申し訳程度に整備された、砂利と土、短い草が混じり合う細い街道。林立した木々が、視界を悪くする。日差しはなく、アルケミア海に浮かぶ大陸の中では、最も南に位置する国だというのに、鳥肌の立つような寒気が辺りを覆っていた。先ほどからヒールで転びかけたシリアが、何度か誰かに支えられている。
九人分の足音が唱和する。
その足場の悪い、細い道を一列になって歩きながら、ティルス=コンチェルトは静謐に語りだした。
「ラーシャ様が大陸へお発ちになられた後すぐ、シンシア内では貴族院の集会が開かれました」
「貴族院?」
声を上げ、首を傾げたのはカノンだった。
デルタが忌々しげな表情を隠さずに、ラーシャを見上げる。彼ほどではないが、やはり彼女も、渋い表情を顔に張り付けている。
林の中の下生えを、さくさくと踏みしめながら先導するティルスの表情は伺えないが、淡的なその口調の中に、小さな棘が感じられる。
「昔から、シンシアを……いえ、ゼルゼイルを率いてきた重鎮たちで造られた組織です。政治的にも正式な組織と認められており、莫大な権力を持っています。シンシアはシェイリーン様を中心とする議会が規則を作り、守っていますが、その議会への影響力も計り知れません」
「要するに、くたばり損ないのご老人たちが、年寄りの冷や水で幅を利かせてて。下手に権力が増徴しちゃったもんだから、その総統との間で意見が合わなくて、下らない内部抗争が起こってる、っていう構図なわけね」
「無礼な言い方は謹んでください!」
ルナの見も蓋もない言い分に、デルタが声を飛ばす。不快そうな顔で振り返ったティルスとレスターを諫めるように、ラーシャが小さく溜め息を吐いて首を振った。
「っていうか、ルナ、ばっさり切りすぎでしょ……」
「そんなの、一昔前の政団と一緒じゃない。内部圧力が強まって、結局何も出来ないでいる。どうせその貴族院てのが前、言ってた反対派の奴らの中心なんでしょ?
暗黒時代の政治家だってそうだったわ。なまじ、魔道師の力が強すぎて、防護策を練る前に暴走した。
まあ、どんな規模かは知らないけど、対処がないならこのまま勢力三つ巴、みたいなことになりかねないんじゃないの?」
「……確かに、貴族院が右翼派で、シェイリーン様の思想と反発しているのは事実だ。
その集会というのも、私の大陸行きを巡った論争だったのだな?」
「はい」
ルナの言葉を肯定するように、ラーシャがティルスへ問いかける。彼はあっさりと肯定を返した。
「貴族院の奴らはシェイリーン様の、和解の思想を読んでいて。懐刀の姐さんが不在なのを言いことに、徹底的に軍部とシェイリーン様を叩きに出たんだよ。おまけに議会の有力な何人かを、汚い手で味方につけやがった」
「地固めが甘かったのでしょう。軍部はラーシャ様やシェイリーン様の指示内にありますが、議会では貴族院がのさばっています……」
「……」
ラーシャは唇を噛み締めた。シェイリーンは父である前総統クラヴェール=イオ=ラタトスの良心を受け継いでいる。その父を悼み、総統となり、ラーシャやデルタたち、軍部を味方につけ、無用な戦いを減らしてきた。
だが、一方で貴族院が中心となっていた議会での、タカ派の増長を止められず、それどころかエイロネイア皇太子の台頭と過度な挑発によって、貴族院はますます頭に血を上らせている。
その中で、総統といえどもシェイリーンが一人、和平を叫び続けるというのは、どう見たところで無理が生じる。
シェイリーンは和平への風潮を受けた民衆が選んだ総統であったが、それは戦争が長引いて貧しくなりつつある民衆の支持の賜物であって、裕福な血族に守られた貴族院のご老公たちの支持ではないのだ。
「悪いことに、民衆内のタカ派もこのところ目に余るようになって来ています。以前は小さな種でしかなかったものですが……このところ、ちらほらですが暴動が起きています」
「な……ッ!?」
「筋を辿ってみましたが―――どうやら裏で、あのエイロネイア皇太子が糸を引きながら民衆を煽っているようです」
ぴくり、とカノンの形の良い眉が動く。レンもルナも、アルティオも。項垂れていたシリアも、一様に顔を上げる。アルティオはあからさまに不快を露にした表情で、唇を噛んでいた。
「そんなことが……ッ!?」
「可能です。タカ派の集会自体は些細なものですが、融資を得られるスポンサーが背後につけば、暴動やデモの一つや二つ、起こしても不思議ではないでしょう。
暴動を起こした連中の背後を洗ってみましたが、スポンサーとなっている貴族や商人は架空のもので、実在しない人物でした。しかし、金銭に関してはどうもエイロネイア軍のものが動いている気配が……」
「つまり、実在しない人物を語ることでそれ以上の明確な追求が防がれている。
でも、シンシア内に民衆のタカ派に投資している人間は見受けられない。どうせ投資するんだったら貴族院に投資して、商売上でいろいろ目をかけててもらった方が良いものね。
だったら、内部分裂を狙ったエイロネイアの策、ってことになる」
「はい。暴徒はタカ派を語ったエイロネイアの兵も一緒でしょう。けれど、法律上、彼らをエイロネイア兵の捕虜として裁くことは出来ません。
あのエイロネイア皇太子―――実に頭の切れる人間です」
ティルスは冷静な表情を崩さぬように努めるが、それでも声に少々の怒りが滲んでいる。ましてや、隣を歩くレスターは感情を抑えようとすらせずに、きしり、と歯を噛み締める。
「頭が切れる上に非人道だ。あの野郎、戦場でも政治でも汚ねぇことしやがる……ッ!」
「……貴族院も表立って戦争を支持するような発言は出来ません。なので、シェイリーン様への批判、糾弾も、一応の終結は見ました。
けれど、その後です。
シェイリーン様の周囲を怪しげな連中が付回すようになったのは」
「それは……」
はっ、として顔を上げるラーシャ。デルタも同じだ。
その青ざめた表情に、カノンは大陸で二人から聞かされた話を思い出す。現総統シェイリーン=ラタトスの父親である前総統の末路が、どんなものだったのか。
同じ結論に至ったらしい、アルティオの舌打ちが聞こえた。彼だけではない。シリアは眉間に皺を寄せて、嫌悪の表情を浮かべる。レンもルナも、差たる反応は見せないがやはりどこか苦い顔で押し黙っている。
ティルスは全員の悪い想像を肯定付けるように溜め息を吐いた。
「……クラヴェール様のときと同じ、暗殺者の集団だと、私は考えています」
「なら、やっぱりさ、そんな危険な王都に総統を置いとくわけにいかねぇだろ?」
さくり、と彼らの踏み出した足音が、一際高く聞こえた。
「和平の旗頭であるシェイリーン様を失うわけには行きません。シェイリーン様は前線指揮の名目で、こちらの付近にある砦に留まっておいでなのです」
「……ノール港が閉鎖されれば、私の船はこちらの港を選ぶ予定だった。そのためだな?」
「はい。シェイリーン様はラーシャ様のお帰りと皆様のご到着を頼りに、長い間、お待ちになっておりました」
瞑目して答えるティルスに、ラーシャは長い息を吐く。そして、ゆっくりと首を振って、天を仰ぐ。
「何ということだ……。やはり、私がシンシアを離れるべきではなかったか……ッ!」
「……あの野郎……。どこでもかしこでも、汚ねぇ手を使っていやがるな……ッ!」
堪えきれない怒りを押さえつけるように、押し殺した声でアルティオが漏らす。その言葉に、先頭を歩いていたティルスが不意に反応して振り返る。
「皆様はエイロネイア皇太子をご存知で? デルタ、既に説明したのですか?」
「いえ、それが実は……」
「エイロネイアの手の者が、彼らに接触しているらしい、とのことだったろう?
驚くことに、その手の者が、エイロネイア皇太子ロレンツィア=エイロネイア本人だった……今でも、信じ難いが―――
あの者はエイロネイアの帝国紋章を所持していた。おそらくは本物だろう」
「何ですって……?」
ティルスは眼鏡を抑えて軽く驚愕する。レスターの眉がつり上がり、二人は表情を歪ませて顔を見合わせた。レスターは小さく肩を竦める。
―――……?
その反応に、カノンは訝しげに眉をひそめた。その視線に気が付いたティルスは、何かを逡巡していたが、やがて軽く咳払いをして踵を返す。
「……どうやら、我々は今も彼の思う壺に入っているようですね……」
「何?」
「詳しくは、主の前ですることに致しましょう。ノール港のことも、重ねてお答えします。
―――着きました」
言って、彼は歩みを止める。同時にカノンたちもその場で足を止めた。止まり損ねたらしいシリアが、前を歩いていたアルティオに鼻先をぶつけたらしく、後ろでひしゃげた声がしたが。
呆れた溜め息を吐いてからカノンは視線を上げる。
ばさり、とレスターが視界を狭める木々の低い枝を避けてくれた。そのおかげで、女性の割に背の高いラーシャの後ろからでも、それの外観を眺めることが出来た。
細い街道が、視界の開けた草原の先で太い街道と交わっている。
そして、そのさらに先の太い街道が途切れていて、
「……」
知らず知らずのうちに固唾を飲み込んでいた。
広がる灰色の空が、途中で消えている。いや、遮られている。重々しい雲を背景に、その居城は聳え立っていた。
黒いシルエットを描く、幾つもの塔が生えた石造りの建造物。
砦、と呼ばれるそれと同じようなものを、カノンは何度か目にしたことがある。貴族の住むような、美しさを追求した城などではなく、防壁と有事に備えて陣配置のされた堅固な城。ただ、帝国で目にするそれは、古び、寂れた旧世代の異物にすぎない。
その現物が、目の前で機能して、こうして聳えている。
ぶるり、と肩が震えたのは武者震いが、それとも得体の知れない寒気なのか。
「―――シンシア第三関所、バラック・ソルディーアと呼ばれる砦です。あそこに我らの主、シェイリーン=ラタトス様がいらっしゃいます」
振り返ったティルスが厳かに言う。
ラーシャが感慨深げにその城を見上げて、拳を握り締めた。そして、戦場で指揮を執る、そのときのようにデルタやレスターを数歩だけ下がらせて、
「……ようこそ、ゼルゼイル北方シンシア国へ。我らは皆様を歓迎いたします。どうぞ、我らが主にご面会を」
「……」
格式ばった言葉を並べ、丁寧に頭を下げる。デルタとティルス、そしてやや不服そうにしながらレスターもその礼に倣う。
カノンは無言でそれを受け止めると、今一度、黒い影を作る砦へと目をやった。
振り返って、全員と目を合わせる。レン、ルナ、シリア、アルティオ。些か表情は硬かったが、四人ともが、静かに頷いた。
その意志を伝えるように、カノンは面を上げたラーシャに居住まいを正し、ゆっくりと、深く頷いたのだった。
←2へ
九人分の足音が唱和する。
その足場の悪い、細い道を一列になって歩きながら、ティルス=コンチェルトは静謐に語りだした。
「ラーシャ様が大陸へお発ちになられた後すぐ、シンシア内では貴族院の集会が開かれました」
「貴族院?」
声を上げ、首を傾げたのはカノンだった。
デルタが忌々しげな表情を隠さずに、ラーシャを見上げる。彼ほどではないが、やはり彼女も、渋い表情を顔に張り付けている。
林の中の下生えを、さくさくと踏みしめながら先導するティルスの表情は伺えないが、淡的なその口調の中に、小さな棘が感じられる。
「昔から、シンシアを……いえ、ゼルゼイルを率いてきた重鎮たちで造られた組織です。政治的にも正式な組織と認められており、莫大な権力を持っています。シンシアはシェイリーン様を中心とする議会が規則を作り、守っていますが、その議会への影響力も計り知れません」
「要するに、くたばり損ないのご老人たちが、年寄りの冷や水で幅を利かせてて。下手に権力が増徴しちゃったもんだから、その総統との間で意見が合わなくて、下らない内部抗争が起こってる、っていう構図なわけね」
「無礼な言い方は謹んでください!」
ルナの見も蓋もない言い分に、デルタが声を飛ばす。不快そうな顔で振り返ったティルスとレスターを諫めるように、ラーシャが小さく溜め息を吐いて首を振った。
「っていうか、ルナ、ばっさり切りすぎでしょ……」
「そんなの、一昔前の政団と一緒じゃない。内部圧力が強まって、結局何も出来ないでいる。どうせその貴族院てのが前、言ってた反対派の奴らの中心なんでしょ?
暗黒時代の政治家だってそうだったわ。なまじ、魔道師の力が強すぎて、防護策を練る前に暴走した。
まあ、どんな規模かは知らないけど、対処がないならこのまま勢力三つ巴、みたいなことになりかねないんじゃないの?」
「……確かに、貴族院が右翼派で、シェイリーン様の思想と反発しているのは事実だ。
その集会というのも、私の大陸行きを巡った論争だったのだな?」
「はい」
ルナの言葉を肯定するように、ラーシャがティルスへ問いかける。彼はあっさりと肯定を返した。
「貴族院の奴らはシェイリーン様の、和解の思想を読んでいて。懐刀の姐さんが不在なのを言いことに、徹底的に軍部とシェイリーン様を叩きに出たんだよ。おまけに議会の有力な何人かを、汚い手で味方につけやがった」
「地固めが甘かったのでしょう。軍部はラーシャ様やシェイリーン様の指示内にありますが、議会では貴族院がのさばっています……」
「……」
ラーシャは唇を噛み締めた。シェイリーンは父である前総統クラヴェール=イオ=ラタトスの良心を受け継いでいる。その父を悼み、総統となり、ラーシャやデルタたち、軍部を味方につけ、無用な戦いを減らしてきた。
だが、一方で貴族院が中心となっていた議会での、タカ派の増長を止められず、それどころかエイロネイア皇太子の台頭と過度な挑発によって、貴族院はますます頭に血を上らせている。
その中で、総統といえどもシェイリーンが一人、和平を叫び続けるというのは、どう見たところで無理が生じる。
シェイリーンは和平への風潮を受けた民衆が選んだ総統であったが、それは戦争が長引いて貧しくなりつつある民衆の支持の賜物であって、裕福な血族に守られた貴族院のご老公たちの支持ではないのだ。
「悪いことに、民衆内のタカ派もこのところ目に余るようになって来ています。以前は小さな種でしかなかったものですが……このところ、ちらほらですが暴動が起きています」
「な……ッ!?」
「筋を辿ってみましたが―――どうやら裏で、あのエイロネイア皇太子が糸を引きながら民衆を煽っているようです」
ぴくり、とカノンの形の良い眉が動く。レンもルナも、アルティオも。項垂れていたシリアも、一様に顔を上げる。アルティオはあからさまに不快を露にした表情で、唇を噛んでいた。
「そんなことが……ッ!?」
「可能です。タカ派の集会自体は些細なものですが、融資を得られるスポンサーが背後につけば、暴動やデモの一つや二つ、起こしても不思議ではないでしょう。
暴動を起こした連中の背後を洗ってみましたが、スポンサーとなっている貴族や商人は架空のもので、実在しない人物でした。しかし、金銭に関してはどうもエイロネイア軍のものが動いている気配が……」
「つまり、実在しない人物を語ることでそれ以上の明確な追求が防がれている。
でも、シンシア内に民衆のタカ派に投資している人間は見受けられない。どうせ投資するんだったら貴族院に投資して、商売上でいろいろ目をかけててもらった方が良いものね。
だったら、内部分裂を狙ったエイロネイアの策、ってことになる」
「はい。暴徒はタカ派を語ったエイロネイアの兵も一緒でしょう。けれど、法律上、彼らをエイロネイア兵の捕虜として裁くことは出来ません。
あのエイロネイア皇太子―――実に頭の切れる人間です」
ティルスは冷静な表情を崩さぬように努めるが、それでも声に少々の怒りが滲んでいる。ましてや、隣を歩くレスターは感情を抑えようとすらせずに、きしり、と歯を噛み締める。
「頭が切れる上に非人道だ。あの野郎、戦場でも政治でも汚ねぇことしやがる……ッ!」
「……貴族院も表立って戦争を支持するような発言は出来ません。なので、シェイリーン様への批判、糾弾も、一応の終結は見ました。
けれど、その後です。
シェイリーン様の周囲を怪しげな連中が付回すようになったのは」
「それは……」
はっ、として顔を上げるラーシャ。デルタも同じだ。
その青ざめた表情に、カノンは大陸で二人から聞かされた話を思い出す。現総統シェイリーン=ラタトスの父親である前総統の末路が、どんなものだったのか。
同じ結論に至ったらしい、アルティオの舌打ちが聞こえた。彼だけではない。シリアは眉間に皺を寄せて、嫌悪の表情を浮かべる。レンもルナも、差たる反応は見せないがやはりどこか苦い顔で押し黙っている。
ティルスは全員の悪い想像を肯定付けるように溜め息を吐いた。
「……クラヴェール様のときと同じ、暗殺者の集団だと、私は考えています」
「なら、やっぱりさ、そんな危険な王都に総統を置いとくわけにいかねぇだろ?」
さくり、と彼らの踏み出した足音が、一際高く聞こえた。
「和平の旗頭であるシェイリーン様を失うわけには行きません。シェイリーン様は前線指揮の名目で、こちらの付近にある砦に留まっておいでなのです」
「……ノール港が閉鎖されれば、私の船はこちらの港を選ぶ予定だった。そのためだな?」
「はい。シェイリーン様はラーシャ様のお帰りと皆様のご到着を頼りに、長い間、お待ちになっておりました」
瞑目して答えるティルスに、ラーシャは長い息を吐く。そして、ゆっくりと首を振って、天を仰ぐ。
「何ということだ……。やはり、私がシンシアを離れるべきではなかったか……ッ!」
「……あの野郎……。どこでもかしこでも、汚ねぇ手を使っていやがるな……ッ!」
堪えきれない怒りを押さえつけるように、押し殺した声でアルティオが漏らす。その言葉に、先頭を歩いていたティルスが不意に反応して振り返る。
「皆様はエイロネイア皇太子をご存知で? デルタ、既に説明したのですか?」
「いえ、それが実は……」
「エイロネイアの手の者が、彼らに接触しているらしい、とのことだったろう?
驚くことに、その手の者が、エイロネイア皇太子ロレンツィア=エイロネイア本人だった……今でも、信じ難いが―――
あの者はエイロネイアの帝国紋章を所持していた。おそらくは本物だろう」
「何ですって……?」
ティルスは眼鏡を抑えて軽く驚愕する。レスターの眉がつり上がり、二人は表情を歪ませて顔を見合わせた。レスターは小さく肩を竦める。
―――……?
その反応に、カノンは訝しげに眉をひそめた。その視線に気が付いたティルスは、何かを逡巡していたが、やがて軽く咳払いをして踵を返す。
「……どうやら、我々は今も彼の思う壺に入っているようですね……」
「何?」
「詳しくは、主の前ですることに致しましょう。ノール港のことも、重ねてお答えします。
―――着きました」
言って、彼は歩みを止める。同時にカノンたちもその場で足を止めた。止まり損ねたらしいシリアが、前を歩いていたアルティオに鼻先をぶつけたらしく、後ろでひしゃげた声がしたが。
呆れた溜め息を吐いてからカノンは視線を上げる。
ばさり、とレスターが視界を狭める木々の低い枝を避けてくれた。そのおかげで、女性の割に背の高いラーシャの後ろからでも、それの外観を眺めることが出来た。
細い街道が、視界の開けた草原の先で太い街道と交わっている。
そして、そのさらに先の太い街道が途切れていて、
「……」
知らず知らずのうちに固唾を飲み込んでいた。
広がる灰色の空が、途中で消えている。いや、遮られている。重々しい雲を背景に、その居城は聳え立っていた。
黒いシルエットを描く、幾つもの塔が生えた石造りの建造物。
砦、と呼ばれるそれと同じようなものを、カノンは何度か目にしたことがある。貴族の住むような、美しさを追求した城などではなく、防壁と有事に備えて陣配置のされた堅固な城。ただ、帝国で目にするそれは、古び、寂れた旧世代の異物にすぎない。
その現物が、目の前で機能して、こうして聳えている。
ぶるり、と肩が震えたのは武者震いが、それとも得体の知れない寒気なのか。
「―――シンシア第三関所、バラック・ソルディーアと呼ばれる砦です。あそこに我らの主、シェイリーン=ラタトス様がいらっしゃいます」
振り返ったティルスが厳かに言う。
ラーシャが感慨深げにその城を見上げて、拳を握り締めた。そして、戦場で指揮を執る、そのときのようにデルタやレスターを数歩だけ下がらせて、
「……ようこそ、ゼルゼイル北方シンシア国へ。我らは皆様を歓迎いたします。どうぞ、我らが主にご面会を」
「……」
格式ばった言葉を並べ、丁寧に頭を下げる。デルタとティルス、そしてやや不服そうにしながらレスターもその礼に倣う。
カノンは無言でそれを受け止めると、今一度、黒い影を作る砦へと目をやった。
振り返って、全員と目を合わせる。レン、ルナ、シリア、アルティオ。些か表情は硬かったが、四人ともが、静かに頷いた。
その意志を伝えるように、カノンは面を上げたラーシャに居住まいを正し、ゆっくりと、深く頷いたのだった。
←2へ
港の外郭が、次第に明確になって来て。
最初に異変に気が付いたのは、甲板でシリアの世話を焼いていたアルティオだった。
皆、荷物を纏めるために、一度船内に入っていた。甲板で口元を押さえながら呻くシリアの背中を摩って、ふと、段々と近づく港の方へと目線を向けたとき。
「……ん?」
初めは何かの間違いかと思った。
港や砂浜といった場所に、鳥や獣の類が群れていることは稀にある。一瞬、それかとも思った。……いや、違う。願ったのだ。あまりに、あまりの光景だったから。
目を凝らして、凝視して、次の瞬間には驚愕した。
「な……ッ!」
くぐもった声を上げて、シリアをとりあえず座らせると乱暴に船内の扉を開く。
そこにはちょうど、甲板に出ようとしていた将官、ラーシャ=フィロ=ソルト中将が、目を丸くして立っていた。
「アルティオ殿? どうかしたのか?」
「……どうかした、じゃねぇよ! あんた! あれは何だッ!?」
「あれ、とは……?」
眉間に皺を寄せて問い返すラーシャに、唾を飛ばしながら怒鳴り返す。だが、相手はまったく何のことか理解していないようだった。
舌を打って、アルティオは甲板に出るよう合図する。
彼の上げた怒号に、船内にいた全員が驚いて顔を出した。
「ち、ちょっと何、アルティオ。どうしたの?」
「どうしたの、とか言ってる場合じゃねぇ! ヤバイぞ、あれはッ!!」
「はぁ?」
「な……ッ! あッ、あれは……ッ!!」
甲板から響いたのは、ラーシャの切羽詰った声だった。それからどたどたと走る音が聞こえて、やがて、船長室へ向けて舵の方角を変えるようにと怒鳴る声が聞こえた。
その異様なまでに甲高い声に、カノンは傍らにいたルナと顔を見合わせる。彼女らより判断が早かったレンは、船内のドア近くにいたアルティオを押しのけて甲板に出た。
次に我に返ったデルタが、その後を追う。
甲板に出て、船先に身を乗り出して。
そして絶句した。
彼の頬を、額を、冷たい汗が流れていく。
その彼らの背を追って、船内から飛び出したカノンとルナも、それぞれに言葉を失った。騒ぎに身を起こしたシリアも右に同じ。
アルティオがそう感じたのと同様に、港に群がる影は、何かの動物の群れにも見えた。しかし、違う。
そこに群れているのは人だった。それが皆、一様に同じ色の服を纏い、不自然に整然と並んでいたから、そのように見えてしまっただけ。
紺と基調にした礼服、いや、軍服。そして、遠目に見えるその手に握られていたのは、―――弓と、銀の矢尻が光る矢。
馬に乗っているのだろうか。先頭に、他の人間より頭二つ分ほど突き出した格好で、一人だけ白の軍服を着た将兵が見える。細身の剣を手にし、海風に金の長い髪を揺らし……。
しかし、ここからでは性別の判断はつけられない。
そして。
ばさりッ、と風に音を立てて、不意に群れ―――いや、その小隊の真ん中に翻る旗には、八咫鴉の紋。
「バカな……ッ! 何故、シンシアの港にエイロネイアが……ッ!!」
息の詰まった声で、デルタが吐き出す。その瞬間、小隊の先頭に立つ白い軍服の持つ剣が、孤を描くように振られた。
彼よりも一瞬早く、平静を取り戻したレンは、弓隊の引き絞る矢に気が付いて、声を飛ばした。
「伏せろッ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん………ッッッ!
はっ、としたカノンが傍らにいたルナを引き摺り倒し、レンがデルタの腕を掴んで床に縫い止める。アルティオが、蹲ったままのシリアを庇うように伏せた、刹那。
小さな船体に、小隊から放たれた無数の矢が降り注いだ。
カノンの頬を浅く傷つけて、あるいは髪を一本削ぎ落とし、かつッ! と背後の木板に銀の矢尻が突き刺さる。
「ふざけんなよッ! どんな歓迎の仕方だよ、あれはッ!」
「デルタ! ノール港ってのはシンシア領地に属する安全な港の一つじゃなかったのッ!?」
「……ッ!」
カノンの問いに、デルタは答えない。答えられないのだ。ノール港から戦地は、確かに遠いとは言えなかった。しかし、ラーシャとデルタが出国してから半月余り、とてもではないがそんな短期間で侵略されるような近い距離にある港でもなかった。
シンシア王都であるゼルフィリッシュまでは、海から距離がある。
急ぎであったラーシャとデルタは、国の中程に位置するノール港に入り、そこから軍車を使って王都に向かうというプランを立てていた。それが迅速と安全を兼ね備えた、最適なルートであったはずなのに……ッ!
船体が傾き出している。ラーシャの指示によって、船長が港と反対方向に舵を取ったのだ。
しかし、帆船というのは厄介なもので、いつも風の影響が出る。船体が完全に向きを変えて滑り出すよりも、弓矢の第二陣が来る方が、圧倒的に早い!
「く……ッ」
デルタは唇を噛む。客将を護衛することも出来ないなんて、シンシア軍の将官として恥だ。
―――どうする……ッ!? とりあえず、全員船内へ……ッ!?
だんッ!!
「ッ、ルナ!?」
伏せたままの一同を尻目に、不意に立ち上がったのは何かの詠唱を終えたルナだった。立ち上がって、弓矢を引き絞る小隊の真正面の船縁へ走る。
「ちょ、ルナッ!? 何を……ッ!?」
「………我望む、覇するは白き永遠の衝撃……」
小声で響いた詠唱は、大規模破壊呪文。ルナのストックの中でも、最強を誇る嚇光術。船縁から、自ら身を捧げるように乗り出して、彼女はたゆたう水面に両手を翳す!
白い軍服の将官が、剣を振るったのは、それとほぼ同時だった。
「放て、セイアリーバーストッ!!」
どぉぉぉぉぉぉぉぅんッ!!
「うぉ……ッ!?」
「きゃぁぁぁッ!?」
呻き声と悲鳴が重なって、カノンたちは甲板をころころと転がった。船体は大幅に傾いて、転がった全員がだるまになって船倉の入り口に押し潰される。
「お、重い~~~……」
「ッ! っていうか、ドサクサに紛れてどこ触ってんのよ、あんたはッ!?」
「いって、カノン! 不可抗力だって、今のは!」
ルナの放った閃光は、海を抉り、海面に巨大な波を生み出した。舞い上がった大きなうねりは、飛来する矢を飲み込んで、また波の反動は小さな船体を沖へと押し流す。
波が引いた後は、船はかなり沖まで流されていて、そこはもう小さな弓矢ごときが届くような距離ではなかった。しばらく伏せて待っていると、船体は向きを変えて、港とは反対の方向へ動き出す。
……代償として、海水がかなり甲板を濡らしたけれど。
「うっぷ……ッ、ったく、無茶するわね……」
「きゃぁぁ!? もぉ、せっかくマント買い換えたばっかりなのに、どうしてくれるのよ!? 塩水でぐちゃぐちゃじゃないッ!」
「船酔いは直ったみたいだからいーじゃねぇかよ。それより俺の麗しい顔が! っていうか俺どうなってんだ!? 暗くて何も見えねぇ!」
「……顔云々以前にアルティオ、頭にわかめ乗ってるわよ。そのせいだと思うけど」
「皆様、すまない! ご無事か!?」
船長室から顔を出したラーシャが、駆け寄りながら声を上げる。海水に塗れた服を払いながら、各々に立ち上がって、
「ッ! 伏せてッ!!」
「へ?」
港の向こうを凝視していたルナが、再度、声を上げた。疑問符を浮かべるカノンの背を、レンが強制的に押す。同時に反射的に全員が屈みこんで、
瞬間。
どぉおおおおぉおおおおぉおおおおおおおんッ!!!
「―――ッ!?」
轟音が、全員の耳を貫いた。閃光に、目が焼かれる。光が視界を埋め尽くすより先に見えたものは、港の方向から飛来する、
巨大な、黒い光弾。
眩暈がした。ぐらりと、閃光と轟音による衝撃が、船を左右に揺さぶった。
―――ぅく……ッ!
膝をついて、カノンは目を覆う。瞼の上に光がないことを知ると、身を起こす。怪我は……ない。
目を開ける。ゆらゆらと揺れる船の床に立ち上がって、周囲を見渡して。
先ほどより荒々しい波を立てる海以外は、何もない……? いや、
「……ッ!」
視線を上げて、唖然とした。
帆船、というものはマストに帆を張り、風を捕まえて、航行する。小さな船だがこの船もまた、羊皮をなめした、まずまず丈夫で立派な帆を備えていた。
その帆が。
半分だけ。面積の半分だけを残して、大きく抉られていた。抉られている先には、何もない。灰色の空が、空洞となって見えているだけ。煤けた跡もない。文字通り、"消失している"のだ。
薄ら寒い汗が、カノンの背を伝う。
物質消失。物を焼いたり燃やしたりせずに、一瞬にして塵と化す術は、確かに存在する。
だが、こんな遠距離で、こんな船の帆をそのまま抉ってしまうような範囲の広いものなど……! 少なくとも、正常な人間が使っているのを見たことは、一度も、ない。
ましてや、あの範囲の中に人間などが存在したら―――
思考速度の違いさえあったが、やがて全員がその答えに行き着く。カノンは言葉もなく、唇を引き締めた。
ルナはひたすらに、黒の光弾が放たれた港を凝視し、シリアとアルティオは妙な汗を掻きながら、誰かの言葉を待っている。
レンはじっと、その消失した帆を眺め、沈思していた。
そして気が付いたように、唖然とする女軍官を振り向いて、
「……どういうことになっているのかは知らないが……。
この派手な歓迎に心当たりがないのなら、あの港から上陸するのは、いや、今この海域にいることさえ愚考だな」
「……」
彼の言葉を受けて、ラーシャは茫然とさせていた表情を引き締める。客将を預かっている身、という責任感が、彼女に冷静さを取り戻させた。
ラーシャは少し離れた場所で帆を見上げていた従者を振り返る。その視線に気が付いた銀髪の少年は、生真面目な表情を取り戻して、深く頷いた。
彼女はそのまま船長室へ向かって、何事かを告げる。
そして、港をちらりと振り返り、小さく首を振った。
「……すまない。私たちでは、十分な説明が出来そうにない。とりあえず、ここから離れた港に案内する。説明は……仲間と合流してからにして欲しい」
吐き出した言葉からは、やや力が抜けていた。カノンはしばらく瞑目し、遠ざかる港と破壊された帆を改めて見比べて。
彼女と同じような、困惑と小さな焦燥を張り付かせた表情で、頷いた。
海上に消えていく小さな船影に、黒い光弾を放った人物は、金の髪を掻き揚げて小さく舌を打った。
「はずれ~」
「く……ッ」
「エリシア様、相変わらずノーコンですよね~」
「うるさいわよ、小娘。お尻が青いうちはいっちょ前に抗議なんてするんじゃないの」
ふん、と鼻を鳴らして彼女……いや、彼か。中世的な顔立ちと、しっかり手入れされたウェーブのかかる金の長い髪、派手に飾り付けられた白い軍服に、判断が狂わされる。だが、大柄の背格好を見る限り、やはり男性なのだろう。……言葉遣いにも、優雅な動作にも、何故か女性的なものが色濃く映ってはいるが。
その彼を野次ったのは、こちらは明らかに女性。軍服こそ着てはいないが、長い裾のローブにはしっかり八咫鴉の紋が刻まれている。紺を基調に、赤や桃色の華やかな線が描かれたローブは、彼女の豊かなボディーラインを強調していた。
海風に攫われる、腰まで伸ばした栗色の髪を押さえて、彼女は切れ長の蒼い瞳を細めて軍服の―――エリシアと自らが呼んだ男を見た。
「あら、私はお尻、青くなんてないですよ。なんでしたらお見せしましょうか?」
「止めなさい。そんな小娘のお尻なんて、見るだけ反吐が出るから」
「エリシア、リーゼリア。はしたない話は止しなさい。エイロネイアの品格が疑われるよ」
小隊の後方から響いた、澄んだ静かな声に、エリシアも女性も―――リーゼリアと呼ばれた彼女も口を閉ざして振り返った。
小隊の弓兵は同じように振り返って、慌てて面を下げて敬礼する。小隊の人の波が、自然と割れた。
かつり、と硬い靴音が響く。立っていたのは、海風へ、ゆるやかに黒服の袖を靡かせる少年。柔らかな黒髪がさらさらと揺れて、半分だけ露になっている秀麗な顔には苦笑が浮かんでいる。
「あ……」
「あら、殿下。おかえりなさい」
その場にいた黒い影に、極涼しく声をかけたエリシアと反して、リーゼリアは声を漏らして僅かに瞳を潤ませた。
「ロレン様ッ!」
ぱたぱたと、割れた小隊の中を駆けると、リーゼリアはそのまま黒い装束を纏う少年の首に抱き付いた。しがみ付く彼女の身体を難なく受け止めると、黒の少年は小さく微笑みを浮かべる。
その所作に、少年の背後にいた黒髪の少女―――シャルが、ひどくつまらなさそうに唇を尖らせて、少年の黒服を少しだけ引っ張った。
しばらくそのまま身を寄せると、リーゼリアは満足がいったのか、身を離して正面から白い彼の顔を覗き込む。
「おかえりなさいませ、ロレン様。西方大陸でのお仕事はいかがでしたか?」
「上々だね。リーゼもエリシアもご苦労様。長らく留守にしてすまなかった」
「そうよぅ? まったく殿下ってば、戦時真っ只中だっていうのに、こっちに丸投げで遠征しちゃうんだもの。ボーナスは弾んで貰えるかしらぁ?」
「そういう交渉は経理に頼んでね、エリシア。まあ、口添えくらいはしてあげるよ」
「わ、私は別に何もいりませんよ? その、ロレン様が無事なら、それで……」
慌てて取り繕うように口にするリーゼリアに、少年は可笑しそうに笑う。
「ありがとう、リーゼ。君たちには感謝してるよ」
くすり、と笑ってから、彼は不意に表情を正す。彼の視線が、波がたゆたう海上の向こうを差しているのに気が付いたエリシアは、小さく肩を竦めた。
「ごめんねぇ。逃がしちゃったみたい。意外とヤる魔道師の娘がいてさぁ」
「あ、ひょっとしてあの娘がエレメント中尉の昔の恋人って奴ですか?」
「あら、そうなの!? 意外ねぇ、小娘もいいところだったけど。ふーん、あの人あんなのが趣味だったのねぇ」
「エリシア、リーゼリア。露骨な話は慎むように。特に当人の目の前では口にしないように頼むよ。
彼は気分屋で激情する癖がある。仕事に差し支えがあってはたまらないからね」
静かに叱咤すると、エリシアもリーゼリアも罰が悪そうに口を閉じた。少年は海上と空を仰ぎ見てから踵を返す。
「まあ、戻ってくるということはないだろうけれど。引き続き、警戒を頼む。
ああ、沈める必要はないよ。むしろ、追い払う程度で良い」
「はぁい。くすくす、また何か考えてるわけね?」
「ノーコメント。僕はまた別の準備があるから、先の砦にいる。何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
「殿下ぁ。大陸から帰ったばかりでしょー? 少し休んだらぁ?」
「気遣いをありがとう。そして不要だよ、エリシア。それじゃあ、二人とも頑張って。行くよ、シャル」
ひらひらと、包帯を巻きつけた手を後ろに振りながら、少年は港を後にする。背後で縮こまっていた幼い黒服の少女は、やや憮然としながらも、ぺこり、と小さく頭を下げた後に、小走りで主の後を追ったのだった。
やや霧が深くなった。
帆の半分を失った小型の船は、鈍足を余儀なくされていたが、それでも陸に沿いながら航行を続けていた。
岩陰が連なる断崖から、次第に等高は下がり、船体の右側に広がる陸地には、森や林が見えるようになっていく。
ラーシャは船先に近い船縁から身を乗り出して、辺りを警戒しながら目を凝らしていた。
カノンたちもまた、場所こそ違うが甲板から辺りを見回していた。ゼルゼイルの地理の知識など皆無に等しい彼らには、船がどの場所を航行しているかなど分かるわけもなかった。しかし、それでも陸地に隠れた兵士や海上の軍船の影が見えないかどうか、警戒することは可能だ。
「ラーシャ様」
不意に、ラーシャの傍らで目を凝らしていたデルタが彼女の名を呼んだ。呼ばれるまでもなく、彼が目にしたものに気が付いていたラーシャは、さらに身を乗り出した。
陸地の際に続いていた林が途切れて、針の止まった小さな時計塔が見えた。その隣には、港に不可欠な管制塔。
その塔から身を乗り出した誰かが、白旗を振っている。旗には、彼女の胸に刻まれているものと同じ、鷲の紋章が。
ラーシャはほう、と胸を撫で下ろした。船長に指示を出し、接岸の準備をするようにと伝える。
「おいおい、ここは大丈夫なんだろうな? もう、わかめなんぞ被りたくねぇぞ」
「ああ。戦地からはかなり離れた場所だからな。あの旗も……振っている人間には心当たりがある」
不信を顔に張り付けて問うアルティオに、ラーシャ生真面目に答える。接岸のための波止場が見えてくると、そこに立つ二つの人影が手を振っているのが見えた。
おそらくは、旗を振っていた人物と同じ人間だろう。
「あれは……」
「ライアント大尉とコンチェルト少佐、のようですね」
船縁から身を乗り出したデルタが、人影を差して言う。
船が波止場に近づくにつれて、その顔もまた明確に見えて来た。
一人は大柄な男。腰に少々長めの(見立て的にはバスタードクラスと見た)、重量感がある剣を差している。やや癖のある黒髪を赤のバンダナで束ねていて、そのバンダナと同じ色の赤い軍服を着込んでいる。胸には、無論のこと鷲の紋章。ややつり目の黒い眼を見開いて、両手を振っている。
その傍らには、すらりと背筋を伸ばして敬礼を崩さない中肉中背の男。隣の男同様、赤い軍服をぴしっと着込み、薄い唇を真一文字に引き結んでいる。短剣を二振りずつ両腰に差して、両手首には何かの文字が刻まれた腕輪を通していた。藍色の瞳にシャープな造りの眼鏡をかけて、白金の髪を束ねてきっちりと括っている。
船が接岸作業に入ると、二人の男は波止場の上を走り、船に駆け寄った。
赤いバンダナの男は、船上を見上げてラーシャとデルタに手を伸ばしたが、白金の髪をした男は船体に突き刺さった矢と、大穴の開いた帆を眺めて厳しく目を吊り上げた。
「姐さん、無事ッスか!?」
「フィロ=ソルト中将、この矢は……。ノール港に向かわれたようですね……。
連絡が行き届かず、申し訳ありません」
「レスター、ティルス。すまない、心配をかけたようだな」
がこん、と船体が揺れた。船着場に接岸されたようだ。船室から中年の船長が現れて、太い綱を持ち、埠頭のほうへと飛び移る。差たる間も置かずに下船用の橋がかけられる。
ひらり、とラーシャが身を翻して埠頭へと着地する。荷を担いだデルタが、その後に続いた。その彼女に、二人の男が駆け寄る。
ティルス、と呼ばれた白金の男は、彼女に深く礼をして、その脇を素通りし、橋板に駆け寄った。そうして、船長に声をかけて、橋板を降りようとしていたカノンへ優雅に片手を伸ばす。
「いらっしゃいませ、ご客人。どうぞ、お手を」
「え、あ、……えっと」
「カノン殿。貴方方を招くこちらにとっては、これが礼儀なのだ。受け取ってやってくれ」
不慣れで戸惑う彼女に、ラーシャが助言する。言われたカノンはしばらく迷っていたが、小さく頷いて、大人しく好意を受け取る。
律儀な性格なのか、それともそうするように教育されているのか、ティルスはそのまま全員の下船を手伝った。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。遠いところをご足労いただき、誠にありがとうございます。
……そして、ご迷惑をおかけしました」
「まったくだぜ! 着いたと思ったらいきなり矢の洗礼かよ!
安全な港に行く、つってたのに何だありゃあ!? わかめなんぞ初めて被ったぞ!?」
「……そぅよぅ。そのせいで無駄な距離を船なんかに乗ることになったじゃないのぅ……ぅぅぅ……」
「いや、わかめもういいから。引っ張るなって。シリアも。文句は復活してからでいいから」
「……? と、ともかく、申し訳ありません。こちらの連絡不行き届きで、港の指定を十分に行えませんでした。深く、お詫びいたします」
ティルスは頭を下げる。ラーシャは一拍置いてから、同じように「申し訳ない」と頭を下げる。デルタが大きく息を吐いて渋い表情を作った。
「レスター、ティルス。あれはどういうことなんだ?
何故、ノール港が……あそこはまだシンシア領内だったはずだ。それも戦地からは離れていたはずだし……」
「デルタ。それは後で詳しく話すよ。説明するのには少し、時間がかかりそうだ……。
それより、」
「姐さん。姐さんが言ってた二人、ってのはどいつなんだよ?」
デルタの追求を止めたティルスの言葉を遮って、傍らにいたレスターと呼ばれた男が問いかける。つり目気味の目を、品定めするようにこちらに向けてくる。
好印象とは言い難いその反応に、カノンは眉間に皺を寄せるが、背後にいたレンに肩を叩かれ、諫められる。
ラーシャは小さく、呆れた息を吐いて、片手でカノンとレンを指しながら、
「レスター、失礼な言動は慎め。
こちらが先に言っていたカノン=ティルザード殿、そしてレン=フィティルアーグ殿だ。
そちらはお二人のご友人、ルナ=ディスナー殿、シリア=アレンタイル殿、アルティオ=バーガックス殿。訳あって、共に来て頂いた。
……頼りになる方々だ」
「ふーん……」
レスターは気のない返事で、じろじろとこちらを観察する。そしておもむろに、けっ、と唾を吐く。
ぴくり、とカノンの右の眉が動いた。
「何だよ。ただの小娘と優男じゃんか」
ぷちッ。
「人が大人しくして置けば言ってくれんじゃないのよ! 腕っ節しかとりえがなさそうな脳筋男に、小娘呼ばわりされるいわれはないわね!!
軍の中でどんだけお偉いさんか知らないけど、どうせ腕相撲の強さだけで出世したんでしょう!?」
「ンなッ!?」
「はん、脳みそ使わないとそのうち禿げるんじゃないの!? 女の子にフラれるわよ!?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「ああ、そういえば先日、やたらとブッラシングの毛を気にしてましたね」
「気にしてねぇよッ! てめぇ、ヘンなこと言うなッ!!」
「ふんッ。どうせ、頭がないもんだから実家からも恋人からも、能無し邪魔者宿六扱いされてんじゃあないのッ!?」
「て、てめぇ、この女……ッ!」
きりのないカノンの暴言に、レスターはふるふると拳を震わせた。その隣で汗を掻きながら、ラーシャがどう止めようかと首を傾げ始める。
だがレスターの拳が動くよりも、ラーシャが止めに入るよりも先に、
ごちッ!
「ッ! い、いったぁ……」
『……』
後頭部を直撃した援護射撃に、カノンが頭を押さえて蹲る方が早かった。すぐ背後にいた拳骨の持ち主は、無言で彼女の頭を打った手の甲に息を吹きかけた。
「レン……。そろそろあたしの脳細胞、死に過ぎなんじゃないかと思うんだけど……」
「安心しろ。細胞なんてものは、毎日生まれ変わっている」
唸りを上げる相棒に、無碍にもなく返すと彼は赤い軍服を着た二人の男へと向き直る。
「連れが失礼したな。まあ、そう言われると元も子もないが……。
別に俺たちは望んでここに来たわけじゃない。無論、ゼルゼイルに用があるにはあるが、必ずしもシンシアに帰属しなければならないわけでもない」
「……ちッ」
すらすらと、吐き出された彼の言葉の意味を理解できないほど頭が悪いわけではなかったらしい。レスターと呼ばれた男は舌打ちをして、素っ気無く余所を向く。
つまり、レンはこう言ったのだ。
シンシアに加担する明確な理由があるわけじゃない。手を切るならいつでも出来る、と。
そうなれば、レスターははるばる彼らを連れて来たラーシャや、ホストであるシンシア総統シェイリーン=ラタトスの面子を潰すことになりかねない。
「こちらも、異国で唯一の後ろ盾をなくすような馬鹿なことをやるつもりはないが……。
相棒はこの通り、火が着きやすいのでな。勘弁してやってくれ」
レンの言葉に、カノンが頭を摩りながら唇を尖らせる。それじゃあ、自分が子供みたいじゃないか。文句はあったが、ここでつまらない問答を延々とやっていても仕方がない。
とりあえず、場が収まったことを確かめて、ラーシャはこっそりと安堵の溜め息を吐く。
「カノン殿、レン殿。彼らは我がシンシア軍の幹部、ティルス=コンチェルト少佐、並びにレスター=ライアント大尉だ。
二人共、私の部下の中でも特に優秀な人材だ。これからの前線の指揮も取っている」
「ティルス=コンチェルトと申します。
片割れが無礼を致しました。代わりにお詫び致します。どうか禍根を残されませんよう、お願い致します」
「……」
ティルスは深々と頭を下げる。憮然としていたレスターも、さすがに大人気ないことに気が付いたか、浅くではあるが彼に倣って頭を低くした。
それを見て、軽くカノンも返す。レンも、その後ろにいたアルティオやシリアも倣う。
だが、ルナだけはそれに従わずに、腕を組み、眉間に皺を寄せて前に出る。
猫目の大きな瞳を周囲に向けて、シンシアの重臣たちを見回すと、ふとティルスに目を留めた。
「……あっちの茂みの中にいるのは、あんたの部下? あれも礼儀の一端?」
「はッ!?」
「……」
ストレートな彼女の物言いに、カノンもレンも眉を潜めて面を上げる。その手は自然と剣の柄に近い場所にあった。
素っ頓狂な声を上げたのはアルティオだ。シリアは構えようとして、しかし、船酔いの余韻が残っているらしく、渋い表情を作るのに留まった。
ラーシャは表情に緊張を走らせる。デルタとレスターは、罰が悪そうな顔をティルスに向けた。
注目されたティルスは、しかし、落ち着き払いながらはぁ、と息を漏らす。そして、ぱちん、と彼が指を鳴らすと、その僅かな気配は一瞬の内に掻き消えた。
「……失礼しました。恐れながら、貴方方にエイロネイアの手の者たちが接触しているとのお話でしたので……」
「で、その過程で。既にエイロネイアの間者として勧誘されている可能性を考えていた、と」
「左様です。ご無礼の程、お許しください」
ぴん、と線の張り詰めた緊張が走る。油断のならない、綺麗過ぎるティルス=コンチェルトの言葉。
ルナはふ、と肩を落してカノンを見た。判断は任せる、ということだろう。
カノンはしばし、顎に手を当てて、悩む。周囲の気配を探り、それ以上の気配が存在しないことを知ると、一度、空を仰いでから、ラーシャとティルスを振り返る。
「……説明はお仲間と合流してから、って言われてたけど。
さっきの港でのことも、今の状況も、大陸であたしたちにちょっかいを出してきた奴らの詳しいことも、全部ひっくるめて。
説明してもらえる?」
「……そのすべてをここで、というのは難しい要求です」
カノンの問いに、ティルスは一言で答えた。そして、唐突に踵を返す。
「この先の、シンシアの関所に我らの主がいらっしゃいます」
「何……?」
声を漏らしたのはラーシャだった。付き従うデルタもまた、眉を潜めてティルスの姿を目で追った。
彼らの主―――おそらくは、シンシア総統であるというシェイリーン=ラタトス。ラーシャの濁った声も当たり前だ。何故、そんな北方シンシアという国の要となる人物が、こんな王都から離れた場所にいるというのか。
ラーシャたちの反応から、彼女たちにも想定外の事実だったことが伺える。
「詳しくは、そこでお話します。中将が大陸に遠征されている間に、何が起こったかも、今何が起こっているのかも、すべて」
「……」
そう言って、それ以上の問答を許さないかのようにティルスは静かに歩き出す。レスターが肩を竦めて、ラーシャに謝るような動作をしてから、その後を追った。
ラーシャはその二人の背に、少しだけ瞑目し、顔をしかめる。そうして、カノンたちを振り返った。
「……」
カノンは、彼女が何かを言う前に頷く。
追おう、という意思表示だった。罠にしろ、何にしろ、カノンたちには海に戻るか陸に上がるかの選択肢しかないのだ。
頷き返して、ラーシャは波止場を歩き出す。デルタが続いて、カノンたちもその後ろに付いた。
波止場から陸地に上がる寸前、カノンは一瞬だけ振り返る。
霧が深くて、海の向こうはもう見えない。いや、晴れていたとしても、そこに西方大陸が、たとえ米粒ほどの大きさとしても見ることが出来るのかどうかは解らない。
随分と、遠い。
――― ……。
ふと、海の上で浮かんだ不安が、また胸の中に舞い戻る。果たして、自分は、自分たちは、またあの故郷の大陸に戻ることが出来るのだろうか。
誰一人、欠けることなく。
そこまで考えて、首を振る。考えても甲斐のないこと。剣を、意志を、皆との思い出を、持っている。だから、全力で守る。
カノンに出来るのは、それだけだ。
不安を振り切るように、霧の海から目を逸らし、波止場を降りて。
カノンは、その奈落の大地の土を踏んだ。
←1へ
最初に異変に気が付いたのは、甲板でシリアの世話を焼いていたアルティオだった。
皆、荷物を纏めるために、一度船内に入っていた。甲板で口元を押さえながら呻くシリアの背中を摩って、ふと、段々と近づく港の方へと目線を向けたとき。
「……ん?」
初めは何かの間違いかと思った。
港や砂浜といった場所に、鳥や獣の類が群れていることは稀にある。一瞬、それかとも思った。……いや、違う。願ったのだ。あまりに、あまりの光景だったから。
目を凝らして、凝視して、次の瞬間には驚愕した。
「な……ッ!」
くぐもった声を上げて、シリアをとりあえず座らせると乱暴に船内の扉を開く。
そこにはちょうど、甲板に出ようとしていた将官、ラーシャ=フィロ=ソルト中将が、目を丸くして立っていた。
「アルティオ殿? どうかしたのか?」
「……どうかした、じゃねぇよ! あんた! あれは何だッ!?」
「あれ、とは……?」
眉間に皺を寄せて問い返すラーシャに、唾を飛ばしながら怒鳴り返す。だが、相手はまったく何のことか理解していないようだった。
舌を打って、アルティオは甲板に出るよう合図する。
彼の上げた怒号に、船内にいた全員が驚いて顔を出した。
「ち、ちょっと何、アルティオ。どうしたの?」
「どうしたの、とか言ってる場合じゃねぇ! ヤバイぞ、あれはッ!!」
「はぁ?」
「な……ッ! あッ、あれは……ッ!!」
甲板から響いたのは、ラーシャの切羽詰った声だった。それからどたどたと走る音が聞こえて、やがて、船長室へ向けて舵の方角を変えるようにと怒鳴る声が聞こえた。
その異様なまでに甲高い声に、カノンは傍らにいたルナと顔を見合わせる。彼女らより判断が早かったレンは、船内のドア近くにいたアルティオを押しのけて甲板に出た。
次に我に返ったデルタが、その後を追う。
甲板に出て、船先に身を乗り出して。
そして絶句した。
彼の頬を、額を、冷たい汗が流れていく。
その彼らの背を追って、船内から飛び出したカノンとルナも、それぞれに言葉を失った。騒ぎに身を起こしたシリアも右に同じ。
アルティオがそう感じたのと同様に、港に群がる影は、何かの動物の群れにも見えた。しかし、違う。
そこに群れているのは人だった。それが皆、一様に同じ色の服を纏い、不自然に整然と並んでいたから、そのように見えてしまっただけ。
紺と基調にした礼服、いや、軍服。そして、遠目に見えるその手に握られていたのは、―――弓と、銀の矢尻が光る矢。
馬に乗っているのだろうか。先頭に、他の人間より頭二つ分ほど突き出した格好で、一人だけ白の軍服を着た将兵が見える。細身の剣を手にし、海風に金の長い髪を揺らし……。
しかし、ここからでは性別の判断はつけられない。
そして。
ばさりッ、と風に音を立てて、不意に群れ―――いや、その小隊の真ん中に翻る旗には、八咫鴉の紋。
「バカな……ッ! 何故、シンシアの港にエイロネイアが……ッ!!」
息の詰まった声で、デルタが吐き出す。その瞬間、小隊の先頭に立つ白い軍服の持つ剣が、孤を描くように振られた。
彼よりも一瞬早く、平静を取り戻したレンは、弓隊の引き絞る矢に気が付いて、声を飛ばした。
「伏せろッ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん………ッッッ!
はっ、としたカノンが傍らにいたルナを引き摺り倒し、レンがデルタの腕を掴んで床に縫い止める。アルティオが、蹲ったままのシリアを庇うように伏せた、刹那。
小さな船体に、小隊から放たれた無数の矢が降り注いだ。
カノンの頬を浅く傷つけて、あるいは髪を一本削ぎ落とし、かつッ! と背後の木板に銀の矢尻が突き刺さる。
「ふざけんなよッ! どんな歓迎の仕方だよ、あれはッ!」
「デルタ! ノール港ってのはシンシア領地に属する安全な港の一つじゃなかったのッ!?」
「……ッ!」
カノンの問いに、デルタは答えない。答えられないのだ。ノール港から戦地は、確かに遠いとは言えなかった。しかし、ラーシャとデルタが出国してから半月余り、とてもではないがそんな短期間で侵略されるような近い距離にある港でもなかった。
シンシア王都であるゼルフィリッシュまでは、海から距離がある。
急ぎであったラーシャとデルタは、国の中程に位置するノール港に入り、そこから軍車を使って王都に向かうというプランを立てていた。それが迅速と安全を兼ね備えた、最適なルートであったはずなのに……ッ!
船体が傾き出している。ラーシャの指示によって、船長が港と反対方向に舵を取ったのだ。
しかし、帆船というのは厄介なもので、いつも風の影響が出る。船体が完全に向きを変えて滑り出すよりも、弓矢の第二陣が来る方が、圧倒的に早い!
「く……ッ」
デルタは唇を噛む。客将を護衛することも出来ないなんて、シンシア軍の将官として恥だ。
―――どうする……ッ!? とりあえず、全員船内へ……ッ!?
だんッ!!
「ッ、ルナ!?」
伏せたままの一同を尻目に、不意に立ち上がったのは何かの詠唱を終えたルナだった。立ち上がって、弓矢を引き絞る小隊の真正面の船縁へ走る。
「ちょ、ルナッ!? 何を……ッ!?」
「………我望む、覇するは白き永遠の衝撃……」
小声で響いた詠唱は、大規模破壊呪文。ルナのストックの中でも、最強を誇る嚇光術。船縁から、自ら身を捧げるように乗り出して、彼女はたゆたう水面に両手を翳す!
白い軍服の将官が、剣を振るったのは、それとほぼ同時だった。
「放て、セイアリーバーストッ!!」
どぉぉぉぉぉぉぉぅんッ!!
「うぉ……ッ!?」
「きゃぁぁぁッ!?」
呻き声と悲鳴が重なって、カノンたちは甲板をころころと転がった。船体は大幅に傾いて、転がった全員がだるまになって船倉の入り口に押し潰される。
「お、重い~~~……」
「ッ! っていうか、ドサクサに紛れてどこ触ってんのよ、あんたはッ!?」
「いって、カノン! 不可抗力だって、今のは!」
ルナの放った閃光は、海を抉り、海面に巨大な波を生み出した。舞い上がった大きなうねりは、飛来する矢を飲み込んで、また波の反動は小さな船体を沖へと押し流す。
波が引いた後は、船はかなり沖まで流されていて、そこはもう小さな弓矢ごときが届くような距離ではなかった。しばらく伏せて待っていると、船体は向きを変えて、港とは反対の方向へ動き出す。
……代償として、海水がかなり甲板を濡らしたけれど。
「うっぷ……ッ、ったく、無茶するわね……」
「きゃぁぁ!? もぉ、せっかくマント買い換えたばっかりなのに、どうしてくれるのよ!? 塩水でぐちゃぐちゃじゃないッ!」
「船酔いは直ったみたいだからいーじゃねぇかよ。それより俺の麗しい顔が! っていうか俺どうなってんだ!? 暗くて何も見えねぇ!」
「……顔云々以前にアルティオ、頭にわかめ乗ってるわよ。そのせいだと思うけど」
「皆様、すまない! ご無事か!?」
船長室から顔を出したラーシャが、駆け寄りながら声を上げる。海水に塗れた服を払いながら、各々に立ち上がって、
「ッ! 伏せてッ!!」
「へ?」
港の向こうを凝視していたルナが、再度、声を上げた。疑問符を浮かべるカノンの背を、レンが強制的に押す。同時に反射的に全員が屈みこんで、
瞬間。
どぉおおおおぉおおおおぉおおおおおおおんッ!!!
「―――ッ!?」
轟音が、全員の耳を貫いた。閃光に、目が焼かれる。光が視界を埋め尽くすより先に見えたものは、港の方向から飛来する、
巨大な、黒い光弾。
眩暈がした。ぐらりと、閃光と轟音による衝撃が、船を左右に揺さぶった。
―――ぅく……ッ!
膝をついて、カノンは目を覆う。瞼の上に光がないことを知ると、身を起こす。怪我は……ない。
目を開ける。ゆらゆらと揺れる船の床に立ち上がって、周囲を見渡して。
先ほどより荒々しい波を立てる海以外は、何もない……? いや、
「……ッ!」
視線を上げて、唖然とした。
帆船、というものはマストに帆を張り、風を捕まえて、航行する。小さな船だがこの船もまた、羊皮をなめした、まずまず丈夫で立派な帆を備えていた。
その帆が。
半分だけ。面積の半分だけを残して、大きく抉られていた。抉られている先には、何もない。灰色の空が、空洞となって見えているだけ。煤けた跡もない。文字通り、"消失している"のだ。
薄ら寒い汗が、カノンの背を伝う。
物質消失。物を焼いたり燃やしたりせずに、一瞬にして塵と化す術は、確かに存在する。
だが、こんな遠距離で、こんな船の帆をそのまま抉ってしまうような範囲の広いものなど……! 少なくとも、正常な人間が使っているのを見たことは、一度も、ない。
ましてや、あの範囲の中に人間などが存在したら―――
思考速度の違いさえあったが、やがて全員がその答えに行き着く。カノンは言葉もなく、唇を引き締めた。
ルナはひたすらに、黒の光弾が放たれた港を凝視し、シリアとアルティオは妙な汗を掻きながら、誰かの言葉を待っている。
レンはじっと、その消失した帆を眺め、沈思していた。
そして気が付いたように、唖然とする女軍官を振り向いて、
「……どういうことになっているのかは知らないが……。
この派手な歓迎に心当たりがないのなら、あの港から上陸するのは、いや、今この海域にいることさえ愚考だな」
「……」
彼の言葉を受けて、ラーシャは茫然とさせていた表情を引き締める。客将を預かっている身、という責任感が、彼女に冷静さを取り戻させた。
ラーシャは少し離れた場所で帆を見上げていた従者を振り返る。その視線に気が付いた銀髪の少年は、生真面目な表情を取り戻して、深く頷いた。
彼女はそのまま船長室へ向かって、何事かを告げる。
そして、港をちらりと振り返り、小さく首を振った。
「……すまない。私たちでは、十分な説明が出来そうにない。とりあえず、ここから離れた港に案内する。説明は……仲間と合流してからにして欲しい」
吐き出した言葉からは、やや力が抜けていた。カノンはしばらく瞑目し、遠ざかる港と破壊された帆を改めて見比べて。
彼女と同じような、困惑と小さな焦燥を張り付かせた表情で、頷いた。
海上に消えていく小さな船影に、黒い光弾を放った人物は、金の髪を掻き揚げて小さく舌を打った。
「はずれ~」
「く……ッ」
「エリシア様、相変わらずノーコンですよね~」
「うるさいわよ、小娘。お尻が青いうちはいっちょ前に抗議なんてするんじゃないの」
ふん、と鼻を鳴らして彼女……いや、彼か。中世的な顔立ちと、しっかり手入れされたウェーブのかかる金の長い髪、派手に飾り付けられた白い軍服に、判断が狂わされる。だが、大柄の背格好を見る限り、やはり男性なのだろう。……言葉遣いにも、優雅な動作にも、何故か女性的なものが色濃く映ってはいるが。
その彼を野次ったのは、こちらは明らかに女性。軍服こそ着てはいないが、長い裾のローブにはしっかり八咫鴉の紋が刻まれている。紺を基調に、赤や桃色の華やかな線が描かれたローブは、彼女の豊かなボディーラインを強調していた。
海風に攫われる、腰まで伸ばした栗色の髪を押さえて、彼女は切れ長の蒼い瞳を細めて軍服の―――エリシアと自らが呼んだ男を見た。
「あら、私はお尻、青くなんてないですよ。なんでしたらお見せしましょうか?」
「止めなさい。そんな小娘のお尻なんて、見るだけ反吐が出るから」
「エリシア、リーゼリア。はしたない話は止しなさい。エイロネイアの品格が疑われるよ」
小隊の後方から響いた、澄んだ静かな声に、エリシアも女性も―――リーゼリアと呼ばれた彼女も口を閉ざして振り返った。
小隊の弓兵は同じように振り返って、慌てて面を下げて敬礼する。小隊の人の波が、自然と割れた。
かつり、と硬い靴音が響く。立っていたのは、海風へ、ゆるやかに黒服の袖を靡かせる少年。柔らかな黒髪がさらさらと揺れて、半分だけ露になっている秀麗な顔には苦笑が浮かんでいる。
「あ……」
「あら、殿下。おかえりなさい」
その場にいた黒い影に、極涼しく声をかけたエリシアと反して、リーゼリアは声を漏らして僅かに瞳を潤ませた。
「ロレン様ッ!」
ぱたぱたと、割れた小隊の中を駆けると、リーゼリアはそのまま黒い装束を纏う少年の首に抱き付いた。しがみ付く彼女の身体を難なく受け止めると、黒の少年は小さく微笑みを浮かべる。
その所作に、少年の背後にいた黒髪の少女―――シャルが、ひどくつまらなさそうに唇を尖らせて、少年の黒服を少しだけ引っ張った。
しばらくそのまま身を寄せると、リーゼリアは満足がいったのか、身を離して正面から白い彼の顔を覗き込む。
「おかえりなさいませ、ロレン様。西方大陸でのお仕事はいかがでしたか?」
「上々だね。リーゼもエリシアもご苦労様。長らく留守にしてすまなかった」
「そうよぅ? まったく殿下ってば、戦時真っ只中だっていうのに、こっちに丸投げで遠征しちゃうんだもの。ボーナスは弾んで貰えるかしらぁ?」
「そういう交渉は経理に頼んでね、エリシア。まあ、口添えくらいはしてあげるよ」
「わ、私は別に何もいりませんよ? その、ロレン様が無事なら、それで……」
慌てて取り繕うように口にするリーゼリアに、少年は可笑しそうに笑う。
「ありがとう、リーゼ。君たちには感謝してるよ」
くすり、と笑ってから、彼は不意に表情を正す。彼の視線が、波がたゆたう海上の向こうを差しているのに気が付いたエリシアは、小さく肩を竦めた。
「ごめんねぇ。逃がしちゃったみたい。意外とヤる魔道師の娘がいてさぁ」
「あ、ひょっとしてあの娘がエレメント中尉の昔の恋人って奴ですか?」
「あら、そうなの!? 意外ねぇ、小娘もいいところだったけど。ふーん、あの人あんなのが趣味だったのねぇ」
「エリシア、リーゼリア。露骨な話は慎むように。特に当人の目の前では口にしないように頼むよ。
彼は気分屋で激情する癖がある。仕事に差し支えがあってはたまらないからね」
静かに叱咤すると、エリシアもリーゼリアも罰が悪そうに口を閉じた。少年は海上と空を仰ぎ見てから踵を返す。
「まあ、戻ってくるということはないだろうけれど。引き続き、警戒を頼む。
ああ、沈める必要はないよ。むしろ、追い払う程度で良い」
「はぁい。くすくす、また何か考えてるわけね?」
「ノーコメント。僕はまた別の準備があるから、先の砦にいる。何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
「殿下ぁ。大陸から帰ったばかりでしょー? 少し休んだらぁ?」
「気遣いをありがとう。そして不要だよ、エリシア。それじゃあ、二人とも頑張って。行くよ、シャル」
ひらひらと、包帯を巻きつけた手を後ろに振りながら、少年は港を後にする。背後で縮こまっていた幼い黒服の少女は、やや憮然としながらも、ぺこり、と小さく頭を下げた後に、小走りで主の後を追ったのだった。
やや霧が深くなった。
帆の半分を失った小型の船は、鈍足を余儀なくされていたが、それでも陸に沿いながら航行を続けていた。
岩陰が連なる断崖から、次第に等高は下がり、船体の右側に広がる陸地には、森や林が見えるようになっていく。
ラーシャは船先に近い船縁から身を乗り出して、辺りを警戒しながら目を凝らしていた。
カノンたちもまた、場所こそ違うが甲板から辺りを見回していた。ゼルゼイルの地理の知識など皆無に等しい彼らには、船がどの場所を航行しているかなど分かるわけもなかった。しかし、それでも陸地に隠れた兵士や海上の軍船の影が見えないかどうか、警戒することは可能だ。
「ラーシャ様」
不意に、ラーシャの傍らで目を凝らしていたデルタが彼女の名を呼んだ。呼ばれるまでもなく、彼が目にしたものに気が付いていたラーシャは、さらに身を乗り出した。
陸地の際に続いていた林が途切れて、針の止まった小さな時計塔が見えた。その隣には、港に不可欠な管制塔。
その塔から身を乗り出した誰かが、白旗を振っている。旗には、彼女の胸に刻まれているものと同じ、鷲の紋章が。
ラーシャはほう、と胸を撫で下ろした。船長に指示を出し、接岸の準備をするようにと伝える。
「おいおい、ここは大丈夫なんだろうな? もう、わかめなんぞ被りたくねぇぞ」
「ああ。戦地からはかなり離れた場所だからな。あの旗も……振っている人間には心当たりがある」
不信を顔に張り付けて問うアルティオに、ラーシャ生真面目に答える。接岸のための波止場が見えてくると、そこに立つ二つの人影が手を振っているのが見えた。
おそらくは、旗を振っていた人物と同じ人間だろう。
「あれは……」
「ライアント大尉とコンチェルト少佐、のようですね」
船縁から身を乗り出したデルタが、人影を差して言う。
船が波止場に近づくにつれて、その顔もまた明確に見えて来た。
一人は大柄な男。腰に少々長めの(見立て的にはバスタードクラスと見た)、重量感がある剣を差している。やや癖のある黒髪を赤のバンダナで束ねていて、そのバンダナと同じ色の赤い軍服を着込んでいる。胸には、無論のこと鷲の紋章。ややつり目の黒い眼を見開いて、両手を振っている。
その傍らには、すらりと背筋を伸ばして敬礼を崩さない中肉中背の男。隣の男同様、赤い軍服をぴしっと着込み、薄い唇を真一文字に引き結んでいる。短剣を二振りずつ両腰に差して、両手首には何かの文字が刻まれた腕輪を通していた。藍色の瞳にシャープな造りの眼鏡をかけて、白金の髪を束ねてきっちりと括っている。
船が接岸作業に入ると、二人の男は波止場の上を走り、船に駆け寄った。
赤いバンダナの男は、船上を見上げてラーシャとデルタに手を伸ばしたが、白金の髪をした男は船体に突き刺さった矢と、大穴の開いた帆を眺めて厳しく目を吊り上げた。
「姐さん、無事ッスか!?」
「フィロ=ソルト中将、この矢は……。ノール港に向かわれたようですね……。
連絡が行き届かず、申し訳ありません」
「レスター、ティルス。すまない、心配をかけたようだな」
がこん、と船体が揺れた。船着場に接岸されたようだ。船室から中年の船長が現れて、太い綱を持ち、埠頭のほうへと飛び移る。差たる間も置かずに下船用の橋がかけられる。
ひらり、とラーシャが身を翻して埠頭へと着地する。荷を担いだデルタが、その後に続いた。その彼女に、二人の男が駆け寄る。
ティルス、と呼ばれた白金の男は、彼女に深く礼をして、その脇を素通りし、橋板に駆け寄った。そうして、船長に声をかけて、橋板を降りようとしていたカノンへ優雅に片手を伸ばす。
「いらっしゃいませ、ご客人。どうぞ、お手を」
「え、あ、……えっと」
「カノン殿。貴方方を招くこちらにとっては、これが礼儀なのだ。受け取ってやってくれ」
不慣れで戸惑う彼女に、ラーシャが助言する。言われたカノンはしばらく迷っていたが、小さく頷いて、大人しく好意を受け取る。
律儀な性格なのか、それともそうするように教育されているのか、ティルスはそのまま全員の下船を手伝った。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。遠いところをご足労いただき、誠にありがとうございます。
……そして、ご迷惑をおかけしました」
「まったくだぜ! 着いたと思ったらいきなり矢の洗礼かよ!
安全な港に行く、つってたのに何だありゃあ!? わかめなんぞ初めて被ったぞ!?」
「……そぅよぅ。そのせいで無駄な距離を船なんかに乗ることになったじゃないのぅ……ぅぅぅ……」
「いや、わかめもういいから。引っ張るなって。シリアも。文句は復活してからでいいから」
「……? と、ともかく、申し訳ありません。こちらの連絡不行き届きで、港の指定を十分に行えませんでした。深く、お詫びいたします」
ティルスは頭を下げる。ラーシャは一拍置いてから、同じように「申し訳ない」と頭を下げる。デルタが大きく息を吐いて渋い表情を作った。
「レスター、ティルス。あれはどういうことなんだ?
何故、ノール港が……あそこはまだシンシア領内だったはずだ。それも戦地からは離れていたはずだし……」
「デルタ。それは後で詳しく話すよ。説明するのには少し、時間がかかりそうだ……。
それより、」
「姐さん。姐さんが言ってた二人、ってのはどいつなんだよ?」
デルタの追求を止めたティルスの言葉を遮って、傍らにいたレスターと呼ばれた男が問いかける。つり目気味の目を、品定めするようにこちらに向けてくる。
好印象とは言い難いその反応に、カノンは眉間に皺を寄せるが、背後にいたレンに肩を叩かれ、諫められる。
ラーシャは小さく、呆れた息を吐いて、片手でカノンとレンを指しながら、
「レスター、失礼な言動は慎め。
こちらが先に言っていたカノン=ティルザード殿、そしてレン=フィティルアーグ殿だ。
そちらはお二人のご友人、ルナ=ディスナー殿、シリア=アレンタイル殿、アルティオ=バーガックス殿。訳あって、共に来て頂いた。
……頼りになる方々だ」
「ふーん……」
レスターは気のない返事で、じろじろとこちらを観察する。そしておもむろに、けっ、と唾を吐く。
ぴくり、とカノンの右の眉が動いた。
「何だよ。ただの小娘と優男じゃんか」
ぷちッ。
「人が大人しくして置けば言ってくれんじゃないのよ! 腕っ節しかとりえがなさそうな脳筋男に、小娘呼ばわりされるいわれはないわね!!
軍の中でどんだけお偉いさんか知らないけど、どうせ腕相撲の強さだけで出世したんでしょう!?」
「ンなッ!?」
「はん、脳みそ使わないとそのうち禿げるんじゃないの!? 女の子にフラれるわよ!?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「ああ、そういえば先日、やたらとブッラシングの毛を気にしてましたね」
「気にしてねぇよッ! てめぇ、ヘンなこと言うなッ!!」
「ふんッ。どうせ、頭がないもんだから実家からも恋人からも、能無し邪魔者宿六扱いされてんじゃあないのッ!?」
「て、てめぇ、この女……ッ!」
きりのないカノンの暴言に、レスターはふるふると拳を震わせた。その隣で汗を掻きながら、ラーシャがどう止めようかと首を傾げ始める。
だがレスターの拳が動くよりも、ラーシャが止めに入るよりも先に、
ごちッ!
「ッ! い、いったぁ……」
『……』
後頭部を直撃した援護射撃に、カノンが頭を押さえて蹲る方が早かった。すぐ背後にいた拳骨の持ち主は、無言で彼女の頭を打った手の甲に息を吹きかけた。
「レン……。そろそろあたしの脳細胞、死に過ぎなんじゃないかと思うんだけど……」
「安心しろ。細胞なんてものは、毎日生まれ変わっている」
唸りを上げる相棒に、無碍にもなく返すと彼は赤い軍服を着た二人の男へと向き直る。
「連れが失礼したな。まあ、そう言われると元も子もないが……。
別に俺たちは望んでここに来たわけじゃない。無論、ゼルゼイルに用があるにはあるが、必ずしもシンシアに帰属しなければならないわけでもない」
「……ちッ」
すらすらと、吐き出された彼の言葉の意味を理解できないほど頭が悪いわけではなかったらしい。レスターと呼ばれた男は舌打ちをして、素っ気無く余所を向く。
つまり、レンはこう言ったのだ。
シンシアに加担する明確な理由があるわけじゃない。手を切るならいつでも出来る、と。
そうなれば、レスターははるばる彼らを連れて来たラーシャや、ホストであるシンシア総統シェイリーン=ラタトスの面子を潰すことになりかねない。
「こちらも、異国で唯一の後ろ盾をなくすような馬鹿なことをやるつもりはないが……。
相棒はこの通り、火が着きやすいのでな。勘弁してやってくれ」
レンの言葉に、カノンが頭を摩りながら唇を尖らせる。それじゃあ、自分が子供みたいじゃないか。文句はあったが、ここでつまらない問答を延々とやっていても仕方がない。
とりあえず、場が収まったことを確かめて、ラーシャはこっそりと安堵の溜め息を吐く。
「カノン殿、レン殿。彼らは我がシンシア軍の幹部、ティルス=コンチェルト少佐、並びにレスター=ライアント大尉だ。
二人共、私の部下の中でも特に優秀な人材だ。これからの前線の指揮も取っている」
「ティルス=コンチェルトと申します。
片割れが無礼を致しました。代わりにお詫び致します。どうか禍根を残されませんよう、お願い致します」
「……」
ティルスは深々と頭を下げる。憮然としていたレスターも、さすがに大人気ないことに気が付いたか、浅くではあるが彼に倣って頭を低くした。
それを見て、軽くカノンも返す。レンも、その後ろにいたアルティオやシリアも倣う。
だが、ルナだけはそれに従わずに、腕を組み、眉間に皺を寄せて前に出る。
猫目の大きな瞳を周囲に向けて、シンシアの重臣たちを見回すと、ふとティルスに目を留めた。
「……あっちの茂みの中にいるのは、あんたの部下? あれも礼儀の一端?」
「はッ!?」
「……」
ストレートな彼女の物言いに、カノンもレンも眉を潜めて面を上げる。その手は自然と剣の柄に近い場所にあった。
素っ頓狂な声を上げたのはアルティオだ。シリアは構えようとして、しかし、船酔いの余韻が残っているらしく、渋い表情を作るのに留まった。
ラーシャは表情に緊張を走らせる。デルタとレスターは、罰が悪そうな顔をティルスに向けた。
注目されたティルスは、しかし、落ち着き払いながらはぁ、と息を漏らす。そして、ぱちん、と彼が指を鳴らすと、その僅かな気配は一瞬の内に掻き消えた。
「……失礼しました。恐れながら、貴方方にエイロネイアの手の者たちが接触しているとのお話でしたので……」
「で、その過程で。既にエイロネイアの間者として勧誘されている可能性を考えていた、と」
「左様です。ご無礼の程、お許しください」
ぴん、と線の張り詰めた緊張が走る。油断のならない、綺麗過ぎるティルス=コンチェルトの言葉。
ルナはふ、と肩を落してカノンを見た。判断は任せる、ということだろう。
カノンはしばし、顎に手を当てて、悩む。周囲の気配を探り、それ以上の気配が存在しないことを知ると、一度、空を仰いでから、ラーシャとティルスを振り返る。
「……説明はお仲間と合流してから、って言われてたけど。
さっきの港でのことも、今の状況も、大陸であたしたちにちょっかいを出してきた奴らの詳しいことも、全部ひっくるめて。
説明してもらえる?」
「……そのすべてをここで、というのは難しい要求です」
カノンの問いに、ティルスは一言で答えた。そして、唐突に踵を返す。
「この先の、シンシアの関所に我らの主がいらっしゃいます」
「何……?」
声を漏らしたのはラーシャだった。付き従うデルタもまた、眉を潜めてティルスの姿を目で追った。
彼らの主―――おそらくは、シンシア総統であるというシェイリーン=ラタトス。ラーシャの濁った声も当たり前だ。何故、そんな北方シンシアという国の要となる人物が、こんな王都から離れた場所にいるというのか。
ラーシャたちの反応から、彼女たちにも想定外の事実だったことが伺える。
「詳しくは、そこでお話します。中将が大陸に遠征されている間に、何が起こったかも、今何が起こっているのかも、すべて」
「……」
そう言って、それ以上の問答を許さないかのようにティルスは静かに歩き出す。レスターが肩を竦めて、ラーシャに謝るような動作をしてから、その後を追った。
ラーシャはその二人の背に、少しだけ瞑目し、顔をしかめる。そうして、カノンたちを振り返った。
「……」
カノンは、彼女が何かを言う前に頷く。
追おう、という意思表示だった。罠にしろ、何にしろ、カノンたちには海に戻るか陸に上がるかの選択肢しかないのだ。
頷き返して、ラーシャは波止場を歩き出す。デルタが続いて、カノンたちもその後ろに付いた。
波止場から陸地に上がる寸前、カノンは一瞬だけ振り返る。
霧が深くて、海の向こうはもう見えない。いや、晴れていたとしても、そこに西方大陸が、たとえ米粒ほどの大きさとしても見ることが出来るのかどうかは解らない。
随分と、遠い。
――― ……。
ふと、海の上で浮かんだ不安が、また胸の中に舞い戻る。果たして、自分は、自分たちは、またあの故郷の大陸に戻ることが出来るのだろうか。
誰一人、欠けることなく。
そこまで考えて、首を振る。考えても甲斐のないこと。剣を、意志を、皆との思い出を、持っている。だから、全力で守る。
カノンに出来るのは、それだけだ。
不安を振り切るように、霧の海から目を逸らし、波止場を降りて。
カノンは、その奈落の大地の土を踏んだ。
←1へ
泣いている声が聞こえる。
まだ小さな、小さな子供の声。
子供が泣く理由など些細なこと。お気に入りの玩具がたまたま見当たらないだけでも、母親が少し席を立ってしまっただけでも、寂しさと不安に涙を流す。
不安なのだ。
お気に入りの玩具も、母親も、優しくしてくれる手も。
不意に、どこかにいなくなってしまうのではないかと。
いきなり、自分ひとりだけが取り残されてしまうのではないかと。
不安で、不安で、仕方なくて、子供は泣く。
泣けば泣くほどに、その妄想は現実味を帯びて。
そうして、泣きじゃくる小さな頭に、そっと添えられる手に気づくまで、泣き止まない。
ああ、そうだ。あのときも。
泣いていた私は、すっと添えられた手で泣き止んだ。
「―――ふぇ?」
「どうしたの?」
「ぅ、ぅえ、ぇ…………」
今、思えば情け無いものだ。気紛れに見えた虹に、自宅の石畳を駆け出そうとして、躓いた。それだけのこと。
けれど、擦り剥いた足の痛みに堪えきれなくて、泣いていた。
頭を撫でてくれた姉は、すぐにそれに気がついて、仕方なさそうな溜め息を一つ吐いたのだ。
「しょうがないなぁ、そんなことで泣いちゃダメじゃない」
「ぅぇ、ぇ……でもぉ…」
「こんなので泣かないの。お姉ちゃんも貴女も、すごく強いお父さんの娘なんだよ?
だからこんなことでないちゃダメ。強い子になれないよ?」
「うっ、ぐすっ…………うん」
泣きながら頷いた。
その返事に、姉はにこりと笑って、擦り剥いた足に二枚の絆創膏を張ってくれた。
それはほんの些細なこと。
些細なことで泣いてしまう、弱虫だった私が泣いてるときは、必ず姉が来てくれて、慰めて、宥めてくれた。そんな姉に甘えて、甘えて、私はいつもようやく泣き止むのだ。
そんな些細な愛情。
当然のように与えられていた無償の愛情。
けれど、それは―――
酷く懐かしい夢を見た。………気がする。
瞼の裏に暗闇が戻ってきて、頭の中が冴えていく目覚めの感覚を覚えたときには、もう既に先ほどまで頭に描いていたはずの夢の内容は消え失せてしまっていた。目を閉じたまま、逡巡して思い出そうとはするのだが、どうにも上手くいかない。
仕方なく、早々に諦めて、ラーシャ=フィロ=ソルトは瞳を開く。
かすかにゆらゆらと揺れる天井が目に入った。別に地震でも何でもない。ここは今、海の上なのだから、揺れるのは当たり前なのである。
しばらくの間、数回、目を瞬かせて目が、頭が完全に冴えるのを待つ。
天井の木目の途切れが明確になって、しばし。長い息を吐いた彼女は、ようやく簡素なベッドの上から身を起こす。同時にノックの音がした。控えめな音だった。
「ラーシャ様、そろそろノール港に着くそうです」
ドアは閉められたままで、向こうから生真面目な少年の声がした。
「ああ、分かった。ありがとう。客人たちにもご連絡申し上げてくれ」
「皆様、甲板にいらっしゃいます。支度をお急ぎください」
「……すまない。すぐに行く」
言葉を返すと、少年の気配はすぐにドアの前から消える。微妙な揺れの中を立ち上がって、椅子にかけて置いた上着を手に取った。
ゼルゼイル北方王国シンシアの鷲の紋章が縫い付けられた、白の礼服。
「……」
これを纏うようになってから、どれほど経っただろう。
年数にしたら、きっと鼻で笑われるほどかもしれない。だが、ラーシャにしてみれば、もう随分と長くこの枷を纏い続けていたような気がする。
けれど。
どんな重い枷でも構わない。
その枷が、あの灰色の国を豊かな優しい国へ導けるというのなら。
どれだけ手が汚れても。
この誓いは忘れない。
今一度、深呼吸をした。髪を掻き揚げて、礼服を着込んで。立てかけていた一振りの長剣を手に取って、顔を上げた。
Death Player Hunterカノン
―ゼルゼイルの旅路―
――――――――――――――――――――――――――――――――― The viewpoint of Kanon…
海上の風は肌寒い。
今日のように些か天気の悪い日なら、尚更。
どんより、というわけでもないが、灰色の雲の広がる空はお世辞にも天気が良いとは言い難い。
暗い空模様に、クオノリアからはあんなに青く見えていた清々しい海が、酷く黒く澱んだ波に見えた。やや高い波が、船体に当たる度に、ざぷん、さぷんと音を立てる。
……ということは、風も寒いと同時に少し強いわけで。小型の帆船というものは、その微風にめっぽう弱かったりするもので。
「……」
「……えーと、シリア……。とりあえず、大丈夫?」
日頃、何だかんだといちゃもんを付けられる相手でも、さすがに甲板で長時間、突き出した梁に掴まった状態で動かない人間がいると心配になってくるわけで。
「水とかいる? 持ってくるけど?」
「………~~~っ」
「……えーと、何?」
明らかに血の気の引いた、らしくない真っ青な顔で、ぼそぼそと喋るのだが、言葉にも声にもなっていないので何と言っているのかまったく分からない。
……何故か睨まれているのは分かるのだけれど。
「――ッ! ~~~ッ!!」
「え、えーと……」
口元をハンカチで押さえながら呻かれても分からないものは分からない。甲板でマストに寄りかかりながら寛いでいたレンが、見かねて傍らにいた大男の肩を叩く。
「通訳しろ」
「『随分と余裕じゃないの、敵に塩を送るつもりね! けれどこれしきのことで勝ったと思うんじゃないわ!』……とか?」
すらすらと言ったアルティオの台詞に、蹲ったままのシリアは賢明に頷いた。が、その振動でまた気分が悪くなったらしく、ますます身体を折って、
「だーッ! 待て、お前! こんなところで吐くなッ! 吐くなら海にやれ、海にッ!」
慌てたアルティオが、蹲る彼女を立ち上がらせて甲板に引き摺っていく。
何となく可哀相なので、カノンも申し訳程度にその背中を摩ってやる。
「しかし、アルティオ。あんた、良く分かるわね……」
「いや、まあ、付き合い長いからなぁ……」
「頭が足りない者同士でフィーリングが合うだけの話じゃないか?」
「うっわ、酷」
―――少しは心配してやれよ、嘘でも形だけでも良いから。
相手が船酔いでも、彼は容赦がなかった。まあ、この状況は、普段シリアに最も迷惑を被っている彼にとっては束の間の安息なのかもしれない。
「で、シリア。大丈夫?」
「……ッ、はーッ、はー……。
ふっ、カノン。これで勝ったと思わないことね……弱点の一つや二つ、曝したところでこの私の可憐さに傷はつかな……ッ
ぅ、うぇぇぇぇぇ……ッ」
「……気持ち悪くなるくらいなら無理して口上挙げんでも」
呆れて溜め息を一つ。
確かに、船は自分たちしか客がいないような小型の船。加えて天候も良くないとくれば、乗り物に弱い人間にとっては地獄なのだろう。
それほど船に乗った経験が豊富なわけではないが、確かに揺れは激しい方かもしれない。
かくいうカノンも、実は気分が良いわけではなかった。吐くほどではないけれど。
「あたし、水貰ってくるわ……」
「ああ、悪いな。頼む」
「~~~ッ! ―――ッ!」
「あー、いいから。塩送るだの何だの、別に考えて無いから。いいから黙って吐くだけ吐いときなさいよ……」
小さく首を振りながら、船縁を離れようとするカノンになおも何か言い募ろうとするシリア。
とりあえず、根性だけは認めておく。
力なく突っ込んで、踵を返し、船内へ戻ろうとして―――
「あ……」
別の方向にある甲板の船縁に、もたれ掛かっていた人物と目があった。こちらの視線に気が付くと、彼女ははっとして目を逸らす。
そして元のように、睨むような視線を暗い海へと送る。
「……ルナ」
「……」
へなへなとへたり込むシリアを、アルティオがきちんと介抱してくれているのを確認すると、カノンは少しだけ迷いながら彼女の隣へ肘をついた。
視線の先では、船体に当たる波がちゃぷんちゃぷん、と小さな音を立てているだけだ。
きっと、何も見ていないんだろう。
冷たい風に、髪に括られた羽飾りの白い羽が、寂しく靡いた。
「……大丈夫?」
「ん……まぁね」
ふと、聞いた声に彼女はひどく曖昧に頷いて、小さく笑った。大陸を出たときよりは、些か回復しているようだが、それでも声に覇気はなかった。
その横顔を覗き込んで、まだ迷いながら、けれど口を開いた。
「……あ、あのさ、ルナ」
「ん?」
「えと………あの、その……さ。イリーナ、さんのことだけど………」
「……」
その名前に、少しだけ彼女は反応を示す。けれど、結局はどこか生気の欠けた目で、波を追うのを止めようとはしなかった。
おそるおそる、カノンは小さな声で続きを口にする。
「えっと、あの……。
あ、あんたたちの間に、何があったのか、ってのは……大体、あたしでも理解してたつもりだけど。
見当違いのこと言ってたら、ごめん。
でも、あの、さ……たぶん、イリーナさん……。あんたと……あの男が、その、そういう仲だって、最初から気づいてたと思うんだよね……」
「……」
「あ、べ、別に、当人に聞いたわけじゃないしッ。これは、あたしのただの推測なんだけど……。
あんたやシリアは、あたしを鈍感とか何とか言うけど……。
その鈍感なあたしだって、薄っすらとは感付いてた、っていうか、そうじゃないかなー、くらいのことは思ってたから……。
だから、あたし以上にあんたやあの男のことを良く見て、知ってたイリーナさんが、きっとまったく知らないなんてことはなかったんじゃないかな、って……」
「……」
「………だから、たぶん……。ゼルゼイルとか、あのエイロネイアの皇太子だかいう奴とか。
そういうのが絡んだりしなければ、イリーナさんだって、納得してもらうのに時間はかかったかもしれないけど……あんたを、あんな風に憎んだりしなかったと思う。
最期は……きっと、後悔してたんだと思う。
あの男が、何で、何を思って、あんなことしたのかは分かんないけど……けど、ええと、何ていうか言いたいのは………」
きゅ、と眉根を寄せる幼馴染に、彼女はふ、と苦笑した。少しだけ、首を振る。身を起こして、仕方のない年下の妹を宥めるように、風に揺れる金の髪を撫でた。
癖のない髪は、さらりと掌を流れて棚引いた。
「……?」
「ありがとね。けど平気。敵を間違ったりはしないわよ。
あたしもイリーナも、もうちょっと何とかなったはず。何ともならなかったのは……あたしのせいなのか、あの皇太子のせいなのか、それとも、全部カシスが最初から仕組んでたのか……分からないし。
考えてもしょうがないことを、延々と考えるのもなし。
当人に会って、ちゃんと聞く。がたがた悩むのは、そこからよ」
「……」
がしがしと頭を撫でる手に、カノンはぎこちなく、しかし精一杯微笑んだ。それに応えるように、彼女も凍った表情で、けれど頑張って笑う。
暗い海が、またざぷん、と音を立てた。
かつん、かつんと船内への階段を上る音がして、カノンとルナはそちらを振り向いた。
生真面目に口を真一文字に結んだ、緑がかった銀の髪の少年―――デルタ=カーマインが、甲板の床板を跨いだ。そうして無表情に辺りを見渡す。
「デルタ……」
「……皆さん、お揃いですか?」
「うん、まあ。そっちの上官様は?」
「すぐに甲板に来るそうです。それより、そろそろ港が見えてくる頃だそうです」
言い放ってデルタは、甲板を素通りして船先へ向かう。紫の法衣を正すと、すっ、と片手で船先の丸太が差している暗い海の先を示した。
そこに、はっ、と気が付く。
薄い霧の向こうに、黒い影が見える。
山の裾野が広がるようにして、大きな投影が、霧の中に鎮座している。浮かんで、いる。
地図上では何度か目にしていた。だが、所詮は丸い島の図が描かれているだけで、大した説明もなく、存在だけが記されていた島。
大陸人にとっては、あるようで、ないような。そんな存在だった島の国。
その無形の島が、目の前に広がっている。
「………あれが、」
「アルケミア海に浮かぶ南方大陸サウス・イルネシア、統一ゼルゼイル皇国。
……正確には、統一皇国と称していたのは、五十年前までですが」
些か、緊張を張った硬い声で、デルタが宣言する。カノンは彼と同じ、船先へ移動し、霧の中の大陸を見据えた。
地図で見るよりも、それは広大で、壁のようにそびえていて。
そして何故だか。
ここは、西方大陸よりも南に位置するはずなのに。
肌には鳥肌が立っていて。
「あれが、ゼルゼイルか……」
アルティオの吐き出した、感嘆とも、茫然ともつかない声に、カノンはいつの間にか口の中に溜まっていた固唾を飲み込んだ。
そして、全員を振り返る。
黒い島影から目を離した彼女に、小さく彼らは首を傾げた。その彼らの顔を、カノンは一人一人眺めていく。シリア、アルティオ、ルナ、―――そしてレン。
最後に相棒の姿を目に留めると、居住まいを正して、口を開く。
「……あたしは、戦争ってものを知らないわ」
「………」
「けれど、どんな規模にしろ、ろくでもないものだ、ってことは知ってる。かつての西方で行われた戦争が、今の時代に膨大な負債しか残さなかったようにね。
戦いも争いも知ってる。今まで、何人も………人を殺めたこともある。
……罪のない人間だっていた」
「……」
誰も茶々など入れなかった。静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「だから―――そんなあたしが、言えるようなことじゃないのは、十分解ってる。
それぞれ、ここにいる理由は、いろいろあるんだと思う」
ふと、ルナが視線を落す。彼女だけではない。アルティオも、シリアも、忌々しげな視線を彼方に投げた。
「でもね」
カノンの声の、トーンが上がる。
その高らかな声が、全員の視線を上げさせた。
「あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの」
「……カノン」
「あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで」
「……」
全員が沈黙する。悲痛にすら等しい声で、彼女は紡ぐ。まっすぐに。
「―――生き残って、必ず」
それが、ただ一つの彼女の願いだった。
シンシアの勝利など願わない。エイロネイアの敗北など望まない。戦争の勝敗など、どうでもいいことだ。
けれど、ただ一つ、それだけは。
誰もが解っていた。体感したことなどないが、理屈では解っている。戦争は甘いものではない。
生きるときは生きて、死ぬときは死ぬ。それは、戦争でなくともそうだ。彼らが従事している他愛もない戦いさえ、その危険性を孕んでいる。
だから、彼女が言ったことは至極、今さらなことなのだけれど。
茶化す者は、誰一人いなかった。
「当たり前、だろ。そんなもん」
沈黙を破ったのは、アルティオの場違いな明るい声だった。真っ青な顔をしながらも、彼に支えられながら、シリアは無理に胸を突き出そうとして、込み上げる吐き気に身を折った。
「……お前さ。根性あるのも、自分のスタイルを貫こうとするのも嫌いじゃないけど、場合を考えようや」
「………ふっ、随分と弱気じゃない、カノン=ティルザード。その程度のことも解ってないと思われるなんて、この私も見くびられたもの……
うぅぅ……ッ」
「いや、だからさぁ」
アルティオでさえ呆れた声を出した。小さく溜め息を吐いてから、その脇を素通りして、ルナが曖昧な笑顔で進み出る。
「カノン。あんたが、そう心配するのも解らないではないけれど……。
別にあたしたちは、ゼルゼイルやシンシアやらに命を売りに来たんじゃないわ。そんなことを解っていない奴はいないわよ。心配しないで。ねぇ、レン?」
「……」
彼女がレンに話を振ったのは、おそらくわざとだった。彼はもたれていたマストから背中を離し、いつもの無表情を崩さないまま、相棒へと歩み寄る。
「レン……」
「……」
なおも不安を表情に浮かべたカノンの頭に、レンは無言で手を添えた。ん、とカノンは小さく声を漏らす。
「按ずるな。お前が心配することじゃあない」
「けど……」
「何度も生死を懸けた。ここにいる全員だ。けれど、死なずにここにいる。
―――それが、何よりの証拠だとは思わないか?」
「…………うん」
逡巡を繰り返し、その果てに顔を上げて、カノンは頷いた。その彼女の頭を、レンはまた数回撫でる。
何度も失いかけた温もりだった。けれど、まだここにある。
力も、戦うための武器も、仲間もある。
だから、きっと全力で守ることが出来る。
カノンはもう一度、全員の顔を見渡した。苦笑を浮かべながら、自信に満ちた笑みを浮かべながら、それぞれに、彼らは頷いた。
しゃきんッ
小さな金属音。カノンが、腰に下げていたクレイ・ソードを抜く音だった。その切っ先を、黒々と佇む島影に向ける。
霧を切り裂いて、その刃は、銀に気高く光を放った。
「……行ってやろうじゃないの。覚悟しなさいよ……ッ」
得体の知れない闇の中、くすくすと上がる笑い声。剣はすべて、その闇を払うために。
←STORY3へ
まだ小さな、小さな子供の声。
子供が泣く理由など些細なこと。お気に入りの玩具がたまたま見当たらないだけでも、母親が少し席を立ってしまっただけでも、寂しさと不安に涙を流す。
不安なのだ。
お気に入りの玩具も、母親も、優しくしてくれる手も。
不意に、どこかにいなくなってしまうのではないかと。
いきなり、自分ひとりだけが取り残されてしまうのではないかと。
不安で、不安で、仕方なくて、子供は泣く。
泣けば泣くほどに、その妄想は現実味を帯びて。
そうして、泣きじゃくる小さな頭に、そっと添えられる手に気づくまで、泣き止まない。
ああ、そうだ。あのときも。
泣いていた私は、すっと添えられた手で泣き止んだ。
「―――ふぇ?」
「どうしたの?」
「ぅ、ぅえ、ぇ…………」
今、思えば情け無いものだ。気紛れに見えた虹に、自宅の石畳を駆け出そうとして、躓いた。それだけのこと。
けれど、擦り剥いた足の痛みに堪えきれなくて、泣いていた。
頭を撫でてくれた姉は、すぐにそれに気がついて、仕方なさそうな溜め息を一つ吐いたのだ。
「しょうがないなぁ、そんなことで泣いちゃダメじゃない」
「ぅぇ、ぇ……でもぉ…」
「こんなので泣かないの。お姉ちゃんも貴女も、すごく強いお父さんの娘なんだよ?
だからこんなことでないちゃダメ。強い子になれないよ?」
「うっ、ぐすっ…………うん」
泣きながら頷いた。
その返事に、姉はにこりと笑って、擦り剥いた足に二枚の絆創膏を張ってくれた。
それはほんの些細なこと。
些細なことで泣いてしまう、弱虫だった私が泣いてるときは、必ず姉が来てくれて、慰めて、宥めてくれた。そんな姉に甘えて、甘えて、私はいつもようやく泣き止むのだ。
そんな些細な愛情。
当然のように与えられていた無償の愛情。
けれど、それは―――
酷く懐かしい夢を見た。………気がする。
瞼の裏に暗闇が戻ってきて、頭の中が冴えていく目覚めの感覚を覚えたときには、もう既に先ほどまで頭に描いていたはずの夢の内容は消え失せてしまっていた。目を閉じたまま、逡巡して思い出そうとはするのだが、どうにも上手くいかない。
仕方なく、早々に諦めて、ラーシャ=フィロ=ソルトは瞳を開く。
かすかにゆらゆらと揺れる天井が目に入った。別に地震でも何でもない。ここは今、海の上なのだから、揺れるのは当たり前なのである。
しばらくの間、数回、目を瞬かせて目が、頭が完全に冴えるのを待つ。
天井の木目の途切れが明確になって、しばし。長い息を吐いた彼女は、ようやく簡素なベッドの上から身を起こす。同時にノックの音がした。控えめな音だった。
「ラーシャ様、そろそろノール港に着くそうです」
ドアは閉められたままで、向こうから生真面目な少年の声がした。
「ああ、分かった。ありがとう。客人たちにもご連絡申し上げてくれ」
「皆様、甲板にいらっしゃいます。支度をお急ぎください」
「……すまない。すぐに行く」
言葉を返すと、少年の気配はすぐにドアの前から消える。微妙な揺れの中を立ち上がって、椅子にかけて置いた上着を手に取った。
ゼルゼイル北方王国シンシアの鷲の紋章が縫い付けられた、白の礼服。
「……」
これを纏うようになってから、どれほど経っただろう。
年数にしたら、きっと鼻で笑われるほどかもしれない。だが、ラーシャにしてみれば、もう随分と長くこの枷を纏い続けていたような気がする。
けれど。
どんな重い枷でも構わない。
その枷が、あの灰色の国を豊かな優しい国へ導けるというのなら。
どれだけ手が汚れても。
この誓いは忘れない。
今一度、深呼吸をした。髪を掻き揚げて、礼服を着込んで。立てかけていた一振りの長剣を手に取って、顔を上げた。
Death Player Hunterカノン
―ゼルゼイルの旅路―
――――――――――――――――――――――――――――――――― The viewpoint of Kanon…
海上の風は肌寒い。
今日のように些か天気の悪い日なら、尚更。
どんより、というわけでもないが、灰色の雲の広がる空はお世辞にも天気が良いとは言い難い。
暗い空模様に、クオノリアからはあんなに青く見えていた清々しい海が、酷く黒く澱んだ波に見えた。やや高い波が、船体に当たる度に、ざぷん、さぷんと音を立てる。
……ということは、風も寒いと同時に少し強いわけで。小型の帆船というものは、その微風にめっぽう弱かったりするもので。
「……」
「……えーと、シリア……。とりあえず、大丈夫?」
日頃、何だかんだといちゃもんを付けられる相手でも、さすがに甲板で長時間、突き出した梁に掴まった状態で動かない人間がいると心配になってくるわけで。
「水とかいる? 持ってくるけど?」
「………~~~っ」
「……えーと、何?」
明らかに血の気の引いた、らしくない真っ青な顔で、ぼそぼそと喋るのだが、言葉にも声にもなっていないので何と言っているのかまったく分からない。
……何故か睨まれているのは分かるのだけれど。
「――ッ! ~~~ッ!!」
「え、えーと……」
口元をハンカチで押さえながら呻かれても分からないものは分からない。甲板でマストに寄りかかりながら寛いでいたレンが、見かねて傍らにいた大男の肩を叩く。
「通訳しろ」
「『随分と余裕じゃないの、敵に塩を送るつもりね! けれどこれしきのことで勝ったと思うんじゃないわ!』……とか?」
すらすらと言ったアルティオの台詞に、蹲ったままのシリアは賢明に頷いた。が、その振動でまた気分が悪くなったらしく、ますます身体を折って、
「だーッ! 待て、お前! こんなところで吐くなッ! 吐くなら海にやれ、海にッ!」
慌てたアルティオが、蹲る彼女を立ち上がらせて甲板に引き摺っていく。
何となく可哀相なので、カノンも申し訳程度にその背中を摩ってやる。
「しかし、アルティオ。あんた、良く分かるわね……」
「いや、まあ、付き合い長いからなぁ……」
「頭が足りない者同士でフィーリングが合うだけの話じゃないか?」
「うっわ、酷」
―――少しは心配してやれよ、嘘でも形だけでも良いから。
相手が船酔いでも、彼は容赦がなかった。まあ、この状況は、普段シリアに最も迷惑を被っている彼にとっては束の間の安息なのかもしれない。
「で、シリア。大丈夫?」
「……ッ、はーッ、はー……。
ふっ、カノン。これで勝ったと思わないことね……弱点の一つや二つ、曝したところでこの私の可憐さに傷はつかな……ッ
ぅ、うぇぇぇぇぇ……ッ」
「……気持ち悪くなるくらいなら無理して口上挙げんでも」
呆れて溜め息を一つ。
確かに、船は自分たちしか客がいないような小型の船。加えて天候も良くないとくれば、乗り物に弱い人間にとっては地獄なのだろう。
それほど船に乗った経験が豊富なわけではないが、確かに揺れは激しい方かもしれない。
かくいうカノンも、実は気分が良いわけではなかった。吐くほどではないけれど。
「あたし、水貰ってくるわ……」
「ああ、悪いな。頼む」
「~~~ッ! ―――ッ!」
「あー、いいから。塩送るだの何だの、別に考えて無いから。いいから黙って吐くだけ吐いときなさいよ……」
小さく首を振りながら、船縁を離れようとするカノンになおも何か言い募ろうとするシリア。
とりあえず、根性だけは認めておく。
力なく突っ込んで、踵を返し、船内へ戻ろうとして―――
「あ……」
別の方向にある甲板の船縁に、もたれ掛かっていた人物と目があった。こちらの視線に気が付くと、彼女ははっとして目を逸らす。
そして元のように、睨むような視線を暗い海へと送る。
「……ルナ」
「……」
へなへなとへたり込むシリアを、アルティオがきちんと介抱してくれているのを確認すると、カノンは少しだけ迷いながら彼女の隣へ肘をついた。
視線の先では、船体に当たる波がちゃぷんちゃぷん、と小さな音を立てているだけだ。
きっと、何も見ていないんだろう。
冷たい風に、髪に括られた羽飾りの白い羽が、寂しく靡いた。
「……大丈夫?」
「ん……まぁね」
ふと、聞いた声に彼女はひどく曖昧に頷いて、小さく笑った。大陸を出たときよりは、些か回復しているようだが、それでも声に覇気はなかった。
その横顔を覗き込んで、まだ迷いながら、けれど口を開いた。
「……あ、あのさ、ルナ」
「ん?」
「えと………あの、その……さ。イリーナ、さんのことだけど………」
「……」
その名前に、少しだけ彼女は反応を示す。けれど、結局はどこか生気の欠けた目で、波を追うのを止めようとはしなかった。
おそるおそる、カノンは小さな声で続きを口にする。
「えっと、あの……。
あ、あんたたちの間に、何があったのか、ってのは……大体、あたしでも理解してたつもりだけど。
見当違いのこと言ってたら、ごめん。
でも、あの、さ……たぶん、イリーナさん……。あんたと……あの男が、その、そういう仲だって、最初から気づいてたと思うんだよね……」
「……」
「あ、べ、別に、当人に聞いたわけじゃないしッ。これは、あたしのただの推測なんだけど……。
あんたやシリアは、あたしを鈍感とか何とか言うけど……。
その鈍感なあたしだって、薄っすらとは感付いてた、っていうか、そうじゃないかなー、くらいのことは思ってたから……。
だから、あたし以上にあんたやあの男のことを良く見て、知ってたイリーナさんが、きっとまったく知らないなんてことはなかったんじゃないかな、って……」
「……」
「………だから、たぶん……。ゼルゼイルとか、あのエイロネイアの皇太子だかいう奴とか。
そういうのが絡んだりしなければ、イリーナさんだって、納得してもらうのに時間はかかったかもしれないけど……あんたを、あんな風に憎んだりしなかったと思う。
最期は……きっと、後悔してたんだと思う。
あの男が、何で、何を思って、あんなことしたのかは分かんないけど……けど、ええと、何ていうか言いたいのは………」
きゅ、と眉根を寄せる幼馴染に、彼女はふ、と苦笑した。少しだけ、首を振る。身を起こして、仕方のない年下の妹を宥めるように、風に揺れる金の髪を撫でた。
癖のない髪は、さらりと掌を流れて棚引いた。
「……?」
「ありがとね。けど平気。敵を間違ったりはしないわよ。
あたしもイリーナも、もうちょっと何とかなったはず。何ともならなかったのは……あたしのせいなのか、あの皇太子のせいなのか、それとも、全部カシスが最初から仕組んでたのか……分からないし。
考えてもしょうがないことを、延々と考えるのもなし。
当人に会って、ちゃんと聞く。がたがた悩むのは、そこからよ」
「……」
がしがしと頭を撫でる手に、カノンはぎこちなく、しかし精一杯微笑んだ。それに応えるように、彼女も凍った表情で、けれど頑張って笑う。
暗い海が、またざぷん、と音を立てた。
かつん、かつんと船内への階段を上る音がして、カノンとルナはそちらを振り向いた。
生真面目に口を真一文字に結んだ、緑がかった銀の髪の少年―――デルタ=カーマインが、甲板の床板を跨いだ。そうして無表情に辺りを見渡す。
「デルタ……」
「……皆さん、お揃いですか?」
「うん、まあ。そっちの上官様は?」
「すぐに甲板に来るそうです。それより、そろそろ港が見えてくる頃だそうです」
言い放ってデルタは、甲板を素通りして船先へ向かう。紫の法衣を正すと、すっ、と片手で船先の丸太が差している暗い海の先を示した。
そこに、はっ、と気が付く。
薄い霧の向こうに、黒い影が見える。
山の裾野が広がるようにして、大きな投影が、霧の中に鎮座している。浮かんで、いる。
地図上では何度か目にしていた。だが、所詮は丸い島の図が描かれているだけで、大した説明もなく、存在だけが記されていた島。
大陸人にとっては、あるようで、ないような。そんな存在だった島の国。
その無形の島が、目の前に広がっている。
「………あれが、」
「アルケミア海に浮かぶ南方大陸サウス・イルネシア、統一ゼルゼイル皇国。
……正確には、統一皇国と称していたのは、五十年前までですが」
些か、緊張を張った硬い声で、デルタが宣言する。カノンは彼と同じ、船先へ移動し、霧の中の大陸を見据えた。
地図で見るよりも、それは広大で、壁のようにそびえていて。
そして何故だか。
ここは、西方大陸よりも南に位置するはずなのに。
肌には鳥肌が立っていて。
「あれが、ゼルゼイルか……」
アルティオの吐き出した、感嘆とも、茫然ともつかない声に、カノンはいつの間にか口の中に溜まっていた固唾を飲み込んだ。
そして、全員を振り返る。
黒い島影から目を離した彼女に、小さく彼らは首を傾げた。その彼らの顔を、カノンは一人一人眺めていく。シリア、アルティオ、ルナ、―――そしてレン。
最後に相棒の姿を目に留めると、居住まいを正して、口を開く。
「……あたしは、戦争ってものを知らないわ」
「………」
「けれど、どんな規模にしろ、ろくでもないものだ、ってことは知ってる。かつての西方で行われた戦争が、今の時代に膨大な負債しか残さなかったようにね。
戦いも争いも知ってる。今まで、何人も………人を殺めたこともある。
……罪のない人間だっていた」
「……」
誰も茶々など入れなかった。静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「だから―――そんなあたしが、言えるようなことじゃないのは、十分解ってる。
それぞれ、ここにいる理由は、いろいろあるんだと思う」
ふと、ルナが視線を落す。彼女だけではない。アルティオも、シリアも、忌々しげな視線を彼方に投げた。
「でもね」
カノンの声の、トーンが上がる。
その高らかな声が、全員の視線を上げさせた。
「あたしにとっては―――
どんな理由があろうと、あんたたちは、あたしの幼馴染で、大事な仲間なの」
「……カノン」
「あたしは戦えとも、勝てとも言わない。でも、これだけは守って、忘れないで」
「……」
全員が沈黙する。悲痛にすら等しい声で、彼女は紡ぐ。まっすぐに。
「―――生き残って、必ず」
それが、ただ一つの彼女の願いだった。
シンシアの勝利など願わない。エイロネイアの敗北など望まない。戦争の勝敗など、どうでもいいことだ。
けれど、ただ一つ、それだけは。
誰もが解っていた。体感したことなどないが、理屈では解っている。戦争は甘いものではない。
生きるときは生きて、死ぬときは死ぬ。それは、戦争でなくともそうだ。彼らが従事している他愛もない戦いさえ、その危険性を孕んでいる。
だから、彼女が言ったことは至極、今さらなことなのだけれど。
茶化す者は、誰一人いなかった。
「当たり前、だろ。そんなもん」
沈黙を破ったのは、アルティオの場違いな明るい声だった。真っ青な顔をしながらも、彼に支えられながら、シリアは無理に胸を突き出そうとして、込み上げる吐き気に身を折った。
「……お前さ。根性あるのも、自分のスタイルを貫こうとするのも嫌いじゃないけど、場合を考えようや」
「………ふっ、随分と弱気じゃない、カノン=ティルザード。その程度のことも解ってないと思われるなんて、この私も見くびられたもの……
うぅぅ……ッ」
「いや、だからさぁ」
アルティオでさえ呆れた声を出した。小さく溜め息を吐いてから、その脇を素通りして、ルナが曖昧な笑顔で進み出る。
「カノン。あんたが、そう心配するのも解らないではないけれど……。
別にあたしたちは、ゼルゼイルやシンシアやらに命を売りに来たんじゃないわ。そんなことを解っていない奴はいないわよ。心配しないで。ねぇ、レン?」
「……」
彼女がレンに話を振ったのは、おそらくわざとだった。彼はもたれていたマストから背中を離し、いつもの無表情を崩さないまま、相棒へと歩み寄る。
「レン……」
「……」
なおも不安を表情に浮かべたカノンの頭に、レンは無言で手を添えた。ん、とカノンは小さく声を漏らす。
「按ずるな。お前が心配することじゃあない」
「けど……」
「何度も生死を懸けた。ここにいる全員だ。けれど、死なずにここにいる。
―――それが、何よりの証拠だとは思わないか?」
「…………うん」
逡巡を繰り返し、その果てに顔を上げて、カノンは頷いた。その彼女の頭を、レンはまた数回撫でる。
何度も失いかけた温もりだった。けれど、まだここにある。
力も、戦うための武器も、仲間もある。
だから、きっと全力で守ることが出来る。
カノンはもう一度、全員の顔を見渡した。苦笑を浮かべながら、自信に満ちた笑みを浮かべながら、それぞれに、彼らは頷いた。
しゃきんッ
小さな金属音。カノンが、腰に下げていたクレイ・ソードを抜く音だった。その切っ先を、黒々と佇む島影に向ける。
霧を切り裂いて、その刃は、銀に気高く光を放った。
「……行ってやろうじゃないの。覚悟しなさいよ……ッ」
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HN:
梧香月
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性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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(03/11)
★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
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