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DeathPlayerHunterカノン[慟哭の月] EPISODE6
渦巻くのが人と人との縁の性。
渦巻くのが人と人との縁の性。
「じゃあ、昨日のことは全然問題になってないわけ?」
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
←5へ
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
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