝息を立てていた。悩みを突きつけてくれた張本人のくせに呑気な。
―――……いや、まあ自分のことなんだから呑気も何もないんだけど……
「結婚、ねぇ……」
考えたこともなかった、というのが正直なところだ。そもそもこの五年間、色恋沙汰自体、疎遠だったと思われる。
……いや、だったというかそんなものを考えられるほどの暇はなかった、と言った方が正しいのか。確かにカノンに対して恋情を抱く者はアルティオを始め、ゼロではなかった。
もう随分前の、グリドリードで出会ったセルリアなど、なかなか大胆な真似をしてくれた。今頃、どこで何をしているだろうか。あまり心配はしていないけれど。
―――って、いかんいかん。
思考が逸れる。
結論から言えば考えても無駄なのだ。自分の周りにはあまりにも男の影がなさ過ぎる……いや、意図的に遠ざけ過ぎたというべきか。
そんな状態で生産的な答えがぱっ、と見つかるわけもない。
……それとも、今、接している男共のことを改めろとでも言うのだろうか。
確かにアルティオの周囲お構いなしの求愛には子供の頃からうんざりしている。だが、うんざりするの一言で切り捨てるにはもう子供ではいられない。
迷惑極まりない求愛の仕方だが、あれほど長く続いているのだから彼の気持ちはきっと嘘でも偽りでもないのだろう。そのこと自体に悪い気はしない。あれはあれでいいところもあるし、人情家で周囲さえ見ていればそれなりに好人物である。
今朝方、顔がどうのこうのでからかわれていたが、そう言われるほど醜悪な顔をしているわけでもない。むしろレンより愛嬌がある分、解りやすくていいというのがカノンの評価だった。
今までの人生の半分以上を剣技に費やしてきた自分やレンに比べたら劣るだろうが、あれでもいっぱしの双剣士だ。……つまりは実は取り立てて駄目な男というわけでもないのである。
「んー……」
じゃあ、何故その男の求愛を受ける気にならないのだろう。
―――簡単に言えば……好き、じゃないんだろうなぁ……
勿論、人間的な意味ではなく、伴侶や恋人として考えた場合である。一般的なものの見方なんて知らないが、少なくともカノンは彼とそういう仲になろうとは思っていないのだ。
……今のところはの話だけれど。
顔を横に向けた拍子にサイドテーブルに置いてあったネックレスが目に入った。手を伸ばし、何とはなしに拾い上げる。
第三政団に革命をもたらし、死術の全消滅と共に終局を見せたわずか半年前の事件。
すべてが目まぐるしくて、その最中に通り過ぎた誕生日のことなんて当人ですら忘れていたのに。
手渡した本人はいつも通りの無表情で照れてさえなかったけれど、考えてみれば随分とらしいものを貰ったものだ。
繰り返す戦いに気が休まらなかった中で、彼なりにご褒美でもくれたつもりなのか。それとも当時の狩人仲間との別離を済ませた直後で、それなりに寂しさを感じていたカノンを励ますつもりだったのか。
はたまた狩人の任を解かれ、ただの年頃の娘となったカノンに対して、普通の女の子が持つようなものを持たせる目的だったのか。
それ自体はやつれていた心身に、心底嬉しかったけれど。
考えてみれば真意は聞けないままで、いつのまにか半年も経過していた。
―――大した真意じゃない、って言っちゃえばそうなんだろうけど……
無条件に信頼出来る人間を一人挙げろと言われたら、カノンは当然レンの名前を出すだろう。やはり苦楽を共にした五年間は重い。
―――でもそれだけなのよね……
それ以上でも以下でもない。その間に何か色めいたことがあるかというと、ルナに言った通りなわけで……。
―――まあ、あいつがあたしに感けるわけないか……
呟いた脳裏に、朝の暴言が掠める。
『どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい』
ぷちっ。
「わぁるかったわね! どーせあたしは色気も可愛げも何もないただのガキよッ!!」
叫んでしまってからはっ、と口を押さえる。慌てて傍らを見やるが、杞憂だったらしい。ルナは小さく呻いただけで、相変わらず規則正しい寝息を立てていた。
ほっ、と肩を撫で下ろしてもそもそと毛布の中に戻る。
「……って、冷静になって考えようとしてたのに何で頭に来てるのよ、あたしは……」
気分が悪い。
―――ッたく! やっぱりこんなことは考えたって無駄よッ!
白馬の王子様を夢見るシンデレラなんてちゃんちゃらおかしいが、考えても仕方のないことだ。大体、全人類が結婚しなくてはいけないなんて法律は存在しない。
―――そんなのはないけど……
ちらり、と毛布から目だけを出して深い眠りについているルナを覗き見る。彼女もいつかどこかの誰かに嫁いだりするのだろうか。そんな物好きに知り合いはいなかったと思うが。
ルナだけではない。シリアもアルティオも、レンさえも。そういった可能性は秘めているのだ。相手が誰であるにしろ。
そうなったら。
そうなったら、そのとき自分はどんな顔をしていればいいのだろうか。
―――って、ああもう……取らぬ狸の皮算用だわ。誰が誰とくっつこうとあたしには関係ないじゃないの。
いらない思考ですっかり眠気が取れてしまった。幸い、クオノリアの一件が教えた用心のために服は上着を羽織ればいつもの状態になるようにして寝転がっていた。
オレンジのコートを羽織り、ベルトを締めて帯剣を欠かさずに。
髪を束ねて外に出る。
適当に夜風にでも当たれば気分も落ち着くだろう……。
「はー……」
酒臭い階下の空気を抜けると、一転してやや冷たい夜の風が髪を弄らせる。
つい一週間ほど前は夜になっても昼間の内に溜まった熱気が夜まで冷めやらず、寝苦しい夜を送っていたのに今では風が素肌に肌寒いくらいだ。
クオノリアの風は潮の香りがしたが、ここ―――ランカース・フィルの風は緑と水の匂いが混じる。
「どっちかっていうとこっちの匂いの方が好きかな。あたしは」
海の匂いも嫌いではなかった。だがカノンは元来、どちらかというと山の方の土地の出身だ。こういった匂いには懐かしさを感じる。
―――故郷、ね。
ふとルナの言葉を思い出す。
五年前、家出同然に家を出てそれから連絡も何も取っていない。カノンの育て親である祖母のカリスは裏の社会でもいろいろと顔の効く大人物だった。その気になれば自分の居場所などすぐに知れただろうに、連れ戻そうとしなかったのは旅に出ることを許してくれたのだ、と勝手に解釈してきたが、道理に外れたことをやっているのは否定できない。
―――……まあ、許す許さないはともかく、お仕置きのフルコースは確実だろーね……
昔、受けた修行と称する半虐待の仕置きを思い出し、身を震わせる。風の温度が一、二度下がった気さえした。
さすがに冷えてきてむき出しの二の腕を摩りながら宿へ戻ろうと―――
とんっ
「……?」
かすかな物音がカノンの鼓膜を振るわせる。時刻は深夜に届くか否か。宿屋が兼任でやっている酒場の灯ももうじき消える頃で、中にいるのは完全に酔いつぶれた独り者くらいのものだ。
そんな帳に。
聞こえる音など限られている。
無意識の内に、音の方向へ目をやって、
「!!」
カノンは息を飲んだ。
宿屋の向かいに佇む家屋の屋根の上。今日の月は半月。それを背景に、
たおやかに広がる黒の影。
「あれは―――ッ」
カノンの脳裏につい二週間ほど前に見た光景が鮮やかに蘇る。そのとき"それ"は血に染められた大地に立っていた。
漏らした声に、"彼"は一瞬だけ振り返る。風で肌蹴た黒髪に、包帯に包まれた素顔に、一点だけ全てを飲み込んでしまいそうな黒耀の瞳[かがやき]。
……あんな人間が二人も三人もいるわけがない。
彼はふい、と背を向けると軽やかに屋根を飛んで通りの向こうに消えていく。
一瞬の逡巡がカノンの中を駆け巡る。即ち追うか、否か。
得策ではないと知っていた。罠である可能性を危惧しなかったわけでもない。相手は何の技を使うかどころか、本当に人間なのかさえわからないのだ。深い詮索はしないのが身のためになる。
だが、先の事件が示す、"彼"を野放しにして置く危険性と手口の残酷さと卑劣さを知っていて、尚且つ人並み程度の正義感を持ち合わせていた彼女は、その暗い背を、夜風を切りながら追っていた。
空を見上げながら駆けるのは思いの外、難しい。
しかも夜道だ。足元の確認が出来ない。知らない道を目隠しで歩かされているのと変わらない。少しでも視線を外すと夜空に浮かぶ黒い影は、溶けて消えてしまうのだ。
―――くッ……
足場は当然こちらの方が有利なはずだ。屋根と屋根とを渡り歩くなどという芸当、普通なら絶対にとは言わないが容易なことでないのは明白だ。
そのはずなのに、距離は一向に縮まらない。
「くっそ!!」
これしきで息が乱れることはないが、終わりの見えない追いかけっこに不安が過ぎる。だが、それに潰されれば負けだ。
―――ッ!
不意に影が立ち止まる。ばさッ、と纏ったコートが風に鳴る。
「ッ! 待ちなさいッ!!」
屋根から影が下りた。下りた先は狭い向こう側の路地。
迷いなく石畳を蹴る。が、
「―――ッ!? いない……」
思わず呟く。
だが、その背後に。
「ッ!」
耳元で風が唸った。鍛え上げた神経が自然に身体を右側へと持っていく。
ちりッ、とした痛みが左腕に走った。
―――掠ったッ!?
顔を上げるよりも先に後ろ飛びに路地を逃れる。狭い場所を舞台にすることほど愚かなことはない。
左の腕に赤い線が走り、血が滲み出ていた。それに舌打ちしながら剣を抜く。
「ちぇ、はずしたか」
トーンの高い、少年の声が響いた。あの黒衣の少年のものではない。どちらかというと荒っぽい、粗暴な印象を受けるアルト。
視線を上げて目に入ったのは、
「――― 子供ッ?」
「子供じゃねぇよッ!!」
思わず口にすると倍以上のボリュームで怒鳴られた。
夜闇に浮かび上がった輪郭は、カノンよりも背が低い……年の頃なら十三、四の少年。
猫背に構えた姿で余計に低く感じる。
薄炎色の跳ねた髪、曝された肌は月明かりのせいで白く見えるが、その実やや焼けているのが伺えた。簡易的な服を纏っているが、肩掛けにかけた布だけがしっとりとした上質な光を返している。
紫がかった瞳はややつり目でひたすらな闘争心だけがその色を支配している。
「ンなこと言ったって……」
「ガキっていう方がガキだッ!」
―――小学生か、あんたは……
頭が痛くなってきた。
「ムッカつく! 殺すな、って言われてたけどお前、殺すッ!」
「ち、ちょっとッ!?」
問答無用もいいところだ。物騒な言葉を吐いて石畳を蹴る少年。
―――ッ!!
カノンの表情が引き攣った。反射的に左へ避ける。すぐさま、耳の脇を風が唸って過ぎた。
「ちッ!」
少年の舌打ちが聞こえる。筋肉質な二の腕を引いて、少年は間合いを取り直す。
カノンの頬を冷たい汗が伝う。
―――この子……速いッ!
攻撃は単調だが、ひたすら速い。動き自体はカノンの目でも追いきれない。動揺が彼女を襲う。
―――くッ!
背を向けるのは自殺行為だ。抜き放った剣を構え、迎撃態勢を取る。
ひゅんッ!
「ッ?」
カノンの目の前で少年の右の爪が伸びる。醜悪な曲線を描くそれは、さながら斬首刀[エクゼキューショナー]を髣髴とさせる。先程、カノンの腕を掠めたのもこれだろう。
―――冗談じゃないわよッ!
「うぉあああぁあぁあぁあぁッ!!」
「ッ!」
正面からの爪撃を何とか受け流し、隙だらけになった背へ斬撃を叩き込む。子供に刃を向けるのは気が進むものではないがこんな相手にそんな甘いことは言っていられない。
到底、避けられない間合い。が、
ぎんッ!!
「なッ!?」
無理な体勢から少年はなんと、カノンの剣の柄を後ろ蹴りで蹴飛ばした。既に人間技ではないが、さすがに威力はなく、カノンは飛ばされそうになる剣を握り直す。
が、その拍子に一瞬、動きが止まる。
ざしゅッ!!
「―――づあッ!?」
足を軸に反転した少年の爪がカノンの肩口を切り裂いた。焼け付くような痛みが身体を打ち付ける。
普通の人間ならショック死していたかもしれない。
それでもカノンは足に力を込めてその場を飛び退いた。
「う、くッ……」
膝を付きたくなるような痛みが左の肩を襲っている。だらだらと腕を伝う温い雫が痛みに現実味を突きつける。その場で気絶してしまいそうな激痛。
―――まずいな、こりゃ……
骨を痛めたか、左の腕がまったく動かない。
目の前の少年が爪に残った血液を五月蝿そうに払って、至極、詰まらなさそうに唇を尖らせる。
「なんだ……やる、って言ってたのに大したことないじゃん」
「……」
カノンは無言で刃を払った。
苦痛に歪む表情を繕いながら顔を上げる。
―――これは……ちょっと、引くしかないか……。
圧し掛かるような重い痛みが判断力を奪う。このまま刃を振るったところで、戦いが長引けば長引くほど最悪な想像が広がっていく。
幸いこの少年、信じ難い身体能力の持ち主だが戦い方のムラは隠せていない。要するに大雑把で隙が多いのだ。
その隙を突けば、痛みのハンデがあっても戦線離脱程度のことは出来るはず。
じりッ、とカノンは右足を下がらせる。
「逃げんなよッ!」
それに気がついた少年が跳んだ。カノンは左腕を庇いながら体勢を低く構える。少年は爪を振りかざし、首を抉ろうと切り込んで来る。
カノンは逆に一歩踏み出して右手の刃を振るった。
銀の煌きに、少年が爪の起動を逸らす。その一瞬の隙に、カノンは大きく後ろへ跳んだ。
少年が舌打ちをする。少年は前のめりに倒れていくような、不安定な体勢だ。さすがにここからでは立て直しがなくては動けまい。
そのわずかな合間にカノンは踵を返そうと、
「よっとッ!!」
「―――ッ!?」
少年は重力に任せるまま、石畳に右の手の平を着いた。その状態で勢いを殺さずに、腕のばねだけで前方に跳ぶ。
普通なら、そのまま石畳に突っ込んで終わりだ。だが、
ばさッ!!!
「な―――ッ!?」
少年の背に。
唐突に浅黒い緑色の翼が広がった。蝙蝠のそれを思わせる二翼は風に弄られて広がって、少年の身体を持ち上げる。
―――半竜人ッ!? いや、まさか無茶苦茶なッ!?
「おらあぁぁああぁああぁあッ!!」
「―――ッ!」
握り締めた左の拳がカノンに迫る。何とか身を捻る、が拍子の悪い体勢にそれだけでは足りず、
がごッ!!
「―――ッ!」
苦痛の悲鳴が喉元に持ち上がって、あまりの鈍痛に逆に消え失せる。
少年の拳がカノンの右肩を石畳に縫い止めていた。重い馬鹿力の拳と固い石畳に挟まれた脆い骨は悲鳴を上げて妙な音を立てた。からん、と乾いた声を残して剣が手の平から滑り落ちる。
鈍痛が肩から全身を駆け抜けて脳天まで突き上げる。
その痛みに呻きさえ漏らすことが出来ない。
それでも耐性の出来た身体は意識を手放すことは許さずに、はっとしてカノンは足に力を込めて無理矢理身を起こし、体当たりで少年を突き飛ばす。
だが、少年は突き飛ばされるより前にわずかに身を引いて鋭い蹴りを放っていた。
―――しまッ……
避けられるはずもない。
どがッ!! ちりん。
―――が、ぁ……ッ
吐き出した胃液に血が混じっていた。みぞおちを直撃した一撃は、そのままカノンの身体を吹き飛ばし、近くの民家の壁へ彼女の体を激突させる。
何故か耳元で、わずかな金属音が鳴った気がした。
咄嗟に取った受身のおかげで何とか内臓は守れたようだが、口の中を切ってしまった。
叩きつけられた全身がずきずきと、体全体にひびが入っていくような錯覚に囚われる。
咳き込みながら何とか顔を上げる。不自然に薄笑いを浮かべた少年が、爪を歪めて近づいて来る。
低い、笑いが漏れた。
「言っただろ、殺してやるってッ!!!」
「ッ!」
振りあがる爪に、奥歯を噛み締める。動かない身体を圧倒的な痛みに堪えながら交わそうと……
「……やり過ぎだよ、エノ」
静かな。
熱の上がったその場に不釣合いな、全てを凍りつかせるような、冷ややかな声が降りた。
少年の顔から血の気が引いていく。はっ、として顔を上げ、慌てたように周囲を見回す。
黒々と佇む町並みの、一つの屋根の上に、その影は腰掛けていた。靡く黒の暗幕に、少年が息を飲んで萎縮する。
"彼"はしばらく無言だった。
やがて少年を見下ろすのを止め、身体の動かせない少女を見やって息を吐く。
「誰もそこまでやれ、とは指示を出していないよ?」
「だ、だってよッ……」
「エノ」
少年の名前だろうか。有無を言わさぬ響きを孕んで、心なしか怒りさえ漂わせながら"彼"は何かの宣告のように告げる。
威圧か、身体に走る得体の知れない恐怖にか、少年はそれ以上何も言うことが出来ずに項垂れる。きりきりと歯を鳴らし、凄まじい形相でこちらを睨んでから翼を広げた。
「わぁったよ! ここまでにしとくよッ! それでいいんだろッ!
けどオマエッ! 次は絶対に殺すからなッ!!!」
少年はびっ、と指を差してこちらを威嚇してから背を向ける。
そのとき。
「エノッ!」
安穏と見守っていた"彼"から激が飛んだ。声に少年が振り返るより先に、黒衣の影から白い符が放たれて、少年の背で軽く爆縮する。
「な、なんだ……ッ!」
「ちッ」
とん、と軽く石畳を蹴る音。
薄い煙を刃で払って、少年の背に斬り込もうとしていた男はカノンを庇うようにして剣を持ち上げる。
―――レン……
背を向ける青い背中が、何かどうしようもなく悔しかった。結局、彼の言う通りになってしまった。
「……引くよ、エノ」
「いいのかよッ」
「エノ」
「―――ッ!」
容赦のない、一方的な宣言に少年は唇を噛みながらも後退る。そのまま翼を広げて屋根まで逃れ、暗闇に溶けるように消える影を追って飛び去った。
レンは追わない。
完全に気配が消えたことを確認してから剣を収める。
がくり、と力が抜ける。壁からずるり、と身体が落ちて石畳へ情けなくも横たわった。
踵を返して振り返ったレンの表情が、珍しくも変わる。……そんなに、まずいなりをしていたのだろうか。彼の血相が変わる様を久しぶりに見た。
何かを口にしている。何度も。必死の形相で。
あれは……ああ、そうか、自分の名前だ。でもそれも聞こえないくらい眠かった。
抱き上げられた体に、何故か痛みは走らなかった。
―――あ
霞がかった視界に、石畳に散った血液と投げ出された何かきらきら光るもの。
あれは、……そうか、鎖だ。蹴り飛ばされた瞬間に、首にかけていたネックレスの鎖がはじけ飛んだのか。
側に落ちているだろうリングを探そうにもまともに首も動かない。
ない。
―――っ、うっく……
悔しさと、得体の知れない苦い感情が体の中を渦巻いた。目の端に熱い何かが込み上げる。
体が熱い。圧倒的な喪失感が喉元まで吐き気を上らせる。
抱え上げた彼女にはっきりした反応がないことを不安に思ったのか、レンが立ち上がる。その空に浮かぶ感覚を最後に、カノンの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
←1へ
―――毎度毎度のことながら。
ばたんッ!! がろごろ、がたん、ごろッ! どすんッ!!!
「……」
爽やかなはずの朝の一時に響き渡る不快な騒音。カウンターの向こうの厨房で、フライパンを握ったままびっくりして顔を上げる宿屋の主人、驚いて視線を階段下に投げる他の客たち。
対して、
「またか……」
「はぁ……」
「よっく続くわねー、どうも」
カノン、ルナ、アルティオの計三名の反応は極々冷めていた。
階段を転げ落ち、ぴくぴくと痙攣したままのソレを追うように、極静かにぱたん、とドアの音。階段をゆっくりと下る音が聞こえて、ばさり、と青のマントを翻して彼は階下に降りた。
まだ復活できていないソレを視界の端に捕らえ、短く鼻を鳴らすと何事もなかったかのようにテーブルに着く。
「……おはよ」
「お早う」
「で、今朝は何だったの?」
―――何故、微妙に楽しそうか、ルナ。
「……勝手に人のベッドに入ろうとしたからな」
「何だ、いつもじゃん」
――― 一応、いつもあっちゃいけない内容なんだけどね。
突っ込む気も起きなくて心の中だけで悪態を吐く。そうこうしているうちに、階段下で蹲っていた物体が、もぞもぞと動いて、不意にばっ、と身を起こす。
脅えて引く他の客。
ソレは乱れた髪を掻き揚げてかつん、と一つヒールを鳴らしてから何の演出なのか豊満な胸を揺らしながらやたら優雅に歩き、テーブルに着く。
「ふっ、今日もなかなかに痛かったわ」
「じゃあ、やめりゃあいいじゃん」
「わかってないわね。これは照れ隠しの愛のムチに決まってるじゃない。ねぇ、レンv」
「とりあえずコーヒーを頼む。苦めでな」
「うわ、完全に無視したッ!?」
回を追うごとにさらに冷めてきているような感さえ受ける。
「ったくまあ、よく続くわねー……」
しれっとした表情で運ばれてきたコーヒーを口に運ぶレン。呆れた声で吐き出して、傍らの親友に話を振ろうとしたルナは、ふと言葉を止める。
諦めずに果敢に件の無表情に絡むシリアに対し。
彼女はただ憮然とした表情で目玉焼きを突付いていた。
ルナはそのまま何も言わずに、ただ肩を竦め、呆れ果てたような息を一つ、吐いたのだった。
Death Player Hunterカノン
―剣奉る巫女―
「っていうかさー、思うけどアルティオはそういうのしないよね」
一通りの朝食が終わり、各々デザートと食後の飲み物を堪能していると、不意にルナがそんな話題を振ってくる。
「何が?」
「いや、だから何? アタックとは名ばかりの変態紛いの犯罪ストーカー行為?」
「……いや、まあ、否定はしないけど」
―――下手なこと言って本当にされても困るし。
心の中だけで付け足して置く。だが反してアルティオは掻き揚げるだけの髪の長さもないくせに、格好だけは付けながら、
「俺みたいな紳士がそんなことするはずないだろう?」
「……本当の紳士はほんの少し褒めたくらいで図に乗って教会に拉致しようとしたりしないけどね」
ジト目で睨んでやると、頬に一筋の汗。聞こえよがしに溜め息を吐いてやる。
「ってかさ、あんた、カノンが狙いなら何でそこら辺でナンパばっかしてんのよ? それじゃ振り向くも何もないと思うけど。ねえ?」
「いや、あたしに振られても困る」
思わず本音が漏れた。
アルティオは何やら難しい顔で腕を組み、唸りつつ、
「しかしな、可愛い子がいたら衝動的に声をかけたくなる。それが男の本能というものだろう?なあ?」
「……変な趣味と思われても嫌だから否定はしないが、その衝動を堪えるのが人間であることの証明だろう?」
「って、人間否定かよおいッ!! 酷ッ!!」
同性に振って逆に涙する。まあ、レンに振ること自体が選択の間違いだ。
「くぅ、ここに俺の味方はいないのかッ!」
「今さら気づいたんかい」
「これだから世論はよぉ……男に冷たいよなぁ」
「いや、世論て」
「考えてもみろッ! シリアだからまだ笑い話で済むが、同じことを俺がカノンにやったら通報されても文句は言えまい!? ただの変態の犯罪者だ!」
「いや、どっちにしろ変態だし、じゅーぶん通報していい気がするけど」
「他にもだ! 例えば女性が間違って男子トイレに入ったとしても『きゃあ、すみません』の一言なのに男が女子トイレに入ってみろ! 瞬く間に誹謗中傷の嵐だぞッ!?」
「ンなえげつない話を大声ですなッ!!」
どがしゃあんッ!!!
立ち上がってまで力説するアルティオの後頭部に、カノンの肘がのめり込んでテーブルへ沈めた。顔面から激突したテーブルにひびが入る。
……他の客の注目を浴びるのは覚悟の上なのだが、その中にうんうんと涙ながらに頷いている男共がいるのはどういうことなのか……。
―――男って……
「いって、何するんだよカノン……」
「……石頭ね」
あっさり起き上がったアルティオに、呆れた溜め息を吐く。
「まー、アルティオは頑丈さだけが取り柄だからねー」
「……お前らなぁ」
「いや、事実だし」
「頑丈さが取り柄っていうけどな! じゃあ、アレの取り柄は何だってんだ!? ってか、俺とどう差があるってんだッ!?」
「……逆にどうしてお前と同列に並べられなくてはならんのか、説明が欲しいところだな」
立ち上がり様に指を差された本人が、憮然として吐く。身を乗り出して両者を見比べたルナが無残に一言。
「……顔?」
「うわぶっちゃけたッ!」
「それ言ったらお終いだろッ!!」
「そーよ! もともとレンをそこら辺の凡愚と一緒にすること自体が誤りというものではなくてッ!?」
「当たり前よッ、そんな一般の善良な市民に死ぬほど失礼なことするわけないじゃないッ!」
「オイ……」
さらりと対抗するように吐いたカノンの暴言に、多少の怒りを滲ませてレンが呟いた。
「何よ、文句ある?」
「山程ある」
「だぁって、毒は吐くわ意地は悪いわ、逆に言ったらいいの顔だけじゃない」
「ほほう、どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい」
「誰が所構わずことを起こしてんのよ! あたしは時と場所は選んでるッ!」
「……この間、一人で突っ走って、結果捕まったのは誰だ?」
「うぐッ!」
「語るに落ちたわねカノン! 所詮は子供ということかしら? これを機に自分の軽率な行動を反省したらいいわ。アルティオもこんなお子様に感けてないでもっといい子を見つけなさいな、おーほっほっほっほ!!」
「って、あんたにだけは言われたくないのよッ!!!」
ズガンッ!!!
衝動的に放ったカノンの後ろ回し蹴りは狙い外さず、シリアの側頭部を打ちつけ、標的を完全に沈黙させたのだった。
「ったく、少しは自重しろってのよ、ああ腹立つッ!」
「……何が?」
その日の宿を決めたのが大きな町だったのが幸いだった。久々の大浴場というものが備わったやや高い宿の更衣室で、カノンは思い切りバスタオルを床に打ち付ける。
時間がずれていたため、他の客は少ない。
やたらとささくれ立っている親友に、長い髪を纏めていたルナが問いかける。
「シリアに決まってんでしょ! 何であいつが馬鹿なことやらかす度にあたしたちまで周りの注目浴びなきゃいけないのよ!?」
「いや、まあ、階段上から蹴り落としたのはレンだけど。
今更じゃないの、何そんな憤慨してんの」
怒りに拳を握りながら胸を張り、ルナへ指を突きつける。ルナといえば突き出された発育のいい胸に少々殺意を抱きながら罵詈雑言を迎え撃つため腕を組む。
「別に他人の色恋沙汰に口を出す気はないけどね! 何ていうか、もっと周囲の迷惑考えろっていうかッ!! あの顔面鉄鋼無神経デリカシー無さ男に、どうしてそこまで必死になれるのか頭の中身見てみたいなとか思うけど、」
「滅茶苦茶口出ししてるじゃない」
「大体にしてレンもレンよ! その気がないならもっとばしっ、と言ってやればいいじゃない!
あと、人前でくっつくなとか注意するとかッ!!」
「いやアレは相当嫌がってると思うけど。少なくとも普通の男、いくらその気がないからって階段から突き落とさんだろーし。
っていうか、言ったくらいで治るようならとっくに治ってるでしょーが」
「う゛ー……」
納得のいかない表情で頬を膨らませる彼女に、ルナの中にちょっとした悪戯心が生まれる。宥めるように怒らせた肩を下ろさせて、わざと声を弾ませながら、
「まあ、そう言うなら仕方ない。手っ取り早い方法もあるにはあるけどねー」
「何よ? 永久に眠ってもらうとか?」
「ンな物騒な真似しないわよ。つまりさ、シリアが絡んでレンが過激に諫めるから注目を浴びるんであって、それがなけりゃいらん注目も浴びない。そうでしょ?」
「まあ……シリアの言動と格好でも十分注目浴びてる気がするけど。けど、どうやって止めるのよ、そんなもん」
「簡単よ。ごたごたが無ければいいんだから、レンとシリア、くっつけちゃえば?」
「…………はぁッ!?」
―――またとんでもないこと言い出したぞ、この女……
カノンが浮かべたしかめっ面がそう語っている。
「どんな妄言よ、それは……」
「筋は通ってない?」
「通ってないわよ! 第一、どうやってそんなことやるつもりなのッ?」
「いや、惚れ薬でも作っちゃえば」
「って、それだけはやめろッ!!」
ごがんッ!
鈍い音が脱衣所に響く。肘を喰らった頭のてっぺんを押さえながら、ルナが涙目になってカノンを見上げる。
「痛いわ、カノンちゃん」
「縁起でもないこと言うからよ!」
「縁起の問題なわけ……? ってか、別に薬に頼らなくてもシリア支援してやればいいだけの話じゃない。あんた、目の敵にされなくなるだろーし」
「それだけは何かヤダ」
「いや、あたしも精神的には非常に嫌だけど」
後頭部を摩りながら彼女は立ち上がって短く溜め息を吐いた。
「まあ、あれよ。それはそれとしてあんたもそろそろ自分のこと考えて然るべきじゃないの?」
「どういう意味よ?」
「いやさ、十九って言ったらもう世間様では結婚適齢期よ。まあ、それでなくたって浮ついた話の一つや二つ、あっておかしくない年齢だし」
「う゛……」
「カリスお祖母さまも心配してるんじゃないの? 狩人引退してから……つーか、旅に出てから一回も帰ってないでしょ」
「あ、あの人の話はやめて……、お願いだから……」
叩き付けたはずのバスタオルにくるまって、小動物のように縮まるカノン。
「あんた……まだ治ってないわけ、お祖母様恐怖症」
「治るわけないでしょ!! あの人に比べたら鬼やら魔族やらなんて赤子のようなもんよッ!!」
「……まあ、それはともかく。あんたもいつまでもぶらぶらしてないで、ちょっとはそーゆーこと考えたらどう、ってこと」
「ンなこと言ったって、あんたやシリアの方が年上じゃないのよ……」
「シリアはああだし、あたしはこれでも有名魔道師一家の娘だからいろいろあるわよ。
けどねぇ……」
ルナの視線が急にじっとりとしたものに変わる。その視線に曝されたカノンはその意味が解らずに一歩後退った。
「健全な年頃の男と女が二人で何年も旅してて、未だに何も無いなんて何つーか問題だなぁ、って」
「なッ、何でそういう話になるのよ!? おかしくないじゃない!?」
「そういう話にしかならないし! ってかおかしいし! あんたたち、本ッ当に何もないわけッ!?」
「ないってば、しつこいわねッ! 大体、幼馴染で旅してたって何も不思議じゃないでしょ! シリアとアルティオだってそうだし!」
「あれらはただの同類よッ! そーゆー微笑ましい言い訳が許されるのは頑張って十三くらいまでよッ!!」
「ンなこと言ったって……、何もないんだから仕方ないじゃない……」
まくし立てるルナに唇を尖らせる。
唐突にやたらと大人しくなるカノンに、ルナも威勢を失って罰が悪そうに頭を掻きながら、
「あー、まあ別に責めてるわけじゃなくって。いや、責めまくってた気もするけど。
カリスのお祖母様じゃないけど、これでもあたしだって一応は心配してるのよ? 年頃の娘が仕事を引退してからもずっと当ても無い旅なんて。それもいくら幼馴染とはいえ、異性とじゃね。
普通の親なら親としても、世間体に関しても、心配して当然よ」
「う゛っ……け、けど」
「別にカリスさんだってレンを信用してないわけじゃないでしょ。だから今まで放置してくれてんだろーし。ただ、もーちょっとそういうこと考えても罰は当たんないんじゃない、ってこと」
「……う、うう」
至極当然な反論をされて、カノンが言い澱む。主体的にはともかく、ルナが言っているのはあくまで一般常識なのである。更なる反論の術があるわけがない。
「ど、努力はします……」
「それでよし」
「けど今日はやけにつっかかるわね……どうしてよ?」
「別に? ただ……」
「な、何?」
再び舐めるような視線がカノンを襲う。相手が相手なので嫌悪感は無いが、不快感は否めない。彼女の視線はしばし彷徨ったあと、傍らの服がたたまれた籠の中で止まる。
正確にはたたまれた衣服の上に丁寧に置かれた繊細な造りの首飾り[ネックレス]に。
シルバーのリングが通された極シンプルなもので、飾りとしておざなり程度に小さな青い石が埋め込まれたベルが一緒に通されている。
年頃の娘が着飾るためにつけるには些か地味で、物足りない感はあるが趣味は悪くない。
「いやッ、あの、これは別に……ッ」
「どこの誰にもらったんだか知らないけど羨ましいわねーv
ついでに今日、朝方見当たらなくてかーなり焦ってたのは見物だったわーv」
「って、今日のはあんたのせいかッ!」
「失礼ね、ただたまたま見慣れないものがあったんで、興味本位で別の場所に隠して反応を見てみたかっただけよ」
「失礼なのはあんただッ!!
あー、もう一瞬でも真面目にあんたの言うことを聞いてたあたしが馬鹿だったわッ!!
さっさと入って上がるわよッ!!」
「はいはい」
怒鳴りつけて浴場へ向かうカノンの後を、ルナは小さく舌を出して追う。ふと足を止め、頭につけた羽飾りを外していないことに気がついた。
絡まった髪を外して籠の中の衣服の上に、赤石のそれを置く。
「……」
一瞬だけ、自嘲染みた笑いを漏らし、彼女は今度こそカノンの後を追った。
←STORY1 Finalへ
ばたんッ!! がろごろ、がたん、ごろッ! どすんッ!!!
「……」
爽やかなはずの朝の一時に響き渡る不快な騒音。カウンターの向こうの厨房で、フライパンを握ったままびっくりして顔を上げる宿屋の主人、驚いて視線を階段下に投げる他の客たち。
対して、
「またか……」
「はぁ……」
「よっく続くわねー、どうも」
カノン、ルナ、アルティオの計三名の反応は極々冷めていた。
階段を転げ落ち、ぴくぴくと痙攣したままのソレを追うように、極静かにぱたん、とドアの音。階段をゆっくりと下る音が聞こえて、ばさり、と青のマントを翻して彼は階下に降りた。
まだ復活できていないソレを視界の端に捕らえ、短く鼻を鳴らすと何事もなかったかのようにテーブルに着く。
「……おはよ」
「お早う」
「で、今朝は何だったの?」
―――何故、微妙に楽しそうか、ルナ。
「……勝手に人のベッドに入ろうとしたからな」
「何だ、いつもじゃん」
――― 一応、いつもあっちゃいけない内容なんだけどね。
突っ込む気も起きなくて心の中だけで悪態を吐く。そうこうしているうちに、階段下で蹲っていた物体が、もぞもぞと動いて、不意にばっ、と身を起こす。
脅えて引く他の客。
ソレは乱れた髪を掻き揚げてかつん、と一つヒールを鳴らしてから何の演出なのか豊満な胸を揺らしながらやたら優雅に歩き、テーブルに着く。
「ふっ、今日もなかなかに痛かったわ」
「じゃあ、やめりゃあいいじゃん」
「わかってないわね。これは照れ隠しの愛のムチに決まってるじゃない。ねぇ、レンv」
「とりあえずコーヒーを頼む。苦めでな」
「うわ、完全に無視したッ!?」
回を追うごとにさらに冷めてきているような感さえ受ける。
「ったくまあ、よく続くわねー……」
しれっとした表情で運ばれてきたコーヒーを口に運ぶレン。呆れた声で吐き出して、傍らの親友に話を振ろうとしたルナは、ふと言葉を止める。
諦めずに果敢に件の無表情に絡むシリアに対し。
彼女はただ憮然とした表情で目玉焼きを突付いていた。
ルナはそのまま何も言わずに、ただ肩を竦め、呆れ果てたような息を一つ、吐いたのだった。
Death Player Hunterカノン
―剣奉る巫女―
「っていうかさー、思うけどアルティオはそういうのしないよね」
一通りの朝食が終わり、各々デザートと食後の飲み物を堪能していると、不意にルナがそんな話題を振ってくる。
「何が?」
「いや、だから何? アタックとは名ばかりの変態紛いの犯罪ストーカー行為?」
「……いや、まあ、否定はしないけど」
―――下手なこと言って本当にされても困るし。
心の中だけで付け足して置く。だが反してアルティオは掻き揚げるだけの髪の長さもないくせに、格好だけは付けながら、
「俺みたいな紳士がそんなことするはずないだろう?」
「……本当の紳士はほんの少し褒めたくらいで図に乗って教会に拉致しようとしたりしないけどね」
ジト目で睨んでやると、頬に一筋の汗。聞こえよがしに溜め息を吐いてやる。
「ってかさ、あんた、カノンが狙いなら何でそこら辺でナンパばっかしてんのよ? それじゃ振り向くも何もないと思うけど。ねえ?」
「いや、あたしに振られても困る」
思わず本音が漏れた。
アルティオは何やら難しい顔で腕を組み、唸りつつ、
「しかしな、可愛い子がいたら衝動的に声をかけたくなる。それが男の本能というものだろう?なあ?」
「……変な趣味と思われても嫌だから否定はしないが、その衝動を堪えるのが人間であることの証明だろう?」
「って、人間否定かよおいッ!! 酷ッ!!」
同性に振って逆に涙する。まあ、レンに振ること自体が選択の間違いだ。
「くぅ、ここに俺の味方はいないのかッ!」
「今さら気づいたんかい」
「これだから世論はよぉ……男に冷たいよなぁ」
「いや、世論て」
「考えてもみろッ! シリアだからまだ笑い話で済むが、同じことを俺がカノンにやったら通報されても文句は言えまい!? ただの変態の犯罪者だ!」
「いや、どっちにしろ変態だし、じゅーぶん通報していい気がするけど」
「他にもだ! 例えば女性が間違って男子トイレに入ったとしても『きゃあ、すみません』の一言なのに男が女子トイレに入ってみろ! 瞬く間に誹謗中傷の嵐だぞッ!?」
「ンなえげつない話を大声ですなッ!!」
どがしゃあんッ!!!
立ち上がってまで力説するアルティオの後頭部に、カノンの肘がのめり込んでテーブルへ沈めた。顔面から激突したテーブルにひびが入る。
……他の客の注目を浴びるのは覚悟の上なのだが、その中にうんうんと涙ながらに頷いている男共がいるのはどういうことなのか……。
―――男って……
「いって、何するんだよカノン……」
「……石頭ね」
あっさり起き上がったアルティオに、呆れた溜め息を吐く。
「まー、アルティオは頑丈さだけが取り柄だからねー」
「……お前らなぁ」
「いや、事実だし」
「頑丈さが取り柄っていうけどな! じゃあ、アレの取り柄は何だってんだ!? ってか、俺とどう差があるってんだッ!?」
「……逆にどうしてお前と同列に並べられなくてはならんのか、説明が欲しいところだな」
立ち上がり様に指を差された本人が、憮然として吐く。身を乗り出して両者を見比べたルナが無残に一言。
「……顔?」
「うわぶっちゃけたッ!」
「それ言ったらお終いだろッ!!」
「そーよ! もともとレンをそこら辺の凡愚と一緒にすること自体が誤りというものではなくてッ!?」
「当たり前よッ、そんな一般の善良な市民に死ぬほど失礼なことするわけないじゃないッ!」
「オイ……」
さらりと対抗するように吐いたカノンの暴言に、多少の怒りを滲ませてレンが呟いた。
「何よ、文句ある?」
「山程ある」
「だぁって、毒は吐くわ意地は悪いわ、逆に言ったらいいの顔だけじゃない」
「ほほう、どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい」
「誰が所構わずことを起こしてんのよ! あたしは時と場所は選んでるッ!」
「……この間、一人で突っ走って、結果捕まったのは誰だ?」
「うぐッ!」
「語るに落ちたわねカノン! 所詮は子供ということかしら? これを機に自分の軽率な行動を反省したらいいわ。アルティオもこんなお子様に感けてないでもっといい子を見つけなさいな、おーほっほっほっほ!!」
「って、あんたにだけは言われたくないのよッ!!!」
ズガンッ!!!
衝動的に放ったカノンの後ろ回し蹴りは狙い外さず、シリアの側頭部を打ちつけ、標的を完全に沈黙させたのだった。
「ったく、少しは自重しろってのよ、ああ腹立つッ!」
「……何が?」
その日の宿を決めたのが大きな町だったのが幸いだった。久々の大浴場というものが備わったやや高い宿の更衣室で、カノンは思い切りバスタオルを床に打ち付ける。
時間がずれていたため、他の客は少ない。
やたらとささくれ立っている親友に、長い髪を纏めていたルナが問いかける。
「シリアに決まってんでしょ! 何であいつが馬鹿なことやらかす度にあたしたちまで周りの注目浴びなきゃいけないのよ!?」
「いや、まあ、階段上から蹴り落としたのはレンだけど。
今更じゃないの、何そんな憤慨してんの」
怒りに拳を握りながら胸を張り、ルナへ指を突きつける。ルナといえば突き出された発育のいい胸に少々殺意を抱きながら罵詈雑言を迎え撃つため腕を組む。
「別に他人の色恋沙汰に口を出す気はないけどね! 何ていうか、もっと周囲の迷惑考えろっていうかッ!! あの顔面鉄鋼無神経デリカシー無さ男に、どうしてそこまで必死になれるのか頭の中身見てみたいなとか思うけど、」
「滅茶苦茶口出ししてるじゃない」
「大体にしてレンもレンよ! その気がないならもっとばしっ、と言ってやればいいじゃない!
あと、人前でくっつくなとか注意するとかッ!!」
「いやアレは相当嫌がってると思うけど。少なくとも普通の男、いくらその気がないからって階段から突き落とさんだろーし。
っていうか、言ったくらいで治るようならとっくに治ってるでしょーが」
「う゛ー……」
納得のいかない表情で頬を膨らませる彼女に、ルナの中にちょっとした悪戯心が生まれる。宥めるように怒らせた肩を下ろさせて、わざと声を弾ませながら、
「まあ、そう言うなら仕方ない。手っ取り早い方法もあるにはあるけどねー」
「何よ? 永久に眠ってもらうとか?」
「ンな物騒な真似しないわよ。つまりさ、シリアが絡んでレンが過激に諫めるから注目を浴びるんであって、それがなけりゃいらん注目も浴びない。そうでしょ?」
「まあ……シリアの言動と格好でも十分注目浴びてる気がするけど。けど、どうやって止めるのよ、そんなもん」
「簡単よ。ごたごたが無ければいいんだから、レンとシリア、くっつけちゃえば?」
「…………はぁッ!?」
―――またとんでもないこと言い出したぞ、この女……
カノンが浮かべたしかめっ面がそう語っている。
「どんな妄言よ、それは……」
「筋は通ってない?」
「通ってないわよ! 第一、どうやってそんなことやるつもりなのッ?」
「いや、惚れ薬でも作っちゃえば」
「って、それだけはやめろッ!!」
ごがんッ!
鈍い音が脱衣所に響く。肘を喰らった頭のてっぺんを押さえながら、ルナが涙目になってカノンを見上げる。
「痛いわ、カノンちゃん」
「縁起でもないこと言うからよ!」
「縁起の問題なわけ……? ってか、別に薬に頼らなくてもシリア支援してやればいいだけの話じゃない。あんた、目の敵にされなくなるだろーし」
「それだけは何かヤダ」
「いや、あたしも精神的には非常に嫌だけど」
後頭部を摩りながら彼女は立ち上がって短く溜め息を吐いた。
「まあ、あれよ。それはそれとしてあんたもそろそろ自分のこと考えて然るべきじゃないの?」
「どういう意味よ?」
「いやさ、十九って言ったらもう世間様では結婚適齢期よ。まあ、それでなくたって浮ついた話の一つや二つ、あっておかしくない年齢だし」
「う゛……」
「カリスお祖母さまも心配してるんじゃないの? 狩人引退してから……つーか、旅に出てから一回も帰ってないでしょ」
「あ、あの人の話はやめて……、お願いだから……」
叩き付けたはずのバスタオルにくるまって、小動物のように縮まるカノン。
「あんた……まだ治ってないわけ、お祖母様恐怖症」
「治るわけないでしょ!! あの人に比べたら鬼やら魔族やらなんて赤子のようなもんよッ!!」
「……まあ、それはともかく。あんたもいつまでもぶらぶらしてないで、ちょっとはそーゆーこと考えたらどう、ってこと」
「ンなこと言ったって、あんたやシリアの方が年上じゃないのよ……」
「シリアはああだし、あたしはこれでも有名魔道師一家の娘だからいろいろあるわよ。
けどねぇ……」
ルナの視線が急にじっとりとしたものに変わる。その視線に曝されたカノンはその意味が解らずに一歩後退った。
「健全な年頃の男と女が二人で何年も旅してて、未だに何も無いなんて何つーか問題だなぁ、って」
「なッ、何でそういう話になるのよ!? おかしくないじゃない!?」
「そういう話にしかならないし! ってかおかしいし! あんたたち、本ッ当に何もないわけッ!?」
「ないってば、しつこいわねッ! 大体、幼馴染で旅してたって何も不思議じゃないでしょ! シリアとアルティオだってそうだし!」
「あれらはただの同類よッ! そーゆー微笑ましい言い訳が許されるのは頑張って十三くらいまでよッ!!」
「ンなこと言ったって……、何もないんだから仕方ないじゃない……」
まくし立てるルナに唇を尖らせる。
唐突にやたらと大人しくなるカノンに、ルナも威勢を失って罰が悪そうに頭を掻きながら、
「あー、まあ別に責めてるわけじゃなくって。いや、責めまくってた気もするけど。
カリスのお祖母様じゃないけど、これでもあたしだって一応は心配してるのよ? 年頃の娘が仕事を引退してからもずっと当ても無い旅なんて。それもいくら幼馴染とはいえ、異性とじゃね。
普通の親なら親としても、世間体に関しても、心配して当然よ」
「う゛っ……け、けど」
「別にカリスさんだってレンを信用してないわけじゃないでしょ。だから今まで放置してくれてんだろーし。ただ、もーちょっとそういうこと考えても罰は当たんないんじゃない、ってこと」
「……う、うう」
至極当然な反論をされて、カノンが言い澱む。主体的にはともかく、ルナが言っているのはあくまで一般常識なのである。更なる反論の術があるわけがない。
「ど、努力はします……」
「それでよし」
「けど今日はやけにつっかかるわね……どうしてよ?」
「別に? ただ……」
「な、何?」
再び舐めるような視線がカノンを襲う。相手が相手なので嫌悪感は無いが、不快感は否めない。彼女の視線はしばし彷徨ったあと、傍らの服がたたまれた籠の中で止まる。
正確にはたたまれた衣服の上に丁寧に置かれた繊細な造りの首飾り[ネックレス]に。
シルバーのリングが通された極シンプルなもので、飾りとしておざなり程度に小さな青い石が埋め込まれたベルが一緒に通されている。
年頃の娘が着飾るためにつけるには些か地味で、物足りない感はあるが趣味は悪くない。
「いやッ、あの、これは別に……ッ」
「どこの誰にもらったんだか知らないけど羨ましいわねーv
ついでに今日、朝方見当たらなくてかーなり焦ってたのは見物だったわーv」
「って、今日のはあんたのせいかッ!」
「失礼ね、ただたまたま見慣れないものがあったんで、興味本位で別の場所に隠して反応を見てみたかっただけよ」
「失礼なのはあんただッ!!
あー、もう一瞬でも真面目にあんたの言うことを聞いてたあたしが馬鹿だったわッ!!
さっさと入って上がるわよッ!!」
「はいはい」
怒鳴りつけて浴場へ向かうカノンの後を、ルナは小さく舌を出して追う。ふと足を止め、頭につけた羽飾りを外していないことに気がついた。
絡まった髪を外して籠の中の衣服の上に、赤石のそれを置く。
「……」
一瞬だけ、自嘲染みた笑いを漏らし、彼女は今度こそカノンの後を追った。
←STORY1 Finalへ
「んー……おはよ」
「お早う」
目を擦りながら宿屋を下りてみると。
「……何で」
―――いや、レンがいるのはまあいつも通りだからいいんだけど。
カノンはその場でテーブルの周辺を見回した。
あの後。
まさか大騒ぎのホテルに泊まり続けるのも気が滅入るので宿を変え、WMOと政団それぞれに事情聴取を受けること一週間。
WMOの方はローランの口利きで短く済んだが、政団の方はそうはいかない。
それどころか以前、死術狩りをやっていたことが明るみに出て、現場検証にまで協力させられた。
ルナの方と言えばWMOでの始末が大変だったらしく、政団の方に顔は利かせられず。
結局、予定外の一週間を過ごす羽目になり、今日、やっとこの後味の悪い町を去ることが出来るようになったのだが。
ようやく戦いの疲れも取れて、爽やかな朝だと言うのに。
椅子の下に伸びているシリアと、満面の笑みで絡んでくる気満々のアルティオ、そしてすっかり旅支度を整えたWMOで寝泊りしていたはずのルナ。
ぐるり、と首を回して、話が通じそうな相手を探す。
行き着いた先のルナに顔を向け、
「何であんたがいるの……?」
「まー、嫌そうな顔してないで。とりあえず座んなさいv」
―――言われなくてもそうするけどさ……
嫌な予感に頭を掻きながら席に着く。とりあえず、置きぬけのジュースを注文してからカノンはルナの方へ向き直った。
「まずは事後処理ね。
丸く、は収まってないけど、とりあえず一段落は着いたわ。もうここを発ってもいいって」
「そりゃあ、もう一週間だし……いい加減、出してくれないと困るわよ……」
「まあね、だからあたしも解放されたわけだけど。
結局、WMO側は全職員の人事見直し。支部長も別の人に変わって、ローランさんはまあ、事後の事件処理に協力的だったってことで厳重注意処分。どっかのイナカに隠居するってさ」
「……」
ローランの胸中を理解できる人間はいないだろう。孫を止められなかったばかりか、あんな形で肉親を失ったのだ。
今、どんな心持なのか、カノンには知る術などない。
「で、ね。全部の事を操ってたあいつのことなんだけど……」
ひくり、と無表情を保っていたレンの眉が動く。カノンもアルティオも無意識に身を乗り出して、しかし、ルナは苛立ちに髪を掻き揚げながら、
「……手がかりがまったくなし。クロードの私室にも、クレイヴの部屋にも、身元がわかるような痕跡はない。あるとすれば、町の人がそういう恰好の人を見かけた、なんていう役に立たない目撃証言だけ、それも場所なんて特定されてないから、何も分析できない、ってのが現実」
食堂内に脱力の息が漏れた。
「けど、あいつが件に関わってたのは確かなんでしょう?」
「うわ、生きてた」
むくり、と起き上がってきたシリアに軽く驚きながら、
「だったら、それこそ大陸のデータバンクでも何でも使って身元を割ればいいじゃない。あんな人間そうぽこぽこいてたまるものですか」
「……人間、だったらいいがな」
最も聞きたくない言葉だ。全員が顔を上げて声を発したレンを見る。
「他人の作った魔道生物を暴走させる、くらいならともかく、シリアたちの話にあった合成獣を一斉に塵に帰る―――なんてことが普通の人間に出来ると思うか?
あまつさえ、最後を見ただろう。あの消え方が人間に出来る消え方か?」
「じゃあ、あれは何だってのよ?」
「それはわからん」
「どうにせよ、"ただの人間"てわけじゃないみたいね……」
低い声でルナが漏らす。カノンの頼んだジュースをウェイトレスが運んできたことで、一瞬、全員の声が途切れる。
その後も続いた沈黙に、
「……あの人、ね」
ぽつり、とカノンがジュースをちびりと飲みながら言う。
「ゼルゼイルの貿易場にいた」
「!」
「……だから、ひょっとしたら、クロードの思惑から考えても、関係のある人なのかもしれない……。
けど……」
「けど?」
「けど……何ていうのかな。よくわかんないけど、悪い人間じゃなかった気がするのよ、少なくともそのときは、だけど……」
「おいおい、正気かカノン。お前だって見ただろ? あいつ、顔色一つ変えないで……」
一週間前の情景を思い出してか、アルティオが身震いする。カノンは溜め息を吐いて、
「わかってるんだけどね」と口にした。
「……もとより、あれが何なのかは詮索しても仕方が無い」
再び下りた沈黙を、レンが破る。
「最後に言っていただろう、『また』と。
こちらとしても願い下げだが、また何かしがの手を打ってくる可能性がある。だが、それがいつかなどわからない、向こうの正体もわからない以上、いつも通りに過ごすしかない」
「あんたって本当に……」
「何か異論あるのか?」
「いや、ないけどさ……」
―――本当に、身も蓋もないというか。
だが。
彼の談が間違っているわけではない。
どうにしろ、カノンとしてはいつも通りに、過去のことは過去のこととして過ごしていくしかないのだ。
「レン」
「何だ?」
「……ありがと、少し根詰めてた」
肩を竦めて言うと彼は呆れたような息を吐き出して、コーヒーい口をつけた。そのいつもと変わらぬ様子に、勢いづけてカノンはジュースを……
「ちょっとお待ちなさい」
飲み干そうとして。
伸びた細い手に邪魔された。
「何、勝手に二人で完結して雰囲気作っているのかしら? 私たちがいること忘れてるんじゃあないわよ?」
「別に雰囲気なんて作って……って、顔近いって」
詰め寄ってきたシリアを押し返して、テーブルへ肘を付く。
「で、あんたたちはこれからどーすんのよ?」
「ふっ、最初に言わなかったかしら?」
「はぁ?」
「言ったはずよ、この私が来た以上、レンとの二人で駆け落ち道中なんて許さないって! どこかの泥棒猫には不釣合いだわッ!!」
「だから、駆け落ちじゃないって言ってるでしょーがッ!! ってか泥棒猫って何よッ!? 人聞きの悪いッ!!」
「まあまあ、カノン」
「あんたも仲裁に見せかけてややこしいとこ触ってんじゃないッ!!
って、そういうことはやっぱりあんたも付いて来る気なわけ……?」
「ふっ、当然だな。
お前をあんな得体の知れない奴が狙っているとなれば、か弱い姫には屈強なナイトが必要だろう?」
「……いや、頑丈なのは認めるけどあんたは騎士ってより山賊の親分やってた方が似合いそ……」
「ということで! この先、二人っきりで旅が出来るなんて夢は見ない方がいいわよ! ほーっほっほっほ!」
「あー……やっぱりこうなるわけね……」
げっそりと肩を落して首を振る。相棒と言えば、もう諦めているのか何なのか、先程からコーヒーをすするばかりで関心を示さないし。
「あっはっは、こんだけ大所帯だと大変よねぇ。五人旅、ってのは割と初めてじゃなーい?」
「まあね……って、五人ッ!? ルナ、あんたまで付いて来る気ッ!?」
「とーぜんでしょ。まだ『ヴォルケーノ』の密輸経路がわかったわけじゃないんだし。
あいつはあんたたちの周辺を狙ってる、とくれば付いてくのが一番の上策じゃない」
「ま、まあそうかもしれないけど……」
「まー、ともかく何はともあれそうと決まれば腹ごしらえね! 景気を兼ねてカノンの奢りでッ!
ってことでおばちゃーん! あたしモーニングセットBと本日のデザート二皿! アイス大盛りで!!」
「こら、ちょっと待てッ!!」
「ふっ、ならこっちは地鶏の焼きビーフンセットとロイヤルミルクティーを貰おうかしら? レンは何がいーい? 私が食べさせてあげるわよv」
「死んでいろ。こっちにはモーニングセットのAを頼む。ツケはこっちでな」
「待て、あんたまでッ!!」
「俺もッ、モーニングセットA、B両方と、ああ、ライスは大盛りで! 後は……」
「ちょっとこら! そんな予算どこに……って、こら! ……あーもう!
人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
朝日の差す宿屋の一階に、少女の絶叫が高らかに響き渡った。
その相棒の叫びを聞きながら、レンはふとカップの中の黒を覗く。
『灰になったら、行けるでしょう?』
―――下らん。
あの浜の少年の戯言は、一体何だったのか。
胸を掠めた疑問はしかし、そう残すものではないと知っていたがために。
彼は朝日の中に小さな疑念をそっと溶かして消した。
―――名前を呼ばれている。
最も、厳密には名前を呼んでいるわけではなくて、呼び名と言うか何と言うか、ともかく好きなように呼べばいいと言ったときに彼が口にした呼び名。
名前ではないが自分を呼んでいることくらいは解る。
応えてうっすらと目を開けて、だが横たえた身は起こさぬままで。
逆光の空をバックに、見覚えのある顔が、こちらを覗きこんでいた。
「やっと起きやがった! 何でこんなところで寝てんだよ!!」
憮然と膨れている。
ただ、人気の無い日陰の石畳に寝転がるというのは彼の美学によほど反したものだったらしい。それでも小さく息を吐くだけで、身は起こさずに、
「そんなに退屈だった?」
「退屈も何も、やることねぇし! ささっと仕事は終わらせちまうしさーッ! 一体、何だったんだよ!!」
活動的な性格に、ここ数日の暗躍染みた行動はどうにも我慢できないものだったらしい。
視界で喚きたてる姿に、くすくすと笑いを漏らす。
「ただの下準備だよ。どんなことにも下地は必要。君の力が不要なものだったんじゃない。ただ仕事の方が役不足だっただけさ」「じゃあ、なんでこんなとこに来なきゃいけなかったんだよ」
不満たらたら、溢し続ける彼にくすり、ともう一度笑みを向け、視線を移す。うみねこの鳴く空が、白い雲に霞んで見えた。
澄み切ったその青に、少年は注がれる日光を遮るかのように手を翳し、
「これからが本番だよ―――そうなれば、今度は君の出番だ」
―――そう、本番だ。
空に瞬く青へ宣告するかのように。
少年は片眼の視界に、再び瞼を閉じた。
口元に、かすかな微笑みを携えながら。
←11へ
「お早う」
目を擦りながら宿屋を下りてみると。
「……何で」
―――いや、レンがいるのはまあいつも通りだからいいんだけど。
カノンはその場でテーブルの周辺を見回した。
あの後。
まさか大騒ぎのホテルに泊まり続けるのも気が滅入るので宿を変え、WMOと政団それぞれに事情聴取を受けること一週間。
WMOの方はローランの口利きで短く済んだが、政団の方はそうはいかない。
それどころか以前、死術狩りをやっていたことが明るみに出て、現場検証にまで協力させられた。
ルナの方と言えばWMOでの始末が大変だったらしく、政団の方に顔は利かせられず。
結局、予定外の一週間を過ごす羽目になり、今日、やっとこの後味の悪い町を去ることが出来るようになったのだが。
ようやく戦いの疲れも取れて、爽やかな朝だと言うのに。
椅子の下に伸びているシリアと、満面の笑みで絡んでくる気満々のアルティオ、そしてすっかり旅支度を整えたWMOで寝泊りしていたはずのルナ。
ぐるり、と首を回して、話が通じそうな相手を探す。
行き着いた先のルナに顔を向け、
「何であんたがいるの……?」
「まー、嫌そうな顔してないで。とりあえず座んなさいv」
―――言われなくてもそうするけどさ……
嫌な予感に頭を掻きながら席に着く。とりあえず、置きぬけのジュースを注文してからカノンはルナの方へ向き直った。
「まずは事後処理ね。
丸く、は収まってないけど、とりあえず一段落は着いたわ。もうここを発ってもいいって」
「そりゃあ、もう一週間だし……いい加減、出してくれないと困るわよ……」
「まあね、だからあたしも解放されたわけだけど。
結局、WMO側は全職員の人事見直し。支部長も別の人に変わって、ローランさんはまあ、事後の事件処理に協力的だったってことで厳重注意処分。どっかのイナカに隠居するってさ」
「……」
ローランの胸中を理解できる人間はいないだろう。孫を止められなかったばかりか、あんな形で肉親を失ったのだ。
今、どんな心持なのか、カノンには知る術などない。
「で、ね。全部の事を操ってたあいつのことなんだけど……」
ひくり、と無表情を保っていたレンの眉が動く。カノンもアルティオも無意識に身を乗り出して、しかし、ルナは苛立ちに髪を掻き揚げながら、
「……手がかりがまったくなし。クロードの私室にも、クレイヴの部屋にも、身元がわかるような痕跡はない。あるとすれば、町の人がそういう恰好の人を見かけた、なんていう役に立たない目撃証言だけ、それも場所なんて特定されてないから、何も分析できない、ってのが現実」
食堂内に脱力の息が漏れた。
「けど、あいつが件に関わってたのは確かなんでしょう?」
「うわ、生きてた」
むくり、と起き上がってきたシリアに軽く驚きながら、
「だったら、それこそ大陸のデータバンクでも何でも使って身元を割ればいいじゃない。あんな人間そうぽこぽこいてたまるものですか」
「……人間、だったらいいがな」
最も聞きたくない言葉だ。全員が顔を上げて声を発したレンを見る。
「他人の作った魔道生物を暴走させる、くらいならともかく、シリアたちの話にあった合成獣を一斉に塵に帰る―――なんてことが普通の人間に出来ると思うか?
あまつさえ、最後を見ただろう。あの消え方が人間に出来る消え方か?」
「じゃあ、あれは何だってのよ?」
「それはわからん」
「どうにせよ、"ただの人間"てわけじゃないみたいね……」
低い声でルナが漏らす。カノンの頼んだジュースをウェイトレスが運んできたことで、一瞬、全員の声が途切れる。
その後も続いた沈黙に、
「……あの人、ね」
ぽつり、とカノンがジュースをちびりと飲みながら言う。
「ゼルゼイルの貿易場にいた」
「!」
「……だから、ひょっとしたら、クロードの思惑から考えても、関係のある人なのかもしれない……。
けど……」
「けど?」
「けど……何ていうのかな。よくわかんないけど、悪い人間じゃなかった気がするのよ、少なくともそのときは、だけど……」
「おいおい、正気かカノン。お前だって見ただろ? あいつ、顔色一つ変えないで……」
一週間前の情景を思い出してか、アルティオが身震いする。カノンは溜め息を吐いて、
「わかってるんだけどね」と口にした。
「……もとより、あれが何なのかは詮索しても仕方が無い」
再び下りた沈黙を、レンが破る。
「最後に言っていただろう、『また』と。
こちらとしても願い下げだが、また何かしがの手を打ってくる可能性がある。だが、それがいつかなどわからない、向こうの正体もわからない以上、いつも通りに過ごすしかない」
「あんたって本当に……」
「何か異論あるのか?」
「いや、ないけどさ……」
―――本当に、身も蓋もないというか。
だが。
彼の談が間違っているわけではない。
どうにしろ、カノンとしてはいつも通りに、過去のことは過去のこととして過ごしていくしかないのだ。
「レン」
「何だ?」
「……ありがと、少し根詰めてた」
肩を竦めて言うと彼は呆れたような息を吐き出して、コーヒーい口をつけた。そのいつもと変わらぬ様子に、勢いづけてカノンはジュースを……
「ちょっとお待ちなさい」
飲み干そうとして。
伸びた細い手に邪魔された。
「何、勝手に二人で完結して雰囲気作っているのかしら? 私たちがいること忘れてるんじゃあないわよ?」
「別に雰囲気なんて作って……って、顔近いって」
詰め寄ってきたシリアを押し返して、テーブルへ肘を付く。
「で、あんたたちはこれからどーすんのよ?」
「ふっ、最初に言わなかったかしら?」
「はぁ?」
「言ったはずよ、この私が来た以上、レンとの二人で駆け落ち道中なんて許さないって! どこかの泥棒猫には不釣合いだわッ!!」
「だから、駆け落ちじゃないって言ってるでしょーがッ!! ってか泥棒猫って何よッ!? 人聞きの悪いッ!!」
「まあまあ、カノン」
「あんたも仲裁に見せかけてややこしいとこ触ってんじゃないッ!!
って、そういうことはやっぱりあんたも付いて来る気なわけ……?」
「ふっ、当然だな。
お前をあんな得体の知れない奴が狙っているとなれば、か弱い姫には屈強なナイトが必要だろう?」
「……いや、頑丈なのは認めるけどあんたは騎士ってより山賊の親分やってた方が似合いそ……」
「ということで! この先、二人っきりで旅が出来るなんて夢は見ない方がいいわよ! ほーっほっほっほ!」
「あー……やっぱりこうなるわけね……」
げっそりと肩を落して首を振る。相棒と言えば、もう諦めているのか何なのか、先程からコーヒーをすするばかりで関心を示さないし。
「あっはっは、こんだけ大所帯だと大変よねぇ。五人旅、ってのは割と初めてじゃなーい?」
「まあね……って、五人ッ!? ルナ、あんたまで付いて来る気ッ!?」
「とーぜんでしょ。まだ『ヴォルケーノ』の密輸経路がわかったわけじゃないんだし。
あいつはあんたたちの周辺を狙ってる、とくれば付いてくのが一番の上策じゃない」
「ま、まあそうかもしれないけど……」
「まー、ともかく何はともあれそうと決まれば腹ごしらえね! 景気を兼ねてカノンの奢りでッ!
ってことでおばちゃーん! あたしモーニングセットBと本日のデザート二皿! アイス大盛りで!!」
「こら、ちょっと待てッ!!」
「ふっ、ならこっちは地鶏の焼きビーフンセットとロイヤルミルクティーを貰おうかしら? レンは何がいーい? 私が食べさせてあげるわよv」
「死んでいろ。こっちにはモーニングセットのAを頼む。ツケはこっちでな」
「待て、あんたまでッ!!」
「俺もッ、モーニングセットA、B両方と、ああ、ライスは大盛りで! 後は……」
「ちょっとこら! そんな予算どこに……って、こら! ……あーもう!
人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
朝日の差す宿屋の一階に、少女の絶叫が高らかに響き渡った。
その相棒の叫びを聞きながら、レンはふとカップの中の黒を覗く。
『灰になったら、行けるでしょう?』
―――下らん。
あの浜の少年の戯言は、一体何だったのか。
胸を掠めた疑問はしかし、そう残すものではないと知っていたがために。
彼は朝日の中に小さな疑念をそっと溶かして消した。
―――名前を呼ばれている。
最も、厳密には名前を呼んでいるわけではなくて、呼び名と言うか何と言うか、ともかく好きなように呼べばいいと言ったときに彼が口にした呼び名。
名前ではないが自分を呼んでいることくらいは解る。
応えてうっすらと目を開けて、だが横たえた身は起こさぬままで。
逆光の空をバックに、見覚えのある顔が、こちらを覗きこんでいた。
「やっと起きやがった! 何でこんなところで寝てんだよ!!」
憮然と膨れている。
ただ、人気の無い日陰の石畳に寝転がるというのは彼の美学によほど反したものだったらしい。それでも小さく息を吐くだけで、身は起こさずに、
「そんなに退屈だった?」
「退屈も何も、やることねぇし! ささっと仕事は終わらせちまうしさーッ! 一体、何だったんだよ!!」
活動的な性格に、ここ数日の暗躍染みた行動はどうにも我慢できないものだったらしい。
視界で喚きたてる姿に、くすくすと笑いを漏らす。
「ただの下準備だよ。どんなことにも下地は必要。君の力が不要なものだったんじゃない。ただ仕事の方が役不足だっただけさ」「じゃあ、なんでこんなとこに来なきゃいけなかったんだよ」
不満たらたら、溢し続ける彼にくすり、ともう一度笑みを向け、視線を移す。うみねこの鳴く空が、白い雲に霞んで見えた。
澄み切ったその青に、少年は注がれる日光を遮るかのように手を翳し、
「これからが本番だよ―――そうなれば、今度は君の出番だ」
―――そう、本番だ。
空に瞬く青へ宣告するかのように。
少年は片眼の視界に、再び瞼を閉じた。
口元に、かすかな微笑みを携えながら。
←11へ
『獣』は足を止めた。
目標がいない。
目の前が開けている。
最後の壁を破壊して広がったのは、ただ広い空間。外と内との境界を知らず知らずのうちに破壊してしまったらしい。
呻き声を漏らしながら、『獣』は瓦礫の山を押し退けながら外に出る。
すっかり日の落ちた夜空と、黒々と広がる森が視界を埋め尽くす。
刹那。
背後から気配。
「―――!」
ぎぎぃぃんッ!!
硬質化した腕と、銀の刃が噛み合って耳障りな協音を生む。束ねられた緋色の髪が翻って、鳶色の瞳が『獣』を射抜く。
「レンッ!」
呪文が完成するのを待ってレンは横に飛ぶ。
瞬間、
「吹けヴァイオレントゲイルッ!!」
ごおおぉぉおッ!!!
収束して吹いた烈風が、そのまま瓦礫ごと『獣』を外の空間へ吹き飛ばす。
烈風の名残を利用して勢いつけたレンがそれを追う。まともに体勢を崩していた『獣』、レンはその肩を狙い、
「覇ぁぁぁぁぁぁッ!!」
気合一閃。
ぎどんッ!!
『獣』の右腕が肩口から先が切り落とされる。緑色をした気味の悪い体液が跳ねて、がらんッ、と音を響かせて右腕が落ちる。
切り落とされた肩口から伸びる血管のような触手が蠢いて、瞬間的に『再生』を始める。
だが、ここは外。『ヴォルケーノ』が人間に作用しないよう、働いているのなら、合成獣のような強力な生命力を持つものいなければやはり即時再生は難しいらしい。
『獣』は痛みに叫ぶことなく後ろへと飛ぶ。
じわじわと、確実に、修復に伸びていく腕。先程よりは遅いが思ったより早い。
だが、それを待ってやっている義理はない。
レンはさらに踏み込んで、『獣』に刃を向ける。『獣』は四本の指の先から爪を伸ばし、それを受け止める。
ぎんッ、と金属音が耳を打った。
返す刀で剣を引き、『獣』の胴を凪ごうとするレン。『獣』はそれを交わし、横っ飛びに間合いを取って、
「!」
「覇ッ!!」
いつの間にか回り込んでいたカノンの剣鎌の刃を無理矢理、背中で受け止める。腕より背の方が装甲が硬いのか、カノンの刃は通らない。
彼女は刃を引いて『獣』との間合いを取る。
しかし、その間にも体勢を立て直したレンは『獣』へ切りかかる。難なく、これを受ける『獣』。
長い間合いを取って、カノンは短い呪を紡ぐ。
「疾く集え、地を這う哀れな者たちよ……」
ぎっ……
カノンの右手に重圧がかかる。
クオノリアに満ちる焦燥が、得体の知れ無いものへの恐怖が。彼女の元に集い、傅く。
空を裂く音。剣鎌の先端が黒に染まる。
「覇ぁあぁああぁあぁあッ!!」
レンが再び剣を振るい、『獣』の右腕へと刃を振り下ろす。破魔の力を受けた鋭い刃は易々と肩口へと食い込み、復活しかけた腕を再び切り落とす。
『獣』が彼を振り払うように身を震わせる。
はみ出た血管はすぐ様、修復を始める。が、
「カノン、レンッ!!」
飛んだ声にレンは構えを解かずに距離を取り、カノンはそのままじりっ、と後退する。
腕を一本、二本落としただけで勝てるとは思わない。ただ修復に手間をかけさせるだけの時間稼ぎ。
「我求む……」
ルナの翻した両手に眩い光が宿る。彼女の足元には稼いだ時間をかけて練り上げた魔道陣。
「破するは赤き閃光の槍……」
彼女と『獣』を繋ぐ空間に、一筋の赤い線が走る。力がその場に具現するための、いわば導火線。
ルナは拳を前へ突き出すように、最後の命令をそれへ叩きつける。
「撃てドラグーンフレアッ!!!」
赤い轟音が辺りを揺るがす。燃え上がる閃光を追うようにカノンが駆ける。
猛る熱量に『獣』の体が溶けて悪臭を漂わせる。剥がれるように落ちていく装甲。熱に負けてただれていく皮膚。
張りぼてと化していく胸の袂に、
「―――取った!!」
炎が止み、その胸に白い華を見つける。わずかな光を放つそれは、自らの姿を隠すように肉体の修復を開始する。
しかし、そんな暇をやる必要はない!
赤い線を縫って駆け抜けたカノンはそのまま剣鎌を白い華へと突き立てる!
「我が内に集えッ!!」
がぁあああぁぁぁあぁああぁあぁぁぁッ!!!
剣先と華が触れた箇所から黒い光が噴出した。
「……『ヴォルケーノ』の元は魔力と瘴気の塊。カノンの『魔変換』[ガストチャージ]は負と魔の力を取り込む能力。
それがあれば、」
カノンの持つ刃に広がる黒の瘴気が大きくなっていく。
噴出した瘴気は剣鎌の先端から先端を黒に染めた。華が修復を止める。カノンは刃を引く。そして、
「覇ぁああああぁぁあッ!!」
そのまま、瘴気を叩きつけるようにカノンは横薙ぎに、小さく縮まった華を斬り飛ばす!
ざんッ!!!
「『ヴォルケーノ』本体を吸収した力なら斬れるッ!!」
ぎぃいいいぃいあぁああぁあああぁあぁぁぁぁあぁッ!!!
カノンの黒い刃が華を散らすのと、『獣』が歪んだ断末魔を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「カノンッ!」
「れーんッ!!」
華の復活がないことを確認して、カノンたちが肩を下ろしていた矢先。背後からいつもの黄色い声がかかった。
「シリアッ! アルティオッ!!」
「大丈夫か、カノンッ!? 嫁にいけないようなことされてないかッ!?」
「されてないわよ、そんなもん……。ってか何想像してんのよ、あんたはッ!!」
「でッ!」
着いて早々余計なことを口にしたアルティオの頭をしばく。
「れーん、大丈夫ぅ? この女に変なことされなかったぁ?」
「何をするってのよ、こんなときに……」
「それより、あんたたち町の方は大丈夫なの? ちゃんと全部片付けて来たんでしょうね?」
「いや、それがさ、何ていうか……」
「ちょっと、それはいいけど。あんたたち、ちゃんとクロードの尻尾を掴んでんでしょうね?」
『……』
シリアのその問いに。
カノンたちは揃って顔を見合わせた。
―――はぁ、はぁ……
自分の吐き出す息が五月蝿い。だらだらと血を流す右の足が、骨のいかれたあばらの脇腹が、歩を進めるたびにじりじりと熱を持った痛みを容赦なく放つ。
三歩、歩みを進めたところで吐き気を催して膝を付く。吐き出した胃液には多量の血が混じっていた。
上がった胃液が、折れた肋骨がどこの部位か知らない、体内を傷つけてまた血が噴き出す。
ずるずると、色の変わった服を引き摺りながら、どことも解らない草むらを歩く。
圧倒的な肉体の痛みに、もう声すらも出ない。
―――くそ、くそくそくそ……ッ!
こんなはずじゃなかった。
どこから計画が狂った? 破綻した? そうだ、元はと言えば、合成獣が一度ビーチで暴走したときから。
仲間にも、配下にもあんな命令は下していない。あんなはずはないのだ。誰が一体、あんな場所に『獣の華』を放った。
それにクレイヴのことも。奴が死ななければ、奴が雇ったあいつらが事件に酌みすることもなかった。あそこからすべてがうまくいかなくなった。
一体、誰が?
―――クソッ、まだ、まだ終わるわけには……
悪態を吐いたとき、前方の草むらががさり、と鳴った。びくり、と震えた瞬間に全身に走る痛み。それでも何とか堪えて面を上げる。
視界に入ったのは夜風に棚引く柔らかな黒の影。
わずかな新月の灯りに照らされながら佇む漆黒の闇。
「あ、あな…た、は……」
少しだけ、身体に力が戻ってくる。
「た、たす、助け―――」
吐き出した血を拭いながら、唯一の光明へ縋りつくように手を伸ばす。体液に塗れた指が伸ばされて、そして―――。
ぎゃぁああぁああぁぁぁぁぁッ!!
『!?』
支部の裏側に広がる林に轟いた悲鳴に、一同は一斉に顔を上げた。
黒々とした影で佇む林に、息を飲んだのは誰だったか。
「今のは……」
「行くぞ」
全員が顔を見合わせて頷く。石畳を駆け抜けて、整備された石段が途切れた先からがさがさと茂みに分け入って。
最初に足を止めたのはカノンだった。
「あれ……」
降り注ぐ星明りに林の木々はただ陰を描き、わずかに存在する梢の合間から漏れる光が辺りを照らす。だが、その光も今夜の新月で大分弱い。
そのほの暗い光の中で、その姿は一層闇に溶けていて。
殆ど気配を感じないほどに儚く。
だが、それ故に何故か強烈なまでに瞼に焼きつく。
"彼"はこちらに気が付いているのかいないのか、いや、きっと気がついてはいるんだろう。静かに木々の合間から新月を見上げる。
青白い新月と暗い夜空と、陰を作り出す夜闇の梢が、それの輪郭をわずかに霞ませる。
「……今日は新月ですか」
くすり、と笑ったのだろうか。
「友人は満月が駄目なんだそうで、でも新月も嫌うんですよ。
満月は眩しすぎる、新月は暗すぎるんだそうで」
振り返った"彼"は微笑みを浮かべて彼女たちを出迎えた。
「あんた……」
新月を背にしたその"人"は、艶やかな黒髪と白い肌の、黒のコートと巻きつけた包帯の、モノクロのコントラストを描く。
あの、少年だった。
新月を背にするその姿は、美麗な一枚の絵にも相応しく。
けれど、
その幻想に圧倒的に不釣合いなこの鉄錆に似た不快な香りは何なんだろう―――。
「……ぅ、ぁ、ぁぁぁ…」
「・・・!」
目を向けるのさえ忘れていた。少年の足の袂から聞こえた呻きに、カノンは視線を下ろして。
思わず肩を震わせる。
そこには人が倒れていた。
どこかで見た、血だらけの銀の髪、赤黒く汚れた白いローブ。くたびれたその体は、しかし、上半身と下半身が不自然に折れ曲がり、両腕には深く刺さった杭のような白い棘。
吐き気を覚えて後退る。
「あ、あんた、ま、まさか……」
口も聞けない他のメンバーに代わり、何とか言葉を搾り出す。
少年はたった今しがた気が付いたように、ゆらり、と足元の『人間』を見下ろした。
「あ……ぁぁ、……ま、……んさま、ご、ご慈悲を……」
足元の『人間』が何事か呻く。少年はまったく表情を変えないまま、
がッ!!
「!!」
「……貴方はお喋りが過ぎますね。誰も名前を口にしていいと語った覚えはありません」
後ろ首を踏みつけた足をどけながら、呆れたように吐き出す。
そのときになって、カノンは思い出した。
WMOに拘束されていたとき、クロードが"あの方"と溢していたことを―――。
「まさか―――」
「カノン?」
「まさか、そいつに、『ヴォルケーノ』を渡した奴って、まさか―――」
「……そんなことまで喋ったんですか、貴方は」
肩を落して、少年は足元を見下ろして……いや、見下した。『ヴォルケーノ』の単語に、ルナの肩がひくり、と震えた。
「あんた……『ヴォルケーノ』を、一体どこであれを見つけたというの……ッ?」
「まあ、別にあれでなくとも良かったんですが、ね。
それにしてもいろいろ喋りすぎですね。仕方が無い」
少年は不意に、包帯に塗れた右手を振り上げた。その手には符、ほの白い光が収束し、やがて杭の形を造り出す。
「! やめッ……!!」
どしゅッ!!
思わず目を逸らす。鮮血が、闇に舞った。
少年は、
彼は、やれやれと首を振って血だらけの背中から杭を引き抜いた。暗い中に滴り落ちる血液を振るって、杭を放り捨てる。
白々しい動作で肩を竦め、
「まあ……どうせこうなるとは思っていましたから、仕方が無い」
「そいつ、あんたの配下か取引相手だったんじゃないの!?」
「……ええ、取引相手、でしたね。正確には」
口元を押さえることで吐き気を抑えながら、何とか前方に視線を投げる。少年は無残なその残骸を前にやはり、微笑みを絶やさないままで、しゃがみこんで"それ"の頭を取った。
「噛ませ犬、という言葉をご存知ですか、お嬢さん[sister]」
ぐしゃりッ
「―――っ!」
「シリアッ!」
細い指が、引きちぎられた頭部に食い込み、無残にそれは散開した。肉と脳の潰れる音がリアルに響き、少年の腕に巻かれた包帯を伝ってぼとぼとと血液とも髄液とも付かない薄赤い灰肌色のどろりとした体液が地面へ広がる。
アルティオが失神したシリアを支え、レンのマントがカノンの視界を遮る。ルナはひたすら苦い表情を浮かべながらもその場から動かない。
いや、動けないのだ。
目の前の、秀麗な雰囲気を持つ少年と。
無慈悲に引き裂かれた悲惨な骸と。
同じ空間に存在するその二つがあまりに不釣合いで。闇と同じ色をした少年は頬へ飛んだ体液をやはり微笑を浮かべたまま、静かに拭う。
優雅、とも言える動作に不和が沸き起こる。
少年はまるで空き缶を捨てるような所作でまだ手の中にあった頭部の残骸を下生えの中へ放り投げた。
「つまりは……世界はそういうもの無しでは構築出来ない程度のものなんですよ」
血の池の向こうで浮かべた少年の微笑みは、やはり圧倒的な不和をその場に漂わせるだけだった。
「……お前は何が狙いだったんだ?」
「……」
しばしして、束縛の解けたレンが静かに、しかし、どこかに怒りを孕ませて問いかける。少年は空を見つめ、ふぅー、と長い息を吐く。
「クロードが噛ませ犬でしかない、というなら、お前は一体その噛ませ犬で何をしようとしていたんだ?」
「……おかしいと思いませんでしたか?」
直接的に答えようとはせず、少年は返す刀で質問を切り返す。
「合成獣の急激な凶暴化、それに伴ってのクレイヴ=ロン=ウィンダリアの殺害、……事実、貴方方はそれがあったからこの事件に関わった。
それと、ルナ=ディスナーさん、でしたっけ?」
笑みを向けた先で、ルナが一歩退く。
「貴方のところに、最初に依頼をしに来たのは誰でした?」
彼女ははっ、と少年の足元に目をやりそうになって、慌てて逸らす。
「彼女がWMOと関わっていたからこそ、余計に事件について気がかりだったでしょう?」
「まさか貴様―――そのために……ッ!」
ゆっくりと、彼が目を細める。
「『ヴォルケーノ』に関してはまだ試験データが欲しいところだったんですが……
まあ、上出来な方です。それよりも、僕にとっては貴方方の試験データの方が重要でしてね。」
「じゃあッ! まさか、ビーチに合成獣を放ったのも、クレイヴを殺したのも……
町中に合成獣を放ったのも、クロードの合成獣を暴走させたのも……」
段々と力を失うルナの言葉に、少年は信じられないほど綺麗に、穏やかに、そして優雅ににっこりと微笑んだ。
「ええ、僕です」
と―――。
「許せないわね……」
カノンはぽつり、と呟いた。
「自分を欺こうとしていた人間に対して、ですか。人情的なことですね」
「どこの誰かは知らないけど、自分の駒を動かすために人の迷惑顧みず、そんな危なっかしいことやらかす奴を放って置けるわけないでしょ」
言ってレンのマントを払い、カノンは剣を正剣に構える。
「大体、そんなものをやらかす奴に……」
カノンの言葉もそこそこに。
彼女とレンはその場から左右に飛び退いた。
ごうッ!!
その後ろから、白い残像を描いて飛ぶ光弾が"彼"へと向かう!
ルナが放った魔法弾だ。
それは間を置かずに、少年へめり込んで風穴を空ける。少年はほんの少し、驚いたような表情でそれを見ていた。
が、
「な……ッ!?」
くぐもった呻きが漏れる。
一瞬で笑顔に戻った少年の身体は、弾が直撃した箇所から黒い塵へと霧散して消えていく。少年は笑みを湛えたまま。
「……またお会いしましょう、お嬢さん方[Sisters]」
そう唇を動かして。
"彼"の姿は完全に夜闇の塵となって消えた……。
遠くから、数人の足音が聞こえる。おそらくWMOの人間たちだろう。
町の喧騒は届いて来ない。
急激に力が抜けたように、アルティオはシリアを抱えながら地面に腰を下ろし、ルナは何かを考え込むように目を閉じている。
レンは何か渋い顔で空を見ていた。
カノンはその空気の中で、ばりばりと後ろ頭を掻いて。
「……とりあえず、ジ・エンドって言いたいところだけど―――」
―――もしかしたら、エンドどころか……
不穏な予感を胸に抱きながら、カノンは東の空に目を向けた。
夜明けは、まだ遠そうだった。
←10へ
目標がいない。
目の前が開けている。
最後の壁を破壊して広がったのは、ただ広い空間。外と内との境界を知らず知らずのうちに破壊してしまったらしい。
呻き声を漏らしながら、『獣』は瓦礫の山を押し退けながら外に出る。
すっかり日の落ちた夜空と、黒々と広がる森が視界を埋め尽くす。
刹那。
背後から気配。
「―――!」
ぎぎぃぃんッ!!
硬質化した腕と、銀の刃が噛み合って耳障りな協音を生む。束ねられた緋色の髪が翻って、鳶色の瞳が『獣』を射抜く。
「レンッ!」
呪文が完成するのを待ってレンは横に飛ぶ。
瞬間、
「吹けヴァイオレントゲイルッ!!」
ごおおぉぉおッ!!!
収束して吹いた烈風が、そのまま瓦礫ごと『獣』を外の空間へ吹き飛ばす。
烈風の名残を利用して勢いつけたレンがそれを追う。まともに体勢を崩していた『獣』、レンはその肩を狙い、
「覇ぁぁぁぁぁぁッ!!」
気合一閃。
ぎどんッ!!
『獣』の右腕が肩口から先が切り落とされる。緑色をした気味の悪い体液が跳ねて、がらんッ、と音を響かせて右腕が落ちる。
切り落とされた肩口から伸びる血管のような触手が蠢いて、瞬間的に『再生』を始める。
だが、ここは外。『ヴォルケーノ』が人間に作用しないよう、働いているのなら、合成獣のような強力な生命力を持つものいなければやはり即時再生は難しいらしい。
『獣』は痛みに叫ぶことなく後ろへと飛ぶ。
じわじわと、確実に、修復に伸びていく腕。先程よりは遅いが思ったより早い。
だが、それを待ってやっている義理はない。
レンはさらに踏み込んで、『獣』に刃を向ける。『獣』は四本の指の先から爪を伸ばし、それを受け止める。
ぎんッ、と金属音が耳を打った。
返す刀で剣を引き、『獣』の胴を凪ごうとするレン。『獣』はそれを交わし、横っ飛びに間合いを取って、
「!」
「覇ッ!!」
いつの間にか回り込んでいたカノンの剣鎌の刃を無理矢理、背中で受け止める。腕より背の方が装甲が硬いのか、カノンの刃は通らない。
彼女は刃を引いて『獣』との間合いを取る。
しかし、その間にも体勢を立て直したレンは『獣』へ切りかかる。難なく、これを受ける『獣』。
長い間合いを取って、カノンは短い呪を紡ぐ。
「疾く集え、地を這う哀れな者たちよ……」
ぎっ……
カノンの右手に重圧がかかる。
クオノリアに満ちる焦燥が、得体の知れ無いものへの恐怖が。彼女の元に集い、傅く。
空を裂く音。剣鎌の先端が黒に染まる。
「覇ぁあぁああぁあぁあッ!!」
レンが再び剣を振るい、『獣』の右腕へと刃を振り下ろす。破魔の力を受けた鋭い刃は易々と肩口へと食い込み、復活しかけた腕を再び切り落とす。
『獣』が彼を振り払うように身を震わせる。
はみ出た血管はすぐ様、修復を始める。が、
「カノン、レンッ!!」
飛んだ声にレンは構えを解かずに距離を取り、カノンはそのままじりっ、と後退する。
腕を一本、二本落としただけで勝てるとは思わない。ただ修復に手間をかけさせるだけの時間稼ぎ。
「我求む……」
ルナの翻した両手に眩い光が宿る。彼女の足元には稼いだ時間をかけて練り上げた魔道陣。
「破するは赤き閃光の槍……」
彼女と『獣』を繋ぐ空間に、一筋の赤い線が走る。力がその場に具現するための、いわば導火線。
ルナは拳を前へ突き出すように、最後の命令をそれへ叩きつける。
「撃てドラグーンフレアッ!!!」
赤い轟音が辺りを揺るがす。燃え上がる閃光を追うようにカノンが駆ける。
猛る熱量に『獣』の体が溶けて悪臭を漂わせる。剥がれるように落ちていく装甲。熱に負けてただれていく皮膚。
張りぼてと化していく胸の袂に、
「―――取った!!」
炎が止み、その胸に白い華を見つける。わずかな光を放つそれは、自らの姿を隠すように肉体の修復を開始する。
しかし、そんな暇をやる必要はない!
赤い線を縫って駆け抜けたカノンはそのまま剣鎌を白い華へと突き立てる!
「我が内に集えッ!!」
がぁあああぁぁぁあぁああぁあぁぁぁッ!!!
剣先と華が触れた箇所から黒い光が噴出した。
「……『ヴォルケーノ』の元は魔力と瘴気の塊。カノンの『魔変換』[ガストチャージ]は負と魔の力を取り込む能力。
それがあれば、」
カノンの持つ刃に広がる黒の瘴気が大きくなっていく。
噴出した瘴気は剣鎌の先端から先端を黒に染めた。華が修復を止める。カノンは刃を引く。そして、
「覇ぁああああぁぁあッ!!」
そのまま、瘴気を叩きつけるようにカノンは横薙ぎに、小さく縮まった華を斬り飛ばす!
ざんッ!!!
「『ヴォルケーノ』本体を吸収した力なら斬れるッ!!」
ぎぃいいいぃいあぁああぁあああぁあぁぁぁぁあぁッ!!!
カノンの黒い刃が華を散らすのと、『獣』が歪んだ断末魔を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「カノンッ!」
「れーんッ!!」
華の復活がないことを確認して、カノンたちが肩を下ろしていた矢先。背後からいつもの黄色い声がかかった。
「シリアッ! アルティオッ!!」
「大丈夫か、カノンッ!? 嫁にいけないようなことされてないかッ!?」
「されてないわよ、そんなもん……。ってか何想像してんのよ、あんたはッ!!」
「でッ!」
着いて早々余計なことを口にしたアルティオの頭をしばく。
「れーん、大丈夫ぅ? この女に変なことされなかったぁ?」
「何をするってのよ、こんなときに……」
「それより、あんたたち町の方は大丈夫なの? ちゃんと全部片付けて来たんでしょうね?」
「いや、それがさ、何ていうか……」
「ちょっと、それはいいけど。あんたたち、ちゃんとクロードの尻尾を掴んでんでしょうね?」
『……』
シリアのその問いに。
カノンたちは揃って顔を見合わせた。
―――はぁ、はぁ……
自分の吐き出す息が五月蝿い。だらだらと血を流す右の足が、骨のいかれたあばらの脇腹が、歩を進めるたびにじりじりと熱を持った痛みを容赦なく放つ。
三歩、歩みを進めたところで吐き気を催して膝を付く。吐き出した胃液には多量の血が混じっていた。
上がった胃液が、折れた肋骨がどこの部位か知らない、体内を傷つけてまた血が噴き出す。
ずるずると、色の変わった服を引き摺りながら、どことも解らない草むらを歩く。
圧倒的な肉体の痛みに、もう声すらも出ない。
―――くそ、くそくそくそ……ッ!
こんなはずじゃなかった。
どこから計画が狂った? 破綻した? そうだ、元はと言えば、合成獣が一度ビーチで暴走したときから。
仲間にも、配下にもあんな命令は下していない。あんなはずはないのだ。誰が一体、あんな場所に『獣の華』を放った。
それにクレイヴのことも。奴が死ななければ、奴が雇ったあいつらが事件に酌みすることもなかった。あそこからすべてがうまくいかなくなった。
一体、誰が?
―――クソッ、まだ、まだ終わるわけには……
悪態を吐いたとき、前方の草むらががさり、と鳴った。びくり、と震えた瞬間に全身に走る痛み。それでも何とか堪えて面を上げる。
視界に入ったのは夜風に棚引く柔らかな黒の影。
わずかな新月の灯りに照らされながら佇む漆黒の闇。
「あ、あな…た、は……」
少しだけ、身体に力が戻ってくる。
「た、たす、助け―――」
吐き出した血を拭いながら、唯一の光明へ縋りつくように手を伸ばす。体液に塗れた指が伸ばされて、そして―――。
ぎゃぁああぁああぁぁぁぁぁッ!!
『!?』
支部の裏側に広がる林に轟いた悲鳴に、一同は一斉に顔を上げた。
黒々とした影で佇む林に、息を飲んだのは誰だったか。
「今のは……」
「行くぞ」
全員が顔を見合わせて頷く。石畳を駆け抜けて、整備された石段が途切れた先からがさがさと茂みに分け入って。
最初に足を止めたのはカノンだった。
「あれ……」
降り注ぐ星明りに林の木々はただ陰を描き、わずかに存在する梢の合間から漏れる光が辺りを照らす。だが、その光も今夜の新月で大分弱い。
そのほの暗い光の中で、その姿は一層闇に溶けていて。
殆ど気配を感じないほどに儚く。
だが、それ故に何故か強烈なまでに瞼に焼きつく。
"彼"はこちらに気が付いているのかいないのか、いや、きっと気がついてはいるんだろう。静かに木々の合間から新月を見上げる。
青白い新月と暗い夜空と、陰を作り出す夜闇の梢が、それの輪郭をわずかに霞ませる。
「……今日は新月ですか」
くすり、と笑ったのだろうか。
「友人は満月が駄目なんだそうで、でも新月も嫌うんですよ。
満月は眩しすぎる、新月は暗すぎるんだそうで」
振り返った"彼"は微笑みを浮かべて彼女たちを出迎えた。
「あんた……」
新月を背にしたその"人"は、艶やかな黒髪と白い肌の、黒のコートと巻きつけた包帯の、モノクロのコントラストを描く。
あの、少年だった。
新月を背にするその姿は、美麗な一枚の絵にも相応しく。
けれど、
その幻想に圧倒的に不釣合いなこの鉄錆に似た不快な香りは何なんだろう―――。
「……ぅ、ぁ、ぁぁぁ…」
「・・・!」
目を向けるのさえ忘れていた。少年の足の袂から聞こえた呻きに、カノンは視線を下ろして。
思わず肩を震わせる。
そこには人が倒れていた。
どこかで見た、血だらけの銀の髪、赤黒く汚れた白いローブ。くたびれたその体は、しかし、上半身と下半身が不自然に折れ曲がり、両腕には深く刺さった杭のような白い棘。
吐き気を覚えて後退る。
「あ、あんた、ま、まさか……」
口も聞けない他のメンバーに代わり、何とか言葉を搾り出す。
少年はたった今しがた気が付いたように、ゆらり、と足元の『人間』を見下ろした。
「あ……ぁぁ、……ま、……んさま、ご、ご慈悲を……」
足元の『人間』が何事か呻く。少年はまったく表情を変えないまま、
がッ!!
「!!」
「……貴方はお喋りが過ぎますね。誰も名前を口にしていいと語った覚えはありません」
後ろ首を踏みつけた足をどけながら、呆れたように吐き出す。
そのときになって、カノンは思い出した。
WMOに拘束されていたとき、クロードが"あの方"と溢していたことを―――。
「まさか―――」
「カノン?」
「まさか、そいつに、『ヴォルケーノ』を渡した奴って、まさか―――」
「……そんなことまで喋ったんですか、貴方は」
肩を落して、少年は足元を見下ろして……いや、見下した。『ヴォルケーノ』の単語に、ルナの肩がひくり、と震えた。
「あんた……『ヴォルケーノ』を、一体どこであれを見つけたというの……ッ?」
「まあ、別にあれでなくとも良かったんですが、ね。
それにしてもいろいろ喋りすぎですね。仕方が無い」
少年は不意に、包帯に塗れた右手を振り上げた。その手には符、ほの白い光が収束し、やがて杭の形を造り出す。
「! やめッ……!!」
どしゅッ!!
思わず目を逸らす。鮮血が、闇に舞った。
少年は、
彼は、やれやれと首を振って血だらけの背中から杭を引き抜いた。暗い中に滴り落ちる血液を振るって、杭を放り捨てる。
白々しい動作で肩を竦め、
「まあ……どうせこうなるとは思っていましたから、仕方が無い」
「そいつ、あんたの配下か取引相手だったんじゃないの!?」
「……ええ、取引相手、でしたね。正確には」
口元を押さえることで吐き気を抑えながら、何とか前方に視線を投げる。少年は無残なその残骸を前にやはり、微笑みを絶やさないままで、しゃがみこんで"それ"の頭を取った。
「噛ませ犬、という言葉をご存知ですか、お嬢さん[sister]」
ぐしゃりッ
「―――っ!」
「シリアッ!」
細い指が、引きちぎられた頭部に食い込み、無残にそれは散開した。肉と脳の潰れる音がリアルに響き、少年の腕に巻かれた包帯を伝ってぼとぼとと血液とも髄液とも付かない薄赤い灰肌色のどろりとした体液が地面へ広がる。
アルティオが失神したシリアを支え、レンのマントがカノンの視界を遮る。ルナはひたすら苦い表情を浮かべながらもその場から動かない。
いや、動けないのだ。
目の前の、秀麗な雰囲気を持つ少年と。
無慈悲に引き裂かれた悲惨な骸と。
同じ空間に存在するその二つがあまりに不釣合いで。闇と同じ色をした少年は頬へ飛んだ体液をやはり微笑を浮かべたまま、静かに拭う。
優雅、とも言える動作に不和が沸き起こる。
少年はまるで空き缶を捨てるような所作でまだ手の中にあった頭部の残骸を下生えの中へ放り投げた。
「つまりは……世界はそういうもの無しでは構築出来ない程度のものなんですよ」
血の池の向こうで浮かべた少年の微笑みは、やはり圧倒的な不和をその場に漂わせるだけだった。
「……お前は何が狙いだったんだ?」
「……」
しばしして、束縛の解けたレンが静かに、しかし、どこかに怒りを孕ませて問いかける。少年は空を見つめ、ふぅー、と長い息を吐く。
「クロードが噛ませ犬でしかない、というなら、お前は一体その噛ませ犬で何をしようとしていたんだ?」
「……おかしいと思いませんでしたか?」
直接的に答えようとはせず、少年は返す刀で質問を切り返す。
「合成獣の急激な凶暴化、それに伴ってのクレイヴ=ロン=ウィンダリアの殺害、……事実、貴方方はそれがあったからこの事件に関わった。
それと、ルナ=ディスナーさん、でしたっけ?」
笑みを向けた先で、ルナが一歩退く。
「貴方のところに、最初に依頼をしに来たのは誰でした?」
彼女ははっ、と少年の足元に目をやりそうになって、慌てて逸らす。
「彼女がWMOと関わっていたからこそ、余計に事件について気がかりだったでしょう?」
「まさか貴様―――そのために……ッ!」
ゆっくりと、彼が目を細める。
「『ヴォルケーノ』に関してはまだ試験データが欲しいところだったんですが……
まあ、上出来な方です。それよりも、僕にとっては貴方方の試験データの方が重要でしてね。」
「じゃあッ! まさか、ビーチに合成獣を放ったのも、クレイヴを殺したのも……
町中に合成獣を放ったのも、クロードの合成獣を暴走させたのも……」
段々と力を失うルナの言葉に、少年は信じられないほど綺麗に、穏やかに、そして優雅ににっこりと微笑んだ。
「ええ、僕です」
と―――。
「許せないわね……」
カノンはぽつり、と呟いた。
「自分を欺こうとしていた人間に対して、ですか。人情的なことですね」
「どこの誰かは知らないけど、自分の駒を動かすために人の迷惑顧みず、そんな危なっかしいことやらかす奴を放って置けるわけないでしょ」
言ってレンのマントを払い、カノンは剣を正剣に構える。
「大体、そんなものをやらかす奴に……」
カノンの言葉もそこそこに。
彼女とレンはその場から左右に飛び退いた。
ごうッ!!
その後ろから、白い残像を描いて飛ぶ光弾が"彼"へと向かう!
ルナが放った魔法弾だ。
それは間を置かずに、少年へめり込んで風穴を空ける。少年はほんの少し、驚いたような表情でそれを見ていた。
が、
「な……ッ!?」
くぐもった呻きが漏れる。
一瞬で笑顔に戻った少年の身体は、弾が直撃した箇所から黒い塵へと霧散して消えていく。少年は笑みを湛えたまま。
「……またお会いしましょう、お嬢さん方[Sisters]」
そう唇を動かして。
"彼"の姿は完全に夜闇の塵となって消えた……。
遠くから、数人の足音が聞こえる。おそらくWMOの人間たちだろう。
町の喧騒は届いて来ない。
急激に力が抜けたように、アルティオはシリアを抱えながら地面に腰を下ろし、ルナは何かを考え込むように目を閉じている。
レンは何か渋い顔で空を見ていた。
カノンはその空気の中で、ばりばりと後ろ頭を掻いて。
「……とりあえず、ジ・エンドって言いたいところだけど―――」
―――もしかしたら、エンドどころか……
不穏な予感を胸に抱きながら、カノンは東の空に目を向けた。
夜明けは、まだ遠そうだった。
←10へ
「それは……」
「あら、砂漠の花……にしては色が変ね。何かしら?」
「カノンが拾った、と言ってたものと同じだな」
ローランが懐から取り出した白い石を見て、軽く驚いたらしいレンがマントの裏を弄った。グローブを一旦外し、取り出されたのは同じ形の、しかし大きさは違う花弁の鉱石。
誰かが息を飲んだ。
「ルナ?」
「……」
彼女の顔色が変わったのに気がついて、アルティオが声をかける。だが、彼女はそれにも気がつかずにまじまじと二つの石を見比べていた。
「おい、ルナ! ルナッ!」
「へっ、あ、ああ……」
「何してるのよ、顔色悪いわよ?」
「いや、別に……」
「それで、ローランのおっさん。それ何なんだよ?」
「……少し前、機密でクロードの部屋を捜索した際に、大量に押収されたものだ」
『おっさん』呼ばわりにか、それとも孫の奇行に対してか、眉間の皺をさらに深くしてから何かを堪えるかのように目を閉じる。
レンがそれを見つめ、手の中の石に目を走らせてから、後退るように腰を引いたルナを見る。
彼女はその追及するような目から視線を外し、脂汗を浮かべながら拳を握る。
何かに脅えるかのように。
ローランがゆっくりと目を開ける。
「今回の合成獣の製造について、大きな役割を負ったものであることに間違いはない。元クロードに付いていた者によると、クロードはこれを『獣の華』と呼んでいたそうだ。
が、我らの誰一人、これを解析出来たものはいないのだ。
多量の瘴気を放っていること、何らかの魔力の塊であることは解っているのだが、こんなものどこの文献にも記されていない。前例が全くないんだ。クロードはどこからこんなものを……」
「そう、あの子がここ二日、図書館で調べようとしてたのはこれだったのね。でも、こんな代物でここまでの騒ぎを起こすことが出来て、実用可な魔道具なんて……実例がないわけ……」
断定しかけたシリアの言葉に。
「……当然じゃない」
「……?」
被せるようにして、覇気の欠けた声が発せられた。
「実例なんかあるわけないのよ……。
それにソレは『獣の華』なんて馬鹿げた名前じゃないわ。正確には『生物活性化維持進化薬』。通称『ヴォルケーノ』。
一つの何らかの生物に寄生させると、他の周辺の生物を喰らいながら同化し、全く別の生物―――同化生物を造り出す。薬自体は体の中で溶けていずれはなくなり、薬が溶けきったときにまったく別の新生物が誕生する……」
「な……ッ!!」
その場に居たほぼ全員が呻き声を上げた。冷静にそれを聞いていたのはレンくらいのものだ。
痛いほどの視線が注がれる中で、声の主は、彼女は握った拳にさらに力を込める。滅多なことでは震えない彼女の小さな肩が、怒りか、焦燥か、はたまた恐怖か、静かに揺れている。
彼女はしばらく俯いていたが、やがてきっ、と面を上げた。
「つまりは、俗な言い方をすれば何かの生物に埋め込んでそこら辺に野放しにすると、生きている物を取り込んで勝手に合成獣を生成する危険な魔道薬。
クオノリアで発生した合成獣がまちまちでろくな造りをしていなかったのは、製作者の失敗や無駄手間なんかじゃない。単にそれしか出来なかっただけの話よ……」
「ま、待てッ!! 待て、ルナッ!! 何でお前がそんな、WMOも解析できなかったもんのことを知ってるんだよ!?」
アルティオの当然の詰問に、一瞬、ルナの言葉が切れる。
「そ、それは……」
「まさかお前、本気であいつに加担してたんじゃ……」
「じ、冗談じゃないわッ! あの程度の男に、ほいほいそれの研究を許して置くほどあたしは心の広い人間じゃないわよッ!!」
「じゃあ何でだよッ!」
「……、だ、だから……ッ!」
彼女はしばらく言葉を探しているようだった。数段、険しくなったアルティオやシリアの視線に耐えかねて、しばらくしてからゆっくりと、諦めたように息を吐き出した。
「……自分たちが造ったもののことなんて忘れるわけがないでしょ……」
「……………は?」
―――今、とんでもないことを聞いた気がしたが……
レンでさえ、一度ではその科白の意味を聞き取ることが出来なかった。軽く頭を振り払ってから、彼女に向き直る。
「ルナ、今何と言った? 悪いが聞こえなかったんだが」
「だーッ! だからッ! 『ヴォルケーノ』は昔―――あたしが『月の館』にいた頃に所属してた研究チームで造った魔道薬なのよッ!!
最も、研究してたのは如何にして生物の進化を早く促すか、絶滅危惧種の進化を促して、生体的に強化した生物を造り出すことだったんだけど、その過程の失敗作が当時、危険指定されて廃棄されたはずの『ヴォルケーノ』なのよッ!!」
「な、」
『何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!?』
シリアとアルティオの声がハモり、レンの頬を一筋の汗が伝う。
ローランもこれには驚きを隠せなかったらしい。口を半開きにしたまま、ぽかんと喚きたてる彼女を眺めている。取り巻きの男たちも右に倣えだ。
「な、何でそんな危険なもんがこんなところにぽかぽか撒かれてんだよッ!」
「知らないわよッ! あたしだって何が何だか……ッ!」
困惑とやり場のない怒りを吐き出すかのように腕を組む。
―――そういう、ことか……
ようやく、クオノリアに着いてからのルナの行動に合点がいった。昔、破棄したはずの魔道薬にそっくりの事件が起こっている。となれば、彼女の性格からして何がどうなっているのか、真相を突き止めようとするだろう。
だが、その騒ぎに巻き込まれて旧友である自分たちに何かあった日にはいくら何でも寝覚めが悪いし、合わせる顔もなくなろうと言うもの。
そこに、罪悪感が働かないわけがない。
「ルナ」
他の人間より、些か早く立ち直ったレンが声をかける。ルナは開き直ったのか何なのか、憮然と顔を上げた。
「ごたごたと追求するつもりはない。単刀直入に聞く、その『ヴォルケーノ』とは一体何なんだ?」
「……一言で説明するのは難しいんだけど……。
これ自体は瘴気と魔力の塊なのよ。要は歪んだ状況、歪んだ生体をわざと生物の中に生み出してるの。ワクチンと一緒よ。あれもわざとウィルスを体内に入れて逆に病気を防ぐでしょ?
当時、研究されてたのは逆にそういう状況を魔道的、意図的に作り出して生物の免疫機能を引き出すやり方で研究が進んでいたの。でも」
「何らかの誤作動で、瘴気が周りの生物を取り込んで強化していくようになった」
「そう。さすがにそんなもの世に出せないわ。下手すりゃ戦争よ」
「ち、ちょっと待ちなさいよッ!」
青ざめたシリアが口を挟む。
「周辺の生き物……って、それ、まさか……」
皆まで言われるよりも早く、彼女の懸念を汲み取ったルナが首を振って答える。
「人間……には作用しないように作られたわ。少なくとも当時の『ヴォルケーノ』はね。
変な改造が施されてなければ、だけど、今まで出た合成獣を見た限り、そこまで悪質な手は加えられてないみたいね。あくまで今のところ、だけど。
でも、シリアの懸念通り、一歩間違えれば強大な生物兵器になりかねないわ。
だから厳重に緘口令を強いて、関係資料から試作品まで全部燃やすなり、塵に帰すなり……だからこれは既に地上から抹消された研究だったはずなの。
あたし自身、この五年間、ただの一言だってこれのことを他人に喋ったことはないわ。
……チームの人間だって、これの完全なレシピを知っていた人間は少ないし、あの事件があって大部分の人間は亡くなったわ。今になってはそのうちの何人が生きてるのか……」
「何でそんな大事なこともっと早く言わねぇんだよッ!!」
掴みかからんばかりの勢いでアルティオが身を乗り出す。さしものルナもじりっ、と後退りながら、
「あ、あたしだって信じられなかったのよッ! この研究は確かにあのとき、水泡に帰したはずだったのッ! だから……ッ」
「本当のことが解るまで黙ってるつもりだったのかッ!? それがこの様かよッ!
お前がもっと早く言ってたらカノンは……ッ!」
「……ッ! それは、だ、だって……ッ!」
「やめろ、アルティオ」
「だ、だってよ……」
頭に血が上ったアルティオを制したのはレンだった。納得の行かない顔を歪ませる彼に、
「事件が発生したのも、カノンがこの件に絡んだのもルナの責任じゃあない。
それに、この件がその『ヴォルケーノ』のせいだと認めるなら、どこからそれが漏れたかという話になる」
「―――ッ!」
アルティオは言葉を詰まらせてそれきり黙る。
ルナは俯いて唇を噛むだけだ。
『ヴォルケーノ』の出所を疑う、とはつまり、彼女に昔の仲間を疑えと言っているのも同然なのだ。
「……わ、悪ぃ、悪かった、すまん」
「ルナ、お前もだ。下らん妄想に足を取られるなどらしくない。
お前たちがどれだけ抹消しようと、抹消段階で誰かの目や耳に入ったものが断片的にどこかに流れていたのかも知れんし、仲間の誰かを脅迫した奴が居たのかも知れん。
いかな『月の館』でも人の口に蓋など出来ないだろう、ましてや片隅の人の記憶を抹消することなど出来るはずもないだろう」
「……解ってるわよ」
「……一昔前に『月の館』で稀に見る優秀なプロジェクトチームがいたと聞いていたが……。
もしや、」
「たぶん……そうだと思います。あれほど功績を残したチームも他になかったでしょうから」
ローランの呟きに、やや誇らしげに、しかし寂しげな色を消せずに答えるルナ。
流れた感傷を、しかし、時間と状況は許さない。温まった空気を掻き斬るように、レンは剣を抜く。
「ルナ。一介の魔道師としての責任を持って答えろ。
それの研究は今何処で、クロードはどこでことを起こしているんだ?」
その問いに、ルナの表情もまた固く引き締まる。シリアとアルティオも継ぐように頷いた。
彼女は数秒、逡巡してから、
「あれの研究にはね、莫大なとは言わないけどそれなりの設備と場所を喰うわ。
あたしもクオノリアに来てから、そういったスペースのある場所を探してはこっそり調査してたけど、その中に当たりはなかった」
「何よ、それじゃダメじゃない」
茶々を入れたシリアの鼻先に、ルナの指先が突きつけられる。
「て、ことはよ?
部外者を確実に排除できる場所で、尚且つ、"研究"の名目で堂々と魔道具を弄れる場所で行われている、ってことよ」
「なるほどな」
首を傾げるシリアの横で、レンは顎に手を当てる。そのまま視線を上げ、群青の空を、そして"それ"を眺めて、
「つまり……木の葉を隠すなら森の中、というわけか」
「そういうことよ」
彼らの視線の先には、暗みを増した空を背景に佇むドームの居城―――WMOの支部が狂騒の町をただ知らぬ顔で見下ろしていた。
「……呆れたもんね」
薬品の匂いが鼻を付く。クロードが先程から何の作業をしているのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
時折、背を向けて実験用具に向かう彼の影から細く立ち上るのは何の煙なのか。つん、と鼻孔を刺激する不快な匂いに顔をしかめる。
「WMOが気に入らない、ってだけでそんな下らないもんまで作って、あまつさえ自分を庇おうとしてた実の祖父に罪を着せようとする。そこまで立派な小悪党もいないわよ」
「何とでも仰ってくれて構いませんよ。
それに……WMOが気に入らないという理由だけではありません。それだけでこんなリスクの高い真似はしませんよ。
これは事業です。至極、正当なね」
「?」
不本意だ、とでも言うようにクロードがこちらを振り向く。
「事業? 事業ってのは社会福祉と、ある正当な目的によって行使される社会活動が伴って初めて実現するもんよ。
あんたが今、やってることのどこがをどうしたら社会に貢献してるって言えるのよ?」
「……少なくとも、魔道師社会に対しては」
「思わないわね」
「いいえ、カノンさん。貴女は魔道師というものを本当の意味で理解していらっしゃらない」
低い笑い声が漏れる。クロードが何かの液体が入った試験管を傾ける。零れた液体を、別の手に持ったビーカーが拾い上げ、混ざり合った液体はしゅうしゅうと空気が漏れるような音を立てた。
「何か誤解があるようですが……。
これを造り出したのは僕ではありません。僕はこのクオノリアという牧場を使って、発展的な研究を行っていたに過ぎませんよ。スポンサーの要望に応じて、ね」
――― ……スポンサー?
カノンの眉がひくり、と上がる。
「何よ、そのスポンサーって……こんな馬鹿げた研究の成果をあんた以外にも望む奴がいる、っていうの? そこら辺に合成獣を生み出すような滅茶苦茶なもの、戦争でもやってるわけじゃあるまいし、誰が……」
言いかけて。
自分の言葉に凍りつく。
背筋を冷たい汗が流れていく。
―――いや、まさかそんなこと……
笑い飛ばしても良いような発想だった。大陸人で、誰が、そんなことを考えるはずがない。だが、ここはクオノリアだ。他の場所とは訳が違う。
はっ、と振り仰いだクロードの冷笑を讃えた顔が、それを証明していた。
「まさか、あんた……」
「そう、そのまさか、ですよ」
今、この目が届く範囲の世界で、戦争という言葉を聞いて出てくるのただの一つしかない。
尚且つ、そこはクオノリアと大陸唯一の海路を持っている。
「ゼルゼイルへの生物兵器の密輸……」
「密輸、とは言葉が悪いですね。WMOが認め、これが公的な事業になれば正当な取引となります」
「どっちにしろ犯罪よ! あんた! 正気なのッ!? どこの世界にも尻馬に乗りたがる人間は必ずいるッ! 下手すればゼルゼイルだけじゃない、西、東を巻き込んでの闘争になるわよッ!?」
「いいじゃないですか。そうなれば願ったり敵ったりですよ」
「……ッ!」
―――こいつッ!
きりッ―――カノンの奥歯が軋んだ音を立てる。クロードは半ば陶酔したような声で煙を吐き出す液体を茶色の瓶に詰めた。
「魔道師にとって何が至福なのか、何が欲なのか、解りますか、カノンさん。
自分の研究が世間に認められ、讃えられることです。今の世の中、性能のいい合成獣を造って一体誰が讃えてくれますか? 強力な攻撃魔法を発案して、誰が認めてくれるでしょうか?
……平和な世の中とはね、僕のような魔道師にとっては生きにくい場所なんですよ。
むしろ、硝煙の立つ戦場の方が力を鼓舞するのに都合がいい」
「……あんた…」
「……あの方が何を思って、何を考えて『獣の華』を僕に与えてくださったのかは解りません」
―――あの方?
カノンの眉間に皺が寄る。だが、浮かんだ疑問を思考するより前に、近づいてきたクロードの手にあるものに思わず声を漏らす。
何かの薬の小瓶。
いい発想が働くはずが無い。
日に焼けていない白い手が、断りもなしに首筋に触れた。駆け抜けた寒気に鳥肌が立つ。
「ですが。
あんな方に認めてもらえるなど、人生で一回のチャンスだと思った。これでもう、僕は狭い檻の中でじっとしている必要などなくなったのですからね」
「そりゃ随分とおめでたい話ね……」
「……貴女は実に美しい身体をしていらっしゃる」
嘗め回すような視線に嫌悪感が募る。瞳の奥に潜んだ狂気。何度も見てきてはいるが、なれるものじゃない。
クロードの手が頬に触れる。振り払いたいのは山々だが、拘束具が邪魔をする。
「……合成獣の最低の条件、というものを知っていますか?」
「……術者の言うことに従うこと、ね」
「良くご存知で。しかし、従来の合成獣は己の創造主にしか従わないのが普通でした。
僕は本来、その一歩突っ込んだ研究をしていましてね……誰にでも操れる、意志のある獣の研究をしているんです。
……どうすればそれが出来ると思います?」
「……」
「……もともと人の意志を汲み取り、動けるものを合成すること、です。
例えば、人間とか、ね」
「―――くはッ!」
カノンの背に戦慄が走った。
締め上げられた喉から、空気が漏れた。
「ご安心ください。せっかくこんなに美しい身体を無骨なようにはしませんよ。
それにすぐ、お仲間も参ります。寂しくは、ないですから」
白濁していく視界の向こうで、クロードの低い哄笑が響く。歯を食い縛り、意識を繋ぐが、それも時間の問題だと知れた。
胸のどこかで覚悟を決める。
今一度、クロードの青黒い瞳を睨みつけようとした、そのときだった。
「従えシルフィードッ!!」
きゅどどどど、ひゅんッ!!!
……いつもは疫病神に思えるその声が、今だけは天使の福音にさえ聞こえた。
解放された喉にようやく酸素が入ってくる。だが、急激に離された喉はその痛みに耐え切れずに、何度か咽た。
それを繰り返しているうちに、今度はきんッ、と軽やかな金属音と共に体が床に落ちる。
と、思えば途中でひょい、と難なく受け止められて抱き上げられた。
「まったく毎度ながら、手間をかけさせるな」
「ごめ、けほッ、ごめん……」
耳慣れたテノールに、咳き込みながら何とか答える。
酸素不足でぼんやりとした頭を振って、顔を上げると予想通りの仏頂面が呆れた表情で立っていた。安堵感と抱えられた腕越しの体温が嫌に懐かしい。
「貴様ら……ッ! どうしてここにッ!」
先の一撃はどうにか避けたらしい。少し離れた場所に、クロードが右足を押さえながら立っていた。抑えた足からは、少量の血液が石の床に染みを作っている。
避けれはしたが、避けきれなかった、というところか。
「……あんたの配下が全部吐いたわ」
かつん、とブーツが石床を叩く音。
気がつくと、ランプの光がちらつく扉の前に緑青の瞳をした魔道師が立っていた。
「ば、馬鹿なッ! 何を弱気になって……ッ!」
「ま、確かに結構強情だったけどさ。さすがにね、町中に合成獣大量発生なんかやっちゃあね、知ってること吐いて、少しでも罪を軽くしようとするでしょ、誰だって」
彼女の言葉に、ひたり、とクロードの顔色が変わる。
「ま、町中……だって? 何だ、それはッ! 僕はそんなことは命じてないッ!」
「誰がやったかは知らないけど、あんたが発端なのは確か。今さら言い逃れは聞かないわよ」
―――ルナ?
何かを押し込めたような、硬い声。
「レン、あいつ、何かいつになく怒ってる……わきゃッ!」
尋ねる途中でいきなり肩に担がれた。そのまま一足飛びに、彼女の立つ地点まで下がらせられる。
間近まで下がって気づく。
響く呪文詠唱。
―――ルナ……
いつもの余裕が無い。唱えている呪文にも、何の容赦も無い。
おそらくは、一撃で終わるだろう。
「まッ、まだだッ! 僕はまだ……ッ!」
「我放つ、跪くは悪しきを砕く砕光の末裔、貫けファンネイルッ!!!」
どぉぉぉおおぉぉおぉッ!!!
轟音を立てて、放たれた光と炎がラボ全体を埋め尽くす。反動で起こった風に、体ごと飛ばされそうになった。
虞風に傾ぐ身体をレンに支えられながら、眩しい光を手で防ぎながらカノンはその光を生み出す彼女の方を見た。
「ルナ……」
「……ごめん。これだけは、許せなかった」
光が弱まっていく。
カノンは首を振って正面を見据え、そして。
―――ッ!!
晴れていく視界の中にそれを認めて、驚愕に顔を引き攣らせる。
影が、立っていた。
人より数段大きなそれが、立ち尽くす彼を庇うかのように佇んでいる。薄闇の中で、不意に彼を庇うのに使ったのか、『それ』の右腕がぼろり、と崩れて炭と化した。
人より頭三つ分は大きい。
限りなく人に近い肉体。しかし、表面は人の肌のそれではなく、硬質化した鋼のような灰色の物質で覆われている。表情はなく、ただのっぺりとした仮面のような仮の顔が申し訳程度についていて、無事だった左腕が動かされるたびにぎしぎしと嫌な音を立てた。
人に近い、しかし、明らかに人ではない痩躯。
「何、あれ……」
「人間に見えるようならお前の目を疑うな」
こういうとき、彼は判断が早い。片手に携えていた剣鎌をカノンに放って寄こすと、自分は正面に剣を構える。
崩れた腕の後ろから、服を焦がした、しかし傷一つ無いクロードが一歩、歩み出る。
「無駄な抵抗は止めた方がいいわよ」
「うるさいッ! 僕は、僕はこんなところで終われないんだよッ!!」
吼えると同時に、"それ"の左腕が動く。
がしゃぁぁああぁぁああぁんッ!!
鋼の腕はすぐ側の、用水を湛えていたガラスーケースを粉砕した。中に見えていた黒い影が傾ぐ。
が、それが白日に晒されるより先に、
どしゅ……ッ!
めり込んだ左腕が、その二メートルほどの影に突き刺さる。
そして、
「―――ッ!?」
目の前で起こった現象に、その場にいた全員が呻く。
用水の中の影は痙攣を繰り返し、次第に小さく萎縮していく。その代わり、
ずるッ、ズズッ……
生々しい何かが蠢くような音。
"それ"は数度、肩を震わせた後、右肩を振る。空を切る音が響いて、炭化したはずの腕が新たに生えた。
「な……ッ!?」
「ルナ、あれは何だッ?」
「知らないわよ! 『ヴォルケーノ』にあんな気色の悪い機能はないッ!」
「ヴぉ、『ヴォル』……?」
「カノン、後で説明する。今は目の前に集中しろ」
「ら、らじゃーッ」
背中を叩かれて我に帰る。視線を戻した先で、クロードが低く笑っていた。
「……驚いてるみたいだけど」
―――驚くって言うか気色悪い。
素直な感想が脳裏に浮かぶ。
「この魔道生物は『獣の華』を改良してで僕が生成したものでね……本来、合成が難しい魔物の類を合成可能にしてある。
本来、体内で消えてしまう『獣の華』だけど、そんな勿体無いことがあるかい。
こいつに埋め込んだ『獣の華』は体内に残り、周囲の生物の生命力を常に奪っていく。倒すのは不可能さ」
カノンは改めて鋼の獣を見上げる。確かに、無くなったはずの腕が完全に再生してしまっている。ということは周辺に生命力を持つ生物が―――例えばネズミでもごきぶりでもいれば、それらの生命力を吸収すれば、無限に稼動し続ける……ということだろうか。
……無酸素空間でも作り出さない限り、生物のいない空間なんてこの世界中のどこにもないだろう。
「ルナ、何かないか?」
「あたしに聞けばどうにかなると思ってない? 無理よッ!」
「実際、あれに一番詳しいのはお前なんだろう?」
「そうだけど……」
何やら騒ぎ立てる二人を尻目に、カノンは剣鎌を握り直す。右足を庇いながらも嘲笑を浮かべたままのクロードを睨み、今一度、『獣』の方へ目をやって、
―――?
先程の術で焼け焦げて穴の開いた天井から、何かが落ちてくるのに気がついた。白い……小さくて、ひらべったい……
それの正体に気がつくよりも先に、それは『獣』の頭上へと張り付く。
こちらを見据えたままのクロードは、それに気がつかない。
ぴきッ!
かすかな、何かが割れ爆ぜるような音がした。しかし、クロードはそれが壁か天井が軋む音だと判断したらしい。
ローブの裾を振るってこちらへと手を伸ばし、
「あいつらを片付けろッ!」
自らの造り出した生命に、命令を下す。
『獣』の体が揺らぎ、軋み、反射的に構えを取って、
「え―――?」
ぎッ……がしゃぁぁあああぁんッ!!
『な……ッ!!』
『獣』が振るった腕の一撃は、まともにクロードの胴を凪いでいた。
「がッ、かはッ……!」
壁に叩きつけられ、ずるりと背中から床に落ちたクロードが胃液混じりの血液を撒き散らす。白い魔道服が赤黒い斑紋に染まる。
あばらの一、二本はイカれているのかもしれない。
そのまま失神したのか、がくりと頭を落して動きを止める。
「い、今のは……」
こちらへ攻撃しようとして巻き込まれたようには見えなかった。そう、"こいつ"は明らかに創造主であるはずのクロードを"襲った"のだ。
地響きのような『獣』の呻きがラボに響く。
ぐ、ぁ、あああぁぁぁぁあああぁぁあッ!!
『ッ!?』
雄叫びが上がる。
ぶるッ、と『獣』の体が震えた。
ばきッ、ぴき、びきびきびきッ!!
「な……」
「あれは……」
金属の軋むような音が轟く。『獣』の体が揺れて、頭の上から黒い線が走る。まるで『獣』本体を侵食していくように、黒い線は『獣』の頭を喰らい、体そのものに幾筋も、幾筋も走り抜けていく。
やがて、
鋼と黒い影に構成された奇妙な生物が、そこに出来上がる。
おおおおおおおおおおおッ!!
「これ……」
茫然としたルナの呟きが、『獣』の叫びに掻き消された。
「シリアッ!」
「結するは氷結の陣秦、凍れダイナストフォースッ!!」
シリアの一声に、その通りに陣取っていたヤドカリの巨体が氷に覆われる。
氷の巨像を前に、アルティオが額に浮かんだ汗を拭った。
「ったく、何体いるんだよ。こいつら……」
「そんなもの私がわかるわけないでしょ。あっちが片付くまで、何とかこっちで始末していくしかないわよ」
「そりゃそうだろーけどなぁ……」
町の喧騒は収まるどころか、一層高まっている。WMOと政団が共同で非難勧告を出しているようだが、もともとこのシーズンは人が多い。容易ではないのだろう。
シリアが珍しく溜め息を吐いて腰に剣を収める。
「ともかく、早く片をつけてレンたちを追わないと……あの女、どさくさに紛れて私のレンに何するか……」
さしものアルティオも呆れて突っ込もうと口を開きかけたときだった。
ぎゃぃいぃあぁああああぁぁあぁッ!!
『!』
ビーチ脇の椰子の陰から響く雄叫びが一つ。
慣れてしまったもので、シリアが小声で呪文を唱え、アルティオが双剣を担ぐように構える。
石段を飛ぶようにしてアルティオが駆ける。が、
「!?」
現れた合成獣の動きが、急激にひたりっ、と止まる。
そして、
ぱんッ!!!
「!!?」
やおら、乾いた音を立てて獣が破裂する。それは赤黒い体液を撒き散らすかと思いきや、黒い塵となって空に掻き消える。
その最期は、あまりにも、呆気なさすぎた。
降り注ぐ細かい黒の塵に、アルティオも足を止め、シリアは呪文を唱えることも忘れて、唖然と獣が一瞬で姿を消した空を眺めていた。
しばらくして、最初に気がついたのはシリアだった。
町の喧騒が、あれだけ響いていた喧騒が、いつの間にか嘘のように消え失せていることを。
顔を上げる。
その一瞬に、
「―――?」
間近に立つ店の高い屋根の上を、黒い影が一つ、行き過ぎて消えたような気がした。
がこんッ!!
黒い筋の走る長い腕が、間近な壁を粉砕した。その煙に紛れてダッシュを駆ける。
―――まあ、つまりは逃げてるだけなんだけど……
「……で、その『ヴォルケーノ』については一通り解ったけど…」
どがッ!!
紙一重で交わしたすぐ頭上の天井が支えを失って落下して来る。前方に滑り込むようにして残骸を避ける。
「どーゆーことよッ! これッ! まるっきり凶暴化してるじゃないッ!」
「そんなこと知らないわよッ!」
器用にも走りながら口論を続ける女二人に、併走しながらレンは後方を盗み見る。制御を失った『獣』は、破壊を繰り返しながらひたひたと、こちらを確実に追いかけて来ている。
いくらWMOの建物が頑丈で、広いといってもこれでは、
「まずいな。あの調子ではいつ建物の軸を破壊するか知れんぞ」
「ちょっと! この中、証人がいっぱいいるんだからそれ困るわよ!!」
「困ると言ってもどうすればいい?」
「うぐッ……」
問い返されてルナは返答に詰まる。
クロードが『ヴォルケーノ』にどんな細工を施したかは解らない。何がこの暴走を引き起こしているかも解らない。
「加えてあの再生能力だ、生半可な術では効くまい。それとも町がクレーターになる覚悟でお前の大技を撃つか?」
「そんなこと出来るかッ! あんたこそ人に頼ってないで何か考えてよ!」
「人任せにするな。それにさっきから考えている」
「何かないのッ!?」
「人道に外れても構わないならあるだろうが……」
「だからクレーターは禁止ッ!」
伸縮して襲い来る腕の爪を交わしながらルナが悪態を吐く。自分に絡んで来た爪を切り落としながら、(もっとも一瞬で元の長さに戻ってしまうので付け焼刃だが)レンは眉間に皺を寄せる。
その視線がふと傍らを走るカノンに止まる。
「……」
「……何?」
「いや……。
ルナ、『ヴォルケーノ』はもともと生物進化を促すためのものだ、と言っていたな?」
「そーよ!」
「あれは何で造られていると言っていたか?」
「だからッ、わざと歪みを与えて進化させるために……ッ!」
言いかけて、彼女もまた気がついたらしい。ばっ、と身を翻し、カノンへ目を止めて。
「―――?」
「なるほど……なんとか」
「なるかもしれんな、おそらくは」
←9へ
「あら、砂漠の花……にしては色が変ね。何かしら?」
「カノンが拾った、と言ってたものと同じだな」
ローランが懐から取り出した白い石を見て、軽く驚いたらしいレンがマントの裏を弄った。グローブを一旦外し、取り出されたのは同じ形の、しかし大きさは違う花弁の鉱石。
誰かが息を飲んだ。
「ルナ?」
「……」
彼女の顔色が変わったのに気がついて、アルティオが声をかける。だが、彼女はそれにも気がつかずにまじまじと二つの石を見比べていた。
「おい、ルナ! ルナッ!」
「へっ、あ、ああ……」
「何してるのよ、顔色悪いわよ?」
「いや、別に……」
「それで、ローランのおっさん。それ何なんだよ?」
「……少し前、機密でクロードの部屋を捜索した際に、大量に押収されたものだ」
『おっさん』呼ばわりにか、それとも孫の奇行に対してか、眉間の皺をさらに深くしてから何かを堪えるかのように目を閉じる。
レンがそれを見つめ、手の中の石に目を走らせてから、後退るように腰を引いたルナを見る。
彼女はその追及するような目から視線を外し、脂汗を浮かべながら拳を握る。
何かに脅えるかのように。
ローランがゆっくりと目を開ける。
「今回の合成獣の製造について、大きな役割を負ったものであることに間違いはない。元クロードに付いていた者によると、クロードはこれを『獣の華』と呼んでいたそうだ。
が、我らの誰一人、これを解析出来たものはいないのだ。
多量の瘴気を放っていること、何らかの魔力の塊であることは解っているのだが、こんなものどこの文献にも記されていない。前例が全くないんだ。クロードはどこからこんなものを……」
「そう、あの子がここ二日、図書館で調べようとしてたのはこれだったのね。でも、こんな代物でここまでの騒ぎを起こすことが出来て、実用可な魔道具なんて……実例がないわけ……」
断定しかけたシリアの言葉に。
「……当然じゃない」
「……?」
被せるようにして、覇気の欠けた声が発せられた。
「実例なんかあるわけないのよ……。
それにソレは『獣の華』なんて馬鹿げた名前じゃないわ。正確には『生物活性化維持進化薬』。通称『ヴォルケーノ』。
一つの何らかの生物に寄生させると、他の周辺の生物を喰らいながら同化し、全く別の生物―――同化生物を造り出す。薬自体は体の中で溶けていずれはなくなり、薬が溶けきったときにまったく別の新生物が誕生する……」
「な……ッ!!」
その場に居たほぼ全員が呻き声を上げた。冷静にそれを聞いていたのはレンくらいのものだ。
痛いほどの視線が注がれる中で、声の主は、彼女は握った拳にさらに力を込める。滅多なことでは震えない彼女の小さな肩が、怒りか、焦燥か、はたまた恐怖か、静かに揺れている。
彼女はしばらく俯いていたが、やがてきっ、と面を上げた。
「つまりは、俗な言い方をすれば何かの生物に埋め込んでそこら辺に野放しにすると、生きている物を取り込んで勝手に合成獣を生成する危険な魔道薬。
クオノリアで発生した合成獣がまちまちでろくな造りをしていなかったのは、製作者の失敗や無駄手間なんかじゃない。単にそれしか出来なかっただけの話よ……」
「ま、待てッ!! 待て、ルナッ!! 何でお前がそんな、WMOも解析できなかったもんのことを知ってるんだよ!?」
アルティオの当然の詰問に、一瞬、ルナの言葉が切れる。
「そ、それは……」
「まさかお前、本気であいつに加担してたんじゃ……」
「じ、冗談じゃないわッ! あの程度の男に、ほいほいそれの研究を許して置くほどあたしは心の広い人間じゃないわよッ!!」
「じゃあ何でだよッ!」
「……、だ、だから……ッ!」
彼女はしばらく言葉を探しているようだった。数段、険しくなったアルティオやシリアの視線に耐えかねて、しばらくしてからゆっくりと、諦めたように息を吐き出した。
「……自分たちが造ったもののことなんて忘れるわけがないでしょ……」
「……………は?」
―――今、とんでもないことを聞いた気がしたが……
レンでさえ、一度ではその科白の意味を聞き取ることが出来なかった。軽く頭を振り払ってから、彼女に向き直る。
「ルナ、今何と言った? 悪いが聞こえなかったんだが」
「だーッ! だからッ! 『ヴォルケーノ』は昔―――あたしが『月の館』にいた頃に所属してた研究チームで造った魔道薬なのよッ!!
最も、研究してたのは如何にして生物の進化を早く促すか、絶滅危惧種の進化を促して、生体的に強化した生物を造り出すことだったんだけど、その過程の失敗作が当時、危険指定されて廃棄されたはずの『ヴォルケーノ』なのよッ!!」
「な、」
『何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!?』
シリアとアルティオの声がハモり、レンの頬を一筋の汗が伝う。
ローランもこれには驚きを隠せなかったらしい。口を半開きにしたまま、ぽかんと喚きたてる彼女を眺めている。取り巻きの男たちも右に倣えだ。
「な、何でそんな危険なもんがこんなところにぽかぽか撒かれてんだよッ!」
「知らないわよッ! あたしだって何が何だか……ッ!」
困惑とやり場のない怒りを吐き出すかのように腕を組む。
―――そういう、ことか……
ようやく、クオノリアに着いてからのルナの行動に合点がいった。昔、破棄したはずの魔道薬にそっくりの事件が起こっている。となれば、彼女の性格からして何がどうなっているのか、真相を突き止めようとするだろう。
だが、その騒ぎに巻き込まれて旧友である自分たちに何かあった日にはいくら何でも寝覚めが悪いし、合わせる顔もなくなろうと言うもの。
そこに、罪悪感が働かないわけがない。
「ルナ」
他の人間より、些か早く立ち直ったレンが声をかける。ルナは開き直ったのか何なのか、憮然と顔を上げた。
「ごたごたと追求するつもりはない。単刀直入に聞く、その『ヴォルケーノ』とは一体何なんだ?」
「……一言で説明するのは難しいんだけど……。
これ自体は瘴気と魔力の塊なのよ。要は歪んだ状況、歪んだ生体をわざと生物の中に生み出してるの。ワクチンと一緒よ。あれもわざとウィルスを体内に入れて逆に病気を防ぐでしょ?
当時、研究されてたのは逆にそういう状況を魔道的、意図的に作り出して生物の免疫機能を引き出すやり方で研究が進んでいたの。でも」
「何らかの誤作動で、瘴気が周りの生物を取り込んで強化していくようになった」
「そう。さすがにそんなもの世に出せないわ。下手すりゃ戦争よ」
「ち、ちょっと待ちなさいよッ!」
青ざめたシリアが口を挟む。
「周辺の生き物……って、それ、まさか……」
皆まで言われるよりも早く、彼女の懸念を汲み取ったルナが首を振って答える。
「人間……には作用しないように作られたわ。少なくとも当時の『ヴォルケーノ』はね。
変な改造が施されてなければ、だけど、今まで出た合成獣を見た限り、そこまで悪質な手は加えられてないみたいね。あくまで今のところ、だけど。
でも、シリアの懸念通り、一歩間違えれば強大な生物兵器になりかねないわ。
だから厳重に緘口令を強いて、関係資料から試作品まで全部燃やすなり、塵に帰すなり……だからこれは既に地上から抹消された研究だったはずなの。
あたし自身、この五年間、ただの一言だってこれのことを他人に喋ったことはないわ。
……チームの人間だって、これの完全なレシピを知っていた人間は少ないし、あの事件があって大部分の人間は亡くなったわ。今になってはそのうちの何人が生きてるのか……」
「何でそんな大事なこともっと早く言わねぇんだよッ!!」
掴みかからんばかりの勢いでアルティオが身を乗り出す。さしものルナもじりっ、と後退りながら、
「あ、あたしだって信じられなかったのよッ! この研究は確かにあのとき、水泡に帰したはずだったのッ! だから……ッ」
「本当のことが解るまで黙ってるつもりだったのかッ!? それがこの様かよッ!
お前がもっと早く言ってたらカノンは……ッ!」
「……ッ! それは、だ、だって……ッ!」
「やめろ、アルティオ」
「だ、だってよ……」
頭に血が上ったアルティオを制したのはレンだった。納得の行かない顔を歪ませる彼に、
「事件が発生したのも、カノンがこの件に絡んだのもルナの責任じゃあない。
それに、この件がその『ヴォルケーノ』のせいだと認めるなら、どこからそれが漏れたかという話になる」
「―――ッ!」
アルティオは言葉を詰まらせてそれきり黙る。
ルナは俯いて唇を噛むだけだ。
『ヴォルケーノ』の出所を疑う、とはつまり、彼女に昔の仲間を疑えと言っているのも同然なのだ。
「……わ、悪ぃ、悪かった、すまん」
「ルナ、お前もだ。下らん妄想に足を取られるなどらしくない。
お前たちがどれだけ抹消しようと、抹消段階で誰かの目や耳に入ったものが断片的にどこかに流れていたのかも知れんし、仲間の誰かを脅迫した奴が居たのかも知れん。
いかな『月の館』でも人の口に蓋など出来ないだろう、ましてや片隅の人の記憶を抹消することなど出来るはずもないだろう」
「……解ってるわよ」
「……一昔前に『月の館』で稀に見る優秀なプロジェクトチームがいたと聞いていたが……。
もしや、」
「たぶん……そうだと思います。あれほど功績を残したチームも他になかったでしょうから」
ローランの呟きに、やや誇らしげに、しかし寂しげな色を消せずに答えるルナ。
流れた感傷を、しかし、時間と状況は許さない。温まった空気を掻き斬るように、レンは剣を抜く。
「ルナ。一介の魔道師としての責任を持って答えろ。
それの研究は今何処で、クロードはどこでことを起こしているんだ?」
その問いに、ルナの表情もまた固く引き締まる。シリアとアルティオも継ぐように頷いた。
彼女は数秒、逡巡してから、
「あれの研究にはね、莫大なとは言わないけどそれなりの設備と場所を喰うわ。
あたしもクオノリアに来てから、そういったスペースのある場所を探してはこっそり調査してたけど、その中に当たりはなかった」
「何よ、それじゃダメじゃない」
茶々を入れたシリアの鼻先に、ルナの指先が突きつけられる。
「て、ことはよ?
部外者を確実に排除できる場所で、尚且つ、"研究"の名目で堂々と魔道具を弄れる場所で行われている、ってことよ」
「なるほどな」
首を傾げるシリアの横で、レンは顎に手を当てる。そのまま視線を上げ、群青の空を、そして"それ"を眺めて、
「つまり……木の葉を隠すなら森の中、というわけか」
「そういうことよ」
彼らの視線の先には、暗みを増した空を背景に佇むドームの居城―――WMOの支部が狂騒の町をただ知らぬ顔で見下ろしていた。
「……呆れたもんね」
薬品の匂いが鼻を付く。クロードが先程から何の作業をしているのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
時折、背を向けて実験用具に向かう彼の影から細く立ち上るのは何の煙なのか。つん、と鼻孔を刺激する不快な匂いに顔をしかめる。
「WMOが気に入らない、ってだけでそんな下らないもんまで作って、あまつさえ自分を庇おうとしてた実の祖父に罪を着せようとする。そこまで立派な小悪党もいないわよ」
「何とでも仰ってくれて構いませんよ。
それに……WMOが気に入らないという理由だけではありません。それだけでこんなリスクの高い真似はしませんよ。
これは事業です。至極、正当なね」
「?」
不本意だ、とでも言うようにクロードがこちらを振り向く。
「事業? 事業ってのは社会福祉と、ある正当な目的によって行使される社会活動が伴って初めて実現するもんよ。
あんたが今、やってることのどこがをどうしたら社会に貢献してるって言えるのよ?」
「……少なくとも、魔道師社会に対しては」
「思わないわね」
「いいえ、カノンさん。貴女は魔道師というものを本当の意味で理解していらっしゃらない」
低い笑い声が漏れる。クロードが何かの液体が入った試験管を傾ける。零れた液体を、別の手に持ったビーカーが拾い上げ、混ざり合った液体はしゅうしゅうと空気が漏れるような音を立てた。
「何か誤解があるようですが……。
これを造り出したのは僕ではありません。僕はこのクオノリアという牧場を使って、発展的な研究を行っていたに過ぎませんよ。スポンサーの要望に応じて、ね」
――― ……スポンサー?
カノンの眉がひくり、と上がる。
「何よ、そのスポンサーって……こんな馬鹿げた研究の成果をあんた以外にも望む奴がいる、っていうの? そこら辺に合成獣を生み出すような滅茶苦茶なもの、戦争でもやってるわけじゃあるまいし、誰が……」
言いかけて。
自分の言葉に凍りつく。
背筋を冷たい汗が流れていく。
―――いや、まさかそんなこと……
笑い飛ばしても良いような発想だった。大陸人で、誰が、そんなことを考えるはずがない。だが、ここはクオノリアだ。他の場所とは訳が違う。
はっ、と振り仰いだクロードの冷笑を讃えた顔が、それを証明していた。
「まさか、あんた……」
「そう、そのまさか、ですよ」
今、この目が届く範囲の世界で、戦争という言葉を聞いて出てくるのただの一つしかない。
尚且つ、そこはクオノリアと大陸唯一の海路を持っている。
「ゼルゼイルへの生物兵器の密輸……」
「密輸、とは言葉が悪いですね。WMOが認め、これが公的な事業になれば正当な取引となります」
「どっちにしろ犯罪よ! あんた! 正気なのッ!? どこの世界にも尻馬に乗りたがる人間は必ずいるッ! 下手すればゼルゼイルだけじゃない、西、東を巻き込んでの闘争になるわよッ!?」
「いいじゃないですか。そうなれば願ったり敵ったりですよ」
「……ッ!」
―――こいつッ!
きりッ―――カノンの奥歯が軋んだ音を立てる。クロードは半ば陶酔したような声で煙を吐き出す液体を茶色の瓶に詰めた。
「魔道師にとって何が至福なのか、何が欲なのか、解りますか、カノンさん。
自分の研究が世間に認められ、讃えられることです。今の世の中、性能のいい合成獣を造って一体誰が讃えてくれますか? 強力な攻撃魔法を発案して、誰が認めてくれるでしょうか?
……平和な世の中とはね、僕のような魔道師にとっては生きにくい場所なんですよ。
むしろ、硝煙の立つ戦場の方が力を鼓舞するのに都合がいい」
「……あんた…」
「……あの方が何を思って、何を考えて『獣の華』を僕に与えてくださったのかは解りません」
―――あの方?
カノンの眉間に皺が寄る。だが、浮かんだ疑問を思考するより前に、近づいてきたクロードの手にあるものに思わず声を漏らす。
何かの薬の小瓶。
いい発想が働くはずが無い。
日に焼けていない白い手が、断りもなしに首筋に触れた。駆け抜けた寒気に鳥肌が立つ。
「ですが。
あんな方に認めてもらえるなど、人生で一回のチャンスだと思った。これでもう、僕は狭い檻の中でじっとしている必要などなくなったのですからね」
「そりゃ随分とおめでたい話ね……」
「……貴女は実に美しい身体をしていらっしゃる」
嘗め回すような視線に嫌悪感が募る。瞳の奥に潜んだ狂気。何度も見てきてはいるが、なれるものじゃない。
クロードの手が頬に触れる。振り払いたいのは山々だが、拘束具が邪魔をする。
「……合成獣の最低の条件、というものを知っていますか?」
「……術者の言うことに従うこと、ね」
「良くご存知で。しかし、従来の合成獣は己の創造主にしか従わないのが普通でした。
僕は本来、その一歩突っ込んだ研究をしていましてね……誰にでも操れる、意志のある獣の研究をしているんです。
……どうすればそれが出来ると思います?」
「……」
「……もともと人の意志を汲み取り、動けるものを合成すること、です。
例えば、人間とか、ね」
「―――くはッ!」
カノンの背に戦慄が走った。
締め上げられた喉から、空気が漏れた。
「ご安心ください。せっかくこんなに美しい身体を無骨なようにはしませんよ。
それにすぐ、お仲間も参ります。寂しくは、ないですから」
白濁していく視界の向こうで、クロードの低い哄笑が響く。歯を食い縛り、意識を繋ぐが、それも時間の問題だと知れた。
胸のどこかで覚悟を決める。
今一度、クロードの青黒い瞳を睨みつけようとした、そのときだった。
「従えシルフィードッ!!」
きゅどどどど、ひゅんッ!!!
……いつもは疫病神に思えるその声が、今だけは天使の福音にさえ聞こえた。
解放された喉にようやく酸素が入ってくる。だが、急激に離された喉はその痛みに耐え切れずに、何度か咽た。
それを繰り返しているうちに、今度はきんッ、と軽やかな金属音と共に体が床に落ちる。
と、思えば途中でひょい、と難なく受け止められて抱き上げられた。
「まったく毎度ながら、手間をかけさせるな」
「ごめ、けほッ、ごめん……」
耳慣れたテノールに、咳き込みながら何とか答える。
酸素不足でぼんやりとした頭を振って、顔を上げると予想通りの仏頂面が呆れた表情で立っていた。安堵感と抱えられた腕越しの体温が嫌に懐かしい。
「貴様ら……ッ! どうしてここにッ!」
先の一撃はどうにか避けたらしい。少し離れた場所に、クロードが右足を押さえながら立っていた。抑えた足からは、少量の血液が石の床に染みを作っている。
避けれはしたが、避けきれなかった、というところか。
「……あんたの配下が全部吐いたわ」
かつん、とブーツが石床を叩く音。
気がつくと、ランプの光がちらつく扉の前に緑青の瞳をした魔道師が立っていた。
「ば、馬鹿なッ! 何を弱気になって……ッ!」
「ま、確かに結構強情だったけどさ。さすがにね、町中に合成獣大量発生なんかやっちゃあね、知ってること吐いて、少しでも罪を軽くしようとするでしょ、誰だって」
彼女の言葉に、ひたり、とクロードの顔色が変わる。
「ま、町中……だって? 何だ、それはッ! 僕はそんなことは命じてないッ!」
「誰がやったかは知らないけど、あんたが発端なのは確か。今さら言い逃れは聞かないわよ」
―――ルナ?
何かを押し込めたような、硬い声。
「レン、あいつ、何かいつになく怒ってる……わきゃッ!」
尋ねる途中でいきなり肩に担がれた。そのまま一足飛びに、彼女の立つ地点まで下がらせられる。
間近まで下がって気づく。
響く呪文詠唱。
―――ルナ……
いつもの余裕が無い。唱えている呪文にも、何の容赦も無い。
おそらくは、一撃で終わるだろう。
「まッ、まだだッ! 僕はまだ……ッ!」
「我放つ、跪くは悪しきを砕く砕光の末裔、貫けファンネイルッ!!!」
どぉぉぉおおぉぉおぉッ!!!
轟音を立てて、放たれた光と炎がラボ全体を埋め尽くす。反動で起こった風に、体ごと飛ばされそうになった。
虞風に傾ぐ身体をレンに支えられながら、眩しい光を手で防ぎながらカノンはその光を生み出す彼女の方を見た。
「ルナ……」
「……ごめん。これだけは、許せなかった」
光が弱まっていく。
カノンは首を振って正面を見据え、そして。
―――ッ!!
晴れていく視界の中にそれを認めて、驚愕に顔を引き攣らせる。
影が、立っていた。
人より数段大きなそれが、立ち尽くす彼を庇うかのように佇んでいる。薄闇の中で、不意に彼を庇うのに使ったのか、『それ』の右腕がぼろり、と崩れて炭と化した。
人より頭三つ分は大きい。
限りなく人に近い肉体。しかし、表面は人の肌のそれではなく、硬質化した鋼のような灰色の物質で覆われている。表情はなく、ただのっぺりとした仮面のような仮の顔が申し訳程度についていて、無事だった左腕が動かされるたびにぎしぎしと嫌な音を立てた。
人に近い、しかし、明らかに人ではない痩躯。
「何、あれ……」
「人間に見えるようならお前の目を疑うな」
こういうとき、彼は判断が早い。片手に携えていた剣鎌をカノンに放って寄こすと、自分は正面に剣を構える。
崩れた腕の後ろから、服を焦がした、しかし傷一つ無いクロードが一歩、歩み出る。
「無駄な抵抗は止めた方がいいわよ」
「うるさいッ! 僕は、僕はこんなところで終われないんだよッ!!」
吼えると同時に、"それ"の左腕が動く。
がしゃぁぁああぁぁああぁんッ!!
鋼の腕はすぐ側の、用水を湛えていたガラスーケースを粉砕した。中に見えていた黒い影が傾ぐ。
が、それが白日に晒されるより先に、
どしゅ……ッ!
めり込んだ左腕が、その二メートルほどの影に突き刺さる。
そして、
「―――ッ!?」
目の前で起こった現象に、その場にいた全員が呻く。
用水の中の影は痙攣を繰り返し、次第に小さく萎縮していく。その代わり、
ずるッ、ズズッ……
生々しい何かが蠢くような音。
"それ"は数度、肩を震わせた後、右肩を振る。空を切る音が響いて、炭化したはずの腕が新たに生えた。
「な……ッ!?」
「ルナ、あれは何だッ?」
「知らないわよ! 『ヴォルケーノ』にあんな気色の悪い機能はないッ!」
「ヴぉ、『ヴォル』……?」
「カノン、後で説明する。今は目の前に集中しろ」
「ら、らじゃーッ」
背中を叩かれて我に帰る。視線を戻した先で、クロードが低く笑っていた。
「……驚いてるみたいだけど」
―――驚くって言うか気色悪い。
素直な感想が脳裏に浮かぶ。
「この魔道生物は『獣の華』を改良してで僕が生成したものでね……本来、合成が難しい魔物の類を合成可能にしてある。
本来、体内で消えてしまう『獣の華』だけど、そんな勿体無いことがあるかい。
こいつに埋め込んだ『獣の華』は体内に残り、周囲の生物の生命力を常に奪っていく。倒すのは不可能さ」
カノンは改めて鋼の獣を見上げる。確かに、無くなったはずの腕が完全に再生してしまっている。ということは周辺に生命力を持つ生物が―――例えばネズミでもごきぶりでもいれば、それらの生命力を吸収すれば、無限に稼動し続ける……ということだろうか。
……無酸素空間でも作り出さない限り、生物のいない空間なんてこの世界中のどこにもないだろう。
「ルナ、何かないか?」
「あたしに聞けばどうにかなると思ってない? 無理よッ!」
「実際、あれに一番詳しいのはお前なんだろう?」
「そうだけど……」
何やら騒ぎ立てる二人を尻目に、カノンは剣鎌を握り直す。右足を庇いながらも嘲笑を浮かべたままのクロードを睨み、今一度、『獣』の方へ目をやって、
―――?
先程の術で焼け焦げて穴の開いた天井から、何かが落ちてくるのに気がついた。白い……小さくて、ひらべったい……
それの正体に気がつくよりも先に、それは『獣』の頭上へと張り付く。
こちらを見据えたままのクロードは、それに気がつかない。
ぴきッ!
かすかな、何かが割れ爆ぜるような音がした。しかし、クロードはそれが壁か天井が軋む音だと判断したらしい。
ローブの裾を振るってこちらへと手を伸ばし、
「あいつらを片付けろッ!」
自らの造り出した生命に、命令を下す。
『獣』の体が揺らぎ、軋み、反射的に構えを取って、
「え―――?」
ぎッ……がしゃぁぁあああぁんッ!!
『な……ッ!!』
『獣』が振るった腕の一撃は、まともにクロードの胴を凪いでいた。
「がッ、かはッ……!」
壁に叩きつけられ、ずるりと背中から床に落ちたクロードが胃液混じりの血液を撒き散らす。白い魔道服が赤黒い斑紋に染まる。
あばらの一、二本はイカれているのかもしれない。
そのまま失神したのか、がくりと頭を落して動きを止める。
「い、今のは……」
こちらへ攻撃しようとして巻き込まれたようには見えなかった。そう、"こいつ"は明らかに創造主であるはずのクロードを"襲った"のだ。
地響きのような『獣』の呻きがラボに響く。
ぐ、ぁ、あああぁぁぁぁあああぁぁあッ!!
『ッ!?』
雄叫びが上がる。
ぶるッ、と『獣』の体が震えた。
ばきッ、ぴき、びきびきびきッ!!
「な……」
「あれは……」
金属の軋むような音が轟く。『獣』の体が揺れて、頭の上から黒い線が走る。まるで『獣』本体を侵食していくように、黒い線は『獣』の頭を喰らい、体そのものに幾筋も、幾筋も走り抜けていく。
やがて、
鋼と黒い影に構成された奇妙な生物が、そこに出来上がる。
おおおおおおおおおおおッ!!
「これ……」
茫然としたルナの呟きが、『獣』の叫びに掻き消された。
「シリアッ!」
「結するは氷結の陣秦、凍れダイナストフォースッ!!」
シリアの一声に、その通りに陣取っていたヤドカリの巨体が氷に覆われる。
氷の巨像を前に、アルティオが額に浮かんだ汗を拭った。
「ったく、何体いるんだよ。こいつら……」
「そんなもの私がわかるわけないでしょ。あっちが片付くまで、何とかこっちで始末していくしかないわよ」
「そりゃそうだろーけどなぁ……」
町の喧騒は収まるどころか、一層高まっている。WMOと政団が共同で非難勧告を出しているようだが、もともとこのシーズンは人が多い。容易ではないのだろう。
シリアが珍しく溜め息を吐いて腰に剣を収める。
「ともかく、早く片をつけてレンたちを追わないと……あの女、どさくさに紛れて私のレンに何するか……」
さしものアルティオも呆れて突っ込もうと口を開きかけたときだった。
ぎゃぃいぃあぁああああぁぁあぁッ!!
『!』
ビーチ脇の椰子の陰から響く雄叫びが一つ。
慣れてしまったもので、シリアが小声で呪文を唱え、アルティオが双剣を担ぐように構える。
石段を飛ぶようにしてアルティオが駆ける。が、
「!?」
現れた合成獣の動きが、急激にひたりっ、と止まる。
そして、
ぱんッ!!!
「!!?」
やおら、乾いた音を立てて獣が破裂する。それは赤黒い体液を撒き散らすかと思いきや、黒い塵となって空に掻き消える。
その最期は、あまりにも、呆気なさすぎた。
降り注ぐ細かい黒の塵に、アルティオも足を止め、シリアは呪文を唱えることも忘れて、唖然と獣が一瞬で姿を消した空を眺めていた。
しばらくして、最初に気がついたのはシリアだった。
町の喧騒が、あれだけ響いていた喧騒が、いつの間にか嘘のように消え失せていることを。
顔を上げる。
その一瞬に、
「―――?」
間近に立つ店の高い屋根の上を、黒い影が一つ、行き過ぎて消えたような気がした。
がこんッ!!
黒い筋の走る長い腕が、間近な壁を粉砕した。その煙に紛れてダッシュを駆ける。
―――まあ、つまりは逃げてるだけなんだけど……
「……で、その『ヴォルケーノ』については一通り解ったけど…」
どがッ!!
紙一重で交わしたすぐ頭上の天井が支えを失って落下して来る。前方に滑り込むようにして残骸を避ける。
「どーゆーことよッ! これッ! まるっきり凶暴化してるじゃないッ!」
「そんなこと知らないわよッ!」
器用にも走りながら口論を続ける女二人に、併走しながらレンは後方を盗み見る。制御を失った『獣』は、破壊を繰り返しながらひたひたと、こちらを確実に追いかけて来ている。
いくらWMOの建物が頑丈で、広いといってもこれでは、
「まずいな。あの調子ではいつ建物の軸を破壊するか知れんぞ」
「ちょっと! この中、証人がいっぱいいるんだからそれ困るわよ!!」
「困ると言ってもどうすればいい?」
「うぐッ……」
問い返されてルナは返答に詰まる。
クロードが『ヴォルケーノ』にどんな細工を施したかは解らない。何がこの暴走を引き起こしているかも解らない。
「加えてあの再生能力だ、生半可な術では効くまい。それとも町がクレーターになる覚悟でお前の大技を撃つか?」
「そんなこと出来るかッ! あんたこそ人に頼ってないで何か考えてよ!」
「人任せにするな。それにさっきから考えている」
「何かないのッ!?」
「人道に外れても構わないならあるだろうが……」
「だからクレーターは禁止ッ!」
伸縮して襲い来る腕の爪を交わしながらルナが悪態を吐く。自分に絡んで来た爪を切り落としながら、(もっとも一瞬で元の長さに戻ってしまうので付け焼刃だが)レンは眉間に皺を寄せる。
その視線がふと傍らを走るカノンに止まる。
「……」
「……何?」
「いや……。
ルナ、『ヴォルケーノ』はもともと生物進化を促すためのものだ、と言っていたな?」
「そーよ!」
「あれは何で造られていると言っていたか?」
「だからッ、わざと歪みを与えて進化させるために……ッ!」
言いかけて、彼女もまた気がついたらしい。ばっ、と身を翻し、カノンへ目を止めて。
「―――?」
「なるほど……なんとか」
「なるかもしれんな、おそらくは」
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
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