[1]
[2]
「うッ、っつぅ……!」
たまらずにアルティオは赤い柄を手放した。手の平が焼け石に触れたように熱い。
しゅうしゅうと細い煙が、握った手から上がる。シリアが慌てて駆け寄って、それを開かせ、顔を顰めてから治療呪文を口にする。
少年は。
畳み掛けようとするレンから跳び退る。
その右肩には、今だ一振りの剣が突き刺さったままだった。
「っ、く……ッ!」
躊躇いもなく、少年は赤い剣の柄を握る。歯を食い縛りながらそれを肩から引き抜いた。
「……」
常人なら激痛を伴うそれを、少年は僅かによろめくだけでやってのけた。がらん、と剣が石の床に落ちた。
少年の身体が傾ぐ。
「主様ッ!」
「れ……くそッ! 大丈夫かッ!?」
いつの間に移動したのか、少女が彼の身体を支える。薄炎色の髪の少年は、気合を込めて上段に蹴りを放つ。引いたカノンの隙をついて、そちらに駆け寄った。
彼がふらついたのは一瞬で、すぐに身体を持ち上げると右肩を抑えて小さく呻く。
身体を貫いたはずなのに、確かに手応えはあったというのに、何故かその肩から赤い体液は噴き出さずに、辺りの闇と黒衣に紛れて傷口さえ確認出来ない。
「やって、くれたね……。まさか『月陽剣』を握るとは思わなかった」
柄を握った手を抑えながら膝をつくアルティオに、彼は笑みを浮かべる。
そうして頭上の青い剣を、転がった足元の赤い剣を、交互に眺め、そして立ち尽くした魔道師へちらりと視線を送る。
「……まあ、いいさ。それはもう、必要ないらしい。回収の必要はない、とのことだ」
「はぁッ? 何だ、それッ! 俺ら、何のために……ッ」
「エノ」
「……」
窘められて、赤毛の少年はくそッ! と呟いて沈黙した。
少女が一歩、前に出る。カノンたちは各々、構えるが、少女はただ静かに瞼を閉じた。
その足元から、黒い霧がゆっくりと立ち上る。それは、いつか見た光景だった。
「くっそ、待てッ!! 逃げんのかよッ!」
「アルティオッ!!」
傷口を放って駆け出そうとするアルティオの腕を、シリアが無理矢理に引く。
解っている。
手の平が使い物にならないくらい。
ただの悪あがきだということくらい。
そんなに無鉄砲じゃない。
けれど、
「……それでは、ごきげんよう」
霧の向こうに消えていく、漆黒の、白い薄笑いがどうしても許せない。
やがてすべてが消えた後、がくり、と彼は膝をついて、逆の拳を無言で床へ叩き付けた。
「アルティオ……」
「畜生……許さねぇ……! あの野郎、絶対、絶対に許さねぇ……ッ!」
小さな、慟哭交じりの誓約が、物悲しく耳を打つ。
乾いた視線の向こうに、数多の命を飲み込んだ、呪われた赤い光を灯す剣が、力なく転がっていた。
それからは、目まぐるしかった。
町に在住しているウィルトン伯を通じて、はたまたルナが呼んでいた政団と憲兵が、次々と訪れて事情聴取と現場検証を行った。
最も、そんなものは意味を成さないくらい、フェルス医師の罪状は明らかだったのだが。
しかし、結局、あの黒衣の少年が絡んでいたという証拠が挙がることはなく、事件はフェルスの独断と暴走という形で収まったようだった。
……収まったようだ、というのは他でもない。
現場検証と、事実の認証は偉い方に任せて、カノンたちは早々に町を去ったからだった。
街中では評判の良かったフェルスを殺した、と見られているのだ。それが正当防衛だったとしてもいい目で見られるわけはない……。
……というのは、もしかしたら、ただの表向きの理由かもしれない。
こんこん。
「あー、どうぞ」
間延びした、しかしどこか覇気に欠ける声を確認して、カノンはノブを捻った。
あれから一週間。
ランカース・フィルからは大分、離れた比較的大きな、治安もそこそこの町に彼らはいた。
「……アルティオ、入るからね」
「ああ」
部屋の中にはランプさえ灯っていなかった。
カノンは、再度溜め息を漏らして手探りでランプを探し出して、ねじを捻り、火を灯す。
獣脂の焼ける匂いが立ち込めた。
ぼんやりとした明かりの中で、ぐったりと、手を付きベッドに座り込む力の無い背中が見えた。
カーテンから漏れてくる月の光を、魂が抜けたかのように眺めている。
折れた剣を視界に入れて、カノンは軽く首を振り、肩に担いでいた大きな荷物を床に置く。
がらがらんッ、と結構な音が響いた。
「……あんたの新しい剣よ」
「……」
それにも、彼は無言のままだった。
カノンは仕方無く剣の袋を開け放ち、彼の座るベッドの脇にそれを転がした。
「……『月陽剣』」
「ッ!!」
ばっ、とアルティオは目を剥いて振り返る。幾分、痩せたように見えるその眼前に、カノンは一つの指輪を突きつける。
赤い、古風な装飾の、見覚えのある指輪。
「そりゃ……」
「ステイシアが付けていたものよ」
カノンは床に投げ出された二振りの、青赤の剣に視線を落とす。
「……本当は政団に没収されてるところなんだけど。盗品だ、って言ってルナが取ってきて修理したの。
……魔道具、ってのはね。人間が使えないと意味無いの。
もともとこの剣は、青の剣―――月の剣は軽度の癒しの力を持っていて、赤の剣―――陽の剣は人間の潜在する能力を高める作用をするものだったそうよ。
ただ、それだけの剣。
それが、無理矢理に人間の範疇を超えるくらいに異常な能力を持たされたから、異常な対価が必要になって……
呪われた剣になった」
カノンは二振りの剣を拾い上げる。だが、その手の平が焼けるようなことはない。
「……人の血と魂を吸ったせいで、元のものより強力にはなっているそうだけど。
人の使えるぎりぎりの数値まで、能力を落としたそうよ。それでも、使えば使用者の疲労は大きいから、その疲労の抑制装置に、この指輪を造り変えた、って。
詳しくは解らない。あんたに使う気があるなら、ちゃんと説明してやる、って言ってた」
カノンはアルティオに指輪を手渡す。以前より、格段に輪が広まって、アルティオの無骨な指にも嵌る大きさになっている。
僅かに震える拳と、噛み締められた唇に、カノンはさらに問う。
「……十分、落ち込んだ?」
「……」
「この剣は確かに、あの娘の命を奪ったかもしれないわ。けどね、同時に、生まれ変わって一年を生きたあの娘の唯一の形見よ。
―――捨てるか、それとも二度と紛い目的のために使われないよう、あんたが守り続けるか。
アルティオ。
あたしだって、性急できついこと言ってるのは解ってるの。普通なら、あたしたちはあんたの気が済むまで、あんたが立ち直るのを待ってやってたっていい。けど、相手は待っちゃくれないの。
……あんたが、許せない、って言った言葉。あれは、あたしだって同じ。
でも、いざってときにあんたが戦う力を持ってなかったら―――」
押し殺し、隠した言葉がアルティオの鼓膜を打つ。痛いほど、彼女の、いや彼女たちの仲間としての情が、理解出来る。
しなければならないことなど知っていた。
彼は、ただ後押しが欲しいだけなのだ。
アルティオは、一つ、息を吐き出して。
指輪を、握った。その手の平が、熱く痛む。金の髪の、あの、小さな少女の華やかな笑顔が、一週間も前のことだと思えないほど、鮮明に瞼に浮かび―――
消した。
いつでも、思い出せるよう。
忘れないように、今は忘れた。
「……ごめんな」
「?」
「オレって奴はよ。ほんっとうにどうしようもないな。好きな女に二回も嫌なこと言わせちまった」
空笑いが漏れた。これじゃますます嫌われちまう、と、かすかに微笑んで、しかし一抹の怒りと決意とを滲ませて、顔を上げる。
填めた指輪は、初めて手にしたものではないかのように、しっくりと無骨な傷だらけの指に収まった。
「……あんたのいいところは、何があっても豪快に笑い飛ばせる馬鹿さ加減ね。だから、ステイシアもあんたを選んだのかもしれないわ」
「……そうだったら、良いな」
アルティオが二つの剣の柄を握る。月光に翳された剣は、鋭く、その淡い光を弾き返した。
カノンは僅かに微笑んで、背を向けようとした。その背に、アルティオはふと思いついて声をかける。
「……なあ、カノン」
「何?」
「ネリネ、って知ってるか?」
「ネリネ、って……あの、花の?」
柄を握り、その筋から視線を外さないまま、アルティオは頷く。
「ああ、そいつの……花言葉、って知らねぇか?」
「……それは…」
「………あの娘がさ、言ってたんだよ。また、あの町に来ることがあったら教えてくれるって。
街の、郊外の花壇にいっぱいに咲いててな。夕方、いっちばん綺麗な眺めだとか言って、連れてってくれてさ。
花も、葉っぱも、………可愛くてな。すごく、綺麗だったんだ。」
「……」
「もう、……聞けねぇからな」
寂しげな声が、部屋の中に響く。カノンは逡巡して―――
その迷いを見て取ったのか。
「……頼む、カノン」
奥歯を、噛み締める。
しばし、瞑目して、そして極端的に、その言葉を口にして―――
カノンは、部屋を出た。
残されたアルティオは、その言葉を確かめるように二度、口にして……
彼女の魂が込められた剣を、振りかざして、たった一言だけ、呟いた。
「……そっ、か」
ネリネ―――
彼岸花科。学名 Nerine sarniensis Nerine : ネリネ属。
別名は『ダイヤモンドリリー』反った花弁に光が当たると、まるでダイヤモンドのように美しく輝く淡い桃色の花―――。
花言葉―――『華やか』、『幸せな思い出』、『箱入り娘』……
―――『また会う日まで』
「……あ」
アルティオの部屋を出て、しばらく。暗い廊下を過ぎて、窓枠に寄りかかっていた長身の人影に、カノンは足を止める。
「レン……」
「アルティオは落ち着いたか」
「うん、大分。もう大丈夫そう」
背を離し、彼はこちらへと向き直る。表情には、やや疲労の色があった。彼のことだ、ここ数日、眠っている間も気を抜かずに、神経を研ぎ澄ませていたに違いない。
「……アルティオがあそこまで落ち込んでるの、初めて見た」
「昔から切り替えは悪くない男だ。一度、すべきことを理解すれば、後は大丈夫だろう」
知らない人間が聞けば、冷たい科白に聞こえるかもしれない。けれど事実は逆。レンはアルティオの兄弟弟子だ。良くも悪くも、お互いの性格は知っている。
「それよりも……お前の方は平気なのか?」
「へ?」
まさか水を向けられるとは思っていなかった。カノンは首を傾げて彼を見上げる。
「何で?」
「また気ばかり焦らせて、かりかりしているように見えたのでな」
「……」
押し黙った沈黙が、返答だった。
「ちょっと……気は立ってる、かな……」
「……」
「……アルティオは、さ。別に狙われてるわけでもないのよ? ただの興味本位であたしたちに付いて来ただけよ。こんな思いする理由なんて何も……何もないじゃない。……ステイシアだって」
「言うな」
「けど……ッ!」
「甲斐の無いことだ。誰のせいでもない、強いて言うならお前に付いて来た、あいつ自身の責だ。
お前が下らんことで自分を責めても、喜ぶような馬鹿はいない。
奴らがフェルス医師に与するのをお前は止められたか? ステイシアが歪んだ形で蘇るのを止められたのか?
……いずれ来る結末が、些か歪曲してしまった、ただそれだけのことだ」
「それだけ、って……ッ!」
「少しは落ち着けッ」
「解ってる……ッ! そんなの…言われなくたって解ってるの………ッ!」
吐き出した言葉から、力が抜けていく。俯いた彼女の金の頭を、数度、ゆっくりと撫でる。すん、と鼻の鳴る声がした。
「…………し」
「……?」
「………あたし、やっぱり、何処に行っても、疫病神なんだね……」
「……」
ぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟かれた言葉は、しっかりとレンの耳を打っていた。
カノンの母であるマイン=ティルザードは、偉大な狩人だった。ただそれだけのことに過敏に反応する人間は、けして少なくはなく、良くも悪くも彼女の周囲には人が集まった。当然、それは善人ばかりではない。
彼女にそんな気はないというのに。なまじ、母親に勝るとも劣らない戦のセンスを備えていたために、期待と畏怖とが付き纏う。
……狩人という任から解き放たれたはずの、今でもなお、そうだというのだろうか。
「?」
レンは、俯いたままのカノンの肩を叩く。
「ちょうど眠れずにいたところだ。夜風にでも当たる。……付き合え」
浮かんでいたのは満月だった。
気配を紛らわすのには向かないが、夜の散歩にはちょうど良い。
つい、二週間前もこうして散歩をした気がする。あのときは一人で、酷い目にあったものだけれど。
……もし、あのとき―――出歩いたりしていなければ。
いや、どうにしろ、奴らはカノンを誘い出していただろう。下らないことを考えるな。今は、考えても致し方のないことだ。
散歩と言っても、そう遠くまで行くわけにはいかない。せいぜいが、宿屋の裏手にある井戸端で涼む程度だ。
「……寒いか?」
「ううん、平気」
石積みの井戸に寄りかかりながら、カノンは答える。
「けど、何か久しぶりね」
「……? 何が、だ?」
「こうして二人だけでいるの。
だってさ、ここ最近ずっと皆いたし。二人でいるのなんか、なかなかなかったじゃない?
まあ、病院で看病はしてもらったけどさ」
「普段より騒がしさが三倍以上だ。全く、敵わん」
「ちょっと、あたし今の騒がしさの三分の一を担ってんのッ?」
「以上と言っただろう。それ以上だな」
「ちょ、それだけは納得いかないわよッ!!」
いつもの暴言に、突っかかろうとして。
振り上げた拳を止めて、小さく噴き出す。ゆっくりと、肩の力を抜く。
「……落ち着いたか?」
「……ん。ごめん、ありがと…」
井戸に寄りかかる彼女の隣に背を預けながら、レンは溜め息を吐く。剥き出しの腕にかかったマントを掴んでほんの少しだけ寄る。
「……寒いなら素直に言え」
「へへ」
外されたマントを手繰って包まる。ほんの少しの埃と、甘い汗の匂いがした。
「……カノン」
「うん」
「お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな」
「……うん」
「だがそれ以上に、」
輝く満月をぼんやりと眺めながら、彼は口にする。
「……救われた人間も、町もある」
「………うん」
「それを、忘れるな」
「……うん、ごめん」
深呼吸をする。少し肌に寒い、冷たい空気が火照った身体を程好く冷してくれる。
肩にかかった群青のマントが、泣きたいほどに温かい。
大丈夫、この温もりがあればまだ立っていられる。前に進める。
「……もう平気、ありがと」
「……」
吐き出した息は安堵を含んでいた。
「レン」
「何だ?」
「……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?」
「……」
「あ、ぅ、め、迷惑とかじゃなくてさ……。でも、せっかく狩人辞めたんだし。
レンだって他にやりたいこととか、腰を落ち着けるとか……その、したいこともあるんじゃないかなー、って。
だったら、いつまでもあたしの我侭につき合わせてるわけにいかないし……
こういう状況だから、今は一緒にいた方がいいんだろうけど……」
「……」
視線を上げたレンが、何を逡巡しているのかは解らない。口を開かない彼に、些か不安を覚えて一歩踏み出そうとしたとき、
すっ、とカノンも、レンも、表情を引き締める。
闇夜を割いた白い小さな影。二人は左右に分かれて跳ぶ。
どむッ!!
張り付いた護符が井戸の端を打ち砕く。カノンはマントを放り出し、腰の剣を抜く。レンもまた、背中の剣を引き抜いた。
「くすッ……邪魔したようだね。申し訳ない」
「ッ!」
ひらひらと片手で護符を弄びながら、宿屋の屋根に腰掛ける、漆黒の影。
はっ、としてその手を凝視するが、右肩のダメージは既にないように見える。きりッ―――奥歯の噛み締める音が、耳の奥に響く。
「あんた……ッ! 一体、何のつもりなのよッ!?」
「さて、話す必要があるとも思えませんが」
暗い影が、すっ、と立ち上がる。くすくすと響く小さな笑い。
そこへ、
「シルフィードッ!」
「!」
ドンッ!!
澄んだ。
ややトーンの高い、声が不穏な空気を切り裂いた。
少年が、砕けた屋根の端から跳び退る。銀の閃光は、宿屋の表――― 一ブロックのストリートから放たれた。
聞き覚えのない声だ。
少年はそちらに視線を落す。
「あんたは……」
「……」
そこには、両手を突き出し、険しい表情で屋根の上の影を睨みつける少年が佇んでいた。
歳は十五か、もっと低いか。背はあまり高くない。淡い緑がかった銀の髪を長く伸ばし、前髪を長いバンダナで束ねている。
法師の纏うような、ゆったりとした青紫の神衣を纏い、同じ色の瞳を吊り上げていた。
「……そこの者。エイロネイアの刺客ならば大人しく投降しなさい」
「………シンシアか」
ぼそり、と影が呟く。
たったったっ、と石畳を駆ける足音。影はそちらに目をやって、
「―――?」
カノンは、彼に―――漆黒の少年の表情に、動揺が走るのを初めて見た。アルティオが月陽剣を握ったときでさえ、驚嘆しただけで、動揺など微塵も見せなかったというのに。
「……」
影の少年は、そのまま無言で跳ぶ。
後方へ。
「待てッ!」
「追わなくて良い、デルタ」
かつッ
ストリートの石畳を踏んで、彼の後ろからまた一つ人影が現れる。月光に照らされた、その人は女性だった。
意志の強そうな蒼い瞳、柔らかな、肩まで伸ばした髪は栗色。
どこかの将校を髣髴とさせる衣装だが、決定的に違うのは一般的に軍部では高位を表す白のコートと、鷲の十字をあしらった紋章は、明らかに帝国のそれとは違う。
カノンの背を、嫌な予感がすり抜ける。
放り出してしまったマントを拾い上げると、即座に脇から手が伸びてそれを攫った。
元のようにマントを身につけながら、レンは彼らを凝視する。きっと、渋い表情に感じている予感は同じものだ。
「ラーシャ様、良いのですか?」
「良いのだ。我らの任務は刺客を片付けることではない」
ラーシャ、と呼ばれた女性はこちらを振り返る。女性にしてはやや背が高い方だろう。ぴし、と背を伸ばすと歳不相応の風格が、凛とした雰囲気に加わる。
「……お怪我は……ないようだな。何より」
「……」
「失礼。カノン=ティルザード様、レン=フィティルアーグ様、両名で宜しいか?」
一瞬、返答に迷う。
横目で目配せをするが、彼自身も諮りかねているようだった。敵の敵は、味方とは限らない。
その内に、沈黙を答えと見なしたのか、彼女は鷹揚に一つ、頷き、深々と頭を下げた。
「……第三革命を起こし、今在る政団を改革されたお噂は、耳に入れている」
「―――!」
確かに―――。
かつて、カノンとレンは、死術によって暴走しかけた政団の長を、数多の死術と共に闇に葬ったことがある。その事件は、忌々しく、記憶に新しい―――。
だが、あれは革命を起こした、というよりは戦場で生き残った、と言う方が正しい。
それに―――。
―――あの件は、公式には、伏せられてるはずなのに……ッ!
「あんたたち……一体、何者?」
すると彼女は面を上げる。背筋を伸ばし、最上礼の構えを取った。傍らの少年もそれに習う。
そして。
彼女は敬礼を崩さないまま、言った。
「私はゼルゼイル北王都ゼルフィリッシュより参った、シンシア王国中将ラーシャ=フィロ=ソルト。
こちらは従者であり、本軍で少尉の任に当たるデルタ=カーマイン。
……貴方方のご高名を聞き、一つ、お願いを申し上げに参った次第であります―――」
―――さて、また何やら面倒な事態になって来た―――。
かつッ……
闇色の少年は、足を止めた。どこの町にも一つはある、光の届かない廃墟の中だと、その姿は増して闇夜に溶けて見えなくなる。
壊れた壁の隙間から漏れる光だけが、少年の視界を支えていた。
廃墟となる前は、少々、小洒落た邸宅だったのだろう。上流階級、とは言わないが、極普通の中流家庭の住まいよりは些か豪華な間取りだ。埃に塗れ、ひび割れた家具にもそえなりの装飾が見て取れる。
ふと、人の気配を感じた。
部屋―――恐らくはリビングだろう、一番大きな部屋の深奥に陣取るソファを振り返る。
瞬間。
かしゃんッ!!
唐突に飛来した脆いワイングラスが、コートの裾に叩き落とされて床に張り付いた絨毯の上に破片となって散らばる。
踏み出すとアルコールの立ち上る、赤い液体が跳ねた。
「てっめぇ、何すんだッ!」
「エノ」
駆け寄って来ようとしていたエノの大声を窘める。
払ったと同時に、手の甲に突き刺さった透明な破片を、素知らぬ振りで抜く。転がすとかしゃん、と小さな破砕音が響いた。
こっそりと溜め息をついて、グラスの飛んできた方向を見やる。
「……随分と、乱暴な出迎えだね」
そこに座っていた"彼"は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、サイドテーブルに乗せられた新しいグラスに赤い酒を注ぐ。
つかつか、と靴音を鳴らして近づいた少年は、彼の手から深緑色の瓶を奪うと、空いていたグラスに三分の一程度注ぐ。
「……機嫌が悪いようで何より」
「人のことを言えた義理か。何だ、いつもの澄ました顔はどうしたよ。シケた面しやがって」
「この顔は元からだよ」
一方的にグラスを合わせ鳴らすと、少年は一気に煽る。彼はゆっくりグラスに口をつけた。
「……で、そっちは上手くやったんだろうな?」
「上々、だね。まあ、計算外のこともいくつかあったけれど。問題外だ」
二杯目をグラスへ、なみなみと注いだところで瓶をひったくたれた。渋ったりはせずに、返還する。
今度はちびちびと、グラスの端に口を付けながら、
「けれど、あの剣は惜しかったんじゃない? 本当に放置で良かったの?」
「あんなもんはただのプロトタイプだ。データが取れりゃ、後は廃棄物さ」
「でも、二つとも彼らの手に渡ったみたいだけど?」
「それこそ性能を測るのにはちょうど良い。憂うようなことじゃねぇ」
「……君は相変わらず、だね」
再び、彼は鼻を鳴らし、グラスの中身を一気に飲み干した。
「……それで。余計な手は出してねぇだろうな?」
「勿論。出したとしても、僕の一言で転ぶような人でもないだろう?
―――さあ、約束通り、トリは任せるよ……。後は焼くなり煮るなり。契約に反しない限りに」
うっすらと。
月明かりに、彼の薄い唇が吊りあがる。
きんッ!!
澄んだ金属音が響く。咄嗟に引いた鼻先の向こうで、がしゃんッ! と派手な音を立てて瓶が割れ、赤い内の体液を撒き散らす。
破片が月光に煌いて、その中の一際大きな欠片が、細身のナイフに貫かれて床に落ちる。
床に突き刺さったナイフが、妖しげに光る。
ああ、ちょっとだけ勿体無い。
「………感謝してるぜ、あんたにはよ……。
これだけの舞台なら不足はねぇさ……。存分にやらせてもらう。くっ、くくくくく……」
堪えきれない笑いが、喉の奥から漏れる。少年はそれを眺めて頷いた。
「ええ、ご自由に」
かつんッ!
響いた靴音が、廃墟の廊下に消えていく。不満げな表情を浮かべる傍らの従者に、軽く顎で合図する。
憮然としたまま、重い足取りだったが、その後を追っていく。
少年は身を翻して、今しがた彼の腰掛けていたソファに座る。ふぅ、と陰鬱に近い溜め息を漏らした後、ふと頭上を見上げる。
朽ちた天井に、砕けた梁が引っかかっている。砕けた瓦の向こう側、ぽっかりとそこだけ穴が開いていて、切り取られた空を眺めることが出来た。
「……ああ、通りで機嫌が悪いわけだ」
天上に、真円の月を認め、少年はくすり、と笑う。
「今日は、満月だったね」
ワインの苦く、渋い風味が、口の中に広がる。ゆっくりと視線を逸らす。
「……まったく、彼も可哀相な人間だ」
少年の視線の先で。
零れた雫に突きたったナイフが、その赤い水面に移る揺らいだ満月を、深く、貫いていた……
←11へ
たまらずにアルティオは赤い柄を手放した。手の平が焼け石に触れたように熱い。
しゅうしゅうと細い煙が、握った手から上がる。シリアが慌てて駆け寄って、それを開かせ、顔を顰めてから治療呪文を口にする。
少年は。
畳み掛けようとするレンから跳び退る。
その右肩には、今だ一振りの剣が突き刺さったままだった。
「っ、く……ッ!」
躊躇いもなく、少年は赤い剣の柄を握る。歯を食い縛りながらそれを肩から引き抜いた。
「……」
常人なら激痛を伴うそれを、少年は僅かによろめくだけでやってのけた。がらん、と剣が石の床に落ちた。
少年の身体が傾ぐ。
「主様ッ!」
「れ……くそッ! 大丈夫かッ!?」
いつの間に移動したのか、少女が彼の身体を支える。薄炎色の髪の少年は、気合を込めて上段に蹴りを放つ。引いたカノンの隙をついて、そちらに駆け寄った。
彼がふらついたのは一瞬で、すぐに身体を持ち上げると右肩を抑えて小さく呻く。
身体を貫いたはずなのに、確かに手応えはあったというのに、何故かその肩から赤い体液は噴き出さずに、辺りの闇と黒衣に紛れて傷口さえ確認出来ない。
「やって、くれたね……。まさか『月陽剣』を握るとは思わなかった」
柄を握った手を抑えながら膝をつくアルティオに、彼は笑みを浮かべる。
そうして頭上の青い剣を、転がった足元の赤い剣を、交互に眺め、そして立ち尽くした魔道師へちらりと視線を送る。
「……まあ、いいさ。それはもう、必要ないらしい。回収の必要はない、とのことだ」
「はぁッ? 何だ、それッ! 俺ら、何のために……ッ」
「エノ」
「……」
窘められて、赤毛の少年はくそッ! と呟いて沈黙した。
少女が一歩、前に出る。カノンたちは各々、構えるが、少女はただ静かに瞼を閉じた。
その足元から、黒い霧がゆっくりと立ち上る。それは、いつか見た光景だった。
「くっそ、待てッ!! 逃げんのかよッ!」
「アルティオッ!!」
傷口を放って駆け出そうとするアルティオの腕を、シリアが無理矢理に引く。
解っている。
手の平が使い物にならないくらい。
ただの悪あがきだということくらい。
そんなに無鉄砲じゃない。
けれど、
「……それでは、ごきげんよう」
霧の向こうに消えていく、漆黒の、白い薄笑いがどうしても許せない。
やがてすべてが消えた後、がくり、と彼は膝をついて、逆の拳を無言で床へ叩き付けた。
「アルティオ……」
「畜生……許さねぇ……! あの野郎、絶対、絶対に許さねぇ……ッ!」
小さな、慟哭交じりの誓約が、物悲しく耳を打つ。
乾いた視線の向こうに、数多の命を飲み込んだ、呪われた赤い光を灯す剣が、力なく転がっていた。
それからは、目まぐるしかった。
町に在住しているウィルトン伯を通じて、はたまたルナが呼んでいた政団と憲兵が、次々と訪れて事情聴取と現場検証を行った。
最も、そんなものは意味を成さないくらい、フェルス医師の罪状は明らかだったのだが。
しかし、結局、あの黒衣の少年が絡んでいたという証拠が挙がることはなく、事件はフェルスの独断と暴走という形で収まったようだった。
……収まったようだ、というのは他でもない。
現場検証と、事実の認証は偉い方に任せて、カノンたちは早々に町を去ったからだった。
街中では評判の良かったフェルスを殺した、と見られているのだ。それが正当防衛だったとしてもいい目で見られるわけはない……。
……というのは、もしかしたら、ただの表向きの理由かもしれない。
こんこん。
「あー、どうぞ」
間延びした、しかしどこか覇気に欠ける声を確認して、カノンはノブを捻った。
あれから一週間。
ランカース・フィルからは大分、離れた比較的大きな、治安もそこそこの町に彼らはいた。
「……アルティオ、入るからね」
「ああ」
部屋の中にはランプさえ灯っていなかった。
カノンは、再度溜め息を漏らして手探りでランプを探し出して、ねじを捻り、火を灯す。
獣脂の焼ける匂いが立ち込めた。
ぼんやりとした明かりの中で、ぐったりと、手を付きベッドに座り込む力の無い背中が見えた。
カーテンから漏れてくる月の光を、魂が抜けたかのように眺めている。
折れた剣を視界に入れて、カノンは軽く首を振り、肩に担いでいた大きな荷物を床に置く。
がらがらんッ、と結構な音が響いた。
「……あんたの新しい剣よ」
「……」
それにも、彼は無言のままだった。
カノンは仕方無く剣の袋を開け放ち、彼の座るベッドの脇にそれを転がした。
「……『月陽剣』」
「ッ!!」
ばっ、とアルティオは目を剥いて振り返る。幾分、痩せたように見えるその眼前に、カノンは一つの指輪を突きつける。
赤い、古風な装飾の、見覚えのある指輪。
「そりゃ……」
「ステイシアが付けていたものよ」
カノンは床に投げ出された二振りの、青赤の剣に視線を落とす。
「……本当は政団に没収されてるところなんだけど。盗品だ、って言ってルナが取ってきて修理したの。
……魔道具、ってのはね。人間が使えないと意味無いの。
もともとこの剣は、青の剣―――月の剣は軽度の癒しの力を持っていて、赤の剣―――陽の剣は人間の潜在する能力を高める作用をするものだったそうよ。
ただ、それだけの剣。
それが、無理矢理に人間の範疇を超えるくらいに異常な能力を持たされたから、異常な対価が必要になって……
呪われた剣になった」
カノンは二振りの剣を拾い上げる。だが、その手の平が焼けるようなことはない。
「……人の血と魂を吸ったせいで、元のものより強力にはなっているそうだけど。
人の使えるぎりぎりの数値まで、能力を落としたそうよ。それでも、使えば使用者の疲労は大きいから、その疲労の抑制装置に、この指輪を造り変えた、って。
詳しくは解らない。あんたに使う気があるなら、ちゃんと説明してやる、って言ってた」
カノンはアルティオに指輪を手渡す。以前より、格段に輪が広まって、アルティオの無骨な指にも嵌る大きさになっている。
僅かに震える拳と、噛み締められた唇に、カノンはさらに問う。
「……十分、落ち込んだ?」
「……」
「この剣は確かに、あの娘の命を奪ったかもしれないわ。けどね、同時に、生まれ変わって一年を生きたあの娘の唯一の形見よ。
―――捨てるか、それとも二度と紛い目的のために使われないよう、あんたが守り続けるか。
アルティオ。
あたしだって、性急できついこと言ってるのは解ってるの。普通なら、あたしたちはあんたの気が済むまで、あんたが立ち直るのを待ってやってたっていい。けど、相手は待っちゃくれないの。
……あんたが、許せない、って言った言葉。あれは、あたしだって同じ。
でも、いざってときにあんたが戦う力を持ってなかったら―――」
押し殺し、隠した言葉がアルティオの鼓膜を打つ。痛いほど、彼女の、いや彼女たちの仲間としての情が、理解出来る。
しなければならないことなど知っていた。
彼は、ただ後押しが欲しいだけなのだ。
アルティオは、一つ、息を吐き出して。
指輪を、握った。その手の平が、熱く痛む。金の髪の、あの、小さな少女の華やかな笑顔が、一週間も前のことだと思えないほど、鮮明に瞼に浮かび―――
消した。
いつでも、思い出せるよう。
忘れないように、今は忘れた。
「……ごめんな」
「?」
「オレって奴はよ。ほんっとうにどうしようもないな。好きな女に二回も嫌なこと言わせちまった」
空笑いが漏れた。これじゃますます嫌われちまう、と、かすかに微笑んで、しかし一抹の怒りと決意とを滲ませて、顔を上げる。
填めた指輪は、初めて手にしたものではないかのように、しっくりと無骨な傷だらけの指に収まった。
「……あんたのいいところは、何があっても豪快に笑い飛ばせる馬鹿さ加減ね。だから、ステイシアもあんたを選んだのかもしれないわ」
「……そうだったら、良いな」
アルティオが二つの剣の柄を握る。月光に翳された剣は、鋭く、その淡い光を弾き返した。
カノンは僅かに微笑んで、背を向けようとした。その背に、アルティオはふと思いついて声をかける。
「……なあ、カノン」
「何?」
「ネリネ、って知ってるか?」
「ネリネ、って……あの、花の?」
柄を握り、その筋から視線を外さないまま、アルティオは頷く。
「ああ、そいつの……花言葉、って知らねぇか?」
「……それは…」
「………あの娘がさ、言ってたんだよ。また、あの町に来ることがあったら教えてくれるって。
街の、郊外の花壇にいっぱいに咲いててな。夕方、いっちばん綺麗な眺めだとか言って、連れてってくれてさ。
花も、葉っぱも、………可愛くてな。すごく、綺麗だったんだ。」
「……」
「もう、……聞けねぇからな」
寂しげな声が、部屋の中に響く。カノンは逡巡して―――
その迷いを見て取ったのか。
「……頼む、カノン」
奥歯を、噛み締める。
しばし、瞑目して、そして極端的に、その言葉を口にして―――
カノンは、部屋を出た。
残されたアルティオは、その言葉を確かめるように二度、口にして……
彼女の魂が込められた剣を、振りかざして、たった一言だけ、呟いた。
「……そっ、か」
ネリネ―――
彼岸花科。学名 Nerine sarniensis Nerine : ネリネ属。
別名は『ダイヤモンドリリー』反った花弁に光が当たると、まるでダイヤモンドのように美しく輝く淡い桃色の花―――。
花言葉―――『華やか』、『幸せな思い出』、『箱入り娘』……
―――『また会う日まで』
「……あ」
アルティオの部屋を出て、しばらく。暗い廊下を過ぎて、窓枠に寄りかかっていた長身の人影に、カノンは足を止める。
「レン……」
「アルティオは落ち着いたか」
「うん、大分。もう大丈夫そう」
背を離し、彼はこちらへと向き直る。表情には、やや疲労の色があった。彼のことだ、ここ数日、眠っている間も気を抜かずに、神経を研ぎ澄ませていたに違いない。
「……アルティオがあそこまで落ち込んでるの、初めて見た」
「昔から切り替えは悪くない男だ。一度、すべきことを理解すれば、後は大丈夫だろう」
知らない人間が聞けば、冷たい科白に聞こえるかもしれない。けれど事実は逆。レンはアルティオの兄弟弟子だ。良くも悪くも、お互いの性格は知っている。
「それよりも……お前の方は平気なのか?」
「へ?」
まさか水を向けられるとは思っていなかった。カノンは首を傾げて彼を見上げる。
「何で?」
「また気ばかり焦らせて、かりかりしているように見えたのでな」
「……」
押し黙った沈黙が、返答だった。
「ちょっと……気は立ってる、かな……」
「……」
「……アルティオは、さ。別に狙われてるわけでもないのよ? ただの興味本位であたしたちに付いて来ただけよ。こんな思いする理由なんて何も……何もないじゃない。……ステイシアだって」
「言うな」
「けど……ッ!」
「甲斐の無いことだ。誰のせいでもない、強いて言うならお前に付いて来た、あいつ自身の責だ。
お前が下らんことで自分を責めても、喜ぶような馬鹿はいない。
奴らがフェルス医師に与するのをお前は止められたか? ステイシアが歪んだ形で蘇るのを止められたのか?
……いずれ来る結末が、些か歪曲してしまった、ただそれだけのことだ」
「それだけ、って……ッ!」
「少しは落ち着けッ」
「解ってる……ッ! そんなの…言われなくたって解ってるの………ッ!」
吐き出した言葉から、力が抜けていく。俯いた彼女の金の頭を、数度、ゆっくりと撫でる。すん、と鼻の鳴る声がした。
「…………し」
「……?」
「………あたし、やっぱり、何処に行っても、疫病神なんだね……」
「……」
ぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟かれた言葉は、しっかりとレンの耳を打っていた。
カノンの母であるマイン=ティルザードは、偉大な狩人だった。ただそれだけのことに過敏に反応する人間は、けして少なくはなく、良くも悪くも彼女の周囲には人が集まった。当然、それは善人ばかりではない。
彼女にそんな気はないというのに。なまじ、母親に勝るとも劣らない戦のセンスを備えていたために、期待と畏怖とが付き纏う。
……狩人という任から解き放たれたはずの、今でもなお、そうだというのだろうか。
「?」
レンは、俯いたままのカノンの肩を叩く。
「ちょうど眠れずにいたところだ。夜風にでも当たる。……付き合え」
浮かんでいたのは満月だった。
気配を紛らわすのには向かないが、夜の散歩にはちょうど良い。
つい、二週間前もこうして散歩をした気がする。あのときは一人で、酷い目にあったものだけれど。
……もし、あのとき―――出歩いたりしていなければ。
いや、どうにしろ、奴らはカノンを誘い出していただろう。下らないことを考えるな。今は、考えても致し方のないことだ。
散歩と言っても、そう遠くまで行くわけにはいかない。せいぜいが、宿屋の裏手にある井戸端で涼む程度だ。
「……寒いか?」
「ううん、平気」
石積みの井戸に寄りかかりながら、カノンは答える。
「けど、何か久しぶりね」
「……? 何が、だ?」
「こうして二人だけでいるの。
だってさ、ここ最近ずっと皆いたし。二人でいるのなんか、なかなかなかったじゃない?
まあ、病院で看病はしてもらったけどさ」
「普段より騒がしさが三倍以上だ。全く、敵わん」
「ちょっと、あたし今の騒がしさの三分の一を担ってんのッ?」
「以上と言っただろう。それ以上だな」
「ちょ、それだけは納得いかないわよッ!!」
いつもの暴言に、突っかかろうとして。
振り上げた拳を止めて、小さく噴き出す。ゆっくりと、肩の力を抜く。
「……落ち着いたか?」
「……ん。ごめん、ありがと…」
井戸に寄りかかる彼女の隣に背を預けながら、レンは溜め息を吐く。剥き出しの腕にかかったマントを掴んでほんの少しだけ寄る。
「……寒いなら素直に言え」
「へへ」
外されたマントを手繰って包まる。ほんの少しの埃と、甘い汗の匂いがした。
「……カノン」
「うん」
「お前が発端で起きた起きた事件も、不幸になった人間も、俺は数え切れないほど見て来た。
それがお前の意思ではなくともな」
「……うん」
「だがそれ以上に、」
輝く満月をぼんやりと眺めながら、彼は口にする。
「……救われた人間も、町もある」
「………うん」
「それを、忘れるな」
「……うん、ごめん」
深呼吸をする。少し肌に寒い、冷たい空気が火照った身体を程好く冷してくれる。
肩にかかった群青のマントが、泣きたいほどに温かい。
大丈夫、この温もりがあればまだ立っていられる。前に進める。
「……もう平気、ありがと」
「……」
吐き出した息は安堵を含んでいた。
「レン」
「何だ?」
「……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?」
「……」
「あ、ぅ、め、迷惑とかじゃなくてさ……。でも、せっかく狩人辞めたんだし。
レンだって他にやりたいこととか、腰を落ち着けるとか……その、したいこともあるんじゃないかなー、って。
だったら、いつまでもあたしの我侭につき合わせてるわけにいかないし……
こういう状況だから、今は一緒にいた方がいいんだろうけど……」
「……」
視線を上げたレンが、何を逡巡しているのかは解らない。口を開かない彼に、些か不安を覚えて一歩踏み出そうとしたとき、
すっ、とカノンも、レンも、表情を引き締める。
闇夜を割いた白い小さな影。二人は左右に分かれて跳ぶ。
どむッ!!
張り付いた護符が井戸の端を打ち砕く。カノンはマントを放り出し、腰の剣を抜く。レンもまた、背中の剣を引き抜いた。
「くすッ……邪魔したようだね。申し訳ない」
「ッ!」
ひらひらと片手で護符を弄びながら、宿屋の屋根に腰掛ける、漆黒の影。
はっ、としてその手を凝視するが、右肩のダメージは既にないように見える。きりッ―――奥歯の噛み締める音が、耳の奥に響く。
「あんた……ッ! 一体、何のつもりなのよッ!?」
「さて、話す必要があるとも思えませんが」
暗い影が、すっ、と立ち上がる。くすくすと響く小さな笑い。
そこへ、
「シルフィードッ!」
「!」
ドンッ!!
澄んだ。
ややトーンの高い、声が不穏な空気を切り裂いた。
少年が、砕けた屋根の端から跳び退る。銀の閃光は、宿屋の表――― 一ブロックのストリートから放たれた。
聞き覚えのない声だ。
少年はそちらに視線を落す。
「あんたは……」
「……」
そこには、両手を突き出し、険しい表情で屋根の上の影を睨みつける少年が佇んでいた。
歳は十五か、もっと低いか。背はあまり高くない。淡い緑がかった銀の髪を長く伸ばし、前髪を長いバンダナで束ねている。
法師の纏うような、ゆったりとした青紫の神衣を纏い、同じ色の瞳を吊り上げていた。
「……そこの者。エイロネイアの刺客ならば大人しく投降しなさい」
「………シンシアか」
ぼそり、と影が呟く。
たったったっ、と石畳を駆ける足音。影はそちらに目をやって、
「―――?」
カノンは、彼に―――漆黒の少年の表情に、動揺が走るのを初めて見た。アルティオが月陽剣を握ったときでさえ、驚嘆しただけで、動揺など微塵も見せなかったというのに。
「……」
影の少年は、そのまま無言で跳ぶ。
後方へ。
「待てッ!」
「追わなくて良い、デルタ」
かつッ
ストリートの石畳を踏んで、彼の後ろからまた一つ人影が現れる。月光に照らされた、その人は女性だった。
意志の強そうな蒼い瞳、柔らかな、肩まで伸ばした髪は栗色。
どこかの将校を髣髴とさせる衣装だが、決定的に違うのは一般的に軍部では高位を表す白のコートと、鷲の十字をあしらった紋章は、明らかに帝国のそれとは違う。
カノンの背を、嫌な予感がすり抜ける。
放り出してしまったマントを拾い上げると、即座に脇から手が伸びてそれを攫った。
元のようにマントを身につけながら、レンは彼らを凝視する。きっと、渋い表情に感じている予感は同じものだ。
「ラーシャ様、良いのですか?」
「良いのだ。我らの任務は刺客を片付けることではない」
ラーシャ、と呼ばれた女性はこちらを振り返る。女性にしてはやや背が高い方だろう。ぴし、と背を伸ばすと歳不相応の風格が、凛とした雰囲気に加わる。
「……お怪我は……ないようだな。何より」
「……」
「失礼。カノン=ティルザード様、レン=フィティルアーグ様、両名で宜しいか?」
一瞬、返答に迷う。
横目で目配せをするが、彼自身も諮りかねているようだった。敵の敵は、味方とは限らない。
その内に、沈黙を答えと見なしたのか、彼女は鷹揚に一つ、頷き、深々と頭を下げた。
「……第三革命を起こし、今在る政団を改革されたお噂は、耳に入れている」
「―――!」
確かに―――。
かつて、カノンとレンは、死術によって暴走しかけた政団の長を、数多の死術と共に闇に葬ったことがある。その事件は、忌々しく、記憶に新しい―――。
だが、あれは革命を起こした、というよりは戦場で生き残った、と言う方が正しい。
それに―――。
―――あの件は、公式には、伏せられてるはずなのに……ッ!
「あんたたち……一体、何者?」
すると彼女は面を上げる。背筋を伸ばし、最上礼の構えを取った。傍らの少年もそれに習う。
そして。
彼女は敬礼を崩さないまま、言った。
「私はゼルゼイル北王都ゼルフィリッシュより参った、シンシア王国中将ラーシャ=フィロ=ソルト。
こちらは従者であり、本軍で少尉の任に当たるデルタ=カーマイン。
……貴方方のご高名を聞き、一つ、お願いを申し上げに参った次第であります―――」
―――さて、また何やら面倒な事態になって来た―――。
かつッ……
闇色の少年は、足を止めた。どこの町にも一つはある、光の届かない廃墟の中だと、その姿は増して闇夜に溶けて見えなくなる。
壊れた壁の隙間から漏れる光だけが、少年の視界を支えていた。
廃墟となる前は、少々、小洒落た邸宅だったのだろう。上流階級、とは言わないが、極普通の中流家庭の住まいよりは些か豪華な間取りだ。埃に塗れ、ひび割れた家具にもそえなりの装飾が見て取れる。
ふと、人の気配を感じた。
部屋―――恐らくはリビングだろう、一番大きな部屋の深奥に陣取るソファを振り返る。
瞬間。
かしゃんッ!!
唐突に飛来した脆いワイングラスが、コートの裾に叩き落とされて床に張り付いた絨毯の上に破片となって散らばる。
踏み出すとアルコールの立ち上る、赤い液体が跳ねた。
「てっめぇ、何すんだッ!」
「エノ」
駆け寄って来ようとしていたエノの大声を窘める。
払ったと同時に、手の甲に突き刺さった透明な破片を、素知らぬ振りで抜く。転がすとかしゃん、と小さな破砕音が響いた。
こっそりと溜め息をついて、グラスの飛んできた方向を見やる。
「……随分と、乱暴な出迎えだね」
そこに座っていた"彼"は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、サイドテーブルに乗せられた新しいグラスに赤い酒を注ぐ。
つかつか、と靴音を鳴らして近づいた少年は、彼の手から深緑色の瓶を奪うと、空いていたグラスに三分の一程度注ぐ。
「……機嫌が悪いようで何より」
「人のことを言えた義理か。何だ、いつもの澄ました顔はどうしたよ。シケた面しやがって」
「この顔は元からだよ」
一方的にグラスを合わせ鳴らすと、少年は一気に煽る。彼はゆっくりグラスに口をつけた。
「……で、そっちは上手くやったんだろうな?」
「上々、だね。まあ、計算外のこともいくつかあったけれど。問題外だ」
二杯目をグラスへ、なみなみと注いだところで瓶をひったくたれた。渋ったりはせずに、返還する。
今度はちびちびと、グラスの端に口を付けながら、
「けれど、あの剣は惜しかったんじゃない? 本当に放置で良かったの?」
「あんなもんはただのプロトタイプだ。データが取れりゃ、後は廃棄物さ」
「でも、二つとも彼らの手に渡ったみたいだけど?」
「それこそ性能を測るのにはちょうど良い。憂うようなことじゃねぇ」
「……君は相変わらず、だね」
再び、彼は鼻を鳴らし、グラスの中身を一気に飲み干した。
「……それで。余計な手は出してねぇだろうな?」
「勿論。出したとしても、僕の一言で転ぶような人でもないだろう?
―――さあ、約束通り、トリは任せるよ……。後は焼くなり煮るなり。契約に反しない限りに」
うっすらと。
月明かりに、彼の薄い唇が吊りあがる。
きんッ!!
澄んだ金属音が響く。咄嗟に引いた鼻先の向こうで、がしゃんッ! と派手な音を立てて瓶が割れ、赤い内の体液を撒き散らす。
破片が月光に煌いて、その中の一際大きな欠片が、細身のナイフに貫かれて床に落ちる。
床に突き刺さったナイフが、妖しげに光る。
ああ、ちょっとだけ勿体無い。
「………感謝してるぜ、あんたにはよ……。
これだけの舞台なら不足はねぇさ……。存分にやらせてもらう。くっ、くくくくく……」
堪えきれない笑いが、喉の奥から漏れる。少年はそれを眺めて頷いた。
「ええ、ご自由に」
かつんッ!
響いた靴音が、廃墟の廊下に消えていく。不満げな表情を浮かべる傍らの従者に、軽く顎で合図する。
憮然としたまま、重い足取りだったが、その後を追っていく。
少年は身を翻して、今しがた彼の腰掛けていたソファに座る。ふぅ、と陰鬱に近い溜め息を漏らした後、ふと頭上を見上げる。
朽ちた天井に、砕けた梁が引っかかっている。砕けた瓦の向こう側、ぽっかりとそこだけ穴が開いていて、切り取られた空を眺めることが出来た。
「……ああ、通りで機嫌が悪いわけだ」
天上に、真円の月を認め、少年はくすり、と笑う。
「今日は、満月だったね」
ワインの苦く、渋い風味が、口の中に広がる。ゆっくりと視線を逸らす。
「……まったく、彼も可哀相な人間だ」
少年の視線の先で。
零れた雫に突きたったナイフが、その赤い水面に移る揺らいだ満月を、深く、貫いていた……
←11へ
「…………………何故、だ―――?」
カノンは剣を横薙ぎに振り、少年が一旦引くのを待ってから、その力の無い声に顔を上げた。
がっくりと、フェルスが項垂れて、ベッドに傅くように膝をついている。茫然と、ベッドの上を、広がる赤い髪を眺め、懇願するように目を血走らせて。
しかし―――
「・・・?」
ベッドの上の婦人は、今だ固く瞳を閉じて、微動だにしていなかった。真っ白な血色も、力無く投げ出された手足も、ぴくりとも動く気配はない。
閉ざされた翡翠の瞳を、暗い闇の底から目覚める彼女を、誰よりも焦がれ、待ち続けた。
その美しい瞳が開かれるのを、今か今かと待ち続けていた。
けれど、
「何故、……何故だ、ディティ―――。何故、私の言葉に答えない―――?」
彼女が、目を覚ます気配はない。
絶望を滲ませた声が、閉鎖された空間に悲しく響く。ぶるぶると震える声と腕、ベッドの端を掴んで拝むように慟哭する。
「何故だッ!? 私はッ、間違ってなどいないッ! ディティ、何故帰って来てはくれぬッ!!?」
「……」
カノンは掲げられた剣を仰ぐ。それは相変わらず、青く、淡い光を放ちながらそこにあった。
ぎらり、と、フェルスの瞳が剣呑な狂気を叩きつけてくる。
「そうか、ディティ―――ッ、血が、血がまだ足りぬというのか……ッ!」
「ッ!!」
ガツッ!!
フェルスの携える陽の剣が、鈍く石段を叩く。起きた轟音はカーテンの無い部屋に、軽い衝撃さえ与えながら響く。
振られた重い剣が、びゅん、と風を切る。
刃を向けた先は、フェルスの声が発せられてからじっとそれを眺めていた、すぐ側に佇む、あの黒髪の少女だった。
少女はぴくり、と肩を震わせた後、半歩後退る。
年の頃は遥かに幼い、十二歳ほどの少女。それでも、フェルスは容赦なく刃を向ける。……両目は開いていても、実はもう何も見えていないのかもしれない。
「……死んでくれ、私の、私の贄と―――ッ!」
カノンは迷う。紛れも無く、少女は敵だ。しかし、何も見えていないフェルスの刃に触れさせる意味は、果たしてあるのだろうか。
フェルスは、その僅かな合間にも重心を傾けて、石床を蹴ろうと……
びしッ!!
「・・・ッ!?」
その、フェルスの、剣を握り締めていた右手から―――
大きく、裂傷が走った。
「ぅん、ぅ、な………」
何が起こったのか、理解できる人間はそこに一人としていなかった。当のフェルスでさえ、その、二の腕まで走った裂傷と、そこから噴き出す夥しい鮮血を、ただ茫然として眺めていた。
しかし、溜まった血液が重力に耐え切れず、ぼたり、と石床に斑紋を描いた、刹那。
「あ、ぁ、ぁあ、あ、ああああああああぁぁああぁあああぁぁぁあああああッ!!?」
狂った叫びを上げて、空いた手で裂傷を抑え、フェルスはその場に無様に転がった。良く見ると、左の手にも同じような裂傷が、赤い線を描きつつあった。
取り落とされた陽の剣が、がらんッ、と石床との間で重い不協和音を奏でる。
びしゃり、と暗い床に撒き散らされた血液が、だんだんと、染みを広げていく。
「う、あ、あぅ、ひぃッ……あ、あ、でぃ、でぃて………ひぃいあ、あ………」
縋るような、無数の裂傷を帯びた手が、染み一つ無いシーツを掴み、だが握る力も無くずるり、と皮をなすりつけて下に落ちる。
まるで、伸ばした手が嘲笑らわれるかのように。
その腕は短すぎた。
絶句する一同を尻目に、まず動いたのは薄炎色の少年だった。ざっ、と身を翻して、フェルスの袂へ向かう。
転がったままのフェルスの、『ヒッ』という短い悲鳴が漏れた。
そのまま垂直に拳を振り上げて―――
「待った、だよ。エノ」
「!!」
頭上から降って湧いた声に、少年が落としかけた拳を開く。不満を顔に張り付けて、天井を仰ぐ。
その視線の先に―――
いつからいたのだろうか。いや、ひょっとしたら、最初から最期まで、ずっといたのではないだろうかと錯覚さえ起こしてしまう。それほどまでに、闇の腕へ溶け込んだ白い顔の少年が、天井の梁の上に優雅に腰掛けていた。
「あ、あんた……ッ」
掠れた声で叫べば、彼はばさりっ、と黒衣を揺らして倒れこむフェルスの真正面へ着地する。
エノ、と呼ばれた少年は不服そうにしながらも、彼に一度、ぽん、と頭を叩かれて引き下がった。ふい、とそっぽを向いて唇を尖らせている。
「あぁ……あ、あ、あ……あああ………あなた、は………」
「ご苦労様でした、フェルス=ラント。貴方の役目は終わりです」
「な、なぜ……なぜ、でぃてぃは………あなたが、あなたが、もうまにあわないと、言われた、から………
患者でさえも、贄にあげた、というのに……どうして、どうして、私は、……こんなじべたに這いずって…いるのですか……
すべて、あなたが、あなたが妻を、でぃてぃを救ってくれると……」
はっ、としてカノンは、打ち捨てられた入院服を着た男の方を見る。既に事切れていた男は、四肢を曲げながら奇妙な格好で沈黙しているだけだった。
くすり。
包帯で隠された少年の口元に、嘲笑うかのような笑みが、讃えられる。
「………ええ、月陽剣は、完成していますよ。ご安心ください。
ただね……人の魂と血を吸うだけ吸った今の月陽剣は、人間にとって毒にしかならないんですよ。人には邪魔な、許容量というものがありましてね。
未完成状態ならともかくとして、そのままの状態ではとてもじゃないけれど、込められた魔力値が高すぎて人間に扱えるような代物にはなり得ないのですよ。
そんな人の身に過ぎたものを扱おうとすれば……どうなるか。
その証拠がほら、ここにあるでしょう?」
「そ、そん、な……」
もうほとんど声になれていない声で、フェルスの赤い体液の漏れる唇が空を切る。裂傷はじわじわと身体の内部へと割り込んで、劈くような苦痛を彼に与え続けていた。
「ぁ、あああ、あ、く、ぅあ、あ、あ……!」
「それともう一つ、いいことを教えてあげましょう」
黒衣の少年はにっこりと、穏やかに、美麗な顔を何よりも綺麗に映しながら、言う。
人を奈落へと叩き落す、とどめの一言を。
「貴方の奥方は、既に死んでいます。月の剣の功名で、腐敗は免れていたようですが……。
つい、二年程前に息を引き取っています。
それを、貴方が己の我侭で、強引に自分の頭の中でだけ、この世に引き止めていただけです。
そして、月陽剣は癒しの力は持っていても、死人を蘇らせられるような代物ではありません」
フェルスの両眼が、みるみるうちに開かれる。信じられないものを見る目で、目の前に佇む歳若い少年を見、そしてがくがくと震える。
がちがちと、かみ合わない歯が小刻みに音を立てた。
「う、そだ……」
「嘘じゃあ、ありません。信じるも信じないも勝手ですが。
貴方のしたことは、死人を利用して死人を蘇らせようとする―――そんな愚かで、ナンセンスなことなんですよ。
安心してください。貴方が完成させてくださった月陽剣は、丁重に研究材料としてこちらに引き取らせていただきますから」
微笑みながら言った彼の言葉は、伏して最早、指一つ満足に動かせないフェルスに、果たしてどう映ったのだろうか。
月陽剣を授けられた歓喜が見せた、幻想の天使の笑顔とは裏腹に。
絶頂から奈落へと一気に叩き落す、悪魔の微笑。
その場に佇むのは、一体何者だったのか。
フェルスは、降りかかる絶望に、何も発することなど出来ず、二、三度ぱくぱくと口を開いた後―――
がくん、と血の海へ項垂れた。
「………もういいよ、エノ」
静かな声で、彼は退屈そうにしていた少年へ命令を、もしくは許可を発する。
その意味に気がついて、カノンは慌てて剣を向ける。が―――
どしゅッ!!!
二度目の、鮮血がベッドのシーツに斑紋を描く。少年の、紫がかった瞳が堪えきれない快楽に揺れて、きひひッ! と狂笑が響く。
思わず目を背けた。
少年はまだらに飛んだ返り血を乱暴に拭い、唇に付いた分はぺろりと、まるでクリームでも舐めるかのように舐め取った。
ぼたぼたと、汚らしく朱を垂らす爪と拳。それをぶんぶん振って、雫を落す。その雫がまたシーツを、眠る婦人の頬を汚した。
「ははーッ! すっきりしたぁッ!! ったく、この間っから誰も彼も殺しちゃだめ、殺しちゃだめ、ってよぅッ!! 身体がおかしくなっちまうよ」
「そのために残しておいたんだ。またしばらくは温存だよ、エノ」
「げーっ」
事も無げに返して、少年はまるで大好物を取り下げられたかのように、頬を膨らます。
動作だけは歳相応だというのに、この不和は、違和感は一体何だというのか。
二人の間にある、赤みどろの、骨を砕かれて崩れた人の残骸だけが、その圧倒的な違和感を造り出していた。
"彼"はそれを蔑むように一瞥し、それでも足蹴にしようとするエノを言葉で窘めた。
思い出したように少女がぱたぱたと黒衣の少年に近づいて、腰元に顔を埋めた。彼はその小さな頭を軽く撫でてから、初めてこちらを振り返った。
「………多少の予定外もありまして、冷や冷やさせられましたが。まあ、及第点、というところでしょう。
さて、それでは……」
「………………許さねぇ」
「―――ッ」
背後でぽつり、と呟かれたかすかな声に、カノンは振り返る。それは警戒を崩さなかった他の面子も同じで。
黒衣の少年もまた、少々ばかりの驚きを含ませて、そちらへと視線を向ける。
ほぼ全員の視線が向けられた中で……
ずっと、項垂れたまま、唇を噛んでいたアルティオが立ち上がる。
きんッ、と握り締めた双刀が石床を叩く。
切ってしまった唇から垂れる、一筋の血をぐい、と拭って。
上げた面で、ぎろりッ、と正面から鷹揚に佇む少年を睨んだ。誰も、彼のそんな目を、これほど憎しみを込めた敵意の視線を、見たことはなかった。
偽りと知っている、無意味な恋愛ごっこに付き合ってしまうほど、大らかなでお人よしな性格だった彼だから。
だから、こんなにも、鋭い目付きの出来る人間だと、誰も知らなかったのだ。
おそらくは、本人さえも。
「お前だけは、絶対に、許さねぇッ!!」
すぅ、と何か楽しそうな玩具でも見つけたかのように、少年の瞳が細められる。
「これだけ人を利用して、苦しめてッ! ……殺しておいてッ!!
それを何だ、キュウダイテンだとッ!? てめぇ、人の命をなんだと思っていやがるんだッ!!?
人間てのはなッ!? 摘んでも生えてくるもんじゃねぇんだよッ、ススキみてぇにひょいひょい生えてきちゃ来ねぇんだよッ!! 機械のネジみてぇに壊れたら代わりのもん持ってくるわけにいかねぇんだよッ!! おふくろさんの腹を死ぬほど痛めねぇと産まれて来られねぇんだよッ!! ふざけんじゃねぇッ!!
何人死んだ、何人てめぇのせいで死んだんだッ!?
お前は人間じゃねぇ、赤い血が、あったかい血が流れてるはずがねぇッ!!
許さねぇッ、お前だけはぜッッッたいにッ!!!」
ぎんッ、と重なった二つの刃が重い音を立てる。
少年はそれを見て、薄く微笑むと軽く腕を組む。
「………そう、ですか…」
少年は一瞬だけ、ふっと、目を伏せる。
「それで、どうします? この場で僕を八つ裂きにでもしますか?」
「ああそうだな、とにかく、てめぇに思い知らせてやれねぇと気が済まねぇんだよッ! 命がどンだけ重いもんなのかッ、てやつをなッ!」
アルティオが双剣を振り被る。そして、それに合わせるように、
「ふっ、同感ね」
ばさり、とシリアが髪を掻き揚げる。
「別に私には関係のないことだけど………。貴方の行動はさすがに目に余るわね。こう見えて私は気の長い方じゃないの。
アルティオ、幼馴染の好だわ。特別に私も協力してあげても良くてよ」
「シリア……」
「……あたしも、あんたには聞かなきゃならないことがあるからね……」
以前に増して厳しく、剣呑な表情と声でルナが低く漏らす。睨みを利かせた目線は、当然のように少年を捉えていた。
レンは、表情こそ変えなかった。
だが、極短く嘆息すると、裂拍の気合を発して再度剣を引き抜いた。
彼は激情家ではない。だが、それは激しい感情として表に出ないだけで、目の前の惨状に何も感じないほど愚鈍ではないのだ。
応えてカノンもクレイソードを収め、剣鎌を振りかぶる。
「……あたしも、そのちびには借りがあるからね」
「ちびじゃねぇッ! 野郎ッ! 今度こそぶっ殺してやるッ!!」
「エノ、君は少し自粛するように。
………けれどまあ、ただで帰して貰えそうにはありませんし」
少年はちらり、とベッドの真上に掲げられた月の剣を眺める。ふっ、と息を吐き、
「いいでしょう。少し、遊んであげますよ。……シャル」
「は、はい……」
シャル、と呼ばれ、小さな少女がおずおずと何かを差し出した。ぴっ、と少年はそれを受け取って構える。
それは真っ黒な、明らかに普通のそれとは違う、一枚の護符だった。
ギッ、ぎちッ、きんッ
重く鈍い音からんだ音が、段階的に響く。辺りの空気を揺るがして、次の瞬間、少年の手に握られていたのは、一振りの、漆黒の槍だった。
装飾も何も無い、形だけを見るなら簡素なものだった。
しかし、異様なのはその槍の刃から柄から、すべてが深い黒に塗りたくられていること。
ひゅんッ、と軽く風を鳴らして少年は黒い槍を、事も無げに振る。
そして、微笑む。
「さて、せっかくの一時です。存分に、楽しみましょうか」
「―――ッ、ふざけるなぁッ!!」
吼えたアルティオの一言が、合図になった。
「おっらぁぁぁッ!!」
歪曲した爪が振り上がる。高く掲げて放たれるそれを、カノンは左側へ重心をずらし、交わす。
良くある伝承歌などなら、大振りに構えた敵の一撃を潜って、下段から止めを刺す、なんてシーンがあったりするが、そんな命取りな真似はしない。
ちっ、と右側の髪の一房から、数本の髪の毛が切り取られる。
カノンは低く石床を蹴って、少年の背後へ回った。ばさっ、と広げられた翼が起こす風に、バランスを崩しかけるが、それでも繰り出した一閃が、竜の片翼に浅い傷をつけた。
カノンは石床に片手をついて、背後から足払いをかけ―――
少年は、それを例の如く跳んで避けようとして、カノンは払おうとしていた足を引き、逆の足でそのまま少年の背を蹴り飛ばす!
「うぉッ!?」
重心は乗り切らずに、軽い蹴り飛ばしとなったが、それでも少年は数歩、たたらを踏む。
追撃をかけようとするが、屈んだ体勢からでは満足にいかない。少年は振るわれた鎌を間一髪で避けると、跳躍して間合いを取り直す。
ざっ、と床へ着地し、少年はこちらを振り返る。
「てっめぇ、何しやがるッ!?」
「自分で突っかかっといて何て言い草よッ!?
あんたの戦い方は一通り、見せてもらったからね。前と同じだと思うんじゃないわよッ!?」
きんっ、とカノンの剣鎌の刃が、ランプのかすかな灯りに煌いた。
無表情でこちらを睨む、黒髪の少女に、ルナは腰に手を当てて対峙する。
「……あんたね。前に廃墟で人のことを襲ってくれたのは」
「……貴方が、主様に、害を為そうとしたから…」
抑揚のない声で、無機質な声を放つ。ルナはちらり、と槍を構えてアルティオと対する少年へ目をやる。
「主様、ねぇ……。そうまでしてあんた、あいつに従う意味があるの?」
「それは私が決めること、です」
少女は問答無用とばかりに片手を振り上げる。ルナは瞬時に反応し、横っ飛びに身を転がした。
どんッ!!
思った通りに、背後の壁が無残に大きく抉られる。片足をついて、不敵な笑みを保ってはいるものの、額に浮く脂汗だけは隠せなかった。
唇を噛む。
残像も何もない攻撃。直感だけで避け続けるには限界がある。
決めるなら、チャンスは一度あるかないか、それで確実に仕留める他、道はない。
―――そのチャンスを、上手く見極められるか……上等じゃないの。
ルナは立ち上がり、照準にされないよう、右へ左へ立ち回りつつ、口の中で呪を唱え始めた。
すらりッ、と抜いた大剣が、隣に立てられる。
「レン、」
「言っておくが、一騎打ちさせろ、なんて馬鹿な頼みは願い下げだ」
口に出すより先に、静かな言葉が釘を差す。
「そうよぅ。相手が何者かも解らないんだから、これ以上、迷惑かけるのはよしてくれないかしら?」
「……すまん」
シリアが片手で剣を抜き、一歩下がる。シリアが得意とするのは後方からの援護だ。いつものベストポジションに付き、ちらちらと周囲を確認する。
アルティオは双剣のきっ先を少年へ向け、レンはいつでもフォロー出来るよう、大剣を下段へ構える。
少年は―――
黒い槍を脇に構え、また片手で手にするのは数枚の符。
「やれやれ、三対一とは、少々紳士的じゃあないんじゃないですか? まあ、構いませんが……」
「ほざけ、このッ……」
「アルティオ。挑発に乗るな。猪突猛進で勝てる相手じゃない」
肩を怒らせるアルティオを諫めるレン。ゆっくり、目を細めて彼は半歩引く。
アルティオの太刀が、すいっ、と一瞬だけ上下する。それを合図として正眼に繰り出される、二本の太刀。
ぎんッ!!
アルティオの目が見開かれる。
アルティオが両腕の力をかけて、食い合わせている二振りの剣を、少年は袖から覗く包帯だらけの弱々しい腕と、手にした細槍一本だけで受け止めていた。
「もっと、力なんてないと思ってました?」
「!!」
ひゅん、と少年の左手から護符が飛ぶ。それはアルティオの背後から追随しようとしていたレンの眼前で、爆縮する。
「ッ!」
咄嗟に目を庇うレンの足が止まる。その足元に、もう一枚の護符が飛び、床に叩きつけられる直前で四散して、氷塊へ姿を変える。
「く……ッ!」
「レンッ!」
「余所見してる場合ですか」
一度、ちらりと、後ろを振り返ってしまったアルティオの目の前に、白い紙が突き出される。
この距離で、術など使えば自分も巻き添えを食らう。そんなことは解っていたはずなのに、その威力を見せつけられていたアルティオは、思わず食い合わせた剣を引いてしまう!
くすり、と笑って少年は槍と符を引き、
ひゅッ!
「ぅおッ!?」
伸び上がるような垂直蹴りが、アルティオの鼻先を掠めていった。
バランスを崩した彼へ、細身の槍が突き立てられようとしたとき、
「我放つ、貫くは勇なる炎華の矢、放てフレアアロー!」
どんッ!!
威力の抑えられた二本の炎の矢が、一本は凍てついたレンの足元に、一本はアルティオのすぐ脇を狙って放たれた。
解けると同時に氷から足を引いたレン。少年はアルティオに向かって放とうとしていた刃で、その炎を払いのける。
すっ、と背後に跳んで少年は間合いを取った。
少年は、くすり、と笑いながら槍を一振りし、中段に構える。
「ほらほら、その程度? 君の悲しみは、君の怒りは三人かかっても槍一本折れない程度のものですか?」
「くそ……ッ!」
ぎりっ―――奥歯を噛み締めて剣を構え直す。
少年の表情が、一欠片も変わっていない。まるで片手で人を相手にするような。
それが余計に、アルティオの逆鱗に触れる。
きんッ!
下段から入った一振りを、少年は槍で難なく弾く。続けて中段からもう一つの、逆手の刃が突きつけられる。
少年はひょい、とその場に屈み込む。弾いた右手の刃が再び繰り出されるより先に、槍を反転させて長柄の腹で、アルティオのわき腹を打ち付ける。
アルティオがよろめくのを確認してそのまま逆に、槍の刃を背後に振り上げる。その刃の煌きに、背後から迫っていた大剣の腹が受け止められた。
当然、そのままでは体勢が悪すぎる。
少年は符を、引いたアルティオへ放つと、刃を外して斬りかかって来たレンに迎撃体勢を取った。
アルティオは放たれた護符から身を引く。それはぺたり、と床へ張り付いて、
「……私の手にその力を捧げよ。私は汝に与える―――」
少年の静かな詠唱が響く。
「即ち―――『獣化』[ゾアントロピー]」
ぎちッ!
軋んだ音を立てて、護符が消える。その代わりに床から這い上がって来たのは、一つの異形だった。
背丈は子供ほど。肉体は灰色、顔は無く、伸びた六本の手足には四本の指しかない。それが触れた石の床は不自然に黒ずんでボロボロと崩れていった。
「な、こいつぁ……ッ」
「引いて、アルティオ! 剣が解かされるわよッ!」
詠唱を終えたシリアが声を飛ばす。
「我求む、地より誘うは永久の氷河、唸れ、アイシクルコーラムッ!!」
ぴきッ、ぴきぴきぴきッ!
床に手をついたシリアの手から、氷の蔦が床を走る。そして、
…ぎどんッ!!!
「うぉッ!」
「!」
唐突に部屋の中に張り巡らされた無数の、細い氷柱にアルティオは慌てて足を引く。
氷が異形を包み込み、動きを止まらせる。アルティオは、はっ、としてその奇異な氷像に剣を叩きつけた。
脆い像は、呆気なく崩れて、紙から生まれた異形はあっさりと霧散した。
背丈は腰ほどの、短く脆い、細い氷の槍。だが、それでもたたらを踏ませる威力はあったらしい。少年がわずかによろけ、レンの剣が氷柱を貫いて肩口を捕らえる。
「……ッ!」
少年は側の氷柱を折って、その眼前に投げつけた。咄嗟に剣でそれを払ったレンの太刀は遅れを生んで、その僅かな間に少年は体勢を立て直す。
―――くそ、埒があかねぇッ!
心の中で悪態を吐きながら、加勢しようと地を蹴る。
瞬間、少年がこちらを振り向いた。
「ッ!」
たんッ、と少年がその場を跳ぶ。レンの刃は靡いた黒衣を僅かに裂いただけ。
槍を振りかぶる少年。アルティオは防御のために、剣を正眼に構えて繰り出す。
しかし、それが間違いだった。リーチは槍の方に軍配が上がる。そして、少年が狙っていたのはアルティオの心臓ではなく、
ぎどんッ!!
「なッ!?」
少年は直前で槍を引いて腰を落とすと、下から穿つように、交差されたアルティオの剣に一打を加えたのだった。
重い音が響く。
アルティオの、左に構えた剣の半分以上が切り落とされて、床にきんっ、と転がった。
「ちぃッ!」
アルティオは残った右の剣を振るう。だが、それは少年の、肩を浅く抉っただけだった。
少年は二人の男と距離を取るように引いた。
アルティオは唇を噛む。噛んで、構えを直す。
埒が明かない。このままでは不利なことは明白。おそらく、敵の槍の腕はレンよりやや劣る程度。だが、彼にはあの厄介な術がある。
先ほどの異形にしても、大した相手ではなかったが、足止めに使われては二人で畳み掛けることも不可能になる。
何か、
何か、意表をつかねばならないのだ。
―――くそッ、くそくそッ、どうすれば……ッ!
「おぅッ!?」
シリアの生んだ氷柱は、他の戦場にも影響を与えていた。唐突に足元に現れた氷の槍に、エノと呼ばれる少年はつんのめる。かすかにシリアの詠唱を耳にしていたカノンは、的確に槍を避けつつ、一気にその少年との距離を詰めた。
「ちッ!」
少年は翼を盾にするように羽ばたいた。
起こった風にカノンの髪が靡く。
斬ッ!!
「く………ぅッ!!」
伸ばしたカノンの刃が、少年の右の片翼を大きく袈裟懸けに切り裂いた。厚みの在る翼は落すことは出来なかったが、それでも大きく付いた傷からは、赤い体液が滲み出て、だらだらと床に染みを作った。
「……ぅ、う、ちくしょぉッ!」
「!」
びゅん、と風を切って少年の爪が煌く。片翼に傷が付いても、少年の速度が落ちなかったことに驚きながら、カノンは屈んでそれを交わす。
「おりゃあッ!!」
「―――ッ!」
もう片方の爪が、下段からカノンの頭を狙う。咄嗟に左腕を犠牲にしてそれを防ぐ。
どしゅッ!!
「つぅ……ッ!」
鋭利な爪先が、カノンの左の肩口をやや大きく抉る。古傷が開くかもしれない。
その卒倒しそうな痛みに耐えながら、カノンは少年の膝へ鋭い蹴りを放つ。
少年は飛ぼうとして、
「―――!?」
バランスを崩して床に手を付いた。片翼の機能を失ったが故の代償だ。
カノンはまともにバランスを崩した少年へ、刃を振るう。しかし、少年は腕の力だけで前方に転がってそれを何とか交わした。
「でんぐり返しで遊んでるつもりッ?」
「うっせぇッ! まだ負けたわけじゃねぇッ!!」
「我望む、切り裂くは烈風の残歌、唸れフォーンバラッドッ!!」
圧縮された無数の空気の弾が、黒い少女を襲う。だが、それは少女に届く手前で霧散した。
「ッ!」
「無駄、です」
少女が左手を鳴らす。ルナはすぐさま、その場を跳んだ。
どんッ!!
「―――つぅッ!」
爆発そのものは交わせたが、爆風に軽いルナの身体は呆気なく転がされた。
少女の目の前に、数本の、目に見えない槍が浮かぶ。
―――早いッ!
ずしゅッ!!
「ッあ!!」
そのうちの一本が、慌ててさらに転がったルナの腕を掠めた。抉られて出来た裂傷を、抑えながら立ち上がる。
……呪文詠唱がやけに早い。いや、早すぎる。そもそもそんなものをしているのかどうかさえ、怪しい。ルナはまだ一度も、少女が会話以外で唇を動かしたところを見ていない。
「……まだ、やるですか」
「何、降参しろ、って言ってんの?」
「……主様は、無関係な方はなるべく傷つけたくない、と仰せです」
「よく言うわ、これだけ無関係の人間を利用して置いてね。恥を知れってのよッ!」
少女はぴくり、と反応して肩を震わせた。そしてぶるぶると肩を怒らせる。
「―――?」
「……あの方は、………主様はそんな人じゃないッッッッッ!!!」
「!」
少女の激昂と共に、彼女とルナとの合間で爆風が吹き荒れた。溜まらず壁に叩きつけられるルナ。受身は取ったが肩と背中がぎしぎしと軋む。
「つ、ぅ……」
「私はあの方の手足でいい。手足で在り続けるためなら、何人だって殺すッ! 何人だってッ!」
少女が片手を翳す。
シリアが氷を生んだのは、このときだった。
「!」
床から生えた氷柱に、少女はたじろいで身を引いた。その僅かの間にルナは体勢を立て直す。
「くッ!」
新たに呪を唱えるルナに、少女は再び片手を振りかざす。放たれた不可視の一撃を、しかし、ルナは難なく避けた。
「!?」
その場に立ち止まり、印を描くルナへ、少女はもう一度片手を上げる。
だが、ルナは二度、それを的確に、ぎりぎりの間合いで交わす。爆呪が砕いたのは脆い氷の柱だけ。
三度、それを放ってやっと気が付いた。
「こ、これは……氷の、」
ルナは、傍らに立った氷柱が小さく軋む音に気が付く。身体を軋ませた氷柱の数で、爆呪の範囲を悟っていた。
もともとシリアの氷柱は、こちらのフォローのために生み出されたものだったのだ。
「こんな、ものォッ!!」
少女が両の手を振り被る。びしッ、と少女を取り囲むすべての氷柱に白いひびが入った。だが、それが砕け散るより前に、
「!」
少女の周囲に、無数の青い光が滞空する。
「我求む、途往くは銀の閃光、放たれるは抗魔の刹那、汝、無限より来たりて裁きを今、ここに……ッ」
ルナの甲高い声が飛んだ。滞空する光はそのまま孤を描く。
「従え、シルフィード・レインッ!!」
「ッ!!」
孤を描く銀の輝きが、軌道を変えて少女を襲う。声を放ち終えたルナの眼前に、再び違う魔道の陣が浮き上がった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
降り注ぐ銀の雨に加勢するように、陣の中央から赤い導線が空間を貫いた。
どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんッ!!!
轟音が、丈夫な石の部屋を揺るがす。白煙と、赤光とが視界を塞いで、少女の姿をすっぽりと覆い隠した。
ルナは構えたままその場を動かない。
やがて、ゆっくりと白煙が晴れて、
「―――ッ!」
戦慄に、ルナは奥歯をぎりッ、と鳴らす。
少女は正眼に両の手を構えたまま、その場にしっかりと足をついていた。黒いゴシック服はところどころ焼け焦げているものの、その下の白い肌には傷一つない。
べったりとした汗が、ルナの背中を覆う。
防御魔道を唱える暇はなかったはずだ。仮に唱えていたとしても、それを破るために大技の印を二つ、切って置いたというのに―――ッ!
「く……ッ!」
少女の手が振り上がる。一気に魔力の消耗した身体が、鉛のように足を引っ張るが、休んでいる暇などない。
ルナはその場を跳び退ると、新たに陣を指先で描き始めた。
ぎぎぃんッ!
細身の槍と、大剣とがかち合う音は思いの他、鈍いものだった。
一瞬散った火花を嘲笑いながら、少年は深遠の闇色の瞳を歪ませる。
「貴様、何のつもりでこんな真似をする?」
「……さてね。おおよそ、まだ君には知る必要のないことだ」
「何……」
珍しく、レンの言葉に激昂が混じる。
がきんッ!
刃が外されて、長い槍の切っ先が、レンのわき腹を狙う。捻り様、繰り出した刃は僅かに距離が足りず、少年はあっさり引いた。
そこへ、
「はぁぁぁぁぁッ!!」
気合を込めたアルティオの刃を、紙一重で交わすと、少年は屈んだまま彼の手首を蹴り上げた。
苦痛に顔を歪ませるアルティオ。その彼の腕へ、少年はさらに槍の腹を食い込ませる。
「―――っぁ」
「アルティオ!」
彼が掴んでいるのは、折れた半端な長さの剣が一本だけ。
勝負にならないと思ったのか、少年はくすり、と笑いを漏らして身体を反転させる。
その動作が、一瞬だけ、止まった。
「……?」
不意に虚空を見上げ、眉根を寄せる。
「……それは、どういう…?」
呟いた声は、誰に向けてのものだったのか。それを判断出来る人間は、この場にはいなかった。
しかし、
「主様ッ!!」
「!」
少年は少女の声で我に返った。
その、最大の隙の間に、アルティオは剣を拾い上げる。
フェルスの放り出した、あの、呪われた赤い剣を―――ッ!
「……ッ!」
初めて少年の顔に驚嘆が浮かぶ。動きが止まる。そして、
ずしゅッ!!!
「・・・ぁ、く、ぁぁああああぁああぁあああぁああぁぁああぁああぁぁああああッ!!!」
……赤く染められた呪いの刃は、まともに、少年の右肩を貫いていた。
←10へ
カノンは剣を横薙ぎに振り、少年が一旦引くのを待ってから、その力の無い声に顔を上げた。
がっくりと、フェルスが項垂れて、ベッドに傅くように膝をついている。茫然と、ベッドの上を、広がる赤い髪を眺め、懇願するように目を血走らせて。
しかし―――
「・・・?」
ベッドの上の婦人は、今だ固く瞳を閉じて、微動だにしていなかった。真っ白な血色も、力無く投げ出された手足も、ぴくりとも動く気配はない。
閉ざされた翡翠の瞳を、暗い闇の底から目覚める彼女を、誰よりも焦がれ、待ち続けた。
その美しい瞳が開かれるのを、今か今かと待ち続けていた。
けれど、
「何故、……何故だ、ディティ―――。何故、私の言葉に答えない―――?」
彼女が、目を覚ます気配はない。
絶望を滲ませた声が、閉鎖された空間に悲しく響く。ぶるぶると震える声と腕、ベッドの端を掴んで拝むように慟哭する。
「何故だッ!? 私はッ、間違ってなどいないッ! ディティ、何故帰って来てはくれぬッ!!?」
「……」
カノンは掲げられた剣を仰ぐ。それは相変わらず、青く、淡い光を放ちながらそこにあった。
ぎらり、と、フェルスの瞳が剣呑な狂気を叩きつけてくる。
「そうか、ディティ―――ッ、血が、血がまだ足りぬというのか……ッ!」
「ッ!!」
ガツッ!!
フェルスの携える陽の剣が、鈍く石段を叩く。起きた轟音はカーテンの無い部屋に、軽い衝撃さえ与えながら響く。
振られた重い剣が、びゅん、と風を切る。
刃を向けた先は、フェルスの声が発せられてからじっとそれを眺めていた、すぐ側に佇む、あの黒髪の少女だった。
少女はぴくり、と肩を震わせた後、半歩後退る。
年の頃は遥かに幼い、十二歳ほどの少女。それでも、フェルスは容赦なく刃を向ける。……両目は開いていても、実はもう何も見えていないのかもしれない。
「……死んでくれ、私の、私の贄と―――ッ!」
カノンは迷う。紛れも無く、少女は敵だ。しかし、何も見えていないフェルスの刃に触れさせる意味は、果たしてあるのだろうか。
フェルスは、その僅かな合間にも重心を傾けて、石床を蹴ろうと……
びしッ!!
「・・・ッ!?」
その、フェルスの、剣を握り締めていた右手から―――
大きく、裂傷が走った。
「ぅん、ぅ、な………」
何が起こったのか、理解できる人間はそこに一人としていなかった。当のフェルスでさえ、その、二の腕まで走った裂傷と、そこから噴き出す夥しい鮮血を、ただ茫然として眺めていた。
しかし、溜まった血液が重力に耐え切れず、ぼたり、と石床に斑紋を描いた、刹那。
「あ、ぁ、ぁあ、あ、ああああああああぁぁああぁあああぁぁぁあああああッ!!?」
狂った叫びを上げて、空いた手で裂傷を抑え、フェルスはその場に無様に転がった。良く見ると、左の手にも同じような裂傷が、赤い線を描きつつあった。
取り落とされた陽の剣が、がらんッ、と石床との間で重い不協和音を奏でる。
びしゃり、と暗い床に撒き散らされた血液が、だんだんと、染みを広げていく。
「う、あ、あぅ、ひぃッ……あ、あ、でぃ、でぃて………ひぃいあ、あ………」
縋るような、無数の裂傷を帯びた手が、染み一つ無いシーツを掴み、だが握る力も無くずるり、と皮をなすりつけて下に落ちる。
まるで、伸ばした手が嘲笑らわれるかのように。
その腕は短すぎた。
絶句する一同を尻目に、まず動いたのは薄炎色の少年だった。ざっ、と身を翻して、フェルスの袂へ向かう。
転がったままのフェルスの、『ヒッ』という短い悲鳴が漏れた。
そのまま垂直に拳を振り上げて―――
「待った、だよ。エノ」
「!!」
頭上から降って湧いた声に、少年が落としかけた拳を開く。不満を顔に張り付けて、天井を仰ぐ。
その視線の先に―――
いつからいたのだろうか。いや、ひょっとしたら、最初から最期まで、ずっといたのではないだろうかと錯覚さえ起こしてしまう。それほどまでに、闇の腕へ溶け込んだ白い顔の少年が、天井の梁の上に優雅に腰掛けていた。
「あ、あんた……ッ」
掠れた声で叫べば、彼はばさりっ、と黒衣を揺らして倒れこむフェルスの真正面へ着地する。
エノ、と呼ばれた少年は不服そうにしながらも、彼に一度、ぽん、と頭を叩かれて引き下がった。ふい、とそっぽを向いて唇を尖らせている。
「あぁ……あ、あ、あ……あああ………あなた、は………」
「ご苦労様でした、フェルス=ラント。貴方の役目は終わりです」
「な、なぜ……なぜ、でぃてぃは………あなたが、あなたが、もうまにあわないと、言われた、から………
患者でさえも、贄にあげた、というのに……どうして、どうして、私は、……こんなじべたに這いずって…いるのですか……
すべて、あなたが、あなたが妻を、でぃてぃを救ってくれると……」
はっ、としてカノンは、打ち捨てられた入院服を着た男の方を見る。既に事切れていた男は、四肢を曲げながら奇妙な格好で沈黙しているだけだった。
くすり。
包帯で隠された少年の口元に、嘲笑うかのような笑みが、讃えられる。
「………ええ、月陽剣は、完成していますよ。ご安心ください。
ただね……人の魂と血を吸うだけ吸った今の月陽剣は、人間にとって毒にしかならないんですよ。人には邪魔な、許容量というものがありましてね。
未完成状態ならともかくとして、そのままの状態ではとてもじゃないけれど、込められた魔力値が高すぎて人間に扱えるような代物にはなり得ないのですよ。
そんな人の身に過ぎたものを扱おうとすれば……どうなるか。
その証拠がほら、ここにあるでしょう?」
「そ、そん、な……」
もうほとんど声になれていない声で、フェルスの赤い体液の漏れる唇が空を切る。裂傷はじわじわと身体の内部へと割り込んで、劈くような苦痛を彼に与え続けていた。
「ぁ、あああ、あ、く、ぅあ、あ、あ……!」
「それともう一つ、いいことを教えてあげましょう」
黒衣の少年はにっこりと、穏やかに、美麗な顔を何よりも綺麗に映しながら、言う。
人を奈落へと叩き落す、とどめの一言を。
「貴方の奥方は、既に死んでいます。月の剣の功名で、腐敗は免れていたようですが……。
つい、二年程前に息を引き取っています。
それを、貴方が己の我侭で、強引に自分の頭の中でだけ、この世に引き止めていただけです。
そして、月陽剣は癒しの力は持っていても、死人を蘇らせられるような代物ではありません」
フェルスの両眼が、みるみるうちに開かれる。信じられないものを見る目で、目の前に佇む歳若い少年を見、そしてがくがくと震える。
がちがちと、かみ合わない歯が小刻みに音を立てた。
「う、そだ……」
「嘘じゃあ、ありません。信じるも信じないも勝手ですが。
貴方のしたことは、死人を利用して死人を蘇らせようとする―――そんな愚かで、ナンセンスなことなんですよ。
安心してください。貴方が完成させてくださった月陽剣は、丁重に研究材料としてこちらに引き取らせていただきますから」
微笑みながら言った彼の言葉は、伏して最早、指一つ満足に動かせないフェルスに、果たしてどう映ったのだろうか。
月陽剣を授けられた歓喜が見せた、幻想の天使の笑顔とは裏腹に。
絶頂から奈落へと一気に叩き落す、悪魔の微笑。
その場に佇むのは、一体何者だったのか。
フェルスは、降りかかる絶望に、何も発することなど出来ず、二、三度ぱくぱくと口を開いた後―――
がくん、と血の海へ項垂れた。
「………もういいよ、エノ」
静かな声で、彼は退屈そうにしていた少年へ命令を、もしくは許可を発する。
その意味に気がついて、カノンは慌てて剣を向ける。が―――
どしゅッ!!!
二度目の、鮮血がベッドのシーツに斑紋を描く。少年の、紫がかった瞳が堪えきれない快楽に揺れて、きひひッ! と狂笑が響く。
思わず目を背けた。
少年はまだらに飛んだ返り血を乱暴に拭い、唇に付いた分はぺろりと、まるでクリームでも舐めるかのように舐め取った。
ぼたぼたと、汚らしく朱を垂らす爪と拳。それをぶんぶん振って、雫を落す。その雫がまたシーツを、眠る婦人の頬を汚した。
「ははーッ! すっきりしたぁッ!! ったく、この間っから誰も彼も殺しちゃだめ、殺しちゃだめ、ってよぅッ!! 身体がおかしくなっちまうよ」
「そのために残しておいたんだ。またしばらくは温存だよ、エノ」
「げーっ」
事も無げに返して、少年はまるで大好物を取り下げられたかのように、頬を膨らます。
動作だけは歳相応だというのに、この不和は、違和感は一体何だというのか。
二人の間にある、赤みどろの、骨を砕かれて崩れた人の残骸だけが、その圧倒的な違和感を造り出していた。
"彼"はそれを蔑むように一瞥し、それでも足蹴にしようとするエノを言葉で窘めた。
思い出したように少女がぱたぱたと黒衣の少年に近づいて、腰元に顔を埋めた。彼はその小さな頭を軽く撫でてから、初めてこちらを振り返った。
「………多少の予定外もありまして、冷や冷やさせられましたが。まあ、及第点、というところでしょう。
さて、それでは……」
「………………許さねぇ」
「―――ッ」
背後でぽつり、と呟かれたかすかな声に、カノンは振り返る。それは警戒を崩さなかった他の面子も同じで。
黒衣の少年もまた、少々ばかりの驚きを含ませて、そちらへと視線を向ける。
ほぼ全員の視線が向けられた中で……
ずっと、項垂れたまま、唇を噛んでいたアルティオが立ち上がる。
きんッ、と握り締めた双刀が石床を叩く。
切ってしまった唇から垂れる、一筋の血をぐい、と拭って。
上げた面で、ぎろりッ、と正面から鷹揚に佇む少年を睨んだ。誰も、彼のそんな目を、これほど憎しみを込めた敵意の視線を、見たことはなかった。
偽りと知っている、無意味な恋愛ごっこに付き合ってしまうほど、大らかなでお人よしな性格だった彼だから。
だから、こんなにも、鋭い目付きの出来る人間だと、誰も知らなかったのだ。
おそらくは、本人さえも。
「お前だけは、絶対に、許さねぇッ!!」
すぅ、と何か楽しそうな玩具でも見つけたかのように、少年の瞳が細められる。
「これだけ人を利用して、苦しめてッ! ……殺しておいてッ!!
それを何だ、キュウダイテンだとッ!? てめぇ、人の命をなんだと思っていやがるんだッ!!?
人間てのはなッ!? 摘んでも生えてくるもんじゃねぇんだよッ、ススキみてぇにひょいひょい生えてきちゃ来ねぇんだよッ!! 機械のネジみてぇに壊れたら代わりのもん持ってくるわけにいかねぇんだよッ!! おふくろさんの腹を死ぬほど痛めねぇと産まれて来られねぇんだよッ!! ふざけんじゃねぇッ!!
何人死んだ、何人てめぇのせいで死んだんだッ!?
お前は人間じゃねぇ、赤い血が、あったかい血が流れてるはずがねぇッ!!
許さねぇッ、お前だけはぜッッッたいにッ!!!」
ぎんッ、と重なった二つの刃が重い音を立てる。
少年はそれを見て、薄く微笑むと軽く腕を組む。
「………そう、ですか…」
少年は一瞬だけ、ふっと、目を伏せる。
「それで、どうします? この場で僕を八つ裂きにでもしますか?」
「ああそうだな、とにかく、てめぇに思い知らせてやれねぇと気が済まねぇんだよッ! 命がどンだけ重いもんなのかッ、てやつをなッ!」
アルティオが双剣を振り被る。そして、それに合わせるように、
「ふっ、同感ね」
ばさり、とシリアが髪を掻き揚げる。
「別に私には関係のないことだけど………。貴方の行動はさすがに目に余るわね。こう見えて私は気の長い方じゃないの。
アルティオ、幼馴染の好だわ。特別に私も協力してあげても良くてよ」
「シリア……」
「……あたしも、あんたには聞かなきゃならないことがあるからね……」
以前に増して厳しく、剣呑な表情と声でルナが低く漏らす。睨みを利かせた目線は、当然のように少年を捉えていた。
レンは、表情こそ変えなかった。
だが、極短く嘆息すると、裂拍の気合を発して再度剣を引き抜いた。
彼は激情家ではない。だが、それは激しい感情として表に出ないだけで、目の前の惨状に何も感じないほど愚鈍ではないのだ。
応えてカノンもクレイソードを収め、剣鎌を振りかぶる。
「……あたしも、そのちびには借りがあるからね」
「ちびじゃねぇッ! 野郎ッ! 今度こそぶっ殺してやるッ!!」
「エノ、君は少し自粛するように。
………けれどまあ、ただで帰して貰えそうにはありませんし」
少年はちらり、とベッドの真上に掲げられた月の剣を眺める。ふっ、と息を吐き、
「いいでしょう。少し、遊んであげますよ。……シャル」
「は、はい……」
シャル、と呼ばれ、小さな少女がおずおずと何かを差し出した。ぴっ、と少年はそれを受け取って構える。
それは真っ黒な、明らかに普通のそれとは違う、一枚の護符だった。
ギッ、ぎちッ、きんッ
重く鈍い音からんだ音が、段階的に響く。辺りの空気を揺るがして、次の瞬間、少年の手に握られていたのは、一振りの、漆黒の槍だった。
装飾も何も無い、形だけを見るなら簡素なものだった。
しかし、異様なのはその槍の刃から柄から、すべてが深い黒に塗りたくられていること。
ひゅんッ、と軽く風を鳴らして少年は黒い槍を、事も無げに振る。
そして、微笑む。
「さて、せっかくの一時です。存分に、楽しみましょうか」
「―――ッ、ふざけるなぁッ!!」
吼えたアルティオの一言が、合図になった。
「おっらぁぁぁッ!!」
歪曲した爪が振り上がる。高く掲げて放たれるそれを、カノンは左側へ重心をずらし、交わす。
良くある伝承歌などなら、大振りに構えた敵の一撃を潜って、下段から止めを刺す、なんてシーンがあったりするが、そんな命取りな真似はしない。
ちっ、と右側の髪の一房から、数本の髪の毛が切り取られる。
カノンは低く石床を蹴って、少年の背後へ回った。ばさっ、と広げられた翼が起こす風に、バランスを崩しかけるが、それでも繰り出した一閃が、竜の片翼に浅い傷をつけた。
カノンは石床に片手をついて、背後から足払いをかけ―――
少年は、それを例の如く跳んで避けようとして、カノンは払おうとしていた足を引き、逆の足でそのまま少年の背を蹴り飛ばす!
「うぉッ!?」
重心は乗り切らずに、軽い蹴り飛ばしとなったが、それでも少年は数歩、たたらを踏む。
追撃をかけようとするが、屈んだ体勢からでは満足にいかない。少年は振るわれた鎌を間一髪で避けると、跳躍して間合いを取り直す。
ざっ、と床へ着地し、少年はこちらを振り返る。
「てっめぇ、何しやがるッ!?」
「自分で突っかかっといて何て言い草よッ!?
あんたの戦い方は一通り、見せてもらったからね。前と同じだと思うんじゃないわよッ!?」
きんっ、とカノンの剣鎌の刃が、ランプのかすかな灯りに煌いた。
無表情でこちらを睨む、黒髪の少女に、ルナは腰に手を当てて対峙する。
「……あんたね。前に廃墟で人のことを襲ってくれたのは」
「……貴方が、主様に、害を為そうとしたから…」
抑揚のない声で、無機質な声を放つ。ルナはちらり、と槍を構えてアルティオと対する少年へ目をやる。
「主様、ねぇ……。そうまでしてあんた、あいつに従う意味があるの?」
「それは私が決めること、です」
少女は問答無用とばかりに片手を振り上げる。ルナは瞬時に反応し、横っ飛びに身を転がした。
どんッ!!
思った通りに、背後の壁が無残に大きく抉られる。片足をついて、不敵な笑みを保ってはいるものの、額に浮く脂汗だけは隠せなかった。
唇を噛む。
残像も何もない攻撃。直感だけで避け続けるには限界がある。
決めるなら、チャンスは一度あるかないか、それで確実に仕留める他、道はない。
―――そのチャンスを、上手く見極められるか……上等じゃないの。
ルナは立ち上がり、照準にされないよう、右へ左へ立ち回りつつ、口の中で呪を唱え始めた。
すらりッ、と抜いた大剣が、隣に立てられる。
「レン、」
「言っておくが、一騎打ちさせろ、なんて馬鹿な頼みは願い下げだ」
口に出すより先に、静かな言葉が釘を差す。
「そうよぅ。相手が何者かも解らないんだから、これ以上、迷惑かけるのはよしてくれないかしら?」
「……すまん」
シリアが片手で剣を抜き、一歩下がる。シリアが得意とするのは後方からの援護だ。いつものベストポジションに付き、ちらちらと周囲を確認する。
アルティオは双剣のきっ先を少年へ向け、レンはいつでもフォロー出来るよう、大剣を下段へ構える。
少年は―――
黒い槍を脇に構え、また片手で手にするのは数枚の符。
「やれやれ、三対一とは、少々紳士的じゃあないんじゃないですか? まあ、構いませんが……」
「ほざけ、このッ……」
「アルティオ。挑発に乗るな。猪突猛進で勝てる相手じゃない」
肩を怒らせるアルティオを諫めるレン。ゆっくり、目を細めて彼は半歩引く。
アルティオの太刀が、すいっ、と一瞬だけ上下する。それを合図として正眼に繰り出される、二本の太刀。
ぎんッ!!
アルティオの目が見開かれる。
アルティオが両腕の力をかけて、食い合わせている二振りの剣を、少年は袖から覗く包帯だらけの弱々しい腕と、手にした細槍一本だけで受け止めていた。
「もっと、力なんてないと思ってました?」
「!!」
ひゅん、と少年の左手から護符が飛ぶ。それはアルティオの背後から追随しようとしていたレンの眼前で、爆縮する。
「ッ!」
咄嗟に目を庇うレンの足が止まる。その足元に、もう一枚の護符が飛び、床に叩きつけられる直前で四散して、氷塊へ姿を変える。
「く……ッ!」
「レンッ!」
「余所見してる場合ですか」
一度、ちらりと、後ろを振り返ってしまったアルティオの目の前に、白い紙が突き出される。
この距離で、術など使えば自分も巻き添えを食らう。そんなことは解っていたはずなのに、その威力を見せつけられていたアルティオは、思わず食い合わせた剣を引いてしまう!
くすり、と笑って少年は槍と符を引き、
ひゅッ!
「ぅおッ!?」
伸び上がるような垂直蹴りが、アルティオの鼻先を掠めていった。
バランスを崩した彼へ、細身の槍が突き立てられようとしたとき、
「我放つ、貫くは勇なる炎華の矢、放てフレアアロー!」
どんッ!!
威力の抑えられた二本の炎の矢が、一本は凍てついたレンの足元に、一本はアルティオのすぐ脇を狙って放たれた。
解けると同時に氷から足を引いたレン。少年はアルティオに向かって放とうとしていた刃で、その炎を払いのける。
すっ、と背後に跳んで少年は間合いを取った。
少年は、くすり、と笑いながら槍を一振りし、中段に構える。
「ほらほら、その程度? 君の悲しみは、君の怒りは三人かかっても槍一本折れない程度のものですか?」
「くそ……ッ!」
ぎりっ―――奥歯を噛み締めて剣を構え直す。
少年の表情が、一欠片も変わっていない。まるで片手で人を相手にするような。
それが余計に、アルティオの逆鱗に触れる。
きんッ!
下段から入った一振りを、少年は槍で難なく弾く。続けて中段からもう一つの、逆手の刃が突きつけられる。
少年はひょい、とその場に屈み込む。弾いた右手の刃が再び繰り出されるより先に、槍を反転させて長柄の腹で、アルティオのわき腹を打ち付ける。
アルティオがよろめくのを確認してそのまま逆に、槍の刃を背後に振り上げる。その刃の煌きに、背後から迫っていた大剣の腹が受け止められた。
当然、そのままでは体勢が悪すぎる。
少年は符を、引いたアルティオへ放つと、刃を外して斬りかかって来たレンに迎撃体勢を取った。
アルティオは放たれた護符から身を引く。それはぺたり、と床へ張り付いて、
「……私の手にその力を捧げよ。私は汝に与える―――」
少年の静かな詠唱が響く。
「即ち―――『獣化』[ゾアントロピー]」
ぎちッ!
軋んだ音を立てて、護符が消える。その代わりに床から這い上がって来たのは、一つの異形だった。
背丈は子供ほど。肉体は灰色、顔は無く、伸びた六本の手足には四本の指しかない。それが触れた石の床は不自然に黒ずんでボロボロと崩れていった。
「な、こいつぁ……ッ」
「引いて、アルティオ! 剣が解かされるわよッ!」
詠唱を終えたシリアが声を飛ばす。
「我求む、地より誘うは永久の氷河、唸れ、アイシクルコーラムッ!!」
ぴきッ、ぴきぴきぴきッ!
床に手をついたシリアの手から、氷の蔦が床を走る。そして、
…ぎどんッ!!!
「うぉッ!」
「!」
唐突に部屋の中に張り巡らされた無数の、細い氷柱にアルティオは慌てて足を引く。
氷が異形を包み込み、動きを止まらせる。アルティオは、はっ、としてその奇異な氷像に剣を叩きつけた。
脆い像は、呆気なく崩れて、紙から生まれた異形はあっさりと霧散した。
背丈は腰ほどの、短く脆い、細い氷の槍。だが、それでもたたらを踏ませる威力はあったらしい。少年がわずかによろけ、レンの剣が氷柱を貫いて肩口を捕らえる。
「……ッ!」
少年は側の氷柱を折って、その眼前に投げつけた。咄嗟に剣でそれを払ったレンの太刀は遅れを生んで、その僅かな間に少年は体勢を立て直す。
―――くそ、埒があかねぇッ!
心の中で悪態を吐きながら、加勢しようと地を蹴る。
瞬間、少年がこちらを振り向いた。
「ッ!」
たんッ、と少年がその場を跳ぶ。レンの刃は靡いた黒衣を僅かに裂いただけ。
槍を振りかぶる少年。アルティオは防御のために、剣を正眼に構えて繰り出す。
しかし、それが間違いだった。リーチは槍の方に軍配が上がる。そして、少年が狙っていたのはアルティオの心臓ではなく、
ぎどんッ!!
「なッ!?」
少年は直前で槍を引いて腰を落とすと、下から穿つように、交差されたアルティオの剣に一打を加えたのだった。
重い音が響く。
アルティオの、左に構えた剣の半分以上が切り落とされて、床にきんっ、と転がった。
「ちぃッ!」
アルティオは残った右の剣を振るう。だが、それは少年の、肩を浅く抉っただけだった。
少年は二人の男と距離を取るように引いた。
アルティオは唇を噛む。噛んで、構えを直す。
埒が明かない。このままでは不利なことは明白。おそらく、敵の槍の腕はレンよりやや劣る程度。だが、彼にはあの厄介な術がある。
先ほどの異形にしても、大した相手ではなかったが、足止めに使われては二人で畳み掛けることも不可能になる。
何か、
何か、意表をつかねばならないのだ。
―――くそッ、くそくそッ、どうすれば……ッ!
「おぅッ!?」
シリアの生んだ氷柱は、他の戦場にも影響を与えていた。唐突に足元に現れた氷の槍に、エノと呼ばれる少年はつんのめる。かすかにシリアの詠唱を耳にしていたカノンは、的確に槍を避けつつ、一気にその少年との距離を詰めた。
「ちッ!」
少年は翼を盾にするように羽ばたいた。
起こった風にカノンの髪が靡く。
斬ッ!!
「く………ぅッ!!」
伸ばしたカノンの刃が、少年の右の片翼を大きく袈裟懸けに切り裂いた。厚みの在る翼は落すことは出来なかったが、それでも大きく付いた傷からは、赤い体液が滲み出て、だらだらと床に染みを作った。
「……ぅ、う、ちくしょぉッ!」
「!」
びゅん、と風を切って少年の爪が煌く。片翼に傷が付いても、少年の速度が落ちなかったことに驚きながら、カノンは屈んでそれを交わす。
「おりゃあッ!!」
「―――ッ!」
もう片方の爪が、下段からカノンの頭を狙う。咄嗟に左腕を犠牲にしてそれを防ぐ。
どしゅッ!!
「つぅ……ッ!」
鋭利な爪先が、カノンの左の肩口をやや大きく抉る。古傷が開くかもしれない。
その卒倒しそうな痛みに耐えながら、カノンは少年の膝へ鋭い蹴りを放つ。
少年は飛ぼうとして、
「―――!?」
バランスを崩して床に手を付いた。片翼の機能を失ったが故の代償だ。
カノンはまともにバランスを崩した少年へ、刃を振るう。しかし、少年は腕の力だけで前方に転がってそれを何とか交わした。
「でんぐり返しで遊んでるつもりッ?」
「うっせぇッ! まだ負けたわけじゃねぇッ!!」
「我望む、切り裂くは烈風の残歌、唸れフォーンバラッドッ!!」
圧縮された無数の空気の弾が、黒い少女を襲う。だが、それは少女に届く手前で霧散した。
「ッ!」
「無駄、です」
少女が左手を鳴らす。ルナはすぐさま、その場を跳んだ。
どんッ!!
「―――つぅッ!」
爆発そのものは交わせたが、爆風に軽いルナの身体は呆気なく転がされた。
少女の目の前に、数本の、目に見えない槍が浮かぶ。
―――早いッ!
ずしゅッ!!
「ッあ!!」
そのうちの一本が、慌ててさらに転がったルナの腕を掠めた。抉られて出来た裂傷を、抑えながら立ち上がる。
……呪文詠唱がやけに早い。いや、早すぎる。そもそもそんなものをしているのかどうかさえ、怪しい。ルナはまだ一度も、少女が会話以外で唇を動かしたところを見ていない。
「……まだ、やるですか」
「何、降参しろ、って言ってんの?」
「……主様は、無関係な方はなるべく傷つけたくない、と仰せです」
「よく言うわ、これだけ無関係の人間を利用して置いてね。恥を知れってのよッ!」
少女はぴくり、と反応して肩を震わせた。そしてぶるぶると肩を怒らせる。
「―――?」
「……あの方は、………主様はそんな人じゃないッッッッッ!!!」
「!」
少女の激昂と共に、彼女とルナとの合間で爆風が吹き荒れた。溜まらず壁に叩きつけられるルナ。受身は取ったが肩と背中がぎしぎしと軋む。
「つ、ぅ……」
「私はあの方の手足でいい。手足で在り続けるためなら、何人だって殺すッ! 何人だってッ!」
少女が片手を翳す。
シリアが氷を生んだのは、このときだった。
「!」
床から生えた氷柱に、少女はたじろいで身を引いた。その僅かの間にルナは体勢を立て直す。
「くッ!」
新たに呪を唱えるルナに、少女は再び片手を振りかざす。放たれた不可視の一撃を、しかし、ルナは難なく避けた。
「!?」
その場に立ち止まり、印を描くルナへ、少女はもう一度片手を上げる。
だが、ルナは二度、それを的確に、ぎりぎりの間合いで交わす。爆呪が砕いたのは脆い氷の柱だけ。
三度、それを放ってやっと気が付いた。
「こ、これは……氷の、」
ルナは、傍らに立った氷柱が小さく軋む音に気が付く。身体を軋ませた氷柱の数で、爆呪の範囲を悟っていた。
もともとシリアの氷柱は、こちらのフォローのために生み出されたものだったのだ。
「こんな、ものォッ!!」
少女が両の手を振り被る。びしッ、と少女を取り囲むすべての氷柱に白いひびが入った。だが、それが砕け散るより前に、
「!」
少女の周囲に、無数の青い光が滞空する。
「我求む、途往くは銀の閃光、放たれるは抗魔の刹那、汝、無限より来たりて裁きを今、ここに……ッ」
ルナの甲高い声が飛んだ。滞空する光はそのまま孤を描く。
「従え、シルフィード・レインッ!!」
「ッ!!」
孤を描く銀の輝きが、軌道を変えて少女を襲う。声を放ち終えたルナの眼前に、再び違う魔道の陣が浮き上がった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
降り注ぐ銀の雨に加勢するように、陣の中央から赤い導線が空間を貫いた。
どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんッ!!!
轟音が、丈夫な石の部屋を揺るがす。白煙と、赤光とが視界を塞いで、少女の姿をすっぽりと覆い隠した。
ルナは構えたままその場を動かない。
やがて、ゆっくりと白煙が晴れて、
「―――ッ!」
戦慄に、ルナは奥歯をぎりッ、と鳴らす。
少女は正眼に両の手を構えたまま、その場にしっかりと足をついていた。黒いゴシック服はところどころ焼け焦げているものの、その下の白い肌には傷一つない。
べったりとした汗が、ルナの背中を覆う。
防御魔道を唱える暇はなかったはずだ。仮に唱えていたとしても、それを破るために大技の印を二つ、切って置いたというのに―――ッ!
「く……ッ!」
少女の手が振り上がる。一気に魔力の消耗した身体が、鉛のように足を引っ張るが、休んでいる暇などない。
ルナはその場を跳び退ると、新たに陣を指先で描き始めた。
ぎぎぃんッ!
細身の槍と、大剣とがかち合う音は思いの他、鈍いものだった。
一瞬散った火花を嘲笑いながら、少年は深遠の闇色の瞳を歪ませる。
「貴様、何のつもりでこんな真似をする?」
「……さてね。おおよそ、まだ君には知る必要のないことだ」
「何……」
珍しく、レンの言葉に激昂が混じる。
がきんッ!
刃が外されて、長い槍の切っ先が、レンのわき腹を狙う。捻り様、繰り出した刃は僅かに距離が足りず、少年はあっさり引いた。
そこへ、
「はぁぁぁぁぁッ!!」
気合を込めたアルティオの刃を、紙一重で交わすと、少年は屈んだまま彼の手首を蹴り上げた。
苦痛に顔を歪ませるアルティオ。その彼の腕へ、少年はさらに槍の腹を食い込ませる。
「―――っぁ」
「アルティオ!」
彼が掴んでいるのは、折れた半端な長さの剣が一本だけ。
勝負にならないと思ったのか、少年はくすり、と笑いを漏らして身体を反転させる。
その動作が、一瞬だけ、止まった。
「……?」
不意に虚空を見上げ、眉根を寄せる。
「……それは、どういう…?」
呟いた声は、誰に向けてのものだったのか。それを判断出来る人間は、この場にはいなかった。
しかし、
「主様ッ!!」
「!」
少年は少女の声で我に返った。
その、最大の隙の間に、アルティオは剣を拾い上げる。
フェルスの放り出した、あの、呪われた赤い剣を―――ッ!
「……ッ!」
初めて少年の顔に驚嘆が浮かぶ。動きが止まる。そして、
ずしゅッ!!!
「・・・ぁ、く、ぁぁああああぁああぁあああぁああぁぁああぁああぁぁああああッ!!!」
……赤く染められた呪いの刃は、まともに、少年の右肩を貫いていた。
←10へ
「あ、あんた……」
「……どこから、入った」
掠れた声が、小さく異様な室内に響く。それを聞き、目にしたアルティオは、もう一歩後退る。その背中が、ベッドの落ちたシーツにかすかに触れて、
「触るなッ!」
「ッ!」
痩躯からとは思えないような鋭い大声が、辺りに轟き、アルティオに突き刺さる。
アルティオは我が目を疑う。その光景はあまりにも滑稽で、暗くて、信じがたくて。二重の扉を躊躇無くくぐってしまった我が身を呪う。
振り向いた先に立っていたのは、髪を振り乱し、鬼気迫る表情をしたフェルスだった。
ただ、そこに立つ姿に、治療で見せていたような柔和な雰囲気は欠片さえありはしない。
返り血を浴びた白衣はだらしくなくうな垂れていて、彼の痩せた体に貼り付いていた。妙にぎらついた眼が正気を疑わせる。ほどけた髪を邪魔だ、とでも言うようにかき上げる。
そして、その両手には。「な、なんだ……それ……」
右の手にはアルティオの背後に掲げられた青い剣と同じ造り、同じ材質の、しかし不自然に赤みを帯びた一振りの剣。
赤く見えるのは剣の装飾のせいばかりではない。その刀身には、フェルスの服を濡らすものと同じ液体が、べったりと、こびり付いていた。
もう言葉は選ばない。
人間のねばついた血液が、握られた剣に、服に飛び散っている。
そしてその左手。握りしめた大きなものは、ぐったりと、ただ力無く、体を妙な方向にネジ曲げた、見知らぬ男。その男のくたびれた襟首が、また同じ液体に塗れながら垂れ下がっている。
……見知らぬ男ではあったが、着ている服には覚えがある。
あれは、あれは診療所の患者用の診療服、ではなかっただろうか……
「ぅ、くッ……」
突発的な吐き気を飲み下す。
ぽたり、と赤色の鮮やかな雫が、引きずられる男の首元から流れ出し、袖を通じて石段に落ちた。
どんな人間だって、それを真っ当な人間とは呼ばない。死体だ。おびただしい血液を垂れ流す、一の残骸ッ!
アルティオは思い出す。思い出したくもないのに思い出してしまう。
『通り魔事件』の被害者の傷は、鋭利な刃物で付けられたもの! そして出血の酷さ!
そしてそれと、この目の前の惨状が、頭の中で、見事なまでに結び付く!
「ふ、フェルス、さんよ……そいつは何の冗談だ………。ま、まさか、そんなわけない、よな……そいつ………」
「……」
フェルスは無言で、真っ白な顔でアルティオを見る。
視線は虚ろで、どこを見ているのかさえ判然としない。アルティオとて解っている。こんな問答は無駄なのだと。
握られた刀身と、背後にある対の刀。そして人の遺体。
紛うことのない、状況証拠何てものじゃない、この現場は確固たる現行なのだと!
「―――私が、殺しました」
「―――ッ!」
ぎりッ―――そのいっそ静かな声に、声より歯軋りが漏れた。
そうだ、カノンが言っていた。あのステイシアが何者かは解らない。だが、何か、誰かに工作されたものだとしたら―――
何もそう難しいことじゃない。アルティオ自身が追求を避けていただけなのだ。
彼だって立派に疑わしかった。カノンが直接的に口にしなかっただけで、彼だって立派な容疑者だった。
「何でだッ! こいつは一体、どういう事なんだッ!?」
「………貴方には関係のないことです」
冷たい、あまりにも冷えたその声が、アルティオの背筋を凍らせる。打ち捨てるように男の死体を放り投げると、フェルスは目を剥いて彼を凝視した。
反射的にアルティオは剣を抜く。
土壇場に立たされた人間が、どんな行動を起こすかなんて言うまでもない。
「お前も……ディティの贄となればいい!」
「!?」
踏み出したフェルスの異様な素早さに、アルティオは目を丸くする。一介の医者が動ける速さじゃない。
慌てて交わし、ベッドの淵でたたらを踏んだフェルスに、右剣を叩きつけ、
ぎんッ!!
「なッ!?」
フェルスはその剣戟をあっさりと受け止めた。いや、受け止めるだけならともかく、力と技量では圧倒的にこちらが勝っているだろうに、力を込めた剣はびくともしない。
そりゃ、医者に力が無くてはいけない、なんて決まりはない。だが、フェルスのそれはあまりにも異様だった。
繰り出された左の剣も、白衣の裾をわずかに薙いだだけで、引いたフェルスとの間に間合いが出来る。
「何者んだ、あんたッ」
「…………剣が、……ディティが、私に力をくれる。もう少しなんだ、もう少し血が必要なだけなんだ、大願を果すまで、……私は死ぬわけにはいかんのだッ!!」
激昂と共に石床を蹴るフェルス。相手はこちらを殺す気だ。しかし、こちらは何も解らないうちに彼を殺してしまうわけにはいかない。
アルティオは腰を落して、大振りの一撃を両剣で受け止めた。血走った眼に背筋が寒くなる。
双剣の欠点は全体のバランスから防御が取り難いことにある。だから、この状況は圧倒的にアルティオに不利だった。
―――ちっくしょ!!
ぐっ、とフェルスはさらに剣へ力を込める。
信じられないことに、びし、とアルティオの双剣が軋んだ。考えてみれば、あちらの剣はおそらく何かの力が負荷された魔力剣なのだろう。
普通の剣では応対しきれるはずもない!
「くそッ!!」
溜まりかねたアルティオは剣を引こうとする。だが、振り払うことも出来ず、重心をずらすことが出来ない。
―――くッ!
ばたんッ!!
「アルティオ、伏せなさい!」
扉の轟音と共に、高い声が響く。フェルスの剣の力が緩み、その隙に剣を引いて身を伏せる。
どぅんッ!!!
アルティオと、フェルスの間で小爆発が起きた。アルティオは無傷だったが、フェルスの方は多少、白衣が煤けたようだった。
紫煙が晴れるのを待って身を起こす。フェルスを視線で牽制してから扉を振り返ると、まなじりを吊り上げた美女がこちらを睨んでいた。
「シリア!」
「問題ばかり起こすのはやめてくれないかしら? ストレスで肌荒れしてしまうじゃない」
鼻を鳴らして言った第一声がそれだった。かつん、と傍らに彼女より小柄な影が立つ。
「……フェルス医師、大人しく投降してください」
金の髪を揺らし、碧い瞳の奥には少なからず怒りの色。だが、言った程度で大人しくしてくれるはずはない、と察しているのだろう。その手は既に剣鎌の継ぎ目にかかっていた。
フェルスは彼女に再び虚ろな目を吊り上げる。
「投降、ですって?」
カノンの言葉をあっさりと蹴ってみせるフェルス。
彼女は嘆息して部屋の内部を見回した。ベッドの上で静かに眠る、美しい婦人にシリアが絶句している。カノンは目を細め、渋い顔をさらに歪めた。
ベッドの上に吊るされた青の剣に目をやり、そしてフェルスの握るもう一つの剣を見て同じ表情で唇を噛む。
「……フェルス医師、貴方が何をしようとしているのか、察しは付いています」
「…………でしたら、見逃してやってください。そして、私の、彼女の贄に挙がってください……」
「お断りします。フェルス医師、貴方だって解っているはずです。自分のやっていることが、どれだけ理に外れたことか。
それで目的を果せたとしても、貴方はそれで満足するというのですかッ?」
「五月蝿いッ!!」
ぴしゃり、とついにカノンにも彼は怒号を吐き出した。押し込めていたものが堰を切るように、いっそ憎しみを込めて言葉が空を切る。
「貴方たちだって解るでしょうッ!? 理不尽にッ、訳の解らないまま大切な人間を奪われたらッ!」
吐き捨てて、目を剥いて、ベッドの上を差した。眠る婦人に目をやって、カノンは打ち捨てられた哀れな男の遺体を見つける。カノンの眉が吊り上がる。
「……彼女の、貴方の奥さんのディティ=ラント。カルテには死亡表記がされてませんでした。
長らく植物状態のまま、意識は戻らない。あたしは医者じゃない、どういう病名で、どういう経緯があって、貴方の奥さんが倒れたのかなんて知りっこない!
けどね! だからって、他の人間の命を奪っていいことにはならない程度は解るわよッ!!」
「黙れッ!」
「黙らないわッ! これはどういうことなのか、説明して貰おうじゃないッ!
……今、ステイシアは上の部屋で苦しんでる。貴方に助けられたときに付けていた指輪、あれに苦しめられてね。外そうとしても外れなかった」
「そうね。フェルス医師、一年前に何があったんです? 何故、盗賊に殺されたはずの彼女が生きていて、何故こんな場所に奥さんを幽閉して、……『通り魔事件』なんて起こさなければならなかったのか、説明してくれなければ納得なんていかないわ」
肩を怒らせたシリアが、カノンの言葉を継ぐ。
フェルスは押し黙ったまま、ひたすらにこちらを睨んでいた。
カノンはそれを受け止めながら、もう一度掲げられた青の剣を見上げる。そして、ぽつりと、
「……違法者狩りの狩人をしていたときに、聞いた話があるわ」
ぴくり、とフェルスの肩が上下する。
「それは永遠の命、不死を求める死術だったわ。質が悪くてね。
不死を得るためには、代償が必要だった。何だと思う?
………他人の血液よ」
「……」
「そのときに狩った違法者は、そのために数多の人間の身体から血を抜いて、死術の核に吸わせていたわ。その核は、剣の形なんてしていなかったけれど……
これはあたしの推測よ。
貴方はその剣―――二つの剣を、死術を元にして創り出した。
貴方の握っている剣は、他の人間から血液を吸い出すもの。もう一つの剣は、対の剣の血液を通じて生命力を与えるもの。
でも、そこで何らかの不具合が生じた。そして貴方はその不具合をセーフガードするために、一年前、虫の息で発見されたステイシアを何らかの形で利用した……
違う?」
「……」
フェルスは構えた剣を下ろす。ベッドに横たわる婦人を、虚ろに、しかし愛おしげに眺め、深い溜め息を漏らす。僅かだが、瞳が正気の色を取り戻していた。
「……違法者狩りをしていた方とは。思ってもみませんでした。
その通りです。ただし、これは私が創ったものではありません」
―――っ。
その一言に、カノンの表情が歪む。しかし、フェルスは気づかぬままで、
「他人の生命の証―――血を摂取することで、生命を維持させる。月の剣には癒しと潜在能力を高める能力が、陽の剣には人と血を狩る能力が、それぞれ付加されていた」
「……それで貴方は、血液検査の振りをして、剣と適合する血を持つ人間を狙った」
「剣もなかなか悪食でしてね。適合率が低いと、月の剣の癒しの能力が維持できなくなるんです。
―――この剣は生き物なんですよ。血を吸い、所有者の能力を高める、言うなれば吸血鬼のような、ね。
しかし、そこで問題が起こりました。剣は、癒しに必要なのは血の代償、しかし狩りの能力の代償は、所有者の生命力―――魂でした」
「……ッ」
「この剣は生き物です。他の生物に寄生して、生命力となる魂を吸いながら一連の役目を果す。
そしてある一定の血と、人一人の魂を完全に吸い取ったとき、初めて完全なる、強力な癒しの力と狩りの力をもって完成する。 ……私がこんなことをしているのは、妻と共にもう一度、穏やかに暮らすためです。私が魂を失い、死んではその目的は果せない」
「ち、ちょっと待て、じゃあ、じゃあステイシアはッ!?」
不穏な空気を読んで取ったアルティオが、絶望に近い声を上げる。カノンは奥歯を噛み締めて吐き出した。
「……あの指輪は、所有者が受ける責を転嫁させるもの。そういうこと?」
「この剣は寄生虫。人のような明確なものではありませんが、生命と意志を持っています。
『あれ』は剣の生命に取り憑かれ、ただ動いているだけの死体に過ぎません。……『あれ』は、貴方たちもお気づきの通り、とおに死んだ人間なんです。
彼女には申し訳なく思っています。今、剣は彼女の体に残っていた魂を喰らいながら、より強い魔道具へと成長しつつあります。この剣は、完成しつつあるんです。彼女ももうすぐ蘇る……。
私の、私の五年間が、ようやく、ようやくやっと報われるんです……ッ!!」
「だからって、何で罪も無いただの女の子が、そんなことに使われなきゃならなかったっていうのよッ!?」
「仕方が無かったッ!
この剣の存在を知ったとき、そしてこの剣を受け取ったときッ、私はどんなに歓喜したかッ!
そのための贄に悩んだときッ、私は思ったッ。魂だけを吸い取るものならば、死んだばかりの、まだ完全に肉体と精神が遊離していない人間に、あの指輪を填めることが出来たらとッ!
そんなときに街道であの娘を見つけた。ほぼ瀕死の状態だったが……私の思惑は成功した。意識のないはずの彼女の死体は、生前のまま動き出したのだッ!
悪いとは思ったさッ、だが仕方なかったんだッ! 考えても見ろッ!」
フェルスは両手を広げ、その場にある異様な光景を誇るように差した。ぎりぎりと、握り締めた拳から、少量の血が滴っている。「死んだ人間とッ、……眠りながら、何年も生かされる苦痛を味わっている人間とッ、どちらが助けられるべきだと言うんだッ!?
彼女は悪くないッ! 私はこれまで医者として、患者のために尽くして来たッ! 一切の不明を嫌い、そのせいで地位も権力も棒に振ったッ!
それが最良だと思ったからだッ! それがひいては私や妻のためになると、信じていたからだッ!! 人として当然のことだと思っていたからだッ!! 人の道だと思ったからだッ!
その仕打ちがこれだッ!!」
ベッドの上を指せば、しかし、そこに眠る婦人は欠片も彼の動作に気づくことはない。
「いつもそうだッ! 人の道を守る人間ばかりが損をするッ!
ならば、神を恨みながら、石にしがみ付いてでも生き残るッ! 背いてでも、私は彼女と安らかに生きるのだッ!
神は死んだッ!
この世界は死んだのだッ!
私は人であることを捨てたッ。私は彼女と生き抜く運命にあるッ!
そのためなら、そのためなら、とおに死んだ抜け殻だけの人間など、どうでも……ッ」
「ッ、……ふざけ…ッ」
「ふざけんじゃねぇッ!!!」
「ッ!」
びりびりと、雷が落ちた後のように、その怒号は暗く、冷たい部屋を揺るがした。
「アルティオ……」
振り返ると、唇をきつく噛み、ぶるぶると拳を振るわせる彼が、見たこともない表情でフェルスを睨んでいた。
噛んだ唇は、もう薄く切れてしまっている。
きりきりと、歯を噛み鳴らすかすかな音が、痛々しく、彼の最大限の傷心を物語っていた。
「ふざけるなよ、あんた……ッ」
「アルティオ……ッ」
駄目だ、と本能的に悟る。止めようと手を伸ばすが、それは数瞬遅く、アルティオの口は堰を切る。
「あんた、自分がしたことがどういうことか解ってるのかッ!?
あの娘はなッ! 心臓を突かれたんだぞッ!? たまたま、親父と一緒に旅してただけなのにッ! 質の悪ぃ盗賊に目ぇ付けられてッ!
さぞかし恐ろしかったろうよッ! あんたの奥さんと同じだッ! 何にも悪くないのにッ、何もしてないのにッ、そんな怖い思いをしたあげくにあんな若さで殺されたッ!
やりたいことだっていっぱいあったんだぞッ!? パンも焼いてみたいし、あんたの好きな魚のムニエルだってずっと練習して作ってたッ、花だって育ててみたかったッ、綺麗な刺繍に憧れて、ずっと練習してたんだぞッ!? いつか、あんたの白衣を縫ってあげて、テーブルクロスにあんたの好きなスイセンの花を編んであげたいって……ッ!
こんなことじゃ恩返しにもならないけど、って、本当にあの娘はあんたを慕ってたんだぞッ!?
その仕打ちがそれってかッ!?
ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!!
痛い思いして、それでも……それでお天道様に召されられると思ったら、何だッ!?
今度はあんな真っ青な顔で苦しまなきゃいけないのかッ!? 信用してたはずのあんたに裏切られてッ!?
あんた、二回も死ななきゃいけない人間の気持ちがわかるってのかよッ!? わかんねぇよな、俺だって分かりっこねぇッ!!
でもなッ! 死者を辱めて、その上背負わなくてもいい苦しみを与えてッ! それがどんなにいけねぇことかくらい解るぜッ!?
確かにあんたは苦しかったろうよッ、こんなにやつれた奥さんを、ぐったりした大切な人を見て過ごさなきゃいけないなんてな、ぞっとすらぁッ! けどだからって、こんなことしていい理由になりゃしねぇだろッ!? あの娘をこれ以上、苦しめる理由になんてなりはしないだろッ!?」
「アルティオ……」
一気に吐き出した彼の目尻が、僅かに滲んで歪んでいた。でも泣かない。泣きたいのは、彼じゃないからだ。
彼が、最後の最後まで庇っていた、彼に無垢な好意を抱いていた、あの少女なのだ。制するように、シリアが肩に手を置く。
カノンはフェルスを睨む。だがしかし、かの医師の目付きは変わらぬまま、狂気を宿していた。
「……それはずっと繰り返して来た問答です。今の私には、何の、意味も、ない」
「―――ッ! ……わかってねぇ、あんた、ぜんっぜん、わかってねぇぜ……」
握り締めた拳を、シリアは無理矢理解かせた。それ以上、握っていては剣を持てなくなると判断したのだろう。
叩きつけるべき思いを、しかし、言葉に出来ずに彼はただ悔し涙を堪える。
そのときだった。
かつッ……
「―――ッ!」
「っ、あ……」
中途半端に開いた扉が、さらに押し開けられる。そこに立っていたのは、青い顔でフェルス医師と、翳された剣を凝視するルナと、そして、
「ステイシア……ッ」
「……」
真っ白な顔で表情無く、レンに支えられた、かの少女が、いた。
「………せん、せい…」
「……」
少女の掠れた、小さな声が部屋の中に虚しく響く。フェルスは無言だった。
聞いていたのか、なんてものは無粋な問いでしかない。彼女は、フェルス以上に虚ろな目で室内を眺めて、俯いた。
ふるふると震えながら、唇を噛んで、目を伏せる。
小さな肩が、泣いているように見えた。
「わ、たし……もう、この世の人間じゃ、なかったんですね……」
「違う、ステイシアッ! それは……ッ」
咄嗟に口を付いて出る言葉は、何の慰みにもならなかった。切れ切れの言葉は、悔しさからか、それとも全く違った意味を持っているのか……。
誰にも、彼女の胸中を推し量ることなど、出来はしなかった。
だから、彼女が次の一言を発するのを、待つことしか出来ない。
「………先生」
「……ステイシアさん。解ってください……もう剣は完成するのです。血は集めました。
貴方が、貴方の魂さえ剣が吸い取ってくれれば……」
「………」
ステイシアは茫然と、フェルスを眺めていた。がくん、と折れそうになる膝を、傍らに立っていたレンが支える。
たまらずにアルティオは、彼女に駆け寄った。
だが、その乱暴な足音には反応せず、彼女は宙を向いている。
薬指の指輪は、今だ妖しげな魔性の光を放っていて、彼女の額からは脂汗が流れていた。倒れ、悲鳴を上げるほどの苦痛が、今だ彼女を苛んでいるのは、明白だった。
フェルスは彼女に背を向けて、ふらついた足取りでベッドの側へ寄る。
はっ、としたカノンが剣を抜いた。が、その瞬間、
ぎんッ!!!
「―――ッ!?」
フェルスの背へ斬りかかったカノンの刃の腹を、唐突に横合いから繰り出された蹴りが弾き飛ばす。
その様に、カノンは覚えがあった。
「あんたッ!?」
「させやしねぇよッ!!」
ばさっ、と竜の翼を広げた少年が、伸び上がるような蹴りを放つ。眼前に放たれたそれを紙一重で避ける。
すると少年は翼をはためかせて、背後に肘鉄を放った。
「―――ッ!」
背後から迫っていたシリアの刀が宙を舞う。
「シリアッ!」
「ちっ!」
舌打ちをしたルナが呪を唱え始める。レンも剣を抜きかけて、
ぎちッ!!!
「な―――ッ!?」
「……邪魔、させません、です」
ステイシアを支えたアルティオを含めた三人の足元に、急激に方陣が展開される。淡い光を放ち、びりびりと雷を放っている。
身体に力が入らない。重い何かが身体にぶら下がっているかのように、体中が軋み、身動きが出来なくなる。
三人はがくん、と膝をついた。
「―――ッ!」
痺れる舌を噛みながら、かろうじてルナが声の方向に顔を上げる。暗い部屋の、闇の中に、紛れるようにして小さな少女が立っていた。黒い長い髪、瞳、雪のような肌、フリルのついた可愛らしいゴシック調の服。
無表情で、こちらを眺めながら、鈴の鳴るような声で言う。
「ちょっとだけ、じっとしてて、です」
「く―――ッ!」
―――こいつら……、一体、どこからッ!!
扉はルナたちの背後。とてもじゃないがこんな場所に二人の人間が隠れられて、その上気配も感じないなんてッ!!
ルナは慌てて痺れる舌を噛みながら、方陣の解呪の呪文を唱え始める。
この方陣なら知っている。解呪の方法も知ってはいたが、呂律の回らない舌では、少しずつ、言葉を読んでいく他ない。
「うっ、うう、ぁ……ぅあああッ!!!」
「う、くッ……す、ステイシア……」
その間も、指輪の光はステイシアを苛み続けていた。真っ白な頬を汗が流れていく。ぐったりとした手足は、もう僅かほども動かせないのだろうか。
どんッ!!
「く、ぅぁッ!!」
「シリアッ!」
カノンの焦燥の声が上がる。
鈍い音は、シリアが背中から壁に叩きつけられる音だった。だが、カノンには駆けつけることも出来ず、彼女は慌てて少年の繰り出された拳をかがんで避けた。
すぐさま足払いをかけるが、あっさりと飛んで避けられる。
舌打ちも虚しく、そのうちにフェルス医師はベッドに辿り着く。
「くッ、や、止めろ……ッ」
「……」
唇を噛んだレンが、アルティオに支えられたステイシアを見る。そう、剣を完成させないだけなら簡単だった。
今、あの剣の意志が入っているのは、ステイシアの肉体なのだ。だから、今、彼女を斬ってしまえば、剣は永遠に完成しない。 しかし、それに何か意味はあるのだろうか。
彼女を犠牲にしたフェルスと、何らやっていることは変わらない。
そして、それを行える人間が、今この場にいるはずもなかった。
フェルスは愛しげに、妻の白い頬を撫でた。そうして薄く笑みを浮かべ、頭上に掲げられた剣を見上げる。
そして、自身の握る剣を振りかぶる。
それが合わせられたときが最期なのだ、と直感的に悟る。
「ッ! やめなさいッ!!」
カノンの声が飛ぶ。しかし、それがフェルスの耳に届くはずもない。
だから、カノンは苦さに表情を歪めながら、自分に放たれた蹴りを、紙一重で避け続けるしかなかった。
「くッ!」
「おっとッ!!」
頭部を狙って繰り出した剣を、少年は首をすくめて避ける。
「く……そッ! やめろッ!!」
「……ッ!」
一番、悔しさに顔を歪めていたのはルナだった。呪文は、まだ、間に合わないッ!!
――――――きんッ!
………剣と剣が合わせられる、乾いた音が、無情にその場に響き渡った。
「……我望む、解するは苛まれし哀れな羊、解き放て、ブロッカーブレイク」
小さくルナの解呪を告げる声が、響いた。同時にレンとルナは立ち上がり、レンは得物を手に踏み出して、ルナは新たな呪を唱え始める。
それを阻むように立ったのは、あの小さな少女。無表情で片手を振り上げる。
……アルティオは、その場を立つことが出来なかった。
腕に抱えた少女の身体が、どんどん軽くなっていくのが、解ったから。
知っては、いたつもりだった。
あの瞬間。彼女が倒れているのを見つけて、脈を取って、……温かではあったけれど、その心臓が動いていないことを、見つけたときから。
でも、温かだったのだ。
数刻前まで、握っていた彼女の手は、間違いなく温かくて、この温かな身体を弾ませて、アルティオをネリネの丘まで引っ張っていったのだ。
それなのに、何故こんなに急激に、彼女の身体は冷たくなっていっているのだろう。
別れることになると、解っていた。
でもそれは、こんな形じゃなくて、ちゃんと診療所の前で、カノンの世話を看てくれていたことに例を言って、笑って、そしてまた機会があったら必ず寄ると約束をして……
そんな穏やかな、他愛も無い別れになるはずだった。
それが、
それが、どうして―――?
「………ある、てぃお、さん…?」
僅かな意識で、彼女は薄く瞳を開く。
「何で……泣いて、いるんですか………?」
言われて、気が付いた。
馬鹿だな、泣いてる場合なんかじゃない。泣きたいのは俺じゃない、この娘の方なんだ。
彼は人の痛みが解る男だった。
だから悟ってしまう。彼女がこの瞬間、どれだけ追い詰められて、どれだけの痛みを抱えて、この世を去らなければいけないのか―――。
だから、だから一つでも彼女に未練を残させないように。
泣いては、いけないはずだったのに―――ッ!
「なさ、けない、な……」
「……?」
「何で、何でなんだよ……俺は、俺は惚れてくれた女の子一人、守れないような、そんな情けない男だったのかよ……ッ!
それで自分が泣いちまうなんて、何なんだよ、俺は……ッ!!
なっさけねぇッ!!!」
「………」
「ごめん、な………本当に、不運、だよな………。こんな、こんな情けない男に、惚れるもんじゃねぇぜ………。ごめん、ごめんな……
俺、こんな駄目な男で、ごめんな………」
「………」
歯を食い縛って慟哭を抑える彼の頬に、白い手が、ゆっくりと、かかる。
それが、最期の力であると知っていて、
最期にするべきなのは、それだと、悟ったから、そうした。
「なか、ないで、ください……」
「………」
「ひとでない、私のために、ひとである、あるてぃおさんが……なくことは、何も、ありません……」
「ッ! 馬鹿なこと言うなッ!!」
か細い声に、アルティオの怒号が叩きつけられる。
「あんたは人だったッ! こんな短い間しか一緒にいなかった俺だって解るくらい、可愛い普通の女の子だったッ! それだけは言ってやらぁッ!
お前はステイシアなんだよッ! そういう名前の、可愛い人間の女の子なんだよッ!
笑顔の素敵な、あんな可愛い女の子だったじゃねぇかッ!!
誰がそうじゃないなんて言ったよッ、そんなわけねぇじゃねぇかッ! それだけは、俺が、俺が保証してやるッ!
あんたは人間だッ! あったかい、あったかい血の通った、人間なんだよッ! 女の子なんだよッ!!
だから……ッ、だから、生きていていいんだよッ! 生きたい、って言っていいんだよッ!!!」
「………」
アルティオの頬を伝った涙が、また彼女の頬に落ちて、濡れる。
ステイシアの目尻にも、同じ雫が浮かんでいたために、もうどの雫が誰のものか、解らなくなっていた。
その怒鳴り声に。
それまでぐっ、と押し殺していたステイシアの無表情が、あっさりと、剥ぎ取られた。
「いき……たか……った………」
「………」
「いき、たかった、よぅ………ッ! わたしッ、わた、しッ……うっ、くぅッ………
死に、たくなんか、なかったッ……
あな、たと、一緒に、いきてみたかった……ッ!
でもッ、でもッ………いきてッ、いきッ……できなッ……ぅく、ふぅぅ………ッ!」
「……ッ! ああ……そうだよな………ごめん、…ごめん、な……叶えてやれなくて、ごめん、な……」
ざらり、と彼女の体が砂のように崩れる。
一度、魂を売り渡してしまった人の身体は、地に帰ることすら、許されないのだろうか。
ステイシアは、一際強い胸の痛みに、最期を悟って―――
それでも、我侭を言う子供のように、泣きじゃくる顔を残したくはなくて―――
無理矢理―――
最期の力で、涙を、拭いた。
「あ、りが、とう……ござい、ました………」
「………」
「―――ッ、ぁ」
彼女は、本当に、最期のその力で、無理矢理作っていることがばればれの笑顔を、―――あの、華やかな笑顔を、最期に浮かべて―――
最期に、選んだ言葉を、口にして―――
ざらりッ……
耳障りな、余韻を残して。
彼女の笑顔は、そっと、消えた。
『人を、好きになれて、良かった―――』
←9へ
「……どこから、入った」
掠れた声が、小さく異様な室内に響く。それを聞き、目にしたアルティオは、もう一歩後退る。その背中が、ベッドの落ちたシーツにかすかに触れて、
「触るなッ!」
「ッ!」
痩躯からとは思えないような鋭い大声が、辺りに轟き、アルティオに突き刺さる。
アルティオは我が目を疑う。その光景はあまりにも滑稽で、暗くて、信じがたくて。二重の扉を躊躇無くくぐってしまった我が身を呪う。
振り向いた先に立っていたのは、髪を振り乱し、鬼気迫る表情をしたフェルスだった。
ただ、そこに立つ姿に、治療で見せていたような柔和な雰囲気は欠片さえありはしない。
返り血を浴びた白衣はだらしくなくうな垂れていて、彼の痩せた体に貼り付いていた。妙にぎらついた眼が正気を疑わせる。ほどけた髪を邪魔だ、とでも言うようにかき上げる。
そして、その両手には。「な、なんだ……それ……」
右の手にはアルティオの背後に掲げられた青い剣と同じ造り、同じ材質の、しかし不自然に赤みを帯びた一振りの剣。
赤く見えるのは剣の装飾のせいばかりではない。その刀身には、フェルスの服を濡らすものと同じ液体が、べったりと、こびり付いていた。
もう言葉は選ばない。
人間のねばついた血液が、握られた剣に、服に飛び散っている。
そしてその左手。握りしめた大きなものは、ぐったりと、ただ力無く、体を妙な方向にネジ曲げた、見知らぬ男。その男のくたびれた襟首が、また同じ液体に塗れながら垂れ下がっている。
……見知らぬ男ではあったが、着ている服には覚えがある。
あれは、あれは診療所の患者用の診療服、ではなかっただろうか……
「ぅ、くッ……」
突発的な吐き気を飲み下す。
ぽたり、と赤色の鮮やかな雫が、引きずられる男の首元から流れ出し、袖を通じて石段に落ちた。
どんな人間だって、それを真っ当な人間とは呼ばない。死体だ。おびただしい血液を垂れ流す、一の残骸ッ!
アルティオは思い出す。思い出したくもないのに思い出してしまう。
『通り魔事件』の被害者の傷は、鋭利な刃物で付けられたもの! そして出血の酷さ!
そしてそれと、この目の前の惨状が、頭の中で、見事なまでに結び付く!
「ふ、フェルス、さんよ……そいつは何の冗談だ………。ま、まさか、そんなわけない、よな……そいつ………」
「……」
フェルスは無言で、真っ白な顔でアルティオを見る。
視線は虚ろで、どこを見ているのかさえ判然としない。アルティオとて解っている。こんな問答は無駄なのだと。
握られた刀身と、背後にある対の刀。そして人の遺体。
紛うことのない、状況証拠何てものじゃない、この現場は確固たる現行なのだと!
「―――私が、殺しました」
「―――ッ!」
ぎりッ―――そのいっそ静かな声に、声より歯軋りが漏れた。
そうだ、カノンが言っていた。あのステイシアが何者かは解らない。だが、何か、誰かに工作されたものだとしたら―――
何もそう難しいことじゃない。アルティオ自身が追求を避けていただけなのだ。
彼だって立派に疑わしかった。カノンが直接的に口にしなかっただけで、彼だって立派な容疑者だった。
「何でだッ! こいつは一体、どういう事なんだッ!?」
「………貴方には関係のないことです」
冷たい、あまりにも冷えたその声が、アルティオの背筋を凍らせる。打ち捨てるように男の死体を放り投げると、フェルスは目を剥いて彼を凝視した。
反射的にアルティオは剣を抜く。
土壇場に立たされた人間が、どんな行動を起こすかなんて言うまでもない。
「お前も……ディティの贄となればいい!」
「!?」
踏み出したフェルスの異様な素早さに、アルティオは目を丸くする。一介の医者が動ける速さじゃない。
慌てて交わし、ベッドの淵でたたらを踏んだフェルスに、右剣を叩きつけ、
ぎんッ!!
「なッ!?」
フェルスはその剣戟をあっさりと受け止めた。いや、受け止めるだけならともかく、力と技量では圧倒的にこちらが勝っているだろうに、力を込めた剣はびくともしない。
そりゃ、医者に力が無くてはいけない、なんて決まりはない。だが、フェルスのそれはあまりにも異様だった。
繰り出された左の剣も、白衣の裾をわずかに薙いだだけで、引いたフェルスとの間に間合いが出来る。
「何者んだ、あんたッ」
「…………剣が、……ディティが、私に力をくれる。もう少しなんだ、もう少し血が必要なだけなんだ、大願を果すまで、……私は死ぬわけにはいかんのだッ!!」
激昂と共に石床を蹴るフェルス。相手はこちらを殺す気だ。しかし、こちらは何も解らないうちに彼を殺してしまうわけにはいかない。
アルティオは腰を落して、大振りの一撃を両剣で受け止めた。血走った眼に背筋が寒くなる。
双剣の欠点は全体のバランスから防御が取り難いことにある。だから、この状況は圧倒的にアルティオに不利だった。
―――ちっくしょ!!
ぐっ、とフェルスはさらに剣へ力を込める。
信じられないことに、びし、とアルティオの双剣が軋んだ。考えてみれば、あちらの剣はおそらく何かの力が負荷された魔力剣なのだろう。
普通の剣では応対しきれるはずもない!
「くそッ!!」
溜まりかねたアルティオは剣を引こうとする。だが、振り払うことも出来ず、重心をずらすことが出来ない。
―――くッ!
ばたんッ!!
「アルティオ、伏せなさい!」
扉の轟音と共に、高い声が響く。フェルスの剣の力が緩み、その隙に剣を引いて身を伏せる。
どぅんッ!!!
アルティオと、フェルスの間で小爆発が起きた。アルティオは無傷だったが、フェルスの方は多少、白衣が煤けたようだった。
紫煙が晴れるのを待って身を起こす。フェルスを視線で牽制してから扉を振り返ると、まなじりを吊り上げた美女がこちらを睨んでいた。
「シリア!」
「問題ばかり起こすのはやめてくれないかしら? ストレスで肌荒れしてしまうじゃない」
鼻を鳴らして言った第一声がそれだった。かつん、と傍らに彼女より小柄な影が立つ。
「……フェルス医師、大人しく投降してください」
金の髪を揺らし、碧い瞳の奥には少なからず怒りの色。だが、言った程度で大人しくしてくれるはずはない、と察しているのだろう。その手は既に剣鎌の継ぎ目にかかっていた。
フェルスは彼女に再び虚ろな目を吊り上げる。
「投降、ですって?」
カノンの言葉をあっさりと蹴ってみせるフェルス。
彼女は嘆息して部屋の内部を見回した。ベッドの上で静かに眠る、美しい婦人にシリアが絶句している。カノンは目を細め、渋い顔をさらに歪めた。
ベッドの上に吊るされた青の剣に目をやり、そしてフェルスの握るもう一つの剣を見て同じ表情で唇を噛む。
「……フェルス医師、貴方が何をしようとしているのか、察しは付いています」
「…………でしたら、見逃してやってください。そして、私の、彼女の贄に挙がってください……」
「お断りします。フェルス医師、貴方だって解っているはずです。自分のやっていることが、どれだけ理に外れたことか。
それで目的を果せたとしても、貴方はそれで満足するというのですかッ?」
「五月蝿いッ!!」
ぴしゃり、とついにカノンにも彼は怒号を吐き出した。押し込めていたものが堰を切るように、いっそ憎しみを込めて言葉が空を切る。
「貴方たちだって解るでしょうッ!? 理不尽にッ、訳の解らないまま大切な人間を奪われたらッ!」
吐き捨てて、目を剥いて、ベッドの上を差した。眠る婦人に目をやって、カノンは打ち捨てられた哀れな男の遺体を見つける。カノンの眉が吊り上がる。
「……彼女の、貴方の奥さんのディティ=ラント。カルテには死亡表記がされてませんでした。
長らく植物状態のまま、意識は戻らない。あたしは医者じゃない、どういう病名で、どういう経緯があって、貴方の奥さんが倒れたのかなんて知りっこない!
けどね! だからって、他の人間の命を奪っていいことにはならない程度は解るわよッ!!」
「黙れッ!」
「黙らないわッ! これはどういうことなのか、説明して貰おうじゃないッ!
……今、ステイシアは上の部屋で苦しんでる。貴方に助けられたときに付けていた指輪、あれに苦しめられてね。外そうとしても外れなかった」
「そうね。フェルス医師、一年前に何があったんです? 何故、盗賊に殺されたはずの彼女が生きていて、何故こんな場所に奥さんを幽閉して、……『通り魔事件』なんて起こさなければならなかったのか、説明してくれなければ納得なんていかないわ」
肩を怒らせたシリアが、カノンの言葉を継ぐ。
フェルスは押し黙ったまま、ひたすらにこちらを睨んでいた。
カノンはそれを受け止めながら、もう一度掲げられた青の剣を見上げる。そして、ぽつりと、
「……違法者狩りの狩人をしていたときに、聞いた話があるわ」
ぴくり、とフェルスの肩が上下する。
「それは永遠の命、不死を求める死術だったわ。質が悪くてね。
不死を得るためには、代償が必要だった。何だと思う?
………他人の血液よ」
「……」
「そのときに狩った違法者は、そのために数多の人間の身体から血を抜いて、死術の核に吸わせていたわ。その核は、剣の形なんてしていなかったけれど……
これはあたしの推測よ。
貴方はその剣―――二つの剣を、死術を元にして創り出した。
貴方の握っている剣は、他の人間から血液を吸い出すもの。もう一つの剣は、対の剣の血液を通じて生命力を与えるもの。
でも、そこで何らかの不具合が生じた。そして貴方はその不具合をセーフガードするために、一年前、虫の息で発見されたステイシアを何らかの形で利用した……
違う?」
「……」
フェルスは構えた剣を下ろす。ベッドに横たわる婦人を、虚ろに、しかし愛おしげに眺め、深い溜め息を漏らす。僅かだが、瞳が正気の色を取り戻していた。
「……違法者狩りをしていた方とは。思ってもみませんでした。
その通りです。ただし、これは私が創ったものではありません」
―――っ。
その一言に、カノンの表情が歪む。しかし、フェルスは気づかぬままで、
「他人の生命の証―――血を摂取することで、生命を維持させる。月の剣には癒しと潜在能力を高める能力が、陽の剣には人と血を狩る能力が、それぞれ付加されていた」
「……それで貴方は、血液検査の振りをして、剣と適合する血を持つ人間を狙った」
「剣もなかなか悪食でしてね。適合率が低いと、月の剣の癒しの能力が維持できなくなるんです。
―――この剣は生き物なんですよ。血を吸い、所有者の能力を高める、言うなれば吸血鬼のような、ね。
しかし、そこで問題が起こりました。剣は、癒しに必要なのは血の代償、しかし狩りの能力の代償は、所有者の生命力―――魂でした」
「……ッ」
「この剣は生き物です。他の生物に寄生して、生命力となる魂を吸いながら一連の役目を果す。
そしてある一定の血と、人一人の魂を完全に吸い取ったとき、初めて完全なる、強力な癒しの力と狩りの力をもって完成する。 ……私がこんなことをしているのは、妻と共にもう一度、穏やかに暮らすためです。私が魂を失い、死んではその目的は果せない」
「ち、ちょっと待て、じゃあ、じゃあステイシアはッ!?」
不穏な空気を読んで取ったアルティオが、絶望に近い声を上げる。カノンは奥歯を噛み締めて吐き出した。
「……あの指輪は、所有者が受ける責を転嫁させるもの。そういうこと?」
「この剣は寄生虫。人のような明確なものではありませんが、生命と意志を持っています。
『あれ』は剣の生命に取り憑かれ、ただ動いているだけの死体に過ぎません。……『あれ』は、貴方たちもお気づきの通り、とおに死んだ人間なんです。
彼女には申し訳なく思っています。今、剣は彼女の体に残っていた魂を喰らいながら、より強い魔道具へと成長しつつあります。この剣は、完成しつつあるんです。彼女ももうすぐ蘇る……。
私の、私の五年間が、ようやく、ようやくやっと報われるんです……ッ!!」
「だからって、何で罪も無いただの女の子が、そんなことに使われなきゃならなかったっていうのよッ!?」
「仕方が無かったッ!
この剣の存在を知ったとき、そしてこの剣を受け取ったときッ、私はどんなに歓喜したかッ!
そのための贄に悩んだときッ、私は思ったッ。魂だけを吸い取るものならば、死んだばかりの、まだ完全に肉体と精神が遊離していない人間に、あの指輪を填めることが出来たらとッ!
そんなときに街道であの娘を見つけた。ほぼ瀕死の状態だったが……私の思惑は成功した。意識のないはずの彼女の死体は、生前のまま動き出したのだッ!
悪いとは思ったさッ、だが仕方なかったんだッ! 考えても見ろッ!」
フェルスは両手を広げ、その場にある異様な光景を誇るように差した。ぎりぎりと、握り締めた拳から、少量の血が滴っている。「死んだ人間とッ、……眠りながら、何年も生かされる苦痛を味わっている人間とッ、どちらが助けられるべきだと言うんだッ!?
彼女は悪くないッ! 私はこれまで医者として、患者のために尽くして来たッ! 一切の不明を嫌い、そのせいで地位も権力も棒に振ったッ!
それが最良だと思ったからだッ! それがひいては私や妻のためになると、信じていたからだッ!! 人として当然のことだと思っていたからだッ!! 人の道だと思ったからだッ!
その仕打ちがこれだッ!!」
ベッドの上を指せば、しかし、そこに眠る婦人は欠片も彼の動作に気づくことはない。
「いつもそうだッ! 人の道を守る人間ばかりが損をするッ!
ならば、神を恨みながら、石にしがみ付いてでも生き残るッ! 背いてでも、私は彼女と安らかに生きるのだッ!
神は死んだッ!
この世界は死んだのだッ!
私は人であることを捨てたッ。私は彼女と生き抜く運命にあるッ!
そのためなら、そのためなら、とおに死んだ抜け殻だけの人間など、どうでも……ッ」
「ッ、……ふざけ…ッ」
「ふざけんじゃねぇッ!!!」
「ッ!」
びりびりと、雷が落ちた後のように、その怒号は暗く、冷たい部屋を揺るがした。
「アルティオ……」
振り返ると、唇をきつく噛み、ぶるぶると拳を振るわせる彼が、見たこともない表情でフェルスを睨んでいた。
噛んだ唇は、もう薄く切れてしまっている。
きりきりと、歯を噛み鳴らすかすかな音が、痛々しく、彼の最大限の傷心を物語っていた。
「ふざけるなよ、あんた……ッ」
「アルティオ……ッ」
駄目だ、と本能的に悟る。止めようと手を伸ばすが、それは数瞬遅く、アルティオの口は堰を切る。
「あんた、自分がしたことがどういうことか解ってるのかッ!?
あの娘はなッ! 心臓を突かれたんだぞッ!? たまたま、親父と一緒に旅してただけなのにッ! 質の悪ぃ盗賊に目ぇ付けられてッ!
さぞかし恐ろしかったろうよッ! あんたの奥さんと同じだッ! 何にも悪くないのにッ、何もしてないのにッ、そんな怖い思いをしたあげくにあんな若さで殺されたッ!
やりたいことだっていっぱいあったんだぞッ!? パンも焼いてみたいし、あんたの好きな魚のムニエルだってずっと練習して作ってたッ、花だって育ててみたかったッ、綺麗な刺繍に憧れて、ずっと練習してたんだぞッ!? いつか、あんたの白衣を縫ってあげて、テーブルクロスにあんたの好きなスイセンの花を編んであげたいって……ッ!
こんなことじゃ恩返しにもならないけど、って、本当にあの娘はあんたを慕ってたんだぞッ!?
その仕打ちがそれってかッ!?
ふざけるなふざけるなふざけるなッ!!!
痛い思いして、それでも……それでお天道様に召されられると思ったら、何だッ!?
今度はあんな真っ青な顔で苦しまなきゃいけないのかッ!? 信用してたはずのあんたに裏切られてッ!?
あんた、二回も死ななきゃいけない人間の気持ちがわかるってのかよッ!? わかんねぇよな、俺だって分かりっこねぇッ!!
でもなッ! 死者を辱めて、その上背負わなくてもいい苦しみを与えてッ! それがどんなにいけねぇことかくらい解るぜッ!?
確かにあんたは苦しかったろうよッ、こんなにやつれた奥さんを、ぐったりした大切な人を見て過ごさなきゃいけないなんてな、ぞっとすらぁッ! けどだからって、こんなことしていい理由になりゃしねぇだろッ!? あの娘をこれ以上、苦しめる理由になんてなりはしないだろッ!?」
「アルティオ……」
一気に吐き出した彼の目尻が、僅かに滲んで歪んでいた。でも泣かない。泣きたいのは、彼じゃないからだ。
彼が、最後の最後まで庇っていた、彼に無垢な好意を抱いていた、あの少女なのだ。制するように、シリアが肩に手を置く。
カノンはフェルスを睨む。だがしかし、かの医師の目付きは変わらぬまま、狂気を宿していた。
「……それはずっと繰り返して来た問答です。今の私には、何の、意味も、ない」
「―――ッ! ……わかってねぇ、あんた、ぜんっぜん、わかってねぇぜ……」
握り締めた拳を、シリアは無理矢理解かせた。それ以上、握っていては剣を持てなくなると判断したのだろう。
叩きつけるべき思いを、しかし、言葉に出来ずに彼はただ悔し涙を堪える。
そのときだった。
かつッ……
「―――ッ!」
「っ、あ……」
中途半端に開いた扉が、さらに押し開けられる。そこに立っていたのは、青い顔でフェルス医師と、翳された剣を凝視するルナと、そして、
「ステイシア……ッ」
「……」
真っ白な顔で表情無く、レンに支えられた、かの少女が、いた。
「………せん、せい…」
「……」
少女の掠れた、小さな声が部屋の中に虚しく響く。フェルスは無言だった。
聞いていたのか、なんてものは無粋な問いでしかない。彼女は、フェルス以上に虚ろな目で室内を眺めて、俯いた。
ふるふると震えながら、唇を噛んで、目を伏せる。
小さな肩が、泣いているように見えた。
「わ、たし……もう、この世の人間じゃ、なかったんですね……」
「違う、ステイシアッ! それは……ッ」
咄嗟に口を付いて出る言葉は、何の慰みにもならなかった。切れ切れの言葉は、悔しさからか、それとも全く違った意味を持っているのか……。
誰にも、彼女の胸中を推し量ることなど、出来はしなかった。
だから、彼女が次の一言を発するのを、待つことしか出来ない。
「………先生」
「……ステイシアさん。解ってください……もう剣は完成するのです。血は集めました。
貴方が、貴方の魂さえ剣が吸い取ってくれれば……」
「………」
ステイシアは茫然と、フェルスを眺めていた。がくん、と折れそうになる膝を、傍らに立っていたレンが支える。
たまらずにアルティオは、彼女に駆け寄った。
だが、その乱暴な足音には反応せず、彼女は宙を向いている。
薬指の指輪は、今だ妖しげな魔性の光を放っていて、彼女の額からは脂汗が流れていた。倒れ、悲鳴を上げるほどの苦痛が、今だ彼女を苛んでいるのは、明白だった。
フェルスは彼女に背を向けて、ふらついた足取りでベッドの側へ寄る。
はっ、としたカノンが剣を抜いた。が、その瞬間、
ぎんッ!!!
「―――ッ!?」
フェルスの背へ斬りかかったカノンの刃の腹を、唐突に横合いから繰り出された蹴りが弾き飛ばす。
その様に、カノンは覚えがあった。
「あんたッ!?」
「させやしねぇよッ!!」
ばさっ、と竜の翼を広げた少年が、伸び上がるような蹴りを放つ。眼前に放たれたそれを紙一重で避ける。
すると少年は翼をはためかせて、背後に肘鉄を放った。
「―――ッ!」
背後から迫っていたシリアの刀が宙を舞う。
「シリアッ!」
「ちっ!」
舌打ちをしたルナが呪を唱え始める。レンも剣を抜きかけて、
ぎちッ!!!
「な―――ッ!?」
「……邪魔、させません、です」
ステイシアを支えたアルティオを含めた三人の足元に、急激に方陣が展開される。淡い光を放ち、びりびりと雷を放っている。
身体に力が入らない。重い何かが身体にぶら下がっているかのように、体中が軋み、身動きが出来なくなる。
三人はがくん、と膝をついた。
「―――ッ!」
痺れる舌を噛みながら、かろうじてルナが声の方向に顔を上げる。暗い部屋の、闇の中に、紛れるようにして小さな少女が立っていた。黒い長い髪、瞳、雪のような肌、フリルのついた可愛らしいゴシック調の服。
無表情で、こちらを眺めながら、鈴の鳴るような声で言う。
「ちょっとだけ、じっとしてて、です」
「く―――ッ!」
―――こいつら……、一体、どこからッ!!
扉はルナたちの背後。とてもじゃないがこんな場所に二人の人間が隠れられて、その上気配も感じないなんてッ!!
ルナは慌てて痺れる舌を噛みながら、方陣の解呪の呪文を唱え始める。
この方陣なら知っている。解呪の方法も知ってはいたが、呂律の回らない舌では、少しずつ、言葉を読んでいく他ない。
「うっ、うう、ぁ……ぅあああッ!!!」
「う、くッ……す、ステイシア……」
その間も、指輪の光はステイシアを苛み続けていた。真っ白な頬を汗が流れていく。ぐったりとした手足は、もう僅かほども動かせないのだろうか。
どんッ!!
「く、ぅぁッ!!」
「シリアッ!」
カノンの焦燥の声が上がる。
鈍い音は、シリアが背中から壁に叩きつけられる音だった。だが、カノンには駆けつけることも出来ず、彼女は慌てて少年の繰り出された拳をかがんで避けた。
すぐさま足払いをかけるが、あっさりと飛んで避けられる。
舌打ちも虚しく、そのうちにフェルス医師はベッドに辿り着く。
「くッ、や、止めろ……ッ」
「……」
唇を噛んだレンが、アルティオに支えられたステイシアを見る。そう、剣を完成させないだけなら簡単だった。
今、あの剣の意志が入っているのは、ステイシアの肉体なのだ。だから、今、彼女を斬ってしまえば、剣は永遠に完成しない。 しかし、それに何か意味はあるのだろうか。
彼女を犠牲にしたフェルスと、何らやっていることは変わらない。
そして、それを行える人間が、今この場にいるはずもなかった。
フェルスは愛しげに、妻の白い頬を撫でた。そうして薄く笑みを浮かべ、頭上に掲げられた剣を見上げる。
そして、自身の握る剣を振りかぶる。
それが合わせられたときが最期なのだ、と直感的に悟る。
「ッ! やめなさいッ!!」
カノンの声が飛ぶ。しかし、それがフェルスの耳に届くはずもない。
だから、カノンは苦さに表情を歪めながら、自分に放たれた蹴りを、紙一重で避け続けるしかなかった。
「くッ!」
「おっとッ!!」
頭部を狙って繰り出した剣を、少年は首をすくめて避ける。
「く……そッ! やめろッ!!」
「……ッ!」
一番、悔しさに顔を歪めていたのはルナだった。呪文は、まだ、間に合わないッ!!
――――――きんッ!
………剣と剣が合わせられる、乾いた音が、無情にその場に響き渡った。
「……我望む、解するは苛まれし哀れな羊、解き放て、ブロッカーブレイク」
小さくルナの解呪を告げる声が、響いた。同時にレンとルナは立ち上がり、レンは得物を手に踏み出して、ルナは新たな呪を唱え始める。
それを阻むように立ったのは、あの小さな少女。無表情で片手を振り上げる。
……アルティオは、その場を立つことが出来なかった。
腕に抱えた少女の身体が、どんどん軽くなっていくのが、解ったから。
知っては、いたつもりだった。
あの瞬間。彼女が倒れているのを見つけて、脈を取って、……温かではあったけれど、その心臓が動いていないことを、見つけたときから。
でも、温かだったのだ。
数刻前まで、握っていた彼女の手は、間違いなく温かくて、この温かな身体を弾ませて、アルティオをネリネの丘まで引っ張っていったのだ。
それなのに、何故こんなに急激に、彼女の身体は冷たくなっていっているのだろう。
別れることになると、解っていた。
でもそれは、こんな形じゃなくて、ちゃんと診療所の前で、カノンの世話を看てくれていたことに例を言って、笑って、そしてまた機会があったら必ず寄ると約束をして……
そんな穏やかな、他愛も無い別れになるはずだった。
それが、
それが、どうして―――?
「………ある、てぃお、さん…?」
僅かな意識で、彼女は薄く瞳を開く。
「何で……泣いて、いるんですか………?」
言われて、気が付いた。
馬鹿だな、泣いてる場合なんかじゃない。泣きたいのは俺じゃない、この娘の方なんだ。
彼は人の痛みが解る男だった。
だから悟ってしまう。彼女がこの瞬間、どれだけ追い詰められて、どれだけの痛みを抱えて、この世を去らなければいけないのか―――。
だから、だから一つでも彼女に未練を残させないように。
泣いては、いけないはずだったのに―――ッ!
「なさ、けない、な……」
「……?」
「何で、何でなんだよ……俺は、俺は惚れてくれた女の子一人、守れないような、そんな情けない男だったのかよ……ッ!
それで自分が泣いちまうなんて、何なんだよ、俺は……ッ!!
なっさけねぇッ!!!」
「………」
「ごめん、な………本当に、不運、だよな………。こんな、こんな情けない男に、惚れるもんじゃねぇぜ………。ごめん、ごめんな……
俺、こんな駄目な男で、ごめんな………」
「………」
歯を食い縛って慟哭を抑える彼の頬に、白い手が、ゆっくりと、かかる。
それが、最期の力であると知っていて、
最期にするべきなのは、それだと、悟ったから、そうした。
「なか、ないで、ください……」
「………」
「ひとでない、私のために、ひとである、あるてぃおさんが……なくことは、何も、ありません……」
「ッ! 馬鹿なこと言うなッ!!」
か細い声に、アルティオの怒号が叩きつけられる。
「あんたは人だったッ! こんな短い間しか一緒にいなかった俺だって解るくらい、可愛い普通の女の子だったッ! それだけは言ってやらぁッ!
お前はステイシアなんだよッ! そういう名前の、可愛い人間の女の子なんだよッ!
笑顔の素敵な、あんな可愛い女の子だったじゃねぇかッ!!
誰がそうじゃないなんて言ったよッ、そんなわけねぇじゃねぇかッ! それだけは、俺が、俺が保証してやるッ!
あんたは人間だッ! あったかい、あったかい血の通った、人間なんだよッ! 女の子なんだよッ!!
だから……ッ、だから、生きていていいんだよッ! 生きたい、って言っていいんだよッ!!!」
「………」
アルティオの頬を伝った涙が、また彼女の頬に落ちて、濡れる。
ステイシアの目尻にも、同じ雫が浮かんでいたために、もうどの雫が誰のものか、解らなくなっていた。
その怒鳴り声に。
それまでぐっ、と押し殺していたステイシアの無表情が、あっさりと、剥ぎ取られた。
「いき……たか……った………」
「………」
「いき、たかった、よぅ………ッ! わたしッ、わた、しッ……うっ、くぅッ………
死に、たくなんか、なかったッ……
あな、たと、一緒に、いきてみたかった……ッ!
でもッ、でもッ………いきてッ、いきッ……できなッ……ぅく、ふぅぅ………ッ!」
「……ッ! ああ……そうだよな………ごめん、…ごめん、な……叶えてやれなくて、ごめん、な……」
ざらり、と彼女の体が砂のように崩れる。
一度、魂を売り渡してしまった人の身体は、地に帰ることすら、許されないのだろうか。
ステイシアは、一際強い胸の痛みに、最期を悟って―――
それでも、我侭を言う子供のように、泣きじゃくる顔を残したくはなくて―――
無理矢理―――
最期の力で、涙を、拭いた。
「あ、りが、とう……ござい、ました………」
「………」
「―――ッ、ぁ」
彼女は、本当に、最期のその力で、無理矢理作っていることがばればれの笑顔を、―――あの、華やかな笑顔を、最期に浮かべて―――
最期に、選んだ言葉を、口にして―――
ざらりッ……
耳障りな、余韻を残して。
彼女の笑顔は、そっと、消えた。
『人を、好きになれて、良かった―――』
←9へ
「は、ははは……な、何言ってるんだ、カノン……。そんなこと、あるわけないだろ?
質の悪い冗談はやめろよ。お前らしくもない」
長い間を置いて、アルティオはそう言葉を搾り出した。カノンにしてみれば、それは予想の範疇を出ない回答だった。
だから憂鬱に頭を抱える。
さあ、どう説得したものか。どこから話せば、冷静な判断力を失わずに聞いてもらえるか。
カノンは軽く頭を振って、面を上げる。
「アルティオ、ステイシアが一年前から昔の記憶を失っているのは知ってるわよね?」
「あ、ああ……そう聞いた」
「……一年前、何があったのかは?」
「ん……いや、……郊外で倒れてたことしか……」
「フェルス医師はね、周りの人間にそれとなく、ステイシアの記憶のことについて触れないよう注意して回っていた。
それが何故か解る?」
「何故って、そりゃあ、気遣いだろ?」
「ううん、そうじゃなくて。何に対しての気遣いか、解る?」
アルティオが答えに詰まる。カノンが何を意図してこんな問答をしているのか、解らないのだ。
「……一年前まで、この町にときどき行商に来ていた、バルド、っていう小さな町の商人がいたらしいの。彼はたまに娘と一緒に来る時もあってね。
噂だと、一年前、ここら辺ではちょっと力の強い盗賊団がいて。
ちょうど行商に出ていた商人と娘さんは、そいつらに襲われた。商人の遺体は見つかったけど、娘の方は行方不明。
年月も、娘の年格好も似てるそうだからたぶん……」
「……ステイシアだった、ってことか?」
「……おそらく」
噛んで含めるように、ゆっくりとカノンは言葉を選ぶ。聞き返したアルティオは、訝しげに表情を歪め、
「だったら……何もそんな。
盗賊に襲われたら生き残れない、ってわけじゃなねぇだろ……運良く逃げられて、でもショックで記憶を失ったとか……」
「そうね。あたしも聞かされて最初、そう思ったわ。
噂を知っている街の人たちだって、そう考えたからフェルス医師の話を違和感なく受け入れたんでしょうね。
でも、……アルティオ。背中からこう、左側を一突きされて、それでも生きてる人間がいると思う?」
「……どういう、ことだ?」
カノンは立ち上がってアルティオの背後に回り、左側の、ちょうど肩甲骨の脇辺りを軽くとん、と叩いてみせた。
そこを一突き。
アルティオも剣士としての修行をこなしてきた身だ。人間の急所くらいは熟知している。
人の心臓はやや左よりの胸部。
そんな場所を、たとえ短刀であっても一突きされたとしたら……
「何でそんなこと……」
「……貴方とステイシアが一緒にいるのを見てね。自ら名乗り出てきた男がいたそうよ。
その男はね、一年前までその恥知らずな、人の命を何とも思ってない盗賊団の一味の一人だった。けど、他の連中と違ったのは、単に心臓の毛が少なかったのか、それともそれで初めて罪悪を覚えたのか知らないけど。
……男は女の子を一人、殺させられて、そのときのショックで盗賊団を抜けた。
盗賊団はその後、討伐されたらしいけど。足を洗って、この町から出るために金を稼いでた男は信じられないものを見る。
自分が殺したはずの女の子が生きていて、街中を平気な顔で歩いているのをね」
「・・・ッ!」
一言一言を丁寧に語ったカノンの言葉を、アルティオは十数秒の時間をかけて飲み下す。
「勿論、それだけだったら何の根拠にもならないわ。ただの人違い、他人の空似、誤認で片付けられる。
でもね、一年前という月日の一致、境遇。状況証拠なら幾らでも出てくる。
………はっきり言って、無視出来るようなものじゃないわ。
そして問題はステイシアの倒れていた場所なのよ」
「場所……?」
「仮にステイシアが一命を取り留めていたとしても、よ。行商人が襲われたのはランカースとバルドを結ぶ街道上、人の目も少ない森の中の街道よ。ランカースから五キロは離れてるわ。
にも関わらず、フェルス医師の話では、ステイシアはランカースの郊外で発見されたはず。
背中から左胸を刺された人間が、果たしてそんな距離を移動できるかしら?」
「そ、それは……」
そんなものは素人でもわかる。たとえ心臓を逸れていたとしても、そんな大怪我を負った人間が、五キロなんて距離を移動できるはずはない。
「で、でも可能性がないわけじゃないだろッ!?
何の理由が知らないが、他の人間が運んだとか、本当はフェルスさんは郊外で発見したんじゃなかったけど、真実から離れさせるためにステイシアに嘘を言ってるとか……、そもそもその男の話が嘘かもしれないじゃねぇか……ッ!
どんな理由か知らねぇが、死んだはずの人間が生きてるなんて話よりよっぽど現実的だぜ……!?」
アルティオが歯軋りを鳴らしながら反論する。対して、カノンはさほど顔色を変えず、力なく首を振った。
「……レンとルナの姿が見えないと思わない?」
「―――え?」
「昨日から、ね。二人には調べものをしてもらってるの。
ルナはバルド村の、その行商人の奥さんに会いに。レンは一年前、フェルス医師との不和で辞めたっていう、ここの看護士を探しにね。
レンの方はまだ音沙汰ないけど、ルナの方からはついさっき、本人より先に封書が届いたわ。
たぶん、人に頼んで届けてもらったんだろうけど……」
カノンは言って、白い、至って簡素な封筒を差し出した。
アルティオは、いつの間にか溜まっていた固唾を飲み込んで受け取る。思ったよりも震えていた指先が、中に入った薄い羊皮紙が、上手く取り出せなくてもどかしい。
端的な文面に表情が凍り付いていく。
「バルド村の、その行商人の奥さんはね。
ステイシアの遺体を確認しているそうよ。……この、診療所で、ね」
「な……ッ!?」
文面に記された内容。カノンの冗談を許さない目。アルティオは口の中に押し寄せた苦味に、耐えるように唇を噛んだ。
「たぶん、帰って来てから詳細を聞くことが出来るでしょうね。レンの方も、そろそろ報告が来てもおかしくない頃だわ」
「け、けど……」
「あたしだって信じられないわよ。今だって完全に信じてるわけじゃない。
でも、考えてみて。
男は『ステイシア』と思われる少女を殺している。この遺体はきっと、彼女の母親が確認したという『彼女』でしょうね。
でも、ここに『ステイシア』は現存して、フェルス医師はそれを郊外で保護したと言っている。それにあたしは本人から『"ステイシア"という名前だけは覚えていた』と聞かされてるの。
全部の情報を集めると、男に殺されて遺体が親族に確認されている『死んだステイシア』と、彼女に見間違えるほどそっくりな、記憶喪失の『生きたステイシア』が存在することになるわ。
それも彼女たちが『死んだ時期』と『記憶を失った時期』がぴったり重なる、ね。
どれだけの偶然が起これば、そんな確率に恵まれるの? フェルス医師はどうして彼女たちを同一人物だと思わせるような発言を周囲にばら撒かなきゃいけないの?」
「だ、だけどよッ! そんな人が生き返るなんて話……ッ! 在り得るわけねえだろッ?」
「ええ、在り得ないわ。そんな話はあたしだって信じてない」
「へ……?」
声を荒げたアルティオに、カノンはあっさりと頷いた。しかし、その顔は晴れるどころか、一層の雲を漂わせて口を開く。
「嫌な話をするわよ?
町についた最初の晩に、あたしはクオノリアで会ったあの男に襲われたわ。
何故、あの男は目撃されることを覚悟で最初にあたしを襲ったの?
それも殺すつもりもなく、『入院する程度の大怪我』を負わせるのが目的で。
……答えは『入院』させるため。診療所の内部に接触させるため、よ。それは今巷で発生してる『通り魔事件』に関わらせるため。
フェルス医師は『通り魔事件』の被害者を治療してる身だから、事件について誰よりも詳しいでしょうからね。
でも用心深くなってるあたしたちは、思惑通りに関わろうとしなかったわ。
そこでこの予防線を張った」
「予防線……って」
「『死んでるはずの人間が生きている不可思議』。
これを不審に思わないはずがないわよね?
どう工作したかは解らない。でも、人間が死んで生き返ることがないとすれば……
あの『ステイシア』は、」
「……ま、待てッ! ちょっと待てッ!」
カノンが結論を断するより先に、アルティオがそれを防ぐように声を上げる。
「待ってくれ、カノン! 確かにあの娘は変わった子だし、生い立ちだって不明だッ!
でもよ、普通の女の子なんだッ! 花だって愛でるし、可愛いものに目がなくて、拾ってくれたフェルス医師に心から感謝してこの診療所に勤めてる!
そういう普通のッ、普通の可愛い女の子なんだぜッ?
それを、お前は"人間じゃない"なんて言うのかッ!?」
「あたしだって、こんなことは言いたくもないし、疑いたくもないわよッ!
けどねッ、あんただって見たでしょうッ? あの黒衣の男の人間が、ルナの魔法をまともに喰らっても平気な顔で逃げたのをッ!? あれが人間に出来るっていうのッ?
だったら、考えたくもない考えに至るのよッ! "奴"は死んだはずの人間を利用して、何らかの刺客をここに放っていた、ってッ!」
吐き出したときにはお互い、息が切れていた。アルティオの顔には焦燥が、カノンには苛立ちが、そして両方、僅かな怒りが篭っていた。
「……工作をしたのが一年前なら、あたしたちを迎え撃つために、『ステイシア』を派遣したわけじゃない。
むしろ、何らかの計画が進んでいて、それがあたしたちを迎え撃つのに、ちょうど良かった、ってことになる。
……クオノリアは有象無象の合成獣を生む牧場になった。
この件と『通り魔事件』がどこでどう結びつくかは、まだ解らない。でも、この町で何かが行われてるのは確かなの。
アルティオ、あんたはその格好の駒にされてるのかもしれないのよッ!? ひょっとしたら、もう向こうの術中に嵌ってる可能性だってある!」
「……」
アルティオの顔がそれ以上、ないほどに歪む。
カノンは厳しい表情を変えずに、自分よりも遥かに上背の高い彼を睨み上げた。冷たい汗が頬を伝う。
気がつくと、呼吸することさえ忘れていた。
「……」
アルティオは長い時間をかけて、自らの中で葛藤を続けていた。
先ほどまで、ネリネの丘で微笑んでいた少女。その少女を、信じるか、疑うか。疑うためのカードは山ほど突きつけられた。
それは、アルティオが駒だとすれば、そして今、この状況が奴の術中なのだすれば、"奴"に狙われているカノンを危険に曝すことにもなり得る選択だった。
彼は―――。
ゆっくりと、喉を上下させ、瞑目していた瞳を開き、
その場の凍りついた雰囲気に、折れないよう、腰をすえてカノンの目を見た。
「……カノン」
「……」
「俺さ、ここ一週間、暇を見てはあの娘の相手をして来たんだ」
「ええ、知ってるわ。そりゃあもう、あの娘、聞いてて鬱陶しくなるくらい、幸せそうに惚気てくれたもの」
「……そっか。なら、……解るだろ? あの娘は、……普通の女の子なんだよ」
「アルティオ……!」
やや強い声が口をついて出る。アルティオは、その彼女の肩を抑えながら、
「カノンが俺のために言ってくれてんのは解るさ。けど俺は、どうしてもあの娘が嘘を言ってるようには思えないんだよ。今の話が無視出来ないのは解るさ。
……でもな、どれだけ低い確率でも、もしかしたらあの娘は本当に無関係なのかもしれないし、あの変な奴が絡んでるとしても、本人には自覚がないのかもしれない。
……だったら。
俺、今あの娘を見捨てたら、一生、後悔するような気がするんだよ」
「………」
何せ、世界一のフェミニストだからなッ、とふざけてみせる。
カノンは視線を緩めないまま、アルティオを睨み続けた。肩を落とした、しかし、どこか決意のようなものが感じられる彼の表情に、力なく首を振った。
例え、千回殴っても変わらない目だ。
こいつのしつこいくらい太い神経と根性、馬鹿さ加減は身を持って知っている。
「……解ったわ。好きにしなさい。
でも、レンやルナの情報によってあたしたちがどう動くか、それを指図される言われはないわよ?」
「……解ってるさ。こいつは俺のただの我侭だ。
………………ごめんな。
カノンだって、俺のために言ってくれたんだよな。ずっとあの娘に看護されてたんだし、カノンだってそりゃ、言いたくなかったよな……」
「別に。実際、あの娘に一番触れてたのはあんただし、そう決めたならがたがた言わないわ。
それに、少し感心した」
「?」
ふぅ、とカノンは溜め息混じりに場違いな笑みを浮かべる。仕方のない子供を見るような、ッ少し呆れた表情で、
「冷静な判断云々はともかく……
男は上がったんじゃない? ちょっとはね」
「……さんきゅ」
に、とアルティオは唇の端を吊り上げる。困ったように笑うカノン。
アルティオは知っていた。カノンはステイシアも、アルティオも、責めるつもりなどないのだ。それでも、言わなくてはいけないことだから、言った。
もしものときは、剣を振るわなくてはならないから。
そのとき少しでも、彼が迷いに傷付かないように。
そんな少女だからこそ、アルティオは彼女のことが、子供の頃から、ずっと好きなのだ。
すっ、とカノンに近寄ると、反射的に後退る彼女の頬へ、素早く、極短く、自分の唇を押し当てた。
「―――ッ!!?」
「お前も俺の見立て通り、いい女になったぜ。サイコーに。
大丈夫だ。何があっても、カノンは俺が守るからさ」
カノンは何も発せずに硬直する。ぱくぱくと口を開く彼女の頭を、無遠慮にがしがし掻き回すとアルティオは部屋を出た。
ドアから出ると、おそらく終始、耳をそばだてていたのだろう、シリアと目が合った。深い翡翠の瞳の中には、ほんの僅かの非難の眼差しと、呆れの色。
しかし、彼女はそれを口に上らせようとはしなかった。たぶん、調査には彼女も駆けずり回っていたのだろうに、関係ないとでも言うように沈黙を守る。
アルティオはその彼女に、軽く謝るような仕草をしてから脇を通り過ぎるのだった。
シリアはその背中を見送ると、らしくない溜め息を吐いて硬直したままの恋敵を振り返る。
「情けないわねぇ、フレンチキスくらいで固まってるんじゃないわよ」
「よ、よ、余計なお世話よッ! そ、そんなことよりッ!!」
「そうよ、硬直している場合じゃなくてよ。……カノン、貴方、あのことは言わなくて良かったのかしら?」
「……」
むず痒い全身を摩り、カノンは何とか平静を取り戻して、シリアの言葉に顔をしかめた。
「ん……?」
廊下の角を曲がりかけたアルティオは、それに足を止める。次の瞬間には顔色を変えた。
「ステイシアッ!?」
手すりに縋るようにしてぐったりと、倒れ込む少女の姿があった。アルティオが慌てて駆け寄って抱き上げると、その身体は思いの他軽く持ち上がった。
「ど、どうしたッ!? だ、大丈夫か、おいッ!?」
ぐったりとしたまま、反応のない彼女に舌を打つ。手首を取って、体温を確認し、首下に手をやって、
「―――ッ、くそッ!!」
小柄な彼女を横抱きにして、適当な部屋に運ぶ。目に付いたソファに横たわらせるが、医者ではないアルティオにそれ以上のことが出来るわけもなかった。
「ちっくしょ、ここは診療所だろッ!?」
悪態をついて部屋を出る。フェルス医師の白衣の姿を求めて辺りを見渡すが、当然、その場に求めた姿はない。
唇を噛み締めて、廊下を駆け出す。
病室を一つ一つ訪ねるが、そこにフェルス医師の姿はない。それどころか、入院患者の姿もないのはどういうことか。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
アルティオは舌打ちを繰り返しながら診療所中を探し回る。しかし、出てしまっているのか、フェルス医師の姿はない。帰りがけの看護士に聞いてみても、答えは返って来なかった。
田舎町の病院とはかくもいい加減なものなのか。
呆れると同時に、焦燥から怒りが湧き上がる。
「くそ、どうすりゃいいんだよ……ッ!」
ふと、足を止める。気がつけばそこは診療所の最奥だった。見たことのないドアが、薄く、ほんの僅かに開いている。
何かの保存室かと、特に気にもしていなかったドアだ。
慌てた鍵の閉め忘れ……という風にも見えない。ということは、フェルス医師はここにいるのだろうか。
入ってはいけない部屋だろう、ということは察しがついていた。しかし、そんな場合ではないこともアルティオは知っていた。
迷わずドアを開く。かんぬきがついた、重い扉だ。
ドア、というよりは何かを閉じ込めておくような、そんな扉だった。
ドアの向こうはまた廊下になっていた。窓も、照明もない。暗い石の廊下が、ひやりとした怖気を催す凍えた空気と共に伸びていた。
ごくり、と唾を飲み込んで、それでも廊下を駆けて行く。こうしている間にも、ステイシアはどうなっているのか解らないのだ。
……ドアを開け放し、駆けたその背後で、形のある闇が笑っていたのにも気がつかず―――
「くすくす……
どこの誰とも知れない女性のために、ね……。偉い、偉い……くすくす」
かんぬきの扉を抜けて、暗い廊下をしばらく歩くと、再びかんぬきの備え付けられた扉に出くわした。中は二重扉になっており、訪れたアルティオの気力を削いだ。
しかし、その扉もまた、二枚とも鍵は開けられていた。
アルティオは背徳感と、焦燥に押されながら扉を開く。
ぎ、ぎぎ……
心臓に悪い音を響かせて、最初の扉よりさらに重い扉が開いていく。内部に、やや薄明るい照明の光が見えた。
金属の擦れる音が、少しずつ開いていく扉に連れて、緊張感を煽る。
急がなくては、と焦るものの、妙な怖気に迂闊に開くことが出来ない。
そして、
「な……何だ、ここ……」
呻いて、掠れた声が漏れる。
それなりの広さ―――おそらく、病室三つ分くらいの大きさはあるだろう―――の石部屋に、こぽこぽと不思議な水音が響く。
小さなデスクと掲げられた用水槽。薬棚に並べられた物々しい、多数の瓶と魔道実験用具。隣には何文字で書かれているかも解らない分厚い蔵書が並んでいる。
およそ診療所とは似つかわしくない、それは魔道師の実験室そのものの光景だった。いや、それだけだったなら、アルティオは白魔道師であるフェルス医師の研究室なのだろう、と一言で片付けて、白衣姿のないその一室を後に出来たかもしれない。
だが、
「何の……冗談だってんだ、こいつぁよ……」
複数の医療器具。そこから伸びた無数の透明な細い管は、それぞれ器具に備えられたパックに詰まった液体を流し、……
部屋の中央に置かれた大きな医療用のベッドの上に、一様に繋がれていた。
……そのベッドには。
「……ッ、う、ぁ、」
白いシーツに広がる、長く、艶かしい赤い髪。肌は病的に生白く、生気というものが感じられない。長い睫毛に隠された瞳は固く閉じられている。
歳は、おそらく三十に届かない程度だろう。
しっとりとした魅力を醸し出す、美しい女性がそこに寝かせられていた。
そして、最も目を引いたのは、
「何だ、この剣……」
そのベッドの頭上に、まるで崇めるように掲げられ、薄明るい光を放ちながら鎖に吊るされる一振りの剣。
ゆるやかな曲線を描く、華美でない程度に装飾された、青い鞘に収められている剣。
柄は三日月の文様を中心に、青い刀身を掲げている。
近づこうとして、その言いようのない迫力に押されて身体が動かない。
「な、何だってんだ、ここはよ……」
がたんッ
呟いて、後退った瞬間、彼の背後で音が響き渡った…
「ちょっとカノン、何でこの私がこそ泥みたいな真似しなきゃいけないのよ」
「だったら付いて来なくていいわよ。文句ばっかり、五月蝿いわよ」
既に不法侵入済みなので、会話は小声でなくてはならない。夜の帳が落ちて来た、カーテンの締められた薄暗い部屋で、小さなランプ一つを頼りにカルテと本の詰まった棚を探す。
これがなかなか難しい作業だ。
ついでに見つかるわけにもいかないので、シリアという見張りを立てたが、これが五月蝿いことこの上ない。
「大体、本当なの、それ。気のせいではなくて?」
「さてね。でも、あのときのが気のせいでも、『ステイシア』がここで息を引き取ったなら、カルテくらいあっても不思議じゃないじゃないでしょ」
「けど、本当にフェルス医師がクロなら、そんなカルテ残しておくかしら?」
「……そんときはそんときよ」
カノンは肩を竦めて溜め息を吐く。
そう。
『ステイシア』の真相がどう転ぶにしろ、カノンの仮説を取り上げるなら、工作にフェルス医師が絡んでいる可能性は高くなる。
「ステイシア=フォーリィの母親は『ここ』でステイシアの遺体を確認している、と言ったのよ。
同名の、そっくりの少女が二人いるのでなければ、フェルス医師もその遺体は確認しているはず。にも関わらず、死んだはずの『ステイシア』を引き取っていることになるわ。
何にしても、フェルス医師を抱きこまないと、この計画は上手くいかないはずなのよ。
至る所でこの診療所とフェルス医師が絡んで来てる。
『通り魔事件』が何か関係あるのかどうか、あの『ステイシア』は何者なのか、あの黒い奴はどこにどこまで関わっているのか、……どんな線で結んだらいいか、全く解らない点ばかりだけど、一つ一つ確実に調べるしかないわ。
それに、あんたの持って来た情報も確かなんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
合点のいかない顔でシリアは言い澱む。
「被害者の多数はここに通院したことがある。それだけだったら、この町に医者はフェルス医師しかいないんだし、病気しない人間の方が少ないんだから、偶然と片付けられるかもしれないわ。
けど、その中の人間の九割はこの診療所である検査を受けている……」
「……そっちも調べとかないとね。ちゃんと見張りしてなさいよ」
「ふっ、この私がそんな命令に甘んじるとでも……ッ!」
ばきッ!!
カノンの投げた分厚い蔵書の角が、無意味な笑いを上げかけたシリアの脳天にヒットする。
もんどりうって倒れたシリアは、身を起こして抗議に口を開こうとする。が、
「あら?」
ドア口にかかっていた小さな肖像に、目を留める。
以前、カノンが見たあの赤い髪の婦人の肖像だった。
「この人……」
「?」
「うーん……まあ、おそらくだけど、これ……」
シリアは肖像を壁から外す。
「……フェルス医師の奥さんじゃないかしら?」
「奥さん、て……あの数年前に病気で亡くなった、っていう?」
「そうねぇ、容姿は聞いた通りだし。何しろ、こんな大事そうに飾ってあるんじゃあ、ね。
疑うべくもないのではなくて? フェルス医師は昔から奥さんをそれはもう、大事にしていたっていう話だし」
「ふぅん……」
頷いて、ふと思い付く。
「……そんなに目をかけてた奥さんなら、きっと、最後も自分のところで世話してたんでしょうね……」
「ぅん? まあ……そりゃあ、そうでしょうね」
何だったか。
同じような話を、狩人時代に聞いたような気がする……
あれは、何だったけ……
「あ」
動かしていた手を止める。
「あった」
医者の使う文字は特殊だ。オカルト趣味から様々な言語を独学で学んだカノンでも、それは端々しか読み取ることは出来ない。
「シリア、あんた確か白魔道師の指導免許持ってたわよね?」
「ええ、まあ。初級だけど」
人は見かけによらない。頭の片隅で覚えていたその知識を引っ張り出して、彼女の前にカルテを広げる。
「カルテの文字って読める?」
「少しなら、ね」
「じゃあ、お願い」
「ふっ、一生、恩に着るというなら別に読んであげても……」
「シリア」
「……ん、わかったわよぅ。冗談が通じないわねぇ。えーっと……」
呟いてシリアはやや癖のある流れ字を眺めて呻く。読み取っていくうちに、彼女の眉間の皺が徐々に深くなっていく。
「……どう?」
「……ビンゴ。貴女の言う通りのようね。
ステイシア=フォーリィ、リグサス187、アルディレゴ76、サン33の日。負傷原因、鋭利な刺突型の刃物。負傷箇所は左胸、背中から深い傷を負い、運ばれたときはもう虫の息だったそうよ。
傷は肺を傷つけて心臓に達していた。治療の甲斐なく、運び込まれて一時間後に死亡。明記されているわね」
「……」
「まあ……どうせ、嘘のカルテを造るなら、生存のカルテを偽造するでしょうね。
生きているように見せかけたいのだから」
カノンの表情が歪む。ゆっくりと首を振り、苦い顔でカルテを受け取った。
何とはなしにぱらぱらと捲り、息を吐く。
「……ん?」
手を留めた。
「ねえ、シリア。これって……」
「え?」
訝しがりながらカノンの手の中のカルテに、視線を移すシリア。さすがにもう茶化すことは出来なかった。
奪うように彼女の手からカルテを取り上げる。
文面に、再び目を走らせて―――
「…………どういうことかしら、これ…」
「……どうかしたの?」
「どうかするも何も―――」
シリアが青い顔で何事か口にしようとしたときだった。
っ、ぅぁぁああぁああぁああああああッ!!
『ッ!?』
呻きに近い、悲鳴が隣の部屋から聞こえた。顔を見合わせて同時に部屋を出る。
かなりの音を立てたが、何故なのか、誰かが駆けつけようとする足音は聞こえて来ない。
ドアノブを引いたのはシリアだった。
「ステイシアッ!?」
その声に反応して、カノンも部屋の中を覗く。接客室か何かだろうか、革張りの大きなソファにぐったりと少女が寝かせられていた。
しかし、胸元を両手で押さえ、少女は時折、呻きながら奇声を上げる。
「ち、ちょっと、どうしたのよッ!?」
「わかんないわよ、医療系はあんたの方が詳しいでしょッ!」
「冗談、怪我ならともかく、こんな病気の症状は専門外よ!」
甲斐のないことを言い合ってから、声を発して苦痛に悶える彼女に駆け寄る。
顔は真っ青を通り越して真っ白で、身体の温度は著しく低いのに額には脂汗が浮いていた。
カノンは眉を潜める。何故、何があって彼女がこんなことになっている。何が起こっているというのか……
一体、アルティオは何処にいった。てっきり彼女と共にいるものだと思っていたのに。
「カノン」
シリアが名前を呼んで、苦しげに呻く彼女の右手を指差した。
カノンはその指の先を追う。思わず息を飲んだ。
その先には、薬指に填められた、あの赤い指輪が煌々と妖しげな光を放っていた。
遠くから足音が唱和する。それに気がついたのは数秒前からだった。
闇夜が近づきつつある。今宵は誰が犠牲になるのだろうか。
ついに先日、死傷者が出たらしい。街の空気が一気に冷え込んだのも、そのせいだった。
この土壇場に来ての死傷者、それが意味するのは何なのか。『手遅れ』という文字が、頭を掠める。
カツッ!
角を曲がって足音が完全に合わさった。
「!」
「ッ!!」
お互いの顔を認めると、レンとルナはほぼ同時に頷き、お互いの意図を汲み取って同じ方向に、速度を緩めず駆け出した。
「随分と早かったな」
「まあね、馴れない馬車なんてものを使ったわ。おかげで、お尻ががくがくよッ」
「首尾は?」
「びんご。フォーリィ家の母親と妹が、遺体の確認をしたと証言したわ。あの診療所でね。
念のために先に封書を届けてもらったから、カノンも何かしが対策してると思うんだけどッ。
そっちはどうだったのよッ?」
「こっちも、だな。
一年前、診療所を辞めた人間が、辞める直前にステイシアの遺体を見たと言っている。
……だが、それだけじゃない」
「?」
「……シリアの話ではフェルス医師の妻はもう死んでいるという話だったな」
「まあ、数年前に亡くなった、って」
レンは顔をしかめる。その変化に覚えた、嫌な予感がルナの中を駆け巡った。
夕闇の石畳を叩く音だけが、しばし響く。軽く唇を噛んでから、彼は語り出した。
「はっきり言えば、それは嘘だ」
「へ?」
「長年、植物状態にあるらしい。そのせいで世間に出なくなっただけでな。
町の人間も、診療所の連中もとっくに死んだと聞かされていたらしい。だが、そいつは診療所の奥で奥方の姿を見たそうだ。まあ、微動だにしない死体のようなものだったそうだがな」
「じゃあ、その人が診療所を辞めた、ってのは……」
「見たくもなく、見てはいけないものを見てしまったんだ。何かしがの危険を感じたんだろうな。胸に押し込めるしかなかろうさ。
その割に側の石柱を、剣で叩き斬った程度でぺらぺら喋ってくれたが」
「……それ、一般人なら誰だって口割ると思うけど。
でも、何でッ!? フェルス医師がそんな嘘を吐く理由はないはずよッ!」
「ああ、そうだ。だが一つ、嫌な話を思い出した」
「嫌な話?」
走りながら喋るというのは、これでなかなかに労力を使う。息を切らせないよう、速度と声を調節しながら問いかけるルナに、レンは軽く息を吐き、
「死術を狩っていた頃の話だがな。
死術というのは禁忌を犯す術だ。道徳的にも、権威的にも。昔から研究されているタブーとなる術くらい解るだろう。医療に関わるもので、その最たるものは何だ?」
「そりゃあ……」
ルナの顔色が変わる。
同じ考えに至ったのだろう、足を動かす速度が上がった。
「そうだ、人間が億年、万年かかっても成し遂げられないタブー。……蘇生術だ。
死んだ人間を生き返らせる。これほどナンセンスなことはない」
「じゃあ何ッ? フェルス医師は蘇生術を完成させてるってことッ? それでステイシアを蘇らせたとでも言うのッ?」
「いや、それならとっくに妻を蘇らせていてもいいはずだ。
一年前に初めて会い、死んだステイシアを、すぐに蘇らせることが出来たんだ。さらに一年、待つ必要はない」
「だったら……」
言いかけるルナだが、すぐに会話の非生産に気がついたらしい。暗く染まる前方を睨みながら、石畳を踏み、階段を飛び降りる。
「……そんなもんは本人から聞き出した方が早そうねッ!」
「そういうことだ。急ぐぞッ!」
←8へ
質の悪い冗談はやめろよ。お前らしくもない」
長い間を置いて、アルティオはそう言葉を搾り出した。カノンにしてみれば、それは予想の範疇を出ない回答だった。
だから憂鬱に頭を抱える。
さあ、どう説得したものか。どこから話せば、冷静な判断力を失わずに聞いてもらえるか。
カノンは軽く頭を振って、面を上げる。
「アルティオ、ステイシアが一年前から昔の記憶を失っているのは知ってるわよね?」
「あ、ああ……そう聞いた」
「……一年前、何があったのかは?」
「ん……いや、……郊外で倒れてたことしか……」
「フェルス医師はね、周りの人間にそれとなく、ステイシアの記憶のことについて触れないよう注意して回っていた。
それが何故か解る?」
「何故って、そりゃあ、気遣いだろ?」
「ううん、そうじゃなくて。何に対しての気遣いか、解る?」
アルティオが答えに詰まる。カノンが何を意図してこんな問答をしているのか、解らないのだ。
「……一年前まで、この町にときどき行商に来ていた、バルド、っていう小さな町の商人がいたらしいの。彼はたまに娘と一緒に来る時もあってね。
噂だと、一年前、ここら辺ではちょっと力の強い盗賊団がいて。
ちょうど行商に出ていた商人と娘さんは、そいつらに襲われた。商人の遺体は見つかったけど、娘の方は行方不明。
年月も、娘の年格好も似てるそうだからたぶん……」
「……ステイシアだった、ってことか?」
「……おそらく」
噛んで含めるように、ゆっくりとカノンは言葉を選ぶ。聞き返したアルティオは、訝しげに表情を歪め、
「だったら……何もそんな。
盗賊に襲われたら生き残れない、ってわけじゃなねぇだろ……運良く逃げられて、でもショックで記憶を失ったとか……」
「そうね。あたしも聞かされて最初、そう思ったわ。
噂を知っている街の人たちだって、そう考えたからフェルス医師の話を違和感なく受け入れたんでしょうね。
でも、……アルティオ。背中からこう、左側を一突きされて、それでも生きてる人間がいると思う?」
「……どういう、ことだ?」
カノンは立ち上がってアルティオの背後に回り、左側の、ちょうど肩甲骨の脇辺りを軽くとん、と叩いてみせた。
そこを一突き。
アルティオも剣士としての修行をこなしてきた身だ。人間の急所くらいは熟知している。
人の心臓はやや左よりの胸部。
そんな場所を、たとえ短刀であっても一突きされたとしたら……
「何でそんなこと……」
「……貴方とステイシアが一緒にいるのを見てね。自ら名乗り出てきた男がいたそうよ。
その男はね、一年前までその恥知らずな、人の命を何とも思ってない盗賊団の一味の一人だった。けど、他の連中と違ったのは、単に心臓の毛が少なかったのか、それともそれで初めて罪悪を覚えたのか知らないけど。
……男は女の子を一人、殺させられて、そのときのショックで盗賊団を抜けた。
盗賊団はその後、討伐されたらしいけど。足を洗って、この町から出るために金を稼いでた男は信じられないものを見る。
自分が殺したはずの女の子が生きていて、街中を平気な顔で歩いているのをね」
「・・・ッ!」
一言一言を丁寧に語ったカノンの言葉を、アルティオは十数秒の時間をかけて飲み下す。
「勿論、それだけだったら何の根拠にもならないわ。ただの人違い、他人の空似、誤認で片付けられる。
でもね、一年前という月日の一致、境遇。状況証拠なら幾らでも出てくる。
………はっきり言って、無視出来るようなものじゃないわ。
そして問題はステイシアの倒れていた場所なのよ」
「場所……?」
「仮にステイシアが一命を取り留めていたとしても、よ。行商人が襲われたのはランカースとバルドを結ぶ街道上、人の目も少ない森の中の街道よ。ランカースから五キロは離れてるわ。
にも関わらず、フェルス医師の話では、ステイシアはランカースの郊外で発見されたはず。
背中から左胸を刺された人間が、果たしてそんな距離を移動できるかしら?」
「そ、それは……」
そんなものは素人でもわかる。たとえ心臓を逸れていたとしても、そんな大怪我を負った人間が、五キロなんて距離を移動できるはずはない。
「で、でも可能性がないわけじゃないだろッ!?
何の理由が知らないが、他の人間が運んだとか、本当はフェルスさんは郊外で発見したんじゃなかったけど、真実から離れさせるためにステイシアに嘘を言ってるとか……、そもそもその男の話が嘘かもしれないじゃねぇか……ッ!
どんな理由か知らねぇが、死んだはずの人間が生きてるなんて話よりよっぽど現実的だぜ……!?」
アルティオが歯軋りを鳴らしながら反論する。対して、カノンはさほど顔色を変えず、力なく首を振った。
「……レンとルナの姿が見えないと思わない?」
「―――え?」
「昨日から、ね。二人には調べものをしてもらってるの。
ルナはバルド村の、その行商人の奥さんに会いに。レンは一年前、フェルス医師との不和で辞めたっていう、ここの看護士を探しにね。
レンの方はまだ音沙汰ないけど、ルナの方からはついさっき、本人より先に封書が届いたわ。
たぶん、人に頼んで届けてもらったんだろうけど……」
カノンは言って、白い、至って簡素な封筒を差し出した。
アルティオは、いつの間にか溜まっていた固唾を飲み込んで受け取る。思ったよりも震えていた指先が、中に入った薄い羊皮紙が、上手く取り出せなくてもどかしい。
端的な文面に表情が凍り付いていく。
「バルド村の、その行商人の奥さんはね。
ステイシアの遺体を確認しているそうよ。……この、診療所で、ね」
「な……ッ!?」
文面に記された内容。カノンの冗談を許さない目。アルティオは口の中に押し寄せた苦味に、耐えるように唇を噛んだ。
「たぶん、帰って来てから詳細を聞くことが出来るでしょうね。レンの方も、そろそろ報告が来てもおかしくない頃だわ」
「け、けど……」
「あたしだって信じられないわよ。今だって完全に信じてるわけじゃない。
でも、考えてみて。
男は『ステイシア』と思われる少女を殺している。この遺体はきっと、彼女の母親が確認したという『彼女』でしょうね。
でも、ここに『ステイシア』は現存して、フェルス医師はそれを郊外で保護したと言っている。それにあたしは本人から『"ステイシア"という名前だけは覚えていた』と聞かされてるの。
全部の情報を集めると、男に殺されて遺体が親族に確認されている『死んだステイシア』と、彼女に見間違えるほどそっくりな、記憶喪失の『生きたステイシア』が存在することになるわ。
それも彼女たちが『死んだ時期』と『記憶を失った時期』がぴったり重なる、ね。
どれだけの偶然が起これば、そんな確率に恵まれるの? フェルス医師はどうして彼女たちを同一人物だと思わせるような発言を周囲にばら撒かなきゃいけないの?」
「だ、だけどよッ! そんな人が生き返るなんて話……ッ! 在り得るわけねえだろッ?」
「ええ、在り得ないわ。そんな話はあたしだって信じてない」
「へ……?」
声を荒げたアルティオに、カノンはあっさりと頷いた。しかし、その顔は晴れるどころか、一層の雲を漂わせて口を開く。
「嫌な話をするわよ?
町についた最初の晩に、あたしはクオノリアで会ったあの男に襲われたわ。
何故、あの男は目撃されることを覚悟で最初にあたしを襲ったの?
それも殺すつもりもなく、『入院する程度の大怪我』を負わせるのが目的で。
……答えは『入院』させるため。診療所の内部に接触させるため、よ。それは今巷で発生してる『通り魔事件』に関わらせるため。
フェルス医師は『通り魔事件』の被害者を治療してる身だから、事件について誰よりも詳しいでしょうからね。
でも用心深くなってるあたしたちは、思惑通りに関わろうとしなかったわ。
そこでこの予防線を張った」
「予防線……って」
「『死んでるはずの人間が生きている不可思議』。
これを不審に思わないはずがないわよね?
どう工作したかは解らない。でも、人間が死んで生き返ることがないとすれば……
あの『ステイシア』は、」
「……ま、待てッ! ちょっと待てッ!」
カノンが結論を断するより先に、アルティオがそれを防ぐように声を上げる。
「待ってくれ、カノン! 確かにあの娘は変わった子だし、生い立ちだって不明だッ!
でもよ、普通の女の子なんだッ! 花だって愛でるし、可愛いものに目がなくて、拾ってくれたフェルス医師に心から感謝してこの診療所に勤めてる!
そういう普通のッ、普通の可愛い女の子なんだぜッ?
それを、お前は"人間じゃない"なんて言うのかッ!?」
「あたしだって、こんなことは言いたくもないし、疑いたくもないわよッ!
けどねッ、あんただって見たでしょうッ? あの黒衣の男の人間が、ルナの魔法をまともに喰らっても平気な顔で逃げたのをッ!? あれが人間に出来るっていうのッ?
だったら、考えたくもない考えに至るのよッ! "奴"は死んだはずの人間を利用して、何らかの刺客をここに放っていた、ってッ!」
吐き出したときにはお互い、息が切れていた。アルティオの顔には焦燥が、カノンには苛立ちが、そして両方、僅かな怒りが篭っていた。
「……工作をしたのが一年前なら、あたしたちを迎え撃つために、『ステイシア』を派遣したわけじゃない。
むしろ、何らかの計画が進んでいて、それがあたしたちを迎え撃つのに、ちょうど良かった、ってことになる。
……クオノリアは有象無象の合成獣を生む牧場になった。
この件と『通り魔事件』がどこでどう結びつくかは、まだ解らない。でも、この町で何かが行われてるのは確かなの。
アルティオ、あんたはその格好の駒にされてるのかもしれないのよッ!? ひょっとしたら、もう向こうの術中に嵌ってる可能性だってある!」
「……」
アルティオの顔がそれ以上、ないほどに歪む。
カノンは厳しい表情を変えずに、自分よりも遥かに上背の高い彼を睨み上げた。冷たい汗が頬を伝う。
気がつくと、呼吸することさえ忘れていた。
「……」
アルティオは長い時間をかけて、自らの中で葛藤を続けていた。
先ほどまで、ネリネの丘で微笑んでいた少女。その少女を、信じるか、疑うか。疑うためのカードは山ほど突きつけられた。
それは、アルティオが駒だとすれば、そして今、この状況が奴の術中なのだすれば、"奴"に狙われているカノンを危険に曝すことにもなり得る選択だった。
彼は―――。
ゆっくりと、喉を上下させ、瞑目していた瞳を開き、
その場の凍りついた雰囲気に、折れないよう、腰をすえてカノンの目を見た。
「……カノン」
「……」
「俺さ、ここ一週間、暇を見てはあの娘の相手をして来たんだ」
「ええ、知ってるわ。そりゃあもう、あの娘、聞いてて鬱陶しくなるくらい、幸せそうに惚気てくれたもの」
「……そっか。なら、……解るだろ? あの娘は、……普通の女の子なんだよ」
「アルティオ……!」
やや強い声が口をついて出る。アルティオは、その彼女の肩を抑えながら、
「カノンが俺のために言ってくれてんのは解るさ。けど俺は、どうしてもあの娘が嘘を言ってるようには思えないんだよ。今の話が無視出来ないのは解るさ。
……でもな、どれだけ低い確率でも、もしかしたらあの娘は本当に無関係なのかもしれないし、あの変な奴が絡んでるとしても、本人には自覚がないのかもしれない。
……だったら。
俺、今あの娘を見捨てたら、一生、後悔するような気がするんだよ」
「………」
何せ、世界一のフェミニストだからなッ、とふざけてみせる。
カノンは視線を緩めないまま、アルティオを睨み続けた。肩を落とした、しかし、どこか決意のようなものが感じられる彼の表情に、力なく首を振った。
例え、千回殴っても変わらない目だ。
こいつのしつこいくらい太い神経と根性、馬鹿さ加減は身を持って知っている。
「……解ったわ。好きにしなさい。
でも、レンやルナの情報によってあたしたちがどう動くか、それを指図される言われはないわよ?」
「……解ってるさ。こいつは俺のただの我侭だ。
………………ごめんな。
カノンだって、俺のために言ってくれたんだよな。ずっとあの娘に看護されてたんだし、カノンだってそりゃ、言いたくなかったよな……」
「別に。実際、あの娘に一番触れてたのはあんただし、そう決めたならがたがた言わないわ。
それに、少し感心した」
「?」
ふぅ、とカノンは溜め息混じりに場違いな笑みを浮かべる。仕方のない子供を見るような、ッ少し呆れた表情で、
「冷静な判断云々はともかく……
男は上がったんじゃない? ちょっとはね」
「……さんきゅ」
に、とアルティオは唇の端を吊り上げる。困ったように笑うカノン。
アルティオは知っていた。カノンはステイシアも、アルティオも、責めるつもりなどないのだ。それでも、言わなくてはいけないことだから、言った。
もしものときは、剣を振るわなくてはならないから。
そのとき少しでも、彼が迷いに傷付かないように。
そんな少女だからこそ、アルティオは彼女のことが、子供の頃から、ずっと好きなのだ。
すっ、とカノンに近寄ると、反射的に後退る彼女の頬へ、素早く、極短く、自分の唇を押し当てた。
「―――ッ!!?」
「お前も俺の見立て通り、いい女になったぜ。サイコーに。
大丈夫だ。何があっても、カノンは俺が守るからさ」
カノンは何も発せずに硬直する。ぱくぱくと口を開く彼女の頭を、無遠慮にがしがし掻き回すとアルティオは部屋を出た。
ドアから出ると、おそらく終始、耳をそばだてていたのだろう、シリアと目が合った。深い翡翠の瞳の中には、ほんの僅かの非難の眼差しと、呆れの色。
しかし、彼女はそれを口に上らせようとはしなかった。たぶん、調査には彼女も駆けずり回っていたのだろうに、関係ないとでも言うように沈黙を守る。
アルティオはその彼女に、軽く謝るような仕草をしてから脇を通り過ぎるのだった。
シリアはその背中を見送ると、らしくない溜め息を吐いて硬直したままの恋敵を振り返る。
「情けないわねぇ、フレンチキスくらいで固まってるんじゃないわよ」
「よ、よ、余計なお世話よッ! そ、そんなことよりッ!!」
「そうよ、硬直している場合じゃなくてよ。……カノン、貴方、あのことは言わなくて良かったのかしら?」
「……」
むず痒い全身を摩り、カノンは何とか平静を取り戻して、シリアの言葉に顔をしかめた。
「ん……?」
廊下の角を曲がりかけたアルティオは、それに足を止める。次の瞬間には顔色を変えた。
「ステイシアッ!?」
手すりに縋るようにしてぐったりと、倒れ込む少女の姿があった。アルティオが慌てて駆け寄って抱き上げると、その身体は思いの他軽く持ち上がった。
「ど、どうしたッ!? だ、大丈夫か、おいッ!?」
ぐったりとしたまま、反応のない彼女に舌を打つ。手首を取って、体温を確認し、首下に手をやって、
「―――ッ、くそッ!!」
小柄な彼女を横抱きにして、適当な部屋に運ぶ。目に付いたソファに横たわらせるが、医者ではないアルティオにそれ以上のことが出来るわけもなかった。
「ちっくしょ、ここは診療所だろッ!?」
悪態をついて部屋を出る。フェルス医師の白衣の姿を求めて辺りを見渡すが、当然、その場に求めた姿はない。
唇を噛み締めて、廊下を駆け出す。
病室を一つ一つ訪ねるが、そこにフェルス医師の姿はない。それどころか、入院患者の姿もないのはどういうことか。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
アルティオは舌打ちを繰り返しながら診療所中を探し回る。しかし、出てしまっているのか、フェルス医師の姿はない。帰りがけの看護士に聞いてみても、答えは返って来なかった。
田舎町の病院とはかくもいい加減なものなのか。
呆れると同時に、焦燥から怒りが湧き上がる。
「くそ、どうすりゃいいんだよ……ッ!」
ふと、足を止める。気がつけばそこは診療所の最奥だった。見たことのないドアが、薄く、ほんの僅かに開いている。
何かの保存室かと、特に気にもしていなかったドアだ。
慌てた鍵の閉め忘れ……という風にも見えない。ということは、フェルス医師はここにいるのだろうか。
入ってはいけない部屋だろう、ということは察しがついていた。しかし、そんな場合ではないこともアルティオは知っていた。
迷わずドアを開く。かんぬきがついた、重い扉だ。
ドア、というよりは何かを閉じ込めておくような、そんな扉だった。
ドアの向こうはまた廊下になっていた。窓も、照明もない。暗い石の廊下が、ひやりとした怖気を催す凍えた空気と共に伸びていた。
ごくり、と唾を飲み込んで、それでも廊下を駆けて行く。こうしている間にも、ステイシアはどうなっているのか解らないのだ。
……ドアを開け放し、駆けたその背後で、形のある闇が笑っていたのにも気がつかず―――
「くすくす……
どこの誰とも知れない女性のために、ね……。偉い、偉い……くすくす」
かんぬきの扉を抜けて、暗い廊下をしばらく歩くと、再びかんぬきの備え付けられた扉に出くわした。中は二重扉になっており、訪れたアルティオの気力を削いだ。
しかし、その扉もまた、二枚とも鍵は開けられていた。
アルティオは背徳感と、焦燥に押されながら扉を開く。
ぎ、ぎぎ……
心臓に悪い音を響かせて、最初の扉よりさらに重い扉が開いていく。内部に、やや薄明るい照明の光が見えた。
金属の擦れる音が、少しずつ開いていく扉に連れて、緊張感を煽る。
急がなくては、と焦るものの、妙な怖気に迂闊に開くことが出来ない。
そして、
「な……何だ、ここ……」
呻いて、掠れた声が漏れる。
それなりの広さ―――おそらく、病室三つ分くらいの大きさはあるだろう―――の石部屋に、こぽこぽと不思議な水音が響く。
小さなデスクと掲げられた用水槽。薬棚に並べられた物々しい、多数の瓶と魔道実験用具。隣には何文字で書かれているかも解らない分厚い蔵書が並んでいる。
およそ診療所とは似つかわしくない、それは魔道師の実験室そのものの光景だった。いや、それだけだったなら、アルティオは白魔道師であるフェルス医師の研究室なのだろう、と一言で片付けて、白衣姿のないその一室を後に出来たかもしれない。
だが、
「何の……冗談だってんだ、こいつぁよ……」
複数の医療器具。そこから伸びた無数の透明な細い管は、それぞれ器具に備えられたパックに詰まった液体を流し、……
部屋の中央に置かれた大きな医療用のベッドの上に、一様に繋がれていた。
……そのベッドには。
「……ッ、う、ぁ、」
白いシーツに広がる、長く、艶かしい赤い髪。肌は病的に生白く、生気というものが感じられない。長い睫毛に隠された瞳は固く閉じられている。
歳は、おそらく三十に届かない程度だろう。
しっとりとした魅力を醸し出す、美しい女性がそこに寝かせられていた。
そして、最も目を引いたのは、
「何だ、この剣……」
そのベッドの頭上に、まるで崇めるように掲げられ、薄明るい光を放ちながら鎖に吊るされる一振りの剣。
ゆるやかな曲線を描く、華美でない程度に装飾された、青い鞘に収められている剣。
柄は三日月の文様を中心に、青い刀身を掲げている。
近づこうとして、その言いようのない迫力に押されて身体が動かない。
「な、何だってんだ、ここはよ……」
がたんッ
呟いて、後退った瞬間、彼の背後で音が響き渡った…
「ちょっとカノン、何でこの私がこそ泥みたいな真似しなきゃいけないのよ」
「だったら付いて来なくていいわよ。文句ばっかり、五月蝿いわよ」
既に不法侵入済みなので、会話は小声でなくてはならない。夜の帳が落ちて来た、カーテンの締められた薄暗い部屋で、小さなランプ一つを頼りにカルテと本の詰まった棚を探す。
これがなかなか難しい作業だ。
ついでに見つかるわけにもいかないので、シリアという見張りを立てたが、これが五月蝿いことこの上ない。
「大体、本当なの、それ。気のせいではなくて?」
「さてね。でも、あのときのが気のせいでも、『ステイシア』がここで息を引き取ったなら、カルテくらいあっても不思議じゃないじゃないでしょ」
「けど、本当にフェルス医師がクロなら、そんなカルテ残しておくかしら?」
「……そんときはそんときよ」
カノンは肩を竦めて溜め息を吐く。
そう。
『ステイシア』の真相がどう転ぶにしろ、カノンの仮説を取り上げるなら、工作にフェルス医師が絡んでいる可能性は高くなる。
「ステイシア=フォーリィの母親は『ここ』でステイシアの遺体を確認している、と言ったのよ。
同名の、そっくりの少女が二人いるのでなければ、フェルス医師もその遺体は確認しているはず。にも関わらず、死んだはずの『ステイシア』を引き取っていることになるわ。
何にしても、フェルス医師を抱きこまないと、この計画は上手くいかないはずなのよ。
至る所でこの診療所とフェルス医師が絡んで来てる。
『通り魔事件』が何か関係あるのかどうか、あの『ステイシア』は何者なのか、あの黒い奴はどこにどこまで関わっているのか、……どんな線で結んだらいいか、全く解らない点ばかりだけど、一つ一つ確実に調べるしかないわ。
それに、あんたの持って来た情報も確かなんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
合点のいかない顔でシリアは言い澱む。
「被害者の多数はここに通院したことがある。それだけだったら、この町に医者はフェルス医師しかいないんだし、病気しない人間の方が少ないんだから、偶然と片付けられるかもしれないわ。
けど、その中の人間の九割はこの診療所である検査を受けている……」
「……そっちも調べとかないとね。ちゃんと見張りしてなさいよ」
「ふっ、この私がそんな命令に甘んじるとでも……ッ!」
ばきッ!!
カノンの投げた分厚い蔵書の角が、無意味な笑いを上げかけたシリアの脳天にヒットする。
もんどりうって倒れたシリアは、身を起こして抗議に口を開こうとする。が、
「あら?」
ドア口にかかっていた小さな肖像に、目を留める。
以前、カノンが見たあの赤い髪の婦人の肖像だった。
「この人……」
「?」
「うーん……まあ、おそらくだけど、これ……」
シリアは肖像を壁から外す。
「……フェルス医師の奥さんじゃないかしら?」
「奥さん、て……あの数年前に病気で亡くなった、っていう?」
「そうねぇ、容姿は聞いた通りだし。何しろ、こんな大事そうに飾ってあるんじゃあ、ね。
疑うべくもないのではなくて? フェルス医師は昔から奥さんをそれはもう、大事にしていたっていう話だし」
「ふぅん……」
頷いて、ふと思い付く。
「……そんなに目をかけてた奥さんなら、きっと、最後も自分のところで世話してたんでしょうね……」
「ぅん? まあ……そりゃあ、そうでしょうね」
何だったか。
同じような話を、狩人時代に聞いたような気がする……
あれは、何だったけ……
「あ」
動かしていた手を止める。
「あった」
医者の使う文字は特殊だ。オカルト趣味から様々な言語を独学で学んだカノンでも、それは端々しか読み取ることは出来ない。
「シリア、あんた確か白魔道師の指導免許持ってたわよね?」
「ええ、まあ。初級だけど」
人は見かけによらない。頭の片隅で覚えていたその知識を引っ張り出して、彼女の前にカルテを広げる。
「カルテの文字って読める?」
「少しなら、ね」
「じゃあ、お願い」
「ふっ、一生、恩に着るというなら別に読んであげても……」
「シリア」
「……ん、わかったわよぅ。冗談が通じないわねぇ。えーっと……」
呟いてシリアはやや癖のある流れ字を眺めて呻く。読み取っていくうちに、彼女の眉間の皺が徐々に深くなっていく。
「……どう?」
「……ビンゴ。貴女の言う通りのようね。
ステイシア=フォーリィ、リグサス187、アルディレゴ76、サン33の日。負傷原因、鋭利な刺突型の刃物。負傷箇所は左胸、背中から深い傷を負い、運ばれたときはもう虫の息だったそうよ。
傷は肺を傷つけて心臓に達していた。治療の甲斐なく、運び込まれて一時間後に死亡。明記されているわね」
「……」
「まあ……どうせ、嘘のカルテを造るなら、生存のカルテを偽造するでしょうね。
生きているように見せかけたいのだから」
カノンの表情が歪む。ゆっくりと首を振り、苦い顔でカルテを受け取った。
何とはなしにぱらぱらと捲り、息を吐く。
「……ん?」
手を留めた。
「ねえ、シリア。これって……」
「え?」
訝しがりながらカノンの手の中のカルテに、視線を移すシリア。さすがにもう茶化すことは出来なかった。
奪うように彼女の手からカルテを取り上げる。
文面に、再び目を走らせて―――
「…………どういうことかしら、これ…」
「……どうかしたの?」
「どうかするも何も―――」
シリアが青い顔で何事か口にしようとしたときだった。
っ、ぅぁぁああぁああぁああああああッ!!
『ッ!?』
呻きに近い、悲鳴が隣の部屋から聞こえた。顔を見合わせて同時に部屋を出る。
かなりの音を立てたが、何故なのか、誰かが駆けつけようとする足音は聞こえて来ない。
ドアノブを引いたのはシリアだった。
「ステイシアッ!?」
その声に反応して、カノンも部屋の中を覗く。接客室か何かだろうか、革張りの大きなソファにぐったりと少女が寝かせられていた。
しかし、胸元を両手で押さえ、少女は時折、呻きながら奇声を上げる。
「ち、ちょっと、どうしたのよッ!?」
「わかんないわよ、医療系はあんたの方が詳しいでしょッ!」
「冗談、怪我ならともかく、こんな病気の症状は専門外よ!」
甲斐のないことを言い合ってから、声を発して苦痛に悶える彼女に駆け寄る。
顔は真っ青を通り越して真っ白で、身体の温度は著しく低いのに額には脂汗が浮いていた。
カノンは眉を潜める。何故、何があって彼女がこんなことになっている。何が起こっているというのか……
一体、アルティオは何処にいった。てっきり彼女と共にいるものだと思っていたのに。
「カノン」
シリアが名前を呼んで、苦しげに呻く彼女の右手を指差した。
カノンはその指の先を追う。思わず息を飲んだ。
その先には、薬指に填められた、あの赤い指輪が煌々と妖しげな光を放っていた。
遠くから足音が唱和する。それに気がついたのは数秒前からだった。
闇夜が近づきつつある。今宵は誰が犠牲になるのだろうか。
ついに先日、死傷者が出たらしい。街の空気が一気に冷え込んだのも、そのせいだった。
この土壇場に来ての死傷者、それが意味するのは何なのか。『手遅れ』という文字が、頭を掠める。
カツッ!
角を曲がって足音が完全に合わさった。
「!」
「ッ!!」
お互いの顔を認めると、レンとルナはほぼ同時に頷き、お互いの意図を汲み取って同じ方向に、速度を緩めず駆け出した。
「随分と早かったな」
「まあね、馴れない馬車なんてものを使ったわ。おかげで、お尻ががくがくよッ」
「首尾は?」
「びんご。フォーリィ家の母親と妹が、遺体の確認をしたと証言したわ。あの診療所でね。
念のために先に封書を届けてもらったから、カノンも何かしが対策してると思うんだけどッ。
そっちはどうだったのよッ?」
「こっちも、だな。
一年前、診療所を辞めた人間が、辞める直前にステイシアの遺体を見たと言っている。
……だが、それだけじゃない」
「?」
「……シリアの話ではフェルス医師の妻はもう死んでいるという話だったな」
「まあ、数年前に亡くなった、って」
レンは顔をしかめる。その変化に覚えた、嫌な予感がルナの中を駆け巡った。
夕闇の石畳を叩く音だけが、しばし響く。軽く唇を噛んでから、彼は語り出した。
「はっきり言えば、それは嘘だ」
「へ?」
「長年、植物状態にあるらしい。そのせいで世間に出なくなっただけでな。
町の人間も、診療所の連中もとっくに死んだと聞かされていたらしい。だが、そいつは診療所の奥で奥方の姿を見たそうだ。まあ、微動だにしない死体のようなものだったそうだがな」
「じゃあ、その人が診療所を辞めた、ってのは……」
「見たくもなく、見てはいけないものを見てしまったんだ。何かしがの危険を感じたんだろうな。胸に押し込めるしかなかろうさ。
その割に側の石柱を、剣で叩き斬った程度でぺらぺら喋ってくれたが」
「……それ、一般人なら誰だって口割ると思うけど。
でも、何でッ!? フェルス医師がそんな嘘を吐く理由はないはずよッ!」
「ああ、そうだ。だが一つ、嫌な話を思い出した」
「嫌な話?」
走りながら喋るというのは、これでなかなかに労力を使う。息を切らせないよう、速度と声を調節しながら問いかけるルナに、レンは軽く息を吐き、
「死術を狩っていた頃の話だがな。
死術というのは禁忌を犯す術だ。道徳的にも、権威的にも。昔から研究されているタブーとなる術くらい解るだろう。医療に関わるもので、その最たるものは何だ?」
「そりゃあ……」
ルナの顔色が変わる。
同じ考えに至ったのだろう、足を動かす速度が上がった。
「そうだ、人間が億年、万年かかっても成し遂げられないタブー。……蘇生術だ。
死んだ人間を生き返らせる。これほどナンセンスなことはない」
「じゃあ何ッ? フェルス医師は蘇生術を完成させてるってことッ? それでステイシアを蘇らせたとでも言うのッ?」
「いや、それならとっくに妻を蘇らせていてもいいはずだ。
一年前に初めて会い、死んだステイシアを、すぐに蘇らせることが出来たんだ。さらに一年、待つ必要はない」
「だったら……」
言いかけるルナだが、すぐに会話の非生産に気がついたらしい。暗く染まる前方を睨みながら、石畳を踏み、階段を飛び降りる。
「……そんなもんは本人から聞き出した方が早そうねッ!」
「そういうことだ。急ぐぞッ!」
←8へ
「おはようございます、カノンさん、具合はどうですか?」
「ああ、大分いいわね……」
早朝、訪問したステイシアに生返事を返す。カノンは朝日が照り返すカーテンを眺めてた溜め息を吐いた。
「……ねぇ、ステイシア」
「はい?」
「昨日、通り魔事件て起きた?」
「……」
その問いに、ステイシアは沈黙する。知らなくて、というよりは話して良いものかどうか迷っているような目だった。
「どうせ、フェルスさんに聞けば解るんだし、あたしはそんなことで気を悪くしたりしないわ。
お願い、どうなの?」
「……起きた、みたいです……。今朝、患者さんが運ばれて来たみたいですから。
私が担当したわけじゃないので、どんな状態なのかは知らないんですけど……」
カノンはそう、とだけ答えて窓の外に視線を投げる。
気のせい、ではなかったらしい。
人波がどこか俯いて、昨日よりその勢いを失って見えた。
段々と、皆が感付いて来ているのだ。姿の見えない通り魔が、酔っ払いの戯言では説明がつかなくなりつつあるのを。
「……ステイシア」
「はい」
「仕事があるのはわかるけど、夜出歩かないようにしなさいよ。昨日の夜とか、大丈夫だったの?」
「あ、はい! 大丈夫です。昨日は何か調子が良くなかったので、当番を代わっていただいて少し多めに休みましたから」
「……そう」
覇気なく思考を巡らせる。けして歓迎の出来ない想像に行き着いたカノンは、こっそりと溜め息を吐いた。
ステイシアもカノンの様子がおかしいのに気がついたらしい。眉根を寄せ、声をかけようとして、しかしそれよりも先に、
「今日はアルティオとどっか出かけたりすんの?」
「え? あ、え、えっと、はい……夕方、ちょっとだけですけど」
先手を打ったカノンに、彼女はやや頬を染めながら答えた。照れくさそうだが、そこには嬉しさの響きがある。
「そ。まあ、あんたは強いし、あいつも腕は悪くないし、心配要らないだろうけど気をつけてね」
「あ、はい。ありがとうございます」
にっこり笑ってお湯を交換し始める彼女に、だがカノンの表情はどうしても晴れずに、結局カノンは部屋を出て行く彼女に『楽しんで来てね』の一言をかけるに留まったのだった。
頬杖をついてカノンが吐いた深い溜め息を、誰も知ることはなかった。
ばたばたと廊下を駆けて、先輩の看護士に注意を受けた。慌てて歩調を緩めるが、それで逸る足を押さえられたわけではない。
廊下に掲げられた古い柱時計を見上げて、カルテを抱き締める手に力が入る。
だって、もう待ち合わせの時間をかなりオーバーしてしまっている。連絡を入れる暇などあるはずがなかったし、そもそも普段、診察にこんなに時間がかかることなんてないのに。
今朝、運ばれて来た患者が結構な重傷だったらしい。そのせい他のところへ手が回らないのだ。そもそも診療所勤めの人間自体が、日に三人いればいい方なのだから。
「急がなきゃ……」
フェルス医師の使うデスクの上にカルテをどさっ、と落すと。再び踵を返して駆け出そうとする。が、
ずきん……
「―――ぅ、つッ……」
こめかみに走った痛みに、膝の力が抜ける。かくん、と折れる膝。
きんきんと空耳を受け取る頭が、忌々しく痛みを訴える。反射的に手を当てて、その手の指が熱を持っていることに気がついた。
「……?」
しかし、ステイシアが指を視界に持ってくるより先に、痛みと熱は逃れるようにして消えた。
「何なの……」
か細い声で呟いて手の甲を眺める。熱を感じた指には、あの、記憶をなくした当時から指にあった指輪が鈍く光っていた。
これまでこんなことはなかった。確かに看護士の仕事はけして楽なものではない。だが、きちんと休養を取っていればこれまで元気に勤めることが出来ていたのだ。
アルティオとのことがあったせいで、はしゃぎすぎなのだと思っていた。
けれど……
ぼーん……
ステイシアの思案を妨げるように、柱時計が時刻を告げた。
「! いけないッ!」
慌てて立ち上がり、ステイシアはドアへ駆け出した。もう、あの奇妙な立ち眩みは起きなかった。
診療所の前でアルティオは律儀に待っていた。
時計は高価で、誰でも、どこにでもあるというものじゃない。アルティオも自前の時計なんてものは持っていない。診療所の時計を見て、珍しいものがあるものだと感心した。
仲間内でも持っているのはレンくらいのものだ。それにしたって確か、彼の親の形見だったはず。
だからまあ、正確な時間なんて解らないし、しっかり何時何分何秒なんて約束が出来るはずもない。
だが、幾ら曖昧な約束でも、指定された時間をオーバーしていることくらいは察しが付く。
アルティオは気が短いわけではなかった。おそらくは、今現在、共に旅をしている仲間の中では一番気が長いのではないだろうか。
カノンとシリアは言わずもがな、ルナはのらりくらりしているようで、実はそれほど長い方でもない。レンは、話の内容によっては恐ろしいほどの導火線の短さを発揮する。
しかし、今は置いておくとして。
気の長いアルティオでも、些か心配になるほどの時間が過ぎていた。仮にも診療所の仕事だ。急に予定外のことが起こることも十分、考えられる。
アルティオが一度、確認しようと診療所内へ爪先を向ける。と、そこにちょうどぱたぱたという可愛らしい足音が響いて来た。
彼の顔から心配の雲が消える。
「ご、ごめんなさいッ! 遅れてしまいましたッ!!」
金の髪を揺らしながら駆けて来た少女は、アルティオの前に立つなり電光石火で頭を下げた。それはもう、地面に叩きつけるつもりの勢いで。
「いや、まあ、仕事なんだし……そんなに気にしてねぇからさ」
「本当にごめんなさいッ! え、えっと、ごめんなさい、怒ってらっしゃいますよねッ?
ごめんなさい……」
やや錯乱気味に謝罪を連呼するステイシアを前に、アルティオは慌てる。
女性から非難されるのは、誰かさんたちのせいで慣れっこだったが、こうまで頭を下げられてその上涙目になられることなんて滅多にない。というかない。
というか、このままいつまでも彼女に頭を下げさせたままだと、行き交う群衆に白い目で見られかねない。こういう場合も、悲しいかな、世間からは男が悪役にされるのだ。
「ごめんなさい、ごめんな……え?」
ぱさっ
謝り続けるステイシアの目の前が、暗い色のアスファルトから急にカラフルなものに変わる。
浮かんだ涙をごしごしと擦り、もう一度、眼前に突き出されたものを確認する。
「これは……?」
それは小さく束ねられた、可愛らしいブーケだった。パステルカラーの花弁が、金色のリボンの中でゆらゆらと踊る。
まじまじと見つめ、ちらりと上目遣いに差し出している本人を見上げると、彼は照れくさそうに視線をやや逸らせながら頬を掻いた。
「まあ、待ち合わせには大分時間があったし、今日町をぶらついてたんだよ。
そしたら結婚式やっててさ」
「あ、そうなんですか?」
「で、そこで配っててな。俺が持ってても仕方ないし、第一、大の男が花持ってうろついてるのもヘンだろ? だから、」
「え、えっと、あの、わ、私に……?」
戸惑いながら彼女は、もう一度ブーケを眺める。
記憶がなかろうとステイシアは女だ。可愛いものは好きだし、花だって、それも男の人から小さくとも花束をもらえるなんて、嬉しくないはずがない。
「あの、嬉しいです。でも、カノンさんに差し上げた方がいいんじゃないですか? だって……」
「あー、まあでも、カノンも旅の人間だしな。花なんか貰っても困るだけだろーよ。枯らしちまうだけだろーし。
それに何となく、こういうのはカノンていうかあんたの方が似合う気がしたんだよ」
本当は馴れていないのだろうか。アルティオはなおも照れくさそうに頬を掻きながら、花をちらちらと眺めている。
花配りの女の子からブーケを受け取ったとき、とりあえず自分が持っている選択肢は消した。
捨てるのは勿体無いが、少なくとも双剣を担いだ大男に似つかわしくないものだと自覚していた。
となると誰かに譲ることになるのだろうが、その考えに至って最初に浮かんで来たのがステイシアの顔だったのだ。
ステイシアは、アルティオの顔の照れが伝染したかのようにやや俯くと、
「そんなこと言うとカノンさん、怒りますよ」
「いや、別にカノンに花が似合わないとか言ってるわけじゃあ……
ああ、もうッ! とにかくいいんだよッ! これはあんたのだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれッ!」
ぱさり、と花弁がステイシアの胸元に当たる。そのままだと首を折ってしまいそうだ。
せっかくの贈り物をそんな風にはしたくない。
「ありがとうございます、すっごく嬉しいです!」
はにかみながら、少女はブーケを手にして華やかに、笑った。
それでアルティオもようやく納得する。自分の性分はどうも、身に染み付いて剥がれないものらしい。
たぶん、自分はこの笑顔を見たいと思ったのだ。
幸い、カノンの怪我は順調に回復に向かっている。旅に出てしまえばきっと見られないだろう、ごっこ遊びと言えど自分を好いてくれた娘の笑顔。
最初から解っていたことだが、やはりそこには一抹の寂しさがあって。
可愛い女の子の笑顔、というのはアルティオの中で最高位に位置づけられるものの一つであったから。
だから、彼女の笑顔を改めて見ておきたいと思ったのだ。
ステイシアはしげしげとブーケを眺めては、時折、花弁をつついたりつまんだりして頬を紅潮させながら笑みを浮かべる。
それを見て、アルティオは改めて彼女に贈って正解だったと、ひとひらの満足感を覚えるのだった。
「アルティオさん、この花知ってますか?」
「ん?」
ステイシアが差したのはブーケに使われている一種の花だった。色は綺麗な桃色で、反り返った、光沢のある大きな花弁が印象的だ。
彼岸に花をつける彼岸花と良く似ている。だが季節がずれているし、彼岸花はどこか物悲しく、慎ましやかな印象を受けるが、あれよりずっと艶やかで可愛らしい風雅を持っている。
アルティオは頭の中の記憶を引っ張り出す。だが、残念ながらそれと合致する花の知識は浮かんで来なかった。
「これはですね、ネリネっていう名前なんです。昔の神話の水の女神様の名前なんだそうです」
「へぇ、詳しいんだな」
頷くと彼女はぺろり、と舌を出した。
「へへ、ごめんなさい。ここら辺はうちの先生の受け売りです。
……そうだ、アルティオさん。ちょっと郊外の方まで付き合ってくださいませんか?」
「郊外って……これからか?」
アルティオは空を見る。太陽の下が山の端に隠れ始めていた。夕刻も近いだろう。行って帰って、ぎりぎり日が沈むまでに着けるかどうか。
物騒な噂もある。出来れば無理に足を伸ばしたくはないのだが……
「お願いします! この時間が一番いいんですッ! なるべく手短に済ませますから……」
ブーケを持つ手に、もう片方の手を添えて、ステイシアは今一度頭を下げる。
悩むうちにも時間が惜しくなっていく。こんなに頼み込んでいるのだ。それに日が沈んでしばらくは人の波も完全に引くわけではないだろう。
「……解った。じゃあ、日が暮れないうちに行こうぜ。
最近は物騒みたいだしな」
「はい、ありがとうございます!」
極自然に、アルティオは頭を上げないステイシアの手を取った。
「あ……」
「ほら、行こうぜ!」
「あ、ぅ、は、はい!」
心臓の鼓動が早まるのを感じながら、彼女は彼に合わせて小走りにその後を追いかけた。
「……ネリネの花、ね」
眼下を睥睨して、少年はぽつりと呟いた。
宵闇の迫る最中、朱の広がる空に彼の漆黒なる姿はもうすぐ溶け込んでしまうことだろう。
ああ、身体が重い。いっそ本当に溶けてしまったら軽くていいかもしれない。
少年はいつものように屋根の端に腰掛けながら、長い足をふらふらと動かしていた。小首を傾げると古い記憶を、知識を引っ張り出す。
「……ああ」
何かに納得したように小さく声を上げる。
ヒトには花に意味を込める風変わりな風習がある。だが、少年はそれを嘲笑するように、いつものようにくすりと哂う。
ああ、面白くない。
「愛情のごっこ遊びなんて、ね。
―――愚者は思うまま踊りて、花は狂い咲くほど散り急ぐ。………くすっ」
アルティオは思った。
何でこう、女の子というのは不可思議に元気なときがあるのだろう、と。
「アルティオさーん、遅いですよ! 早く、早く!」
「ち、ちょっと待ってくれって……」
ひょいひょいと、小高い丘をものともせずに登っていくステイシアに感嘆しながら年頃の少女の行動力に舌を巻く。
腕っ節は強くとも、持久力は人並みだと思っていたのだが。
なだらかな長い丘陵を、息一つ切らせずに駆け上がっていく彼女を眺めながら、アルティオは呆れつつもその小さな背を追う。
ここ数日で慣れてしまった光景だ。もう、その金の髪がふよふよと揺れる背中を見間違うことも、見失うこともない。
―――何だかなぁ……
改めて自分は随分と律儀な人間だと思う。
ひょんなことから出会った少女との、ただの恋愛ごっこ。つい最近までの記憶を失っていた彼女にとっては、見るもの見るもの、すべてが新鮮らしかった。
いや、そもそも恋愛というものが初体験のようなものだ。その最中で見るものと言えば、全部が新鮮に違いない。
ほら、よく言うじゃないか。恋をすると世界が違って見える、とか何とか。
そんな彼女は文句なしに可愛いと思う。アルティオは可愛い女の子が好きだ。もっと言えば、その可愛い女の子が笑っているのが大好きだ。だから、彼女とのデート遊びの時間は彼にとってとても有意義な時間の使い方なのである。
記憶がない、と聞いて最初は戸惑った。
どう接したものか、アルティオといえど迷ったのだ。そうしたら、彼女は華やかな笑顔のまま言ったのだ。
『アルティオさんが普通の女の子に接するようにしてください。今の私はそれが知りたいんです』
と。
だから思った。
この娘には、やっぱりこの華やかな笑顔が似合う。
記憶なんて些細なことなのかもしれない。彼女は、今ここで今の『ステイシア』として生きているのだから。
記憶が戻るのならばそれに越したことはないのだろうけれど。
それを咎められる人間などいはしないだろう。
「……どうかしましたか?」
「いや、何でもないぜ。それより、行きたい場所ってまだなのか?」
「もうすぐです……ほら!」
言って彼女はアルティオの袖を引きながら指を差した。その指の先に視線を走らせて、アルティオは目を細める。
白く細い指の先に、桃色の絨毯が見えた。
勿論、それは本物の絨毯であるはずがない。目を凝らすと綺麗に区画された柵が見えてくる。
それは整えられた花壇だった。だが、その大きさは個人の庭にあるような細かなものじゃない。軽く街の一ブロック程度はあるだろう。
その花壇に、先程のネリネの花が一面に植えられていたのだ。
光沢のある花弁が、夕日に反射してきらきらと光っている。簡易的なイルミネーションだったが、人の心を奪うには十分すぎるものだった。
素直な感想が口をついて出る。
「すげ……」
「でしょうッ!? 何代か前の伯爵の奥さんがお作りになった花壇で、今は町の人が管理しているんです。
たぶん、このブーケの花もここから取られたんだと思います。
この時間が一番綺麗に見えるんですよ!」
ブーケを翳しながら、たたた、と花壇に駆けて行く。花壇の中ほどまで来ると、眼下にランカース・フィルの町が見渡せる。
絶景とは言わないが、賛美するに値する眺めだった。
その景色の中を、ネリネの甘い香りが軽やかに演出する。
ふと見渡すと、カップルらしき人影が疎らに見える。
「とってもいい眺めでしょう! ここ、この街の人たちのデートスポットなんですよ」
「なるほどなぁ……何かわかる気がするな」
こんな眺めの場所を見つけたなら、友達には自慢したくなるだろうし、恋人には見せてやりたくなるだろう。
ステイシアが無理を言い出したのもきっとそういうことだ。
ああ、何だ、本当に可愛い娘じゃないか。
「……ありがとな」
「?」
「いや、いい場所紹介して貰ったからさ。今日も、昨日も、その前もさ。
お礼、言ってなかったなー、って」
「い、いえ、そんな! 私がアルティオさんを付き合わせちゃってるのに……」
「それは言わない約束、って言っただろ?」
「あ……ぅ、は、はい」
顔を真っ赤にしてステイシアは視線を背ける。しばらくの間、ブーケを弄ってから、ふと面を上げた。
そこには何らかの決意のようなものが見て取れる。
「……カノンさん、大分良くなって来てます。もう心配要らないでしょう」
「へ? あ、ああ……」
その意味を察せられないほどアルティオは愚鈍ではなかった。カノンの回復、それが意味するのは旅の再開、アルティオが町を出る、ということだ。
最初から解っていたこと。
そういう契約で始められた恋愛ごっこだった。
旅が始まれば、そこで終わり。後腐れも何もない、実にさっぱりした関係で。
それが二人の約束だった。
「アルティオさん」
「ん?」
「……私、記憶を失くしてから恋愛についても何もかも忘れちゃってたみたいなんです。
だから、良くある恋愛小説を読んで、夢想することしか出来ませんでした。それが何なのかなんて解っていなかった」
「うん」
「でも、」
彼女は笑った。
清々しく、華やかな、笑顔。
「……少しだけ、解ったような気がします」
「……」
寂しさを感じているのはお互い様。
彼女の目の端に、ちょっとだけ滲んでいる雫が、その証拠だった。
けれどそれを拭うことが出来ないと解っているアルティオは、だからこそわざと声を張り上げる。
「そっかッ」
「はい」
「俺も役に立てて良かったぜ。ホントに良かった」
「はい!」
胸を張って言ったアルティオに、ステイシアは大きく返事をする。
「でもまあ、まだ最終日ってわけじゃないんだしさ。そういう話はなし! そういうときは、最後の日にするもんだ。
今日はこの景色を思いっきり楽しむ! それがするべきことだろ?」
「……くす、そうですね」
ステイシアは目を拭って、元気に返事を返す。彼女もまた胸を張る。寂しさに、俯いてしまわないように。
「それに今生の別れ、ってわけでもないだろ。旅してるなら、またこの町を通ることもあるかもしれないし」
「そうですね。その頃には、私もアルティオさんよりずっと素敵な人を見つけてるかもだし」
「あたたた、そりゃ厳しいなぁ」
「あははは、でもその頃、アルティオさんがカノンさんにフラれてたら、ちゃんと慰めてあげますから」
「……それもそれで厳しいぞ……」
アルティオは苦笑混じりに答える。
彼女は改めて花壇を見渡すと、肩を竦めて笑った。
「……前の伯爵様は外交が多い方だったそうで。奥様はその帰ってくるときの目印として、この花壇にネリネの花を植えたんだそうです。
ネリネの花言葉、知ってますか?」
「いいや、何て言うんだ?」
「そうですね……。アルティオさんがまた、この町に来てくれたら教えてあげます。
町に来る楽しみが増えるでしょ」
「そりゃ名案だ」
くすくす、と笑いながら楽しそうにステップを踏む。アルティオはそれに目を細めながら、日の沈む山の稜線を確認した。
「……そろそろ帰ろう。もう暗くなるし」
「そう、ですね……」
「また連れて来てくれよ。明日は仕事どうなってるんだ?」
ステイシアはきょとんと首を傾げる。これまで誘うのはもっぱら彼女の方で、アルティオの方から予定を口にすることはなかったのだ。
一拍遅れて、あわあわと返事をする。
「えっと、えっと、あ、明日はお昼から夕方に……」
「じゃ、その時間な。また診療所の前で待ってるから」
「は、はい!」
あたふたと、差し出された大きな手を掴む。マメだらけで、皮も厚い、無骨な手だ。
けれど、ステイシアはその手が、とても優しいことを知っている。
あと少し。
あと少しだけ。
この手に甘えていよう。
大丈夫、それくらい、神様も、許してくれるはずだから……。
診療所の前でステイシアと別れて、アルティオは病室へ足を向けた。メンバーはもっぱら宿で寝泊りだが、最低でも一人は大方カノンに付いている。
ステイシアのことがあったアルティオは、その役目を負うことが少なかった。彼女に気を使う意味もある。ステイシアは何でもないように言うが、ごっこでも恋愛している最中に、頻繁にカノンに会いに行くというのはやはり気が引けた。
別に浮気でも何でもないのだが。
カノンへの気持ちは変わっていない。だが、ステイシアを気遣ってやりたい気持ちも本当だった。
だから、会いに行くかどうかは迷ったのだが、怪我の容態も気になるところではある。ステイシアは心配ないと言っていたが、自分の目で確かめたい。
意気揚々と病室に向かい、
「あれ?」
「……はーい」
ドアの前で、いつもよりやや覇気のないこえでアルティオを出迎えたのはシリアだった。
「どうしたんだ、珍しいな」
「こっちはこっちでいろいろあったのよ。楽しそーにデートに行っていた人にはわからないことが、ね」
―――う゛。
彼女の言葉が刺々しい。付き合いがそれなりに長いから解る。
「レンを追っかけてなくていいのか?」
「今はお姫様のお守りなの。ったくぅ、なぁんでこの私が……
まあ、それはともかく」
彼女は豊満な胸を揺らし、ぴ、とドアに指を向け、
「……中でおじょーちゃんが待ってるわ」
「へ?」
「話があるって」
―――カノンが話?
常時なら、調子付いた妄想をするところなのだが。
「そういう話じゃないようよ?」
先に釘を刺された。
「人の一縷の望みをのっけから壊すなよ~……って、どうしたんだ?」
「……」
いまいち、彼女のノリの悪さに気がついて真顔に戻る。シリアは無言で答えた。普段、絶対にしない渋い顔。跡が残るからから、と滅多に眉間に皺を寄せたりしないのに。
じろじろと顔を観察されてうろたえる。
「貴方……」
「へ?」
「あのステイシア、って娘、好きなの?」
「い、いや、そりゃ……」
「カノンとどっちが?」
「って、何の話だよ!」
さすがに頭に血が上って怒鳴り返すと、意外にあっさりシリアは身を引いた。自慢の黒髪に手をやると、何とも曖昧な表情で、
「……まあ、いいわ。そろそろ郷を煮やしている頃だわね。入りなさい」
と、道を開ける。
シリアは背を伸ばしたまま促すだけで、それ以上を言おうとしなかった。
仕方なく、アルティオは居心地の悪さを感じながらドアを開けるしかなかった。
相変わらず薬の匂いが立ちめる部屋に足を踏み入れて、
びゅんッ!
「どわったぁッ!?」
「あ、ごめん」
唐突に眼前を行過ぎた剣鎌の、鎌の切っ先に肝を冷やす。普段なら、軽く岩くらいを粉砕するその威力は推して知るべし。
そんなものが顔に叩きつけられたらどうなるか。
「か、カノン! 何やってんだ!?」
「いやー、一応どれくらい振れるかなー、ってさ」
「振れるかなー、で人を殺す気かッ!」
「まあまあ」
ふと気がつけば彼女はここ最近、来ていた患者服ではなくいつもの格好からコートを取っただけの姿だった。
病院の中でいいのか? と目を向ければ、隅の方に小さく荷物が纏めてある。
「カノン……それ」
「ああ……。ちょっとね、明日にでも退院しようかと思って」
「そ、そうなのか……」
何故か面食らった。それは彼女の容態が申し分ない、ということでむしろ喜ぶべきことなのに、そこはかとない寂しさがふい、とかすんで通る。
「じゃあ、もう身体はいいのか?」
「フェルスさんにはもうしばらく入院してろ、って言われたけど。
……そうもいかない事情が出て来ちゃったし」
なら大人しくしていればいいのに、と言いかけて言葉を留める。事情が出て来た、と彼女は言った。
カノンはかたん、と剣鎌を収めてベッドに立てかける。その隣には新調したクレイ・ソードが置いてあった。
ベッドに腰掛け、じっとこちらを観察するような目で見上げて来る。
「ステイシアはどう? 元気?」
「うん? いや、元気だぞ? 普通に」
「そ」
カノンらしくない溜め息が漏れた。瞑目し、むず痒い、何とも複雑な表情をする。
苦さを堪えるような、そんな表情。さも、これから言いたくないことを口にしなければならないと訴えかけているような。
「カノン……」
「…………アルティオ」
幾分、硬い声で名前を呼ばれる。決意を含んだ言葉を浮かべるより先に、彼女はもう一度、短い溜め息を吐いた。
軽く首を振る。
固まった決意を、無為にしないために。
そして言う。
「これ以上、彼女に関わるのを止めた方がいいわ」
「・・・え?」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
それはそうだ。つい、二日前まで、カノンは彼女と仲良くしてやれと言外に言っていた。世話をしてくれていたステイシアに、少なからず好意を持って接していた。
「か、カノン、悪い……もう一度、言ってくれ……」
「だから。もう、これ以上、ステイシアに関わるのを止めろ、って言ったのよ」
無情なことにそれは聞き間違いではなかった。だが、理解が出来ない。
二日前だったら、カノンが嫉妬しているのだとふざけることも出来た。けれど、今この状況のカノンの声は、笑い飛ばせるような雰囲気をしていなくて。
それははっきりとした警告の響きをもって、アルティオの鼓膜を打った。
それを理解した瞬間、乾いた声がついて出る。
「は、ははは、い、いきなりどうしたんだよ、そんなマジになって。だってお前だって……」
「……ステイシア=フォーリィ」
ぽつりと、アルティオの目を睨んだままで、カノンが言った。
アルティオは息を飲む。
「十七歳、この町から十キロほど離れた小さな村の生まれ。行商に出た父親について、この町に来る際、盗賊に襲われた」
「なんで……」
喉の奥が急速に乾いていく。
ステイシアが記憶を失っていることは、シリアから聞かされた。フェルスからは彼女が郊外で倒れていたことを聞いた。
しかし、何故カノンが記憶を失って、誰もその情報を持つ者がいないはずの、彼女のフルネームを、そして境遇を知っているのか。
鳥肌が止まらない。
言葉を失ったアルティオを見上げ、カノンは押し殺した声を絞り出す。口の中が乾いているのは、カノンも同じだった。
「……アルティオ、たぶん、いや、絶対に信じられないけど聞いてちょうだい。
あたしはあんたを利口な男だとは思ってないけど、それなりに常識的な判断は付けられると思ってるわ。だから冷静に聞いてて」
「……」
アルティオの逆流してくる血液を押しとどめるかのように、カノンは両手を広げて床へと向ける。
長い、おそらくは深呼吸をして。
彼女は、こう、言ったのだ。
「あの娘はね、ステイシア=フォーリィはもう一年も前に死んでるの。
あれは、この世にいるはずのないモノなのよ」
←7へ
「ああ、大分いいわね……」
早朝、訪問したステイシアに生返事を返す。カノンは朝日が照り返すカーテンを眺めてた溜め息を吐いた。
「……ねぇ、ステイシア」
「はい?」
「昨日、通り魔事件て起きた?」
「……」
その問いに、ステイシアは沈黙する。知らなくて、というよりは話して良いものかどうか迷っているような目だった。
「どうせ、フェルスさんに聞けば解るんだし、あたしはそんなことで気を悪くしたりしないわ。
お願い、どうなの?」
「……起きた、みたいです……。今朝、患者さんが運ばれて来たみたいですから。
私が担当したわけじゃないので、どんな状態なのかは知らないんですけど……」
カノンはそう、とだけ答えて窓の外に視線を投げる。
気のせい、ではなかったらしい。
人波がどこか俯いて、昨日よりその勢いを失って見えた。
段々と、皆が感付いて来ているのだ。姿の見えない通り魔が、酔っ払いの戯言では説明がつかなくなりつつあるのを。
「……ステイシア」
「はい」
「仕事があるのはわかるけど、夜出歩かないようにしなさいよ。昨日の夜とか、大丈夫だったの?」
「あ、はい! 大丈夫です。昨日は何か調子が良くなかったので、当番を代わっていただいて少し多めに休みましたから」
「……そう」
覇気なく思考を巡らせる。けして歓迎の出来ない想像に行き着いたカノンは、こっそりと溜め息を吐いた。
ステイシアもカノンの様子がおかしいのに気がついたらしい。眉根を寄せ、声をかけようとして、しかしそれよりも先に、
「今日はアルティオとどっか出かけたりすんの?」
「え? あ、え、えっと、はい……夕方、ちょっとだけですけど」
先手を打ったカノンに、彼女はやや頬を染めながら答えた。照れくさそうだが、そこには嬉しさの響きがある。
「そ。まあ、あんたは強いし、あいつも腕は悪くないし、心配要らないだろうけど気をつけてね」
「あ、はい。ありがとうございます」
にっこり笑ってお湯を交換し始める彼女に、だがカノンの表情はどうしても晴れずに、結局カノンは部屋を出て行く彼女に『楽しんで来てね』の一言をかけるに留まったのだった。
頬杖をついてカノンが吐いた深い溜め息を、誰も知ることはなかった。
ばたばたと廊下を駆けて、先輩の看護士に注意を受けた。慌てて歩調を緩めるが、それで逸る足を押さえられたわけではない。
廊下に掲げられた古い柱時計を見上げて、カルテを抱き締める手に力が入る。
だって、もう待ち合わせの時間をかなりオーバーしてしまっている。連絡を入れる暇などあるはずがなかったし、そもそも普段、診察にこんなに時間がかかることなんてないのに。
今朝、運ばれて来た患者が結構な重傷だったらしい。そのせい他のところへ手が回らないのだ。そもそも診療所勤めの人間自体が、日に三人いればいい方なのだから。
「急がなきゃ……」
フェルス医師の使うデスクの上にカルテをどさっ、と落すと。再び踵を返して駆け出そうとする。が、
ずきん……
「―――ぅ、つッ……」
こめかみに走った痛みに、膝の力が抜ける。かくん、と折れる膝。
きんきんと空耳を受け取る頭が、忌々しく痛みを訴える。反射的に手を当てて、その手の指が熱を持っていることに気がついた。
「……?」
しかし、ステイシアが指を視界に持ってくるより先に、痛みと熱は逃れるようにして消えた。
「何なの……」
か細い声で呟いて手の甲を眺める。熱を感じた指には、あの、記憶をなくした当時から指にあった指輪が鈍く光っていた。
これまでこんなことはなかった。確かに看護士の仕事はけして楽なものではない。だが、きちんと休養を取っていればこれまで元気に勤めることが出来ていたのだ。
アルティオとのことがあったせいで、はしゃぎすぎなのだと思っていた。
けれど……
ぼーん……
ステイシアの思案を妨げるように、柱時計が時刻を告げた。
「! いけないッ!」
慌てて立ち上がり、ステイシアはドアへ駆け出した。もう、あの奇妙な立ち眩みは起きなかった。
診療所の前でアルティオは律儀に待っていた。
時計は高価で、誰でも、どこにでもあるというものじゃない。アルティオも自前の時計なんてものは持っていない。診療所の時計を見て、珍しいものがあるものだと感心した。
仲間内でも持っているのはレンくらいのものだ。それにしたって確か、彼の親の形見だったはず。
だからまあ、正確な時間なんて解らないし、しっかり何時何分何秒なんて約束が出来るはずもない。
だが、幾ら曖昧な約束でも、指定された時間をオーバーしていることくらいは察しが付く。
アルティオは気が短いわけではなかった。おそらくは、今現在、共に旅をしている仲間の中では一番気が長いのではないだろうか。
カノンとシリアは言わずもがな、ルナはのらりくらりしているようで、実はそれほど長い方でもない。レンは、話の内容によっては恐ろしいほどの導火線の短さを発揮する。
しかし、今は置いておくとして。
気の長いアルティオでも、些か心配になるほどの時間が過ぎていた。仮にも診療所の仕事だ。急に予定外のことが起こることも十分、考えられる。
アルティオが一度、確認しようと診療所内へ爪先を向ける。と、そこにちょうどぱたぱたという可愛らしい足音が響いて来た。
彼の顔から心配の雲が消える。
「ご、ごめんなさいッ! 遅れてしまいましたッ!!」
金の髪を揺らしながら駆けて来た少女は、アルティオの前に立つなり電光石火で頭を下げた。それはもう、地面に叩きつけるつもりの勢いで。
「いや、まあ、仕事なんだし……そんなに気にしてねぇからさ」
「本当にごめんなさいッ! え、えっと、ごめんなさい、怒ってらっしゃいますよねッ?
ごめんなさい……」
やや錯乱気味に謝罪を連呼するステイシアを前に、アルティオは慌てる。
女性から非難されるのは、誰かさんたちのせいで慣れっこだったが、こうまで頭を下げられてその上涙目になられることなんて滅多にない。というかない。
というか、このままいつまでも彼女に頭を下げさせたままだと、行き交う群衆に白い目で見られかねない。こういう場合も、悲しいかな、世間からは男が悪役にされるのだ。
「ごめんなさい、ごめんな……え?」
ぱさっ
謝り続けるステイシアの目の前が、暗い色のアスファルトから急にカラフルなものに変わる。
浮かんだ涙をごしごしと擦り、もう一度、眼前に突き出されたものを確認する。
「これは……?」
それは小さく束ねられた、可愛らしいブーケだった。パステルカラーの花弁が、金色のリボンの中でゆらゆらと踊る。
まじまじと見つめ、ちらりと上目遣いに差し出している本人を見上げると、彼は照れくさそうに視線をやや逸らせながら頬を掻いた。
「まあ、待ち合わせには大分時間があったし、今日町をぶらついてたんだよ。
そしたら結婚式やっててさ」
「あ、そうなんですか?」
「で、そこで配っててな。俺が持ってても仕方ないし、第一、大の男が花持ってうろついてるのもヘンだろ? だから、」
「え、えっと、あの、わ、私に……?」
戸惑いながら彼女は、もう一度ブーケを眺める。
記憶がなかろうとステイシアは女だ。可愛いものは好きだし、花だって、それも男の人から小さくとも花束をもらえるなんて、嬉しくないはずがない。
「あの、嬉しいです。でも、カノンさんに差し上げた方がいいんじゃないですか? だって……」
「あー、まあでも、カノンも旅の人間だしな。花なんか貰っても困るだけだろーよ。枯らしちまうだけだろーし。
それに何となく、こういうのはカノンていうかあんたの方が似合う気がしたんだよ」
本当は馴れていないのだろうか。アルティオはなおも照れくさそうに頬を掻きながら、花をちらちらと眺めている。
花配りの女の子からブーケを受け取ったとき、とりあえず自分が持っている選択肢は消した。
捨てるのは勿体無いが、少なくとも双剣を担いだ大男に似つかわしくないものだと自覚していた。
となると誰かに譲ることになるのだろうが、その考えに至って最初に浮かんで来たのがステイシアの顔だったのだ。
ステイシアは、アルティオの顔の照れが伝染したかのようにやや俯くと、
「そんなこと言うとカノンさん、怒りますよ」
「いや、別にカノンに花が似合わないとか言ってるわけじゃあ……
ああ、もうッ! とにかくいいんだよッ! これはあんたのだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれッ!」
ぱさり、と花弁がステイシアの胸元に当たる。そのままだと首を折ってしまいそうだ。
せっかくの贈り物をそんな風にはしたくない。
「ありがとうございます、すっごく嬉しいです!」
はにかみながら、少女はブーケを手にして華やかに、笑った。
それでアルティオもようやく納得する。自分の性分はどうも、身に染み付いて剥がれないものらしい。
たぶん、自分はこの笑顔を見たいと思ったのだ。
幸い、カノンの怪我は順調に回復に向かっている。旅に出てしまえばきっと見られないだろう、ごっこ遊びと言えど自分を好いてくれた娘の笑顔。
最初から解っていたことだが、やはりそこには一抹の寂しさがあって。
可愛い女の子の笑顔、というのはアルティオの中で最高位に位置づけられるものの一つであったから。
だから、彼女の笑顔を改めて見ておきたいと思ったのだ。
ステイシアはしげしげとブーケを眺めては、時折、花弁をつついたりつまんだりして頬を紅潮させながら笑みを浮かべる。
それを見て、アルティオは改めて彼女に贈って正解だったと、ひとひらの満足感を覚えるのだった。
「アルティオさん、この花知ってますか?」
「ん?」
ステイシアが差したのはブーケに使われている一種の花だった。色は綺麗な桃色で、反り返った、光沢のある大きな花弁が印象的だ。
彼岸に花をつける彼岸花と良く似ている。だが季節がずれているし、彼岸花はどこか物悲しく、慎ましやかな印象を受けるが、あれよりずっと艶やかで可愛らしい風雅を持っている。
アルティオは頭の中の記憶を引っ張り出す。だが、残念ながらそれと合致する花の知識は浮かんで来なかった。
「これはですね、ネリネっていう名前なんです。昔の神話の水の女神様の名前なんだそうです」
「へぇ、詳しいんだな」
頷くと彼女はぺろり、と舌を出した。
「へへ、ごめんなさい。ここら辺はうちの先生の受け売りです。
……そうだ、アルティオさん。ちょっと郊外の方まで付き合ってくださいませんか?」
「郊外って……これからか?」
アルティオは空を見る。太陽の下が山の端に隠れ始めていた。夕刻も近いだろう。行って帰って、ぎりぎり日が沈むまでに着けるかどうか。
物騒な噂もある。出来れば無理に足を伸ばしたくはないのだが……
「お願いします! この時間が一番いいんですッ! なるべく手短に済ませますから……」
ブーケを持つ手に、もう片方の手を添えて、ステイシアは今一度頭を下げる。
悩むうちにも時間が惜しくなっていく。こんなに頼み込んでいるのだ。それに日が沈んでしばらくは人の波も完全に引くわけではないだろう。
「……解った。じゃあ、日が暮れないうちに行こうぜ。
最近は物騒みたいだしな」
「はい、ありがとうございます!」
極自然に、アルティオは頭を上げないステイシアの手を取った。
「あ……」
「ほら、行こうぜ!」
「あ、ぅ、は、はい!」
心臓の鼓動が早まるのを感じながら、彼女は彼に合わせて小走りにその後を追いかけた。
「……ネリネの花、ね」
眼下を睥睨して、少年はぽつりと呟いた。
宵闇の迫る最中、朱の広がる空に彼の漆黒なる姿はもうすぐ溶け込んでしまうことだろう。
ああ、身体が重い。いっそ本当に溶けてしまったら軽くていいかもしれない。
少年はいつものように屋根の端に腰掛けながら、長い足をふらふらと動かしていた。小首を傾げると古い記憶を、知識を引っ張り出す。
「……ああ」
何かに納得したように小さく声を上げる。
ヒトには花に意味を込める風変わりな風習がある。だが、少年はそれを嘲笑するように、いつものようにくすりと哂う。
ああ、面白くない。
「愛情のごっこ遊びなんて、ね。
―――愚者は思うまま踊りて、花は狂い咲くほど散り急ぐ。………くすっ」
アルティオは思った。
何でこう、女の子というのは不可思議に元気なときがあるのだろう、と。
「アルティオさーん、遅いですよ! 早く、早く!」
「ち、ちょっと待ってくれって……」
ひょいひょいと、小高い丘をものともせずに登っていくステイシアに感嘆しながら年頃の少女の行動力に舌を巻く。
腕っ節は強くとも、持久力は人並みだと思っていたのだが。
なだらかな長い丘陵を、息一つ切らせずに駆け上がっていく彼女を眺めながら、アルティオは呆れつつもその小さな背を追う。
ここ数日で慣れてしまった光景だ。もう、その金の髪がふよふよと揺れる背中を見間違うことも、見失うこともない。
―――何だかなぁ……
改めて自分は随分と律儀な人間だと思う。
ひょんなことから出会った少女との、ただの恋愛ごっこ。つい最近までの記憶を失っていた彼女にとっては、見るもの見るもの、すべてが新鮮らしかった。
いや、そもそも恋愛というものが初体験のようなものだ。その最中で見るものと言えば、全部が新鮮に違いない。
ほら、よく言うじゃないか。恋をすると世界が違って見える、とか何とか。
そんな彼女は文句なしに可愛いと思う。アルティオは可愛い女の子が好きだ。もっと言えば、その可愛い女の子が笑っているのが大好きだ。だから、彼女とのデート遊びの時間は彼にとってとても有意義な時間の使い方なのである。
記憶がない、と聞いて最初は戸惑った。
どう接したものか、アルティオといえど迷ったのだ。そうしたら、彼女は華やかな笑顔のまま言ったのだ。
『アルティオさんが普通の女の子に接するようにしてください。今の私はそれが知りたいんです』
と。
だから思った。
この娘には、やっぱりこの華やかな笑顔が似合う。
記憶なんて些細なことなのかもしれない。彼女は、今ここで今の『ステイシア』として生きているのだから。
記憶が戻るのならばそれに越したことはないのだろうけれど。
それを咎められる人間などいはしないだろう。
「……どうかしましたか?」
「いや、何でもないぜ。それより、行きたい場所ってまだなのか?」
「もうすぐです……ほら!」
言って彼女はアルティオの袖を引きながら指を差した。その指の先に視線を走らせて、アルティオは目を細める。
白く細い指の先に、桃色の絨毯が見えた。
勿論、それは本物の絨毯であるはずがない。目を凝らすと綺麗に区画された柵が見えてくる。
それは整えられた花壇だった。だが、その大きさは個人の庭にあるような細かなものじゃない。軽く街の一ブロック程度はあるだろう。
その花壇に、先程のネリネの花が一面に植えられていたのだ。
光沢のある花弁が、夕日に反射してきらきらと光っている。簡易的なイルミネーションだったが、人の心を奪うには十分すぎるものだった。
素直な感想が口をついて出る。
「すげ……」
「でしょうッ!? 何代か前の伯爵の奥さんがお作りになった花壇で、今は町の人が管理しているんです。
たぶん、このブーケの花もここから取られたんだと思います。
この時間が一番綺麗に見えるんですよ!」
ブーケを翳しながら、たたた、と花壇に駆けて行く。花壇の中ほどまで来ると、眼下にランカース・フィルの町が見渡せる。
絶景とは言わないが、賛美するに値する眺めだった。
その景色の中を、ネリネの甘い香りが軽やかに演出する。
ふと見渡すと、カップルらしき人影が疎らに見える。
「とってもいい眺めでしょう! ここ、この街の人たちのデートスポットなんですよ」
「なるほどなぁ……何かわかる気がするな」
こんな眺めの場所を見つけたなら、友達には自慢したくなるだろうし、恋人には見せてやりたくなるだろう。
ステイシアが無理を言い出したのもきっとそういうことだ。
ああ、何だ、本当に可愛い娘じゃないか。
「……ありがとな」
「?」
「いや、いい場所紹介して貰ったからさ。今日も、昨日も、その前もさ。
お礼、言ってなかったなー、って」
「い、いえ、そんな! 私がアルティオさんを付き合わせちゃってるのに……」
「それは言わない約束、って言っただろ?」
「あ……ぅ、は、はい」
顔を真っ赤にしてステイシアは視線を背ける。しばらくの間、ブーケを弄ってから、ふと面を上げた。
そこには何らかの決意のようなものが見て取れる。
「……カノンさん、大分良くなって来てます。もう心配要らないでしょう」
「へ? あ、ああ……」
その意味を察せられないほどアルティオは愚鈍ではなかった。カノンの回復、それが意味するのは旅の再開、アルティオが町を出る、ということだ。
最初から解っていたこと。
そういう契約で始められた恋愛ごっこだった。
旅が始まれば、そこで終わり。後腐れも何もない、実にさっぱりした関係で。
それが二人の約束だった。
「アルティオさん」
「ん?」
「……私、記憶を失くしてから恋愛についても何もかも忘れちゃってたみたいなんです。
だから、良くある恋愛小説を読んで、夢想することしか出来ませんでした。それが何なのかなんて解っていなかった」
「うん」
「でも、」
彼女は笑った。
清々しく、華やかな、笑顔。
「……少しだけ、解ったような気がします」
「……」
寂しさを感じているのはお互い様。
彼女の目の端に、ちょっとだけ滲んでいる雫が、その証拠だった。
けれどそれを拭うことが出来ないと解っているアルティオは、だからこそわざと声を張り上げる。
「そっかッ」
「はい」
「俺も役に立てて良かったぜ。ホントに良かった」
「はい!」
胸を張って言ったアルティオに、ステイシアは大きく返事をする。
「でもまあ、まだ最終日ってわけじゃないんだしさ。そういう話はなし! そういうときは、最後の日にするもんだ。
今日はこの景色を思いっきり楽しむ! それがするべきことだろ?」
「……くす、そうですね」
ステイシアは目を拭って、元気に返事を返す。彼女もまた胸を張る。寂しさに、俯いてしまわないように。
「それに今生の別れ、ってわけでもないだろ。旅してるなら、またこの町を通ることもあるかもしれないし」
「そうですね。その頃には、私もアルティオさんよりずっと素敵な人を見つけてるかもだし」
「あたたた、そりゃ厳しいなぁ」
「あははは、でもその頃、アルティオさんがカノンさんにフラれてたら、ちゃんと慰めてあげますから」
「……それもそれで厳しいぞ……」
アルティオは苦笑混じりに答える。
彼女は改めて花壇を見渡すと、肩を竦めて笑った。
「……前の伯爵様は外交が多い方だったそうで。奥様はその帰ってくるときの目印として、この花壇にネリネの花を植えたんだそうです。
ネリネの花言葉、知ってますか?」
「いいや、何て言うんだ?」
「そうですね……。アルティオさんがまた、この町に来てくれたら教えてあげます。
町に来る楽しみが増えるでしょ」
「そりゃ名案だ」
くすくす、と笑いながら楽しそうにステップを踏む。アルティオはそれに目を細めながら、日の沈む山の稜線を確認した。
「……そろそろ帰ろう。もう暗くなるし」
「そう、ですね……」
「また連れて来てくれよ。明日は仕事どうなってるんだ?」
ステイシアはきょとんと首を傾げる。これまで誘うのはもっぱら彼女の方で、アルティオの方から予定を口にすることはなかったのだ。
一拍遅れて、あわあわと返事をする。
「えっと、えっと、あ、明日はお昼から夕方に……」
「じゃ、その時間な。また診療所の前で待ってるから」
「は、はい!」
あたふたと、差し出された大きな手を掴む。マメだらけで、皮も厚い、無骨な手だ。
けれど、ステイシアはその手が、とても優しいことを知っている。
あと少し。
あと少しだけ。
この手に甘えていよう。
大丈夫、それくらい、神様も、許してくれるはずだから……。
診療所の前でステイシアと別れて、アルティオは病室へ足を向けた。メンバーはもっぱら宿で寝泊りだが、最低でも一人は大方カノンに付いている。
ステイシアのことがあったアルティオは、その役目を負うことが少なかった。彼女に気を使う意味もある。ステイシアは何でもないように言うが、ごっこでも恋愛している最中に、頻繁にカノンに会いに行くというのはやはり気が引けた。
別に浮気でも何でもないのだが。
カノンへの気持ちは変わっていない。だが、ステイシアを気遣ってやりたい気持ちも本当だった。
だから、会いに行くかどうかは迷ったのだが、怪我の容態も気になるところではある。ステイシアは心配ないと言っていたが、自分の目で確かめたい。
意気揚々と病室に向かい、
「あれ?」
「……はーい」
ドアの前で、いつもよりやや覇気のないこえでアルティオを出迎えたのはシリアだった。
「どうしたんだ、珍しいな」
「こっちはこっちでいろいろあったのよ。楽しそーにデートに行っていた人にはわからないことが、ね」
―――う゛。
彼女の言葉が刺々しい。付き合いがそれなりに長いから解る。
「レンを追っかけてなくていいのか?」
「今はお姫様のお守りなの。ったくぅ、なぁんでこの私が……
まあ、それはともかく」
彼女は豊満な胸を揺らし、ぴ、とドアに指を向け、
「……中でおじょーちゃんが待ってるわ」
「へ?」
「話があるって」
―――カノンが話?
常時なら、調子付いた妄想をするところなのだが。
「そういう話じゃないようよ?」
先に釘を刺された。
「人の一縷の望みをのっけから壊すなよ~……って、どうしたんだ?」
「……」
いまいち、彼女のノリの悪さに気がついて真顔に戻る。シリアは無言で答えた。普段、絶対にしない渋い顔。跡が残るからから、と滅多に眉間に皺を寄せたりしないのに。
じろじろと顔を観察されてうろたえる。
「貴方……」
「へ?」
「あのステイシア、って娘、好きなの?」
「い、いや、そりゃ……」
「カノンとどっちが?」
「って、何の話だよ!」
さすがに頭に血が上って怒鳴り返すと、意外にあっさりシリアは身を引いた。自慢の黒髪に手をやると、何とも曖昧な表情で、
「……まあ、いいわ。そろそろ郷を煮やしている頃だわね。入りなさい」
と、道を開ける。
シリアは背を伸ばしたまま促すだけで、それ以上を言おうとしなかった。
仕方なく、アルティオは居心地の悪さを感じながらドアを開けるしかなかった。
相変わらず薬の匂いが立ちめる部屋に足を踏み入れて、
びゅんッ!
「どわったぁッ!?」
「あ、ごめん」
唐突に眼前を行過ぎた剣鎌の、鎌の切っ先に肝を冷やす。普段なら、軽く岩くらいを粉砕するその威力は推して知るべし。
そんなものが顔に叩きつけられたらどうなるか。
「か、カノン! 何やってんだ!?」
「いやー、一応どれくらい振れるかなー、ってさ」
「振れるかなー、で人を殺す気かッ!」
「まあまあ」
ふと気がつけば彼女はここ最近、来ていた患者服ではなくいつもの格好からコートを取っただけの姿だった。
病院の中でいいのか? と目を向ければ、隅の方に小さく荷物が纏めてある。
「カノン……それ」
「ああ……。ちょっとね、明日にでも退院しようかと思って」
「そ、そうなのか……」
何故か面食らった。それは彼女の容態が申し分ない、ということでむしろ喜ぶべきことなのに、そこはかとない寂しさがふい、とかすんで通る。
「じゃあ、もう身体はいいのか?」
「フェルスさんにはもうしばらく入院してろ、って言われたけど。
……そうもいかない事情が出て来ちゃったし」
なら大人しくしていればいいのに、と言いかけて言葉を留める。事情が出て来た、と彼女は言った。
カノンはかたん、と剣鎌を収めてベッドに立てかける。その隣には新調したクレイ・ソードが置いてあった。
ベッドに腰掛け、じっとこちらを観察するような目で見上げて来る。
「ステイシアはどう? 元気?」
「うん? いや、元気だぞ? 普通に」
「そ」
カノンらしくない溜め息が漏れた。瞑目し、むず痒い、何とも複雑な表情をする。
苦さを堪えるような、そんな表情。さも、これから言いたくないことを口にしなければならないと訴えかけているような。
「カノン……」
「…………アルティオ」
幾分、硬い声で名前を呼ばれる。決意を含んだ言葉を浮かべるより先に、彼女はもう一度、短い溜め息を吐いた。
軽く首を振る。
固まった決意を、無為にしないために。
そして言う。
「これ以上、彼女に関わるのを止めた方がいいわ」
「・・・え?」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
それはそうだ。つい、二日前まで、カノンは彼女と仲良くしてやれと言外に言っていた。世話をしてくれていたステイシアに、少なからず好意を持って接していた。
「か、カノン、悪い……もう一度、言ってくれ……」
「だから。もう、これ以上、ステイシアに関わるのを止めろ、って言ったのよ」
無情なことにそれは聞き間違いではなかった。だが、理解が出来ない。
二日前だったら、カノンが嫉妬しているのだとふざけることも出来た。けれど、今この状況のカノンの声は、笑い飛ばせるような雰囲気をしていなくて。
それははっきりとした警告の響きをもって、アルティオの鼓膜を打った。
それを理解した瞬間、乾いた声がついて出る。
「は、ははは、い、いきなりどうしたんだよ、そんなマジになって。だってお前だって……」
「……ステイシア=フォーリィ」
ぽつりと、アルティオの目を睨んだままで、カノンが言った。
アルティオは息を飲む。
「十七歳、この町から十キロほど離れた小さな村の生まれ。行商に出た父親について、この町に来る際、盗賊に襲われた」
「なんで……」
喉の奥が急速に乾いていく。
ステイシアが記憶を失っていることは、シリアから聞かされた。フェルスからは彼女が郊外で倒れていたことを聞いた。
しかし、何故カノンが記憶を失って、誰もその情報を持つ者がいないはずの、彼女のフルネームを、そして境遇を知っているのか。
鳥肌が止まらない。
言葉を失ったアルティオを見上げ、カノンは押し殺した声を絞り出す。口の中が乾いているのは、カノンも同じだった。
「……アルティオ、たぶん、いや、絶対に信じられないけど聞いてちょうだい。
あたしはあんたを利口な男だとは思ってないけど、それなりに常識的な判断は付けられると思ってるわ。だから冷静に聞いてて」
「……」
アルティオの逆流してくる血液を押しとどめるかのように、カノンは両手を広げて床へと向ける。
長い、おそらくは深呼吸をして。
彼女は、こう、言ったのだ。
「あの娘はね、ステイシア=フォーリィはもう一年も前に死んでるの。
あれは、この世にいるはずのないモノなのよ」
←7へ
「んー……」
「動くか?」
「うん、何とか。剣鎌持つにはちょっと辛いけど……普通の剣くらいなら」
包帯の取れた右腕をぐるぐると回しながら答える。足は軽く屈伸させてみる。痛みはない。
フェルスの医師としての腕は伊達ではないようだ。むしろ賞賛に値する。リザレクションといえど三日でここまで回復出来てしまうとは大した腕だ。
そんな優秀な医師が何故こんな小さな町医者に留まっているのか疑問だが……まあ、人には事情があるものだろう。
「そろそろ戻れ。リハビリと言っても無理をすれば余計動かせなくなるぞ」
「わ、わかってるわよ」
言われて不満そうな表情を張り付けながらも、カノンは薄暗い廊下の手すりに手をかけて歩き出した。
リハビリついでに病室の外に出ていたのだった。本当なら手すりなどいらないのだが、治りかけの足に負担がいくのを防ぐためになるたけ体重を預けながら歩く。
後ろを付いて行こうとしたレンだが、不意に懐から愛用の懐中時計を取り出して時刻を確認する。短い溜め息を吐いて、一人で戻れるか、と聞いてきた。
「どっか出かけるの?」
「ああ……ルナが互いに情報交換したいと言い出した。ほんの少しだが抜ける。
大分回復したようだし、ここの看護士には頼んで置いた。奴らもこんな白昼堂々来ることもないだろうが、用心して待っていろ。大人しくな」
「……噂が耳に入ってるんだったら教えてくれたっていいじゃない」
憮然として唇を尖らせる。カノンがつい、昨日知った小さな事件の噂は、交代で町に出ていたレンやルナの耳には既に入っていて。
同じ思考に辿り着いた彼らは、カノンが寝込んでいる間、シリアを抱き込んでいろいろと聞き込みを実行していたらしい。確たる成果はまだ上がっておらず、ステイシアに気を使ってかアルティオにも話していないらしいが(というよりは彼女の耳からカノンの耳へ入ることを恐れたのだろう)、それにしたって秘密でことを進めることはないじゃないか。
レンは溜め息を吐いて、すっかり機嫌を悪くしたカノンに、昨日と同じ説明をしてみせる。
「昨日も言ったはずだ。お前の性分は導火線が付き易すぎる。なら火の気から遠ざけるのが一番だろう」
「むー……」
「そう剥れるな。もう少しの辛抱だろう。そう剥れるなら少しでも大人しくして回復を早めるんだな。
それに、奴らの目的はお前を関わらせることだ。その延長上に何を企んでいるか解らん以上、ほいほい誘いに乗るわけにいかないだろう」
「わ、わかってるわよ……」
ただ目的を逸らすだけならば、その件に関わらなければいい。
だが、相手の標的が明確である以上、逃げ続けたところでいずれ同じようなことに合うだろう。奴がこの町にどんな種を撒いているか解らない以上、放って置くわけにもいかない。
なら迎え撃って相手の尻尾を捕まえる他はない。
金の髪を撫でてやると剥れた彼女は子供扱いを拒絶するように振り払う。彼はやれやれと呆れたように首を振り、すぐ戻る、と口にして背を向けた。
ちょっとだけ後悔する。
―――素直に行ってらっしゃいくらい、言っても良かったかな……
皆が思いやってくれていることくらいは解るのだ。それが理解できないほど子供ではないし、今、奴らと戦闘にでもなったらカノンはただの足手まといにしかならないだろう。
だが、悔しさはどうやっても拭い切れずに唇を噛む。
「考えても仕方ないのは解ってるんだけどね……」
これではただの八つ当たりだ。
出歩いて少しは気も晴れたはずなのだ。おかえりくらいはちゃんと言おう。
ぱん、と頬を叩いて顔を上げる。ふと、医療室―――フェルスが診療の合間に過ごす場所だ―――が目に入る。
「部屋のお湯、なくなってたっけ……」
もののついでだ。貰っていこうとドアをノックする。返事がない。少しだけ迷ってノブを捻る。
珍しく鍵がかかっていない。看護士の誰かのかけ忘れか、それとも中に誰かいるのか。
そっと隙間から覗いてみるが、部屋の中に誰かの気配はない。
意を決してドアを開ける。中に入ると、正面に所長用だろう、大きなデスクが陣取り、来客用なのか二人がけのソファが向かい合っている。だが、あまり使われていない証拠として張られた布に皺がない。
後は水を引く円盤と本棚がその他のスペースを埋めていた。本棚、というよりはカルテと医療書を纏めておく棚なのだろう、おそらく中身を見てもカノンには理解出来まい。
「―――んー……」
好奇心で侵入してしまったが、特に目を引くものはなかった。当たり前か、裏を返せば普通の診療所なのだ。それ以上でも以下でもない。
踵を返そうとしたとき、ふと、ドアの脇に掲げられた小さな肖像が目に止まった。
「……」
歳は三十に届くか届かないかというところだろう、赤い長い髪の婦人だ。優雅に腰掛けて、微笑んでいる。
細められた緑の瞳は柔和で、絶世の美人というわけではないが愛らしさと優美さを兼ね備えた、温かな印象を受ける女性だった。
「……誰かしら?」
よくある肖像だったが、カノンが目を留めたのには訳がある。
棚にはところどころ埃がかかっていたのに、この肖像だけ磨き上げられたかのように綺麗に保存してあるのだ。
思わずその絵に手を伸ばしかけ―――
かたんッ …バサバサッ!
「きゃッ?」
唐突に開かれたドアに後退り、後ろの棚に積んであったファイルの山を崩してしまう。
「あ……」
「か、カノンさんッ? な、何をしてるんですかッ?」
狼狽したフェルスが、ドアに手をかけたまま茫然と聞いてきた。罰が悪いことこの上ない。
冷や汗を掻きながら頭を下げる。
「す、すいません、お湯貰おうと思って来たんですけど、留守だったもので……」
「いけませんよ。ここには他の患者さんのカルテもたくさん、保存してあるんです。
ささ、お湯でしたら看護士に持って行かせますから早く病室へ戻ってください」
口調はいつも通りだったが、医者としての矜持なのだろう。有無を言わさぬ迫力が込められた言葉に、カノンはただ謝って頭を下げるしかない。
フェルスは慌てて床に落ちたファイルを拾い集めた。
他のものなら手伝うのが筋なのだろうが、それが他の人間のカルテならカノンが無闇に触るわけにはいかない。
ただ黙って向いてしまった視線を逸らせて―――
「……?」
ふと、視線を戻したカノンを諫めたのは笑顔を浮かべたフェルスだった。彼はドアを開いてカノンの肩をぽん、と叩く。
「さあ、まだ完全には治っていないのですから、油断しないでください。看護の者に送らせましょう」
「いえ、大丈夫です。もう一人で歩けますし……」
「いけません。それが医者としての努めです」
生真面目な顔でそう説くと、廊下を通りかかった看護士に声をかける。中年の女性看護士は頷いて、カノンに肩を貸そうとしてくるが丁重に断って歩き出す。
部屋を去る寸前、カノンは振り返って半開きになったドアを見る。
だが、中を確認するより先に、そのドアは容赦なく締められてしまっていた。
「レーンv こっちよぉ、遅かったじゃないのぉv」
「よぉっす。どーぉ、お姫様の具合は? もう大分いいの?」
「身体はな。機嫌の方は最悪だが」
「あっはっは、そりゃー当然だ。大したことないわよ」
目立つ長身を目に留めたルナは、グラスから口を離してからからと笑う。人の集まるカフェ、と言うにはやや客層の柄が悪い。溜まり場と称した方がいいだろう。
がやがやと耳障りな喧騒の最中に腰を下ろしかけたレンは、隣に座る少女の傾けるグラスから漂う匂いに顔を顰めて取り上げる。
「何すんの」
「昼間からはやめて置け。止めはせんがここ三日、やけになりすぎだ」
「はいはい、この一杯だけよ」
嘘なのは明白なのだがレンは止められずに小さく肩を竦める。
強制勧告としてグラスの残りを一気に飲み干した。
ルナは憮然としながらも、結局は何も言わずに居住まいを正す。
レンとルナは五人の中では最も付き合いが古い。カノンのように相棒とは言い難いが、その仲には異性の区別のない旧友としての腐れ縁が根付いている。
その分、互いに互いのやることに遠慮のない忠告を放つのが役目、というところが無意識のうちに出来上がっているのだが、その忠告もこればかりは甲を為さないらしい。
最も、彼女はこんなに本来、こんな酒飲みではなかったはずなのだが。アルコールには強いが嗜む程度の酒しか口にしなかったはずなのに。
クオノリアの一件が後を引いているのか、それともそれ以上の理由があってのことか。
その暴飲は少なからず、レンを、そして同じく古い仲であるシリアを驚かせた。
対面に座るシリアと視線を合わせると、彼女は困った表情で肩を竦め返すだけだった。
同性の彼女には何か話しているのかもしれないが、それを聞くのは無粋に思えた。彼女の性格だ。問い詰めたところで余計意固地になるだけだろう。
―――まったく、難しい性格だ……
レンは軽く首を振って席に着いた。
「で、カノンの方は? もう大丈夫なの?」
「……まだ全快とは言えんがな。剣鎌は操れんだろうが、普通の剣くらいは振れるだろう」
「へぇ、あのセンセ、かなりいい腕をしてるのねぇ……」
「それは一般論。で、保護者殿の目からしては?」
「保護者呼ばわりは納得いかんが、まだ動かしたくないところだな。下手に動かして神経がやられでもしたら洒落にならん」
「結構。ならそっちに従うわ。まあ、後のこと考えるとゆっくり養生してもらいたいしね。
レンの方はおっけ。シリアは? 例の件、調べといてくれた?」
「ふっ、見くびらないで欲しいわね。私を誰だと思っているのかしら?」
いつも通り、髪を掻き揚げて彼女は挑戦的な瞳を吊り上げた。さりげなくレンの方へと伸ばした腕は呆気なく叩かれるが、それに唇を尖らせながらも答える。
「率直に言って悪い噂は聞かないわぁ。誰も彼も、いい先生、いい先生、あの診療所に助けてもらってる、この町にいてもらわないと困る……そんなコメントばっかりね」
「……シリアにさ、あの診療所について色々と聞きまわってもらってたのよ」
神妙な表情でそれを聞いていたレンに、ルナが端的に科白を挟んだ。
カノンの入院を慮って評判を聞いた―――わけではない、無論のこと。
「……なるほどな。あれの目的は俺たちを事件に関わらせること。
だが、診療所送りにしたのはそれだけじゃない、ということか。ただ事件に関わらせるだけなら、人目に触れる危険を冒してまで手を出す必要はない。
ならばそうまでして手を下した理由がある―――それが、診療所そのものにある、と」
「あくまで推論よ。確証もないし、想像ですらない妄想だわ。
深く事件に齧りつかせたいなら診療所の人間に関わらせるのが一番だった、ってだけかもしれないし。
けど調べて損はないと思って」
ルナの言う通りだった。
聡明で狡猾な人間の先手を取る策は何か。突拍子もなくていい、わずかな気がかりを徹底的に調べ上げるに尽きる。
ルナの促すような視線に応えてもう一度、シリアが口を開く。
「フェルスさん、だっけか? 昔は結構大きな町で大きな病院で、結構いいポジションで職に就いてた、って話なんだけど。
良くある話、上司とトラブって辞めて、故郷のこの町で開業医なんてし始めたらしいのね。けどもう十年以上前の話だし、根に持ってるって話は聞かなかったわ。そんな人じゃないって。
まあ、この町に越して来てからも住民といざこざがあったって話は聞かないし……普通のお医者様よ」
「気になってたけど一人身? あの診療所、住宅兼用ぽかったけど看護士さん以外見たことないのよね」
「ああ、数年前にね。奥さんが病気でお亡くなりになって。子供はいなかったそうだからそれから一人身だって。
すんなり素性のわからないステイシアを引き取ったのも、やっぱり寂しい、って気持ちがあったんでしょうね……」
「……別に普通のお医者様、ってわけか」
「で、ステイシアの方なんだけど」
ルナはおそらく、素性のはっきりしない彼女にも疑いの目を向けたのだろう。だがシリアはひょい、と肩を竦めて、
「拍子抜けに……割れちゃったのよね」
「割れた?」
「……昔から、本当にときどきだけど。この町に来てたみたいなのよ」
「は?」
思わぬ返答にルナは間の抜けた声を漏らす。最も、声を出さなかっただけでレンも同じ心境だった。
本人から、カノンから、ルートは別だがステイシアが記憶を失っていることは既に承知していた。未だに手がかりがない、と言われていることも、だ。
シリアは本人も納得していないような顔で眉間に皺を寄せる。
「……よくはわからないけど、よく似た子がほんのときどき父親と一緒に交易に来てるのを覚えている人がいたのよ。一人だけ見つけたんだけど。
目撃した人が他にいないはずもないし、何で言ってあげないんだって聞いたわ。けどねぇ……」
彼女にしては憂鬱な溜め息を吐く。苦虫を噛んでしまったような表情で、首を振ると天井を仰いだ。
「……噂じゃね。噂、っていうかたぶんフェルスさん直々に言わないようにお願いしてたのかもしれないけど……
ステイシア、実は街中に倒れていたんじゃなくて。
外に倒れてたらしいのよ。盗賊に襲われて、ね」
「―――ッ」
ルナの表情が歪む。レンは静かに瞑目して、しかし奥歯をきりっ、と噛んだ。
レンたちにとって見れば、そこら辺にいる盗賊など片手で相手に出来るような、そんな代物だ。だが交易の商人なや一般の人間にしてみれば十分に脅威となり得る存在で、だからこそ護衛のために傭兵等を雇い入れる。
それが郊外に倒れていた、ということは。
……どんな凄惨な状況だったのか、想像に難くない。
「その、父親の方は……」
シリアは無言で首を振る。問いたルナの方も、結果を予測した上での差たる意味のない問いだった。
「なるほど、道理でフェルス医師がステイシアの記憶を取り戻させたくないわけね……」
その場の詳細などここにいる人間が知る由もないが、もしもそのショックで記憶が飛んでいるのだとすれば、良い想像に至るわけもない。都合良く失っているなら、無理に思い出させたくはないと考えるのが大抵の人間だろう。
別段、珍しいことでもない。喰らう側の人間がいれば、喰らわれる側の人間が存在する。ただそれだけのことだ。
おそらくはこの広い大陸のどこかで同じようなことが、今も起きている。
頭を振って嫌な妄想を振り払うと、改めてルナは面を上げた。
「……それで、ステイシアはどこか他の町か村の人間、てわけなのね?」
「たぶんね。けど詳しいことを知ってる人間はいなかったわ。まあ、知ってたら私たちが来るより先にどうにかこうにかなってるでしょうし……。
私の方の情報はこんなものね」
「よくこんな短い間にそれだけ調べられたな」
珍しく褒め言葉を吐いたレンにシリアの目が輝いた。
「そうなのぉ、もう大変だったのよぉv レン、使い回されてぼろぼろの私を癒して」
ガンッ!
跳びかかって来るシリアの軌道から一歩、身を引くとそのままその無体生物は木製のテーブルに真正面から激突する。
普通の人間なら鼻骨くらいは折れていても不思議じゃない音がした。
「……良かったな、この町には優秀な医者がいて」
「シリアだし、バンソウコウでも貼り付けときゃ直るんじゃないの?」
「あ……貴方たち、ねえ………あら?」
つっ伏した先で鼻を押さえながら顔を上げ、シリアが妙な声を上げた。彼女の視線は窓の外に向いたまま固まっている。
無意識にレンとルナの視線もそちらへと誘導され……
即座に反応したルナがテーブルの上からシリアを引きずり下ろした。
「痛いわね! 何するのよッ!?」
「やかましい! でかい声出すんじゃないわよ! そんな目立つところに陣取るなッ!」
「私のせいじゃないじゃないッ!」
自覚の欠片もない科白を吐きながらも、シリアは心持ち身を低くして怒鳴り返す。その二人を呆れつつ眺め、レンは同じように窓の外を覗き込んだ。
窓の外は雑多な露店や小さな店舗が並ぶ通りだった。メインストリートからはややはずれているが、それなりに賑やかな通りだ。その人波の中に、大男を引きずるようにして跳ね回る少女がいた。
「……見事に尻に敷かれているな」
「予想を裏切らない光景で何よりね」
半分呆れ、半分同情。
くるくると良く動く少女はあの華やかな笑顔を振り撒きながら、露店を渡り歩く。その姿は極普通の、幸せに暮らす年頃の少女そのもので。
それを曇らせるくらいなら、と真実を隠蔽したフェルス医師の心情を痛いほどに理解する。
アルティオの方も少女が逐一上げる歓声に付き合って、ときにおどけて見せて。一時の仮初であろうとも、そこにあるのは一つのカップルの理想形だった。
それを悪戯にも壊すような真似は無粋になるだろう。
さしものルナも軽く頭を振って深く息を吐き出す。
「しっかし、アルティオがねぇ……意外にしっかり彼氏役やれてるじゃない」
「……そーね」
「……何、機嫌悪くしてんの?」
「別に何もなくてよ。それよりこれからどうするつもり?
フェルス医師もステイシアもこれといって怪しげなしがらみはなさそうだし、通り魔だってフェルス医師が持ってる情報以上のものを見つけるには時間と手間が必要よ」
「そうなのよね……。まあ、その時間と手間をかけるしかないんだろうけど……
とりあえずダメ元で被害者にコンタクトを取ってみて……」
窓の外の光景を視界から外し、ルナが思考の海へ浸ろうと俯いたときだった。
「お、おい……」
どこか怯えたような、それでいて粗忽な声が一同にかけられる。柄のあまり良くない店だ。つまらない言いがかりでも付けられるのかと忌々しげにそちらを見るが、そこには何か腰の引けたらしくない小男が小さく震えて立っていた。
身なりはそこら辺のチンピラやゴロツキと変わらない。だがその引けた腰だけが違和感を生んでいる。
「あ、あんたら、あの女を知ってるのか……?」
「?」
男は青ざめた表情で窓の外を指差した。その指が差すべき少女の姿は既に消えていたが、今しがた交わしていた会話から誰のことかはすぐに割れる。
「……ステイシア、いや、今外にいた金髪の子?」
「そう、そうだ! あの女だ! あの子、……あの子は……
…………い、いや、見間違いだ、何かの間違いだ……うん、か、関係ないよな、関係ない……」
男はぶつぶつと『間違い』と『そんなわけがない』を繰り返す。三人の噛みあった視線の意図が見事に合致した。
邪魔したな、と覇気なく去ろうとした男はそこへ投げ出された長い足に転がって床に突っ伏した。やや派手な音がするが、半分酔いが回っている他の客たちは気に留めようともしない。
「な、何す……ひッ!?」
さすがに声を荒げて突っかかろうとした男の襟首を、レンの鍛えられた腕が捻り上げた。声を上げるのもままならずにぱくぱくと金魚のように口を動かす男を、彼は投げ捨てるようにして席に落す。
追い討ちをかけるようにシリアの両手が男の両肩に置かれた。
「おにーさぁんv あの子について何か知ってるのぉ? 私ぃ、すっごく知りたいなぁ?」
色香を漂わすその声に、しかし素直に酔えるほど男の神経は太くなかった。男と反して立ち上がったレンがだんッ、と音を立ててついた右手の下に入るテーブルのひびと、じわじわと心臓を苛む対面の少女の目線がしっかりと恐怖感を煽っていたからだ。
青ざめていた男の表情が、さらに色を失って白くなる。
それを悟り、ゆっくりと、ルナは口角を吊り上げた。
「じゃあな、仕事頑張れよ」
「はい! 今日も付き合って頂いてありがとうございます! すっごく楽しかったです!」
夕刻が迫って診療所に戻って来たステイシアは、片手を上げて挨拶をするアルティオに深々と頭を下げる。
昼間は特別に非番を貰ったが、夜はそうもいかない。ステイシアはここに寝泊りさせて貰っている身だ。やるべきことはやらなくては。
アルティオは相変わらず頭を下げるステイシアに苦笑して、
「別に頭なんか下げなくていいって。俺だって楽しかったしさ。
それに恋人って、デートしたからってお礼なんか言うもんじゃないだろ?」
「え、えっと、あぅ……は、はい……そう、ですね……じゃあ、なんて」
「俺はステイシアちゃんに楽しんで貰えたらそれで嬉しいし。楽しかった、でいいよ」
「は、はい、すごく楽しかったです……」
頬を染めておろおろするステイシア。意地悪なことを言った覚えはないのだが、少々罰が悪くなる。
下手に声もかけられずに言葉に窮していると、
「え、えっと、あ! アルティオさん、カノンさんに会って行かれたらどうですかっ? ここ三日、私にばかりつき合わせちゃいましたし、もう大分回復なされたようですから……」
「お、おう、そうだな……」
本心というよりは間が悪くなったことを取り繕うものだろう。ステイシアはそれ以上、何を言っていいか解らずに『では、仕事がありますから』と背を向けた。
ぱたぱたとその場から逃げるように診療所の更衣室に向かう。
―――う……何か変な子と思われたかな……
狭い廊下を歩きながら、ステイシアは眉を寄せる。はぁー、と溜め息を吐きながら速度を落とした。
―――まあ、でも、アルティオさん、優しいから平気よね……
自問自答して少しだけ気が晴れる。ここ三日、恋愛ごっこを続けて解ったのは、とにかく彼の人の良さだった。
沈んでいるときはきちんと慰めてくれる、約束は忘れない、危険なときは―――ただ石ころに躓いただけでも心配して助けてくれる。
人によってはお人よし、とか甘い、とか言われるのだろう。ルナ辺りは確かにそう言いそうだ。
だが、その行為は確かに女の子を喜ばせるものだ。少なくともステイシアにとっては。けれどあれはステイシアに、ではなく、平等に女の子に、の行為なのだろう。確かにそういう見方ではフェミニストと言える。
それに何より、彼とのデートごっこは文句なしに楽しいのだ。何かがあるたびに、例えば野良猫一匹見つけただけであの手この手を考えて、楽しませてくれる。笑わせてくれる。ときにそれが空回ることもあるけれど、愛嬌というものだ。
まあ、欲を言えば通りすがった女の子に目を奪われないで欲しいものだけど。
ごっこ遊びと解っているけれど、無意識に次の約束を楽しみにしてしまっている自分がいる。
―――女の子出来てるなぁ、私。
記憶を失って、同時にそれまでの自分がどんな風だったのか、急に不安になった。
何しろ、積み重ねたものがない、まったくのゼロになってしまっていたから。ちゃんと普通の女の子になれるのかどうか、下らない不安を抱いていた。
だから今、ステイシアは素直に嬉しいのだ。
ごっこと解っていても、ちゃんと普通の女の子としての感情を味わっているのだから。
「さて、ちゃんとお仕事しなきゃ……」
気を取り直して浮ついた気分を取り払う。廊下の涼しい空気も一役買ってくれた。
うん、と肩を上下させて改めて踏み出して……
―――う……?
ぐらり、と目の前の風景が霞み、揺れる。だがそれは一瞬のことで、かろうじて彼女はすぐ側の手すりにしがみ付くことが出来た。
頭部の後ろに走る痛みに、手をやる。
はしゃぎすぎて疲れたのだろうか。
「いけない、いけない……」
もう少し自重しなければ。
一、二回もんでやると頭の痛みはすぐに引く。この程度なら気に留めることもないだろう。
掛け声を漏らして立ち上がり、ステイシアはまた元のように廊下の奥へと歩き出したのだった。
ノックの音がした。
レンが帰って来たのかと面を上げて気配を探るが、どうやらそうではないらしい。すぐ、と言っていた割に遅い。何か込み入った話でも持ち上がったのだろうか。
そんなことを考えながら返事を返す。
「どうぞー」
「ちっす。どうだ、身体の方?」
顔を覗かせたのは予想通りのにやけた面だった。
「まあ、もう大分ね。普通の剣くらいなら振れそうよ。
それより何? にやにやして……そんなにデートが楽しかったの?」
「……何でそれを?」
「そりゃあ、毎朝聞かされるもの、惚気話」
うんざりした表情で返す。何故かアルティオの表情はそれに反して輝いた。嫌な予感がする。
「カノン……もしかして、それはやきもちかッ!」
「ンなわけあるかい」
ごんッ!
今しがた読んでいた本の角がアルティオの額にクリーンヒットする。
「い、ぃいってぇッ!!」
「……ったく、あんた、その脳みそあの子に露呈させてないでしょうねぇ……
幻滅されて終わりになるわよ。ただでさえチンパンジーと互角勝負出来そうなんだし」
「そこまで言うかッ!? いやいや、そんなことはないぞッ!?」
突っ込みながらも、どこかアルティオの声は安堵していたようだった。椅子を勧めると、それを断りながらカノンの包帯やギプスが取れていることに笑みを浮かべる。
「とにかく元気そうで安心したぜ。入院したばっかのときはパンチが足りないっていうか、まあ、心配だったしな」
「ん……と」
顎に手をやって運ばれて来たばかりのときを思い出す。
「……あたし、そんなに落ち込んでた?」
「ん、ちょっとな」
「あはは、ごめん」
敗北という苦さと、動かせない身体へのもどかしさ。さらにどうにも出来ない苛ただしさが重なっていたのだろう。
感情に流されるなんて、狩人であった頃を考えればあってはならないことだった。
「謝んなよ、お前が悪いわけじゃないだろ」
そこでアルティオの表情が歪んだ。あの、少年の姿を思い出したのだろう。軽く拳を握りながら、
「ったく、理解できねぇぜ。女の子をこんなにしやがってよぉ……」
「ま、気持ちは嬉しいけど今までやって来たことを考えれば、ね。大丈夫よ、そこまで女の子だどうだ拘ってないし」
「……そうじゃねぇよ」
アルティオが珍しく溜め息を吐いて首を振る。テンションの落ちた彼に不審を覚えてカノンは小首を傾げる。
アルティオにとってみれば、それは一番彼女から聞きたくない言葉だったのだ。
「お前、もう狩人は辞めたんだろ? もう、しなくていいわけだろ?
レンもそうだけどさ、お前ら、囚われすぎなんだよ。もう義務で戦わなきゃいけないわけじゃないだろうが。それなのに、大怪我してさ。
もう逃げてもいいんだぞ?」
カノンは言葉を失う。
今している戦いは義務じゃない。誰かがしなければならないこと、というわけでもない。
だからつまり……
逃れたいなら、逃れてもいいはずの戦い。
アルティオにとってみれば、カノンは戦わずとも良い戦いで傷ついたことになる。そのことが、そしてそれを当然のように受け止めている彼女が、彼にとっては苛立だしかった。
カノンは困ったように頬を掻く。
「確かに……そう、なんだけどね。でも、その気はなくても火の粉は降りかかって来るものだし。
あたしは平気。これくらい、狩人時代を考えたらそう痛いもんでもないわ」
「……」
「アルティオ」
「……うん?」
「さんきゅ、心配してくれて。
あの頃よりずっと味方は多いんだし、実はこれでも結構あんたたちには感謝してるのよ?」
そう言ってカノンはからからと笑った。
「……本当に、昔から変わんねぇよなぁ」
「?」
「でも無理はすんなよな。俺、お前が寝込んでるとこなんてもう見たくないぜ?」
「……ありがと。努力するわ」
応えてもう一度笑ったところで、ノックが響いた。カノンが声をかけると、遠慮なしにドアが開く。
ドアを開いた彼女はアルティオがいることに多少、驚いたらしい。そちらを見て何とも複雑な表情を浮かべてから部屋に入って来た。
「ルナ? どうかしたの?」
そのときから違和感は感じていた。あれだけ賑やかな性格をしている彼女が、大した言葉もなく入って来たのだ。
ベッドの脇に立った彼女は唸って頬を掻く。ちらり、ときょとんとするアルティオへ視線を送ると、
「アルティオ~♪ ちょぉっとだけ出て行ってもらえる~? カノンと女の子同士の話がしたいんだけどなぁv」
「あだだだだだだッ!?」
いつもの調子で、大分力の入った拳をアルティオのこめかみに当て……いや、のめり込ませる。
「いだッ! 痛いって、わかったからッ! しばらく出てればいいんだろッ!?」
「出来ればそのまま永久に帰って来ないでくれると助かる」
「酷ッ!」
愚痴愚痴と文句を垂れながらも、カノンに『痛いところはないか』だの、『欲しいものはないか』だの、『寂しくなったら呼べ』だの、『夜九時には寝ろ』だの(一瞬、カノンの額に血管が浮いた)ひとしきり聞いた後、結局は業を煮やしたルナに強制退場させられた。
ここが病院で本当に良かった。痣で済んでいるといいけれど。
「……で、どうかしたの?」
「……」
ルナはアルティオに絡んでいたときこそ、いつもの通りだった。だが、部屋に入ってアルティオに目を留めて、こっそり吐いていた溜め息をカノンは見逃さなかった。
加えてわざわざ事情を説明していないアルティオを遠ざけようとしたこと。
それはつまり、聞かれたくないことをこれから喋ろうと思って来た、ということになる。
彼女は急に表情を冷めさせて、椅子に腰掛けることもなくまず力なく首を振る。渇いた喉を揉み解すように、ゆっくりと、
「カノン」
発された声はどこかぎこちなかった。硬い声のまま彼女は言う。
「信じ難い話だけど―――とんでもないことが解ったかもしれない」
と。
←6へ
「動くか?」
「うん、何とか。剣鎌持つにはちょっと辛いけど……普通の剣くらいなら」
包帯の取れた右腕をぐるぐると回しながら答える。足は軽く屈伸させてみる。痛みはない。
フェルスの医師としての腕は伊達ではないようだ。むしろ賞賛に値する。リザレクションといえど三日でここまで回復出来てしまうとは大した腕だ。
そんな優秀な医師が何故こんな小さな町医者に留まっているのか疑問だが……まあ、人には事情があるものだろう。
「そろそろ戻れ。リハビリと言っても無理をすれば余計動かせなくなるぞ」
「わ、わかってるわよ」
言われて不満そうな表情を張り付けながらも、カノンは薄暗い廊下の手すりに手をかけて歩き出した。
リハビリついでに病室の外に出ていたのだった。本当なら手すりなどいらないのだが、治りかけの足に負担がいくのを防ぐためになるたけ体重を預けながら歩く。
後ろを付いて行こうとしたレンだが、不意に懐から愛用の懐中時計を取り出して時刻を確認する。短い溜め息を吐いて、一人で戻れるか、と聞いてきた。
「どっか出かけるの?」
「ああ……ルナが互いに情報交換したいと言い出した。ほんの少しだが抜ける。
大分回復したようだし、ここの看護士には頼んで置いた。奴らもこんな白昼堂々来ることもないだろうが、用心して待っていろ。大人しくな」
「……噂が耳に入ってるんだったら教えてくれたっていいじゃない」
憮然として唇を尖らせる。カノンがつい、昨日知った小さな事件の噂は、交代で町に出ていたレンやルナの耳には既に入っていて。
同じ思考に辿り着いた彼らは、カノンが寝込んでいる間、シリアを抱き込んでいろいろと聞き込みを実行していたらしい。確たる成果はまだ上がっておらず、ステイシアに気を使ってかアルティオにも話していないらしいが(というよりは彼女の耳からカノンの耳へ入ることを恐れたのだろう)、それにしたって秘密でことを進めることはないじゃないか。
レンは溜め息を吐いて、すっかり機嫌を悪くしたカノンに、昨日と同じ説明をしてみせる。
「昨日も言ったはずだ。お前の性分は導火線が付き易すぎる。なら火の気から遠ざけるのが一番だろう」
「むー……」
「そう剥れるな。もう少しの辛抱だろう。そう剥れるなら少しでも大人しくして回復を早めるんだな。
それに、奴らの目的はお前を関わらせることだ。その延長上に何を企んでいるか解らん以上、ほいほい誘いに乗るわけにいかないだろう」
「わ、わかってるわよ……」
ただ目的を逸らすだけならば、その件に関わらなければいい。
だが、相手の標的が明確である以上、逃げ続けたところでいずれ同じようなことに合うだろう。奴がこの町にどんな種を撒いているか解らない以上、放って置くわけにもいかない。
なら迎え撃って相手の尻尾を捕まえる他はない。
金の髪を撫でてやると剥れた彼女は子供扱いを拒絶するように振り払う。彼はやれやれと呆れたように首を振り、すぐ戻る、と口にして背を向けた。
ちょっとだけ後悔する。
―――素直に行ってらっしゃいくらい、言っても良かったかな……
皆が思いやってくれていることくらいは解るのだ。それが理解できないほど子供ではないし、今、奴らと戦闘にでもなったらカノンはただの足手まといにしかならないだろう。
だが、悔しさはどうやっても拭い切れずに唇を噛む。
「考えても仕方ないのは解ってるんだけどね……」
これではただの八つ当たりだ。
出歩いて少しは気も晴れたはずなのだ。おかえりくらいはちゃんと言おう。
ぱん、と頬を叩いて顔を上げる。ふと、医療室―――フェルスが診療の合間に過ごす場所だ―――が目に入る。
「部屋のお湯、なくなってたっけ……」
もののついでだ。貰っていこうとドアをノックする。返事がない。少しだけ迷ってノブを捻る。
珍しく鍵がかかっていない。看護士の誰かのかけ忘れか、それとも中に誰かいるのか。
そっと隙間から覗いてみるが、部屋の中に誰かの気配はない。
意を決してドアを開ける。中に入ると、正面に所長用だろう、大きなデスクが陣取り、来客用なのか二人がけのソファが向かい合っている。だが、あまり使われていない証拠として張られた布に皺がない。
後は水を引く円盤と本棚がその他のスペースを埋めていた。本棚、というよりはカルテと医療書を纏めておく棚なのだろう、おそらく中身を見てもカノンには理解出来まい。
「―――んー……」
好奇心で侵入してしまったが、特に目を引くものはなかった。当たり前か、裏を返せば普通の診療所なのだ。それ以上でも以下でもない。
踵を返そうとしたとき、ふと、ドアの脇に掲げられた小さな肖像が目に止まった。
「……」
歳は三十に届くか届かないかというところだろう、赤い長い髪の婦人だ。優雅に腰掛けて、微笑んでいる。
細められた緑の瞳は柔和で、絶世の美人というわけではないが愛らしさと優美さを兼ね備えた、温かな印象を受ける女性だった。
「……誰かしら?」
よくある肖像だったが、カノンが目を留めたのには訳がある。
棚にはところどころ埃がかかっていたのに、この肖像だけ磨き上げられたかのように綺麗に保存してあるのだ。
思わずその絵に手を伸ばしかけ―――
かたんッ …バサバサッ!
「きゃッ?」
唐突に開かれたドアに後退り、後ろの棚に積んであったファイルの山を崩してしまう。
「あ……」
「か、カノンさんッ? な、何をしてるんですかッ?」
狼狽したフェルスが、ドアに手をかけたまま茫然と聞いてきた。罰が悪いことこの上ない。
冷や汗を掻きながら頭を下げる。
「す、すいません、お湯貰おうと思って来たんですけど、留守だったもので……」
「いけませんよ。ここには他の患者さんのカルテもたくさん、保存してあるんです。
ささ、お湯でしたら看護士に持って行かせますから早く病室へ戻ってください」
口調はいつも通りだったが、医者としての矜持なのだろう。有無を言わさぬ迫力が込められた言葉に、カノンはただ謝って頭を下げるしかない。
フェルスは慌てて床に落ちたファイルを拾い集めた。
他のものなら手伝うのが筋なのだろうが、それが他の人間のカルテならカノンが無闇に触るわけにはいかない。
ただ黙って向いてしまった視線を逸らせて―――
「……?」
ふと、視線を戻したカノンを諫めたのは笑顔を浮かべたフェルスだった。彼はドアを開いてカノンの肩をぽん、と叩く。
「さあ、まだ完全には治っていないのですから、油断しないでください。看護の者に送らせましょう」
「いえ、大丈夫です。もう一人で歩けますし……」
「いけません。それが医者としての努めです」
生真面目な顔でそう説くと、廊下を通りかかった看護士に声をかける。中年の女性看護士は頷いて、カノンに肩を貸そうとしてくるが丁重に断って歩き出す。
部屋を去る寸前、カノンは振り返って半開きになったドアを見る。
だが、中を確認するより先に、そのドアは容赦なく締められてしまっていた。
「レーンv こっちよぉ、遅かったじゃないのぉv」
「よぉっす。どーぉ、お姫様の具合は? もう大分いいの?」
「身体はな。機嫌の方は最悪だが」
「あっはっは、そりゃー当然だ。大したことないわよ」
目立つ長身を目に留めたルナは、グラスから口を離してからからと笑う。人の集まるカフェ、と言うにはやや客層の柄が悪い。溜まり場と称した方がいいだろう。
がやがやと耳障りな喧騒の最中に腰を下ろしかけたレンは、隣に座る少女の傾けるグラスから漂う匂いに顔を顰めて取り上げる。
「何すんの」
「昼間からはやめて置け。止めはせんがここ三日、やけになりすぎだ」
「はいはい、この一杯だけよ」
嘘なのは明白なのだがレンは止められずに小さく肩を竦める。
強制勧告としてグラスの残りを一気に飲み干した。
ルナは憮然としながらも、結局は何も言わずに居住まいを正す。
レンとルナは五人の中では最も付き合いが古い。カノンのように相棒とは言い難いが、その仲には異性の区別のない旧友としての腐れ縁が根付いている。
その分、互いに互いのやることに遠慮のない忠告を放つのが役目、というところが無意識のうちに出来上がっているのだが、その忠告もこればかりは甲を為さないらしい。
最も、彼女はこんなに本来、こんな酒飲みではなかったはずなのだが。アルコールには強いが嗜む程度の酒しか口にしなかったはずなのに。
クオノリアの一件が後を引いているのか、それともそれ以上の理由があってのことか。
その暴飲は少なからず、レンを、そして同じく古い仲であるシリアを驚かせた。
対面に座るシリアと視線を合わせると、彼女は困った表情で肩を竦め返すだけだった。
同性の彼女には何か話しているのかもしれないが、それを聞くのは無粋に思えた。彼女の性格だ。問い詰めたところで余計意固地になるだけだろう。
―――まったく、難しい性格だ……
レンは軽く首を振って席に着いた。
「で、カノンの方は? もう大丈夫なの?」
「……まだ全快とは言えんがな。剣鎌は操れんだろうが、普通の剣くらいは振れるだろう」
「へぇ、あのセンセ、かなりいい腕をしてるのねぇ……」
「それは一般論。で、保護者殿の目からしては?」
「保護者呼ばわりは納得いかんが、まだ動かしたくないところだな。下手に動かして神経がやられでもしたら洒落にならん」
「結構。ならそっちに従うわ。まあ、後のこと考えるとゆっくり養生してもらいたいしね。
レンの方はおっけ。シリアは? 例の件、調べといてくれた?」
「ふっ、見くびらないで欲しいわね。私を誰だと思っているのかしら?」
いつも通り、髪を掻き揚げて彼女は挑戦的な瞳を吊り上げた。さりげなくレンの方へと伸ばした腕は呆気なく叩かれるが、それに唇を尖らせながらも答える。
「率直に言って悪い噂は聞かないわぁ。誰も彼も、いい先生、いい先生、あの診療所に助けてもらってる、この町にいてもらわないと困る……そんなコメントばっかりね」
「……シリアにさ、あの診療所について色々と聞きまわってもらってたのよ」
神妙な表情でそれを聞いていたレンに、ルナが端的に科白を挟んだ。
カノンの入院を慮って評判を聞いた―――わけではない、無論のこと。
「……なるほどな。あれの目的は俺たちを事件に関わらせること。
だが、診療所送りにしたのはそれだけじゃない、ということか。ただ事件に関わらせるだけなら、人目に触れる危険を冒してまで手を出す必要はない。
ならばそうまでして手を下した理由がある―――それが、診療所そのものにある、と」
「あくまで推論よ。確証もないし、想像ですらない妄想だわ。
深く事件に齧りつかせたいなら診療所の人間に関わらせるのが一番だった、ってだけかもしれないし。
けど調べて損はないと思って」
ルナの言う通りだった。
聡明で狡猾な人間の先手を取る策は何か。突拍子もなくていい、わずかな気がかりを徹底的に調べ上げるに尽きる。
ルナの促すような視線に応えてもう一度、シリアが口を開く。
「フェルスさん、だっけか? 昔は結構大きな町で大きな病院で、結構いいポジションで職に就いてた、って話なんだけど。
良くある話、上司とトラブって辞めて、故郷のこの町で開業医なんてし始めたらしいのね。けどもう十年以上前の話だし、根に持ってるって話は聞かなかったわ。そんな人じゃないって。
まあ、この町に越して来てからも住民といざこざがあったって話は聞かないし……普通のお医者様よ」
「気になってたけど一人身? あの診療所、住宅兼用ぽかったけど看護士さん以外見たことないのよね」
「ああ、数年前にね。奥さんが病気でお亡くなりになって。子供はいなかったそうだからそれから一人身だって。
すんなり素性のわからないステイシアを引き取ったのも、やっぱり寂しい、って気持ちがあったんでしょうね……」
「……別に普通のお医者様、ってわけか」
「で、ステイシアの方なんだけど」
ルナはおそらく、素性のはっきりしない彼女にも疑いの目を向けたのだろう。だがシリアはひょい、と肩を竦めて、
「拍子抜けに……割れちゃったのよね」
「割れた?」
「……昔から、本当にときどきだけど。この町に来てたみたいなのよ」
「は?」
思わぬ返答にルナは間の抜けた声を漏らす。最も、声を出さなかっただけでレンも同じ心境だった。
本人から、カノンから、ルートは別だがステイシアが記憶を失っていることは既に承知していた。未だに手がかりがない、と言われていることも、だ。
シリアは本人も納得していないような顔で眉間に皺を寄せる。
「……よくはわからないけど、よく似た子がほんのときどき父親と一緒に交易に来てるのを覚えている人がいたのよ。一人だけ見つけたんだけど。
目撃した人が他にいないはずもないし、何で言ってあげないんだって聞いたわ。けどねぇ……」
彼女にしては憂鬱な溜め息を吐く。苦虫を噛んでしまったような表情で、首を振ると天井を仰いだ。
「……噂じゃね。噂、っていうかたぶんフェルスさん直々に言わないようにお願いしてたのかもしれないけど……
ステイシア、実は街中に倒れていたんじゃなくて。
外に倒れてたらしいのよ。盗賊に襲われて、ね」
「―――ッ」
ルナの表情が歪む。レンは静かに瞑目して、しかし奥歯をきりっ、と噛んだ。
レンたちにとって見れば、そこら辺にいる盗賊など片手で相手に出来るような、そんな代物だ。だが交易の商人なや一般の人間にしてみれば十分に脅威となり得る存在で、だからこそ護衛のために傭兵等を雇い入れる。
それが郊外に倒れていた、ということは。
……どんな凄惨な状況だったのか、想像に難くない。
「その、父親の方は……」
シリアは無言で首を振る。問いたルナの方も、結果を予測した上での差たる意味のない問いだった。
「なるほど、道理でフェルス医師がステイシアの記憶を取り戻させたくないわけね……」
その場の詳細などここにいる人間が知る由もないが、もしもそのショックで記憶が飛んでいるのだとすれば、良い想像に至るわけもない。都合良く失っているなら、無理に思い出させたくはないと考えるのが大抵の人間だろう。
別段、珍しいことでもない。喰らう側の人間がいれば、喰らわれる側の人間が存在する。ただそれだけのことだ。
おそらくはこの広い大陸のどこかで同じようなことが、今も起きている。
頭を振って嫌な妄想を振り払うと、改めてルナは面を上げた。
「……それで、ステイシアはどこか他の町か村の人間、てわけなのね?」
「たぶんね。けど詳しいことを知ってる人間はいなかったわ。まあ、知ってたら私たちが来るより先にどうにかこうにかなってるでしょうし……。
私の方の情報はこんなものね」
「よくこんな短い間にそれだけ調べられたな」
珍しく褒め言葉を吐いたレンにシリアの目が輝いた。
「そうなのぉ、もう大変だったのよぉv レン、使い回されてぼろぼろの私を癒して」
ガンッ!
跳びかかって来るシリアの軌道から一歩、身を引くとそのままその無体生物は木製のテーブルに真正面から激突する。
普通の人間なら鼻骨くらいは折れていても不思議じゃない音がした。
「……良かったな、この町には優秀な医者がいて」
「シリアだし、バンソウコウでも貼り付けときゃ直るんじゃないの?」
「あ……貴方たち、ねえ………あら?」
つっ伏した先で鼻を押さえながら顔を上げ、シリアが妙な声を上げた。彼女の視線は窓の外に向いたまま固まっている。
無意識にレンとルナの視線もそちらへと誘導され……
即座に反応したルナがテーブルの上からシリアを引きずり下ろした。
「痛いわね! 何するのよッ!?」
「やかましい! でかい声出すんじゃないわよ! そんな目立つところに陣取るなッ!」
「私のせいじゃないじゃないッ!」
自覚の欠片もない科白を吐きながらも、シリアは心持ち身を低くして怒鳴り返す。その二人を呆れつつ眺め、レンは同じように窓の外を覗き込んだ。
窓の外は雑多な露店や小さな店舗が並ぶ通りだった。メインストリートからはややはずれているが、それなりに賑やかな通りだ。その人波の中に、大男を引きずるようにして跳ね回る少女がいた。
「……見事に尻に敷かれているな」
「予想を裏切らない光景で何よりね」
半分呆れ、半分同情。
くるくると良く動く少女はあの華やかな笑顔を振り撒きながら、露店を渡り歩く。その姿は極普通の、幸せに暮らす年頃の少女そのもので。
それを曇らせるくらいなら、と真実を隠蔽したフェルス医師の心情を痛いほどに理解する。
アルティオの方も少女が逐一上げる歓声に付き合って、ときにおどけて見せて。一時の仮初であろうとも、そこにあるのは一つのカップルの理想形だった。
それを悪戯にも壊すような真似は無粋になるだろう。
さしものルナも軽く頭を振って深く息を吐き出す。
「しっかし、アルティオがねぇ……意外にしっかり彼氏役やれてるじゃない」
「……そーね」
「……何、機嫌悪くしてんの?」
「別に何もなくてよ。それよりこれからどうするつもり?
フェルス医師もステイシアもこれといって怪しげなしがらみはなさそうだし、通り魔だってフェルス医師が持ってる情報以上のものを見つけるには時間と手間が必要よ」
「そうなのよね……。まあ、その時間と手間をかけるしかないんだろうけど……
とりあえずダメ元で被害者にコンタクトを取ってみて……」
窓の外の光景を視界から外し、ルナが思考の海へ浸ろうと俯いたときだった。
「お、おい……」
どこか怯えたような、それでいて粗忽な声が一同にかけられる。柄のあまり良くない店だ。つまらない言いがかりでも付けられるのかと忌々しげにそちらを見るが、そこには何か腰の引けたらしくない小男が小さく震えて立っていた。
身なりはそこら辺のチンピラやゴロツキと変わらない。だがその引けた腰だけが違和感を生んでいる。
「あ、あんたら、あの女を知ってるのか……?」
「?」
男は青ざめた表情で窓の外を指差した。その指が差すべき少女の姿は既に消えていたが、今しがた交わしていた会話から誰のことかはすぐに割れる。
「……ステイシア、いや、今外にいた金髪の子?」
「そう、そうだ! あの女だ! あの子、……あの子は……
…………い、いや、見間違いだ、何かの間違いだ……うん、か、関係ないよな、関係ない……」
男はぶつぶつと『間違い』と『そんなわけがない』を繰り返す。三人の噛みあった視線の意図が見事に合致した。
邪魔したな、と覇気なく去ろうとした男はそこへ投げ出された長い足に転がって床に突っ伏した。やや派手な音がするが、半分酔いが回っている他の客たちは気に留めようともしない。
「な、何す……ひッ!?」
さすがに声を荒げて突っかかろうとした男の襟首を、レンの鍛えられた腕が捻り上げた。声を上げるのもままならずにぱくぱくと金魚のように口を動かす男を、彼は投げ捨てるようにして席に落す。
追い討ちをかけるようにシリアの両手が男の両肩に置かれた。
「おにーさぁんv あの子について何か知ってるのぉ? 私ぃ、すっごく知りたいなぁ?」
色香を漂わすその声に、しかし素直に酔えるほど男の神経は太くなかった。男と反して立ち上がったレンがだんッ、と音を立ててついた右手の下に入るテーブルのひびと、じわじわと心臓を苛む対面の少女の目線がしっかりと恐怖感を煽っていたからだ。
青ざめていた男の表情が、さらに色を失って白くなる。
それを悟り、ゆっくりと、ルナは口角を吊り上げた。
「じゃあな、仕事頑張れよ」
「はい! 今日も付き合って頂いてありがとうございます! すっごく楽しかったです!」
夕刻が迫って診療所に戻って来たステイシアは、片手を上げて挨拶をするアルティオに深々と頭を下げる。
昼間は特別に非番を貰ったが、夜はそうもいかない。ステイシアはここに寝泊りさせて貰っている身だ。やるべきことはやらなくては。
アルティオは相変わらず頭を下げるステイシアに苦笑して、
「別に頭なんか下げなくていいって。俺だって楽しかったしさ。
それに恋人って、デートしたからってお礼なんか言うもんじゃないだろ?」
「え、えっと、あぅ……は、はい……そう、ですね……じゃあ、なんて」
「俺はステイシアちゃんに楽しんで貰えたらそれで嬉しいし。楽しかった、でいいよ」
「は、はい、すごく楽しかったです……」
頬を染めておろおろするステイシア。意地悪なことを言った覚えはないのだが、少々罰が悪くなる。
下手に声もかけられずに言葉に窮していると、
「え、えっと、あ! アルティオさん、カノンさんに会って行かれたらどうですかっ? ここ三日、私にばかりつき合わせちゃいましたし、もう大分回復なされたようですから……」
「お、おう、そうだな……」
本心というよりは間が悪くなったことを取り繕うものだろう。ステイシアはそれ以上、何を言っていいか解らずに『では、仕事がありますから』と背を向けた。
ぱたぱたとその場から逃げるように診療所の更衣室に向かう。
―――う……何か変な子と思われたかな……
狭い廊下を歩きながら、ステイシアは眉を寄せる。はぁー、と溜め息を吐きながら速度を落とした。
―――まあ、でも、アルティオさん、優しいから平気よね……
自問自答して少しだけ気が晴れる。ここ三日、恋愛ごっこを続けて解ったのは、とにかく彼の人の良さだった。
沈んでいるときはきちんと慰めてくれる、約束は忘れない、危険なときは―――ただ石ころに躓いただけでも心配して助けてくれる。
人によってはお人よし、とか甘い、とか言われるのだろう。ルナ辺りは確かにそう言いそうだ。
だが、その行為は確かに女の子を喜ばせるものだ。少なくともステイシアにとっては。けれどあれはステイシアに、ではなく、平等に女の子に、の行為なのだろう。確かにそういう見方ではフェミニストと言える。
それに何より、彼とのデートごっこは文句なしに楽しいのだ。何かがあるたびに、例えば野良猫一匹見つけただけであの手この手を考えて、楽しませてくれる。笑わせてくれる。ときにそれが空回ることもあるけれど、愛嬌というものだ。
まあ、欲を言えば通りすがった女の子に目を奪われないで欲しいものだけど。
ごっこ遊びと解っているけれど、無意識に次の約束を楽しみにしてしまっている自分がいる。
―――女の子出来てるなぁ、私。
記憶を失って、同時にそれまでの自分がどんな風だったのか、急に不安になった。
何しろ、積み重ねたものがない、まったくのゼロになってしまっていたから。ちゃんと普通の女の子になれるのかどうか、下らない不安を抱いていた。
だから今、ステイシアは素直に嬉しいのだ。
ごっこと解っていても、ちゃんと普通の女の子としての感情を味わっているのだから。
「さて、ちゃんとお仕事しなきゃ……」
気を取り直して浮ついた気分を取り払う。廊下の涼しい空気も一役買ってくれた。
うん、と肩を上下させて改めて踏み出して……
―――う……?
ぐらり、と目の前の風景が霞み、揺れる。だがそれは一瞬のことで、かろうじて彼女はすぐ側の手すりにしがみ付くことが出来た。
頭部の後ろに走る痛みに、手をやる。
はしゃぎすぎて疲れたのだろうか。
「いけない、いけない……」
もう少し自重しなければ。
一、二回もんでやると頭の痛みはすぐに引く。この程度なら気に留めることもないだろう。
掛け声を漏らして立ち上がり、ステイシアはまた元のように廊下の奥へと歩き出したのだった。
ノックの音がした。
レンが帰って来たのかと面を上げて気配を探るが、どうやらそうではないらしい。すぐ、と言っていた割に遅い。何か込み入った話でも持ち上がったのだろうか。
そんなことを考えながら返事を返す。
「どうぞー」
「ちっす。どうだ、身体の方?」
顔を覗かせたのは予想通りのにやけた面だった。
「まあ、もう大分ね。普通の剣くらいなら振れそうよ。
それより何? にやにやして……そんなにデートが楽しかったの?」
「……何でそれを?」
「そりゃあ、毎朝聞かされるもの、惚気話」
うんざりした表情で返す。何故かアルティオの表情はそれに反して輝いた。嫌な予感がする。
「カノン……もしかして、それはやきもちかッ!」
「ンなわけあるかい」
ごんッ!
今しがた読んでいた本の角がアルティオの額にクリーンヒットする。
「い、ぃいってぇッ!!」
「……ったく、あんた、その脳みそあの子に露呈させてないでしょうねぇ……
幻滅されて終わりになるわよ。ただでさえチンパンジーと互角勝負出来そうなんだし」
「そこまで言うかッ!? いやいや、そんなことはないぞッ!?」
突っ込みながらも、どこかアルティオの声は安堵していたようだった。椅子を勧めると、それを断りながらカノンの包帯やギプスが取れていることに笑みを浮かべる。
「とにかく元気そうで安心したぜ。入院したばっかのときはパンチが足りないっていうか、まあ、心配だったしな」
「ん……と」
顎に手をやって運ばれて来たばかりのときを思い出す。
「……あたし、そんなに落ち込んでた?」
「ん、ちょっとな」
「あはは、ごめん」
敗北という苦さと、動かせない身体へのもどかしさ。さらにどうにも出来ない苛ただしさが重なっていたのだろう。
感情に流されるなんて、狩人であった頃を考えればあってはならないことだった。
「謝んなよ、お前が悪いわけじゃないだろ」
そこでアルティオの表情が歪んだ。あの、少年の姿を思い出したのだろう。軽く拳を握りながら、
「ったく、理解できねぇぜ。女の子をこんなにしやがってよぉ……」
「ま、気持ちは嬉しいけど今までやって来たことを考えれば、ね。大丈夫よ、そこまで女の子だどうだ拘ってないし」
「……そうじゃねぇよ」
アルティオが珍しく溜め息を吐いて首を振る。テンションの落ちた彼に不審を覚えてカノンは小首を傾げる。
アルティオにとってみれば、それは一番彼女から聞きたくない言葉だったのだ。
「お前、もう狩人は辞めたんだろ? もう、しなくていいわけだろ?
レンもそうだけどさ、お前ら、囚われすぎなんだよ。もう義務で戦わなきゃいけないわけじゃないだろうが。それなのに、大怪我してさ。
もう逃げてもいいんだぞ?」
カノンは言葉を失う。
今している戦いは義務じゃない。誰かがしなければならないこと、というわけでもない。
だからつまり……
逃れたいなら、逃れてもいいはずの戦い。
アルティオにとってみれば、カノンは戦わずとも良い戦いで傷ついたことになる。そのことが、そしてそれを当然のように受け止めている彼女が、彼にとっては苛立だしかった。
カノンは困ったように頬を掻く。
「確かに……そう、なんだけどね。でも、その気はなくても火の粉は降りかかって来るものだし。
あたしは平気。これくらい、狩人時代を考えたらそう痛いもんでもないわ」
「……」
「アルティオ」
「……うん?」
「さんきゅ、心配してくれて。
あの頃よりずっと味方は多いんだし、実はこれでも結構あんたたちには感謝してるのよ?」
そう言ってカノンはからからと笑った。
「……本当に、昔から変わんねぇよなぁ」
「?」
「でも無理はすんなよな。俺、お前が寝込んでるとこなんてもう見たくないぜ?」
「……ありがと。努力するわ」
応えてもう一度笑ったところで、ノックが響いた。カノンが声をかけると、遠慮なしにドアが開く。
ドアを開いた彼女はアルティオがいることに多少、驚いたらしい。そちらを見て何とも複雑な表情を浮かべてから部屋に入って来た。
「ルナ? どうかしたの?」
そのときから違和感は感じていた。あれだけ賑やかな性格をしている彼女が、大した言葉もなく入って来たのだ。
ベッドの脇に立った彼女は唸って頬を掻く。ちらり、ときょとんとするアルティオへ視線を送ると、
「アルティオ~♪ ちょぉっとだけ出て行ってもらえる~? カノンと女の子同士の話がしたいんだけどなぁv」
「あだだだだだだッ!?」
いつもの調子で、大分力の入った拳をアルティオのこめかみに当て……いや、のめり込ませる。
「いだッ! 痛いって、わかったからッ! しばらく出てればいいんだろッ!?」
「出来ればそのまま永久に帰って来ないでくれると助かる」
「酷ッ!」
愚痴愚痴と文句を垂れながらも、カノンに『痛いところはないか』だの、『欲しいものはないか』だの、『寂しくなったら呼べ』だの、『夜九時には寝ろ』だの(一瞬、カノンの額に血管が浮いた)ひとしきり聞いた後、結局は業を煮やしたルナに強制退場させられた。
ここが病院で本当に良かった。痣で済んでいるといいけれど。
「……で、どうかしたの?」
「……」
ルナはアルティオに絡んでいたときこそ、いつもの通りだった。だが、部屋に入ってアルティオに目を留めて、こっそり吐いていた溜め息をカノンは見逃さなかった。
加えてわざわざ事情を説明していないアルティオを遠ざけようとしたこと。
それはつまり、聞かれたくないことをこれから喋ろうと思って来た、ということになる。
彼女は急に表情を冷めさせて、椅子に腰掛けることもなくまず力なく首を振る。渇いた喉を揉み解すように、ゆっくりと、
「カノン」
発された声はどこかぎこちなかった。硬い声のまま彼女は言う。
「信じ難い話だけど―――とんでもないことが解ったかもしれない」
と。
←6へ
「……通り魔事件?」
「ええ、そうなんです」
やたらと物騒な単語にカノンは眉間に皺を寄せる。翌日、二度目のリザレクション治療が終わった直後のことだった。
顔色が悪いフェルス医師にカノンが頭を下げた後、苦々しくその口から零れた言葉がそれだった。話すつもりはなかったようだが、ぽろりと補助についていたステイシアが漏らしてしまったのだ。
ごめんなさい、と頭を下げるステイシアはついさっき、フェルスに言われて部屋を後にした。
気落ちした、というよりも『午後からは予定があるのでしょう』という医師の言葉に反応して、だ。
異様なまでに声が弾んでいたからまたアルティオと何か約束でもしたのだろう。静かでいいけれど。
「てっきりカノンさんも被害に会われたのだと思っていましたが……違うのですか?」
「えっと、たぶんあたしは……。
けど、本当なんですか? そんな話」
首を傾げて問いかける。町に来たときはそんな噂など耳に入らなかった、といっても滞在一日目であんな目にあって診療所送りになったのだからカノンの耳に入ってないだけかもしれないが。
いや、しかし町に特に活気がない、ということもなかった。にわかには信じ難い。
「まあ、大事にはなっていませんからね」
「というと?」
フェルスはうーん、と人の良い笑みを浮かべたままで唸った。伝えても良い情報かどうか迷っているのだろう。
やがて息を吐いてから、
「最近、怪我をする患者さんが多くて。夜に、それも剣か何かで斬りつけられたような傷ばかりなんです」
「ちょっとちょっと、それって大事じゃないの?」
「致命傷を負った人はいません。それどころか、実質的な被害にあった方はいないんですよ。
皆さん、一度の魔道治療で回復なされるような傷ばかりで……」
「どこを怪我してるんです?」
「バラバラです。腕だったり、足だったり。傷口は大きいので出血はありますが、死に至るだとか、部位が損傷して動かなくなるなんてレベルではないんです。
ただ血が出て、痛みで動かせない程度で……普通の治療を施して三日もすれば問題なく動かせるものでしょう。
なのでカノンさんが運ばれて来たときは、急にエスカレートしたのかと思って驚いたんですよ」
それはそうだろう。
大した怪我を負わせなかった通り魔が、いきなり腕が取れるほどの暴行犯になったとしたら。
カノンのような怪我人がいきなり増えてしまうことになる。医師としても、この町に住む住人としても気が気ではないだろう。
新しく包帯の巻かれた身体を法衣で隠しながらふと思う。
「……そんな非常時に、憲兵も政団も何もしてないって?」
「……いえ、既にこの町のウィルトン伯に連絡は入っているはずなのです。政団員がいらっしゃって、一度調査も行いました」
「その時期に事件は?」
「……起きませんでした。
そのままずるずると、兵が駐屯することもなく来てしまっているのです」
よくある腰の重い役人仕事だ。
怪我人が増え、それを顔色を悪くするほど治療しなければならないフェルス医師にとっては大迷惑な事件だが、憲兵たちにとっては実質的な被害のない小規模の事件なのだろう。
嫌な話だが、世の中には早期に解決しなければならない事件など山ほどある。あってはならないことかもしれない。だが、そのために小さな事件は黙殺されてしまうということが、これが結構あったりするのである。
要するに愉快犯による気ままな小事件だ。放って置いても収まるだろう……
そんな心理が面倒な役所への手続きや、遠征を行わなければならない憲兵や政団員の手足をさらに重くするのだ。
「町の人は何とも思ってないの?」
「……夜に家の中に閉じ篭っていれば良い話ですし、正直この事件はただの噂という扱いを受けているのです。
被害に合われた方は深夜出歩いているような方々ですから、どうしてもお酒が入っています。
酔った方がどこかで怪我を負う、というのも残念ながら多々あるものです。そして、よほど切れ味の良いものでない限り、刃物による切り傷かそれ以外の何か鋭利なもので傷付いたのか、判断できる素人の方はなかなかおりません」
陰鬱な溜め息をついてフェルスは救急用具を片付け始めた。
確かにそうだ。
カノンのような特殊な職についていたか、もしくは傭兵や剣を握った経験のある者なら、その傷が何でついたものなのか、例え医者でなくとも判断がつくだろう。
だが争いごととは無縁の市民ならば、それが刃物でついたものなのか、鋭い、例えば店先の尖った金属の看板でついたものなのか、判断がつかない。
加えて深夜まで泥酔しているような人々はこぞって記憶が曖昧だ。
そして刃物を持った何者かが自分を襲った、と考えるよりは酔った自分が転げてどこか鋭いものに引っかかって怪我をした、という方が遥かに現実的で想像が容易なのだ。
仮に正確にそれを記憶していた人間がいたとして、周りの人間が泥酔した人間の言うことを信用するだろうか。
『そんなことあるわけない』『夢でも見たんだろう』、そう矢継ぎ早に言われ、酔っていた自覚がある人間は、煙に巻かれずにいられるだろうか。
誰だって誰かに襲われた、なんて恐ろしい妄想よりも楽観的な想像に身を任せたくなるのが通りだ。
だからこの小事件は、怪我が明確で診療所に通う人間と、その傷を冷静に判断できるフェルスの胸に留まるだけになる。
怪我を負う人間の数が『偶然』を許容できる範疇を超えるレベルにないのだ。
カノンは知っている。こういう愉快犯は、周りの反応に乗じて行動をエスカレートさせる。
周りの人間が気づいたときにはもう遅い、本人が不毛さに気づく頃にはもっと遅い。
しかし、カノンに今、この事件に感けられる余裕などなかった。カノンが対峙しているのは、面白紛れの愉快犯ではなく、あの漆黒の闇衣の―――"モノ"なのだ。
善悪の大小を説くのではない。それならば腰の重い役所人と何も変わらない。
しかし、傷付いて自身の身を守ることさえままならない状態のカノンに、手の中にあるもの以上の荷を持つのは明らかに酷で向こう見ずな話だった。
だからカノンは苦虫を噛み潰しながら、こう言うしかない。
「……これでも政団では多少の顔が利きます。仲間内でも精通した人間がいますから、治療代も含めてどこかの町で話は通して置きましょう」
「……ありがとうございます」
フェルスが話をしてくれたのはきっと、どこかで戦士風な自分たちが事件を解決してくれるかもしれない、という打算があったせいだろう。
しかし、患者で怪我人で、しかもその傷は他人に受けたもの。深くは悟れなくとも、こちらが誰かに狙われているのだ、ということくらいは薄々感じ取っていてもおかしくはない。
だからフェルスは曖昧な笑顔で、色の悪い顔を下げた。
無理なリザレクションを強いたことに、再び罪悪感が働いて、もう一度詫びるが、やはり彼は微笑を浮かべて『気にしないでください』と手を振った。
フェルスがワゴンを押して病室を出て行く。
一人になったカノンはふぅ、と息を吐いてベッドにもたれかかった。
怪我を負ってから一日、一人の時間は格段に減っていた。再度の襲撃があると仮定するなら、一人でいるのは好ましくない。病室には常に誰かがいるようになった。
今は診察の時間で席を外していただけで、もう少しすればレンかルナかシリアが帰ってくるだろう。
アルティオはどうせステイシアに振り回されているんだろうから除いて置く。
それまでこのわずかな時間を堪能して置くに限る。
―――に、しても辻斬りの愉快犯、ねぇ……
物騒な話であることに変わりはない。どこの誰が犯人であれ、中途半端に狡猾だ。わざと被害を極少に抑え、憲兵たちに『大したことはない』と思わせる。
役所の本腰を避ける常套手段。
記憶が曖昧な獲物を選ぶ狡猾さ。
……突発的な蛮行ではなく、ちゃんとものを考えられる人間の犯行だ。普段なら、そりゃあ貰うものは貰うけれども首を突っ込んでいて不思議はないのだが。
二度の猛進でさすがのカノンもそこまで無謀にはなれなかった。
まあ、でもこんな小さな町だからか。町人も結構、能天気なものだ。事件に過敏な町とそうでない町がある。反応が薄い、ということはそれだけ普段の治安が良いということなのだろうが……
しかし……
何だって……
「・・・え?」
ざわり、と。
寒気のような悪寒のような。
温かな毛布とシーツが、急に自らの温度を下げたような。そんな、怖気。
―――ちょっと、待って……それ、一体……
噂でのみ存在が把握されている事件で。
公的な機関は手を下せていなくて。
唐突なエスカレートを予見させる……?
それはどこかで聞いたワードじゃなかったろうか?
昔なんかじゃない。つい、最近、忘れようもなくて、それに加えてそれにはこの怪我を喰らわせてくれたあの影が、深く関わって……
「あ……あ、あ……ッ!」
ベッドのもたせていた背を、カノンは音さえ立てて持ち上げた。
そう、公的機関を手玉に取って。
それまで当事者以外は嘲笑えるような、つまらない事件だったのに。
そう、急に、第三者がすべてを狂わせて、露呈した。そして最後は、
「―――ッ!」
「まったく面倒臭いわねぇ……。で、カノン調子は……」
「シリアッ!!」
「な、何よ……」
寝起きなのか、いつもと比べて数段に顔色の悪い色ボケ魔剣士に鋭い声を叩きつける。
乱れた髪を正しつつ、頭を抑えて入って来た彼女にカノンは眉を潜めて、
「うっわ、酒臭ッ! あんた、昨日何してたのよ!?」
「うるっさいわねッ! 私のせいじゃないわッ! あの子がやたらと強いのが……いたたた……」
「二日酔いかい……。
状況がわかってないっていうか、ただの阿呆っていうか……。
もー、いいッ! いいからレンかルナを呼んで来てッ! 早くッ!!」
「へぇ、そんなことがあったのか」
「はい……」
メインストリートを肩を並べて歩きながら、アルティオは彼女の話に適当な相槌を打っていた。
ステイシアは先程の治療で吐いてしまった自分の失言を責めていた。責める、というか余計なことを言ってしまった、と落ち込んでいるわけなのだが……
アルティオはカノンの性分をよく知っている。
そんな瑣末なことで気を悪くするような器の小さい女ではない。それにステイシアは誤解しているようだが、カノンの傷はけしてそんな生半可な愉快犯につけられたものではない。もっと狡猾な、化け物だ。
むしろ心配なのはそんな噂を聞いて、彼女が妙なことに首を突っ込まないかだが、彼女も馬鹿ではない。余計なことに感けているような場合でないことは理解しているだろう。
―――……ん、待てよ? 人の噂……?
アルティオの眉間に皺が寄る。だがかすかな違和感が輪郭を作ることはなく、ステイシアの今にも泣きそうな表情を見た瞬間に吹き飛んでいた。
「アルティオさん……怒ってませんか?」
「へ? 何で?」
「だ、だって私……カノンさんに無神経なこと言っちゃいましたし、その……」
アルティオはああ、と頷く。
カノンが傷付く、というのは確かにあるティオにとって最も歓迎できない出来事だ。だがそれしきのこと、カノンがいつまでも気にかけているとは思えないし、憎むべき敵は他にいる。
ここで彼女を責めるのはとんだお門違いだ。
「大丈夫だって、そんなこと。カノンだって気にしてないさ」
「そうでしょうか……」
「そうそう。それより看護する側のあんたが不景気な面してる方を気にするだろうさ。
もしかしたら一緒にいた俺が怒られるかもしれねぇな。何、女の子泣かしてんのーッ! とかな」
似ていないモノマネまでして言ったアルティオに、ステイシアは目を瞬かせた。何度もぱちくりと瞬きをする彼女に、アルティオはつとめて朗らかな笑みを浮かべ、
「だからさ、笑っといてくれよ。俺の身を守るためと思ってさ、な?」
しばし、ステイシアはそのにへら、とした笑みを眺めていたが、その一シーンがリアルに想像できたらしい。やがて小さく吹き出してくすくすと笑い声を上げた。
アルティオの方はそれで満足したのか、視点を彼女に合わせるのをやめて止まっていた足を進め始める。
ステイシアはそれを慌てて追いかけて、高い位置にある男くさい顔を覗き込む。
「あの、聞いていいですか?」
「ん?」
快活な彼女にしては珍しく少しだけ睫毛を伏せて、言葉を選んでいる。そんなものだから、アルティオは何を聞かれるのか大体の予測がついてしまった。
「あの……アルティオさん、何でカノンさんのことが好きなんですか?」
「……あー」
やっぱりそう来たか、と呟きながらぽりぽりと頬を掻く。唸りながら宙を見て、言い難いというよりもどう説明しようか悩んでいるようだった。
しばらくそのまま空を眺めて、彼は不意に視線を下げ、何かを懐かしむように、
「んー……今からすると想像し難いと思うけどさ」
「はい」
「あいつ、昔は本っ当に笑わない奴だったんだよ」
ステイシアは再びきょとん、として目を瞬かせる。
「……カノンさん、ですか?」
「ああ、レンもびっくりの無愛想だった。いや、違うかな。レンの場合はただの無愛想だったけど、あいつの場合は無愛想っていうか無感情……っていうのかなぁ」
「無感情……?」
「ほら、レン。あいつさ、愛想はないけどちゃんと怒ったり何だり出来るだろ? 時々、マジでおっそろしいときとかあるし」
言われてステイシアは彼に初めて会った際、血相を変えて詰め寄られたのを思い出す。
なるほど、言われてみればあのときの彼は確かに焦っていたし、苛立っていた。後からやたらと落ち着き払った姿を見たとき、少し驚いたほどだ。
「でもなー、子供の頃のカノンは……何てーか、突付いても叩いてもびくともしない、っていうか。笑わない、っていうよりは笑うことを知らないって感じでさ」
「何で……」
「んー、まあ……複雑な家庭環境だったからなぁ……」
まさか説明するわけにもいかず、アルティオは曖昧に笑って見せる。
よくは知らないが、彼女が物心つく頃には彼女の肉親は祖母一人だけだったそうだ。周囲に讃えられていた母親へのコンプレックスと、期待から発せられる重責。将来を決定付けられた強制感。
彼女が辺りからの干渉を避けるようになったのを、誰かに責められるはずもなかっただろう。
「でもさ、俺があいつに会ったときは、かなりときどきっていうか、滅多にはなかったけど、レンやルナ相手にはほんの少し笑うようになってたんだよなぁ……。
それが異様に悔しくてさ。何とか笑わせてみたくって、いろいろやったもんだ」
当時を思い出すかのように、懐かしげに肩を竦めて見せる。
「それで?」
「ああ、一回だけだけどな。俺相手にでも笑ってくれたんだよ。
それが嬉しくってさ、いつのまにか、な。笑ってる方が可愛かったし、ああ、この娘には笑ってて欲しいなー、と思うようになったんだよ」
照れたように俯いて笑う。頬と耳がわずかに赤くなっていた。少しだけ寂しそうに、『現在進行形で玉砕中だけどなー』とおどけて見せた。
そうですか、とだけ答えてステイシアは目を伏せる。
「……羨ましいな、カノンさん」
「へ? 何か言った?」
「ううん、何でもありません!」
頭を振って彼女はぱっと顔を上げた。胸を張り、すり抜け様にアルティオの腕を掴む。
「行きましょう! 今日はバザーがあるんですよ! 見に行きませんかッ!?」
「お、そりゃいいな! 案内してくれよ」
「はい、任せてください!」
にっこりと、彼女は華やかな笑顔と共に足取り軽く走り始めたのだった。
いつから目が覚めていたのか、それともずっと浅い眠りについていたのか。
まどろみが身体をだるく、重くする。彼にとって眠りは悪いものでもないが、けして良いものとも言えなかった。
夢から覚めたあとの重い現実感。これが嫌いなのだ。
目が覚めたのは崩れかけた屋根の合間から差し込んでくる西日のせいじゃない。一つの気配に気がついたからだった。
彼は気だるい身体に鞭を打って身を起こす。
かつん、と皮のブーツの踵が鳴った。
「……良くもまあ、こんな酷いところで寝られるもんね」
トーンの高い、まだ幼さを残す少女の声。彼はぼんやりする頭を振り払って、目の前の闇を凝視する。
既に廃屋になった小屋敷の一室だ。以前は部屋を着飾っていただろう、絨毯も石の壁も、その壁にかけられたタペストリも、すべてが色褪せている。
備え付けられたランプが機能しているはずもなく、長年の埃も相俟ってさらに視界は悪くなる。
夕闇の最中に、小柄な少女の輪郭が浮かび上がる。
「……へぇ」
それが記憶と一致して、彼はさも可笑しそうに唇の端を吊り上げた。
「……良くここを見つけたね」
「あんたみたいなのが普通の宿に泊まってるわけもないし。だからといって、人目につくところには行けないだろうし。
なら、町の誰も立ち寄らないようなところを探すのは当たり前でしょ?」
あからさまに期限の悪い声で彼女は―――刹戒の魔女とも揶揄される、幼い魔道師はふん、と鼻を鳴らす。しかし、答えたのはくすり、という余裕を含んだ微笑みだった。
辺りにたむろする闇と同じ色をした少年は、服の裾の埃を払って古びたソファから立ち上がった。ばさり、と長いコートの裾が揺れる。
「まさか正々堂々、正面から来て頂けるとは思いませんでしたよ。それも単独とは」
「誰かに言ったらカノンの耳に入りかねないだろうからね。連れて来たくはないし」
「麗しい信頼関係で何よりです。それで、何かご用でしょうか?」
白々しいのはお互い様だった。だからルナは余計な前戯など挟ませずに問う。
「聞きたいことは二つ。一つは『ヴォルケーノ』をどこから入手したのか、もう一つはあんたが何を企んであの娘たちを狙っているのか。それだけよ」
「いえ、企んでいるなんて」
どんッ!!!
言葉も半ばにルナの放った一条の閃光は、少年のすぐ隣の空間を抉り、背後の壁を容赦なく粉砕する。ぱらぱらと崩れる残り香の小石を、少年は目を細めて一瞥を送った。
「……これはこれは容赦のない」
「白々しいのは止めなさい。この町で起こってる通り魔事件、どうせあれにも一枚噛んでるんでしょう?」
「さて、何のことやら」
「今さらとぼける気? そうじゃなきゃ、あんたが中途半端にカノンを襲ったことへの説明がつかないのよ。
……この町には憲兵も政団員もいない。なら事件の詳細を説明出来る人間はそれを治療する医者しかいない。けど、普通に旅人として通り過ぎるだけなら、医師と接触する機会なんてないわ。
あんたはその接触の機会を人為的につくり上げた。クオノリアでクレイヴを殺したときと同じように、カノンたちをこの件に関わらせるためにね。
通り魔事件の被害者に見せかけるのは失敗したようだけど」
「あれは失敗でしたねぇ。もっと軽傷で構わなかったんですが。
彼は優秀なんですが、感情の制御が利き辛くてね、僕も苦労しています。そちらのブレーンには悪いことをしました」
言って肩を竦めるのは当然挑発以外の何物でもない。ルナはますます目尻を吊り上げて彼を睨む。
「……こんな事件を起こして、それにカノンたちを関わらせて、一体何のつもり?」
「素直に答えると思ってここに来たんですか?」
「……ッ!」
宵闇の中、いっそ清々しいまでにこやかな笑みを浮かべた少年に、ルナの背に寒気が走る。目の前の少年は一歩足りとも動いていないし、何かを詠唱する暇などなかった。
だが、けして平坦ではなかった半生で培われた勘が訴える。視覚とその勘と、どちらを信じると問われるなら間違いなく彼女は己の勘を頼る!
どむッ!!!
転がるようにして避けたルナの背後の壁が轟音を立てて砕け散る。酷い重力を受けたようにひしゃげた壁、その向こうにはだだっ広い廊下が剥き出しになっていた。
ルナは我が目を疑う。
今、少年は指一本として動かしていなかった。断言できる。怪しげな素振りがあれば、気がつかないはずがない。
慌てて今一度、周囲の気配を探る。だが部屋に入って来たときと同じく、感じられるのは視界に写る少年の気配ただ一つ。
―――そんな……じゃあどうやってッ!?
戦慄が全身を駆け抜ける。少年は包帯で覆われた額を軽く押さえ、頭を振る。困った子供を諭すような、そんな表情で、
「ちょっとやりすぎ、かな。普通の人間なら死んじゃうよ」
溜め息混じりに呟くと、ふと右の手を天井へ掲げる。瞬時、申し計ったかのように指の差す石の天井にぴし、とひびが広がった。
「―――!」
老朽化した屋根はその重さに耐え切れずに瓦解する。全身に冷や汗が浮く。後ろへ跳び退ると同時に、先程の倍の轟音を立てて崩れた石の天井が冷たい床に積みあがってゆく。
砂と埃とを舞い上げて部屋の中が一瞬、白く濁った。たまらす口と鼻とを押さえて咳き込む。
浮かんだ涙を拭い、何とか埃を追い出すと前方を見据える。が、
「!?」
「……単独で来られたことには敬意を表します。ですが少々焦りすぎですね」
声は頭上から降って来た。はっ、として天井を仰ぐと件の少年は開いた天井の穴の上―――逆光の差す空を背景にして片膝を付き、こちらを見下ろしていた。
「ちッ! 本ッ当に高いところが好きな奴ね!」
「何とかと煙は高いところにいるものですよ。まあ、その勇気に免じて一つ、いいことを教えてあげましょう」
轟音の後の沈黙に、くすくすと響く笑い声が腹立だしい。包帯に封印された半顔の脇の、かろうじてその封印を逃れている彼の薄い唇が吊り上がる。
「正面から切り込むのも悪くない。足早にチェックを重ねることが出来るでしょう。ですがチェックメイトには届かない。
僕を落したいなら辿り着いた先の足元をもっと良く見ることです。
ああ、それと、」
睨み上げるルナの目線を受け流しながら、彼は寸分狂わぬ笑みを向ける。はっ、と気がついて彼女は浮遊の術を唱え始めるが、冷静さを欠いた遅足の詠唱に他ならない。
「意味を為さない希望的な観測と憶測に逃げることのはやめることをお薦めします。ご自分が傷付くだけですよ?」
「・・・ッ!」
ルナの喉が詰まり、詠唱が止んだ。
解ってはいた。この少年の最大の武器は不可思議な符でも、術でも、その身のこなしでもない。
相手の心情を的確に抉る、言霊。それが真だろうと嘘だろうと、彼は確実に相手の胸中を貫いて、致命打を生む。人が抱える殻を突き破る最高のまやかし。
だからそれに勝てなくては勝機はない。だが、彼女は詠唱を止めてしまう。それでも。解っていても。
「……健気でよろしい方です。では、また後ほどお会いしましょう」
「ッ! 待ちなさいッ!!」
我に返ったときにはもう遅い。
目の端から黒衣がふわり、と姿を消して、中断した詠唱をルナが終える頃には。
宵闇の広がる空に、少年の黒影は跡形もなく消えていたのだった……。
←5へ
「ええ、そうなんです」
やたらと物騒な単語にカノンは眉間に皺を寄せる。翌日、二度目のリザレクション治療が終わった直後のことだった。
顔色が悪いフェルス医師にカノンが頭を下げた後、苦々しくその口から零れた言葉がそれだった。話すつもりはなかったようだが、ぽろりと補助についていたステイシアが漏らしてしまったのだ。
ごめんなさい、と頭を下げるステイシアはついさっき、フェルスに言われて部屋を後にした。
気落ちした、というよりも『午後からは予定があるのでしょう』という医師の言葉に反応して、だ。
異様なまでに声が弾んでいたからまたアルティオと何か約束でもしたのだろう。静かでいいけれど。
「てっきりカノンさんも被害に会われたのだと思っていましたが……違うのですか?」
「えっと、たぶんあたしは……。
けど、本当なんですか? そんな話」
首を傾げて問いかける。町に来たときはそんな噂など耳に入らなかった、といっても滞在一日目であんな目にあって診療所送りになったのだからカノンの耳に入ってないだけかもしれないが。
いや、しかし町に特に活気がない、ということもなかった。にわかには信じ難い。
「まあ、大事にはなっていませんからね」
「というと?」
フェルスはうーん、と人の良い笑みを浮かべたままで唸った。伝えても良い情報かどうか迷っているのだろう。
やがて息を吐いてから、
「最近、怪我をする患者さんが多くて。夜に、それも剣か何かで斬りつけられたような傷ばかりなんです」
「ちょっとちょっと、それって大事じゃないの?」
「致命傷を負った人はいません。それどころか、実質的な被害にあった方はいないんですよ。
皆さん、一度の魔道治療で回復なされるような傷ばかりで……」
「どこを怪我してるんです?」
「バラバラです。腕だったり、足だったり。傷口は大きいので出血はありますが、死に至るだとか、部位が損傷して動かなくなるなんてレベルではないんです。
ただ血が出て、痛みで動かせない程度で……普通の治療を施して三日もすれば問題なく動かせるものでしょう。
なのでカノンさんが運ばれて来たときは、急にエスカレートしたのかと思って驚いたんですよ」
それはそうだろう。
大した怪我を負わせなかった通り魔が、いきなり腕が取れるほどの暴行犯になったとしたら。
カノンのような怪我人がいきなり増えてしまうことになる。医師としても、この町に住む住人としても気が気ではないだろう。
新しく包帯の巻かれた身体を法衣で隠しながらふと思う。
「……そんな非常時に、憲兵も政団も何もしてないって?」
「……いえ、既にこの町のウィルトン伯に連絡は入っているはずなのです。政団員がいらっしゃって、一度調査も行いました」
「その時期に事件は?」
「……起きませんでした。
そのままずるずると、兵が駐屯することもなく来てしまっているのです」
よくある腰の重い役人仕事だ。
怪我人が増え、それを顔色を悪くするほど治療しなければならないフェルス医師にとっては大迷惑な事件だが、憲兵たちにとっては実質的な被害のない小規模の事件なのだろう。
嫌な話だが、世の中には早期に解決しなければならない事件など山ほどある。あってはならないことかもしれない。だが、そのために小さな事件は黙殺されてしまうということが、これが結構あったりするのである。
要するに愉快犯による気ままな小事件だ。放って置いても収まるだろう……
そんな心理が面倒な役所への手続きや、遠征を行わなければならない憲兵や政団員の手足をさらに重くするのだ。
「町の人は何とも思ってないの?」
「……夜に家の中に閉じ篭っていれば良い話ですし、正直この事件はただの噂という扱いを受けているのです。
被害に合われた方は深夜出歩いているような方々ですから、どうしてもお酒が入っています。
酔った方がどこかで怪我を負う、というのも残念ながら多々あるものです。そして、よほど切れ味の良いものでない限り、刃物による切り傷かそれ以外の何か鋭利なもので傷付いたのか、判断できる素人の方はなかなかおりません」
陰鬱な溜め息をついてフェルスは救急用具を片付け始めた。
確かにそうだ。
カノンのような特殊な職についていたか、もしくは傭兵や剣を握った経験のある者なら、その傷が何でついたものなのか、例え医者でなくとも判断がつくだろう。
だが争いごととは無縁の市民ならば、それが刃物でついたものなのか、鋭い、例えば店先の尖った金属の看板でついたものなのか、判断がつかない。
加えて深夜まで泥酔しているような人々はこぞって記憶が曖昧だ。
そして刃物を持った何者かが自分を襲った、と考えるよりは酔った自分が転げてどこか鋭いものに引っかかって怪我をした、という方が遥かに現実的で想像が容易なのだ。
仮に正確にそれを記憶していた人間がいたとして、周りの人間が泥酔した人間の言うことを信用するだろうか。
『そんなことあるわけない』『夢でも見たんだろう』、そう矢継ぎ早に言われ、酔っていた自覚がある人間は、煙に巻かれずにいられるだろうか。
誰だって誰かに襲われた、なんて恐ろしい妄想よりも楽観的な想像に身を任せたくなるのが通りだ。
だからこの小事件は、怪我が明確で診療所に通う人間と、その傷を冷静に判断できるフェルスの胸に留まるだけになる。
怪我を負う人間の数が『偶然』を許容できる範疇を超えるレベルにないのだ。
カノンは知っている。こういう愉快犯は、周りの反応に乗じて行動をエスカレートさせる。
周りの人間が気づいたときにはもう遅い、本人が不毛さに気づく頃にはもっと遅い。
しかし、カノンに今、この事件に感けられる余裕などなかった。カノンが対峙しているのは、面白紛れの愉快犯ではなく、あの漆黒の闇衣の―――"モノ"なのだ。
善悪の大小を説くのではない。それならば腰の重い役所人と何も変わらない。
しかし、傷付いて自身の身を守ることさえままならない状態のカノンに、手の中にあるもの以上の荷を持つのは明らかに酷で向こう見ずな話だった。
だからカノンは苦虫を噛み潰しながら、こう言うしかない。
「……これでも政団では多少の顔が利きます。仲間内でも精通した人間がいますから、治療代も含めてどこかの町で話は通して置きましょう」
「……ありがとうございます」
フェルスが話をしてくれたのはきっと、どこかで戦士風な自分たちが事件を解決してくれるかもしれない、という打算があったせいだろう。
しかし、患者で怪我人で、しかもその傷は他人に受けたもの。深くは悟れなくとも、こちらが誰かに狙われているのだ、ということくらいは薄々感じ取っていてもおかしくはない。
だからフェルスは曖昧な笑顔で、色の悪い顔を下げた。
無理なリザレクションを強いたことに、再び罪悪感が働いて、もう一度詫びるが、やはり彼は微笑を浮かべて『気にしないでください』と手を振った。
フェルスがワゴンを押して病室を出て行く。
一人になったカノンはふぅ、と息を吐いてベッドにもたれかかった。
怪我を負ってから一日、一人の時間は格段に減っていた。再度の襲撃があると仮定するなら、一人でいるのは好ましくない。病室には常に誰かがいるようになった。
今は診察の時間で席を外していただけで、もう少しすればレンかルナかシリアが帰ってくるだろう。
アルティオはどうせステイシアに振り回されているんだろうから除いて置く。
それまでこのわずかな時間を堪能して置くに限る。
―――に、しても辻斬りの愉快犯、ねぇ……
物騒な話であることに変わりはない。どこの誰が犯人であれ、中途半端に狡猾だ。わざと被害を極少に抑え、憲兵たちに『大したことはない』と思わせる。
役所の本腰を避ける常套手段。
記憶が曖昧な獲物を選ぶ狡猾さ。
……突発的な蛮行ではなく、ちゃんとものを考えられる人間の犯行だ。普段なら、そりゃあ貰うものは貰うけれども首を突っ込んでいて不思議はないのだが。
二度の猛進でさすがのカノンもそこまで無謀にはなれなかった。
まあ、でもこんな小さな町だからか。町人も結構、能天気なものだ。事件に過敏な町とそうでない町がある。反応が薄い、ということはそれだけ普段の治安が良いということなのだろうが……
しかし……
何だって……
「・・・え?」
ざわり、と。
寒気のような悪寒のような。
温かな毛布とシーツが、急に自らの温度を下げたような。そんな、怖気。
―――ちょっと、待って……それ、一体……
噂でのみ存在が把握されている事件で。
公的な機関は手を下せていなくて。
唐突なエスカレートを予見させる……?
それはどこかで聞いたワードじゃなかったろうか?
昔なんかじゃない。つい、最近、忘れようもなくて、それに加えてそれにはこの怪我を喰らわせてくれたあの影が、深く関わって……
「あ……あ、あ……ッ!」
ベッドのもたせていた背を、カノンは音さえ立てて持ち上げた。
そう、公的機関を手玉に取って。
それまで当事者以外は嘲笑えるような、つまらない事件だったのに。
そう、急に、第三者がすべてを狂わせて、露呈した。そして最後は、
「―――ッ!」
「まったく面倒臭いわねぇ……。で、カノン調子は……」
「シリアッ!!」
「な、何よ……」
寝起きなのか、いつもと比べて数段に顔色の悪い色ボケ魔剣士に鋭い声を叩きつける。
乱れた髪を正しつつ、頭を抑えて入って来た彼女にカノンは眉を潜めて、
「うっわ、酒臭ッ! あんた、昨日何してたのよ!?」
「うるっさいわねッ! 私のせいじゃないわッ! あの子がやたらと強いのが……いたたた……」
「二日酔いかい……。
状況がわかってないっていうか、ただの阿呆っていうか……。
もー、いいッ! いいからレンかルナを呼んで来てッ! 早くッ!!」
「へぇ、そんなことがあったのか」
「はい……」
メインストリートを肩を並べて歩きながら、アルティオは彼女の話に適当な相槌を打っていた。
ステイシアは先程の治療で吐いてしまった自分の失言を責めていた。責める、というか余計なことを言ってしまった、と落ち込んでいるわけなのだが……
アルティオはカノンの性分をよく知っている。
そんな瑣末なことで気を悪くするような器の小さい女ではない。それにステイシアは誤解しているようだが、カノンの傷はけしてそんな生半可な愉快犯につけられたものではない。もっと狡猾な、化け物だ。
むしろ心配なのはそんな噂を聞いて、彼女が妙なことに首を突っ込まないかだが、彼女も馬鹿ではない。余計なことに感けているような場合でないことは理解しているだろう。
―――……ん、待てよ? 人の噂……?
アルティオの眉間に皺が寄る。だがかすかな違和感が輪郭を作ることはなく、ステイシアの今にも泣きそうな表情を見た瞬間に吹き飛んでいた。
「アルティオさん……怒ってませんか?」
「へ? 何で?」
「だ、だって私……カノンさんに無神経なこと言っちゃいましたし、その……」
アルティオはああ、と頷く。
カノンが傷付く、というのは確かにあるティオにとって最も歓迎できない出来事だ。だがそれしきのこと、カノンがいつまでも気にかけているとは思えないし、憎むべき敵は他にいる。
ここで彼女を責めるのはとんだお門違いだ。
「大丈夫だって、そんなこと。カノンだって気にしてないさ」
「そうでしょうか……」
「そうそう。それより看護する側のあんたが不景気な面してる方を気にするだろうさ。
もしかしたら一緒にいた俺が怒られるかもしれねぇな。何、女の子泣かしてんのーッ! とかな」
似ていないモノマネまでして言ったアルティオに、ステイシアは目を瞬かせた。何度もぱちくりと瞬きをする彼女に、アルティオはつとめて朗らかな笑みを浮かべ、
「だからさ、笑っといてくれよ。俺の身を守るためと思ってさ、な?」
しばし、ステイシアはそのにへら、とした笑みを眺めていたが、その一シーンがリアルに想像できたらしい。やがて小さく吹き出してくすくすと笑い声を上げた。
アルティオの方はそれで満足したのか、視点を彼女に合わせるのをやめて止まっていた足を進め始める。
ステイシアはそれを慌てて追いかけて、高い位置にある男くさい顔を覗き込む。
「あの、聞いていいですか?」
「ん?」
快活な彼女にしては珍しく少しだけ睫毛を伏せて、言葉を選んでいる。そんなものだから、アルティオは何を聞かれるのか大体の予測がついてしまった。
「あの……アルティオさん、何でカノンさんのことが好きなんですか?」
「……あー」
やっぱりそう来たか、と呟きながらぽりぽりと頬を掻く。唸りながら宙を見て、言い難いというよりもどう説明しようか悩んでいるようだった。
しばらくそのまま空を眺めて、彼は不意に視線を下げ、何かを懐かしむように、
「んー……今からすると想像し難いと思うけどさ」
「はい」
「あいつ、昔は本っ当に笑わない奴だったんだよ」
ステイシアは再びきょとん、として目を瞬かせる。
「……カノンさん、ですか?」
「ああ、レンもびっくりの無愛想だった。いや、違うかな。レンの場合はただの無愛想だったけど、あいつの場合は無愛想っていうか無感情……っていうのかなぁ」
「無感情……?」
「ほら、レン。あいつさ、愛想はないけどちゃんと怒ったり何だり出来るだろ? 時々、マジでおっそろしいときとかあるし」
言われてステイシアは彼に初めて会った際、血相を変えて詰め寄られたのを思い出す。
なるほど、言われてみればあのときの彼は確かに焦っていたし、苛立っていた。後からやたらと落ち着き払った姿を見たとき、少し驚いたほどだ。
「でもなー、子供の頃のカノンは……何てーか、突付いても叩いてもびくともしない、っていうか。笑わない、っていうよりは笑うことを知らないって感じでさ」
「何で……」
「んー、まあ……複雑な家庭環境だったからなぁ……」
まさか説明するわけにもいかず、アルティオは曖昧に笑って見せる。
よくは知らないが、彼女が物心つく頃には彼女の肉親は祖母一人だけだったそうだ。周囲に讃えられていた母親へのコンプレックスと、期待から発せられる重責。将来を決定付けられた強制感。
彼女が辺りからの干渉を避けるようになったのを、誰かに責められるはずもなかっただろう。
「でもさ、俺があいつに会ったときは、かなりときどきっていうか、滅多にはなかったけど、レンやルナ相手にはほんの少し笑うようになってたんだよなぁ……。
それが異様に悔しくてさ。何とか笑わせてみたくって、いろいろやったもんだ」
当時を思い出すかのように、懐かしげに肩を竦めて見せる。
「それで?」
「ああ、一回だけだけどな。俺相手にでも笑ってくれたんだよ。
それが嬉しくってさ、いつのまにか、な。笑ってる方が可愛かったし、ああ、この娘には笑ってて欲しいなー、と思うようになったんだよ」
照れたように俯いて笑う。頬と耳がわずかに赤くなっていた。少しだけ寂しそうに、『現在進行形で玉砕中だけどなー』とおどけて見せた。
そうですか、とだけ答えてステイシアは目を伏せる。
「……羨ましいな、カノンさん」
「へ? 何か言った?」
「ううん、何でもありません!」
頭を振って彼女はぱっと顔を上げた。胸を張り、すり抜け様にアルティオの腕を掴む。
「行きましょう! 今日はバザーがあるんですよ! 見に行きませんかッ!?」
「お、そりゃいいな! 案内してくれよ」
「はい、任せてください!」
にっこりと、彼女は華やかな笑顔と共に足取り軽く走り始めたのだった。
いつから目が覚めていたのか、それともずっと浅い眠りについていたのか。
まどろみが身体をだるく、重くする。彼にとって眠りは悪いものでもないが、けして良いものとも言えなかった。
夢から覚めたあとの重い現実感。これが嫌いなのだ。
目が覚めたのは崩れかけた屋根の合間から差し込んでくる西日のせいじゃない。一つの気配に気がついたからだった。
彼は気だるい身体に鞭を打って身を起こす。
かつん、と皮のブーツの踵が鳴った。
「……良くもまあ、こんな酷いところで寝られるもんね」
トーンの高い、まだ幼さを残す少女の声。彼はぼんやりする頭を振り払って、目の前の闇を凝視する。
既に廃屋になった小屋敷の一室だ。以前は部屋を着飾っていただろう、絨毯も石の壁も、その壁にかけられたタペストリも、すべてが色褪せている。
備え付けられたランプが機能しているはずもなく、長年の埃も相俟ってさらに視界は悪くなる。
夕闇の最中に、小柄な少女の輪郭が浮かび上がる。
「……へぇ」
それが記憶と一致して、彼はさも可笑しそうに唇の端を吊り上げた。
「……良くここを見つけたね」
「あんたみたいなのが普通の宿に泊まってるわけもないし。だからといって、人目につくところには行けないだろうし。
なら、町の誰も立ち寄らないようなところを探すのは当たり前でしょ?」
あからさまに期限の悪い声で彼女は―――刹戒の魔女とも揶揄される、幼い魔道師はふん、と鼻を鳴らす。しかし、答えたのはくすり、という余裕を含んだ微笑みだった。
辺りにたむろする闇と同じ色をした少年は、服の裾の埃を払って古びたソファから立ち上がった。ばさり、と長いコートの裾が揺れる。
「まさか正々堂々、正面から来て頂けるとは思いませんでしたよ。それも単独とは」
「誰かに言ったらカノンの耳に入りかねないだろうからね。連れて来たくはないし」
「麗しい信頼関係で何よりです。それで、何かご用でしょうか?」
白々しいのはお互い様だった。だからルナは余計な前戯など挟ませずに問う。
「聞きたいことは二つ。一つは『ヴォルケーノ』をどこから入手したのか、もう一つはあんたが何を企んであの娘たちを狙っているのか。それだけよ」
「いえ、企んでいるなんて」
どんッ!!!
言葉も半ばにルナの放った一条の閃光は、少年のすぐ隣の空間を抉り、背後の壁を容赦なく粉砕する。ぱらぱらと崩れる残り香の小石を、少年は目を細めて一瞥を送った。
「……これはこれは容赦のない」
「白々しいのは止めなさい。この町で起こってる通り魔事件、どうせあれにも一枚噛んでるんでしょう?」
「さて、何のことやら」
「今さらとぼける気? そうじゃなきゃ、あんたが中途半端にカノンを襲ったことへの説明がつかないのよ。
……この町には憲兵も政団員もいない。なら事件の詳細を説明出来る人間はそれを治療する医者しかいない。けど、普通に旅人として通り過ぎるだけなら、医師と接触する機会なんてないわ。
あんたはその接触の機会を人為的につくり上げた。クオノリアでクレイヴを殺したときと同じように、カノンたちをこの件に関わらせるためにね。
通り魔事件の被害者に見せかけるのは失敗したようだけど」
「あれは失敗でしたねぇ。もっと軽傷で構わなかったんですが。
彼は優秀なんですが、感情の制御が利き辛くてね、僕も苦労しています。そちらのブレーンには悪いことをしました」
言って肩を竦めるのは当然挑発以外の何物でもない。ルナはますます目尻を吊り上げて彼を睨む。
「……こんな事件を起こして、それにカノンたちを関わらせて、一体何のつもり?」
「素直に答えると思ってここに来たんですか?」
「……ッ!」
宵闇の中、いっそ清々しいまでにこやかな笑みを浮かべた少年に、ルナの背に寒気が走る。目の前の少年は一歩足りとも動いていないし、何かを詠唱する暇などなかった。
だが、けして平坦ではなかった半生で培われた勘が訴える。視覚とその勘と、どちらを信じると問われるなら間違いなく彼女は己の勘を頼る!
どむッ!!!
転がるようにして避けたルナの背後の壁が轟音を立てて砕け散る。酷い重力を受けたようにひしゃげた壁、その向こうにはだだっ広い廊下が剥き出しになっていた。
ルナは我が目を疑う。
今、少年は指一本として動かしていなかった。断言できる。怪しげな素振りがあれば、気がつかないはずがない。
慌てて今一度、周囲の気配を探る。だが部屋に入って来たときと同じく、感じられるのは視界に写る少年の気配ただ一つ。
―――そんな……じゃあどうやってッ!?
戦慄が全身を駆け抜ける。少年は包帯で覆われた額を軽く押さえ、頭を振る。困った子供を諭すような、そんな表情で、
「ちょっとやりすぎ、かな。普通の人間なら死んじゃうよ」
溜め息混じりに呟くと、ふと右の手を天井へ掲げる。瞬時、申し計ったかのように指の差す石の天井にぴし、とひびが広がった。
「―――!」
老朽化した屋根はその重さに耐え切れずに瓦解する。全身に冷や汗が浮く。後ろへ跳び退ると同時に、先程の倍の轟音を立てて崩れた石の天井が冷たい床に積みあがってゆく。
砂と埃とを舞い上げて部屋の中が一瞬、白く濁った。たまらす口と鼻とを押さえて咳き込む。
浮かんだ涙を拭い、何とか埃を追い出すと前方を見据える。が、
「!?」
「……単独で来られたことには敬意を表します。ですが少々焦りすぎですね」
声は頭上から降って来た。はっ、として天井を仰ぐと件の少年は開いた天井の穴の上―――逆光の差す空を背景にして片膝を付き、こちらを見下ろしていた。
「ちッ! 本ッ当に高いところが好きな奴ね!」
「何とかと煙は高いところにいるものですよ。まあ、その勇気に免じて一つ、いいことを教えてあげましょう」
轟音の後の沈黙に、くすくすと響く笑い声が腹立だしい。包帯に封印された半顔の脇の、かろうじてその封印を逃れている彼の薄い唇が吊り上がる。
「正面から切り込むのも悪くない。足早にチェックを重ねることが出来るでしょう。ですがチェックメイトには届かない。
僕を落したいなら辿り着いた先の足元をもっと良く見ることです。
ああ、それと、」
睨み上げるルナの目線を受け流しながら、彼は寸分狂わぬ笑みを向ける。はっ、と気がついて彼女は浮遊の術を唱え始めるが、冷静さを欠いた遅足の詠唱に他ならない。
「意味を為さない希望的な観測と憶測に逃げることのはやめることをお薦めします。ご自分が傷付くだけですよ?」
「・・・ッ!」
ルナの喉が詰まり、詠唱が止んだ。
解ってはいた。この少年の最大の武器は不可思議な符でも、術でも、その身のこなしでもない。
相手の心情を的確に抉る、言霊。それが真だろうと嘘だろうと、彼は確実に相手の胸中を貫いて、致命打を生む。人が抱える殻を突き破る最高のまやかし。
だからそれに勝てなくては勝機はない。だが、彼女は詠唱を止めてしまう。それでも。解っていても。
「……健気でよろしい方です。では、また後ほどお会いしましょう」
「ッ! 待ちなさいッ!!」
我に返ったときにはもう遅い。
目の端から黒衣がふわり、と姿を消して、中断した詠唱をルナが終える頃には。
宵闇の広がる空に、少年の黒影は跡形もなく消えていたのだった……。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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