「レスター! 無事だったか!」
「姐さんっ! みんな無事っすか!?」
少し詰まった声でラーシャが歓喜と安堵が交じり合った声をあげた。領内の砦まで退いたシンシア軍は、しんがりを勤めていたレスターの小部隊になけなしの士気を取り戻す。
「シリア殿、アルティオ殿もよくぞご無事で……!」
「おっほっほ、この至高の美しさを誇る私があんな奴らにどうこうなると思って!?」
「当たり前よ! 俺には幸運の女神がついてるからな! ……と言いつつ今回ばかりはさすがの俺も死ぬかと思ったぜ」
おどけながらアルティオは肩を竦めてみせた。デルタはやや呆れたような目を向けたが、ラーシャはほんの少し力が抜けたように安堵の息を吐く。
「ライアント大尉、隊の損害は?」
「ああ……こいつらのおかげで全員生きてるぜ。みんな軽傷は負ってるが、まあ、俺の隊は頑丈なのがウリだからな」
「……そうですか。何よりです」
そう言いながらティルスの声色はどこか硬かった。事務的な口調を貫きながらも、声の中には拭えない不安と焦燥が混じっていた。
「……そっちは、ひどいのか……」
固い唾を飲んだレスターが問いかける。ティルスはふう、と重い溜め息を吐き、ラーシャとデルタの唇がぐっと引き結ばれる。目配せをした後、頷いたラーシャが深呼吸をして口を開いた。
「皆が迅速に動いてくれたのと、レスター、お前のおかげで予想よりも被害は少なく済んだ。だが……」
「……予想よりは、の話です。事実、かなりの兵力を失ったことは確かです。今の我々に、再び平原を攻める程の戦力はありません」
「……」
レスターの歯軋りが、他の者の耳まで届いた。その後ろで肩を怒らせるアルティオの肩を、シリアがなだめるように叩いていた。
「それと……悪い報せがあります」
「……この上にかよ」
「はい。悪い報せです。シェイリーン様が帝都から失踪されました」
「な……っ!?」
レスターの詰まった声が重なった。シリアの眉間にしわが寄り、ラーシャの表情に影が落ちる。
「な、何だそれっ!? どういうことだ!?」
「……暗殺騒ぎがあったそうです。その翌日には、行方がわからなくなっていた、と」
「ヴァレス殿たちも同時に行方知れずになっている。おそらくシェイリーン様はご自分の身の危険を感じて身を隠されたのだろう」
「……ちょっと、その暗殺騒ぎって」
一足早く推察をめぐらせたシリアが懸念を口にした。それを肯定するかのように、デルタが力なく首を振った。
「エイロネイアの手の者による……と思いたいですが、そうとばかりは決定付けられません」
「タカ派の貴族院にとっては、今のシェイリーン様は目の上のこぶだ。こうして我々が敗北した以上、風当たりは一層強くなるだろうしな……」
悔しさに歪む表情を抑えながら、ラーシャは搾り出すように吐き出した。レスターもまた、同じように表情で舌打ちをする。
「どこに隠れられたのかは……」
「……現在、捜索中です。もしかしたらこちらに向かわれている可能性もありますが……それから、もう一つ」
言葉を切ったティルスが、ちらりとアルティオとシリアを見た。眉を潜めた二人に、ラーシャとデルタが腑に落ちないような、居た堪れないような、微妙な表情をする。ティルスは何拍か置いて、観察するような素振りの後に言った。
「ルナ=ディスナー様に本国から反骨の疑いがかけられています」
「な……っ!?」
今度はアルティオとシリアの声が重なった。さあっ、と顔色が変わったアルティオが、涼しい顔で言ったティルスの襟首を掴みかける。ラーシャがそれを慌てて止めながら、
「我らは大陸でルナ殿に助太刀を頂いている。だから、彼女の人となりはわかっているつもりだし、けして悪人物ではないと知っている! ただ……」
「……別の国境近くで、小規模ですが諍いがありました」
言葉を濁すラーシャの代わりにデルタが口を開く。
「その最中でエイロネイアの重鎮と思しき人物がいたと。彼女はシンシア軍から彼を庇い立てし、軍の前から行方を眩ませたそうです」
「―― !!」
アルティオとシリアは顔を見合わせる。アルティオはティルスの首から手を離すと、そのまま顔を抑えて、「あの馬鹿野郎…っ!」と苦しく呟いた。
シリアは苦い顔で溜め息を吐き、首を振る。二人ともそれが虚偽と決め付けられないのを知っていた。大人ぶっておどけてみせてはいるが、彼女は根は驚くほど純朴だ。もし、目の前にいたのが"彼"だとしたら、それを軍の刃が狙っていたら。
……彼女は裏切り者の称号など厭わないだろう。
――恋は盲目、とは言うけど。
シリアは奥歯を噛み締める。気持ちは理解してやりたかった。しかし、それが必ずしも人を幸せにはしないのだと、彼女は知っていた。
「……私たちはどうすればいいのかしら?」
「……元より、これ以上進軍はできない」
シリアの問いに、ラーシャが沈痛な面持ちで口にする。
「シェイリーン様の行方もわからず。貴族院を野放しにするわけにもいかない。ルナ殿の立場を放って置くわけにもいかないだろう。我々は一時、帝都に帰還する。できれば――」
「……わかった。付き合うわ」
「シリア!?」
「落ち着きなさいよ、アルティオ。土地慣れしていない私たちが闇雲に探したって、あの子たちを見つけられるわけないわ。第一、私たちが離脱したら、ルナの立場きっともっと悪くなるわよ? これ以上、あの子の敵を増やしたりしたら……」
「……くそっ!」
舌打ちをして、アルティオは石畳を蹴り飛ばした。ラーシャは「すまない」と口にしたが、アルティオは黙って言葉を飲み込んだ。誰のせいでもない。厳しいことを言うなら、すべて当人の責任だ。シリアもアルティオも、どれほど変わってしまったとしても、、昔ながらの幼馴染を見捨てられるような人間ではなかった。そんな性格をしていたら、誰もこんなところまで来やしないのだ。
――……正念場、かしら……
シリアは顔を上げる。石造りの小窓から、相変わらずどんよりと曇った空が見える。突き抜けるような故国のあの青い空が、何故だか無性に懐かしかった。
デジャヴ、だとは思う。うん。というか思いたい。
「こんなところを女の一人旅なんて物騒だなぁ? おい」
一番物騒なのはあんたたちじゃないか、と思うのだがあえて口にしない。目の前にはやたら汚い、何日も洗濯されていなさそうなボロボロの服の男が数人。手には切れ味の悪そうな刃物や長い棒。中には申し訳程度の鎧を着込んだ男もいて、記憶を失っていても何となく彼らがどんな質の人間なのか判断がついた。
たぶん、追いはぎ、とか、山賊、とか言われる類の人間だ。
見るのは初めて、と言いたいところだが、街道を歩いていてわらわら湧いてきた彼らを見ても、特段、冷や汗の一つも出なかった。だから、これはきっとデジャヴではないのだろう。思い出せないけど。
「そうだぜ。何せ俺たちみたいなのがいるからな」
――あ、一応、自覚あるんだ。
さて、どうやって逃げようかと考えながら、頭のどこか冷めた部分がそんなことを紡ぎ出す。考えて、手が背中の大きな得物の柄に触れるが、出るのは溜め息だ。幸い、弓を構えたヤツはいないから、全速力で走れば逃げ切れないこともないかと思う。
「安心しな。女なら命まで取らねぇよ。大人しくしていれば……」
「大人しくしていても、ろくな目には合いませんよ」
『!?』
まったく予想のつかない場所から、予想のつかない声がした。ややトーンの高い、だが少年とわかるアルトの声。男たちが眉間にしわを寄せ、鬱陶しげな目をして辺りを見回し始める。
カノンの方が耳の精度は良かったようだ。声を追って頭上を仰ぐ。月桂の葉がはらり、と一枚目の前に落ちてきた。
「くすくす、こっちですよ」
未だに見つけられない男たちを嘲笑うように、彼はやたらと楽しそうに笑い声をあげた。男たちも、カノンもまた眉を潜めてそこにいた彼を見た。
太い枝を巡らせた月桂樹にゆらりと身を預け、少年はこちらを見下ろしていた。
歳は大体、カノンと同じ程度だろうか。判断しにくいのは、どう見ても言葉と物腰が相応でないのと、顔の半分と首、覗く手がすべて分厚い包帯に包まれていて、体つきの判然としないゆったりとしたローブ調の服を着込んでいるためだった。戦地の国、とは聞いていたが、それにしてもその容姿は異様にしか映らない。
カノンが言葉を失っていると、少年は躊躇いなく枝の上から身を躍らせた。反射的に肩が震えるが
少年は木の葉が風に落ちるかのように、ふわりといっそ美しいまでに綺麗に着地した。
「…………な、何だてめぇは……っ!?」
――あ、ひよった。
山賊の先頭に立っていた男が、大分遅れて反応した。これが剣を構えた屈強な剣士などだったなら、威勢良く「何だてめぇは!」と怒鳴りつけたのだろうが、相手はか細い感さえする少年である。どもった声がちょっと面白い。
少年はカノンを庇うように山賊との間に入り――
――……あれ?
一瞬、頭の中の警鐘が震えたような気がした。何かの違和感がカノンの喉元をくすぐってくる。
「何だ、と言われましても。そちらも名乗る気なんてないでしょうに。こちらにだけ強要するのは些か横暴ではありませんか?」
「うるせえ! 俺たちを見りゃ誰かなんて大体わかんだろうがっ!」
――大体、っていうかどういう方かはほとんどな。
「……そうですか」
ぞくっ……
間を置いて、少年が低くそう吐き出した。何に納得したのかはわからないが、静かに紡がれたその声が、異様なまでに体の芯に響く。
腹の底から冷やされるような。怒気を孕んでいるわけでもないのに、その一言に背筋が戦慄に凍った。それは彼女だけではなかったようで、刃を構えた男たちもまたそれぞれ小さくうめき声をあげた。
それでも少年一人に気圧された、などとは名折れなのだろう。肩を怒らせて刃を向ける。
「じ、邪魔するつもりなら……っ!」
「いいですよ? 相手になりましょう?」
ぎちっ!
空間が妙な音を立てた。少年の手の平に、いつの間にか真っ黒な槍が一振り、握られている。
「……あんまり動かないでください。怪我しますから」
ちらりとこちらを振り返り、小声の忠告を受ける。
「この……っ! おい、まとめて捕まえちまえ!」
先頭の男のかけ声と共に、男たちの得物が唸りをあげた。
――……ふーむ。
山中の小さな宿屋に場所を移し、添え物のサニーレタスにフォークを突き立てながら、カノンは正面に座る少年を凝視していた。少年はやや疑り深い視線に気づいているのかいないのか、何故だかやたらと不味そうにホットミルクを一口すすると顔を上げた。
「なかなか面白い話ですねぇ。記憶喪失で一人旅ですか」
事も無げに少年は頷いてみせる。場慣れなのか何なのか、驚いた風はない。
――まあ、他人事だもんね。
そう思いながら先程の戦闘を思い返す。いや、あれを戦闘と呼んでいいのだろうか。あまり動くな、といわれたが、むしろ少年の真後ろが一番安全だった。少年の肩越しに得物が振り上げられたかと思えば、次の瞬間には、その男の方が地に伏していて。カノンには、少年がほんのわずか摺り足をしたことしかわからなかった。気がつけば、周りには少年の頭二つ分はでかい大男たちが死屍累々と横たわっていて、当の本人は汗一つ掻いていないようだった。
振り返って、何食わぬ顔で微笑まれたときは、安堵というよりも戦慄さえ走ったものである。
――場数踏んだ傭兵……にも見えないけど。
レタスを口に運びながら少年を盗み見る。顔の半分を残して身体を覆う包帯、妙に大人びた物腰と洗練された動き、しかし相反してどこかこざっぱりしている。旅支度はしているが、どうにも正体が掴めない。
「でも、そういう事情なら、その村から出ない方が安全だったのでは? この国は……」
「戦地ばっかり、っていうのは知ってたけど……まあ……いろいろあってね。
それよりあんたは? どう見ても通りすがりの普通の旅人、には見えないけど」
多少、含みを持たせて言うと、彼は小さく肩を竦めた。やっぱり何故か不味そうにホットミルクを一口流し込むと、
「ただの軍人崩れですよ。ご覧の通り、先の戦いで少々跡の残る大怪我をしましてね。山奥で静養していたんです。ですが、最近になって山の向こうで大事があったようで、仕方なしに召還されに行くところですよ」
「……じゃあ、随分強いんだ」
そう見えないけど、と思ったことはとりあえず口に出さないでおく。
「多少、小隊を指揮した程度です。大したことはありませんよ」
すらすらと澱みなく答える。歳は大して変わらないのに、口をつくのは随分と不相応な言葉ばかり。やや幼くすら見える、包帯に覆われていない秀麗な顔の半分は、にこにことどこか食えない微笑を湛えている。
――うーむ…
しゃくり、とエシャロットをかじりながらカノンは沈思する。
「……じゃあ、あんたも山越えしようとしてる、ってこと?」
「ええ。どちらにしろ、戦場となっているのは山の向こうですから」
もう一度唸ってから、カノンは腕を組んで考える。ちらり、ともう一度、少年の涼しい顔を盗み見てから、がさがさと自分の荷を漁る。
「どうしたんですか?」
すぐには答えずに、カノンは包みをテーブルの上に広げてみせた。数枚の古びた金貨と、細かな貴金属。それから厳重に包まれた薬か何かの瓶が現れた。少年は目の前に広げられた交易品に、きゅ、と眉根を寄せた。
「……これは?」
「今の私じゃよくわかんないけど……記憶を失くしたときに路銀と一緒に持ってたの。人に聞いたらそれなりに価値のあるものだって」
「はあ、確かにこれは……そこそこ値打ちものですねえ」
少年はやや感嘆しながら、些か錆びた金貨を摘み上げた。伺うような視線を向けられて、カノンは再び口を開く。
「傭兵とかの相場ってどれくらいなのか知らないけど……私に出せるのはこれくらい。で、お願いがあるの。私を山の向こうまで連れていってもらえない?」
そう言うと、少年は潜めていた眉をぴくり、と動かした。半目しかない黒曜石のような瞳が見開かれる。
「もちろん、あんたの仕事場まで、なんて無茶は言わないわ。そうね……山を越えて、一番大きな街に着いたら」
「……要は貴方の護衛をしろと?」
通り良く聞き返す少年の言葉に頷く。
「確かに帯剣だけはしてるけど。正直な話、あんまり使い方とか覚えていないのよ。さっきみたいなヤツらから逃げるのが精一杯で……それに」
カノンはテーブルの上に身を乗り出した。少年は合わせて、少しだけ耳を傾ける。
「村を出る前からなんだけど……どうも誰かに狙われている気がして」
「狙われてる?」
少年の幼い眉間にしわが寄った。カノンはやや困った表情で首を傾げ、
「私もどう言っていいか、わかんないんだけど……村が焼けたときに、弓矢を射られたの。そのときはいろいろあって助かったんだけど……」
「焼いた村の村人に、ではなく、"貴方に"、ですか?」
「断言できないけど……その前から変な視線を感じたりすることはあったかな」
「狙われる心当たりは?」
「あったらこんな闇雲な頼み方しないわよ」
カノンは唇を尖らせて肩を竦める。少年は腕を組み、顎に手を置いて何事か思案し始める。
「その貴方を狙っている相手については一切わかりませんか?」
「正体はわからないけど……女だったわ。髪の毛は桃色で、ショート。歳はたぶん、まだ若いと思うんだけど、こう……人形みたいに無表情でよくわからなかったなあ……」
「……"人形"、ですか……」
ぽつり、と少年は繰り返して呟く。ことり、とミルクの入ったマグカップがテーブルに置かれて、白い波紋が広がった。
「……わかりました。どうせついでですし、いいですよ。ご一緒しましょう。
山を下りてしばらく行ったところに、バラック・シティという街があります。とりあえずそこまで、ということで……」
「おーけー、助かるわ。報酬は……」
カノンが言い終えるよりも先に、少年はテーブルの上の金貨を三枚拾い、一度手の平でくるりと躍らせてから懐へと収めた。
「これで十分です。貴方はわかっておられないようですが、随分、古い時代の金貨です。古物商にでも売れば容易く路銀になりますよ」
「そ、そう……」
「さて、と……。記憶がないんでしたね。貴方のことは何と呼べば良いですか?」
問われて一瞬だけ戸惑った。けれど、胸元からかすかに響いたちりん、というベルの音に首を振る。
「……カノン。カノン、て呼んでもらえる?」
気のせいだろうか。彼の表情が一瞬だけ凍ったような気がした。だが、不和が走ったのはほんの一瞬だけで、すぐに少年はにこやかに「カノンさんですね」と返す。
「そういえばこっちも聞いてなかったわね。あんたの名前は?」
最後まで不味そうにカップの残りを飲み干した少年は、何か考えるように天井を見た。そしてにっこりと笑って言った。
「レアシス=レベルト。レアシス、と呼んでください」
目が覚めたのは偶然なのか、それとも記憶を失くす前の自分が徐々にベールを脱ぎつつあるのか。
ともかくカノンが目を開けると、まだ辺りは闇の中だった。獣油の切れたランプが、カーテンを引いた窓越しの月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
山歩きの連続で身体はだるかったが、頭の方は瞬時に覚醒して、再び枕に顔を埋めるのを許さなかった。ほぼ無意識のうちに武器と荷物を引き寄せて腹に抱える。その瞬間、
ゴゥンっ!!
とんでもない轟音がカノンの耳を貫いた。
「……割と無茶をする相手のようですね」
呆然と、ちろちろと炎の舌を覗かせながら、黒煙をあげる元・自分の部屋を見上げるカノンに対し、彼女を抱えあげた少年は冷静な顔で呟いた。爆薬でも投げ込まれたのか、レアシスが間一髪で部屋から救い出してくれなかったなら、全身火だるまか、もっと悪ければ五体バラバラになっていたかもしれない。
「い、いくら何でも無茶苦茶じゃない……!」
「……そうですね」
カノンは青ざめる。村を出て二日ほど。妙な視線は度々感じたえれど、こんな無茶苦茶はなかったのに!
これでは宿屋にいた者も容易く巻き込むことになる。事実、轟音に目を覚ました旅人が、ちらほらと姿を現してはあがる黒煙に悲鳴をあげていた。
茂みに身を隠しながら、もう一度、夜空に立ち上る黒煙を見上げる。心臓の音がうるさい。落ち着け、私はまだ生きている。
「大分、相手方は本気のようですね」
「私……」
「早めにここを離れましょう。でないと――」
レアシスの言葉は最後まで続かなかった。背後から生まれた敵意にカノンが気づくよりも早く、彼は彼女の手を引いて飛び退った。
どすっ!!
「――っ!?」
奇妙な紫色の光の尾を引いた矢が、カノンのいた空間を貫いた。飛び散った光の残滓が、暗い茂みに目印の白石のように光っている。思わず飛来した方向に目をやって、
ぎぃんっ!!
再び狙い撃たれた光の矢を叩き落したのは、少年が手にしていた黒槍だった。ひゅっ、と低い息がレアシスの口から漏れる。
上手く言葉が吐き出せないカノンに、彼は苦い顔で茂みの向こうを見ると、
「……少々、失礼しますよ!」
「!? うわきゃ……っ」
ふわり、と身体が宙に浮く。一度下ろしたカノンの身体を、少年が再び抱えあげていた。口の中で何か早口で唱えると、彼はカノンを担いだまま、大木の枝まで一気に跳躍する。
かつッ!!
また何もない空間を裂いて飛来した矢が茂みに突き刺さる。その突き刺さった痕を見て、カノンは三度唖然とする。先程は暗くてよくわからなかった。けれどよくよく目を凝らせば、はっきりとわかる。
紫光の矢が突き刺さった痕、青々としていた茂みが、急激に黒く焼け焦げていた。圧倒的な熱量を持った炎に、一瞬で焼かれたかのように。もし、あれが人体だったら――答えは言うまでもない。
カノンが絶句している間に、レアシスは一気に森を走り抜けていた。木々の合間を尋常ではないスピードで駆け抜けていく。
「ち、ちょっと!? 宿の人たちは……っ!?」
「狙われているのは貴方です。見つかったなら疾く離れなくては余計、他の人間を巻き込むことになりますよ」
「っ!」
「お喋りは終わりです。口を閉じていないと舌を噛みますよ」
淡々とした口調でそう言って、少年はさらに大きく跳躍した。上がったスピードに慌てて少年の襟元にしがみつきながら、カノンは背後を振り返る。
暗い夜空に立ち上る黒煙が、月明かりに禍々しく移ろいでいた。
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「姐さんっ! みんな無事っすか!?」
少し詰まった声でラーシャが歓喜と安堵が交じり合った声をあげた。領内の砦まで退いたシンシア軍は、しんがりを勤めていたレスターの小部隊になけなしの士気を取り戻す。
「シリア殿、アルティオ殿もよくぞご無事で……!」
「おっほっほ、この至高の美しさを誇る私があんな奴らにどうこうなると思って!?」
「当たり前よ! 俺には幸運の女神がついてるからな! ……と言いつつ今回ばかりはさすがの俺も死ぬかと思ったぜ」
おどけながらアルティオは肩を竦めてみせた。デルタはやや呆れたような目を向けたが、ラーシャはほんの少し力が抜けたように安堵の息を吐く。
「ライアント大尉、隊の損害は?」
「ああ……こいつらのおかげで全員生きてるぜ。みんな軽傷は負ってるが、まあ、俺の隊は頑丈なのがウリだからな」
「……そうですか。何よりです」
そう言いながらティルスの声色はどこか硬かった。事務的な口調を貫きながらも、声の中には拭えない不安と焦燥が混じっていた。
「……そっちは、ひどいのか……」
固い唾を飲んだレスターが問いかける。ティルスはふう、と重い溜め息を吐き、ラーシャとデルタの唇がぐっと引き結ばれる。目配せをした後、頷いたラーシャが深呼吸をして口を開いた。
「皆が迅速に動いてくれたのと、レスター、お前のおかげで予想よりも被害は少なく済んだ。だが……」
「……予想よりは、の話です。事実、かなりの兵力を失ったことは確かです。今の我々に、再び平原を攻める程の戦力はありません」
「……」
レスターの歯軋りが、他の者の耳まで届いた。その後ろで肩を怒らせるアルティオの肩を、シリアがなだめるように叩いていた。
「それと……悪い報せがあります」
「……この上にかよ」
「はい。悪い報せです。シェイリーン様が帝都から失踪されました」
「な……っ!?」
レスターの詰まった声が重なった。シリアの眉間にしわが寄り、ラーシャの表情に影が落ちる。
「な、何だそれっ!? どういうことだ!?」
「……暗殺騒ぎがあったそうです。その翌日には、行方がわからなくなっていた、と」
「ヴァレス殿たちも同時に行方知れずになっている。おそらくシェイリーン様はご自分の身の危険を感じて身を隠されたのだろう」
「……ちょっと、その暗殺騒ぎって」
一足早く推察をめぐらせたシリアが懸念を口にした。それを肯定するかのように、デルタが力なく首を振った。
「エイロネイアの手の者による……と思いたいですが、そうとばかりは決定付けられません」
「タカ派の貴族院にとっては、今のシェイリーン様は目の上のこぶだ。こうして我々が敗北した以上、風当たりは一層強くなるだろうしな……」
悔しさに歪む表情を抑えながら、ラーシャは搾り出すように吐き出した。レスターもまた、同じように表情で舌打ちをする。
「どこに隠れられたのかは……」
「……現在、捜索中です。もしかしたらこちらに向かわれている可能性もありますが……それから、もう一つ」
言葉を切ったティルスが、ちらりとアルティオとシリアを見た。眉を潜めた二人に、ラーシャとデルタが腑に落ちないような、居た堪れないような、微妙な表情をする。ティルスは何拍か置いて、観察するような素振りの後に言った。
「ルナ=ディスナー様に本国から反骨の疑いがかけられています」
「な……っ!?」
今度はアルティオとシリアの声が重なった。さあっ、と顔色が変わったアルティオが、涼しい顔で言ったティルスの襟首を掴みかける。ラーシャがそれを慌てて止めながら、
「我らは大陸でルナ殿に助太刀を頂いている。だから、彼女の人となりはわかっているつもりだし、けして悪人物ではないと知っている! ただ……」
「……別の国境近くで、小規模ですが諍いがありました」
言葉を濁すラーシャの代わりにデルタが口を開く。
「その最中でエイロネイアの重鎮と思しき人物がいたと。彼女はシンシア軍から彼を庇い立てし、軍の前から行方を眩ませたそうです」
「―― !!」
アルティオとシリアは顔を見合わせる。アルティオはティルスの首から手を離すと、そのまま顔を抑えて、「あの馬鹿野郎…っ!」と苦しく呟いた。
シリアは苦い顔で溜め息を吐き、首を振る。二人ともそれが虚偽と決め付けられないのを知っていた。大人ぶっておどけてみせてはいるが、彼女は根は驚くほど純朴だ。もし、目の前にいたのが"彼"だとしたら、それを軍の刃が狙っていたら。
……彼女は裏切り者の称号など厭わないだろう。
――恋は盲目、とは言うけど。
シリアは奥歯を噛み締める。気持ちは理解してやりたかった。しかし、それが必ずしも人を幸せにはしないのだと、彼女は知っていた。
「……私たちはどうすればいいのかしら?」
「……元より、これ以上進軍はできない」
シリアの問いに、ラーシャが沈痛な面持ちで口にする。
「シェイリーン様の行方もわからず。貴族院を野放しにするわけにもいかない。ルナ殿の立場を放って置くわけにもいかないだろう。我々は一時、帝都に帰還する。できれば――」
「……わかった。付き合うわ」
「シリア!?」
「落ち着きなさいよ、アルティオ。土地慣れしていない私たちが闇雲に探したって、あの子たちを見つけられるわけないわ。第一、私たちが離脱したら、ルナの立場きっともっと悪くなるわよ? これ以上、あの子の敵を増やしたりしたら……」
「……くそっ!」
舌打ちをして、アルティオは石畳を蹴り飛ばした。ラーシャは「すまない」と口にしたが、アルティオは黙って言葉を飲み込んだ。誰のせいでもない。厳しいことを言うなら、すべて当人の責任だ。シリアもアルティオも、どれほど変わってしまったとしても、、昔ながらの幼馴染を見捨てられるような人間ではなかった。そんな性格をしていたら、誰もこんなところまで来やしないのだ。
――……正念場、かしら……
シリアは顔を上げる。石造りの小窓から、相変わらずどんよりと曇った空が見える。突き抜けるような故国のあの青い空が、何故だか無性に懐かしかった。
デジャヴ、だとは思う。うん。というか思いたい。
「こんなところを女の一人旅なんて物騒だなぁ? おい」
一番物騒なのはあんたたちじゃないか、と思うのだがあえて口にしない。目の前にはやたら汚い、何日も洗濯されていなさそうなボロボロの服の男が数人。手には切れ味の悪そうな刃物や長い棒。中には申し訳程度の鎧を着込んだ男もいて、記憶を失っていても何となく彼らがどんな質の人間なのか判断がついた。
たぶん、追いはぎ、とか、山賊、とか言われる類の人間だ。
見るのは初めて、と言いたいところだが、街道を歩いていてわらわら湧いてきた彼らを見ても、特段、冷や汗の一つも出なかった。だから、これはきっとデジャヴではないのだろう。思い出せないけど。
「そうだぜ。何せ俺たちみたいなのがいるからな」
――あ、一応、自覚あるんだ。
さて、どうやって逃げようかと考えながら、頭のどこか冷めた部分がそんなことを紡ぎ出す。考えて、手が背中の大きな得物の柄に触れるが、出るのは溜め息だ。幸い、弓を構えたヤツはいないから、全速力で走れば逃げ切れないこともないかと思う。
「安心しな。女なら命まで取らねぇよ。大人しくしていれば……」
「大人しくしていても、ろくな目には合いませんよ」
『!?』
まったく予想のつかない場所から、予想のつかない声がした。ややトーンの高い、だが少年とわかるアルトの声。男たちが眉間にしわを寄せ、鬱陶しげな目をして辺りを見回し始める。
カノンの方が耳の精度は良かったようだ。声を追って頭上を仰ぐ。月桂の葉がはらり、と一枚目の前に落ちてきた。
「くすくす、こっちですよ」
未だに見つけられない男たちを嘲笑うように、彼はやたらと楽しそうに笑い声をあげた。男たちも、カノンもまた眉を潜めてそこにいた彼を見た。
太い枝を巡らせた月桂樹にゆらりと身を預け、少年はこちらを見下ろしていた。
歳は大体、カノンと同じ程度だろうか。判断しにくいのは、どう見ても言葉と物腰が相応でないのと、顔の半分と首、覗く手がすべて分厚い包帯に包まれていて、体つきの判然としないゆったりとしたローブ調の服を着込んでいるためだった。戦地の国、とは聞いていたが、それにしてもその容姿は異様にしか映らない。
カノンが言葉を失っていると、少年は躊躇いなく枝の上から身を躍らせた。反射的に肩が震えるが
少年は木の葉が風に落ちるかのように、ふわりといっそ美しいまでに綺麗に着地した。
「…………な、何だてめぇは……っ!?」
――あ、ひよった。
山賊の先頭に立っていた男が、大分遅れて反応した。これが剣を構えた屈強な剣士などだったなら、威勢良く「何だてめぇは!」と怒鳴りつけたのだろうが、相手はか細い感さえする少年である。どもった声がちょっと面白い。
少年はカノンを庇うように山賊との間に入り――
――……あれ?
一瞬、頭の中の警鐘が震えたような気がした。何かの違和感がカノンの喉元をくすぐってくる。
「何だ、と言われましても。そちらも名乗る気なんてないでしょうに。こちらにだけ強要するのは些か横暴ではありませんか?」
「うるせえ! 俺たちを見りゃ誰かなんて大体わかんだろうがっ!」
――大体、っていうかどういう方かはほとんどな。
「……そうですか」
ぞくっ……
間を置いて、少年が低くそう吐き出した。何に納得したのかはわからないが、静かに紡がれたその声が、異様なまでに体の芯に響く。
腹の底から冷やされるような。怒気を孕んでいるわけでもないのに、その一言に背筋が戦慄に凍った。それは彼女だけではなかったようで、刃を構えた男たちもまたそれぞれ小さくうめき声をあげた。
それでも少年一人に気圧された、などとは名折れなのだろう。肩を怒らせて刃を向ける。
「じ、邪魔するつもりなら……っ!」
「いいですよ? 相手になりましょう?」
ぎちっ!
空間が妙な音を立てた。少年の手の平に、いつの間にか真っ黒な槍が一振り、握られている。
「……あんまり動かないでください。怪我しますから」
ちらりとこちらを振り返り、小声の忠告を受ける。
「この……っ! おい、まとめて捕まえちまえ!」
先頭の男のかけ声と共に、男たちの得物が唸りをあげた。
――……ふーむ。
山中の小さな宿屋に場所を移し、添え物のサニーレタスにフォークを突き立てながら、カノンは正面に座る少年を凝視していた。少年はやや疑り深い視線に気づいているのかいないのか、何故だかやたらと不味そうにホットミルクを一口すすると顔を上げた。
「なかなか面白い話ですねぇ。記憶喪失で一人旅ですか」
事も無げに少年は頷いてみせる。場慣れなのか何なのか、驚いた風はない。
――まあ、他人事だもんね。
そう思いながら先程の戦闘を思い返す。いや、あれを戦闘と呼んでいいのだろうか。あまり動くな、といわれたが、むしろ少年の真後ろが一番安全だった。少年の肩越しに得物が振り上げられたかと思えば、次の瞬間には、その男の方が地に伏していて。カノンには、少年がほんのわずか摺り足をしたことしかわからなかった。気がつけば、周りには少年の頭二つ分はでかい大男たちが死屍累々と横たわっていて、当の本人は汗一つ掻いていないようだった。
振り返って、何食わぬ顔で微笑まれたときは、安堵というよりも戦慄さえ走ったものである。
――場数踏んだ傭兵……にも見えないけど。
レタスを口に運びながら少年を盗み見る。顔の半分を残して身体を覆う包帯、妙に大人びた物腰と洗練された動き、しかし相反してどこかこざっぱりしている。旅支度はしているが、どうにも正体が掴めない。
「でも、そういう事情なら、その村から出ない方が安全だったのでは? この国は……」
「戦地ばっかり、っていうのは知ってたけど……まあ……いろいろあってね。
それよりあんたは? どう見ても通りすがりの普通の旅人、には見えないけど」
多少、含みを持たせて言うと、彼は小さく肩を竦めた。やっぱり何故か不味そうにホットミルクを一口流し込むと、
「ただの軍人崩れですよ。ご覧の通り、先の戦いで少々跡の残る大怪我をしましてね。山奥で静養していたんです。ですが、最近になって山の向こうで大事があったようで、仕方なしに召還されに行くところですよ」
「……じゃあ、随分強いんだ」
そう見えないけど、と思ったことはとりあえず口に出さないでおく。
「多少、小隊を指揮した程度です。大したことはありませんよ」
すらすらと澱みなく答える。歳は大して変わらないのに、口をつくのは随分と不相応な言葉ばかり。やや幼くすら見える、包帯に覆われていない秀麗な顔の半分は、にこにことどこか食えない微笑を湛えている。
――うーむ…
しゃくり、とエシャロットをかじりながらカノンは沈思する。
「……じゃあ、あんたも山越えしようとしてる、ってこと?」
「ええ。どちらにしろ、戦場となっているのは山の向こうですから」
もう一度唸ってから、カノンは腕を組んで考える。ちらり、ともう一度、少年の涼しい顔を盗み見てから、がさがさと自分の荷を漁る。
「どうしたんですか?」
すぐには答えずに、カノンは包みをテーブルの上に広げてみせた。数枚の古びた金貨と、細かな貴金属。それから厳重に包まれた薬か何かの瓶が現れた。少年は目の前に広げられた交易品に、きゅ、と眉根を寄せた。
「……これは?」
「今の私じゃよくわかんないけど……記憶を失くしたときに路銀と一緒に持ってたの。人に聞いたらそれなりに価値のあるものだって」
「はあ、確かにこれは……そこそこ値打ちものですねえ」
少年はやや感嘆しながら、些か錆びた金貨を摘み上げた。伺うような視線を向けられて、カノンは再び口を開く。
「傭兵とかの相場ってどれくらいなのか知らないけど……私に出せるのはこれくらい。で、お願いがあるの。私を山の向こうまで連れていってもらえない?」
そう言うと、少年は潜めていた眉をぴくり、と動かした。半目しかない黒曜石のような瞳が見開かれる。
「もちろん、あんたの仕事場まで、なんて無茶は言わないわ。そうね……山を越えて、一番大きな街に着いたら」
「……要は貴方の護衛をしろと?」
通り良く聞き返す少年の言葉に頷く。
「確かに帯剣だけはしてるけど。正直な話、あんまり使い方とか覚えていないのよ。さっきみたいなヤツらから逃げるのが精一杯で……それに」
カノンはテーブルの上に身を乗り出した。少年は合わせて、少しだけ耳を傾ける。
「村を出る前からなんだけど……どうも誰かに狙われている気がして」
「狙われてる?」
少年の幼い眉間にしわが寄った。カノンはやや困った表情で首を傾げ、
「私もどう言っていいか、わかんないんだけど……村が焼けたときに、弓矢を射られたの。そのときはいろいろあって助かったんだけど……」
「焼いた村の村人に、ではなく、"貴方に"、ですか?」
「断言できないけど……その前から変な視線を感じたりすることはあったかな」
「狙われる心当たりは?」
「あったらこんな闇雲な頼み方しないわよ」
カノンは唇を尖らせて肩を竦める。少年は腕を組み、顎に手を置いて何事か思案し始める。
「その貴方を狙っている相手については一切わかりませんか?」
「正体はわからないけど……女だったわ。髪の毛は桃色で、ショート。歳はたぶん、まだ若いと思うんだけど、こう……人形みたいに無表情でよくわからなかったなあ……」
「……"人形"、ですか……」
ぽつり、と少年は繰り返して呟く。ことり、とミルクの入ったマグカップがテーブルに置かれて、白い波紋が広がった。
「……わかりました。どうせついでですし、いいですよ。ご一緒しましょう。
山を下りてしばらく行ったところに、バラック・シティという街があります。とりあえずそこまで、ということで……」
「おーけー、助かるわ。報酬は……」
カノンが言い終えるよりも先に、少年はテーブルの上の金貨を三枚拾い、一度手の平でくるりと躍らせてから懐へと収めた。
「これで十分です。貴方はわかっておられないようですが、随分、古い時代の金貨です。古物商にでも売れば容易く路銀になりますよ」
「そ、そう……」
「さて、と……。記憶がないんでしたね。貴方のことは何と呼べば良いですか?」
問われて一瞬だけ戸惑った。けれど、胸元からかすかに響いたちりん、というベルの音に首を振る。
「……カノン。カノン、て呼んでもらえる?」
気のせいだろうか。彼の表情が一瞬だけ凍ったような気がした。だが、不和が走ったのはほんの一瞬だけで、すぐに少年はにこやかに「カノンさんですね」と返す。
「そういえばこっちも聞いてなかったわね。あんたの名前は?」
最後まで不味そうにカップの残りを飲み干した少年は、何か考えるように天井を見た。そしてにっこりと笑って言った。
「レアシス=レベルト。レアシス、と呼んでください」
目が覚めたのは偶然なのか、それとも記憶を失くす前の自分が徐々にベールを脱ぎつつあるのか。
ともかくカノンが目を開けると、まだ辺りは闇の中だった。獣油の切れたランプが、カーテンを引いた窓越しの月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
山歩きの連続で身体はだるかったが、頭の方は瞬時に覚醒して、再び枕に顔を埋めるのを許さなかった。ほぼ無意識のうちに武器と荷物を引き寄せて腹に抱える。その瞬間、
ゴゥンっ!!
とんでもない轟音がカノンの耳を貫いた。
「……割と無茶をする相手のようですね」
呆然と、ちろちろと炎の舌を覗かせながら、黒煙をあげる元・自分の部屋を見上げるカノンに対し、彼女を抱えあげた少年は冷静な顔で呟いた。爆薬でも投げ込まれたのか、レアシスが間一髪で部屋から救い出してくれなかったなら、全身火だるまか、もっと悪ければ五体バラバラになっていたかもしれない。
「い、いくら何でも無茶苦茶じゃない……!」
「……そうですね」
カノンは青ざめる。村を出て二日ほど。妙な視線は度々感じたえれど、こんな無茶苦茶はなかったのに!
これでは宿屋にいた者も容易く巻き込むことになる。事実、轟音に目を覚ました旅人が、ちらほらと姿を現してはあがる黒煙に悲鳴をあげていた。
茂みに身を隠しながら、もう一度、夜空に立ち上る黒煙を見上げる。心臓の音がうるさい。落ち着け、私はまだ生きている。
「大分、相手方は本気のようですね」
「私……」
「早めにここを離れましょう。でないと――」
レアシスの言葉は最後まで続かなかった。背後から生まれた敵意にカノンが気づくよりも早く、彼は彼女の手を引いて飛び退った。
どすっ!!
「――っ!?」
奇妙な紫色の光の尾を引いた矢が、カノンのいた空間を貫いた。飛び散った光の残滓が、暗い茂みに目印の白石のように光っている。思わず飛来した方向に目をやって、
ぎぃんっ!!
再び狙い撃たれた光の矢を叩き落したのは、少年が手にしていた黒槍だった。ひゅっ、と低い息がレアシスの口から漏れる。
上手く言葉が吐き出せないカノンに、彼は苦い顔で茂みの向こうを見ると、
「……少々、失礼しますよ!」
「!? うわきゃ……っ」
ふわり、と身体が宙に浮く。一度下ろしたカノンの身体を、少年が再び抱えあげていた。口の中で何か早口で唱えると、彼はカノンを担いだまま、大木の枝まで一気に跳躍する。
かつッ!!
また何もない空間を裂いて飛来した矢が茂みに突き刺さる。その突き刺さった痕を見て、カノンは三度唖然とする。先程は暗くてよくわからなかった。けれどよくよく目を凝らせば、はっきりとわかる。
紫光の矢が突き刺さった痕、青々としていた茂みが、急激に黒く焼け焦げていた。圧倒的な熱量を持った炎に、一瞬で焼かれたかのように。もし、あれが人体だったら――答えは言うまでもない。
カノンが絶句している間に、レアシスは一気に森を走り抜けていた。木々の合間を尋常ではないスピードで駆け抜けていく。
「ち、ちょっと!? 宿の人たちは……っ!?」
「狙われているのは貴方です。見つかったなら疾く離れなくては余計、他の人間を巻き込むことになりますよ」
「っ!」
「お喋りは終わりです。口を閉じていないと舌を噛みますよ」
淡々とした口調でそう言って、少年はさらに大きく跳躍した。上がったスピードに慌てて少年の襟元にしがみつきながら、カノンは背後を振り返る。
暗い夜空に立ち上る黒煙が、月明かりに禍々しく移ろいでいた。
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『彼女』とアレイアが眠っているケナをつれて表に出たときには、既にその炎の波は村中を包んでいた。どちらともなく固く喉を鳴らす。いくら狭い村だと言っても、一度に何箇所か同時に火の手が上がらなければ、もしくは余程大きな火種が撒かれなければ、こんな短時間にここまで燃え広がるなんてないだろう。
『彼女』の脳裏に浮かんだのは、つい先ほどアレイアが口にした言葉だった。
『それ以来、兵士は――』
『ここは奇跡的に戦火を逃れているが、山の向こうでは――』
首を振る。まさかそんな、タイミングが良すぎる。そんな都合の悪い話があるものか。けれど、ぞくりと『彼女』の肌は粟立って、背筋に緊張が走る。
昨日の昼間、村長の家で感じたあの透明な殺意と、見えざる手。じりじりと、首を絞めようと構えてくる、手。
――まさか……。
唇を噛んで再度、激しく首を振る。村の外にあるアレイアの家は未だ無事だったが、いつ炎に撒かれるとも限らない。『彼女』は示唆された場所に走り出すより一瞬前に、奇妙に明るい村を見下ろした。
赤い舌と煙とで何も見えない。ハンナは? 村長は? 本当に皆、こんなところから逃れられたんだろうか。そこには慣れ親しんだ菓子屋も八百屋も公園も、何も見えなかった。
が、
「……?」
『彼女』は目を凝らす。何か。何か、炎の中に影が見えたような。……まさか、まだ人が、
「フィーナ!」
「……っ!」
嫌な想像を掻き消すように、炎の海から逃げるように。『彼女』はケナを背負ったアレイアの後を追った。
「アレイアの旦那!」
聞き覚えのある声でそう呼ばれ、アレイアは反射的に振り返る。炎を逃れて林の中へ逃げ出した人波の中から、人好きのいいおばさんが手を振っていた。
「ハンナ! 無事だったか!」
「ああ、平気さ! フィーナちゃんもケナちゃんも無事かい!?」
「わ、私は平気」
「……」
平静を繕った、だがやはりどこか余裕のない大声で問われて、彼女は声を上ずらせた。アレイアの背中でショックを隠しきれないのだろう、青ざめて真っ白な顔をしたケナがほんお小さく頷く。
辺りはすすり泣きとヒステリックな怒号が混じっていた。それでもハンナのように冷静を保った人間が何人か、先導して地に足がついていない人々を纏め上げている。女、子供。けたたましい泣き声と、キナくさい空気が肺と胸を同時に焼いた。
「旦那、向こうで村長たちが火を食い止めてるんだ。手伝ってやってくれないかい? フィーナちゃんとケナちゃんは私が見てるからさ」
「ああ、わかった。フィーナ、ケナ、大人しくしてろよ?」
そう言ってアレイアは背中のケナをハンナに預け、走り去ってしまう。
「あ、あの、ハンナさん……。何か私も手伝うこと……」
「ああ、フィーナちゃんは落ち着いてるね。よかった、助かるよ。皆、浮き足立って、泣いてる子を世話するのが足りないんだ」
「あ、は……」
「ハンナさん!」
答える『彼女』の声遮って、半泣きの揺らいだ声が上がった。顔をあげるとほとんど転がるようにして、林の方から女性が駆けて来る。
村で何度か見かけたことがある。ただ、今は艶やかな髪も、下ろした服もすすで塗れていて、ところどころ破れていた。やや正気を失った表情で彼女は縋りつうようにハンナの腕を引いた。
「ハンナ! どうしようっ! リックが、あの子が、まだ村に……っ」
「!」
よく女性が男の子の手を引いていたのを思い出す。確かケナともよく遊んでいた。はっとしてハンナに抱かれた彼女を見ると、ただでさえ青ざめていた顔が、とうとうくしゃり、と歪むところだった。
「う……ふえええええっ!」
「ああっ、大丈夫だよ、大丈夫……だから落ち着いて」
一瞬後には火がついたように泣き出した。女性はさらに錯乱し始めて、ハンナが慌てて両方を宥めようとする。『彼女』ははっ、と顔をあげた。来る途中に見えた炎の中の影。大きさはわからなかったが、もしかしたら――
「……私、ちょっとだけ見てくる!」
「フィーナちゃん!?」
駆け出した『彼女』をハンナの声だけが追う。子供を抱えて女性に縋り疲れた格好のハンナが、彼女を追うことはできずに、『彼女』の背は瞬く間に林の向こうへと走り去ってしまったのである。
がらがらと焼けた木材が炭となって落ちる音。パチパチとうるさいほど叫ぶ火花。そして轟音にさえ聞こえる焔の鳴き声。ランプの中で小さく燃えているときにはあんなにも頼りになるのに、いざ姿かたちを変えると尋常ならざる恐怖になる。
あの女性のように、『彼女』も錯乱してもおかしくはなかった。けれど何故か『彼女』の脳は、混乱しつつも冷静を保っていた。明るすぎる村にに飛び込むときは足がすくんだが、焼けた村の門を潜った後は、まるで日の中の歩き方を知り尽くしているように、炎の赤い舌をかいくぐってストリートを駆けられた。今は炎よりも己自身に恐怖する。私は何者だったのだろう。何故、こんな場所を歩けるのか、ただ迷子の子供を助けるためだけに。
『彼女』は激しく首を振った。今はいい。今は自分が探しに来た子供のことだけ考えよう。
「!」
灰と火の粉の降る広場に差し掛かって、噴水の影に布切れを見つけた。だだっ広い広場は火の手の周りが遅いようだった。『彼女』は迷わず駆け抜ける。噴水の影に何度か見た覚えのある小さな男の子が倒れている。慌てて首を触ると、そこは確かに脈動していて、胸を撫で下ろした。
「とりあえず、早く逃げなきゃ……」
転びそうになるフレアスカートの裾を裂く。気になどしていられない。急いで子供を背に負ぶって――
「――っ!」
それを感じ取ることが出来たのは奇跡だったのか。それとも脳と身体に刻まれた本能だったのか。『彼女』は子供を庇うようにして、反射的に後退った。その足元に、
ざくっ!!
「・・・!」
自分のスカートの裾を裂いて飛来したそれに、『彼女』の背中に戦慄が走った。身体が凍りつく。
「何よ……これ……」
それが何なのかなんて知っている。きっと見たら誰だって判断がつく。でも、それが己に放たれるのを見た者と見たことがない者。数えたらきっと後者の方が圧倒的に決まってる!
肉を抉るために尖り、磨かれた切っ先が、今はやすやすと乾いた地面に突き刺さる。
・・・弓矢、だった。
足元から恐怖が駆け上がる。それでも膝が折れなかったのは、『彼女』の中に残っていた』本能が、一番の恐怖を理解していたからだ。
即ち――矢を放った者がどこかにいるのだ、と。
「!」
もう一度、殺気が背中を貫いた。『彼女』は子供を庇いながら、身体を反転させる。
ざくっ!
「――っ!」
鋭利な痛みが太股を裂いた。背中の子供を庇った『彼女』の足を掠めてとんだ弓矢は、そのままざっくりと裂けたスカートの布切れを地面に縫いとめる。
『彼女』は顔を上げた。
息が、詰まった。
明確な殺意が、真っ向から『彼女』を貫く。焼け残った屋根の上。舞う火の粉を背にして、彼女は静かに弓を構えていた。
凍りついた表情。淡い桃色の髪。無機質な、人形のような紫の瞳。灯るのは肉食獣が獲物に向けるような――悪意なき殺意。
見覚えがあった。村長の家の階段から転がり落ちた、あのときの――!
「――!」
彼女は、『彼女』を狙っていた。
悟った瞬間に、『彼女』は駆け出そうと足に力を込める。だが『彼女』の意思とは裏腹に、恐怖に竦んだ足には上手く力が入らずにがくりと膝が折れる。
かちかちと奥歯が鳴る。何、何なんだろう、この世界は。ここは本当につい先ほどまで平和だったあの穏やかな村の中なんだろうか。炎に包まれて、さらにあんなものが見える。悪夢なら早く覚めればいいのに、鏃の掠めた太股が、嫌が応にも現実を突きつける。
「……」
無感情な瞳がまた矢を番える。そこには何の躊躇いも見えない。
――っ!
声さえも出なかった。。殺される、と思った瞬間に、まだ気絶したままの子供を抱きしめて目を瞑る。何か考えられたわけじゃない。ただ本能的に、せめてと思っただけだ。暗闇の中でほぼ無意識に口を開く。助けを叫ぼうとした唇からは、しかし、とうとう何も出て来なかった。
「――っ!」
きぃんっ!
……澄んだ金属音が響いた。訪れると思っていた激痛は、いつまで経っても襲って来ない。
「……」
子供を抱きしめながら、『彼女』はゆっくりと面をあげる。そして、息を呑んだ。
炎の逆光に、大きな背中が聳えていた。
足元に折れた矢が転がって、ざくりと地面に突き立てられているのは複雑怪奇な紋様を描く大振りの剣。呆然とした頭で、その剣が飛来した矢を叩き落したのだと知る。火の粉の舞う中に佇む背中は、暗色の長いコートに覆われていて、コートの背にさらりと焔と同じ鮮やかな黄昏色の髪が落ちる。
「……」
ぴきん、とこめかみが、軋んだ。何故なのかは、わからなかった。
「――去れ」
「……」
低い。低くて、些か怒気を孕んだ声が耳を打った。静かだがけして無感情ではない。心地よいテノール。
男の背中越しにかろうじて見える屋根の上、弓の構えた女は、やはり無表情に男を見下ろしていた。しかし、しばらく無言を貫くと屋根を蹴る。猫か猿のような身軽さで隣の屋根へと飛び移った女は、瞬く間に炎の中へ姿を消した。
「……」
「あ……」
女の姿が完全に見えなくなるのを待って、男が振り返る。瞬間、
「・・・!」
鳶色の、鷹の瞳と目が合った。身体が動かなくなる。息が詰まる。でもそれは鋭い眼光に睨まれたせいじゃない。
黄昏と同じ色をした髪が炎に溶ける。逆光の中に光を放つ瞳が霧氷上位、彼女を見下ろした。
――あ、つ……っ!?
脳髄が急激に、焼けるような熱を持った。胃液が逆流して器官を焼く。異様に熱をあげた身体は、自身をいじめるようにがんがんと芯から、頭から、身体から自由を奪う。矢先を向けられたときとは違う感覚が、膝から力を奪う。
「うっ、く……っ!」
早く逃げなくてはならないのに、ぐらぐらと煮えくり返る脳が邪魔をする。そのときだった。
「……っ!」
「……こんな場所にいると、死ぬぞ」
容赦のない言葉と裏腹に、丸めた背中をまるで窘めるように大きな手のひらがなでた。視線を上げると、赤い光の中に影を作る。
暗緑のコート。胸元には奇妙な紋章。細められた鳶色の瞳は、無表情ではあるものの、先ほどの女のような冷たさは感じない。
むしろ、
―― ……?
「立てるか」
「……」
『彼女』の代わりに子供を片手で担ぎ上げた男が問う。頭一つ分半は高い背丈。黄昏の髪、何故だかどこか物悲しい瞳、背中に添えられた無骨でとても大きな手。
呆然と男の顔を見上げたまま、口から滑り出した言葉はほぼ無意識だった。
「……貴方、」
「?」
「貴方、私を知ってる?」
「――っ!」
無表情な男の顔に、明らかな同様が走った。わずかに見開かれた鳶色の目が、複雑な色に変化する。だが、それが何より明確な答えだった。
「知って……る、の?」
「……」
自らの困惑を押さえつけながら、『彼女』はよく回らない舌で言葉を紡ぎ出す。男は答えない。そして『彼女』がもう一度、同じ問いを繰り返そうとした、刹那、
「っ!?」
「――すまない」
首筋の辺りに軽い衝撃があった。歯を苦縛る間もなく、休息に意識が落ちる。
――うっ……く……っ!
暗闇のカーテンが落ち切る直前、『彼女』が最後に目にしたのは、苦痛と、何故だか痛ましいほど悲しく歪んだ男の顔だった。
アレイアは焦っていた。火の勢いが弱まり始め、疲労した老人たちを避難所へ送り届けてみると、そこにフィーナの姿はなかった。
わかっている。自分はそんな心配ができるような立場じゃない。ただ、まだ忘れ得ぬ想い人の面影を彼女に重ねているだけの、酷い男だ。自惚れることさえできない。
だがそれでも、見捨てられるはずはなかった。
――くそっ! あの馬鹿……っ! 後先考えずに……っ!
どこが火の元で何が原因かもわからない。それなのに。至極、彼女らしいと言えばそうなるが、笑い事でも冗談でも、済ませられるものじゃない。
林を抜けて、焼け残った村の柵の袂に差し掛かる。そのときだった。
「! フィーナ!」
「! アレイア!」
子供を抱きかかえたまま、すわり込むフィーなの後姿が見えた。声を張り上げると、金色の頭が振り返って、名前を呼び返す。
一瞬、安堵したアレイアだったが、彼女の傍に佇んでいた男に、即座に表情を強張らせた。
「アレイア……?」
「!」
"それ"に気がついたアレイアは迷わず腰に下げていた剣を抜いた。
「アレイア!?」
「フィーナ下がれ! その男から離れろ!」
「け、けど……!」
言い澱むフィーナを庇うように前に出て、長身の男を睨み上げる。鷹のような鋭い目。着込まれた軍服の胸元意、あの忌まわしい紋章が張り付いていた。
「八咫烏の紋……っ!」
「え……?」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
――っ!?
アレイアの吐き出した、にわかには信じがたい単語に、フィーナの瞳が見開かれる。男の眉がわずかにひくり、と動いた。アレイアはフィーナの腕を引き、後ろに下がらせると、剣の切っ先を男へと向けた。
「まさか、村を焼いたのも貴様らか!」
「……違う」
しかし、アレイアの瞳は疑惑を湛えたままだった。
『彼女』はアレイアと彼とを交互に見比べる。そして意を決したように唇を引き結んだ。
「待って、アレイア」
「フィーナ……っ!」
「貴方の気持ちもわからなくない、けど、でも……」
『彼女』は一度、言葉を切った。遮るアレイアの腕を押し退けて前に出ると、真っ向から高い鳶色の瞳を覗き込んだ。
「――貴方、私を知ってるのね」
「……」
男はわずかに顔をしかめてみせた。けれど何故だか彼女には解った。それが、何よりの肯定なのだと。
男は静かな瞳で、一度だけ『彼女』を見た。わずかに唇を噛み、それでも口は開くことなく踵を返す。
「ま……っ!」
「さっさと去れ。いつまでもここにいると死ぬぞ」
それだけ告げると男は地面を蹴った。凄まじい速さで林を駆け抜ける。子供を抱えたまあの彼女に、それが追えるはずもなく、その場で足を止める。
「フィーナ……?」
「……」
肌が妙に粟立っていた。地に足が着かない。アレイアが呼ぶその名前が、いつも異常に遠かった。
「……?」
視界の隅が光ったような気がして、視線を下ろす。固く焼けた地面の上に、きらりと小さく、何か鎖のようなものが落ちていた。拾い上げると、金属であるソレは妙なほど温かかった。つい先ほどまで人の手の中にあったかような。
――……ネックレス?
シルバーの鎖に繋がれたのは、小さな、透明なベルと銀色の指輪。シンプルで、けして華美ではなくて、飾り気のあまりない。
――……。
無意識に、彼女はそれを手の中へ握り締めた。
心臓が、何故だか痛いほど熱かった。
ぱさり、と床にワンピースが落ちた。昨日の今日で、呑気に朝から郊外を散歩しているような人間もいないだろうが、一応はカーテンを閉めておく。
郊外にあったアレイアの家は運良く庭を舐めた程度の被害で済んだ。今、狭いリビングでは何人かの村人たちが避難して来ている。早朝で疲れもあるのだろう。今は皆眠っている。少し経てば、皆起き出して村の復興を始めるんだろう。
火が消えたのはもう明け方近くになってからだった。呆然と立ち尽くす人、泣き疲れて切り株で眠ってしまった人、悲嘆にくれる人。そんな中で村長やハンナは残った家から食べ物や水をかき集め、手製の竃で温かいものを振舞っていた。それに元気付けられたのか、村人たちの間では、朝になる頃にはあそこはああ直して、今度は家をこうしたい、なんて会話がちらほら聞こえ始めていた。
「今まで戦火なんか遠くて、実感なんてなかったけどね。でも私らだって、そんなに弱くないさ。壊れちまったものを嘆いてばかりじゃ生き残れないしね」
ハンナは疲れた顔に笑顔を浮かべながら言った。
生物の生命力は凄い。それは人間も変わらずに、逆境に生きている人間ほど根底が強いのかもしれない。彼らも嘆いていないわけではないだろう。ただ生きるために一生懸命。それが、殊更に美しく見えた。
「……」
何故だろう。それを思ったとき、『彼女』の中に湧き上がったのは、小さな、されどけして弱くはない衝動だった。無意識に、意図的に遠ざけるように、クロゼットの奥に仕舞い込んでいた服を引っ張り出す。黒のシャツを被って、オレンジのコートを羽織、ベルトを締める。悩んだ後に髪を括ってバンドで締めた。磨かれずに曇った鏡の中には昨日までとまったく違う自分がいる。
だが、これが本来の『彼女』だった。あの日、アレイアの家へ運び込まれたときに、恐怖し、遠ざけた。彼女が自分自身を恐れた最大の理由は、
―― ……。
壁に持たせかけた、優美な、しかし曲々しいラインを描く、女の手には一見そぐわないもの。弧月を描く鎌は振り上げれば容易く命を奪うだろう。直に伸びる逆端の刃は、生ける者を貫くために造られた。美しくも見えるその凶器が、己の罪の象徴であるかのようで、『彼女』は記憶を失ったあの日、目と耳を閉ざすように、そっとそれを戸棚の中へ押し込めた。
今一度、その中心の柄を握ってみる。握り締めれば、それは驚くほどしっくりと『彼女』の手に馴染んだ。
「……ごめんね」
自然と言葉が零れ落ちた
「ずっと、一緒だったのいね」
それは手の中で弧を描く武器に対してだったのか。それとも――。
「……」
『彼女』はカーテンを開けた。淡く、薄暗い光が森の向こうから漏れてくる。黎明の明かりが、『彼女』に何かを告げていた。
ベッドサイドに置いたネックレスを手にする。ベルの澄んだ音がりん、と鳴る。朝の空気に冷たくなった鎖が、指先に熱い。『彼女』は括られていた銀の指輪を指に転がす。ほとんど無意識にその裏を返す。
そこには、その名が刻まれていた。
『Kanon』
「行くのか」
声をかけられたのはちょうどドアを開いたときだった。足音は聞こえていたから驚かない。振り返ると、徹夜で火を消し、避難を手伝っていたせいか、やや目の赤いアレイアが立っていた。
答えに迷う。でも、アレイアの目に宿っていたのは優しいものだった。
溜め息が漏れる。ほんの少しだけ眉を曲げて、アレイアはくしゃくしゃと頭を撫でてくる。
「そんな顔するなよ。美人が台無しだ」
「……ごめん」
頭を撫でるアレイアの目には、もう昨夜の悲痛な色は残っていなかった。いや、きっと見えないだけで奥には寂寥にも似た何かが潜んでいるのかもしれない。けれど、アレイアの手と目にあったのは、家族や兄弟に向けるような、慈愛の優しさだった。
何を言えばいいんだろう。楽しかった。去ることを決めても、ここに来てよかったと思えた。昨夜だって確かに心は揺らいだのだ。恐怖していた本当の自分を追うよりも、ここで安らかに暮らすのも幸せなのかもしれないと思った。
けれど、そのどれも言い訳のように聞こえて、残酷な置き土産となりそうで。『彼女』はただ歯を噛み締めることしか出来なかった。
ブーツの紐を締めて外に出る。早朝の切るように冷たい空気が、目を覚ましてくれる。
「元気でな」
「……うん」
「この村はなくならない。村長もハンナたちも、……俺も頑張るさ。お前も頑張れよ」
「…………うん」
声も息も詰まって、上手く言葉が出て来ない。何も問いたださないアレイアの優しさが、胸に響いた。
「……ごめんね、アレイア」
「……」
「でも、私思い出したから。思い出さなきゃいけないヤツがいるって」
曖昧に笑って、アレイアはもう一度頭を撫でた。
「何て呼べばいいかな」
「え?」
「もうフィーナ、はおかしいだろ。俺はお前を何て呼べばいい?」
「……」
『彼女』は少し俯いて悩んだ。でもすぐに顔をあげる。胸に下げた小さなベルが、ちりん、と音を立てて、『彼女』の背中を押してくれた。
「カノン」
「……そうか。いい名前だな」
アレイアはそっとカノンの肩に手を置いた。思わず肩を強張らせる。一瞬だけ、額に温かな感触が触れた。
「旅の行く先に幸あらんことを。俺の郷里のまじないだ」
「……ありがとう」
カノンはゆっくりとアレイアから離れる。アレイアはふう、と晴れ晴れとした息を吐いて笑顔を浮かべた。
「ケナには俺が上手く言って置くよ」
「……うん」
「疲れたり、何かあったら帰って来い。いつでも歓迎するからな」
「うん」
最後にお互いに微笑んで、朝の空気を吸い込んで。身体の中が澄み渡る。
「もうすぐ皆起きるな。そろそろ行け。……それじゃあな」
「うん。アレイア、ありがとう。……元気で」
「ああ。俺もだ。ありがとう。また、いつか」
「うん、またいつか」
少女の背中が見えなくなって。アレイアは大きく息を吐いた。
「……これで、良かったんだよな」
そう呟いて、家の中へ戻ろうと踵を返し、
「……アレイア=ブロード、だな」
その背中に声がかかった。気を抜いていたアレイアは、そのまま振り返る。顔色が変わるのが、自分でもわかった。
目を覚ますと、隣で眠っていたアレイアはいなくなっていた。ほとんど無意識に、ケナはふらふらと立ち上がって、父親の姿を探す。
足の裏に冷たい廊下を歩いて、玄関が妙に騒がしいのに気がついた。広い小屋でもないから、ケナはすぐに扉に辿り着く。背伸びをしていつものように扉を開ける。
「ん……おとうさ……………」
寝惚け眼でその向こうにいるだろう、父親に呼びかけて。
その声が凍りついた。
扉の向こう。乾いた地面の上。よく背負われる大きな背中が、うつぶせている。変な色の、赤黒いものがその下に流れている。扉が開いても、ケナの声が聞こえても、その背中が振り返ることはなく。
その動かない背中を取り囲むように、黒い鎧を着た大きな大人が何人か立って無表情にケナを見下ろしていた。一番、先頭に立った大人は、変に粘ついた変な色の液体がこびりつく剣をだらん、と下げていた。
ケナの顔からすべての表情が抜け落ちた。
何が、何が起こったのか理解できない。目の前が暗い。
「何だ……子供か」
「待て。ヴェッセルに関わった者を隠蔽せよ、との命令だ」
かちん、と嫌に澄んだ金属音が聞こえた。呆然としたケナの身体は、凍りついたように動かなかった。
「すまないな……。命令なんだ。恨まないでくれ」
妙に赤黒い剣がゆっくりと持ち上がる。いつも父親が握る守ってくれる刃しか見たことがなかった。けれど、その切っ先が自分に向けられる。
少女の視界の正面に、朝日に照り返す刃の先が煌いて、そして。
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『彼女』の脳裏に浮かんだのは、つい先ほどアレイアが口にした言葉だった。
『それ以来、兵士は――』
『ここは奇跡的に戦火を逃れているが、山の向こうでは――』
首を振る。まさかそんな、タイミングが良すぎる。そんな都合の悪い話があるものか。けれど、ぞくりと『彼女』の肌は粟立って、背筋に緊張が走る。
昨日の昼間、村長の家で感じたあの透明な殺意と、見えざる手。じりじりと、首を絞めようと構えてくる、手。
――まさか……。
唇を噛んで再度、激しく首を振る。村の外にあるアレイアの家は未だ無事だったが、いつ炎に撒かれるとも限らない。『彼女』は示唆された場所に走り出すより一瞬前に、奇妙に明るい村を見下ろした。
赤い舌と煙とで何も見えない。ハンナは? 村長は? 本当に皆、こんなところから逃れられたんだろうか。そこには慣れ親しんだ菓子屋も八百屋も公園も、何も見えなかった。
が、
「……?」
『彼女』は目を凝らす。何か。何か、炎の中に影が見えたような。……まさか、まだ人が、
「フィーナ!」
「……っ!」
嫌な想像を掻き消すように、炎の海から逃げるように。『彼女』はケナを背負ったアレイアの後を追った。
「アレイアの旦那!」
聞き覚えのある声でそう呼ばれ、アレイアは反射的に振り返る。炎を逃れて林の中へ逃げ出した人波の中から、人好きのいいおばさんが手を振っていた。
「ハンナ! 無事だったか!」
「ああ、平気さ! フィーナちゃんもケナちゃんも無事かい!?」
「わ、私は平気」
「……」
平静を繕った、だがやはりどこか余裕のない大声で問われて、彼女は声を上ずらせた。アレイアの背中でショックを隠しきれないのだろう、青ざめて真っ白な顔をしたケナがほんお小さく頷く。
辺りはすすり泣きとヒステリックな怒号が混じっていた。それでもハンナのように冷静を保った人間が何人か、先導して地に足がついていない人々を纏め上げている。女、子供。けたたましい泣き声と、キナくさい空気が肺と胸を同時に焼いた。
「旦那、向こうで村長たちが火を食い止めてるんだ。手伝ってやってくれないかい? フィーナちゃんとケナちゃんは私が見てるからさ」
「ああ、わかった。フィーナ、ケナ、大人しくしてろよ?」
そう言ってアレイアは背中のケナをハンナに預け、走り去ってしまう。
「あ、あの、ハンナさん……。何か私も手伝うこと……」
「ああ、フィーナちゃんは落ち着いてるね。よかった、助かるよ。皆、浮き足立って、泣いてる子を世話するのが足りないんだ」
「あ、は……」
「ハンナさん!」
答える『彼女』の声遮って、半泣きの揺らいだ声が上がった。顔をあげるとほとんど転がるようにして、林の方から女性が駆けて来る。
村で何度か見かけたことがある。ただ、今は艶やかな髪も、下ろした服もすすで塗れていて、ところどころ破れていた。やや正気を失った表情で彼女は縋りつうようにハンナの腕を引いた。
「ハンナ! どうしようっ! リックが、あの子が、まだ村に……っ」
「!」
よく女性が男の子の手を引いていたのを思い出す。確かケナともよく遊んでいた。はっとしてハンナに抱かれた彼女を見ると、ただでさえ青ざめていた顔が、とうとうくしゃり、と歪むところだった。
「う……ふえええええっ!」
「ああっ、大丈夫だよ、大丈夫……だから落ち着いて」
一瞬後には火がついたように泣き出した。女性はさらに錯乱し始めて、ハンナが慌てて両方を宥めようとする。『彼女』ははっ、と顔をあげた。来る途中に見えた炎の中の影。大きさはわからなかったが、もしかしたら――
「……私、ちょっとだけ見てくる!」
「フィーナちゃん!?」
駆け出した『彼女』をハンナの声だけが追う。子供を抱えて女性に縋り疲れた格好のハンナが、彼女を追うことはできずに、『彼女』の背は瞬く間に林の向こうへと走り去ってしまったのである。
がらがらと焼けた木材が炭となって落ちる音。パチパチとうるさいほど叫ぶ火花。そして轟音にさえ聞こえる焔の鳴き声。ランプの中で小さく燃えているときにはあんなにも頼りになるのに、いざ姿かたちを変えると尋常ならざる恐怖になる。
あの女性のように、『彼女』も錯乱してもおかしくはなかった。けれど何故か『彼女』の脳は、混乱しつつも冷静を保っていた。明るすぎる村にに飛び込むときは足がすくんだが、焼けた村の門を潜った後は、まるで日の中の歩き方を知り尽くしているように、炎の赤い舌をかいくぐってストリートを駆けられた。今は炎よりも己自身に恐怖する。私は何者だったのだろう。何故、こんな場所を歩けるのか、ただ迷子の子供を助けるためだけに。
『彼女』は激しく首を振った。今はいい。今は自分が探しに来た子供のことだけ考えよう。
「!」
灰と火の粉の降る広場に差し掛かって、噴水の影に布切れを見つけた。だだっ広い広場は火の手の周りが遅いようだった。『彼女』は迷わず駆け抜ける。噴水の影に何度か見た覚えのある小さな男の子が倒れている。慌てて首を触ると、そこは確かに脈動していて、胸を撫で下ろした。
「とりあえず、早く逃げなきゃ……」
転びそうになるフレアスカートの裾を裂く。気になどしていられない。急いで子供を背に負ぶって――
「――っ!」
それを感じ取ることが出来たのは奇跡だったのか。それとも脳と身体に刻まれた本能だったのか。『彼女』は子供を庇うようにして、反射的に後退った。その足元に、
ざくっ!!
「・・・!」
自分のスカートの裾を裂いて飛来したそれに、『彼女』の背中に戦慄が走った。身体が凍りつく。
「何よ……これ……」
それが何なのかなんて知っている。きっと見たら誰だって判断がつく。でも、それが己に放たれるのを見た者と見たことがない者。数えたらきっと後者の方が圧倒的に決まってる!
肉を抉るために尖り、磨かれた切っ先が、今はやすやすと乾いた地面に突き刺さる。
・・・弓矢、だった。
足元から恐怖が駆け上がる。それでも膝が折れなかったのは、『彼女』の中に残っていた』本能が、一番の恐怖を理解していたからだ。
即ち――矢を放った者がどこかにいるのだ、と。
「!」
もう一度、殺気が背中を貫いた。『彼女』は子供を庇いながら、身体を反転させる。
ざくっ!
「――っ!」
鋭利な痛みが太股を裂いた。背中の子供を庇った『彼女』の足を掠めてとんだ弓矢は、そのままざっくりと裂けたスカートの布切れを地面に縫いとめる。
『彼女』は顔を上げた。
息が、詰まった。
明確な殺意が、真っ向から『彼女』を貫く。焼け残った屋根の上。舞う火の粉を背にして、彼女は静かに弓を構えていた。
凍りついた表情。淡い桃色の髪。無機質な、人形のような紫の瞳。灯るのは肉食獣が獲物に向けるような――悪意なき殺意。
見覚えがあった。村長の家の階段から転がり落ちた、あのときの――!
「――!」
彼女は、『彼女』を狙っていた。
悟った瞬間に、『彼女』は駆け出そうと足に力を込める。だが『彼女』の意思とは裏腹に、恐怖に竦んだ足には上手く力が入らずにがくりと膝が折れる。
かちかちと奥歯が鳴る。何、何なんだろう、この世界は。ここは本当につい先ほどまで平和だったあの穏やかな村の中なんだろうか。炎に包まれて、さらにあんなものが見える。悪夢なら早く覚めればいいのに、鏃の掠めた太股が、嫌が応にも現実を突きつける。
「……」
無感情な瞳がまた矢を番える。そこには何の躊躇いも見えない。
――っ!
声さえも出なかった。。殺される、と思った瞬間に、まだ気絶したままの子供を抱きしめて目を瞑る。何か考えられたわけじゃない。ただ本能的に、せめてと思っただけだ。暗闇の中でほぼ無意識に口を開く。助けを叫ぼうとした唇からは、しかし、とうとう何も出て来なかった。
「――っ!」
きぃんっ!
……澄んだ金属音が響いた。訪れると思っていた激痛は、いつまで経っても襲って来ない。
「……」
子供を抱きしめながら、『彼女』はゆっくりと面をあげる。そして、息を呑んだ。
炎の逆光に、大きな背中が聳えていた。
足元に折れた矢が転がって、ざくりと地面に突き立てられているのは複雑怪奇な紋様を描く大振りの剣。呆然とした頭で、その剣が飛来した矢を叩き落したのだと知る。火の粉の舞う中に佇む背中は、暗色の長いコートに覆われていて、コートの背にさらりと焔と同じ鮮やかな黄昏色の髪が落ちる。
「……」
ぴきん、とこめかみが、軋んだ。何故なのかは、わからなかった。
「――去れ」
「……」
低い。低くて、些か怒気を孕んだ声が耳を打った。静かだがけして無感情ではない。心地よいテノール。
男の背中越しにかろうじて見える屋根の上、弓の構えた女は、やはり無表情に男を見下ろしていた。しかし、しばらく無言を貫くと屋根を蹴る。猫か猿のような身軽さで隣の屋根へと飛び移った女は、瞬く間に炎の中へ姿を消した。
「……」
「あ……」
女の姿が完全に見えなくなるのを待って、男が振り返る。瞬間、
「・・・!」
鳶色の、鷹の瞳と目が合った。身体が動かなくなる。息が詰まる。でもそれは鋭い眼光に睨まれたせいじゃない。
黄昏と同じ色をした髪が炎に溶ける。逆光の中に光を放つ瞳が霧氷上位、彼女を見下ろした。
――あ、つ……っ!?
脳髄が急激に、焼けるような熱を持った。胃液が逆流して器官を焼く。異様に熱をあげた身体は、自身をいじめるようにがんがんと芯から、頭から、身体から自由を奪う。矢先を向けられたときとは違う感覚が、膝から力を奪う。
「うっ、く……っ!」
早く逃げなくてはならないのに、ぐらぐらと煮えくり返る脳が邪魔をする。そのときだった。
「……っ!」
「……こんな場所にいると、死ぬぞ」
容赦のない言葉と裏腹に、丸めた背中をまるで窘めるように大きな手のひらがなでた。視線を上げると、赤い光の中に影を作る。
暗緑のコート。胸元には奇妙な紋章。細められた鳶色の瞳は、無表情ではあるものの、先ほどの女のような冷たさは感じない。
むしろ、
―― ……?
「立てるか」
「……」
『彼女』の代わりに子供を片手で担ぎ上げた男が問う。頭一つ分半は高い背丈。黄昏の髪、何故だかどこか物悲しい瞳、背中に添えられた無骨でとても大きな手。
呆然と男の顔を見上げたまま、口から滑り出した言葉はほぼ無意識だった。
「……貴方、」
「?」
「貴方、私を知ってる?」
「――っ!」
無表情な男の顔に、明らかな同様が走った。わずかに見開かれた鳶色の目が、複雑な色に変化する。だが、それが何より明確な答えだった。
「知って……る、の?」
「……」
自らの困惑を押さえつけながら、『彼女』はよく回らない舌で言葉を紡ぎ出す。男は答えない。そして『彼女』がもう一度、同じ問いを繰り返そうとした、刹那、
「っ!?」
「――すまない」
首筋の辺りに軽い衝撃があった。歯を苦縛る間もなく、休息に意識が落ちる。
――うっ……く……っ!
暗闇のカーテンが落ち切る直前、『彼女』が最後に目にしたのは、苦痛と、何故だか痛ましいほど悲しく歪んだ男の顔だった。
アレイアは焦っていた。火の勢いが弱まり始め、疲労した老人たちを避難所へ送り届けてみると、そこにフィーナの姿はなかった。
わかっている。自分はそんな心配ができるような立場じゃない。ただ、まだ忘れ得ぬ想い人の面影を彼女に重ねているだけの、酷い男だ。自惚れることさえできない。
だがそれでも、見捨てられるはずはなかった。
――くそっ! あの馬鹿……っ! 後先考えずに……っ!
どこが火の元で何が原因かもわからない。それなのに。至極、彼女らしいと言えばそうなるが、笑い事でも冗談でも、済ませられるものじゃない。
林を抜けて、焼け残った村の柵の袂に差し掛かる。そのときだった。
「! フィーナ!」
「! アレイア!」
子供を抱きかかえたまま、すわり込むフィーなの後姿が見えた。声を張り上げると、金色の頭が振り返って、名前を呼び返す。
一瞬、安堵したアレイアだったが、彼女の傍に佇んでいた男に、即座に表情を強張らせた。
「アレイア……?」
「!」
"それ"に気がついたアレイアは迷わず腰に下げていた剣を抜いた。
「アレイア!?」
「フィーナ下がれ! その男から離れろ!」
「け、けど……!」
言い澱むフィーナを庇うように前に出て、長身の男を睨み上げる。鷹のような鋭い目。着込まれた軍服の胸元意、あの忌まわしい紋章が張り付いていた。
「八咫烏の紋……っ!」
「え……?」
「貴様、エイロネイアの『七征』か……っ!?」
――っ!?
アレイアの吐き出した、にわかには信じがたい単語に、フィーナの瞳が見開かれる。男の眉がわずかにひくり、と動いた。アレイアはフィーナの腕を引き、後ろに下がらせると、剣の切っ先を男へと向けた。
「まさか、村を焼いたのも貴様らか!」
「……違う」
しかし、アレイアの瞳は疑惑を湛えたままだった。
『彼女』はアレイアと彼とを交互に見比べる。そして意を決したように唇を引き結んだ。
「待って、アレイア」
「フィーナ……っ!」
「貴方の気持ちもわからなくない、けど、でも……」
『彼女』は一度、言葉を切った。遮るアレイアの腕を押し退けて前に出ると、真っ向から高い鳶色の瞳を覗き込んだ。
「――貴方、私を知ってるのね」
「……」
男はわずかに顔をしかめてみせた。けれど何故だか彼女には解った。それが、何よりの肯定なのだと。
男は静かな瞳で、一度だけ『彼女』を見た。わずかに唇を噛み、それでも口は開くことなく踵を返す。
「ま……っ!」
「さっさと去れ。いつまでもここにいると死ぬぞ」
それだけ告げると男は地面を蹴った。凄まじい速さで林を駆け抜ける。子供を抱えたまあの彼女に、それが追えるはずもなく、その場で足を止める。
「フィーナ……?」
「……」
肌が妙に粟立っていた。地に足が着かない。アレイアが呼ぶその名前が、いつも異常に遠かった。
「……?」
視界の隅が光ったような気がして、視線を下ろす。固く焼けた地面の上に、きらりと小さく、何か鎖のようなものが落ちていた。拾い上げると、金属であるソレは妙なほど温かかった。つい先ほどまで人の手の中にあったかような。
――……ネックレス?
シルバーの鎖に繋がれたのは、小さな、透明なベルと銀色の指輪。シンプルで、けして華美ではなくて、飾り気のあまりない。
――……。
無意識に、彼女はそれを手の中へ握り締めた。
心臓が、何故だか痛いほど熱かった。
ぱさり、と床にワンピースが落ちた。昨日の今日で、呑気に朝から郊外を散歩しているような人間もいないだろうが、一応はカーテンを閉めておく。
郊外にあったアレイアの家は運良く庭を舐めた程度の被害で済んだ。今、狭いリビングでは何人かの村人たちが避難して来ている。早朝で疲れもあるのだろう。今は皆眠っている。少し経てば、皆起き出して村の復興を始めるんだろう。
火が消えたのはもう明け方近くになってからだった。呆然と立ち尽くす人、泣き疲れて切り株で眠ってしまった人、悲嘆にくれる人。そんな中で村長やハンナは残った家から食べ物や水をかき集め、手製の竃で温かいものを振舞っていた。それに元気付けられたのか、村人たちの間では、朝になる頃にはあそこはああ直して、今度は家をこうしたい、なんて会話がちらほら聞こえ始めていた。
「今まで戦火なんか遠くて、実感なんてなかったけどね。でも私らだって、そんなに弱くないさ。壊れちまったものを嘆いてばかりじゃ生き残れないしね」
ハンナは疲れた顔に笑顔を浮かべながら言った。
生物の生命力は凄い。それは人間も変わらずに、逆境に生きている人間ほど根底が強いのかもしれない。彼らも嘆いていないわけではないだろう。ただ生きるために一生懸命。それが、殊更に美しく見えた。
「……」
何故だろう。それを思ったとき、『彼女』の中に湧き上がったのは、小さな、されどけして弱くはない衝動だった。無意識に、意図的に遠ざけるように、クロゼットの奥に仕舞い込んでいた服を引っ張り出す。黒のシャツを被って、オレンジのコートを羽織、ベルトを締める。悩んだ後に髪を括ってバンドで締めた。磨かれずに曇った鏡の中には昨日までとまったく違う自分がいる。
だが、これが本来の『彼女』だった。あの日、アレイアの家へ運び込まれたときに、恐怖し、遠ざけた。彼女が自分自身を恐れた最大の理由は、
―― ……。
壁に持たせかけた、優美な、しかし曲々しいラインを描く、女の手には一見そぐわないもの。弧月を描く鎌は振り上げれば容易く命を奪うだろう。直に伸びる逆端の刃は、生ける者を貫くために造られた。美しくも見えるその凶器が、己の罪の象徴であるかのようで、『彼女』は記憶を失ったあの日、目と耳を閉ざすように、そっとそれを戸棚の中へ押し込めた。
今一度、その中心の柄を握ってみる。握り締めれば、それは驚くほどしっくりと『彼女』の手に馴染んだ。
「……ごめんね」
自然と言葉が零れ落ちた
「ずっと、一緒だったのいね」
それは手の中で弧を描く武器に対してだったのか。それとも――。
「……」
『彼女』はカーテンを開けた。淡く、薄暗い光が森の向こうから漏れてくる。黎明の明かりが、『彼女』に何かを告げていた。
ベッドサイドに置いたネックレスを手にする。ベルの澄んだ音がりん、と鳴る。朝の空気に冷たくなった鎖が、指先に熱い。『彼女』は括られていた銀の指輪を指に転がす。ほとんど無意識にその裏を返す。
そこには、その名が刻まれていた。
『Kanon』
「行くのか」
声をかけられたのはちょうどドアを開いたときだった。足音は聞こえていたから驚かない。振り返ると、徹夜で火を消し、避難を手伝っていたせいか、やや目の赤いアレイアが立っていた。
答えに迷う。でも、アレイアの目に宿っていたのは優しいものだった。
溜め息が漏れる。ほんの少しだけ眉を曲げて、アレイアはくしゃくしゃと頭を撫でてくる。
「そんな顔するなよ。美人が台無しだ」
「……ごめん」
頭を撫でるアレイアの目には、もう昨夜の悲痛な色は残っていなかった。いや、きっと見えないだけで奥には寂寥にも似た何かが潜んでいるのかもしれない。けれど、アレイアの手と目にあったのは、家族や兄弟に向けるような、慈愛の優しさだった。
何を言えばいいんだろう。楽しかった。去ることを決めても、ここに来てよかったと思えた。昨夜だって確かに心は揺らいだのだ。恐怖していた本当の自分を追うよりも、ここで安らかに暮らすのも幸せなのかもしれないと思った。
けれど、そのどれも言い訳のように聞こえて、残酷な置き土産となりそうで。『彼女』はただ歯を噛み締めることしか出来なかった。
ブーツの紐を締めて外に出る。早朝の切るように冷たい空気が、目を覚ましてくれる。
「元気でな」
「……うん」
「この村はなくならない。村長もハンナたちも、……俺も頑張るさ。お前も頑張れよ」
「…………うん」
声も息も詰まって、上手く言葉が出て来ない。何も問いたださないアレイアの優しさが、胸に響いた。
「……ごめんね、アレイア」
「……」
「でも、私思い出したから。思い出さなきゃいけないヤツがいるって」
曖昧に笑って、アレイアはもう一度頭を撫でた。
「何て呼べばいいかな」
「え?」
「もうフィーナ、はおかしいだろ。俺はお前を何て呼べばいい?」
「……」
『彼女』は少し俯いて悩んだ。でもすぐに顔をあげる。胸に下げた小さなベルが、ちりん、と音を立てて、『彼女』の背中を押してくれた。
「カノン」
「……そうか。いい名前だな」
アレイアはそっとカノンの肩に手を置いた。思わず肩を強張らせる。一瞬だけ、額に温かな感触が触れた。
「旅の行く先に幸あらんことを。俺の郷里のまじないだ」
「……ありがとう」
カノンはゆっくりとアレイアから離れる。アレイアはふう、と晴れ晴れとした息を吐いて笑顔を浮かべた。
「ケナには俺が上手く言って置くよ」
「……うん」
「疲れたり、何かあったら帰って来い。いつでも歓迎するからな」
「うん」
最後にお互いに微笑んで、朝の空気を吸い込んで。身体の中が澄み渡る。
「もうすぐ皆起きるな。そろそろ行け。……それじゃあな」
「うん。アレイア、ありがとう。……元気で」
「ああ。俺もだ。ありがとう。また、いつか」
「うん、またいつか」
少女の背中が見えなくなって。アレイアは大きく息を吐いた。
「……これで、良かったんだよな」
そう呟いて、家の中へ戻ろうと踵を返し、
「……アレイア=ブロード、だな」
その背中に声がかかった。気を抜いていたアレイアは、そのまま振り返る。顔色が変わるのが、自分でもわかった。
目を覚ますと、隣で眠っていたアレイアはいなくなっていた。ほとんど無意識に、ケナはふらふらと立ち上がって、父親の姿を探す。
足の裏に冷たい廊下を歩いて、玄関が妙に騒がしいのに気がついた。広い小屋でもないから、ケナはすぐに扉に辿り着く。背伸びをしていつものように扉を開ける。
「ん……おとうさ……………」
寝惚け眼でその向こうにいるだろう、父親に呼びかけて。
その声が凍りついた。
扉の向こう。乾いた地面の上。よく背負われる大きな背中が、うつぶせている。変な色の、赤黒いものがその下に流れている。扉が開いても、ケナの声が聞こえても、その背中が振り返ることはなく。
その動かない背中を取り囲むように、黒い鎧を着た大きな大人が何人か立って無表情にケナを見下ろしていた。一番、先頭に立った大人は、変に粘ついた変な色の液体がこびりつく剣をだらん、と下げていた。
ケナの顔からすべての表情が抜け落ちた。
何が、何が起こったのか理解できない。目の前が暗い。
「何だ……子供か」
「待て。ヴェッセルに関わった者を隠蔽せよ、との命令だ」
かちん、と嫌に澄んだ金属音が聞こえた。呆然としたケナの身体は、凍りついたように動かなかった。
「すまないな……。命令なんだ。恨まないでくれ」
妙に赤黒い剣がゆっくりと持ち上がる。いつも父親が握る守ってくれる刃しか見たことがなかった。けれど、その切っ先が自分に向けられる。
少女の視界の正面に、朝日に照り返す刃の先が煌いて、そして。
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ベッドの上に身を投げ出して、『彼女』は深く息を吐いた。頭の中が困惑で溢れている。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
←13へ
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
←13へ
ラーシャは馬上で眉を潜めていた。
丘の上から平原の中へ雪崩れ込み、燃え盛るエイロネイアの陣を目指す。蹄の重なる音が、耳に響く中、ラーシャは前方を睨みつけて、突如迷いに襲われた。
向こうの陣が、静か過ぎるのだ。
怒号も悲鳴も聞こえない。蹄の音も響いて来ない。火の回りはそんなに早かったか……。
ちらり、と後方を見る。血気盛んに馬を走らせる兵士たちが、剣を抜いて変わらぬ速さで付いて来ていた。
「……」
この兵たちを失うわけにはいかない。
「止まれッ!」
唐突に下った命令に、兵士たちは一瞬戸惑った。だが、ラーシャ自らが手綱を引いて馬を止めるのを見て、慌てて自分たちも手綱を引く。後ろから騎兵を追っていた歩兵たちも、慌てて立ち止まった。
「姐さん?」
仏頂面のレスターが呼びかけてくる。ここまで来て、何故止まっているのか、という文句が目に見えている。
だが、ラーシャは唇を引き締めると、もう一度火の手が上がる陣を見据えた。彼女の懸念に気が付いたのか、後方で魔道師を率いていたデルタが、騎兵を抜いて彼女の隣へ馬を走らせる。
「……静かですね」
「静か過ぎるな」
炎の音だけが平原を覆っている。ラーシャは眉間に皺を寄せた。
兵を引くべきか否か。それともこのまま、責めるべきか。ふと、デルタが面を上げる。かすかな声を漏らした。その声にラーシャも顔を上げて、
「ら、ラーシャ様ッ!!」
「!」
火の手の方向から声が上がった。炎の逆光を背にして、馬に跨った兵士が駆けてくる。火計の陣頭に立った兵士だった。
脂汗を浮かべてあたふたと駆けてくる。そのただならぬ様子に、ラーシャの背筋に悪寒が走った。
嫌な予感は当たりやすい。せめて良い予感も同じくらい当たりやすければ良かったのに。
「どうしたッ!?」
「軍を、軍をお引きくださいッ! 騙されましたッ! あの陣は、あの陣は空ですッ!」
「!」
その兵の叫び声に、シンシア軍の兵士たちに戦慄が走った。無論、ラーシャもだ。ぞくり、と寒気が背中を通り抜ける。手綱を握る手に力が篭った。
「お逃げください、あの、あの陣にいるのは……ッ!」
「ッ!?」
不意に、兵士の背後に何かが立った。炎の逆光で、それが何なのかは判断がつかない。だが、黒い壁のような巨大な影だった。
その影は、ラーシャの、以前の戦場の記憶と瞬時に合致する!
「まずい、逃げ……ッ!!」
ザシュ……ッ!!
炎を背に、生々しい、それでいて異様に静謐な音が響き渡る。音と光景とが、ぶれて外れてラーシャに届く。
目の前の、男の身体がゆっくりと崩れた。赤い炎の中に、その炎よりも赤い雫を撒き散らしながら、男の肢体はぐにゃりと変な方向へ曲がった。
どしゃり、と音が聞こえて男の身体が平原の短い草の中に落ちる。ぬめった液体が、絨毯のように広がり、男の鎧を沈ませていく。
腕の関節は一瞬でありえない方向に曲げられて、頑丈なはずの兜はぐにゃりと歪んでしまっている。投げ出された四肢はぐったりとして、二度と力が灯ることはなかった。
「……引けぇッ!!」
ぐあああるぉおおぉおおぉおぉぉぉッ!!
ラーシャの命令が下るのと、その壁が吼えるのはほぼ同時だった。そして、被るようにして兵士の悲鳴が轟く。
耳を劈く声に歯を噛み鳴らして、ラーシャはその巨体を見上げる。
逆光の中に、血走った目がぎらりと光っていた。折り曲げた指の先には、人のものとは思えない形状の鉤爪がぬめった血液を滴らせる。妙に折れ曲がった腰と、全身には黒い毛をぞろりと生やしていて、頭部には羊のような歪んだ角が炎にそびえていた。
エイロネイアの、獣。
正体の分からぬ、戦場を荒らす異形の魔物が、彼女の目の前にいた。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「後退しろッ!! 引け、腰抜かしてんじゃねぇッ!!」
ラーシャよりも後方にいたレスターが、怖気づいて後退の足を止めた兵士を叱咤した。
その声で我に返ったラーシャは、手綱を握り、剣を獣へと向ける。獣の背を見ると、また同じような影が炎の中から幾つか立ち上がるのが見えた。
「く……ッ!」
ラーシャは剣を握り締める。彼女の手が握った剣の柄から、淡い炎が立ち上った。
「全軍後退しろッ! 私が殿を務めるッ!! レスター、全員の先導をッ! デルタ、援護しろッ!」
「へいッ!」
「はいッ!」
レスターもデルタも切り替えが早かった。額に浮かんだ汗を見れば、その半分は虚勢であったかもしれない。
それでもラーシャは軍を束ねる指揮官だった。
のろのろと巨体を持ち上げる『獣』たちの動作は鈍い。人の背を軽く越えた頑丈な身体は脅威だが、ただそれだけが救いだ。
「我は断罪の責を負う天子、粛清の証、汚れなき業火の昂揚にその身を焼きて、汝が罪を償い給え――」
目の前の獣が歪な爪を振りかぶる。その大きな影が、ラーシャの体を覆った。
「昇華[ヴァーニング]ッ!!」
ごぉおおぉおおぉおッ!
裁いた剣を点として、獣の背後で燃える火とは違う、意志ある白い魔力の炎が獣の軍勢を押し返した。
吹き付けた炎は、彼女の目の前に立ち塞がっていた獣の全身を覆う。耳を劈くようなしわがれた悲鳴が、炎の中から轟いて、黒く変色した毛を全身に張り付けながら、獣は仰向けに倒れていく。
発せられた白い炎は、そのまま背後にいた別の獣たちを次々と喰らっていった。
ぎしゃぁああぁぁぁああぁああッ!!
白い炎を免れた獣たちが、のそりと手足を振り上げて、赤い狂気の瞳にラーシャの姿を映す。
舌を打った彼女が、刃を向けようとしたとき、
「撃てぇッ!」
『シルフィードッ!!』
デルタの凛とした声と、無数の青い筋条の光が飛んだ。後方に並んだ魔道師陣から発せられた青い光は、的確に獣の体を捉え、その体を抉っていく。
断末魔の悲鳴が重なる。生々しい青い血液が宙に飛んで、赤く燃える炎に影を作る。焼けた肉の酸い匂いと、異様な色の血液の金属臭い香り。
鼻が曲がりそうな匂いに耐えて、ラーシャは駆け上がってきた獣の一体を斬り裁き、じりじりと後退する。
幸い、獣の数は無数というわけではない。魔道師陣の呪文の第二破が完成すれば、逃げ遂せることは出来そうだった。
だが、緊張の中、ラーシャがわずかだけ安堵の息を吐いたときだ。
「ぅ、うわぁあああぁぁぁぁッ!?」
「ッ!?」
背後で兵士の悲鳴が轟いた。
振り向いたラーシャの目に、炎の明かりに照らされて細く輝く銀色の光が映った。空に無数に浮かぶそれは、明確な悪意を持って騎士団の真ん中に降り注ぐ。
あれは……弓矢だっ!
「デルタッ!」
「我阻む、」
ラーシャが命じるまでもなく素早く反応したデルタと、魔道師隊の何名かが部隊の頭上に結界の盾を張る。入りきらなかった何人かに、矢の雨は容赦なく降り注いで、フィレのステーキにフォークを刺したような音に混じって悲鳴が轟いた。
ラーシャは振り返らない。振り返ったところで、その大地には赤い命の象徴が流れ落ちていて、足を止めてしまいそうな光景が広がっているだけだ。止められない。止めれば、己の身体にも容赦なく矢は刺さる。そうすれば、生き残った兵すらも助けることは出来ない。
生き残った兵士の命、死んでいった兵士の命。悲しいかな、天秤にかけなければいけないのがこの戦場という場所だった。
心臓が痛い。この痛みを、この裂けるような心臓の痛みを、あの氷のような瞳の皇太子は持っていないのだろうか。何故、あのようにさっくりと、ナイフでバターを切り分けるかのように人の人生を摘んでいけるのだ。
涙などもう乾いている。そう、己に言い聞かせてラーシャは今一度、撤退を叫んだ。
「何だとっ!?」
自軍の陣地まで後退したラーシャを待っていたのは、さらに絶望的な報告だった。後退命令が早かったのと、デルタの魔道師隊の指揮のおかげで、予想していたより被害は少なくて済んだ。だが、それはあくまで"予想よりも"の話である。
元々、火計を決行したのは、兵力差を埋めるためだった。エイロネイア兵がどこに退き、弓隊がどこから仕掛けて来たかもわからないが、読まれていたと見て間違いはない。……兵力差は、そのままか、もっと悪ければさらに大差がついたか。
だというのに。
「それは……本当か」
「……はい。こちらに向かっていた我が軍の援軍が、急襲されたと……っ!」
ぎり――っ、ラーシャの噛み締めた奥歯が鳴る。
馬鹿な。エイロネイアの兵が、ここへ向かう道中にまで入り込んだというのか。そんなことがあるものか。
「それが……相手はエイロネイアの兵ではなく、蛮族の集団らしく……っ!」
「な……っ!?」
「南の方を荒らしていた蛮族の徒党が、北へ流れて来た模様で……っ! 駆逐するのは時間の問題ですが、予定までには到着できないと……っ!」
「!」
南の蛮族。少々、前に耳にしていた。南の方の蛮族が、エイロネイアによって駆逐されたと。だが、その生き残りがこちらへ流れてきた、ということか?
そんな馬鹿な。ありえない。これもエイロネイアの手による蜜策なのか、それとも私の運がそこまで悪いのか。最早、神に祈るなどナンセンスだ。
待機させた兵の間に緊張と戦慄が走る。兵力差だけではない。窮鼠の士気は、これまでにないほど落ち込んでいる。
「やられましたね……」
デルタが痛々しく唇を噛む。隣のレスターが金斧を、壊れそうなほど握り締めていた。
ラーシャは痛む頭を抑えて、思考を巡らせる。平原を見る。まだ炎が燃えているものの、それは平原だけの話。エイロネイアの弓兵は、平原の周囲に聳える岩壁の上から打って来たに違いない。もしもエイロネイアが、こちらが火計を策している間、兵を回りこむようにして進軍させていたら?
自軍の陣を捨てるのは愚策に見える。だが、ありえない話ではない。シンシアの軍はいつもこの奇策に壊滅的なダメージを被ってきた。ラーシャはシンシアの誰よりもその狡猾さと惨劇を知っている。
……ノーストリア高原を奪われ、さらにこの平原を明け渡せば……貴族院の説得は、ほぼ失敗に終わるだろう。
――だが……
ラーシャは唇を噛んで、敬礼をする兵士たちを見る。だが、その手が強張っているのは一人や二人ではなかった。デルタが悔しげにがんっ、と地面を踏んだ。それでも口の端に短気な言葉は出ない。
皆、わかっていた。自分たちは窮鼠だ。苦肉の策が失敗した以上、ねずみは逃げるか、犬死にする他ないのだ。
ラーシャは目を閉じる。これは決断になる。正しいと、己のみを信じる、決断。英断ではない。
「……援軍の支援に向かう。損害状況を確認次第、本国へ引き返す」
「……はい」
デルタが悔恨と安堵が混じったような複雑すぎる息を吐いて、兵たちに指示を伝え始める。
「自軍の旗は下げるな。旗は陣地へ残して撤退する」
「姐さん、それは……」
「相手も旗が見えれば慎重になるだろう。少しでも撤退の時間が稼げれば、それで良い」
他の将軍なら、自国の旗を踏みにじられるのを嫌うだろう。だが、ラーシャはそれ以上に兵士の命を踏ませたくはなかった。これ以上の惨劇は、望まない。
「……姐さん」
レスターが神妙な顔つきで前に出る。いつもは日に焼けて、健康的な色をしている顔が、今は青ざめて見えた。
「俺たちが殿を務めて、ここに残ります」
「レスター!」
「あいつら、どんな動きしてくるかわかったもんじゃない。姐さにゃ俺らが考えてるより、手が早いかも……」
「駄目だ! 私には、ここに生き残った者全員を守る義務がある!」
怒鳴りつけるように叩きつける。レスターは肩を怒らせて、唇を引き締めた。
「姐さん、なら尚のことです。大丈夫っす。小軍の方が大軍より逃げやすい。姐さんたちが逃げたのを見計らって散ります」
「しかし……っ」
「姐さん」
レスターは強情に、静かに繰り返した。ラーシャとて、その方が確実策なのはわかっていた。
ラーシャはもう一度きつく拳を握った。震える拳を、とうとう叩き付けることはなく、その手で剣の柄を思い切り握り締めた。
――思ったより早かったな。
馬の行軍の音を遠くで捉えながら、レスターは唇を湿らせた。陣地に瞬くは主を失った旗。けれど、ただの旗。それが国の象徴だと何度叫ばれても、人の命と天秤にかけられるようなものじゃない。だが、国はかけろと言う。
レスターは鼻で笑った。
シェイリーンやラーシャは己の矜持と、そのくだらない命令の間で常に戦っている。戦わざるを得ないのだ。誰が何を求めているのかわからない。本当に同じものを求めているのかわからない。
その葛藤の上でレスターは己の矜持に従って生きている。彼女らの苦悩の上に、自分の剣がある。
後ろに控えた数人の、直属の兵士が肩を怒らせた。
「悪ぃな、付き合わせちまって」
「何言ってるんですか、レスターさん。俺らも最初からこういうつもりでしたし」
副将の男に話しかけると、彼は焦げたヤニの匂いがする戦場に似つかわしくない笑顔を浮かべて、背後の数名に「なあ?」と呼びかけた。残った数名は、こんな状況になってもなお、己の士気を高めているらしい。皆、一様ににやりと笑って得物を掲げて見せる。
そこにはある種の爽快感もあったかもしれない。ほら、人間、死ぬ間際になるほど度胸が据わると言うだろう?
レスターは自然と腹が決まるのを感じた。ティルスやデルタには、落ち着きがないとよく叱咤される。だが、レスターは土壇場で冷える性質だった。肝が、全身が冷えていって、掻いていた汗を凍らせる。
その冷たい熱は、潜在的な恐怖さえ凍らせて。レスターに戦斧を振るわせる。
風の雄叫びがする。レスターは空を仰いだ。陣地の上に聳える崖。その上に翻るのは、黒い鴉の旗だった。嘶いたのは兵か、馬か。先頭に立つのは、水の色をした生真面目に引き結んだ表情の男。ああ、あれだ。先の戦いで皇太子を語った男。
本物か、それとも偽物か。おかしいものだ。会議室であれだけ叫ばれる真偽は、戦場に立った途端に、どうでもいいものに変わる。それはそうだ。これは狩り。狩られるか、生き延びるか。ああ、何て愚か。それだけが戦争の真意なのだと悟る。
長ったらしいローブを纏った男の袖が翻る。ちらり、と周りを見ると、斧を振り上げた兵士たちは脂汗を額に笑っていた。皆、知っている。そしてラーシャもおそらく知っていた。あの手が振り下ろされた瞬間に、自分たちの命は散るのだと。
レスターは笑う。半分は狂っていたのかもしれない。今なら、あの悪魔と称される皇太子の心境がわからなくもない。何て命なんて簡単に千切れるものなんだろう。子供が草原いっぱいのシロツメクサを見たらどう思う? こんなにたくさんあるなら、一つくらい摘んでも大丈夫と思うだろう?
そして、最期にレスターは挑発するように己の抱えた戦斧を振り上げて合図した。
ゆっくりと、無情なその腕は振り下ろされて。
ぉぉぉぉぉおおおおぉおおおおぉおおおぉぉぉぉっ!!
蹄と馬の嘶きが唱和した雑音が、崖の上を滑り出す。地響きが耳に、腕に、足に、腹の底に響き渡る。それに打ち勝つように、レスターは踏み出して、
「伏せろっ!!」
少々、太い、粗雑な声が背後から飛んだ。レスターたちは驚いて足を止めた。その頭上を、
「我願う、降魔せしめんは流れる氷河、閉ざせアイシクルブレスっ!」
きぃぃぃんっ!!
斧がぶつかる金属音よりも澄んだ音が、通り過ぎた。一瞬のことに何が起こったのかわからない。けれど、聞こえた悲鳴は自軍ではなく、エイロネイア騎馬軍の馬たちの叫びだった。
はっとしてレスターは顔をあげる。連中が駆け下りようとした崖の下。何人もの兵士が落馬している。目を凝らすと、彼らの跨っていた馬の足は透明な氷の壁に縫いとめられている。
氷の呪縛を逃れた兵士の一人が、動揺することなくレスターに斬り込んでくる。
「レスターさん!」
ぎんっ!
慌てて構えたレスターだが、襲い掛かった剣を受け止めたのは、彼の戦斧ではなかった。十字に組まれたニ本の剣が、レスターの肩口を狙って放たれた一撃を食い止めていた。
「な……っ!」
「……悪いけどな」
食い止めた男はけして綺麗な剣筋を持ってはいなかった。けれど、力で押し上げると、戦士の足を浅く切り裂いた。どれほど訓練された戦士でも、足を傷つければ立ち上がれない。二本のうち、青い剣を持つ左の薬指には古めかしい指輪が窮屈に収まっていた。
「……死ぬなら俺の前以外でやってくれ。俺はもう誰も殺させねぇ、ってお天道さん誓った男なんだ」
そう言って似合わない不敵な笑みでアルティオ=バーガックスは笑った。
「お前、無事だったのかっ!」
「俺だけじゃねぇぜ?」
「……我願う、瞬間[とき]と永遠を縛るは無境の冷徹、戒めよフリージングウィン!」
真上から容赦なく吹きつけた冷気の波は、崖を下ろうとしていたエイロネイアの第ニ陣の馬を竦ませる。何人かが落馬し、地面に鎧を叩き付けられた。
崖の上に立つ長い髪の男の表情が、僅かに歪む。
レスターが振り向くと、彼女はすらりと伸びた黒髪を掻きあげた。
「私の前でも目障りな真似しないでちょうだい。死ぬのは勝手だけど、私の前でされるのは迷惑だわ」
「あんたら……」
シリアは微笑みながらそう言った。その言動が無理を重ねたものだということは、彼女の額に浮かぶ大粒の汗が語っている。
「てめぇの命粗末にしたら罰が当たるぜ。お前の命、何人踏み台にして在るんだ?」
「お前……」
「……俺はな。少なくとも、いくら生きたくても生きられなかった一人の子を知ってる。だから、誰一人死なせるわけにも、死ぬわけにもいかねぇんだよ!」
アルティオのニ振りの剣が、また潜り抜けてきた男の足を傷つけた。彼はレスターの首根っこを掴むと、シリアのいる後方へ飛ぶ。周囲のシンシア側の兵士は一瞬、顔を見合わせた後、呪を紡ぐシリアの姿に同じように下がる。
「……我望む、」
崖の上の男が血気盛んに崖を駆け下りようとする第三陣を手で制した。その瞬間に、シリアの呪が完成する。
「真を隠すは無限の悪霧、彷徨えサイレントミスト!」
ぼすっ、という鈍い音と共にきゅう、と冷えた空気が濃い霧を生んだ。レスターは目を剥く。自分の首を掴んでいるアルティオの顔さえよく見えず、霧の向こう側からは何の音もしない。
「いつまで持つかわからないわ。所詮、霧だからね!」
「ほれ、今のうちに逃げるぞ!」
「……」
がつん、と頭部を殴られたようだった。恥を曝したのかもしれない。一瞬前の自分は、死ぬ覚悟を決めていたのだから。その覚悟を汚された。
けれど、怒りは湧かなかった。その代わり思った。
――……これが、人間だよな。
どこまでも生に貪欲。生き延びることに貪欲。人間は誰かが死ねば悲しむくせに、どうして死を美徳にしたのだろう。
まだまだ安全じゃない。霧なんて、風に飛ばされれば最後だ。けれども、相手が風の呪を紡ぐ間、後ろに逃げることは出来る。懐に飛び込むのではなく。
……そうだ。摘まれるシロツメクサじゃない。ここにいるのは、人間だった。
「……ああ。お前ら、行くぞ!」
←12へ
丘の上から平原の中へ雪崩れ込み、燃え盛るエイロネイアの陣を目指す。蹄の重なる音が、耳に響く中、ラーシャは前方を睨みつけて、突如迷いに襲われた。
向こうの陣が、静か過ぎるのだ。
怒号も悲鳴も聞こえない。蹄の音も響いて来ない。火の回りはそんなに早かったか……。
ちらり、と後方を見る。血気盛んに馬を走らせる兵士たちが、剣を抜いて変わらぬ速さで付いて来ていた。
「……」
この兵たちを失うわけにはいかない。
「止まれッ!」
唐突に下った命令に、兵士たちは一瞬戸惑った。だが、ラーシャ自らが手綱を引いて馬を止めるのを見て、慌てて自分たちも手綱を引く。後ろから騎兵を追っていた歩兵たちも、慌てて立ち止まった。
「姐さん?」
仏頂面のレスターが呼びかけてくる。ここまで来て、何故止まっているのか、という文句が目に見えている。
だが、ラーシャは唇を引き締めると、もう一度火の手が上がる陣を見据えた。彼女の懸念に気が付いたのか、後方で魔道師を率いていたデルタが、騎兵を抜いて彼女の隣へ馬を走らせる。
「……静かですね」
「静か過ぎるな」
炎の音だけが平原を覆っている。ラーシャは眉間に皺を寄せた。
兵を引くべきか否か。それともこのまま、責めるべきか。ふと、デルタが面を上げる。かすかな声を漏らした。その声にラーシャも顔を上げて、
「ら、ラーシャ様ッ!!」
「!」
火の手の方向から声が上がった。炎の逆光を背にして、馬に跨った兵士が駆けてくる。火計の陣頭に立った兵士だった。
脂汗を浮かべてあたふたと駆けてくる。そのただならぬ様子に、ラーシャの背筋に悪寒が走った。
嫌な予感は当たりやすい。せめて良い予感も同じくらい当たりやすければ良かったのに。
「どうしたッ!?」
「軍を、軍をお引きくださいッ! 騙されましたッ! あの陣は、あの陣は空ですッ!」
「!」
その兵の叫び声に、シンシア軍の兵士たちに戦慄が走った。無論、ラーシャもだ。ぞくり、と寒気が背中を通り抜ける。手綱を握る手に力が篭った。
「お逃げください、あの、あの陣にいるのは……ッ!」
「ッ!?」
不意に、兵士の背後に何かが立った。炎の逆光で、それが何なのかは判断がつかない。だが、黒い壁のような巨大な影だった。
その影は、ラーシャの、以前の戦場の記憶と瞬時に合致する!
「まずい、逃げ……ッ!!」
ザシュ……ッ!!
炎を背に、生々しい、それでいて異様に静謐な音が響き渡る。音と光景とが、ぶれて外れてラーシャに届く。
目の前の、男の身体がゆっくりと崩れた。赤い炎の中に、その炎よりも赤い雫を撒き散らしながら、男の肢体はぐにゃりと変な方向へ曲がった。
どしゃり、と音が聞こえて男の身体が平原の短い草の中に落ちる。ぬめった液体が、絨毯のように広がり、男の鎧を沈ませていく。
腕の関節は一瞬でありえない方向に曲げられて、頑丈なはずの兜はぐにゃりと歪んでしまっている。投げ出された四肢はぐったりとして、二度と力が灯ることはなかった。
「……引けぇッ!!」
ぐあああるぉおおぉおおぉおぉぉぉッ!!
ラーシャの命令が下るのと、その壁が吼えるのはほぼ同時だった。そして、被るようにして兵士の悲鳴が轟く。
耳を劈く声に歯を噛み鳴らして、ラーシャはその巨体を見上げる。
逆光の中に、血走った目がぎらりと光っていた。折り曲げた指の先には、人のものとは思えない形状の鉤爪がぬめった血液を滴らせる。妙に折れ曲がった腰と、全身には黒い毛をぞろりと生やしていて、頭部には羊のような歪んだ角が炎にそびえていた。
エイロネイアの、獣。
正体の分からぬ、戦場を荒らす異形の魔物が、彼女の目の前にいた。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「後退しろッ!! 引け、腰抜かしてんじゃねぇッ!!」
ラーシャよりも後方にいたレスターが、怖気づいて後退の足を止めた兵士を叱咤した。
その声で我に返ったラーシャは、手綱を握り、剣を獣へと向ける。獣の背を見ると、また同じような影が炎の中から幾つか立ち上がるのが見えた。
「く……ッ!」
ラーシャは剣を握り締める。彼女の手が握った剣の柄から、淡い炎が立ち上った。
「全軍後退しろッ! 私が殿を務めるッ!! レスター、全員の先導をッ! デルタ、援護しろッ!」
「へいッ!」
「はいッ!」
レスターもデルタも切り替えが早かった。額に浮かんだ汗を見れば、その半分は虚勢であったかもしれない。
それでもラーシャは軍を束ねる指揮官だった。
のろのろと巨体を持ち上げる『獣』たちの動作は鈍い。人の背を軽く越えた頑丈な身体は脅威だが、ただそれだけが救いだ。
「我は断罪の責を負う天子、粛清の証、汚れなき業火の昂揚にその身を焼きて、汝が罪を償い給え――」
目の前の獣が歪な爪を振りかぶる。その大きな影が、ラーシャの体を覆った。
「昇華[ヴァーニング]ッ!!」
ごぉおおぉおおぉおッ!
裁いた剣を点として、獣の背後で燃える火とは違う、意志ある白い魔力の炎が獣の軍勢を押し返した。
吹き付けた炎は、彼女の目の前に立ち塞がっていた獣の全身を覆う。耳を劈くようなしわがれた悲鳴が、炎の中から轟いて、黒く変色した毛を全身に張り付けながら、獣は仰向けに倒れていく。
発せられた白い炎は、そのまま背後にいた別の獣たちを次々と喰らっていった。
ぎしゃぁああぁぁぁああぁああッ!!
白い炎を免れた獣たちが、のそりと手足を振り上げて、赤い狂気の瞳にラーシャの姿を映す。
舌を打った彼女が、刃を向けようとしたとき、
「撃てぇッ!」
『シルフィードッ!!』
デルタの凛とした声と、無数の青い筋条の光が飛んだ。後方に並んだ魔道師陣から発せられた青い光は、的確に獣の体を捉え、その体を抉っていく。
断末魔の悲鳴が重なる。生々しい青い血液が宙に飛んで、赤く燃える炎に影を作る。焼けた肉の酸い匂いと、異様な色の血液の金属臭い香り。
鼻が曲がりそうな匂いに耐えて、ラーシャは駆け上がってきた獣の一体を斬り裁き、じりじりと後退する。
幸い、獣の数は無数というわけではない。魔道師陣の呪文の第二破が完成すれば、逃げ遂せることは出来そうだった。
だが、緊張の中、ラーシャがわずかだけ安堵の息を吐いたときだ。
「ぅ、うわぁあああぁぁぁぁッ!?」
「ッ!?」
背後で兵士の悲鳴が轟いた。
振り向いたラーシャの目に、炎の明かりに照らされて細く輝く銀色の光が映った。空に無数に浮かぶそれは、明確な悪意を持って騎士団の真ん中に降り注ぐ。
あれは……弓矢だっ!
「デルタッ!」
「我阻む、」
ラーシャが命じるまでもなく素早く反応したデルタと、魔道師隊の何名かが部隊の頭上に結界の盾を張る。入りきらなかった何人かに、矢の雨は容赦なく降り注いで、フィレのステーキにフォークを刺したような音に混じって悲鳴が轟いた。
ラーシャは振り返らない。振り返ったところで、その大地には赤い命の象徴が流れ落ちていて、足を止めてしまいそうな光景が広がっているだけだ。止められない。止めれば、己の身体にも容赦なく矢は刺さる。そうすれば、生き残った兵すらも助けることは出来ない。
生き残った兵士の命、死んでいった兵士の命。悲しいかな、天秤にかけなければいけないのがこの戦場という場所だった。
心臓が痛い。この痛みを、この裂けるような心臓の痛みを、あの氷のような瞳の皇太子は持っていないのだろうか。何故、あのようにさっくりと、ナイフでバターを切り分けるかのように人の人生を摘んでいけるのだ。
涙などもう乾いている。そう、己に言い聞かせてラーシャは今一度、撤退を叫んだ。
「何だとっ!?」
自軍の陣地まで後退したラーシャを待っていたのは、さらに絶望的な報告だった。後退命令が早かったのと、デルタの魔道師隊の指揮のおかげで、予想していたより被害は少なくて済んだ。だが、それはあくまで"予想よりも"の話である。
元々、火計を決行したのは、兵力差を埋めるためだった。エイロネイア兵がどこに退き、弓隊がどこから仕掛けて来たかもわからないが、読まれていたと見て間違いはない。……兵力差は、そのままか、もっと悪ければさらに大差がついたか。
だというのに。
「それは……本当か」
「……はい。こちらに向かっていた我が軍の援軍が、急襲されたと……っ!」
ぎり――っ、ラーシャの噛み締めた奥歯が鳴る。
馬鹿な。エイロネイアの兵が、ここへ向かう道中にまで入り込んだというのか。そんなことがあるものか。
「それが……相手はエイロネイアの兵ではなく、蛮族の集団らしく……っ!」
「な……っ!?」
「南の方を荒らしていた蛮族の徒党が、北へ流れて来た模様で……っ! 駆逐するのは時間の問題ですが、予定までには到着できないと……っ!」
「!」
南の蛮族。少々、前に耳にしていた。南の方の蛮族が、エイロネイアによって駆逐されたと。だが、その生き残りがこちらへ流れてきた、ということか?
そんな馬鹿な。ありえない。これもエイロネイアの手による蜜策なのか、それとも私の運がそこまで悪いのか。最早、神に祈るなどナンセンスだ。
待機させた兵の間に緊張と戦慄が走る。兵力差だけではない。窮鼠の士気は、これまでにないほど落ち込んでいる。
「やられましたね……」
デルタが痛々しく唇を噛む。隣のレスターが金斧を、壊れそうなほど握り締めていた。
ラーシャは痛む頭を抑えて、思考を巡らせる。平原を見る。まだ炎が燃えているものの、それは平原だけの話。エイロネイアの弓兵は、平原の周囲に聳える岩壁の上から打って来たに違いない。もしもエイロネイアが、こちらが火計を策している間、兵を回りこむようにして進軍させていたら?
自軍の陣を捨てるのは愚策に見える。だが、ありえない話ではない。シンシアの軍はいつもこの奇策に壊滅的なダメージを被ってきた。ラーシャはシンシアの誰よりもその狡猾さと惨劇を知っている。
……ノーストリア高原を奪われ、さらにこの平原を明け渡せば……貴族院の説得は、ほぼ失敗に終わるだろう。
――だが……
ラーシャは唇を噛んで、敬礼をする兵士たちを見る。だが、その手が強張っているのは一人や二人ではなかった。デルタが悔しげにがんっ、と地面を踏んだ。それでも口の端に短気な言葉は出ない。
皆、わかっていた。自分たちは窮鼠だ。苦肉の策が失敗した以上、ねずみは逃げるか、犬死にする他ないのだ。
ラーシャは目を閉じる。これは決断になる。正しいと、己のみを信じる、決断。英断ではない。
「……援軍の支援に向かう。損害状況を確認次第、本国へ引き返す」
「……はい」
デルタが悔恨と安堵が混じったような複雑すぎる息を吐いて、兵たちに指示を伝え始める。
「自軍の旗は下げるな。旗は陣地へ残して撤退する」
「姐さん、それは……」
「相手も旗が見えれば慎重になるだろう。少しでも撤退の時間が稼げれば、それで良い」
他の将軍なら、自国の旗を踏みにじられるのを嫌うだろう。だが、ラーシャはそれ以上に兵士の命を踏ませたくはなかった。これ以上の惨劇は、望まない。
「……姐さん」
レスターが神妙な顔つきで前に出る。いつもは日に焼けて、健康的な色をしている顔が、今は青ざめて見えた。
「俺たちが殿を務めて、ここに残ります」
「レスター!」
「あいつら、どんな動きしてくるかわかったもんじゃない。姐さにゃ俺らが考えてるより、手が早いかも……」
「駄目だ! 私には、ここに生き残った者全員を守る義務がある!」
怒鳴りつけるように叩きつける。レスターは肩を怒らせて、唇を引き締めた。
「姐さん、なら尚のことです。大丈夫っす。小軍の方が大軍より逃げやすい。姐さんたちが逃げたのを見計らって散ります」
「しかし……っ」
「姐さん」
レスターは強情に、静かに繰り返した。ラーシャとて、その方が確実策なのはわかっていた。
ラーシャはもう一度きつく拳を握った。震える拳を、とうとう叩き付けることはなく、その手で剣の柄を思い切り握り締めた。
――思ったより早かったな。
馬の行軍の音を遠くで捉えながら、レスターは唇を湿らせた。陣地に瞬くは主を失った旗。けれど、ただの旗。それが国の象徴だと何度叫ばれても、人の命と天秤にかけられるようなものじゃない。だが、国はかけろと言う。
レスターは鼻で笑った。
シェイリーンやラーシャは己の矜持と、そのくだらない命令の間で常に戦っている。戦わざるを得ないのだ。誰が何を求めているのかわからない。本当に同じものを求めているのかわからない。
その葛藤の上でレスターは己の矜持に従って生きている。彼女らの苦悩の上に、自分の剣がある。
後ろに控えた数人の、直属の兵士が肩を怒らせた。
「悪ぃな、付き合わせちまって」
「何言ってるんですか、レスターさん。俺らも最初からこういうつもりでしたし」
副将の男に話しかけると、彼は焦げたヤニの匂いがする戦場に似つかわしくない笑顔を浮かべて、背後の数名に「なあ?」と呼びかけた。残った数名は、こんな状況になってもなお、己の士気を高めているらしい。皆、一様ににやりと笑って得物を掲げて見せる。
そこにはある種の爽快感もあったかもしれない。ほら、人間、死ぬ間際になるほど度胸が据わると言うだろう?
レスターは自然と腹が決まるのを感じた。ティルスやデルタには、落ち着きがないとよく叱咤される。だが、レスターは土壇場で冷える性質だった。肝が、全身が冷えていって、掻いていた汗を凍らせる。
その冷たい熱は、潜在的な恐怖さえ凍らせて。レスターに戦斧を振るわせる。
風の雄叫びがする。レスターは空を仰いだ。陣地の上に聳える崖。その上に翻るのは、黒い鴉の旗だった。嘶いたのは兵か、馬か。先頭に立つのは、水の色をした生真面目に引き結んだ表情の男。ああ、あれだ。先の戦いで皇太子を語った男。
本物か、それとも偽物か。おかしいものだ。会議室であれだけ叫ばれる真偽は、戦場に立った途端に、どうでもいいものに変わる。それはそうだ。これは狩り。狩られるか、生き延びるか。ああ、何て愚か。それだけが戦争の真意なのだと悟る。
長ったらしいローブを纏った男の袖が翻る。ちらり、と周りを見ると、斧を振り上げた兵士たちは脂汗を額に笑っていた。皆、知っている。そしてラーシャもおそらく知っていた。あの手が振り下ろされた瞬間に、自分たちの命は散るのだと。
レスターは笑う。半分は狂っていたのかもしれない。今なら、あの悪魔と称される皇太子の心境がわからなくもない。何て命なんて簡単に千切れるものなんだろう。子供が草原いっぱいのシロツメクサを見たらどう思う? こんなにたくさんあるなら、一つくらい摘んでも大丈夫と思うだろう?
そして、最期にレスターは挑発するように己の抱えた戦斧を振り上げて合図した。
ゆっくりと、無情なその腕は振り下ろされて。
ぉぉぉぉぉおおおおぉおおおおぉおおおぉぉぉぉっ!!
蹄と馬の嘶きが唱和した雑音が、崖の上を滑り出す。地響きが耳に、腕に、足に、腹の底に響き渡る。それに打ち勝つように、レスターは踏み出して、
「伏せろっ!!」
少々、太い、粗雑な声が背後から飛んだ。レスターたちは驚いて足を止めた。その頭上を、
「我願う、降魔せしめんは流れる氷河、閉ざせアイシクルブレスっ!」
きぃぃぃんっ!!
斧がぶつかる金属音よりも澄んだ音が、通り過ぎた。一瞬のことに何が起こったのかわからない。けれど、聞こえた悲鳴は自軍ではなく、エイロネイア騎馬軍の馬たちの叫びだった。
はっとしてレスターは顔をあげる。連中が駆け下りようとした崖の下。何人もの兵士が落馬している。目を凝らすと、彼らの跨っていた馬の足は透明な氷の壁に縫いとめられている。
氷の呪縛を逃れた兵士の一人が、動揺することなくレスターに斬り込んでくる。
「レスターさん!」
ぎんっ!
慌てて構えたレスターだが、襲い掛かった剣を受け止めたのは、彼の戦斧ではなかった。十字に組まれたニ本の剣が、レスターの肩口を狙って放たれた一撃を食い止めていた。
「な……っ!」
「……悪いけどな」
食い止めた男はけして綺麗な剣筋を持ってはいなかった。けれど、力で押し上げると、戦士の足を浅く切り裂いた。どれほど訓練された戦士でも、足を傷つければ立ち上がれない。二本のうち、青い剣を持つ左の薬指には古めかしい指輪が窮屈に収まっていた。
「……死ぬなら俺の前以外でやってくれ。俺はもう誰も殺させねぇ、ってお天道さん誓った男なんだ」
そう言って似合わない不敵な笑みでアルティオ=バーガックスは笑った。
「お前、無事だったのかっ!」
「俺だけじゃねぇぜ?」
「……我願う、瞬間[とき]と永遠を縛るは無境の冷徹、戒めよフリージングウィン!」
真上から容赦なく吹きつけた冷気の波は、崖を下ろうとしていたエイロネイアの第ニ陣の馬を竦ませる。何人かが落馬し、地面に鎧を叩き付けられた。
崖の上に立つ長い髪の男の表情が、僅かに歪む。
レスターが振り向くと、彼女はすらりと伸びた黒髪を掻きあげた。
「私の前でも目障りな真似しないでちょうだい。死ぬのは勝手だけど、私の前でされるのは迷惑だわ」
「あんたら……」
シリアは微笑みながらそう言った。その言動が無理を重ねたものだということは、彼女の額に浮かぶ大粒の汗が語っている。
「てめぇの命粗末にしたら罰が当たるぜ。お前の命、何人踏み台にして在るんだ?」
「お前……」
「……俺はな。少なくとも、いくら生きたくても生きられなかった一人の子を知ってる。だから、誰一人死なせるわけにも、死ぬわけにもいかねぇんだよ!」
アルティオのニ振りの剣が、また潜り抜けてきた男の足を傷つけた。彼はレスターの首根っこを掴むと、シリアのいる後方へ飛ぶ。周囲のシンシア側の兵士は一瞬、顔を見合わせた後、呪を紡ぐシリアの姿に同じように下がる。
「……我望む、」
崖の上の男が血気盛んに崖を駆け下りようとする第三陣を手で制した。その瞬間に、シリアの呪が完成する。
「真を隠すは無限の悪霧、彷徨えサイレントミスト!」
ぼすっ、という鈍い音と共にきゅう、と冷えた空気が濃い霧を生んだ。レスターは目を剥く。自分の首を掴んでいるアルティオの顔さえよく見えず、霧の向こう側からは何の音もしない。
「いつまで持つかわからないわ。所詮、霧だからね!」
「ほれ、今のうちに逃げるぞ!」
「……」
がつん、と頭部を殴られたようだった。恥を曝したのかもしれない。一瞬前の自分は、死ぬ覚悟を決めていたのだから。その覚悟を汚された。
けれど、怒りは湧かなかった。その代わり思った。
――……これが、人間だよな。
どこまでも生に貪欲。生き延びることに貪欲。人間は誰かが死ねば悲しむくせに、どうして死を美徳にしたのだろう。
まだまだ安全じゃない。霧なんて、風に飛ばされれば最後だ。けれども、相手が風の呪を紡ぐ間、後ろに逃げることは出来る。懐に飛び込むのではなく。
……そうだ。摘まれるシロツメクサじゃない。ここにいるのは、人間だった。
「……ああ。お前ら、行くぞ!」
←12へ
「……どうしたの?」
朝食の席で眉間に皺を寄せて羊皮紙を睨んでいたアレイアに、フィーナは思わず声をかけた。
いつになく、険悪な表情で羊皮紙に活版で書かれた文字を追っていく彼に、何か不穏なものを感じたのだ。
「ん? ああ、何でもないよ……」
アレイアは一拍置いて、羊皮紙をテーブルに置いた。軽く息を吐いて、フィーナ手製のマフィンに手を伸ばす。
外の天気はどこか思わしくなく、曇り空だったが、ケナには関係ないようだ。窓の外の、木の下で砂遊びに興じている彼女を目に留めながら、フィーナはアレイアが置いた羊皮紙を手に取った。
人寂れた村だが、極たまに山の向こうの町から号外が届けられる。それはその貴重な一枚だった。村長に貰ったのだろうか。
「……第三関所、崩壊……」
ぽつり、とフィーナが呟く。アレイアは陰鬱な表情でカフェオレのカップを持ち上げた。
「ああ、シンシアのバラック・ソルディーア……第三番目の砦で、関所だ。そこがエイロネイアに落ちたらしい。
もっとも、火に炙られて砦自体は灰と瓦礫の山らしいが……」
「……」
「エイロネイアの勢力拡大は凄まじい。あの皇太子が戦場に出てから、奪われた領土や砦が幾つもある。この村も、山を隔てていて戦略的価値がないせいで放って置かれているが、もともとは国境に近い村だからな……。それなりの備えが必要な時期なのかも知れない」
「……」
「フィーナ?」
「……」
「フィーナ、フィーナッ!」
「へッ? あ、ああ、えっと、ごめん。何?」
アレイアの声さえも耳に入らないほど、羊皮紙を凝視していたフィーナは、ようやく気がついて取り繕うように笑顔を浮かべる。
アレイアは、その彼女と細い手に握られた羊皮紙とを見比べて、ひどく複雑な表情を作った。
苦く、先ほどの陰鬱な表情に、焦燥とわずかのやるせなさを滲ませて。
「……どうかしたのか?」
伺うように、今さっき彼女から聞かされた質問を返す。
彼女はその質問で、はっ、と我に返ったように手の中の羊皮紙とアレイアとを交互に見て、最後に天井を仰いで顎に手を置いた。
「ううん、何でもない」
首を振りはしたが、嘘であるのは明確だった。
「ただ、何でアレイアがこんなやたら熱心に読んでるのかなー、って思ったもんだから」
それもまた、どこか白けた疑問だった。やっと絞り出したような、そんな問いだ。
「俺は時事問題に詳しくなっちゃいけないのか……」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど。これ、村長さんか誰かに貰ったんじゃない?
村の人でこんなもの持っている人見ないもの。特別に貰って来たんじゃないか、って思ったから」
「……いくら、外れた村、って言っても戦場は山の向こうで起こってるんだ。知らんふり出来るわけないだろう」
アレイアは少しだけ苛立って、カフェオレを飲み干した。そのまま剣を取って立ち上がる。
フィーナはわずかに眉を潜めて、同じように立ち上がった。アレイアはこっそりと舌打ちをする。彼女のやや浮かない顔が、自分が八つ当たりをしてしまったのだと如実に語る。
――とんだ馬鹿野郎か、俺は。
胸中で叱咤しながら玄関に向かう。ドアを開いたところで、ちょうどそのドアをノックしようとしていた女性と鉢合わせた。
「やぁ、ブロードの旦那! まぁだ出勤前だったのかい」
肝っ玉のいい八百屋の女将のハンナだった。手に大きなバスケットを提げている。
朝からテンションの高い人に会ってしまった。ついてない。
「あれ? ハンナさん?」
「ああ、フィーナちゃん。おはようさん!」
遅れて玄関にやってきたフィーナに、ハンナはぱたぱたと手を振った。
「どうしたんですか、朝から」
「いやね、ブロードの旦那。うちの亭主がさぁ、ちょっと馬鹿をやっちまってね。
あんの馬鹿、品物をかなり余計に仕入れやがったんだわ。うちじゃ食べきれないし、かといっていつまでも店頭に並べておいても腐らせるだけさね。それでお裾分けさ」
「うわ……」
ハンナがバスケットの布を取った。中に詰められていたのは、少々小振りだが茄子やじゃがいもといった野菜の数々。隅っこには、季節が過ぎつつある桃の実が三つちょこんと乗っていた。
ハンナはそれを丸ごとフィーナの胸元にずい、と押し付ける。
「い、いいんですか……? こんなにいっぱい……?」
「ああ、腐らせちまうよりいいだろ。素直に貰っときな。ねぇ、旦那」
「……ありがとうございます」
さすがのアレイアもやや困惑しながら礼を述べた。買い物のついでにおまけをつけてくれるのはしょっちゅうだが、些か気前が良すぎはしないだろうか……?
八百屋が潰れないことを祈る。
アレイアは微妙な表情のまま、太陽を見上げた。仕事の時間が迫っていることを悟ると、ハンナに軽く頭を下げて、その場を後にしようと彼女の脇を通り過ぎようとする。
その彼の耳に、
「なあ、旦那。もうフィーナちゃんとはそれなりの仲になったんかい」
……思わず転びそうになった。
「な、何を……ッ!?」
ぼそり、と女将が言った一言はフィーナには聞こえていなかったらしい。彼女はバスケットを持ったまま、いきなりバランスを崩しかけたアレイアに疑問符を浮かべている。
ハンナは呆れたような顔で、どんっ、とアレイアの背中を思い切り叩いた。
「情けない男だねぇ、旦那も。こっちは、式はいつかと楽しみにしてんだよ」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「???」
まったく話の内容を理解していないらしいフィーナをちらり、と見てアレイアは軽く首を振った。
「とにかく、そういうことを言うのはやめてくださいよ。女将さん」
「はっはっは、悪いねぇ。歳を取ると娯楽が少なくなるんだよ」
やや険悪な眼差しで言っても、軽く受け流されてしまう。年の功というのは、こうも固いものなのか。
溜め息を吐いて、アレイアは早々に諦めた。
「じゃあ、俺は行くけど。フィーナ、女将さんにお礼をしておいてくれ」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「いってらっしゃいな、旦那」
ハンナの笑顔に、何とも言えない一抹の不安を抱きながらも、アレイアは手を振ってその場を後にした。
「……で、あの、これ……」
未だ申し訳なさそうにバスケットを抱えたフィーナを見て、ハンナはからからと笑う。
「あんたも律儀な娘だねぇ。こういうときは笑顔で貰っとくのが、家庭を守るいい女だよ」
「え、えーと……は、はい……。とりあえず、ありがとうございます……」
言われている意味は若干よく分からなかったが、とりあえず頭を下げて素直に受け取っておく。いつものことながら、この女将には敵いやしないのだ。
ハンナは腰に手を当てて、微笑ましい表情で砂山を作って遊んでいるケナを見て、目を細めた。
「いい子だね。お父さんにもよく懐いてるし、元気な子だよ」
「そうですね」
ハンナがどうしてそんなことを切り出したのか。ふと、疑問に思ったが、フィーナは素直に頷く。
ケナは文句なしにいい娘だと思う。ややませたところはあるが、家事もよく手伝うし、何より明るく元気な娘だ。母親がいないというのに。
「……」
「気づいてるかい?」
「え?」
「あの子とブロードの旦那について、さ」
「……えっと」
「奥さん。いないんだよ」
何となくは気がついていたことだった。けれど、口に出すのは憚れた。
疑問に思ったことは何度もある。けれどそれは、ただ行き倒れになっていたところを助けられ、なりゆきで居候しているだけの他人が踏み込んで良いような領域だとは、フィーナには思えなかった。
フィーナが困ったような表情を浮かべるのを見て、ハンナは少しだけ眉根を寄せた。
「ごめんごめん。困らせる話だったね。でもさ、どうせ話してないだろ、あの旦那」
「ええ、何も」
「まあね。あんたの事情も、あん人の事情も、ろくに知らないあたしが言っていいものかは知らないけどさ。
あそこの家、奥さん見たことないだろう?」
「そ、そうですけど……」
曖昧に返事をした。
フィーナが意図して避けてきた疑問。意識して言葉にしなかった不和。
あくまで自分は他人に過ぎない、とフィーナは意図してブロード家との境界線を引き、守ってきた。その境界線の象徴たるものが、その疑問だった。
だから、フィーナはそれに関わる質問や問いはけしてしようとしなかった。しないできた。
「いなくなったんだ。何年か前にね」
「……いなく、なった?」
聞いてはいけない気がした。その話は、この例え束の間であろうと、居心地のいいブロード家でのフィーナの暮らしを脅かしてしまうものだと悟っていた。
それなのに、聞き返してしまったのは、無責任な、ただの残酷な好奇心の業なのだろうか。
ハンナはフィーナの言葉に深く頷いた。
「ある日、ぷっつりと、ね。この村は戦地から離れていて平和さ。ただ平和ゆえに退屈なんさね。
そのせいで出て行ったのかもしれないし、他に好きな男が出来たのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
ともかくね、ケナちゃんの母親はある日、途端に見なくなっちまった。
ブロードの旦那は口を濁すだけだったね。そりゃあ、そうさ。女房がいなくなった、なんて旦那にとっては恥だからね。
恥だけじゃあない。ショックだったんだろうね。しばらく、ブロードの旦那も茫然とした感じだったさ」
「……」
「村に来たときは二人共若かったさ。どこを旅して来たかは知らないが、擦り切れた服と靴。あとは身一つで、こーんなちっちゃな赤ん坊のケナちゃんを抱えてね。村長のところに『この村に住みたい』、と言ってきた。
……この村にはね、実は戦地から逃げてきたような人間もいっぱいいるんだよ。
戦争に疲れちまってね。戦地から外れたこの村に流れてくるヤツも多かったから、村長は何も言わないで二人に村で暮らしていい、って言った」
「……」
「それが六年前さ。奥さんがいなくなったのは、それから一年もしないうちだった」
やや痛ましい表情でハンナは語る。だが、その傍らで話を聞かされていたフィーナの方が余程、困惑した表情をしていた。
解せない。何故、彼女が今、こんなことを語り出したのか。フィーナには、見当さえつかなかった。
ハンナは視線をケナから外し、フィーナを見た。小さく溜め息を吐く。
「悪いね。こんな話、聞きたくなかったろ」
「ん、えっと……」
「あたしゃお節介な性格でさ。でも、放って置けなくてね。
奥さんがいきなりいなくなって、しかもケナちゃんは赤ちゃんだった。放って置けなくてね。うちは子宝に恵まれなかったし、あたしもうちの亭主も、いろいろと面倒見てやってきたんだ。
ケナちゃんは赤ん坊だった。母親のことなんか覚えてないさ。
でも、旦那はまだ未練がある。見てれば分かるさ。あの人、ときどき遠すぎるくらい遠い目をする」
「そう、だったんですか……」
フィーナには曖昧に答えるしか術がなかった。
何だろう、ハンナはそのお節介の延長上でフィーナに何かを伝えようとしているのだ。だが、フィーナにはそれが見えて来ない。
「……フィーナちゃん」
「?」
「ブロードの旦那がどこからあんたを連れてきて、彼とどんな関係なのかは知らないよ」
「……」
「でもさ、旦那もケナちゃんも、少なからずあんたを好いているよ」
「そりゃ、良くはしてもらってますけど……」
「そうじゃないんだよ、フィーナちゃん」
何とか言葉を返そうと、しどろもどろに口を開いたフィーナの声を再びハンナは塞き止める。ハンナは優しく、しかし、何かを含んだ瞳で彼女を見た。
「……フィーナちゃんが着てるのは、いなくなった奥さんのものだね?」
「え?」
「分かるよ。あたしが編んだヤツだからね。
何で、他人のあんたに、旦那が素直に未練のある奥さんの服なんか貸してるか分かるかい?」
「……?」
首を傾げる彼女に、ハンナはぎゅ、と眉を寄せた。言い難いことを、苦々しく口にするような、快活な八百屋の女将にしては苦悶に満ちた表情だ。
ふと、ハンナは空を仰いだ。何かを思い出すように遠くを見て、もう一度、『彼女』を見て、頷いた。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「――!」
「奥さんの名前、知らないだろ? 何の偶然なんかね、奥さんの名前はね、」
「『フィーナ』、って言ったんだ」
「・・・!」
『彼女』の脳裏に、この家で目が覚めたときの光景が掠める。ベッドの上で、自分の名前も思い出せずに頭を抱えていた『彼女』に、彼は、アレイアがぽつりと呟いた名前がそれだった。
それから、『彼女』はその呼び名で呼ばれるようになったのだ。
何故、素性の知れない、それも武器など下げた奇妙な女を、彼が家に迎え入れたのか。
未だに居候として留めていてくれるのか。
その疑問が、氷解していく。
『彼女』ははっ、としてハンナを見た。彼女は元のように笑いながら、しかし、どこか真剣な雰囲気を残したまま、
「フィーナちゃん、あんたがどこの誰で、旦那とどんな縁があったかは知らないよ。
いくら世話を買って出てた、って言っても、部外者は部外者。あたしゃ、ただの八百屋のおばさんさ。
だから、お節介なのは分かるんだよ。あんたが何者なのか、これからどうするつもりかは知らないけどさ……。
ブロードの旦那も正直、あんたを見て戸惑ってるようだし。ケナちゃんだって、あのときほど幼くない。
出来れば、傷つけないでやって欲しいんだよ」
「……」
『彼女』はそのまま沈黙する。唇を噛んで、俯いた。
答えられない問いだった。誓えない頼みだった。
ハンナは気づいているのだ。『彼女』が何者か、どこから来たのか、そんなことは知りもしないだろうが、『彼女』が、いつかここを出て行くことになるだろうことは気づいている。
そして、その『フィーナ』に似ているという『彼女』が出て行くことで、ずっと面倒を見てきたアレイアやケナが古い傷を思い出してしまうのを慮っているのだった。
けれど、『彼女』はそんな約束など出来るはずもない。
自分のことでさえ、何もわからない『彼女』が、約束出来るはずもない頼みだった。
だから、何も答えずに唇を噛むしか出来なかった。
気まずい沈黙が流れ、そして、
「あーッ、おかみさんッ!!」
重い沈黙を破ったのは、ケナの甲高い呼び声だった。我に返って視線を上げると、すぐ目の前にケナが駆け寄って来ていて、ぱっとフィーナの腕にぶら下がった。
「フィーナちゃん、元気ない?」
「へ?」
「ハンナさん、フィーナちゃんをいじめちゃだめー! フィーナちゃんはケナのなの!!」
ぷぅ、と剥れて言ったケナの台詞に、ハンナはしばしきょとんと目を丸くした後、小さく吹き出した。そのまま肩を震えさせながら笑い、しゃがんでケナの頭を撫でる。
「人聞きが悪いねぇ。誰もフィーナちゃんをいじめてなんかないさ」
「むー、本当?」
問われたのは『彼女』だった。
まだ剥れたままの彼女に、フィーナは、沈んだ気持ちを振り払うように笑いかけた。
「本当だってば。あたしがちょっとやそっとでいじめられるとでも思ってた?」
「ううん。だってフィーナちゃん、お父さんより強いもんね! 鬼さんより強い!」
「ちょっと、それどういう意味!?」
「あははははッ!」
拳骨を握って怒鳴ったフィーナに、ケナは楽しげな笑い声を上げて逃げるようにぐるぐると彼女の周りを回った。
その光景に、ハンナはどこか力が入ってしまっていた表情を緩ませる。静かな溜め息を吐くと、彼女はケナの襟首を捕まえて凄んでいたフィーナの肩を優しく叩いた。
「ごめんね。あたしが言うようなことじゃなかったね」
「いいえ……」
「迷惑なのは分かってるけどさ、最近、旦那も何だか元気なくしてるみたいだったからね……。
どうにも気になっちまってね。あんたには何にも関係のない話なんだろうけど……。
あんまり気にしないでくれていいよ。でも、どっかには留めて置いて欲しかったんだ」
「……」
フィーナは答える代わりに、軽いお辞儀で返した。誠実とは言えない返事だったが、ハンナはそれで納得してくれたらしい。
一瞬後には、ぱっと顔を上げて微笑んで、『また店で待ってるからね』と残して背を向けた。
ハンナの背中が豆粒ほどに小さくなった頃、くいくい、とスカートの裾を引っ張られる。
「……ん?」
「フィーナちゃん、ハンナさんと何話してたの?」
「んー、まあ、ちょっと……。大したことじゃないよ」
「……お母さんのこと?」
受け流そうとしたフィーナだったが、ケナの一言にひくりと反応してしまう。慌てて取り繕おうとしたが、視線を下げた先の幼いケナの顔は、真面目に引き締められていた。
「……ケナ、お母さんのことあんまり覚えてないの」
「……うん」
「お父さんは、お母さんはどこか遠いところに旅行に行ってるって言ってたけど、嘘だと思う。良く知らないけど。
だったら、フィーナちゃんをお母さんの名前で呼んだりしないよ……」
「……」
少しだけ俯いて、小さく呟くように彼女は言った。
幼い子供とは思えないほど、顔をしかめて、静かな声で。
「……ケナね」
「ん?」
「お母さんのことあんまり覚えてないけど、フィーナちゃんのこと好きだよ」
「……ありがと」
「たぶん、お父さんも、フィーナちゃんのこと好きなんだよ」
「……けど、それは」
「うん。フィーナちゃん、お母さんに似てるって言ってた。そのせいかもしれない。
でも、きっとフィーナちゃんがいなくなっちゃったら、寂しがると思うな」
ケナは俯いたまま、唐突にフィーナのスカートに顔を埋めた。
「ケナも、ケナもね……」
「……」
「フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
「……うん」
曖昧に頷いて、フィーナはどうしていいかわからずに、ケナの小さな肩を抱き締めた。
嘘でも、『いなくならないよ』と言ってあげるべきなのかもしれない。けれど、そんな優しい嘘を吐けてしまうほど、『彼女』は大人ではなかった。
それに――
――この間の……
村長の家に行って、石段から落ちたあの日。
背後には誰もいなかった。けれど、確かにフィーナは誰かに背中を押されたのだ。それだけではない。お菓子屋さんで感じた、あの射るような殺気。石段から転落して、アレイアに助けられたあの後、じっとこちらを見ていたあの異質な雰囲気の漂う女は、一体何者なのだろうか……。
最近、不可思議なことが起こっている。何ともないこと、他愛もないことと、意図して考えないようにしていた。
そうしなければ、仮初とはいえ『彼女』に今の唯一の居場所であるここが、一瞬のうちに失くなってしまうような気がした。
でも、その一方で。
誰も飲めないはずのコーヒー、助けられた一瞬の紡ぐはずのない誰かの名前。
アレイアが、『彼女』を通していなくなった女性を思い出しているように。
『彼女』も、もしかしたら、彼を通して何か思い出しつつあるのではないだろうか――
だとしたら。
―― ……あたしは、どうしたらいいの……?
力なく首を振る。
「ケナちゃん」
「……なぁに?」
「買い物、行こっか」
「……」
ケナは一段と強く抱き着いたあと、ぱっと顔を上げた。そこには、いつもの元気な笑みが浮かんでいた。
「うん! 行こう、フィーナちゃん」
「……じゃあ、バスケット置いて来るから待っててね」
「うん!」
不思議だ。何だかこんなに小さなケナの方が強くて、大人に見えてしまう。
フィーナは精一杯の笑みを彼女に返すと立ち上がった。バスケットを持って立ち上がり、玄関に入る。
ちらり、と外を見ると、玄関の柱に背をつけながら鼻歌を歌っているケナが見えた。
フィーナはバスケットを持ってキッチンに入っていく。ひんやりとした床にバスケットを置いて、唐突に思い出す。
腰を折って、フィーナは食器棚の裏側を覗き込んだ。ぺらり、と紙のようなものが張り付いている。
先日見つけて、すっかり忘れていた。忘れたままだった方が良かったのかもしれない。
「……」
『彼女』は手を伸ばして、その紙を少しだけ引っ張った。ぺり、と僅かな音を立てて、難なく剥がれる。
ただの白い面を裏返してみる。
意図的に飾ってあったものを裏返していたのか。それとも、もともとは飾られていたものが、隙間風の影響で中途半端に剥がれて裏になっていたのか。
それは一枚の写真だった。
映っているのは他でもない、アレイアと、もう一人。
長い金色の髪をふわりを靡かせて、ケナと同じ葡萄色の瞳を細ませた――
小さな赤ん坊を抱いた女性が、柔らかく微笑んでいた。
「……」
『彼女』は無言で首を振る。
そして、それを隠すように食器棚の奥へと裏返しにそっと置いた。
風に血の匂いが混じっている。ラーシャは知らず知らずのうちに深めてしまっていた眉間の皺を、無理矢理に引き伸ばした。
白の軍服の裾が風に攫われる。目の前に広がるのは広い草原で、その一角に草色のテントが群がっているのが見える。
八咫鴉の旗を掲げた大きな兵軍だった。
東の空を見る。暗い夜空に、東の山端にだけ光が漏れている。朝が近い。
「コンチェルト少佐の策は成るでしょうか?」
「……分からん」
明朝になったことを悟って、硬い声でデルタが問いた。ラーシャは正直に答える。
平原での決戦がなされる日だった。あと一時間もしないうちに、あの平原の陣には火が放たれる。風向きは北から南。乾いた冷たい風が、火の周りを早くする。それを素直に喜べない罪悪感と戦いながら、ラーシャは薄暗い朝の中で、ただ静かに八咫鴉を睨んでいた。
相手は大軍を率いている。成功する可能性は五分。失敗する可能性も五分。
北都ゼルフィリッシュからは援軍を呼んでいる。どれほどの規模になるかは、シェイリーンの交渉次第だろうが、届く書面を見た限りではあまり期待は出来そうもない。
さらに悪いことに、第三関所が落とされたという凶報もラーシャの元に届いていた。関所にいた魔道師と兵士の無事は伝えられたが、共にいた客将二人は未だに行方不明だ。
「……今、エイロネイアがあちらに軍を割くとは思わなかった。私の失策だな……」
「予測出来ないことでした。
コンチェルト少佐が第三関所の状況の確認と、お二方の捜索を急いでいます。先に失踪されたお三方の行方も含めて」
「ああ、わかっている」
答えながら彼女は唇を噛み締めていた。
こんな情けないことがあるか。大陸からの客将の身柄は保障するだのとほざいたのは、どこの誰だったのだ。
シリアもアルティオも、望んでバラック・ソルディーアに滞在していた。
だから、これは彼らの選択であったのかもしれない。けれど、彼らをこの地へと招き、そもそもの原因を作ったのは間違いなく彼女だった。
自責の念に苛まれながら、ラーシャは将として虚勢に胸を張るしかないのだ。それはひどく空っぽで虚しい行為だった。
――今の私を見て……姉上とあの子はどう思うのだろうな……。
ラーシャは次第に強くなる東の光を目に留めながら、自嘲気味に笑った。軽く首を振る。
冷たい剣の柄を握り締め、ラーシャは今一度、ジルラニアの夜明を瞼に焼き付ける。ラーシャはこの暁にならなくてはならない。このゼルゼイルの暗い夜に、光と風を送る人間にならなくてはならないのだ。
それが最初で最後の約束なのだから。
「エイロネイアの皇太子は、どう出るでしょうか」
「……わからん。だが、精一杯で迎え撃つしかない。これ以上、ゼルゼイルの大地をあの悪魔に好き勝手にさせるわけにはいかない」
"戦場の悪魔"、"漆黒の死神"。
兵士たちからそう揶揄されるかの人物は、あの平原で今もこちらを嘲笑っているのだろうか。それとも、別の場所から高みの見物を気取っているのだろうか。
――エイロネイア皇太子……このままでは、済まさぬ……!
白んだ太陽が、半分だけ顔を出した。
時間だ。
ラーシャは平原から視線を外し、自らが敷いた軍を振り返った。やがて平原に火が放たれる。出陣の時間が、迫っているのだ。
デルタはまだ平原を睨んでいた。あそこから火の手が上がるかどうか、すべてはそれにかかっている。成功か、失敗か。それを判断するのはこの高見櫓の兵士と、己の眼だけだった。
静寂が、その場を支配する。
ごくり、と固唾を飲み込むと同時に、やたら冷えた汗がデルタの頬を伝っていった。
たった数分が、とんでもなく長い時間に感じられた。
カーン、カーン、カーンッ!!!
「ッ!」
突然だった。
甲高い鐘の音が、二人の、そしてシンシアの兵士たちの耳を貫いた。はっとしたラーシャとデルタが、丘の上から平原を見下ろした。
草色のテントが敷かれた陣の向こうが明るい。明るすぎる。そして、赤い。
兵士たちから『わあああぁぁぁ!!』と歓声が上がった。ラーシャとデルタは互いに視線を合わせて頷く。
十字を切る暇もない。軍の先頭に立っていたレスターを振り返ると、彼は馬上で剣を抜いた。
「成功だ! これより出陣する! これは防衛線だ! 出過ぎるな、炎に巻かれるぞ!!」
「分かってますよ、姐さん!」
血気も盛んにレスターが答えてきた。ラーシャは自らも馬に跨ると剣を抜く。
銀の刃の切っ先を、燃え盛る陣の向こうに向ける。すっ、と息を吸い込むと赤すぎる暁を睨みながら、声を張り上げた。
「全軍、前へ!」
響く歓声とともに、蹄の音が幾重にも重なって大地を揺らした。
←11-02へ
朝食の席で眉間に皺を寄せて羊皮紙を睨んでいたアレイアに、フィーナは思わず声をかけた。
いつになく、険悪な表情で羊皮紙に活版で書かれた文字を追っていく彼に、何か不穏なものを感じたのだ。
「ん? ああ、何でもないよ……」
アレイアは一拍置いて、羊皮紙をテーブルに置いた。軽く息を吐いて、フィーナ手製のマフィンに手を伸ばす。
外の天気はどこか思わしくなく、曇り空だったが、ケナには関係ないようだ。窓の外の、木の下で砂遊びに興じている彼女を目に留めながら、フィーナはアレイアが置いた羊皮紙を手に取った。
人寂れた村だが、極たまに山の向こうの町から号外が届けられる。それはその貴重な一枚だった。村長に貰ったのだろうか。
「……第三関所、崩壊……」
ぽつり、とフィーナが呟く。アレイアは陰鬱な表情でカフェオレのカップを持ち上げた。
「ああ、シンシアのバラック・ソルディーア……第三番目の砦で、関所だ。そこがエイロネイアに落ちたらしい。
もっとも、火に炙られて砦自体は灰と瓦礫の山らしいが……」
「……」
「エイロネイアの勢力拡大は凄まじい。あの皇太子が戦場に出てから、奪われた領土や砦が幾つもある。この村も、山を隔てていて戦略的価値がないせいで放って置かれているが、もともとは国境に近い村だからな……。それなりの備えが必要な時期なのかも知れない」
「……」
「フィーナ?」
「……」
「フィーナ、フィーナッ!」
「へッ? あ、ああ、えっと、ごめん。何?」
アレイアの声さえも耳に入らないほど、羊皮紙を凝視していたフィーナは、ようやく気がついて取り繕うように笑顔を浮かべる。
アレイアは、その彼女と細い手に握られた羊皮紙とを見比べて、ひどく複雑な表情を作った。
苦く、先ほどの陰鬱な表情に、焦燥とわずかのやるせなさを滲ませて。
「……どうかしたのか?」
伺うように、今さっき彼女から聞かされた質問を返す。
彼女はその質問で、はっ、と我に返ったように手の中の羊皮紙とアレイアとを交互に見て、最後に天井を仰いで顎に手を置いた。
「ううん、何でもない」
首を振りはしたが、嘘であるのは明確だった。
「ただ、何でアレイアがこんなやたら熱心に読んでるのかなー、って思ったもんだから」
それもまた、どこか白けた疑問だった。やっと絞り出したような、そんな問いだ。
「俺は時事問題に詳しくなっちゃいけないのか……」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど。これ、村長さんか誰かに貰ったんじゃない?
村の人でこんなもの持っている人見ないもの。特別に貰って来たんじゃないか、って思ったから」
「……いくら、外れた村、って言っても戦場は山の向こうで起こってるんだ。知らんふり出来るわけないだろう」
アレイアは少しだけ苛立って、カフェオレを飲み干した。そのまま剣を取って立ち上がる。
フィーナはわずかに眉を潜めて、同じように立ち上がった。アレイアはこっそりと舌打ちをする。彼女のやや浮かない顔が、自分が八つ当たりをしてしまったのだと如実に語る。
――とんだ馬鹿野郎か、俺は。
胸中で叱咤しながら玄関に向かう。ドアを開いたところで、ちょうどそのドアをノックしようとしていた女性と鉢合わせた。
「やぁ、ブロードの旦那! まぁだ出勤前だったのかい」
肝っ玉のいい八百屋の女将のハンナだった。手に大きなバスケットを提げている。
朝からテンションの高い人に会ってしまった。ついてない。
「あれ? ハンナさん?」
「ああ、フィーナちゃん。おはようさん!」
遅れて玄関にやってきたフィーナに、ハンナはぱたぱたと手を振った。
「どうしたんですか、朝から」
「いやね、ブロードの旦那。うちの亭主がさぁ、ちょっと馬鹿をやっちまってね。
あんの馬鹿、品物をかなり余計に仕入れやがったんだわ。うちじゃ食べきれないし、かといっていつまでも店頭に並べておいても腐らせるだけさね。それでお裾分けさ」
「うわ……」
ハンナがバスケットの布を取った。中に詰められていたのは、少々小振りだが茄子やじゃがいもといった野菜の数々。隅っこには、季節が過ぎつつある桃の実が三つちょこんと乗っていた。
ハンナはそれを丸ごとフィーナの胸元にずい、と押し付ける。
「い、いいんですか……? こんなにいっぱい……?」
「ああ、腐らせちまうよりいいだろ。素直に貰っときな。ねぇ、旦那」
「……ありがとうございます」
さすがのアレイアもやや困惑しながら礼を述べた。買い物のついでにおまけをつけてくれるのはしょっちゅうだが、些か気前が良すぎはしないだろうか……?
八百屋が潰れないことを祈る。
アレイアは微妙な表情のまま、太陽を見上げた。仕事の時間が迫っていることを悟ると、ハンナに軽く頭を下げて、その場を後にしようと彼女の脇を通り過ぎようとする。
その彼の耳に、
「なあ、旦那。もうフィーナちゃんとはそれなりの仲になったんかい」
……思わず転びそうになった。
「な、何を……ッ!?」
ぼそり、と女将が言った一言はフィーナには聞こえていなかったらしい。彼女はバスケットを持ったまま、いきなりバランスを崩しかけたアレイアに疑問符を浮かべている。
ハンナは呆れたような顔で、どんっ、とアレイアの背中を思い切り叩いた。
「情けない男だねぇ、旦那も。こっちは、式はいつかと楽しみにしてんだよ」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「???」
まったく話の内容を理解していないらしいフィーナをちらり、と見てアレイアは軽く首を振った。
「とにかく、そういうことを言うのはやめてくださいよ。女将さん」
「はっはっは、悪いねぇ。歳を取ると娯楽が少なくなるんだよ」
やや険悪な眼差しで言っても、軽く受け流されてしまう。年の功というのは、こうも固いものなのか。
溜め息を吐いて、アレイアは早々に諦めた。
「じゃあ、俺は行くけど。フィーナ、女将さんにお礼をしておいてくれ」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「いってらっしゃいな、旦那」
ハンナの笑顔に、何とも言えない一抹の不安を抱きながらも、アレイアは手を振ってその場を後にした。
「……で、あの、これ……」
未だ申し訳なさそうにバスケットを抱えたフィーナを見て、ハンナはからからと笑う。
「あんたも律儀な娘だねぇ。こういうときは笑顔で貰っとくのが、家庭を守るいい女だよ」
「え、えーと……は、はい……。とりあえず、ありがとうございます……」
言われている意味は若干よく分からなかったが、とりあえず頭を下げて素直に受け取っておく。いつものことながら、この女将には敵いやしないのだ。
ハンナは腰に手を当てて、微笑ましい表情で砂山を作って遊んでいるケナを見て、目を細めた。
「いい子だね。お父さんにもよく懐いてるし、元気な子だよ」
「そうですね」
ハンナがどうしてそんなことを切り出したのか。ふと、疑問に思ったが、フィーナは素直に頷く。
ケナは文句なしにいい娘だと思う。ややませたところはあるが、家事もよく手伝うし、何より明るく元気な娘だ。母親がいないというのに。
「……」
「気づいてるかい?」
「え?」
「あの子とブロードの旦那について、さ」
「……えっと」
「奥さん。いないんだよ」
何となくは気がついていたことだった。けれど、口に出すのは憚れた。
疑問に思ったことは何度もある。けれどそれは、ただ行き倒れになっていたところを助けられ、なりゆきで居候しているだけの他人が踏み込んで良いような領域だとは、フィーナには思えなかった。
フィーナが困ったような表情を浮かべるのを見て、ハンナは少しだけ眉根を寄せた。
「ごめんごめん。困らせる話だったね。でもさ、どうせ話してないだろ、あの旦那」
「ええ、何も」
「まあね。あんたの事情も、あん人の事情も、ろくに知らないあたしが言っていいものかは知らないけどさ。
あそこの家、奥さん見たことないだろう?」
「そ、そうですけど……」
曖昧に返事をした。
フィーナが意図して避けてきた疑問。意識して言葉にしなかった不和。
あくまで自分は他人に過ぎない、とフィーナは意図してブロード家との境界線を引き、守ってきた。その境界線の象徴たるものが、その疑問だった。
だから、フィーナはそれに関わる質問や問いはけしてしようとしなかった。しないできた。
「いなくなったんだ。何年か前にね」
「……いなく、なった?」
聞いてはいけない気がした。その話は、この例え束の間であろうと、居心地のいいブロード家でのフィーナの暮らしを脅かしてしまうものだと悟っていた。
それなのに、聞き返してしまったのは、無責任な、ただの残酷な好奇心の業なのだろうか。
ハンナはフィーナの言葉に深く頷いた。
「ある日、ぷっつりと、ね。この村は戦地から離れていて平和さ。ただ平和ゆえに退屈なんさね。
そのせいで出て行ったのかもしれないし、他に好きな男が出来たのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
ともかくね、ケナちゃんの母親はある日、途端に見なくなっちまった。
ブロードの旦那は口を濁すだけだったね。そりゃあ、そうさ。女房がいなくなった、なんて旦那にとっては恥だからね。
恥だけじゃあない。ショックだったんだろうね。しばらく、ブロードの旦那も茫然とした感じだったさ」
「……」
「村に来たときは二人共若かったさ。どこを旅して来たかは知らないが、擦り切れた服と靴。あとは身一つで、こーんなちっちゃな赤ん坊のケナちゃんを抱えてね。村長のところに『この村に住みたい』、と言ってきた。
……この村にはね、実は戦地から逃げてきたような人間もいっぱいいるんだよ。
戦争に疲れちまってね。戦地から外れたこの村に流れてくるヤツも多かったから、村長は何も言わないで二人に村で暮らしていい、って言った」
「……」
「それが六年前さ。奥さんがいなくなったのは、それから一年もしないうちだった」
やや痛ましい表情でハンナは語る。だが、その傍らで話を聞かされていたフィーナの方が余程、困惑した表情をしていた。
解せない。何故、彼女が今、こんなことを語り出したのか。フィーナには、見当さえつかなかった。
ハンナは視線をケナから外し、フィーナを見た。小さく溜め息を吐く。
「悪いね。こんな話、聞きたくなかったろ」
「ん、えっと……」
「あたしゃお節介な性格でさ。でも、放って置けなくてね。
奥さんがいきなりいなくなって、しかもケナちゃんは赤ちゃんだった。放って置けなくてね。うちは子宝に恵まれなかったし、あたしもうちの亭主も、いろいろと面倒見てやってきたんだ。
ケナちゃんは赤ん坊だった。母親のことなんか覚えてないさ。
でも、旦那はまだ未練がある。見てれば分かるさ。あの人、ときどき遠すぎるくらい遠い目をする」
「そう、だったんですか……」
フィーナには曖昧に答えるしか術がなかった。
何だろう、ハンナはそのお節介の延長上でフィーナに何かを伝えようとしているのだ。だが、フィーナにはそれが見えて来ない。
「……フィーナちゃん」
「?」
「ブロードの旦那がどこからあんたを連れてきて、彼とどんな関係なのかは知らないよ」
「……」
「でもさ、旦那もケナちゃんも、少なからずあんたを好いているよ」
「そりゃ、良くはしてもらってますけど……」
「そうじゃないんだよ、フィーナちゃん」
何とか言葉を返そうと、しどろもどろに口を開いたフィーナの声を再びハンナは塞き止める。ハンナは優しく、しかし、何かを含んだ瞳で彼女を見た。
「……フィーナちゃんが着てるのは、いなくなった奥さんのものだね?」
「え?」
「分かるよ。あたしが編んだヤツだからね。
何で、他人のあんたに、旦那が素直に未練のある奥さんの服なんか貸してるか分かるかい?」
「……?」
首を傾げる彼女に、ハンナはぎゅ、と眉を寄せた。言い難いことを、苦々しく口にするような、快活な八百屋の女将にしては苦悶に満ちた表情だ。
ふと、ハンナは空を仰いだ。何かを思い出すように遠くを見て、もう一度、『彼女』を見て、頷いた。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「――!」
「奥さんの名前、知らないだろ? 何の偶然なんかね、奥さんの名前はね、」
「『フィーナ』、って言ったんだ」
「・・・!」
『彼女』の脳裏に、この家で目が覚めたときの光景が掠める。ベッドの上で、自分の名前も思い出せずに頭を抱えていた『彼女』に、彼は、アレイアがぽつりと呟いた名前がそれだった。
それから、『彼女』はその呼び名で呼ばれるようになったのだ。
何故、素性の知れない、それも武器など下げた奇妙な女を、彼が家に迎え入れたのか。
未だに居候として留めていてくれるのか。
その疑問が、氷解していく。
『彼女』ははっ、としてハンナを見た。彼女は元のように笑いながら、しかし、どこか真剣な雰囲気を残したまま、
「フィーナちゃん、あんたがどこの誰で、旦那とどんな縁があったかは知らないよ。
いくら世話を買って出てた、って言っても、部外者は部外者。あたしゃ、ただの八百屋のおばさんさ。
だから、お節介なのは分かるんだよ。あんたが何者なのか、これからどうするつもりかは知らないけどさ……。
ブロードの旦那も正直、あんたを見て戸惑ってるようだし。ケナちゃんだって、あのときほど幼くない。
出来れば、傷つけないでやって欲しいんだよ」
「……」
『彼女』はそのまま沈黙する。唇を噛んで、俯いた。
答えられない問いだった。誓えない頼みだった。
ハンナは気づいているのだ。『彼女』が何者か、どこから来たのか、そんなことは知りもしないだろうが、『彼女』が、いつかここを出て行くことになるだろうことは気づいている。
そして、その『フィーナ』に似ているという『彼女』が出て行くことで、ずっと面倒を見てきたアレイアやケナが古い傷を思い出してしまうのを慮っているのだった。
けれど、『彼女』はそんな約束など出来るはずもない。
自分のことでさえ、何もわからない『彼女』が、約束出来るはずもない頼みだった。
だから、何も答えずに唇を噛むしか出来なかった。
気まずい沈黙が流れ、そして、
「あーッ、おかみさんッ!!」
重い沈黙を破ったのは、ケナの甲高い呼び声だった。我に返って視線を上げると、すぐ目の前にケナが駆け寄って来ていて、ぱっとフィーナの腕にぶら下がった。
「フィーナちゃん、元気ない?」
「へ?」
「ハンナさん、フィーナちゃんをいじめちゃだめー! フィーナちゃんはケナのなの!!」
ぷぅ、と剥れて言ったケナの台詞に、ハンナはしばしきょとんと目を丸くした後、小さく吹き出した。そのまま肩を震えさせながら笑い、しゃがんでケナの頭を撫でる。
「人聞きが悪いねぇ。誰もフィーナちゃんをいじめてなんかないさ」
「むー、本当?」
問われたのは『彼女』だった。
まだ剥れたままの彼女に、フィーナは、沈んだ気持ちを振り払うように笑いかけた。
「本当だってば。あたしがちょっとやそっとでいじめられるとでも思ってた?」
「ううん。だってフィーナちゃん、お父さんより強いもんね! 鬼さんより強い!」
「ちょっと、それどういう意味!?」
「あははははッ!」
拳骨を握って怒鳴ったフィーナに、ケナは楽しげな笑い声を上げて逃げるようにぐるぐると彼女の周りを回った。
その光景に、ハンナはどこか力が入ってしまっていた表情を緩ませる。静かな溜め息を吐くと、彼女はケナの襟首を捕まえて凄んでいたフィーナの肩を優しく叩いた。
「ごめんね。あたしが言うようなことじゃなかったね」
「いいえ……」
「迷惑なのは分かってるけどさ、最近、旦那も何だか元気なくしてるみたいだったからね……。
どうにも気になっちまってね。あんたには何にも関係のない話なんだろうけど……。
あんまり気にしないでくれていいよ。でも、どっかには留めて置いて欲しかったんだ」
「……」
フィーナは答える代わりに、軽いお辞儀で返した。誠実とは言えない返事だったが、ハンナはそれで納得してくれたらしい。
一瞬後には、ぱっと顔を上げて微笑んで、『また店で待ってるからね』と残して背を向けた。
ハンナの背中が豆粒ほどに小さくなった頃、くいくい、とスカートの裾を引っ張られる。
「……ん?」
「フィーナちゃん、ハンナさんと何話してたの?」
「んー、まあ、ちょっと……。大したことじゃないよ」
「……お母さんのこと?」
受け流そうとしたフィーナだったが、ケナの一言にひくりと反応してしまう。慌てて取り繕おうとしたが、視線を下げた先の幼いケナの顔は、真面目に引き締められていた。
「……ケナ、お母さんのことあんまり覚えてないの」
「……うん」
「お父さんは、お母さんはどこか遠いところに旅行に行ってるって言ってたけど、嘘だと思う。良く知らないけど。
だったら、フィーナちゃんをお母さんの名前で呼んだりしないよ……」
「……」
少しだけ俯いて、小さく呟くように彼女は言った。
幼い子供とは思えないほど、顔をしかめて、静かな声で。
「……ケナね」
「ん?」
「お母さんのことあんまり覚えてないけど、フィーナちゃんのこと好きだよ」
「……ありがと」
「たぶん、お父さんも、フィーナちゃんのこと好きなんだよ」
「……けど、それは」
「うん。フィーナちゃん、お母さんに似てるって言ってた。そのせいかもしれない。
でも、きっとフィーナちゃんがいなくなっちゃったら、寂しがると思うな」
ケナは俯いたまま、唐突にフィーナのスカートに顔を埋めた。
「ケナも、ケナもね……」
「……」
「フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
「……うん」
曖昧に頷いて、フィーナはどうしていいかわからずに、ケナの小さな肩を抱き締めた。
嘘でも、『いなくならないよ』と言ってあげるべきなのかもしれない。けれど、そんな優しい嘘を吐けてしまうほど、『彼女』は大人ではなかった。
それに――
――この間の……
村長の家に行って、石段から落ちたあの日。
背後には誰もいなかった。けれど、確かにフィーナは誰かに背中を押されたのだ。それだけではない。お菓子屋さんで感じた、あの射るような殺気。石段から転落して、アレイアに助けられたあの後、じっとこちらを見ていたあの異質な雰囲気の漂う女は、一体何者なのだろうか……。
最近、不可思議なことが起こっている。何ともないこと、他愛もないことと、意図して考えないようにしていた。
そうしなければ、仮初とはいえ『彼女』に今の唯一の居場所であるここが、一瞬のうちに失くなってしまうような気がした。
でも、その一方で。
誰も飲めないはずのコーヒー、助けられた一瞬の紡ぐはずのない誰かの名前。
アレイアが、『彼女』を通していなくなった女性を思い出しているように。
『彼女』も、もしかしたら、彼を通して何か思い出しつつあるのではないだろうか――
だとしたら。
―― ……あたしは、どうしたらいいの……?
力なく首を振る。
「ケナちゃん」
「……なぁに?」
「買い物、行こっか」
「……」
ケナは一段と強く抱き着いたあと、ぱっと顔を上げた。そこには、いつもの元気な笑みが浮かんでいた。
「うん! 行こう、フィーナちゃん」
「……じゃあ、バスケット置いて来るから待っててね」
「うん!」
不思議だ。何だかこんなに小さなケナの方が強くて、大人に見えてしまう。
フィーナは精一杯の笑みを彼女に返すと立ち上がった。バスケットを持って立ち上がり、玄関に入る。
ちらり、と外を見ると、玄関の柱に背をつけながら鼻歌を歌っているケナが見えた。
フィーナはバスケットを持ってキッチンに入っていく。ひんやりとした床にバスケットを置いて、唐突に思い出す。
腰を折って、フィーナは食器棚の裏側を覗き込んだ。ぺらり、と紙のようなものが張り付いている。
先日見つけて、すっかり忘れていた。忘れたままだった方が良かったのかもしれない。
「……」
『彼女』は手を伸ばして、その紙を少しだけ引っ張った。ぺり、と僅かな音を立てて、難なく剥がれる。
ただの白い面を裏返してみる。
意図的に飾ってあったものを裏返していたのか。それとも、もともとは飾られていたものが、隙間風の影響で中途半端に剥がれて裏になっていたのか。
それは一枚の写真だった。
映っているのは他でもない、アレイアと、もう一人。
長い金色の髪をふわりを靡かせて、ケナと同じ葡萄色の瞳を細ませた――
小さな赤ん坊を抱いた女性が、柔らかく微笑んでいた。
「……」
『彼女』は無言で首を振る。
そして、それを隠すように食器棚の奥へと裏返しにそっと置いた。
風に血の匂いが混じっている。ラーシャは知らず知らずのうちに深めてしまっていた眉間の皺を、無理矢理に引き伸ばした。
白の軍服の裾が風に攫われる。目の前に広がるのは広い草原で、その一角に草色のテントが群がっているのが見える。
八咫鴉の旗を掲げた大きな兵軍だった。
東の空を見る。暗い夜空に、東の山端にだけ光が漏れている。朝が近い。
「コンチェルト少佐の策は成るでしょうか?」
「……分からん」
明朝になったことを悟って、硬い声でデルタが問いた。ラーシャは正直に答える。
平原での決戦がなされる日だった。あと一時間もしないうちに、あの平原の陣には火が放たれる。風向きは北から南。乾いた冷たい風が、火の周りを早くする。それを素直に喜べない罪悪感と戦いながら、ラーシャは薄暗い朝の中で、ただ静かに八咫鴉を睨んでいた。
相手は大軍を率いている。成功する可能性は五分。失敗する可能性も五分。
北都ゼルフィリッシュからは援軍を呼んでいる。どれほどの規模になるかは、シェイリーンの交渉次第だろうが、届く書面を見た限りではあまり期待は出来そうもない。
さらに悪いことに、第三関所が落とされたという凶報もラーシャの元に届いていた。関所にいた魔道師と兵士の無事は伝えられたが、共にいた客将二人は未だに行方不明だ。
「……今、エイロネイアがあちらに軍を割くとは思わなかった。私の失策だな……」
「予測出来ないことでした。
コンチェルト少佐が第三関所の状況の確認と、お二方の捜索を急いでいます。先に失踪されたお三方の行方も含めて」
「ああ、わかっている」
答えながら彼女は唇を噛み締めていた。
こんな情けないことがあるか。大陸からの客将の身柄は保障するだのとほざいたのは、どこの誰だったのだ。
シリアもアルティオも、望んでバラック・ソルディーアに滞在していた。
だから、これは彼らの選択であったのかもしれない。けれど、彼らをこの地へと招き、そもそもの原因を作ったのは間違いなく彼女だった。
自責の念に苛まれながら、ラーシャは将として虚勢に胸を張るしかないのだ。それはひどく空っぽで虚しい行為だった。
――今の私を見て……姉上とあの子はどう思うのだろうな……。
ラーシャは次第に強くなる東の光を目に留めながら、自嘲気味に笑った。軽く首を振る。
冷たい剣の柄を握り締め、ラーシャは今一度、ジルラニアの夜明を瞼に焼き付ける。ラーシャはこの暁にならなくてはならない。このゼルゼイルの暗い夜に、光と風を送る人間にならなくてはならないのだ。
それが最初で最後の約束なのだから。
「エイロネイアの皇太子は、どう出るでしょうか」
「……わからん。だが、精一杯で迎え撃つしかない。これ以上、ゼルゼイルの大地をあの悪魔に好き勝手にさせるわけにはいかない」
"戦場の悪魔"、"漆黒の死神"。
兵士たちからそう揶揄されるかの人物は、あの平原で今もこちらを嘲笑っているのだろうか。それとも、別の場所から高みの見物を気取っているのだろうか。
――エイロネイア皇太子……このままでは、済まさぬ……!
白んだ太陽が、半分だけ顔を出した。
時間だ。
ラーシャは平原から視線を外し、自らが敷いた軍を振り返った。やがて平原に火が放たれる。出陣の時間が、迫っているのだ。
デルタはまだ平原を睨んでいた。あそこから火の手が上がるかどうか、すべてはそれにかかっている。成功か、失敗か。それを判断するのはこの高見櫓の兵士と、己の眼だけだった。
静寂が、その場を支配する。
ごくり、と固唾を飲み込むと同時に、やたら冷えた汗がデルタの頬を伝っていった。
たった数分が、とんでもなく長い時間に感じられた。
カーン、カーン、カーンッ!!!
「ッ!」
突然だった。
甲高い鐘の音が、二人の、そしてシンシアの兵士たちの耳を貫いた。はっとしたラーシャとデルタが、丘の上から平原を見下ろした。
草色のテントが敷かれた陣の向こうが明るい。明るすぎる。そして、赤い。
兵士たちから『わあああぁぁぁ!!』と歓声が上がった。ラーシャとデルタは互いに視線を合わせて頷く。
十字を切る暇もない。軍の先頭に立っていたレスターを振り返ると、彼は馬上で剣を抜いた。
「成功だ! これより出陣する! これは防衛線だ! 出過ぎるな、炎に巻かれるぞ!!」
「分かってますよ、姐さん!」
血気も盛んにレスターが答えてきた。ラーシャは自らも馬に跨ると剣を抜く。
銀の刃の切っ先を、燃え盛る陣の向こうに向ける。すっ、と息を吸い込むと赤すぎる暁を睨みながら、声を張り上げた。
「全軍、前へ!」
響く歓声とともに、蹄の音が幾重にも重なって大地を揺らした。
←11-02へ
万事休す。
そんな単語が頭を掠めた。だが、すぐに振り払う。
「シリア、大丈夫か?」
「大丈夫に決まっているじゃない。私を誰だと思っているのかしら?」
アルティオは、実はうちのメンバー内で一番強がりなのは彼女なのではないかと思い始めていた。額に玉のように汗を掻き、唇を噛んでいる姿では、まるで言葉に説得力がない。
彼女は二、三度深呼吸して、改めて窓の外を見た。
翻る八咫鴉。それを意味するものは一つしかない。エイロネイア軍だ。
「……どれくらいの規模か分かる?」
「……」
兵士が押し黙った。分からない、というよりはそれを口にするのが憚られる、といった表情だ。
シリアがもう一押しすると、一人の兵士が口を開いた。
「それが……砦が、エイロネイア側から包囲されているようで……」
「何ですって!?」
シリアは思わず甲高い声を荒げた。アルティオが舌を打つ。
シリアがぶんぶんと首を振る。高めに結ったポニーテールが揺れた。
気持ちは分かる。この砦はけして戦地のただ中にあったわけではない。だからこそ、シェイリーンはこの地に逃れて来ていたのだ。
かといってそう遠いわけでもなかったが、それにしたって砦一つを囲めるほどの兵を差し向けてくるなんて考えられなかった。
策だの何だのに疎いアルティオだって分かる。
砦から馬で三日駆けた場所――ジルラニア平原では、次なる大戦が勃発しようとしている。そんなときに、こんな砦に兵を差し向けて来るなんてありえない。
いや、もしやもう魔道研究のことが明るみに出たのだろうか。それで、元を断つために大軍を……?
いやいや、それでこんなに兵を割くなんて、そんな馬鹿なこと。それとも、また何かの策なのか。
シリアは深呼吸を繰り返す。深呼吸は彼女が落ち着きを取り戻すためにやる癖のようなものだ。
アルティオは腹に力を入れる。雰囲気と、窓からの情景に潰されてしまわないように、わざと口元に笑みを浮かべた。ぽん、と彼女の背中を叩く。
「まあ、慌てなさんなって。こんなときのために準備はしてきたじゃねぇか」
「……そうね」
それでも神妙な顔を崩さずに、シリアは爪を噛む。
そう、準備。カノンたちの捜索の合間にこちらを手伝ってくれていた、本職の軍人であるティルスが、ジルラニアの大戦に出向かなければいけなくなってから、シリアはずっと考えていたのだ。
内部にエイロネイアの諜報員がいるのなら、いつかはここが割られる。
いつまでも、この砦を研究の中枢に据えて置くわけにはいかない。だから、準備をして置いた。勿論、戦う準備じゃない。逃げる準備だ。
こんな場所で、本職の軍人もいない状況で真っ向から戦うなんて、無謀もいいところなのだから。
シリアはもう一度だけ深呼吸をする。切れ長の目で、アルティオの顔を見上げて来る。足が竦んでくるのを堪えて頷いた。
「……地下の魔道師たちに伝えて。予定通り行くわよ」
「エリシア様。やっぱり私、解せないんですけど……」
「何が?」
ぼそり、と呟いたリーゼリアにエリシアは鼻歌混じりに聞き返す。まだここからは見えないが、もう少し丘を下れば、敵の居城であるちっぽけな砦が見えてくるはずだ。
馬上で不服そうな顔をしたリーゼリアが、憮然としたまま言葉を続ける。
「何で、この大戦が起こってる、ってときに七征が二人もあんな小規模な砦に回されるんです?」
――どっちかっていうと、貴方は殿下と別行動っていうのが気に喰わないように見えるけどねぇ。
青い少女相手に喧嘩を売っても仕方がない。同じ青い人間でも、あの白子の専属魔道師だけは、どうにも気に入らないけれど。
エリシアはくすり、と笑いを漏らしてから手綱を握り直す。
「そうねぇ……今の状況では、逆に大部隊ってのは邪魔だからかな」
「邪魔、ですか?」
自分が邪魔者扱いされたように聞こえたのか、リーゼリアの表情がさらに険しくなる。
「まあ、そんな顔をするものじゃないわ。殿下は勿論、本戦から離れられないし、アリッシュは殿下の片腕同然だしねぇ。
あの小生意気な魔道技師は自分に利益のあること以外には腰を上げないし、 大陸から帰ってからただでさえ不安定だった精神面がさらに脆くなってるようだし?
かといって、お子様にいくら規模が小さくても戦一つ任せるわけにいかないじゃない?
ましてや――・・・あの人にやらせるわけにもいかない。
殿下にとってみれば至極、当然な采配だと思うけど?」
「それは……そうですけど」
リーゼリアは小さな溜め息を一つ、吐いた。
「それに向こうはエイロネイアに対抗して、魔道研究なんてものに着手して、切り札を手に入れようとしてるんでしょ。
知ってる? 切り札、っていうのは同時にアキレス腱なの。
切り札を落せば相手の戦意を削げる。切り札になり切っていない時期を叩けば、叩きやすい。今の頃合が一番ダメージになる、ってわけ」
「まあ……そうですね」
至極、ポジティブな解説をしてやったのに、彼女はまだ浮かない顔で手綱を引く。エリシアは可愛いものだ、と思う。そしてエゴの強い女だとも。くくく、と漏れた笑みは微笑みか、嘲りか。
「そんなに悲観しなさんな。ここを落したらご褒美に殿下からいろいろ貰えばいいじゃない。夜の時間とか」
「馬鹿なこと言わないでください」
ぷい、とリーゼリアは顔を逸らす。その鼻の頭が赤い。エリシアはまた小さく笑って手綱を引いた。そして、ふとその音に気づく。
進軍する兵軍の正面から、鎧を着た兵士が馬で駆けてくる。遠目だったが、エリシアはその兵が先行させていた兵の一人であることに気がついた。
馬を止める。
「……どうしたんでしょうね」
「さぁ?」
出迎えなど不要のはずだった。そもそも、エリシアとリーゼリアが現地に着くより先に制圧させようか、とも考えていたのだ。
いくら魔道師たちの拠点といっても、所詮は筋力もない輩だ。魔力が尽きれば、それで終わる、はずだった。
だが、馬を駆けてきた兵士の蒼白な顔色にただならぬものを感じて、エリシアは眉間に皺を寄せる。
「ご、ご報告します……」
「何があったの?」
兵士は焦りで舌が回っていなかった。ままならない言葉に、多少の苛立ちを感じながらも、エリシアは問いかける。
「と、砦が」
「砦が?」
「砦が、我々の前で、突然……」
兵士は一度固唾を飲み込む。そして一気に言った。
「砦が……突然消えました……!」
「これは……何ていうか、すげぇな……」
淡い光に全身を照らされながら、アルティオが呻くように言う。
砦の一階の広間。およそ五十人は収納できるだろう、石部屋の中に巨大な方陣が描かれていた。その方陣が、薄緑色に輝いて、アルティオやその他の兵士の顔を淡く照らしているのだった。
「付け焼刃だったけど……上手くいったかしら?」
窓からちらちらと外を確認しながら、シリアが漏らす。丘陵に陣取っているエイロネイア軍は動きを見せない。
ふぅ、とシリアは溜め息を吐いて肩に力を入れる。
「すげぇな……本当に外からこの砦、見えてねぇのか?」
「ええ。そのはずよ」
アルティオの問いに、汗を拭いながら答える。
「幻術、ってやつなのか? こんな大掛かりなの初めて見たぜ」
「そうね。性格には幻霊術の一種。床の紋はそのための結界。
幻覚を見せる術、っていうのは個人にかけるだけなら呪文だけで十分だけど……。その対象の頭にちょっとした錯覚を起こしてやればいいだけだからね。
でも、集団を騙すには少し骨が折れるのよ。結界を張って、その結界を利用して三百六十度から幻覚を見せなくちゃいけない。
今は十人でその結界を維持してるのよ」
彼女は方陣の回りに立つ、先ほどまで地下にいた魔道師たちを差した。
「――でも、いつまでも騙せるわけじゃないわ……。
所詮は幻。砦は見えていなくても、現存はしているのだ。いつまでも騙されてくれるほど、エイロネイアも馬鹿ではないだろう。
もしかしたら、この瞬間にも指揮官クラスの人間にはバレているかもしれない。何と言っても、相手はあの皇太子本人かその部下なのだ。
方陣の周りの、十人の魔道師たち。その周りで構えているのは見張りをしていた五人の兵士。そしてシリアとアルティオ。
今、砦の中にいるのはこれだけだ。
いつか場所が割られ、襲撃されるのを恐れてから、シリアとティルスは砦の中の人材を減らしていった。
一時期はそれこそ五十人の魔道師が滞在していた第三関所バラック・ソルディーア。シンシア軍の魔道師のうち半分以上がこの小さな砦の中に終結していた。魔道研究の巨大な拠点となっていた代わりに、その場所は間違いなくシンシア軍のアキレス腱だった。
だから、シリアとティルスは、指示を出した後、各地に魔道師を散らしたのだ。いつ、拠点が落ちても作戦そのものは続行できるように。
仮初の拠点であるここが、いつ落とされても良いように。
いざというときに、全員が逃げ切れるよう、人数は極少にしておいた。
――でも、これほどの大軍なんて……
「くッ……」
漏らしそうになった一声を、呻き声で消し飛ばす。
シリアは軍人ではない。本当なら、こんな指揮は階級持ちの軍人の仕事だ。それが、ただの大陸からの客将であるシリアに任されるなど……山の向こうの大戦は、それほどまでに切羽詰っているのか。
彼女は首を振る。
守ると決めたのだ。レンや、カノン、それにルナが帰って来るための場所は、自分とアルティオのいる場所なのだから。
「ッ!」
とんとん、と肩を突付かれて、一瞬びくりと震える。
振り向くと、先ほどと同じ、愛嬌のある顔を張り付けた大男が背後に立っていた。あまりに不器用なウィンクを投げてくる。
「ふん、何のつもりかしら?」
「いやさ、何か柄にもなく緊張してるなー、って」
「乙女に言うセリフじゃなくってよ、アルティオ。慎みなさいな。それから私の柔肌に触れられるのはレンだけよ」
ふん、と鼻を鳴らして肩に置かれた手をぺしり、と払う。
叩かれた手を少し擦って、アルティオは曖昧に苦笑した。
「その方がらしいって」
「……」
虚をつかれたように彼女は腕を組んだまま、切れ長の目を少しだけ見開いた。しかし、次の瞬間にはふん、ともう一度鼻を鳴らして、ヒールをかつかつ言わせながら広間の中央に立つ。
彼女が息を吸い込むのを見て、アルティオも気を引き締めた。
「……じゃあ、手はず通り。アルティオ」
呼びかけられて、アルティオは部屋の一角に駆けていく。石造りの壁に、細い亀裂が入っていた。
しゃき……ッ!
月陽剣を抜き放った金属音が静かに響く。そして、
がらんッ!!
彼が壁の低い位置に件を叩きつけた瞬間、石壁が崩れた。丸く、ちょうど人一人分が通れるほどの通路。
広間に風が吹き込む。冷たく、暗い風が全員の肌をなぞって、鳥肌を立てさせた。
シリアとアルティオは視線を合わせて頷く。
戦術に使う砦には必ず存在する隠し通路だ。穴の開いた向こう側は冷たい土の壁が続く暗い道。誰かが覗き込んで、その深さに息を飲んだ。
シリアが、最後の深呼吸を吐く。
「二人ずつ……兵士の方から、ね。灯りを忘れるんじゃないわよ。
魔道師は彼らが行ったら、一人ずつ抜けていくこと。
ラーシャが言うには、通路は北の洞穴に繋がっていて、第一関所近くの森に出るらしいわ。一番手は第一関所に着いたら、北都のシェイリーンと前線のラーシャに連絡。全員の生存が確認できたらもう一回伝令。
いいわね?」
「あの……」
兵士の一人が淡く光る方陣を眺めながら、伺うように小声で切り出す。
「いつまでエイロネイアを足止めできるのでしょうか?」
「わからないわ。でもまだ距離もあるし、砦は見えていない。突撃命令はまだ出ないでしょう。
相手の偵察部隊が来て、見破って、帰って報告する。最低でもこの時間は稼げるはず。
その間に……」
「この方陣は……魔道師がいなくなったら消えてしまうんでしょう?
だとしたら、最初の魔道師一人が抜けた瞬間に、突撃されるのでは……」
「……」
兵士たちがわずかにざわついて、顔を見合わせる。だが、シリアはいとも平然と方陣が放つ光の真ん中にいた。
「……その心配はないわ」
「え?」
兵士が怪訝な表情を浮かべる。シリアはもう一度、アルティオと視線を合わせる。
彼は珍しく神妙な面持ちで固唾を呑んだ。しかし、その一瞬後にはにやり、と笑う。シリアは一瞬目を閉じて、何かの決意を込めた視線を返した。
広間の窓の向こうで、八咫鴉の紋が翻る。シリアはその鴉を今一度、睨み返した。
「ふーん……なるほどね」
困惑した兵士たちの合間に立って、エリシアはそう漏らす。浮き足立っている一般兵を見下しながら、彼は笑みさえ浮かべていた。
隣で渋い顔をしているリーゼリアは堪り兼ねて、彼の軍服を突付いた。
「エリシア様ぁ。何なんですか、あれ?」
「たまには自分で頭使いなさいな、お尻の青い小娘ちゃん」
「青くなんてないです! ……たぶん、ですけど。元々あった砦には魔道師が集まっていたんでしょう?」
「そうね。魔道研究の拠点、というくらいだもの。普通は魔道師を複数集めてるでしょうね。警備も厳重にしてるはず」
リーゼリアは頬に手を当てる。僅かに唸って、改めて、風が吹くだけの空の草原と低い丘とを見下ろした。
「関所はついさっきまで兵士たちの目の前にあった。なのに、一瞬で消えた。
まさか、関所そのものが空間転移したなんてこと……」
「ないわね。確かにシンシアが魔道研究に着手したとは言っても、まさか半月でそんな収穫があるわけはないでしょう」
「ですよねぇ。とすると……」
はた、とリーゼリアが動きを止める。
「やっぱり幻覚、ですか?」
「そうね。一瞬、第三関所をぶっ壊して、今の今まで関所があるように見せかけていたのかとも思ったけど。
でも、少なくとも半月前までは現存してた。来るか来ないか解らない襲撃のために、貴重な砦を壊すなんてナンセンスだし、壊したとしても、瓦礫なり土なりもっと痕が残っていていいはずでしょう」
「っていうことは……」
「そうね。その逆。
中の魔道師勢で砦はないように見せている。もっとも、視覚はともかく触覚にまで影響するような術なんて人間にはちょっとやそっとでは出来っこないだろうし。
送った偵察部隊が帰って来ればはっきりするでしょうよ」
「でも、エリシア様」
納得しきれない表情で、リーゼリアが眉を潜める。
「連中、そんなことしてどうしようって言うんですか? いつまでも通用するはずないし、無駄に戦力になる魔道師の魔力をがりがりに削るだけじゃないですか」
「そうねぇ……」
エリシアは笑みを絶やさない。考えに煮詰まったリーゼリアは、そのまま沈黙してエリシアの次の言葉を待った。
しかし、待てども次の言葉は返って来ない。痺れを切らしたリーゼリアは唇を尖らせて、
「エリシア様、何か考え付いたんですか?」
「いいえぇ、別に」
何か含みのある表情で、エリシアはころころ笑う。何か気に喰わなくて、リーゼリアは少しだけ頬を膨らませた。
丘の方に目をやって、ふと気づく。先ほど送り出した偵察隊が、慌しい雰囲気で馬を駆けてくるのが見えた。
どぉんッ!!
『!?』
唐突に砦を襲った横揺れに、広間の中は騒然となった。肩を震わせる魔道師たちに、シリアは『集中しなさい!』と叱咤する。その額には玉のような汗が浮かんでいて、滴るたびに化粧を落してしまっていた。
兵士たちは既に穴の中に消えていて、残るは魔道師たちの半分。そんな頃合に響いた音だった。
広間の扉を気持ち的に押さえていたアルティオが、苦い顔で隙間から廊下を覗く。
「……バレたか?」
「そのようね」
広間内の魔道師たちに僅かな脅えの色が走る。彼らは戦場においては後方支援だ。研究一辺倒な魔道師も混じっている。
無理もない。すぐ背後にまで死肉を食らう鴉が構えていると聞いて、誰が脅えないのだろうか。
だが、その彼らをシリアは再び叱咤した。
「集中なさいな! でないと、ここにいる全員が助からないわよ!」
絞り出すような声だった。彼女自身も、集中を切らさないよう必死なのだ。
もう穴に消えた魔道師五人。先ほどまで十人で支えていた結界を、今はシリアを含めて六人で補っている。負担が小さいわけがない。
「今のは、爆撃っぽいな……」
「そうね……敵の魔道師か、もしくは」
シリアの脳裏に、船で味わったあの恐怖が掠めて通る。得体の知れない、あの無の砲撃。
焼けるのでもなく、凍りつかせるでもなく、ただ無に返す闇の砲撃だった。
シリアはその記憶を口に出そうとして、ぐっと堪える。そんな話をすれば、悪戯に魔道師たちの戦意を沿いでしまうだけだ。とんだ愚行だ。
「急げ! 次!」
はっ、として、方陣の中で俯いていた魔道師の一人が顔を上げる。ゆっくりと後退るように、方陣から出る。
「ッ!」
魔道師が方陣から外れた瞬間、シリアの表情に苦痛が走る。身体が、また一段と重くなるのを感じた。
魔道師は松明の先に灯りを灯そうとする。緊張と焦りが彼の手元を狂わせるのか、かちかちと火花が散るばかりで上手く行かない。
そのときだ。
どどどどどどど……ッ!
『!?』
遠い地響きが、砦の中にいた人間の耳を打った。動けない魔道師たちの代わりに、アルティオが窓に走って舌打ちをする。
低い山の向こうから駆けてくる馬の蹄の音だった。八咫鴉の旗が激しく舞い踊る。
誰かが、『ひっ』と情けない声を出した。動揺が広がった。
「くそ……ッ」
「……」
アルティオの苦々しい荒い声が、石段に叩きつけられる。シリアはぎりぎりと歯を噛み鳴らしていた。
思ったよりも早い。まだ避難は五人も残っている。それに、隠し通路の入り口を残してしまえば、あっさりと居場所は割れるし、何よりその通路を利用される可能性がある。
まだ、やらなくてはならないことが終わっていない。
シリアはしばし瞑目する。
だんだんと近くなる地響きの音に、冷静を失いかけている魔道師たちの浮き足立ったこそこそ話が、彼女の耳に入り込んできた。
しばらくして、彼女は顔を上げる。苦い、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻んで。
「……全員、方陣から外れなさい」
「シリア!?」
「五人、一列で穴に走る! 松明を持つのは先頭としんがりよ! 一度、洞穴に入ったら絶対に振り返らないこと!
第二関所に着いたらラーシャに報告を忘れるんじゃないわよ!」
一気にまくし立てた彼女に、魔道師たちは目を丸くする。
もともと、シリアは最後まで残る予定だった。一人一人、方陣から抜けていき、その一人分の魔力を、他の人間が補っていく。
身体に負担をかける荒い策だ。一人ずつ抜けるだけでも、かなりの苦痛を伴う。それでも、一人ずつ抜けるのなら、まだ身体の馴れとで多少の時間を耐え凌ぐことが出来る。
しかし、一度に五人抜けるということは。五人分の魔力の奔流が、一気に彼女の身体を襲うということだ。
彼女の身体にどれだけの負担がかかるのか、想像に難くない。
「あ、アレンタイル女史……いくらなんでも」
「いいから、男なら早くなさい! 決断は早く! このままじゃあ、砦ごと潰されるわよ!?」
シリアの叱咤に、魔道師たちの肩が嘶く。アルティオは歯を噛み締めながら、もたついている魔道師の手から松明を引ったくり、代わりに火を灯した。
「おら、さっさとしろ! 死にたくない奴から前に出ろいッ!!」
魔道師たちは顔を見合わせて、そして、おずおずと……
中央に立つ彼女の顔を伺いながら、
方陣の外に出た。
馬を駆っていたエリシアの目が笑う。すい、と細めた青碧の瞳は、嘲るようにその形を捉えた。
彼の目にでさえ、ぼんやりとしか映っていなかった砦の輪郭が、ぐにゃりと曲がった空間と共に確固たる形を取り戻す。
未だに視覚に映らないことへ不安を抱いていたらしい兵士たちの、ぉぉぉ!という歓喜の声が上がる。エリシアは口元の笑みを絶やさないまま、本当に、馬鹿な人間ばかりだと笑う。
「何考えてるんですか? 笑ってばっかりで気持ち悪い」
同じように馬を駆るリーゼリアが問いてくる。耳元で唸る風のせいで、途切れ途切れではあったが、エリシアはふん、小さく笑い、
「馬の上でお喋りしてると舌噛むわよ」
とだけ返しておいた。
一階の廊下の向こうから、どん! どん! と耳障りな音が響いて来る。丸太か何かで、錠のかけた扉を貫こうとしているのだろうか、まったく紳士じゃない。
けっ、とアルティオは吐き捨てて、魔力を使い果たしてしまって気絶したシリアを支え直した。
視線を上げれば、ぽっかりと大きく開いた暗い洞穴がある。最後の一人が穴の中に消えて、しばらくもしない間に方陣は光を失って、シリアはその真ん中で崩れ落ちた。
もう少し、彼がぼんやりしていたら、床に激突していたかもしれない。普段、人一倍、身体に傷を作ることを嫌う彼女なのに。
「ったくよぉ……。お前といい、カノンといい、ルナといい……あの娘といい。
……女ってのは、自分の体の限度、ってやつを知らねぇのかよ」
悪態をついて、一度、シリアの細い身体を横たえて、彼は立ち上がった。
どん! どん!という音に混じって、めきり、めきッ、というこれまた不快な音が聞こえてくる。さて、後どれくらいあの頑丈なはずの鉄扉は耐えてくれるだろうか。
立ち上がったアルティオは、身体を馴らすように、こきこきと首を鳴らす。ふーっ、と大きな、これからちょっとした体操でもするのかというような息を吐く。
「さて……」
視線の先に暗い洞穴を捉えて、彼はにんまりと笑った。
どがぁんッ!!
轟音を立てて、鉄の扉が乱暴に左右に開かれた。響いた轟音に脅えるようにして耳を塞いでいたリーゼリアが、きゃん、と子犬のような声を漏らす。
割れてしまったかんぬきが、石床に叩きつけられるのを見て、エリシアは嘲笑うような笑みを浮かべた。
「扉が鉄でもねぇ……かんぬきさえ壊れれば脆いもんね」
ぼそり、とエリシアが呟いた。その呟きが終わるよりも早く、兵士たちは砦の内部に踏み入る。
そして、最初の一歩で訝しく思う。
「……エリシア様、ここ……本当に、連中の拠点、なんですよねぇ……?」
さぞや盛大な歓迎があると思っていたリーゼリアは、眉を潜めた。
エリシアは依然として笑みを讃えたままで、人気の感じない一階を見渡す。目を細めて、部屋内を探索するように兵士に言いつける。
すぐ後ろにいた兵士に、砦の周囲を固めるように指示を飛ばした。
がしゃがしゃと鎧を鳴らして砦の内部に入っていく兵士たちを見送って、構えていたリーゼリアは拍子抜けしたように肩を下ろした。
「エリシア様。どういうことなんですかぁ?」
「まあ……まんまと嵌められた、ってことね」
「はぁ!? 嵌められたぁ?」
極、冷静に、それどころか、ますます笑みを強めながら、エリシアは砦の廊下を悠々と歩いていく。リーゼリアは慌てて後を追った。
「嵌められた、ってどういうことですかぁ!?」
「大声をだしなさんな、小娘。
今の今まで幻覚の術が行われていた、ということは、今の今まで私たちをここに近寄らせたくなかった、っていうことでしょう?
そんな時間稼ぎをしなきゃいけない理由なんて、そうそう幾つも考えられるわけじゃ……」
「え、エリシア様!」
切羽詰った兵士の声が、エリシアを呼んだ。奥の広間から一人の兵士が槍を振っている。
一瞬、顔を見合わせたエリシアとリーゼリアは、ほど同時に駆け出した。先に広間に辿り着いたエリシアは皆まで聞かず、部屋の中に入る。
それはすぐに目に入った。
部屋の片隅に兵士が群がっている。エリシアが近づくと、兵士たちは自然に割れた。
「……」
「うわ……」
その場所には、何十人と収納できる広間に飾られていた石像や、飾りだけの折られた柱、小さめのタンスや椅子などが、道を塞ぐように積み上げられていた。ちょっとやそっとでは、動かせそうにない。
ふと、倒れた石像を見ると、すっぱりと剣で斬られた痕がある。
他の柱にも像にも、同じような切り口があり、短時間に乱暴に重ねられたことを物語るように、皆ひびが入ってしまっていた。
「……」
ちょうど人一人分の背丈まで積み上げられた乱雑な塔の隙間に、エリシアは顔を近づける。
石壁が向こうに見えるはずのその先には、何もなく、ただ暗いぽっかりとした空間が空いているだった。
「……これはまた杜撰な隠蔽工作ね」
エリシアは呆れる。こんな見え見えのバリケードは意味がない。逃げた経路を見つけてくださいと言っているようなものだ。
「連中逃げたんですか?」
「でしょうね。拠点といっても、わざと人は極少にしてあったんじゃない? いずれ狙われることを予測してたんでしょう。
いつでも砦を捨てられるように、いつでも全員で逃げられるようにして置いたのよ」
「じゃあ、私たち、嵌められたってことなんですか!?」
最初から言っているでしょうに、とエリシアは息を吐く。
けれど、疑念に思ったことがあった。
この乱暴な工作。連中は果たして逃げた後に、この穴の内側からやったのか。 いや、そんな穴の内側から外側に、穴の上までいく高さまでものを積み上げられることは可能なんだろうか。
――否。たとえ、穴の中に積み上げるものを用意していたとしても、こんなけして大きいとは言えない穴、外側に積み上げるまでに、確実にどこかで支えてしまうはず。
第一、 側からやるなら内側に積み上げる。
となると、これはまさか――
「!」
エリシアが、ようやくその答えに辿り着く。壊れた柱の撤去作業を行おうとしていた兵士たちを振り返り、口を開いて、
ごぅんッ!!
「!?」
「きゃぁッ!?」
突如、響いた爆音に、リーゼリアが耳を抑えて蹲った。
思ってもみなかったその音に、兵士たちの手から折られた柱が滑り落ちて、さらに大きな音を立てた。
がしゃがしゃと鎧を鳴らす音が、広間の外から聞こえてくる。
「え、エリシア様! 砦の奥で爆発がッ、火の手が上がっています!」
「ええッ!?」
リーゼリアが同様の声を漏らす。エリシアは眉間に皺を寄せて、かつん、と踵を鳴らした。
「やっぱり、そういうこと……」
内側からこんな乱雑な工作は出来ない。ということは、『誰か』が外側からやったのだ。
この工作そのものには、大して意味はなくていい。本当に意味があるのは、この砦のこの場所に軍をひきつけること。
「全員、砦から退避しなさい! 今の爆音は油でも撒いてあるに違いないわ!
それから外の部隊に伝えて! まだ、周辺に『い』るわ! 辺りを十分警戒しなさい!!」
「エリシア様!」
エリシアが言い終えるより前に、もう一人の兵士が駆け込んでくる。兵士の額に浮かんでいる大量の脂汗に、嫌な予感がした。
一寸、息を整えて、彼は叫ぶように言う。
「裏口から……ッ、砦の裏口から、男が逃げました! 爆音で、我々が気を取られている隙に……ッ!」
「このお馬鹿ッ!」
聞くより先に罵声が飛んだ。
「全員、砦から退避! 裏の森には魔道師を配備させていたはずね!? あんたたちもすぐに追いなさい!」
耳元で唸る風と、ぱきぱきと歩を進めるたびに細い小枝が折れる音が、聴覚を邪魔する。
行く手を阻むように茂った小枝が、折られるせめての報復のように、アルティオの頬を、腕を、足を浅く傷つけていった。
抱かかえたシリアの身体に小枝が当たらないように、肩を上下させて抱え直す。
遠くから聞こえるがさがさという音に舌を打つ。思ったよりも、追っ手が動くのが早い。
エイロネイア軍に、脱走した兵士たちが第二関所に逃れたことは知られてはならない。そのためには脱走路を塞がなくてはならない。
当初は脱走路の内側から魔法か火薬で、入り口を崩してしまおうかという案も出た。
しかし、この地の地盤はそう固くない。下手をすれば、洞穴そのものが潰れてしまって、生き埋めになる可能性もある。
だから。
アルティオは自ら囮になったのだ。
全員を逃がした後、連中の足を止めるために脱走路を塞ぎ、砦に火を放つ。
脱走路を隠蔽するのなら、砦ごと隠蔽してしまえばいい。その役目のために、アルティオは幻覚の術を維持していたシリアと共に、最後まで残ったのだ。
そして油を撒いた部屋に松明を放り込み、扉を閉めてそのまま逃げた。
全員がその音に気を取られている間に、砦の裏口に立っていた二人の兵士を蹴り倒して脱走した。
砦の外に茂る森。鬱蒼、とまではいかないがそれなりに足跡を隠してくれるはずだった。だが、エイロネイアの指揮官は、期待したよりも利口で対応が早かった。
「くそ、待ちやがれッ!」
背後でがしゃがしゃと、かすかだが確かに鎧の音が聞こえる。普段なら身軽なのはアルティオの方だが、今はシリアを抱えている。
距離は、縮まってはいないが遠ざかってもいない。加えて一対多数だ。
ぎりッ――アルティオは歯を噛み締めて、前方を睨んだ。その上げた視界の中に、
「ッ!」
ぼんやりと、不自然な灯りを見つけた。
不自然に収束していく、赤い光。見覚えが、ある。というよりも、飽きるほど見てきた。
ルナが使うものと同じ、あれは……魔法の灯りだ!
「くそッ!」
抱えたシリアの細い肩をぐっと持ち上げて、アルティオは進路を変える。
――まさか、読まれてたのか? ンな馬鹿な!
ぎりぎりと歯を噛み締める。
視界の片隅で、赤い光が次第に大きくなる。あれが放たれるよりも先に、もっと遠くに離れなくては!
――くっそぉッ!!
足ががくがくと笑い出す。澱のように溜まりつつある疲労感に、膝を折りそうになるのを堪える。
視界の片隅で、赤い光が大きくなる。アルティオは、ぐったりと自分の腕の中に横たわる幼馴染に視線を走らせた。
――くそッ! こいつがここまで頑張ったんだぞッ!? カノンだって、レンだってルナだって! まだどっかで、そうさ! どっかで頑張ってんだ! 俺がここで終わるわけに……いかねぇんだよ!
「ちっくしょうぉぉぉぉぉッ!!」
ばしゅッ!
「ぎゃあッ!?」
「!?」
叫んだと同時だった。
乾いた音が、アルティオの耳を打つ。走りながら、ふと斜め後ろを振り返ると、そこには薄暗い闇が鎮座するだけ。赤い光は、片鱗も見られなかった。
「なんだ……?」
口にはするが、その疑念を確かめている暇はなかった。アルティオは肩で前方を遮る草木の枝を薙ぎ倒す。
ざッ!
目の前が開けた。その前に広がった光景に愕然とする。
からん、と足元から小石が転げ落ちる。足元に現れた、崖の淵から暗い底へ。
「……嘘だろ……」
ざーざーと水音がする。先ほどの方向転換で、抜けられるはずの道を逸れてしまったらしい。戻っている暇は、当然、ない。
アルティオは崖を覗き込んだ。結構、高い。下は水だが、確か高い場所から落ちると水は石よりも固くなるだか何だかいう話がなかったっけか……?
背後から、粗暴な『待てッ!』という声と、がしゃがしゃという耳障りな鎧の音が近づいてくる。
唇を噛み締める。気絶したままのシリアを見下ろして、庇うように抱え直す。
――悩んでる、余裕なんかねぇな!
「悪いな、シリア……。お前が肌に傷作るのが嫌いなのは、知ってるけど……
ここで死んだら、レンにももう会えないんだから。
だから、」
覚悟を決める。崖の淵に生えていた下生えを、恐怖心を振り払うように踏みつけて、
「少しだけ……我慢しろよな!!」
灰色の空に叫んで、アルティオは、一気にその崖を蹴った――。
←11-01へ
そんな単語が頭を掠めた。だが、すぐに振り払う。
「シリア、大丈夫か?」
「大丈夫に決まっているじゃない。私を誰だと思っているのかしら?」
アルティオは、実はうちのメンバー内で一番強がりなのは彼女なのではないかと思い始めていた。額に玉のように汗を掻き、唇を噛んでいる姿では、まるで言葉に説得力がない。
彼女は二、三度深呼吸して、改めて窓の外を見た。
翻る八咫鴉。それを意味するものは一つしかない。エイロネイア軍だ。
「……どれくらいの規模か分かる?」
「……」
兵士が押し黙った。分からない、というよりはそれを口にするのが憚られる、といった表情だ。
シリアがもう一押しすると、一人の兵士が口を開いた。
「それが……砦が、エイロネイア側から包囲されているようで……」
「何ですって!?」
シリアは思わず甲高い声を荒げた。アルティオが舌を打つ。
シリアがぶんぶんと首を振る。高めに結ったポニーテールが揺れた。
気持ちは分かる。この砦はけして戦地のただ中にあったわけではない。だからこそ、シェイリーンはこの地に逃れて来ていたのだ。
かといってそう遠いわけでもなかったが、それにしたって砦一つを囲めるほどの兵を差し向けてくるなんて考えられなかった。
策だの何だのに疎いアルティオだって分かる。
砦から馬で三日駆けた場所――ジルラニア平原では、次なる大戦が勃発しようとしている。そんなときに、こんな砦に兵を差し向けて来るなんてありえない。
いや、もしやもう魔道研究のことが明るみに出たのだろうか。それで、元を断つために大軍を……?
いやいや、それでこんなに兵を割くなんて、そんな馬鹿なこと。それとも、また何かの策なのか。
シリアは深呼吸を繰り返す。深呼吸は彼女が落ち着きを取り戻すためにやる癖のようなものだ。
アルティオは腹に力を入れる。雰囲気と、窓からの情景に潰されてしまわないように、わざと口元に笑みを浮かべた。ぽん、と彼女の背中を叩く。
「まあ、慌てなさんなって。こんなときのために準備はしてきたじゃねぇか」
「……そうね」
それでも神妙な顔を崩さずに、シリアは爪を噛む。
そう、準備。カノンたちの捜索の合間にこちらを手伝ってくれていた、本職の軍人であるティルスが、ジルラニアの大戦に出向かなければいけなくなってから、シリアはずっと考えていたのだ。
内部にエイロネイアの諜報員がいるのなら、いつかはここが割られる。
いつまでも、この砦を研究の中枢に据えて置くわけにはいかない。だから、準備をして置いた。勿論、戦う準備じゃない。逃げる準備だ。
こんな場所で、本職の軍人もいない状況で真っ向から戦うなんて、無謀もいいところなのだから。
シリアはもう一度だけ深呼吸をする。切れ長の目で、アルティオの顔を見上げて来る。足が竦んでくるのを堪えて頷いた。
「……地下の魔道師たちに伝えて。予定通り行くわよ」
「エリシア様。やっぱり私、解せないんですけど……」
「何が?」
ぼそり、と呟いたリーゼリアにエリシアは鼻歌混じりに聞き返す。まだここからは見えないが、もう少し丘を下れば、敵の居城であるちっぽけな砦が見えてくるはずだ。
馬上で不服そうな顔をしたリーゼリアが、憮然としたまま言葉を続ける。
「何で、この大戦が起こってる、ってときに七征が二人もあんな小規模な砦に回されるんです?」
――どっちかっていうと、貴方は殿下と別行動っていうのが気に喰わないように見えるけどねぇ。
青い少女相手に喧嘩を売っても仕方がない。同じ青い人間でも、あの白子の専属魔道師だけは、どうにも気に入らないけれど。
エリシアはくすり、と笑いを漏らしてから手綱を握り直す。
「そうねぇ……今の状況では、逆に大部隊ってのは邪魔だからかな」
「邪魔、ですか?」
自分が邪魔者扱いされたように聞こえたのか、リーゼリアの表情がさらに険しくなる。
「まあ、そんな顔をするものじゃないわ。殿下は勿論、本戦から離れられないし、アリッシュは殿下の片腕同然だしねぇ。
あの小生意気な魔道技師は自分に利益のあること以外には腰を上げないし、 大陸から帰ってからただでさえ不安定だった精神面がさらに脆くなってるようだし?
かといって、お子様にいくら規模が小さくても戦一つ任せるわけにいかないじゃない?
ましてや――・・・あの人にやらせるわけにもいかない。
殿下にとってみれば至極、当然な采配だと思うけど?」
「それは……そうですけど」
リーゼリアは小さな溜め息を一つ、吐いた。
「それに向こうはエイロネイアに対抗して、魔道研究なんてものに着手して、切り札を手に入れようとしてるんでしょ。
知ってる? 切り札、っていうのは同時にアキレス腱なの。
切り札を落せば相手の戦意を削げる。切り札になり切っていない時期を叩けば、叩きやすい。今の頃合が一番ダメージになる、ってわけ」
「まあ……そうですね」
至極、ポジティブな解説をしてやったのに、彼女はまだ浮かない顔で手綱を引く。エリシアは可愛いものだ、と思う。そしてエゴの強い女だとも。くくく、と漏れた笑みは微笑みか、嘲りか。
「そんなに悲観しなさんな。ここを落したらご褒美に殿下からいろいろ貰えばいいじゃない。夜の時間とか」
「馬鹿なこと言わないでください」
ぷい、とリーゼリアは顔を逸らす。その鼻の頭が赤い。エリシアはまた小さく笑って手綱を引いた。そして、ふとその音に気づく。
進軍する兵軍の正面から、鎧を着た兵士が馬で駆けてくる。遠目だったが、エリシアはその兵が先行させていた兵の一人であることに気がついた。
馬を止める。
「……どうしたんでしょうね」
「さぁ?」
出迎えなど不要のはずだった。そもそも、エリシアとリーゼリアが現地に着くより先に制圧させようか、とも考えていたのだ。
いくら魔道師たちの拠点といっても、所詮は筋力もない輩だ。魔力が尽きれば、それで終わる、はずだった。
だが、馬を駆けてきた兵士の蒼白な顔色にただならぬものを感じて、エリシアは眉間に皺を寄せる。
「ご、ご報告します……」
「何があったの?」
兵士は焦りで舌が回っていなかった。ままならない言葉に、多少の苛立ちを感じながらも、エリシアは問いかける。
「と、砦が」
「砦が?」
「砦が、我々の前で、突然……」
兵士は一度固唾を飲み込む。そして一気に言った。
「砦が……突然消えました……!」
「これは……何ていうか、すげぇな……」
淡い光に全身を照らされながら、アルティオが呻くように言う。
砦の一階の広間。およそ五十人は収納できるだろう、石部屋の中に巨大な方陣が描かれていた。その方陣が、薄緑色に輝いて、アルティオやその他の兵士の顔を淡く照らしているのだった。
「付け焼刃だったけど……上手くいったかしら?」
窓からちらちらと外を確認しながら、シリアが漏らす。丘陵に陣取っているエイロネイア軍は動きを見せない。
ふぅ、とシリアは溜め息を吐いて肩に力を入れる。
「すげぇな……本当に外からこの砦、見えてねぇのか?」
「ええ。そのはずよ」
アルティオの問いに、汗を拭いながら答える。
「幻術、ってやつなのか? こんな大掛かりなの初めて見たぜ」
「そうね。性格には幻霊術の一種。床の紋はそのための結界。
幻覚を見せる術、っていうのは個人にかけるだけなら呪文だけで十分だけど……。その対象の頭にちょっとした錯覚を起こしてやればいいだけだからね。
でも、集団を騙すには少し骨が折れるのよ。結界を張って、その結界を利用して三百六十度から幻覚を見せなくちゃいけない。
今は十人でその結界を維持してるのよ」
彼女は方陣の回りに立つ、先ほどまで地下にいた魔道師たちを差した。
「――でも、いつまでも騙せるわけじゃないわ……。
所詮は幻。砦は見えていなくても、現存はしているのだ。いつまでも騙されてくれるほど、エイロネイアも馬鹿ではないだろう。
もしかしたら、この瞬間にも指揮官クラスの人間にはバレているかもしれない。何と言っても、相手はあの皇太子本人かその部下なのだ。
方陣の周りの、十人の魔道師たち。その周りで構えているのは見張りをしていた五人の兵士。そしてシリアとアルティオ。
今、砦の中にいるのはこれだけだ。
いつか場所が割られ、襲撃されるのを恐れてから、シリアとティルスは砦の中の人材を減らしていった。
一時期はそれこそ五十人の魔道師が滞在していた第三関所バラック・ソルディーア。シンシア軍の魔道師のうち半分以上がこの小さな砦の中に終結していた。魔道研究の巨大な拠点となっていた代わりに、その場所は間違いなくシンシア軍のアキレス腱だった。
だから、シリアとティルスは、指示を出した後、各地に魔道師を散らしたのだ。いつ、拠点が落ちても作戦そのものは続行できるように。
仮初の拠点であるここが、いつ落とされても良いように。
いざというときに、全員が逃げ切れるよう、人数は極少にしておいた。
――でも、これほどの大軍なんて……
「くッ……」
漏らしそうになった一声を、呻き声で消し飛ばす。
シリアは軍人ではない。本当なら、こんな指揮は階級持ちの軍人の仕事だ。それが、ただの大陸からの客将であるシリアに任されるなど……山の向こうの大戦は、それほどまでに切羽詰っているのか。
彼女は首を振る。
守ると決めたのだ。レンや、カノン、それにルナが帰って来るための場所は、自分とアルティオのいる場所なのだから。
「ッ!」
とんとん、と肩を突付かれて、一瞬びくりと震える。
振り向くと、先ほどと同じ、愛嬌のある顔を張り付けた大男が背後に立っていた。あまりに不器用なウィンクを投げてくる。
「ふん、何のつもりかしら?」
「いやさ、何か柄にもなく緊張してるなー、って」
「乙女に言うセリフじゃなくってよ、アルティオ。慎みなさいな。それから私の柔肌に触れられるのはレンだけよ」
ふん、と鼻を鳴らして肩に置かれた手をぺしり、と払う。
叩かれた手を少し擦って、アルティオは曖昧に苦笑した。
「その方がらしいって」
「……」
虚をつかれたように彼女は腕を組んだまま、切れ長の目を少しだけ見開いた。しかし、次の瞬間にはふん、ともう一度鼻を鳴らして、ヒールをかつかつ言わせながら広間の中央に立つ。
彼女が息を吸い込むのを見て、アルティオも気を引き締めた。
「……じゃあ、手はず通り。アルティオ」
呼びかけられて、アルティオは部屋の一角に駆けていく。石造りの壁に、細い亀裂が入っていた。
しゃき……ッ!
月陽剣を抜き放った金属音が静かに響く。そして、
がらんッ!!
彼が壁の低い位置に件を叩きつけた瞬間、石壁が崩れた。丸く、ちょうど人一人分が通れるほどの通路。
広間に風が吹き込む。冷たく、暗い風が全員の肌をなぞって、鳥肌を立てさせた。
シリアとアルティオは視線を合わせて頷く。
戦術に使う砦には必ず存在する隠し通路だ。穴の開いた向こう側は冷たい土の壁が続く暗い道。誰かが覗き込んで、その深さに息を飲んだ。
シリアが、最後の深呼吸を吐く。
「二人ずつ……兵士の方から、ね。灯りを忘れるんじゃないわよ。
魔道師は彼らが行ったら、一人ずつ抜けていくこと。
ラーシャが言うには、通路は北の洞穴に繋がっていて、第一関所近くの森に出るらしいわ。一番手は第一関所に着いたら、北都のシェイリーンと前線のラーシャに連絡。全員の生存が確認できたらもう一回伝令。
いいわね?」
「あの……」
兵士の一人が淡く光る方陣を眺めながら、伺うように小声で切り出す。
「いつまでエイロネイアを足止めできるのでしょうか?」
「わからないわ。でもまだ距離もあるし、砦は見えていない。突撃命令はまだ出ないでしょう。
相手の偵察部隊が来て、見破って、帰って報告する。最低でもこの時間は稼げるはず。
その間に……」
「この方陣は……魔道師がいなくなったら消えてしまうんでしょう?
だとしたら、最初の魔道師一人が抜けた瞬間に、突撃されるのでは……」
「……」
兵士たちがわずかにざわついて、顔を見合わせる。だが、シリアはいとも平然と方陣が放つ光の真ん中にいた。
「……その心配はないわ」
「え?」
兵士が怪訝な表情を浮かべる。シリアはもう一度、アルティオと視線を合わせる。
彼は珍しく神妙な面持ちで固唾を呑んだ。しかし、その一瞬後にはにやり、と笑う。シリアは一瞬目を閉じて、何かの決意を込めた視線を返した。
広間の窓の向こうで、八咫鴉の紋が翻る。シリアはその鴉を今一度、睨み返した。
「ふーん……なるほどね」
困惑した兵士たちの合間に立って、エリシアはそう漏らす。浮き足立っている一般兵を見下しながら、彼は笑みさえ浮かべていた。
隣で渋い顔をしているリーゼリアは堪り兼ねて、彼の軍服を突付いた。
「エリシア様ぁ。何なんですか、あれ?」
「たまには自分で頭使いなさいな、お尻の青い小娘ちゃん」
「青くなんてないです! ……たぶん、ですけど。元々あった砦には魔道師が集まっていたんでしょう?」
「そうね。魔道研究の拠点、というくらいだもの。普通は魔道師を複数集めてるでしょうね。警備も厳重にしてるはず」
リーゼリアは頬に手を当てる。僅かに唸って、改めて、風が吹くだけの空の草原と低い丘とを見下ろした。
「関所はついさっきまで兵士たちの目の前にあった。なのに、一瞬で消えた。
まさか、関所そのものが空間転移したなんてこと……」
「ないわね。確かにシンシアが魔道研究に着手したとは言っても、まさか半月でそんな収穫があるわけはないでしょう」
「ですよねぇ。とすると……」
はた、とリーゼリアが動きを止める。
「やっぱり幻覚、ですか?」
「そうね。一瞬、第三関所をぶっ壊して、今の今まで関所があるように見せかけていたのかとも思ったけど。
でも、少なくとも半月前までは現存してた。来るか来ないか解らない襲撃のために、貴重な砦を壊すなんてナンセンスだし、壊したとしても、瓦礫なり土なりもっと痕が残っていていいはずでしょう」
「っていうことは……」
「そうね。その逆。
中の魔道師勢で砦はないように見せている。もっとも、視覚はともかく触覚にまで影響するような術なんて人間にはちょっとやそっとでは出来っこないだろうし。
送った偵察部隊が帰って来ればはっきりするでしょうよ」
「でも、エリシア様」
納得しきれない表情で、リーゼリアが眉を潜める。
「連中、そんなことしてどうしようって言うんですか? いつまでも通用するはずないし、無駄に戦力になる魔道師の魔力をがりがりに削るだけじゃないですか」
「そうねぇ……」
エリシアは笑みを絶やさない。考えに煮詰まったリーゼリアは、そのまま沈黙してエリシアの次の言葉を待った。
しかし、待てども次の言葉は返って来ない。痺れを切らしたリーゼリアは唇を尖らせて、
「エリシア様、何か考え付いたんですか?」
「いいえぇ、別に」
何か含みのある表情で、エリシアはころころ笑う。何か気に喰わなくて、リーゼリアは少しだけ頬を膨らませた。
丘の方に目をやって、ふと気づく。先ほど送り出した偵察隊が、慌しい雰囲気で馬を駆けてくるのが見えた。
どぉんッ!!
『!?』
唐突に砦を襲った横揺れに、広間の中は騒然となった。肩を震わせる魔道師たちに、シリアは『集中しなさい!』と叱咤する。その額には玉のような汗が浮かんでいて、滴るたびに化粧を落してしまっていた。
兵士たちは既に穴の中に消えていて、残るは魔道師たちの半分。そんな頃合に響いた音だった。
広間の扉を気持ち的に押さえていたアルティオが、苦い顔で隙間から廊下を覗く。
「……バレたか?」
「そのようね」
広間内の魔道師たちに僅かな脅えの色が走る。彼らは戦場においては後方支援だ。研究一辺倒な魔道師も混じっている。
無理もない。すぐ背後にまで死肉を食らう鴉が構えていると聞いて、誰が脅えないのだろうか。
だが、その彼らをシリアは再び叱咤した。
「集中なさいな! でないと、ここにいる全員が助からないわよ!」
絞り出すような声だった。彼女自身も、集中を切らさないよう必死なのだ。
もう穴に消えた魔道師五人。先ほどまで十人で支えていた結界を、今はシリアを含めて六人で補っている。負担が小さいわけがない。
「今のは、爆撃っぽいな……」
「そうね……敵の魔道師か、もしくは」
シリアの脳裏に、船で味わったあの恐怖が掠めて通る。得体の知れない、あの無の砲撃。
焼けるのでもなく、凍りつかせるでもなく、ただ無に返す闇の砲撃だった。
シリアはその記憶を口に出そうとして、ぐっと堪える。そんな話をすれば、悪戯に魔道師たちの戦意を沿いでしまうだけだ。とんだ愚行だ。
「急げ! 次!」
はっ、として、方陣の中で俯いていた魔道師の一人が顔を上げる。ゆっくりと後退るように、方陣から出る。
「ッ!」
魔道師が方陣から外れた瞬間、シリアの表情に苦痛が走る。身体が、また一段と重くなるのを感じた。
魔道師は松明の先に灯りを灯そうとする。緊張と焦りが彼の手元を狂わせるのか、かちかちと火花が散るばかりで上手く行かない。
そのときだ。
どどどどどどど……ッ!
『!?』
遠い地響きが、砦の中にいた人間の耳を打った。動けない魔道師たちの代わりに、アルティオが窓に走って舌打ちをする。
低い山の向こうから駆けてくる馬の蹄の音だった。八咫鴉の旗が激しく舞い踊る。
誰かが、『ひっ』と情けない声を出した。動揺が広がった。
「くそ……ッ」
「……」
アルティオの苦々しい荒い声が、石段に叩きつけられる。シリアはぎりぎりと歯を噛み鳴らしていた。
思ったよりも早い。まだ避難は五人も残っている。それに、隠し通路の入り口を残してしまえば、あっさりと居場所は割れるし、何よりその通路を利用される可能性がある。
まだ、やらなくてはならないことが終わっていない。
シリアはしばし瞑目する。
だんだんと近くなる地響きの音に、冷静を失いかけている魔道師たちの浮き足立ったこそこそ話が、彼女の耳に入り込んできた。
しばらくして、彼女は顔を上げる。苦い、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻んで。
「……全員、方陣から外れなさい」
「シリア!?」
「五人、一列で穴に走る! 松明を持つのは先頭としんがりよ! 一度、洞穴に入ったら絶対に振り返らないこと!
第二関所に着いたらラーシャに報告を忘れるんじゃないわよ!」
一気にまくし立てた彼女に、魔道師たちは目を丸くする。
もともと、シリアは最後まで残る予定だった。一人一人、方陣から抜けていき、その一人分の魔力を、他の人間が補っていく。
身体に負担をかける荒い策だ。一人ずつ抜けるだけでも、かなりの苦痛を伴う。それでも、一人ずつ抜けるのなら、まだ身体の馴れとで多少の時間を耐え凌ぐことが出来る。
しかし、一度に五人抜けるということは。五人分の魔力の奔流が、一気に彼女の身体を襲うということだ。
彼女の身体にどれだけの負担がかかるのか、想像に難くない。
「あ、アレンタイル女史……いくらなんでも」
「いいから、男なら早くなさい! 決断は早く! このままじゃあ、砦ごと潰されるわよ!?」
シリアの叱咤に、魔道師たちの肩が嘶く。アルティオは歯を噛み締めながら、もたついている魔道師の手から松明を引ったくり、代わりに火を灯した。
「おら、さっさとしろ! 死にたくない奴から前に出ろいッ!!」
魔道師たちは顔を見合わせて、そして、おずおずと……
中央に立つ彼女の顔を伺いながら、
方陣の外に出た。
馬を駆っていたエリシアの目が笑う。すい、と細めた青碧の瞳は、嘲るようにその形を捉えた。
彼の目にでさえ、ぼんやりとしか映っていなかった砦の輪郭が、ぐにゃりと曲がった空間と共に確固たる形を取り戻す。
未だに視覚に映らないことへ不安を抱いていたらしい兵士たちの、ぉぉぉ!という歓喜の声が上がる。エリシアは口元の笑みを絶やさないまま、本当に、馬鹿な人間ばかりだと笑う。
「何考えてるんですか? 笑ってばっかりで気持ち悪い」
同じように馬を駆るリーゼリアが問いてくる。耳元で唸る風のせいで、途切れ途切れではあったが、エリシアはふん、小さく笑い、
「馬の上でお喋りしてると舌噛むわよ」
とだけ返しておいた。
一階の廊下の向こうから、どん! どん! と耳障りな音が響いて来る。丸太か何かで、錠のかけた扉を貫こうとしているのだろうか、まったく紳士じゃない。
けっ、とアルティオは吐き捨てて、魔力を使い果たしてしまって気絶したシリアを支え直した。
視線を上げれば、ぽっかりと大きく開いた暗い洞穴がある。最後の一人が穴の中に消えて、しばらくもしない間に方陣は光を失って、シリアはその真ん中で崩れ落ちた。
もう少し、彼がぼんやりしていたら、床に激突していたかもしれない。普段、人一倍、身体に傷を作ることを嫌う彼女なのに。
「ったくよぉ……。お前といい、カノンといい、ルナといい……あの娘といい。
……女ってのは、自分の体の限度、ってやつを知らねぇのかよ」
悪態をついて、一度、シリアの細い身体を横たえて、彼は立ち上がった。
どん! どん!という音に混じって、めきり、めきッ、というこれまた不快な音が聞こえてくる。さて、後どれくらいあの頑丈なはずの鉄扉は耐えてくれるだろうか。
立ち上がったアルティオは、身体を馴らすように、こきこきと首を鳴らす。ふーっ、と大きな、これからちょっとした体操でもするのかというような息を吐く。
「さて……」
視線の先に暗い洞穴を捉えて、彼はにんまりと笑った。
どがぁんッ!!
轟音を立てて、鉄の扉が乱暴に左右に開かれた。響いた轟音に脅えるようにして耳を塞いでいたリーゼリアが、きゃん、と子犬のような声を漏らす。
割れてしまったかんぬきが、石床に叩きつけられるのを見て、エリシアは嘲笑うような笑みを浮かべた。
「扉が鉄でもねぇ……かんぬきさえ壊れれば脆いもんね」
ぼそり、とエリシアが呟いた。その呟きが終わるよりも早く、兵士たちは砦の内部に踏み入る。
そして、最初の一歩で訝しく思う。
「……エリシア様、ここ……本当に、連中の拠点、なんですよねぇ……?」
さぞや盛大な歓迎があると思っていたリーゼリアは、眉を潜めた。
エリシアは依然として笑みを讃えたままで、人気の感じない一階を見渡す。目を細めて、部屋内を探索するように兵士に言いつける。
すぐ後ろにいた兵士に、砦の周囲を固めるように指示を飛ばした。
がしゃがしゃと鎧を鳴らして砦の内部に入っていく兵士たちを見送って、構えていたリーゼリアは拍子抜けしたように肩を下ろした。
「エリシア様。どういうことなんですかぁ?」
「まあ……まんまと嵌められた、ってことね」
「はぁ!? 嵌められたぁ?」
極、冷静に、それどころか、ますます笑みを強めながら、エリシアは砦の廊下を悠々と歩いていく。リーゼリアは慌てて後を追った。
「嵌められた、ってどういうことですかぁ!?」
「大声をだしなさんな、小娘。
今の今まで幻覚の術が行われていた、ということは、今の今まで私たちをここに近寄らせたくなかった、っていうことでしょう?
そんな時間稼ぎをしなきゃいけない理由なんて、そうそう幾つも考えられるわけじゃ……」
「え、エリシア様!」
切羽詰った兵士の声が、エリシアを呼んだ。奥の広間から一人の兵士が槍を振っている。
一瞬、顔を見合わせたエリシアとリーゼリアは、ほど同時に駆け出した。先に広間に辿り着いたエリシアは皆まで聞かず、部屋の中に入る。
それはすぐに目に入った。
部屋の片隅に兵士が群がっている。エリシアが近づくと、兵士たちは自然に割れた。
「……」
「うわ……」
その場所には、何十人と収納できる広間に飾られていた石像や、飾りだけの折られた柱、小さめのタンスや椅子などが、道を塞ぐように積み上げられていた。ちょっとやそっとでは、動かせそうにない。
ふと、倒れた石像を見ると、すっぱりと剣で斬られた痕がある。
他の柱にも像にも、同じような切り口があり、短時間に乱暴に重ねられたことを物語るように、皆ひびが入ってしまっていた。
「……」
ちょうど人一人分の背丈まで積み上げられた乱雑な塔の隙間に、エリシアは顔を近づける。
石壁が向こうに見えるはずのその先には、何もなく、ただ暗いぽっかりとした空間が空いているだった。
「……これはまた杜撰な隠蔽工作ね」
エリシアは呆れる。こんな見え見えのバリケードは意味がない。逃げた経路を見つけてくださいと言っているようなものだ。
「連中逃げたんですか?」
「でしょうね。拠点といっても、わざと人は極少にしてあったんじゃない? いずれ狙われることを予測してたんでしょう。
いつでも砦を捨てられるように、いつでも全員で逃げられるようにして置いたのよ」
「じゃあ、私たち、嵌められたってことなんですか!?」
最初から言っているでしょうに、とエリシアは息を吐く。
けれど、疑念に思ったことがあった。
この乱暴な工作。連中は果たして逃げた後に、この穴の内側からやったのか。 いや、そんな穴の内側から外側に、穴の上までいく高さまでものを積み上げられることは可能なんだろうか。
――否。たとえ、穴の中に積み上げるものを用意していたとしても、こんなけして大きいとは言えない穴、外側に積み上げるまでに、確実にどこかで支えてしまうはず。
第一、 側からやるなら内側に積み上げる。
となると、これはまさか――
「!」
エリシアが、ようやくその答えに辿り着く。壊れた柱の撤去作業を行おうとしていた兵士たちを振り返り、口を開いて、
ごぅんッ!!
「!?」
「きゃぁッ!?」
突如、響いた爆音に、リーゼリアが耳を抑えて蹲った。
思ってもみなかったその音に、兵士たちの手から折られた柱が滑り落ちて、さらに大きな音を立てた。
がしゃがしゃと鎧を鳴らす音が、広間の外から聞こえてくる。
「え、エリシア様! 砦の奥で爆発がッ、火の手が上がっています!」
「ええッ!?」
リーゼリアが同様の声を漏らす。エリシアは眉間に皺を寄せて、かつん、と踵を鳴らした。
「やっぱり、そういうこと……」
内側からこんな乱雑な工作は出来ない。ということは、『誰か』が外側からやったのだ。
この工作そのものには、大して意味はなくていい。本当に意味があるのは、この砦のこの場所に軍をひきつけること。
「全員、砦から退避しなさい! 今の爆音は油でも撒いてあるに違いないわ!
それから外の部隊に伝えて! まだ、周辺に『い』るわ! 辺りを十分警戒しなさい!!」
「エリシア様!」
エリシアが言い終えるより前に、もう一人の兵士が駆け込んでくる。兵士の額に浮かんでいる大量の脂汗に、嫌な予感がした。
一寸、息を整えて、彼は叫ぶように言う。
「裏口から……ッ、砦の裏口から、男が逃げました! 爆音で、我々が気を取られている隙に……ッ!」
「このお馬鹿ッ!」
聞くより先に罵声が飛んだ。
「全員、砦から退避! 裏の森には魔道師を配備させていたはずね!? あんたたちもすぐに追いなさい!」
耳元で唸る風と、ぱきぱきと歩を進めるたびに細い小枝が折れる音が、聴覚を邪魔する。
行く手を阻むように茂った小枝が、折られるせめての報復のように、アルティオの頬を、腕を、足を浅く傷つけていった。
抱かかえたシリアの身体に小枝が当たらないように、肩を上下させて抱え直す。
遠くから聞こえるがさがさという音に舌を打つ。思ったよりも、追っ手が動くのが早い。
エイロネイア軍に、脱走した兵士たちが第二関所に逃れたことは知られてはならない。そのためには脱走路を塞がなくてはならない。
当初は脱走路の内側から魔法か火薬で、入り口を崩してしまおうかという案も出た。
しかし、この地の地盤はそう固くない。下手をすれば、洞穴そのものが潰れてしまって、生き埋めになる可能性もある。
だから。
アルティオは自ら囮になったのだ。
全員を逃がした後、連中の足を止めるために脱走路を塞ぎ、砦に火を放つ。
脱走路を隠蔽するのなら、砦ごと隠蔽してしまえばいい。その役目のために、アルティオは幻覚の術を維持していたシリアと共に、最後まで残ったのだ。
そして油を撒いた部屋に松明を放り込み、扉を閉めてそのまま逃げた。
全員がその音に気を取られている間に、砦の裏口に立っていた二人の兵士を蹴り倒して脱走した。
砦の外に茂る森。鬱蒼、とまではいかないがそれなりに足跡を隠してくれるはずだった。だが、エイロネイアの指揮官は、期待したよりも利口で対応が早かった。
「くそ、待ちやがれッ!」
背後でがしゃがしゃと、かすかだが確かに鎧の音が聞こえる。普段なら身軽なのはアルティオの方だが、今はシリアを抱えている。
距離は、縮まってはいないが遠ざかってもいない。加えて一対多数だ。
ぎりッ――アルティオは歯を噛み締めて、前方を睨んだ。その上げた視界の中に、
「ッ!」
ぼんやりと、不自然な灯りを見つけた。
不自然に収束していく、赤い光。見覚えが、ある。というよりも、飽きるほど見てきた。
ルナが使うものと同じ、あれは……魔法の灯りだ!
「くそッ!」
抱えたシリアの細い肩をぐっと持ち上げて、アルティオは進路を変える。
――まさか、読まれてたのか? ンな馬鹿な!
ぎりぎりと歯を噛み締める。
視界の片隅で、赤い光が次第に大きくなる。あれが放たれるよりも先に、もっと遠くに離れなくては!
――くっそぉッ!!
足ががくがくと笑い出す。澱のように溜まりつつある疲労感に、膝を折りそうになるのを堪える。
視界の片隅で、赤い光が大きくなる。アルティオは、ぐったりと自分の腕の中に横たわる幼馴染に視線を走らせた。
――くそッ! こいつがここまで頑張ったんだぞッ!? カノンだって、レンだってルナだって! まだどっかで、そうさ! どっかで頑張ってんだ! 俺がここで終わるわけに……いかねぇんだよ!
「ちっくしょうぉぉぉぉぉッ!!」
ばしゅッ!
「ぎゃあッ!?」
「!?」
叫んだと同時だった。
乾いた音が、アルティオの耳を打つ。走りながら、ふと斜め後ろを振り返ると、そこには薄暗い闇が鎮座するだけ。赤い光は、片鱗も見られなかった。
「なんだ……?」
口にはするが、その疑念を確かめている暇はなかった。アルティオは肩で前方を遮る草木の枝を薙ぎ倒す。
ざッ!
目の前が開けた。その前に広がった光景に愕然とする。
からん、と足元から小石が転げ落ちる。足元に現れた、崖の淵から暗い底へ。
「……嘘だろ……」
ざーざーと水音がする。先ほどの方向転換で、抜けられるはずの道を逸れてしまったらしい。戻っている暇は、当然、ない。
アルティオは崖を覗き込んだ。結構、高い。下は水だが、確か高い場所から落ちると水は石よりも固くなるだか何だかいう話がなかったっけか……?
背後から、粗暴な『待てッ!』という声と、がしゃがしゃという耳障りな鎧の音が近づいてくる。
唇を噛み締める。気絶したままのシリアを見下ろして、庇うように抱え直す。
――悩んでる、余裕なんかねぇな!
「悪いな、シリア……。お前が肌に傷作るのが嫌いなのは、知ってるけど……
ここで死んだら、レンにももう会えないんだから。
だから、」
覚悟を決める。崖の淵に生えていた下生えを、恐怖心を振り払うように踏みつけて、
「少しだけ……我慢しろよな!!」
灰色の空に叫んで、アルティオは、一気にその崖を蹴った――。
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「あ」
唐突に、ケナが明るい声を上げた。ふ、と顔を上げると、老齢の男性と談笑するアレイアの姿が見えた。
「お父さーんッ!」
ぱっ、とフィーナの手を離したケナが駆け出した。やたら滅多に走るな、といういつも言っている忠告はどうあっても聞いてくれないらしい。
父親に駆け寄ったケナは、そのまま軽くジャンプして抱き着いた。気がついたアレイアが、慌てて抱き止めた。
一方でフィーナは、彼と話をしていた男性に頭を下げる。やんわりと微笑んだ男性は、お辞儀を返してくれた。
「ケナ、それにフィーナ。どうしたんだ?」
「お父さん迎えに来たの!」
彼のジャケットにしがみ付いたケナが『びっくりした?』と無邪気に笑う。アレイアはいつも通りにふっ、と笑って金髪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
それを微笑ましく眺めながら、フィーナは籠の中から買った菓子を取り出して、老人に手渡す。老人は少しだけ遠慮したが、
「いつも依頼を貰ってるんだから、受け取ってください」
というアレイアの言葉に、結局は笑顔で受け取ってくれた。
アレイアは抱き上げたケナを下ろして、まだ頭を撫でながらフィーナに向き直る。
「買い物の帰りか?」
「うん。仕事終わりが早いって言ってたから。ついでに迎えに行こう、って話になって」
「そうか。ありがとう」
アレイアはケナにもするように、ぽんぽん、とフィーナの頭を叩く。フィーナはまた無意識のうちに避けそうになって、けれど踏み止まって、少々ぎこちなく笑う羽目になった。
アレイアも気がついたようで、すぐに頭から手を離す。まずい。早く馴れないといけないだろう、これは。
「すまないけど、まだ話が終わってないんだ」
手を離してからすまなさそうに言う。ということは、仕事の話だろう。
「ああ、ブロードさん。何なら後日でも構わんよ」
「あ、いいですいいです。待ってますから。ケナちゃん、まだお父さん、お仕事の話があるそうだから待ってよ、ね」
「はーい。もー、お父さん早くねー! せっかく美女二人が迎えに来てるんだからねー」
――何でこの娘はこう、おませなんだろうか。
ぶんぶん手を振る小さな美女に、苦笑いが漏れる。老人が、ストリートから外れた自分の家の広大な庭を指差した。彼は、そこで遊んでいなさい、と優しくケナに言ってくれた。
馴れたもので、彼女ははーい、と元気な返事をしてまた駆け出した。
もう、この子の元気は癖のようなものなのだろう。
ふぅ、と息を吐いて、フィーナは頭を下げる。庭でてんとう虫の観察を始めているケナを目の端に留めながら、彼女とは別の方に向かった。
老人の家はストリートからややはずれた、石で作られた小高い場所にあった。その階段の上の手すりに寄りかかって、まだ高い日を眺める。
ケナは芝生の青い庭で遊んでいる。アレイアは神妙な顔で老人の言葉に頷いていた。
しばらく階段の上で呆けていた。天上に上がっている日が、じりじりと頭の後ろを焼いてくる。
「はー……」
先ほど、菓子屋で聞いた話が頭を掠める。
山一つを隔てた野で行われている戦争。この間も、どこかの地が北に、南に奪われて……なんて話。
記憶を失くす前の自分なら覚えていたのだろうか。少なくとも、今の目の前の風景は、普通に子供が庭で遊んでいて、老人の悩みは畑が猪に襲われて困っている、なんて話。
……まあ、物価は高くなっているのだけれど。
「ん……」
私は、一体、どちらにいたのだろう。
自分は武装して倒れていたらしい。ということは、やはり、気絶する前、自分は山の向こうの戦中の人間だったのだろうか。
思い出せば、山の向こうに戻らなくてはいけない?
この平和な一時を棄てて?
……そこまでの価値が、山の向こうにあるのだろうか。
今の彼女には、分からない。
何度目かになる溜め息を吐き出して、フィーナはケナとアレイアから目を離し、階段の手すりに寄りかかる。
自分はいつまでここにいていいのだろう。永劫なはずはない。今だってアレイアの世話になりっぱなしで、迷惑をかけている。
記憶が戻ろうが戻らまいが、ここを離れなくてはならないときは近々来るのだ。
そのときが来たら、自分はどこに行けばいいのだろう?
帰る場所も分からないのに。
「……」
軽く首を振って目を閉じた。
……そのときだった。
とんッ
――え?
ぐらり、と身体が傾いだ。ずるり、と石段から足がずり落ちるのが分かった。分かったけれども、身を捩る程度しか出来ない。
固い石段が、一気に目の前に広がった。
「――ッ!」
――落ちる……ッ!
反射的に目を瞑る。来る衝撃に備えて身を固くした。
けれど。
ぐいッ!
袖を引かれる感覚があって、どしん! と尻餅のような音がした。でも痛みはない。代わりに間近で『いっつ……!』という苦悶の声が上がって、何か温かい感触が身体を抱いていた。
恐る恐る目を開ける。
黒いジャケットが目に入った。その袖から伸びる腕に、抱えられているのだ。
「大丈夫か?」
静かな声が上から降ってくる。反射的に顔を上げて、
「……あ、う……うん。大丈夫。ごめん――」
「 」
「・・・ッ!?」
はっ、と我に返って自分の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、階段から落ちる自分を抱えて庇ってくれた功労者の顔をじっと見る。
逆光に見える、汗で額に張り付いた黒髪と、少しだけ悲しそうな面影のある紫紺の瞳。
「……アレイア、よね?」
「? どうしたんだ、頭でも打ったのか?」
茶化しているのではなく、真剣に心配してくる彼に、息を吐き出した。石段の踊り場まで落ちていて、アレイアに抱えてもらっているのだった。
ようやくその気恥ずかしさに気がついて、慌ててフィーナは彼から身体を離した。
アレイアは打って痛むのだろう、身体を重そうに摩りながら立ち上がった。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫だ……。それより気をつけろ」
「う、うん。ごめん」
声が動揺で裏返っていた。階上から『お父さん、フィーナちゃん、だいじょうぶーッ!?』と泣きそうなお姫様の声が聞こえた。老人のしわがれた声も聞こえる。
「大丈夫です。今、戻ります。ほら、フィーナ」
「え、あ……うん」
階上の娘と老人に一声投げて、アレイアが手を差し出してくれる。ぼんやりとしながらフィーナは手を出した。
引っ張られるように階段を上りながら考える。
確かに今、背後には誰もいなかった。アレイアは少し離れて老人と会話していたし、ケナだって庭で遊んでいた。アレイアたちはフィーナが足を滑らせたものだと思っているらしい。
だが、背中が押される感覚が、確かにあったのだ。何の気配もなかったというのに。
それに何より。
――今……
助けられたと気がついて、ごめん、と言ったとき。黒いジャケットだけを見ても、自分を助けたのがアレイアだと分かったはずだ。
なのに、ごめん、と口にしてから喉元に上がったのは、彼の名前を呼ぶ発音ではなかった。
彼の名ではなかったのだ。
―― ……じゃあ、誰の?
分からない。喉元まで上がってきたはずなのに、寸前で潰えてしまった。
「フィーナ?」
「……」
アレイアに呼びかけられて顔を上げる。自分の手を引きながら階段を上がる男の姿が、目に映る。
―― ……駄目だ、何も出て来ない。
アレイアが本当に不安げな、心配そうな表情を向けてくる。ふるふると首を振って、フィーナは笑みを浮かべた。
「何でもない。大丈夫よ」
「本当か? どこか痛めたんじゃ……」
「ううん、大丈夫、大丈夫! 何ともないわよ!」
狐につままれたような表情で、しかし、アレイアはそれ以上何も言わなかった。ほっ、と胸を撫で下ろして、不意にフィーナは階段の下を見た。
「――!?」
目が、合った。
深い紫の色の瞳に、ぞくりと背筋が跳ねる。
陽光に柔らかく反射する薄桃色の髪。それを一房だけ束ねていて、薄い唇は真一文字に引き結んでいる。
どこか張り詰めた雰囲気を纏って、白い畏まった装束に、腰のベルトには短剣が刺さっていて――
――う……ッ?
そんな女が、階段の下から睨むようにフィーナを眺めていた。ただ、男に手を引かれている女ではなく、フィーナを。彼女を、眺めていた。
「フィーナ、どうかしたか?」
「あ、ううん」
また、心配そうな声を上げさせてしまった。慌ててフィーナはアレイアに向き直り、たんたんと階段を上る。
「もー、フィーナちゃん何してるのー? 危ないじゃない!」
「あはは、ごめんごめん」
ケナのお叱りに頭を下げる。老人が良かった、良かった、と微笑んでいた。
「それで村長。件のことですが……」
「ああ、はいよ。そいつはね……」
アレイアが老人と仕事の話に戻る。フィーナはもう一度、階段の下を盗み見た。
女の影は、既にもう、どこにもなかった――。
←10へ
唐突に、ケナが明るい声を上げた。ふ、と顔を上げると、老齢の男性と談笑するアレイアの姿が見えた。
「お父さーんッ!」
ぱっ、とフィーナの手を離したケナが駆け出した。やたら滅多に走るな、といういつも言っている忠告はどうあっても聞いてくれないらしい。
父親に駆け寄ったケナは、そのまま軽くジャンプして抱き着いた。気がついたアレイアが、慌てて抱き止めた。
一方でフィーナは、彼と話をしていた男性に頭を下げる。やんわりと微笑んだ男性は、お辞儀を返してくれた。
「ケナ、それにフィーナ。どうしたんだ?」
「お父さん迎えに来たの!」
彼のジャケットにしがみ付いたケナが『びっくりした?』と無邪気に笑う。アレイアはいつも通りにふっ、と笑って金髪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
それを微笑ましく眺めながら、フィーナは籠の中から買った菓子を取り出して、老人に手渡す。老人は少しだけ遠慮したが、
「いつも依頼を貰ってるんだから、受け取ってください」
というアレイアの言葉に、結局は笑顔で受け取ってくれた。
アレイアは抱き上げたケナを下ろして、まだ頭を撫でながらフィーナに向き直る。
「買い物の帰りか?」
「うん。仕事終わりが早いって言ってたから。ついでに迎えに行こう、って話になって」
「そうか。ありがとう」
アレイアはケナにもするように、ぽんぽん、とフィーナの頭を叩く。フィーナはまた無意識のうちに避けそうになって、けれど踏み止まって、少々ぎこちなく笑う羽目になった。
アレイアも気がついたようで、すぐに頭から手を離す。まずい。早く馴れないといけないだろう、これは。
「すまないけど、まだ話が終わってないんだ」
手を離してからすまなさそうに言う。ということは、仕事の話だろう。
「ああ、ブロードさん。何なら後日でも構わんよ」
「あ、いいですいいです。待ってますから。ケナちゃん、まだお父さん、お仕事の話があるそうだから待ってよ、ね」
「はーい。もー、お父さん早くねー! せっかく美女二人が迎えに来てるんだからねー」
――何でこの娘はこう、おませなんだろうか。
ぶんぶん手を振る小さな美女に、苦笑いが漏れる。老人が、ストリートから外れた自分の家の広大な庭を指差した。彼は、そこで遊んでいなさい、と優しくケナに言ってくれた。
馴れたもので、彼女ははーい、と元気な返事をしてまた駆け出した。
もう、この子の元気は癖のようなものなのだろう。
ふぅ、と息を吐いて、フィーナは頭を下げる。庭でてんとう虫の観察を始めているケナを目の端に留めながら、彼女とは別の方に向かった。
老人の家はストリートからややはずれた、石で作られた小高い場所にあった。その階段の上の手すりに寄りかかって、まだ高い日を眺める。
ケナは芝生の青い庭で遊んでいる。アレイアは神妙な顔で老人の言葉に頷いていた。
しばらく階段の上で呆けていた。天上に上がっている日が、じりじりと頭の後ろを焼いてくる。
「はー……」
先ほど、菓子屋で聞いた話が頭を掠める。
山一つを隔てた野で行われている戦争。この間も、どこかの地が北に、南に奪われて……なんて話。
記憶を失くす前の自分なら覚えていたのだろうか。少なくとも、今の目の前の風景は、普通に子供が庭で遊んでいて、老人の悩みは畑が猪に襲われて困っている、なんて話。
……まあ、物価は高くなっているのだけれど。
「ん……」
私は、一体、どちらにいたのだろう。
自分は武装して倒れていたらしい。ということは、やはり、気絶する前、自分は山の向こうの戦中の人間だったのだろうか。
思い出せば、山の向こうに戻らなくてはいけない?
この平和な一時を棄てて?
……そこまでの価値が、山の向こうにあるのだろうか。
今の彼女には、分からない。
何度目かになる溜め息を吐き出して、フィーナはケナとアレイアから目を離し、階段の手すりに寄りかかる。
自分はいつまでここにいていいのだろう。永劫なはずはない。今だってアレイアの世話になりっぱなしで、迷惑をかけている。
記憶が戻ろうが戻らまいが、ここを離れなくてはならないときは近々来るのだ。
そのときが来たら、自分はどこに行けばいいのだろう?
帰る場所も分からないのに。
「……」
軽く首を振って目を閉じた。
……そのときだった。
とんッ
――え?
ぐらり、と身体が傾いだ。ずるり、と石段から足がずり落ちるのが分かった。分かったけれども、身を捩る程度しか出来ない。
固い石段が、一気に目の前に広がった。
「――ッ!」
――落ちる……ッ!
反射的に目を瞑る。来る衝撃に備えて身を固くした。
けれど。
ぐいッ!
袖を引かれる感覚があって、どしん! と尻餅のような音がした。でも痛みはない。代わりに間近で『いっつ……!』という苦悶の声が上がって、何か温かい感触が身体を抱いていた。
恐る恐る目を開ける。
黒いジャケットが目に入った。その袖から伸びる腕に、抱えられているのだ。
「大丈夫か?」
静かな声が上から降ってくる。反射的に顔を上げて、
「……あ、う……うん。大丈夫。ごめん――」
「 」
「・・・ッ!?」
はっ、と我に返って自分の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、階段から落ちる自分を抱えて庇ってくれた功労者の顔をじっと見る。
逆光に見える、汗で額に張り付いた黒髪と、少しだけ悲しそうな面影のある紫紺の瞳。
「……アレイア、よね?」
「? どうしたんだ、頭でも打ったのか?」
茶化しているのではなく、真剣に心配してくる彼に、息を吐き出した。石段の踊り場まで落ちていて、アレイアに抱えてもらっているのだった。
ようやくその気恥ずかしさに気がついて、慌ててフィーナは彼から身体を離した。
アレイアは打って痛むのだろう、身体を重そうに摩りながら立ち上がった。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫だ……。それより気をつけろ」
「う、うん。ごめん」
声が動揺で裏返っていた。階上から『お父さん、フィーナちゃん、だいじょうぶーッ!?』と泣きそうなお姫様の声が聞こえた。老人のしわがれた声も聞こえる。
「大丈夫です。今、戻ります。ほら、フィーナ」
「え、あ……うん」
階上の娘と老人に一声投げて、アレイアが手を差し出してくれる。ぼんやりとしながらフィーナは手を出した。
引っ張られるように階段を上りながら考える。
確かに今、背後には誰もいなかった。アレイアは少し離れて老人と会話していたし、ケナだって庭で遊んでいた。アレイアたちはフィーナが足を滑らせたものだと思っているらしい。
だが、背中が押される感覚が、確かにあったのだ。何の気配もなかったというのに。
それに何より。
――今……
助けられたと気がついて、ごめん、と言ったとき。黒いジャケットだけを見ても、自分を助けたのがアレイアだと分かったはずだ。
なのに、ごめん、と口にしてから喉元に上がったのは、彼の名前を呼ぶ発音ではなかった。
彼の名ではなかったのだ。
―― ……じゃあ、誰の?
分からない。喉元まで上がってきたはずなのに、寸前で潰えてしまった。
「フィーナ?」
「……」
アレイアに呼びかけられて顔を上げる。自分の手を引きながら階段を上がる男の姿が、目に映る。
―― ……駄目だ、何も出て来ない。
アレイアが本当に不安げな、心配そうな表情を向けてくる。ふるふると首を振って、フィーナは笑みを浮かべた。
「何でもない。大丈夫よ」
「本当か? どこか痛めたんじゃ……」
「ううん、大丈夫、大丈夫! 何ともないわよ!」
狐につままれたような表情で、しかし、アレイアはそれ以上何も言わなかった。ほっ、と胸を撫で下ろして、不意にフィーナは階段の下を見た。
「――!?」
目が、合った。
深い紫の色の瞳に、ぞくりと背筋が跳ねる。
陽光に柔らかく反射する薄桃色の髪。それを一房だけ束ねていて、薄い唇は真一文字に引き結んでいる。
どこか張り詰めた雰囲気を纏って、白い畏まった装束に、腰のベルトには短剣が刺さっていて――
――う……ッ?
そんな女が、階段の下から睨むようにフィーナを眺めていた。ただ、男に手を引かれている女ではなく、フィーナを。彼女を、眺めていた。
「フィーナ、どうかしたか?」
「あ、ううん」
また、心配そうな声を上げさせてしまった。慌ててフィーナはアレイアに向き直り、たんたんと階段を上る。
「もー、フィーナちゃん何してるのー? 危ないじゃない!」
「あはは、ごめんごめん」
ケナのお叱りに頭を下げる。老人が良かった、良かった、と微笑んでいた。
「それで村長。件のことですが……」
「ああ、はいよ。そいつはね……」
アレイアが老人と仕事の話に戻る。フィーナはもう一度、階段の下を盗み見た。
女の影は、既にもう、どこにもなかった――。
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THE Third:慟哭の月
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