ベッドの上に身を投げ出して、『彼女』は深く息を吐いた。頭の中が困惑で溢れている。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
←13へ
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「ケナも、ケナもね……。フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
――……私にどうしろ、っていうのよ……。
ハンナやケナが言いたかったことがわからないほど、『彼女』は愚鈍ではなかった。でも、だからこそどうして良いのかわからなかった。
ここの居心地が悪いなんて言わない。ケナのことも、アレイアのことも好きだ。他意はなく。身の上のわからない『彼女』をここまで受け入れてくれるところなんてそうそうないだろう。だから勿論、感謝しているし、その好意に応えたいと思う。
けれど、記憶なんて不意に失くしたものは、いつ、何のはずみで戻るかわからない。
『彼女』は記憶を失くす前の自分を知らない。もし、今ここに腰を落ち着けることにしても、いつか記憶を取り戻したとき、自分がどうするのか皆目わからない。
……容易く、首を縦に振るのは、酷く残酷なことに思えた。
――それに……。
ベッドの上に起き上がって思案する。
菓子屋で感じた妙な視線。その直後に起きたあの事故。時折、アレイアの向こうに感じる別の誰かの影。
誰かに相談すれば、気のせいだと言うだろうか。けれど、頭の中で警鐘は鳴り響く。駄目だ、甘んじてはいけない、と。無視してはいけない、と。
知りたかった。纏わり付く影の正体を。己が見ようとしているものを。けれど、それはアレイアやケナへの裏切りなのだろうか。強制されたわけでもないのに。彼女の心に鎖をかけていた。
私はどうしたいのだろう。私はどの道を選びたいのだろう。何が正解なんだろうか。
「……私は」
こんこん。
ノックの音がした。こんな時間にノックする人間なんて一人しかいないのだが、一応、受け応えする。
「フィーナ、起きてるか?」
「うん、起きてるけど……」
「眠れないなら、茶でもどうだ?」
一瞬だけ、迷った。
「……話したいことが、あるんだ」
ドアの向こうのアレイアの声は存外に真剣で。彼女は少しだけ首を傾げた後に、ベッドを立ち上がった。
……居心地は悪くない、と言ったばかりだが。
――……この空気はどー考えても悪いでしょ……。
彼女はマグカップを口元に掲げたまま、誤魔化すようにちびりちびりと飲んでいた。淹れてもらった紅茶の香りは悪くない。悪くないが、いかんせん空気が硬すぎてろくに舌が機能しなかった。
アレイアはいつものように隣に腰掛けているが、天井を仰いだまま、自分のカップには手もつけずにぼんやりとしている。ちらり、と盗み見ると、その目は特に怒っているわけでも、苛立っているわけでもなく、ただ空虚だった。
いつもなら気遣っていろいろと水を向けてくれる彼だが、何故かマグカップを差し出したきり何も喋らない。
――き、気まずい……
「……フィーナ」
沈黙に耐え切れずに、何か言おうと口を開いたとき。いつもの名を呼ばれた。
「今朝は……悪かったな。神経質になってたらしい。ごめんな?」
「あ、いや、別に……。私も余計なこと聞いたわけだし……」
アレイアはほっとしたように息を吐いた。そして彼女の頭に手を伸ばそうとして、やっぱりやめる。
「……なあ、フィーナ」
「?」
「何か、思い出したのか?」
「……」
見え隠れするものはある。でも、思い出したものはない。『彼女』が首を振ると、アレイアは居た堪れないような表情を作る。だがその中に、わずかな安堵の色があることに、彼女は今さらのように気がついた。
「……なあ、フィーナ。頼みがあるんだ」
「……? 何……?」
アレイアの声色はいつもの通りに優しかった。けれども見え隠れする、決意のような、何か重たい空気が『彼女』の返事を遅らせた。
アレイアの鍛えられた胸板が深く上下した。何故か表情に緊張が混じる。二度、三度の深呼吸の後、
「……?」
彼の両手が、ふと彼女の肩を掴んだ。嫌悪感はなかったが、持ち上げた紫紺の瞳の、あまりの真剣さに身を硬くする。そしてまっすぐにこちらを見つめながら、彼はこう言った。
「ずっと、ここにいてくれないか?」
「――え?」
やっと出せた声は大分、硬いものだった。身体は硬直したように動かない。『彼女』が追いつかない頭で、必死に言葉を噛み砕いていると、アレイアはふと笑って立ち上がった。固まったまま彼の動作を眺めていると、アレイアは一度台所に引っ込んですぐに戻ってきた。
――あ。
手には一枚の写真。見覚えがあった。あの、棚の裏に隠してあった――、
アレイアは無言で写真を差し出してきた。何となく後ろめたさを感じながら、『彼女』も黙って受け取ってひっくり返す。
目にするのは二回目だった。赤ん坊を抱いて、幸せそうに微笑む夫婦の写真。赤ん坊を抱いているのは、『彼女』と同じ金の髪の女性で、本当に、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
「……あんまり驚かないな」
「あ……ごめん、私……」
「ハンナか……誰かに聞いたのか?」
「う……」
図星を突かれて口篭る。批難されると思ったのに、アレイアはまた薄く笑っただけだった。
「気にするな。あのおばさん、お節介だからな。きっとそれ以上に余計なこと、言っていっただろ?」
「えっと……。いや、別に……」
短い溜め息と「何て聞いたんだ?」と返ってくる。いろいろと聞かされた。しばらく、言葉を選ぶために間を置いて、おずおずと答える。
「……ケナちゃんがまだ赤ちゃんのときに……急にいなくなった、って……。それと、名前が、」
「"フィーナ"」
今度は"彼女"が呼ばれたのではなかった。『彼女』はそれ以上、何とも言えずに黙り込む。居心地の悪さをまたマグカップで誤魔化していると、自然に頭を撫でられた。また何かの違和感が掠めたが、嫌悪はなかった。
「……ごめんな」
「?」
「お前を……いや、あんたをあいつの代わりにする気なんてなかったんだ。でも、見たときにあいつが帰って来たんじゃないか、ってそう思った」
『彼女』は再び写真に目を落とす。彼の期待も理解出来なくはない。かつての妻とそっくりな人間が、目の前に横たわっていたら。
……誰だって面差しを重ねるに決まっている。けれど、写真の中の女性の瞳は綺麗な葡萄色。『彼女』の瞳は透き通る空の色。その決定的な違いが、彼の期待を砕いている。
「失礼な話だよな。勝手に他人に他人を重ねるなんて。俺はいい顔をして、あんたを自分の慰めに利用していただけだ。……すまなかった」
「……」
アレイアは深々と頭を下げる。『彼女』は困ったような表情の後に、彼の肩を軽く叩いた。
「いいよ。それで助かったのは私の方だし、慰め、って何かされたわけじゃないんだから。むしろアレイアには感謝してるくらい」
「……ありがとう」
一言、礼を吐いてからアレイアは面を上げた。深い息を吐いた表情には、しかし、まだ緊張の色が残っている。
「……フィーナは、」
どこか遠く視線を向けたまま、彼はさらに深い溜め息を吐く。掠れたような声で、胸の痛みを堪えるようにして、アレイアは再び口を開いた。
「ハンナは彼女が俺たちを置いていった、って思ってるみたいだが……」
「違う、のね?」
「違う」
アレイアの口が重い。聞かない方が良いようなら聞かなくても良かった。けれど、彼は迷いながらも話したがっているように見える。聞いてくれ、と甘えているような。
『彼女』がどうしようか頭を悩ませているうちに、アレイアは腹が決まったらしい。重苦しい溜め息がまた一つ、漏れた。
「……連れて行かれたんだ、フィーナは」
「連れて行かれた?」
「……元々、俺はエイロネイアの傭兵だったんだ」
ひくり、と『彼女』は肩を震わせた。朝、目にしたあの羊皮紙の新聞が蘇る。けれど何なんだろう。それ以上にその単語は聞き逃してはならないものに思えた。
「今朝、新聞を見ただろう? この村は奇跡的に戦火から外れている。けど、山の向こうじゃ戦争の真っ只中なんだ。
……フィーナに会う前は、俺は南側、エイロネイアで傭兵をやっていた。食うものには困らなかった。戦いさえあればな」
「……」
「そんな中でフィーナと会った。三流の小説みたいな話だが、彼女は軍部のお偉いさんの娘で、平たく言えば身分違いの恋ってやつだった。つまらない話、当然許されるわけもなくて、ヤケになった俺たちは駆け落ちなんて真似をやらかした。若い上に馬鹿だったんだ。笑えるよ、鼻で笑っていた三流の恋愛話をまさか自分がやるハメになるなんて思わなかった」
アレイアはその物語を鼻で笑う。だが、そこにあったのは物語への嘲りではなく、深い後悔と自嘲の念だ。
「最初はな、幸せだったさ。この辺鄙な村に辿り着いて、何とかやっていけると思ったんだ。
けど現実は甘くなかった。一年もしないうちに嗅ぎつけられた。……俺の知らない間にフィーナはいなくなってた。子供をよろしく、と書いたメモだけが残ってた」
言葉を重ねるごとに、アレイアの眉間の皺が深くなっていく。ふと視線を傾けると、膝に乗っていた彼の手には、白くなるほどの力が込められていた。
がくんとアレイアの額が落ちる。手のひらを当て、俯いたその下からは嗚咽すらなかった。けれど、そこに一人娘を一人手で育てた父親の逞しさはなく、ただ愛しい人を失った最大の傷心が溜め息になって漏れている。
「フィーナは俺たちのために自分の身を売ったんだ。それ以来、この村に兵士は来ない。
……あいつはそういう奴だった。お嬢のくせに気丈で勇敢で、物怖じしなくて。馬鹿みたいに明るかった。」俺にはそれが眩しかったんだ」
「……フィーナさんは、」
言いにくそうに名前を出した『彼女』に、アレイアは力なく首を振った。
「……それきりだ。風の便りさえ届かない。……エイロネイアは貧しい国でも、庶民に当たりの強い国でもなかったが、軍部は異常に厳しかった。機密なんかが漏れようものなら容赦がない。……まあ、戦争なんかやってるんだから、当たり前の話なんだけどな」
「……」
それは暗に彼女の身の無事の絶望を語る言葉だった。何度も問答を繰り返してきたのだろう、そう話すアレイアの横顔には疲労の色が濃く残っていた。
「フィーナ」
今度の呼びかけは『彼女』に対するものだった。それを悟って、『彼女』の腹部に力が篭る。
「……勝手な言い分だってわかってる。こんな事情、お前には何の関係もないもんな。
……確かに俺はお前にフィーナを重ねているだけかもしれない。でもケナがお前によく懐いているのは本当だし、俺もお前が来てから余計なことは考えずに済んでる。……随分、救われてる」
「……」
「お前に彼女のように振舞え、なんて言わないよ。後ろめたさなんて感じなくていい。無理を承知で言ってるのもわかってる。
でもフィーナ、頼む。ここにいてくれないか? 不幸せにはしないから……」
「……」
答えられるはずもなかった。即答もできなかった。YesもNoも。
彼らと暮らした時間は、けして長いとは言えない。情が湧くか湧かないか、そんなだけの間だ。
けれどもその短い間で、『彼女』は彼らがけして悪人でないことを知っている。むしろ、この空間が心地よいとさえ感じていた。
アレイアが口にしたその意味も、分かってはいるつもりだった。……かつて愛した女性とよく似た少女。心が動かなかったら人間じゃないだろう。気持ちは分かる。理解できる。
だが、だからどうするべきなんだろう。
嫌いじゃない。嫌いではないのだ。彼の言葉に嘘はない。大事にする、と言った人間を瑣末に扱うような男じゃない。それはわかっている。
即答が出来ないのは、自分だってわずかにでも彼に惹かれていたからに違いない。だけども彼のものと同様、それはきっと純粋な気持ちなんかじゃない。庇ってくれる手に、呆れながら世話を焼いてくれる言葉に、記憶の底に沈んでしまった誰かを、きっと、重ねている。
「フィーナ」
アレイアの手がもう一度、『彼女』の髪に触れる。びくり、と肩が震えた。そんな気はなかったかもしれない。けれど、答えを急かされているような気がしたのだ。
ゆっくり肩に触れようとしたアレイアの指が、ひくり、と震えて拳を作る。そのまま彼は手を引いた。
やっぱり彼は紛れもなく善人だった。それほどまでに『彼女』を繋ぎ止めたいなら、無理矢理にだって出来たはずなのだ。その考えが浮かばないほど、『彼女』も子供ではなかった。
「……ごめんな。今すぐなんて言わない。だから、」
「……私は、」
話を切ろうとするアレイアを遮って口にする。何を口にしたいのかよくわからない。背筋がぞわぞわとする。頭が得たいの知れないきんきんとした声を発し始めた。
警告が鳴っている。でも何の警告なのか、『彼女』にはわからない。
「わたし、は………っ、あたしは……っ!」
そのときだった。
ごぅんっ!!
「!?」
「! 何だっ!?」
轟音が耳を劈いた。びりびりと揺れた窓が、今にも割れそうに悲鳴を上げる。心なしか、木造の簡素な家が軋んだ気がする。
思わず二人ともソファに伏せるが、轟音にやられた耳が回復する頃には、アレイアは立ち上がって窓に駆け寄っていた。そして、その顔が驚愕に見開かれる。
「アレイア? どうし……っ!」
同じように窓に駆け寄って。『彼女』もまた絶句した。
真夜中だというのに、窓の外に見える村は光に溢れていた。ただし、焔、という赤い光の中で。
←13へ
ラーシャは馬上で眉を潜めていた。
丘の上から平原の中へ雪崩れ込み、燃え盛るエイロネイアの陣を目指す。蹄の重なる音が、耳に響く中、ラーシャは前方を睨みつけて、突如迷いに襲われた。
向こうの陣が、静か過ぎるのだ。
怒号も悲鳴も聞こえない。蹄の音も響いて来ない。火の回りはそんなに早かったか……。
ちらり、と後方を見る。血気盛んに馬を走らせる兵士たちが、剣を抜いて変わらぬ速さで付いて来ていた。
「……」
この兵たちを失うわけにはいかない。
「止まれッ!」
唐突に下った命令に、兵士たちは一瞬戸惑った。だが、ラーシャ自らが手綱を引いて馬を止めるのを見て、慌てて自分たちも手綱を引く。後ろから騎兵を追っていた歩兵たちも、慌てて立ち止まった。
「姐さん?」
仏頂面のレスターが呼びかけてくる。ここまで来て、何故止まっているのか、という文句が目に見えている。
だが、ラーシャは唇を引き締めると、もう一度火の手が上がる陣を見据えた。彼女の懸念に気が付いたのか、後方で魔道師を率いていたデルタが、騎兵を抜いて彼女の隣へ馬を走らせる。
「……静かですね」
「静か過ぎるな」
炎の音だけが平原を覆っている。ラーシャは眉間に皺を寄せた。
兵を引くべきか否か。それともこのまま、責めるべきか。ふと、デルタが面を上げる。かすかな声を漏らした。その声にラーシャも顔を上げて、
「ら、ラーシャ様ッ!!」
「!」
火の手の方向から声が上がった。炎の逆光を背にして、馬に跨った兵士が駆けてくる。火計の陣頭に立った兵士だった。
脂汗を浮かべてあたふたと駆けてくる。そのただならぬ様子に、ラーシャの背筋に悪寒が走った。
嫌な予感は当たりやすい。せめて良い予感も同じくらい当たりやすければ良かったのに。
「どうしたッ!?」
「軍を、軍をお引きくださいッ! 騙されましたッ! あの陣は、あの陣は空ですッ!」
「!」
その兵の叫び声に、シンシア軍の兵士たちに戦慄が走った。無論、ラーシャもだ。ぞくり、と寒気が背中を通り抜ける。手綱を握る手に力が篭った。
「お逃げください、あの、あの陣にいるのは……ッ!」
「ッ!?」
不意に、兵士の背後に何かが立った。炎の逆光で、それが何なのかは判断がつかない。だが、黒い壁のような巨大な影だった。
その影は、ラーシャの、以前の戦場の記憶と瞬時に合致する!
「まずい、逃げ……ッ!!」
ザシュ……ッ!!
炎を背に、生々しい、それでいて異様に静謐な音が響き渡る。音と光景とが、ぶれて外れてラーシャに届く。
目の前の、男の身体がゆっくりと崩れた。赤い炎の中に、その炎よりも赤い雫を撒き散らしながら、男の肢体はぐにゃりと変な方向へ曲がった。
どしゃり、と音が聞こえて男の身体が平原の短い草の中に落ちる。ぬめった液体が、絨毯のように広がり、男の鎧を沈ませていく。
腕の関節は一瞬でありえない方向に曲げられて、頑丈なはずの兜はぐにゃりと歪んでしまっている。投げ出された四肢はぐったりとして、二度と力が灯ることはなかった。
「……引けぇッ!!」
ぐあああるぉおおぉおおぉおぉぉぉッ!!
ラーシャの命令が下るのと、その壁が吼えるのはほぼ同時だった。そして、被るようにして兵士の悲鳴が轟く。
耳を劈く声に歯を噛み鳴らして、ラーシャはその巨体を見上げる。
逆光の中に、血走った目がぎらりと光っていた。折り曲げた指の先には、人のものとは思えない形状の鉤爪がぬめった血液を滴らせる。妙に折れ曲がった腰と、全身には黒い毛をぞろりと生やしていて、頭部には羊のような歪んだ角が炎にそびえていた。
エイロネイアの、獣。
正体の分からぬ、戦場を荒らす異形の魔物が、彼女の目の前にいた。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「後退しろッ!! 引け、腰抜かしてんじゃねぇッ!!」
ラーシャよりも後方にいたレスターが、怖気づいて後退の足を止めた兵士を叱咤した。
その声で我に返ったラーシャは、手綱を握り、剣を獣へと向ける。獣の背を見ると、また同じような影が炎の中から幾つか立ち上がるのが見えた。
「く……ッ!」
ラーシャは剣を握り締める。彼女の手が握った剣の柄から、淡い炎が立ち上った。
「全軍後退しろッ! 私が殿を務めるッ!! レスター、全員の先導をッ! デルタ、援護しろッ!」
「へいッ!」
「はいッ!」
レスターもデルタも切り替えが早かった。額に浮かんだ汗を見れば、その半分は虚勢であったかもしれない。
それでもラーシャは軍を束ねる指揮官だった。
のろのろと巨体を持ち上げる『獣』たちの動作は鈍い。人の背を軽く越えた頑丈な身体は脅威だが、ただそれだけが救いだ。
「我は断罪の責を負う天子、粛清の証、汚れなき業火の昂揚にその身を焼きて、汝が罪を償い給え――」
目の前の獣が歪な爪を振りかぶる。その大きな影が、ラーシャの体を覆った。
「昇華[ヴァーニング]ッ!!」
ごぉおおぉおおぉおッ!
裁いた剣を点として、獣の背後で燃える火とは違う、意志ある白い魔力の炎が獣の軍勢を押し返した。
吹き付けた炎は、彼女の目の前に立ち塞がっていた獣の全身を覆う。耳を劈くようなしわがれた悲鳴が、炎の中から轟いて、黒く変色した毛を全身に張り付けながら、獣は仰向けに倒れていく。
発せられた白い炎は、そのまま背後にいた別の獣たちを次々と喰らっていった。
ぎしゃぁああぁぁぁああぁああッ!!
白い炎を免れた獣たちが、のそりと手足を振り上げて、赤い狂気の瞳にラーシャの姿を映す。
舌を打った彼女が、刃を向けようとしたとき、
「撃てぇッ!」
『シルフィードッ!!』
デルタの凛とした声と、無数の青い筋条の光が飛んだ。後方に並んだ魔道師陣から発せられた青い光は、的確に獣の体を捉え、その体を抉っていく。
断末魔の悲鳴が重なる。生々しい青い血液が宙に飛んで、赤く燃える炎に影を作る。焼けた肉の酸い匂いと、異様な色の血液の金属臭い香り。
鼻が曲がりそうな匂いに耐えて、ラーシャは駆け上がってきた獣の一体を斬り裁き、じりじりと後退する。
幸い、獣の数は無数というわけではない。魔道師陣の呪文の第二破が完成すれば、逃げ遂せることは出来そうだった。
だが、緊張の中、ラーシャがわずかだけ安堵の息を吐いたときだ。
「ぅ、うわぁあああぁぁぁぁッ!?」
「ッ!?」
背後で兵士の悲鳴が轟いた。
振り向いたラーシャの目に、炎の明かりに照らされて細く輝く銀色の光が映った。空に無数に浮かぶそれは、明確な悪意を持って騎士団の真ん中に降り注ぐ。
あれは……弓矢だっ!
「デルタッ!」
「我阻む、」
ラーシャが命じるまでもなく素早く反応したデルタと、魔道師隊の何名かが部隊の頭上に結界の盾を張る。入りきらなかった何人かに、矢の雨は容赦なく降り注いで、フィレのステーキにフォークを刺したような音に混じって悲鳴が轟いた。
ラーシャは振り返らない。振り返ったところで、その大地には赤い命の象徴が流れ落ちていて、足を止めてしまいそうな光景が広がっているだけだ。止められない。止めれば、己の身体にも容赦なく矢は刺さる。そうすれば、生き残った兵すらも助けることは出来ない。
生き残った兵士の命、死んでいった兵士の命。悲しいかな、天秤にかけなければいけないのがこの戦場という場所だった。
心臓が痛い。この痛みを、この裂けるような心臓の痛みを、あの氷のような瞳の皇太子は持っていないのだろうか。何故、あのようにさっくりと、ナイフでバターを切り分けるかのように人の人生を摘んでいけるのだ。
涙などもう乾いている。そう、己に言い聞かせてラーシャは今一度、撤退を叫んだ。
「何だとっ!?」
自軍の陣地まで後退したラーシャを待っていたのは、さらに絶望的な報告だった。後退命令が早かったのと、デルタの魔道師隊の指揮のおかげで、予想していたより被害は少なくて済んだ。だが、それはあくまで"予想よりも"の話である。
元々、火計を決行したのは、兵力差を埋めるためだった。エイロネイア兵がどこに退き、弓隊がどこから仕掛けて来たかもわからないが、読まれていたと見て間違いはない。……兵力差は、そのままか、もっと悪ければさらに大差がついたか。
だというのに。
「それは……本当か」
「……はい。こちらに向かっていた我が軍の援軍が、急襲されたと……っ!」
ぎり――っ、ラーシャの噛み締めた奥歯が鳴る。
馬鹿な。エイロネイアの兵が、ここへ向かう道中にまで入り込んだというのか。そんなことがあるものか。
「それが……相手はエイロネイアの兵ではなく、蛮族の集団らしく……っ!」
「な……っ!?」
「南の方を荒らしていた蛮族の徒党が、北へ流れて来た模様で……っ! 駆逐するのは時間の問題ですが、予定までには到着できないと……っ!」
「!」
南の蛮族。少々、前に耳にしていた。南の方の蛮族が、エイロネイアによって駆逐されたと。だが、その生き残りがこちらへ流れてきた、ということか?
そんな馬鹿な。ありえない。これもエイロネイアの手による蜜策なのか、それとも私の運がそこまで悪いのか。最早、神に祈るなどナンセンスだ。
待機させた兵の間に緊張と戦慄が走る。兵力差だけではない。窮鼠の士気は、これまでにないほど落ち込んでいる。
「やられましたね……」
デルタが痛々しく唇を噛む。隣のレスターが金斧を、壊れそうなほど握り締めていた。
ラーシャは痛む頭を抑えて、思考を巡らせる。平原を見る。まだ炎が燃えているものの、それは平原だけの話。エイロネイアの弓兵は、平原の周囲に聳える岩壁の上から打って来たに違いない。もしもエイロネイアが、こちらが火計を策している間、兵を回りこむようにして進軍させていたら?
自軍の陣を捨てるのは愚策に見える。だが、ありえない話ではない。シンシアの軍はいつもこの奇策に壊滅的なダメージを被ってきた。ラーシャはシンシアの誰よりもその狡猾さと惨劇を知っている。
……ノーストリア高原を奪われ、さらにこの平原を明け渡せば……貴族院の説得は、ほぼ失敗に終わるだろう。
――だが……
ラーシャは唇を噛んで、敬礼をする兵士たちを見る。だが、その手が強張っているのは一人や二人ではなかった。デルタが悔しげにがんっ、と地面を踏んだ。それでも口の端に短気な言葉は出ない。
皆、わかっていた。自分たちは窮鼠だ。苦肉の策が失敗した以上、ねずみは逃げるか、犬死にする他ないのだ。
ラーシャは目を閉じる。これは決断になる。正しいと、己のみを信じる、決断。英断ではない。
「……援軍の支援に向かう。損害状況を確認次第、本国へ引き返す」
「……はい」
デルタが悔恨と安堵が混じったような複雑すぎる息を吐いて、兵たちに指示を伝え始める。
「自軍の旗は下げるな。旗は陣地へ残して撤退する」
「姐さん、それは……」
「相手も旗が見えれば慎重になるだろう。少しでも撤退の時間が稼げれば、それで良い」
他の将軍なら、自国の旗を踏みにじられるのを嫌うだろう。だが、ラーシャはそれ以上に兵士の命を踏ませたくはなかった。これ以上の惨劇は、望まない。
「……姐さん」
レスターが神妙な顔つきで前に出る。いつもは日に焼けて、健康的な色をしている顔が、今は青ざめて見えた。
「俺たちが殿を務めて、ここに残ります」
「レスター!」
「あいつら、どんな動きしてくるかわかったもんじゃない。姐さにゃ俺らが考えてるより、手が早いかも……」
「駄目だ! 私には、ここに生き残った者全員を守る義務がある!」
怒鳴りつけるように叩きつける。レスターは肩を怒らせて、唇を引き締めた。
「姐さん、なら尚のことです。大丈夫っす。小軍の方が大軍より逃げやすい。姐さんたちが逃げたのを見計らって散ります」
「しかし……っ」
「姐さん」
レスターは強情に、静かに繰り返した。ラーシャとて、その方が確実策なのはわかっていた。
ラーシャはもう一度きつく拳を握った。震える拳を、とうとう叩き付けることはなく、その手で剣の柄を思い切り握り締めた。
――思ったより早かったな。
馬の行軍の音を遠くで捉えながら、レスターは唇を湿らせた。陣地に瞬くは主を失った旗。けれど、ただの旗。それが国の象徴だと何度叫ばれても、人の命と天秤にかけられるようなものじゃない。だが、国はかけろと言う。
レスターは鼻で笑った。
シェイリーンやラーシャは己の矜持と、そのくだらない命令の間で常に戦っている。戦わざるを得ないのだ。誰が何を求めているのかわからない。本当に同じものを求めているのかわからない。
その葛藤の上でレスターは己の矜持に従って生きている。彼女らの苦悩の上に、自分の剣がある。
後ろに控えた数人の、直属の兵士が肩を怒らせた。
「悪ぃな、付き合わせちまって」
「何言ってるんですか、レスターさん。俺らも最初からこういうつもりでしたし」
副将の男に話しかけると、彼は焦げたヤニの匂いがする戦場に似つかわしくない笑顔を浮かべて、背後の数名に「なあ?」と呼びかけた。残った数名は、こんな状況になってもなお、己の士気を高めているらしい。皆、一様ににやりと笑って得物を掲げて見せる。
そこにはある種の爽快感もあったかもしれない。ほら、人間、死ぬ間際になるほど度胸が据わると言うだろう?
レスターは自然と腹が決まるのを感じた。ティルスやデルタには、落ち着きがないとよく叱咤される。だが、レスターは土壇場で冷える性質だった。肝が、全身が冷えていって、掻いていた汗を凍らせる。
その冷たい熱は、潜在的な恐怖さえ凍らせて。レスターに戦斧を振るわせる。
風の雄叫びがする。レスターは空を仰いだ。陣地の上に聳える崖。その上に翻るのは、黒い鴉の旗だった。嘶いたのは兵か、馬か。先頭に立つのは、水の色をした生真面目に引き結んだ表情の男。ああ、あれだ。先の戦いで皇太子を語った男。
本物か、それとも偽物か。おかしいものだ。会議室であれだけ叫ばれる真偽は、戦場に立った途端に、どうでもいいものに変わる。それはそうだ。これは狩り。狩られるか、生き延びるか。ああ、何て愚か。それだけが戦争の真意なのだと悟る。
長ったらしいローブを纏った男の袖が翻る。ちらり、と周りを見ると、斧を振り上げた兵士たちは脂汗を額に笑っていた。皆、知っている。そしてラーシャもおそらく知っていた。あの手が振り下ろされた瞬間に、自分たちの命は散るのだと。
レスターは笑う。半分は狂っていたのかもしれない。今なら、あの悪魔と称される皇太子の心境がわからなくもない。何て命なんて簡単に千切れるものなんだろう。子供が草原いっぱいのシロツメクサを見たらどう思う? こんなにたくさんあるなら、一つくらい摘んでも大丈夫と思うだろう?
そして、最期にレスターは挑発するように己の抱えた戦斧を振り上げて合図した。
ゆっくりと、無情なその腕は振り下ろされて。
ぉぉぉぉぉおおおおぉおおおおぉおおおぉぉぉぉっ!!
蹄と馬の嘶きが唱和した雑音が、崖の上を滑り出す。地響きが耳に、腕に、足に、腹の底に響き渡る。それに打ち勝つように、レスターは踏み出して、
「伏せろっ!!」
少々、太い、粗雑な声が背後から飛んだ。レスターたちは驚いて足を止めた。その頭上を、
「我願う、降魔せしめんは流れる氷河、閉ざせアイシクルブレスっ!」
きぃぃぃんっ!!
斧がぶつかる金属音よりも澄んだ音が、通り過ぎた。一瞬のことに何が起こったのかわからない。けれど、聞こえた悲鳴は自軍ではなく、エイロネイア騎馬軍の馬たちの叫びだった。
はっとしてレスターは顔をあげる。連中が駆け下りようとした崖の下。何人もの兵士が落馬している。目を凝らすと、彼らの跨っていた馬の足は透明な氷の壁に縫いとめられている。
氷の呪縛を逃れた兵士の一人が、動揺することなくレスターに斬り込んでくる。
「レスターさん!」
ぎんっ!
慌てて構えたレスターだが、襲い掛かった剣を受け止めたのは、彼の戦斧ではなかった。十字に組まれたニ本の剣が、レスターの肩口を狙って放たれた一撃を食い止めていた。
「な……っ!」
「……悪いけどな」
食い止めた男はけして綺麗な剣筋を持ってはいなかった。けれど、力で押し上げると、戦士の足を浅く切り裂いた。どれほど訓練された戦士でも、足を傷つければ立ち上がれない。二本のうち、青い剣を持つ左の薬指には古めかしい指輪が窮屈に収まっていた。
「……死ぬなら俺の前以外でやってくれ。俺はもう誰も殺させねぇ、ってお天道さん誓った男なんだ」
そう言って似合わない不敵な笑みでアルティオ=バーガックスは笑った。
「お前、無事だったのかっ!」
「俺だけじゃねぇぜ?」
「……我願う、瞬間[とき]と永遠を縛るは無境の冷徹、戒めよフリージングウィン!」
真上から容赦なく吹きつけた冷気の波は、崖を下ろうとしていたエイロネイアの第ニ陣の馬を竦ませる。何人かが落馬し、地面に鎧を叩き付けられた。
崖の上に立つ長い髪の男の表情が、僅かに歪む。
レスターが振り向くと、彼女はすらりと伸びた黒髪を掻きあげた。
「私の前でも目障りな真似しないでちょうだい。死ぬのは勝手だけど、私の前でされるのは迷惑だわ」
「あんたら……」
シリアは微笑みながらそう言った。その言動が無理を重ねたものだということは、彼女の額に浮かぶ大粒の汗が語っている。
「てめぇの命粗末にしたら罰が当たるぜ。お前の命、何人踏み台にして在るんだ?」
「お前……」
「……俺はな。少なくとも、いくら生きたくても生きられなかった一人の子を知ってる。だから、誰一人死なせるわけにも、死ぬわけにもいかねぇんだよ!」
アルティオのニ振りの剣が、また潜り抜けてきた男の足を傷つけた。彼はレスターの首根っこを掴むと、シリアのいる後方へ飛ぶ。周囲のシンシア側の兵士は一瞬、顔を見合わせた後、呪を紡ぐシリアの姿に同じように下がる。
「……我望む、」
崖の上の男が血気盛んに崖を駆け下りようとする第三陣を手で制した。その瞬間に、シリアの呪が完成する。
「真を隠すは無限の悪霧、彷徨えサイレントミスト!」
ぼすっ、という鈍い音と共にきゅう、と冷えた空気が濃い霧を生んだ。レスターは目を剥く。自分の首を掴んでいるアルティオの顔さえよく見えず、霧の向こう側からは何の音もしない。
「いつまで持つかわからないわ。所詮、霧だからね!」
「ほれ、今のうちに逃げるぞ!」
「……」
がつん、と頭部を殴られたようだった。恥を曝したのかもしれない。一瞬前の自分は、死ぬ覚悟を決めていたのだから。その覚悟を汚された。
けれど、怒りは湧かなかった。その代わり思った。
――……これが、人間だよな。
どこまでも生に貪欲。生き延びることに貪欲。人間は誰かが死ねば悲しむくせに、どうして死を美徳にしたのだろう。
まだまだ安全じゃない。霧なんて、風に飛ばされれば最後だ。けれども、相手が風の呪を紡ぐ間、後ろに逃げることは出来る。懐に飛び込むのではなく。
……そうだ。摘まれるシロツメクサじゃない。ここにいるのは、人間だった。
「……ああ。お前ら、行くぞ!」
←12へ
丘の上から平原の中へ雪崩れ込み、燃え盛るエイロネイアの陣を目指す。蹄の重なる音が、耳に響く中、ラーシャは前方を睨みつけて、突如迷いに襲われた。
向こうの陣が、静か過ぎるのだ。
怒号も悲鳴も聞こえない。蹄の音も響いて来ない。火の回りはそんなに早かったか……。
ちらり、と後方を見る。血気盛んに馬を走らせる兵士たちが、剣を抜いて変わらぬ速さで付いて来ていた。
「……」
この兵たちを失うわけにはいかない。
「止まれッ!」
唐突に下った命令に、兵士たちは一瞬戸惑った。だが、ラーシャ自らが手綱を引いて馬を止めるのを見て、慌てて自分たちも手綱を引く。後ろから騎兵を追っていた歩兵たちも、慌てて立ち止まった。
「姐さん?」
仏頂面のレスターが呼びかけてくる。ここまで来て、何故止まっているのか、という文句が目に見えている。
だが、ラーシャは唇を引き締めると、もう一度火の手が上がる陣を見据えた。彼女の懸念に気が付いたのか、後方で魔道師を率いていたデルタが、騎兵を抜いて彼女の隣へ馬を走らせる。
「……静かですね」
「静か過ぎるな」
炎の音だけが平原を覆っている。ラーシャは眉間に皺を寄せた。
兵を引くべきか否か。それともこのまま、責めるべきか。ふと、デルタが面を上げる。かすかな声を漏らした。その声にラーシャも顔を上げて、
「ら、ラーシャ様ッ!!」
「!」
火の手の方向から声が上がった。炎の逆光を背にして、馬に跨った兵士が駆けてくる。火計の陣頭に立った兵士だった。
脂汗を浮かべてあたふたと駆けてくる。そのただならぬ様子に、ラーシャの背筋に悪寒が走った。
嫌な予感は当たりやすい。せめて良い予感も同じくらい当たりやすければ良かったのに。
「どうしたッ!?」
「軍を、軍をお引きくださいッ! 騙されましたッ! あの陣は、あの陣は空ですッ!」
「!」
その兵の叫び声に、シンシア軍の兵士たちに戦慄が走った。無論、ラーシャもだ。ぞくり、と寒気が背中を通り抜ける。手綱を握る手に力が篭った。
「お逃げください、あの、あの陣にいるのは……ッ!」
「ッ!?」
不意に、兵士の背後に何かが立った。炎の逆光で、それが何なのかは判断がつかない。だが、黒い壁のような巨大な影だった。
その影は、ラーシャの、以前の戦場の記憶と瞬時に合致する!
「まずい、逃げ……ッ!!」
ザシュ……ッ!!
炎を背に、生々しい、それでいて異様に静謐な音が響き渡る。音と光景とが、ぶれて外れてラーシャに届く。
目の前の、男の身体がゆっくりと崩れた。赤い炎の中に、その炎よりも赤い雫を撒き散らしながら、男の肢体はぐにゃりと変な方向へ曲がった。
どしゃり、と音が聞こえて男の身体が平原の短い草の中に落ちる。ぬめった液体が、絨毯のように広がり、男の鎧を沈ませていく。
腕の関節は一瞬でありえない方向に曲げられて、頑丈なはずの兜はぐにゃりと歪んでしまっている。投げ出された四肢はぐったりとして、二度と力が灯ることはなかった。
「……引けぇッ!!」
ぐあああるぉおおぉおおぉおぉぉぉッ!!
ラーシャの命令が下るのと、その壁が吼えるのはほぼ同時だった。そして、被るようにして兵士の悲鳴が轟く。
耳を劈く声に歯を噛み鳴らして、ラーシャはその巨体を見上げる。
逆光の中に、血走った目がぎらりと光っていた。折り曲げた指の先には、人のものとは思えない形状の鉤爪がぬめった血液を滴らせる。妙に折れ曲がった腰と、全身には黒い毛をぞろりと生やしていて、頭部には羊のような歪んだ角が炎にそびえていた。
エイロネイアの、獣。
正体の分からぬ、戦場を荒らす異形の魔物が、彼女の目の前にいた。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「後退しろッ!! 引け、腰抜かしてんじゃねぇッ!!」
ラーシャよりも後方にいたレスターが、怖気づいて後退の足を止めた兵士を叱咤した。
その声で我に返ったラーシャは、手綱を握り、剣を獣へと向ける。獣の背を見ると、また同じような影が炎の中から幾つか立ち上がるのが見えた。
「く……ッ!」
ラーシャは剣を握り締める。彼女の手が握った剣の柄から、淡い炎が立ち上った。
「全軍後退しろッ! 私が殿を務めるッ!! レスター、全員の先導をッ! デルタ、援護しろッ!」
「へいッ!」
「はいッ!」
レスターもデルタも切り替えが早かった。額に浮かんだ汗を見れば、その半分は虚勢であったかもしれない。
それでもラーシャは軍を束ねる指揮官だった。
のろのろと巨体を持ち上げる『獣』たちの動作は鈍い。人の背を軽く越えた頑丈な身体は脅威だが、ただそれだけが救いだ。
「我は断罪の責を負う天子、粛清の証、汚れなき業火の昂揚にその身を焼きて、汝が罪を償い給え――」
目の前の獣が歪な爪を振りかぶる。その大きな影が、ラーシャの体を覆った。
「昇華[ヴァーニング]ッ!!」
ごぉおおぉおおぉおッ!
裁いた剣を点として、獣の背後で燃える火とは違う、意志ある白い魔力の炎が獣の軍勢を押し返した。
吹き付けた炎は、彼女の目の前に立ち塞がっていた獣の全身を覆う。耳を劈くようなしわがれた悲鳴が、炎の中から轟いて、黒く変色した毛を全身に張り付けながら、獣は仰向けに倒れていく。
発せられた白い炎は、そのまま背後にいた別の獣たちを次々と喰らっていった。
ぎしゃぁああぁぁぁああぁああッ!!
白い炎を免れた獣たちが、のそりと手足を振り上げて、赤い狂気の瞳にラーシャの姿を映す。
舌を打った彼女が、刃を向けようとしたとき、
「撃てぇッ!」
『シルフィードッ!!』
デルタの凛とした声と、無数の青い筋条の光が飛んだ。後方に並んだ魔道師陣から発せられた青い光は、的確に獣の体を捉え、その体を抉っていく。
断末魔の悲鳴が重なる。生々しい青い血液が宙に飛んで、赤く燃える炎に影を作る。焼けた肉の酸い匂いと、異様な色の血液の金属臭い香り。
鼻が曲がりそうな匂いに耐えて、ラーシャは駆け上がってきた獣の一体を斬り裁き、じりじりと後退する。
幸い、獣の数は無数というわけではない。魔道師陣の呪文の第二破が完成すれば、逃げ遂せることは出来そうだった。
だが、緊張の中、ラーシャがわずかだけ安堵の息を吐いたときだ。
「ぅ、うわぁあああぁぁぁぁッ!?」
「ッ!?」
背後で兵士の悲鳴が轟いた。
振り向いたラーシャの目に、炎の明かりに照らされて細く輝く銀色の光が映った。空に無数に浮かぶそれは、明確な悪意を持って騎士団の真ん中に降り注ぐ。
あれは……弓矢だっ!
「デルタッ!」
「我阻む、」
ラーシャが命じるまでもなく素早く反応したデルタと、魔道師隊の何名かが部隊の頭上に結界の盾を張る。入りきらなかった何人かに、矢の雨は容赦なく降り注いで、フィレのステーキにフォークを刺したような音に混じって悲鳴が轟いた。
ラーシャは振り返らない。振り返ったところで、その大地には赤い命の象徴が流れ落ちていて、足を止めてしまいそうな光景が広がっているだけだ。止められない。止めれば、己の身体にも容赦なく矢は刺さる。そうすれば、生き残った兵すらも助けることは出来ない。
生き残った兵士の命、死んでいった兵士の命。悲しいかな、天秤にかけなければいけないのがこの戦場という場所だった。
心臓が痛い。この痛みを、この裂けるような心臓の痛みを、あの氷のような瞳の皇太子は持っていないのだろうか。何故、あのようにさっくりと、ナイフでバターを切り分けるかのように人の人生を摘んでいけるのだ。
涙などもう乾いている。そう、己に言い聞かせてラーシャは今一度、撤退を叫んだ。
「何だとっ!?」
自軍の陣地まで後退したラーシャを待っていたのは、さらに絶望的な報告だった。後退命令が早かったのと、デルタの魔道師隊の指揮のおかげで、予想していたより被害は少なくて済んだ。だが、それはあくまで"予想よりも"の話である。
元々、火計を決行したのは、兵力差を埋めるためだった。エイロネイア兵がどこに退き、弓隊がどこから仕掛けて来たかもわからないが、読まれていたと見て間違いはない。……兵力差は、そのままか、もっと悪ければさらに大差がついたか。
だというのに。
「それは……本当か」
「……はい。こちらに向かっていた我が軍の援軍が、急襲されたと……っ!」
ぎり――っ、ラーシャの噛み締めた奥歯が鳴る。
馬鹿な。エイロネイアの兵が、ここへ向かう道中にまで入り込んだというのか。そんなことがあるものか。
「それが……相手はエイロネイアの兵ではなく、蛮族の集団らしく……っ!」
「な……っ!?」
「南の方を荒らしていた蛮族の徒党が、北へ流れて来た模様で……っ! 駆逐するのは時間の問題ですが、予定までには到着できないと……っ!」
「!」
南の蛮族。少々、前に耳にしていた。南の方の蛮族が、エイロネイアによって駆逐されたと。だが、その生き残りがこちらへ流れてきた、ということか?
そんな馬鹿な。ありえない。これもエイロネイアの手による蜜策なのか、それとも私の運がそこまで悪いのか。最早、神に祈るなどナンセンスだ。
待機させた兵の間に緊張と戦慄が走る。兵力差だけではない。窮鼠の士気は、これまでにないほど落ち込んでいる。
「やられましたね……」
デルタが痛々しく唇を噛む。隣のレスターが金斧を、壊れそうなほど握り締めていた。
ラーシャは痛む頭を抑えて、思考を巡らせる。平原を見る。まだ炎が燃えているものの、それは平原だけの話。エイロネイアの弓兵は、平原の周囲に聳える岩壁の上から打って来たに違いない。もしもエイロネイアが、こちらが火計を策している間、兵を回りこむようにして進軍させていたら?
自軍の陣を捨てるのは愚策に見える。だが、ありえない話ではない。シンシアの軍はいつもこの奇策に壊滅的なダメージを被ってきた。ラーシャはシンシアの誰よりもその狡猾さと惨劇を知っている。
……ノーストリア高原を奪われ、さらにこの平原を明け渡せば……貴族院の説得は、ほぼ失敗に終わるだろう。
――だが……
ラーシャは唇を噛んで、敬礼をする兵士たちを見る。だが、その手が強張っているのは一人や二人ではなかった。デルタが悔しげにがんっ、と地面を踏んだ。それでも口の端に短気な言葉は出ない。
皆、わかっていた。自分たちは窮鼠だ。苦肉の策が失敗した以上、ねずみは逃げるか、犬死にする他ないのだ。
ラーシャは目を閉じる。これは決断になる。正しいと、己のみを信じる、決断。英断ではない。
「……援軍の支援に向かう。損害状況を確認次第、本国へ引き返す」
「……はい」
デルタが悔恨と安堵が混じったような複雑すぎる息を吐いて、兵たちに指示を伝え始める。
「自軍の旗は下げるな。旗は陣地へ残して撤退する」
「姐さん、それは……」
「相手も旗が見えれば慎重になるだろう。少しでも撤退の時間が稼げれば、それで良い」
他の将軍なら、自国の旗を踏みにじられるのを嫌うだろう。だが、ラーシャはそれ以上に兵士の命を踏ませたくはなかった。これ以上の惨劇は、望まない。
「……姐さん」
レスターが神妙な顔つきで前に出る。いつもは日に焼けて、健康的な色をしている顔が、今は青ざめて見えた。
「俺たちが殿を務めて、ここに残ります」
「レスター!」
「あいつら、どんな動きしてくるかわかったもんじゃない。姐さにゃ俺らが考えてるより、手が早いかも……」
「駄目だ! 私には、ここに生き残った者全員を守る義務がある!」
怒鳴りつけるように叩きつける。レスターは肩を怒らせて、唇を引き締めた。
「姐さん、なら尚のことです。大丈夫っす。小軍の方が大軍より逃げやすい。姐さんたちが逃げたのを見計らって散ります」
「しかし……っ」
「姐さん」
レスターは強情に、静かに繰り返した。ラーシャとて、その方が確実策なのはわかっていた。
ラーシャはもう一度きつく拳を握った。震える拳を、とうとう叩き付けることはなく、その手で剣の柄を思い切り握り締めた。
――思ったより早かったな。
馬の行軍の音を遠くで捉えながら、レスターは唇を湿らせた。陣地に瞬くは主を失った旗。けれど、ただの旗。それが国の象徴だと何度叫ばれても、人の命と天秤にかけられるようなものじゃない。だが、国はかけろと言う。
レスターは鼻で笑った。
シェイリーンやラーシャは己の矜持と、そのくだらない命令の間で常に戦っている。戦わざるを得ないのだ。誰が何を求めているのかわからない。本当に同じものを求めているのかわからない。
その葛藤の上でレスターは己の矜持に従って生きている。彼女らの苦悩の上に、自分の剣がある。
後ろに控えた数人の、直属の兵士が肩を怒らせた。
「悪ぃな、付き合わせちまって」
「何言ってるんですか、レスターさん。俺らも最初からこういうつもりでしたし」
副将の男に話しかけると、彼は焦げたヤニの匂いがする戦場に似つかわしくない笑顔を浮かべて、背後の数名に「なあ?」と呼びかけた。残った数名は、こんな状況になってもなお、己の士気を高めているらしい。皆、一様ににやりと笑って得物を掲げて見せる。
そこにはある種の爽快感もあったかもしれない。ほら、人間、死ぬ間際になるほど度胸が据わると言うだろう?
レスターは自然と腹が決まるのを感じた。ティルスやデルタには、落ち着きがないとよく叱咤される。だが、レスターは土壇場で冷える性質だった。肝が、全身が冷えていって、掻いていた汗を凍らせる。
その冷たい熱は、潜在的な恐怖さえ凍らせて。レスターに戦斧を振るわせる。
風の雄叫びがする。レスターは空を仰いだ。陣地の上に聳える崖。その上に翻るのは、黒い鴉の旗だった。嘶いたのは兵か、馬か。先頭に立つのは、水の色をした生真面目に引き結んだ表情の男。ああ、あれだ。先の戦いで皇太子を語った男。
本物か、それとも偽物か。おかしいものだ。会議室であれだけ叫ばれる真偽は、戦場に立った途端に、どうでもいいものに変わる。それはそうだ。これは狩り。狩られるか、生き延びるか。ああ、何て愚か。それだけが戦争の真意なのだと悟る。
長ったらしいローブを纏った男の袖が翻る。ちらり、と周りを見ると、斧を振り上げた兵士たちは脂汗を額に笑っていた。皆、知っている。そしてラーシャもおそらく知っていた。あの手が振り下ろされた瞬間に、自分たちの命は散るのだと。
レスターは笑う。半分は狂っていたのかもしれない。今なら、あの悪魔と称される皇太子の心境がわからなくもない。何て命なんて簡単に千切れるものなんだろう。子供が草原いっぱいのシロツメクサを見たらどう思う? こんなにたくさんあるなら、一つくらい摘んでも大丈夫と思うだろう?
そして、最期にレスターは挑発するように己の抱えた戦斧を振り上げて合図した。
ゆっくりと、無情なその腕は振り下ろされて。
ぉぉぉぉぉおおおおぉおおおおぉおおおぉぉぉぉっ!!
蹄と馬の嘶きが唱和した雑音が、崖の上を滑り出す。地響きが耳に、腕に、足に、腹の底に響き渡る。それに打ち勝つように、レスターは踏み出して、
「伏せろっ!!」
少々、太い、粗雑な声が背後から飛んだ。レスターたちは驚いて足を止めた。その頭上を、
「我願う、降魔せしめんは流れる氷河、閉ざせアイシクルブレスっ!」
きぃぃぃんっ!!
斧がぶつかる金属音よりも澄んだ音が、通り過ぎた。一瞬のことに何が起こったのかわからない。けれど、聞こえた悲鳴は自軍ではなく、エイロネイア騎馬軍の馬たちの叫びだった。
はっとしてレスターは顔をあげる。連中が駆け下りようとした崖の下。何人もの兵士が落馬している。目を凝らすと、彼らの跨っていた馬の足は透明な氷の壁に縫いとめられている。
氷の呪縛を逃れた兵士の一人が、動揺することなくレスターに斬り込んでくる。
「レスターさん!」
ぎんっ!
慌てて構えたレスターだが、襲い掛かった剣を受け止めたのは、彼の戦斧ではなかった。十字に組まれたニ本の剣が、レスターの肩口を狙って放たれた一撃を食い止めていた。
「な……っ!」
「……悪いけどな」
食い止めた男はけして綺麗な剣筋を持ってはいなかった。けれど、力で押し上げると、戦士の足を浅く切り裂いた。どれほど訓練された戦士でも、足を傷つければ立ち上がれない。二本のうち、青い剣を持つ左の薬指には古めかしい指輪が窮屈に収まっていた。
「……死ぬなら俺の前以外でやってくれ。俺はもう誰も殺させねぇ、ってお天道さん誓った男なんだ」
そう言って似合わない不敵な笑みでアルティオ=バーガックスは笑った。
「お前、無事だったのかっ!」
「俺だけじゃねぇぜ?」
「……我願う、瞬間[とき]と永遠を縛るは無境の冷徹、戒めよフリージングウィン!」
真上から容赦なく吹きつけた冷気の波は、崖を下ろうとしていたエイロネイアの第ニ陣の馬を竦ませる。何人かが落馬し、地面に鎧を叩き付けられた。
崖の上に立つ長い髪の男の表情が、僅かに歪む。
レスターが振り向くと、彼女はすらりと伸びた黒髪を掻きあげた。
「私の前でも目障りな真似しないでちょうだい。死ぬのは勝手だけど、私の前でされるのは迷惑だわ」
「あんたら……」
シリアは微笑みながらそう言った。その言動が無理を重ねたものだということは、彼女の額に浮かぶ大粒の汗が語っている。
「てめぇの命粗末にしたら罰が当たるぜ。お前の命、何人踏み台にして在るんだ?」
「お前……」
「……俺はな。少なくとも、いくら生きたくても生きられなかった一人の子を知ってる。だから、誰一人死なせるわけにも、死ぬわけにもいかねぇんだよ!」
アルティオのニ振りの剣が、また潜り抜けてきた男の足を傷つけた。彼はレスターの首根っこを掴むと、シリアのいる後方へ飛ぶ。周囲のシンシア側の兵士は一瞬、顔を見合わせた後、呪を紡ぐシリアの姿に同じように下がる。
「……我望む、」
崖の上の男が血気盛んに崖を駆け下りようとする第三陣を手で制した。その瞬間に、シリアの呪が完成する。
「真を隠すは無限の悪霧、彷徨えサイレントミスト!」
ぼすっ、という鈍い音と共にきゅう、と冷えた空気が濃い霧を生んだ。レスターは目を剥く。自分の首を掴んでいるアルティオの顔さえよく見えず、霧の向こう側からは何の音もしない。
「いつまで持つかわからないわ。所詮、霧だからね!」
「ほれ、今のうちに逃げるぞ!」
「……」
がつん、と頭部を殴られたようだった。恥を曝したのかもしれない。一瞬前の自分は、死ぬ覚悟を決めていたのだから。その覚悟を汚された。
けれど、怒りは湧かなかった。その代わり思った。
――……これが、人間だよな。
どこまでも生に貪欲。生き延びることに貪欲。人間は誰かが死ねば悲しむくせに、どうして死を美徳にしたのだろう。
まだまだ安全じゃない。霧なんて、風に飛ばされれば最後だ。けれども、相手が風の呪を紡ぐ間、後ろに逃げることは出来る。懐に飛び込むのではなく。
……そうだ。摘まれるシロツメクサじゃない。ここにいるのは、人間だった。
「……ああ。お前ら、行くぞ!」
←12へ
「……どうしたの?」
朝食の席で眉間に皺を寄せて羊皮紙を睨んでいたアレイアに、フィーナは思わず声をかけた。
いつになく、険悪な表情で羊皮紙に活版で書かれた文字を追っていく彼に、何か不穏なものを感じたのだ。
「ん? ああ、何でもないよ……」
アレイアは一拍置いて、羊皮紙をテーブルに置いた。軽く息を吐いて、フィーナ手製のマフィンに手を伸ばす。
外の天気はどこか思わしくなく、曇り空だったが、ケナには関係ないようだ。窓の外の、木の下で砂遊びに興じている彼女を目に留めながら、フィーナはアレイアが置いた羊皮紙を手に取った。
人寂れた村だが、極たまに山の向こうの町から号外が届けられる。それはその貴重な一枚だった。村長に貰ったのだろうか。
「……第三関所、崩壊……」
ぽつり、とフィーナが呟く。アレイアは陰鬱な表情でカフェオレのカップを持ち上げた。
「ああ、シンシアのバラック・ソルディーア……第三番目の砦で、関所だ。そこがエイロネイアに落ちたらしい。
もっとも、火に炙られて砦自体は灰と瓦礫の山らしいが……」
「……」
「エイロネイアの勢力拡大は凄まじい。あの皇太子が戦場に出てから、奪われた領土や砦が幾つもある。この村も、山を隔てていて戦略的価値がないせいで放って置かれているが、もともとは国境に近い村だからな……。それなりの備えが必要な時期なのかも知れない」
「……」
「フィーナ?」
「……」
「フィーナ、フィーナッ!」
「へッ? あ、ああ、えっと、ごめん。何?」
アレイアの声さえも耳に入らないほど、羊皮紙を凝視していたフィーナは、ようやく気がついて取り繕うように笑顔を浮かべる。
アレイアは、その彼女と細い手に握られた羊皮紙とを見比べて、ひどく複雑な表情を作った。
苦く、先ほどの陰鬱な表情に、焦燥とわずかのやるせなさを滲ませて。
「……どうかしたのか?」
伺うように、今さっき彼女から聞かされた質問を返す。
彼女はその質問で、はっ、と我に返ったように手の中の羊皮紙とアレイアとを交互に見て、最後に天井を仰いで顎に手を置いた。
「ううん、何でもない」
首を振りはしたが、嘘であるのは明確だった。
「ただ、何でアレイアがこんなやたら熱心に読んでるのかなー、って思ったもんだから」
それもまた、どこか白けた疑問だった。やっと絞り出したような、そんな問いだ。
「俺は時事問題に詳しくなっちゃいけないのか……」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど。これ、村長さんか誰かに貰ったんじゃない?
村の人でこんなもの持っている人見ないもの。特別に貰って来たんじゃないか、って思ったから」
「……いくら、外れた村、って言っても戦場は山の向こうで起こってるんだ。知らんふり出来るわけないだろう」
アレイアは少しだけ苛立って、カフェオレを飲み干した。そのまま剣を取って立ち上がる。
フィーナはわずかに眉を潜めて、同じように立ち上がった。アレイアはこっそりと舌打ちをする。彼女のやや浮かない顔が、自分が八つ当たりをしてしまったのだと如実に語る。
――とんだ馬鹿野郎か、俺は。
胸中で叱咤しながら玄関に向かう。ドアを開いたところで、ちょうどそのドアをノックしようとしていた女性と鉢合わせた。
「やぁ、ブロードの旦那! まぁだ出勤前だったのかい」
肝っ玉のいい八百屋の女将のハンナだった。手に大きなバスケットを提げている。
朝からテンションの高い人に会ってしまった。ついてない。
「あれ? ハンナさん?」
「ああ、フィーナちゃん。おはようさん!」
遅れて玄関にやってきたフィーナに、ハンナはぱたぱたと手を振った。
「どうしたんですか、朝から」
「いやね、ブロードの旦那。うちの亭主がさぁ、ちょっと馬鹿をやっちまってね。
あんの馬鹿、品物をかなり余計に仕入れやがったんだわ。うちじゃ食べきれないし、かといっていつまでも店頭に並べておいても腐らせるだけさね。それでお裾分けさ」
「うわ……」
ハンナがバスケットの布を取った。中に詰められていたのは、少々小振りだが茄子やじゃがいもといった野菜の数々。隅っこには、季節が過ぎつつある桃の実が三つちょこんと乗っていた。
ハンナはそれを丸ごとフィーナの胸元にずい、と押し付ける。
「い、いいんですか……? こんなにいっぱい……?」
「ああ、腐らせちまうよりいいだろ。素直に貰っときな。ねぇ、旦那」
「……ありがとうございます」
さすがのアレイアもやや困惑しながら礼を述べた。買い物のついでにおまけをつけてくれるのはしょっちゅうだが、些か気前が良すぎはしないだろうか……?
八百屋が潰れないことを祈る。
アレイアは微妙な表情のまま、太陽を見上げた。仕事の時間が迫っていることを悟ると、ハンナに軽く頭を下げて、その場を後にしようと彼女の脇を通り過ぎようとする。
その彼の耳に、
「なあ、旦那。もうフィーナちゃんとはそれなりの仲になったんかい」
……思わず転びそうになった。
「な、何を……ッ!?」
ぼそり、と女将が言った一言はフィーナには聞こえていなかったらしい。彼女はバスケットを持ったまま、いきなりバランスを崩しかけたアレイアに疑問符を浮かべている。
ハンナは呆れたような顔で、どんっ、とアレイアの背中を思い切り叩いた。
「情けない男だねぇ、旦那も。こっちは、式はいつかと楽しみにしてんだよ」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「???」
まったく話の内容を理解していないらしいフィーナをちらり、と見てアレイアは軽く首を振った。
「とにかく、そういうことを言うのはやめてくださいよ。女将さん」
「はっはっは、悪いねぇ。歳を取ると娯楽が少なくなるんだよ」
やや険悪な眼差しで言っても、軽く受け流されてしまう。年の功というのは、こうも固いものなのか。
溜め息を吐いて、アレイアは早々に諦めた。
「じゃあ、俺は行くけど。フィーナ、女将さんにお礼をしておいてくれ」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「いってらっしゃいな、旦那」
ハンナの笑顔に、何とも言えない一抹の不安を抱きながらも、アレイアは手を振ってその場を後にした。
「……で、あの、これ……」
未だ申し訳なさそうにバスケットを抱えたフィーナを見て、ハンナはからからと笑う。
「あんたも律儀な娘だねぇ。こういうときは笑顔で貰っとくのが、家庭を守るいい女だよ」
「え、えーと……は、はい……。とりあえず、ありがとうございます……」
言われている意味は若干よく分からなかったが、とりあえず頭を下げて素直に受け取っておく。いつものことながら、この女将には敵いやしないのだ。
ハンナは腰に手を当てて、微笑ましい表情で砂山を作って遊んでいるケナを見て、目を細めた。
「いい子だね。お父さんにもよく懐いてるし、元気な子だよ」
「そうですね」
ハンナがどうしてそんなことを切り出したのか。ふと、疑問に思ったが、フィーナは素直に頷く。
ケナは文句なしにいい娘だと思う。ややませたところはあるが、家事もよく手伝うし、何より明るく元気な娘だ。母親がいないというのに。
「……」
「気づいてるかい?」
「え?」
「あの子とブロードの旦那について、さ」
「……えっと」
「奥さん。いないんだよ」
何となくは気がついていたことだった。けれど、口に出すのは憚れた。
疑問に思ったことは何度もある。けれどそれは、ただ行き倒れになっていたところを助けられ、なりゆきで居候しているだけの他人が踏み込んで良いような領域だとは、フィーナには思えなかった。
フィーナが困ったような表情を浮かべるのを見て、ハンナは少しだけ眉根を寄せた。
「ごめんごめん。困らせる話だったね。でもさ、どうせ話してないだろ、あの旦那」
「ええ、何も」
「まあね。あんたの事情も、あん人の事情も、ろくに知らないあたしが言っていいものかは知らないけどさ。
あそこの家、奥さん見たことないだろう?」
「そ、そうですけど……」
曖昧に返事をした。
フィーナが意図して避けてきた疑問。意識して言葉にしなかった不和。
あくまで自分は他人に過ぎない、とフィーナは意図してブロード家との境界線を引き、守ってきた。その境界線の象徴たるものが、その疑問だった。
だから、フィーナはそれに関わる質問や問いはけしてしようとしなかった。しないできた。
「いなくなったんだ。何年か前にね」
「……いなく、なった?」
聞いてはいけない気がした。その話は、この例え束の間であろうと、居心地のいいブロード家でのフィーナの暮らしを脅かしてしまうものだと悟っていた。
それなのに、聞き返してしまったのは、無責任な、ただの残酷な好奇心の業なのだろうか。
ハンナはフィーナの言葉に深く頷いた。
「ある日、ぷっつりと、ね。この村は戦地から離れていて平和さ。ただ平和ゆえに退屈なんさね。
そのせいで出て行ったのかもしれないし、他に好きな男が出来たのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
ともかくね、ケナちゃんの母親はある日、途端に見なくなっちまった。
ブロードの旦那は口を濁すだけだったね。そりゃあ、そうさ。女房がいなくなった、なんて旦那にとっては恥だからね。
恥だけじゃあない。ショックだったんだろうね。しばらく、ブロードの旦那も茫然とした感じだったさ」
「……」
「村に来たときは二人共若かったさ。どこを旅して来たかは知らないが、擦り切れた服と靴。あとは身一つで、こーんなちっちゃな赤ん坊のケナちゃんを抱えてね。村長のところに『この村に住みたい』、と言ってきた。
……この村にはね、実は戦地から逃げてきたような人間もいっぱいいるんだよ。
戦争に疲れちまってね。戦地から外れたこの村に流れてくるヤツも多かったから、村長は何も言わないで二人に村で暮らしていい、って言った」
「……」
「それが六年前さ。奥さんがいなくなったのは、それから一年もしないうちだった」
やや痛ましい表情でハンナは語る。だが、その傍らで話を聞かされていたフィーナの方が余程、困惑した表情をしていた。
解せない。何故、彼女が今、こんなことを語り出したのか。フィーナには、見当さえつかなかった。
ハンナは視線をケナから外し、フィーナを見た。小さく溜め息を吐く。
「悪いね。こんな話、聞きたくなかったろ」
「ん、えっと……」
「あたしゃお節介な性格でさ。でも、放って置けなくてね。
奥さんがいきなりいなくなって、しかもケナちゃんは赤ちゃんだった。放って置けなくてね。うちは子宝に恵まれなかったし、あたしもうちの亭主も、いろいろと面倒見てやってきたんだ。
ケナちゃんは赤ん坊だった。母親のことなんか覚えてないさ。
でも、旦那はまだ未練がある。見てれば分かるさ。あの人、ときどき遠すぎるくらい遠い目をする」
「そう、だったんですか……」
フィーナには曖昧に答えるしか術がなかった。
何だろう、ハンナはそのお節介の延長上でフィーナに何かを伝えようとしているのだ。だが、フィーナにはそれが見えて来ない。
「……フィーナちゃん」
「?」
「ブロードの旦那がどこからあんたを連れてきて、彼とどんな関係なのかは知らないよ」
「……」
「でもさ、旦那もケナちゃんも、少なからずあんたを好いているよ」
「そりゃ、良くはしてもらってますけど……」
「そうじゃないんだよ、フィーナちゃん」
何とか言葉を返そうと、しどろもどろに口を開いたフィーナの声を再びハンナは塞き止める。ハンナは優しく、しかし、何かを含んだ瞳で彼女を見た。
「……フィーナちゃんが着てるのは、いなくなった奥さんのものだね?」
「え?」
「分かるよ。あたしが編んだヤツだからね。
何で、他人のあんたに、旦那が素直に未練のある奥さんの服なんか貸してるか分かるかい?」
「……?」
首を傾げる彼女に、ハンナはぎゅ、と眉を寄せた。言い難いことを、苦々しく口にするような、快活な八百屋の女将にしては苦悶に満ちた表情だ。
ふと、ハンナは空を仰いだ。何かを思い出すように遠くを見て、もう一度、『彼女』を見て、頷いた。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「――!」
「奥さんの名前、知らないだろ? 何の偶然なんかね、奥さんの名前はね、」
「『フィーナ』、って言ったんだ」
「・・・!」
『彼女』の脳裏に、この家で目が覚めたときの光景が掠める。ベッドの上で、自分の名前も思い出せずに頭を抱えていた『彼女』に、彼は、アレイアがぽつりと呟いた名前がそれだった。
それから、『彼女』はその呼び名で呼ばれるようになったのだ。
何故、素性の知れない、それも武器など下げた奇妙な女を、彼が家に迎え入れたのか。
未だに居候として留めていてくれるのか。
その疑問が、氷解していく。
『彼女』ははっ、としてハンナを見た。彼女は元のように笑いながら、しかし、どこか真剣な雰囲気を残したまま、
「フィーナちゃん、あんたがどこの誰で、旦那とどんな縁があったかは知らないよ。
いくら世話を買って出てた、って言っても、部外者は部外者。あたしゃ、ただの八百屋のおばさんさ。
だから、お節介なのは分かるんだよ。あんたが何者なのか、これからどうするつもりかは知らないけどさ……。
ブロードの旦那も正直、あんたを見て戸惑ってるようだし。ケナちゃんだって、あのときほど幼くない。
出来れば、傷つけないでやって欲しいんだよ」
「……」
『彼女』はそのまま沈黙する。唇を噛んで、俯いた。
答えられない問いだった。誓えない頼みだった。
ハンナは気づいているのだ。『彼女』が何者か、どこから来たのか、そんなことは知りもしないだろうが、『彼女』が、いつかここを出て行くことになるだろうことは気づいている。
そして、その『フィーナ』に似ているという『彼女』が出て行くことで、ずっと面倒を見てきたアレイアやケナが古い傷を思い出してしまうのを慮っているのだった。
けれど、『彼女』はそんな約束など出来るはずもない。
自分のことでさえ、何もわからない『彼女』が、約束出来るはずもない頼みだった。
だから、何も答えずに唇を噛むしか出来なかった。
気まずい沈黙が流れ、そして、
「あーッ、おかみさんッ!!」
重い沈黙を破ったのは、ケナの甲高い呼び声だった。我に返って視線を上げると、すぐ目の前にケナが駆け寄って来ていて、ぱっとフィーナの腕にぶら下がった。
「フィーナちゃん、元気ない?」
「へ?」
「ハンナさん、フィーナちゃんをいじめちゃだめー! フィーナちゃんはケナのなの!!」
ぷぅ、と剥れて言ったケナの台詞に、ハンナはしばしきょとんと目を丸くした後、小さく吹き出した。そのまま肩を震えさせながら笑い、しゃがんでケナの頭を撫でる。
「人聞きが悪いねぇ。誰もフィーナちゃんをいじめてなんかないさ」
「むー、本当?」
問われたのは『彼女』だった。
まだ剥れたままの彼女に、フィーナは、沈んだ気持ちを振り払うように笑いかけた。
「本当だってば。あたしがちょっとやそっとでいじめられるとでも思ってた?」
「ううん。だってフィーナちゃん、お父さんより強いもんね! 鬼さんより強い!」
「ちょっと、それどういう意味!?」
「あははははッ!」
拳骨を握って怒鳴ったフィーナに、ケナは楽しげな笑い声を上げて逃げるようにぐるぐると彼女の周りを回った。
その光景に、ハンナはどこか力が入ってしまっていた表情を緩ませる。静かな溜め息を吐くと、彼女はケナの襟首を捕まえて凄んでいたフィーナの肩を優しく叩いた。
「ごめんね。あたしが言うようなことじゃなかったね」
「いいえ……」
「迷惑なのは分かってるけどさ、最近、旦那も何だか元気なくしてるみたいだったからね……。
どうにも気になっちまってね。あんたには何にも関係のない話なんだろうけど……。
あんまり気にしないでくれていいよ。でも、どっかには留めて置いて欲しかったんだ」
「……」
フィーナは答える代わりに、軽いお辞儀で返した。誠実とは言えない返事だったが、ハンナはそれで納得してくれたらしい。
一瞬後には、ぱっと顔を上げて微笑んで、『また店で待ってるからね』と残して背を向けた。
ハンナの背中が豆粒ほどに小さくなった頃、くいくい、とスカートの裾を引っ張られる。
「……ん?」
「フィーナちゃん、ハンナさんと何話してたの?」
「んー、まあ、ちょっと……。大したことじゃないよ」
「……お母さんのこと?」
受け流そうとしたフィーナだったが、ケナの一言にひくりと反応してしまう。慌てて取り繕おうとしたが、視線を下げた先の幼いケナの顔は、真面目に引き締められていた。
「……ケナ、お母さんのことあんまり覚えてないの」
「……うん」
「お父さんは、お母さんはどこか遠いところに旅行に行ってるって言ってたけど、嘘だと思う。良く知らないけど。
だったら、フィーナちゃんをお母さんの名前で呼んだりしないよ……」
「……」
少しだけ俯いて、小さく呟くように彼女は言った。
幼い子供とは思えないほど、顔をしかめて、静かな声で。
「……ケナね」
「ん?」
「お母さんのことあんまり覚えてないけど、フィーナちゃんのこと好きだよ」
「……ありがと」
「たぶん、お父さんも、フィーナちゃんのこと好きなんだよ」
「……けど、それは」
「うん。フィーナちゃん、お母さんに似てるって言ってた。そのせいかもしれない。
でも、きっとフィーナちゃんがいなくなっちゃったら、寂しがると思うな」
ケナは俯いたまま、唐突にフィーナのスカートに顔を埋めた。
「ケナも、ケナもね……」
「……」
「フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
「……うん」
曖昧に頷いて、フィーナはどうしていいかわからずに、ケナの小さな肩を抱き締めた。
嘘でも、『いなくならないよ』と言ってあげるべきなのかもしれない。けれど、そんな優しい嘘を吐けてしまうほど、『彼女』は大人ではなかった。
それに――
――この間の……
村長の家に行って、石段から落ちたあの日。
背後には誰もいなかった。けれど、確かにフィーナは誰かに背中を押されたのだ。それだけではない。お菓子屋さんで感じた、あの射るような殺気。石段から転落して、アレイアに助けられたあの後、じっとこちらを見ていたあの異質な雰囲気の漂う女は、一体何者なのだろうか……。
最近、不可思議なことが起こっている。何ともないこと、他愛もないことと、意図して考えないようにしていた。
そうしなければ、仮初とはいえ『彼女』に今の唯一の居場所であるここが、一瞬のうちに失くなってしまうような気がした。
でも、その一方で。
誰も飲めないはずのコーヒー、助けられた一瞬の紡ぐはずのない誰かの名前。
アレイアが、『彼女』を通していなくなった女性を思い出しているように。
『彼女』も、もしかしたら、彼を通して何か思い出しつつあるのではないだろうか――
だとしたら。
―― ……あたしは、どうしたらいいの……?
力なく首を振る。
「ケナちゃん」
「……なぁに?」
「買い物、行こっか」
「……」
ケナは一段と強く抱き着いたあと、ぱっと顔を上げた。そこには、いつもの元気な笑みが浮かんでいた。
「うん! 行こう、フィーナちゃん」
「……じゃあ、バスケット置いて来るから待っててね」
「うん!」
不思議だ。何だかこんなに小さなケナの方が強くて、大人に見えてしまう。
フィーナは精一杯の笑みを彼女に返すと立ち上がった。バスケットを持って立ち上がり、玄関に入る。
ちらり、と外を見ると、玄関の柱に背をつけながら鼻歌を歌っているケナが見えた。
フィーナはバスケットを持ってキッチンに入っていく。ひんやりとした床にバスケットを置いて、唐突に思い出す。
腰を折って、フィーナは食器棚の裏側を覗き込んだ。ぺらり、と紙のようなものが張り付いている。
先日見つけて、すっかり忘れていた。忘れたままだった方が良かったのかもしれない。
「……」
『彼女』は手を伸ばして、その紙を少しだけ引っ張った。ぺり、と僅かな音を立てて、難なく剥がれる。
ただの白い面を裏返してみる。
意図的に飾ってあったものを裏返していたのか。それとも、もともとは飾られていたものが、隙間風の影響で中途半端に剥がれて裏になっていたのか。
それは一枚の写真だった。
映っているのは他でもない、アレイアと、もう一人。
長い金色の髪をふわりを靡かせて、ケナと同じ葡萄色の瞳を細ませた――
小さな赤ん坊を抱いた女性が、柔らかく微笑んでいた。
「……」
『彼女』は無言で首を振る。
そして、それを隠すように食器棚の奥へと裏返しにそっと置いた。
風に血の匂いが混じっている。ラーシャは知らず知らずのうちに深めてしまっていた眉間の皺を、無理矢理に引き伸ばした。
白の軍服の裾が風に攫われる。目の前に広がるのは広い草原で、その一角に草色のテントが群がっているのが見える。
八咫鴉の旗を掲げた大きな兵軍だった。
東の空を見る。暗い夜空に、東の山端にだけ光が漏れている。朝が近い。
「コンチェルト少佐の策は成るでしょうか?」
「……分からん」
明朝になったことを悟って、硬い声でデルタが問いた。ラーシャは正直に答える。
平原での決戦がなされる日だった。あと一時間もしないうちに、あの平原の陣には火が放たれる。風向きは北から南。乾いた冷たい風が、火の周りを早くする。それを素直に喜べない罪悪感と戦いながら、ラーシャは薄暗い朝の中で、ただ静かに八咫鴉を睨んでいた。
相手は大軍を率いている。成功する可能性は五分。失敗する可能性も五分。
北都ゼルフィリッシュからは援軍を呼んでいる。どれほどの規模になるかは、シェイリーンの交渉次第だろうが、届く書面を見た限りではあまり期待は出来そうもない。
さらに悪いことに、第三関所が落とされたという凶報もラーシャの元に届いていた。関所にいた魔道師と兵士の無事は伝えられたが、共にいた客将二人は未だに行方不明だ。
「……今、エイロネイアがあちらに軍を割くとは思わなかった。私の失策だな……」
「予測出来ないことでした。
コンチェルト少佐が第三関所の状況の確認と、お二方の捜索を急いでいます。先に失踪されたお三方の行方も含めて」
「ああ、わかっている」
答えながら彼女は唇を噛み締めていた。
こんな情けないことがあるか。大陸からの客将の身柄は保障するだのとほざいたのは、どこの誰だったのだ。
シリアもアルティオも、望んでバラック・ソルディーアに滞在していた。
だから、これは彼らの選択であったのかもしれない。けれど、彼らをこの地へと招き、そもそもの原因を作ったのは間違いなく彼女だった。
自責の念に苛まれながら、ラーシャは将として虚勢に胸を張るしかないのだ。それはひどく空っぽで虚しい行為だった。
――今の私を見て……姉上とあの子はどう思うのだろうな……。
ラーシャは次第に強くなる東の光を目に留めながら、自嘲気味に笑った。軽く首を振る。
冷たい剣の柄を握り締め、ラーシャは今一度、ジルラニアの夜明を瞼に焼き付ける。ラーシャはこの暁にならなくてはならない。このゼルゼイルの暗い夜に、光と風を送る人間にならなくてはならないのだ。
それが最初で最後の約束なのだから。
「エイロネイアの皇太子は、どう出るでしょうか」
「……わからん。だが、精一杯で迎え撃つしかない。これ以上、ゼルゼイルの大地をあの悪魔に好き勝手にさせるわけにはいかない」
"戦場の悪魔"、"漆黒の死神"。
兵士たちからそう揶揄されるかの人物は、あの平原で今もこちらを嘲笑っているのだろうか。それとも、別の場所から高みの見物を気取っているのだろうか。
――エイロネイア皇太子……このままでは、済まさぬ……!
白んだ太陽が、半分だけ顔を出した。
時間だ。
ラーシャは平原から視線を外し、自らが敷いた軍を振り返った。やがて平原に火が放たれる。出陣の時間が、迫っているのだ。
デルタはまだ平原を睨んでいた。あそこから火の手が上がるかどうか、すべてはそれにかかっている。成功か、失敗か。それを判断するのはこの高見櫓の兵士と、己の眼だけだった。
静寂が、その場を支配する。
ごくり、と固唾を飲み込むと同時に、やたら冷えた汗がデルタの頬を伝っていった。
たった数分が、とんでもなく長い時間に感じられた。
カーン、カーン、カーンッ!!!
「ッ!」
突然だった。
甲高い鐘の音が、二人の、そしてシンシアの兵士たちの耳を貫いた。はっとしたラーシャとデルタが、丘の上から平原を見下ろした。
草色のテントが敷かれた陣の向こうが明るい。明るすぎる。そして、赤い。
兵士たちから『わあああぁぁぁ!!』と歓声が上がった。ラーシャとデルタは互いに視線を合わせて頷く。
十字を切る暇もない。軍の先頭に立っていたレスターを振り返ると、彼は馬上で剣を抜いた。
「成功だ! これより出陣する! これは防衛線だ! 出過ぎるな、炎に巻かれるぞ!!」
「分かってますよ、姐さん!」
血気も盛んにレスターが答えてきた。ラーシャは自らも馬に跨ると剣を抜く。
銀の刃の切っ先を、燃え盛る陣の向こうに向ける。すっ、と息を吸い込むと赤すぎる暁を睨みながら、声を張り上げた。
「全軍、前へ!」
響く歓声とともに、蹄の音が幾重にも重なって大地を揺らした。
←11-02へ
朝食の席で眉間に皺を寄せて羊皮紙を睨んでいたアレイアに、フィーナは思わず声をかけた。
いつになく、険悪な表情で羊皮紙に活版で書かれた文字を追っていく彼に、何か不穏なものを感じたのだ。
「ん? ああ、何でもないよ……」
アレイアは一拍置いて、羊皮紙をテーブルに置いた。軽く息を吐いて、フィーナ手製のマフィンに手を伸ばす。
外の天気はどこか思わしくなく、曇り空だったが、ケナには関係ないようだ。窓の外の、木の下で砂遊びに興じている彼女を目に留めながら、フィーナはアレイアが置いた羊皮紙を手に取った。
人寂れた村だが、極たまに山の向こうの町から号外が届けられる。それはその貴重な一枚だった。村長に貰ったのだろうか。
「……第三関所、崩壊……」
ぽつり、とフィーナが呟く。アレイアは陰鬱な表情でカフェオレのカップを持ち上げた。
「ああ、シンシアのバラック・ソルディーア……第三番目の砦で、関所だ。そこがエイロネイアに落ちたらしい。
もっとも、火に炙られて砦自体は灰と瓦礫の山らしいが……」
「……」
「エイロネイアの勢力拡大は凄まじい。あの皇太子が戦場に出てから、奪われた領土や砦が幾つもある。この村も、山を隔てていて戦略的価値がないせいで放って置かれているが、もともとは国境に近い村だからな……。それなりの備えが必要な時期なのかも知れない」
「……」
「フィーナ?」
「……」
「フィーナ、フィーナッ!」
「へッ? あ、ああ、えっと、ごめん。何?」
アレイアの声さえも耳に入らないほど、羊皮紙を凝視していたフィーナは、ようやく気がついて取り繕うように笑顔を浮かべる。
アレイアは、その彼女と細い手に握られた羊皮紙とを見比べて、ひどく複雑な表情を作った。
苦く、先ほどの陰鬱な表情に、焦燥とわずかのやるせなさを滲ませて。
「……どうかしたのか?」
伺うように、今さっき彼女から聞かされた質問を返す。
彼女はその質問で、はっ、と我に返ったように手の中の羊皮紙とアレイアとを交互に見て、最後に天井を仰いで顎に手を置いた。
「ううん、何でもない」
首を振りはしたが、嘘であるのは明確だった。
「ただ、何でアレイアがこんなやたら熱心に読んでるのかなー、って思ったもんだから」
それもまた、どこか白けた疑問だった。やっと絞り出したような、そんな問いだ。
「俺は時事問題に詳しくなっちゃいけないのか……」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど。これ、村長さんか誰かに貰ったんじゃない?
村の人でこんなもの持っている人見ないもの。特別に貰って来たんじゃないか、って思ったから」
「……いくら、外れた村、って言っても戦場は山の向こうで起こってるんだ。知らんふり出来るわけないだろう」
アレイアは少しだけ苛立って、カフェオレを飲み干した。そのまま剣を取って立ち上がる。
フィーナはわずかに眉を潜めて、同じように立ち上がった。アレイアはこっそりと舌打ちをする。彼女のやや浮かない顔が、自分が八つ当たりをしてしまったのだと如実に語る。
――とんだ馬鹿野郎か、俺は。
胸中で叱咤しながら玄関に向かう。ドアを開いたところで、ちょうどそのドアをノックしようとしていた女性と鉢合わせた。
「やぁ、ブロードの旦那! まぁだ出勤前だったのかい」
肝っ玉のいい八百屋の女将のハンナだった。手に大きなバスケットを提げている。
朝からテンションの高い人に会ってしまった。ついてない。
「あれ? ハンナさん?」
「ああ、フィーナちゃん。おはようさん!」
遅れて玄関にやってきたフィーナに、ハンナはぱたぱたと手を振った。
「どうしたんですか、朝から」
「いやね、ブロードの旦那。うちの亭主がさぁ、ちょっと馬鹿をやっちまってね。
あんの馬鹿、品物をかなり余計に仕入れやがったんだわ。うちじゃ食べきれないし、かといっていつまでも店頭に並べておいても腐らせるだけさね。それでお裾分けさ」
「うわ……」
ハンナがバスケットの布を取った。中に詰められていたのは、少々小振りだが茄子やじゃがいもといった野菜の数々。隅っこには、季節が過ぎつつある桃の実が三つちょこんと乗っていた。
ハンナはそれを丸ごとフィーナの胸元にずい、と押し付ける。
「い、いいんですか……? こんなにいっぱい……?」
「ああ、腐らせちまうよりいいだろ。素直に貰っときな。ねぇ、旦那」
「……ありがとうございます」
さすがのアレイアもやや困惑しながら礼を述べた。買い物のついでにおまけをつけてくれるのはしょっちゅうだが、些か気前が良すぎはしないだろうか……?
八百屋が潰れないことを祈る。
アレイアは微妙な表情のまま、太陽を見上げた。仕事の時間が迫っていることを悟ると、ハンナに軽く頭を下げて、その場を後にしようと彼女の脇を通り過ぎようとする。
その彼の耳に、
「なあ、旦那。もうフィーナちゃんとはそれなりの仲になったんかい」
……思わず転びそうになった。
「な、何を……ッ!?」
ぼそり、と女将が言った一言はフィーナには聞こえていなかったらしい。彼女はバスケットを持ったまま、いきなりバランスを崩しかけたアレイアに疑問符を浮かべている。
ハンナは呆れたような顔で、どんっ、とアレイアの背中を思い切り叩いた。
「情けない男だねぇ、旦那も。こっちは、式はいつかと楽しみにしてんだよ」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「???」
まったく話の内容を理解していないらしいフィーナをちらり、と見てアレイアは軽く首を振った。
「とにかく、そういうことを言うのはやめてくださいよ。女将さん」
「はっはっは、悪いねぇ。歳を取ると娯楽が少なくなるんだよ」
やや険悪な眼差しで言っても、軽く受け流されてしまう。年の功というのは、こうも固いものなのか。
溜め息を吐いて、アレイアは早々に諦めた。
「じゃあ、俺は行くけど。フィーナ、女将さんにお礼をしておいてくれ」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「いってらっしゃいな、旦那」
ハンナの笑顔に、何とも言えない一抹の不安を抱きながらも、アレイアは手を振ってその場を後にした。
「……で、あの、これ……」
未だ申し訳なさそうにバスケットを抱えたフィーナを見て、ハンナはからからと笑う。
「あんたも律儀な娘だねぇ。こういうときは笑顔で貰っとくのが、家庭を守るいい女だよ」
「え、えーと……は、はい……。とりあえず、ありがとうございます……」
言われている意味は若干よく分からなかったが、とりあえず頭を下げて素直に受け取っておく。いつものことながら、この女将には敵いやしないのだ。
ハンナは腰に手を当てて、微笑ましい表情で砂山を作って遊んでいるケナを見て、目を細めた。
「いい子だね。お父さんにもよく懐いてるし、元気な子だよ」
「そうですね」
ハンナがどうしてそんなことを切り出したのか。ふと、疑問に思ったが、フィーナは素直に頷く。
ケナは文句なしにいい娘だと思う。ややませたところはあるが、家事もよく手伝うし、何より明るく元気な娘だ。母親がいないというのに。
「……」
「気づいてるかい?」
「え?」
「あの子とブロードの旦那について、さ」
「……えっと」
「奥さん。いないんだよ」
何となくは気がついていたことだった。けれど、口に出すのは憚れた。
疑問に思ったことは何度もある。けれどそれは、ただ行き倒れになっていたところを助けられ、なりゆきで居候しているだけの他人が踏み込んで良いような領域だとは、フィーナには思えなかった。
フィーナが困ったような表情を浮かべるのを見て、ハンナは少しだけ眉根を寄せた。
「ごめんごめん。困らせる話だったね。でもさ、どうせ話してないだろ、あの旦那」
「ええ、何も」
「まあね。あんたの事情も、あん人の事情も、ろくに知らないあたしが言っていいものかは知らないけどさ。
あそこの家、奥さん見たことないだろう?」
「そ、そうですけど……」
曖昧に返事をした。
フィーナが意図して避けてきた疑問。意識して言葉にしなかった不和。
あくまで自分は他人に過ぎない、とフィーナは意図してブロード家との境界線を引き、守ってきた。その境界線の象徴たるものが、その疑問だった。
だから、フィーナはそれに関わる質問や問いはけしてしようとしなかった。しないできた。
「いなくなったんだ。何年か前にね」
「……いなく、なった?」
聞いてはいけない気がした。その話は、この例え束の間であろうと、居心地のいいブロード家でのフィーナの暮らしを脅かしてしまうものだと悟っていた。
それなのに、聞き返してしまったのは、無責任な、ただの残酷な好奇心の業なのだろうか。
ハンナはフィーナの言葉に深く頷いた。
「ある日、ぷっつりと、ね。この村は戦地から離れていて平和さ。ただ平和ゆえに退屈なんさね。
そのせいで出て行ったのかもしれないし、他に好きな男が出来たのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
ともかくね、ケナちゃんの母親はある日、途端に見なくなっちまった。
ブロードの旦那は口を濁すだけだったね。そりゃあ、そうさ。女房がいなくなった、なんて旦那にとっては恥だからね。
恥だけじゃあない。ショックだったんだろうね。しばらく、ブロードの旦那も茫然とした感じだったさ」
「……」
「村に来たときは二人共若かったさ。どこを旅して来たかは知らないが、擦り切れた服と靴。あとは身一つで、こーんなちっちゃな赤ん坊のケナちゃんを抱えてね。村長のところに『この村に住みたい』、と言ってきた。
……この村にはね、実は戦地から逃げてきたような人間もいっぱいいるんだよ。
戦争に疲れちまってね。戦地から外れたこの村に流れてくるヤツも多かったから、村長は何も言わないで二人に村で暮らしていい、って言った」
「……」
「それが六年前さ。奥さんがいなくなったのは、それから一年もしないうちだった」
やや痛ましい表情でハンナは語る。だが、その傍らで話を聞かされていたフィーナの方が余程、困惑した表情をしていた。
解せない。何故、彼女が今、こんなことを語り出したのか。フィーナには、見当さえつかなかった。
ハンナは視線をケナから外し、フィーナを見た。小さく溜め息を吐く。
「悪いね。こんな話、聞きたくなかったろ」
「ん、えっと……」
「あたしゃお節介な性格でさ。でも、放って置けなくてね。
奥さんがいきなりいなくなって、しかもケナちゃんは赤ちゃんだった。放って置けなくてね。うちは子宝に恵まれなかったし、あたしもうちの亭主も、いろいろと面倒見てやってきたんだ。
ケナちゃんは赤ん坊だった。母親のことなんか覚えてないさ。
でも、旦那はまだ未練がある。見てれば分かるさ。あの人、ときどき遠すぎるくらい遠い目をする」
「そう、だったんですか……」
フィーナには曖昧に答えるしか術がなかった。
何だろう、ハンナはそのお節介の延長上でフィーナに何かを伝えようとしているのだ。だが、フィーナにはそれが見えて来ない。
「……フィーナちゃん」
「?」
「ブロードの旦那がどこからあんたを連れてきて、彼とどんな関係なのかは知らないよ」
「……」
「でもさ、旦那もケナちゃんも、少なからずあんたを好いているよ」
「そりゃ、良くはしてもらってますけど……」
「そうじゃないんだよ、フィーナちゃん」
何とか言葉を返そうと、しどろもどろに口を開いたフィーナの声を再びハンナは塞き止める。ハンナは優しく、しかし、何かを含んだ瞳で彼女を見た。
「……フィーナちゃんが着てるのは、いなくなった奥さんのものだね?」
「え?」
「分かるよ。あたしが編んだヤツだからね。
何で、他人のあんたに、旦那が素直に未練のある奥さんの服なんか貸してるか分かるかい?」
「……?」
首を傾げる彼女に、ハンナはぎゅ、と眉を寄せた。言い難いことを、苦々しく口にするような、快活な八百屋の女将にしては苦悶に満ちた表情だ。
ふと、ハンナは空を仰いだ。何かを思い出すように遠くを見て、もう一度、『彼女』を見て、頷いた。
「……似てるんだよ、あんたが。いなくなった奥さんに」
「――!」
「奥さんの名前、知らないだろ? 何の偶然なんかね、奥さんの名前はね、」
「『フィーナ』、って言ったんだ」
「・・・!」
『彼女』の脳裏に、この家で目が覚めたときの光景が掠める。ベッドの上で、自分の名前も思い出せずに頭を抱えていた『彼女』に、彼は、アレイアがぽつりと呟いた名前がそれだった。
それから、『彼女』はその呼び名で呼ばれるようになったのだ。
何故、素性の知れない、それも武器など下げた奇妙な女を、彼が家に迎え入れたのか。
未だに居候として留めていてくれるのか。
その疑問が、氷解していく。
『彼女』ははっ、としてハンナを見た。彼女は元のように笑いながら、しかし、どこか真剣な雰囲気を残したまま、
「フィーナちゃん、あんたがどこの誰で、旦那とどんな縁があったかは知らないよ。
いくら世話を買って出てた、って言っても、部外者は部外者。あたしゃ、ただの八百屋のおばさんさ。
だから、お節介なのは分かるんだよ。あんたが何者なのか、これからどうするつもりかは知らないけどさ……。
ブロードの旦那も正直、あんたを見て戸惑ってるようだし。ケナちゃんだって、あのときほど幼くない。
出来れば、傷つけないでやって欲しいんだよ」
「……」
『彼女』はそのまま沈黙する。唇を噛んで、俯いた。
答えられない問いだった。誓えない頼みだった。
ハンナは気づいているのだ。『彼女』が何者か、どこから来たのか、そんなことは知りもしないだろうが、『彼女』が、いつかここを出て行くことになるだろうことは気づいている。
そして、その『フィーナ』に似ているという『彼女』が出て行くことで、ずっと面倒を見てきたアレイアやケナが古い傷を思い出してしまうのを慮っているのだった。
けれど、『彼女』はそんな約束など出来るはずもない。
自分のことでさえ、何もわからない『彼女』が、約束出来るはずもない頼みだった。
だから、何も答えずに唇を噛むしか出来なかった。
気まずい沈黙が流れ、そして、
「あーッ、おかみさんッ!!」
重い沈黙を破ったのは、ケナの甲高い呼び声だった。我に返って視線を上げると、すぐ目の前にケナが駆け寄って来ていて、ぱっとフィーナの腕にぶら下がった。
「フィーナちゃん、元気ない?」
「へ?」
「ハンナさん、フィーナちゃんをいじめちゃだめー! フィーナちゃんはケナのなの!!」
ぷぅ、と剥れて言ったケナの台詞に、ハンナはしばしきょとんと目を丸くした後、小さく吹き出した。そのまま肩を震えさせながら笑い、しゃがんでケナの頭を撫でる。
「人聞きが悪いねぇ。誰もフィーナちゃんをいじめてなんかないさ」
「むー、本当?」
問われたのは『彼女』だった。
まだ剥れたままの彼女に、フィーナは、沈んだ気持ちを振り払うように笑いかけた。
「本当だってば。あたしがちょっとやそっとでいじめられるとでも思ってた?」
「ううん。だってフィーナちゃん、お父さんより強いもんね! 鬼さんより強い!」
「ちょっと、それどういう意味!?」
「あははははッ!」
拳骨を握って怒鳴ったフィーナに、ケナは楽しげな笑い声を上げて逃げるようにぐるぐると彼女の周りを回った。
その光景に、ハンナはどこか力が入ってしまっていた表情を緩ませる。静かな溜め息を吐くと、彼女はケナの襟首を捕まえて凄んでいたフィーナの肩を優しく叩いた。
「ごめんね。あたしが言うようなことじゃなかったね」
「いいえ……」
「迷惑なのは分かってるけどさ、最近、旦那も何だか元気なくしてるみたいだったからね……。
どうにも気になっちまってね。あんたには何にも関係のない話なんだろうけど……。
あんまり気にしないでくれていいよ。でも、どっかには留めて置いて欲しかったんだ」
「……」
フィーナは答える代わりに、軽いお辞儀で返した。誠実とは言えない返事だったが、ハンナはそれで納得してくれたらしい。
一瞬後には、ぱっと顔を上げて微笑んで、『また店で待ってるからね』と残して背を向けた。
ハンナの背中が豆粒ほどに小さくなった頃、くいくい、とスカートの裾を引っ張られる。
「……ん?」
「フィーナちゃん、ハンナさんと何話してたの?」
「んー、まあ、ちょっと……。大したことじゃないよ」
「……お母さんのこと?」
受け流そうとしたフィーナだったが、ケナの一言にひくりと反応してしまう。慌てて取り繕おうとしたが、視線を下げた先の幼いケナの顔は、真面目に引き締められていた。
「……ケナ、お母さんのことあんまり覚えてないの」
「……うん」
「お父さんは、お母さんはどこか遠いところに旅行に行ってるって言ってたけど、嘘だと思う。良く知らないけど。
だったら、フィーナちゃんをお母さんの名前で呼んだりしないよ……」
「……」
少しだけ俯いて、小さく呟くように彼女は言った。
幼い子供とは思えないほど、顔をしかめて、静かな声で。
「……ケナね」
「ん?」
「お母さんのことあんまり覚えてないけど、フィーナちゃんのこと好きだよ」
「……ありがと」
「たぶん、お父さんも、フィーナちゃんのこと好きなんだよ」
「……けど、それは」
「うん。フィーナちゃん、お母さんに似てるって言ってた。そのせいかもしれない。
でも、きっとフィーナちゃんがいなくなっちゃったら、寂しがると思うな」
ケナは俯いたまま、唐突にフィーナのスカートに顔を埋めた。
「ケナも、ケナもね……」
「……」
「フィーナちゃん、いなくなったら……さびしいな……」
「……うん」
曖昧に頷いて、フィーナはどうしていいかわからずに、ケナの小さな肩を抱き締めた。
嘘でも、『いなくならないよ』と言ってあげるべきなのかもしれない。けれど、そんな優しい嘘を吐けてしまうほど、『彼女』は大人ではなかった。
それに――
――この間の……
村長の家に行って、石段から落ちたあの日。
背後には誰もいなかった。けれど、確かにフィーナは誰かに背中を押されたのだ。それだけではない。お菓子屋さんで感じた、あの射るような殺気。石段から転落して、アレイアに助けられたあの後、じっとこちらを見ていたあの異質な雰囲気の漂う女は、一体何者なのだろうか……。
最近、不可思議なことが起こっている。何ともないこと、他愛もないことと、意図して考えないようにしていた。
そうしなければ、仮初とはいえ『彼女』に今の唯一の居場所であるここが、一瞬のうちに失くなってしまうような気がした。
でも、その一方で。
誰も飲めないはずのコーヒー、助けられた一瞬の紡ぐはずのない誰かの名前。
アレイアが、『彼女』を通していなくなった女性を思い出しているように。
『彼女』も、もしかしたら、彼を通して何か思い出しつつあるのではないだろうか――
だとしたら。
―― ……あたしは、どうしたらいいの……?
力なく首を振る。
「ケナちゃん」
「……なぁに?」
「買い物、行こっか」
「……」
ケナは一段と強く抱き着いたあと、ぱっと顔を上げた。そこには、いつもの元気な笑みが浮かんでいた。
「うん! 行こう、フィーナちゃん」
「……じゃあ、バスケット置いて来るから待っててね」
「うん!」
不思議だ。何だかこんなに小さなケナの方が強くて、大人に見えてしまう。
フィーナは精一杯の笑みを彼女に返すと立ち上がった。バスケットを持って立ち上がり、玄関に入る。
ちらり、と外を見ると、玄関の柱に背をつけながら鼻歌を歌っているケナが見えた。
フィーナはバスケットを持ってキッチンに入っていく。ひんやりとした床にバスケットを置いて、唐突に思い出す。
腰を折って、フィーナは食器棚の裏側を覗き込んだ。ぺらり、と紙のようなものが張り付いている。
先日見つけて、すっかり忘れていた。忘れたままだった方が良かったのかもしれない。
「……」
『彼女』は手を伸ばして、その紙を少しだけ引っ張った。ぺり、と僅かな音を立てて、難なく剥がれる。
ただの白い面を裏返してみる。
意図的に飾ってあったものを裏返していたのか。それとも、もともとは飾られていたものが、隙間風の影響で中途半端に剥がれて裏になっていたのか。
それは一枚の写真だった。
映っているのは他でもない、アレイアと、もう一人。
長い金色の髪をふわりを靡かせて、ケナと同じ葡萄色の瞳を細ませた――
小さな赤ん坊を抱いた女性が、柔らかく微笑んでいた。
「……」
『彼女』は無言で首を振る。
そして、それを隠すように食器棚の奥へと裏返しにそっと置いた。
風に血の匂いが混じっている。ラーシャは知らず知らずのうちに深めてしまっていた眉間の皺を、無理矢理に引き伸ばした。
白の軍服の裾が風に攫われる。目の前に広がるのは広い草原で、その一角に草色のテントが群がっているのが見える。
八咫鴉の旗を掲げた大きな兵軍だった。
東の空を見る。暗い夜空に、東の山端にだけ光が漏れている。朝が近い。
「コンチェルト少佐の策は成るでしょうか?」
「……分からん」
明朝になったことを悟って、硬い声でデルタが問いた。ラーシャは正直に答える。
平原での決戦がなされる日だった。あと一時間もしないうちに、あの平原の陣には火が放たれる。風向きは北から南。乾いた冷たい風が、火の周りを早くする。それを素直に喜べない罪悪感と戦いながら、ラーシャは薄暗い朝の中で、ただ静かに八咫鴉を睨んでいた。
相手は大軍を率いている。成功する可能性は五分。失敗する可能性も五分。
北都ゼルフィリッシュからは援軍を呼んでいる。どれほどの規模になるかは、シェイリーンの交渉次第だろうが、届く書面を見た限りではあまり期待は出来そうもない。
さらに悪いことに、第三関所が落とされたという凶報もラーシャの元に届いていた。関所にいた魔道師と兵士の無事は伝えられたが、共にいた客将二人は未だに行方不明だ。
「……今、エイロネイアがあちらに軍を割くとは思わなかった。私の失策だな……」
「予測出来ないことでした。
コンチェルト少佐が第三関所の状況の確認と、お二方の捜索を急いでいます。先に失踪されたお三方の行方も含めて」
「ああ、わかっている」
答えながら彼女は唇を噛み締めていた。
こんな情けないことがあるか。大陸からの客将の身柄は保障するだのとほざいたのは、どこの誰だったのだ。
シリアもアルティオも、望んでバラック・ソルディーアに滞在していた。
だから、これは彼らの選択であったのかもしれない。けれど、彼らをこの地へと招き、そもそもの原因を作ったのは間違いなく彼女だった。
自責の念に苛まれながら、ラーシャは将として虚勢に胸を張るしかないのだ。それはひどく空っぽで虚しい行為だった。
――今の私を見て……姉上とあの子はどう思うのだろうな……。
ラーシャは次第に強くなる東の光を目に留めながら、自嘲気味に笑った。軽く首を振る。
冷たい剣の柄を握り締め、ラーシャは今一度、ジルラニアの夜明を瞼に焼き付ける。ラーシャはこの暁にならなくてはならない。このゼルゼイルの暗い夜に、光と風を送る人間にならなくてはならないのだ。
それが最初で最後の約束なのだから。
「エイロネイアの皇太子は、どう出るでしょうか」
「……わからん。だが、精一杯で迎え撃つしかない。これ以上、ゼルゼイルの大地をあの悪魔に好き勝手にさせるわけにはいかない」
"戦場の悪魔"、"漆黒の死神"。
兵士たちからそう揶揄されるかの人物は、あの平原で今もこちらを嘲笑っているのだろうか。それとも、別の場所から高みの見物を気取っているのだろうか。
――エイロネイア皇太子……このままでは、済まさぬ……!
白んだ太陽が、半分だけ顔を出した。
時間だ。
ラーシャは平原から視線を外し、自らが敷いた軍を振り返った。やがて平原に火が放たれる。出陣の時間が、迫っているのだ。
デルタはまだ平原を睨んでいた。あそこから火の手が上がるかどうか、すべてはそれにかかっている。成功か、失敗か。それを判断するのはこの高見櫓の兵士と、己の眼だけだった。
静寂が、その場を支配する。
ごくり、と固唾を飲み込むと同時に、やたら冷えた汗がデルタの頬を伝っていった。
たった数分が、とんでもなく長い時間に感じられた。
カーン、カーン、カーンッ!!!
「ッ!」
突然だった。
甲高い鐘の音が、二人の、そしてシンシアの兵士たちの耳を貫いた。はっとしたラーシャとデルタが、丘の上から平原を見下ろした。
草色のテントが敷かれた陣の向こうが明るい。明るすぎる。そして、赤い。
兵士たちから『わあああぁぁぁ!!』と歓声が上がった。ラーシャとデルタは互いに視線を合わせて頷く。
十字を切る暇もない。軍の先頭に立っていたレスターを振り返ると、彼は馬上で剣を抜いた。
「成功だ! これより出陣する! これは防衛線だ! 出過ぎるな、炎に巻かれるぞ!!」
「分かってますよ、姐さん!」
血気も盛んにレスターが答えてきた。ラーシャは自らも馬に跨ると剣を抜く。
銀の刃の切っ先を、燃え盛る陣の向こうに向ける。すっ、と息を吸い込むと赤すぎる暁を睨みながら、声を張り上げた。
「全軍、前へ!」
響く歓声とともに、蹄の音が幾重にも重なって大地を揺らした。
←11-02へ
万事休す。
そんな単語が頭を掠めた。だが、すぐに振り払う。
「シリア、大丈夫か?」
「大丈夫に決まっているじゃない。私を誰だと思っているのかしら?」
アルティオは、実はうちのメンバー内で一番強がりなのは彼女なのではないかと思い始めていた。額に玉のように汗を掻き、唇を噛んでいる姿では、まるで言葉に説得力がない。
彼女は二、三度深呼吸して、改めて窓の外を見た。
翻る八咫鴉。それを意味するものは一つしかない。エイロネイア軍だ。
「……どれくらいの規模か分かる?」
「……」
兵士が押し黙った。分からない、というよりはそれを口にするのが憚られる、といった表情だ。
シリアがもう一押しすると、一人の兵士が口を開いた。
「それが……砦が、エイロネイア側から包囲されているようで……」
「何ですって!?」
シリアは思わず甲高い声を荒げた。アルティオが舌を打つ。
シリアがぶんぶんと首を振る。高めに結ったポニーテールが揺れた。
気持ちは分かる。この砦はけして戦地のただ中にあったわけではない。だからこそ、シェイリーンはこの地に逃れて来ていたのだ。
かといってそう遠いわけでもなかったが、それにしたって砦一つを囲めるほどの兵を差し向けてくるなんて考えられなかった。
策だの何だのに疎いアルティオだって分かる。
砦から馬で三日駆けた場所――ジルラニア平原では、次なる大戦が勃発しようとしている。そんなときに、こんな砦に兵を差し向けて来るなんてありえない。
いや、もしやもう魔道研究のことが明るみに出たのだろうか。それで、元を断つために大軍を……?
いやいや、それでこんなに兵を割くなんて、そんな馬鹿なこと。それとも、また何かの策なのか。
シリアは深呼吸を繰り返す。深呼吸は彼女が落ち着きを取り戻すためにやる癖のようなものだ。
アルティオは腹に力を入れる。雰囲気と、窓からの情景に潰されてしまわないように、わざと口元に笑みを浮かべた。ぽん、と彼女の背中を叩く。
「まあ、慌てなさんなって。こんなときのために準備はしてきたじゃねぇか」
「……そうね」
それでも神妙な顔を崩さずに、シリアは爪を噛む。
そう、準備。カノンたちの捜索の合間にこちらを手伝ってくれていた、本職の軍人であるティルスが、ジルラニアの大戦に出向かなければいけなくなってから、シリアはずっと考えていたのだ。
内部にエイロネイアの諜報員がいるのなら、いつかはここが割られる。
いつまでも、この砦を研究の中枢に据えて置くわけにはいかない。だから、準備をして置いた。勿論、戦う準備じゃない。逃げる準備だ。
こんな場所で、本職の軍人もいない状況で真っ向から戦うなんて、無謀もいいところなのだから。
シリアはもう一度だけ深呼吸をする。切れ長の目で、アルティオの顔を見上げて来る。足が竦んでくるのを堪えて頷いた。
「……地下の魔道師たちに伝えて。予定通り行くわよ」
「エリシア様。やっぱり私、解せないんですけど……」
「何が?」
ぼそり、と呟いたリーゼリアにエリシアは鼻歌混じりに聞き返す。まだここからは見えないが、もう少し丘を下れば、敵の居城であるちっぽけな砦が見えてくるはずだ。
馬上で不服そうな顔をしたリーゼリアが、憮然としたまま言葉を続ける。
「何で、この大戦が起こってる、ってときに七征が二人もあんな小規模な砦に回されるんです?」
――どっちかっていうと、貴方は殿下と別行動っていうのが気に喰わないように見えるけどねぇ。
青い少女相手に喧嘩を売っても仕方がない。同じ青い人間でも、あの白子の専属魔道師だけは、どうにも気に入らないけれど。
エリシアはくすり、と笑いを漏らしてから手綱を握り直す。
「そうねぇ……今の状況では、逆に大部隊ってのは邪魔だからかな」
「邪魔、ですか?」
自分が邪魔者扱いされたように聞こえたのか、リーゼリアの表情がさらに険しくなる。
「まあ、そんな顔をするものじゃないわ。殿下は勿論、本戦から離れられないし、アリッシュは殿下の片腕同然だしねぇ。
あの小生意気な魔道技師は自分に利益のあること以外には腰を上げないし、 大陸から帰ってからただでさえ不安定だった精神面がさらに脆くなってるようだし?
かといって、お子様にいくら規模が小さくても戦一つ任せるわけにいかないじゃない?
ましてや――・・・あの人にやらせるわけにもいかない。
殿下にとってみれば至極、当然な采配だと思うけど?」
「それは……そうですけど」
リーゼリアは小さな溜め息を一つ、吐いた。
「それに向こうはエイロネイアに対抗して、魔道研究なんてものに着手して、切り札を手に入れようとしてるんでしょ。
知ってる? 切り札、っていうのは同時にアキレス腱なの。
切り札を落せば相手の戦意を削げる。切り札になり切っていない時期を叩けば、叩きやすい。今の頃合が一番ダメージになる、ってわけ」
「まあ……そうですね」
至極、ポジティブな解説をしてやったのに、彼女はまだ浮かない顔で手綱を引く。エリシアは可愛いものだ、と思う。そしてエゴの強い女だとも。くくく、と漏れた笑みは微笑みか、嘲りか。
「そんなに悲観しなさんな。ここを落したらご褒美に殿下からいろいろ貰えばいいじゃない。夜の時間とか」
「馬鹿なこと言わないでください」
ぷい、とリーゼリアは顔を逸らす。その鼻の頭が赤い。エリシアはまた小さく笑って手綱を引いた。そして、ふとその音に気づく。
進軍する兵軍の正面から、鎧を着た兵士が馬で駆けてくる。遠目だったが、エリシアはその兵が先行させていた兵の一人であることに気がついた。
馬を止める。
「……どうしたんでしょうね」
「さぁ?」
出迎えなど不要のはずだった。そもそも、エリシアとリーゼリアが現地に着くより先に制圧させようか、とも考えていたのだ。
いくら魔道師たちの拠点といっても、所詮は筋力もない輩だ。魔力が尽きれば、それで終わる、はずだった。
だが、馬を駆けてきた兵士の蒼白な顔色にただならぬものを感じて、エリシアは眉間に皺を寄せる。
「ご、ご報告します……」
「何があったの?」
兵士は焦りで舌が回っていなかった。ままならない言葉に、多少の苛立ちを感じながらも、エリシアは問いかける。
「と、砦が」
「砦が?」
「砦が、我々の前で、突然……」
兵士は一度固唾を飲み込む。そして一気に言った。
「砦が……突然消えました……!」
「これは……何ていうか、すげぇな……」
淡い光に全身を照らされながら、アルティオが呻くように言う。
砦の一階の広間。およそ五十人は収納できるだろう、石部屋の中に巨大な方陣が描かれていた。その方陣が、薄緑色に輝いて、アルティオやその他の兵士の顔を淡く照らしているのだった。
「付け焼刃だったけど……上手くいったかしら?」
窓からちらちらと外を確認しながら、シリアが漏らす。丘陵に陣取っているエイロネイア軍は動きを見せない。
ふぅ、とシリアは溜め息を吐いて肩に力を入れる。
「すげぇな……本当に外からこの砦、見えてねぇのか?」
「ええ。そのはずよ」
アルティオの問いに、汗を拭いながら答える。
「幻術、ってやつなのか? こんな大掛かりなの初めて見たぜ」
「そうね。性格には幻霊術の一種。床の紋はそのための結界。
幻覚を見せる術、っていうのは個人にかけるだけなら呪文だけで十分だけど……。その対象の頭にちょっとした錯覚を起こしてやればいいだけだからね。
でも、集団を騙すには少し骨が折れるのよ。結界を張って、その結界を利用して三百六十度から幻覚を見せなくちゃいけない。
今は十人でその結界を維持してるのよ」
彼女は方陣の回りに立つ、先ほどまで地下にいた魔道師たちを差した。
「――でも、いつまでも騙せるわけじゃないわ……。
所詮は幻。砦は見えていなくても、現存はしているのだ。いつまでも騙されてくれるほど、エイロネイアも馬鹿ではないだろう。
もしかしたら、この瞬間にも指揮官クラスの人間にはバレているかもしれない。何と言っても、相手はあの皇太子本人かその部下なのだ。
方陣の周りの、十人の魔道師たち。その周りで構えているのは見張りをしていた五人の兵士。そしてシリアとアルティオ。
今、砦の中にいるのはこれだけだ。
いつか場所が割られ、襲撃されるのを恐れてから、シリアとティルスは砦の中の人材を減らしていった。
一時期はそれこそ五十人の魔道師が滞在していた第三関所バラック・ソルディーア。シンシア軍の魔道師のうち半分以上がこの小さな砦の中に終結していた。魔道研究の巨大な拠点となっていた代わりに、その場所は間違いなくシンシア軍のアキレス腱だった。
だから、シリアとティルスは、指示を出した後、各地に魔道師を散らしたのだ。いつ、拠点が落ちても作戦そのものは続行できるように。
仮初の拠点であるここが、いつ落とされても良いように。
いざというときに、全員が逃げ切れるよう、人数は極少にしておいた。
――でも、これほどの大軍なんて……
「くッ……」
漏らしそうになった一声を、呻き声で消し飛ばす。
シリアは軍人ではない。本当なら、こんな指揮は階級持ちの軍人の仕事だ。それが、ただの大陸からの客将であるシリアに任されるなど……山の向こうの大戦は、それほどまでに切羽詰っているのか。
彼女は首を振る。
守ると決めたのだ。レンや、カノン、それにルナが帰って来るための場所は、自分とアルティオのいる場所なのだから。
「ッ!」
とんとん、と肩を突付かれて、一瞬びくりと震える。
振り向くと、先ほどと同じ、愛嬌のある顔を張り付けた大男が背後に立っていた。あまりに不器用なウィンクを投げてくる。
「ふん、何のつもりかしら?」
「いやさ、何か柄にもなく緊張してるなー、って」
「乙女に言うセリフじゃなくってよ、アルティオ。慎みなさいな。それから私の柔肌に触れられるのはレンだけよ」
ふん、と鼻を鳴らして肩に置かれた手をぺしり、と払う。
叩かれた手を少し擦って、アルティオは曖昧に苦笑した。
「その方がらしいって」
「……」
虚をつかれたように彼女は腕を組んだまま、切れ長の目を少しだけ見開いた。しかし、次の瞬間にはふん、ともう一度鼻を鳴らして、ヒールをかつかつ言わせながら広間の中央に立つ。
彼女が息を吸い込むのを見て、アルティオも気を引き締めた。
「……じゃあ、手はず通り。アルティオ」
呼びかけられて、アルティオは部屋の一角に駆けていく。石造りの壁に、細い亀裂が入っていた。
しゃき……ッ!
月陽剣を抜き放った金属音が静かに響く。そして、
がらんッ!!
彼が壁の低い位置に件を叩きつけた瞬間、石壁が崩れた。丸く、ちょうど人一人分が通れるほどの通路。
広間に風が吹き込む。冷たく、暗い風が全員の肌をなぞって、鳥肌を立てさせた。
シリアとアルティオは視線を合わせて頷く。
戦術に使う砦には必ず存在する隠し通路だ。穴の開いた向こう側は冷たい土の壁が続く暗い道。誰かが覗き込んで、その深さに息を飲んだ。
シリアが、最後の深呼吸を吐く。
「二人ずつ……兵士の方から、ね。灯りを忘れるんじゃないわよ。
魔道師は彼らが行ったら、一人ずつ抜けていくこと。
ラーシャが言うには、通路は北の洞穴に繋がっていて、第一関所近くの森に出るらしいわ。一番手は第一関所に着いたら、北都のシェイリーンと前線のラーシャに連絡。全員の生存が確認できたらもう一回伝令。
いいわね?」
「あの……」
兵士の一人が淡く光る方陣を眺めながら、伺うように小声で切り出す。
「いつまでエイロネイアを足止めできるのでしょうか?」
「わからないわ。でもまだ距離もあるし、砦は見えていない。突撃命令はまだ出ないでしょう。
相手の偵察部隊が来て、見破って、帰って報告する。最低でもこの時間は稼げるはず。
その間に……」
「この方陣は……魔道師がいなくなったら消えてしまうんでしょう?
だとしたら、最初の魔道師一人が抜けた瞬間に、突撃されるのでは……」
「……」
兵士たちがわずかにざわついて、顔を見合わせる。だが、シリアはいとも平然と方陣が放つ光の真ん中にいた。
「……その心配はないわ」
「え?」
兵士が怪訝な表情を浮かべる。シリアはもう一度、アルティオと視線を合わせる。
彼は珍しく神妙な面持ちで固唾を呑んだ。しかし、その一瞬後にはにやり、と笑う。シリアは一瞬目を閉じて、何かの決意を込めた視線を返した。
広間の窓の向こうで、八咫鴉の紋が翻る。シリアはその鴉を今一度、睨み返した。
「ふーん……なるほどね」
困惑した兵士たちの合間に立って、エリシアはそう漏らす。浮き足立っている一般兵を見下しながら、彼は笑みさえ浮かべていた。
隣で渋い顔をしているリーゼリアは堪り兼ねて、彼の軍服を突付いた。
「エリシア様ぁ。何なんですか、あれ?」
「たまには自分で頭使いなさいな、お尻の青い小娘ちゃん」
「青くなんてないです! ……たぶん、ですけど。元々あった砦には魔道師が集まっていたんでしょう?」
「そうね。魔道研究の拠点、というくらいだもの。普通は魔道師を複数集めてるでしょうね。警備も厳重にしてるはず」
リーゼリアは頬に手を当てる。僅かに唸って、改めて、風が吹くだけの空の草原と低い丘とを見下ろした。
「関所はついさっきまで兵士たちの目の前にあった。なのに、一瞬で消えた。
まさか、関所そのものが空間転移したなんてこと……」
「ないわね。確かにシンシアが魔道研究に着手したとは言っても、まさか半月でそんな収穫があるわけはないでしょう」
「ですよねぇ。とすると……」
はた、とリーゼリアが動きを止める。
「やっぱり幻覚、ですか?」
「そうね。一瞬、第三関所をぶっ壊して、今の今まで関所があるように見せかけていたのかとも思ったけど。
でも、少なくとも半月前までは現存してた。来るか来ないか解らない襲撃のために、貴重な砦を壊すなんてナンセンスだし、壊したとしても、瓦礫なり土なりもっと痕が残っていていいはずでしょう」
「っていうことは……」
「そうね。その逆。
中の魔道師勢で砦はないように見せている。もっとも、視覚はともかく触覚にまで影響するような術なんて人間にはちょっとやそっとでは出来っこないだろうし。
送った偵察部隊が帰って来ればはっきりするでしょうよ」
「でも、エリシア様」
納得しきれない表情で、リーゼリアが眉を潜める。
「連中、そんなことしてどうしようって言うんですか? いつまでも通用するはずないし、無駄に戦力になる魔道師の魔力をがりがりに削るだけじゃないですか」
「そうねぇ……」
エリシアは笑みを絶やさない。考えに煮詰まったリーゼリアは、そのまま沈黙してエリシアの次の言葉を待った。
しかし、待てども次の言葉は返って来ない。痺れを切らしたリーゼリアは唇を尖らせて、
「エリシア様、何か考え付いたんですか?」
「いいえぇ、別に」
何か含みのある表情で、エリシアはころころ笑う。何か気に喰わなくて、リーゼリアは少しだけ頬を膨らませた。
丘の方に目をやって、ふと気づく。先ほど送り出した偵察隊が、慌しい雰囲気で馬を駆けてくるのが見えた。
どぉんッ!!
『!?』
唐突に砦を襲った横揺れに、広間の中は騒然となった。肩を震わせる魔道師たちに、シリアは『集中しなさい!』と叱咤する。その額には玉のような汗が浮かんでいて、滴るたびに化粧を落してしまっていた。
兵士たちは既に穴の中に消えていて、残るは魔道師たちの半分。そんな頃合に響いた音だった。
広間の扉を気持ち的に押さえていたアルティオが、苦い顔で隙間から廊下を覗く。
「……バレたか?」
「そのようね」
広間内の魔道師たちに僅かな脅えの色が走る。彼らは戦場においては後方支援だ。研究一辺倒な魔道師も混じっている。
無理もない。すぐ背後にまで死肉を食らう鴉が構えていると聞いて、誰が脅えないのだろうか。
だが、その彼らをシリアは再び叱咤した。
「集中なさいな! でないと、ここにいる全員が助からないわよ!」
絞り出すような声だった。彼女自身も、集中を切らさないよう必死なのだ。
もう穴に消えた魔道師五人。先ほどまで十人で支えていた結界を、今はシリアを含めて六人で補っている。負担が小さいわけがない。
「今のは、爆撃っぽいな……」
「そうね……敵の魔道師か、もしくは」
シリアの脳裏に、船で味わったあの恐怖が掠めて通る。得体の知れない、あの無の砲撃。
焼けるのでもなく、凍りつかせるでもなく、ただ無に返す闇の砲撃だった。
シリアはその記憶を口に出そうとして、ぐっと堪える。そんな話をすれば、悪戯に魔道師たちの戦意を沿いでしまうだけだ。とんだ愚行だ。
「急げ! 次!」
はっ、として、方陣の中で俯いていた魔道師の一人が顔を上げる。ゆっくりと後退るように、方陣から出る。
「ッ!」
魔道師が方陣から外れた瞬間、シリアの表情に苦痛が走る。身体が、また一段と重くなるのを感じた。
魔道師は松明の先に灯りを灯そうとする。緊張と焦りが彼の手元を狂わせるのか、かちかちと火花が散るばかりで上手く行かない。
そのときだ。
どどどどどどど……ッ!
『!?』
遠い地響きが、砦の中にいた人間の耳を打った。動けない魔道師たちの代わりに、アルティオが窓に走って舌打ちをする。
低い山の向こうから駆けてくる馬の蹄の音だった。八咫鴉の旗が激しく舞い踊る。
誰かが、『ひっ』と情けない声を出した。動揺が広がった。
「くそ……ッ」
「……」
アルティオの苦々しい荒い声が、石段に叩きつけられる。シリアはぎりぎりと歯を噛み鳴らしていた。
思ったよりも早い。まだ避難は五人も残っている。それに、隠し通路の入り口を残してしまえば、あっさりと居場所は割れるし、何よりその通路を利用される可能性がある。
まだ、やらなくてはならないことが終わっていない。
シリアはしばし瞑目する。
だんだんと近くなる地響きの音に、冷静を失いかけている魔道師たちの浮き足立ったこそこそ話が、彼女の耳に入り込んできた。
しばらくして、彼女は顔を上げる。苦い、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻んで。
「……全員、方陣から外れなさい」
「シリア!?」
「五人、一列で穴に走る! 松明を持つのは先頭としんがりよ! 一度、洞穴に入ったら絶対に振り返らないこと!
第二関所に着いたらラーシャに報告を忘れるんじゃないわよ!」
一気にまくし立てた彼女に、魔道師たちは目を丸くする。
もともと、シリアは最後まで残る予定だった。一人一人、方陣から抜けていき、その一人分の魔力を、他の人間が補っていく。
身体に負担をかける荒い策だ。一人ずつ抜けるだけでも、かなりの苦痛を伴う。それでも、一人ずつ抜けるのなら、まだ身体の馴れとで多少の時間を耐え凌ぐことが出来る。
しかし、一度に五人抜けるということは。五人分の魔力の奔流が、一気に彼女の身体を襲うということだ。
彼女の身体にどれだけの負担がかかるのか、想像に難くない。
「あ、アレンタイル女史……いくらなんでも」
「いいから、男なら早くなさい! 決断は早く! このままじゃあ、砦ごと潰されるわよ!?」
シリアの叱咤に、魔道師たちの肩が嘶く。アルティオは歯を噛み締めながら、もたついている魔道師の手から松明を引ったくり、代わりに火を灯した。
「おら、さっさとしろ! 死にたくない奴から前に出ろいッ!!」
魔道師たちは顔を見合わせて、そして、おずおずと……
中央に立つ彼女の顔を伺いながら、
方陣の外に出た。
馬を駆っていたエリシアの目が笑う。すい、と細めた青碧の瞳は、嘲るようにその形を捉えた。
彼の目にでさえ、ぼんやりとしか映っていなかった砦の輪郭が、ぐにゃりと曲がった空間と共に確固たる形を取り戻す。
未だに視覚に映らないことへ不安を抱いていたらしい兵士たちの、ぉぉぉ!という歓喜の声が上がる。エリシアは口元の笑みを絶やさないまま、本当に、馬鹿な人間ばかりだと笑う。
「何考えてるんですか? 笑ってばっかりで気持ち悪い」
同じように馬を駆るリーゼリアが問いてくる。耳元で唸る風のせいで、途切れ途切れではあったが、エリシアはふん、小さく笑い、
「馬の上でお喋りしてると舌噛むわよ」
とだけ返しておいた。
一階の廊下の向こうから、どん! どん! と耳障りな音が響いて来る。丸太か何かで、錠のかけた扉を貫こうとしているのだろうか、まったく紳士じゃない。
けっ、とアルティオは吐き捨てて、魔力を使い果たしてしまって気絶したシリアを支え直した。
視線を上げれば、ぽっかりと大きく開いた暗い洞穴がある。最後の一人が穴の中に消えて、しばらくもしない間に方陣は光を失って、シリアはその真ん中で崩れ落ちた。
もう少し、彼がぼんやりしていたら、床に激突していたかもしれない。普段、人一倍、身体に傷を作ることを嫌う彼女なのに。
「ったくよぉ……。お前といい、カノンといい、ルナといい……あの娘といい。
……女ってのは、自分の体の限度、ってやつを知らねぇのかよ」
悪態をついて、一度、シリアの細い身体を横たえて、彼は立ち上がった。
どん! どん!という音に混じって、めきり、めきッ、というこれまた不快な音が聞こえてくる。さて、後どれくらいあの頑丈なはずの鉄扉は耐えてくれるだろうか。
立ち上がったアルティオは、身体を馴らすように、こきこきと首を鳴らす。ふーっ、と大きな、これからちょっとした体操でもするのかというような息を吐く。
「さて……」
視線の先に暗い洞穴を捉えて、彼はにんまりと笑った。
どがぁんッ!!
轟音を立てて、鉄の扉が乱暴に左右に開かれた。響いた轟音に脅えるようにして耳を塞いでいたリーゼリアが、きゃん、と子犬のような声を漏らす。
割れてしまったかんぬきが、石床に叩きつけられるのを見て、エリシアは嘲笑うような笑みを浮かべた。
「扉が鉄でもねぇ……かんぬきさえ壊れれば脆いもんね」
ぼそり、とエリシアが呟いた。その呟きが終わるよりも早く、兵士たちは砦の内部に踏み入る。
そして、最初の一歩で訝しく思う。
「……エリシア様、ここ……本当に、連中の拠点、なんですよねぇ……?」
さぞや盛大な歓迎があると思っていたリーゼリアは、眉を潜めた。
エリシアは依然として笑みを讃えたままで、人気の感じない一階を見渡す。目を細めて、部屋内を探索するように兵士に言いつける。
すぐ後ろにいた兵士に、砦の周囲を固めるように指示を飛ばした。
がしゃがしゃと鎧を鳴らして砦の内部に入っていく兵士たちを見送って、構えていたリーゼリアは拍子抜けしたように肩を下ろした。
「エリシア様。どういうことなんですかぁ?」
「まあ……まんまと嵌められた、ってことね」
「はぁ!? 嵌められたぁ?」
極、冷静に、それどころか、ますます笑みを強めながら、エリシアは砦の廊下を悠々と歩いていく。リーゼリアは慌てて後を追った。
「嵌められた、ってどういうことですかぁ!?」
「大声をだしなさんな、小娘。
今の今まで幻覚の術が行われていた、ということは、今の今まで私たちをここに近寄らせたくなかった、っていうことでしょう?
そんな時間稼ぎをしなきゃいけない理由なんて、そうそう幾つも考えられるわけじゃ……」
「え、エリシア様!」
切羽詰った兵士の声が、エリシアを呼んだ。奥の広間から一人の兵士が槍を振っている。
一瞬、顔を見合わせたエリシアとリーゼリアは、ほど同時に駆け出した。先に広間に辿り着いたエリシアは皆まで聞かず、部屋の中に入る。
それはすぐに目に入った。
部屋の片隅に兵士が群がっている。エリシアが近づくと、兵士たちは自然に割れた。
「……」
「うわ……」
その場所には、何十人と収納できる広間に飾られていた石像や、飾りだけの折られた柱、小さめのタンスや椅子などが、道を塞ぐように積み上げられていた。ちょっとやそっとでは、動かせそうにない。
ふと、倒れた石像を見ると、すっぱりと剣で斬られた痕がある。
他の柱にも像にも、同じような切り口があり、短時間に乱暴に重ねられたことを物語るように、皆ひびが入ってしまっていた。
「……」
ちょうど人一人分の背丈まで積み上げられた乱雑な塔の隙間に、エリシアは顔を近づける。
石壁が向こうに見えるはずのその先には、何もなく、ただ暗いぽっかりとした空間が空いているだった。
「……これはまた杜撰な隠蔽工作ね」
エリシアは呆れる。こんな見え見えのバリケードは意味がない。逃げた経路を見つけてくださいと言っているようなものだ。
「連中逃げたんですか?」
「でしょうね。拠点といっても、わざと人は極少にしてあったんじゃない? いずれ狙われることを予測してたんでしょう。
いつでも砦を捨てられるように、いつでも全員で逃げられるようにして置いたのよ」
「じゃあ、私たち、嵌められたってことなんですか!?」
最初から言っているでしょうに、とエリシアは息を吐く。
けれど、疑念に思ったことがあった。
この乱暴な工作。連中は果たして逃げた後に、この穴の内側からやったのか。 いや、そんな穴の内側から外側に、穴の上までいく高さまでものを積み上げられることは可能なんだろうか。
――否。たとえ、穴の中に積み上げるものを用意していたとしても、こんなけして大きいとは言えない穴、外側に積み上げるまでに、確実にどこかで支えてしまうはず。
第一、 側からやるなら内側に積み上げる。
となると、これはまさか――
「!」
エリシアが、ようやくその答えに辿り着く。壊れた柱の撤去作業を行おうとしていた兵士たちを振り返り、口を開いて、
ごぅんッ!!
「!?」
「きゃぁッ!?」
突如、響いた爆音に、リーゼリアが耳を抑えて蹲った。
思ってもみなかったその音に、兵士たちの手から折られた柱が滑り落ちて、さらに大きな音を立てた。
がしゃがしゃと鎧を鳴らす音が、広間の外から聞こえてくる。
「え、エリシア様! 砦の奥で爆発がッ、火の手が上がっています!」
「ええッ!?」
リーゼリアが同様の声を漏らす。エリシアは眉間に皺を寄せて、かつん、と踵を鳴らした。
「やっぱり、そういうこと……」
内側からこんな乱雑な工作は出来ない。ということは、『誰か』が外側からやったのだ。
この工作そのものには、大して意味はなくていい。本当に意味があるのは、この砦のこの場所に軍をひきつけること。
「全員、砦から退避しなさい! 今の爆音は油でも撒いてあるに違いないわ!
それから外の部隊に伝えて! まだ、周辺に『い』るわ! 辺りを十分警戒しなさい!!」
「エリシア様!」
エリシアが言い終えるより前に、もう一人の兵士が駆け込んでくる。兵士の額に浮かんでいる大量の脂汗に、嫌な予感がした。
一寸、息を整えて、彼は叫ぶように言う。
「裏口から……ッ、砦の裏口から、男が逃げました! 爆音で、我々が気を取られている隙に……ッ!」
「このお馬鹿ッ!」
聞くより先に罵声が飛んだ。
「全員、砦から退避! 裏の森には魔道師を配備させていたはずね!? あんたたちもすぐに追いなさい!」
耳元で唸る風と、ぱきぱきと歩を進めるたびに細い小枝が折れる音が、聴覚を邪魔する。
行く手を阻むように茂った小枝が、折られるせめての報復のように、アルティオの頬を、腕を、足を浅く傷つけていった。
抱かかえたシリアの身体に小枝が当たらないように、肩を上下させて抱え直す。
遠くから聞こえるがさがさという音に舌を打つ。思ったよりも、追っ手が動くのが早い。
エイロネイア軍に、脱走した兵士たちが第二関所に逃れたことは知られてはならない。そのためには脱走路を塞がなくてはならない。
当初は脱走路の内側から魔法か火薬で、入り口を崩してしまおうかという案も出た。
しかし、この地の地盤はそう固くない。下手をすれば、洞穴そのものが潰れてしまって、生き埋めになる可能性もある。
だから。
アルティオは自ら囮になったのだ。
全員を逃がした後、連中の足を止めるために脱走路を塞ぎ、砦に火を放つ。
脱走路を隠蔽するのなら、砦ごと隠蔽してしまえばいい。その役目のために、アルティオは幻覚の術を維持していたシリアと共に、最後まで残ったのだ。
そして油を撒いた部屋に松明を放り込み、扉を閉めてそのまま逃げた。
全員がその音に気を取られている間に、砦の裏口に立っていた二人の兵士を蹴り倒して脱走した。
砦の外に茂る森。鬱蒼、とまではいかないがそれなりに足跡を隠してくれるはずだった。だが、エイロネイアの指揮官は、期待したよりも利口で対応が早かった。
「くそ、待ちやがれッ!」
背後でがしゃがしゃと、かすかだが確かに鎧の音が聞こえる。普段なら身軽なのはアルティオの方だが、今はシリアを抱えている。
距離は、縮まってはいないが遠ざかってもいない。加えて一対多数だ。
ぎりッ――アルティオは歯を噛み締めて、前方を睨んだ。その上げた視界の中に、
「ッ!」
ぼんやりと、不自然な灯りを見つけた。
不自然に収束していく、赤い光。見覚えが、ある。というよりも、飽きるほど見てきた。
ルナが使うものと同じ、あれは……魔法の灯りだ!
「くそッ!」
抱えたシリアの細い肩をぐっと持ち上げて、アルティオは進路を変える。
――まさか、読まれてたのか? ンな馬鹿な!
ぎりぎりと歯を噛み締める。
視界の片隅で、赤い光が次第に大きくなる。あれが放たれるよりも先に、もっと遠くに離れなくては!
――くっそぉッ!!
足ががくがくと笑い出す。澱のように溜まりつつある疲労感に、膝を折りそうになるのを堪える。
視界の片隅で、赤い光が大きくなる。アルティオは、ぐったりと自分の腕の中に横たわる幼馴染に視線を走らせた。
――くそッ! こいつがここまで頑張ったんだぞッ!? カノンだって、レンだってルナだって! まだどっかで、そうさ! どっかで頑張ってんだ! 俺がここで終わるわけに……いかねぇんだよ!
「ちっくしょうぉぉぉぉぉッ!!」
ばしゅッ!
「ぎゃあッ!?」
「!?」
叫んだと同時だった。
乾いた音が、アルティオの耳を打つ。走りながら、ふと斜め後ろを振り返ると、そこには薄暗い闇が鎮座するだけ。赤い光は、片鱗も見られなかった。
「なんだ……?」
口にはするが、その疑念を確かめている暇はなかった。アルティオは肩で前方を遮る草木の枝を薙ぎ倒す。
ざッ!
目の前が開けた。その前に広がった光景に愕然とする。
からん、と足元から小石が転げ落ちる。足元に現れた、崖の淵から暗い底へ。
「……嘘だろ……」
ざーざーと水音がする。先ほどの方向転換で、抜けられるはずの道を逸れてしまったらしい。戻っている暇は、当然、ない。
アルティオは崖を覗き込んだ。結構、高い。下は水だが、確か高い場所から落ちると水は石よりも固くなるだか何だかいう話がなかったっけか……?
背後から、粗暴な『待てッ!』という声と、がしゃがしゃという耳障りな鎧の音が近づいてくる。
唇を噛み締める。気絶したままのシリアを見下ろして、庇うように抱え直す。
――悩んでる、余裕なんかねぇな!
「悪いな、シリア……。お前が肌に傷作るのが嫌いなのは、知ってるけど……
ここで死んだら、レンにももう会えないんだから。
だから、」
覚悟を決める。崖の淵に生えていた下生えを、恐怖心を振り払うように踏みつけて、
「少しだけ……我慢しろよな!!」
灰色の空に叫んで、アルティオは、一気にその崖を蹴った――。
←11-01へ
そんな単語が頭を掠めた。だが、すぐに振り払う。
「シリア、大丈夫か?」
「大丈夫に決まっているじゃない。私を誰だと思っているのかしら?」
アルティオは、実はうちのメンバー内で一番強がりなのは彼女なのではないかと思い始めていた。額に玉のように汗を掻き、唇を噛んでいる姿では、まるで言葉に説得力がない。
彼女は二、三度深呼吸して、改めて窓の外を見た。
翻る八咫鴉。それを意味するものは一つしかない。エイロネイア軍だ。
「……どれくらいの規模か分かる?」
「……」
兵士が押し黙った。分からない、というよりはそれを口にするのが憚られる、といった表情だ。
シリアがもう一押しすると、一人の兵士が口を開いた。
「それが……砦が、エイロネイア側から包囲されているようで……」
「何ですって!?」
シリアは思わず甲高い声を荒げた。アルティオが舌を打つ。
シリアがぶんぶんと首を振る。高めに結ったポニーテールが揺れた。
気持ちは分かる。この砦はけして戦地のただ中にあったわけではない。だからこそ、シェイリーンはこの地に逃れて来ていたのだ。
かといってそう遠いわけでもなかったが、それにしたって砦一つを囲めるほどの兵を差し向けてくるなんて考えられなかった。
策だの何だのに疎いアルティオだって分かる。
砦から馬で三日駆けた場所――ジルラニア平原では、次なる大戦が勃発しようとしている。そんなときに、こんな砦に兵を差し向けて来るなんてありえない。
いや、もしやもう魔道研究のことが明るみに出たのだろうか。それで、元を断つために大軍を……?
いやいや、それでこんなに兵を割くなんて、そんな馬鹿なこと。それとも、また何かの策なのか。
シリアは深呼吸を繰り返す。深呼吸は彼女が落ち着きを取り戻すためにやる癖のようなものだ。
アルティオは腹に力を入れる。雰囲気と、窓からの情景に潰されてしまわないように、わざと口元に笑みを浮かべた。ぽん、と彼女の背中を叩く。
「まあ、慌てなさんなって。こんなときのために準備はしてきたじゃねぇか」
「……そうね」
それでも神妙な顔を崩さずに、シリアは爪を噛む。
そう、準備。カノンたちの捜索の合間にこちらを手伝ってくれていた、本職の軍人であるティルスが、ジルラニアの大戦に出向かなければいけなくなってから、シリアはずっと考えていたのだ。
内部にエイロネイアの諜報員がいるのなら、いつかはここが割られる。
いつまでも、この砦を研究の中枢に据えて置くわけにはいかない。だから、準備をして置いた。勿論、戦う準備じゃない。逃げる準備だ。
こんな場所で、本職の軍人もいない状況で真っ向から戦うなんて、無謀もいいところなのだから。
シリアはもう一度だけ深呼吸をする。切れ長の目で、アルティオの顔を見上げて来る。足が竦んでくるのを堪えて頷いた。
「……地下の魔道師たちに伝えて。予定通り行くわよ」
「エリシア様。やっぱり私、解せないんですけど……」
「何が?」
ぼそり、と呟いたリーゼリアにエリシアは鼻歌混じりに聞き返す。まだここからは見えないが、もう少し丘を下れば、敵の居城であるちっぽけな砦が見えてくるはずだ。
馬上で不服そうな顔をしたリーゼリアが、憮然としたまま言葉を続ける。
「何で、この大戦が起こってる、ってときに七征が二人もあんな小規模な砦に回されるんです?」
――どっちかっていうと、貴方は殿下と別行動っていうのが気に喰わないように見えるけどねぇ。
青い少女相手に喧嘩を売っても仕方がない。同じ青い人間でも、あの白子の専属魔道師だけは、どうにも気に入らないけれど。
エリシアはくすり、と笑いを漏らしてから手綱を握り直す。
「そうねぇ……今の状況では、逆に大部隊ってのは邪魔だからかな」
「邪魔、ですか?」
自分が邪魔者扱いされたように聞こえたのか、リーゼリアの表情がさらに険しくなる。
「まあ、そんな顔をするものじゃないわ。殿下は勿論、本戦から離れられないし、アリッシュは殿下の片腕同然だしねぇ。
あの小生意気な魔道技師は自分に利益のあること以外には腰を上げないし、 大陸から帰ってからただでさえ不安定だった精神面がさらに脆くなってるようだし?
かといって、お子様にいくら規模が小さくても戦一つ任せるわけにいかないじゃない?
ましてや――・・・あの人にやらせるわけにもいかない。
殿下にとってみれば至極、当然な采配だと思うけど?」
「それは……そうですけど」
リーゼリアは小さな溜め息を一つ、吐いた。
「それに向こうはエイロネイアに対抗して、魔道研究なんてものに着手して、切り札を手に入れようとしてるんでしょ。
知ってる? 切り札、っていうのは同時にアキレス腱なの。
切り札を落せば相手の戦意を削げる。切り札になり切っていない時期を叩けば、叩きやすい。今の頃合が一番ダメージになる、ってわけ」
「まあ……そうですね」
至極、ポジティブな解説をしてやったのに、彼女はまだ浮かない顔で手綱を引く。エリシアは可愛いものだ、と思う。そしてエゴの強い女だとも。くくく、と漏れた笑みは微笑みか、嘲りか。
「そんなに悲観しなさんな。ここを落したらご褒美に殿下からいろいろ貰えばいいじゃない。夜の時間とか」
「馬鹿なこと言わないでください」
ぷい、とリーゼリアは顔を逸らす。その鼻の頭が赤い。エリシアはまた小さく笑って手綱を引いた。そして、ふとその音に気づく。
進軍する兵軍の正面から、鎧を着た兵士が馬で駆けてくる。遠目だったが、エリシアはその兵が先行させていた兵の一人であることに気がついた。
馬を止める。
「……どうしたんでしょうね」
「さぁ?」
出迎えなど不要のはずだった。そもそも、エリシアとリーゼリアが現地に着くより先に制圧させようか、とも考えていたのだ。
いくら魔道師たちの拠点といっても、所詮は筋力もない輩だ。魔力が尽きれば、それで終わる、はずだった。
だが、馬を駆けてきた兵士の蒼白な顔色にただならぬものを感じて、エリシアは眉間に皺を寄せる。
「ご、ご報告します……」
「何があったの?」
兵士は焦りで舌が回っていなかった。ままならない言葉に、多少の苛立ちを感じながらも、エリシアは問いかける。
「と、砦が」
「砦が?」
「砦が、我々の前で、突然……」
兵士は一度固唾を飲み込む。そして一気に言った。
「砦が……突然消えました……!」
「これは……何ていうか、すげぇな……」
淡い光に全身を照らされながら、アルティオが呻くように言う。
砦の一階の広間。およそ五十人は収納できるだろう、石部屋の中に巨大な方陣が描かれていた。その方陣が、薄緑色に輝いて、アルティオやその他の兵士の顔を淡く照らしているのだった。
「付け焼刃だったけど……上手くいったかしら?」
窓からちらちらと外を確認しながら、シリアが漏らす。丘陵に陣取っているエイロネイア軍は動きを見せない。
ふぅ、とシリアは溜め息を吐いて肩に力を入れる。
「すげぇな……本当に外からこの砦、見えてねぇのか?」
「ええ。そのはずよ」
アルティオの問いに、汗を拭いながら答える。
「幻術、ってやつなのか? こんな大掛かりなの初めて見たぜ」
「そうね。性格には幻霊術の一種。床の紋はそのための結界。
幻覚を見せる術、っていうのは個人にかけるだけなら呪文だけで十分だけど……。その対象の頭にちょっとした錯覚を起こしてやればいいだけだからね。
でも、集団を騙すには少し骨が折れるのよ。結界を張って、その結界を利用して三百六十度から幻覚を見せなくちゃいけない。
今は十人でその結界を維持してるのよ」
彼女は方陣の回りに立つ、先ほどまで地下にいた魔道師たちを差した。
「――でも、いつまでも騙せるわけじゃないわ……。
所詮は幻。砦は見えていなくても、現存はしているのだ。いつまでも騙されてくれるほど、エイロネイアも馬鹿ではないだろう。
もしかしたら、この瞬間にも指揮官クラスの人間にはバレているかもしれない。何と言っても、相手はあの皇太子本人かその部下なのだ。
方陣の周りの、十人の魔道師たち。その周りで構えているのは見張りをしていた五人の兵士。そしてシリアとアルティオ。
今、砦の中にいるのはこれだけだ。
いつか場所が割られ、襲撃されるのを恐れてから、シリアとティルスは砦の中の人材を減らしていった。
一時期はそれこそ五十人の魔道師が滞在していた第三関所バラック・ソルディーア。シンシア軍の魔道師のうち半分以上がこの小さな砦の中に終結していた。魔道研究の巨大な拠点となっていた代わりに、その場所は間違いなくシンシア軍のアキレス腱だった。
だから、シリアとティルスは、指示を出した後、各地に魔道師を散らしたのだ。いつ、拠点が落ちても作戦そのものは続行できるように。
仮初の拠点であるここが、いつ落とされても良いように。
いざというときに、全員が逃げ切れるよう、人数は極少にしておいた。
――でも、これほどの大軍なんて……
「くッ……」
漏らしそうになった一声を、呻き声で消し飛ばす。
シリアは軍人ではない。本当なら、こんな指揮は階級持ちの軍人の仕事だ。それが、ただの大陸からの客将であるシリアに任されるなど……山の向こうの大戦は、それほどまでに切羽詰っているのか。
彼女は首を振る。
守ると決めたのだ。レンや、カノン、それにルナが帰って来るための場所は、自分とアルティオのいる場所なのだから。
「ッ!」
とんとん、と肩を突付かれて、一瞬びくりと震える。
振り向くと、先ほどと同じ、愛嬌のある顔を張り付けた大男が背後に立っていた。あまりに不器用なウィンクを投げてくる。
「ふん、何のつもりかしら?」
「いやさ、何か柄にもなく緊張してるなー、って」
「乙女に言うセリフじゃなくってよ、アルティオ。慎みなさいな。それから私の柔肌に触れられるのはレンだけよ」
ふん、と鼻を鳴らして肩に置かれた手をぺしり、と払う。
叩かれた手を少し擦って、アルティオは曖昧に苦笑した。
「その方がらしいって」
「……」
虚をつかれたように彼女は腕を組んだまま、切れ長の目を少しだけ見開いた。しかし、次の瞬間にはふん、ともう一度鼻を鳴らして、ヒールをかつかつ言わせながら広間の中央に立つ。
彼女が息を吸い込むのを見て、アルティオも気を引き締めた。
「……じゃあ、手はず通り。アルティオ」
呼びかけられて、アルティオは部屋の一角に駆けていく。石造りの壁に、細い亀裂が入っていた。
しゃき……ッ!
月陽剣を抜き放った金属音が静かに響く。そして、
がらんッ!!
彼が壁の低い位置に件を叩きつけた瞬間、石壁が崩れた。丸く、ちょうど人一人分が通れるほどの通路。
広間に風が吹き込む。冷たく、暗い風が全員の肌をなぞって、鳥肌を立てさせた。
シリアとアルティオは視線を合わせて頷く。
戦術に使う砦には必ず存在する隠し通路だ。穴の開いた向こう側は冷たい土の壁が続く暗い道。誰かが覗き込んで、その深さに息を飲んだ。
シリアが、最後の深呼吸を吐く。
「二人ずつ……兵士の方から、ね。灯りを忘れるんじゃないわよ。
魔道師は彼らが行ったら、一人ずつ抜けていくこと。
ラーシャが言うには、通路は北の洞穴に繋がっていて、第一関所近くの森に出るらしいわ。一番手は第一関所に着いたら、北都のシェイリーンと前線のラーシャに連絡。全員の生存が確認できたらもう一回伝令。
いいわね?」
「あの……」
兵士の一人が淡く光る方陣を眺めながら、伺うように小声で切り出す。
「いつまでエイロネイアを足止めできるのでしょうか?」
「わからないわ。でもまだ距離もあるし、砦は見えていない。突撃命令はまだ出ないでしょう。
相手の偵察部隊が来て、見破って、帰って報告する。最低でもこの時間は稼げるはず。
その間に……」
「この方陣は……魔道師がいなくなったら消えてしまうんでしょう?
だとしたら、最初の魔道師一人が抜けた瞬間に、突撃されるのでは……」
「……」
兵士たちがわずかにざわついて、顔を見合わせる。だが、シリアはいとも平然と方陣が放つ光の真ん中にいた。
「……その心配はないわ」
「え?」
兵士が怪訝な表情を浮かべる。シリアはもう一度、アルティオと視線を合わせる。
彼は珍しく神妙な面持ちで固唾を呑んだ。しかし、その一瞬後にはにやり、と笑う。シリアは一瞬目を閉じて、何かの決意を込めた視線を返した。
広間の窓の向こうで、八咫鴉の紋が翻る。シリアはその鴉を今一度、睨み返した。
「ふーん……なるほどね」
困惑した兵士たちの合間に立って、エリシアはそう漏らす。浮き足立っている一般兵を見下しながら、彼は笑みさえ浮かべていた。
隣で渋い顔をしているリーゼリアは堪り兼ねて、彼の軍服を突付いた。
「エリシア様ぁ。何なんですか、あれ?」
「たまには自分で頭使いなさいな、お尻の青い小娘ちゃん」
「青くなんてないです! ……たぶん、ですけど。元々あった砦には魔道師が集まっていたんでしょう?」
「そうね。魔道研究の拠点、というくらいだもの。普通は魔道師を複数集めてるでしょうね。警備も厳重にしてるはず」
リーゼリアは頬に手を当てる。僅かに唸って、改めて、風が吹くだけの空の草原と低い丘とを見下ろした。
「関所はついさっきまで兵士たちの目の前にあった。なのに、一瞬で消えた。
まさか、関所そのものが空間転移したなんてこと……」
「ないわね。確かにシンシアが魔道研究に着手したとは言っても、まさか半月でそんな収穫があるわけはないでしょう」
「ですよねぇ。とすると……」
はた、とリーゼリアが動きを止める。
「やっぱり幻覚、ですか?」
「そうね。一瞬、第三関所をぶっ壊して、今の今まで関所があるように見せかけていたのかとも思ったけど。
でも、少なくとも半月前までは現存してた。来るか来ないか解らない襲撃のために、貴重な砦を壊すなんてナンセンスだし、壊したとしても、瓦礫なり土なりもっと痕が残っていていいはずでしょう」
「っていうことは……」
「そうね。その逆。
中の魔道師勢で砦はないように見せている。もっとも、視覚はともかく触覚にまで影響するような術なんて人間にはちょっとやそっとでは出来っこないだろうし。
送った偵察部隊が帰って来ればはっきりするでしょうよ」
「でも、エリシア様」
納得しきれない表情で、リーゼリアが眉を潜める。
「連中、そんなことしてどうしようって言うんですか? いつまでも通用するはずないし、無駄に戦力になる魔道師の魔力をがりがりに削るだけじゃないですか」
「そうねぇ……」
エリシアは笑みを絶やさない。考えに煮詰まったリーゼリアは、そのまま沈黙してエリシアの次の言葉を待った。
しかし、待てども次の言葉は返って来ない。痺れを切らしたリーゼリアは唇を尖らせて、
「エリシア様、何か考え付いたんですか?」
「いいえぇ、別に」
何か含みのある表情で、エリシアはころころ笑う。何か気に喰わなくて、リーゼリアは少しだけ頬を膨らませた。
丘の方に目をやって、ふと気づく。先ほど送り出した偵察隊が、慌しい雰囲気で馬を駆けてくるのが見えた。
どぉんッ!!
『!?』
唐突に砦を襲った横揺れに、広間の中は騒然となった。肩を震わせる魔道師たちに、シリアは『集中しなさい!』と叱咤する。その額には玉のような汗が浮かんでいて、滴るたびに化粧を落してしまっていた。
兵士たちは既に穴の中に消えていて、残るは魔道師たちの半分。そんな頃合に響いた音だった。
広間の扉を気持ち的に押さえていたアルティオが、苦い顔で隙間から廊下を覗く。
「……バレたか?」
「そのようね」
広間内の魔道師たちに僅かな脅えの色が走る。彼らは戦場においては後方支援だ。研究一辺倒な魔道師も混じっている。
無理もない。すぐ背後にまで死肉を食らう鴉が構えていると聞いて、誰が脅えないのだろうか。
だが、その彼らをシリアは再び叱咤した。
「集中なさいな! でないと、ここにいる全員が助からないわよ!」
絞り出すような声だった。彼女自身も、集中を切らさないよう必死なのだ。
もう穴に消えた魔道師五人。先ほどまで十人で支えていた結界を、今はシリアを含めて六人で補っている。負担が小さいわけがない。
「今のは、爆撃っぽいな……」
「そうね……敵の魔道師か、もしくは」
シリアの脳裏に、船で味わったあの恐怖が掠めて通る。得体の知れない、あの無の砲撃。
焼けるのでもなく、凍りつかせるでもなく、ただ無に返す闇の砲撃だった。
シリアはその記憶を口に出そうとして、ぐっと堪える。そんな話をすれば、悪戯に魔道師たちの戦意を沿いでしまうだけだ。とんだ愚行だ。
「急げ! 次!」
はっ、として、方陣の中で俯いていた魔道師の一人が顔を上げる。ゆっくりと後退るように、方陣から出る。
「ッ!」
魔道師が方陣から外れた瞬間、シリアの表情に苦痛が走る。身体が、また一段と重くなるのを感じた。
魔道師は松明の先に灯りを灯そうとする。緊張と焦りが彼の手元を狂わせるのか、かちかちと火花が散るばかりで上手く行かない。
そのときだ。
どどどどどどど……ッ!
『!?』
遠い地響きが、砦の中にいた人間の耳を打った。動けない魔道師たちの代わりに、アルティオが窓に走って舌打ちをする。
低い山の向こうから駆けてくる馬の蹄の音だった。八咫鴉の旗が激しく舞い踊る。
誰かが、『ひっ』と情けない声を出した。動揺が広がった。
「くそ……ッ」
「……」
アルティオの苦々しい荒い声が、石段に叩きつけられる。シリアはぎりぎりと歯を噛み鳴らしていた。
思ったよりも早い。まだ避難は五人も残っている。それに、隠し通路の入り口を残してしまえば、あっさりと居場所は割れるし、何よりその通路を利用される可能性がある。
まだ、やらなくてはならないことが終わっていない。
シリアはしばし瞑目する。
だんだんと近くなる地響きの音に、冷静を失いかけている魔道師たちの浮き足立ったこそこそ話が、彼女の耳に入り込んできた。
しばらくして、彼女は顔を上げる。苦い、眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻んで。
「……全員、方陣から外れなさい」
「シリア!?」
「五人、一列で穴に走る! 松明を持つのは先頭としんがりよ! 一度、洞穴に入ったら絶対に振り返らないこと!
第二関所に着いたらラーシャに報告を忘れるんじゃないわよ!」
一気にまくし立てた彼女に、魔道師たちは目を丸くする。
もともと、シリアは最後まで残る予定だった。一人一人、方陣から抜けていき、その一人分の魔力を、他の人間が補っていく。
身体に負担をかける荒い策だ。一人ずつ抜けるだけでも、かなりの苦痛を伴う。それでも、一人ずつ抜けるのなら、まだ身体の馴れとで多少の時間を耐え凌ぐことが出来る。
しかし、一度に五人抜けるということは。五人分の魔力の奔流が、一気に彼女の身体を襲うということだ。
彼女の身体にどれだけの負担がかかるのか、想像に難くない。
「あ、アレンタイル女史……いくらなんでも」
「いいから、男なら早くなさい! 決断は早く! このままじゃあ、砦ごと潰されるわよ!?」
シリアの叱咤に、魔道師たちの肩が嘶く。アルティオは歯を噛み締めながら、もたついている魔道師の手から松明を引ったくり、代わりに火を灯した。
「おら、さっさとしろ! 死にたくない奴から前に出ろいッ!!」
魔道師たちは顔を見合わせて、そして、おずおずと……
中央に立つ彼女の顔を伺いながら、
方陣の外に出た。
馬を駆っていたエリシアの目が笑う。すい、と細めた青碧の瞳は、嘲るようにその形を捉えた。
彼の目にでさえ、ぼんやりとしか映っていなかった砦の輪郭が、ぐにゃりと曲がった空間と共に確固たる形を取り戻す。
未だに視覚に映らないことへ不安を抱いていたらしい兵士たちの、ぉぉぉ!という歓喜の声が上がる。エリシアは口元の笑みを絶やさないまま、本当に、馬鹿な人間ばかりだと笑う。
「何考えてるんですか? 笑ってばっかりで気持ち悪い」
同じように馬を駆るリーゼリアが問いてくる。耳元で唸る風のせいで、途切れ途切れではあったが、エリシアはふん、小さく笑い、
「馬の上でお喋りしてると舌噛むわよ」
とだけ返しておいた。
一階の廊下の向こうから、どん! どん! と耳障りな音が響いて来る。丸太か何かで、錠のかけた扉を貫こうとしているのだろうか、まったく紳士じゃない。
けっ、とアルティオは吐き捨てて、魔力を使い果たしてしまって気絶したシリアを支え直した。
視線を上げれば、ぽっかりと大きく開いた暗い洞穴がある。最後の一人が穴の中に消えて、しばらくもしない間に方陣は光を失って、シリアはその真ん中で崩れ落ちた。
もう少し、彼がぼんやりしていたら、床に激突していたかもしれない。普段、人一倍、身体に傷を作ることを嫌う彼女なのに。
「ったくよぉ……。お前といい、カノンといい、ルナといい……あの娘といい。
……女ってのは、自分の体の限度、ってやつを知らねぇのかよ」
悪態をついて、一度、シリアの細い身体を横たえて、彼は立ち上がった。
どん! どん!という音に混じって、めきり、めきッ、というこれまた不快な音が聞こえてくる。さて、後どれくらいあの頑丈なはずの鉄扉は耐えてくれるだろうか。
立ち上がったアルティオは、身体を馴らすように、こきこきと首を鳴らす。ふーっ、と大きな、これからちょっとした体操でもするのかというような息を吐く。
「さて……」
視線の先に暗い洞穴を捉えて、彼はにんまりと笑った。
どがぁんッ!!
轟音を立てて、鉄の扉が乱暴に左右に開かれた。響いた轟音に脅えるようにして耳を塞いでいたリーゼリアが、きゃん、と子犬のような声を漏らす。
割れてしまったかんぬきが、石床に叩きつけられるのを見て、エリシアは嘲笑うような笑みを浮かべた。
「扉が鉄でもねぇ……かんぬきさえ壊れれば脆いもんね」
ぼそり、とエリシアが呟いた。その呟きが終わるよりも早く、兵士たちは砦の内部に踏み入る。
そして、最初の一歩で訝しく思う。
「……エリシア様、ここ……本当に、連中の拠点、なんですよねぇ……?」
さぞや盛大な歓迎があると思っていたリーゼリアは、眉を潜めた。
エリシアは依然として笑みを讃えたままで、人気の感じない一階を見渡す。目を細めて、部屋内を探索するように兵士に言いつける。
すぐ後ろにいた兵士に、砦の周囲を固めるように指示を飛ばした。
がしゃがしゃと鎧を鳴らして砦の内部に入っていく兵士たちを見送って、構えていたリーゼリアは拍子抜けしたように肩を下ろした。
「エリシア様。どういうことなんですかぁ?」
「まあ……まんまと嵌められた、ってことね」
「はぁ!? 嵌められたぁ?」
極、冷静に、それどころか、ますます笑みを強めながら、エリシアは砦の廊下を悠々と歩いていく。リーゼリアは慌てて後を追った。
「嵌められた、ってどういうことですかぁ!?」
「大声をだしなさんな、小娘。
今の今まで幻覚の術が行われていた、ということは、今の今まで私たちをここに近寄らせたくなかった、っていうことでしょう?
そんな時間稼ぎをしなきゃいけない理由なんて、そうそう幾つも考えられるわけじゃ……」
「え、エリシア様!」
切羽詰った兵士の声が、エリシアを呼んだ。奥の広間から一人の兵士が槍を振っている。
一瞬、顔を見合わせたエリシアとリーゼリアは、ほど同時に駆け出した。先に広間に辿り着いたエリシアは皆まで聞かず、部屋の中に入る。
それはすぐに目に入った。
部屋の片隅に兵士が群がっている。エリシアが近づくと、兵士たちは自然に割れた。
「……」
「うわ……」
その場所には、何十人と収納できる広間に飾られていた石像や、飾りだけの折られた柱、小さめのタンスや椅子などが、道を塞ぐように積み上げられていた。ちょっとやそっとでは、動かせそうにない。
ふと、倒れた石像を見ると、すっぱりと剣で斬られた痕がある。
他の柱にも像にも、同じような切り口があり、短時間に乱暴に重ねられたことを物語るように、皆ひびが入ってしまっていた。
「……」
ちょうど人一人分の背丈まで積み上げられた乱雑な塔の隙間に、エリシアは顔を近づける。
石壁が向こうに見えるはずのその先には、何もなく、ただ暗いぽっかりとした空間が空いているだった。
「……これはまた杜撰な隠蔽工作ね」
エリシアは呆れる。こんな見え見えのバリケードは意味がない。逃げた経路を見つけてくださいと言っているようなものだ。
「連中逃げたんですか?」
「でしょうね。拠点といっても、わざと人は極少にしてあったんじゃない? いずれ狙われることを予測してたんでしょう。
いつでも砦を捨てられるように、いつでも全員で逃げられるようにして置いたのよ」
「じゃあ、私たち、嵌められたってことなんですか!?」
最初から言っているでしょうに、とエリシアは息を吐く。
けれど、疑念に思ったことがあった。
この乱暴な工作。連中は果たして逃げた後に、この穴の内側からやったのか。 いや、そんな穴の内側から外側に、穴の上までいく高さまでものを積み上げられることは可能なんだろうか。
――否。たとえ、穴の中に積み上げるものを用意していたとしても、こんなけして大きいとは言えない穴、外側に積み上げるまでに、確実にどこかで支えてしまうはず。
第一、 側からやるなら内側に積み上げる。
となると、これはまさか――
「!」
エリシアが、ようやくその答えに辿り着く。壊れた柱の撤去作業を行おうとしていた兵士たちを振り返り、口を開いて、
ごぅんッ!!
「!?」
「きゃぁッ!?」
突如、響いた爆音に、リーゼリアが耳を抑えて蹲った。
思ってもみなかったその音に、兵士たちの手から折られた柱が滑り落ちて、さらに大きな音を立てた。
がしゃがしゃと鎧を鳴らす音が、広間の外から聞こえてくる。
「え、エリシア様! 砦の奥で爆発がッ、火の手が上がっています!」
「ええッ!?」
リーゼリアが同様の声を漏らす。エリシアは眉間に皺を寄せて、かつん、と踵を鳴らした。
「やっぱり、そういうこと……」
内側からこんな乱雑な工作は出来ない。ということは、『誰か』が外側からやったのだ。
この工作そのものには、大して意味はなくていい。本当に意味があるのは、この砦のこの場所に軍をひきつけること。
「全員、砦から退避しなさい! 今の爆音は油でも撒いてあるに違いないわ!
それから外の部隊に伝えて! まだ、周辺に『い』るわ! 辺りを十分警戒しなさい!!」
「エリシア様!」
エリシアが言い終えるより前に、もう一人の兵士が駆け込んでくる。兵士の額に浮かんでいる大量の脂汗に、嫌な予感がした。
一寸、息を整えて、彼は叫ぶように言う。
「裏口から……ッ、砦の裏口から、男が逃げました! 爆音で、我々が気を取られている隙に……ッ!」
「このお馬鹿ッ!」
聞くより先に罵声が飛んだ。
「全員、砦から退避! 裏の森には魔道師を配備させていたはずね!? あんたたちもすぐに追いなさい!」
耳元で唸る風と、ぱきぱきと歩を進めるたびに細い小枝が折れる音が、聴覚を邪魔する。
行く手を阻むように茂った小枝が、折られるせめての報復のように、アルティオの頬を、腕を、足を浅く傷つけていった。
抱かかえたシリアの身体に小枝が当たらないように、肩を上下させて抱え直す。
遠くから聞こえるがさがさという音に舌を打つ。思ったよりも、追っ手が動くのが早い。
エイロネイア軍に、脱走した兵士たちが第二関所に逃れたことは知られてはならない。そのためには脱走路を塞がなくてはならない。
当初は脱走路の内側から魔法か火薬で、入り口を崩してしまおうかという案も出た。
しかし、この地の地盤はそう固くない。下手をすれば、洞穴そのものが潰れてしまって、生き埋めになる可能性もある。
だから。
アルティオは自ら囮になったのだ。
全員を逃がした後、連中の足を止めるために脱走路を塞ぎ、砦に火を放つ。
脱走路を隠蔽するのなら、砦ごと隠蔽してしまえばいい。その役目のために、アルティオは幻覚の術を維持していたシリアと共に、最後まで残ったのだ。
そして油を撒いた部屋に松明を放り込み、扉を閉めてそのまま逃げた。
全員がその音に気を取られている間に、砦の裏口に立っていた二人の兵士を蹴り倒して脱走した。
砦の外に茂る森。鬱蒼、とまではいかないがそれなりに足跡を隠してくれるはずだった。だが、エイロネイアの指揮官は、期待したよりも利口で対応が早かった。
「くそ、待ちやがれッ!」
背後でがしゃがしゃと、かすかだが確かに鎧の音が聞こえる。普段なら身軽なのはアルティオの方だが、今はシリアを抱えている。
距離は、縮まってはいないが遠ざかってもいない。加えて一対多数だ。
ぎりッ――アルティオは歯を噛み締めて、前方を睨んだ。その上げた視界の中に、
「ッ!」
ぼんやりと、不自然な灯りを見つけた。
不自然に収束していく、赤い光。見覚えが、ある。というよりも、飽きるほど見てきた。
ルナが使うものと同じ、あれは……魔法の灯りだ!
「くそッ!」
抱えたシリアの細い肩をぐっと持ち上げて、アルティオは進路を変える。
――まさか、読まれてたのか? ンな馬鹿な!
ぎりぎりと歯を噛み締める。
視界の片隅で、赤い光が次第に大きくなる。あれが放たれるよりも先に、もっと遠くに離れなくては!
――くっそぉッ!!
足ががくがくと笑い出す。澱のように溜まりつつある疲労感に、膝を折りそうになるのを堪える。
視界の片隅で、赤い光が大きくなる。アルティオは、ぐったりと自分の腕の中に横たわる幼馴染に視線を走らせた。
――くそッ! こいつがここまで頑張ったんだぞッ!? カノンだって、レンだってルナだって! まだどっかで、そうさ! どっかで頑張ってんだ! 俺がここで終わるわけに……いかねぇんだよ!
「ちっくしょうぉぉぉぉぉッ!!」
ばしゅッ!
「ぎゃあッ!?」
「!?」
叫んだと同時だった。
乾いた音が、アルティオの耳を打つ。走りながら、ふと斜め後ろを振り返ると、そこには薄暗い闇が鎮座するだけ。赤い光は、片鱗も見られなかった。
「なんだ……?」
口にはするが、その疑念を確かめている暇はなかった。アルティオは肩で前方を遮る草木の枝を薙ぎ倒す。
ざッ!
目の前が開けた。その前に広がった光景に愕然とする。
からん、と足元から小石が転げ落ちる。足元に現れた、崖の淵から暗い底へ。
「……嘘だろ……」
ざーざーと水音がする。先ほどの方向転換で、抜けられるはずの道を逸れてしまったらしい。戻っている暇は、当然、ない。
アルティオは崖を覗き込んだ。結構、高い。下は水だが、確か高い場所から落ちると水は石よりも固くなるだか何だかいう話がなかったっけか……?
背後から、粗暴な『待てッ!』という声と、がしゃがしゃという耳障りな鎧の音が近づいてくる。
唇を噛み締める。気絶したままのシリアを見下ろして、庇うように抱え直す。
――悩んでる、余裕なんかねぇな!
「悪いな、シリア……。お前が肌に傷作るのが嫌いなのは、知ってるけど……
ここで死んだら、レンにももう会えないんだから。
だから、」
覚悟を決める。崖の淵に生えていた下生えを、恐怖心を振り払うように踏みつけて、
「少しだけ……我慢しろよな!!」
灰色の空に叫んで、アルティオは、一気にその崖を蹴った――。
←11-01へ
「あ」
唐突に、ケナが明るい声を上げた。ふ、と顔を上げると、老齢の男性と談笑するアレイアの姿が見えた。
「お父さーんッ!」
ぱっ、とフィーナの手を離したケナが駆け出した。やたら滅多に走るな、といういつも言っている忠告はどうあっても聞いてくれないらしい。
父親に駆け寄ったケナは、そのまま軽くジャンプして抱き着いた。気がついたアレイアが、慌てて抱き止めた。
一方でフィーナは、彼と話をしていた男性に頭を下げる。やんわりと微笑んだ男性は、お辞儀を返してくれた。
「ケナ、それにフィーナ。どうしたんだ?」
「お父さん迎えに来たの!」
彼のジャケットにしがみ付いたケナが『びっくりした?』と無邪気に笑う。アレイアはいつも通りにふっ、と笑って金髪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
それを微笑ましく眺めながら、フィーナは籠の中から買った菓子を取り出して、老人に手渡す。老人は少しだけ遠慮したが、
「いつも依頼を貰ってるんだから、受け取ってください」
というアレイアの言葉に、結局は笑顔で受け取ってくれた。
アレイアは抱き上げたケナを下ろして、まだ頭を撫でながらフィーナに向き直る。
「買い物の帰りか?」
「うん。仕事終わりが早いって言ってたから。ついでに迎えに行こう、って話になって」
「そうか。ありがとう」
アレイアはケナにもするように、ぽんぽん、とフィーナの頭を叩く。フィーナはまた無意識のうちに避けそうになって、けれど踏み止まって、少々ぎこちなく笑う羽目になった。
アレイアも気がついたようで、すぐに頭から手を離す。まずい。早く馴れないといけないだろう、これは。
「すまないけど、まだ話が終わってないんだ」
手を離してからすまなさそうに言う。ということは、仕事の話だろう。
「ああ、ブロードさん。何なら後日でも構わんよ」
「あ、いいですいいです。待ってますから。ケナちゃん、まだお父さん、お仕事の話があるそうだから待ってよ、ね」
「はーい。もー、お父さん早くねー! せっかく美女二人が迎えに来てるんだからねー」
――何でこの娘はこう、おませなんだろうか。
ぶんぶん手を振る小さな美女に、苦笑いが漏れる。老人が、ストリートから外れた自分の家の広大な庭を指差した。彼は、そこで遊んでいなさい、と優しくケナに言ってくれた。
馴れたもので、彼女ははーい、と元気な返事をしてまた駆け出した。
もう、この子の元気は癖のようなものなのだろう。
ふぅ、と息を吐いて、フィーナは頭を下げる。庭でてんとう虫の観察を始めているケナを目の端に留めながら、彼女とは別の方に向かった。
老人の家はストリートからややはずれた、石で作られた小高い場所にあった。その階段の上の手すりに寄りかかって、まだ高い日を眺める。
ケナは芝生の青い庭で遊んでいる。アレイアは神妙な顔で老人の言葉に頷いていた。
しばらく階段の上で呆けていた。天上に上がっている日が、じりじりと頭の後ろを焼いてくる。
「はー……」
先ほど、菓子屋で聞いた話が頭を掠める。
山一つを隔てた野で行われている戦争。この間も、どこかの地が北に、南に奪われて……なんて話。
記憶を失くす前の自分なら覚えていたのだろうか。少なくとも、今の目の前の風景は、普通に子供が庭で遊んでいて、老人の悩みは畑が猪に襲われて困っている、なんて話。
……まあ、物価は高くなっているのだけれど。
「ん……」
私は、一体、どちらにいたのだろう。
自分は武装して倒れていたらしい。ということは、やはり、気絶する前、自分は山の向こうの戦中の人間だったのだろうか。
思い出せば、山の向こうに戻らなくてはいけない?
この平和な一時を棄てて?
……そこまでの価値が、山の向こうにあるのだろうか。
今の彼女には、分からない。
何度目かになる溜め息を吐き出して、フィーナはケナとアレイアから目を離し、階段の手すりに寄りかかる。
自分はいつまでここにいていいのだろう。永劫なはずはない。今だってアレイアの世話になりっぱなしで、迷惑をかけている。
記憶が戻ろうが戻らまいが、ここを離れなくてはならないときは近々来るのだ。
そのときが来たら、自分はどこに行けばいいのだろう?
帰る場所も分からないのに。
「……」
軽く首を振って目を閉じた。
……そのときだった。
とんッ
――え?
ぐらり、と身体が傾いだ。ずるり、と石段から足がずり落ちるのが分かった。分かったけれども、身を捩る程度しか出来ない。
固い石段が、一気に目の前に広がった。
「――ッ!」
――落ちる……ッ!
反射的に目を瞑る。来る衝撃に備えて身を固くした。
けれど。
ぐいッ!
袖を引かれる感覚があって、どしん! と尻餅のような音がした。でも痛みはない。代わりに間近で『いっつ……!』という苦悶の声が上がって、何か温かい感触が身体を抱いていた。
恐る恐る目を開ける。
黒いジャケットが目に入った。その袖から伸びる腕に、抱えられているのだ。
「大丈夫か?」
静かな声が上から降ってくる。反射的に顔を上げて、
「……あ、う……うん。大丈夫。ごめん――」
「 」
「・・・ッ!?」
はっ、と我に返って自分の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、階段から落ちる自分を抱えて庇ってくれた功労者の顔をじっと見る。
逆光に見える、汗で額に張り付いた黒髪と、少しだけ悲しそうな面影のある紫紺の瞳。
「……アレイア、よね?」
「? どうしたんだ、頭でも打ったのか?」
茶化しているのではなく、真剣に心配してくる彼に、息を吐き出した。石段の踊り場まで落ちていて、アレイアに抱えてもらっているのだった。
ようやくその気恥ずかしさに気がついて、慌ててフィーナは彼から身体を離した。
アレイアは打って痛むのだろう、身体を重そうに摩りながら立ち上がった。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫だ……。それより気をつけろ」
「う、うん。ごめん」
声が動揺で裏返っていた。階上から『お父さん、フィーナちゃん、だいじょうぶーッ!?』と泣きそうなお姫様の声が聞こえた。老人のしわがれた声も聞こえる。
「大丈夫です。今、戻ります。ほら、フィーナ」
「え、あ……うん」
階上の娘と老人に一声投げて、アレイアが手を差し出してくれる。ぼんやりとしながらフィーナは手を出した。
引っ張られるように階段を上りながら考える。
確かに今、背後には誰もいなかった。アレイアは少し離れて老人と会話していたし、ケナだって庭で遊んでいた。アレイアたちはフィーナが足を滑らせたものだと思っているらしい。
だが、背中が押される感覚が、確かにあったのだ。何の気配もなかったというのに。
それに何より。
――今……
助けられたと気がついて、ごめん、と言ったとき。黒いジャケットだけを見ても、自分を助けたのがアレイアだと分かったはずだ。
なのに、ごめん、と口にしてから喉元に上がったのは、彼の名前を呼ぶ発音ではなかった。
彼の名ではなかったのだ。
―― ……じゃあ、誰の?
分からない。喉元まで上がってきたはずなのに、寸前で潰えてしまった。
「フィーナ?」
「……」
アレイアに呼びかけられて顔を上げる。自分の手を引きながら階段を上がる男の姿が、目に映る。
―― ……駄目だ、何も出て来ない。
アレイアが本当に不安げな、心配そうな表情を向けてくる。ふるふると首を振って、フィーナは笑みを浮かべた。
「何でもない。大丈夫よ」
「本当か? どこか痛めたんじゃ……」
「ううん、大丈夫、大丈夫! 何ともないわよ!」
狐につままれたような表情で、しかし、アレイアはそれ以上何も言わなかった。ほっ、と胸を撫で下ろして、不意にフィーナは階段の下を見た。
「――!?」
目が、合った。
深い紫の色の瞳に、ぞくりと背筋が跳ねる。
陽光に柔らかく反射する薄桃色の髪。それを一房だけ束ねていて、薄い唇は真一文字に引き結んでいる。
どこか張り詰めた雰囲気を纏って、白い畏まった装束に、腰のベルトには短剣が刺さっていて――
――う……ッ?
そんな女が、階段の下から睨むようにフィーナを眺めていた。ただ、男に手を引かれている女ではなく、フィーナを。彼女を、眺めていた。
「フィーナ、どうかしたか?」
「あ、ううん」
また、心配そうな声を上げさせてしまった。慌ててフィーナはアレイアに向き直り、たんたんと階段を上る。
「もー、フィーナちゃん何してるのー? 危ないじゃない!」
「あはは、ごめんごめん」
ケナのお叱りに頭を下げる。老人が良かった、良かった、と微笑んでいた。
「それで村長。件のことですが……」
「ああ、はいよ。そいつはね……」
アレイアが老人と仕事の話に戻る。フィーナはもう一度、階段の下を盗み見た。
女の影は、既にもう、どこにもなかった――。
←10へ
唐突に、ケナが明るい声を上げた。ふ、と顔を上げると、老齢の男性と談笑するアレイアの姿が見えた。
「お父さーんッ!」
ぱっ、とフィーナの手を離したケナが駆け出した。やたら滅多に走るな、といういつも言っている忠告はどうあっても聞いてくれないらしい。
父親に駆け寄ったケナは、そのまま軽くジャンプして抱き着いた。気がついたアレイアが、慌てて抱き止めた。
一方でフィーナは、彼と話をしていた男性に頭を下げる。やんわりと微笑んだ男性は、お辞儀を返してくれた。
「ケナ、それにフィーナ。どうしたんだ?」
「お父さん迎えに来たの!」
彼のジャケットにしがみ付いたケナが『びっくりした?』と無邪気に笑う。アレイアはいつも通りにふっ、と笑って金髪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
それを微笑ましく眺めながら、フィーナは籠の中から買った菓子を取り出して、老人に手渡す。老人は少しだけ遠慮したが、
「いつも依頼を貰ってるんだから、受け取ってください」
というアレイアの言葉に、結局は笑顔で受け取ってくれた。
アレイアは抱き上げたケナを下ろして、まだ頭を撫でながらフィーナに向き直る。
「買い物の帰りか?」
「うん。仕事終わりが早いって言ってたから。ついでに迎えに行こう、って話になって」
「そうか。ありがとう」
アレイアはケナにもするように、ぽんぽん、とフィーナの頭を叩く。フィーナはまた無意識のうちに避けそうになって、けれど踏み止まって、少々ぎこちなく笑う羽目になった。
アレイアも気がついたようで、すぐに頭から手を離す。まずい。早く馴れないといけないだろう、これは。
「すまないけど、まだ話が終わってないんだ」
手を離してからすまなさそうに言う。ということは、仕事の話だろう。
「ああ、ブロードさん。何なら後日でも構わんよ」
「あ、いいですいいです。待ってますから。ケナちゃん、まだお父さん、お仕事の話があるそうだから待ってよ、ね」
「はーい。もー、お父さん早くねー! せっかく美女二人が迎えに来てるんだからねー」
――何でこの娘はこう、おませなんだろうか。
ぶんぶん手を振る小さな美女に、苦笑いが漏れる。老人が、ストリートから外れた自分の家の広大な庭を指差した。彼は、そこで遊んでいなさい、と優しくケナに言ってくれた。
馴れたもので、彼女ははーい、と元気な返事をしてまた駆け出した。
もう、この子の元気は癖のようなものなのだろう。
ふぅ、と息を吐いて、フィーナは頭を下げる。庭でてんとう虫の観察を始めているケナを目の端に留めながら、彼女とは別の方に向かった。
老人の家はストリートからややはずれた、石で作られた小高い場所にあった。その階段の上の手すりに寄りかかって、まだ高い日を眺める。
ケナは芝生の青い庭で遊んでいる。アレイアは神妙な顔で老人の言葉に頷いていた。
しばらく階段の上で呆けていた。天上に上がっている日が、じりじりと頭の後ろを焼いてくる。
「はー……」
先ほど、菓子屋で聞いた話が頭を掠める。
山一つを隔てた野で行われている戦争。この間も、どこかの地が北に、南に奪われて……なんて話。
記憶を失くす前の自分なら覚えていたのだろうか。少なくとも、今の目の前の風景は、普通に子供が庭で遊んでいて、老人の悩みは畑が猪に襲われて困っている、なんて話。
……まあ、物価は高くなっているのだけれど。
「ん……」
私は、一体、どちらにいたのだろう。
自分は武装して倒れていたらしい。ということは、やはり、気絶する前、自分は山の向こうの戦中の人間だったのだろうか。
思い出せば、山の向こうに戻らなくてはいけない?
この平和な一時を棄てて?
……そこまでの価値が、山の向こうにあるのだろうか。
今の彼女には、分からない。
何度目かになる溜め息を吐き出して、フィーナはケナとアレイアから目を離し、階段の手すりに寄りかかる。
自分はいつまでここにいていいのだろう。永劫なはずはない。今だってアレイアの世話になりっぱなしで、迷惑をかけている。
記憶が戻ろうが戻らまいが、ここを離れなくてはならないときは近々来るのだ。
そのときが来たら、自分はどこに行けばいいのだろう?
帰る場所も分からないのに。
「……」
軽く首を振って目を閉じた。
……そのときだった。
とんッ
――え?
ぐらり、と身体が傾いだ。ずるり、と石段から足がずり落ちるのが分かった。分かったけれども、身を捩る程度しか出来ない。
固い石段が、一気に目の前に広がった。
「――ッ!」
――落ちる……ッ!
反射的に目を瞑る。来る衝撃に備えて身を固くした。
けれど。
ぐいッ!
袖を引かれる感覚があって、どしん! と尻餅のような音がした。でも痛みはない。代わりに間近で『いっつ……!』という苦悶の声が上がって、何か温かい感触が身体を抱いていた。
恐る恐る目を開ける。
黒いジャケットが目に入った。その袖から伸びる腕に、抱えられているのだ。
「大丈夫か?」
静かな声が上から降ってくる。反射的に顔を上げて、
「……あ、う……うん。大丈夫。ごめん――」
「 」
「・・・ッ!?」
はっ、と我に返って自分の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、階段から落ちる自分を抱えて庇ってくれた功労者の顔をじっと見る。
逆光に見える、汗で額に張り付いた黒髪と、少しだけ悲しそうな面影のある紫紺の瞳。
「……アレイア、よね?」
「? どうしたんだ、頭でも打ったのか?」
茶化しているのではなく、真剣に心配してくる彼に、息を吐き出した。石段の踊り場まで落ちていて、アレイアに抱えてもらっているのだった。
ようやくその気恥ずかしさに気がついて、慌ててフィーナは彼から身体を離した。
アレイアは打って痛むのだろう、身体を重そうに摩りながら立ち上がった。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫だ……。それより気をつけろ」
「う、うん。ごめん」
声が動揺で裏返っていた。階上から『お父さん、フィーナちゃん、だいじょうぶーッ!?』と泣きそうなお姫様の声が聞こえた。老人のしわがれた声も聞こえる。
「大丈夫です。今、戻ります。ほら、フィーナ」
「え、あ……うん」
階上の娘と老人に一声投げて、アレイアが手を差し出してくれる。ぼんやりとしながらフィーナは手を出した。
引っ張られるように階段を上りながら考える。
確かに今、背後には誰もいなかった。アレイアは少し離れて老人と会話していたし、ケナだって庭で遊んでいた。アレイアたちはフィーナが足を滑らせたものだと思っているらしい。
だが、背中が押される感覚が、確かにあったのだ。何の気配もなかったというのに。
それに何より。
――今……
助けられたと気がついて、ごめん、と言ったとき。黒いジャケットだけを見ても、自分を助けたのがアレイアだと分かったはずだ。
なのに、ごめん、と口にしてから喉元に上がったのは、彼の名前を呼ぶ発音ではなかった。
彼の名ではなかったのだ。
―― ……じゃあ、誰の?
分からない。喉元まで上がってきたはずなのに、寸前で潰えてしまった。
「フィーナ?」
「……」
アレイアに呼びかけられて顔を上げる。自分の手を引きながら階段を上がる男の姿が、目に映る。
―― ……駄目だ、何も出て来ない。
アレイアが本当に不安げな、心配そうな表情を向けてくる。ふるふると首を振って、フィーナは笑みを浮かべた。
「何でもない。大丈夫よ」
「本当か? どこか痛めたんじゃ……」
「ううん、大丈夫、大丈夫! 何ともないわよ!」
狐につままれたような表情で、しかし、アレイアはそれ以上何も言わなかった。ほっ、と胸を撫で下ろして、不意にフィーナは階段の下を見た。
「――!?」
目が、合った。
深い紫の色の瞳に、ぞくりと背筋が跳ねる。
陽光に柔らかく反射する薄桃色の髪。それを一房だけ束ねていて、薄い唇は真一文字に引き結んでいる。
どこか張り詰めた雰囲気を纏って、白い畏まった装束に、腰のベルトには短剣が刺さっていて――
――う……ッ?
そんな女が、階段の下から睨むようにフィーナを眺めていた。ただ、男に手を引かれている女ではなく、フィーナを。彼女を、眺めていた。
「フィーナ、どうかしたか?」
「あ、ううん」
また、心配そうな声を上げさせてしまった。慌ててフィーナはアレイアに向き直り、たんたんと階段を上る。
「もー、フィーナちゃん何してるのー? 危ないじゃない!」
「あはは、ごめんごめん」
ケナのお叱りに頭を下げる。老人が良かった、良かった、と微笑んでいた。
「それで村長。件のことですが……」
「ああ、はいよ。そいつはね……」
アレイアが老人と仕事の話に戻る。フィーナはもう一度、階段の下を盗み見た。
女の影は、既にもう、どこにもなかった――。
←10へ
「……以上で説明を終わらせて頂きます」
固い声で吐き出した後、壇上から頭を下げる。形だけの寂しい拍手が、ぽつりぽつりと漏れた。
頭を下げ、床を眺めながら歯を噛み締める。ところどころから響いて来るひそひそ話が、シェイリーンの心臓をきりきりと痛めつけた。
―― ……先日の戦果も……
―― ……やはり総統の指揮が……
―― 采配が間違っていたのだ……
ぎり――ッ!
礼服の裾を思い切り握り締め、唇を噛み締める。頭を下げていたのはほんの数秒だったというのに、彼女には永遠にも等しいほどに感じられた。
顔を上げた先には、北の都ゼルフィリッシュの要塞に造られた最も大きい作戦会議の、ぐるりと発言者を取り囲む院員席。傍聴のために造られたその階段状の形状が、今は威圧を与える産物になっている。
ランプと松明の光は、奥まで行き届いてくれなくて。
ぐるりとシェイリーンを取り囲む貴族院の院員の表情までは伺えない。もっとも、その方が良かったのかもしれない。見えたら見えたで、きっと吐き気がするだけだろう。
「……ラタトス総統」
暫しの間があって、がたりと席を立つ音がした。シェイリーンは表情を引き締めてそちらを見上げた。
ランプの光に当てられて、微妙に歪んだ男の表情が見える。
院の礼服を着た老齢の男。老齢、といっても腰はぴん、とまっすぐで、貫禄と威圧を感じる眼光を周囲に振り撒いている。白いものが混じり始めた黒髪を撫でつけた、老齢の紳士は壇上の小娘の姿にぎろり、とその眼光を向ける。
シェイリーンは下腹に思い切り力を込める。
「……何でしょうか、ランバイン貴族院長」
貴族院を統括する、院長。それが男の肩書きだった。シェイリーンは目を尖らせて睨み返す。男はそれを平然と受け止めながら、
「……貴女の提案したい策は分かった。だがそれを、我々を無視して断行とは、些か勝手が過ぎるのではないかね、総統」
野次のような賞賛は飛ばないが、院員の席から彼の言葉を推すような空気が漂ってくる。彼にとっては追い風、シェイリーンにとっては向かい風だ。
厳しい眼差しをお互いに逸らさない。
「……それについてはお詫びを申し上げなければなりません。ですが、魔道や歴史の研究というものは、時間と手間がかかります。一秒でも惜しいのです。
我々は実に良い協力者を得ることが出来ました。ならば、シンシアのためにも……!」
「……エイロネイアとの境界線の後退を代償に、手に入れた協力者を、かね?」
「ッ!」
「ラタトス総統。君のしていることは本末転倒ではないのかね?
協力者を得るがために、戦況を傾け、その戦況を覆すために憎きエイロネイアと同じ鉄を踏もうと言う。
これでは、お父上も浮かばれんと思うがね」
「……」
場の空気は完全に傾いていた。シェイリーンは歯噛みしながら、壇上で胸を張り続けている。
詭弁だ。紡がれる、あまりにも一辺倒な理論。間違ってはいないが、すべてを語っているわけでもない。
シェイリーンは彼らの文句がひとしきり終わるまでの長い時間を、苛立ちを抑えながら耐えなくてはならなかった。
「……確かに最良の選択ではなかったことは認めましょう。ですが、現実として、我々はエイロネイアと同等の立場に立たなくてはなりません。
それに、エイロネイアのように死者を冒涜する行為を働こうと言っているのではありません。その対抗策となるものを編み出そうと言っているのです」
「君は魔道の研究には時間と手間がかかる、と言ったね?
その研究が実るのは何日後かね? 何ヵ月後、それとも何年後かね?
冗談ではない。我々は一刻も早く、逆賊エイロネイアを討たねばならないのだよ」
「……その策とは別に、我々とて策を練っています。ジルラニア平原の奪取についても、目下検討中です」
まるで堂々巡りだ。揚げ足ばかりを取られて、話が前に進んでいかない。苛立ちと焦燥ばかりが募って、冷静さを奪っていく。
「やはり一般の市民からも徴兵を行わなくては……」
「!」
ぽそり、と外野から漏れた声にシェイリーンは面を上げる。発言をした院員は鋭い視線に口を噤んだ。
しかし、老齢の院長はそれを擁護するように、厳かな口調で、
「そうですな。総統、以前から言われていたことですが、やはり訓練兵だけでは数が足りん。
たとえ烏合の衆とはいえ、兵の数はそれだけで威圧を与えることも出来る。私としては、その実りの望めない策より先に考えなくてはならない件だと思うがね」
「……前向きに検討します」
ペースが持っていかれている。自覚はあるが、その軌道を変えることが出来ない。
己の無力感を噛み締めながら、シェイリーンはもう一度立ち上がった老齢の男を見上げた。
貴族院、いや、今や議会で絶大な権力を持つ男。そもそもこの男が院の中で実権を握るようになってから、以前はシェイリーンを持ち上げていた議会も右翼派へと傾いていった。
原因は、金か名誉か。どちらにしても、この男がシェイリーンの立場を脅かしている元凶の一つ、ということに変わりはない。
エイロネイア皇太子の介入がなかったとしても、この男は貴族院を、そして議会を飲み込んで、和平へと流れつつあった政治思考を過激な方へと転ばせてしまっただろう。
その目的は、おそらくはこの総統の座か。だからこそ、シェイリーンの上げる策を叩き、戦況の好転を望んでいるようで望まないような発言を繰り返す。本末転倒なのはどちらなのか。
この男さえいなければ、貴族院もこれほど思い上がることはなかったのに……!
噛み締めた唇から血の味がする。
だが、シェイリーンは何としても前線で耐えているラーシャたちに朗報を届けなくてはならないのだ。
僅かな血の味を飲み込んでから、四面楚歌の壇上で。
シェイリーンは再び、小さな唇を開いた。
ぱんッ、と勢い良く青空に白が広がる。飛び散った僅かな水滴が顔にかかって、ケナがひゃぁ!と嬉しそうな悲鳴を上げた。
それにくすり、と笑いを漏らしてから、彼女は庭の木と木の間に引っ張った洗濯物用のロープへ、洗ったばかりのシーツをかけた。ふわり、と柔らかい風がわずかにシーツを靡かせる。
「フィーナちゃん、はい!」
足元の洗濯籠中から、ケナが両手で取り出したのは水を吸って大分重たくなっている父親のジャケット。もう少しで地面に着いてしまいそうで、フィーナはくすくすと笑いながらも取り上げる。
「洗濯物いっぱいだねぇ」
「昨日まで天気良くなかったしねー」
既に洗濯物で埋まってしまったもう一本のロープを見上げて、ケナが言う。ここ三日で随分と溜まってしまったものを、一気に洗濯桶に放り込んだ。
少し腕が痛いが気分的にはすっきりだ。
「フィーナちゃん、これで最後ー」
「あいよー」
ケナの声に片手を伸ばす。しかし、その最後の洗濯物の湿った感触が、いつまで経っても指先に当たらない。
「……?」
不信がって首を動かすと――
ケナは何故かフィーナの下着を胸に押し当てて眉間に皺を寄せていた。
「!!?」
「フィーナちゃんて胸大きいなー」
「ちょっとあんた、何してんの!?」
降って湧いた恥ずかしさに慌てて下着を奪取する。ケナは子供のくせに妙に大人びたふうにニヤニヤと笑い、真っ赤になっている彼女を見上げた。
「だって、それだけお母さんのサイズ合わなかったんでしょ?」
「……そうだけど」
今、フィーナが来ているものは、拾われて目が覚めたときにアレイアから借りたものだった。アレイアとケナしかいない家の中に、ちょうど良く女物があることに首を捻っていると、躊躇いがちにケナの亡くなった母親のものだと聞かされた。
少し考えてみれば分かりそうなものだった。問いに答えたときのアレイアの顔は、少しだけ寂しそうで、罰が悪かった覚えがある。
「いいなー、ケナも胸大きい方がいいなー」
「あのねー、子供が何言ってんの? 千年早いわよ」
「ぶぅ。だって、ケナ、お母さんの子供だからフィーナちゃんみたいにはならないってことじゃん」
「こらこら。そんなこと言うもんじゃないわよ」
「まったく」と呟いて、ケナの金色の頭にぽんぽんと手をやる。
「しかしまー、アレイアもアレイアで良く簡単に奥さんの服なんて貸してくれたもんよねぇ」
ロープに吊るされて揺れる、先日、自分が着ていたワンピースを眺めながら呟く。その一言に、ふとケナが真顔を上げて、
「……だからだよ」
「? 何か言った?」
「……ううん。何でもない」
小さく、何かを言ったような気がした。
けれど、それはあまりに小さすぎて聞こえなくて。
一瞬後には、ケナの表情は元の晴れ晴れとしたものに戻っていた。
「……ケナちゃん?」
「あははー、何でもないよぅ」
「……?」
首を傾げながら、空になった洗濯籠を持ち上げて、空を見上げる。
「そういえば、今日はアレイア。仕事は午前中って言ってたわね」
ケナがぱっ、と顔を上げる。
「買い物ついでに迎えに行こうか」
「うんッ!」
勢い良く頷いたケナに微笑んで、帽子を取ってくるように言う。ぱたぱた、というかばたばたと家の中に飛び込んでいく小さな背を追って、フィーナは籠を担いでリビングへと入った。
いつも籠を置いている棚にそれを片付けて、薄っすらと額に浮かんでいた汗を拭う。
一息ついて、次は買い物用の籠を探す。棚の上の段に手を伸ばし――手が空ぶった。
一瞬、首を傾げてすぐに手を打ち鳴らす。そうだ、昨日は結局荷物をアレイアに運んでもらって、キッチンに置きっ放しになっていたっけ。
狭いリビングを横切ってキッチンへ向かう。
「あったあった」
小さな食料庫の前の床に放り出されていた買い物籠を持ち上げる。折った身体を持ち上げようとして、
「……ん?」
普段は目につかない、食料棚の裏側が見えた。見えるのは木目だけのはずだが、ひらり、と何か薄っぺらな紙が張り付いている。
「何だろ……?」
手を、伸ばしかけて。
「フィーナちゃーん! 早く行こーよーッ!!」
小さなお姫様の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってー!」
大声で返して、急いでキッチンを出た。あの娘は活発すぎて、待たせるとどこに飛んでいくか分からない。
キッチンに背を向けて、テーブル脇にかけてあった家の鍵を取って玄関へと走った。
「……戦争、ですか?」
「ああ、そのせいで砂糖の値段が上がってしまいましてねぇ……」
馴染みの菓子屋の店主は、そう言って溜め息を吐いた。
アレイアとケナが郊外に住むこの小さな村には珍しいことに菓子屋というものがあった。店内は普通の民家のようにこぢんまりとした造りだが、おかみ手作りの素朴なクッキーやケーキが並び、また菓子の材料になる白糖や小麦粉が比較的安く手に入る。
アレイアの職業先に度々、差し入れとして持って行くことがあるため、またフィーナ自身も菓子作りのレシピだけは手に染み付いていて、短い間にも彼女はちょっとした常連になっていた。
その店で、今日、フィーナは首を傾げることになったのだ。
先週と比べて砂糖や小麦粉の値段が少しばかり上がっていたからだった。
疑問に思って店主に問い、返って来たのがその一言だった。
「小麦とか。そういうもんは全部、兵士さんたちに優先して流れていってしまうんですよ。私らはそのあまりを高い値で買うしかありませんでね。
うちも長らく耐えて来ましたが……今回ばかりは」
「そう……なんですか」
歯切れ悪く答える。
目覚めたとき、もちろんフィーナには、自分が今いるこの国がどうなっているかなどという記憶さえ残ってはいなかった。
アレイアに寄ると、このゼルゼイルという島国は、五十年もの間、北と南に分かれて戦争をしているらしい。
その戦争は、長らく拮抗した状態にあったが、最近になって南方の国であるエイロネイアの皇室の息子――つまりは皇太子になるわけだが、彼が戦の才を発揮し、徐々に境界線を北に押しやっているとか何とか。
そして、この村は北方シンシアと南方エイロネイアの境界線付近に存在する。一応、シンシアの領土内に当たるらしい。
戦火が降りかかっていないのは、山深い田舎で、まったく両者にとって戦略的価値がないためだそうだ。戦争や小競り合いが起こっているのはもっぱら平地の方らしい。
「ここは安全だけど物を運んでくるのにちょいと面倒なんだ。砂糖とかはどうしても平地の方から持ってこなきゃならん。
ちょっと高めになっちまうが、まあ、お金で安全は買えないからねぇ……」
「……」
そう言って仕方なさそうに頬を掻く店主。それを目の端に止めながら、彼女は腕を組む。
ここに暮らしているだけならば、そんな戦火など微塵も感じない。のどかなものだ。けれど、山を一つ越えてしまえば、平地で戦火が飛んでいる。
記憶を失くしたフィーナには、とても現実離れしていて――
「……」
いや、現実離れ、しているのだろうか。
戦火、シンシア、エイロネイア。まったく知らないはずのその単語を聞くたびに、胸のどこかがちりちりと得体の知れない感覚を抱くような……。
――ん、んー……
頭で考えても、やはり何も出て来ない。
深みに嵌るより先に、店主が「今日はどうするのか」と声をかけて来た。
思考を切り替えて、財布の中身を思い出す。
アレイアの仕事は力仕事だ。いわゆる運搬行。きこりが伐採した丸太を運んだり、農家で作物や肥料を運んだり。たまには雑貨屋で肉体労働もしている。
不安定と言うなかれ。田舎の野良仕事中心の村には良くある職業である。
しかし、それとは別に、特別な依頼で農業の弊害となる獣やゴブリンなどの害獣を退治したりもしている。どうやら腕に覚えがあるらしい。家にも錆び付いていない剣が何本か転がっていた。
そういう仕事の報酬はやはり少しばかり多い。といっても当然、それほど余裕がある家庭でもない。
皮算用を終えた彼女は、いつもより少しだけ少な目の砂糖と小麦粉を注文する。
店主は人の良い顔で、けれどもやはり少しだけ寂しそうな顔をして、「はいよ」と答えた。
店主が量を測っている間、彼女はめぼしいものがないか、あまり広くない店内を物色する。
いつもと同じ甘い香りが漂っていて、綺麗にラッピングされたクッキーと砂糖菓子が大きめのバスケットに並んでいる。
一つくらい、ケナに買ってやってもいいか。この間はちゃんとブロッコリーも食べたことだし。
そう思って青いリボンのついた飴玉の包みを持ち上げて、レジの向こうの店主へ声をかけようとして、
「!?」
ぞくり、と。
何故か、寒い、寒い悪寒が、彼女の背中を駆け抜けた。
身体の四肢がぴきん、と緊張する。その寒い感覚は身体を拘束し、一瞬で解放される。
それと同時に彼女は背後を振り返った。
「あ……」
きぃきぃと音が鳴っている。見慣れた赤いポップなカーテンがかけられた窓辺。確か、最近風が吹いた程度で軋んでしまうようになった、と言っていたっけ。
でも、それだけ。
見慣れた窓が、外の人波が見えているだけだった。
―― ……疲れて、るのかな……
何だったのだろう?
身体があんなふうになるなんて、今まで無かった。一体、今の違和感は……。
「……ナちゃん、フィーナちゃん!」
店主の呼ぶ声にはっ、と我に返る。カウンターを振り返れば、小袋を差し出している彼の姿があった。
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです……」
手に持っていた飴の包みをカウンターへ持っていく。店主が代金を計算し始める。
それを待ちながら、彼女はもう一度窓辺の方へ目を寄せる。
窓辺には、先ほどと同じように、静かに小さくカーテンが揺れるだけだった。
「はーぁ」
久しぶりに晴れた空を見上げて、ケナは小さく肩を竦める。
お菓子屋さんのドアの手前に立っている。目の前は人通りでごった返していて、中からは甘い香りが漂ってくる。
鼻をつく大好きな甘い香りに、また剥れた。
こんなにいい匂いなのにおあずけなんて、子供には酷過ぎる。むぅ、と膨れて冷たいガラスのドアに背をつける。
こつこつと流れていく人の踵だけが見える。がやがやと喧騒が耳に入る。
時間が長く感じられる。お父さんやフィーナちゃんと話しているときは、あんなに時間が短いのに。
剥れたままのケナの耳に、不意に甲高い笑い声が飛び込んで来た。どこかでも感じたことのある既視感に、表情を歪める。
顔を上げると、ドアの内側に自分と同じくらいの背丈の子供が見えた。慌ててドアの前からどける。
からからん、と店のベルが鳴って、ケナと同い年くらいの男の子が棒にささったキャンディを舐めながら上機嫌に出て来た。
飴の棒を握る反対側の手では、ぎゅ、としっかり母親の手を握っている。
「……」
ケナが道を譲ると、微笑ましく笑いあった親子はその脇を素通りする。男の子が店先の僅かな段差でよろけて、母親は慌てて手を引くことで転ばせないようにする。
「もう、気をつけなきゃ駄目でしょ」
「だ、大丈夫だよッ!」
母親の窘める声に、強がりで答える。だが、一瞬だけ損ねた機嫌も手に持った甘い飴でころっと直ってしまう。母親はふ、と笑って再び彼の手を引いた。
親子はそのまま、通りの向こうへ消えていく。
「……」
ケナは黙ってその後姿を眺めていた。人込みに紛れて二つの影が見えなくなると、足元に転がっていた小さな石ころを蹴った。
こつん、と音がして小石が階段を転げ落ちる。最後には、人波の靴の流れに紛れて見えなくなった。
「……」
ケナはふん、と鼻を鳴らす。
「……寂しくないもん」
からからん。
ケナの小さな呟きを、軽快なベルが掻き消した。背にしたドアが開いていた。
「ごめんねー、ケナちゃん。遅くなって」
「あ」
買い物袋を提げたフィーナがかがんで視点を合わせて来る。ケナは顔を上げた。笑顔を作る。胸を、張る。
「遅いよー、フィーナちゃん! 何してたのー!?」
「ごめんごめん。ちょっと話し込んじゃった」
「もー、フィーナちゃんてばー……」
「だからごめんって。はい、お詫びにこれ」
「?」
籠の中からフィーナが何かを取り出した。白い彼女の手の合間に青いリボンが広がる。差し出されて両手を出した。
小さな包みが、ケナの小さな掌に乗せられた。
「あ……」
小さな包みの中に見えたのは、べっ甲色の小さな砂糖菓子。
「あ、う、うん……」
「嫌い?」
今ひとつ鈍いケナの反応に、フィーナが不安げな声を出す。ケナは慌ててぶんぶんと首を振った。
がさがさと急くように、けれど包みを破らないように丁寧に開いて、べっ甲色の飴を取り出す。そのまま頬張った。
甘くて香ばしい味が口の中に広がった。
「ケナちゃん?」
飴を口の中へ放り込んだケナが、唐突にスカートにしがみ付いてきた。彼女は首を傾げながらも、自分と同じ金髪を撫でた。
「どうかした?」
「……」
少しの沈黙があった。だが、ケナはすぐに顔を上げて、いつものようににっ、と笑って、もう一度甘えるように抱き着いてきた。
「何でもないよー、ありがとう! フィーナちゃん、大好き!」
「?」
その様子に、フィーナはまた少し首を傾げたが、彼女の表情があまりにもいつも通りだったので気にかけないことにした。
離れたケナが、上機嫌で小さな手を伸ばしてくる。それに応えて小さな手を握る。彼女はまた満足げに微笑んで、フィーナを引き摺らんばかりの勢いで町中へと飛び出した。
「シリア、シリア!!」
大声と共に地下の研究室のドアを開く。その脳天に、
どがッ!
分厚い蔵書の角がクリティカルヒットした。
「……レディのいる部屋にノックも無しで飛び込んでくるなんて、些かマナーがなっていなくてよ、アルティオ」
「スイマセン……じゃなくって!」
普段よりも三倍速程度、早く復活したアルティオは鬼気迫る表情でがばり、と起き上がる。
その様子にさすがにただならぬものを感じたシリアは、憮然としていた表情を真顔に戻した。
「……何か、あったの?」
「ああ、なんて言うか……。まあ、来て見てくれよ」
「分かったわ」
研究室内に、他の魔道師たちが働いているのを慮ったのだろう。静止した魔道師たちに指示を出してから、シリアはアルティオを急かすように廊下に出た。
ごぅん、と背中で重い地下室の扉が閉まる。扉に阻まれていれば、こちらの声は中まで聞こえないはず。
「……で?」
「ああ」
苦い表情でアルティオは階上へと伸びる階段の上を指差した。そのまま先導するように歩き出す。
シリアは双剣を背負う背中について階段を上った。
地上に出ても、彼は階段を上り続ける。確か、彼は砦の塔の上で見張りをしていたはず。そこまで連れていく気なんだろう。
シリアの額に汗が浮かんだ。上り続けて疲れたわけじゃない。これは脂汗だ。
見張りに立っていた彼が、他の魔道師には気取られないように、シリアだけを呼びに来た。
それが一体何を意味するのか――想像には、難くない。
やがて塔の見張り台に着き、彼と共に見張りに立っていた数人の兵士の真っ青な顔色を見て、シリアの懸念は確信に変わった。
ごくり、と固唾を飲み下す。
「……で」
聞きたくもない先を促す。アルティオはやはり苦い顔で、額に同じような汗を浮かべながら、塔の小さな窓を指差した。
かりッ――数日で癖になってしまったらしい。爪を噛んで、シリアは笑いそうになる膝を叱咤して、その窓に近づいた。自分のヒールのかつん、という音が妙に五月蝿い。
シリアは、深呼吸をしてから、その窓を覗いた。
塔の上から見える、遠い丘の上に、幾つもの黒い点と、翻る八咫鴉の紋の旗が見えた――。
←9へ
固い声で吐き出した後、壇上から頭を下げる。形だけの寂しい拍手が、ぽつりぽつりと漏れた。
頭を下げ、床を眺めながら歯を噛み締める。ところどころから響いて来るひそひそ話が、シェイリーンの心臓をきりきりと痛めつけた。
―― ……先日の戦果も……
―― ……やはり総統の指揮が……
―― 采配が間違っていたのだ……
ぎり――ッ!
礼服の裾を思い切り握り締め、唇を噛み締める。頭を下げていたのはほんの数秒だったというのに、彼女には永遠にも等しいほどに感じられた。
顔を上げた先には、北の都ゼルフィリッシュの要塞に造られた最も大きい作戦会議の、ぐるりと発言者を取り囲む院員席。傍聴のために造られたその階段状の形状が、今は威圧を与える産物になっている。
ランプと松明の光は、奥まで行き届いてくれなくて。
ぐるりとシェイリーンを取り囲む貴族院の院員の表情までは伺えない。もっとも、その方が良かったのかもしれない。見えたら見えたで、きっと吐き気がするだけだろう。
「……ラタトス総統」
暫しの間があって、がたりと席を立つ音がした。シェイリーンは表情を引き締めてそちらを見上げた。
ランプの光に当てられて、微妙に歪んだ男の表情が見える。
院の礼服を着た老齢の男。老齢、といっても腰はぴん、とまっすぐで、貫禄と威圧を感じる眼光を周囲に振り撒いている。白いものが混じり始めた黒髪を撫でつけた、老齢の紳士は壇上の小娘の姿にぎろり、とその眼光を向ける。
シェイリーンは下腹に思い切り力を込める。
「……何でしょうか、ランバイン貴族院長」
貴族院を統括する、院長。それが男の肩書きだった。シェイリーンは目を尖らせて睨み返す。男はそれを平然と受け止めながら、
「……貴女の提案したい策は分かった。だがそれを、我々を無視して断行とは、些か勝手が過ぎるのではないかね、総統」
野次のような賞賛は飛ばないが、院員の席から彼の言葉を推すような空気が漂ってくる。彼にとっては追い風、シェイリーンにとっては向かい風だ。
厳しい眼差しをお互いに逸らさない。
「……それについてはお詫びを申し上げなければなりません。ですが、魔道や歴史の研究というものは、時間と手間がかかります。一秒でも惜しいのです。
我々は実に良い協力者を得ることが出来ました。ならば、シンシアのためにも……!」
「……エイロネイアとの境界線の後退を代償に、手に入れた協力者を、かね?」
「ッ!」
「ラタトス総統。君のしていることは本末転倒ではないのかね?
協力者を得るがために、戦況を傾け、その戦況を覆すために憎きエイロネイアと同じ鉄を踏もうと言う。
これでは、お父上も浮かばれんと思うがね」
「……」
場の空気は完全に傾いていた。シェイリーンは歯噛みしながら、壇上で胸を張り続けている。
詭弁だ。紡がれる、あまりにも一辺倒な理論。間違ってはいないが、すべてを語っているわけでもない。
シェイリーンは彼らの文句がひとしきり終わるまでの長い時間を、苛立ちを抑えながら耐えなくてはならなかった。
「……確かに最良の選択ではなかったことは認めましょう。ですが、現実として、我々はエイロネイアと同等の立場に立たなくてはなりません。
それに、エイロネイアのように死者を冒涜する行為を働こうと言っているのではありません。その対抗策となるものを編み出そうと言っているのです」
「君は魔道の研究には時間と手間がかかる、と言ったね?
その研究が実るのは何日後かね? 何ヵ月後、それとも何年後かね?
冗談ではない。我々は一刻も早く、逆賊エイロネイアを討たねばならないのだよ」
「……その策とは別に、我々とて策を練っています。ジルラニア平原の奪取についても、目下検討中です」
まるで堂々巡りだ。揚げ足ばかりを取られて、話が前に進んでいかない。苛立ちと焦燥ばかりが募って、冷静さを奪っていく。
「やはり一般の市民からも徴兵を行わなくては……」
「!」
ぽそり、と外野から漏れた声にシェイリーンは面を上げる。発言をした院員は鋭い視線に口を噤んだ。
しかし、老齢の院長はそれを擁護するように、厳かな口調で、
「そうですな。総統、以前から言われていたことですが、やはり訓練兵だけでは数が足りん。
たとえ烏合の衆とはいえ、兵の数はそれだけで威圧を与えることも出来る。私としては、その実りの望めない策より先に考えなくてはならない件だと思うがね」
「……前向きに検討します」
ペースが持っていかれている。自覚はあるが、その軌道を変えることが出来ない。
己の無力感を噛み締めながら、シェイリーンはもう一度立ち上がった老齢の男を見上げた。
貴族院、いや、今や議会で絶大な権力を持つ男。そもそもこの男が院の中で実権を握るようになってから、以前はシェイリーンを持ち上げていた議会も右翼派へと傾いていった。
原因は、金か名誉か。どちらにしても、この男がシェイリーンの立場を脅かしている元凶の一つ、ということに変わりはない。
エイロネイア皇太子の介入がなかったとしても、この男は貴族院を、そして議会を飲み込んで、和平へと流れつつあった政治思考を過激な方へと転ばせてしまっただろう。
その目的は、おそらくはこの総統の座か。だからこそ、シェイリーンの上げる策を叩き、戦況の好転を望んでいるようで望まないような発言を繰り返す。本末転倒なのはどちらなのか。
この男さえいなければ、貴族院もこれほど思い上がることはなかったのに……!
噛み締めた唇から血の味がする。
だが、シェイリーンは何としても前線で耐えているラーシャたちに朗報を届けなくてはならないのだ。
僅かな血の味を飲み込んでから、四面楚歌の壇上で。
シェイリーンは再び、小さな唇を開いた。
ぱんッ、と勢い良く青空に白が広がる。飛び散った僅かな水滴が顔にかかって、ケナがひゃぁ!と嬉しそうな悲鳴を上げた。
それにくすり、と笑いを漏らしてから、彼女は庭の木と木の間に引っ張った洗濯物用のロープへ、洗ったばかりのシーツをかけた。ふわり、と柔らかい風がわずかにシーツを靡かせる。
「フィーナちゃん、はい!」
足元の洗濯籠中から、ケナが両手で取り出したのは水を吸って大分重たくなっている父親のジャケット。もう少しで地面に着いてしまいそうで、フィーナはくすくすと笑いながらも取り上げる。
「洗濯物いっぱいだねぇ」
「昨日まで天気良くなかったしねー」
既に洗濯物で埋まってしまったもう一本のロープを見上げて、ケナが言う。ここ三日で随分と溜まってしまったものを、一気に洗濯桶に放り込んだ。
少し腕が痛いが気分的にはすっきりだ。
「フィーナちゃん、これで最後ー」
「あいよー」
ケナの声に片手を伸ばす。しかし、その最後の洗濯物の湿った感触が、いつまで経っても指先に当たらない。
「……?」
不信がって首を動かすと――
ケナは何故かフィーナの下着を胸に押し当てて眉間に皺を寄せていた。
「!!?」
「フィーナちゃんて胸大きいなー」
「ちょっとあんた、何してんの!?」
降って湧いた恥ずかしさに慌てて下着を奪取する。ケナは子供のくせに妙に大人びたふうにニヤニヤと笑い、真っ赤になっている彼女を見上げた。
「だって、それだけお母さんのサイズ合わなかったんでしょ?」
「……そうだけど」
今、フィーナが来ているものは、拾われて目が覚めたときにアレイアから借りたものだった。アレイアとケナしかいない家の中に、ちょうど良く女物があることに首を捻っていると、躊躇いがちにケナの亡くなった母親のものだと聞かされた。
少し考えてみれば分かりそうなものだった。問いに答えたときのアレイアの顔は、少しだけ寂しそうで、罰が悪かった覚えがある。
「いいなー、ケナも胸大きい方がいいなー」
「あのねー、子供が何言ってんの? 千年早いわよ」
「ぶぅ。だって、ケナ、お母さんの子供だからフィーナちゃんみたいにはならないってことじゃん」
「こらこら。そんなこと言うもんじゃないわよ」
「まったく」と呟いて、ケナの金色の頭にぽんぽんと手をやる。
「しかしまー、アレイアもアレイアで良く簡単に奥さんの服なんて貸してくれたもんよねぇ」
ロープに吊るされて揺れる、先日、自分が着ていたワンピースを眺めながら呟く。その一言に、ふとケナが真顔を上げて、
「……だからだよ」
「? 何か言った?」
「……ううん。何でもない」
小さく、何かを言ったような気がした。
けれど、それはあまりに小さすぎて聞こえなくて。
一瞬後には、ケナの表情は元の晴れ晴れとしたものに戻っていた。
「……ケナちゃん?」
「あははー、何でもないよぅ」
「……?」
首を傾げながら、空になった洗濯籠を持ち上げて、空を見上げる。
「そういえば、今日はアレイア。仕事は午前中って言ってたわね」
ケナがぱっ、と顔を上げる。
「買い物ついでに迎えに行こうか」
「うんッ!」
勢い良く頷いたケナに微笑んで、帽子を取ってくるように言う。ぱたぱた、というかばたばたと家の中に飛び込んでいく小さな背を追って、フィーナは籠を担いでリビングへと入った。
いつも籠を置いている棚にそれを片付けて、薄っすらと額に浮かんでいた汗を拭う。
一息ついて、次は買い物用の籠を探す。棚の上の段に手を伸ばし――手が空ぶった。
一瞬、首を傾げてすぐに手を打ち鳴らす。そうだ、昨日は結局荷物をアレイアに運んでもらって、キッチンに置きっ放しになっていたっけ。
狭いリビングを横切ってキッチンへ向かう。
「あったあった」
小さな食料庫の前の床に放り出されていた買い物籠を持ち上げる。折った身体を持ち上げようとして、
「……ん?」
普段は目につかない、食料棚の裏側が見えた。見えるのは木目だけのはずだが、ひらり、と何か薄っぺらな紙が張り付いている。
「何だろ……?」
手を、伸ばしかけて。
「フィーナちゃーん! 早く行こーよーッ!!」
小さなお姫様の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってー!」
大声で返して、急いでキッチンを出た。あの娘は活発すぎて、待たせるとどこに飛んでいくか分からない。
キッチンに背を向けて、テーブル脇にかけてあった家の鍵を取って玄関へと走った。
「……戦争、ですか?」
「ああ、そのせいで砂糖の値段が上がってしまいましてねぇ……」
馴染みの菓子屋の店主は、そう言って溜め息を吐いた。
アレイアとケナが郊外に住むこの小さな村には珍しいことに菓子屋というものがあった。店内は普通の民家のようにこぢんまりとした造りだが、おかみ手作りの素朴なクッキーやケーキが並び、また菓子の材料になる白糖や小麦粉が比較的安く手に入る。
アレイアの職業先に度々、差し入れとして持って行くことがあるため、またフィーナ自身も菓子作りのレシピだけは手に染み付いていて、短い間にも彼女はちょっとした常連になっていた。
その店で、今日、フィーナは首を傾げることになったのだ。
先週と比べて砂糖や小麦粉の値段が少しばかり上がっていたからだった。
疑問に思って店主に問い、返って来たのがその一言だった。
「小麦とか。そういうもんは全部、兵士さんたちに優先して流れていってしまうんですよ。私らはそのあまりを高い値で買うしかありませんでね。
うちも長らく耐えて来ましたが……今回ばかりは」
「そう……なんですか」
歯切れ悪く答える。
目覚めたとき、もちろんフィーナには、自分が今いるこの国がどうなっているかなどという記憶さえ残ってはいなかった。
アレイアに寄ると、このゼルゼイルという島国は、五十年もの間、北と南に分かれて戦争をしているらしい。
その戦争は、長らく拮抗した状態にあったが、最近になって南方の国であるエイロネイアの皇室の息子――つまりは皇太子になるわけだが、彼が戦の才を発揮し、徐々に境界線を北に押しやっているとか何とか。
そして、この村は北方シンシアと南方エイロネイアの境界線付近に存在する。一応、シンシアの領土内に当たるらしい。
戦火が降りかかっていないのは、山深い田舎で、まったく両者にとって戦略的価値がないためだそうだ。戦争や小競り合いが起こっているのはもっぱら平地の方らしい。
「ここは安全だけど物を運んでくるのにちょいと面倒なんだ。砂糖とかはどうしても平地の方から持ってこなきゃならん。
ちょっと高めになっちまうが、まあ、お金で安全は買えないからねぇ……」
「……」
そう言って仕方なさそうに頬を掻く店主。それを目の端に止めながら、彼女は腕を組む。
ここに暮らしているだけならば、そんな戦火など微塵も感じない。のどかなものだ。けれど、山を一つ越えてしまえば、平地で戦火が飛んでいる。
記憶を失くしたフィーナには、とても現実離れしていて――
「……」
いや、現実離れ、しているのだろうか。
戦火、シンシア、エイロネイア。まったく知らないはずのその単語を聞くたびに、胸のどこかがちりちりと得体の知れない感覚を抱くような……。
――ん、んー……
頭で考えても、やはり何も出て来ない。
深みに嵌るより先に、店主が「今日はどうするのか」と声をかけて来た。
思考を切り替えて、財布の中身を思い出す。
アレイアの仕事は力仕事だ。いわゆる運搬行。きこりが伐採した丸太を運んだり、農家で作物や肥料を運んだり。たまには雑貨屋で肉体労働もしている。
不安定と言うなかれ。田舎の野良仕事中心の村には良くある職業である。
しかし、それとは別に、特別な依頼で農業の弊害となる獣やゴブリンなどの害獣を退治したりもしている。どうやら腕に覚えがあるらしい。家にも錆び付いていない剣が何本か転がっていた。
そういう仕事の報酬はやはり少しばかり多い。といっても当然、それほど余裕がある家庭でもない。
皮算用を終えた彼女は、いつもより少しだけ少な目の砂糖と小麦粉を注文する。
店主は人の良い顔で、けれどもやはり少しだけ寂しそうな顔をして、「はいよ」と答えた。
店主が量を測っている間、彼女はめぼしいものがないか、あまり広くない店内を物色する。
いつもと同じ甘い香りが漂っていて、綺麗にラッピングされたクッキーと砂糖菓子が大きめのバスケットに並んでいる。
一つくらい、ケナに買ってやってもいいか。この間はちゃんとブロッコリーも食べたことだし。
そう思って青いリボンのついた飴玉の包みを持ち上げて、レジの向こうの店主へ声をかけようとして、
「!?」
ぞくり、と。
何故か、寒い、寒い悪寒が、彼女の背中を駆け抜けた。
身体の四肢がぴきん、と緊張する。その寒い感覚は身体を拘束し、一瞬で解放される。
それと同時に彼女は背後を振り返った。
「あ……」
きぃきぃと音が鳴っている。見慣れた赤いポップなカーテンがかけられた窓辺。確か、最近風が吹いた程度で軋んでしまうようになった、と言っていたっけ。
でも、それだけ。
見慣れた窓が、外の人波が見えているだけだった。
―― ……疲れて、るのかな……
何だったのだろう?
身体があんなふうになるなんて、今まで無かった。一体、今の違和感は……。
「……ナちゃん、フィーナちゃん!」
店主の呼ぶ声にはっ、と我に返る。カウンターを振り返れば、小袋を差し出している彼の姿があった。
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ! 何でもないです……」
手に持っていた飴の包みをカウンターへ持っていく。店主が代金を計算し始める。
それを待ちながら、彼女はもう一度窓辺の方へ目を寄せる。
窓辺には、先ほどと同じように、静かに小さくカーテンが揺れるだけだった。
「はーぁ」
久しぶりに晴れた空を見上げて、ケナは小さく肩を竦める。
お菓子屋さんのドアの手前に立っている。目の前は人通りでごった返していて、中からは甘い香りが漂ってくる。
鼻をつく大好きな甘い香りに、また剥れた。
こんなにいい匂いなのにおあずけなんて、子供には酷過ぎる。むぅ、と膨れて冷たいガラスのドアに背をつける。
こつこつと流れていく人の踵だけが見える。がやがやと喧騒が耳に入る。
時間が長く感じられる。お父さんやフィーナちゃんと話しているときは、あんなに時間が短いのに。
剥れたままのケナの耳に、不意に甲高い笑い声が飛び込んで来た。どこかでも感じたことのある既視感に、表情を歪める。
顔を上げると、ドアの内側に自分と同じくらいの背丈の子供が見えた。慌ててドアの前からどける。
からからん、と店のベルが鳴って、ケナと同い年くらいの男の子が棒にささったキャンディを舐めながら上機嫌に出て来た。
飴の棒を握る反対側の手では、ぎゅ、としっかり母親の手を握っている。
「……」
ケナが道を譲ると、微笑ましく笑いあった親子はその脇を素通りする。男の子が店先の僅かな段差でよろけて、母親は慌てて手を引くことで転ばせないようにする。
「もう、気をつけなきゃ駄目でしょ」
「だ、大丈夫だよッ!」
母親の窘める声に、強がりで答える。だが、一瞬だけ損ねた機嫌も手に持った甘い飴でころっと直ってしまう。母親はふ、と笑って再び彼の手を引いた。
親子はそのまま、通りの向こうへ消えていく。
「……」
ケナは黙ってその後姿を眺めていた。人込みに紛れて二つの影が見えなくなると、足元に転がっていた小さな石ころを蹴った。
こつん、と音がして小石が階段を転げ落ちる。最後には、人波の靴の流れに紛れて見えなくなった。
「……」
ケナはふん、と鼻を鳴らす。
「……寂しくないもん」
からからん。
ケナの小さな呟きを、軽快なベルが掻き消した。背にしたドアが開いていた。
「ごめんねー、ケナちゃん。遅くなって」
「あ」
買い物袋を提げたフィーナがかがんで視点を合わせて来る。ケナは顔を上げた。笑顔を作る。胸を、張る。
「遅いよー、フィーナちゃん! 何してたのー!?」
「ごめんごめん。ちょっと話し込んじゃった」
「もー、フィーナちゃんてばー……」
「だからごめんって。はい、お詫びにこれ」
「?」
籠の中からフィーナが何かを取り出した。白い彼女の手の合間に青いリボンが広がる。差し出されて両手を出した。
小さな包みが、ケナの小さな掌に乗せられた。
「あ……」
小さな包みの中に見えたのは、べっ甲色の小さな砂糖菓子。
「あ、う、うん……」
「嫌い?」
今ひとつ鈍いケナの反応に、フィーナが不安げな声を出す。ケナは慌ててぶんぶんと首を振った。
がさがさと急くように、けれど包みを破らないように丁寧に開いて、べっ甲色の飴を取り出す。そのまま頬張った。
甘くて香ばしい味が口の中に広がった。
「ケナちゃん?」
飴を口の中へ放り込んだケナが、唐突にスカートにしがみ付いてきた。彼女は首を傾げながらも、自分と同じ金髪を撫でた。
「どうかした?」
「……」
少しの沈黙があった。だが、ケナはすぐに顔を上げて、いつものようににっ、と笑って、もう一度甘えるように抱き着いてきた。
「何でもないよー、ありがとう! フィーナちゃん、大好き!」
「?」
その様子に、フィーナはまた少し首を傾げたが、彼女の表情があまりにもいつも通りだったので気にかけないことにした。
離れたケナが、上機嫌で小さな手を伸ばしてくる。それに応えて小さな手を握る。彼女はまた満足げに微笑んで、フィーナを引き摺らんばかりの勢いで町中へと飛び出した。
「シリア、シリア!!」
大声と共に地下の研究室のドアを開く。その脳天に、
どがッ!
分厚い蔵書の角がクリティカルヒットした。
「……レディのいる部屋にノックも無しで飛び込んでくるなんて、些かマナーがなっていなくてよ、アルティオ」
「スイマセン……じゃなくって!」
普段よりも三倍速程度、早く復活したアルティオは鬼気迫る表情でがばり、と起き上がる。
その様子にさすがにただならぬものを感じたシリアは、憮然としていた表情を真顔に戻した。
「……何か、あったの?」
「ああ、なんて言うか……。まあ、来て見てくれよ」
「分かったわ」
研究室内に、他の魔道師たちが働いているのを慮ったのだろう。静止した魔道師たちに指示を出してから、シリアはアルティオを急かすように廊下に出た。
ごぅん、と背中で重い地下室の扉が閉まる。扉に阻まれていれば、こちらの声は中まで聞こえないはず。
「……で?」
「ああ」
苦い表情でアルティオは階上へと伸びる階段の上を指差した。そのまま先導するように歩き出す。
シリアは双剣を背負う背中について階段を上った。
地上に出ても、彼は階段を上り続ける。確か、彼は砦の塔の上で見張りをしていたはず。そこまで連れていく気なんだろう。
シリアの額に汗が浮かんだ。上り続けて疲れたわけじゃない。これは脂汗だ。
見張りに立っていた彼が、他の魔道師には気取られないように、シリアだけを呼びに来た。
それが一体何を意味するのか――想像には、難くない。
やがて塔の見張り台に着き、彼と共に見張りに立っていた数人の兵士の真っ青な顔色を見て、シリアの懸念は確信に変わった。
ごくり、と固唾を飲み下す。
「……で」
聞きたくもない先を促す。アルティオはやはり苦い顔で、額に同じような汗を浮かべながら、塔の小さな窓を指差した。
かりッ――数日で癖になってしまったらしい。爪を噛んで、シリアは笑いそうになる膝を叱咤して、その窓に近づいた。自分のヒールのかつん、という音が妙に五月蝿い。
シリアは、深呼吸をしてから、その窓を覗いた。
塔の上から見える、遠い丘の上に、幾つもの黒い点と、翻る八咫鴉の紋の旗が見えた――。
←9へ
ふにっ。
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
←8へ
ふにふにっ。
ふに。
「……フィーナ」
「ひゃ……ッ!」
後ろから抑えた低い声で囁かれて、彼女は肩を震わせた。アレイアはいつも通りのどこか呆れたような口調で問いかける。
「……何してるんだ?」
「えーと……」
彼女は悪戯がバレた子供のような目を泳がせる。目の前にはリビングのソファで寝入ってしまったケナのあどけない寝顔。
時たま、うーんと小さく呻いて、抱き着いた柔らかいクッションに頬を押し付ける。
「……こ、子供のほっぺたって、思ってた以上に柔らかいなー、って」
「……」
先ほどから延々とケナのふにふにしたほっぺたを、指で突付いていた彼女は苦笑いをする。アレイアはもう一度呆れた溜め息を吐いた。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどな……。もう十時過ぎだ。素直に寝せてやってくれないか?」
「分かってるわよ。ちょっと気になっただけだってば」
アレイアは立ち上がってソファの上の娘を抱え上げた。するり、と落ちた毛布を拾って、隣の寝室に入っていくアレイアの後ろに付いていく。
だが、アレイアはそれを制してケナを器用に片手に抱え直すと、離した片手で毛布を受け取った。
彼女はその背中を追わずに、少し考える。隣接した狭いながらもきちんと片付けられたリビングに向かう。
「フィーナ?」
寝室から戻ったアレイアが呼びかけてくる。ひょこり、とキッチンから頭をだけを覗かせて、
「アレイアも飲む?」
「?」
「コーヒーよ、コーヒー」
「あ、ああ……。じゃあ、頼もうかな」
「らじゃー」
アレイアがソファに身を沈めると、カップとスプーンとがかちゃかちゃと鳴る音だけが、キッチンから響いて来る。
しばらくして、彼女は両手に湯気の立つマグカップを携えて現れた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
そう言ってにこやかに受け取ったアレイアの顔の眉間に皺が寄る。湯気の立つ黒い水面を眺めながら、自分の座るクッションを叩いていた彼女に声をかける。
「フィーナ……」
「ん?」
「俺は、その、コーヒーのブラックはちょっと……」
彼女はきょとんとしてアレイアの少し申し訳なさそうな顔を見た。そして自分の手の中にあるコーヒーを見る。ミルク色が混じったそれを見て、はっとする。
別に自分のものと彼のとを間違ったわけじゃない。自分だって、ブラックでは飲めないから。
彼だって、コーヒーにミルクを淹れて飲んでいるのを何度も見たじゃないか。
「あ……あはは、ごめんごめん。何かぼーっとしてた。今、取ってくるわ」
「ああ、いいよ。俺が自分で取ってくる」
フィーナがクッションに座ると同時にアレイアが席を立つ。彼を待っている間、彼女は甘いコーヒーを口に運びながら首を傾げていた。この家に、ブラックでコーヒーを飲む人間はいないのに――。
薄い絨毯と皮が剥げてきているソファ。端が擦り切れたタンスと、よれたぬいぐるみ。カーテンには小さな穴が開いていて、天井には煤けた痕がある。
掃除はきちんとしているが、よく言えば生活感のある、悪く言えば雑多なリビング。
隣接するキッチンはあまり広くなく、他は客間と寝室があるだけ。郊外に建てられた小さな家が、親子の居住だった。
「……」
「どうしたんだ?」
「んー……」
キッチンから戻って来たアレイアに顔を上げる。
「ちょっとだけ。ここに来たときのこと思い出してね」
「……ああ」
アレイアは、トーンを落とした声で頷いた。苦笑いをする彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは夕食を取っていたリビングの椅子に逆座りする。
「……何か思い出したか?」
「……」
彼女は無言で、力なく首を振る。アレイアは相槌を打つことしか出来ない。
降りた沈黙のむず痒さに気が付いて、慌てて彼女は顔を上げて両手を振った。
「あ、あははは、や、やだな。アレイアがそんなに気にすることないじゃない。
あたしだって、そんなに困ってるわけじゃないし。別に命に関わることでもないし――。
そりゃあ、いつまでもここに世話になってちゃ、アレイアにもケナちゃんにも邪魔だろうし、申し訳ないけど」
「いや、俺たちは別にフィーナを邪魔だなんて思ってないよ。でも――」
「うん、まあ、気になるけど」
言葉を濁したアレイアに頷き返し、彼女は頭を押さえながら天井を仰ぐ。
「そりゃあさ、あたしだって気にはなるわよ。何も分からずに、いきなり街道に倒れてた、って言われちゃね……」
「ああ、あのときはさすがの俺もびっくりした」
「あはは、そうよね。剣で武装した女が、いきなり道の真ん中に倒れてたら、誰でもそう思うわ」
「切り傷も酷かったし、最初はどこかの戦地に巻き込まれた兵士か傭兵が、ぶっ倒れてるだけかと思ったんだが……」
アレイアはむず痒さにがりがりと頭を掻く。彼女は曖昧な笑顔で押し黙るしかなかった。
大きな溜め息が響く。
「まさか、倒れてた本人が記憶喪失になってたなんてな」
「……ごめん」
彼女は謝ることしか出来ない。
「まあ、謝ることじゃないさ。自分じゃ訳も分からないんだろうし」
「そりゃそうだけど……何の素性もわからない人間を居候させて置く、ってのはあんたたちにとっても気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
「確かに最初は戸惑ったよ。でも、ケナも良く懐いてるし、家のことは任せちまってるし……。
正直、俺は今はフィーナに感謝してるよ」
「……ありがとう」
少しだけ申し訳なさそうな表情を残しながらも、彼女はそう言って頭を下げる。
「ごめんな、記憶を取り戻すためにいろいろしてやりたいとは思ってるけど。
こんな家庭だからさ、どうにも上手くいかなくて」
「そんなの、あたしの勝手な都合なんだし。それにさ」
どうにか湿った空気を吹き飛ばしたくて、彼女はマグカップを煽って笑みを浮かべた。空になったマグカップをふりふりと振りながら、
「個人的には、さ。今の生活も嫌いじゃないのよ? そりゃあ、アレイアにも迷惑かけてるからいつまでもこのまま居候させてもらう、ってわけにはいかないけど……
記憶だってさ、全部なくなってるならそれはそれで、それほど困らないかなー、って。
そりゃあ、気にはなるけど、町の人たちだって優しいし、アレイアだって親切にしてくれるし、ケナだって懐いてくれたし。
そんなに思い悩んではいないのよ。まあ、思い出すときにゆっくり思い出せればいいかなー、って感じで……」
「……そっか」
弁解のようにまくし立てる彼女を見て、アレイアはどこかほっとしたようにマグカップを置いて、椅子から立ち上がった。彼女のいるソファまで来ると、労わるような優しい笑みを浮かべながら、
「……強いな、フィーナは」
手を伸ばして、彼女の頭を撫でようとした。
しかし、
――ッ!
「?」
「あ……」
無意識なのか、彼女はそれを避けるようにして身を引き、固くした。彼女の動作に、思わずアレイアも手を引いてしまう。
一瞬の後、我に返った彼女は罰が悪そうに、
「ご、ごめん! 別に嫌なわけじゃなくて、その……」
その後の弁解の言葉は出て来なかった。当たり前だ。そんな理由なんて、彼女にだってわからなかった。無意識に、単に頭を撫でるためだけに伸ばされた手を、何故か避けてしまった。
場合によっては相手を傷つける行為。自分でも、何故避けてしまったのか分からない。
アレイアは少しだけ考えて、ふ、と笑って手を下ろす。
「何か、疲れてるみたいだな。後片付けはして置くから、フィーナはもう休むといい」
「う、うん。でも……」
「いいから」
半ば強制的に、アレイアは彼女の手からマグカップを取り上げる。それで観念したのか、彼女は小さく肩を竦めて、もう一度小さく『ごめん』と呟いた後に立ち上がる。
「じゃあ、あたしもう寝るね。ごめん」
「いいって。気にしてないさ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
何となく、違和感を感じながらも短い挨拶を交わす。大丈夫だ。こんな程度の空気は、明日、朝食を食べる頃には拭えてしまっているはず。気にするようなことじゃない。
彼女はキッチンに向かうアレイアの背を見届けてから、自分が寝泊りしている客室の方へと向かった。
古びたドアが軋んで閉まる。ぱたり、と閉じてしまうともうリビングの光は入ってこない。削れたドアの隙間からかすかに漏れてくるだけ。
でも、着替えをして寝るだけなら窓から差して来る月明かりでも十分だ。
人が五人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう客室。ちょっと古くて軋むベッドと小さなクロゼットがあるせいで、余計に狭く見える。けれど別に不自由には感じていない。
ベッドに腰掛けると、ろくにスプリングが働いていないそれはぎしり、と鳴った。
月明かりで青白い天井を見上げる。
「……フィーナ、ねぇ……」
自分の呼び名を呟いてみる。どうにもしっくり来ない。当たり前だ。本当の名前ではないのだから。
『フィーナ』という名前は、半月前、アレイアに行き倒れになっているところを拾われてから、それまでの記憶の一切を失っていた自分に、彼が呼び名として付けてくれた名前だ。
本当の名前は知らない。まだ、思い出せていない。
「何だかなぁ……」
溜め息を吐く。
目が覚めたときには、自分がどこから来て、それまで何をやっていたのか、一切を覚えていなかった。身一つで帰る場所も分からず、しかも女だてらに奇妙な武装をしていた自分を、アレイアは何を思ったのか、何ともあっさりと居候を許してくれた。
郊外のこの小屋で娘と二人だけで暮らしていた彼には、何か思うところがあったのかもしれない。聞いたことはないし、聞く気も無いが、二人きりの父子家庭というのには、何かの事情があるのかもしれない。
ともかく、アレイアやケナには感謝している。彼らがいなかったら、彼女は路頭に迷う他なかっただろう。
今の生活に不満はない。
ずっと続くものならば、それでも構わないかもしれない、と思えるくらいだ。
でも、そんなわけにいかないと知っている。いつまでもアレイアに迷惑をかけ続けるわけにもいかない以上、思い出すしかないのだろうが――
――半月経っても、全然。
くるり、と身体を反転させて、窓から差す月の光を眺める。
……記憶を失っていなかったら、今、自分はどこで何をしているはずだったのだろうか。
そもそも、何故記憶喪失などになってしまったのか。
何も分からない。
「――考えてもしょうがないか」
諦めの溜め息を吐き出して、寝巻きに着替えてベッドへ横になる。シーツの少し冷たい感触が、彼女の身体を包み込んだ。
同時にふと、先ほどのアレイアへの自分の態度を思い出す。彼はただ頭を撫でようとしてくれただけだ。アレイアは彼女よりずっと大人だ。歳の意味でも、精神的にも。
ただ、それまでの記憶を失った哀れな少女を元気付けるための行為だったのだ。
――悪いこと、したな……
他意など無かったはず。なのに、
何故か。
伸ばされる掌に、違和感が、あったのだ。
――明日、謝ろう。
枕に顔を埋めて、抱き締めるようにして目を閉じた。
「……防衛案?」
前線に一時来訪したティルスが吐き出したその一言に、ラーシャの目が細められる。その表情が、けして良くないものだと気が付いたデルタは、視線を下げて考える素振りを見せた。
ティルスが頷くのを見て、ラーシャの表情がますます険しくなる。
彼に苛立っているわけではない。彼の出した策に憤っているわけでもない。
武人として、彼の出した窮地を脱する打開策は歓迎すべきものなのだろうと思う。思うが……それを素直に賞賛できるほど、ラーシャは愚鈍ではなかった。
「……はい」
どこか凍りついた硬い声でティルスは返す。
ラーシャは彼が手元に持ってきた陣形案を手に取りながら、渋い顔を崩さずに問い返した。
「……すると、お前の案では、平原の陣にいるエイロネイアの軍をすべて焼き払う、と」
「はい」
迷い無く、彼は返してきた。
さらり、と答えた彼にラーシャは親指の爪を噛む。胸に煮えたぎる、奇妙な熱い、気持ちの悪い塊を押さえつけて、無言を貫いた。
「コンチェルト少佐」
彼女に代わって、デルタがティルスに問う。
「詳細を、お願いします」
「……ジルラニア平原は既にエイロネイアの手に落ちています。我らの戦力はまだ、立ち直っていません。といっても、立ち直るのを待っていれば、その分相手も戦力を強化するでしょう。
ジルラニア平原とエイロネイアの間には山脈があります。足場が悪いことは前回と変わりありません。
だからこそ、こちらの援軍が到着していない今が、彼らにとってもチャンスとなります。
近々、こちらの陣に攻め入って来るでしょう。我々は防衛線をせざるを得ません」
「ああ」
「ですが、防衛線というのは戦力が上回っていなければ、けして有利なものではありません。
このまま手を打たなければ、ジルラニア平原のボーダーは容易く越えられてしまいます」
「……そこで、火計を、と?」
「はい」
いとも容易く頷いてみせるティルス。分かっている。彼も望んでこんな策を練ったわけではないのだ。
攻め込まれるより早く、エイロネイアの陣に火を放つ。夜、兵士の眠気も覚めないうちに実行すれば、混乱と――そして何より、兵力の減少が狙える。
それはつまり、エイロネイア側の兵士を不意打ちで焼き殺す、ということだ。
エイロネイアには死人や獣が混じっている。だが、混じっているというだけで、主力に生身の人間を置いていないはずがない。
その人間に、眠っている間に、火を付ける。
ラーシャは深い息を吐き出す。頭を振る。短気では駄目だ。将官は長い目で、長い目で大局を見なくてはいけない。
それが、敵軍の兵士の命を奪うことであっても、だ。
何度、この手を血に汚したのか。今さらと言えば今さらだ。
けれどラーシャは迷う。人間である部分を、将官として棄てたくは無かった。
ティルスが作成して持ってきた作戦の暫定案に再度、目を落す。
よれよれの羊皮紙。分かっている。彼だって短絡的に案を出したわけじゃない。火計地点までの経路、時間、各兵士の役割まで詳細を練ってある。巧みに男性がてら、薄い化粧までして隠しているが、目元には薄っすらと隈がある。
彼とて、何時間もかけて決意したのだ。シンシアの軍師として、シンシアの兵として、為さねばならない、選ばねばならない道は何なのか。一晩かけて、模索して、並々ならぬ決意と共にそれをここに表している。
ラーシャの手に、知らず知らずに力が入る。
書類の片隅が、くしゃり、と小さく音を立てた。
「……この案の火計が成功すれば、どれほどの功績が見積もれる? 成功率は?」
「火攻めでの被害と……混乱による逃走や、軍部の指示の停滞などが見図れますから――おそらくは、今の我々の軍でも制圧可能かと。
ジルラニア平原はエイロネイアにとって地理的条件が良くありません。火攻めをされれば、易々と後退することもできないでしょう。立ち止まるか、もしくは準備もそこそこに急ぎ攻めてくるか。
我が軍はその混乱した兵を討てば良い。
成功率は……向こうもこちらが追い詰められていることを知っています。
指揮官が優秀であれば、警戒は怠らないでしょう」
『窮鼠[きゅうそ]猫を噛む』という諺がある。ねずみでも、追い詰められたら猫を噛むだろう、という窮地に立たされた状態を表す諺だ。
鼠はシンシア、猫はエイロネイア。
ただ違うのは、この猫はそうそう鼻っ柱に噛み付かせてはくれない、という点。用心深い猫は、鼠の喉笛を捕らえるまで油断はしない。
「五分五分、といったところでしょう。高いわけでもなく、低いわけでもありません」
「……」
ラーシャはちらり、とデルタを盗み見る。彼は書類に目を向けたまま、小さく頷くだけ。ラーシャの判断の判断に任せる、と暗に語っていた。
彼女は瞑目する。
人道と、将官としての命。
ティルスが一晩かけて決意した冷断を、ラーシャはこの数秒でしなくてはならない。それが、シンシア中将ラーシャ=フィロ=ソルトの役割。この重い白服の枷だから。
数瞬、間があった。デルタも、ティルスも急かそうとはしなかった。
きっ、と不意に意志の灯る蒼眼が見開かれ、ティルスを睨んだ。
「デルタ、ティルス」
「はッ」
「はい」
「明朝、指揮官を集めろ。ティルス、デルタ、これより暫定案の検討に入る。今日は残業になるぞ」
『はい!』
デルタとティルスの敬礼が重なる。それは賞賛でも、歓喜でもない。ただただ重く圧し掛かる決意の一声。
手を下ろすとかちゃり、とそれぞれの紋章が鳴る。気高き鷹の紋が、昼下がりの陽光に煌いた。
二、三度呼びかけても反応に乏しい、と思ったら。
呼びかけた相手は、いつのまにやら船を漕いでいた。
がすッ!
大声を出す前に、隣で書類を捲っていたアリッシュの肘が丸めた背中にめり込んだ。俯いた白い頭から、ぐふっ、とくぐもった声が漏れる。
「……おはようございます、エレメント中尉」
「おはよう、カシス」
「……」
立て続けの主従の嫌味に、彼は独特の白髪を掻き上げながら、眠たげに細めた赤眼をうっすらと開く。くぁ、と漏れたのは欠伸だ。
……本来ならこの領内で最上の地位を持っている王族の前で欠伸など、許されることではないのだが、当の皇太子たる彼は軽く溜め息を吐いただけで受け流した。
「また徹夜?」
「……会議の最中に居眠りなど、正気ですかエレメント中尉?」
「……せぇなぁ……」
吐き出した声は明らかに不機嫌だ。もっとも、この男の機嫌が良かった顔なんて、皇太子たる少年は見たことがないのだけれど。
痛烈な一打を加えた家臣は、これまた痛烈な一言を浴びせかける。
まあ、それで打ちのめされるような繊細な神経ではないだろう、この男は。
「カシスちゃんてば度胸あるぅ。他の人間じゃそんな芸当、とてもじゃないけど出来ないわよ」
「……うるせぇ、黙れ厚化粧じじぃ」
「ああッ!? 何ですって!?」
「エリシア」
「だって殿下ぁ!」
エリシアの金切声を、少年は静かに窘める。明らかな溜め息を吐いて、少年は力なく首を振った。
「エリシア、エレメント中尉。殿下の御前ですよ」
「カシス、君ももう少し口を慎むように」
「はんッ。くそじじぃ、お前化粧全部落したら、体重二、三キロ軽くなるんじゃねぇのか?」
「きぃぃぃッ! あんたねぇッ!」
「……」
少年は傍らに立つ従者を顔を見合わせて、もう一度溜め息を吐いた。頬杖を付きながら肩を竦めた彼は睨み合う部下を冷えた目で眺めると、早々に諦めた。
「……もういいよ。それより先を聞こうか。アリッシュ、続きを」
「はい」
生真面目な返事を返したアリッシュの声に、エリシアはいつものように鼻を鳴らしながらも天井を向いて押し黙る。カシスはちらりとそれを見ただけで、再び眠たげにテーブルへと突っ伏した。
どうせいつも通り片耳で聞いているはずだ。態度云々よりも、これ以上の妨害はごめん被る。
「先日のジルラニア平原での戦は作戦指示通りに。今は我々の軍が平原の三分の二を占拠しています。
南部より侵攻、現在、我々の陣は平原上に。
シンシアの陣は平原よりやや北よりの平地に構えられている模様です」
「ってことは、シンシアはジルラニアからまだ手を引くつもりはない、ということね」
「おそらく。そう思われます」
「……まあ、あそこの存在は大きいからね。ゼルゼイルのほぼ中央に位置する巨大な平地。
手放したくは無いはずだよ。どんな経路にも、どんな陣構えにも使えるからね。おまけに土地的条件もシンシアから見ればかなりいい」
「だからこそ、敵になれば膿になる。この期に手にしてしまわなければ、後々面倒が出る。
それに、あんたにとっちゃ"経路"ってのが一番魅力的なはずだ。
あそこさえ押さえちまえば、いろいろと魔道探索のルートに使えるからな。ま、そこは俺としても歓迎するがね」
「そう。用途は様々。だからこそ、渡して置くわけにもいかない。こちらからしてみれば少々厄介な土地だからね。チャンスとタイミングを逃すわけにもいかない」
「それは敵さんだって同じでしょう? それ相応の構えで挑んでくるはずよ」
「……今現在では、兵力差は十分。まともに正面から当たれば、簡単に打ち破れる。
だからこそ、向こうも一計くらい案じているだろうね」
「ま、最善手ってのは限られてんだろうがな」
いつもの含み笑いを漏らしたカシスに、少年は書類から面を上げる。すっ、と細められた目が、彼を睨んだ。
「……どう来ると思う」
「自分で察しがついてないわけでもなかろうに。うちの大将はつくづく人遣いが荒ぇもんだ。
まあ、いいさ……。
シンシアには兵力差、っていう致命的な問題がある。軍師ならまずそこを何とかしようとするのは、まあ、定石だな」
「だろうね」
すらすらと述べる彼に、軽く相槌を打つ。先程、侍女が持ってきた紅茶に口をつけながら、少年は軽く目を瞑る。
「兵力差をどうにかするには二通りしかない。自陣を増やすか、敵陣を減らすか」
「援軍は呼んでるだろーな。どの程度の規模なのか。
まあ、シンシアの新しい作戦が波に乗ってるなら、あちらさんのじじぃ共も頷いただろうが、この状況。大軍はねぇわな」
「それについては先日、帰結しています」
アリッシュがすぱり、とカシスの言葉を打ち切った。彼の薄い唇がつり上がる。
少年は自らの従者を、片手を挙げて窘めた。
「言いたいことは分かるよ。向こうの指揮官も援軍にそれほど期待はしていないだろう。
だとしたら、兵力を削りに来るはずだ。それに自陣の兵を使うなんて愚の骨頂、だろう?」
カシスは無言で肩を竦める。「わかってんじゃねぇか」と呟いて、ひどくつまらなさそうな目で少年を見た。
「でもさぁ、それでどうやって兵を削りに来るっていうのぉ? まさか祈祷で嵐でも起こす、とか言わないわよねぇ?」
「……退化脳」
「何ですって!?」
「エリシア。人間は脆いんだ。ちょっとのことですぐに自制心と冷静を失う。集団の中で連鎖的にそれが起これば、被害は甚大。
確かにエイロネイアはシンシア軍を追い詰めてる状況だけど。
大軍、というのは小回りも効かないし、けして多いことがいいとは限らないんだよ」
ぼそりと漏れたカシスの言葉に、再び過剰反応をするエリシアを遮って、少年がフォローを口にする。顎に指を当てて、ちらりと傍らの従者を見上げる。
彼は視線に気づくと、水色の髪を揺らし、小さく頷いた。
「そうなると……悠長に構えているわけにもいかない、か……。
混乱を発生させるには、不意打ちが定番。向こうは平地から退避していて、こちらは平原に陣を広げている。となると――」
「火攻め、ですか?」
アリッシュが言葉を継いだ。にやり、とカシスが笑い、少年が淡白に頷いた。
「あちらさんはもう平原から退避してるんだ。だったら自分のフィールドで戦いたいはずさ。必ず、いぶり出しにかかる。
ましてやこっちの背中は山だ。容易に退避は出来ねぇ。
真っ当な軍師ならそう来るだろうな」
「……僕もそう思う。だったらいつ、不意打ちが来るかは風次第だね。
明日か明後日か。風向きにが追い風になるのを待ってるはずさ。向かい風では火を付ければ自軍に被害がいくからね」
「じゃあ、どうするのぅ? まさかこのままバイバイ、ってことは……ないわよねぇ?」
エリシアの言葉に棘が混じる。ねちり、とした含みが端に漏れていた。
にやにやと、何故か異様に楽しげに笑うエリシアをちらり、と見やってから少年は思案する。顎に当てた指に力を込め、少し俯いて瞑目する。
やがて薄く目を開いた彼の黒耀の瞳は、ひたすらに無感情だった。
「……やってみるか」
吐き出した声と継いで出た指示の科白は、淡々と全員の耳を打った。
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1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
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