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DeathPlayerHunterカノン[慟哭の月] EPISODE Final
間違っても彼女は親友にほしい。
さあ、行こう。より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
間違っても彼女は親友にほしい。
さあ、行こう。より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
「……」
鍵の締められたドアに、カノンは無言で踵を返した。すっかり冷めてしまった手の中のパンとスープを見て、やりきれない表情を浮かべる。
「……やっぱり、駄目なの?」
「……」
宿屋の階段を下りて、テーブルに着いていたシリアが顔を上げたカノンに問う。吐いた溜め息が、すべてを物語っていた。シリアは軽く首を振りながら席に着く。
薄暗いランプの下で、同じような沈痛な表情を浮かべたラーシャが、ぽつり、と口にする。
「……謝って済むようなものではないが……
軽率に協力を求めた私たちのせいだな……。すまない……」
ラーシャは頭を下げる。隣に掛けていたデルタは、瞑目しながら主に従った。
トレイをカウンターに片付けようとしていたカノンの動作が止まる。肩が、小刻みに、小さく、震えていた。
「別にあんたらのせいじゃないだろ……」
「そうね……。仮に貴方たちがいなくても、あの娘は躍起になって真相を知ろうとしたでしょうし……」
さすがのアルティオやシリアの声にも覇気がない。
腹立だしさと物悲しさ。
気の毒とか、可哀相とか。そんな言葉はあまりに温くて似つかわしくない。
激動を歩み、他人の目からしてもけして幸運とは言えない人生を送り。
ようやくサイコロの目が最高値を出したと思えば、そのサイコロは脆くも崩れてしまうような偽物で。
彼女の心境を語れる者など、その場にはいなかった。
「誰のせい、といえば―――私かもしれないわ」
「シリア?」
「あの娘、ね……煙草を吸ってたのよ。ちょっと前まではあんなに嫌がってたのに、いきなりよ?
まあ、隠してたつもりらしかったけれど……
何で、って思ってたけど……」
シリアは彼女らしからぬ深い溜め息を吐く。額に手を当てて、暗闇に消えた白子の魔道技師の姿を思い出す。
「あの男から……同じ、煙の匂いがしたわ―――」
「……」
アルティオが舌打ちをした。
「……何だよ…。普段、ぎゃあぎゃあ茶化してるくせして……
あの馬鹿…しっかり、女やってるんじゃんか……。だったら、何で一言わねぇんだよ……」
悔しさに歯軋りをしながら、彼は拳を握り締める。
「俺だって……俺だって、あいつが変わったのは分かってたさ……。昔なんかより、断然女っぽくなってた。何人も女の子を見て来た俺が言うんだから、間違いない。
………もっと、何とか、きっと出来たんだよ。何で、」
「―――何で」
背を向けたままのカノンが小さく漏らす。声は、嫌に硬い。
目を閉じて、ずっと腕を組んでいたレンが初めて顔を上げる。彼女の肩が、かたかたと震えていた。
それは、哀憐なのか。あるいは、
「何で……気づかなかったのよ……」
「カノン……?」
ばんッ!!
それは、彼女が思い切りカウンターを両手で殴りつける音だった。きっ、と振り返った目には、極僅かながら、光るものが滲んでいた。
「何でッ! 何で誰も気づかなかったのよッ!?
あいつが何か抱え込んでることなんて、分かってたことじゃないッ! 何で、何で誰一人、気づいてやれなかったのッ!?」
普段、気遣いと心配りの出来る彼女とは思えないほど、粗暴な言葉が口をついて出る。
分かっていたことのはずだった。彼女が一人で、何かを抱え込んでいることは。けれど誰一人、それを聞き出そうとする人間はいなかった。
だから、カノンたちの知らないところで、取り返しのつかないことが、奴らの思惑が、進行していることに、誰も気づいてやれなかった。
彼女が、あんなにぼろぼろになるまで、気づいてやれなかった。
腹立だしかった。やるせなくて、情けなかった。
カノンの怒り任せの言葉に、答えられる者は誰一人いなかった。全員、罪は同じなのだ。だから、力なく項垂れることしか出来ない。
「何で……ッ、何でよッ!? ずっと、あれだけ一緒にいたじゃないッ!
そんなに気づいてたことは、気づいてやるチャンスはいっぱいあったんじゃないッ! 何で、誰も気づかなかったのッ!? 何で―――ッ」
さらに声を荒げるカノンに、レンが椅子を蹴って立ち上がった。つかつかと、喚き散らす彼女に近づくと、
ぱしんッ!
「―――ッ!」
胸倉を掴んで、頬を張った。
声が詰まって、言葉が止まる。予想だにしないそれに、アルティオもシリアも、ラーシャさえ腰を浮かしかける。
カノンははたかれた頬を押さえて、涙を滲ませた目で、頬を張った本人を睨み上げる。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、それ以上の暴言を許さない厳しい目で彼はその視線を受け止める。
きり―――ッ、歯を軋ませてカノンは大きく首を振る。堪りかねたように、踵を返して、乱暴に宿屋のドアを開け放ち、その場を出て行った。
「れ、レン……」
その背を見送ることもなく、立ち尽くしていた彼に、アルティオが遠慮がちに声をかける。
レンは不意に額に拳を当て、はぁ、と息を漏らす。
「……『魔変換』[ガストチャージ]、というのは、面倒な力だな」
「は?」
「カノンにとっての『魔』っていうのは、別に魔力や魔族の精神力みたいなものに限らないのよ」
レンの言わんとすることを悟って、シリアが補足する。開け放たれたままの、きぃきぃ軋みを上げるドアに目をやって、
「死者の未練や無念みたいなものも感じる、って聞いたことがあるわ。それは、つまり―――人間の『負』の感情そのものを直に感じてしまう、ってことでしょ……?
身近な人間だったら、尚更―――」
「あ……」
アルティオのときもそうだったのだ。彼女は、アルティオの無念も、あの少女―――ステイシア=フォーリィの慟哭も、しっかり耳に入れて、胸に留めていた。
だから、折れそうなまでに、必死だった。
「……あいつは自分以外の人間の感情を、自分に投影しすぎる。悪い方のものばかり、な。
―――すまないが、許してやってくれ」
「い、いや、私は……」
後半はラーシャとデルタに向けた言葉だった。ラーシャは慌てて首を振る。
レンはそれを見届けると、マントを翻して開け放しのドアへと向かう。
「お、おい、レン。追うのか?」
「……」
「……そうか。何か、悔しいけど―――頼んだぜ」
無言でもって答えた彼に、アルティオは眉間に皺を寄せたまま、悔しそうに、だがそれ以上何も言わなかった。シリアは視線を合わせないようにそっぽを向いている。
彼は短く息を吐く。
「―――シリア」
「……?」
「…………すまないな」
呟くように言ったレンの一言に、シリアはきょとんと目を瞬かせる。しばらくの間、目を丸くしたままレンを見ていたが、不意に心底仕方なさそうに笑って、形の良い顎をドアの方へ向けた。
それを見届けて、レンは踵を返し、ドアの向こうへと消えた。
「……ちょっと、悔しいな」
「ちょっと、どころじゃあないわ。けど……仕方ないじゃない。
今は―――二人のお姫様をどうにかしないといけないでしょ?」
言ってシリアは視線を階上へと向ける。アルティオもその視線を追って、暗いその上の廊下を、さらにはその先の一室に首を振る。
シリアが何かを思いついたように顎へ手を当てた。
そして正面に座るラーシャを見る。
「ねぇ、中将」
「私のことはラーシャ、で構わない。何か……?」
「どうせだから、今のうちにお願いしておくわ。あのね……」
夜風が頭を冷やしてくれるかと思えば、それは甘かった。夏が通り過ぎつつある深夜の風は、確かに肌寒さをレンの身体へと与えてくるのだが、そよ風程度では今の熱は冷めてくれそうになかった。
先ほど、少女の頬を張った右の掌がじんじんと、得体の知れない痛みを放つ。
諫めるつもりが、結局は自分自身が抱えていた憤りをぶつけてしまっただけなのかもしれない。歯がゆく、そして情けない。
誰も責められるわけもなければ、責めるわけもないというのに。
宿の裏に回って、初めて、嗚咽を堪えるような小さな声が聞こえた。首を回すと視界の端に薄濡れた金の神が映った。
「……カノン」
声をかけると背を向けていた彼女の肩が小さく震える。それきり反応を示そうとしない。
レンはわざと音を立てながら近寄った。彼女の肩へ手を伸ばす。その手が、僅かに触れた瞬間、
ぱしッ
「……」
拒むように、その手が振り払われる。こちらを向いた彼女は歯を食い縛って、浮かびそうになる雫を必死に拭って、耐えていた。泣くのも、そして泣きたいのも自分ではないと言わんばかりに。
レンは伸ばしかけた手をゆっくりと引く。
「カノン」
「……」
もう一度、名を呼ぶと彼女はくしゃり、と表情を歪ませる。何かを振り払うかのように、首を振った。
「誰も同じだ。知りながら、気づきながら、今の今まで何も出来なかったことを悔いている。
だが、誰のせいでもない。ラーシャ=フィロ=ソルトや、デルタ=カーマインのせいでも、ましてやシリアやアルティオのせいであるはずがない」
「………分かってる……ッ! そんなことは分かってる……ッ!!」
激しく首を振りながら、それ以上の言葉を拒絶するように、カノンは詰まった声を上げる。
混乱していく頭を両手で押さえる。怒りと、憤りと、激情と、……物悲しさと。どうにかなってしまいそうだった。
けれど、本当にそうなのは、自分ではないのだ。だから、
「でも……ッ! でも、思ってしまうの……ッ! 何で何もしなかった、って……ッ!!
誰も何も出来なかった、何で、どうして……ッ!? 気がつくチャンスなんか、たくさんあったはずじゃないの……ッ!
どうして、どうして皆……ッ!」
「どうしてあたし……ッ、今まで何も出来なかったの……ッ!?」
それが、本音だった。
いろんなものが許せない。直接手を下してきたあの男も、裏で彼を操っていたエイロネイアの少年も、何も言ってくれなった親友も。
けれど、それ以上に、何も出来なかった、何もしてやれなかった自分が、何より一番許せない。
彼女にとって助けられなかった親友は、ルナだけではないのだ。ルナの友達なら、自分にとっても友達だと。屈託なく笑った、あの何も罪のない少女さえ、カノンは救えなかった。
自分の無力を、情けなさを、まざまざと突きつけられた。
こめかみに爪を立てる彼女の手を、レンは静かに外した。今度は振り払われなかった。
溢れてしまいそうな涙を隠そうと、カノンは彼のマントを掴んで顔を埋めた。泣きたいのは自分じゃない。他人に頼っていいのも自分じゃない。けれど、走る痛みには耐え切れなくて。
レンは小刻みに震える小さな頭に手を被せる。
「……誰のせいでもない。責があるとしたら全員だ。誰も責められはしない。誰も責める資格はない。
だから誰も憎むな、怒りを向けるな。
―――向けるとしたら」
「……」
彼女はゆっくりと面を上げる。涙を食い止めて、前を見る。
そして、虚空の闇の彼方へ宣言するように、
「―――許さない。あいつら……ッ、あたしは、あたしは絶対に許さないわ……ッ!」
「……」
決意するように、けたけたと笑い声を上げる闇の奥を睨みながら、カノンは言い放つ。その声は、もう、震えてはいなかった。
目を開ける。
眠っては、いなかった。
ただ、目を閉じてベッドの上に横たわっていただけだった。
瞼の上から嫌というほどの光が、目を焼いてくる。朝、いや、昼。
眠たくないわけではない。身体は泥のような疲れを訴えて、睡眠を要求してくるのだが、じりじりと熱を伴う痛みを放つ頭の芯と、瞼を閉じては熱くなる目の奥が、それを許すことはなかった。
だから結果的に、極浅い眠りと目覚めの間を何度も行き来する羽目になった。
だが、その浅い眠りのせいで、ひどく懐かしい夢を見た。
あの炎の夢を見るようになってからは、久しく封印されていた夢だった。
「ゼルゼイル、って国を知ってるか?」
普通なら、誰もが渋い顔をするであろう国の名を、かつての彼はよく口にした。彼がゼルゼイルの内戦についての知識がないわけはないと悟っていたルナは、極普通に知っている、と返した気がする。
内戦国ゼルゼイル。
魔道師内では一昔前まで―――内戦が激化する前まで、数々の古代伝説が眠る精霊都市ルーアンシェイルと並ぶほど、魔道歴史的価値の高い国だった。
それは様々な伝承や、伝説に由来する。
いわく、大天使ルカシエルと戦い、倒れた最高の地位を持つ魔族・ヴァン一族の一人である羅刹鬼グライオンが眠るとされている海中大陸ファントムが沖合いに存在するだとか。
いわく、神、魔、人の世界すべてに絶望した神と悪魔の化身がそれぞれの伝承が残る神殿で、自らの主を待って眠っているだとか。
眉唾物から正式な伝承まで。
数ある逸話が残されている場所。
内戦が始まってから、魔道師内の間でもある種のタブーとなってしまって、封じられつつあった伝承の数々。
その一つ一つを語っては、まるで子供のように目を光らせて、こちらが一つでも知らないことがあると冗談交じりに馬鹿にして。
そして、最後にいつも言っていた。
いつか、共に行ってみないか、と。
「……」
のろのろと身体を擡げると、サイドテーブルの上に、くたびれた赤石の羽飾りがあった。
叩き壊してしまおうかとも思ったのだ。最初は。
けれど、………どうしても、壊せなかった。
未だに、自分はあの男に帰属しているのだと、馬鹿馬鹿しくなった。
べっどを抜ける。どさり、と枕が落ちた。でも、気にならなかった。
姿見に顔を映すと、酷く情けない、腫れぼったい顔とまだ僅かに赤い首が目に入った。町外れのあのとき、締められた手の跡が、少しだけ残ってしまったらしい。
「…………ッ」
その跡に触れて、肩を震わせる。床を見下ろして、その床が、ぽたりと濡れた。
握り締めた拳、鏡の自分を睨みつける目。
顔を上げる。鏡の袂に置かれた小さな鋏が目に入った。しばらく瞑目して、そして、その小さな鋏に手を伸ばした。
風が吹き抜ける。
晩夏の風は、温かさと冷たさの二つを併せ持っている。ルナには、少しだけ肌寒く感じていたが。
少しだけくすんだ緑の匂い。その緑と、白い石がコントラストを生んでいる。
墓、というのはどこの町も大抵小高い丘に造る。それは、少しでも天に近い場所から、旅立ちを見送ろうという信仰の表れなのだろうか。
白い柵に囲まれた、白い石十字の並ぶ丘。感じるのは場違いな清潔感と、物悲しさと、……それから数多の小さな祈り。
ただ、ここに眠る人々が天へ昇れることを信じて。
献花の花の匂いが香る。また、風が過ぎ去るとその匂いは一層強くなって、寂寥感を生んだ。
切り揃えたばかりの短い髪が、僅かに靡く。それに自嘲的な苦笑を漏らして、ルナはその墓場の一番隅に造られた、小さな十字の前で立ち止まる。
途中、買ってきた桃色の花を添える。
彼女が一番好きだった色。好きならば、その色の服を買えばいいのに、自分には似合わないからといつも地味な色の服ばかり着ていた。
……皮肉にも、白い墓石に桃色の花は良く映えた。
「……ごめんね」
跪くように片膝をついて、ただそれだけを口にする。他の言葉は、言い訳にしかならないことを、彼女は知っていた。
「―――もし、生まれ変わったら……
間違っても、あたしみたいなのを親友にしちゃ駄目よ。それから、もっと派手な服も着て、しっかり女の子やりなさい。それから―――いい人、見つけなさいね」
生まれ変わりなど、元から信じているわけじゃない。ただ、それだけでは、たった二十年余りの人生がこれでは、あまりに哀しすぎたから。
「……………………おやすみ、イリーナ」
それだけを告げて、立ち上がる。
踵を返すと、墓場の入り口に、二つの影が見えた。すっ、と自然と表情が引き締まる。
ラーシャとデルタだった。
「……良いのですか?」
「……ええ。行くわ、あんたたちと一緒に」
硬い声で問いかけたデルタに、同じように返す。何故だか彼は嘆息してラーシャを見上げた。彼女は大分、複雑そうな表情を浮かべている。
ルナはその二人の間をすり抜けて、丘を下ろうとする。
でも出来なかった。
かつッ、と石段に響いた足音が、それを止めたからだ。顔を上げて、ルナは目を見開いて声を漏らす。
「カノン……?」
「……」
腰に手を当てて、仁王立ちするように彼女は立っていた。表情は、どこか晴れやかで笑みを浮かべている。……少しだけ、ぎこちなかったけれど。
「あんた、何でここに……?」
「今さら何で、も何もないでしょ。何、水臭いこと言ってんの」
かつかつと、茫然とする彼女に近づいて、いつも通りの、挑戦的な笑みで肩を叩く。
ルナにはカノンの言わんとしていることが分からない。分からないから、首を傾げて、眉間に皺を寄せる。
「あたしたちも一緒に行く、って言ってんのよ」
「・・・はッ!?」
思わず間の抜けた声を漏らす。はっ、と顔を上げ、彼女の背後を見やると、
「よぉっす。何だ、一人でなんて水臭いぜッ! 俺は留守番、てのが一番嫌いなんだよ」
「ま、私はどうでもいいんだけど。レンが行く、っていうのなら見過ごすわけにいかなしぃ?
確かにあのお坊ちゃんたち、一度鼻を明かしてあげないと私の気が収まらないしねぇ」
「……」
唖然とした表情で、あり得ない気軽さで声を上げる二人に顔を引き攣らせる。溜め息を漏らしながら腕を組む、赤毛の幼馴染に目を留める。
「………レン、あんた……」
「……仕方あるまい。火の付いた連中を説得するより、お守りをしていた方が幾分か楽だ」
彼はふん、と鼻を鳴らして、いつものように答える。
カノンはそれを見て、満足げに微笑んだ。そして、呆気に取られているルナの方へ振り返る。
「ラーシャ、プラス四人分の船代くらい何とかなるでしょ」
「ああ……。昨日のうちに既にシリア殿に言われてな。手続きは済んである。心配ない」
カノンの問いに、ラーシャは事も無げに答えた。
その会話に、はっ、と我に返ったルナは慌ててカノンの肩を掴む。
「あ、あんたたち……ッ! 馬鹿じゃないの……ッ、何だって……ッ!」
「馬鹿なのはあんたも一緒でしょ。馬鹿を一人で行かせるよりも、五人固まって行った方がいいに決まってるでしょうが」
「だって……ッ!」
「ルナ」
何かを咎めるような声で、カノンはルナの名を呼んだ。
「あたしだって、罠だってのは分かってる。あんなにちょっかい出してくれたんだもの。挑発されてるんだ、って分かってるわ。
けど、けどね。
こんだけのことされて、黙っていってらっしゃい、なんて言えるほど、人間出来ちゃいないのよ」
「……」
「あんたは行かなきゃいけないし、あたしだってあいつらにはたくさんの借りがある。
こんだけ人を舐めた真似してくれたんだもの。一発がつーんッ、とくれてやんなきゃ」
拳を振り上げて、カノンは笑った。そうして拳を解いた後に、笑顔のままで手を伸ばす。
「……一緒に行こう、ルナ」
「……」
言葉が、出なかった。
この数日間で感じたものとはまた別の、熱い感覚が目の奥に込み上げる。
久方ぶりに忘れていた、その感覚が、自然と唇を笑みの形へ吊り上げた。
「………ほんとに…、ほんとにあんたたちってば……。馬鹿ばっかりね………」
自分から、溝に飛び込むなんて。
「……カノン」
「うん」
「あの夜。あたしはあいつから、今夜自分の宿に来るように、って言われてた。
最後のチャンスだ。信じて欲しいなら、来い、みたいな感じでね」
「……うん」
「でもね……。
あたしを部屋に来させるのだけが目的なら―――そんな言い方するはずないのよ。話し合いたいから来い、って言うのが一番確実よ。
でも、あいつはそうしなかった。そんなことが思いつかないような人間じゃないのにね」
「………」
「……でも、あいつが―――
カシスが、イリーナを殺したのも、事実だわ」
カノンが顔を歪める。ルナはまっすぐに、きっ、と正面を向いた。
「あたしはあいつの真意を確かめなくちゃいけない。この五年間、あいつがどこでどうやって来て、何でこんなことになったのか―――
真相を、確かめなきゃいけない」
「……うん」
カノンは頷く。そのために、今、彼女はここにいるのだ。
「恥知らずの恩知らずと思われても、仕方ないことね。けど、カノン」
ルナはゆっくりと、片手を上げる。ずっと、ずっと安寧な温い関係が壊れるのに、その手が離れていくことに、脅え、恐れ、臆病すぎて掴めなかった、その手を取るために。
寸前で、少しだけ躊躇した手を、カノンは握り返す。
「……お願い。少しだけ、力を貸してくれる?」
ずっと、その一言が、聞きたかった。
「―――ええ、勿論!」
そう言って、彼女は満面の笑みで微笑んだ。
カノンは勢い良く、全員のいる方へと振り返る。
「さぁ、あんたたち! ここまでされて、まさか縮こまる気はないでしょうッ!?
反撃開始よ、気合入れ直しなさいッ!! 行くわよ、ゼルゼイルにッ!!」
『応ッ!!』
―――夜が明けて、晴れ渡った空に。
叫んだ少女の声に、拳を振り上げた彼らの声が、唱和して、響き渡った。
―――闇が晴れて。
ようやく自由になった視界に、少年はふぅ、と息を吐いて髪を掻き揚げる。久しぶりに地に足が付く。何度も味わっているはずなのに、どうにも馴れない。
「……主様?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。ありがとう、シャル。お疲れ様」
言って低い位置にある頭を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
「んあ? おい、白髪頭。どこ行くんだ?」
「……うるせーよ。話しかけんじゃねぇ」
「んだと、てめッ……」
「エノ」
地に足を付けると同時に、くるり、と踵を返したカシスにエノが憮然と怒鳴り声を上げる。
名前を呼んで、黒衣の少年は彼を咎めた。唇を尖らせながらも、竜の翼を生やした少年は押し黙る。
白子の魔道技師は、それから彼らを一瞥することもなく、朽ちかけた館の闇の中へと消えていった。
その背を見送って、少し困ったような表情で少年は息を吐く。
「少し、一人にしてあげなよ」
「ああ?」
「あるまじき失態を恥じてるんだ。彼なりに、ね……」
くすり、と少年はいつものように笑う。その服の裾を、小さな少女がくい、と引いた。
視線を下げると、少女は何故だかとても居た堪れない表情でこちらを見ている。少年は変わらぬ笑みでその頭をもう一度撫でた。
そうしてから、踵を返す。
「僕も少し休ませてもらうよ……。長旅で身体が参るといけないからね。君たちも一休みするといい。
ああ、それから。
目を離しているからって無駄に喧嘩しないように」
言われてエノとシャル、と呼ばれる少女は顔を見合わせた。が、すぐにぷい、とお互いにそっぽを向く。
皇太子はやれやれと息を吐いて、小さな笑みを漏らし、踵を返す。
返したその途端に、その顔からは、表情が、消えた。
「……」
きぃ……
背後で何事か言い合う二人の声を耳に入れながら、彼は隣室への扉を開く。老朽化の進んだ暗い館。軋みもする。とりあえずの小休止だ。一目に付かない場所ならどこでも良かった。
見渡せば極暗い部屋に、埃の被るベッドとソファ。食器棚は崩れ落ちて、中身の皿やグラスは風化している。常人ならとてもいられないだろう、その空間に、少年はしかし、安堵の表情を浮かべた。
人の目に触れなければ、邪魔が入らなければ、どんな場所でも構わない。
明るい場所は、目に痛い。
「……」
比較的、埃の少ないソファに腰掛けると疲労がどっ、と押し寄せて来た。いつもそうだ。立っている間は気が付かない。腰を下ろすと根が生える。
最も、いくら疲れていても、安寧と眠れる時間は彼にとっては皆無に等しかった。
眠りはいつも浅くて、あるもないも同然。起きて目を閉じているだけなのか、それとも眠っているのか、それすら判然としないほどの、曖昧なもの。
それでも、休息を求めてソファに横たわる。
舞い上がった埃が、目の前で僅かな光を受けて踊った。鼻と口を押さえながら、目を細める。
包帯の巻かれた右手が目に入る。ゆっくり動かして、指を折る。
「……カノン=ティルザード…、レン=フィティルアーグ………」
小さく、名を上げながら、指を折る。
自らが追っていた二人の名前。同時に、彼女らを取り巻いていた三人の仲間と、そして、
「………ラーシャ、=フィロ=ソルト…」
ゼルゼイル北方シンシアの騎士。そしてその従者。薄目を開けていた彼の目が、険しく歪められる。
天井を仰ぎ、指を折った手を額に当てながら、呟く。
「……少し、プランを変えないといけないな……」
それだけを口にして、少年は、いつも通りの浅い眠りの中へと落ちていった。
嵐の前の、束の間の休息を楽しむかのように―――。
より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
←14へ
鍵の締められたドアに、カノンは無言で踵を返した。すっかり冷めてしまった手の中のパンとスープを見て、やりきれない表情を浮かべる。
「……やっぱり、駄目なの?」
「……」
宿屋の階段を下りて、テーブルに着いていたシリアが顔を上げたカノンに問う。吐いた溜め息が、すべてを物語っていた。シリアは軽く首を振りながら席に着く。
薄暗いランプの下で、同じような沈痛な表情を浮かべたラーシャが、ぽつり、と口にする。
「……謝って済むようなものではないが……
軽率に協力を求めた私たちのせいだな……。すまない……」
ラーシャは頭を下げる。隣に掛けていたデルタは、瞑目しながら主に従った。
トレイをカウンターに片付けようとしていたカノンの動作が止まる。肩が、小刻みに、小さく、震えていた。
「別にあんたらのせいじゃないだろ……」
「そうね……。仮に貴方たちがいなくても、あの娘は躍起になって真相を知ろうとしたでしょうし……」
さすがのアルティオやシリアの声にも覇気がない。
腹立だしさと物悲しさ。
気の毒とか、可哀相とか。そんな言葉はあまりに温くて似つかわしくない。
激動を歩み、他人の目からしてもけして幸運とは言えない人生を送り。
ようやくサイコロの目が最高値を出したと思えば、そのサイコロは脆くも崩れてしまうような偽物で。
彼女の心境を語れる者など、その場にはいなかった。
「誰のせい、といえば―――私かもしれないわ」
「シリア?」
「あの娘、ね……煙草を吸ってたのよ。ちょっと前まではあんなに嫌がってたのに、いきなりよ?
まあ、隠してたつもりらしかったけれど……
何で、って思ってたけど……」
シリアは彼女らしからぬ深い溜め息を吐く。額に手を当てて、暗闇に消えた白子の魔道技師の姿を思い出す。
「あの男から……同じ、煙の匂いがしたわ―――」
「……」
アルティオが舌打ちをした。
「……何だよ…。普段、ぎゃあぎゃあ茶化してるくせして……
あの馬鹿…しっかり、女やってるんじゃんか……。だったら、何で一言わねぇんだよ……」
悔しさに歯軋りをしながら、彼は拳を握り締める。
「俺だって……俺だって、あいつが変わったのは分かってたさ……。昔なんかより、断然女っぽくなってた。何人も女の子を見て来た俺が言うんだから、間違いない。
………もっと、何とか、きっと出来たんだよ。何で、」
「―――何で」
背を向けたままのカノンが小さく漏らす。声は、嫌に硬い。
目を閉じて、ずっと腕を組んでいたレンが初めて顔を上げる。彼女の肩が、かたかたと震えていた。
それは、哀憐なのか。あるいは、
「何で……気づかなかったのよ……」
「カノン……?」
ばんッ!!
それは、彼女が思い切りカウンターを両手で殴りつける音だった。きっ、と振り返った目には、極僅かながら、光るものが滲んでいた。
「何でッ! 何で誰も気づかなかったのよッ!?
あいつが何か抱え込んでることなんて、分かってたことじゃないッ! 何で、何で誰一人、気づいてやれなかったのッ!?」
普段、気遣いと心配りの出来る彼女とは思えないほど、粗暴な言葉が口をついて出る。
分かっていたことのはずだった。彼女が一人で、何かを抱え込んでいることは。けれど誰一人、それを聞き出そうとする人間はいなかった。
だから、カノンたちの知らないところで、取り返しのつかないことが、奴らの思惑が、進行していることに、誰も気づいてやれなかった。
彼女が、あんなにぼろぼろになるまで、気づいてやれなかった。
腹立だしかった。やるせなくて、情けなかった。
カノンの怒り任せの言葉に、答えられる者は誰一人いなかった。全員、罪は同じなのだ。だから、力なく項垂れることしか出来ない。
「何で……ッ、何でよッ!? ずっと、あれだけ一緒にいたじゃないッ!
そんなに気づいてたことは、気づいてやるチャンスはいっぱいあったんじゃないッ! 何で、誰も気づかなかったのッ!? 何で―――ッ」
さらに声を荒げるカノンに、レンが椅子を蹴って立ち上がった。つかつかと、喚き散らす彼女に近づくと、
ぱしんッ!
「―――ッ!」
胸倉を掴んで、頬を張った。
声が詰まって、言葉が止まる。予想だにしないそれに、アルティオもシリアも、ラーシャさえ腰を浮かしかける。
カノンははたかれた頬を押さえて、涙を滲ませた目で、頬を張った本人を睨み上げる。眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結び、それ以上の暴言を許さない厳しい目で彼はその視線を受け止める。
きり―――ッ、歯を軋ませてカノンは大きく首を振る。堪りかねたように、踵を返して、乱暴に宿屋のドアを開け放ち、その場を出て行った。
「れ、レン……」
その背を見送ることもなく、立ち尽くしていた彼に、アルティオが遠慮がちに声をかける。
レンは不意に額に拳を当て、はぁ、と息を漏らす。
「……『魔変換』[ガストチャージ]、というのは、面倒な力だな」
「は?」
「カノンにとっての『魔』っていうのは、別に魔力や魔族の精神力みたいなものに限らないのよ」
レンの言わんとすることを悟って、シリアが補足する。開け放たれたままの、きぃきぃ軋みを上げるドアに目をやって、
「死者の未練や無念みたいなものも感じる、って聞いたことがあるわ。それは、つまり―――人間の『負』の感情そのものを直に感じてしまう、ってことでしょ……?
身近な人間だったら、尚更―――」
「あ……」
アルティオのときもそうだったのだ。彼女は、アルティオの無念も、あの少女―――ステイシア=フォーリィの慟哭も、しっかり耳に入れて、胸に留めていた。
だから、折れそうなまでに、必死だった。
「……あいつは自分以外の人間の感情を、自分に投影しすぎる。悪い方のものばかり、な。
―――すまないが、許してやってくれ」
「い、いや、私は……」
後半はラーシャとデルタに向けた言葉だった。ラーシャは慌てて首を振る。
レンはそれを見届けると、マントを翻して開け放しのドアへと向かう。
「お、おい、レン。追うのか?」
「……」
「……そうか。何か、悔しいけど―――頼んだぜ」
無言でもって答えた彼に、アルティオは眉間に皺を寄せたまま、悔しそうに、だがそれ以上何も言わなかった。シリアは視線を合わせないようにそっぽを向いている。
彼は短く息を吐く。
「―――シリア」
「……?」
「…………すまないな」
呟くように言ったレンの一言に、シリアはきょとんと目を瞬かせる。しばらくの間、目を丸くしたままレンを見ていたが、不意に心底仕方なさそうに笑って、形の良い顎をドアの方へ向けた。
それを見届けて、レンは踵を返し、ドアの向こうへと消えた。
「……ちょっと、悔しいな」
「ちょっと、どころじゃあないわ。けど……仕方ないじゃない。
今は―――二人のお姫様をどうにかしないといけないでしょ?」
言ってシリアは視線を階上へと向ける。アルティオもその視線を追って、暗いその上の廊下を、さらにはその先の一室に首を振る。
シリアが何かを思いついたように顎へ手を当てた。
そして正面に座るラーシャを見る。
「ねぇ、中将」
「私のことはラーシャ、で構わない。何か……?」
「どうせだから、今のうちにお願いしておくわ。あのね……」
夜風が頭を冷やしてくれるかと思えば、それは甘かった。夏が通り過ぎつつある深夜の風は、確かに肌寒さをレンの身体へと与えてくるのだが、そよ風程度では今の熱は冷めてくれそうになかった。
先ほど、少女の頬を張った右の掌がじんじんと、得体の知れない痛みを放つ。
諫めるつもりが、結局は自分自身が抱えていた憤りをぶつけてしまっただけなのかもしれない。歯がゆく、そして情けない。
誰も責められるわけもなければ、責めるわけもないというのに。
宿の裏に回って、初めて、嗚咽を堪えるような小さな声が聞こえた。首を回すと視界の端に薄濡れた金の神が映った。
「……カノン」
声をかけると背を向けていた彼女の肩が小さく震える。それきり反応を示そうとしない。
レンはわざと音を立てながら近寄った。彼女の肩へ手を伸ばす。その手が、僅かに触れた瞬間、
ぱしッ
「……」
拒むように、その手が振り払われる。こちらを向いた彼女は歯を食い縛って、浮かびそうになる雫を必死に拭って、耐えていた。泣くのも、そして泣きたいのも自分ではないと言わんばかりに。
レンは伸ばしかけた手をゆっくりと引く。
「カノン」
「……」
もう一度、名を呼ぶと彼女はくしゃり、と表情を歪ませる。何かを振り払うかのように、首を振った。
「誰も同じだ。知りながら、気づきながら、今の今まで何も出来なかったことを悔いている。
だが、誰のせいでもない。ラーシャ=フィロ=ソルトや、デルタ=カーマインのせいでも、ましてやシリアやアルティオのせいであるはずがない」
「………分かってる……ッ! そんなことは分かってる……ッ!!」
激しく首を振りながら、それ以上の言葉を拒絶するように、カノンは詰まった声を上げる。
混乱していく頭を両手で押さえる。怒りと、憤りと、激情と、……物悲しさと。どうにかなってしまいそうだった。
けれど、本当にそうなのは、自分ではないのだ。だから、
「でも……ッ! でも、思ってしまうの……ッ! 何で何もしなかった、って……ッ!!
誰も何も出来なかった、何で、どうして……ッ!? 気がつくチャンスなんか、たくさんあったはずじゃないの……ッ!
どうして、どうして皆……ッ!」
「どうしてあたし……ッ、今まで何も出来なかったの……ッ!?」
それが、本音だった。
いろんなものが許せない。直接手を下してきたあの男も、裏で彼を操っていたエイロネイアの少年も、何も言ってくれなった親友も。
けれど、それ以上に、何も出来なかった、何もしてやれなかった自分が、何より一番許せない。
彼女にとって助けられなかった親友は、ルナだけではないのだ。ルナの友達なら、自分にとっても友達だと。屈託なく笑った、あの何も罪のない少女さえ、カノンは救えなかった。
自分の無力を、情けなさを、まざまざと突きつけられた。
こめかみに爪を立てる彼女の手を、レンは静かに外した。今度は振り払われなかった。
溢れてしまいそうな涙を隠そうと、カノンは彼のマントを掴んで顔を埋めた。泣きたいのは自分じゃない。他人に頼っていいのも自分じゃない。けれど、走る痛みには耐え切れなくて。
レンは小刻みに震える小さな頭に手を被せる。
「……誰のせいでもない。責があるとしたら全員だ。誰も責められはしない。誰も責める資格はない。
だから誰も憎むな、怒りを向けるな。
―――向けるとしたら」
「……」
彼女はゆっくりと面を上げる。涙を食い止めて、前を見る。
そして、虚空の闇の彼方へ宣言するように、
「―――許さない。あいつら……ッ、あたしは、あたしは絶対に許さないわ……ッ!」
「……」
決意するように、けたけたと笑い声を上げる闇の奥を睨みながら、カノンは言い放つ。その声は、もう、震えてはいなかった。
目を開ける。
眠っては、いなかった。
ただ、目を閉じてベッドの上に横たわっていただけだった。
瞼の上から嫌というほどの光が、目を焼いてくる。朝、いや、昼。
眠たくないわけではない。身体は泥のような疲れを訴えて、睡眠を要求してくるのだが、じりじりと熱を伴う痛みを放つ頭の芯と、瞼を閉じては熱くなる目の奥が、それを許すことはなかった。
だから結果的に、極浅い眠りと目覚めの間を何度も行き来する羽目になった。
だが、その浅い眠りのせいで、ひどく懐かしい夢を見た。
あの炎の夢を見るようになってからは、久しく封印されていた夢だった。
「ゼルゼイル、って国を知ってるか?」
普通なら、誰もが渋い顔をするであろう国の名を、かつての彼はよく口にした。彼がゼルゼイルの内戦についての知識がないわけはないと悟っていたルナは、極普通に知っている、と返した気がする。
内戦国ゼルゼイル。
魔道師内では一昔前まで―――内戦が激化する前まで、数々の古代伝説が眠る精霊都市ルーアンシェイルと並ぶほど、魔道歴史的価値の高い国だった。
それは様々な伝承や、伝説に由来する。
いわく、大天使ルカシエルと戦い、倒れた最高の地位を持つ魔族・ヴァン一族の一人である羅刹鬼グライオンが眠るとされている海中大陸ファントムが沖合いに存在するだとか。
いわく、神、魔、人の世界すべてに絶望した神と悪魔の化身がそれぞれの伝承が残る神殿で、自らの主を待って眠っているだとか。
眉唾物から正式な伝承まで。
数ある逸話が残されている場所。
内戦が始まってから、魔道師内の間でもある種のタブーとなってしまって、封じられつつあった伝承の数々。
その一つ一つを語っては、まるで子供のように目を光らせて、こちらが一つでも知らないことがあると冗談交じりに馬鹿にして。
そして、最後にいつも言っていた。
いつか、共に行ってみないか、と。
「……」
のろのろと身体を擡げると、サイドテーブルの上に、くたびれた赤石の羽飾りがあった。
叩き壊してしまおうかとも思ったのだ。最初は。
けれど、………どうしても、壊せなかった。
未だに、自分はあの男に帰属しているのだと、馬鹿馬鹿しくなった。
べっどを抜ける。どさり、と枕が落ちた。でも、気にならなかった。
姿見に顔を映すと、酷く情けない、腫れぼったい顔とまだ僅かに赤い首が目に入った。町外れのあのとき、締められた手の跡が、少しだけ残ってしまったらしい。
「…………ッ」
その跡に触れて、肩を震わせる。床を見下ろして、その床が、ぽたりと濡れた。
握り締めた拳、鏡の自分を睨みつける目。
顔を上げる。鏡の袂に置かれた小さな鋏が目に入った。しばらく瞑目して、そして、その小さな鋏に手を伸ばした。
風が吹き抜ける。
晩夏の風は、温かさと冷たさの二つを併せ持っている。ルナには、少しだけ肌寒く感じていたが。
少しだけくすんだ緑の匂い。その緑と、白い石がコントラストを生んでいる。
墓、というのはどこの町も大抵小高い丘に造る。それは、少しでも天に近い場所から、旅立ちを見送ろうという信仰の表れなのだろうか。
白い柵に囲まれた、白い石十字の並ぶ丘。感じるのは場違いな清潔感と、物悲しさと、……それから数多の小さな祈り。
ただ、ここに眠る人々が天へ昇れることを信じて。
献花の花の匂いが香る。また、風が過ぎ去るとその匂いは一層強くなって、寂寥感を生んだ。
切り揃えたばかりの短い髪が、僅かに靡く。それに自嘲的な苦笑を漏らして、ルナはその墓場の一番隅に造られた、小さな十字の前で立ち止まる。
途中、買ってきた桃色の花を添える。
彼女が一番好きだった色。好きならば、その色の服を買えばいいのに、自分には似合わないからといつも地味な色の服ばかり着ていた。
……皮肉にも、白い墓石に桃色の花は良く映えた。
「……ごめんね」
跪くように片膝をついて、ただそれだけを口にする。他の言葉は、言い訳にしかならないことを、彼女は知っていた。
「―――もし、生まれ変わったら……
間違っても、あたしみたいなのを親友にしちゃ駄目よ。それから、もっと派手な服も着て、しっかり女の子やりなさい。それから―――いい人、見つけなさいね」
生まれ変わりなど、元から信じているわけじゃない。ただ、それだけでは、たった二十年余りの人生がこれでは、あまりに哀しすぎたから。
「……………………おやすみ、イリーナ」
それだけを告げて、立ち上がる。
踵を返すと、墓場の入り口に、二つの影が見えた。すっ、と自然と表情が引き締まる。
ラーシャとデルタだった。
「……良いのですか?」
「……ええ。行くわ、あんたたちと一緒に」
硬い声で問いかけたデルタに、同じように返す。何故だか彼は嘆息してラーシャを見上げた。彼女は大分、複雑そうな表情を浮かべている。
ルナはその二人の間をすり抜けて、丘を下ろうとする。
でも出来なかった。
かつッ、と石段に響いた足音が、それを止めたからだ。顔を上げて、ルナは目を見開いて声を漏らす。
「カノン……?」
「……」
腰に手を当てて、仁王立ちするように彼女は立っていた。表情は、どこか晴れやかで笑みを浮かべている。……少しだけ、ぎこちなかったけれど。
「あんた、何でここに……?」
「今さら何で、も何もないでしょ。何、水臭いこと言ってんの」
かつかつと、茫然とする彼女に近づいて、いつも通りの、挑戦的な笑みで肩を叩く。
ルナにはカノンの言わんとしていることが分からない。分からないから、首を傾げて、眉間に皺を寄せる。
「あたしたちも一緒に行く、って言ってんのよ」
「・・・はッ!?」
思わず間の抜けた声を漏らす。はっ、と顔を上げ、彼女の背後を見やると、
「よぉっす。何だ、一人でなんて水臭いぜッ! 俺は留守番、てのが一番嫌いなんだよ」
「ま、私はどうでもいいんだけど。レンが行く、っていうのなら見過ごすわけにいかなしぃ?
確かにあのお坊ちゃんたち、一度鼻を明かしてあげないと私の気が収まらないしねぇ」
「……」
唖然とした表情で、あり得ない気軽さで声を上げる二人に顔を引き攣らせる。溜め息を漏らしながら腕を組む、赤毛の幼馴染に目を留める。
「………レン、あんた……」
「……仕方あるまい。火の付いた連中を説得するより、お守りをしていた方が幾分か楽だ」
彼はふん、と鼻を鳴らして、いつものように答える。
カノンはそれを見て、満足げに微笑んだ。そして、呆気に取られているルナの方へ振り返る。
「ラーシャ、プラス四人分の船代くらい何とかなるでしょ」
「ああ……。昨日のうちに既にシリア殿に言われてな。手続きは済んである。心配ない」
カノンの問いに、ラーシャは事も無げに答えた。
その会話に、はっ、と我に返ったルナは慌ててカノンの肩を掴む。
「あ、あんたたち……ッ! 馬鹿じゃないの……ッ、何だって……ッ!」
「馬鹿なのはあんたも一緒でしょ。馬鹿を一人で行かせるよりも、五人固まって行った方がいいに決まってるでしょうが」
「だって……ッ!」
「ルナ」
何かを咎めるような声で、カノンはルナの名を呼んだ。
「あたしだって、罠だってのは分かってる。あんなにちょっかい出してくれたんだもの。挑発されてるんだ、って分かってるわ。
けど、けどね。
こんだけのことされて、黙っていってらっしゃい、なんて言えるほど、人間出来ちゃいないのよ」
「……」
「あんたは行かなきゃいけないし、あたしだってあいつらにはたくさんの借りがある。
こんだけ人を舐めた真似してくれたんだもの。一発がつーんッ、とくれてやんなきゃ」
拳を振り上げて、カノンは笑った。そうして拳を解いた後に、笑顔のままで手を伸ばす。
「……一緒に行こう、ルナ」
「……」
言葉が、出なかった。
この数日間で感じたものとはまた別の、熱い感覚が目の奥に込み上げる。
久方ぶりに忘れていた、その感覚が、自然と唇を笑みの形へ吊り上げた。
「………ほんとに…、ほんとにあんたたちってば……。馬鹿ばっかりね………」
自分から、溝に飛び込むなんて。
「……カノン」
「うん」
「あの夜。あたしはあいつから、今夜自分の宿に来るように、って言われてた。
最後のチャンスだ。信じて欲しいなら、来い、みたいな感じでね」
「……うん」
「でもね……。
あたしを部屋に来させるのだけが目的なら―――そんな言い方するはずないのよ。話し合いたいから来い、って言うのが一番確実よ。
でも、あいつはそうしなかった。そんなことが思いつかないような人間じゃないのにね」
「………」
「……でも、あいつが―――
カシスが、イリーナを殺したのも、事実だわ」
カノンが顔を歪める。ルナはまっすぐに、きっ、と正面を向いた。
「あたしはあいつの真意を確かめなくちゃいけない。この五年間、あいつがどこでどうやって来て、何でこんなことになったのか―――
真相を、確かめなきゃいけない」
「……うん」
カノンは頷く。そのために、今、彼女はここにいるのだ。
「恥知らずの恩知らずと思われても、仕方ないことね。けど、カノン」
ルナはゆっくりと、片手を上げる。ずっと、ずっと安寧な温い関係が壊れるのに、その手が離れていくことに、脅え、恐れ、臆病すぎて掴めなかった、その手を取るために。
寸前で、少しだけ躊躇した手を、カノンは握り返す。
「……お願い。少しだけ、力を貸してくれる?」
ずっと、その一言が、聞きたかった。
「―――ええ、勿論!」
そう言って、彼女は満面の笑みで微笑んだ。
カノンは勢い良く、全員のいる方へと振り返る。
「さぁ、あんたたち! ここまでされて、まさか縮こまる気はないでしょうッ!?
反撃開始よ、気合入れ直しなさいッ!! 行くわよ、ゼルゼイルにッ!!」
『応ッ!!』
―――夜が明けて、晴れ渡った空に。
叫んだ少女の声に、拳を振り上げた彼らの声が、唱和して、響き渡った。
―――闇が晴れて。
ようやく自由になった視界に、少年はふぅ、と息を吐いて髪を掻き揚げる。久しぶりに地に足が付く。何度も味わっているはずなのに、どうにも馴れない。
「……主様?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。ありがとう、シャル。お疲れ様」
言って低い位置にある頭を撫でてやると、彼女は気持ち良さそうに目を細めた。
「んあ? おい、白髪頭。どこ行くんだ?」
「……うるせーよ。話しかけんじゃねぇ」
「んだと、てめッ……」
「エノ」
地に足を付けると同時に、くるり、と踵を返したカシスにエノが憮然と怒鳴り声を上げる。
名前を呼んで、黒衣の少年は彼を咎めた。唇を尖らせながらも、竜の翼を生やした少年は押し黙る。
白子の魔道技師は、それから彼らを一瞥することもなく、朽ちかけた館の闇の中へと消えていった。
その背を見送って、少し困ったような表情で少年は息を吐く。
「少し、一人にしてあげなよ」
「ああ?」
「あるまじき失態を恥じてるんだ。彼なりに、ね……」
くすり、と少年はいつものように笑う。その服の裾を、小さな少女がくい、と引いた。
視線を下げると、少女は何故だかとても居た堪れない表情でこちらを見ている。少年は変わらぬ笑みでその頭をもう一度撫でた。
そうしてから、踵を返す。
「僕も少し休ませてもらうよ……。長旅で身体が参るといけないからね。君たちも一休みするといい。
ああ、それから。
目を離しているからって無駄に喧嘩しないように」
言われてエノとシャル、と呼ばれる少女は顔を見合わせた。が、すぐにぷい、とお互いにそっぽを向く。
皇太子はやれやれと息を吐いて、小さな笑みを漏らし、踵を返す。
返したその途端に、その顔からは、表情が、消えた。
「……」
きぃ……
背後で何事か言い合う二人の声を耳に入れながら、彼は隣室への扉を開く。老朽化の進んだ暗い館。軋みもする。とりあえずの小休止だ。一目に付かない場所ならどこでも良かった。
見渡せば極暗い部屋に、埃の被るベッドとソファ。食器棚は崩れ落ちて、中身の皿やグラスは風化している。常人ならとてもいられないだろう、その空間に、少年はしかし、安堵の表情を浮かべた。
人の目に触れなければ、邪魔が入らなければ、どんな場所でも構わない。
明るい場所は、目に痛い。
「……」
比較的、埃の少ないソファに腰掛けると疲労がどっ、と押し寄せて来た。いつもそうだ。立っている間は気が付かない。腰を下ろすと根が生える。
最も、いくら疲れていても、安寧と眠れる時間は彼にとっては皆無に等しかった。
眠りはいつも浅くて、あるもないも同然。起きて目を閉じているだけなのか、それとも眠っているのか、それすら判然としないほどの、曖昧なもの。
それでも、休息を求めてソファに横たわる。
舞い上がった埃が、目の前で僅かな光を受けて踊った。鼻と口を押さえながら、目を細める。
包帯の巻かれた右手が目に入る。ゆっくり動かして、指を折る。
「……カノン=ティルザード…、レン=フィティルアーグ………」
小さく、名を上げながら、指を折る。
自らが追っていた二人の名前。同時に、彼女らを取り巻いていた三人の仲間と、そして、
「………ラーシャ、=フィロ=ソルト…」
ゼルゼイル北方シンシアの騎士。そしてその従者。薄目を開けていた彼の目が、険しく歪められる。
天井を仰ぎ、指を折った手を額に当てながら、呟く。
「……少し、プランを変えないといけないな……」
それだけを口にして、少年は、いつも通りの浅い眠りの中へと落ちていった。
嵐の前の、束の間の休息を楽しむかのように―――。
より一層深く、暗い、黒の奈落の海へと―――。
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梧香月
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趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
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カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
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THE Four:ゼルゼイルの旅路
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