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DeathPlayerHunterカノン[降魔への序曲] EPISODE5
青い海、白い雲、さんさんと照りつける爽やかな太陽。
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
←4へ
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
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THE Third:慟哭の月
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