[1]
[2]
「んー……おはよ」
「お早う」
目を擦りながら宿屋を下りてみると。
「……何で」
―――いや、レンがいるのはまあいつも通りだからいいんだけど。
カノンはその場でテーブルの周辺を見回した。
あの後。
まさか大騒ぎのホテルに泊まり続けるのも気が滅入るので宿を変え、WMOと政団それぞれに事情聴取を受けること一週間。
WMOの方はローランの口利きで短く済んだが、政団の方はそうはいかない。
それどころか以前、死術狩りをやっていたことが明るみに出て、現場検証にまで協力させられた。
ルナの方と言えばWMOでの始末が大変だったらしく、政団の方に顔は利かせられず。
結局、予定外の一週間を過ごす羽目になり、今日、やっとこの後味の悪い町を去ることが出来るようになったのだが。
ようやく戦いの疲れも取れて、爽やかな朝だと言うのに。
椅子の下に伸びているシリアと、満面の笑みで絡んでくる気満々のアルティオ、そしてすっかり旅支度を整えたWMOで寝泊りしていたはずのルナ。
ぐるり、と首を回して、話が通じそうな相手を探す。
行き着いた先のルナに顔を向け、
「何であんたがいるの……?」
「まー、嫌そうな顔してないで。とりあえず座んなさいv」
―――言われなくてもそうするけどさ……
嫌な予感に頭を掻きながら席に着く。とりあえず、置きぬけのジュースを注文してからカノンはルナの方へ向き直った。
「まずは事後処理ね。
丸く、は収まってないけど、とりあえず一段落は着いたわ。もうここを発ってもいいって」
「そりゃあ、もう一週間だし……いい加減、出してくれないと困るわよ……」
「まあね、だからあたしも解放されたわけだけど。
結局、WMO側は全職員の人事見直し。支部長も別の人に変わって、ローランさんはまあ、事後の事件処理に協力的だったってことで厳重注意処分。どっかのイナカに隠居するってさ」
「……」
ローランの胸中を理解できる人間はいないだろう。孫を止められなかったばかりか、あんな形で肉親を失ったのだ。
今、どんな心持なのか、カノンには知る術などない。
「で、ね。全部の事を操ってたあいつのことなんだけど……」
ひくり、と無表情を保っていたレンの眉が動く。カノンもアルティオも無意識に身を乗り出して、しかし、ルナは苛立ちに髪を掻き揚げながら、
「……手がかりがまったくなし。クロードの私室にも、クレイヴの部屋にも、身元がわかるような痕跡はない。あるとすれば、町の人がそういう恰好の人を見かけた、なんていう役に立たない目撃証言だけ、それも場所なんて特定されてないから、何も分析できない、ってのが現実」
食堂内に脱力の息が漏れた。
「けど、あいつが件に関わってたのは確かなんでしょう?」
「うわ、生きてた」
むくり、と起き上がってきたシリアに軽く驚きながら、
「だったら、それこそ大陸のデータバンクでも何でも使って身元を割ればいいじゃない。あんな人間そうぽこぽこいてたまるものですか」
「……人間、だったらいいがな」
最も聞きたくない言葉だ。全員が顔を上げて声を発したレンを見る。
「他人の作った魔道生物を暴走させる、くらいならともかく、シリアたちの話にあった合成獣を一斉に塵に帰る―――なんてことが普通の人間に出来ると思うか?
あまつさえ、最後を見ただろう。あの消え方が人間に出来る消え方か?」
「じゃあ、あれは何だってのよ?」
「それはわからん」
「どうにせよ、"ただの人間"てわけじゃないみたいね……」
低い声でルナが漏らす。カノンの頼んだジュースをウェイトレスが運んできたことで、一瞬、全員の声が途切れる。
その後も続いた沈黙に、
「……あの人、ね」
ぽつり、とカノンがジュースをちびりと飲みながら言う。
「ゼルゼイルの貿易場にいた」
「!」
「……だから、ひょっとしたら、クロードの思惑から考えても、関係のある人なのかもしれない……。
けど……」
「けど?」
「けど……何ていうのかな。よくわかんないけど、悪い人間じゃなかった気がするのよ、少なくともそのときは、だけど……」
「おいおい、正気かカノン。お前だって見ただろ? あいつ、顔色一つ変えないで……」
一週間前の情景を思い出してか、アルティオが身震いする。カノンは溜め息を吐いて、
「わかってるんだけどね」と口にした。
「……もとより、あれが何なのかは詮索しても仕方が無い」
再び下りた沈黙を、レンが破る。
「最後に言っていただろう、『また』と。
こちらとしても願い下げだが、また何かしがの手を打ってくる可能性がある。だが、それがいつかなどわからない、向こうの正体もわからない以上、いつも通りに過ごすしかない」
「あんたって本当に……」
「何か異論あるのか?」
「いや、ないけどさ……」
―――本当に、身も蓋もないというか。
だが。
彼の談が間違っているわけではない。
どうにしろ、カノンとしてはいつも通りに、過去のことは過去のこととして過ごしていくしかないのだ。
「レン」
「何だ?」
「……ありがと、少し根詰めてた」
肩を竦めて言うと彼は呆れたような息を吐き出して、コーヒーい口をつけた。そのいつもと変わらぬ様子に、勢いづけてカノンはジュースを……
「ちょっとお待ちなさい」
飲み干そうとして。
伸びた細い手に邪魔された。
「何、勝手に二人で完結して雰囲気作っているのかしら? 私たちがいること忘れてるんじゃあないわよ?」
「別に雰囲気なんて作って……って、顔近いって」
詰め寄ってきたシリアを押し返して、テーブルへ肘を付く。
「で、あんたたちはこれからどーすんのよ?」
「ふっ、最初に言わなかったかしら?」
「はぁ?」
「言ったはずよ、この私が来た以上、レンとの二人で駆け落ち道中なんて許さないって! どこかの泥棒猫には不釣合いだわッ!!」
「だから、駆け落ちじゃないって言ってるでしょーがッ!! ってか泥棒猫って何よッ!? 人聞きの悪いッ!!」
「まあまあ、カノン」
「あんたも仲裁に見せかけてややこしいとこ触ってんじゃないッ!!
って、そういうことはやっぱりあんたも付いて来る気なわけ……?」
「ふっ、当然だな。
お前をあんな得体の知れない奴が狙っているとなれば、か弱い姫には屈強なナイトが必要だろう?」
「……いや、頑丈なのは認めるけどあんたは騎士ってより山賊の親分やってた方が似合いそ……」
「ということで! この先、二人っきりで旅が出来るなんて夢は見ない方がいいわよ! ほーっほっほっほ!」
「あー……やっぱりこうなるわけね……」
げっそりと肩を落して首を振る。相棒と言えば、もう諦めているのか何なのか、先程からコーヒーをすするばかりで関心を示さないし。
「あっはっは、こんだけ大所帯だと大変よねぇ。五人旅、ってのは割と初めてじゃなーい?」
「まあね……って、五人ッ!? ルナ、あんたまで付いて来る気ッ!?」
「とーぜんでしょ。まだ『ヴォルケーノ』の密輸経路がわかったわけじゃないんだし。
あいつはあんたたちの周辺を狙ってる、とくれば付いてくのが一番の上策じゃない」
「ま、まあそうかもしれないけど……」
「まー、ともかく何はともあれそうと決まれば腹ごしらえね! 景気を兼ねてカノンの奢りでッ!
ってことでおばちゃーん! あたしモーニングセットBと本日のデザート二皿! アイス大盛りで!!」
「こら、ちょっと待てッ!!」
「ふっ、ならこっちは地鶏の焼きビーフンセットとロイヤルミルクティーを貰おうかしら? レンは何がいーい? 私が食べさせてあげるわよv」
「死んでいろ。こっちにはモーニングセットのAを頼む。ツケはこっちでな」
「待て、あんたまでッ!!」
「俺もッ、モーニングセットA、B両方と、ああ、ライスは大盛りで! 後は……」
「ちょっとこら! そんな予算どこに……って、こら! ……あーもう!
人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
朝日の差す宿屋の一階に、少女の絶叫が高らかに響き渡った。
その相棒の叫びを聞きながら、レンはふとカップの中の黒を覗く。
『灰になったら、行けるでしょう?』
―――下らん。
あの浜の少年の戯言は、一体何だったのか。
胸を掠めた疑問はしかし、そう残すものではないと知っていたがために。
彼は朝日の中に小さな疑念をそっと溶かして消した。
―――名前を呼ばれている。
最も、厳密には名前を呼んでいるわけではなくて、呼び名と言うか何と言うか、ともかく好きなように呼べばいいと言ったときに彼が口にした呼び名。
名前ではないが自分を呼んでいることくらいは解る。
応えてうっすらと目を開けて、だが横たえた身は起こさぬままで。
逆光の空をバックに、見覚えのある顔が、こちらを覗きこんでいた。
「やっと起きやがった! 何でこんなところで寝てんだよ!!」
憮然と膨れている。
ただ、人気の無い日陰の石畳に寝転がるというのは彼の美学によほど反したものだったらしい。それでも小さく息を吐くだけで、身は起こさずに、
「そんなに退屈だった?」
「退屈も何も、やることねぇし! ささっと仕事は終わらせちまうしさーッ! 一体、何だったんだよ!!」
活動的な性格に、ここ数日の暗躍染みた行動はどうにも我慢できないものだったらしい。
視界で喚きたてる姿に、くすくすと笑いを漏らす。
「ただの下準備だよ。どんなことにも下地は必要。君の力が不要なものだったんじゃない。ただ仕事の方が役不足だっただけさ」「じゃあ、なんでこんなとこに来なきゃいけなかったんだよ」
不満たらたら、溢し続ける彼にくすり、ともう一度笑みを向け、視線を移す。うみねこの鳴く空が、白い雲に霞んで見えた。
澄み切ったその青に、少年は注がれる日光を遮るかのように手を翳し、
「これからが本番だよ―――そうなれば、今度は君の出番だ」
―――そう、本番だ。
空に瞬く青へ宣告するかのように。
少年は片眼の視界に、再び瞼を閉じた。
口元に、かすかな微笑みを携えながら。
←11へ
「お早う」
目を擦りながら宿屋を下りてみると。
「……何で」
―――いや、レンがいるのはまあいつも通りだからいいんだけど。
カノンはその場でテーブルの周辺を見回した。
あの後。
まさか大騒ぎのホテルに泊まり続けるのも気が滅入るので宿を変え、WMOと政団それぞれに事情聴取を受けること一週間。
WMOの方はローランの口利きで短く済んだが、政団の方はそうはいかない。
それどころか以前、死術狩りをやっていたことが明るみに出て、現場検証にまで協力させられた。
ルナの方と言えばWMOでの始末が大変だったらしく、政団の方に顔は利かせられず。
結局、予定外の一週間を過ごす羽目になり、今日、やっとこの後味の悪い町を去ることが出来るようになったのだが。
ようやく戦いの疲れも取れて、爽やかな朝だと言うのに。
椅子の下に伸びているシリアと、満面の笑みで絡んでくる気満々のアルティオ、そしてすっかり旅支度を整えたWMOで寝泊りしていたはずのルナ。
ぐるり、と首を回して、話が通じそうな相手を探す。
行き着いた先のルナに顔を向け、
「何であんたがいるの……?」
「まー、嫌そうな顔してないで。とりあえず座んなさいv」
―――言われなくてもそうするけどさ……
嫌な予感に頭を掻きながら席に着く。とりあえず、置きぬけのジュースを注文してからカノンはルナの方へ向き直った。
「まずは事後処理ね。
丸く、は収まってないけど、とりあえず一段落は着いたわ。もうここを発ってもいいって」
「そりゃあ、もう一週間だし……いい加減、出してくれないと困るわよ……」
「まあね、だからあたしも解放されたわけだけど。
結局、WMO側は全職員の人事見直し。支部長も別の人に変わって、ローランさんはまあ、事後の事件処理に協力的だったってことで厳重注意処分。どっかのイナカに隠居するってさ」
「……」
ローランの胸中を理解できる人間はいないだろう。孫を止められなかったばかりか、あんな形で肉親を失ったのだ。
今、どんな心持なのか、カノンには知る術などない。
「で、ね。全部の事を操ってたあいつのことなんだけど……」
ひくり、と無表情を保っていたレンの眉が動く。カノンもアルティオも無意識に身を乗り出して、しかし、ルナは苛立ちに髪を掻き揚げながら、
「……手がかりがまったくなし。クロードの私室にも、クレイヴの部屋にも、身元がわかるような痕跡はない。あるとすれば、町の人がそういう恰好の人を見かけた、なんていう役に立たない目撃証言だけ、それも場所なんて特定されてないから、何も分析できない、ってのが現実」
食堂内に脱力の息が漏れた。
「けど、あいつが件に関わってたのは確かなんでしょう?」
「うわ、生きてた」
むくり、と起き上がってきたシリアに軽く驚きながら、
「だったら、それこそ大陸のデータバンクでも何でも使って身元を割ればいいじゃない。あんな人間そうぽこぽこいてたまるものですか」
「……人間、だったらいいがな」
最も聞きたくない言葉だ。全員が顔を上げて声を発したレンを見る。
「他人の作った魔道生物を暴走させる、くらいならともかく、シリアたちの話にあった合成獣を一斉に塵に帰る―――なんてことが普通の人間に出来ると思うか?
あまつさえ、最後を見ただろう。あの消え方が人間に出来る消え方か?」
「じゃあ、あれは何だってのよ?」
「それはわからん」
「どうにせよ、"ただの人間"てわけじゃないみたいね……」
低い声でルナが漏らす。カノンの頼んだジュースをウェイトレスが運んできたことで、一瞬、全員の声が途切れる。
その後も続いた沈黙に、
「……あの人、ね」
ぽつり、とカノンがジュースをちびりと飲みながら言う。
「ゼルゼイルの貿易場にいた」
「!」
「……だから、ひょっとしたら、クロードの思惑から考えても、関係のある人なのかもしれない……。
けど……」
「けど?」
「けど……何ていうのかな。よくわかんないけど、悪い人間じゃなかった気がするのよ、少なくともそのときは、だけど……」
「おいおい、正気かカノン。お前だって見ただろ? あいつ、顔色一つ変えないで……」
一週間前の情景を思い出してか、アルティオが身震いする。カノンは溜め息を吐いて、
「わかってるんだけどね」と口にした。
「……もとより、あれが何なのかは詮索しても仕方が無い」
再び下りた沈黙を、レンが破る。
「最後に言っていただろう、『また』と。
こちらとしても願い下げだが、また何かしがの手を打ってくる可能性がある。だが、それがいつかなどわからない、向こうの正体もわからない以上、いつも通りに過ごすしかない」
「あんたって本当に……」
「何か異論あるのか?」
「いや、ないけどさ……」
―――本当に、身も蓋もないというか。
だが。
彼の談が間違っているわけではない。
どうにしろ、カノンとしてはいつも通りに、過去のことは過去のこととして過ごしていくしかないのだ。
「レン」
「何だ?」
「……ありがと、少し根詰めてた」
肩を竦めて言うと彼は呆れたような息を吐き出して、コーヒーい口をつけた。そのいつもと変わらぬ様子に、勢いづけてカノンはジュースを……
「ちょっとお待ちなさい」
飲み干そうとして。
伸びた細い手に邪魔された。
「何、勝手に二人で完結して雰囲気作っているのかしら? 私たちがいること忘れてるんじゃあないわよ?」
「別に雰囲気なんて作って……って、顔近いって」
詰め寄ってきたシリアを押し返して、テーブルへ肘を付く。
「で、あんたたちはこれからどーすんのよ?」
「ふっ、最初に言わなかったかしら?」
「はぁ?」
「言ったはずよ、この私が来た以上、レンとの二人で駆け落ち道中なんて許さないって! どこかの泥棒猫には不釣合いだわッ!!」
「だから、駆け落ちじゃないって言ってるでしょーがッ!! ってか泥棒猫って何よッ!? 人聞きの悪いッ!!」
「まあまあ、カノン」
「あんたも仲裁に見せかけてややこしいとこ触ってんじゃないッ!!
って、そういうことはやっぱりあんたも付いて来る気なわけ……?」
「ふっ、当然だな。
お前をあんな得体の知れない奴が狙っているとなれば、か弱い姫には屈強なナイトが必要だろう?」
「……いや、頑丈なのは認めるけどあんたは騎士ってより山賊の親分やってた方が似合いそ……」
「ということで! この先、二人っきりで旅が出来るなんて夢は見ない方がいいわよ! ほーっほっほっほ!」
「あー……やっぱりこうなるわけね……」
げっそりと肩を落して首を振る。相棒と言えば、もう諦めているのか何なのか、先程からコーヒーをすするばかりで関心を示さないし。
「あっはっは、こんだけ大所帯だと大変よねぇ。五人旅、ってのは割と初めてじゃなーい?」
「まあね……って、五人ッ!? ルナ、あんたまで付いて来る気ッ!?」
「とーぜんでしょ。まだ『ヴォルケーノ』の密輸経路がわかったわけじゃないんだし。
あいつはあんたたちの周辺を狙ってる、とくれば付いてくのが一番の上策じゃない」
「ま、まあそうかもしれないけど……」
「まー、ともかく何はともあれそうと決まれば腹ごしらえね! 景気を兼ねてカノンの奢りでッ!
ってことでおばちゃーん! あたしモーニングセットBと本日のデザート二皿! アイス大盛りで!!」
「こら、ちょっと待てッ!!」
「ふっ、ならこっちは地鶏の焼きビーフンセットとロイヤルミルクティーを貰おうかしら? レンは何がいーい? 私が食べさせてあげるわよv」
「死んでいろ。こっちにはモーニングセットのAを頼む。ツケはこっちでな」
「待て、あんたまでッ!!」
「俺もッ、モーニングセットA、B両方と、ああ、ライスは大盛りで! 後は……」
「ちょっとこら! そんな予算どこに……って、こら! ……あーもう!
人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
朝日の差す宿屋の一階に、少女の絶叫が高らかに響き渡った。
その相棒の叫びを聞きながら、レンはふとカップの中の黒を覗く。
『灰になったら、行けるでしょう?』
―――下らん。
あの浜の少年の戯言は、一体何だったのか。
胸を掠めた疑問はしかし、そう残すものではないと知っていたがために。
彼は朝日の中に小さな疑念をそっと溶かして消した。
―――名前を呼ばれている。
最も、厳密には名前を呼んでいるわけではなくて、呼び名と言うか何と言うか、ともかく好きなように呼べばいいと言ったときに彼が口にした呼び名。
名前ではないが自分を呼んでいることくらいは解る。
応えてうっすらと目を開けて、だが横たえた身は起こさぬままで。
逆光の空をバックに、見覚えのある顔が、こちらを覗きこんでいた。
「やっと起きやがった! 何でこんなところで寝てんだよ!!」
憮然と膨れている。
ただ、人気の無い日陰の石畳に寝転がるというのは彼の美学によほど反したものだったらしい。それでも小さく息を吐くだけで、身は起こさずに、
「そんなに退屈だった?」
「退屈も何も、やることねぇし! ささっと仕事は終わらせちまうしさーッ! 一体、何だったんだよ!!」
活動的な性格に、ここ数日の暗躍染みた行動はどうにも我慢できないものだったらしい。
視界で喚きたてる姿に、くすくすと笑いを漏らす。
「ただの下準備だよ。どんなことにも下地は必要。君の力が不要なものだったんじゃない。ただ仕事の方が役不足だっただけさ」「じゃあ、なんでこんなとこに来なきゃいけなかったんだよ」
不満たらたら、溢し続ける彼にくすり、ともう一度笑みを向け、視線を移す。うみねこの鳴く空が、白い雲に霞んで見えた。
澄み切ったその青に、少年は注がれる日光を遮るかのように手を翳し、
「これからが本番だよ―――そうなれば、今度は君の出番だ」
―――そう、本番だ。
空に瞬く青へ宣告するかのように。
少年は片眼の視界に、再び瞼を閉じた。
口元に、かすかな微笑みを携えながら。
←11へ
『獣』は足を止めた。
目標がいない。
目の前が開けている。
最後の壁を破壊して広がったのは、ただ広い空間。外と内との境界を知らず知らずのうちに破壊してしまったらしい。
呻き声を漏らしながら、『獣』は瓦礫の山を押し退けながら外に出る。
すっかり日の落ちた夜空と、黒々と広がる森が視界を埋め尽くす。
刹那。
背後から気配。
「―――!」
ぎぎぃぃんッ!!
硬質化した腕と、銀の刃が噛み合って耳障りな協音を生む。束ねられた緋色の髪が翻って、鳶色の瞳が『獣』を射抜く。
「レンッ!」
呪文が完成するのを待ってレンは横に飛ぶ。
瞬間、
「吹けヴァイオレントゲイルッ!!」
ごおおぉぉおッ!!!
収束して吹いた烈風が、そのまま瓦礫ごと『獣』を外の空間へ吹き飛ばす。
烈風の名残を利用して勢いつけたレンがそれを追う。まともに体勢を崩していた『獣』、レンはその肩を狙い、
「覇ぁぁぁぁぁぁッ!!」
気合一閃。
ぎどんッ!!
『獣』の右腕が肩口から先が切り落とされる。緑色をした気味の悪い体液が跳ねて、がらんッ、と音を響かせて右腕が落ちる。
切り落とされた肩口から伸びる血管のような触手が蠢いて、瞬間的に『再生』を始める。
だが、ここは外。『ヴォルケーノ』が人間に作用しないよう、働いているのなら、合成獣のような強力な生命力を持つものいなければやはり即時再生は難しいらしい。
『獣』は痛みに叫ぶことなく後ろへと飛ぶ。
じわじわと、確実に、修復に伸びていく腕。先程よりは遅いが思ったより早い。
だが、それを待ってやっている義理はない。
レンはさらに踏み込んで、『獣』に刃を向ける。『獣』は四本の指の先から爪を伸ばし、それを受け止める。
ぎんッ、と金属音が耳を打った。
返す刀で剣を引き、『獣』の胴を凪ごうとするレン。『獣』はそれを交わし、横っ飛びに間合いを取って、
「!」
「覇ッ!!」
いつの間にか回り込んでいたカノンの剣鎌の刃を無理矢理、背中で受け止める。腕より背の方が装甲が硬いのか、カノンの刃は通らない。
彼女は刃を引いて『獣』との間合いを取る。
しかし、その間にも体勢を立て直したレンは『獣』へ切りかかる。難なく、これを受ける『獣』。
長い間合いを取って、カノンは短い呪を紡ぐ。
「疾く集え、地を這う哀れな者たちよ……」
ぎっ……
カノンの右手に重圧がかかる。
クオノリアに満ちる焦燥が、得体の知れ無いものへの恐怖が。彼女の元に集い、傅く。
空を裂く音。剣鎌の先端が黒に染まる。
「覇ぁあぁああぁあぁあッ!!」
レンが再び剣を振るい、『獣』の右腕へと刃を振り下ろす。破魔の力を受けた鋭い刃は易々と肩口へと食い込み、復活しかけた腕を再び切り落とす。
『獣』が彼を振り払うように身を震わせる。
はみ出た血管はすぐ様、修復を始める。が、
「カノン、レンッ!!」
飛んだ声にレンは構えを解かずに距離を取り、カノンはそのままじりっ、と後退する。
腕を一本、二本落としただけで勝てるとは思わない。ただ修復に手間をかけさせるだけの時間稼ぎ。
「我求む……」
ルナの翻した両手に眩い光が宿る。彼女の足元には稼いだ時間をかけて練り上げた魔道陣。
「破するは赤き閃光の槍……」
彼女と『獣』を繋ぐ空間に、一筋の赤い線が走る。力がその場に具現するための、いわば導火線。
ルナは拳を前へ突き出すように、最後の命令をそれへ叩きつける。
「撃てドラグーンフレアッ!!!」
赤い轟音が辺りを揺るがす。燃え上がる閃光を追うようにカノンが駆ける。
猛る熱量に『獣』の体が溶けて悪臭を漂わせる。剥がれるように落ちていく装甲。熱に負けてただれていく皮膚。
張りぼてと化していく胸の袂に、
「―――取った!!」
炎が止み、その胸に白い華を見つける。わずかな光を放つそれは、自らの姿を隠すように肉体の修復を開始する。
しかし、そんな暇をやる必要はない!
赤い線を縫って駆け抜けたカノンはそのまま剣鎌を白い華へと突き立てる!
「我が内に集えッ!!」
がぁあああぁぁぁあぁああぁあぁぁぁッ!!!
剣先と華が触れた箇所から黒い光が噴出した。
「……『ヴォルケーノ』の元は魔力と瘴気の塊。カノンの『魔変換』[ガストチャージ]は負と魔の力を取り込む能力。
それがあれば、」
カノンの持つ刃に広がる黒の瘴気が大きくなっていく。
噴出した瘴気は剣鎌の先端から先端を黒に染めた。華が修復を止める。カノンは刃を引く。そして、
「覇ぁああああぁぁあッ!!」
そのまま、瘴気を叩きつけるようにカノンは横薙ぎに、小さく縮まった華を斬り飛ばす!
ざんッ!!!
「『ヴォルケーノ』本体を吸収した力なら斬れるッ!!」
ぎぃいいいぃいあぁああぁあああぁあぁぁぁぁあぁッ!!!
カノンの黒い刃が華を散らすのと、『獣』が歪んだ断末魔を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「カノンッ!」
「れーんッ!!」
華の復活がないことを確認して、カノンたちが肩を下ろしていた矢先。背後からいつもの黄色い声がかかった。
「シリアッ! アルティオッ!!」
「大丈夫か、カノンッ!? 嫁にいけないようなことされてないかッ!?」
「されてないわよ、そんなもん……。ってか何想像してんのよ、あんたはッ!!」
「でッ!」
着いて早々余計なことを口にしたアルティオの頭をしばく。
「れーん、大丈夫ぅ? この女に変なことされなかったぁ?」
「何をするってのよ、こんなときに……」
「それより、あんたたち町の方は大丈夫なの? ちゃんと全部片付けて来たんでしょうね?」
「いや、それがさ、何ていうか……」
「ちょっと、それはいいけど。あんたたち、ちゃんとクロードの尻尾を掴んでんでしょうね?」
『……』
シリアのその問いに。
カノンたちは揃って顔を見合わせた。
―――はぁ、はぁ……
自分の吐き出す息が五月蝿い。だらだらと血を流す右の足が、骨のいかれたあばらの脇腹が、歩を進めるたびにじりじりと熱を持った痛みを容赦なく放つ。
三歩、歩みを進めたところで吐き気を催して膝を付く。吐き出した胃液には多量の血が混じっていた。
上がった胃液が、折れた肋骨がどこの部位か知らない、体内を傷つけてまた血が噴き出す。
ずるずると、色の変わった服を引き摺りながら、どことも解らない草むらを歩く。
圧倒的な肉体の痛みに、もう声すらも出ない。
―――くそ、くそくそくそ……ッ!
こんなはずじゃなかった。
どこから計画が狂った? 破綻した? そうだ、元はと言えば、合成獣が一度ビーチで暴走したときから。
仲間にも、配下にもあんな命令は下していない。あんなはずはないのだ。誰が一体、あんな場所に『獣の華』を放った。
それにクレイヴのことも。奴が死ななければ、奴が雇ったあいつらが事件に酌みすることもなかった。あそこからすべてがうまくいかなくなった。
一体、誰が?
―――クソッ、まだ、まだ終わるわけには……
悪態を吐いたとき、前方の草むらががさり、と鳴った。びくり、と震えた瞬間に全身に走る痛み。それでも何とか堪えて面を上げる。
視界に入ったのは夜風に棚引く柔らかな黒の影。
わずかな新月の灯りに照らされながら佇む漆黒の闇。
「あ、あな…た、は……」
少しだけ、身体に力が戻ってくる。
「た、たす、助け―――」
吐き出した血を拭いながら、唯一の光明へ縋りつくように手を伸ばす。体液に塗れた指が伸ばされて、そして―――。
ぎゃぁああぁああぁぁぁぁぁッ!!
『!?』
支部の裏側に広がる林に轟いた悲鳴に、一同は一斉に顔を上げた。
黒々とした影で佇む林に、息を飲んだのは誰だったか。
「今のは……」
「行くぞ」
全員が顔を見合わせて頷く。石畳を駆け抜けて、整備された石段が途切れた先からがさがさと茂みに分け入って。
最初に足を止めたのはカノンだった。
「あれ……」
降り注ぐ星明りに林の木々はただ陰を描き、わずかに存在する梢の合間から漏れる光が辺りを照らす。だが、その光も今夜の新月で大分弱い。
そのほの暗い光の中で、その姿は一層闇に溶けていて。
殆ど気配を感じないほどに儚く。
だが、それ故に何故か強烈なまでに瞼に焼きつく。
"彼"はこちらに気が付いているのかいないのか、いや、きっと気がついてはいるんだろう。静かに木々の合間から新月を見上げる。
青白い新月と暗い夜空と、陰を作り出す夜闇の梢が、それの輪郭をわずかに霞ませる。
「……今日は新月ですか」
くすり、と笑ったのだろうか。
「友人は満月が駄目なんだそうで、でも新月も嫌うんですよ。
満月は眩しすぎる、新月は暗すぎるんだそうで」
振り返った"彼"は微笑みを浮かべて彼女たちを出迎えた。
「あんた……」
新月を背にしたその"人"は、艶やかな黒髪と白い肌の、黒のコートと巻きつけた包帯の、モノクロのコントラストを描く。
あの、少年だった。
新月を背にするその姿は、美麗な一枚の絵にも相応しく。
けれど、
その幻想に圧倒的に不釣合いなこの鉄錆に似た不快な香りは何なんだろう―――。
「……ぅ、ぁ、ぁぁぁ…」
「・・・!」
目を向けるのさえ忘れていた。少年の足の袂から聞こえた呻きに、カノンは視線を下ろして。
思わず肩を震わせる。
そこには人が倒れていた。
どこかで見た、血だらけの銀の髪、赤黒く汚れた白いローブ。くたびれたその体は、しかし、上半身と下半身が不自然に折れ曲がり、両腕には深く刺さった杭のような白い棘。
吐き気を覚えて後退る。
「あ、あんた、ま、まさか……」
口も聞けない他のメンバーに代わり、何とか言葉を搾り出す。
少年はたった今しがた気が付いたように、ゆらり、と足元の『人間』を見下ろした。
「あ……ぁぁ、……ま、……んさま、ご、ご慈悲を……」
足元の『人間』が何事か呻く。少年はまったく表情を変えないまま、
がッ!!
「!!」
「……貴方はお喋りが過ぎますね。誰も名前を口にしていいと語った覚えはありません」
後ろ首を踏みつけた足をどけながら、呆れたように吐き出す。
そのときになって、カノンは思い出した。
WMOに拘束されていたとき、クロードが"あの方"と溢していたことを―――。
「まさか―――」
「カノン?」
「まさか、そいつに、『ヴォルケーノ』を渡した奴って、まさか―――」
「……そんなことまで喋ったんですか、貴方は」
肩を落して、少年は足元を見下ろして……いや、見下した。『ヴォルケーノ』の単語に、ルナの肩がひくり、と震えた。
「あんた……『ヴォルケーノ』を、一体どこであれを見つけたというの……ッ?」
「まあ、別にあれでなくとも良かったんですが、ね。
それにしてもいろいろ喋りすぎですね。仕方が無い」
少年は不意に、包帯に塗れた右手を振り上げた。その手には符、ほの白い光が収束し、やがて杭の形を造り出す。
「! やめッ……!!」
どしゅッ!!
思わず目を逸らす。鮮血が、闇に舞った。
少年は、
彼は、やれやれと首を振って血だらけの背中から杭を引き抜いた。暗い中に滴り落ちる血液を振るって、杭を放り捨てる。
白々しい動作で肩を竦め、
「まあ……どうせこうなるとは思っていましたから、仕方が無い」
「そいつ、あんたの配下か取引相手だったんじゃないの!?」
「……ええ、取引相手、でしたね。正確には」
口元を押さえることで吐き気を抑えながら、何とか前方に視線を投げる。少年は無残なその残骸を前にやはり、微笑みを絶やさないままで、しゃがみこんで"それ"の頭を取った。
「噛ませ犬、という言葉をご存知ですか、お嬢さん[sister]」
ぐしゃりッ
「―――っ!」
「シリアッ!」
細い指が、引きちぎられた頭部に食い込み、無残にそれは散開した。肉と脳の潰れる音がリアルに響き、少年の腕に巻かれた包帯を伝ってぼとぼとと血液とも髄液とも付かない薄赤い灰肌色のどろりとした体液が地面へ広がる。
アルティオが失神したシリアを支え、レンのマントがカノンの視界を遮る。ルナはひたすら苦い表情を浮かべながらもその場から動かない。
いや、動けないのだ。
目の前の、秀麗な雰囲気を持つ少年と。
無慈悲に引き裂かれた悲惨な骸と。
同じ空間に存在するその二つがあまりに不釣合いで。闇と同じ色をした少年は頬へ飛んだ体液をやはり微笑を浮かべたまま、静かに拭う。
優雅、とも言える動作に不和が沸き起こる。
少年はまるで空き缶を捨てるような所作でまだ手の中にあった頭部の残骸を下生えの中へ放り投げた。
「つまりは……世界はそういうもの無しでは構築出来ない程度のものなんですよ」
血の池の向こうで浮かべた少年の微笑みは、やはり圧倒的な不和をその場に漂わせるだけだった。
「……お前は何が狙いだったんだ?」
「……」
しばしして、束縛の解けたレンが静かに、しかし、どこかに怒りを孕ませて問いかける。少年は空を見つめ、ふぅー、と長い息を吐く。
「クロードが噛ませ犬でしかない、というなら、お前は一体その噛ませ犬で何をしようとしていたんだ?」
「……おかしいと思いませんでしたか?」
直接的に答えようとはせず、少年は返す刀で質問を切り返す。
「合成獣の急激な凶暴化、それに伴ってのクレイヴ=ロン=ウィンダリアの殺害、……事実、貴方方はそれがあったからこの事件に関わった。
それと、ルナ=ディスナーさん、でしたっけ?」
笑みを向けた先で、ルナが一歩退く。
「貴方のところに、最初に依頼をしに来たのは誰でした?」
彼女ははっ、と少年の足元に目をやりそうになって、慌てて逸らす。
「彼女がWMOと関わっていたからこそ、余計に事件について気がかりだったでしょう?」
「まさか貴様―――そのために……ッ!」
ゆっくりと、彼が目を細める。
「『ヴォルケーノ』に関してはまだ試験データが欲しいところだったんですが……
まあ、上出来な方です。それよりも、僕にとっては貴方方の試験データの方が重要でしてね。」
「じゃあッ! まさか、ビーチに合成獣を放ったのも、クレイヴを殺したのも……
町中に合成獣を放ったのも、クロードの合成獣を暴走させたのも……」
段々と力を失うルナの言葉に、少年は信じられないほど綺麗に、穏やかに、そして優雅ににっこりと微笑んだ。
「ええ、僕です」
と―――。
「許せないわね……」
カノンはぽつり、と呟いた。
「自分を欺こうとしていた人間に対して、ですか。人情的なことですね」
「どこの誰かは知らないけど、自分の駒を動かすために人の迷惑顧みず、そんな危なっかしいことやらかす奴を放って置けるわけないでしょ」
言ってレンのマントを払い、カノンは剣を正剣に構える。
「大体、そんなものをやらかす奴に……」
カノンの言葉もそこそこに。
彼女とレンはその場から左右に飛び退いた。
ごうッ!!
その後ろから、白い残像を描いて飛ぶ光弾が"彼"へと向かう!
ルナが放った魔法弾だ。
それは間を置かずに、少年へめり込んで風穴を空ける。少年はほんの少し、驚いたような表情でそれを見ていた。
が、
「な……ッ!?」
くぐもった呻きが漏れる。
一瞬で笑顔に戻った少年の身体は、弾が直撃した箇所から黒い塵へと霧散して消えていく。少年は笑みを湛えたまま。
「……またお会いしましょう、お嬢さん方[Sisters]」
そう唇を動かして。
"彼"の姿は完全に夜闇の塵となって消えた……。
遠くから、数人の足音が聞こえる。おそらくWMOの人間たちだろう。
町の喧騒は届いて来ない。
急激に力が抜けたように、アルティオはシリアを抱えながら地面に腰を下ろし、ルナは何かを考え込むように目を閉じている。
レンは何か渋い顔で空を見ていた。
カノンはその空気の中で、ばりばりと後ろ頭を掻いて。
「……とりあえず、ジ・エンドって言いたいところだけど―――」
―――もしかしたら、エンドどころか……
不穏な予感を胸に抱きながら、カノンは東の空に目を向けた。
夜明けは、まだ遠そうだった。
←10へ
目標がいない。
目の前が開けている。
最後の壁を破壊して広がったのは、ただ広い空間。外と内との境界を知らず知らずのうちに破壊してしまったらしい。
呻き声を漏らしながら、『獣』は瓦礫の山を押し退けながら外に出る。
すっかり日の落ちた夜空と、黒々と広がる森が視界を埋め尽くす。
刹那。
背後から気配。
「―――!」
ぎぎぃぃんッ!!
硬質化した腕と、銀の刃が噛み合って耳障りな協音を生む。束ねられた緋色の髪が翻って、鳶色の瞳が『獣』を射抜く。
「レンッ!」
呪文が完成するのを待ってレンは横に飛ぶ。
瞬間、
「吹けヴァイオレントゲイルッ!!」
ごおおぉぉおッ!!!
収束して吹いた烈風が、そのまま瓦礫ごと『獣』を外の空間へ吹き飛ばす。
烈風の名残を利用して勢いつけたレンがそれを追う。まともに体勢を崩していた『獣』、レンはその肩を狙い、
「覇ぁぁぁぁぁぁッ!!」
気合一閃。
ぎどんッ!!
『獣』の右腕が肩口から先が切り落とされる。緑色をした気味の悪い体液が跳ねて、がらんッ、と音を響かせて右腕が落ちる。
切り落とされた肩口から伸びる血管のような触手が蠢いて、瞬間的に『再生』を始める。
だが、ここは外。『ヴォルケーノ』が人間に作用しないよう、働いているのなら、合成獣のような強力な生命力を持つものいなければやはり即時再生は難しいらしい。
『獣』は痛みに叫ぶことなく後ろへと飛ぶ。
じわじわと、確実に、修復に伸びていく腕。先程よりは遅いが思ったより早い。
だが、それを待ってやっている義理はない。
レンはさらに踏み込んで、『獣』に刃を向ける。『獣』は四本の指の先から爪を伸ばし、それを受け止める。
ぎんッ、と金属音が耳を打った。
返す刀で剣を引き、『獣』の胴を凪ごうとするレン。『獣』はそれを交わし、横っ飛びに間合いを取って、
「!」
「覇ッ!!」
いつの間にか回り込んでいたカノンの剣鎌の刃を無理矢理、背中で受け止める。腕より背の方が装甲が硬いのか、カノンの刃は通らない。
彼女は刃を引いて『獣』との間合いを取る。
しかし、その間にも体勢を立て直したレンは『獣』へ切りかかる。難なく、これを受ける『獣』。
長い間合いを取って、カノンは短い呪を紡ぐ。
「疾く集え、地を這う哀れな者たちよ……」
ぎっ……
カノンの右手に重圧がかかる。
クオノリアに満ちる焦燥が、得体の知れ無いものへの恐怖が。彼女の元に集い、傅く。
空を裂く音。剣鎌の先端が黒に染まる。
「覇ぁあぁああぁあぁあッ!!」
レンが再び剣を振るい、『獣』の右腕へと刃を振り下ろす。破魔の力を受けた鋭い刃は易々と肩口へと食い込み、復活しかけた腕を再び切り落とす。
『獣』が彼を振り払うように身を震わせる。
はみ出た血管はすぐ様、修復を始める。が、
「カノン、レンッ!!」
飛んだ声にレンは構えを解かずに距離を取り、カノンはそのままじりっ、と後退する。
腕を一本、二本落としただけで勝てるとは思わない。ただ修復に手間をかけさせるだけの時間稼ぎ。
「我求む……」
ルナの翻した両手に眩い光が宿る。彼女の足元には稼いだ時間をかけて練り上げた魔道陣。
「破するは赤き閃光の槍……」
彼女と『獣』を繋ぐ空間に、一筋の赤い線が走る。力がその場に具現するための、いわば導火線。
ルナは拳を前へ突き出すように、最後の命令をそれへ叩きつける。
「撃てドラグーンフレアッ!!!」
赤い轟音が辺りを揺るがす。燃え上がる閃光を追うようにカノンが駆ける。
猛る熱量に『獣』の体が溶けて悪臭を漂わせる。剥がれるように落ちていく装甲。熱に負けてただれていく皮膚。
張りぼてと化していく胸の袂に、
「―――取った!!」
炎が止み、その胸に白い華を見つける。わずかな光を放つそれは、自らの姿を隠すように肉体の修復を開始する。
しかし、そんな暇をやる必要はない!
赤い線を縫って駆け抜けたカノンはそのまま剣鎌を白い華へと突き立てる!
「我が内に集えッ!!」
がぁあああぁぁぁあぁああぁあぁぁぁッ!!!
剣先と華が触れた箇所から黒い光が噴出した。
「……『ヴォルケーノ』の元は魔力と瘴気の塊。カノンの『魔変換』[ガストチャージ]は負と魔の力を取り込む能力。
それがあれば、」
カノンの持つ刃に広がる黒の瘴気が大きくなっていく。
噴出した瘴気は剣鎌の先端から先端を黒に染めた。華が修復を止める。カノンは刃を引く。そして、
「覇ぁああああぁぁあッ!!」
そのまま、瘴気を叩きつけるようにカノンは横薙ぎに、小さく縮まった華を斬り飛ばす!
ざんッ!!!
「『ヴォルケーノ』本体を吸収した力なら斬れるッ!!」
ぎぃいいいぃいあぁああぁあああぁあぁぁぁぁあぁッ!!!
カノンの黒い刃が華を散らすのと、『獣』が歪んだ断末魔を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「カノンッ!」
「れーんッ!!」
華の復活がないことを確認して、カノンたちが肩を下ろしていた矢先。背後からいつもの黄色い声がかかった。
「シリアッ! アルティオッ!!」
「大丈夫か、カノンッ!? 嫁にいけないようなことされてないかッ!?」
「されてないわよ、そんなもん……。ってか何想像してんのよ、あんたはッ!!」
「でッ!」
着いて早々余計なことを口にしたアルティオの頭をしばく。
「れーん、大丈夫ぅ? この女に変なことされなかったぁ?」
「何をするってのよ、こんなときに……」
「それより、あんたたち町の方は大丈夫なの? ちゃんと全部片付けて来たんでしょうね?」
「いや、それがさ、何ていうか……」
「ちょっと、それはいいけど。あんたたち、ちゃんとクロードの尻尾を掴んでんでしょうね?」
『……』
シリアのその問いに。
カノンたちは揃って顔を見合わせた。
―――はぁ、はぁ……
自分の吐き出す息が五月蝿い。だらだらと血を流す右の足が、骨のいかれたあばらの脇腹が、歩を進めるたびにじりじりと熱を持った痛みを容赦なく放つ。
三歩、歩みを進めたところで吐き気を催して膝を付く。吐き出した胃液には多量の血が混じっていた。
上がった胃液が、折れた肋骨がどこの部位か知らない、体内を傷つけてまた血が噴き出す。
ずるずると、色の変わった服を引き摺りながら、どことも解らない草むらを歩く。
圧倒的な肉体の痛みに、もう声すらも出ない。
―――くそ、くそくそくそ……ッ!
こんなはずじゃなかった。
どこから計画が狂った? 破綻した? そうだ、元はと言えば、合成獣が一度ビーチで暴走したときから。
仲間にも、配下にもあんな命令は下していない。あんなはずはないのだ。誰が一体、あんな場所に『獣の華』を放った。
それにクレイヴのことも。奴が死ななければ、奴が雇ったあいつらが事件に酌みすることもなかった。あそこからすべてがうまくいかなくなった。
一体、誰が?
―――クソッ、まだ、まだ終わるわけには……
悪態を吐いたとき、前方の草むらががさり、と鳴った。びくり、と震えた瞬間に全身に走る痛み。それでも何とか堪えて面を上げる。
視界に入ったのは夜風に棚引く柔らかな黒の影。
わずかな新月の灯りに照らされながら佇む漆黒の闇。
「あ、あな…た、は……」
少しだけ、身体に力が戻ってくる。
「た、たす、助け―――」
吐き出した血を拭いながら、唯一の光明へ縋りつくように手を伸ばす。体液に塗れた指が伸ばされて、そして―――。
ぎゃぁああぁああぁぁぁぁぁッ!!
『!?』
支部の裏側に広がる林に轟いた悲鳴に、一同は一斉に顔を上げた。
黒々とした影で佇む林に、息を飲んだのは誰だったか。
「今のは……」
「行くぞ」
全員が顔を見合わせて頷く。石畳を駆け抜けて、整備された石段が途切れた先からがさがさと茂みに分け入って。
最初に足を止めたのはカノンだった。
「あれ……」
降り注ぐ星明りに林の木々はただ陰を描き、わずかに存在する梢の合間から漏れる光が辺りを照らす。だが、その光も今夜の新月で大分弱い。
そのほの暗い光の中で、その姿は一層闇に溶けていて。
殆ど気配を感じないほどに儚く。
だが、それ故に何故か強烈なまでに瞼に焼きつく。
"彼"はこちらに気が付いているのかいないのか、いや、きっと気がついてはいるんだろう。静かに木々の合間から新月を見上げる。
青白い新月と暗い夜空と、陰を作り出す夜闇の梢が、それの輪郭をわずかに霞ませる。
「……今日は新月ですか」
くすり、と笑ったのだろうか。
「友人は満月が駄目なんだそうで、でも新月も嫌うんですよ。
満月は眩しすぎる、新月は暗すぎるんだそうで」
振り返った"彼"は微笑みを浮かべて彼女たちを出迎えた。
「あんた……」
新月を背にしたその"人"は、艶やかな黒髪と白い肌の、黒のコートと巻きつけた包帯の、モノクロのコントラストを描く。
あの、少年だった。
新月を背にするその姿は、美麗な一枚の絵にも相応しく。
けれど、
その幻想に圧倒的に不釣合いなこの鉄錆に似た不快な香りは何なんだろう―――。
「……ぅ、ぁ、ぁぁぁ…」
「・・・!」
目を向けるのさえ忘れていた。少年の足の袂から聞こえた呻きに、カノンは視線を下ろして。
思わず肩を震わせる。
そこには人が倒れていた。
どこかで見た、血だらけの銀の髪、赤黒く汚れた白いローブ。くたびれたその体は、しかし、上半身と下半身が不自然に折れ曲がり、両腕には深く刺さった杭のような白い棘。
吐き気を覚えて後退る。
「あ、あんた、ま、まさか……」
口も聞けない他のメンバーに代わり、何とか言葉を搾り出す。
少年はたった今しがた気が付いたように、ゆらり、と足元の『人間』を見下ろした。
「あ……ぁぁ、……ま、……んさま、ご、ご慈悲を……」
足元の『人間』が何事か呻く。少年はまったく表情を変えないまま、
がッ!!
「!!」
「……貴方はお喋りが過ぎますね。誰も名前を口にしていいと語った覚えはありません」
後ろ首を踏みつけた足をどけながら、呆れたように吐き出す。
そのときになって、カノンは思い出した。
WMOに拘束されていたとき、クロードが"あの方"と溢していたことを―――。
「まさか―――」
「カノン?」
「まさか、そいつに、『ヴォルケーノ』を渡した奴って、まさか―――」
「……そんなことまで喋ったんですか、貴方は」
肩を落して、少年は足元を見下ろして……いや、見下した。『ヴォルケーノ』の単語に、ルナの肩がひくり、と震えた。
「あんた……『ヴォルケーノ』を、一体どこであれを見つけたというの……ッ?」
「まあ、別にあれでなくとも良かったんですが、ね。
それにしてもいろいろ喋りすぎですね。仕方が無い」
少年は不意に、包帯に塗れた右手を振り上げた。その手には符、ほの白い光が収束し、やがて杭の形を造り出す。
「! やめッ……!!」
どしゅッ!!
思わず目を逸らす。鮮血が、闇に舞った。
少年は、
彼は、やれやれと首を振って血だらけの背中から杭を引き抜いた。暗い中に滴り落ちる血液を振るって、杭を放り捨てる。
白々しい動作で肩を竦め、
「まあ……どうせこうなるとは思っていましたから、仕方が無い」
「そいつ、あんたの配下か取引相手だったんじゃないの!?」
「……ええ、取引相手、でしたね。正確には」
口元を押さえることで吐き気を抑えながら、何とか前方に視線を投げる。少年は無残なその残骸を前にやはり、微笑みを絶やさないままで、しゃがみこんで"それ"の頭を取った。
「噛ませ犬、という言葉をご存知ですか、お嬢さん[sister]」
ぐしゃりッ
「―――っ!」
「シリアッ!」
細い指が、引きちぎられた頭部に食い込み、無残にそれは散開した。肉と脳の潰れる音がリアルに響き、少年の腕に巻かれた包帯を伝ってぼとぼとと血液とも髄液とも付かない薄赤い灰肌色のどろりとした体液が地面へ広がる。
アルティオが失神したシリアを支え、レンのマントがカノンの視界を遮る。ルナはひたすら苦い表情を浮かべながらもその場から動かない。
いや、動けないのだ。
目の前の、秀麗な雰囲気を持つ少年と。
無慈悲に引き裂かれた悲惨な骸と。
同じ空間に存在するその二つがあまりに不釣合いで。闇と同じ色をした少年は頬へ飛んだ体液をやはり微笑を浮かべたまま、静かに拭う。
優雅、とも言える動作に不和が沸き起こる。
少年はまるで空き缶を捨てるような所作でまだ手の中にあった頭部の残骸を下生えの中へ放り投げた。
「つまりは……世界はそういうもの無しでは構築出来ない程度のものなんですよ」
血の池の向こうで浮かべた少年の微笑みは、やはり圧倒的な不和をその場に漂わせるだけだった。
「……お前は何が狙いだったんだ?」
「……」
しばしして、束縛の解けたレンが静かに、しかし、どこかに怒りを孕ませて問いかける。少年は空を見つめ、ふぅー、と長い息を吐く。
「クロードが噛ませ犬でしかない、というなら、お前は一体その噛ませ犬で何をしようとしていたんだ?」
「……おかしいと思いませんでしたか?」
直接的に答えようとはせず、少年は返す刀で質問を切り返す。
「合成獣の急激な凶暴化、それに伴ってのクレイヴ=ロン=ウィンダリアの殺害、……事実、貴方方はそれがあったからこの事件に関わった。
それと、ルナ=ディスナーさん、でしたっけ?」
笑みを向けた先で、ルナが一歩退く。
「貴方のところに、最初に依頼をしに来たのは誰でした?」
彼女ははっ、と少年の足元に目をやりそうになって、慌てて逸らす。
「彼女がWMOと関わっていたからこそ、余計に事件について気がかりだったでしょう?」
「まさか貴様―――そのために……ッ!」
ゆっくりと、彼が目を細める。
「『ヴォルケーノ』に関してはまだ試験データが欲しいところだったんですが……
まあ、上出来な方です。それよりも、僕にとっては貴方方の試験データの方が重要でしてね。」
「じゃあッ! まさか、ビーチに合成獣を放ったのも、クレイヴを殺したのも……
町中に合成獣を放ったのも、クロードの合成獣を暴走させたのも……」
段々と力を失うルナの言葉に、少年は信じられないほど綺麗に、穏やかに、そして優雅ににっこりと微笑んだ。
「ええ、僕です」
と―――。
「許せないわね……」
カノンはぽつり、と呟いた。
「自分を欺こうとしていた人間に対して、ですか。人情的なことですね」
「どこの誰かは知らないけど、自分の駒を動かすために人の迷惑顧みず、そんな危なっかしいことやらかす奴を放って置けるわけないでしょ」
言ってレンのマントを払い、カノンは剣を正剣に構える。
「大体、そんなものをやらかす奴に……」
カノンの言葉もそこそこに。
彼女とレンはその場から左右に飛び退いた。
ごうッ!!
その後ろから、白い残像を描いて飛ぶ光弾が"彼"へと向かう!
ルナが放った魔法弾だ。
それは間を置かずに、少年へめり込んで風穴を空ける。少年はほんの少し、驚いたような表情でそれを見ていた。
が、
「な……ッ!?」
くぐもった呻きが漏れる。
一瞬で笑顔に戻った少年の身体は、弾が直撃した箇所から黒い塵へと霧散して消えていく。少年は笑みを湛えたまま。
「……またお会いしましょう、お嬢さん方[Sisters]」
そう唇を動かして。
"彼"の姿は完全に夜闇の塵となって消えた……。
遠くから、数人の足音が聞こえる。おそらくWMOの人間たちだろう。
町の喧騒は届いて来ない。
急激に力が抜けたように、アルティオはシリアを抱えながら地面に腰を下ろし、ルナは何かを考え込むように目を閉じている。
レンは何か渋い顔で空を見ていた。
カノンはその空気の中で、ばりばりと後ろ頭を掻いて。
「……とりあえず、ジ・エンドって言いたいところだけど―――」
―――もしかしたら、エンドどころか……
不穏な予感を胸に抱きながら、カノンは東の空に目を向けた。
夜明けは、まだ遠そうだった。
←10へ
「それは……」
「あら、砂漠の花……にしては色が変ね。何かしら?」
「カノンが拾った、と言ってたものと同じだな」
ローランが懐から取り出した白い石を見て、軽く驚いたらしいレンがマントの裏を弄った。グローブを一旦外し、取り出されたのは同じ形の、しかし大きさは違う花弁の鉱石。
誰かが息を飲んだ。
「ルナ?」
「……」
彼女の顔色が変わったのに気がついて、アルティオが声をかける。だが、彼女はそれにも気がつかずにまじまじと二つの石を見比べていた。
「おい、ルナ! ルナッ!」
「へっ、あ、ああ……」
「何してるのよ、顔色悪いわよ?」
「いや、別に……」
「それで、ローランのおっさん。それ何なんだよ?」
「……少し前、機密でクロードの部屋を捜索した際に、大量に押収されたものだ」
『おっさん』呼ばわりにか、それとも孫の奇行に対してか、眉間の皺をさらに深くしてから何かを堪えるかのように目を閉じる。
レンがそれを見つめ、手の中の石に目を走らせてから、後退るように腰を引いたルナを見る。
彼女はその追及するような目から視線を外し、脂汗を浮かべながら拳を握る。
何かに脅えるかのように。
ローランがゆっくりと目を開ける。
「今回の合成獣の製造について、大きな役割を負ったものであることに間違いはない。元クロードに付いていた者によると、クロードはこれを『獣の華』と呼んでいたそうだ。
が、我らの誰一人、これを解析出来たものはいないのだ。
多量の瘴気を放っていること、何らかの魔力の塊であることは解っているのだが、こんなものどこの文献にも記されていない。前例が全くないんだ。クロードはどこからこんなものを……」
「そう、あの子がここ二日、図書館で調べようとしてたのはこれだったのね。でも、こんな代物でここまでの騒ぎを起こすことが出来て、実用可な魔道具なんて……実例がないわけ……」
断定しかけたシリアの言葉に。
「……当然じゃない」
「……?」
被せるようにして、覇気の欠けた声が発せられた。
「実例なんかあるわけないのよ……。
それにソレは『獣の華』なんて馬鹿げた名前じゃないわ。正確には『生物活性化維持進化薬』。通称『ヴォルケーノ』。
一つの何らかの生物に寄生させると、他の周辺の生物を喰らいながら同化し、全く別の生物―――同化生物を造り出す。薬自体は体の中で溶けていずれはなくなり、薬が溶けきったときにまったく別の新生物が誕生する……」
「な……ッ!!」
その場に居たほぼ全員が呻き声を上げた。冷静にそれを聞いていたのはレンくらいのものだ。
痛いほどの視線が注がれる中で、声の主は、彼女は握った拳にさらに力を込める。滅多なことでは震えない彼女の小さな肩が、怒りか、焦燥か、はたまた恐怖か、静かに揺れている。
彼女はしばらく俯いていたが、やがてきっ、と面を上げた。
「つまりは、俗な言い方をすれば何かの生物に埋め込んでそこら辺に野放しにすると、生きている物を取り込んで勝手に合成獣を生成する危険な魔道薬。
クオノリアで発生した合成獣がまちまちでろくな造りをしていなかったのは、製作者の失敗や無駄手間なんかじゃない。単にそれしか出来なかっただけの話よ……」
「ま、待てッ!! 待て、ルナッ!! 何でお前がそんな、WMOも解析できなかったもんのことを知ってるんだよ!?」
アルティオの当然の詰問に、一瞬、ルナの言葉が切れる。
「そ、それは……」
「まさかお前、本気であいつに加担してたんじゃ……」
「じ、冗談じゃないわッ! あの程度の男に、ほいほいそれの研究を許して置くほどあたしは心の広い人間じゃないわよッ!!」
「じゃあ何でだよッ!」
「……、だ、だから……ッ!」
彼女はしばらく言葉を探しているようだった。数段、険しくなったアルティオやシリアの視線に耐えかねて、しばらくしてからゆっくりと、諦めたように息を吐き出した。
「……自分たちが造ったもののことなんて忘れるわけがないでしょ……」
「……………は?」
―――今、とんでもないことを聞いた気がしたが……
レンでさえ、一度ではその科白の意味を聞き取ることが出来なかった。軽く頭を振り払ってから、彼女に向き直る。
「ルナ、今何と言った? 悪いが聞こえなかったんだが」
「だーッ! だからッ! 『ヴォルケーノ』は昔―――あたしが『月の館』にいた頃に所属してた研究チームで造った魔道薬なのよッ!!
最も、研究してたのは如何にして生物の進化を早く促すか、絶滅危惧種の進化を促して、生体的に強化した生物を造り出すことだったんだけど、その過程の失敗作が当時、危険指定されて廃棄されたはずの『ヴォルケーノ』なのよッ!!」
「な、」
『何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!?』
シリアとアルティオの声がハモり、レンの頬を一筋の汗が伝う。
ローランもこれには驚きを隠せなかったらしい。口を半開きにしたまま、ぽかんと喚きたてる彼女を眺めている。取り巻きの男たちも右に倣えだ。
「な、何でそんな危険なもんがこんなところにぽかぽか撒かれてんだよッ!」
「知らないわよッ! あたしだって何が何だか……ッ!」
困惑とやり場のない怒りを吐き出すかのように腕を組む。
―――そういう、ことか……
ようやく、クオノリアに着いてからのルナの行動に合点がいった。昔、破棄したはずの魔道薬にそっくりの事件が起こっている。となれば、彼女の性格からして何がどうなっているのか、真相を突き止めようとするだろう。
だが、その騒ぎに巻き込まれて旧友である自分たちに何かあった日にはいくら何でも寝覚めが悪いし、合わせる顔もなくなろうと言うもの。
そこに、罪悪感が働かないわけがない。
「ルナ」
他の人間より、些か早く立ち直ったレンが声をかける。ルナは開き直ったのか何なのか、憮然と顔を上げた。
「ごたごたと追求するつもりはない。単刀直入に聞く、その『ヴォルケーノ』とは一体何なんだ?」
「……一言で説明するのは難しいんだけど……。
これ自体は瘴気と魔力の塊なのよ。要は歪んだ状況、歪んだ生体をわざと生物の中に生み出してるの。ワクチンと一緒よ。あれもわざとウィルスを体内に入れて逆に病気を防ぐでしょ?
当時、研究されてたのは逆にそういう状況を魔道的、意図的に作り出して生物の免疫機能を引き出すやり方で研究が進んでいたの。でも」
「何らかの誤作動で、瘴気が周りの生物を取り込んで強化していくようになった」
「そう。さすがにそんなもの世に出せないわ。下手すりゃ戦争よ」
「ち、ちょっと待ちなさいよッ!」
青ざめたシリアが口を挟む。
「周辺の生き物……って、それ、まさか……」
皆まで言われるよりも早く、彼女の懸念を汲み取ったルナが首を振って答える。
「人間……には作用しないように作られたわ。少なくとも当時の『ヴォルケーノ』はね。
変な改造が施されてなければ、だけど、今まで出た合成獣を見た限り、そこまで悪質な手は加えられてないみたいね。あくまで今のところ、だけど。
でも、シリアの懸念通り、一歩間違えれば強大な生物兵器になりかねないわ。
だから厳重に緘口令を強いて、関係資料から試作品まで全部燃やすなり、塵に帰すなり……だからこれは既に地上から抹消された研究だったはずなの。
あたし自身、この五年間、ただの一言だってこれのことを他人に喋ったことはないわ。
……チームの人間だって、これの完全なレシピを知っていた人間は少ないし、あの事件があって大部分の人間は亡くなったわ。今になってはそのうちの何人が生きてるのか……」
「何でそんな大事なこともっと早く言わねぇんだよッ!!」
掴みかからんばかりの勢いでアルティオが身を乗り出す。さしものルナもじりっ、と後退りながら、
「あ、あたしだって信じられなかったのよッ! この研究は確かにあのとき、水泡に帰したはずだったのッ! だから……ッ」
「本当のことが解るまで黙ってるつもりだったのかッ!? それがこの様かよッ!
お前がもっと早く言ってたらカノンは……ッ!」
「……ッ! それは、だ、だって……ッ!」
「やめろ、アルティオ」
「だ、だってよ……」
頭に血が上ったアルティオを制したのはレンだった。納得の行かない顔を歪ませる彼に、
「事件が発生したのも、カノンがこの件に絡んだのもルナの責任じゃあない。
それに、この件がその『ヴォルケーノ』のせいだと認めるなら、どこからそれが漏れたかという話になる」
「―――ッ!」
アルティオは言葉を詰まらせてそれきり黙る。
ルナは俯いて唇を噛むだけだ。
『ヴォルケーノ』の出所を疑う、とはつまり、彼女に昔の仲間を疑えと言っているのも同然なのだ。
「……わ、悪ぃ、悪かった、すまん」
「ルナ、お前もだ。下らん妄想に足を取られるなどらしくない。
お前たちがどれだけ抹消しようと、抹消段階で誰かの目や耳に入ったものが断片的にどこかに流れていたのかも知れんし、仲間の誰かを脅迫した奴が居たのかも知れん。
いかな『月の館』でも人の口に蓋など出来ないだろう、ましてや片隅の人の記憶を抹消することなど出来るはずもないだろう」
「……解ってるわよ」
「……一昔前に『月の館』で稀に見る優秀なプロジェクトチームがいたと聞いていたが……。
もしや、」
「たぶん……そうだと思います。あれほど功績を残したチームも他になかったでしょうから」
ローランの呟きに、やや誇らしげに、しかし寂しげな色を消せずに答えるルナ。
流れた感傷を、しかし、時間と状況は許さない。温まった空気を掻き斬るように、レンは剣を抜く。
「ルナ。一介の魔道師としての責任を持って答えろ。
それの研究は今何処で、クロードはどこでことを起こしているんだ?」
その問いに、ルナの表情もまた固く引き締まる。シリアとアルティオも継ぐように頷いた。
彼女は数秒、逡巡してから、
「あれの研究にはね、莫大なとは言わないけどそれなりの設備と場所を喰うわ。
あたしもクオノリアに来てから、そういったスペースのある場所を探してはこっそり調査してたけど、その中に当たりはなかった」
「何よ、それじゃダメじゃない」
茶々を入れたシリアの鼻先に、ルナの指先が突きつけられる。
「て、ことはよ?
部外者を確実に排除できる場所で、尚且つ、"研究"の名目で堂々と魔道具を弄れる場所で行われている、ってことよ」
「なるほどな」
首を傾げるシリアの横で、レンは顎に手を当てる。そのまま視線を上げ、群青の空を、そして"それ"を眺めて、
「つまり……木の葉を隠すなら森の中、というわけか」
「そういうことよ」
彼らの視線の先には、暗みを増した空を背景に佇むドームの居城―――WMOの支部が狂騒の町をただ知らぬ顔で見下ろしていた。
「……呆れたもんね」
薬品の匂いが鼻を付く。クロードが先程から何の作業をしているのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
時折、背を向けて実験用具に向かう彼の影から細く立ち上るのは何の煙なのか。つん、と鼻孔を刺激する不快な匂いに顔をしかめる。
「WMOが気に入らない、ってだけでそんな下らないもんまで作って、あまつさえ自分を庇おうとしてた実の祖父に罪を着せようとする。そこまで立派な小悪党もいないわよ」
「何とでも仰ってくれて構いませんよ。
それに……WMOが気に入らないという理由だけではありません。それだけでこんなリスクの高い真似はしませんよ。
これは事業です。至極、正当なね」
「?」
不本意だ、とでも言うようにクロードがこちらを振り向く。
「事業? 事業ってのは社会福祉と、ある正当な目的によって行使される社会活動が伴って初めて実現するもんよ。
あんたが今、やってることのどこがをどうしたら社会に貢献してるって言えるのよ?」
「……少なくとも、魔道師社会に対しては」
「思わないわね」
「いいえ、カノンさん。貴女は魔道師というものを本当の意味で理解していらっしゃらない」
低い笑い声が漏れる。クロードが何かの液体が入った試験管を傾ける。零れた液体を、別の手に持ったビーカーが拾い上げ、混ざり合った液体はしゅうしゅうと空気が漏れるような音を立てた。
「何か誤解があるようですが……。
これを造り出したのは僕ではありません。僕はこのクオノリアという牧場を使って、発展的な研究を行っていたに過ぎませんよ。スポンサーの要望に応じて、ね」
――― ……スポンサー?
カノンの眉がひくり、と上がる。
「何よ、そのスポンサーって……こんな馬鹿げた研究の成果をあんた以外にも望む奴がいる、っていうの? そこら辺に合成獣を生み出すような滅茶苦茶なもの、戦争でもやってるわけじゃあるまいし、誰が……」
言いかけて。
自分の言葉に凍りつく。
背筋を冷たい汗が流れていく。
―――いや、まさかそんなこと……
笑い飛ばしても良いような発想だった。大陸人で、誰が、そんなことを考えるはずがない。だが、ここはクオノリアだ。他の場所とは訳が違う。
はっ、と振り仰いだクロードの冷笑を讃えた顔が、それを証明していた。
「まさか、あんた……」
「そう、そのまさか、ですよ」
今、この目が届く範囲の世界で、戦争という言葉を聞いて出てくるのただの一つしかない。
尚且つ、そこはクオノリアと大陸唯一の海路を持っている。
「ゼルゼイルへの生物兵器の密輸……」
「密輸、とは言葉が悪いですね。WMOが認め、これが公的な事業になれば正当な取引となります」
「どっちにしろ犯罪よ! あんた! 正気なのッ!? どこの世界にも尻馬に乗りたがる人間は必ずいるッ! 下手すればゼルゼイルだけじゃない、西、東を巻き込んでの闘争になるわよッ!?」
「いいじゃないですか。そうなれば願ったり敵ったりですよ」
「……ッ!」
―――こいつッ!
きりッ―――カノンの奥歯が軋んだ音を立てる。クロードは半ば陶酔したような声で煙を吐き出す液体を茶色の瓶に詰めた。
「魔道師にとって何が至福なのか、何が欲なのか、解りますか、カノンさん。
自分の研究が世間に認められ、讃えられることです。今の世の中、性能のいい合成獣を造って一体誰が讃えてくれますか? 強力な攻撃魔法を発案して、誰が認めてくれるでしょうか?
……平和な世の中とはね、僕のような魔道師にとっては生きにくい場所なんですよ。
むしろ、硝煙の立つ戦場の方が力を鼓舞するのに都合がいい」
「……あんた…」
「……あの方が何を思って、何を考えて『獣の華』を僕に与えてくださったのかは解りません」
―――あの方?
カノンの眉間に皺が寄る。だが、浮かんだ疑問を思考するより前に、近づいてきたクロードの手にあるものに思わず声を漏らす。
何かの薬の小瓶。
いい発想が働くはずが無い。
日に焼けていない白い手が、断りもなしに首筋に触れた。駆け抜けた寒気に鳥肌が立つ。
「ですが。
あんな方に認めてもらえるなど、人生で一回のチャンスだと思った。これでもう、僕は狭い檻の中でじっとしている必要などなくなったのですからね」
「そりゃ随分とおめでたい話ね……」
「……貴女は実に美しい身体をしていらっしゃる」
嘗め回すような視線に嫌悪感が募る。瞳の奥に潜んだ狂気。何度も見てきてはいるが、なれるものじゃない。
クロードの手が頬に触れる。振り払いたいのは山々だが、拘束具が邪魔をする。
「……合成獣の最低の条件、というものを知っていますか?」
「……術者の言うことに従うこと、ね」
「良くご存知で。しかし、従来の合成獣は己の創造主にしか従わないのが普通でした。
僕は本来、その一歩突っ込んだ研究をしていましてね……誰にでも操れる、意志のある獣の研究をしているんです。
……どうすればそれが出来ると思います?」
「……」
「……もともと人の意志を汲み取り、動けるものを合成すること、です。
例えば、人間とか、ね」
「―――くはッ!」
カノンの背に戦慄が走った。
締め上げられた喉から、空気が漏れた。
「ご安心ください。せっかくこんなに美しい身体を無骨なようにはしませんよ。
それにすぐ、お仲間も参ります。寂しくは、ないですから」
白濁していく視界の向こうで、クロードの低い哄笑が響く。歯を食い縛り、意識を繋ぐが、それも時間の問題だと知れた。
胸のどこかで覚悟を決める。
今一度、クロードの青黒い瞳を睨みつけようとした、そのときだった。
「従えシルフィードッ!!」
きゅどどどど、ひゅんッ!!!
……いつもは疫病神に思えるその声が、今だけは天使の福音にさえ聞こえた。
解放された喉にようやく酸素が入ってくる。だが、急激に離された喉はその痛みに耐え切れずに、何度か咽た。
それを繰り返しているうちに、今度はきんッ、と軽やかな金属音と共に体が床に落ちる。
と、思えば途中でひょい、と難なく受け止められて抱き上げられた。
「まったく毎度ながら、手間をかけさせるな」
「ごめ、けほッ、ごめん……」
耳慣れたテノールに、咳き込みながら何とか答える。
酸素不足でぼんやりとした頭を振って、顔を上げると予想通りの仏頂面が呆れた表情で立っていた。安堵感と抱えられた腕越しの体温が嫌に懐かしい。
「貴様ら……ッ! どうしてここにッ!」
先の一撃はどうにか避けたらしい。少し離れた場所に、クロードが右足を押さえながら立っていた。抑えた足からは、少量の血液が石の床に染みを作っている。
避けれはしたが、避けきれなかった、というところか。
「……あんたの配下が全部吐いたわ」
かつん、とブーツが石床を叩く音。
気がつくと、ランプの光がちらつく扉の前に緑青の瞳をした魔道師が立っていた。
「ば、馬鹿なッ! 何を弱気になって……ッ!」
「ま、確かに結構強情だったけどさ。さすがにね、町中に合成獣大量発生なんかやっちゃあね、知ってること吐いて、少しでも罪を軽くしようとするでしょ、誰だって」
彼女の言葉に、ひたり、とクロードの顔色が変わる。
「ま、町中……だって? 何だ、それはッ! 僕はそんなことは命じてないッ!」
「誰がやったかは知らないけど、あんたが発端なのは確か。今さら言い逃れは聞かないわよ」
―――ルナ?
何かを押し込めたような、硬い声。
「レン、あいつ、何かいつになく怒ってる……わきゃッ!」
尋ねる途中でいきなり肩に担がれた。そのまま一足飛びに、彼女の立つ地点まで下がらせられる。
間近まで下がって気づく。
響く呪文詠唱。
―――ルナ……
いつもの余裕が無い。唱えている呪文にも、何の容赦も無い。
おそらくは、一撃で終わるだろう。
「まッ、まだだッ! 僕はまだ……ッ!」
「我放つ、跪くは悪しきを砕く砕光の末裔、貫けファンネイルッ!!!」
どぉぉぉおおぉぉおぉッ!!!
轟音を立てて、放たれた光と炎がラボ全体を埋め尽くす。反動で起こった風に、体ごと飛ばされそうになった。
虞風に傾ぐ身体をレンに支えられながら、眩しい光を手で防ぎながらカノンはその光を生み出す彼女の方を見た。
「ルナ……」
「……ごめん。これだけは、許せなかった」
光が弱まっていく。
カノンは首を振って正面を見据え、そして。
―――ッ!!
晴れていく視界の中にそれを認めて、驚愕に顔を引き攣らせる。
影が、立っていた。
人より数段大きなそれが、立ち尽くす彼を庇うかのように佇んでいる。薄闇の中で、不意に彼を庇うのに使ったのか、『それ』の右腕がぼろり、と崩れて炭と化した。
人より頭三つ分は大きい。
限りなく人に近い肉体。しかし、表面は人の肌のそれではなく、硬質化した鋼のような灰色の物質で覆われている。表情はなく、ただのっぺりとした仮面のような仮の顔が申し訳程度についていて、無事だった左腕が動かされるたびにぎしぎしと嫌な音を立てた。
人に近い、しかし、明らかに人ではない痩躯。
「何、あれ……」
「人間に見えるようならお前の目を疑うな」
こういうとき、彼は判断が早い。片手に携えていた剣鎌をカノンに放って寄こすと、自分は正面に剣を構える。
崩れた腕の後ろから、服を焦がした、しかし傷一つ無いクロードが一歩、歩み出る。
「無駄な抵抗は止めた方がいいわよ」
「うるさいッ! 僕は、僕はこんなところで終われないんだよッ!!」
吼えると同時に、"それ"の左腕が動く。
がしゃぁぁああぁぁああぁんッ!!
鋼の腕はすぐ側の、用水を湛えていたガラスーケースを粉砕した。中に見えていた黒い影が傾ぐ。
が、それが白日に晒されるより先に、
どしゅ……ッ!
めり込んだ左腕が、その二メートルほどの影に突き刺さる。
そして、
「―――ッ!?」
目の前で起こった現象に、その場にいた全員が呻く。
用水の中の影は痙攣を繰り返し、次第に小さく萎縮していく。その代わり、
ずるッ、ズズッ……
生々しい何かが蠢くような音。
"それ"は数度、肩を震わせた後、右肩を振る。空を切る音が響いて、炭化したはずの腕が新たに生えた。
「な……ッ!?」
「ルナ、あれは何だッ?」
「知らないわよ! 『ヴォルケーノ』にあんな気色の悪い機能はないッ!」
「ヴぉ、『ヴォル』……?」
「カノン、後で説明する。今は目の前に集中しろ」
「ら、らじゃーッ」
背中を叩かれて我に帰る。視線を戻した先で、クロードが低く笑っていた。
「……驚いてるみたいだけど」
―――驚くって言うか気色悪い。
素直な感想が脳裏に浮かぶ。
「この魔道生物は『獣の華』を改良してで僕が生成したものでね……本来、合成が難しい魔物の類を合成可能にしてある。
本来、体内で消えてしまう『獣の華』だけど、そんな勿体無いことがあるかい。
こいつに埋め込んだ『獣の華』は体内に残り、周囲の生物の生命力を常に奪っていく。倒すのは不可能さ」
カノンは改めて鋼の獣を見上げる。確かに、無くなったはずの腕が完全に再生してしまっている。ということは周辺に生命力を持つ生物が―――例えばネズミでもごきぶりでもいれば、それらの生命力を吸収すれば、無限に稼動し続ける……ということだろうか。
……無酸素空間でも作り出さない限り、生物のいない空間なんてこの世界中のどこにもないだろう。
「ルナ、何かないか?」
「あたしに聞けばどうにかなると思ってない? 無理よッ!」
「実際、あれに一番詳しいのはお前なんだろう?」
「そうだけど……」
何やら騒ぎ立てる二人を尻目に、カノンは剣鎌を握り直す。右足を庇いながらも嘲笑を浮かべたままのクロードを睨み、今一度、『獣』の方へ目をやって、
―――?
先程の術で焼け焦げて穴の開いた天井から、何かが落ちてくるのに気がついた。白い……小さくて、ひらべったい……
それの正体に気がつくよりも先に、それは『獣』の頭上へと張り付く。
こちらを見据えたままのクロードは、それに気がつかない。
ぴきッ!
かすかな、何かが割れ爆ぜるような音がした。しかし、クロードはそれが壁か天井が軋む音だと判断したらしい。
ローブの裾を振るってこちらへと手を伸ばし、
「あいつらを片付けろッ!」
自らの造り出した生命に、命令を下す。
『獣』の体が揺らぎ、軋み、反射的に構えを取って、
「え―――?」
ぎッ……がしゃぁぁあああぁんッ!!
『な……ッ!!』
『獣』が振るった腕の一撃は、まともにクロードの胴を凪いでいた。
「がッ、かはッ……!」
壁に叩きつけられ、ずるりと背中から床に落ちたクロードが胃液混じりの血液を撒き散らす。白い魔道服が赤黒い斑紋に染まる。
あばらの一、二本はイカれているのかもしれない。
そのまま失神したのか、がくりと頭を落して動きを止める。
「い、今のは……」
こちらへ攻撃しようとして巻き込まれたようには見えなかった。そう、"こいつ"は明らかに創造主であるはずのクロードを"襲った"のだ。
地響きのような『獣』の呻きがラボに響く。
ぐ、ぁ、あああぁぁぁぁあああぁぁあッ!!
『ッ!?』
雄叫びが上がる。
ぶるッ、と『獣』の体が震えた。
ばきッ、ぴき、びきびきびきッ!!
「な……」
「あれは……」
金属の軋むような音が轟く。『獣』の体が揺れて、頭の上から黒い線が走る。まるで『獣』本体を侵食していくように、黒い線は『獣』の頭を喰らい、体そのものに幾筋も、幾筋も走り抜けていく。
やがて、
鋼と黒い影に構成された奇妙な生物が、そこに出来上がる。
おおおおおおおおおおおッ!!
「これ……」
茫然としたルナの呟きが、『獣』の叫びに掻き消された。
「シリアッ!」
「結するは氷結の陣秦、凍れダイナストフォースッ!!」
シリアの一声に、その通りに陣取っていたヤドカリの巨体が氷に覆われる。
氷の巨像を前に、アルティオが額に浮かんだ汗を拭った。
「ったく、何体いるんだよ。こいつら……」
「そんなもの私がわかるわけないでしょ。あっちが片付くまで、何とかこっちで始末していくしかないわよ」
「そりゃそうだろーけどなぁ……」
町の喧騒は収まるどころか、一層高まっている。WMOと政団が共同で非難勧告を出しているようだが、もともとこのシーズンは人が多い。容易ではないのだろう。
シリアが珍しく溜め息を吐いて腰に剣を収める。
「ともかく、早く片をつけてレンたちを追わないと……あの女、どさくさに紛れて私のレンに何するか……」
さしものアルティオも呆れて突っ込もうと口を開きかけたときだった。
ぎゃぃいぃあぁああああぁぁあぁッ!!
『!』
ビーチ脇の椰子の陰から響く雄叫びが一つ。
慣れてしまったもので、シリアが小声で呪文を唱え、アルティオが双剣を担ぐように構える。
石段を飛ぶようにしてアルティオが駆ける。が、
「!?」
現れた合成獣の動きが、急激にひたりっ、と止まる。
そして、
ぱんッ!!!
「!!?」
やおら、乾いた音を立てて獣が破裂する。それは赤黒い体液を撒き散らすかと思いきや、黒い塵となって空に掻き消える。
その最期は、あまりにも、呆気なさすぎた。
降り注ぐ細かい黒の塵に、アルティオも足を止め、シリアは呪文を唱えることも忘れて、唖然と獣が一瞬で姿を消した空を眺めていた。
しばらくして、最初に気がついたのはシリアだった。
町の喧騒が、あれだけ響いていた喧騒が、いつの間にか嘘のように消え失せていることを。
顔を上げる。
その一瞬に、
「―――?」
間近に立つ店の高い屋根の上を、黒い影が一つ、行き過ぎて消えたような気がした。
がこんッ!!
黒い筋の走る長い腕が、間近な壁を粉砕した。その煙に紛れてダッシュを駆ける。
―――まあ、つまりは逃げてるだけなんだけど……
「……で、その『ヴォルケーノ』については一通り解ったけど…」
どがッ!!
紙一重で交わしたすぐ頭上の天井が支えを失って落下して来る。前方に滑り込むようにして残骸を避ける。
「どーゆーことよッ! これッ! まるっきり凶暴化してるじゃないッ!」
「そんなこと知らないわよッ!」
器用にも走りながら口論を続ける女二人に、併走しながらレンは後方を盗み見る。制御を失った『獣』は、破壊を繰り返しながらひたひたと、こちらを確実に追いかけて来ている。
いくらWMOの建物が頑丈で、広いといってもこれでは、
「まずいな。あの調子ではいつ建物の軸を破壊するか知れんぞ」
「ちょっと! この中、証人がいっぱいいるんだからそれ困るわよ!!」
「困ると言ってもどうすればいい?」
「うぐッ……」
問い返されてルナは返答に詰まる。
クロードが『ヴォルケーノ』にどんな細工を施したかは解らない。何がこの暴走を引き起こしているかも解らない。
「加えてあの再生能力だ、生半可な術では効くまい。それとも町がクレーターになる覚悟でお前の大技を撃つか?」
「そんなこと出来るかッ! あんたこそ人に頼ってないで何か考えてよ!」
「人任せにするな。それにさっきから考えている」
「何かないのッ!?」
「人道に外れても構わないならあるだろうが……」
「だからクレーターは禁止ッ!」
伸縮して襲い来る腕の爪を交わしながらルナが悪態を吐く。自分に絡んで来た爪を切り落としながら、(もっとも一瞬で元の長さに戻ってしまうので付け焼刃だが)レンは眉間に皺を寄せる。
その視線がふと傍らを走るカノンに止まる。
「……」
「……何?」
「いや……。
ルナ、『ヴォルケーノ』はもともと生物進化を促すためのものだ、と言っていたな?」
「そーよ!」
「あれは何で造られていると言っていたか?」
「だからッ、わざと歪みを与えて進化させるために……ッ!」
言いかけて、彼女もまた気がついたらしい。ばっ、と身を翻し、カノンへ目を止めて。
「―――?」
「なるほど……なんとか」
「なるかもしれんな、おそらくは」
←9へ
「あら、砂漠の花……にしては色が変ね。何かしら?」
「カノンが拾った、と言ってたものと同じだな」
ローランが懐から取り出した白い石を見て、軽く驚いたらしいレンがマントの裏を弄った。グローブを一旦外し、取り出されたのは同じ形の、しかし大きさは違う花弁の鉱石。
誰かが息を飲んだ。
「ルナ?」
「……」
彼女の顔色が変わったのに気がついて、アルティオが声をかける。だが、彼女はそれにも気がつかずにまじまじと二つの石を見比べていた。
「おい、ルナ! ルナッ!」
「へっ、あ、ああ……」
「何してるのよ、顔色悪いわよ?」
「いや、別に……」
「それで、ローランのおっさん。それ何なんだよ?」
「……少し前、機密でクロードの部屋を捜索した際に、大量に押収されたものだ」
『おっさん』呼ばわりにか、それとも孫の奇行に対してか、眉間の皺をさらに深くしてから何かを堪えるかのように目を閉じる。
レンがそれを見つめ、手の中の石に目を走らせてから、後退るように腰を引いたルナを見る。
彼女はその追及するような目から視線を外し、脂汗を浮かべながら拳を握る。
何かに脅えるかのように。
ローランがゆっくりと目を開ける。
「今回の合成獣の製造について、大きな役割を負ったものであることに間違いはない。元クロードに付いていた者によると、クロードはこれを『獣の華』と呼んでいたそうだ。
が、我らの誰一人、これを解析出来たものはいないのだ。
多量の瘴気を放っていること、何らかの魔力の塊であることは解っているのだが、こんなものどこの文献にも記されていない。前例が全くないんだ。クロードはどこからこんなものを……」
「そう、あの子がここ二日、図書館で調べようとしてたのはこれだったのね。でも、こんな代物でここまでの騒ぎを起こすことが出来て、実用可な魔道具なんて……実例がないわけ……」
断定しかけたシリアの言葉に。
「……当然じゃない」
「……?」
被せるようにして、覇気の欠けた声が発せられた。
「実例なんかあるわけないのよ……。
それにソレは『獣の華』なんて馬鹿げた名前じゃないわ。正確には『生物活性化維持進化薬』。通称『ヴォルケーノ』。
一つの何らかの生物に寄生させると、他の周辺の生物を喰らいながら同化し、全く別の生物―――同化生物を造り出す。薬自体は体の中で溶けていずれはなくなり、薬が溶けきったときにまったく別の新生物が誕生する……」
「な……ッ!!」
その場に居たほぼ全員が呻き声を上げた。冷静にそれを聞いていたのはレンくらいのものだ。
痛いほどの視線が注がれる中で、声の主は、彼女は握った拳にさらに力を込める。滅多なことでは震えない彼女の小さな肩が、怒りか、焦燥か、はたまた恐怖か、静かに揺れている。
彼女はしばらく俯いていたが、やがてきっ、と面を上げた。
「つまりは、俗な言い方をすれば何かの生物に埋め込んでそこら辺に野放しにすると、生きている物を取り込んで勝手に合成獣を生成する危険な魔道薬。
クオノリアで発生した合成獣がまちまちでろくな造りをしていなかったのは、製作者の失敗や無駄手間なんかじゃない。単にそれしか出来なかっただけの話よ……」
「ま、待てッ!! 待て、ルナッ!! 何でお前がそんな、WMOも解析できなかったもんのことを知ってるんだよ!?」
アルティオの当然の詰問に、一瞬、ルナの言葉が切れる。
「そ、それは……」
「まさかお前、本気であいつに加担してたんじゃ……」
「じ、冗談じゃないわッ! あの程度の男に、ほいほいそれの研究を許して置くほどあたしは心の広い人間じゃないわよッ!!」
「じゃあ何でだよッ!」
「……、だ、だから……ッ!」
彼女はしばらく言葉を探しているようだった。数段、険しくなったアルティオやシリアの視線に耐えかねて、しばらくしてからゆっくりと、諦めたように息を吐き出した。
「……自分たちが造ったもののことなんて忘れるわけがないでしょ……」
「……………は?」
―――今、とんでもないことを聞いた気がしたが……
レンでさえ、一度ではその科白の意味を聞き取ることが出来なかった。軽く頭を振り払ってから、彼女に向き直る。
「ルナ、今何と言った? 悪いが聞こえなかったんだが」
「だーッ! だからッ! 『ヴォルケーノ』は昔―――あたしが『月の館』にいた頃に所属してた研究チームで造った魔道薬なのよッ!!
最も、研究してたのは如何にして生物の進化を早く促すか、絶滅危惧種の進化を促して、生体的に強化した生物を造り出すことだったんだけど、その過程の失敗作が当時、危険指定されて廃棄されたはずの『ヴォルケーノ』なのよッ!!」
「な、」
『何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!?』
シリアとアルティオの声がハモり、レンの頬を一筋の汗が伝う。
ローランもこれには驚きを隠せなかったらしい。口を半開きにしたまま、ぽかんと喚きたてる彼女を眺めている。取り巻きの男たちも右に倣えだ。
「な、何でそんな危険なもんがこんなところにぽかぽか撒かれてんだよッ!」
「知らないわよッ! あたしだって何が何だか……ッ!」
困惑とやり場のない怒りを吐き出すかのように腕を組む。
―――そういう、ことか……
ようやく、クオノリアに着いてからのルナの行動に合点がいった。昔、破棄したはずの魔道薬にそっくりの事件が起こっている。となれば、彼女の性格からして何がどうなっているのか、真相を突き止めようとするだろう。
だが、その騒ぎに巻き込まれて旧友である自分たちに何かあった日にはいくら何でも寝覚めが悪いし、合わせる顔もなくなろうと言うもの。
そこに、罪悪感が働かないわけがない。
「ルナ」
他の人間より、些か早く立ち直ったレンが声をかける。ルナは開き直ったのか何なのか、憮然と顔を上げた。
「ごたごたと追求するつもりはない。単刀直入に聞く、その『ヴォルケーノ』とは一体何なんだ?」
「……一言で説明するのは難しいんだけど……。
これ自体は瘴気と魔力の塊なのよ。要は歪んだ状況、歪んだ生体をわざと生物の中に生み出してるの。ワクチンと一緒よ。あれもわざとウィルスを体内に入れて逆に病気を防ぐでしょ?
当時、研究されてたのは逆にそういう状況を魔道的、意図的に作り出して生物の免疫機能を引き出すやり方で研究が進んでいたの。でも」
「何らかの誤作動で、瘴気が周りの生物を取り込んで強化していくようになった」
「そう。さすがにそんなもの世に出せないわ。下手すりゃ戦争よ」
「ち、ちょっと待ちなさいよッ!」
青ざめたシリアが口を挟む。
「周辺の生き物……って、それ、まさか……」
皆まで言われるよりも早く、彼女の懸念を汲み取ったルナが首を振って答える。
「人間……には作用しないように作られたわ。少なくとも当時の『ヴォルケーノ』はね。
変な改造が施されてなければ、だけど、今まで出た合成獣を見た限り、そこまで悪質な手は加えられてないみたいね。あくまで今のところ、だけど。
でも、シリアの懸念通り、一歩間違えれば強大な生物兵器になりかねないわ。
だから厳重に緘口令を強いて、関係資料から試作品まで全部燃やすなり、塵に帰すなり……だからこれは既に地上から抹消された研究だったはずなの。
あたし自身、この五年間、ただの一言だってこれのことを他人に喋ったことはないわ。
……チームの人間だって、これの完全なレシピを知っていた人間は少ないし、あの事件があって大部分の人間は亡くなったわ。今になってはそのうちの何人が生きてるのか……」
「何でそんな大事なこともっと早く言わねぇんだよッ!!」
掴みかからんばかりの勢いでアルティオが身を乗り出す。さしものルナもじりっ、と後退りながら、
「あ、あたしだって信じられなかったのよッ! この研究は確かにあのとき、水泡に帰したはずだったのッ! だから……ッ」
「本当のことが解るまで黙ってるつもりだったのかッ!? それがこの様かよッ!
お前がもっと早く言ってたらカノンは……ッ!」
「……ッ! それは、だ、だって……ッ!」
「やめろ、アルティオ」
「だ、だってよ……」
頭に血が上ったアルティオを制したのはレンだった。納得の行かない顔を歪ませる彼に、
「事件が発生したのも、カノンがこの件に絡んだのもルナの責任じゃあない。
それに、この件がその『ヴォルケーノ』のせいだと認めるなら、どこからそれが漏れたかという話になる」
「―――ッ!」
アルティオは言葉を詰まらせてそれきり黙る。
ルナは俯いて唇を噛むだけだ。
『ヴォルケーノ』の出所を疑う、とはつまり、彼女に昔の仲間を疑えと言っているのも同然なのだ。
「……わ、悪ぃ、悪かった、すまん」
「ルナ、お前もだ。下らん妄想に足を取られるなどらしくない。
お前たちがどれだけ抹消しようと、抹消段階で誰かの目や耳に入ったものが断片的にどこかに流れていたのかも知れんし、仲間の誰かを脅迫した奴が居たのかも知れん。
いかな『月の館』でも人の口に蓋など出来ないだろう、ましてや片隅の人の記憶を抹消することなど出来るはずもないだろう」
「……解ってるわよ」
「……一昔前に『月の館』で稀に見る優秀なプロジェクトチームがいたと聞いていたが……。
もしや、」
「たぶん……そうだと思います。あれほど功績を残したチームも他になかったでしょうから」
ローランの呟きに、やや誇らしげに、しかし寂しげな色を消せずに答えるルナ。
流れた感傷を、しかし、時間と状況は許さない。温まった空気を掻き斬るように、レンは剣を抜く。
「ルナ。一介の魔道師としての責任を持って答えろ。
それの研究は今何処で、クロードはどこでことを起こしているんだ?」
その問いに、ルナの表情もまた固く引き締まる。シリアとアルティオも継ぐように頷いた。
彼女は数秒、逡巡してから、
「あれの研究にはね、莫大なとは言わないけどそれなりの設備と場所を喰うわ。
あたしもクオノリアに来てから、そういったスペースのある場所を探してはこっそり調査してたけど、その中に当たりはなかった」
「何よ、それじゃダメじゃない」
茶々を入れたシリアの鼻先に、ルナの指先が突きつけられる。
「て、ことはよ?
部外者を確実に排除できる場所で、尚且つ、"研究"の名目で堂々と魔道具を弄れる場所で行われている、ってことよ」
「なるほどな」
首を傾げるシリアの横で、レンは顎に手を当てる。そのまま視線を上げ、群青の空を、そして"それ"を眺めて、
「つまり……木の葉を隠すなら森の中、というわけか」
「そういうことよ」
彼らの視線の先には、暗みを増した空を背景に佇むドームの居城―――WMOの支部が狂騒の町をただ知らぬ顔で見下ろしていた。
「……呆れたもんね」
薬品の匂いが鼻を付く。クロードが先程から何の作業をしているのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
時折、背を向けて実験用具に向かう彼の影から細く立ち上るのは何の煙なのか。つん、と鼻孔を刺激する不快な匂いに顔をしかめる。
「WMOが気に入らない、ってだけでそんな下らないもんまで作って、あまつさえ自分を庇おうとしてた実の祖父に罪を着せようとする。そこまで立派な小悪党もいないわよ」
「何とでも仰ってくれて構いませんよ。
それに……WMOが気に入らないという理由だけではありません。それだけでこんなリスクの高い真似はしませんよ。
これは事業です。至極、正当なね」
「?」
不本意だ、とでも言うようにクロードがこちらを振り向く。
「事業? 事業ってのは社会福祉と、ある正当な目的によって行使される社会活動が伴って初めて実現するもんよ。
あんたが今、やってることのどこがをどうしたら社会に貢献してるって言えるのよ?」
「……少なくとも、魔道師社会に対しては」
「思わないわね」
「いいえ、カノンさん。貴女は魔道師というものを本当の意味で理解していらっしゃらない」
低い笑い声が漏れる。クロードが何かの液体が入った試験管を傾ける。零れた液体を、別の手に持ったビーカーが拾い上げ、混ざり合った液体はしゅうしゅうと空気が漏れるような音を立てた。
「何か誤解があるようですが……。
これを造り出したのは僕ではありません。僕はこのクオノリアという牧場を使って、発展的な研究を行っていたに過ぎませんよ。スポンサーの要望に応じて、ね」
――― ……スポンサー?
カノンの眉がひくり、と上がる。
「何よ、そのスポンサーって……こんな馬鹿げた研究の成果をあんた以外にも望む奴がいる、っていうの? そこら辺に合成獣を生み出すような滅茶苦茶なもの、戦争でもやってるわけじゃあるまいし、誰が……」
言いかけて。
自分の言葉に凍りつく。
背筋を冷たい汗が流れていく。
―――いや、まさかそんなこと……
笑い飛ばしても良いような発想だった。大陸人で、誰が、そんなことを考えるはずがない。だが、ここはクオノリアだ。他の場所とは訳が違う。
はっ、と振り仰いだクロードの冷笑を讃えた顔が、それを証明していた。
「まさか、あんた……」
「そう、そのまさか、ですよ」
今、この目が届く範囲の世界で、戦争という言葉を聞いて出てくるのただの一つしかない。
尚且つ、そこはクオノリアと大陸唯一の海路を持っている。
「ゼルゼイルへの生物兵器の密輸……」
「密輸、とは言葉が悪いですね。WMOが認め、これが公的な事業になれば正当な取引となります」
「どっちにしろ犯罪よ! あんた! 正気なのッ!? どこの世界にも尻馬に乗りたがる人間は必ずいるッ! 下手すればゼルゼイルだけじゃない、西、東を巻き込んでの闘争になるわよッ!?」
「いいじゃないですか。そうなれば願ったり敵ったりですよ」
「……ッ!」
―――こいつッ!
きりッ―――カノンの奥歯が軋んだ音を立てる。クロードは半ば陶酔したような声で煙を吐き出す液体を茶色の瓶に詰めた。
「魔道師にとって何が至福なのか、何が欲なのか、解りますか、カノンさん。
自分の研究が世間に認められ、讃えられることです。今の世の中、性能のいい合成獣を造って一体誰が讃えてくれますか? 強力な攻撃魔法を発案して、誰が認めてくれるでしょうか?
……平和な世の中とはね、僕のような魔道師にとっては生きにくい場所なんですよ。
むしろ、硝煙の立つ戦場の方が力を鼓舞するのに都合がいい」
「……あんた…」
「……あの方が何を思って、何を考えて『獣の華』を僕に与えてくださったのかは解りません」
―――あの方?
カノンの眉間に皺が寄る。だが、浮かんだ疑問を思考するより前に、近づいてきたクロードの手にあるものに思わず声を漏らす。
何かの薬の小瓶。
いい発想が働くはずが無い。
日に焼けていない白い手が、断りもなしに首筋に触れた。駆け抜けた寒気に鳥肌が立つ。
「ですが。
あんな方に認めてもらえるなど、人生で一回のチャンスだと思った。これでもう、僕は狭い檻の中でじっとしている必要などなくなったのですからね」
「そりゃ随分とおめでたい話ね……」
「……貴女は実に美しい身体をしていらっしゃる」
嘗め回すような視線に嫌悪感が募る。瞳の奥に潜んだ狂気。何度も見てきてはいるが、なれるものじゃない。
クロードの手が頬に触れる。振り払いたいのは山々だが、拘束具が邪魔をする。
「……合成獣の最低の条件、というものを知っていますか?」
「……術者の言うことに従うこと、ね」
「良くご存知で。しかし、従来の合成獣は己の創造主にしか従わないのが普通でした。
僕は本来、その一歩突っ込んだ研究をしていましてね……誰にでも操れる、意志のある獣の研究をしているんです。
……どうすればそれが出来ると思います?」
「……」
「……もともと人の意志を汲み取り、動けるものを合成すること、です。
例えば、人間とか、ね」
「―――くはッ!」
カノンの背に戦慄が走った。
締め上げられた喉から、空気が漏れた。
「ご安心ください。せっかくこんなに美しい身体を無骨なようにはしませんよ。
それにすぐ、お仲間も参ります。寂しくは、ないですから」
白濁していく視界の向こうで、クロードの低い哄笑が響く。歯を食い縛り、意識を繋ぐが、それも時間の問題だと知れた。
胸のどこかで覚悟を決める。
今一度、クロードの青黒い瞳を睨みつけようとした、そのときだった。
「従えシルフィードッ!!」
きゅどどどど、ひゅんッ!!!
……いつもは疫病神に思えるその声が、今だけは天使の福音にさえ聞こえた。
解放された喉にようやく酸素が入ってくる。だが、急激に離された喉はその痛みに耐え切れずに、何度か咽た。
それを繰り返しているうちに、今度はきんッ、と軽やかな金属音と共に体が床に落ちる。
と、思えば途中でひょい、と難なく受け止められて抱き上げられた。
「まったく毎度ながら、手間をかけさせるな」
「ごめ、けほッ、ごめん……」
耳慣れたテノールに、咳き込みながら何とか答える。
酸素不足でぼんやりとした頭を振って、顔を上げると予想通りの仏頂面が呆れた表情で立っていた。安堵感と抱えられた腕越しの体温が嫌に懐かしい。
「貴様ら……ッ! どうしてここにッ!」
先の一撃はどうにか避けたらしい。少し離れた場所に、クロードが右足を押さえながら立っていた。抑えた足からは、少量の血液が石の床に染みを作っている。
避けれはしたが、避けきれなかった、というところか。
「……あんたの配下が全部吐いたわ」
かつん、とブーツが石床を叩く音。
気がつくと、ランプの光がちらつく扉の前に緑青の瞳をした魔道師が立っていた。
「ば、馬鹿なッ! 何を弱気になって……ッ!」
「ま、確かに結構強情だったけどさ。さすがにね、町中に合成獣大量発生なんかやっちゃあね、知ってること吐いて、少しでも罪を軽くしようとするでしょ、誰だって」
彼女の言葉に、ひたり、とクロードの顔色が変わる。
「ま、町中……だって? 何だ、それはッ! 僕はそんなことは命じてないッ!」
「誰がやったかは知らないけど、あんたが発端なのは確か。今さら言い逃れは聞かないわよ」
―――ルナ?
何かを押し込めたような、硬い声。
「レン、あいつ、何かいつになく怒ってる……わきゃッ!」
尋ねる途中でいきなり肩に担がれた。そのまま一足飛びに、彼女の立つ地点まで下がらせられる。
間近まで下がって気づく。
響く呪文詠唱。
―――ルナ……
いつもの余裕が無い。唱えている呪文にも、何の容赦も無い。
おそらくは、一撃で終わるだろう。
「まッ、まだだッ! 僕はまだ……ッ!」
「我放つ、跪くは悪しきを砕く砕光の末裔、貫けファンネイルッ!!!」
どぉぉぉおおぉぉおぉッ!!!
轟音を立てて、放たれた光と炎がラボ全体を埋め尽くす。反動で起こった風に、体ごと飛ばされそうになった。
虞風に傾ぐ身体をレンに支えられながら、眩しい光を手で防ぎながらカノンはその光を生み出す彼女の方を見た。
「ルナ……」
「……ごめん。これだけは、許せなかった」
光が弱まっていく。
カノンは首を振って正面を見据え、そして。
―――ッ!!
晴れていく視界の中にそれを認めて、驚愕に顔を引き攣らせる。
影が、立っていた。
人より数段大きなそれが、立ち尽くす彼を庇うかのように佇んでいる。薄闇の中で、不意に彼を庇うのに使ったのか、『それ』の右腕がぼろり、と崩れて炭と化した。
人より頭三つ分は大きい。
限りなく人に近い肉体。しかし、表面は人の肌のそれではなく、硬質化した鋼のような灰色の物質で覆われている。表情はなく、ただのっぺりとした仮面のような仮の顔が申し訳程度についていて、無事だった左腕が動かされるたびにぎしぎしと嫌な音を立てた。
人に近い、しかし、明らかに人ではない痩躯。
「何、あれ……」
「人間に見えるようならお前の目を疑うな」
こういうとき、彼は判断が早い。片手に携えていた剣鎌をカノンに放って寄こすと、自分は正面に剣を構える。
崩れた腕の後ろから、服を焦がした、しかし傷一つ無いクロードが一歩、歩み出る。
「無駄な抵抗は止めた方がいいわよ」
「うるさいッ! 僕は、僕はこんなところで終われないんだよッ!!」
吼えると同時に、"それ"の左腕が動く。
がしゃぁぁああぁぁああぁんッ!!
鋼の腕はすぐ側の、用水を湛えていたガラスーケースを粉砕した。中に見えていた黒い影が傾ぐ。
が、それが白日に晒されるより先に、
どしゅ……ッ!
めり込んだ左腕が、その二メートルほどの影に突き刺さる。
そして、
「―――ッ!?」
目の前で起こった現象に、その場にいた全員が呻く。
用水の中の影は痙攣を繰り返し、次第に小さく萎縮していく。その代わり、
ずるッ、ズズッ……
生々しい何かが蠢くような音。
"それ"は数度、肩を震わせた後、右肩を振る。空を切る音が響いて、炭化したはずの腕が新たに生えた。
「な……ッ!?」
「ルナ、あれは何だッ?」
「知らないわよ! 『ヴォルケーノ』にあんな気色の悪い機能はないッ!」
「ヴぉ、『ヴォル』……?」
「カノン、後で説明する。今は目の前に集中しろ」
「ら、らじゃーッ」
背中を叩かれて我に帰る。視線を戻した先で、クロードが低く笑っていた。
「……驚いてるみたいだけど」
―――驚くって言うか気色悪い。
素直な感想が脳裏に浮かぶ。
「この魔道生物は『獣の華』を改良してで僕が生成したものでね……本来、合成が難しい魔物の類を合成可能にしてある。
本来、体内で消えてしまう『獣の華』だけど、そんな勿体無いことがあるかい。
こいつに埋め込んだ『獣の華』は体内に残り、周囲の生物の生命力を常に奪っていく。倒すのは不可能さ」
カノンは改めて鋼の獣を見上げる。確かに、無くなったはずの腕が完全に再生してしまっている。ということは周辺に生命力を持つ生物が―――例えばネズミでもごきぶりでもいれば、それらの生命力を吸収すれば、無限に稼動し続ける……ということだろうか。
……無酸素空間でも作り出さない限り、生物のいない空間なんてこの世界中のどこにもないだろう。
「ルナ、何かないか?」
「あたしに聞けばどうにかなると思ってない? 無理よッ!」
「実際、あれに一番詳しいのはお前なんだろう?」
「そうだけど……」
何やら騒ぎ立てる二人を尻目に、カノンは剣鎌を握り直す。右足を庇いながらも嘲笑を浮かべたままのクロードを睨み、今一度、『獣』の方へ目をやって、
―――?
先程の術で焼け焦げて穴の開いた天井から、何かが落ちてくるのに気がついた。白い……小さくて、ひらべったい……
それの正体に気がつくよりも先に、それは『獣』の頭上へと張り付く。
こちらを見据えたままのクロードは、それに気がつかない。
ぴきッ!
かすかな、何かが割れ爆ぜるような音がした。しかし、クロードはそれが壁か天井が軋む音だと判断したらしい。
ローブの裾を振るってこちらへと手を伸ばし、
「あいつらを片付けろッ!」
自らの造り出した生命に、命令を下す。
『獣』の体が揺らぎ、軋み、反射的に構えを取って、
「え―――?」
ぎッ……がしゃぁぁあああぁんッ!!
『な……ッ!!』
『獣』が振るった腕の一撃は、まともにクロードの胴を凪いでいた。
「がッ、かはッ……!」
壁に叩きつけられ、ずるりと背中から床に落ちたクロードが胃液混じりの血液を撒き散らす。白い魔道服が赤黒い斑紋に染まる。
あばらの一、二本はイカれているのかもしれない。
そのまま失神したのか、がくりと頭を落して動きを止める。
「い、今のは……」
こちらへ攻撃しようとして巻き込まれたようには見えなかった。そう、"こいつ"は明らかに創造主であるはずのクロードを"襲った"のだ。
地響きのような『獣』の呻きがラボに響く。
ぐ、ぁ、あああぁぁぁぁあああぁぁあッ!!
『ッ!?』
雄叫びが上がる。
ぶるッ、と『獣』の体が震えた。
ばきッ、ぴき、びきびきびきッ!!
「な……」
「あれは……」
金属の軋むような音が轟く。『獣』の体が揺れて、頭の上から黒い線が走る。まるで『獣』本体を侵食していくように、黒い線は『獣』の頭を喰らい、体そのものに幾筋も、幾筋も走り抜けていく。
やがて、
鋼と黒い影に構成された奇妙な生物が、そこに出来上がる。
おおおおおおおおおおおッ!!
「これ……」
茫然としたルナの呟きが、『獣』の叫びに掻き消された。
「シリアッ!」
「結するは氷結の陣秦、凍れダイナストフォースッ!!」
シリアの一声に、その通りに陣取っていたヤドカリの巨体が氷に覆われる。
氷の巨像を前に、アルティオが額に浮かんだ汗を拭った。
「ったく、何体いるんだよ。こいつら……」
「そんなもの私がわかるわけないでしょ。あっちが片付くまで、何とかこっちで始末していくしかないわよ」
「そりゃそうだろーけどなぁ……」
町の喧騒は収まるどころか、一層高まっている。WMOと政団が共同で非難勧告を出しているようだが、もともとこのシーズンは人が多い。容易ではないのだろう。
シリアが珍しく溜め息を吐いて腰に剣を収める。
「ともかく、早く片をつけてレンたちを追わないと……あの女、どさくさに紛れて私のレンに何するか……」
さしものアルティオも呆れて突っ込もうと口を開きかけたときだった。
ぎゃぃいぃあぁああああぁぁあぁッ!!
『!』
ビーチ脇の椰子の陰から響く雄叫びが一つ。
慣れてしまったもので、シリアが小声で呪文を唱え、アルティオが双剣を担ぐように構える。
石段を飛ぶようにしてアルティオが駆ける。が、
「!?」
現れた合成獣の動きが、急激にひたりっ、と止まる。
そして、
ぱんッ!!!
「!!?」
やおら、乾いた音を立てて獣が破裂する。それは赤黒い体液を撒き散らすかと思いきや、黒い塵となって空に掻き消える。
その最期は、あまりにも、呆気なさすぎた。
降り注ぐ細かい黒の塵に、アルティオも足を止め、シリアは呪文を唱えることも忘れて、唖然と獣が一瞬で姿を消した空を眺めていた。
しばらくして、最初に気がついたのはシリアだった。
町の喧騒が、あれだけ響いていた喧騒が、いつの間にか嘘のように消え失せていることを。
顔を上げる。
その一瞬に、
「―――?」
間近に立つ店の高い屋根の上を、黒い影が一つ、行き過ぎて消えたような気がした。
がこんッ!!
黒い筋の走る長い腕が、間近な壁を粉砕した。その煙に紛れてダッシュを駆ける。
―――まあ、つまりは逃げてるだけなんだけど……
「……で、その『ヴォルケーノ』については一通り解ったけど…」
どがッ!!
紙一重で交わしたすぐ頭上の天井が支えを失って落下して来る。前方に滑り込むようにして残骸を避ける。
「どーゆーことよッ! これッ! まるっきり凶暴化してるじゃないッ!」
「そんなこと知らないわよッ!」
器用にも走りながら口論を続ける女二人に、併走しながらレンは後方を盗み見る。制御を失った『獣』は、破壊を繰り返しながらひたひたと、こちらを確実に追いかけて来ている。
いくらWMOの建物が頑丈で、広いといってもこれでは、
「まずいな。あの調子ではいつ建物の軸を破壊するか知れんぞ」
「ちょっと! この中、証人がいっぱいいるんだからそれ困るわよ!!」
「困ると言ってもどうすればいい?」
「うぐッ……」
問い返されてルナは返答に詰まる。
クロードが『ヴォルケーノ』にどんな細工を施したかは解らない。何がこの暴走を引き起こしているかも解らない。
「加えてあの再生能力だ、生半可な術では効くまい。それとも町がクレーターになる覚悟でお前の大技を撃つか?」
「そんなこと出来るかッ! あんたこそ人に頼ってないで何か考えてよ!」
「人任せにするな。それにさっきから考えている」
「何かないのッ!?」
「人道に外れても構わないならあるだろうが……」
「だからクレーターは禁止ッ!」
伸縮して襲い来る腕の爪を交わしながらルナが悪態を吐く。自分に絡んで来た爪を切り落としながら、(もっとも一瞬で元の長さに戻ってしまうので付け焼刃だが)レンは眉間に皺を寄せる。
その視線がふと傍らを走るカノンに止まる。
「……」
「……何?」
「いや……。
ルナ、『ヴォルケーノ』はもともと生物進化を促すためのものだ、と言っていたな?」
「そーよ!」
「あれは何で造られていると言っていたか?」
「だからッ、わざと歪みを与えて進化させるために……ッ!」
言いかけて、彼女もまた気がついたらしい。ばっ、と身を翻し、カノンへ目を止めて。
「―――?」
「なるほど……なんとか」
「なるかもしれんな、おそらくは」
←9へ
胸騒ぎがする。
先刻から、相棒が図書館に行くと言ったきり、夕刻まで戻らない。各国の如何わしい、それこそ眉唾物の伝承やら都市伝説やら、言葉を悪くすればオカルトマニアな彼女のこと。
一風変わった本に気を取られて、時間を忘れることは度々あるが、場合が場合だ。こんなときに、落ち合う時間を過ぎてまで熱中しているとは珍しい、いや、初めてだ。
―――最も……こんなときだからこそ、本に熱中している以外の理由も十二分考えられるがな。
「全く、どれだけトラブルに巻き込まれ易いんだ、あいつは……」
柱につけていた背を離し、雑踏に混じってレンは歩き出した。
図書館と宿屋のちょうど半分ほどの場所にある食堂。今朝、別れ際に帰りに本を持つのを手伝って欲しいから、聞き込みが終わったらここで待っていろと命じたのは一体誰だったのか。ゆうに半刻が過ぎている。
「レンッ!!」
歩き始めたと同時に、進行方向から甲高い声が上がる。似たトーンだがまさか相棒と間違えるなどということはない。
視線を上げると人込みを掻き分ける……いや、無理矢理押し退け、分け入るような格好で覚えのある少女が近づいて来ていた。頑張っているのは解るが、さすがに小柄な身体では全ての人を押し退けるなんてことは出来ずになかなか難儀しているようだ。
速度を上げ、自らの身体で適当に人をあしらう。
「はー、助かった、さんきゅー……」
「息を切らせてまでどうした?」
まだ約束の時間まで大分あるが、と続ける。ルナは息を整えてから面を上げ、
「クロードってもうそっちに行ってる?」
「いや、俺は聞き込みの後すぐ此処に来たからホテルの状況は知らん。だが、見てないな」
「そう、ホテル行くならここ通るはずよね……」
「いないのか?」
自らが狙われている自覚があるなら下手に裏通りを通るなどと愚かな真似はしないだろう。WMOからホテルに通じる大通りはこの一本しかない。
「ちょっと、行く前に軽く声かけようかと探したんだけどどこにも、ね。スケジュール見てみたんだけど、今日はもう何も公務入ってないから。
外に出たにしても狙われてるかもしれないときに何やってんだ、と思って探してたのよ」
「奇遇だな」
「は?」
「俺も人を探そうとしていたところだ。あいつを見なかったか?」
「あいつ、ってカノン?」
頷く彼を見て、ルナは顎に手を当てる。
「午前中、図書館に行ったときに一回会って声かけたけどそれっきり。急いでたし、大した話してないわ。
いないの?」
「待ち合わせていたはずなんだがな。半刻過ぎてもまだ、といった状況だ」
「けど、今あたしもクロード探すために図書館寄ったけどいなかったわよ。確かに広いけど、いたら気が付くと思うし。
……って」
ふと思いついて言葉を止める。
「ねえ、レン。カノンて午前中からずっと図書館にいた?」
「さぁな。今日の大半はあそこで過ごすとは言っていたが。朝方、別れたきりだったからな」
「あの、ね。落ち着きなさいよ? 落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
頭に血が上ったこの男の恐ろしさはルナも十二分に理解している。あの五人の中では最も古い付き合いだ、何を触発すればこの滅多なことでは冷静さを欠かない男を怒らせることが出来るのかくらいは知っている。
だからこそ。
慎重に前置いた。
「さっき探してたときに、さ。派手に割れてる窓を見つけてね、気になったからちょっと見てみたんだけど……
端っこがちょっと炭化してたのよね。たぶん、何かの魔法を喰らったんだろうけど。まあ、魔道師が多数出入りするんだから何かの呪文を口ずさんじゃった奴がいただけかもしんないけど。
気になったから聞いてみたんだけど、昼過ぎに割れちゃったんだ、って。
で、ね。図書館の入出記録って自分がするときに簡単に見られるんだけど、ちょうどその頃ってWMO権限で貸切になってたのよ」
「……」
「で、ね? あ、あのさ、これはあたしも今日情報収集してて初めて知ったんだけど。
あそこの図書館て表向き公共だけど、WMOの司書施設と統合してて、資金は豊富なWMOがほとんど出してるから実質あそこの管理下っていうか統括っていうか……って、こらこらこらッ!!」
話半分に歩き出したレンの腕を掴みながら声を荒げる。引き摺られそうになるのを何とか止めながら、
「だーかーらッ! もしもッ! 何かあったんじゃないかなー、って想像は出来るって話ッ!!
本当は何も無かったのかもしれないし、クロードだってカノンだってどっか別のとこに行っただけのことかもしれないしッ!!
全部、不確かなんだから短気に行動起こすんじゃないわよ、ホテルにシリアやアルティオだっているんでしょーがッ! クロードももしかしたらそっちに居るかもしれないんだしッ!!」
「誰が短気を起こしているんだ」
呆れた息を吐き出し、彼はようやく足を止めて振り返る。
「何があったにしろWMO関連だろう? ローランを訪ねて少し穏便に聞いてやればいいだけの話だ。
相手は俺たちがクロードに接触してることを知ってるはずだ。普通に知らないと返すか、白々しく受け流すかで白か黒が判断できる。万一、慌て出したんだとしても、それはそれで部下の暴走と判断できるだろう? つまりは誰に付くかの判断材料だ」
「あ、あぁそぅ……。びっくりした。あんたのことだからこのままローラン切り殺しに行くかと思ったわ……」
「……貴様、俺を何だと…」
「……誘発的自動辻斬り凶器?」
「……」
「いや、まあそれはいいや。けど、あんたもそのまま無事に帰してくれるか解んないし、あたしも……」
言いかけて。
ルナの言葉が止まる。レンもまた身を硬くした。
殺気。
ルナが呻く。その額には珠のように汗が浮き、赤みを帯びた頬を滴って落ちた。背筋がびりびりと震えた。
しかし、それは一瞬のことで。
レンとルナの動きを止めたとんでもないその強烈な殺気はしかし、次の瞬間には跡形もなく霧散していて。
数秒のうちに掻いた大量の汗を拭いつつ肩を落とす。
「何……今の…」
「……」
感じたことのない黒い殺気。冷えた空気が辺りに漂い、会話することも忘れた。
しかし、
「きゃああぁあぁあぁぁぁッ!!」
沈黙を劈いて、すぐ側の通りの向こうから重なった悲鳴が轟いた。はっとして顔を向ける。
「げッ!?」
最初に声を上げたのはルナの方だ。
視線の先に居たのは、通りの真ん中に陣取って奇声を上げる……二メートルほどのねずみ、もどき。
汚らしい溝の色の身体に、どう見ても外骨格の、毒を持っていることを見せ付けるかのような八本の足。おったてた尻尾だけが白く長い。
「な、何でこんなところにッ!?」
「言っている場合か。行くぞ」
「お、おっけ……」
明らかな動揺を張り付かせながら通りの向こうへ駆ける。逃げようと逆進してくる人の群れを何とか交わしながらルナは小声で呪を唱え始め、レンは腰に下げたショートソードの方を抜く。
さすがにこんな人込みの中で大剣は使えない。
割れた人込みの前に躍り出て、迫った足の一本を叩く。小剣ではさほどの威力は出ないが、傷をつけることは出来たようだ。
き、ききぃいきぃッ!!
甲高い奇声を上げて、憎しみの篭もった赤い目をレンへと向ける。その一瞬、他への注意は散漫になり、
「我求む、繰り出すは惨禍の刃、貫けレイジングソードッ!!」
虚空に浮き上がった空気の塊が刃になり、ねずみもどきを貫いた。そのまま爆縮、派手な音を立ててねずみの身体が四散する。
どろりとした体液が噴き出して、辺りを異臭が包む。その匂いに鼻を曲げながら、レンとルナは顔を見合わせる。
そのとき、
「おーいッ!!」
焦りを含んだ怒鳴り声が鼓膜を響かせる。振り返るとホテルの方角から、それぞれ剣を背負ったアルティオとシリアが駆けてくるところだった。表情に余裕がない。
「お前ら、一緒だったのか?」
「いや、たまたまそこで会ったら、こいつが出て来てね。それよりクロード見なかった? ホテル行ってない?」
「い、いや、そのことなんだけどよ、昨日捕まえたあの野郎が……」
「そんな話は後でも出来るでしょうッ!」
「いだッ!!」
シリアの肘打ちがアルティオの背中にヒットする。いつも張り倒されている人間が別の人間を倒すと何となく違和感を感じる。
まあ、それはどうでもいい。
「悠長にしてる場合じゃないわッ! ホテル近くにも出たのよ、あれがッ!」
「合成獣か?」
「そーよッ! 集まってるギャラリーとかホテルの従業員とかに襲い掛かろうとして……」
「ち、ちょっと待ってよ! 何でッ!? そんな違う場所に同時に、なんて今まで無かったじゃないッ! 何でいきなりッ!?」
「そんなの私が知るわけ……ッ」
叫んだシリアの声を遮って、
しゃぎゃぁぁあああぁああああぁぁぁッ!!
一つ、外れた通りの向こうから、どこかで聞いたような奇声と多数の悲鳴が轟きあがる。
「ち、ちょっと……」
「まさか……」
きりッ―――レンが歯を噛み鳴らす。明らかに青ざめた一同の、胸に浮かんだ、しかし口にするには憚れる嫌な予感をいやに断定的に下す。
ありえない。正気を失った行動としか思えない。しかし、現実として起こってしまっているのだ。
「まさか、町中で合成獣が暴れてるというのかッ―――!?」
町に狂騒が走っている。上がる悲鳴と咆哮、宵闇が落ちかけた夕刻のBGMとしてはあまりにも不釣合いな。
昼の長いクオノリアとて、既に太陽は海の端に沈もうとしている。赤い夕べの映る水面の幻想さに対して、随分とこの喧騒は耳障りだ。
やや涼しさを増した風が頬を抜ける。最も、その風を感じることが出来るのは、片方でしかないのだけれど。
「……」
町を一望することの出来る時計塔の片隅で。
少年は喧騒に塗れた町をただ静かに眺めていた。
口の端にうっすらと微笑みさえ浮かべながら。
黒い髪が、衣装が、風になびいて残像を残す。
「……さて、最終幕[ラストヴァージン]、いや、それともまだ始まりの章[オープニングセレモニー]かな。
先鋭なる戦士諸君は一体、どう動く……?」
まるで何かの享楽を見ているかのように。
少年はくすり、とかすかに笑った。
ざんッ!!
一薙ぎしたレンの破魔聖が目の前の蜘蛛を両断する。背中に針を張り付けた、気味の悪い体が崩れていくのを見ながら、嫌悪の呻きを吐き出す。
「シリアッ、アルティオッ!」
頭上から響いた声に、二人がその場を飛び退いた。それと同時に、
「我滅す、叫ぶは精美なる亡びの咆哮、唸れブレイズシェルッ!!」
轟ッ!!
真上から放たれた閃光の渦が、三体の異形を消し去って消え失せる。
閃光が収まるのを待って、ルナは術を浮遊の術を解いた。
「どーなってんのよ、いくら倒しても追いつかないわ、こんなッ!!」
「私に八つ当たりすんじゃないわよッ! ともかくッ! 元を断たなきゃどうしようもないわッ!!」
「元って言ったってなぁ……」
「……少しは落ち着かんか、お前ら」
揃うなり罵り合いを始めた要領の得ない連中を制しながらレンは剣に付着した体液を払う。
軽く首を振り、青みを帯び始めた空を仰ぐ。
―――いかんな。
まったくの夜になってしまえば、合成獣の姿も気配も感じにくくなる。いくら暑い気候とはいえ気温も下がり、冷えた汗は体温を下げさせて動きを鈍くさせる。
良いことは一つもない。
となれば、
「……シリア、アルティオ、お前たちはこのまま街中の合成獣を掃除しろ」
「へ?」
「ルナ、行くぞ」
「行く、って……」
「決まっているだろう」
「ちょっと、レン! まさか……」
「そのまさかだ」
言ってレンはくるり、と背を向ける。視線の先には無論、黄昏を映してどこかの居城のように佇む巨大な建築物―――WMOクオノリア支部。
「ち、ちょっと待てレンッ!」
「この期に及んで何だ……急を要する件に馬鹿な苦情は」
「いや、とりあえず聞けってッ! 昨日のあいつが目を覚ました、って言っただろッ! でな、そいつが……ッ!!」
どんッ!!
その声を遮るかのように。
通りから光と轟音が漏れた。振り返ると、光と炎に身体を焼かれた一匹のねずみが、霧散しながら地に伏せるところだった。
「何故、民間人がこんなところにいるッ!?」
叩きつけられた声にプライドの高いルナとシリアの額に血管が浮いた。
ねずみが倒れた向こうから現れた青い礼服を着た若い男たちが、焦燥を顔に張り付けながら立っていた。礼服と紋章には見覚えがある。
「あんたたち、WMOの……」
「民間人にはとっくに避難勧告が出されているはずだッ! 早く安全な場所に避難しろッ!」
ぶちッ!
鈍い音がレンとアルティオの耳だけに確かに聞こえ、響く。
「やかましいッ! こっちを何だと思ってんのよッ!」
「ほーっほっほっほ、大体にして今まで合成獣を喰い止めていたのは誰だと思っているのかしらッ!? 無礼な態度もそこまでにするのねッ!!」
「なッ……」
『何だとぉッ!?』
男たち全員の声が唱和する。レンは呆れて肩を下ろし、
「……こんな状況で挑発する相手が違うだろう」
「その通りだ。お前たちも怒る相手を間違うな」
はっ、と全員が顔を上げる。
レンの声を継いだ重厚な言葉と声。聞き覚えがあった。いや、この状況下で解らないはずがない。
男たちの動きを止めさせた、年輪の刻まれた声と精悍な顔。落ち着き払った表情だが、そこにはやはりわずかな焦りが見て取れる。
「ローラン……さん」
「……」
宵闇を背にして立っていた彼に、ルナが掠れた声を上げる。
「えーっと、あの」
罰が悪そうにルナはローランとレン達とを見比べる。ローランはそれに溜め息をついて首を振り、
「……もう良い。貴女がそこの者たちと何らかの繋がりがあることには気がついていた。しかし、今さらそれを問い詰めたところで何にもなりはしない」
「すいません……」
敵か味方か、判然としない今でもそれでも雇い主は雇い主。一応の礼儀というものがある。素直に彼女は頭を下げた。
「もう良い。もう良いのだ」
「ローランさん?」
違和感にルナは面を上げる。何故だろう。彼の口調から諦観というか達観というか。ともかく、何かの諦めのようなものを感じる。
何故?
彼が黒幕だとしたら、何故そんな諦めが湧いてくる?
それともこれもまた部下の暴走が招いた憂いなのか、はたまた失策に終わったことを嘆いているのか。そもそも何故このような手段に……
「こうなるまであれを止められなかった私に非がある」
「はい……?」
「……」
その言葉の違和感に、レンとルナが顔を見合わせる。
「あれ、とは?」
「……」
レンの発した問いに、ローランは陰鬱な溜め息を吐き出した。
空を仰ぎ、何かを悟ったかのように目を閉じて、何かを覚悟をしたかのように開く。
「貴殿らに頼みたいことがある」
「支部長ッ!!」
事情を知る者たちなのか、男たちが慌てた様子でローランの肩を掴む。しかし、ローランはそれをやんわりと制した。
「良いのだ。どの道、我らにあれは裁けぬ。ならば、かすかな希望に縋る他あるまい」
「ですがッ―――」
男が唇を噛む。宥めるようにローランは男の背を叩いた。
苦々しくも男たちが首を縦に振るのを確認すると、再びこちらへ向き直る。
「……何でしょう?」
「この合成獣を、あれを止めなくてはいけない……。こうなったのは私の責任だ。
身内だからと告発も出来ず、あまつさえ内輪で済めばとこうなるまで匿っていた私が悪いのだ」
「身内、って……」
ルナの戸惑いに。
ローランは肩を落して、どこか疲れたように、憂いを吐き出すように口を開く。
「貴殿らも接触しているであろう。
あれ―――この合成獣を生み出したのは、私の孫……クロード=サングリットだ」
「なッ……」
数秒してようやくルナの口から呻きが漏れた。
沈痛な面持ちのローランは眉間に皺を寄せたまま。
凍りつく空気の中でレンはアルティオの方へ視線を向ける。それに気が付いた彼はばりばりと短髪頭を掻き毟り、
「ああ、それを言おうとしたんだよ。昨日の奴が目を覚まして、あいつの名前……は、言ってないけど、『銀髪の若い男に頼まれた』ってさ。もしかしたら、って思ってお前らを探してたんだ」
「何故早く言わん」
「言えなかったんだよッ! つーか、何度も言おうとしてたしッ!!」
「というかこんな騒ぎになってまで何でカノンはいないのッ!? あの小娘、怖気づいて逃げたんじゃないでしょーねッ!」
「だから急いでいると言っている」
「はぁッ!?」
「待て待て待てッ! 短文で情報交換しようとすな、あんたらッ!!
と、とにかく、ローランさん! それって本当のことなんですかッ!? クロードさん、いやクロードが黒幕ってッ!」
好き勝手に会話とも言えない会話を飛ばす一同の首根っこを掴みながら、ルナが詰め寄った。
ローランは力無く頷く。
「なるほどね。ようやくカノンがいなくなった理由が知れたわ」
ルナの言葉に、レンの舌打ちが重なる。
「ち、ちょっと待てッ! 何だ、カノンがいなくなったってッ!?」
「文字通りの意味ね。懸念はしてたけど、これではっきりしたわ。
たぶん、クロードの仕業よ」
「おいッ! 待てよッ! カノンが捕まったっていうのかッ!? 何でッ!? クロードはこっちを味方につけようとしてたじゃねぇかッ!」「タイムリミットが今日の夕方だったからよ。今日の夕方には、昨日捕まった奴が全部吐くと踏んで、カノンを攫ってこっちの足並みを乱した後に一網打尽、みたいに考えてたんでしょ。
だからってこんな合成獣大量発生みたいなことをする理由はどこにも見当たらないんだけど……むしろ、今、こんなことを起こすなんて愚策としか思えないし……」
「ぐちゃぐちゃ考えてる場合かッ!! さっさとカノンを助けに行かねぇと……ッ!」
「……どこによ?」
「へ……?」
鼻息荒く勇んだアルティオの勢いを、いやに冷静なシリアの冷たい声が凍らせた。
「まあ……。候補があるといえばあるが、この余裕のないときに無駄な場所に行くのは避けたいな」
呆れた息を吐きながら、レンが視線を移す。切れ長の目を、さらに細め、睨むようにローランを見据える。
「あんたに直談判するつもりでWMOに行こうとしていたが、都合がいい。こんな事態になっているんだ。隠したところで何も得なことはない。
知っていることは全て話せ」
「……私が悪いのだ。私は昔からあれにWMOに対する不平不満ばかりを言っていた気がする。
あれが狂った野望を抱くようになったのはひとえに私の責任なのだろう」
「野望、って例のWMOを陥れて逆に実権を……ってやつ?」
シリアが首を傾げて問いかける。ローランは迷いを見せながら頷いて、
「確かにそれもあろう……。だが、奴が企んでおるのはそればかりではあるまい」
「それ以外……って」
「あれは異常なほど魔道研究にのめりこんでいる……古今東西、過ちを犯す魔道師の動機は自身の実力を世に知らしめる場所を求めてのものだ」
「まあ……」
「間違ってはいないな」
「あれも同じこと。貴殿らも知っているだろう、そしてこのクオノリアにはそのための恰好の餌がある……」
ローランが空を、海を仰ぐ。視線を辿る。その先にはただ、途切れることの無い水平線が不気味な青を宿しているだけだった。
意識が回復して最初に感じたのは冷たい壁の感触。
お世辞にも寝覚めがいいとは言えない。次に痺れた手足と走る痛み。
「う……ッ?」
「お早いお目覚めで、眠り姫[スリーピングビューティー]」
芝居がかった声に意識が覚醒する。
反射的に身体を動かそうとして、無駄だった。ぎり、と締め付けるような痛みが手首と足に走る。
―――って、またこのパターンか……
意識の下に、木を失う直前の情景の記憶がゆっくりと戻ってくる。そうだ。確か図書館で……
強制的に背伸びをさせられているような体勢だ。疲れることこの上ない。
心の内でありったけの悪態を吐きながら、カノンはうっすらと目を開けた。暗い。ぼんやりした視界の向こうで、薄暗いどこかの部屋に、幾つかのおぼろげな光が見える。
頭を振って視界を正す。
反動で手首を縛る鎖がじゃり、と耳障りな音を立てた。
「案外、体力はあるんですね。ここまで早い目覚めだとは思わなかった」
「……こんな薄暗い場所に女を縛りつけて置くなんて随分といい趣味してるわね」
あえて相手の言葉を無視して、辺りを見渡す。そこは以前、良く見かけたような魔道師のラボだった。死術狩りをしていた当時はこういった部屋を何度も見た。
薄暗く、日の光は一切差してこない。今は何時ぐらいなのか? 強制的に眠らされていた今では、体内時計も狂っていて判別できない。
石造りの壁と天井。居並ぶ何かしがの実験用具と何語か解らない文字で書かれた蔵書の載る机。
そして、付き物なのが趣味の悪いインテリア。
―――しかし、まあ……
渋い顔を作りながらカノンはそのインテリアを見上げる。合計十はあるだろうか。生命維持のための用水が入れられた三メートル大の巨大なケース。
ほとんどのものが空だが、部屋の向こうには黒い影の映るケースもちらほら見える。
魔道生物を眠ったまま保管する装置だ。
自分の運の悪さを呪いながら、その部屋の真ん中でまるで天下でも手にしたように微笑む男に視線を向ける。
「体のお加減はいかがですか?」
「最悪」
カノンは正直に答えた。その男―――嫌な笑みを浮かべて佇む、クロード=サングリットへ。
「で、何のつもりよ」
「割と冷静ですね」
「考えてみたら、ね。別にローランが犯人であっておかしくはないけど、あんたが犯人て聞くとそれもあー、なるほど、って思えちゃうのよ。
随分と付け焼き刃でいい加減な策だとは思うけど……。
昨日、話してくれてた動機だって別にローランじゃなく、あんたが抱いてても何の不思議もない理由だったし、それに昨日の夜、わざわざ椅子に座らないでドアの近くに座ったのも、窓側から襲撃が来ることを知ってたからなんでしょ」
「……」
「わざわざ自分が狙われてるみたいな演出まで凝らして、自分の祖父に罪をなすりつけようとした。
聞けばあんた、ローランに邪魔されて上階級貰い損ねたって話じゃない。だから腹も痛まなかったわけ?
ただ唯一の誤算は昨日のために雇った連中の一人が捕まっちゃったこと。なもんだから、逆に全部バレる前にあたしたちを始末しなきゃならなくなった。で、まずあたしたちの統率力を奪うためにあたしを攫った。
まあ、そんなとこ?」
「貴女方の中心にいるのは貴女のような感触を受けましたからね。それに貴女は明らかに危険因子です。放って置いたら、いずれ真実に行き当たるでしょうし」
ケースガラスに手を付きながら言う。浮かべられた穏やかな微笑に嫌悪さえ抱きながら、痛む腕を庇いつつ、
「クレイヴのこともやっぱりあんたが?」
「とんでもない」
クロードは肩を竦めて白々しく首を振る。
「クレイヴさんに金銭面や貿易の面で協力願っていたのは本当ですが……あの方はまだ利用価値がありました。
こちらとしても困っていたんですよ。まあ、下の者の暴走かもしれませんが、惜しい方を亡くしたものです」
「……」
「もっとも、最近は―――特にあのビーチの一件以来、すっかり脅えてしまっていたようですから、好都合だったと言えばそうなんでしょうかね。
あの分ではいずれ誰かに口を割りかねなかったでしょうから」
―――そういう……ことか…
あの夜のクレイヴが、フロント係からの伝言を受け取った後、何故あんなに蒼白だったか解った気がした。
つまり、あれは脅迫だったのだ。
何か喋れば命はない、とクロードからの。
「ともかく、彼を殺したのは僕じゃあありませんよ」
「……一般人の真ん中に合成獣なんてもの放り込んでくる奴のことなんかを信じろ、っていうの?」
カノンの挑発に、クロードは初めて不快に眉を歪ませた。唇を噛み、ガラスケースに拳を押し付ける。
「そうなんですよ、僕もそれが知りたい」
「……?」
「一体、誰があんなところに『獣の華』を放ったのか。あの一件が起こってからです。全部、計画が狂い出したのは」
「何ですって?」
「一般人の目にあれが触れ、クレイヴが殺され……そして貴方たちというジョーカーが事件に絡んで来た。
僕としても不本意なんですよ。そのせいであんな穴だらけの策を講じなくてはならなくなったのですからね。一体、誰が……」
―――こいつ、本気で言ってるのか?
しかし、クロードの表情に浮かぶ苦いものは到底偽物とは思えないものだった。
今までの合成獣を造り出していたのはクロード。
ならば、この事件が露呈するきっかけとなった一連の事件を起こしたのは一体……?
そこでふと、耳慣れない単語を拾ったことに気がつく。
「『獣の華』……」
「ああ、言っていませんでしたね」
呟きながら、カノンの脳裏にビーチで拾ったあの欠片が掠める。真っ白な、花弁のような形状をしたあの石。
まさか。
「これですよ」
「・・・!」
言ってクロードが懐から取り出したのは大きさこそ違うが、あの白い鉱石とまったく同じ形をした石だった。
「貴女が図書館で言っていたでしょう。
合成獣の形が滅茶苦茶だったのは、そうしたかったんじゃない、そうしなければならなかったんじゃないか、って。
まあ、半分正解です。正確にはそうにしかならないんですよ、これはね」
「何なのよ……それ。あの合成獣たちは一体何なの?」
気味の悪い光沢を放ちながら、彼の手で転がされるそれ。
クロードはにやり、と口の端に笑みを、カノンはその笑みに寒気を覚えながら、真実が告げられるのをただひたすらに待った。
←8へ
先刻から、相棒が図書館に行くと言ったきり、夕刻まで戻らない。各国の如何わしい、それこそ眉唾物の伝承やら都市伝説やら、言葉を悪くすればオカルトマニアな彼女のこと。
一風変わった本に気を取られて、時間を忘れることは度々あるが、場合が場合だ。こんなときに、落ち合う時間を過ぎてまで熱中しているとは珍しい、いや、初めてだ。
―――最も……こんなときだからこそ、本に熱中している以外の理由も十二分考えられるがな。
「全く、どれだけトラブルに巻き込まれ易いんだ、あいつは……」
柱につけていた背を離し、雑踏に混じってレンは歩き出した。
図書館と宿屋のちょうど半分ほどの場所にある食堂。今朝、別れ際に帰りに本を持つのを手伝って欲しいから、聞き込みが終わったらここで待っていろと命じたのは一体誰だったのか。ゆうに半刻が過ぎている。
「レンッ!!」
歩き始めたと同時に、進行方向から甲高い声が上がる。似たトーンだがまさか相棒と間違えるなどということはない。
視線を上げると人込みを掻き分ける……いや、無理矢理押し退け、分け入るような格好で覚えのある少女が近づいて来ていた。頑張っているのは解るが、さすがに小柄な身体では全ての人を押し退けるなんてことは出来ずになかなか難儀しているようだ。
速度を上げ、自らの身体で適当に人をあしらう。
「はー、助かった、さんきゅー……」
「息を切らせてまでどうした?」
まだ約束の時間まで大分あるが、と続ける。ルナは息を整えてから面を上げ、
「クロードってもうそっちに行ってる?」
「いや、俺は聞き込みの後すぐ此処に来たからホテルの状況は知らん。だが、見てないな」
「そう、ホテル行くならここ通るはずよね……」
「いないのか?」
自らが狙われている自覚があるなら下手に裏通りを通るなどと愚かな真似はしないだろう。WMOからホテルに通じる大通りはこの一本しかない。
「ちょっと、行く前に軽く声かけようかと探したんだけどどこにも、ね。スケジュール見てみたんだけど、今日はもう何も公務入ってないから。
外に出たにしても狙われてるかもしれないときに何やってんだ、と思って探してたのよ」
「奇遇だな」
「は?」
「俺も人を探そうとしていたところだ。あいつを見なかったか?」
「あいつ、ってカノン?」
頷く彼を見て、ルナは顎に手を当てる。
「午前中、図書館に行ったときに一回会って声かけたけどそれっきり。急いでたし、大した話してないわ。
いないの?」
「待ち合わせていたはずなんだがな。半刻過ぎてもまだ、といった状況だ」
「けど、今あたしもクロード探すために図書館寄ったけどいなかったわよ。確かに広いけど、いたら気が付くと思うし。
……って」
ふと思いついて言葉を止める。
「ねえ、レン。カノンて午前中からずっと図書館にいた?」
「さぁな。今日の大半はあそこで過ごすとは言っていたが。朝方、別れたきりだったからな」
「あの、ね。落ち着きなさいよ? 落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
頭に血が上ったこの男の恐ろしさはルナも十二分に理解している。あの五人の中では最も古い付き合いだ、何を触発すればこの滅多なことでは冷静さを欠かない男を怒らせることが出来るのかくらいは知っている。
だからこそ。
慎重に前置いた。
「さっき探してたときに、さ。派手に割れてる窓を見つけてね、気になったからちょっと見てみたんだけど……
端っこがちょっと炭化してたのよね。たぶん、何かの魔法を喰らったんだろうけど。まあ、魔道師が多数出入りするんだから何かの呪文を口ずさんじゃった奴がいただけかもしんないけど。
気になったから聞いてみたんだけど、昼過ぎに割れちゃったんだ、って。
で、ね。図書館の入出記録って自分がするときに簡単に見られるんだけど、ちょうどその頃ってWMO権限で貸切になってたのよ」
「……」
「で、ね? あ、あのさ、これはあたしも今日情報収集してて初めて知ったんだけど。
あそこの図書館て表向き公共だけど、WMOの司書施設と統合してて、資金は豊富なWMOがほとんど出してるから実質あそこの管理下っていうか統括っていうか……って、こらこらこらッ!!」
話半分に歩き出したレンの腕を掴みながら声を荒げる。引き摺られそうになるのを何とか止めながら、
「だーかーらッ! もしもッ! 何かあったんじゃないかなー、って想像は出来るって話ッ!!
本当は何も無かったのかもしれないし、クロードだってカノンだってどっか別のとこに行っただけのことかもしれないしッ!!
全部、不確かなんだから短気に行動起こすんじゃないわよ、ホテルにシリアやアルティオだっているんでしょーがッ! クロードももしかしたらそっちに居るかもしれないんだしッ!!」
「誰が短気を起こしているんだ」
呆れた息を吐き出し、彼はようやく足を止めて振り返る。
「何があったにしろWMO関連だろう? ローランを訪ねて少し穏便に聞いてやればいいだけの話だ。
相手は俺たちがクロードに接触してることを知ってるはずだ。普通に知らないと返すか、白々しく受け流すかで白か黒が判断できる。万一、慌て出したんだとしても、それはそれで部下の暴走と判断できるだろう? つまりは誰に付くかの判断材料だ」
「あ、あぁそぅ……。びっくりした。あんたのことだからこのままローラン切り殺しに行くかと思ったわ……」
「……貴様、俺を何だと…」
「……誘発的自動辻斬り凶器?」
「……」
「いや、まあそれはいいや。けど、あんたもそのまま無事に帰してくれるか解んないし、あたしも……」
言いかけて。
ルナの言葉が止まる。レンもまた身を硬くした。
殺気。
ルナが呻く。その額には珠のように汗が浮き、赤みを帯びた頬を滴って落ちた。背筋がびりびりと震えた。
しかし、それは一瞬のことで。
レンとルナの動きを止めたとんでもないその強烈な殺気はしかし、次の瞬間には跡形もなく霧散していて。
数秒のうちに掻いた大量の汗を拭いつつ肩を落とす。
「何……今の…」
「……」
感じたことのない黒い殺気。冷えた空気が辺りに漂い、会話することも忘れた。
しかし、
「きゃああぁあぁあぁぁぁッ!!」
沈黙を劈いて、すぐ側の通りの向こうから重なった悲鳴が轟いた。はっとして顔を向ける。
「げッ!?」
最初に声を上げたのはルナの方だ。
視線の先に居たのは、通りの真ん中に陣取って奇声を上げる……二メートルほどのねずみ、もどき。
汚らしい溝の色の身体に、どう見ても外骨格の、毒を持っていることを見せ付けるかのような八本の足。おったてた尻尾だけが白く長い。
「な、何でこんなところにッ!?」
「言っている場合か。行くぞ」
「お、おっけ……」
明らかな動揺を張り付かせながら通りの向こうへ駆ける。逃げようと逆進してくる人の群れを何とか交わしながらルナは小声で呪を唱え始め、レンは腰に下げたショートソードの方を抜く。
さすがにこんな人込みの中で大剣は使えない。
割れた人込みの前に躍り出て、迫った足の一本を叩く。小剣ではさほどの威力は出ないが、傷をつけることは出来たようだ。
き、ききぃいきぃッ!!
甲高い奇声を上げて、憎しみの篭もった赤い目をレンへと向ける。その一瞬、他への注意は散漫になり、
「我求む、繰り出すは惨禍の刃、貫けレイジングソードッ!!」
虚空に浮き上がった空気の塊が刃になり、ねずみもどきを貫いた。そのまま爆縮、派手な音を立ててねずみの身体が四散する。
どろりとした体液が噴き出して、辺りを異臭が包む。その匂いに鼻を曲げながら、レンとルナは顔を見合わせる。
そのとき、
「おーいッ!!」
焦りを含んだ怒鳴り声が鼓膜を響かせる。振り返るとホテルの方角から、それぞれ剣を背負ったアルティオとシリアが駆けてくるところだった。表情に余裕がない。
「お前ら、一緒だったのか?」
「いや、たまたまそこで会ったら、こいつが出て来てね。それよりクロード見なかった? ホテル行ってない?」
「い、いや、そのことなんだけどよ、昨日捕まえたあの野郎が……」
「そんな話は後でも出来るでしょうッ!」
「いだッ!!」
シリアの肘打ちがアルティオの背中にヒットする。いつも張り倒されている人間が別の人間を倒すと何となく違和感を感じる。
まあ、それはどうでもいい。
「悠長にしてる場合じゃないわッ! ホテル近くにも出たのよ、あれがッ!」
「合成獣か?」
「そーよッ! 集まってるギャラリーとかホテルの従業員とかに襲い掛かろうとして……」
「ち、ちょっと待ってよ! 何でッ!? そんな違う場所に同時に、なんて今まで無かったじゃないッ! 何でいきなりッ!?」
「そんなの私が知るわけ……ッ」
叫んだシリアの声を遮って、
しゃぎゃぁぁあああぁああああぁぁぁッ!!
一つ、外れた通りの向こうから、どこかで聞いたような奇声と多数の悲鳴が轟きあがる。
「ち、ちょっと……」
「まさか……」
きりッ―――レンが歯を噛み鳴らす。明らかに青ざめた一同の、胸に浮かんだ、しかし口にするには憚れる嫌な予感をいやに断定的に下す。
ありえない。正気を失った行動としか思えない。しかし、現実として起こってしまっているのだ。
「まさか、町中で合成獣が暴れてるというのかッ―――!?」
町に狂騒が走っている。上がる悲鳴と咆哮、宵闇が落ちかけた夕刻のBGMとしてはあまりにも不釣合いな。
昼の長いクオノリアとて、既に太陽は海の端に沈もうとしている。赤い夕べの映る水面の幻想さに対して、随分とこの喧騒は耳障りだ。
やや涼しさを増した風が頬を抜ける。最も、その風を感じることが出来るのは、片方でしかないのだけれど。
「……」
町を一望することの出来る時計塔の片隅で。
少年は喧騒に塗れた町をただ静かに眺めていた。
口の端にうっすらと微笑みさえ浮かべながら。
黒い髪が、衣装が、風になびいて残像を残す。
「……さて、最終幕[ラストヴァージン]、いや、それともまだ始まりの章[オープニングセレモニー]かな。
先鋭なる戦士諸君は一体、どう動く……?」
まるで何かの享楽を見ているかのように。
少年はくすり、とかすかに笑った。
ざんッ!!
一薙ぎしたレンの破魔聖が目の前の蜘蛛を両断する。背中に針を張り付けた、気味の悪い体が崩れていくのを見ながら、嫌悪の呻きを吐き出す。
「シリアッ、アルティオッ!」
頭上から響いた声に、二人がその場を飛び退いた。それと同時に、
「我滅す、叫ぶは精美なる亡びの咆哮、唸れブレイズシェルッ!!」
轟ッ!!
真上から放たれた閃光の渦が、三体の異形を消し去って消え失せる。
閃光が収まるのを待って、ルナは術を浮遊の術を解いた。
「どーなってんのよ、いくら倒しても追いつかないわ、こんなッ!!」
「私に八つ当たりすんじゃないわよッ! ともかくッ! 元を断たなきゃどうしようもないわッ!!」
「元って言ったってなぁ……」
「……少しは落ち着かんか、お前ら」
揃うなり罵り合いを始めた要領の得ない連中を制しながらレンは剣に付着した体液を払う。
軽く首を振り、青みを帯び始めた空を仰ぐ。
―――いかんな。
まったくの夜になってしまえば、合成獣の姿も気配も感じにくくなる。いくら暑い気候とはいえ気温も下がり、冷えた汗は体温を下げさせて動きを鈍くさせる。
良いことは一つもない。
となれば、
「……シリア、アルティオ、お前たちはこのまま街中の合成獣を掃除しろ」
「へ?」
「ルナ、行くぞ」
「行く、って……」
「決まっているだろう」
「ちょっと、レン! まさか……」
「そのまさかだ」
言ってレンはくるり、と背を向ける。視線の先には無論、黄昏を映してどこかの居城のように佇む巨大な建築物―――WMOクオノリア支部。
「ち、ちょっと待てレンッ!」
「この期に及んで何だ……急を要する件に馬鹿な苦情は」
「いや、とりあえず聞けってッ! 昨日のあいつが目を覚ました、って言っただろッ! でな、そいつが……ッ!!」
どんッ!!
その声を遮るかのように。
通りから光と轟音が漏れた。振り返ると、光と炎に身体を焼かれた一匹のねずみが、霧散しながら地に伏せるところだった。
「何故、民間人がこんなところにいるッ!?」
叩きつけられた声にプライドの高いルナとシリアの額に血管が浮いた。
ねずみが倒れた向こうから現れた青い礼服を着た若い男たちが、焦燥を顔に張り付けながら立っていた。礼服と紋章には見覚えがある。
「あんたたち、WMOの……」
「民間人にはとっくに避難勧告が出されているはずだッ! 早く安全な場所に避難しろッ!」
ぶちッ!
鈍い音がレンとアルティオの耳だけに確かに聞こえ、響く。
「やかましいッ! こっちを何だと思ってんのよッ!」
「ほーっほっほっほ、大体にして今まで合成獣を喰い止めていたのは誰だと思っているのかしらッ!? 無礼な態度もそこまでにするのねッ!!」
「なッ……」
『何だとぉッ!?』
男たち全員の声が唱和する。レンは呆れて肩を下ろし、
「……こんな状況で挑発する相手が違うだろう」
「その通りだ。お前たちも怒る相手を間違うな」
はっ、と全員が顔を上げる。
レンの声を継いだ重厚な言葉と声。聞き覚えがあった。いや、この状況下で解らないはずがない。
男たちの動きを止めさせた、年輪の刻まれた声と精悍な顔。落ち着き払った表情だが、そこにはやはりわずかな焦りが見て取れる。
「ローラン……さん」
「……」
宵闇を背にして立っていた彼に、ルナが掠れた声を上げる。
「えーっと、あの」
罰が悪そうにルナはローランとレン達とを見比べる。ローランはそれに溜め息をついて首を振り、
「……もう良い。貴女がそこの者たちと何らかの繋がりがあることには気がついていた。しかし、今さらそれを問い詰めたところで何にもなりはしない」
「すいません……」
敵か味方か、判然としない今でもそれでも雇い主は雇い主。一応の礼儀というものがある。素直に彼女は頭を下げた。
「もう良い。もう良いのだ」
「ローランさん?」
違和感にルナは面を上げる。何故だろう。彼の口調から諦観というか達観というか。ともかく、何かの諦めのようなものを感じる。
何故?
彼が黒幕だとしたら、何故そんな諦めが湧いてくる?
それともこれもまた部下の暴走が招いた憂いなのか、はたまた失策に終わったことを嘆いているのか。そもそも何故このような手段に……
「こうなるまであれを止められなかった私に非がある」
「はい……?」
「……」
その言葉の違和感に、レンとルナが顔を見合わせる。
「あれ、とは?」
「……」
レンの発した問いに、ローランは陰鬱な溜め息を吐き出した。
空を仰ぎ、何かを悟ったかのように目を閉じて、何かを覚悟をしたかのように開く。
「貴殿らに頼みたいことがある」
「支部長ッ!!」
事情を知る者たちなのか、男たちが慌てた様子でローランの肩を掴む。しかし、ローランはそれをやんわりと制した。
「良いのだ。どの道、我らにあれは裁けぬ。ならば、かすかな希望に縋る他あるまい」
「ですがッ―――」
男が唇を噛む。宥めるようにローランは男の背を叩いた。
苦々しくも男たちが首を縦に振るのを確認すると、再びこちらへ向き直る。
「……何でしょう?」
「この合成獣を、あれを止めなくてはいけない……。こうなったのは私の責任だ。
身内だからと告発も出来ず、あまつさえ内輪で済めばとこうなるまで匿っていた私が悪いのだ」
「身内、って……」
ルナの戸惑いに。
ローランは肩を落して、どこか疲れたように、憂いを吐き出すように口を開く。
「貴殿らも接触しているであろう。
あれ―――この合成獣を生み出したのは、私の孫……クロード=サングリットだ」
「なッ……」
数秒してようやくルナの口から呻きが漏れた。
沈痛な面持ちのローランは眉間に皺を寄せたまま。
凍りつく空気の中でレンはアルティオの方へ視線を向ける。それに気が付いた彼はばりばりと短髪頭を掻き毟り、
「ああ、それを言おうとしたんだよ。昨日の奴が目を覚まして、あいつの名前……は、言ってないけど、『銀髪の若い男に頼まれた』ってさ。もしかしたら、って思ってお前らを探してたんだ」
「何故早く言わん」
「言えなかったんだよッ! つーか、何度も言おうとしてたしッ!!」
「というかこんな騒ぎになってまで何でカノンはいないのッ!? あの小娘、怖気づいて逃げたんじゃないでしょーねッ!」
「だから急いでいると言っている」
「はぁッ!?」
「待て待て待てッ! 短文で情報交換しようとすな、あんたらッ!!
と、とにかく、ローランさん! それって本当のことなんですかッ!? クロードさん、いやクロードが黒幕ってッ!」
好き勝手に会話とも言えない会話を飛ばす一同の首根っこを掴みながら、ルナが詰め寄った。
ローランは力無く頷く。
「なるほどね。ようやくカノンがいなくなった理由が知れたわ」
ルナの言葉に、レンの舌打ちが重なる。
「ち、ちょっと待てッ! 何だ、カノンがいなくなったってッ!?」
「文字通りの意味ね。懸念はしてたけど、これではっきりしたわ。
たぶん、クロードの仕業よ」
「おいッ! 待てよッ! カノンが捕まったっていうのかッ!? 何でッ!? クロードはこっちを味方につけようとしてたじゃねぇかッ!」「タイムリミットが今日の夕方だったからよ。今日の夕方には、昨日捕まった奴が全部吐くと踏んで、カノンを攫ってこっちの足並みを乱した後に一網打尽、みたいに考えてたんでしょ。
だからってこんな合成獣大量発生みたいなことをする理由はどこにも見当たらないんだけど……むしろ、今、こんなことを起こすなんて愚策としか思えないし……」
「ぐちゃぐちゃ考えてる場合かッ!! さっさとカノンを助けに行かねぇと……ッ!」
「……どこによ?」
「へ……?」
鼻息荒く勇んだアルティオの勢いを、いやに冷静なシリアの冷たい声が凍らせた。
「まあ……。候補があるといえばあるが、この余裕のないときに無駄な場所に行くのは避けたいな」
呆れた息を吐きながら、レンが視線を移す。切れ長の目を、さらに細め、睨むようにローランを見据える。
「あんたに直談判するつもりでWMOに行こうとしていたが、都合がいい。こんな事態になっているんだ。隠したところで何も得なことはない。
知っていることは全て話せ」
「……私が悪いのだ。私は昔からあれにWMOに対する不平不満ばかりを言っていた気がする。
あれが狂った野望を抱くようになったのはひとえに私の責任なのだろう」
「野望、って例のWMOを陥れて逆に実権を……ってやつ?」
シリアが首を傾げて問いかける。ローランは迷いを見せながら頷いて、
「確かにそれもあろう……。だが、奴が企んでおるのはそればかりではあるまい」
「それ以外……って」
「あれは異常なほど魔道研究にのめりこんでいる……古今東西、過ちを犯す魔道師の動機は自身の実力を世に知らしめる場所を求めてのものだ」
「まあ……」
「間違ってはいないな」
「あれも同じこと。貴殿らも知っているだろう、そしてこのクオノリアにはそのための恰好の餌がある……」
ローランが空を、海を仰ぐ。視線を辿る。その先にはただ、途切れることの無い水平線が不気味な青を宿しているだけだった。
意識が回復して最初に感じたのは冷たい壁の感触。
お世辞にも寝覚めがいいとは言えない。次に痺れた手足と走る痛み。
「う……ッ?」
「お早いお目覚めで、眠り姫[スリーピングビューティー]」
芝居がかった声に意識が覚醒する。
反射的に身体を動かそうとして、無駄だった。ぎり、と締め付けるような痛みが手首と足に走る。
―――って、またこのパターンか……
意識の下に、木を失う直前の情景の記憶がゆっくりと戻ってくる。そうだ。確か図書館で……
強制的に背伸びをさせられているような体勢だ。疲れることこの上ない。
心の内でありったけの悪態を吐きながら、カノンはうっすらと目を開けた。暗い。ぼんやりした視界の向こうで、薄暗いどこかの部屋に、幾つかのおぼろげな光が見える。
頭を振って視界を正す。
反動で手首を縛る鎖がじゃり、と耳障りな音を立てた。
「案外、体力はあるんですね。ここまで早い目覚めだとは思わなかった」
「……こんな薄暗い場所に女を縛りつけて置くなんて随分といい趣味してるわね」
あえて相手の言葉を無視して、辺りを見渡す。そこは以前、良く見かけたような魔道師のラボだった。死術狩りをしていた当時はこういった部屋を何度も見た。
薄暗く、日の光は一切差してこない。今は何時ぐらいなのか? 強制的に眠らされていた今では、体内時計も狂っていて判別できない。
石造りの壁と天井。居並ぶ何かしがの実験用具と何語か解らない文字で書かれた蔵書の載る机。
そして、付き物なのが趣味の悪いインテリア。
―――しかし、まあ……
渋い顔を作りながらカノンはそのインテリアを見上げる。合計十はあるだろうか。生命維持のための用水が入れられた三メートル大の巨大なケース。
ほとんどのものが空だが、部屋の向こうには黒い影の映るケースもちらほら見える。
魔道生物を眠ったまま保管する装置だ。
自分の運の悪さを呪いながら、その部屋の真ん中でまるで天下でも手にしたように微笑む男に視線を向ける。
「体のお加減はいかがですか?」
「最悪」
カノンは正直に答えた。その男―――嫌な笑みを浮かべて佇む、クロード=サングリットへ。
「で、何のつもりよ」
「割と冷静ですね」
「考えてみたら、ね。別にローランが犯人であっておかしくはないけど、あんたが犯人て聞くとそれもあー、なるほど、って思えちゃうのよ。
随分と付け焼き刃でいい加減な策だとは思うけど……。
昨日、話してくれてた動機だって別にローランじゃなく、あんたが抱いてても何の不思議もない理由だったし、それに昨日の夜、わざわざ椅子に座らないでドアの近くに座ったのも、窓側から襲撃が来ることを知ってたからなんでしょ」
「……」
「わざわざ自分が狙われてるみたいな演出まで凝らして、自分の祖父に罪をなすりつけようとした。
聞けばあんた、ローランに邪魔されて上階級貰い損ねたって話じゃない。だから腹も痛まなかったわけ?
ただ唯一の誤算は昨日のために雇った連中の一人が捕まっちゃったこと。なもんだから、逆に全部バレる前にあたしたちを始末しなきゃならなくなった。で、まずあたしたちの統率力を奪うためにあたしを攫った。
まあ、そんなとこ?」
「貴女方の中心にいるのは貴女のような感触を受けましたからね。それに貴女は明らかに危険因子です。放って置いたら、いずれ真実に行き当たるでしょうし」
ケースガラスに手を付きながら言う。浮かべられた穏やかな微笑に嫌悪さえ抱きながら、痛む腕を庇いつつ、
「クレイヴのこともやっぱりあんたが?」
「とんでもない」
クロードは肩を竦めて白々しく首を振る。
「クレイヴさんに金銭面や貿易の面で協力願っていたのは本当ですが……あの方はまだ利用価値がありました。
こちらとしても困っていたんですよ。まあ、下の者の暴走かもしれませんが、惜しい方を亡くしたものです」
「……」
「もっとも、最近は―――特にあのビーチの一件以来、すっかり脅えてしまっていたようですから、好都合だったと言えばそうなんでしょうかね。
あの分ではいずれ誰かに口を割りかねなかったでしょうから」
―――そういう……ことか…
あの夜のクレイヴが、フロント係からの伝言を受け取った後、何故あんなに蒼白だったか解った気がした。
つまり、あれは脅迫だったのだ。
何か喋れば命はない、とクロードからの。
「ともかく、彼を殺したのは僕じゃあありませんよ」
「……一般人の真ん中に合成獣なんてもの放り込んでくる奴のことなんかを信じろ、っていうの?」
カノンの挑発に、クロードは初めて不快に眉を歪ませた。唇を噛み、ガラスケースに拳を押し付ける。
「そうなんですよ、僕もそれが知りたい」
「……?」
「一体、誰があんなところに『獣の華』を放ったのか。あの一件が起こってからです。全部、計画が狂い出したのは」
「何ですって?」
「一般人の目にあれが触れ、クレイヴが殺され……そして貴方たちというジョーカーが事件に絡んで来た。
僕としても不本意なんですよ。そのせいであんな穴だらけの策を講じなくてはならなくなったのですからね。一体、誰が……」
―――こいつ、本気で言ってるのか?
しかし、クロードの表情に浮かぶ苦いものは到底偽物とは思えないものだった。
今までの合成獣を造り出していたのはクロード。
ならば、この事件が露呈するきっかけとなった一連の事件を起こしたのは一体……?
そこでふと、耳慣れない単語を拾ったことに気がつく。
「『獣の華』……」
「ああ、言っていませんでしたね」
呟きながら、カノンの脳裏にビーチで拾ったあの欠片が掠める。真っ白な、花弁のような形状をしたあの石。
まさか。
「これですよ」
「・・・!」
言ってクロードが懐から取り出したのは大きさこそ違うが、あの白い鉱石とまったく同じ形をした石だった。
「貴女が図書館で言っていたでしょう。
合成獣の形が滅茶苦茶だったのは、そうしたかったんじゃない、そうしなければならなかったんじゃないか、って。
まあ、半分正解です。正確にはそうにしかならないんですよ、これはね」
「何なのよ……それ。あの合成獣たちは一体何なの?」
気味の悪い光沢を放ちながら、彼の手で転がされるそれ。
クロードはにやり、と口の端に笑みを、カノンはその笑みに寒気を覚えながら、真実が告げられるのをただひたすらに待った。
←8へ
夕飯を早々に平らげてしばらく。
ホテルへと戻った四人はレンとアルティオが泊まっている部屋に集まっていた。表で話をするわけにもいかない。部屋自体も鍵をかけ、声が届かないようシリアが声を掻き消す風の魔法をかけている。
「俺の方はそんなとこだ」
トップを買って出たアルティオが、締めくくる。カノンは顎に手を当てて唸りながら、
「つまり……収穫なし、と」
「うッ……!」
はっきり言ったカノンの科白に、詰まる。
「まあ……町の人間の噂にいいものがあると思ってなかったけど。
途中から仕事忘れてナンパに走ってたんじゃないでしょーね?」
「ううッ!」
「……あんたさぁ」
「い、いやッ! それでもその女の子からいろいろ話は聞けたんだぞッ!!」
「どんな?」
「いや、WMOに最近所属したらしい子だったんだけどさ」
呪文が効いてるというのに、何故かそこだけ潜めた声で、
「最近、ローランの跡継ぎ……まあ、WMOのお偉いさんのポジションだな。
一度は孫のクロードが昇格、なんて話が出たんだけどよ……ローランが押し切って、とっくに現役退いててもいいのに無理矢理続けてる、なんて言ってたな」
「年寄りの冷や水、ってやつじゃないの?」
シリアが冷やかすが、カノンは眉間に皺を寄せて腕を組む。クロード、確か最初にホテルで会ったときに共に付いていたあの青年だ。
―――実の血縁といえど、ローランを恨む動機はあるわけか……。いや、でも、ローランだっていずれ辞めることになるだろうに、そこまでして今地位が欲しいものか……?
「まあ、とりあえずいいわ。ありがと。シリアは?」
「ふっ、この私に敗北を認め、一生恩に着るというのなら……」
「じゃあいいや。レン、あんたの方は……」
「……カノンちゃん、つめたい」
「涙目になるくらいなら最初から正直に言わんかい。で?」
年上のくせに縋るように相好を崩すシリアに、呆れた視線を送りつつ促す。彼女はふっ、と真顔を作り、
「そうね。確かにクレイヴさんを恨んでいる人はいそうだけど。
このホテルを建てるときにも土地の分譲とかいろいろとあったけど。けれど、殺人まで考える人間がいたようには見えないわね。
ホテルを建てたのは今は亡くなってる先代らしくて、そっちのオーナーはかなり無理矢理なこともやってたみたいだけど、クレイヴに対しては特に聞かないわ。
殺人を考えるなら、先代が生きていた頃にとっくにやってるでしょうし。
あ、でも」
「でも?」
「最近、身辺警備を厳しくしていた、って話もあるわ。お金を使って用心棒を雇ったり、ね。
もちろん、事件に関して私たちのような人間を雇うこともあったというけれど」
「ってことはクレイヴは自分がいずれ狙われることを知ってた、ってことになるわね……」
だんまりを決め込んでいたレンの手が上がる。
「はい、レン君どうぞ」
「それについてはこっちも情報がある。"事件解決"に関して、クレイヴは観光協会側から強い要望を受けていたらしい」
「要望?」
「クレイヴはこの辺りでは一番の資産家だった。なら、観光協会がそれを頼って、事件を解決出来る人間を雇ってくれと期待するのも無理はない話だろう?」
「確かに。って、ちょっと待って」
不意に、カノンはあることに気が付いて、指を鳴らす。
「ってことは、クレイヴは事件解決には本当は積極的じゃなかった、ってこと?」
「―――ッ!」
シリアとアルティオが息を飲む。
「そうだ。少なくとも、今までとは違う解釈が生まれる。
クレイヴはWMOの圧力を避けるために、わざわざ単発で人を雇ってはあちこちを調べさせていた……という解釈の他に。
クレイヴは観光協会への建前のために、"事件解決"へ協力しているという姿勢を見せるためにあちこちの人間を雇っていた、とも解釈できる。
この場合、クレイヴはその"事件解決"を望んでいなかったことになる。観光というサービス業の中心に立ちながら、な」
「……」
茫然と、シリアもアルティオも顔を見合わせる。カノンは唇の端を歪ませて、乾ききった唇を舌で舐め取った。
「なるほどね……ってことは、ローランとクレイヴの関係を掘って行けば何か出てきそうだけど」
「お前の方はどうだったんだ、カノン?」
「……」
問い返されて、答えに詰まる。
「何ていうか……この件に関わるな、の一点張りって感じでね。
今、考えると最初にチップ一枚であっさり館のことを教えてくれたのも、出来るだけ早くあたしたちをこの件から手を引かせたかったんじゃないか、って」
「そうか……」
力なく首を振るカノン。落ち込んでいても仕方がない。情報は少ない。打開策に通じるものは何一つないと言ってもいい。
唯一の頼みといえば、カノンが拾ったあの石だが、どの文献を調べてもあんなもののことは一切載ってはいなかった。確かに、全ての文献を調べられたわけではないのだから、断言は出来ないのだけれど。
―――手詰まりか? いや、でも……
一つでも、何か一つでも掘り出さなければ。
「! シリア」
「え?」
思考の海に沈んでいると、不意にレンが面を上げる。唐突に呼びかけられたシリアの方は、首を傾げて頭をもたげる。
「術を解け」
「え、でもぉ……」
「客だ」
―――客?
シリアが術を解除し、その瞬間にこんこん、とやや苛立ったノックの音。慌ててアルティオが周囲を見回し、確認をしてから声をかける。
―――そっか、風の術って外に声が聞こえない代わりに中から外も聞こえないのね……
場違いな分析をしながら、細く開けられたドアを見る。
薄暗い廊下を背に、ドアが開く。
そこに立っていた顔に、カノンは、いやカノンたちは目を疑った。
「……こんばんは、お邪魔します」
そうして丁寧なお辞儀を一つしてきたのは、たった今話に上っていたローランの孫クロード。そしてその後ろに憮然とした顔で控えているのは、件の魔道師ルナ=ディスナー。
―――こりゃあ……なかなかタイムリーな……。
「……とりあえず、御用をお聞きしましょうか」
「ご相談に、参りました」
カノンの声に、クロードは静かに答える。
「相談?」
「……今日の昼、貴方とこちらのルナさんがカフェであの話をしているのを見かけまして」
―――う゛っ。
ちらりとルナを見る。彼女はやはり憮然としたまま、力無く首を振るだけだ。
「失礼ながら、貴方方のことを調べさせて頂きました。ルナさんからも少々、お聞きしました。
頼りになる方々だと」
「……」
「貴方方を見込んで一つ、お願いがあるのです」
クロードは言葉を切って、息を飲み込んだ。彼の喉が上下する。真剣な眼差しをこちらに向けて、彼は言った。
「お祖父様を……止めて頂きたいのです」
「ローラン、を?」
「はい」
問い返しに彼は一つ、神妙に頷くと、
「今回の件―――あの合成獣たちを造って放っているのは他でもない、僕の祖父―――ローラン=サングリットなんです」
―――オイオイ……
―――これまた…面倒な事態になって来た……。
「思えば祖父は良く、WMOについて愚痴を溢していました……」
とにかくクロードを部屋に入れ、椅子を勧めるカノンに構わないでくれとドアの近くに腰掛けて。
ルナとシリアで風の結界を張り直し。
どこか疲れたような声色で、クロードがぽつりと呟いた言葉がそれだった。
「今の体制は腐っている、と。
確かに、権力が高まるにつれ、WMO内にも賄賂が横行し、違法行為を黙認する空気が蔓延しているのは確かです」
「ちょっとちょっと……」
―――何気に凄いこと口にしてますけど、この人……
異様なまでにあっさりと、WMOの裏事情を吐露し始めたクロードに、カノンが軽くストップをかける。
「いいの? そんな簡単に喋っちゃって……」
「本当はいけないことですけど……」
―――こらこら……
「ですが、場合が場合です。致し方ないでしょう。
肉親がしでかしたことながら、今度の件はあまりに酷過ぎる」
「けど、何で……? こんなことすれば責任問題は絶対に自分に降りかかるに決まってるじゃない」
「確かに、自分の手が加わっていることが世間に知れたら、お祖父様はそれこそ再起不能なまでに社会的地位を失うでしょう。
でも、こんな件を自身で解決したというなら、WMOはお祖父様へそれなりの評価を下すはずです。
祖父はじわじわと、この件が一般の中にも浸透し、問題視されるのを待っていました。時間をかけてWMOの上層部に威圧を与え、恩を着せ、己の地位を高め、上層部からWMOの浄化を図る……というのが祖父の目的です」
「だからって、一般人の真ん中にいくらできそこないと言っても合成獣一匹放り込むってのは、尋常じゃないじゃない」
「それなんです!」
クロードは我慢ならない様子でだんッ! と拳で床を打った。
「いくら何でも、こんなことが許されるはずはありません! これではWMOの浄化どころか、本末転倒だ!」
「まあ、確かに」
カノンは肩を竦めて答える。良くある、目的のために手段をないがしろにするタイプ、というやつだ。
「あのこと自体はお祖父様も寝耳に水だったようです。ラグンビーチでの一件を聞いたときには、顔を青ざめさせていましたから。あれは演技じゃできないでしょう。
お祖父様のプランは何もお祖父様だけで実行しているものではありません。もしかしたら……」
「ローランに賛同してる人の中の、痺れを切らした誰かが起こした暴走か離反行動か、ってこと?」
クロードは力なく頷いた。カノンは眉根を寄せる。
「ってことは、これからもああいうことが起こりかねない、ってことね……。
クレイヴの殺害については?」
「祖父はクレイヴさんのお父上ととても懇意にしていました。その繋がりで、クレイヴさんもお祖父様に協力していたようです。
……魔道生物の創造のみならず、正規から外れた研究というのは、少なからず資金が必要ですから。
クレイヴさんとしてはお祖父様は昔からの馴染みですし、ビジネス上の付き合いもあるから断れない、でも観光協会としては事件が起こっているのを放って置くわけにもいかない。
板ばさみの状態に置かれて、追い詰められていたんでしょう。何かしがのモーションを起こそうとしたところを、裏切りと判断されて……たぶん…僕は、そう考えています。
祖父の指示か、それとも配下の者たちの判断なのかは解りませんが」
「……」
それが正しいとするなら、クレイヴは板ばさみの状況に耐えられず、カノンたちに真実を、もしくはそれに順ずる何かを伝えようとして―――殺された、ということになる。
きり―――ッ、カノンが奥歯を小さく鳴らした。
「もし、それが本当だとして、あんたはあたし達に何をして欲しいっていうの?」
「……近々、祖父と会談を開こうと思っています。その場での護衛と、クレイヴさんのことについての証人を……」
「待て」
クロードの言葉を遮って、レンが制するように手を上げる。そこでようやく、カノンも剣鎌を自分の方へ引き寄せた。
「クロード、と言っていたな? お前を護衛する、という依頼に対しての報酬は幾らだ?」
「え?」
「今はそれだけでいい。答えろ」
「えっと、ポケットマネーですのであまり多くは出せませんが……」
クロードの口にした金額は、まあまあ妥当なものだった。
「いいだろう」
それだけ答えてレンはすらり、と剣を抜く。シリアとアルティオはそれに合わせて慌てて立ち上がり、カノンとルナはクロードを庇うように側に寄る。
瞬間、
「窓際ッ!」
轟ッ!!
カノンの激と共に、シリアとルナが指を鳴らす。結界を張っていた風が乱れ、強風となって窓を粉砕した。
同時に。
ぐぉがッ!!
「ッ!!」
窓際で炎が渦巻いて風に掻き消える。
―――外側から爆破するつもりかッ!? クロードもいるってのにッ!
風が鳴り止まぬうちに、カノンは床を蹴る。
身を乗り出すと、二階の屋根を滑り落ちるように駆けて行く影が二つ。
「クロードをお願いッ!」
―――逃がすかッ!
躊躇い無く、窓枠を蹴る。二つの影は屋根からそのまま飛び降りる。一つが、もう一つの影に飛びついて、急激に落ちる速度が減速する。
浮遊の呪。
悠長にロープなど手繰っている暇はない。そのままの勢いで屋根の渕まで下りると、覚悟を決めて屋根を蹴る。
がりッ!! がこッ!!
ホテルの石壁に突き立てた剣が悲鳴を上げ、落ちる速度が激減する。かなり無茶だが、弁償代はクロードにツケて置くとしよう。
十分な距離まで下りて、後はそのまま飛び降りるだけ。
影は正面の十字路をそれぞれ別の方向に曲がる。一瞬の迷いの後、
「カノン、右ッ!!」
空から声が落ちる。浮遊と風の呪を利用した飛行の呪で空に浮いたルナが、街道を突っ切って左側の角へと向かう。
……雇われ人が雇い主の側を離れて大丈夫なのか、疑問は残るが細かいことを気にしている暇はない。カノンは曲がり角、左の民家の壁に手をついて、
ききいぃぃんッ!
「うわわッ!!」
いきなり飛んで来たナイフに慌てて身を交わす。貫く対象を失ったナイフは石畳に敢え無く落ちた。
通りの向こうへ消え行く影。追いかけるカノン。
街灯も乏しい時間帯、これ以上引き離されれば完全に見失う。
「待ちなさいッ!」
一声、吼えてカノンは石畳を走り出す。速度は自信があったが、相手もどうしてなかなか。しかし、それでも距離は確実に縮まっていく。
―――これなら!
細い路地に身体を潜らせ、今日のスコールの名残だろうか、わずかな水溜りを影が踏む。弾けた飛沫を追い縋るカノンがさらに踏みつけようとして、
―――ッ!
何かの違和感が、足の裏に触れた。
ずひゅッ!!!
「な……ッ!」
反射的に飛び退いた刹那。
水溜りの中から細く、黒い影が飛び出してくる。
「毒蛇[ポイゾン・スネイク]ッ……」
見たことがある。召還獣の一種、姿形は蛇そのものだが、背丈はざっと人の背丈分。
牙をむき出しながら、顎を広げ、噛み付いて来る蛇。その牙を紙一重で交わし、抜き身の剣を翳す。
「はっ!」
ざんッ!!
蛇は頭を切り離されて、あっさり地に落ちる。刃に付いた青黒い血液を振るって、はっと気が付くと。
追っていた人影は、既に夜の闇の中へと消えてしまっていた。
「邪魔するわねー」
「はいはい」
遠慮も何もなく、一言だけ言って人のベッドに乗り込んでくるルナに、カノンは短い溜め息を吐く。
あの後。
思いがけない妨害に一人は取り逃がしてしまったが、ルナの方は一名をふん縛って連れて来てくれた。覆面を剥いでは見たが、クロードにも見覚えが無い顔だという。
あの刺客が祖父の所業を告白しに来たクロードを監視、もしくは始末しに来た連中だという可能性は高い。
……ルナが使った精神衰弱系の術により、今日中に尋問することは出来なかったが。
ともあれ、そういった可能性がある限り、今、WMO支部に帰還するのは危険行為である。なので護衛に来たルナ共々、今日は互いの部屋で寝泊りとなったのだ。
ルナは女部屋、クロードは男部屋。
今頃、どちらかが二つしかないベッドをどう使うか揉めているだろう。たぶん、床に寝るのはアルティオになるだろうが。
こちらの場合は『こうなったのは不用意に会いに来たあんたの責任』と押し切られて、ベッドの半分を貸し出すことになった。ちなみにシリアは町中巡り歩いて疲れた、と言いながらもう一つのベッドに大の字になりながら寝ている。あの女。
―――まあ、あのお坊ちゃんの言うこともそうそう信じ切らない方がいいんだろうけど……
首を振って毛布の中に潜り込む。
「ねぇ、ルナ」
「なーに? あー、気持ちいい。さすが天下のウィンダリアホテルのベッドねー」
「いや、寛いでないで。あのお坊ちゃん、本当に信用出来るんでしょーね?」
「んー……」
枕に顔を埋めて幸せそうに相好を崩していた彼女は面を上げて、
「まあ、ローランと五分五分、ってところじゃない? 話は筋が通っているように見えるけど、別の見方だって幾らでも出来るし、別の誰かがあのお坊ちゃんを利用してるだけ、ってのもあるかもしれないし。
どっちにしろ、明日の夕方くらいには捕まえたのが目を覚ますだろうから、全部ゲロさせれば済む話よ」
「そーだけど……」
「なら今出来ることは最終決戦に向けて体力回復ってところでしょ」
「……」
彼女の、こちらを関わらせないようにする策は諦めたのだろうか、極当然のように話してしまっている。それとも土壇場で出し抜く覚悟があるのか。
敢えて二人とも触れないようにしている。
もそもそと毛布が蠢いて、彼女が向こうを向いた。
「カノン」
「ん?」
「……ごめん」
「……」
小さく。
聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、呻くように発せられた謝罪が、カノンの鼓膜を打った。
「いいよ、別に」
暗い天井を眺めながら、カノンは、そう答える他の術を持ってはいなかった。
「……調べ物ですか?」
横合いからかけられた声に、カノンは手を止めて振り返った。そこには今朝方、別れたはずの柔和な笑顔を浮かべた顔が。
「クロード、さん」
「クロード、で結構ですよ」
手元の本を棚に戻しながら頷く。WMO付近の図書館内だ、会うこと自体は不思議ではない。
あのまま朝を向かえ、ルナとクロードは一度WMOに帰還した。クロードには公務があるだろうし、ルナはローランに雇われている身だ。丸一日、支部を空けるわけにもいかない。
日昼、堂々とクロードを襲う、ということはいくら何でもないだろう。周りには一般の魔道師もいるはずだ。あまりにもリスクがありすぎる。
夕刻、再びホテルで落ち合うことを約束し、今朝方別れてきたのだが。
「他の方々は?」
みんなバラバラです。アルティオは昨日、とっ捕まえた奴の監視、レンとシリアは周辺への聞き込み。私はちょっと調べ物」
「今回の件に関して、ですか?」
眉根を寄せて、クロードは彼女が眺めていた本の棚を見上げる。
「失礼ですが何を、ですか?」
「ちょっとその……思うところありまして」
カノンはその視線の先を辿って腕を組んで唸る。棚の上のプレートの文字は"歴史‐history‐"となっていた。
「……正直、今回の件とはあまり関連性がないと思うのですが」
「んー」
目を閉じる。話して置いていいものだろうか―――いや、WMOの表向きの正式調査とて、同じような結論には至っているだろう。おそらく、今日も似たような話は出るだろう。
「まあ、実は……」
昨日、ルナにした話をそのまま話すと、クロードは渋い顔で頷いた。
「WMOではそういう話、出て来てないの?」
「出て来てはいますが……ほとんどが無意味、でしょうね。筋の通った説ほど、祖父に握りつぶされてしまいますから」
「あー、なるほど……」
「ですが言ったでしょう? 祖父はWMOに打撃を与えるために合成獣を造り出しているんです。
それだけなら、別に駄作の合成獣でも構わなかったのではないですか?」
「確かにね。でもどんな駄作でも、造り出すのにはそれなりに先立つものが必要でしょう? そんな資金の無駄遣いをするとは思えないのよ。
どう考えても、研究と実用を兼ねるのが一番いい方法じゃない。研究過程で造った合成獣をデータを取るのを兼ねて放逐、とかね。WMOの中にも合成獣の研究をしてる奴なんか山ほどいるだろうし、一人くらいローラン側に付いてる奴がいるはずだわ。
なのに何故、こんな無駄なことを繰り返してるのか。
だから思ったのよ、出さないんじゃ無くて出せなかったんじゃないか、って」
「出せなかった、ですか?」
「そう、研究の主体になっているのは性能のいい合成獣を造ることじゃなくてもっと別のことにあるんじゃないか、ってね。
そこまで考えたらふと思い出したのよ。死術、は解るわよね? あれの中に、核に触れると誰彼構わず、生物を凶暴化―――狂戦士化させる、っていう傍迷惑かつ危険極まりない術があってね」
「……それはまた」
「でしょ? 死術じゃなくても、危険な魔法なんて世の中に腐るほどあるわけで。もしかしたらそういう術が他にも存在した事例があるんじゃないかあるんじゃないか、ってさ。
まあ、そんな術が正規の魔道書に載ってるわけないし、ってか載ってもらってても困るし。過去の事件か史上に類似例を探してるわけ。
あったらあったでまたそれを掘らなきゃいけないわけだから回りくどいテではあるんだけど」
「なるほど……良く、そこまで思い至ったものですね。感心しました」
「そこは馴れっていうか……」
―――ッ?
かすかな違和感。それはクロードの声色だったか、それとも言葉の使い方だったか。
『思い至る』……おかしくはないだろうが、こういった場合、普通はそういう言葉を使うだろうか。
新たに本を抜こうとしていた手が止まる。顔を上げてクロードを盗み見る。先程と変わらぬ笑顔を浮かべている―――瞳の奥に、かすかな嘲りを灯らせながら。
カノンの中の、研ぎ澄まされた勘が警鐘を告げる。詰まらない理屈染みた願望と、十九年付き合ってきた自らの勘ではカノンは己の勘の方を信じる!
だんッ!!!
手の中の蔵書を床へ叩き付けると、後ろ飛びにその場を退く。そのまま踵を返し、振り向く事無く走り出す。
小さな詠唱が耳に届く。気配と勘とだけを頼りに左側へ飛ぶ。なびいた髪の一房を焼いて、青白い光の孤影がその先の窓ガラスを容赦なく、砕いた。
躊躇い無く割れた窓の桟へ足をかける。一階でだいぶ助かった。割れた窓を開け放ち、外へと着地。瞬時、
複数の、気配。
「―――ッ!!」
剣を抜く。繰り出した先はすぐ脇の茂み。
確かな手ごたえと共にくぐもった悲鳴。引き抜いた刃は赤い残像を残し、粘ついた体液を芝生の上へ撒き散らした。
顔を顰めながら距離を取る。
茂みの中から影が躍る。フードを目深に被った、おそらくは昨日取り逃がした襲撃者。怪我を負っていないということは、どうやら茂みの中に二人潜んでいたうち、一人を片付けることは出来たらしい。
が、
「くッ―――!」
「諦めた方がいいですよ」
木の陰から、階上から降って湧いた同じような影に、カノンは足を止めた。後ろの割れた窓からは余裕の笑みを浮かべたクロード。
魔道師なら空からでも逃げられただろうが、残念ながらカノンには出来ない芸当だ。
「まさか―――」
「まさかこんな場所で、ですか? ご心配なく。この図書館はWMOの管轄でもありましてね、人払いは出来ています。多少のことなら揉み消しが効きますしね」
迂闊だった、まさか―――。
「無用な怪我はしたくないでしょう? カノンさん、我々とご同行願います。よろしいですね―――?」
←7へ
ホテルへと戻った四人はレンとアルティオが泊まっている部屋に集まっていた。表で話をするわけにもいかない。部屋自体も鍵をかけ、声が届かないようシリアが声を掻き消す風の魔法をかけている。
「俺の方はそんなとこだ」
トップを買って出たアルティオが、締めくくる。カノンは顎に手を当てて唸りながら、
「つまり……収穫なし、と」
「うッ……!」
はっきり言ったカノンの科白に、詰まる。
「まあ……町の人間の噂にいいものがあると思ってなかったけど。
途中から仕事忘れてナンパに走ってたんじゃないでしょーね?」
「ううッ!」
「……あんたさぁ」
「い、いやッ! それでもその女の子からいろいろ話は聞けたんだぞッ!!」
「どんな?」
「いや、WMOに最近所属したらしい子だったんだけどさ」
呪文が効いてるというのに、何故かそこだけ潜めた声で、
「最近、ローランの跡継ぎ……まあ、WMOのお偉いさんのポジションだな。
一度は孫のクロードが昇格、なんて話が出たんだけどよ……ローランが押し切って、とっくに現役退いててもいいのに無理矢理続けてる、なんて言ってたな」
「年寄りの冷や水、ってやつじゃないの?」
シリアが冷やかすが、カノンは眉間に皺を寄せて腕を組む。クロード、確か最初にホテルで会ったときに共に付いていたあの青年だ。
―――実の血縁といえど、ローランを恨む動機はあるわけか……。いや、でも、ローランだっていずれ辞めることになるだろうに、そこまでして今地位が欲しいものか……?
「まあ、とりあえずいいわ。ありがと。シリアは?」
「ふっ、この私に敗北を認め、一生恩に着るというのなら……」
「じゃあいいや。レン、あんたの方は……」
「……カノンちゃん、つめたい」
「涙目になるくらいなら最初から正直に言わんかい。で?」
年上のくせに縋るように相好を崩すシリアに、呆れた視線を送りつつ促す。彼女はふっ、と真顔を作り、
「そうね。確かにクレイヴさんを恨んでいる人はいそうだけど。
このホテルを建てるときにも土地の分譲とかいろいろとあったけど。けれど、殺人まで考える人間がいたようには見えないわね。
ホテルを建てたのは今は亡くなってる先代らしくて、そっちのオーナーはかなり無理矢理なこともやってたみたいだけど、クレイヴに対しては特に聞かないわ。
殺人を考えるなら、先代が生きていた頃にとっくにやってるでしょうし。
あ、でも」
「でも?」
「最近、身辺警備を厳しくしていた、って話もあるわ。お金を使って用心棒を雇ったり、ね。
もちろん、事件に関して私たちのような人間を雇うこともあったというけれど」
「ってことはクレイヴは自分がいずれ狙われることを知ってた、ってことになるわね……」
だんまりを決め込んでいたレンの手が上がる。
「はい、レン君どうぞ」
「それについてはこっちも情報がある。"事件解決"に関して、クレイヴは観光協会側から強い要望を受けていたらしい」
「要望?」
「クレイヴはこの辺りでは一番の資産家だった。なら、観光協会がそれを頼って、事件を解決出来る人間を雇ってくれと期待するのも無理はない話だろう?」
「確かに。って、ちょっと待って」
不意に、カノンはあることに気が付いて、指を鳴らす。
「ってことは、クレイヴは事件解決には本当は積極的じゃなかった、ってこと?」
「―――ッ!」
シリアとアルティオが息を飲む。
「そうだ。少なくとも、今までとは違う解釈が生まれる。
クレイヴはWMOの圧力を避けるために、わざわざ単発で人を雇ってはあちこちを調べさせていた……という解釈の他に。
クレイヴは観光協会への建前のために、"事件解決"へ協力しているという姿勢を見せるためにあちこちの人間を雇っていた、とも解釈できる。
この場合、クレイヴはその"事件解決"を望んでいなかったことになる。観光というサービス業の中心に立ちながら、な」
「……」
茫然と、シリアもアルティオも顔を見合わせる。カノンは唇の端を歪ませて、乾ききった唇を舌で舐め取った。
「なるほどね……ってことは、ローランとクレイヴの関係を掘って行けば何か出てきそうだけど」
「お前の方はどうだったんだ、カノン?」
「……」
問い返されて、答えに詰まる。
「何ていうか……この件に関わるな、の一点張りって感じでね。
今、考えると最初にチップ一枚であっさり館のことを教えてくれたのも、出来るだけ早くあたしたちをこの件から手を引かせたかったんじゃないか、って」
「そうか……」
力なく首を振るカノン。落ち込んでいても仕方がない。情報は少ない。打開策に通じるものは何一つないと言ってもいい。
唯一の頼みといえば、カノンが拾ったあの石だが、どの文献を調べてもあんなもののことは一切載ってはいなかった。確かに、全ての文献を調べられたわけではないのだから、断言は出来ないのだけれど。
―――手詰まりか? いや、でも……
一つでも、何か一つでも掘り出さなければ。
「! シリア」
「え?」
思考の海に沈んでいると、不意にレンが面を上げる。唐突に呼びかけられたシリアの方は、首を傾げて頭をもたげる。
「術を解け」
「え、でもぉ……」
「客だ」
―――客?
シリアが術を解除し、その瞬間にこんこん、とやや苛立ったノックの音。慌ててアルティオが周囲を見回し、確認をしてから声をかける。
―――そっか、風の術って外に声が聞こえない代わりに中から外も聞こえないのね……
場違いな分析をしながら、細く開けられたドアを見る。
薄暗い廊下を背に、ドアが開く。
そこに立っていた顔に、カノンは、いやカノンたちは目を疑った。
「……こんばんは、お邪魔します」
そうして丁寧なお辞儀を一つしてきたのは、たった今話に上っていたローランの孫クロード。そしてその後ろに憮然とした顔で控えているのは、件の魔道師ルナ=ディスナー。
―――こりゃあ……なかなかタイムリーな……。
「……とりあえず、御用をお聞きしましょうか」
「ご相談に、参りました」
カノンの声に、クロードは静かに答える。
「相談?」
「……今日の昼、貴方とこちらのルナさんがカフェであの話をしているのを見かけまして」
―――う゛っ。
ちらりとルナを見る。彼女はやはり憮然としたまま、力無く首を振るだけだ。
「失礼ながら、貴方方のことを調べさせて頂きました。ルナさんからも少々、お聞きしました。
頼りになる方々だと」
「……」
「貴方方を見込んで一つ、お願いがあるのです」
クロードは言葉を切って、息を飲み込んだ。彼の喉が上下する。真剣な眼差しをこちらに向けて、彼は言った。
「お祖父様を……止めて頂きたいのです」
「ローラン、を?」
「はい」
問い返しに彼は一つ、神妙に頷くと、
「今回の件―――あの合成獣たちを造って放っているのは他でもない、僕の祖父―――ローラン=サングリットなんです」
―――オイオイ……
―――これまた…面倒な事態になって来た……。
「思えば祖父は良く、WMOについて愚痴を溢していました……」
とにかくクロードを部屋に入れ、椅子を勧めるカノンに構わないでくれとドアの近くに腰掛けて。
ルナとシリアで風の結界を張り直し。
どこか疲れたような声色で、クロードがぽつりと呟いた言葉がそれだった。
「今の体制は腐っている、と。
確かに、権力が高まるにつれ、WMO内にも賄賂が横行し、違法行為を黙認する空気が蔓延しているのは確かです」
「ちょっとちょっと……」
―――何気に凄いこと口にしてますけど、この人……
異様なまでにあっさりと、WMOの裏事情を吐露し始めたクロードに、カノンが軽くストップをかける。
「いいの? そんな簡単に喋っちゃって……」
「本当はいけないことですけど……」
―――こらこら……
「ですが、場合が場合です。致し方ないでしょう。
肉親がしでかしたことながら、今度の件はあまりに酷過ぎる」
「けど、何で……? こんなことすれば責任問題は絶対に自分に降りかかるに決まってるじゃない」
「確かに、自分の手が加わっていることが世間に知れたら、お祖父様はそれこそ再起不能なまでに社会的地位を失うでしょう。
でも、こんな件を自身で解決したというなら、WMOはお祖父様へそれなりの評価を下すはずです。
祖父はじわじわと、この件が一般の中にも浸透し、問題視されるのを待っていました。時間をかけてWMOの上層部に威圧を与え、恩を着せ、己の地位を高め、上層部からWMOの浄化を図る……というのが祖父の目的です」
「だからって、一般人の真ん中にいくらできそこないと言っても合成獣一匹放り込むってのは、尋常じゃないじゃない」
「それなんです!」
クロードは我慢ならない様子でだんッ! と拳で床を打った。
「いくら何でも、こんなことが許されるはずはありません! これではWMOの浄化どころか、本末転倒だ!」
「まあ、確かに」
カノンは肩を竦めて答える。良くある、目的のために手段をないがしろにするタイプ、というやつだ。
「あのこと自体はお祖父様も寝耳に水だったようです。ラグンビーチでの一件を聞いたときには、顔を青ざめさせていましたから。あれは演技じゃできないでしょう。
お祖父様のプランは何もお祖父様だけで実行しているものではありません。もしかしたら……」
「ローランに賛同してる人の中の、痺れを切らした誰かが起こした暴走か離反行動か、ってこと?」
クロードは力なく頷いた。カノンは眉根を寄せる。
「ってことは、これからもああいうことが起こりかねない、ってことね……。
クレイヴの殺害については?」
「祖父はクレイヴさんのお父上ととても懇意にしていました。その繋がりで、クレイヴさんもお祖父様に協力していたようです。
……魔道生物の創造のみならず、正規から外れた研究というのは、少なからず資金が必要ですから。
クレイヴさんとしてはお祖父様は昔からの馴染みですし、ビジネス上の付き合いもあるから断れない、でも観光協会としては事件が起こっているのを放って置くわけにもいかない。
板ばさみの状態に置かれて、追い詰められていたんでしょう。何かしがのモーションを起こそうとしたところを、裏切りと判断されて……たぶん…僕は、そう考えています。
祖父の指示か、それとも配下の者たちの判断なのかは解りませんが」
「……」
それが正しいとするなら、クレイヴは板ばさみの状況に耐えられず、カノンたちに真実を、もしくはそれに順ずる何かを伝えようとして―――殺された、ということになる。
きり―――ッ、カノンが奥歯を小さく鳴らした。
「もし、それが本当だとして、あんたはあたし達に何をして欲しいっていうの?」
「……近々、祖父と会談を開こうと思っています。その場での護衛と、クレイヴさんのことについての証人を……」
「待て」
クロードの言葉を遮って、レンが制するように手を上げる。そこでようやく、カノンも剣鎌を自分の方へ引き寄せた。
「クロード、と言っていたな? お前を護衛する、という依頼に対しての報酬は幾らだ?」
「え?」
「今はそれだけでいい。答えろ」
「えっと、ポケットマネーですのであまり多くは出せませんが……」
クロードの口にした金額は、まあまあ妥当なものだった。
「いいだろう」
それだけ答えてレンはすらり、と剣を抜く。シリアとアルティオはそれに合わせて慌てて立ち上がり、カノンとルナはクロードを庇うように側に寄る。
瞬間、
「窓際ッ!」
轟ッ!!
カノンの激と共に、シリアとルナが指を鳴らす。結界を張っていた風が乱れ、強風となって窓を粉砕した。
同時に。
ぐぉがッ!!
「ッ!!」
窓際で炎が渦巻いて風に掻き消える。
―――外側から爆破するつもりかッ!? クロードもいるってのにッ!
風が鳴り止まぬうちに、カノンは床を蹴る。
身を乗り出すと、二階の屋根を滑り落ちるように駆けて行く影が二つ。
「クロードをお願いッ!」
―――逃がすかッ!
躊躇い無く、窓枠を蹴る。二つの影は屋根からそのまま飛び降りる。一つが、もう一つの影に飛びついて、急激に落ちる速度が減速する。
浮遊の呪。
悠長にロープなど手繰っている暇はない。そのままの勢いで屋根の渕まで下りると、覚悟を決めて屋根を蹴る。
がりッ!! がこッ!!
ホテルの石壁に突き立てた剣が悲鳴を上げ、落ちる速度が激減する。かなり無茶だが、弁償代はクロードにツケて置くとしよう。
十分な距離まで下りて、後はそのまま飛び降りるだけ。
影は正面の十字路をそれぞれ別の方向に曲がる。一瞬の迷いの後、
「カノン、右ッ!!」
空から声が落ちる。浮遊と風の呪を利用した飛行の呪で空に浮いたルナが、街道を突っ切って左側の角へと向かう。
……雇われ人が雇い主の側を離れて大丈夫なのか、疑問は残るが細かいことを気にしている暇はない。カノンは曲がり角、左の民家の壁に手をついて、
ききいぃぃんッ!
「うわわッ!!」
いきなり飛んで来たナイフに慌てて身を交わす。貫く対象を失ったナイフは石畳に敢え無く落ちた。
通りの向こうへ消え行く影。追いかけるカノン。
街灯も乏しい時間帯、これ以上引き離されれば完全に見失う。
「待ちなさいッ!」
一声、吼えてカノンは石畳を走り出す。速度は自信があったが、相手もどうしてなかなか。しかし、それでも距離は確実に縮まっていく。
―――これなら!
細い路地に身体を潜らせ、今日のスコールの名残だろうか、わずかな水溜りを影が踏む。弾けた飛沫を追い縋るカノンがさらに踏みつけようとして、
―――ッ!
何かの違和感が、足の裏に触れた。
ずひゅッ!!!
「な……ッ!」
反射的に飛び退いた刹那。
水溜りの中から細く、黒い影が飛び出してくる。
「毒蛇[ポイゾン・スネイク]ッ……」
見たことがある。召還獣の一種、姿形は蛇そのものだが、背丈はざっと人の背丈分。
牙をむき出しながら、顎を広げ、噛み付いて来る蛇。その牙を紙一重で交わし、抜き身の剣を翳す。
「はっ!」
ざんッ!!
蛇は頭を切り離されて、あっさり地に落ちる。刃に付いた青黒い血液を振るって、はっと気が付くと。
追っていた人影は、既に夜の闇の中へと消えてしまっていた。
「邪魔するわねー」
「はいはい」
遠慮も何もなく、一言だけ言って人のベッドに乗り込んでくるルナに、カノンは短い溜め息を吐く。
あの後。
思いがけない妨害に一人は取り逃がしてしまったが、ルナの方は一名をふん縛って連れて来てくれた。覆面を剥いでは見たが、クロードにも見覚えが無い顔だという。
あの刺客が祖父の所業を告白しに来たクロードを監視、もしくは始末しに来た連中だという可能性は高い。
……ルナが使った精神衰弱系の術により、今日中に尋問することは出来なかったが。
ともあれ、そういった可能性がある限り、今、WMO支部に帰還するのは危険行為である。なので護衛に来たルナ共々、今日は互いの部屋で寝泊りとなったのだ。
ルナは女部屋、クロードは男部屋。
今頃、どちらかが二つしかないベッドをどう使うか揉めているだろう。たぶん、床に寝るのはアルティオになるだろうが。
こちらの場合は『こうなったのは不用意に会いに来たあんたの責任』と押し切られて、ベッドの半分を貸し出すことになった。ちなみにシリアは町中巡り歩いて疲れた、と言いながらもう一つのベッドに大の字になりながら寝ている。あの女。
―――まあ、あのお坊ちゃんの言うこともそうそう信じ切らない方がいいんだろうけど……
首を振って毛布の中に潜り込む。
「ねぇ、ルナ」
「なーに? あー、気持ちいい。さすが天下のウィンダリアホテルのベッドねー」
「いや、寛いでないで。あのお坊ちゃん、本当に信用出来るんでしょーね?」
「んー……」
枕に顔を埋めて幸せそうに相好を崩していた彼女は面を上げて、
「まあ、ローランと五分五分、ってところじゃない? 話は筋が通っているように見えるけど、別の見方だって幾らでも出来るし、別の誰かがあのお坊ちゃんを利用してるだけ、ってのもあるかもしれないし。
どっちにしろ、明日の夕方くらいには捕まえたのが目を覚ますだろうから、全部ゲロさせれば済む話よ」
「そーだけど……」
「なら今出来ることは最終決戦に向けて体力回復ってところでしょ」
「……」
彼女の、こちらを関わらせないようにする策は諦めたのだろうか、極当然のように話してしまっている。それとも土壇場で出し抜く覚悟があるのか。
敢えて二人とも触れないようにしている。
もそもそと毛布が蠢いて、彼女が向こうを向いた。
「カノン」
「ん?」
「……ごめん」
「……」
小さく。
聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、呻くように発せられた謝罪が、カノンの鼓膜を打った。
「いいよ、別に」
暗い天井を眺めながら、カノンは、そう答える他の術を持ってはいなかった。
「……調べ物ですか?」
横合いからかけられた声に、カノンは手を止めて振り返った。そこには今朝方、別れたはずの柔和な笑顔を浮かべた顔が。
「クロード、さん」
「クロード、で結構ですよ」
手元の本を棚に戻しながら頷く。WMO付近の図書館内だ、会うこと自体は不思議ではない。
あのまま朝を向かえ、ルナとクロードは一度WMOに帰還した。クロードには公務があるだろうし、ルナはローランに雇われている身だ。丸一日、支部を空けるわけにもいかない。
日昼、堂々とクロードを襲う、ということはいくら何でもないだろう。周りには一般の魔道師もいるはずだ。あまりにもリスクがありすぎる。
夕刻、再びホテルで落ち合うことを約束し、今朝方別れてきたのだが。
「他の方々は?」
みんなバラバラです。アルティオは昨日、とっ捕まえた奴の監視、レンとシリアは周辺への聞き込み。私はちょっと調べ物」
「今回の件に関して、ですか?」
眉根を寄せて、クロードは彼女が眺めていた本の棚を見上げる。
「失礼ですが何を、ですか?」
「ちょっとその……思うところありまして」
カノンはその視線の先を辿って腕を組んで唸る。棚の上のプレートの文字は"歴史‐history‐"となっていた。
「……正直、今回の件とはあまり関連性がないと思うのですが」
「んー」
目を閉じる。話して置いていいものだろうか―――いや、WMOの表向きの正式調査とて、同じような結論には至っているだろう。おそらく、今日も似たような話は出るだろう。
「まあ、実は……」
昨日、ルナにした話をそのまま話すと、クロードは渋い顔で頷いた。
「WMOではそういう話、出て来てないの?」
「出て来てはいますが……ほとんどが無意味、でしょうね。筋の通った説ほど、祖父に握りつぶされてしまいますから」
「あー、なるほど……」
「ですが言ったでしょう? 祖父はWMOに打撃を与えるために合成獣を造り出しているんです。
それだけなら、別に駄作の合成獣でも構わなかったのではないですか?」
「確かにね。でもどんな駄作でも、造り出すのにはそれなりに先立つものが必要でしょう? そんな資金の無駄遣いをするとは思えないのよ。
どう考えても、研究と実用を兼ねるのが一番いい方法じゃない。研究過程で造った合成獣をデータを取るのを兼ねて放逐、とかね。WMOの中にも合成獣の研究をしてる奴なんか山ほどいるだろうし、一人くらいローラン側に付いてる奴がいるはずだわ。
なのに何故、こんな無駄なことを繰り返してるのか。
だから思ったのよ、出さないんじゃ無くて出せなかったんじゃないか、って」
「出せなかった、ですか?」
「そう、研究の主体になっているのは性能のいい合成獣を造ることじゃなくてもっと別のことにあるんじゃないか、ってね。
そこまで考えたらふと思い出したのよ。死術、は解るわよね? あれの中に、核に触れると誰彼構わず、生物を凶暴化―――狂戦士化させる、っていう傍迷惑かつ危険極まりない術があってね」
「……それはまた」
「でしょ? 死術じゃなくても、危険な魔法なんて世の中に腐るほどあるわけで。もしかしたらそういう術が他にも存在した事例があるんじゃないかあるんじゃないか、ってさ。
まあ、そんな術が正規の魔道書に載ってるわけないし、ってか載ってもらってても困るし。過去の事件か史上に類似例を探してるわけ。
あったらあったでまたそれを掘らなきゃいけないわけだから回りくどいテではあるんだけど」
「なるほど……良く、そこまで思い至ったものですね。感心しました」
「そこは馴れっていうか……」
―――ッ?
かすかな違和感。それはクロードの声色だったか、それとも言葉の使い方だったか。
『思い至る』……おかしくはないだろうが、こういった場合、普通はそういう言葉を使うだろうか。
新たに本を抜こうとしていた手が止まる。顔を上げてクロードを盗み見る。先程と変わらぬ笑顔を浮かべている―――瞳の奥に、かすかな嘲りを灯らせながら。
カノンの中の、研ぎ澄まされた勘が警鐘を告げる。詰まらない理屈染みた願望と、十九年付き合ってきた自らの勘ではカノンは己の勘の方を信じる!
だんッ!!!
手の中の蔵書を床へ叩き付けると、後ろ飛びにその場を退く。そのまま踵を返し、振り向く事無く走り出す。
小さな詠唱が耳に届く。気配と勘とだけを頼りに左側へ飛ぶ。なびいた髪の一房を焼いて、青白い光の孤影がその先の窓ガラスを容赦なく、砕いた。
躊躇い無く割れた窓の桟へ足をかける。一階でだいぶ助かった。割れた窓を開け放ち、外へと着地。瞬時、
複数の、気配。
「―――ッ!!」
剣を抜く。繰り出した先はすぐ脇の茂み。
確かな手ごたえと共にくぐもった悲鳴。引き抜いた刃は赤い残像を残し、粘ついた体液を芝生の上へ撒き散らした。
顔を顰めながら距離を取る。
茂みの中から影が躍る。フードを目深に被った、おそらくは昨日取り逃がした襲撃者。怪我を負っていないということは、どうやら茂みの中に二人潜んでいたうち、一人を片付けることは出来たらしい。
が、
「くッ―――!」
「諦めた方がいいですよ」
木の陰から、階上から降って湧いた同じような影に、カノンは足を止めた。後ろの割れた窓からは余裕の笑みを浮かべたクロード。
魔道師なら空からでも逃げられただろうが、残念ながらカノンには出来ない芸当だ。
「まさか―――」
「まさかこんな場所で、ですか? ご心配なく。この図書館はWMOの管轄でもありましてね、人払いは出来ています。多少のことなら揉み消しが効きますしね」
迂闊だった、まさか―――。
「無用な怪我はしたくないでしょう? カノンさん、我々とご同行願います。よろしいですね―――?」
←7へ
――― 一体、どうなってるってのよ……。
人込みから逃げるようにホテルを出て、ようやく落ち着けた町の片隅にある食堂。物価の高いクオノリアでそこそこの値段でそこそこのものを食べさせてくれた。
まあ、確かにホテルでの食事の方が美味しいことは確かだが、あんな騒ぎの中心でゆっくり食事も何もあったものじゃない。
朝食の席は珍しく静かだった。
さしものシリアも自嘲して、今朝ばかりは大人しく、どこか憮然とモーニングセットを口にしている。
「さて、」
食後に運ばれてきたホットコーヒーの半分を飲み終えた辺りで、カノンはそこにいる全員を見回した。
「さっき、ホテルの支配人に尋ねたら、今日明日にあそこを追い出される心配はないそうよ。
ホテル側にとっては大惨事だし、即対応しなきゃいけないんだろうけど……
少なくとも、ビジネスだから。今泊まってる人たちに失礼な真似はしない、ってさ。つまり、騒ぎを気にしなければもう二、三日は普通にレジャーを楽しめる」
頷くシリアとアルティオ。レンは承諾済みなのか、コーヒーカップを空ける手を休めない。
「まあ、気にしなければ、の話だけど」
カノンが何を言いたいのか、解らないほどここに居るメンバーは愚鈍ではないだろう。
―――つまり、クレイヴは昨夜、何かをカノンたちに話そうとしていた。
その何かは今となっては解らない。しかし、カノンはてっきり最初に受けた依頼についてか、もしくは昨日の件を重く見て、なりふり構わず"事件の解決"を依頼しに来たのか。
そのどちらかと思っていた。
だが……
その矢先に、クレイヴは殺された。
いくらローラン……WMOにとって彼が目の上のたんこぶだったとしても、仮にも公共機関の人間が、そんな手荒な真似をしたりはしないだろう。下手をすれば、それこそ面目の丸つぶれになる。
話をようとした矢先―――
クレイヴは誰かに、フロントを通じて呼び出されていた。
それが誰だったのか、何があったのか、おそらく彼はあの後に殺されたのではないか……
「クレイヴが、あたしたちに何を話そうとしていたのかは知らないわ。今となっては解らない」
神妙に首を振ってカノンは前置いた。
「けど、その"誰か"にとってクレイヴが話そうと……もしくは打ち明けようとしていたことが、何らかの形で不都合だった、ってことになるわ」
「不都合、って……やっぱり例の件に関して、だよな?」
「たぶんね。まあ、仮にもホテル主だし、狙われる理由ってのは逆恨み含めていろいろとあるんだろうけど……。
けど、このタイミングで、ってのはちょっと……」
「けどー、このタイミングを狙って、ってのもあるんじゃない?」
珍しくレン以外のことに頭を働かせているシリアが発した言葉に頷くカノン。
「確かにね。今なら、他人に罪を着せられるいい機会よ。
でもね、クレイヴはWMOやら政団にも機密でこの探索をしていたの。一般の中で、クレイヴがこの件に関わっていたことを知る人は極少数、観光団体の一部と依頼を受けた、あたしたちみたいな傭兵くらい。
観光団体の人間にいくら何でもこんな、『観光』そのものが不安定になるような事件を起こす理由はないし、傭兵にしたってクレイヴはそんな不法千万な依頼人じゃなかったわ。
まあ、観光団体については、それほどの恨みがあった、って人もいるかもしれないけど……その線で考えたって、一歩も進まないわ。
最悪のパターンを考えるなら、やっぱりあの件絡みになるはずよ」
「……確かに、最悪だな」
カノンの言葉をレンが継ぐ。
彼は不意に自分の指を立て、
「一つ、WMO、もしくは何かの理由で"事件の解決"を望まない人間が、目の上のたんこぶであるクレイヴを煙たがって消した。
しかし、これはクレイヴが何らかの成果を上げていない限り、そしてそれが公になっていない限り、考え難い。ましてやWMOがそんな手段に出るとは考え辛い。
二つ、クレイヴが事件について何らかの形で直結、もしくは間接的に関係する事柄……犯人を告発する証拠を掴んでしまっていた場合。
これは"消される"理由として十分だし、そうなれば俺たちに護衛や告発の手伝いを頼んでくることもあるだろう。
……後はあまり考えたくないが、三つ」
レンの声が潜んだものになる。
「クレイヴ自身が、この件に関して何らかの形で直接的に関わっていた場合」
「―――っ!」
アルティオが飲んだばかりのコーヒーを噴出すのを堪えている。シリアもまた、目を丸くして彼を見た。
「真実はわからん。
この説は、ならどうして"事件の解決"に繋がる依頼を俺たちにして来たのか理由が解らなくなるし、根拠も薄い。
昨日、あんなことが―――合成獣が人を傷つけるようなことがあって、昨日の件自体に疑問を抱いた、もしくは腰の引けた奴が俺たちに"事件の解決"を依頼し、自分だけ火の粉を避けるためか、それとも本当の真実を明かすつもりだったのか……。推測はいくらでも成り立つ意見だがな」
「どっちにしろ、クレイヴの真意は解らないことだらけよ。
これ以上は、ここで考えてても仕方ないことばっかりだわ。で、それを踏まえてあんたたちに聞きたいのは、」
もう一度、カノンは一同を見渡す。
「一つ、こんな件とは金輪際、関わらずに楽しくレジャーを満喫した後に速やかにこんな縁起の悪い町はおさらばする。
二つ、やっぱり寝覚めが悪いからハイリスク覚悟で分の悪い真似をする。
二つに一つよ」
「……」
シリアとアルティオは無言でお互いの顔を見合わせた。レンは短い溜め息と共に、早々に口を開く。
「俺としては前者、だな。
わざわざ見返りのない厄介事に首を突っ込むのははっきり言って歓迎しない」
「……まあ、あんたはそう言うと思ってたわ。で、あんたたちは?」
首を回して、シリアとアルティオの方を向く。二人とも答え辛いらしく、渋い顔で固まったままだ。
数瞬の沈黙の後、アルティオが顔を上げる。
「俺としては……ちょっとやっぱり寝覚めが悪すぎるぜ。納得はいかないけど……けどどっちが正しいのかもよくわかんねぇ。
カノン、お前はどう思うんだ?」
「……」
問われて腕を組む。ちらり、とレンの方を盗み見ると、知らぬ顔でカップを傾けている。
「……あたしはやっぱり、寝覚めが悪いわね」
その一言に意外そうな目を向けるアルティオ。
「それに、気になることがあるの」
「ルナのこと?」
「そりゃそれもあるけどね……。
何で、いきなり事件が凶悪化したのか、ってことよ。これまで事件は人気のない、山の中とか人知れない岩場とか。
そりゃあ、襲われた人の一人や二人、いたかもしれないけど、真昼間のビーチの真ん中に現れたことは今までなかった。にも関わらず、昨日は一般人が大勢いるあの場所が狙われて、今朝、その調査をしていたクレイヴが殺された。
いくら何でも程度が違うわ。
で、何のために犯人はわざわざこんな騒ぎを起こしたのか。何が目的なのか。
これは良くない推測よ……推測なんだけど」
こくり、と生唾を飲み下す。
「犯人が、あたし達を……いや、あたしとレンを挑発しようとしている、もしくは直接に狙っている場合」
「―――!?」
「ちょ、何でそうなるのよ!?」
「考えたくないけど……。
半年前のことはあんた達も知ってるでしょ?」
言ってシリアもアルティオも、一瞬言葉に詰まる。
半年前―――回収した死術を利用しようとした政団の指導者が暴走を始め、それを止めるためにカノンとレン、他一名が深く関わった事件。
公式には伏せられているが、裏の方では名前が流れてしまっていてもそうおかしくはない。
あの事件は政団の第三革命とも呼ばれ、おそらく歴史上にも残る大事件だったのだから。
その最中にいたカノンたちに降りかかるのは、けして名声や栄誉ばかりではない。元・指導者の残党に襲われたこともある。
歴史に名を残すということは、表にしろ裏にしろ、いつのときもろくな結果を生み出さない。自らの親族に置いて、カノンもレンもそのことは良く知っている。
だからこそ。
無用な危険を避けたがるレンの言葉の意も解る。が、
「自意識過剰なのは解ってるわ。これはあたしの単なるもしかしたら、っていう気がかりに過ぎない。杞憂にじゃないか、って程度のね。
でも、それを放って置いて、ってのは少なくともいいことじゃないと思うのよ」
カノンは全員に、というよりもレンに向かって言う。
彼はようやく弄んでいたカップを置いた。手元の剣を引き寄せて、天井を仰ぐ。しばし、目を閉じた後、
「で、具体的にどうするんだ?」
さすがに決まると決断が早い男だ。
「ありがと、レン」
「ふん。まあ、俺はいい。どの道、ここに滞在するのなら部外者ではいられまい。
カノンと俺はともかくとして、お前らはどうするんだ?」
「決まってるじゃない!」
問いかけにいきなり元気になったシリアが立ち上がる。傍迷惑にもレン、そしてカノンを交互にびしっ、と指差すと、
「最初に言ったことをもう忘れたのかしらッ!? この私がいる限り、二人きりなんて許されないって!
ふっ、不本意だけどこの私の協力が得られることを感謝することね、カノン=ティルザードッ!」
「押し売りはお断りよ、残念だけど」
「そんな危ない境地に愛しい俺のフィアンセを一人にして置けるわけがないだろうッ!?
ましてや、こんなむっつり野郎の側に置かせておいてたまるかッ!」
「……貴様」
「店の中でそういう発言はやめろッ! ったく……まあ、いいわ。
二人共、それでいいのね?」
カノンの最後の問いかけに、力強く頷く二人。カノンは呆れ混じりに息を吐くと、それでもくすり、と笑って立ち上がった。
「そうと決まれば、早速打って出ないとね。これに関しては防御姿勢はマイナスしか生まないわ。待ちもなし。とっくに事態は最悪の方向に向いてるんだから、攻めあるのみよ。
とりあえず、シリア、アルティオ!」
「おう!」
「アルティオは町で、件の事件について何か耳にした話はないか町の人に片っ端から聞いて来て。ナンパでも何でも構わないわ、根拠のない噂でも全然OK。
シリアはクレイヴ本人について、誰かに恨まれるような話はないか、最近彼の周りで変わったことはなかったか、下町で聞き込んで」
「ふっ、その程度のこと、愚問ね」
「よっしゃ、そういうことなら俺の得意分野だな!」
「いや、得意かどうかは知らないけどね……。レンは、」
「ホテル関係者、もしくは観光団体、それともう一度支配人の首を絞めてくる」
「……くれぐれも殺さないよーにね。あと心の傷とか作らせないよーに」
「善処する」
「……いや、善処するって最初っから善処する気のない奴が使う言葉じゃ……。まあいいや、とりあえず、そっちは任すわ」
「ちょっと、じゃあ貴方はどうするのよ?」
何故か剥れた顔でシリアが問いてくる。カノンはす、と真顔を作り、口内の生唾を飲み下した。
「まずは調べ物、ね。もう一度、合成獣についての知識を仕入れて……
それから、WMOに行って来る」
「!」
「ま、待て、カノン! お前……」
慌てたアルティオの声に、視線を尖らせる。
「……もう一度、ルナに会って来る」
「……本気?」
シリアが眉を潜めて問いてくる。それはそうだろう、彼女のところを訪れるというのは、即ち彼女の仕事を妨害することに繋がりかねない。
尚且つ、今はクレイヴの殺害について、WMO―――ひいてはローランは、まさか役所から疑われているわけではないだろうが、いい立場にはいないだろう。
警戒されるのは間違いない。
二人が呆気に取られる中、レンはわずかに残ったコーヒーが揺れるカップの中身を眺め、やがてそれを一度に飲み干した。
「……気を付けろ」
その言葉に、カノンは深く頷いた。
食堂を出てカノンは一つ、大きく身体を伸ばした。うみねこの鳴く声が聞こえる。
青い空と海とに惹かれてやって来たクオノリアだが、今はどこか霞んで見え、道行く人たちの顔にも陰りを感じる。
覇気がないというか。
と思えば、道端で会議をしている近所のおば様方の間では、生々しく今朝の騒ぎが囁かれている。
慌しさと、不気味な寂しさが同居する、肌に悪い空気。
―――こんな中でレジャーも何もあったものじゃないわね、よく考えれば。
「全く、つくづく運が悪いっていうか。それともあたし自身が疫病神なのかしらね」
苦笑するしかない。
「さて」
ボートと漁師が群がる海岸線を、歩く。図書館は確か、町の南側にあったはず。
詳しい場所は聞けなかったが、その都度人に聞けばいい。
潮風が乱暴に髪を弄び、ちらちらと横目に建ち並ぶ小さな雑貨店を眺めながら、一つの路地に入る。
路地を抜け、大通りの人並みの中を身をかわし、再び路地へ。人がごった返すとはこのことだ。
―――うっ、レンに送るだけ送ってもらえばよかったかも。
せめて彼の長身さえあれば、人並みの中でも多少強引に歩けたのに。
―――ごちゃごちゃ文句言っても仕方ないか。早速、方向感覚なくなったけど……
まあ、路地を抜けた先で聞けばいい。こういうときはひたすら楽観的に行くに限る。今さらになって治安が気になったが、まあ、まさかこんな時間からそんな輩は活動していないだろう。第一、大声を出せば一発で誰かが聞きつける、大通りのすぐ脇の路地なんて誰も狙わない。
やや生臭い匂いに軽く鼻を抑えながら路地をすり抜ける。足元にいた猫がふーっ、と威嚇しながら逃げていった。
「よっ、と」
石造りの家の壁に手をかけて、路地の終点に飛び出る。
目の前に突如として広がる海。
―――見事に間違えたな、こりゃ。
どうやらどこかの船が出入りする船着場らしい。石畳で組まれた停泊所に、小さいながら、貿易船らしい二艘ほど船が停泊している。
海は開けているものの、停泊場自体も小さく、船が三艘泊まればいっぱいになる程度だろう。
人影が少ないのが気になったが、あまり活発でない貿易場ならそう不思議でない光景だ。
―――ん?
数少ない船員が船を出入りする中、一人だけ、立ち止まって船を見上げる人影に気がついた。影、というのが正しいだろう、黒い髪に黒い服、夏だというのに同じ色の長いコートを羽織っている。
広い袖から見えた手は異様なまでに白い……いや、あれは肌じゃない。
唐突に思い出した。
昨日の事情聴取で、レンが妙な風体の少年の話を持ち出していたのを。
何とはなしに眺めていると、開いた距離に吹き抜けた潮風が一瞬、少年の髪を攫う。
「―――ッ!」
思わず息を飲んだ。
顔の半分を包帯で隠している、とは聞いていた。だが、もう左半分の整った顔。瞳は髪と同じ深い黒水晶。白く映るのは包帯だったが、肌もまた真綿のように白かった。
迂闊にも一瞬、見とれてしまった。
視線に気がついたのか、ふと少年が小首を傾げてこちらを振り向く。
―――あ゛。
「……何かご用ですか」
抑揚のあまりない、だが物腰柔らかな、年不相応に落ち着いた声音だ。
話しかけられては仕方がない。カノンは少年との距離を詰めようと、数歩移動する。
―――?
先程は気がつかなかったが、少年の腰の辺りに小さな女の子が一人、しがみ付いているのが見えた。黒い長い髪に、瞳、雪のような肌、フリルのついた何とも可愛らしいゴシック服を着ている。
兄弟、だろうか、どこか似ている気もする。
カノンが自分を見ていることに気がつくと、何故かびくっ、と肩を震わせ、目を見開いて慌てて少年の背に隠れてしまった。
―――嫌われてる?
「……えーっと、妹さん?」
そう問いかけると、少年もまたわずかに左の目を見開いた。
まじまじとこちらを見つめ、背中に隠れた少女の方にちらりと目線を投げる。空を眺めて何事か逡巡し、
「彼女ですか?」
「ええ、背中に隠れてる」
「……」
細い顎に指をかけて、感嘆したように息を吐く。
「……そういう人もいるのか」
「へ?」
「いえ、失礼。そうですね、そのようなものです」
にこり、と笑って頷く少年。
「それで、何か僕にご用ですか?」
「あー、えっと……。
ここ、貿易船の船着場ですよね?」
「そうですよ」
「失礼ですけど、あんまりこんなとこにいそうなタイプじゃないなぁ……、って」
ともすれば機嫌を損ねても致し方のない科白だった。しかし、少年はカノンの懸念を吹き飛ばすように可笑しそうに微笑を浮かべ、
「正直な人だ」
「あ、う、ごめん」
「いえ、いいんですよ。事実ですしね。
お察しの通りです。船員なんてものじゃないんですよ。ただ、ちょっと珍しい船着場なので見てみたくなりましてね」
「珍しい?」
言われてカノンは周囲を見回す。
……これといって変わったことはない。着場の形も特に変わった点はないし、泊まっている船も全く普通の木船。船員が人間外ということもない。どこそこの貿易港では半魚人の種族が活躍しているなどと言うけれど、そんなこともない。
海だって、穏やかな波が立っているだけで、別にそこだけ色が違ったりするわけでもない。
他の船着場に比べたら、確かに小規模だろうが、それほど変わっているわけではない。
意図が解らずに、眉間に皺を寄せて彼を見ると、少年は船のマストを見上げ、
「ここはね、大陸唯一のゼルゼイルへの輸出が行われている貿易場なんですよ。
ご存知ありません?」
「ゼルゼイル!?」
カノンは正直に驚いた。
ゼルゼイル。
西国大陸でも、東方大陸でもない、それ以外で人が居住する唯一の国。
中央アルケミア海の南方に位置する島国で、五十年前までは南国特有の果物や海産物、採掘される特殊鉱石などの貿易で栄えていた。
五十年前までは、と区切ったのには訳がある。今現在、ゼルゼイルは必要最低限の航路しか西・東両大陸に対して引いていない。五十年前、唐突としてゼルゼイルは極端な閉鎖国となった。
理由は国内部で起こった分断、そして内戦の勃発だった。
元々、ゼルゼイルは北ゼルゼイルと南ゼルゼイルとで大陸で言う領のような区分で別れていた。それでも昔は一つの国であり、それで上手く機能していたはずだったのだ。
しかし、五十年前、南ゼルゼイルの総統となった男が突如として独立を宣言。そのまま、国は分断され、冷たい内戦は今もまだ続いている。
不毛な内戦を続けるゼルゼイルに対して、東西大陸はやがて手を引いて行き……
ゼルゼイルは訪れる者も久しい、完全な独立国と化した。
そのゼルゼイルとの唯一の航路がクオノリアに開かれているとは知っていたが、まさか。
「小さいものでしょう?」
「まあ……でも、何となく人気がないのも合点がいったわ」
大陸人はゼルゼイルを遠ざける傾向がある。五十年、戦争を続けている国だ。
死術が横行した魔道大戦以来、曲がりなりにも(裏側ではそうでもなかったりするのだが)平和を貫いて来た大陸人にとっては似て非なるもの、という意識が働くのだろう。
「貴方はどう思います?」
「え?」
「五十年、不毛な戦争を続け、国力を疲弊させるばかりの愚かな二国を、ですよ」
「……えーと」
初めて会った人間にまさかそんな国家レベルの質問をされると思わなかった。
答えに迷って、上目遣いで少年を見る。
―――っ?
少年は変わらず、船のマストの先を眺めていた。いや、本当は何も眺めていなかったのかもしれない。
遠くを。
ひたすら遠くを眺める瞳で。
「……なんてことをいきなり聞かれても困りますよね」
何も言えないでいるカノンに、少年は苦笑混じりに首を振った。悪戯が失敗した子供のような笑み、しかし、瞳はどこか笑っていない。
「貴方が戦を気にするのは、自分がそんな大怪我をしてるから?」
「……さあ、どうでしょう」
「もし、そうなら……どう思うも何もないじゃないの」
「?」
「人間は間違う生き物よ。だから戦争はする、喧嘩はする、下らないことで死んだりするし、後悔もする。当たり前のことよ」
「……そうですね」
「いつの時代だって、戦争が正当化されることはないわ。後から、あの戦争は間違いだった、とか言うけどそれは戦争なんかする前から解ってたことよ。
人間は馬鹿だからとんでもないことが起こってからしか後悔できない。でもね、後悔して置きながら戦争を繰り返そうとする奴がいたら、それは馬鹿を通り越して愚かとしか言えないわ」
「……それが、貴方の考え方、ですか…」
少々、陶然となりながら返って来た声に肩を竦め、
「あくまで自論。これでもいろいろな戦いは見て来たからね。
でも、戦争ってのは見たことないから……本当の戦争を知ってる人は、また違うことを言うのかもしんないわね」
「……」
顎に指を置くのが癖らしい。少年はしばし、その格好のままで何事か考え耽っていた。
何となく、去るタイミングを失ってカノンがただ突っ立っていると、少年はやがて面を上げて、
「なかなか面白い意見を聞かせていただきました。
初めての方にお話するような話ではなかったですね、お詫びを言わせてください」
「いや、別に……。
あ、そーだ。あの、あたし……」
「大通りに出るならそこの路地を右です。この時間は混んでいますから、WMOに行くならそちらの道からまっすぐ行った方がいいでしょう。あの建物は、街中で一番大きいですからすぐわかります。
図書館はその右手にあるはずですよ」
「え、あ、えっと……?」
かすかな声が聞こえた。遠くの路地で、誰かが声を張り上げている。それが何と言っているのかは解らなかったが、少年は自分が呼ばれているのだと解釈したらしい。
「それでは。クオノリアは発展した観光都市のようですが、治安は良くないようなので女性の一人歩きはあまりお勧め出来ませんよ。どうかお気をつけて」
「え、あ、ありがとう……」
「いいえ、こちらこそ」
一礼した後に、音も立てずに去っていく。それに慌てて付き従う少女。
カノンは頬を掻いてその背を見送っていたが、やがて踵を返して走り出した。
―――悪いヒトではなかったみたいだけど……
走りながら、彼の言葉を反芻する。
「何であの人、あたしが図書館に行きたいこと知ってたんだろ……?」
少女が消えた先を眺めて、少年は息を吐いた。ふと視界に、黒髪の少女の姿が目に入る。まだぽかんとしている彼女に、
「『魔変換』の所有者、か。見える人には、見えるのかな。ねぇ、シャル?」
そう言って口元だけでくすり、と微笑んだ。
図書館の造りはまあまあだった。
大きくもないし、小さくもない。トップクラスの学者が調べ物をするにはやや物足りない、という程度か。
しかし、予備知識は持っているもののカノンが専門外の事柄を調べるにはちょうど良いくらいだ。
「んーと、魔道関係、魔道関係……」
ずらり、と硬い背表紙が並ぶ本棚の合間を、棚の上部に付いているプレートをチェックしながら進んでいく。
こういう場所には結構、慣れている。これでも狩人時代は調べ物というものが欠かせないもので、しょっちゅう町の図書館や政団の司書室に出入りしていたのだ。
高台に上り、棚の上の蔵書に手を伸ばす。
数冊、取ったところで肩を撫で下ろす。この台というもの、そこそこに頑丈でないと容易く壊れてしまうのだから油断が出来ない。
―――けして、体重が重いわけではないんだけどね……よっと。
とりあえず、台を元の場所に戻さなくてはいけない。本を台の上に乗せ、両手で抱えるように持ち上げて―――
「あ、すいません、その台……」
「ん?」
後ろからかかった声に反射的に振り返る。振り返ってから、その声が聞き馴れたものだということに気が付いた。
「あ……」
本棚の向こうから首だけを出して、おそらく、台を持っていることで咄嗟に声を出してしまったのだろう、見知った顔が覗いていた。
「ルナ……」
「カノン……?」
あの図書館ではWMOの目がありすぎる。場所を移し、通りを二つ挟んだ街中のカフェの片隅を陣取って、彼女たちは向かい合っていた。
ルナはカノンが口にする状況説明を、腕を組みながら静かに聞いている。
……いや、ただ単に運ばれてきたオレンジスフレに集中力を奪われているだけかもしれないが。
話、と言っても長い話ではない。ルナがスフレの半分ほどを平らげた頃合で、カノンの話は終わりを告げた。
最後の句を告げたと同時に、ルナの白い喉が上下する。
フォークが止まった。そのまま銀の食器は置き皿に軽い音を立てて寝そべる。
「……で?」
「……」
「あんたはあたしに何を聞きに来ようと思ったの?」
「いろいろあるわ。
WMOの調査内容を教えろとか馬鹿なことを言うつもりはないの。まず一つ。一流の魔道師として答えて欲しいことがある」
「随分と意地の悪い言い分ね。まあ、いいわ。何?」
「例の合成獣のこと。WMOもクレイヴも、これはどこかの魔道師が造った合成獣が暴れている―――そういう事件だ、って言ってたわ。
あたしはこれでも色んな化け物を見て来たし、合成獣ってのも数多く見て来た自信があるわ。でも、今回の件についてはどうしても納得できないことがあるの」
「納得できない?」
「ルナ、一流の魔道師として意見を聞かせてちょうだい。あの合成獣、一体誰が何の目的で造ったんだと思う?」
ルナの眉がひくり、と小さく震える。
「そんなことは……」
「犯人の目的を聞いてるんじゃないわ。
魔道師が合成獣を造り出す最大の目的は、現存する生物を利用してそれ以上の性能を持つ生物へと進化させる、もしくは強化させる、ってことよね?
例えば陸の生き物と海の生き物をかけ合わせて水陸両用の生物を造ったり」
「まあ、大抵の場合はそうでしょうね」
「けど、今まで証言されてる合成獣の一つ一つを見てみて。
まず、あたしたちが最初に会ったあいつ。
ミノタウロスの体力はいいわ。スライムの溶解液は厄介だったけど、足部があれじゃあ、犬の脚力や兎の敏感さをプラスしたところで動きが遅すぎて意味がない。ましてや、あんなでかぶつに翼をつけても飛べるわけはない。
連絡は行ってると思うけど、昨日ビーチを襲った奴もそう。
蟹はいいわ。見た目は悪いけど、鋏は立派な武器になるし、グロテスクだったけど触手もそれなりに厄介だった。
でも、胴体の真ん中に口があって牙があっても、食事くらいにか使えないし、周りにくっついてたちっちゃい魚のヒレなんか泳ぐわけでもないのに明らかに邪魔なだけよ。
つまり。
どれもこれも合成獣としての意味を成していないのよ。あれもこれも欲張りすぎて形成に失敗した駄作……にしても酷すぎるわ。
ちょっと考えれば、別に魔道師じゃなくてももっと良い物が造れると判断できるはず。
なのに、今回、発見される合成獣はそんな失敗作ばっかり」
「……」
「ルナ、魔道師としてどう思う? あたしの考えは間違っている? それとも、あれにはあれであたしにはわからない優秀な面があるっていうの?」
「……」
ルナはふっ、と力を抜いて紅茶のカップを手に取った。酸味の程好く利いたローズティーを一口、飲み下してから口を開く。
「まあ……死術の狩人なんかやってたあんたを、口先だけの三寸で誤魔化せるわけないわね。
その通りよ。だからWMOも混乱してる。
魔道師で合成魔道学をちょっとでも齧った人間なら、あんな合成獣が何の役にも立たないのはすぐ理解できる」
「……」
「どうせカノン。あんたのことだから、その先もちょっとは察しがついてるんじゃないの?」
「……あの合成獣が魔道師の単なる腕自慢とか不注意でないなら……。
目的はもっと別のもの。クオノリアそのもの、いや、合成獣によってクオノリアが撹乱されること。直接のダメージが行くのは観光協会かどこかだけど、それならわざわざこんな手を使う理由はない。
クオノリアが魔道生物に撹乱されて、最も不利益を被るのはそれで面目を潰される……」
自然と、言葉に力が篭もる。
「WMO……」
「それも、魔道関係の事件解決に責任がある者、ね」
深く、息を吸い込んで吐き出す。
「……ローランに個人的に恨みを持つ人間は?」
「それこそ星の数。権力者にはつきものよ。容疑者はそれこそWMOの中に石一個を投げれば当たるくらいたくさん」
首を振りながら、ルナが答える。
ローランが頑なに他者の事件への関与を嫌ったのは、つまり、そういった背景があってのものだったのだ。
他者が事件を解決してしまえば、揉み消しが効く場所までそれが出来なくなる。
ましてや、動機が己の不始末等に関係することだったなら、それだけで自分の地位を危うくする。
まったく、何てことだ。
「……今朝、前の依頼人だったクレイヴが殺されたわ」
「そうらしいわね」
「何か心当たりは?」
「ないわ。最も、私は表向きに雇われた人間だから、別の場所で誰が何をやってるのかなんて知らないわけだけど」
「そう……」
ルナが再びフォークを手に取る。オレンジスフレの山になった箇所に、切っ先が食い込むのを眺めながら、カノンは懐に手を入れた。
「もう一つ、"これ"に見覚えは?」
「―――ッ!」
明らかに。
ルナの顔に動揺が走った。
カノンが取り出したのは、一つの小さな石。いや、石に見える"何か"。
砂漠の花、と呼ばれる鉱石がある。高温の砂砂漠で、水が干上がる前にその水に溶けていた石膏が結晶化し、その結晶が花弁のように見えるのでそう呼ばれる。
それはその特殊な鉱石によく似ていた。
だが、それとは明らかに違う。あれは結晶化の際に砂と取り込む。黄色や赤や、色の付いた結晶が出来上がるはずだが、カノンの手の平にあるそれは反して真っ白な色をしていた。
「それは?」
平静を装いながら、彼女が問う。
「正体はわからないけどね。蟹モドキを倒した現場に転がってたの。
見たことのないものだし、珊瑚、にしては汚れ一つないのが気になるわ。生態系に属するものならそれまでだけど、これが何なのか調べてみる価値はあると思って。
けど、見覚えがあるんなら」
かしゃんッ。
彼女の置いたフォークが、少々荒い音を立てる。
「ルナ?」
「カノン、この件からは手を引きなさい」
立ち上がり、言い放たれた一言に、カノンの表情が引き締まる。
「それはWMOに預けることを薦めるわ。容疑者はいずれ捕まるでしょうし、後は任せて町を出なさい」
「……ッ」
そのままテーブルを立つ彼女の背を、カノンは反射的に追っていた。
「ルナッ」
「……」
「もう一つだけッ! あんた、何のつもりで彼に付いてるのッ?
わかってんでしょッ、相手がどんな人間かッ! らしくないじゃない、何のつもりなのッ!?」
背中に叩き付けた言葉に、彼女の足が止まる。店の中の視線が集まるが、覚悟の上だ。
数瞬後、彼女は俯いた顔をほんの少しだけ上げて、
「もう一度言うわ。早く、町を出なさい」
「―――ッ!」
それだけ言い放って、彼女は無言でカフェを去った。
カノンは首を振って席に戻る。取り残されたスフレの残りが、何だか妙に寂しげだ。
―――何か、隠してるわね……
ルナが忘れていることが一つ。
―――そういう態度ならこっちもとことんまで調べ上げてやろうじゃないのッ! あたしはそういう性分の持ち主よッ!
鼻息を荒げて、カノンは彼女が残したデザートを始末するべくフォークを手に取った。
←6へ
人込みから逃げるようにホテルを出て、ようやく落ち着けた町の片隅にある食堂。物価の高いクオノリアでそこそこの値段でそこそこのものを食べさせてくれた。
まあ、確かにホテルでの食事の方が美味しいことは確かだが、あんな騒ぎの中心でゆっくり食事も何もあったものじゃない。
朝食の席は珍しく静かだった。
さしものシリアも自嘲して、今朝ばかりは大人しく、どこか憮然とモーニングセットを口にしている。
「さて、」
食後に運ばれてきたホットコーヒーの半分を飲み終えた辺りで、カノンはそこにいる全員を見回した。
「さっき、ホテルの支配人に尋ねたら、今日明日にあそこを追い出される心配はないそうよ。
ホテル側にとっては大惨事だし、即対応しなきゃいけないんだろうけど……
少なくとも、ビジネスだから。今泊まってる人たちに失礼な真似はしない、ってさ。つまり、騒ぎを気にしなければもう二、三日は普通にレジャーを楽しめる」
頷くシリアとアルティオ。レンは承諾済みなのか、コーヒーカップを空ける手を休めない。
「まあ、気にしなければ、の話だけど」
カノンが何を言いたいのか、解らないほどここに居るメンバーは愚鈍ではないだろう。
―――つまり、クレイヴは昨夜、何かをカノンたちに話そうとしていた。
その何かは今となっては解らない。しかし、カノンはてっきり最初に受けた依頼についてか、もしくは昨日の件を重く見て、なりふり構わず"事件の解決"を依頼しに来たのか。
そのどちらかと思っていた。
だが……
その矢先に、クレイヴは殺された。
いくらローラン……WMOにとって彼が目の上のたんこぶだったとしても、仮にも公共機関の人間が、そんな手荒な真似をしたりはしないだろう。下手をすれば、それこそ面目の丸つぶれになる。
話をようとした矢先―――
クレイヴは誰かに、フロントを通じて呼び出されていた。
それが誰だったのか、何があったのか、おそらく彼はあの後に殺されたのではないか……
「クレイヴが、あたしたちに何を話そうとしていたのかは知らないわ。今となっては解らない」
神妙に首を振ってカノンは前置いた。
「けど、その"誰か"にとってクレイヴが話そうと……もしくは打ち明けようとしていたことが、何らかの形で不都合だった、ってことになるわ」
「不都合、って……やっぱり例の件に関して、だよな?」
「たぶんね。まあ、仮にもホテル主だし、狙われる理由ってのは逆恨み含めていろいろとあるんだろうけど……。
けど、このタイミングで、ってのはちょっと……」
「けどー、このタイミングを狙って、ってのもあるんじゃない?」
珍しくレン以外のことに頭を働かせているシリアが発した言葉に頷くカノン。
「確かにね。今なら、他人に罪を着せられるいい機会よ。
でもね、クレイヴはWMOやら政団にも機密でこの探索をしていたの。一般の中で、クレイヴがこの件に関わっていたことを知る人は極少数、観光団体の一部と依頼を受けた、あたしたちみたいな傭兵くらい。
観光団体の人間にいくら何でもこんな、『観光』そのものが不安定になるような事件を起こす理由はないし、傭兵にしたってクレイヴはそんな不法千万な依頼人じゃなかったわ。
まあ、観光団体については、それほどの恨みがあった、って人もいるかもしれないけど……その線で考えたって、一歩も進まないわ。
最悪のパターンを考えるなら、やっぱりあの件絡みになるはずよ」
「……確かに、最悪だな」
カノンの言葉をレンが継ぐ。
彼は不意に自分の指を立て、
「一つ、WMO、もしくは何かの理由で"事件の解決"を望まない人間が、目の上のたんこぶであるクレイヴを煙たがって消した。
しかし、これはクレイヴが何らかの成果を上げていない限り、そしてそれが公になっていない限り、考え難い。ましてやWMOがそんな手段に出るとは考え辛い。
二つ、クレイヴが事件について何らかの形で直結、もしくは間接的に関係する事柄……犯人を告発する証拠を掴んでしまっていた場合。
これは"消される"理由として十分だし、そうなれば俺たちに護衛や告発の手伝いを頼んでくることもあるだろう。
……後はあまり考えたくないが、三つ」
レンの声が潜んだものになる。
「クレイヴ自身が、この件に関して何らかの形で直接的に関わっていた場合」
「―――っ!」
アルティオが飲んだばかりのコーヒーを噴出すのを堪えている。シリアもまた、目を丸くして彼を見た。
「真実はわからん。
この説は、ならどうして"事件の解決"に繋がる依頼を俺たちにして来たのか理由が解らなくなるし、根拠も薄い。
昨日、あんなことが―――合成獣が人を傷つけるようなことがあって、昨日の件自体に疑問を抱いた、もしくは腰の引けた奴が俺たちに"事件の解決"を依頼し、自分だけ火の粉を避けるためか、それとも本当の真実を明かすつもりだったのか……。推測はいくらでも成り立つ意見だがな」
「どっちにしろ、クレイヴの真意は解らないことだらけよ。
これ以上は、ここで考えてても仕方ないことばっかりだわ。で、それを踏まえてあんたたちに聞きたいのは、」
もう一度、カノンは一同を見渡す。
「一つ、こんな件とは金輪際、関わらずに楽しくレジャーを満喫した後に速やかにこんな縁起の悪い町はおさらばする。
二つ、やっぱり寝覚めが悪いからハイリスク覚悟で分の悪い真似をする。
二つに一つよ」
「……」
シリアとアルティオは無言でお互いの顔を見合わせた。レンは短い溜め息と共に、早々に口を開く。
「俺としては前者、だな。
わざわざ見返りのない厄介事に首を突っ込むのははっきり言って歓迎しない」
「……まあ、あんたはそう言うと思ってたわ。で、あんたたちは?」
首を回して、シリアとアルティオの方を向く。二人とも答え辛いらしく、渋い顔で固まったままだ。
数瞬の沈黙の後、アルティオが顔を上げる。
「俺としては……ちょっとやっぱり寝覚めが悪すぎるぜ。納得はいかないけど……けどどっちが正しいのかもよくわかんねぇ。
カノン、お前はどう思うんだ?」
「……」
問われて腕を組む。ちらり、とレンの方を盗み見ると、知らぬ顔でカップを傾けている。
「……あたしはやっぱり、寝覚めが悪いわね」
その一言に意外そうな目を向けるアルティオ。
「それに、気になることがあるの」
「ルナのこと?」
「そりゃそれもあるけどね……。
何で、いきなり事件が凶悪化したのか、ってことよ。これまで事件は人気のない、山の中とか人知れない岩場とか。
そりゃあ、襲われた人の一人や二人、いたかもしれないけど、真昼間のビーチの真ん中に現れたことは今までなかった。にも関わらず、昨日は一般人が大勢いるあの場所が狙われて、今朝、その調査をしていたクレイヴが殺された。
いくら何でも程度が違うわ。
で、何のために犯人はわざわざこんな騒ぎを起こしたのか。何が目的なのか。
これは良くない推測よ……推測なんだけど」
こくり、と生唾を飲み下す。
「犯人が、あたし達を……いや、あたしとレンを挑発しようとしている、もしくは直接に狙っている場合」
「―――!?」
「ちょ、何でそうなるのよ!?」
「考えたくないけど……。
半年前のことはあんた達も知ってるでしょ?」
言ってシリアもアルティオも、一瞬言葉に詰まる。
半年前―――回収した死術を利用しようとした政団の指導者が暴走を始め、それを止めるためにカノンとレン、他一名が深く関わった事件。
公式には伏せられているが、裏の方では名前が流れてしまっていてもそうおかしくはない。
あの事件は政団の第三革命とも呼ばれ、おそらく歴史上にも残る大事件だったのだから。
その最中にいたカノンたちに降りかかるのは、けして名声や栄誉ばかりではない。元・指導者の残党に襲われたこともある。
歴史に名を残すということは、表にしろ裏にしろ、いつのときもろくな結果を生み出さない。自らの親族に置いて、カノンもレンもそのことは良く知っている。
だからこそ。
無用な危険を避けたがるレンの言葉の意も解る。が、
「自意識過剰なのは解ってるわ。これはあたしの単なるもしかしたら、っていう気がかりに過ぎない。杞憂にじゃないか、って程度のね。
でも、それを放って置いて、ってのは少なくともいいことじゃないと思うのよ」
カノンは全員に、というよりもレンに向かって言う。
彼はようやく弄んでいたカップを置いた。手元の剣を引き寄せて、天井を仰ぐ。しばし、目を閉じた後、
「で、具体的にどうするんだ?」
さすがに決まると決断が早い男だ。
「ありがと、レン」
「ふん。まあ、俺はいい。どの道、ここに滞在するのなら部外者ではいられまい。
カノンと俺はともかくとして、お前らはどうするんだ?」
「決まってるじゃない!」
問いかけにいきなり元気になったシリアが立ち上がる。傍迷惑にもレン、そしてカノンを交互にびしっ、と指差すと、
「最初に言ったことをもう忘れたのかしらッ!? この私がいる限り、二人きりなんて許されないって!
ふっ、不本意だけどこの私の協力が得られることを感謝することね、カノン=ティルザードッ!」
「押し売りはお断りよ、残念だけど」
「そんな危ない境地に愛しい俺のフィアンセを一人にして置けるわけがないだろうッ!?
ましてや、こんなむっつり野郎の側に置かせておいてたまるかッ!」
「……貴様」
「店の中でそういう発言はやめろッ! ったく……まあ、いいわ。
二人共、それでいいのね?」
カノンの最後の問いかけに、力強く頷く二人。カノンは呆れ混じりに息を吐くと、それでもくすり、と笑って立ち上がった。
「そうと決まれば、早速打って出ないとね。これに関しては防御姿勢はマイナスしか生まないわ。待ちもなし。とっくに事態は最悪の方向に向いてるんだから、攻めあるのみよ。
とりあえず、シリア、アルティオ!」
「おう!」
「アルティオは町で、件の事件について何か耳にした話はないか町の人に片っ端から聞いて来て。ナンパでも何でも構わないわ、根拠のない噂でも全然OK。
シリアはクレイヴ本人について、誰かに恨まれるような話はないか、最近彼の周りで変わったことはなかったか、下町で聞き込んで」
「ふっ、その程度のこと、愚問ね」
「よっしゃ、そういうことなら俺の得意分野だな!」
「いや、得意かどうかは知らないけどね……。レンは、」
「ホテル関係者、もしくは観光団体、それともう一度支配人の首を絞めてくる」
「……くれぐれも殺さないよーにね。あと心の傷とか作らせないよーに」
「善処する」
「……いや、善処するって最初っから善処する気のない奴が使う言葉じゃ……。まあいいや、とりあえず、そっちは任すわ」
「ちょっと、じゃあ貴方はどうするのよ?」
何故か剥れた顔でシリアが問いてくる。カノンはす、と真顔を作り、口内の生唾を飲み下した。
「まずは調べ物、ね。もう一度、合成獣についての知識を仕入れて……
それから、WMOに行って来る」
「!」
「ま、待て、カノン! お前……」
慌てたアルティオの声に、視線を尖らせる。
「……もう一度、ルナに会って来る」
「……本気?」
シリアが眉を潜めて問いてくる。それはそうだろう、彼女のところを訪れるというのは、即ち彼女の仕事を妨害することに繋がりかねない。
尚且つ、今はクレイヴの殺害について、WMO―――ひいてはローランは、まさか役所から疑われているわけではないだろうが、いい立場にはいないだろう。
警戒されるのは間違いない。
二人が呆気に取られる中、レンはわずかに残ったコーヒーが揺れるカップの中身を眺め、やがてそれを一度に飲み干した。
「……気を付けろ」
その言葉に、カノンは深く頷いた。
食堂を出てカノンは一つ、大きく身体を伸ばした。うみねこの鳴く声が聞こえる。
青い空と海とに惹かれてやって来たクオノリアだが、今はどこか霞んで見え、道行く人たちの顔にも陰りを感じる。
覇気がないというか。
と思えば、道端で会議をしている近所のおば様方の間では、生々しく今朝の騒ぎが囁かれている。
慌しさと、不気味な寂しさが同居する、肌に悪い空気。
―――こんな中でレジャーも何もあったものじゃないわね、よく考えれば。
「全く、つくづく運が悪いっていうか。それともあたし自身が疫病神なのかしらね」
苦笑するしかない。
「さて」
ボートと漁師が群がる海岸線を、歩く。図書館は確か、町の南側にあったはず。
詳しい場所は聞けなかったが、その都度人に聞けばいい。
潮風が乱暴に髪を弄び、ちらちらと横目に建ち並ぶ小さな雑貨店を眺めながら、一つの路地に入る。
路地を抜け、大通りの人並みの中を身をかわし、再び路地へ。人がごった返すとはこのことだ。
―――うっ、レンに送るだけ送ってもらえばよかったかも。
せめて彼の長身さえあれば、人並みの中でも多少強引に歩けたのに。
―――ごちゃごちゃ文句言っても仕方ないか。早速、方向感覚なくなったけど……
まあ、路地を抜けた先で聞けばいい。こういうときはひたすら楽観的に行くに限る。今さらになって治安が気になったが、まあ、まさかこんな時間からそんな輩は活動していないだろう。第一、大声を出せば一発で誰かが聞きつける、大通りのすぐ脇の路地なんて誰も狙わない。
やや生臭い匂いに軽く鼻を抑えながら路地をすり抜ける。足元にいた猫がふーっ、と威嚇しながら逃げていった。
「よっ、と」
石造りの家の壁に手をかけて、路地の終点に飛び出る。
目の前に突如として広がる海。
―――見事に間違えたな、こりゃ。
どうやらどこかの船が出入りする船着場らしい。石畳で組まれた停泊所に、小さいながら、貿易船らしい二艘ほど船が停泊している。
海は開けているものの、停泊場自体も小さく、船が三艘泊まればいっぱいになる程度だろう。
人影が少ないのが気になったが、あまり活発でない貿易場ならそう不思議でない光景だ。
―――ん?
数少ない船員が船を出入りする中、一人だけ、立ち止まって船を見上げる人影に気がついた。影、というのが正しいだろう、黒い髪に黒い服、夏だというのに同じ色の長いコートを羽織っている。
広い袖から見えた手は異様なまでに白い……いや、あれは肌じゃない。
唐突に思い出した。
昨日の事情聴取で、レンが妙な風体の少年の話を持ち出していたのを。
何とはなしに眺めていると、開いた距離に吹き抜けた潮風が一瞬、少年の髪を攫う。
「―――ッ!」
思わず息を飲んだ。
顔の半分を包帯で隠している、とは聞いていた。だが、もう左半分の整った顔。瞳は髪と同じ深い黒水晶。白く映るのは包帯だったが、肌もまた真綿のように白かった。
迂闊にも一瞬、見とれてしまった。
視線に気がついたのか、ふと少年が小首を傾げてこちらを振り向く。
―――あ゛。
「……何かご用ですか」
抑揚のあまりない、だが物腰柔らかな、年不相応に落ち着いた声音だ。
話しかけられては仕方がない。カノンは少年との距離を詰めようと、数歩移動する。
―――?
先程は気がつかなかったが、少年の腰の辺りに小さな女の子が一人、しがみ付いているのが見えた。黒い長い髪に、瞳、雪のような肌、フリルのついた何とも可愛らしいゴシック服を着ている。
兄弟、だろうか、どこか似ている気もする。
カノンが自分を見ていることに気がつくと、何故かびくっ、と肩を震わせ、目を見開いて慌てて少年の背に隠れてしまった。
―――嫌われてる?
「……えーっと、妹さん?」
そう問いかけると、少年もまたわずかに左の目を見開いた。
まじまじとこちらを見つめ、背中に隠れた少女の方にちらりと目線を投げる。空を眺めて何事か逡巡し、
「彼女ですか?」
「ええ、背中に隠れてる」
「……」
細い顎に指をかけて、感嘆したように息を吐く。
「……そういう人もいるのか」
「へ?」
「いえ、失礼。そうですね、そのようなものです」
にこり、と笑って頷く少年。
「それで、何か僕にご用ですか?」
「あー、えっと……。
ここ、貿易船の船着場ですよね?」
「そうですよ」
「失礼ですけど、あんまりこんなとこにいそうなタイプじゃないなぁ……、って」
ともすれば機嫌を損ねても致し方のない科白だった。しかし、少年はカノンの懸念を吹き飛ばすように可笑しそうに微笑を浮かべ、
「正直な人だ」
「あ、う、ごめん」
「いえ、いいんですよ。事実ですしね。
お察しの通りです。船員なんてものじゃないんですよ。ただ、ちょっと珍しい船着場なので見てみたくなりましてね」
「珍しい?」
言われてカノンは周囲を見回す。
……これといって変わったことはない。着場の形も特に変わった点はないし、泊まっている船も全く普通の木船。船員が人間外ということもない。どこそこの貿易港では半魚人の種族が活躍しているなどと言うけれど、そんなこともない。
海だって、穏やかな波が立っているだけで、別にそこだけ色が違ったりするわけでもない。
他の船着場に比べたら、確かに小規模だろうが、それほど変わっているわけではない。
意図が解らずに、眉間に皺を寄せて彼を見ると、少年は船のマストを見上げ、
「ここはね、大陸唯一のゼルゼイルへの輸出が行われている貿易場なんですよ。
ご存知ありません?」
「ゼルゼイル!?」
カノンは正直に驚いた。
ゼルゼイル。
西国大陸でも、東方大陸でもない、それ以外で人が居住する唯一の国。
中央アルケミア海の南方に位置する島国で、五十年前までは南国特有の果物や海産物、採掘される特殊鉱石などの貿易で栄えていた。
五十年前までは、と区切ったのには訳がある。今現在、ゼルゼイルは必要最低限の航路しか西・東両大陸に対して引いていない。五十年前、唐突としてゼルゼイルは極端な閉鎖国となった。
理由は国内部で起こった分断、そして内戦の勃発だった。
元々、ゼルゼイルは北ゼルゼイルと南ゼルゼイルとで大陸で言う領のような区分で別れていた。それでも昔は一つの国であり、それで上手く機能していたはずだったのだ。
しかし、五十年前、南ゼルゼイルの総統となった男が突如として独立を宣言。そのまま、国は分断され、冷たい内戦は今もまだ続いている。
不毛な内戦を続けるゼルゼイルに対して、東西大陸はやがて手を引いて行き……
ゼルゼイルは訪れる者も久しい、完全な独立国と化した。
そのゼルゼイルとの唯一の航路がクオノリアに開かれているとは知っていたが、まさか。
「小さいものでしょう?」
「まあ……でも、何となく人気がないのも合点がいったわ」
大陸人はゼルゼイルを遠ざける傾向がある。五十年、戦争を続けている国だ。
死術が横行した魔道大戦以来、曲がりなりにも(裏側ではそうでもなかったりするのだが)平和を貫いて来た大陸人にとっては似て非なるもの、という意識が働くのだろう。
「貴方はどう思います?」
「え?」
「五十年、不毛な戦争を続け、国力を疲弊させるばかりの愚かな二国を、ですよ」
「……えーと」
初めて会った人間にまさかそんな国家レベルの質問をされると思わなかった。
答えに迷って、上目遣いで少年を見る。
―――っ?
少年は変わらず、船のマストの先を眺めていた。いや、本当は何も眺めていなかったのかもしれない。
遠くを。
ひたすら遠くを眺める瞳で。
「……なんてことをいきなり聞かれても困りますよね」
何も言えないでいるカノンに、少年は苦笑混じりに首を振った。悪戯が失敗した子供のような笑み、しかし、瞳はどこか笑っていない。
「貴方が戦を気にするのは、自分がそんな大怪我をしてるから?」
「……さあ、どうでしょう」
「もし、そうなら……どう思うも何もないじゃないの」
「?」
「人間は間違う生き物よ。だから戦争はする、喧嘩はする、下らないことで死んだりするし、後悔もする。当たり前のことよ」
「……そうですね」
「いつの時代だって、戦争が正当化されることはないわ。後から、あの戦争は間違いだった、とか言うけどそれは戦争なんかする前から解ってたことよ。
人間は馬鹿だからとんでもないことが起こってからしか後悔できない。でもね、後悔して置きながら戦争を繰り返そうとする奴がいたら、それは馬鹿を通り越して愚かとしか言えないわ」
「……それが、貴方の考え方、ですか…」
少々、陶然となりながら返って来た声に肩を竦め、
「あくまで自論。これでもいろいろな戦いは見て来たからね。
でも、戦争ってのは見たことないから……本当の戦争を知ってる人は、また違うことを言うのかもしんないわね」
「……」
顎に指を置くのが癖らしい。少年はしばし、その格好のままで何事か考え耽っていた。
何となく、去るタイミングを失ってカノンがただ突っ立っていると、少年はやがて面を上げて、
「なかなか面白い意見を聞かせていただきました。
初めての方にお話するような話ではなかったですね、お詫びを言わせてください」
「いや、別に……。
あ、そーだ。あの、あたし……」
「大通りに出るならそこの路地を右です。この時間は混んでいますから、WMOに行くならそちらの道からまっすぐ行った方がいいでしょう。あの建物は、街中で一番大きいですからすぐわかります。
図書館はその右手にあるはずですよ」
「え、あ、えっと……?」
かすかな声が聞こえた。遠くの路地で、誰かが声を張り上げている。それが何と言っているのかは解らなかったが、少年は自分が呼ばれているのだと解釈したらしい。
「それでは。クオノリアは発展した観光都市のようですが、治安は良くないようなので女性の一人歩きはあまりお勧め出来ませんよ。どうかお気をつけて」
「え、あ、ありがとう……」
「いいえ、こちらこそ」
一礼した後に、音も立てずに去っていく。それに慌てて付き従う少女。
カノンは頬を掻いてその背を見送っていたが、やがて踵を返して走り出した。
―――悪いヒトではなかったみたいだけど……
走りながら、彼の言葉を反芻する。
「何であの人、あたしが図書館に行きたいこと知ってたんだろ……?」
少女が消えた先を眺めて、少年は息を吐いた。ふと視界に、黒髪の少女の姿が目に入る。まだぽかんとしている彼女に、
「『魔変換』の所有者、か。見える人には、見えるのかな。ねぇ、シャル?」
そう言って口元だけでくすり、と微笑んだ。
図書館の造りはまあまあだった。
大きくもないし、小さくもない。トップクラスの学者が調べ物をするにはやや物足りない、という程度か。
しかし、予備知識は持っているもののカノンが専門外の事柄を調べるにはちょうど良いくらいだ。
「んーと、魔道関係、魔道関係……」
ずらり、と硬い背表紙が並ぶ本棚の合間を、棚の上部に付いているプレートをチェックしながら進んでいく。
こういう場所には結構、慣れている。これでも狩人時代は調べ物というものが欠かせないもので、しょっちゅう町の図書館や政団の司書室に出入りしていたのだ。
高台に上り、棚の上の蔵書に手を伸ばす。
数冊、取ったところで肩を撫で下ろす。この台というもの、そこそこに頑丈でないと容易く壊れてしまうのだから油断が出来ない。
―――けして、体重が重いわけではないんだけどね……よっと。
とりあえず、台を元の場所に戻さなくてはいけない。本を台の上に乗せ、両手で抱えるように持ち上げて―――
「あ、すいません、その台……」
「ん?」
後ろからかかった声に反射的に振り返る。振り返ってから、その声が聞き馴れたものだということに気が付いた。
「あ……」
本棚の向こうから首だけを出して、おそらく、台を持っていることで咄嗟に声を出してしまったのだろう、見知った顔が覗いていた。
「ルナ……」
「カノン……?」
あの図書館ではWMOの目がありすぎる。場所を移し、通りを二つ挟んだ街中のカフェの片隅を陣取って、彼女たちは向かい合っていた。
ルナはカノンが口にする状況説明を、腕を組みながら静かに聞いている。
……いや、ただ単に運ばれてきたオレンジスフレに集中力を奪われているだけかもしれないが。
話、と言っても長い話ではない。ルナがスフレの半分ほどを平らげた頃合で、カノンの話は終わりを告げた。
最後の句を告げたと同時に、ルナの白い喉が上下する。
フォークが止まった。そのまま銀の食器は置き皿に軽い音を立てて寝そべる。
「……で?」
「……」
「あんたはあたしに何を聞きに来ようと思ったの?」
「いろいろあるわ。
WMOの調査内容を教えろとか馬鹿なことを言うつもりはないの。まず一つ。一流の魔道師として答えて欲しいことがある」
「随分と意地の悪い言い分ね。まあ、いいわ。何?」
「例の合成獣のこと。WMOもクレイヴも、これはどこかの魔道師が造った合成獣が暴れている―――そういう事件だ、って言ってたわ。
あたしはこれでも色んな化け物を見て来たし、合成獣ってのも数多く見て来た自信があるわ。でも、今回の件についてはどうしても納得できないことがあるの」
「納得できない?」
「ルナ、一流の魔道師として意見を聞かせてちょうだい。あの合成獣、一体誰が何の目的で造ったんだと思う?」
ルナの眉がひくり、と小さく震える。
「そんなことは……」
「犯人の目的を聞いてるんじゃないわ。
魔道師が合成獣を造り出す最大の目的は、現存する生物を利用してそれ以上の性能を持つ生物へと進化させる、もしくは強化させる、ってことよね?
例えば陸の生き物と海の生き物をかけ合わせて水陸両用の生物を造ったり」
「まあ、大抵の場合はそうでしょうね」
「けど、今まで証言されてる合成獣の一つ一つを見てみて。
まず、あたしたちが最初に会ったあいつ。
ミノタウロスの体力はいいわ。スライムの溶解液は厄介だったけど、足部があれじゃあ、犬の脚力や兎の敏感さをプラスしたところで動きが遅すぎて意味がない。ましてや、あんなでかぶつに翼をつけても飛べるわけはない。
連絡は行ってると思うけど、昨日ビーチを襲った奴もそう。
蟹はいいわ。見た目は悪いけど、鋏は立派な武器になるし、グロテスクだったけど触手もそれなりに厄介だった。
でも、胴体の真ん中に口があって牙があっても、食事くらいにか使えないし、周りにくっついてたちっちゃい魚のヒレなんか泳ぐわけでもないのに明らかに邪魔なだけよ。
つまり。
どれもこれも合成獣としての意味を成していないのよ。あれもこれも欲張りすぎて形成に失敗した駄作……にしても酷すぎるわ。
ちょっと考えれば、別に魔道師じゃなくてももっと良い物が造れると判断できるはず。
なのに、今回、発見される合成獣はそんな失敗作ばっかり」
「……」
「ルナ、魔道師としてどう思う? あたしの考えは間違っている? それとも、あれにはあれであたしにはわからない優秀な面があるっていうの?」
「……」
ルナはふっ、と力を抜いて紅茶のカップを手に取った。酸味の程好く利いたローズティーを一口、飲み下してから口を開く。
「まあ……死術の狩人なんかやってたあんたを、口先だけの三寸で誤魔化せるわけないわね。
その通りよ。だからWMOも混乱してる。
魔道師で合成魔道学をちょっとでも齧った人間なら、あんな合成獣が何の役にも立たないのはすぐ理解できる」
「……」
「どうせカノン。あんたのことだから、その先もちょっとは察しがついてるんじゃないの?」
「……あの合成獣が魔道師の単なる腕自慢とか不注意でないなら……。
目的はもっと別のもの。クオノリアそのもの、いや、合成獣によってクオノリアが撹乱されること。直接のダメージが行くのは観光協会かどこかだけど、それならわざわざこんな手を使う理由はない。
クオノリアが魔道生物に撹乱されて、最も不利益を被るのはそれで面目を潰される……」
自然と、言葉に力が篭もる。
「WMO……」
「それも、魔道関係の事件解決に責任がある者、ね」
深く、息を吸い込んで吐き出す。
「……ローランに個人的に恨みを持つ人間は?」
「それこそ星の数。権力者にはつきものよ。容疑者はそれこそWMOの中に石一個を投げれば当たるくらいたくさん」
首を振りながら、ルナが答える。
ローランが頑なに他者の事件への関与を嫌ったのは、つまり、そういった背景があってのものだったのだ。
他者が事件を解決してしまえば、揉み消しが効く場所までそれが出来なくなる。
ましてや、動機が己の不始末等に関係することだったなら、それだけで自分の地位を危うくする。
まったく、何てことだ。
「……今朝、前の依頼人だったクレイヴが殺されたわ」
「そうらしいわね」
「何か心当たりは?」
「ないわ。最も、私は表向きに雇われた人間だから、別の場所で誰が何をやってるのかなんて知らないわけだけど」
「そう……」
ルナが再びフォークを手に取る。オレンジスフレの山になった箇所に、切っ先が食い込むのを眺めながら、カノンは懐に手を入れた。
「もう一つ、"これ"に見覚えは?」
「―――ッ!」
明らかに。
ルナの顔に動揺が走った。
カノンが取り出したのは、一つの小さな石。いや、石に見える"何か"。
砂漠の花、と呼ばれる鉱石がある。高温の砂砂漠で、水が干上がる前にその水に溶けていた石膏が結晶化し、その結晶が花弁のように見えるのでそう呼ばれる。
それはその特殊な鉱石によく似ていた。
だが、それとは明らかに違う。あれは結晶化の際に砂と取り込む。黄色や赤や、色の付いた結晶が出来上がるはずだが、カノンの手の平にあるそれは反して真っ白な色をしていた。
「それは?」
平静を装いながら、彼女が問う。
「正体はわからないけどね。蟹モドキを倒した現場に転がってたの。
見たことのないものだし、珊瑚、にしては汚れ一つないのが気になるわ。生態系に属するものならそれまでだけど、これが何なのか調べてみる価値はあると思って。
けど、見覚えがあるんなら」
かしゃんッ。
彼女の置いたフォークが、少々荒い音を立てる。
「ルナ?」
「カノン、この件からは手を引きなさい」
立ち上がり、言い放たれた一言に、カノンの表情が引き締まる。
「それはWMOに預けることを薦めるわ。容疑者はいずれ捕まるでしょうし、後は任せて町を出なさい」
「……ッ」
そのままテーブルを立つ彼女の背を、カノンは反射的に追っていた。
「ルナッ」
「……」
「もう一つだけッ! あんた、何のつもりで彼に付いてるのッ?
わかってんでしょッ、相手がどんな人間かッ! らしくないじゃない、何のつもりなのッ!?」
背中に叩き付けた言葉に、彼女の足が止まる。店の中の視線が集まるが、覚悟の上だ。
数瞬後、彼女は俯いた顔をほんの少しだけ上げて、
「もう一度言うわ。早く、町を出なさい」
「―――ッ!」
それだけ言い放って、彼女は無言でカフェを去った。
カノンは首を振って席に戻る。取り残されたスフレの残りが、何だか妙に寂しげだ。
―――何か、隠してるわね……
ルナが忘れていることが一つ。
―――そういう態度ならこっちもとことんまで調べ上げてやろうじゃないのッ! あたしはそういう性分の持ち主よッ!
鼻息を荒げて、カノンは彼女が残したデザートを始末するべくフォークを手に取った。
←6へ
泣きじゃくる子をあやしながら、カノンは色々なニュアンスを含めた溜め息を吐く。
なかなか泣き止まない子供と、そして人の群れる場所に姿を現した不可思議な合成獣。
何故?
人が集まる場所に?
何故今さらになって?
観光客の金切声が響く中、レンは何かを探すように騒がしい浜の向こうを眺めてる。カノンは向う脛までを埋める波の方へ視線を投げて、
「……?」
波の間に白い、小さなものが見えた。
一瞬、ただの貝殻か珊瑚の一種かとも思ったが。
「……」
足元まで流れてきた"それ"を眺める。
「カノン」
ぼーっとしていたらしい、呼ばれて慌てて振り返る。パレオを振り乱した女性が向こうから駆けて来るのが見えた。たぶん、この子の母親だろう。
立ち上がる直前に、もう一度、彼女はそれを見つめ、何とはなしに拾い上げた。
クオノリア市街は騒然としていた。
それはそうだ。今まで、一般市民の中では可愛い噂として留まってきたものが、公に姿を現し、一般の観光客に危害を加えようとしたのだ。
WMOとしても揉み消しは効くまい。
かく言うカノンたちも撃退した本人たちと言うことで役所から長々と事情聴取をされ、やっとホテルに戻ってきたのは深夜も回った頃合だった。
「信じらんない! 何でこんな時間まで長々とつき合わされなきゃならないわけ!?」
「WMO、ローランが最後の最後まで政団支部に圧力をかけていたようだからな。困ったことに、ここじゃ役所より奴の方がでかい顔が出来るようだ」
「人が休暇で来てるってのに連日連日何だってのよ、ったく」
「諦めろ、このタイミングで来た俺たちの負けだ」
先頭を歩きつつ、文句を垂れるカノンを冷静に窘めるレン。延々と政団の手際の悪さと、ローランへの悪態を吐きながらホテルのロビーに向かう。
無理はない。
あの後、飛んできたWMOの機関員に捕まえられ、施設にてたっぷりと事情を聞かれた後、出たところで再び政団の関係者にも呼び出され。
結局、こんな時間まで帰ることを許されなかった。休暇も何もあったものではない。
カノンの怒った背を眺めながら沈思する。
あのとき。
獣に張り付いた護符はおそらく、昼間会ったあの少年が放ったものだろう。後ろは振り向かなかったが、妙に確信染みたものがある。
一応、政団にも彼のことは口にしていたので、今頃探し出されている頃合だろうが。
妙な少年だった。
―――それにしても、
『……あそこは些か危ないですね』
―――俺たちよりも先に"あれ"に気がついていた、っていうのか……? 一体……
「に、してもWMOの支部ってでかいのね」
ふと、悪態を切ってカノンが呟いたのはそんな一言だった。思考に沈みそうになっていたレンは、やや遅れて反応する。
彼女が振り返った先に佇むのは、すっかり暗い夜空に伸びる円筒形の、市街で最も大きな建物だった。
町を訪れたときから目立っていたが、まさかあれがWMOの施設だとは思っていなかった。
それだけクオノリアに分けられているWMOの財政が大きい、即ち、ローランの権力の程もわかる。あんなものが相手では政団も苦労するだろう。
「聞いた話じゃ、地下もあって町の数ブロックくらい覆ってるんだってさ。
権力の肥大にも程があるわよね」
「傾きすぎていらんことにならなければいいがな。まあ、知ったことじゃない」
「それは知ったことじゃないわ。けど権力に感けて、人の自由を奪っていいもんじゃないわよ、ったく!!」
夜中だというのに、近所迷惑も何のそので不機嫌に地団太を踏み鳴らす。
気持ちはわからないでもないが……
「少し落ち着け、とっくに夜中だぞ」
「~~~……」
納得はいかないながらも、とりあえず静かになるカノン。その足でロビーに足を踏み入れて、
「レン、おかえりぃぃぃ~~~~~ッ!!」
「うあッ!?」
黄色い声に耳を劈かれる。
ああ、一日も終わりだというのに疲れた身体でなんて奴の相手をしなくちゃならんのだ。
レンと言えば気力体力共になくなっているらしい。飛びついて来た塊を、何とか片手であしらいながらロビーに入る。
「よー、ようやく帰ったかお前ら。
カノン、夜道だからって何かされなかったろうな?」
「レン、大丈夫ぅ? こんな暗い中で、あの女に変なことされなかったぁ?」
「また訳のわからんことを……って」
自分たちとフロント係だけが残っているロビーを見渡して、カノンは違和感に気がついた。シリアが立ち上がって突進してきたソファに、彼ら二人とは別の人影がある。
顔は整っているのに、何かおどおど落ち着きのない物腰。
昨日会ったばかりの顔だ。見間違えるはずもない。
「クレイヴさん? どうかしましたか?」
何でもないように問いかけるが、内心は気が気ではない。まさかローラン側のルナから情報を買ったことがバレたとか。
声をかけるとびくっ、と肩を震わせる。
「いやぁ、あのそのですねぇ……」
とりあえずソファから立ち上がるが、やはりきょときょとと落ち着きがない。まあ、もともとこんな人だった気がするが……
それにしたって顔色が悪い。
―――まあ、無理もないか……
あんなことがあった後だ。顧客だって激減したに違いない。ホテル経営者としては遺憾だろう。
―――しかし、何か面倒そうな嫌な匂いがするなぁ……
軽く頭を振って、何のつもりか肩に手を置いて来るアルティオを叩いてからソファに向かう。
「その、皆さんにちょっとお話がありまして……。
ああ、どうぞ、お疲れでしょうからまずは寛いで……」
「オーナー」
言いかけたクレイヴの声を、フロント係の男が遮った。
―――いや、どうでもいいけど従業員の声にまでびくついた反応すんなよ、頼むから。
ここまでチキンハートというか何と言うか、情けないと呆れを通り越して涙が出てくる。
「ああ、すいません。―――どうしました?」
どこかよたよたとした歩きでフロントまで駆けて、いや、半分転がって、と称した方が正しい。あたふたとフロントまで辿り着くと、フロント係の男はぼそぼそと、何かをクレイヴの耳元に耳打ちする。
人の顔はすぐに色を変えるものなのだと納得した。
先程まで青かったクレイヴの顔色が、それを通り越して真っ白になっている。良くない報せ、というか絶望的な連絡事項なのだろう。
観光閉鎖とか、政団かWMOの監査とか。
よろよろ身を起こすと、体裁だけは何とか整えて、こちらを振り向いた。
「すいません……少し、用が出来てしまったようです。お話は明日の朝にでも、ということで、よろしいでしょうか? 朝食のわずかな時間でも結構ですから」
正直、これ以上こんな事件に関わることなど御免被りたい気分だったが、悲痛な表情でやつれた声で言われると無下に断るのも忍びない。一度は依頼人になった人物なら尚更。
カノンは後ろの方を振り向いた。
シリアは相変わらず、レンの腕にぶら下がろうとして失敗しているだけなので無視するとして。
アルティオは軽く肩を竦めて再び肩に手を回してこようとする。振り払う気力もなかったが、とりあえず反対ではないらしい。レンもレンで渋い表情のまま黙ったまま……ということはカノンと同じく気は進まないが話だけなら、ということだろう。
どうにしろ聞くだけならただだ。
「解りました。では、朝食の時間に」
「ありがとうございます。では……」
そのままクレイヴはフロント係の男に支えられるようにして、ホテルの『関係者以外お断り』の扉に消えていく。
数瞬経って、ロビー内に下りた静寂を打ち破ったのはアルティオの一声だった。
「あー、じゃあそろそろ休むか? 疲れたんだろ?」
「そーね……また明日、面倒なことになりそうだし」
「レーン、そんなに疲れたなら私が特別マッサージで癒してあげよーかv」
―――って、あんたは思いっきりあたしと同室だろーが。
「断る。そんなつまらないものを受けるくらいなら一時間、湯に浸かった方がマシだ。アルティオ、鍵を貸せ」
「あー、ほいよっと」
ポケットから出した鍵を放り投げる。放物線を描いたそれは、ずれる事無くレンの手の中に落ちた。こういった辺り、アルティオもやはり一級の剣士である。
「ねー、レン、じゃあ一緒にはい……」
ばきッ!!
―――ああ、お約束。
「ああ、そうだカノン」
「何?」
そのまま階上に上がっていこうとしたレンの足が止まる。振り返ってかけられた声に、顔を上げる。
「あまり気にするんじゃない。あれもあれで他人の数倍過激な人生を送ってるんだ。自分のことに対してくらい、責任は持っている」
「……」
―――バレバレ、か……
小さく笑って、『了解』と随分力のない返事を返した。彼は少しだけ眉を潜めて踵を返す。
「あ、ちょっと待ってよ、れぇぇん」
その背中を慌てて起き上がったシリアが追いかけていく。諦めが悪いというか、それともその行動力に感服するところなのか。
ホテルの長い階段の上にシリアの長い黒髪が完全に消えるのを待って、カノンは身体を伸ばしながらソファへと向かった。
「お疲れさん」
「あー、全くよ」
まだ部屋に戻る気はないのか、それともいらないちょっかいをかけてくる気なのか、階段の下に佇んだままだったアルティオが声をかけてくる。
「さっきの、ルナのことか?」
「まあ……って、あたしってひょっとしてそんなに解りやすい?」
「いや、今の状況でお前が気にすること、って言ったらあいつのことだろ? 一応、親友なんだし」
許可した覚えはないが、勝手に隣に座って来る。どうこう言う気力も今はない。
「そ、ね……。今日の取調べ、っていうか事情聴取っていうか……ちらっと会ったんだけどさ。
あの状況じゃあ、気安く声をかける、なんて出来ないのはわかるんだけど……」
天井を仰ぐ。深夜のホテルのわずかな明かりが、ゆらゆらと目の中に入って来る。
疲労感が増した。
「何か……黙って、権力者に従ってる図、ってのがどうもいつもとらしくないなぁ、って気になってね」
「確かになぁ……」
笑い飛ばしながらアルティオは相槌を打つ。
「いつもならアヤシイ場所とか人があれば呪文一発で片付けるような奴だもんなぁ……」
「そうそう。何か勢いに欠ける、っていうかね。でなもんだから、何かあったのかなぁ、って。柄にもなく心配してたのよ」
「ま、確かにあいつ、何でもかんでも抱え込む癖はあるけどな。一切、人に昔のことも話したりしないし」
アルティオはやれやれと首を振る。
す、とカノンは真顔になってその言葉を受け止めた。
ルナは。
彼女は確かに普通の人間にない壮絶な半生を歩いてきたと言っていい。
十三歳のとき、彼女は故郷であるアゼルフィリーを出て行った。彼女の姉も旅立った、当時の惑う教育の最高峰、WMOの教育機関『月の館』に入学するために。
常人とはかけ離れた教育の場だったが、数年の間は途切れ途切れでも手紙が届き、やれ大変だと大変だと書かれていた記憶があるが、文面が弾んでいたということは、彼女なりに楽しい学生生活を送っていたのだろう。
顔なじみが故郷を起った寂しさはあったが、だからと言って彼女の道を邪魔するわけはない。
むしろ、魔道研究の前線に立とうと、その未来を約束されつつあった彼女を彼女の家族も、カノンたちも祝福した。
しかし。
その夢は、ある日、いきなり断たれることになった。
彼女が『月の館』に入ってどれだけ経った頃だろうか。唐突に、その報せはアゼルフィリーに届いた。
寝耳に水の話だった。
ある犯罪組織によって、『月の館』は襲撃を受けた。
当時の事件は、今でも最悪の虐殺事件として紙面に残っている。
A級犯罪人ニード=フレイマー率いるその一団の放った火は、悪い風の具合で瞬く間に『館』を包み込み、教師や生徒たちが気がついたときには、周囲は既に火の海だったという。
全校生徒、教師含めて五百六名のうち、生き残った者はたった百名以下。行方不明者は三十六名。そのうちの何名かは、その犯罪組織に捕らえられ、組織の一員として犯罪行為の手伝いを強いられていたという。
ルナもその中の一人。
彼女の場合は最悪だった。
"ディスナー"の特殊な魔道師としての血に目を付けられ、魔道許容量が人よりはるかに高かったのが災いした。
彼女はその体を、組織が崇拝するある魔族の器として利用されたのだ。
それが、約一年と半年前。
結局、彼女は組織に反旗を翻し、逆にその組織を壊滅に追い込んだ。その功績を讃えられ、今では政団にもWMOでも一目置かれる存在となっている。
普段、ふざけてはいるが、自分が犯罪行為に加担していた罪は消えるはずもなく。
心のどこかではその傷に痛めつけられているはずなのに。
カノンは、彼女の泣き言の一切を聞いた記憶はない。
だからこそ、不安なのだ。
「大丈夫だって」
「……」
「ルナの考えてることなんて正直、俺たち誰もわかっちゃいねーよ。肝心なときに誰もあれの側にいなかったんだからな。
でもさ、ルナはそんなに俺たちのことを信用してないと思うか?」
「……まあ、そうだけど」
「どうにもこうにもなくなって、万が一、ってときは何かしが言って来るだろ。今は、あいつを信じてやろうや」
ぱん、と膝を打ってアルティオは断言する。
ふー、と長い息を吐き、
「ったく、あんたみたいなのに諭されると思わなかったわよ」
「ひでーなー。これでもちゃんと心配してたんだぜ。何せ、お前ら昔から仲良かったしな、傍から見てて姉妹みたいだったぜ」
「そう?」
「ああ。正直、ちょっと嫉妬してた」
「あのねー……」
「じょーだんだって。それにさ」
苦笑混じりに先程、彼らが消えた階段の方を振り向くと、
「信じられないかもしれねーけど。シリアも心配してた」
「あいつが?」
―――それは本気で信じ難い。
ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げるカノンにアルティオは笑いながら手をぱたぱたと振って見せる。
「いや、まあ……『あいつら何つまんないことやってるのかしら?』みたいな可愛くない言い方だったけどよ。
昔からああいう奴だったろ? まあ、お前には特に絶対そういう顔はしないけど、影で結構気にかけてんだぜ?」
「そうなの?」
初耳だ。本気で信じられない。
「まー、信じられないのはあいつの普段の行いのせいだろうけどな」
「あんたが言うか……」
「ま、それはそれとして。俺だってシリアだって、レンの野郎……は、言うまでもないか。
皆、心配してるのは一緒なんだ。あんまり根詰めて考えんなよ」
「……そうね。ごめん」
素直に謝罪が口を告い出た。
「まあ……ためにはなったわ。ありがと。少しは男は上げたじゃないの」
さりげなく吐いたその一言に、アルティオは一瞬固まってから目を輝かせてソファから立ち上がる。
鼻息荒く、カノンの手を取って、
「ホントかッ!? カノン、ようやく俺の魅力に気がついてくれたんだなッ!? くくぅッ! 感涙だ、長かったぜここまでッ! そうと決まればすぐ教会に……ッ」
「ンなわけあるかッ!!」
どがッ!!
「ぐあッ!?」
顎を蹴り飛ばしてやると、そのまま絨毯の上で大人しくなる。
「―――ったく、たまーに多少褒めてやっただけですぐに図に乗る……」
すっかり疲労が溜まってしまった肩を解しながら立ち上がる。ガラス張りのロビーの外に、大分傾いた月が静かに佇んでいた。
考え込んでいても仕方がない。
この件、深くは関わらないことを決めたのだ。
明日、クレイヴの話を聞いて、しっかり断りの言を入れて置こう。
それでもなお、ルナが何かしがの事情を抱えてやってきたなら、そのときまた話し合えばいい。
「よしッ」
そうと決まればさっさと寝てしまおう。休暇で来たというのに休めなければ何もならない。
そう決意して、カノンは軽薄な男の伸びる静まりかえったロビーを後にしたのだった。
しっかりと断りを入れる―――つもりだった、のだが。
「……ん?」
その朝、カノンは外から響いて来る騒がしさで目を覚ました。ぼやけた視界の中で時計を見る。
まだ早い時間だというのに、外から人の声が聞こえるというのはどういうことなのか。それも一人や二人の話し声ではない。大勢の、それも話し声などではなく、いきり立った喧しい騒音だ。
「ふにゃ……レン、もぉ、恥ずかしいってばぁ……」
そんな中でも熟睡し、何やら幸せそうに寝言をのたまうシリアを横目に、スプリングが効いた高級ホテルのふかふかのベッドを降りる。
……普段、安宿に泊まり慣れているせいで、妙に寝辛かったりするのだ、これが。
まあ、それはともかく。
テラスになっている窓に近づくと、騒音はなお大きく聞こえるようになる。
―――ったく、昨日あんだけ遅かったってのに……。
何故、こんな朝っぱらからこんなものに起こされなければいけないのか。我が身を嘆きながらカーテンに手をかける。
朝日が染みているカーテンを、細く開ける。
「……何よ…、あれ……」
ホテルの前に人が集まっている。正面玄関に、まるでそこが何かのアトラクションの入り口であるかのように人が群がって、それこそ芋を洗うようだ。
気がつけば、一歩引いて観察している野次馬も見て取れる。
「一体、何事よ……」
一度、カーテンを閉めて部屋の奥へ戻る。ホテル側に常備されていたパジャマを脱いで、いつもの服に着替える。コートは着ずに、とりあえず帯剣だけして部屋を出る。
ホテルの中まで何か慌しい。従業員と何度も擦れ違うが、皆、どこか浮き足立っていた。階下へ階段を下り、ロビーに出ようとしたところで、
「レン?」
従業員の一人……支配人か誰かだろうか、ぴしっとしたスーツを着た初老の男性を捕まえている彼を見つけた。
いつもと変わらぬ無表情だが、どこか苦いものが混じっている気がする。対する支配人の顔色は真っ青で、地に足が着いていない。まったく、どうしたことだ。
しばらく眺めていると、レンの方がこちらに気がついたようだ。
「……起きたか」
「おはよ。結構な騒ぎになってるけど、何かあったの?」
「そ、それが……」
震える声で口にしようとする支配人。が、それも全身のがくがくした震えに消え失せてしまう。
陰鬱な息を吐いて、レンが言葉を繋いでくれる。
「カノン、冷静になって聞け」
「うん……?」
レンは今一度、騒ぎになっている正面玄関を見た。慌てふためいた従業員が、そちら側に集まっていく。騒ぎを止めるためだろう。
それを眺めながら、レンは普段よりか小さくボリュームを落とした声で、言った。
「クレイヴが殺された」
「―――・・・え?」
←5へ
なかなか泣き止まない子供と、そして人の群れる場所に姿を現した不可思議な合成獣。
何故?
人が集まる場所に?
何故今さらになって?
観光客の金切声が響く中、レンは何かを探すように騒がしい浜の向こうを眺めてる。カノンは向う脛までを埋める波の方へ視線を投げて、
「……?」
波の間に白い、小さなものが見えた。
一瞬、ただの貝殻か珊瑚の一種かとも思ったが。
「……」
足元まで流れてきた"それ"を眺める。
「カノン」
ぼーっとしていたらしい、呼ばれて慌てて振り返る。パレオを振り乱した女性が向こうから駆けて来るのが見えた。たぶん、この子の母親だろう。
立ち上がる直前に、もう一度、彼女はそれを見つめ、何とはなしに拾い上げた。
クオノリア市街は騒然としていた。
それはそうだ。今まで、一般市民の中では可愛い噂として留まってきたものが、公に姿を現し、一般の観光客に危害を加えようとしたのだ。
WMOとしても揉み消しは効くまい。
かく言うカノンたちも撃退した本人たちと言うことで役所から長々と事情聴取をされ、やっとホテルに戻ってきたのは深夜も回った頃合だった。
「信じらんない! 何でこんな時間まで長々とつき合わされなきゃならないわけ!?」
「WMO、ローランが最後の最後まで政団支部に圧力をかけていたようだからな。困ったことに、ここじゃ役所より奴の方がでかい顔が出来るようだ」
「人が休暇で来てるってのに連日連日何だってのよ、ったく」
「諦めろ、このタイミングで来た俺たちの負けだ」
先頭を歩きつつ、文句を垂れるカノンを冷静に窘めるレン。延々と政団の手際の悪さと、ローランへの悪態を吐きながらホテルのロビーに向かう。
無理はない。
あの後、飛んできたWMOの機関員に捕まえられ、施設にてたっぷりと事情を聞かれた後、出たところで再び政団の関係者にも呼び出され。
結局、こんな時間まで帰ることを許されなかった。休暇も何もあったものではない。
カノンの怒った背を眺めながら沈思する。
あのとき。
獣に張り付いた護符はおそらく、昼間会ったあの少年が放ったものだろう。後ろは振り向かなかったが、妙に確信染みたものがある。
一応、政団にも彼のことは口にしていたので、今頃探し出されている頃合だろうが。
妙な少年だった。
―――それにしても、
『……あそこは些か危ないですね』
―――俺たちよりも先に"あれ"に気がついていた、っていうのか……? 一体……
「に、してもWMOの支部ってでかいのね」
ふと、悪態を切ってカノンが呟いたのはそんな一言だった。思考に沈みそうになっていたレンは、やや遅れて反応する。
彼女が振り返った先に佇むのは、すっかり暗い夜空に伸びる円筒形の、市街で最も大きな建物だった。
町を訪れたときから目立っていたが、まさかあれがWMOの施設だとは思っていなかった。
それだけクオノリアに分けられているWMOの財政が大きい、即ち、ローランの権力の程もわかる。あんなものが相手では政団も苦労するだろう。
「聞いた話じゃ、地下もあって町の数ブロックくらい覆ってるんだってさ。
権力の肥大にも程があるわよね」
「傾きすぎていらんことにならなければいいがな。まあ、知ったことじゃない」
「それは知ったことじゃないわ。けど権力に感けて、人の自由を奪っていいもんじゃないわよ、ったく!!」
夜中だというのに、近所迷惑も何のそので不機嫌に地団太を踏み鳴らす。
気持ちはわからないでもないが……
「少し落ち着け、とっくに夜中だぞ」
「~~~……」
納得はいかないながらも、とりあえず静かになるカノン。その足でロビーに足を踏み入れて、
「レン、おかえりぃぃぃ~~~~~ッ!!」
「うあッ!?」
黄色い声に耳を劈かれる。
ああ、一日も終わりだというのに疲れた身体でなんて奴の相手をしなくちゃならんのだ。
レンと言えば気力体力共になくなっているらしい。飛びついて来た塊を、何とか片手であしらいながらロビーに入る。
「よー、ようやく帰ったかお前ら。
カノン、夜道だからって何かされなかったろうな?」
「レン、大丈夫ぅ? こんな暗い中で、あの女に変なことされなかったぁ?」
「また訳のわからんことを……って」
自分たちとフロント係だけが残っているロビーを見渡して、カノンは違和感に気がついた。シリアが立ち上がって突進してきたソファに、彼ら二人とは別の人影がある。
顔は整っているのに、何かおどおど落ち着きのない物腰。
昨日会ったばかりの顔だ。見間違えるはずもない。
「クレイヴさん? どうかしましたか?」
何でもないように問いかけるが、内心は気が気ではない。まさかローラン側のルナから情報を買ったことがバレたとか。
声をかけるとびくっ、と肩を震わせる。
「いやぁ、あのそのですねぇ……」
とりあえずソファから立ち上がるが、やはりきょときょとと落ち着きがない。まあ、もともとこんな人だった気がするが……
それにしたって顔色が悪い。
―――まあ、無理もないか……
あんなことがあった後だ。顧客だって激減したに違いない。ホテル経営者としては遺憾だろう。
―――しかし、何か面倒そうな嫌な匂いがするなぁ……
軽く頭を振って、何のつもりか肩に手を置いて来るアルティオを叩いてからソファに向かう。
「その、皆さんにちょっとお話がありまして……。
ああ、どうぞ、お疲れでしょうからまずは寛いで……」
「オーナー」
言いかけたクレイヴの声を、フロント係の男が遮った。
―――いや、どうでもいいけど従業員の声にまでびくついた反応すんなよ、頼むから。
ここまでチキンハートというか何と言うか、情けないと呆れを通り越して涙が出てくる。
「ああ、すいません。―――どうしました?」
どこかよたよたとした歩きでフロントまで駆けて、いや、半分転がって、と称した方が正しい。あたふたとフロントまで辿り着くと、フロント係の男はぼそぼそと、何かをクレイヴの耳元に耳打ちする。
人の顔はすぐに色を変えるものなのだと納得した。
先程まで青かったクレイヴの顔色が、それを通り越して真っ白になっている。良くない報せ、というか絶望的な連絡事項なのだろう。
観光閉鎖とか、政団かWMOの監査とか。
よろよろ身を起こすと、体裁だけは何とか整えて、こちらを振り向いた。
「すいません……少し、用が出来てしまったようです。お話は明日の朝にでも、ということで、よろしいでしょうか? 朝食のわずかな時間でも結構ですから」
正直、これ以上こんな事件に関わることなど御免被りたい気分だったが、悲痛な表情でやつれた声で言われると無下に断るのも忍びない。一度は依頼人になった人物なら尚更。
カノンは後ろの方を振り向いた。
シリアは相変わらず、レンの腕にぶら下がろうとして失敗しているだけなので無視するとして。
アルティオは軽く肩を竦めて再び肩に手を回してこようとする。振り払う気力もなかったが、とりあえず反対ではないらしい。レンもレンで渋い表情のまま黙ったまま……ということはカノンと同じく気は進まないが話だけなら、ということだろう。
どうにしろ聞くだけならただだ。
「解りました。では、朝食の時間に」
「ありがとうございます。では……」
そのままクレイヴはフロント係の男に支えられるようにして、ホテルの『関係者以外お断り』の扉に消えていく。
数瞬経って、ロビー内に下りた静寂を打ち破ったのはアルティオの一声だった。
「あー、じゃあそろそろ休むか? 疲れたんだろ?」
「そーね……また明日、面倒なことになりそうだし」
「レーン、そんなに疲れたなら私が特別マッサージで癒してあげよーかv」
―――って、あんたは思いっきりあたしと同室だろーが。
「断る。そんなつまらないものを受けるくらいなら一時間、湯に浸かった方がマシだ。アルティオ、鍵を貸せ」
「あー、ほいよっと」
ポケットから出した鍵を放り投げる。放物線を描いたそれは、ずれる事無くレンの手の中に落ちた。こういった辺り、アルティオもやはり一級の剣士である。
「ねー、レン、じゃあ一緒にはい……」
ばきッ!!
―――ああ、お約束。
「ああ、そうだカノン」
「何?」
そのまま階上に上がっていこうとしたレンの足が止まる。振り返ってかけられた声に、顔を上げる。
「あまり気にするんじゃない。あれもあれで他人の数倍過激な人生を送ってるんだ。自分のことに対してくらい、責任は持っている」
「……」
―――バレバレ、か……
小さく笑って、『了解』と随分力のない返事を返した。彼は少しだけ眉を潜めて踵を返す。
「あ、ちょっと待ってよ、れぇぇん」
その背中を慌てて起き上がったシリアが追いかけていく。諦めが悪いというか、それともその行動力に感服するところなのか。
ホテルの長い階段の上にシリアの長い黒髪が完全に消えるのを待って、カノンは身体を伸ばしながらソファへと向かった。
「お疲れさん」
「あー、全くよ」
まだ部屋に戻る気はないのか、それともいらないちょっかいをかけてくる気なのか、階段の下に佇んだままだったアルティオが声をかけてくる。
「さっきの、ルナのことか?」
「まあ……って、あたしってひょっとしてそんなに解りやすい?」
「いや、今の状況でお前が気にすること、って言ったらあいつのことだろ? 一応、親友なんだし」
許可した覚えはないが、勝手に隣に座って来る。どうこう言う気力も今はない。
「そ、ね……。今日の取調べ、っていうか事情聴取っていうか……ちらっと会ったんだけどさ。
あの状況じゃあ、気安く声をかける、なんて出来ないのはわかるんだけど……」
天井を仰ぐ。深夜のホテルのわずかな明かりが、ゆらゆらと目の中に入って来る。
疲労感が増した。
「何か……黙って、権力者に従ってる図、ってのがどうもいつもとらしくないなぁ、って気になってね」
「確かになぁ……」
笑い飛ばしながらアルティオは相槌を打つ。
「いつもならアヤシイ場所とか人があれば呪文一発で片付けるような奴だもんなぁ……」
「そうそう。何か勢いに欠ける、っていうかね。でなもんだから、何かあったのかなぁ、って。柄にもなく心配してたのよ」
「ま、確かにあいつ、何でもかんでも抱え込む癖はあるけどな。一切、人に昔のことも話したりしないし」
アルティオはやれやれと首を振る。
す、とカノンは真顔になってその言葉を受け止めた。
ルナは。
彼女は確かに普通の人間にない壮絶な半生を歩いてきたと言っていい。
十三歳のとき、彼女は故郷であるアゼルフィリーを出て行った。彼女の姉も旅立った、当時の惑う教育の最高峰、WMOの教育機関『月の館』に入学するために。
常人とはかけ離れた教育の場だったが、数年の間は途切れ途切れでも手紙が届き、やれ大変だと大変だと書かれていた記憶があるが、文面が弾んでいたということは、彼女なりに楽しい学生生活を送っていたのだろう。
顔なじみが故郷を起った寂しさはあったが、だからと言って彼女の道を邪魔するわけはない。
むしろ、魔道研究の前線に立とうと、その未来を約束されつつあった彼女を彼女の家族も、カノンたちも祝福した。
しかし。
その夢は、ある日、いきなり断たれることになった。
彼女が『月の館』に入ってどれだけ経った頃だろうか。唐突に、その報せはアゼルフィリーに届いた。
寝耳に水の話だった。
ある犯罪組織によって、『月の館』は襲撃を受けた。
当時の事件は、今でも最悪の虐殺事件として紙面に残っている。
A級犯罪人ニード=フレイマー率いるその一団の放った火は、悪い風の具合で瞬く間に『館』を包み込み、教師や生徒たちが気がついたときには、周囲は既に火の海だったという。
全校生徒、教師含めて五百六名のうち、生き残った者はたった百名以下。行方不明者は三十六名。そのうちの何名かは、その犯罪組織に捕らえられ、組織の一員として犯罪行為の手伝いを強いられていたという。
ルナもその中の一人。
彼女の場合は最悪だった。
"ディスナー"の特殊な魔道師としての血に目を付けられ、魔道許容量が人よりはるかに高かったのが災いした。
彼女はその体を、組織が崇拝するある魔族の器として利用されたのだ。
それが、約一年と半年前。
結局、彼女は組織に反旗を翻し、逆にその組織を壊滅に追い込んだ。その功績を讃えられ、今では政団にもWMOでも一目置かれる存在となっている。
普段、ふざけてはいるが、自分が犯罪行為に加担していた罪は消えるはずもなく。
心のどこかではその傷に痛めつけられているはずなのに。
カノンは、彼女の泣き言の一切を聞いた記憶はない。
だからこそ、不安なのだ。
「大丈夫だって」
「……」
「ルナの考えてることなんて正直、俺たち誰もわかっちゃいねーよ。肝心なときに誰もあれの側にいなかったんだからな。
でもさ、ルナはそんなに俺たちのことを信用してないと思うか?」
「……まあ、そうだけど」
「どうにもこうにもなくなって、万が一、ってときは何かしが言って来るだろ。今は、あいつを信じてやろうや」
ぱん、と膝を打ってアルティオは断言する。
ふー、と長い息を吐き、
「ったく、あんたみたいなのに諭されると思わなかったわよ」
「ひでーなー。これでもちゃんと心配してたんだぜ。何せ、お前ら昔から仲良かったしな、傍から見てて姉妹みたいだったぜ」
「そう?」
「ああ。正直、ちょっと嫉妬してた」
「あのねー……」
「じょーだんだって。それにさ」
苦笑混じりに先程、彼らが消えた階段の方を振り向くと、
「信じられないかもしれねーけど。シリアも心配してた」
「あいつが?」
―――それは本気で信じ難い。
ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げるカノンにアルティオは笑いながら手をぱたぱたと振って見せる。
「いや、まあ……『あいつら何つまんないことやってるのかしら?』みたいな可愛くない言い方だったけどよ。
昔からああいう奴だったろ? まあ、お前には特に絶対そういう顔はしないけど、影で結構気にかけてんだぜ?」
「そうなの?」
初耳だ。本気で信じられない。
「まー、信じられないのはあいつの普段の行いのせいだろうけどな」
「あんたが言うか……」
「ま、それはそれとして。俺だってシリアだって、レンの野郎……は、言うまでもないか。
皆、心配してるのは一緒なんだ。あんまり根詰めて考えんなよ」
「……そうね。ごめん」
素直に謝罪が口を告い出た。
「まあ……ためにはなったわ。ありがと。少しは男は上げたじゃないの」
さりげなく吐いたその一言に、アルティオは一瞬固まってから目を輝かせてソファから立ち上がる。
鼻息荒く、カノンの手を取って、
「ホントかッ!? カノン、ようやく俺の魅力に気がついてくれたんだなッ!? くくぅッ! 感涙だ、長かったぜここまでッ! そうと決まればすぐ教会に……ッ」
「ンなわけあるかッ!!」
どがッ!!
「ぐあッ!?」
顎を蹴り飛ばしてやると、そのまま絨毯の上で大人しくなる。
「―――ったく、たまーに多少褒めてやっただけですぐに図に乗る……」
すっかり疲労が溜まってしまった肩を解しながら立ち上がる。ガラス張りのロビーの外に、大分傾いた月が静かに佇んでいた。
考え込んでいても仕方がない。
この件、深くは関わらないことを決めたのだ。
明日、クレイヴの話を聞いて、しっかり断りの言を入れて置こう。
それでもなお、ルナが何かしがの事情を抱えてやってきたなら、そのときまた話し合えばいい。
「よしッ」
そうと決まればさっさと寝てしまおう。休暇で来たというのに休めなければ何もならない。
そう決意して、カノンは軽薄な男の伸びる静まりかえったロビーを後にしたのだった。
しっかりと断りを入れる―――つもりだった、のだが。
「……ん?」
その朝、カノンは外から響いて来る騒がしさで目を覚ました。ぼやけた視界の中で時計を見る。
まだ早い時間だというのに、外から人の声が聞こえるというのはどういうことなのか。それも一人や二人の話し声ではない。大勢の、それも話し声などではなく、いきり立った喧しい騒音だ。
「ふにゃ……レン、もぉ、恥ずかしいってばぁ……」
そんな中でも熟睡し、何やら幸せそうに寝言をのたまうシリアを横目に、スプリングが効いた高級ホテルのふかふかのベッドを降りる。
……普段、安宿に泊まり慣れているせいで、妙に寝辛かったりするのだ、これが。
まあ、それはともかく。
テラスになっている窓に近づくと、騒音はなお大きく聞こえるようになる。
―――ったく、昨日あんだけ遅かったってのに……。
何故、こんな朝っぱらからこんなものに起こされなければいけないのか。我が身を嘆きながらカーテンに手をかける。
朝日が染みているカーテンを、細く開ける。
「……何よ…、あれ……」
ホテルの前に人が集まっている。正面玄関に、まるでそこが何かのアトラクションの入り口であるかのように人が群がって、それこそ芋を洗うようだ。
気がつけば、一歩引いて観察している野次馬も見て取れる。
「一体、何事よ……」
一度、カーテンを閉めて部屋の奥へ戻る。ホテル側に常備されていたパジャマを脱いで、いつもの服に着替える。コートは着ずに、とりあえず帯剣だけして部屋を出る。
ホテルの中まで何か慌しい。従業員と何度も擦れ違うが、皆、どこか浮き足立っていた。階下へ階段を下り、ロビーに出ようとしたところで、
「レン?」
従業員の一人……支配人か誰かだろうか、ぴしっとしたスーツを着た初老の男性を捕まえている彼を見つけた。
いつもと変わらぬ無表情だが、どこか苦いものが混じっている気がする。対する支配人の顔色は真っ青で、地に足が着いていない。まったく、どうしたことだ。
しばらく眺めていると、レンの方がこちらに気がついたようだ。
「……起きたか」
「おはよ。結構な騒ぎになってるけど、何かあったの?」
「そ、それが……」
震える声で口にしようとする支配人。が、それも全身のがくがくした震えに消え失せてしまう。
陰鬱な息を吐いて、レンが言葉を繋いでくれる。
「カノン、冷静になって聞け」
「うん……?」
レンは今一度、騒ぎになっている正面玄関を見た。慌てふためいた従業員が、そちら側に集まっていく。騒ぎを止めるためだろう。
それを眺めながら、レンは普段よりか小さくボリュームを落とした声で、言った。
「クレイヴが殺された」
「―――・・・え?」
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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