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DeathPlayerHunterカノン[ゼルゼイルの旅路] EPISODE14
沈んだ記憶。示された真新しい道。されど歴史はそれを許すほど寛容ではない。さあ、猶予の時間は終わり。
沈んだ記憶。示された真新しい道。されど歴史はそれを許すほど寛容ではない。さあ、猶予の時間は終わり。
ベッドの上に身を投げ出して、『彼女』は深く息を吐いた。頭の中が困惑で溢れている。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
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「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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(03/22)
(03/19)
(03/11)
★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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