「くーださいなッ!」
店の中に幼い少女の声が轟き渡る。甲高い声に、他の客と世間話をしていた店主の女将は、視線を足元へと下げた。
金髪の、短めのツインテールが、視線の下でひょこひょこと弾んでいる。赤いリボンの可愛らしい、あどけない顔と表情。大きな葡萄色の瞳がくるくるきらきらと良く動く。歳は十を出ていないだろう。小さな身体の細い腕に、大きな買い物籠をぶらさげていた。
「おや、いらっしゃい! ケナちゃん、おつかいかい」
「うん! フィーナちゃんね、家のこと大変そうだから、ケナお手伝いするの!」
「そうかい、偉いねぇ。で、今日はなんだい?」
「えっとね、えっとね……」
んと、んと、と拙い言葉を連呼しながらごそごそと籠の中を漁る。小さなメモを取り出して、大きな声で読み上げる。
「えっとねー、たまねぎとねー、トマトとー、あとタマゴとブロッコリー!」
「おやおや、羨ましいねぇオムライスかい?」
「うん! フィーナちゃんがね、ちゃんとブロッコリー食べるなら作ってくれるって言ってたの! ケナ、オムライス大好きだから頑張って食べるの!」
「そうかいそうかい。じゃあ、おまけをつけてあげないとねぇ。ちょっと待っててね」
「わぁい!」
女将は読み上げられたものを籠に入れ、側にあった桃を丁寧に剥き始める。ケナは商品の積まれた台に両手をついて、果汁の垂れる桃に目を輝かせている。
女将と話をしていた買い物帰りの主婦も目を細めてそれを眺めていた。
しゅるしゅると剥かれていく桃色の皮に、飛び跳ね始めたケナ。待ちきれなくて、きょろきょろと視線を迷わせる。と、店の影から茶色の子犬がひょいと顔を出す。
「あ」
「? ケナちゃん?」
ぱっ、と明るい笑顔を向けると、買い物籠を置いてケナは走り出した。ぱたぱたという足音に驚いたのか、子犬はそのままストリートへと駆け出す。
「あ、こらー!」
くるり、と方向転換。少女の視界には、へっへっと駆けて行く子犬の背中が見えるはずだった。ケナもそれを期待していた。が、
ばふッ。
「ッ!?」
急に視界に影が差し、何かに衝突する。軽いケナの身体は、容易くころん、と後ろに転がった。
「たぁ~……」
「け、ケナちゃん!」
少し転がっただけなのに、血相を変えた女将がこちらに呼びかけてくる。何故、そんな青い顔をしているのだろう、とケナは目の前の障害物をきょとんとした目で見上げた。しかし、それが何なのか、確認が済むより先に、
「ぁあッ!? 何しやがる、このガキッ!?」
無駄に大きな野太い声がケナの鼓膜を突き抜けた。思わず追いかけていたはずの子犬のように両耳を抑えて縮こまった。
耳の痛みか、何なのか、反射的にじわり、と涙が滲む。
おそるおそる目を開くと、思い切りつり上がった黒目が、ケナを見下ろしていた。じゃらじゃらと耳に五月蝿い、変なアクセサリーをいっぱいぶら下げて、へんてこな服を着ている。逆光にアクセサリーのきらきらが目に痛い。大きな図体もあって、まるで熊のようだ。
「ふぇ……ッ」
「俺の大事な足に体当たりたぁ、いい度胸じゃねーか、ぁあッ!? てめぇ、どこのガキだッ!?」
「……ぅ、ぅう……」
ごめんなさい、と口にしかけたケナの表情が固まる。そのまま動けない。大声に足が竦んで、さっきまであんなに駆け回っていたのに、麻痺したように手足が動かない。怖い。
「ちょっとあんた!」
桃を剥いていた包丁を置いて、女将がケナの前に出た。
「こんなちっちゃい子にいちゃもんつけるんじゃないよ! 何さ、怪我もしてないだろ!?」
「ぁあッ!? ババァは引っ込んでろ! こいつぁ、オトシマエってやつだよ。人の足に突っ込んできたガキにゃあ、教育が必要なんだよ!」
「何が教育だい! いい大人が恥ずかしいね! 教育なんてものがやりたかったら、こんなところブラブラしていないで、きちんと働いたらどうなのさ!」
「こんのババァ……!」
人間は図星をつかれると、堪忍袋の尾が軟弱化するらしい。こんな粗暴を絵に描いたような男など、特に。
ぽかんと涙目のケナの前で、熊のような男が、拳を振り上げた。
ケナははっ、とする。女将は逃げない。むしろ男を睨みつけて、ケナを庇っている。
――だ、だめ……
逃げて、と言おうとした。けれど、恐怖で喉がつかえて、声にならない。
振り上げた拳が、動く。
ケナは思わず目を閉じた。けれど、
びしッ!!
「ッづ、だぁぁぁ~~~ッ!?」
奇妙な音がした。えっと、ああ、八百屋の女将さんが旦那さんをビンタしてたときに、同じような音がした。でも、あんな音よりずっと重い。それに、何か人の声と思えないようなひしゃげた声がした。
震えながら目を開けると、ちょっとだけ茫然とした女将の背中が見えた。その背中の向こうには、さっきケナがぶつかってしまった熊のような大男。
けれど目を開ける前の威圧感はなくて、ちょっと赤く腫れた右手を押さえて蹲ってる。……ちょっと泣いてる? そんなに痛いの?
何が起こったのかよく解らない。解らないケナの耳に、じゃり、と足が砂を踏みつける音が届いた。
棚引いた綺麗な金色の髪が、目に入った。
「あ……」
恐怖を忘れて立ち上がる。一歩歩くと、女将と男の合間に人影が見えた。
少しだけ小柄。華奢に見えるが、腕足にしっかりと筋肉は付いている。ふん、と鼻を鳴らして腕を組むと、また陽光に光を放つ長い金色の髪の房が跳ね上がった。意志の強い碧眼は軽蔑するように男を睨んでいる。
ケナと揃いの青いリボンと、ふわりとしたフレアスカートとカーディガン。歳相応の、可愛らしい村娘だが、浮かべた敵意の表情は肉食獣のそれだ。
彼女の顔が見えて、ケナがぱっと涙を引っ込める。
「フィーナちゃん!」
「まったくもぅ……。『私が行くー!』って言うもんだから、こっそり付いて来てみれば……」
「ごめんなさぁ~い……」
駆け寄って、女性のフレアスカートに飛び込んだ。汗と、ちょっと甘い匂いがして、そのまま抱きつく。かすかに笑う気配がして、ふわふわと頭を撫でられた。
「女ァ……てめぇ、何しやがる!?」
男の粗暴な声が飛ぶ。対してフィーナ、と呼ばれた彼女は、眉根を吊り上げて、強面の顔を真っ向から睨んだ。
「何しやがる、はこっちの科白よ! 子供が当たったくらいでどうこうなるような軟弱な図体でもなかろーし、挙句に何? 逆ギレして関係ない女の人に手を上げるわけ? でかい図体に乗ってるのは単なる飾り? 世の中はあんた中心に回ってるわけじゃないのよ!?」
「うるせぇ!」
一気にまくし立てた彼女に、男が語彙で反論するはずもなく。再び拳を握る。
彼女はケナを背中に隠すと、先ほどと同じように男の手を叩き落そうと半歩、後ろに下がった。が、今度は男の手が動くよりも先に、
「ぐ、いでででででッ!?」
拳を固めていたはずの男の手が、いつのまにか背後に回っていた。腕を捻り上げられ、ついでに背中に回されて完全に腕を封じられた男の哀れなくぐもった悲鳴が響く。
「あら、アレイア。おかえりなさい」
「おとーさん!」
男の背後に立っていた、また別の男――青年、と呼ぶには少々歳が出ているが、中年と呼ぶには若すぎる――が呆れた表情でフィーナを見た。フィーナの背中にいたケナが、ひょこりと顔を出して、これまた同じように目を輝かせる。
彼女が駆け出すより先に、男を拘束していた、アレイアと呼ばれた男が溜め息を吐いた。
「あのなぁ、ケナ。急に飛び出さないよういつも言っているだろう? 周りにもちゃんと気をつけなさい」
「はぁ~い……」
やや緑がかった黒髪を、汗で額に張り付けながら彼は言う。歳よりも大人びて見えるのは、窘める口調だからなのか。
しゅん、として答えるケナから、今度は少女を庇う彼女に紫紺の目を向ける。
「フィーナ、お前もなぁ……。街中で何かあったら呼べ、って言ってるだろ……。何でわざわざ火種を広げるんだよ」
「呼んでる暇なんてなかったし。大体、日中は仕事じゃない」
「そりゃそうだが……」
「おい! 離しやがれッ、てっめぇッ!!」
アレイアが言いよどんでいると、腕を掴まれたままの男が声を荒げて背後を睨む。しかし、彼は急にすっと無表情になって、恐ろしく冷めた表情でそれを見下ろした。気圧された男が、短い悲鳴を上げる。
げしッ!
「ッ!」
男が声にならない悲鳴を上げた。腕を放したアレイアが、男の足を思い切り皮のブーツで踏んづけたのだ。男は抗議しようと振り返るが、それよりも先に、喉元に手刀が突きつけられた。
目の前にある紫紺の瞳は、それ以上なく冷えていて。視線を合わせているだけなのに、だらだらと、嫌な汗が額を、背中を流れていく。
「……二度とフィーナとケナに余計な真似をするな」
先ほど彼女たちを窘めた声とは比べ物にならないほど低い声が発せられる。そうなって初めて男は程度というものを理解したらしい。可哀相なほど顔を歪めて、必死にこくこくと頷いた。
その様子を見て、アレイアはようやく手を離す。短い悲鳴を残しながら、男はあたふたと通りの向こうに消えていった。
ぱんッ! と拍手が上がる。
「やー、さすがアレイア! あっぱれ!」
「……本当に調子いいな、お前」
「おとーさん、すごぉいー!」
ぱたぱたと駆け出したケナが、男の上着へと飛びついた。たたらを踏みながらそれを受け止めたアレイアは、ふ、と微笑みを浮かべて少女の小さな身体を抱き上げた。
「いやー、良かった良かった」
「あ、すいませんー。ご迷惑おかけしました。大丈夫ですか?」
明るい笑顔を浮かべて話し掛けて来た女将に、フィーナは丁寧に頭を下げる。だが、女将は頭を振って、豪快に笑ってみせる。
「ぜんっぜん! 迷惑なんぞじゃないよ。あたしも助けてもらった身さぁ。
アレイアの旦那も相変わらず逞しいけど、フィーナちゃんも強いねぇ。尻込みもしないなんてさ」
「あっはっは、あんな奴、束になってかかって来るくらいじゃないと物足りませんよー」
「はははははッ! そうかい、頼もしいねぇ!」
女将と彼女の些か物騒な会話に、アレイアが不自然な咳をする。彼としては窘めているつもりなのだが、気づいているのかいないのか、意にも介さないのが彼女の恐ろしいところである。
「フィーナちゃん、ごめんね。だいじょうぶ?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとケナちゃんのおとーさんが助けてくれたし。全然平気。ケナちゃんは?」
「ケナもー」
ぱっ、と笑って再度、フィーナに抱きつく幼い少女。少女を腕に抱いたまま、彼女は勢いでくるりと一回転してみせる。はた、とその目が店頭に留まった。
そういえば、買い物の途中だった。
「ハンナさん、あの……」
「ああ、ごめんねぇ。あたしとしたことが。はい」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながらたまねぎとトマト、ブロッコリーが入った買い物籠を受け取る。中に入っていたはずの財布を取ろうとして、そのフィーナの手を女将が止めた。
「へ?」
「今日はあたしの奢りだよ。何だかんだで助けてもらっちまったしねぇ」
「そんな、だって迷惑かけたのはこっちですよ?」
「気にしなさんな、困ったときはお互い様さ! 早く帰ってケナちゃんに美味しいオムライス作っておあげよ」
「オムライス!」
思い出したようにケナが心底嬉しそうに騒ぎ出す。まだ匂いも嗅いでないのに、無邪気なものだ。
「で、でも……」
「ねぇ、旦那? これくらい、大の男なら喜んで受け取るよねぇ? いいからさ! 潔く行きなって!」
豊満な体を張って、からからと笑う女将に、アレイアは笑いながら溜め息を吐いた。フィーナよりもこの気さくな女将と付き合いが長いアレイアは、彼女の肩をぽん、と叩く。
「ほら、フィーナ、ケナも。お礼を言いなさい」
「え、えっと、うん……。あ、ありがとうございます」
「ありがとございますー!」
お辞儀をするフィーナと、やや舌っ足らずながら元気に声を上げるケナ。女将はうんうん、と頷くと、思い出したように果物籠の上に置いていた、皮の剥かれた桃を手に取った。
「ほぅら、おつかいのお駄賃だよ」
「うわぁい!」
「すいません、こんなに……」
「なぁに、桃は足が早いからねぇ。ちょうど良いってもんさ。ケナちゃん、中ほどの種はすっぱいからね。気をつけてお食べ」
「うん!」
既にくしゅくしゅと果実を頬張っていたケナは、口元を果汁に汚しながら大きく頷いた。それに呆れたように、くすりと笑うと、アレイアもフィーナも女将にもう一度頭を下げる。
「それはそうと、フィーナ」
「?」
「……いくら咄嗟だったからって、その格好で足を使うな。スカートだろ?」
「へ?」
「見えるぞ」
「!」
一瞬、きょとんとしたフィーナだったが、すぐに何のことか気が付くと買い物籠を下げていない方の手でスカートを押さえる。今さらなのに、顔は真っ赤だった。
「……見た?」
「…………………いや、それは」
「見たの?」
「……すまん」
「ッ!」
沸騰した。
赤い顔で彼女は男の顔を睨みつける。目尻には、心なしか涙が浮かんでいた。アレイアは何とかいい訳を探しだそうとするが、従来、正直者で性根の曲がっていない彼には無理な話だった。
別に彼が悪いわけではないのだが、だからといって割り切れるものでもない。
彼女は唇を尖らせたまま、「もー知らないッ!」と金切り声を吐き出して、ケナの手を握る。
「ケナ! すけべなお父さんはほっといて、さっさと帰るわよ! 今日はオムライスだから! お父さんの分はなし!」
「わぁい、オムライス、オムライスー!」
「待て! こら、ケナ! フィーナッ!」
ケナを引き摺るようにして唐突に走り出したフィーナ。ケナもケナで、子供特有の活発さで追いかけてゆくものだから、アレイアは慌てて二人を追いかける他はなかった。
石畳を騒がしく駆けて行くその背中に、女将がふぅ、と息を吐く。
「ケナちゃんも良かったわね。いいお母さん代わりが見つかって」
「まあ、お母さん、というよりは姉妹って感じだけどねぇ……。でもいい娘だよ。若いけど礼儀正しいしね。アレイアの旦那もなかなかいい娘を見つけて来たもんだ。
あそこの家はいろいろと訳アリだったみたいだからねぇ。いいことだよ」
「そうねぇ」
傍観していた女性客に答えて、女将は桃を剥いたナイフを片付け始めた。すぐに別の客から注文が入り、あいよ、といつも通りの声を返す。
世間話の相手だった女性客は、それを眺めながら、小首を傾げる。
「でもあの娘、一体どこの娘なのかしら……?」
「はい、出来上がり!」
ことん、と目の前に置かれた皿に、ケナは表情を輝かせた。綺麗な楕円の黄色い卵に、トマトソースがかかっている。側にあるブロッコリーが少しだけ気になるけれど、立派に綺麗なオムライス。
ケナはひとしきり感激した後、小さな手に大きなスプーンを取った。
「いただきまーす!」
元気に言って、いや叫んで卵にスプーンを入れる。ほかほかと湯気と共に顔を覗かせるチキンライス。トマトソースと卵と一緒に口に入れる。
ケナの輝いていた目が一層、きらきらと輝いた。
「おいしーい! フィーナちゃん、ありがとう!」
「あはは、ブロッコリー残すんじゃないわよ?」
「はーい」
そう答えた後はもう、すっかりオムライスに夢中だ。ときどきこぼすのが危なっかしいが、まあ、愛嬌というやつである。
その娘を見て、逆に溜め息を吐いたのは、対面に座っていたアレイアだ。だが、それは非難するような溜め息ではなく、仕方のない娘を呆れながら見守るような眼差しだった。
ふと、気が付いたように自分の分と彼女の分の食事を運んでくるフィーナに視線を向ける。
「すまないな。すっかりケナが世話になってる」
「別にー。それに世話になってるのはこっちだし。何も気にしてないわよ」
そう言って彼女はからっと笑った。テーブルに二人分の、ケナのものより些か大きめに作られたオムライスが置かれた。ケナがめざとくそれを見つける。
「あー、ずるいー! おとーさんとフィーナちゃんのの方が大きいー!」
「こら、ケナ!」
「それ全部食べて、ブロッコリーも全部食べたら私の分けてあげる」
「う……」
「もう一つだけ食べて、『ブロッコリー食べたー』なんて言わせないわよ。全部! だからね」
「うー、フィーナちゃんひどいー、ばかー、おにー」
「鬼でもないし、馬鹿でもない! 出されたものを手付かず残す方が、よっぽど酷いわよ!」
文句を言いつつも、皿にもっとブロッコリーが増えるのは避けたいケナはしぶしぶと手を引っ込める。スプーンの代わりにフォークを取ると、オムライスの脇にちょこんと邪魔をする緑の物体に突き刺す。
目に涙を溜めながら、鼻を摘んでぱくりと一口で飲み込んだ。すぐにジュースを流し込む。
何回か繰り返すと、皿の上からブロッコリーはすべて駆逐された。
「ん、んー、ぷはぁ! 食べたよ、フィーナちゃん!」
「よし、偉い! じゃあ、あとでちょっとだけね。デザートもあるからお腹残しておくのよ」
「デザート!? わーい、デザート! 今日は何?」
「知らないなー。ケナちゃんがちゃんと全部食べたら出てくるわよ」
「うん!」
頷いてケナは再びオムライスの解体に取り掛かった。急がなくても、きちんと食べればちゃんとデザートが出てくることを彼女は知っているのだ。
素直に嫌いなものを口に入れた娘に、アレイアは感嘆の息を吐く。
「やっぱりすごいな、フィーナ。子供の世話の才能あるんじゃないか?」
「まさか。ここ半月でコツを覚えただけよ。アレイアが甘やかしすぎるだけでしょ」
「……耳に痛いな」
頬に汗を掻きながら、アレイアは笑い返す。
自分の席に着いた彼女は、小皿に後でケナの分となるだけのオムライスを自分の皿から取り分けてから、自分のものに手を付け始める。
それを見届けてから、アレイアも自分の前に置かれた皿に手を伸ばした。
「……フィーナ」
「? 何?」
「……本当に、ありがとな」
「?」
彼女は何に礼を言われたのか解っていなかった。身勝手だが、それで良かった。
怪訝そうに眉間に皺を寄せる彼女だが、一瞬後にはケナに話し掛けられてその表情も瓦解する。二人の戯れに、もう一度柔らかく微笑んでから、アレイアはスプーンを手に取った。
「……南方の蛮族が駆逐された?」
「はい」
ラーシャは今しがた持ち越された報せに眉を潜めた。
「エイロネイアか?」
「解りません。ついでに近辺に放置されていた砦が一つ、占拠されたようです」
「そうか……」
ほ、と溜め息を吐く。戦争がある限り、その戦火から落ちぶれて、いや道を外す者は必ずいる。彼らは蛮族となって村や町を荒らす者が多い。
今しがた入った報せは、シンシアとエイロネイアの境にあり、蛮族の紛争地帯となりつつある区域の話だった。ゼルゼイルという土俵から見れば、極僅かな土地ではあるが、無視の出来るものでもない。
だが、先の戦で複数の蛮族の群れが網羅するようになり、シンシアもあえなく手を引いた土地でもあった。
その蛮族が、駆逐されたというのだ。
「近くい兵を置くわけにも行きませんので……しかし、一帯で見られていた蛮族が見られなくなりました。すべて解散したという噂もあります」
「噂を鵜呑みには出来ないが……本当なのか?」
「放置した砦に、人の出入りはあるらしいのですが……」
「エイロネイアの者か?」
「まだ、確認中です」
「そうか。確認出来次第、伝えてくれ」
「了解しました」
完結に答えたラーシャに、諜報兵は敬礼をして執務室を出て行く。
前線の要塞内に設けられた簡易の執務室には、余計なものは一切ない。デスクと水場くらいのものだ。しかし、節制を好むラーシャにとってはある種、心地良い空間だった。曇り空の暗い光の差す一室で、ラーシャは深呼吸を漏らす。
「……蛮族を駆逐。やはり、エイロネイアの手の者でしょうか」
「おそらくな。シンシアが手を引いたのを見て、掃討にかかったのだろう」
「しかし、あの土地にはエイロネイアも手を焼いていたはずでは?」
隣のデスクで山のような書簡を読み漁っていたデルタが問う。ラーシャは少し考えて、椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
「……三つ巴よりも、対戦の方が些か楽だ。我々には割ける戦力もなかったが、エイロネイアにはあるだろう」
「死人と、獣の話、ですか……」
「ああ、不快だが」
不快だが、ある意味、こちらも同罪のことをやろうとしている。
きり――ッ、とラーシャは唇を噛んだ。他に術があるはずもない。もう何度も逡巡し、諦めた問いだ。
大丈夫、ルナ殿ならば、上手くやってくれはずだ――。
大陸で交友を持った彼女を見て、彼女が言う言葉ならば任せられようと思っていた。けれど、この事態。
ルナだけではない。カノンも、レンも。未だに行方が知れないのだ。
一刻も早く、エイロネイアを押さえ込まねばならないのに。
ラーシャは首を振る。皆、頑張っている。魔道師も、シリアやアルティオ、それに勿論シェイリーンやシンシアの同士たちとて精一杯のことをやっているのだ。急ぐのはいい。だが焦ってはならない。
窓の外に薄暗い雲と荒野が見える。戦争が始まって、この土地はどれだけ荒れたのだろう。空はいつも曇っているように見えるし、たくさんの血を吸った大地は、またラーシャも知らない昔のように肥沃を取り戻すことが出来るのだろうか。
「ラーシャ様?」
「……また、大戦が起きるな」
「……」
前線の状況は芳しくない。先の戦は貴族院がシェイリーンを押し切って決行した侵攻戦だった。しかし、それが破れ、決行したのは貴族院であっても責任は采配を握っていたシェイリーンに押し付けられる。矛盾もいいところだ。
今度は防衛線になる。
エイロネイアはシンシアほど兵を消費していない。足場は前回同様、向こうが不利だろうが、だからこそこの機に進軍してくるはずだ。
ラーシャの帰還により、兵の士気は徐々に回復しつつある。だが、どれほどかも知れない兵力差は恐ろしい。
次の戦は近い。せめて、それまでに抵抗手段が見つけられていれば――。
いや、これは贅沢だ。魔道の研究には、本来膨大な時間と資料と人が必要になる、と教わったばかりだ。
ならば、ラーシャの仕事は、ここで進軍を食い止めること。それだけだった。
「ラーシャ様」
「すまない。私がこんなことでは駄目だな。兵の士気にも影響する」
「いえ。……顔色が優れません。残りの仕事は片付けて置きますから、少し休憩してきてはどうですか?」
ばさり、と書類の束を持ち上げてデルタが言い放つ。
「出来るわけがないだろう。お前に仕事を押し付けようとは……」
「いいから、休憩を取ってください。私が倒れても、軍事にはそれほど影響しないでしょうが、貴方が倒れればそれこそシンシアは危機を迎えるんです」
ラーシャはデルタの強情をよく知っていた。一目見ただけでは静かな印象のある彼だが、その実、かなり強情で一本気だ。こう、と言い出したら聞く耳すら持たない。
「……わかった。しかし、デルタ」
「はい?」
「お前も倒れるほどに無理はするな、魔道部隊の指揮は私では些か役者不足。お前にいて貰わねば困る」
「……」
デルタはしばし、言葉を切った。瞑目して、やがて彼にしては珍しい労わるような笑みを口元に浮かべた。
「……はい。光栄です」
いつも構えなくとも良い、と言っているのに、礼儀のスタンスを崩さないデルタに、ラーシャはこっそりと溜め息を吐く。
もう一度、ペンを持った彼に礼を言って、ラーシャは帯剣して部屋を出た。
肌寒い風だ。子供の頃は、こんなに風が冷たいものだとは思わなかったのに。
砦の最上、屋上の石段に登り、通り過ぎた風に羽織ったマントで腕を庇いながら、ラーシャはふと考える。
以前のゼルゼイルは、こんな天候ではなかったという。極めて温暖な気候で、晴れ空が続くような。
なのに、急な気象変化で今では曇り空が定番。太陽がなくなったわけではない。それでも、冷夏が毎年のように続くようになった。
――戦を続け、血を流す者への……罰なのかな、これは。
ふ、と自嘲気味に笑って、ラーシャは屋上に出た。
先ほどの窓辺以上に、戦場となるだろう荒野が見渡せる。
「……」
最後に眺望が美しいと感じたのは、いつだっただろうか。いつのまにか、景色はいつも灰色を被ってしまったような気がする。
姉がいなくなったあの日から、甘える人間のいなくなったあの日から――?
いや、違う。
ごそり、とラーシャは懐を弄った。手に当たる、優しい土の温もりを抜き出した。
オカリナだ。
「……本当に、駄目な人間だな、私は」
何かに、誰かに縋らないと生きていけないのか。
元々、ラーシャに楽才などなかった。姉がいなくなったあと、寂しさに泣いて暮らしていたラーシャの心を慰めたのが、初めて聞くオカリナの音だった。
後で知ったことだが、戦場に音楽を、楽器を持ち込む兵士は実は多い。楽器さえ、いや、音さえあれば楽しめる音楽というものは、戦場に立つ者に許された数少ない娯楽であったからだ。
そして、慰められたと思ったのに。
ラーシャに初めてオカリナの音を説いてくれた人も、やがて彼女の前から消えて。
また、景色は灰色になった。
結局は甘えてばかりなのだ。最初は姉に、次はその人に。今も、きっとそこから抜け出せてはいないのだろう。理由に縋って、何とかこの場所に立って、重い枷に耐えているだけ。
「……」
だが、人は成長する。いつかは、一人の力で立たなくてはならない。
ラーシャは曲がりなりにもこの国の指導者に認められ、中将という地位を手に入れた。けして万人に与えられるわけではない、数少ないチャンスを手にしているのだ。
義務も、権利も、手の中にある。
だから、剣を振るわなくてはならない。自分の力で。
オカリナの側面についた、不自然な傷をなぞる。
折れそうな決意を、奮い立たせながら、もう一度まっすぐに戦場を見渡す。この地を、この国を、終わらせたくはない。
いや、それは正しくない。ラーシャはまだスタートにも至っていない。この国を、変えるスタートにすら立っていないのだ。
悲観は、早すぎると、言ったばかり。
「そうだな。死ぬときは」
この景色が、美しく見えていればいい。
「――?」
不意に、耳慣れた音が聞こえた。優しく、耳に木霊する土の音色。ラーシャが初めて覚えた楽の音。かすかだが、確かに、耳に届いた。
少しだけ驚く。音の源を探してみようにも、風の具合でどこから聞こえているのか解らない。分からないが、ラーシャのものではないこの音色を聞くのは、実は初めてではなかった。
戦の度に、時折、ギターや鈴の音に混じって、かすかに響いて来るオカリナの音。
戦の最中で、音楽に束の間の休息を求める者は、何もラーシャだけではない。誰が吹いているかも分からないが、その者も、戦に立つべき者なのだろう。
もうじき始まる新たな戦に、戦意を奮い立たせているのか。あるいは、暗く寒い戦場に折れそうな自らの心を慰めているのか。あるいは……
「……悲しいな」
こんなにも、人を追い詰めているのは同じはずの人なのだ。
ラーシャはオカリナの吹き口を、唇まで持ち上げる。二、三度、空吹きしてから、気の早いレクイエムを奏で返した。
かすかに耳に響いて来るオカリナが、ふと止まる。
しばらく間を置いて、その音は、ラーシャのオカリナに合わせるように同じ旋律を紡ぎ出した。
少しだけ寒い風と共に、ほんの短いレクイエムが、戦場を駆けた。
戦は、もうすぐそこだった。
←7へ
店の中に幼い少女の声が轟き渡る。甲高い声に、他の客と世間話をしていた店主の女将は、視線を足元へと下げた。
金髪の、短めのツインテールが、視線の下でひょこひょこと弾んでいる。赤いリボンの可愛らしい、あどけない顔と表情。大きな葡萄色の瞳がくるくるきらきらと良く動く。歳は十を出ていないだろう。小さな身体の細い腕に、大きな買い物籠をぶらさげていた。
「おや、いらっしゃい! ケナちゃん、おつかいかい」
「うん! フィーナちゃんね、家のこと大変そうだから、ケナお手伝いするの!」
「そうかい、偉いねぇ。で、今日はなんだい?」
「えっとね、えっとね……」
んと、んと、と拙い言葉を連呼しながらごそごそと籠の中を漁る。小さなメモを取り出して、大きな声で読み上げる。
「えっとねー、たまねぎとねー、トマトとー、あとタマゴとブロッコリー!」
「おやおや、羨ましいねぇオムライスかい?」
「うん! フィーナちゃんがね、ちゃんとブロッコリー食べるなら作ってくれるって言ってたの! ケナ、オムライス大好きだから頑張って食べるの!」
「そうかいそうかい。じゃあ、おまけをつけてあげないとねぇ。ちょっと待っててね」
「わぁい!」
女将は読み上げられたものを籠に入れ、側にあった桃を丁寧に剥き始める。ケナは商品の積まれた台に両手をついて、果汁の垂れる桃に目を輝かせている。
女将と話をしていた買い物帰りの主婦も目を細めてそれを眺めていた。
しゅるしゅると剥かれていく桃色の皮に、飛び跳ね始めたケナ。待ちきれなくて、きょろきょろと視線を迷わせる。と、店の影から茶色の子犬がひょいと顔を出す。
「あ」
「? ケナちゃん?」
ぱっ、と明るい笑顔を向けると、買い物籠を置いてケナは走り出した。ぱたぱたという足音に驚いたのか、子犬はそのままストリートへと駆け出す。
「あ、こらー!」
くるり、と方向転換。少女の視界には、へっへっと駆けて行く子犬の背中が見えるはずだった。ケナもそれを期待していた。が、
ばふッ。
「ッ!?」
急に視界に影が差し、何かに衝突する。軽いケナの身体は、容易くころん、と後ろに転がった。
「たぁ~……」
「け、ケナちゃん!」
少し転がっただけなのに、血相を変えた女将がこちらに呼びかけてくる。何故、そんな青い顔をしているのだろう、とケナは目の前の障害物をきょとんとした目で見上げた。しかし、それが何なのか、確認が済むより先に、
「ぁあッ!? 何しやがる、このガキッ!?」
無駄に大きな野太い声がケナの鼓膜を突き抜けた。思わず追いかけていたはずの子犬のように両耳を抑えて縮こまった。
耳の痛みか、何なのか、反射的にじわり、と涙が滲む。
おそるおそる目を開くと、思い切りつり上がった黒目が、ケナを見下ろしていた。じゃらじゃらと耳に五月蝿い、変なアクセサリーをいっぱいぶら下げて、へんてこな服を着ている。逆光にアクセサリーのきらきらが目に痛い。大きな図体もあって、まるで熊のようだ。
「ふぇ……ッ」
「俺の大事な足に体当たりたぁ、いい度胸じゃねーか、ぁあッ!? てめぇ、どこのガキだッ!?」
「……ぅ、ぅう……」
ごめんなさい、と口にしかけたケナの表情が固まる。そのまま動けない。大声に足が竦んで、さっきまであんなに駆け回っていたのに、麻痺したように手足が動かない。怖い。
「ちょっとあんた!」
桃を剥いていた包丁を置いて、女将がケナの前に出た。
「こんなちっちゃい子にいちゃもんつけるんじゃないよ! 何さ、怪我もしてないだろ!?」
「ぁあッ!? ババァは引っ込んでろ! こいつぁ、オトシマエってやつだよ。人の足に突っ込んできたガキにゃあ、教育が必要なんだよ!」
「何が教育だい! いい大人が恥ずかしいね! 教育なんてものがやりたかったら、こんなところブラブラしていないで、きちんと働いたらどうなのさ!」
「こんのババァ……!」
人間は図星をつかれると、堪忍袋の尾が軟弱化するらしい。こんな粗暴を絵に描いたような男など、特に。
ぽかんと涙目のケナの前で、熊のような男が、拳を振り上げた。
ケナははっ、とする。女将は逃げない。むしろ男を睨みつけて、ケナを庇っている。
――だ、だめ……
逃げて、と言おうとした。けれど、恐怖で喉がつかえて、声にならない。
振り上げた拳が、動く。
ケナは思わず目を閉じた。けれど、
びしッ!!
「ッづ、だぁぁぁ~~~ッ!?」
奇妙な音がした。えっと、ああ、八百屋の女将さんが旦那さんをビンタしてたときに、同じような音がした。でも、あんな音よりずっと重い。それに、何か人の声と思えないようなひしゃげた声がした。
震えながら目を開けると、ちょっとだけ茫然とした女将の背中が見えた。その背中の向こうには、さっきケナがぶつかってしまった熊のような大男。
けれど目を開ける前の威圧感はなくて、ちょっと赤く腫れた右手を押さえて蹲ってる。……ちょっと泣いてる? そんなに痛いの?
何が起こったのかよく解らない。解らないケナの耳に、じゃり、と足が砂を踏みつける音が届いた。
棚引いた綺麗な金色の髪が、目に入った。
「あ……」
恐怖を忘れて立ち上がる。一歩歩くと、女将と男の合間に人影が見えた。
少しだけ小柄。華奢に見えるが、腕足にしっかりと筋肉は付いている。ふん、と鼻を鳴らして腕を組むと、また陽光に光を放つ長い金色の髪の房が跳ね上がった。意志の強い碧眼は軽蔑するように男を睨んでいる。
ケナと揃いの青いリボンと、ふわりとしたフレアスカートとカーディガン。歳相応の、可愛らしい村娘だが、浮かべた敵意の表情は肉食獣のそれだ。
彼女の顔が見えて、ケナがぱっと涙を引っ込める。
「フィーナちゃん!」
「まったくもぅ……。『私が行くー!』って言うもんだから、こっそり付いて来てみれば……」
「ごめんなさぁ~い……」
駆け寄って、女性のフレアスカートに飛び込んだ。汗と、ちょっと甘い匂いがして、そのまま抱きつく。かすかに笑う気配がして、ふわふわと頭を撫でられた。
「女ァ……てめぇ、何しやがる!?」
男の粗暴な声が飛ぶ。対してフィーナ、と呼ばれた彼女は、眉根を吊り上げて、強面の顔を真っ向から睨んだ。
「何しやがる、はこっちの科白よ! 子供が当たったくらいでどうこうなるような軟弱な図体でもなかろーし、挙句に何? 逆ギレして関係ない女の人に手を上げるわけ? でかい図体に乗ってるのは単なる飾り? 世の中はあんた中心に回ってるわけじゃないのよ!?」
「うるせぇ!」
一気にまくし立てた彼女に、男が語彙で反論するはずもなく。再び拳を握る。
彼女はケナを背中に隠すと、先ほどと同じように男の手を叩き落そうと半歩、後ろに下がった。が、今度は男の手が動くよりも先に、
「ぐ、いでででででッ!?」
拳を固めていたはずの男の手が、いつのまにか背後に回っていた。腕を捻り上げられ、ついでに背中に回されて完全に腕を封じられた男の哀れなくぐもった悲鳴が響く。
「あら、アレイア。おかえりなさい」
「おとーさん!」
男の背後に立っていた、また別の男――青年、と呼ぶには少々歳が出ているが、中年と呼ぶには若すぎる――が呆れた表情でフィーナを見た。フィーナの背中にいたケナが、ひょこりと顔を出して、これまた同じように目を輝かせる。
彼女が駆け出すより先に、男を拘束していた、アレイアと呼ばれた男が溜め息を吐いた。
「あのなぁ、ケナ。急に飛び出さないよういつも言っているだろう? 周りにもちゃんと気をつけなさい」
「はぁ~い……」
やや緑がかった黒髪を、汗で額に張り付けながら彼は言う。歳よりも大人びて見えるのは、窘める口調だからなのか。
しゅん、として答えるケナから、今度は少女を庇う彼女に紫紺の目を向ける。
「フィーナ、お前もなぁ……。街中で何かあったら呼べ、って言ってるだろ……。何でわざわざ火種を広げるんだよ」
「呼んでる暇なんてなかったし。大体、日中は仕事じゃない」
「そりゃそうだが……」
「おい! 離しやがれッ、てっめぇッ!!」
アレイアが言いよどんでいると、腕を掴まれたままの男が声を荒げて背後を睨む。しかし、彼は急にすっと無表情になって、恐ろしく冷めた表情でそれを見下ろした。気圧された男が、短い悲鳴を上げる。
げしッ!
「ッ!」
男が声にならない悲鳴を上げた。腕を放したアレイアが、男の足を思い切り皮のブーツで踏んづけたのだ。男は抗議しようと振り返るが、それよりも先に、喉元に手刀が突きつけられた。
目の前にある紫紺の瞳は、それ以上なく冷えていて。視線を合わせているだけなのに、だらだらと、嫌な汗が額を、背中を流れていく。
「……二度とフィーナとケナに余計な真似をするな」
先ほど彼女たちを窘めた声とは比べ物にならないほど低い声が発せられる。そうなって初めて男は程度というものを理解したらしい。可哀相なほど顔を歪めて、必死にこくこくと頷いた。
その様子を見て、アレイアはようやく手を離す。短い悲鳴を残しながら、男はあたふたと通りの向こうに消えていった。
ぱんッ! と拍手が上がる。
「やー、さすがアレイア! あっぱれ!」
「……本当に調子いいな、お前」
「おとーさん、すごぉいー!」
ぱたぱたと駆け出したケナが、男の上着へと飛びついた。たたらを踏みながらそれを受け止めたアレイアは、ふ、と微笑みを浮かべて少女の小さな身体を抱き上げた。
「いやー、良かった良かった」
「あ、すいませんー。ご迷惑おかけしました。大丈夫ですか?」
明るい笑顔を浮かべて話し掛けて来た女将に、フィーナは丁寧に頭を下げる。だが、女将は頭を振って、豪快に笑ってみせる。
「ぜんっぜん! 迷惑なんぞじゃないよ。あたしも助けてもらった身さぁ。
アレイアの旦那も相変わらず逞しいけど、フィーナちゃんも強いねぇ。尻込みもしないなんてさ」
「あっはっは、あんな奴、束になってかかって来るくらいじゃないと物足りませんよー」
「はははははッ! そうかい、頼もしいねぇ!」
女将と彼女の些か物騒な会話に、アレイアが不自然な咳をする。彼としては窘めているつもりなのだが、気づいているのかいないのか、意にも介さないのが彼女の恐ろしいところである。
「フィーナちゃん、ごめんね。だいじょうぶ?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとケナちゃんのおとーさんが助けてくれたし。全然平気。ケナちゃんは?」
「ケナもー」
ぱっ、と笑って再度、フィーナに抱きつく幼い少女。少女を腕に抱いたまま、彼女は勢いでくるりと一回転してみせる。はた、とその目が店頭に留まった。
そういえば、買い物の途中だった。
「ハンナさん、あの……」
「ああ、ごめんねぇ。あたしとしたことが。はい」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながらたまねぎとトマト、ブロッコリーが入った買い物籠を受け取る。中に入っていたはずの財布を取ろうとして、そのフィーナの手を女将が止めた。
「へ?」
「今日はあたしの奢りだよ。何だかんだで助けてもらっちまったしねぇ」
「そんな、だって迷惑かけたのはこっちですよ?」
「気にしなさんな、困ったときはお互い様さ! 早く帰ってケナちゃんに美味しいオムライス作っておあげよ」
「オムライス!」
思い出したようにケナが心底嬉しそうに騒ぎ出す。まだ匂いも嗅いでないのに、無邪気なものだ。
「で、でも……」
「ねぇ、旦那? これくらい、大の男なら喜んで受け取るよねぇ? いいからさ! 潔く行きなって!」
豊満な体を張って、からからと笑う女将に、アレイアは笑いながら溜め息を吐いた。フィーナよりもこの気さくな女将と付き合いが長いアレイアは、彼女の肩をぽん、と叩く。
「ほら、フィーナ、ケナも。お礼を言いなさい」
「え、えっと、うん……。あ、ありがとうございます」
「ありがとございますー!」
お辞儀をするフィーナと、やや舌っ足らずながら元気に声を上げるケナ。女将はうんうん、と頷くと、思い出したように果物籠の上に置いていた、皮の剥かれた桃を手に取った。
「ほぅら、おつかいのお駄賃だよ」
「うわぁい!」
「すいません、こんなに……」
「なぁに、桃は足が早いからねぇ。ちょうど良いってもんさ。ケナちゃん、中ほどの種はすっぱいからね。気をつけてお食べ」
「うん!」
既にくしゅくしゅと果実を頬張っていたケナは、口元を果汁に汚しながら大きく頷いた。それに呆れたように、くすりと笑うと、アレイアもフィーナも女将にもう一度頭を下げる。
「それはそうと、フィーナ」
「?」
「……いくら咄嗟だったからって、その格好で足を使うな。スカートだろ?」
「へ?」
「見えるぞ」
「!」
一瞬、きょとんとしたフィーナだったが、すぐに何のことか気が付くと買い物籠を下げていない方の手でスカートを押さえる。今さらなのに、顔は真っ赤だった。
「……見た?」
「…………………いや、それは」
「見たの?」
「……すまん」
「ッ!」
沸騰した。
赤い顔で彼女は男の顔を睨みつける。目尻には、心なしか涙が浮かんでいた。アレイアは何とかいい訳を探しだそうとするが、従来、正直者で性根の曲がっていない彼には無理な話だった。
別に彼が悪いわけではないのだが、だからといって割り切れるものでもない。
彼女は唇を尖らせたまま、「もー知らないッ!」と金切り声を吐き出して、ケナの手を握る。
「ケナ! すけべなお父さんはほっといて、さっさと帰るわよ! 今日はオムライスだから! お父さんの分はなし!」
「わぁい、オムライス、オムライスー!」
「待て! こら、ケナ! フィーナッ!」
ケナを引き摺るようにして唐突に走り出したフィーナ。ケナもケナで、子供特有の活発さで追いかけてゆくものだから、アレイアは慌てて二人を追いかける他はなかった。
石畳を騒がしく駆けて行くその背中に、女将がふぅ、と息を吐く。
「ケナちゃんも良かったわね。いいお母さん代わりが見つかって」
「まあ、お母さん、というよりは姉妹って感じだけどねぇ……。でもいい娘だよ。若いけど礼儀正しいしね。アレイアの旦那もなかなかいい娘を見つけて来たもんだ。
あそこの家はいろいろと訳アリだったみたいだからねぇ。いいことだよ」
「そうねぇ」
傍観していた女性客に答えて、女将は桃を剥いたナイフを片付け始めた。すぐに別の客から注文が入り、あいよ、といつも通りの声を返す。
世間話の相手だった女性客は、それを眺めながら、小首を傾げる。
「でもあの娘、一体どこの娘なのかしら……?」
「はい、出来上がり!」
ことん、と目の前に置かれた皿に、ケナは表情を輝かせた。綺麗な楕円の黄色い卵に、トマトソースがかかっている。側にあるブロッコリーが少しだけ気になるけれど、立派に綺麗なオムライス。
ケナはひとしきり感激した後、小さな手に大きなスプーンを取った。
「いただきまーす!」
元気に言って、いや叫んで卵にスプーンを入れる。ほかほかと湯気と共に顔を覗かせるチキンライス。トマトソースと卵と一緒に口に入れる。
ケナの輝いていた目が一層、きらきらと輝いた。
「おいしーい! フィーナちゃん、ありがとう!」
「あはは、ブロッコリー残すんじゃないわよ?」
「はーい」
そう答えた後はもう、すっかりオムライスに夢中だ。ときどきこぼすのが危なっかしいが、まあ、愛嬌というやつである。
その娘を見て、逆に溜め息を吐いたのは、対面に座っていたアレイアだ。だが、それは非難するような溜め息ではなく、仕方のない娘を呆れながら見守るような眼差しだった。
ふと、気が付いたように自分の分と彼女の分の食事を運んでくるフィーナに視線を向ける。
「すまないな。すっかりケナが世話になってる」
「別にー。それに世話になってるのはこっちだし。何も気にしてないわよ」
そう言って彼女はからっと笑った。テーブルに二人分の、ケナのものより些か大きめに作られたオムライスが置かれた。ケナがめざとくそれを見つける。
「あー、ずるいー! おとーさんとフィーナちゃんのの方が大きいー!」
「こら、ケナ!」
「それ全部食べて、ブロッコリーも全部食べたら私の分けてあげる」
「う……」
「もう一つだけ食べて、『ブロッコリー食べたー』なんて言わせないわよ。全部! だからね」
「うー、フィーナちゃんひどいー、ばかー、おにー」
「鬼でもないし、馬鹿でもない! 出されたものを手付かず残す方が、よっぽど酷いわよ!」
文句を言いつつも、皿にもっとブロッコリーが増えるのは避けたいケナはしぶしぶと手を引っ込める。スプーンの代わりにフォークを取ると、オムライスの脇にちょこんと邪魔をする緑の物体に突き刺す。
目に涙を溜めながら、鼻を摘んでぱくりと一口で飲み込んだ。すぐにジュースを流し込む。
何回か繰り返すと、皿の上からブロッコリーはすべて駆逐された。
「ん、んー、ぷはぁ! 食べたよ、フィーナちゃん!」
「よし、偉い! じゃあ、あとでちょっとだけね。デザートもあるからお腹残しておくのよ」
「デザート!? わーい、デザート! 今日は何?」
「知らないなー。ケナちゃんがちゃんと全部食べたら出てくるわよ」
「うん!」
頷いてケナは再びオムライスの解体に取り掛かった。急がなくても、きちんと食べればちゃんとデザートが出てくることを彼女は知っているのだ。
素直に嫌いなものを口に入れた娘に、アレイアは感嘆の息を吐く。
「やっぱりすごいな、フィーナ。子供の世話の才能あるんじゃないか?」
「まさか。ここ半月でコツを覚えただけよ。アレイアが甘やかしすぎるだけでしょ」
「……耳に痛いな」
頬に汗を掻きながら、アレイアは笑い返す。
自分の席に着いた彼女は、小皿に後でケナの分となるだけのオムライスを自分の皿から取り分けてから、自分のものに手を付け始める。
それを見届けてから、アレイアも自分の前に置かれた皿に手を伸ばした。
「……フィーナ」
「? 何?」
「……本当に、ありがとな」
「?」
彼女は何に礼を言われたのか解っていなかった。身勝手だが、それで良かった。
怪訝そうに眉間に皺を寄せる彼女だが、一瞬後にはケナに話し掛けられてその表情も瓦解する。二人の戯れに、もう一度柔らかく微笑んでから、アレイアはスプーンを手に取った。
「……南方の蛮族が駆逐された?」
「はい」
ラーシャは今しがた持ち越された報せに眉を潜めた。
「エイロネイアか?」
「解りません。ついでに近辺に放置されていた砦が一つ、占拠されたようです」
「そうか……」
ほ、と溜め息を吐く。戦争がある限り、その戦火から落ちぶれて、いや道を外す者は必ずいる。彼らは蛮族となって村や町を荒らす者が多い。
今しがた入った報せは、シンシアとエイロネイアの境にあり、蛮族の紛争地帯となりつつある区域の話だった。ゼルゼイルという土俵から見れば、極僅かな土地ではあるが、無視の出来るものでもない。
だが、先の戦で複数の蛮族の群れが網羅するようになり、シンシアもあえなく手を引いた土地でもあった。
その蛮族が、駆逐されたというのだ。
「近くい兵を置くわけにも行きませんので……しかし、一帯で見られていた蛮族が見られなくなりました。すべて解散したという噂もあります」
「噂を鵜呑みには出来ないが……本当なのか?」
「放置した砦に、人の出入りはあるらしいのですが……」
「エイロネイアの者か?」
「まだ、確認中です」
「そうか。確認出来次第、伝えてくれ」
「了解しました」
完結に答えたラーシャに、諜報兵は敬礼をして執務室を出て行く。
前線の要塞内に設けられた簡易の執務室には、余計なものは一切ない。デスクと水場くらいのものだ。しかし、節制を好むラーシャにとってはある種、心地良い空間だった。曇り空の暗い光の差す一室で、ラーシャは深呼吸を漏らす。
「……蛮族を駆逐。やはり、エイロネイアの手の者でしょうか」
「おそらくな。シンシアが手を引いたのを見て、掃討にかかったのだろう」
「しかし、あの土地にはエイロネイアも手を焼いていたはずでは?」
隣のデスクで山のような書簡を読み漁っていたデルタが問う。ラーシャは少し考えて、椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
「……三つ巴よりも、対戦の方が些か楽だ。我々には割ける戦力もなかったが、エイロネイアにはあるだろう」
「死人と、獣の話、ですか……」
「ああ、不快だが」
不快だが、ある意味、こちらも同罪のことをやろうとしている。
きり――ッ、とラーシャは唇を噛んだ。他に術があるはずもない。もう何度も逡巡し、諦めた問いだ。
大丈夫、ルナ殿ならば、上手くやってくれはずだ――。
大陸で交友を持った彼女を見て、彼女が言う言葉ならば任せられようと思っていた。けれど、この事態。
ルナだけではない。カノンも、レンも。未だに行方が知れないのだ。
一刻も早く、エイロネイアを押さえ込まねばならないのに。
ラーシャは首を振る。皆、頑張っている。魔道師も、シリアやアルティオ、それに勿論シェイリーンやシンシアの同士たちとて精一杯のことをやっているのだ。急ぐのはいい。だが焦ってはならない。
窓の外に薄暗い雲と荒野が見える。戦争が始まって、この土地はどれだけ荒れたのだろう。空はいつも曇っているように見えるし、たくさんの血を吸った大地は、またラーシャも知らない昔のように肥沃を取り戻すことが出来るのだろうか。
「ラーシャ様?」
「……また、大戦が起きるな」
「……」
前線の状況は芳しくない。先の戦は貴族院がシェイリーンを押し切って決行した侵攻戦だった。しかし、それが破れ、決行したのは貴族院であっても責任は采配を握っていたシェイリーンに押し付けられる。矛盾もいいところだ。
今度は防衛線になる。
エイロネイアはシンシアほど兵を消費していない。足場は前回同様、向こうが不利だろうが、だからこそこの機に進軍してくるはずだ。
ラーシャの帰還により、兵の士気は徐々に回復しつつある。だが、どれほどかも知れない兵力差は恐ろしい。
次の戦は近い。せめて、それまでに抵抗手段が見つけられていれば――。
いや、これは贅沢だ。魔道の研究には、本来膨大な時間と資料と人が必要になる、と教わったばかりだ。
ならば、ラーシャの仕事は、ここで進軍を食い止めること。それだけだった。
「ラーシャ様」
「すまない。私がこんなことでは駄目だな。兵の士気にも影響する」
「いえ。……顔色が優れません。残りの仕事は片付けて置きますから、少し休憩してきてはどうですか?」
ばさり、と書類の束を持ち上げてデルタが言い放つ。
「出来るわけがないだろう。お前に仕事を押し付けようとは……」
「いいから、休憩を取ってください。私が倒れても、軍事にはそれほど影響しないでしょうが、貴方が倒れればそれこそシンシアは危機を迎えるんです」
ラーシャはデルタの強情をよく知っていた。一目見ただけでは静かな印象のある彼だが、その実、かなり強情で一本気だ。こう、と言い出したら聞く耳すら持たない。
「……わかった。しかし、デルタ」
「はい?」
「お前も倒れるほどに無理はするな、魔道部隊の指揮は私では些か役者不足。お前にいて貰わねば困る」
「……」
デルタはしばし、言葉を切った。瞑目して、やがて彼にしては珍しい労わるような笑みを口元に浮かべた。
「……はい。光栄です」
いつも構えなくとも良い、と言っているのに、礼儀のスタンスを崩さないデルタに、ラーシャはこっそりと溜め息を吐く。
もう一度、ペンを持った彼に礼を言って、ラーシャは帯剣して部屋を出た。
肌寒い風だ。子供の頃は、こんなに風が冷たいものだとは思わなかったのに。
砦の最上、屋上の石段に登り、通り過ぎた風に羽織ったマントで腕を庇いながら、ラーシャはふと考える。
以前のゼルゼイルは、こんな天候ではなかったという。極めて温暖な気候で、晴れ空が続くような。
なのに、急な気象変化で今では曇り空が定番。太陽がなくなったわけではない。それでも、冷夏が毎年のように続くようになった。
――戦を続け、血を流す者への……罰なのかな、これは。
ふ、と自嘲気味に笑って、ラーシャは屋上に出た。
先ほどの窓辺以上に、戦場となるだろう荒野が見渡せる。
「……」
最後に眺望が美しいと感じたのは、いつだっただろうか。いつのまにか、景色はいつも灰色を被ってしまったような気がする。
姉がいなくなったあの日から、甘える人間のいなくなったあの日から――?
いや、違う。
ごそり、とラーシャは懐を弄った。手に当たる、優しい土の温もりを抜き出した。
オカリナだ。
「……本当に、駄目な人間だな、私は」
何かに、誰かに縋らないと生きていけないのか。
元々、ラーシャに楽才などなかった。姉がいなくなったあと、寂しさに泣いて暮らしていたラーシャの心を慰めたのが、初めて聞くオカリナの音だった。
後で知ったことだが、戦場に音楽を、楽器を持ち込む兵士は実は多い。楽器さえ、いや、音さえあれば楽しめる音楽というものは、戦場に立つ者に許された数少ない娯楽であったからだ。
そして、慰められたと思ったのに。
ラーシャに初めてオカリナの音を説いてくれた人も、やがて彼女の前から消えて。
また、景色は灰色になった。
結局は甘えてばかりなのだ。最初は姉に、次はその人に。今も、きっとそこから抜け出せてはいないのだろう。理由に縋って、何とかこの場所に立って、重い枷に耐えているだけ。
「……」
だが、人は成長する。いつかは、一人の力で立たなくてはならない。
ラーシャは曲がりなりにもこの国の指導者に認められ、中将という地位を手に入れた。けして万人に与えられるわけではない、数少ないチャンスを手にしているのだ。
義務も、権利も、手の中にある。
だから、剣を振るわなくてはならない。自分の力で。
オカリナの側面についた、不自然な傷をなぞる。
折れそうな決意を、奮い立たせながら、もう一度まっすぐに戦場を見渡す。この地を、この国を、終わらせたくはない。
いや、それは正しくない。ラーシャはまだスタートにも至っていない。この国を、変えるスタートにすら立っていないのだ。
悲観は、早すぎると、言ったばかり。
「そうだな。死ぬときは」
この景色が、美しく見えていればいい。
「――?」
不意に、耳慣れた音が聞こえた。優しく、耳に木霊する土の音色。ラーシャが初めて覚えた楽の音。かすかだが、確かに、耳に届いた。
少しだけ驚く。音の源を探してみようにも、風の具合でどこから聞こえているのか解らない。分からないが、ラーシャのものではないこの音色を聞くのは、実は初めてではなかった。
戦の度に、時折、ギターや鈴の音に混じって、かすかに響いて来るオカリナの音。
戦の最中で、音楽に束の間の休息を求める者は、何もラーシャだけではない。誰が吹いているかも分からないが、その者も、戦に立つべき者なのだろう。
もうじき始まる新たな戦に、戦意を奮い立たせているのか。あるいは、暗く寒い戦場に折れそうな自らの心を慰めているのか。あるいは……
「……悲しいな」
こんなにも、人を追い詰めているのは同じはずの人なのだ。
ラーシャはオカリナの吹き口を、唇まで持ち上げる。二、三度、空吹きしてから、気の早いレクイエムを奏で返した。
かすかに耳に響いて来るオカリナが、ふと止まる。
しばらく間を置いて、その音は、ラーシャのオカリナに合わせるように同じ旋律を紡ぎ出した。
少しだけ寒い風と共に、ほんの短いレクイエムが、戦場を駆けた。
戦は、もうすぐそこだった。
←7へ
黒毛の馬の顔を撫でてやりながら、ラーシャは小窓から真昼の光を見上げた。
薄暗い厩から光を求めたのではない。現に、その目は光を追うためではなく、思案のためにどこか遠くを眺めるために彷徨っていた。
今朝方、客将たちを送り出した。ラーシャも、あと少ししたら前線へと戻る。それが彼女の務めだった。そして、貴族院の説得のためにシェイリーンもまた、シンシアの都ゼルフィリッシュへと発つ。
前門に虎、後門の狼。そんな言葉が頭を過ぎる。
いや、虎や狼だったなら、爪と牙をもいでしまえば、それで終わりだというのに。
――いかんな。
嫌な想像を振り払うように頭を振る。
ルナの提示した策が、果たして打開となり得るのだろうか。ラーシャには解らない。解らないが、何らかの礎となるだろう。
縋るものが藁一本でもいい。何かを、何かを掴まなくては、勝利も引き分けもありえない。
「……エイロネイアの、皇太子、か」
彼が台頭してきたのは、わずか二年ほど前のこと。その二年で、戦場は激的な変化を遂げていた。
ルナの話で、その圧倒的な力の片鱗を見せ付けられた気がする。
大陸で見たあの少年。あれが、本物の皇太子だというのなら、一体彼は何者だというのだろう。戦場と、人の心を意のままに操る、化け物。
斬りかかった一瞬に見た、暗い、ひたすらに冷たい眼差しが、頭から離れない。
何故、彼にはあんな冷たい目が出来るのだろうか。
「……」
馬の毛を梳く手が止まる。
勝てる、いや、このゼルゼイルを平穏に導くことなど、出来るのだろうか。ラーシャにとって、戦争を止める事は、その入り口でしかない。
けれど、彼女は、まだ道を歩むどころか、切り開けてもいないのだ。
剣の柄を握る。立ちはだかる茨を切り裂く力が欲しかった。自身がこんなにも矮小なのに、立ちはだかる茨の壁はあんなにも冷たく、高い。
策が上手く行くことを願い、剣と指揮を振るい続けるしか、今の彼女に出来ることは、ない。
「ラーシャ様ッ!!」
「?」
厩の入り口から、やたらと切羽詰まった声が響いた。戦士の勘だろうか、ぞくり、とラーシャの背中を怖気が走り抜けた。
向かい風が激しく、かといって背中から追い風が吹いているわけでもない。これ以上の逆風は、g面被る。けれど、その声を上げた兵士の顔は、明らかに真っ青だった。
「れ、レスター大尉が、き、帰還なされたんですが……ッ!」
「何……ッ!?」
レスターが客将と出立したのは今朝方だ。一週間は戻らない予定だった。だから、それは不運の予兆だと、ラーシャの頭は瞬時に叩き出す。
耳を塞いでしまいたくなるのをぐっ、と堪えて、ラーシャは先を促したのだった。
「な、何だそりゃぁッ!? ふざけんじゃねぇぞッ!? 馬鹿言うんじゃねぇッ!!!」
会議室とは名ばかりの、石造りの小部屋に響き渡ったのは、レスターの胸倉を掴んだアルティオの怒鳴り声だった。
相手に威圧を与えるというよりは、感情をそのまま叩きつけているという感じ。当たり前だ。威圧を与えようとして、怒鳴り声を上げるなど、そこまで彼は頭のいい人間じゃない。
シリアは奥歯を軋ませながら、必死に頭の冷静な部分を引きずり出していた。耳元に当たるアルティオの怒声は、ほんの少しの安定感と、そしてその静かな作業の邪魔をしてくれる。
「カノンが、カノンたちがいなくなっただとッ!? どういうことだよッ!!」
がりッ……
アルティオの、先ほど聞いた耳が痛くなる報告の復唱に、シリアは伸ばした爪を噛む。
胸倉を掴まれたままのレスターは歯軋りをしながら、同じ報告を繰り返すだけだった。
「……ガリア平原の林で、エイロネイアの皇太子を名乗る男に遭遇した。
……お三方は、そのまま、何処かへ姿を消した。男も、いつのまにか、どこかへ……」
「ンなバカなことがあってたまるかッ!! 何処だ、カノンは、レンはルナはッ!? あいつら、何処行ったってんだよ……ッ!!」
シリアは爪が砕けているのに気が付いて、ようやく口元から指を離す。
レスターの隣に立ったライラは、困惑を浮かべるでもなく、相変わらずの無表情を貫いている。それもまた、アルティオの怒りに火をつけているのだろう。
シェイリーンは上座に座ったまま、束ねた髪を握り締めている。慌しくやって来たラーシャとデルタ、ティルスは、一時はアルティオをたしなめようとしたものの、無駄だと悟ってからは窓辺に立って唇を噛んでいる。
ヴァレスは、普段通りの飄々とした態度で、ちっとも困っていない表情で困りましたね、と呟いていた。
「アルティオ様、あの……」
「……ッ」
おずおずとシェイリーンが声をかけようとする。アルティオが、彼女にまで罵声を浴びせなかったのは、見上げたフェミニスト根性だと思う。
けれど、そんな形相をしていては同じこと。
シリアは冷静さを引き絞る。ここには、彼女に代わって冷静な言葉で彼をたしなめてくれる人間が、いないのだから。
「アルティオ、少し落ち着きなさい。怒鳴り声で女の子を萎縮させるのは、どう見ても貴方のスタンスじゃないでしょう?」
「シリア! お前、何でそんなに冷静なんだよッ!!」
叩き付けられた大声に、シリアはしかし、溜め息を吐いた。一瞬の間の後に、形の良い眉を吊り上げる。
「あのね! 私だって今すぐここを出てレンを探しに行きたいわよッ!! 普段だったらとっくにやっているわッ!!
でもね、貴方、あいつの話を聞いてたのッ!? 相手は大陸にいたあの男だったのよッ!?
あいつが私たちの前でどれだけ面妖なことをやってくれたと思ってるのッ!?
……私やルナですら、理解不能だったのよ。それを、魔道やら何やらに何の造詣もない一兵士を捕まえて、どうにかなると思ってッ!?」
「ぐ……ッ」
今度はシリアがアルティオの胸倉を掴み上げる番だった。シリアにも、アルティオにも、互いの焦りと怒りは十分すぎるほど理解できた。
だから、その仲間からの声は、一番胸に痛く叩きつけられる。
いざというときは、シリアの方が冷静だった。もしかしたら、こんなときは仲間内で最も冷静になれる人間かもしれない。だからといって、けして冷たい人間なわけではないことを、アルティオは知っていた。
「……悪ぃ」
「いいけれど。私も貴方のそういう直情的なところは嫌いじゃないから。
でもね、今は短気に走るときじゃないわ」
ふぅ、とアルティオの肩から力が抜ける。シリアの冷静さに、驚くと同時に浮き足立っている自分が情けなく見えたからだ。
「……お前のそういうところは尊敬するぜ」
「あら、全部が尊敬に値すると思うけれど?
まあ、それは今はいいわ」
真顔に戻ったシリアは、襟元を正していたレスターに向き直る。
「あの娘たちは、本当に突然消えたのね?」
「あ、ああ……。何というか……黒い霧、みたいなのが出てきて……。気が付いたときには……」
「……そこに、黒い服の、あの男の子がいたのね?」
「ああ。顔の半分を包帯で隠した……二十くらいの男だった」
シリアはぎゅ、と表情を固くする。黒い霧。そんな風に表現できるものを、シリアたちは目にしている。何度も、とは言わないが、少なくとも数回は。
頭を振る。今は彼女の代わりに、冷静に頭を動かしてくれる人間はいないのだ。
冷静に、冷静にならなくては。
「……その場で、殺された、とかじゃないのね……?」
「ああ、たぶん……」
自信なさげに口にするのは、おそらく、目にした現象が不可思議極まりないものだからだろう。死体を目にしていたのなら、そんな表現はしない。
死体があったわけじゃない。その場で殺したわけでもない。
……ということは、まだ、彼らは――。
「シェイリーン様」
シリアと同じ思考に辿り着き、声を発したのはラーシャだった。顔色を白くしながらも、生真面目な表情を保ちながら、
「彼らは大切な客将です。我らには、彼らの身の安全を確認する義務があります」
「……その通りです」
「すぐに捜索隊を組みましょう。隊の先頭には私が」
「いえ」
言いかけたラーシャの言葉を遮って、シェイリーンは立ち上がった。ゆっくりと、面を上げた。
「……ラーシャ、貴方は戦地の頭としての責を全うしてもらわねばなりません。
捜索隊の筆頭には、レスター、それから」
唇を噛んでいたレスターに呼びかけ、そして苦い顔を見せているシリアとアルティオへ、紫色の瞳を向ける。
「シリア様、アルティオ様。捜索隊の副隊長として、立って頂けませんか?」
「!」
「お、俺たちがかッ!?」
「シェイリーン様!?」
シェイリーンは俯いて、ぐっと目を瞑る。ぎゅ、と拳を握って石のテーブルに押し付けながら、口を開く。
「ラーシャをこれ以上、前線から離れさせるわけには行きません。かといって捜索をしないわけにも行きません。
……私はこれから貴族院との交渉のために北都に向かいます。ルナ様たちが失踪したと知れれば、交渉も不利となる。大掛かりな捜索は出来ません。精鋭で、迅速な対処が必要です」
「ンな……ッ!」
憤りかけたアルティオの肩を、シリアの手が押さえた。その二人に、シェイリーンは居た堪れない、苦い表情を浮かべ、ゆっくりと頭を垂れた。
「……申し訳なく、大変失礼なこととは存じております。けれど、私たちは、貴方方が授けて下さった計画を頓挫させるわけには行かないのです」
「……」
アルティオは歯を軋ませながら、それを見下ろしていた。どうすべきかが、判断出来ない。頭に熱が集まっている。
彼ほどではないが、同じような表情で唇を噛んでいたデルタが、何事か言いかける。しかし、それよりも先に飄々とした声が遮った。
「しかし……。そんなことをして、皇太子は何の益にしようと言うのですかね……」
「……」
何かを含ませたような声色に、シリアが柱に背を預けるヴァレスを睨む。だが、彼はそれはあっさりと受け流した。
「……エイロネイアが内部に密偵を送っているのだとしたら。シェイリーン様が貴族院に睨まれている状況を知っていてもおかしくありません。
シェイリーン様の客将を捕らえることで、さらなる内部抗争を招くつもりか……。
あるいは、こちらの計画を形振り構わず止めに来たか。
ならば、なおさら計画を頓挫させるわけには行きません」
「ふむ。そうですね……。彼らにとって、この計画が何らかの痛みである可能性は高いでしょう。
ですが、それだけならば、わざわざそんなややこしい方法など取らずに、一思いに殺せばいい。
何故、それをしなかったのか、という話になります」
「それは……」
「後々、人質にでも使うつもり……でしょうか……」
抑えた声で、デルタが口にする。はっ、として目を見開くアルティオだが、ヴァレスはゆっくりと首を振った。
「まあ、それもあるかもしれませんが――。
私には別の目的があるように思えますがね」
「別の目的、ですって?」
「そう。例えば――
捜索隊の結成自体が目的、ということは考えられませんか?」
ティルスとラーシャ、シェイリーンの表情が歪む。少し遅れてデルタが声を漏らした。
シリアも同じ発想に行き着く。
「自軍の将が生死不明という自体よりも、他の国からの客将が行方不明、という方が、重みがあります。信用問題に関わる話ですからね。捜索隊を設けないわけにはいかないでしょう。
必然的に我々はそちらに戦力の多少を削がざるを得なくなる。ルナ嬢がいなくなる、ということは計画の遅延も意味しますから一石二鳥、ということではないですか?」
「エイロネイアは……また、いずこかへの侵攻を考えている、ということですか……?」
「そうは言い切れませんが。ともかく、我々は彼の術中に嵌りかけているのでは、ということです」
「じゃあ、何だ!? あの三人を見捨てろ、ってことかッ!? 捜索すんな、って言いたいのかよ!?」
再び声を荒げるアルティオの手が、ヴァレスの胸倉を掴む。ラーシャとシェイリーンが慌てて駆け寄った。
「お待ちください、アルティオ様!
ヴァレス! 貴方がどう言おうと捜索隊は結成せざるを得ません。たとえ、あの皇太子の思惑が働いていたとしても、それがシンシアとしての義務と彼らの権利です!」
「……」
ヴァレスの細い目を真っ向から睨んで、シェイリーンは言い放つ。彼はひょい、と軽く肩を竦めただけだった。
「これは失礼。閣下のご命令に背くようなつもりはなかったのですが。貴方がそう仰るのでしたら、それに従いますよ。
ああ、でも、捜索隊を出されるのでしたら、計画の先頭に立っていらしたルナ嬢を真っ先に保護すべきでしょうね」
「……? な、何でだ?」
ヴァレスの意味深な口調に、不安を煽られたアルティオが問う。シェイリーンは何故か黙っていた。
ヴァレスはそれに、僅かにせせら笑った。
「シェイリーン様、貴方もお気づきのはずですよ。彼女のかつての友人が、七征の中にいると知った時点で、考え付いたことがあるはずです」
「……何の話ですか」
「彼女のかつての知り合いは、七征の中でかなり重要なブレーンになっています。戦況を覆した要因と言ってもいいでしょう。
……以前も話しましたが、勝負を拮抗に持っていく方法は二通りあります。
一つはルナ嬢が考案された通り、こちらの戦力を増強すること。
もう一つは、相手の戦力を削いでしまうことです」
「……」
「その男が、エイロネイアの戦力の源であるのなら、話は簡単です。もいでしまえば、これ以上のエイロネイアの戦力増強は止まります。
勿論、簡単ではないですよ? けれど、ルナ嬢とその男の関係を利用すれば、彼女を囮として何らかの策を練ることは可能だったはずです」
「な……ッ!?」
アルティオが喉の奥から声を上げる。シリアはもう一度、爪をかりり、と噛んだ。
ラーシャははっ、としてシェイリーンを、自らの主を見る。彼女は無表情のまま、ヴァレスを見上げていた。
僅かの沈黙。そして、彼女が厳かにそれを破る。
「……可能、だったかもしれません。けれど、私はそれを選びませんでした。詮無きことです」
「確かにそうですねぇ。貴方好みではないですからね。
ですが、彼女が何らかの形で切り札として使えることは確かです。人道的にも、非人道的にも。
エイロネイア皇太子とて、それは悟っているでしょう。彼女がシンシアにいる、ということは彼にとっては不安材料になります。
だから。
不安材料は真っ先に、始末したくなるものじゃないですか?」
「……」
シェイリーンは睨むようにヴァレスを見上げた。そのまましばし、睨みあったままで――
やがて彼女は深い息を一つ吐く。
そして振り返った。
「……ティルス、レスター。今すぐ、捜索隊の手配を始めなさい。事は急を要します」
「へ、へい!」
「はい」
「シリア様、アルティオ様。聞いての通りです。
このような事態、申し訳なく思います。恥を忍んでお願いいたします。どうか――」
「……」
額に汗を浮かべたまま、アルティオはシリアと顔を見合わせる。シリアは回答を求められているようで、憂鬱に目を伏せながら、こめかみを押さえた。
そして考える。最善の選択を模索する。
どうしたら、あの娘たちを救える? どうすれば、あの黒の皇太子を退けられる?
思考をめぐらせる。そして、ゆっくりと面を上げた。
「……シェイリーン」
「……はい」
「……捜索隊の、副隊長に、ティルスをつけてちょうだい。彼が担ってた魔道師の収集と指示は、私が請け負うわ」
「シリアッ!?」
思ってもみない決断に、アルティオが声を上げる。シリアの顔を見下ろし、しっかりと意志のある瞳に、今の言葉は冗談でも何でもないことを悟る。
「考えてもみなさい。ゼルゼイルって土地にまったく土地勘のない私たちが探したところで大した戦力になれるわけはないわ。
だったら、土地勘のある人間に変わってもらった方がいいでしょう?
私もここ数日で、ルナにかなりの知識を教え込まれたから……。地元の魔道師の助けがあれば、指示くらいは出せるわ。それに、皇太子が計画の頓挫を望んでいるなら、魔道師の集まっているこの砦を野放しにするとは思えないし……。
ヴァレスさんはシェイリーンさんの護衛があるでしょ。少しでも、戦力があった方がいいじゃない。
それに、何かの形で裏をかけるかも……」
「だからって……! お前、あいつらのこと、心配じゃないのかよ!?」
「勿論、心配よ。でも、私はあの娘たちの死体を見たわけじゃない。生きているなら、あの娘たちなら大丈夫よ。
――貴方だって聞いたじゃない。あの娘が、あんな顔して何が何でも生き残れ、って言ったのよ? 死ねるわけないでしょう?」
「……」
「私は、あの娘たちを信じるわ。自分の仕事を全うする。
じゃなきゃあ……あの娘たちが帰って来たときに、合わす顔がないじゃない……」
少しだけ震えながら、それでも胸を張って彼女は呟いた。
触れれば折れてしまいそうな決意だ。想い人の命を、運に任せたくなどない、と言った彼女だ。その彼の命を他人任せにするなど、悔しくて仕方ないに違いない。
それでも、自分の責がどこにあるか自覚して、道を選んでいる。
アルティオは息を吐いた。これでは、自分が駄々っ子のようではないか。
「そういうわけだから、アルティオ。あの娘たちのこと、よろしく頼んだ……」
「ンじゃあ、俺も残るかな」
「!」
さらりと言ったアルティオの返答に、シリアの形の良い眉が歪む。
「貴方、何を……」
「まー、確かに俺だって今すぐ飛び出したいけどさ。一人だけ抜け駆け、ってのもな。
襲撃を考えるなら、俺もいた方がいいだろ? 頭使う方はちっと協力できないけどよ。無駄にうろうろして捜索隊の足手まといになるより、よっぽどマシってもんだ。
それに、」
言いかけて、彼は少しだけ苦いながらも、いつもの明るい笑みを浮かべる。
「こんな場所に仲間の女の子一人残してく、ってのも、俺のスタンスじゃないんでね」
「……」
一瞬、意味が解らなかった。しかし、すぐに我に返るとシリアは仕方のない笑みで首を振る。
「仕方ないわね……。好きになさい」
「おう」
「シリア様、アルティオ様……」
アルティオが答えると同時に面を上げたシェイリーンが、ぎゅ、と眉根を寄せて彼らの名を呼んだ。
長いローブに、直らない皺をつくるほど拳を握っていた彼女に、彼らは、
「そういうことだから。貴方たちにとっても悪い条件じゃないでしょう?」
「そうですねぇ。効率を考えれば、コンチェルト少佐が捜索に当たった方が早く済むでしょう。
それに、砦の護衛に付いてくださるとなれば心強い。私はシェイリーン様の護衛に当たらなければなりませんし、フィロ=ソルト中将には前線に出てもらわねばなりませんからね」
「しかし、お二方とも……本当にそれで良いのですか?」
ヴァレスの分析に継いで、ラーシャが二人に問いかける。二人は視線を合わせて、深々と頷いた。
シェイリーンの顔が、一瞬くしゃり、と歪んだ。
「ありがとう、ございます……。本当に……」
涙声で呟いた後、彼女は一つ深呼吸をする。数日前もそうしたように、ぐるり、と周囲を見回して、
「レスター、ティルス。急ぎ捜索隊を結成してください。精鋭とはいえ、多少の人海も必要でしょう。私の護衛に付くはずだった兵士も使用して構いません。
その代わり、ライラ、貴方もヴァレスと共に私の護衛をお願いします」
こくん、とライラは無言で頷く。レスターとティルス、ヴァレスはその場で敬礼の姿勢を取った。
「ラーシャ、デルタ。貴方方は予定通り、前線指揮に戻ること。ただし、客人が戦場に巻き込まれていないかの確認をしっかり取ってください」
「はっ」
「承知しました」
「……シリア様、アルティオ様」
最後に、彼女は二人の方へと向き直る。
「……心苦しいですが、この場を、どうかお願いいたします」
「……解ったわ」
「うっす」
「魔道師の収集がある程度、完了したなら場所を北都近くに移しましょう。その手はずはこちらにお任せください」
シェイリーンの言葉に、ティルスが追加する。彼らが頷くのを待って、彼は何事かを傍らで肩を怒らせていたレスターに言った。
そうして、真っ先にその辺に散らばっていた書類を集めて行動を起こそうとする。
しかし、
「あ、あの……!」
呼び止めたのは、同席していた、カノンたちと同行していた魔道師の一人だった。
「何ですか?」
「……」
ティルスが問い返すと、真っ青な顔で俯いてしまった。同じく、真っ青な顔でいた隣の同僚の魔道師が、彼を下がらせて声を上げる。
「……信じ難いことですが……エイロネイアは、あの皇太子は、あの男は、もう既にとんでもない力を手に入れている可能性が……。
あの場で、ルナ=ディスナー様との会話の内容が、本当だとしたら……」
ティルスは視線でレスターに問いかける。しかし、知識に疎い彼は白い顔で首を振るだけだった。彼には、自分で見たものが何なのか説明が付けられない。今、この場でその説明が出来るのは、同行していた、知識を持つ魔道師たちだけだろう。
かつり、と沈黙を破るように、シリアのヒールが鳴った。
「……ルナがいない以上、魔道関係の指揮は私が執るわ。貴方が見たもの、聞いたもの、全部教えてちょうだい」
重い責が、両肩に襲い掛かるような、そんな痛みを感じた。
「アリッシュ」
聞き慣れた涼やかな声に、男ははっとして振り返った。
たった一月ほど前まで戦場だった場所を眺めて、少し意識が飛んでいたようだった。
砂埃に汚れた白いローブと、長く伸びた水色の髪を押さえて、彼は目を細める。背後に立っていたのは、予想通りの――ゆったりとした黒衣に身を包んだ、顔の片側を包帯で隠している少年の姿に右恭しく頭を下げる。
そのあまりにも綺麗な礼に、少年は息を吐きながら頬を掻いた。
「……エリシアやカシスの態度も問題だけど。君のその律儀さも問題だね……。
別に僕はそんなに偉くなった覚えはないよ」
「殿下は、今は我が主です。敬うのは当然のこと。これは私の矜持にございます」
少年はやれやれと首を振る。しかし、それは侮蔑ではなく、長い付き合いの友人の癖を窘めるような仕草だった。
歳は二十半ばほどだろうか。水の色の長髪を、金の刺繍が施された白いローブの背に流し、胸元には無論八咫鴉の紋。
精悍な、引き締まった表情が、彼の性格をそのまま表している。
彼は面を上げると、自らの主を見、そしてまたその背後に目を止めて、少しばかり目を見開いた。だがそれは一瞬で、すぐに生真面目な顔へと戻る。
少年は男の脇を素通りすると、風の吹く高い崖の上から、今しがた彼が見下ろしていた場所を同じように眺めた。
眼下には深緑の木々がこんもりと森を作っていて、その先に唐突に砂塵の上がる荒野が広がっている。だが、そうしたことか、その砂塵が妙に濃い。
理由はすぐに割れた。
小隊ほどの規模の人の群れが、荒野を馬で乗り回しているのだ。
どうやら群れ同士の抗争なのか、血気は荒く、砂塵のが、妙に赤い。甲高い悲鳴と掛け声が、離れた崖の上まで届く。
「先の戦で出た落ち武者たちの蛮族です」
「シンシアの? それとも自軍のかい?」
「両方です。敵も味方もありません。近隣の村や町で強盗や殺人を起こしているようです。その群れ同士の衝突でしょう」
「まだ規模は小さいようだが……捨て置くわけにもいかないな」
ふむ、と少年は肩膝を付きながら頷いた。しばし、何事か思案する。
そして、抗争を目に留めたまま立ち上がる。
「……初陣、というには些か役不足な気がするけど。
せっかくだ。お願いできるね――?」
そう口にしながら。
彼は、背後を振り向いた――。
部屋に入るなり、アルティオは小さく溜め息を吐いた。机に突っ伏したまま、こちらに背を向けて寝入る幼馴染の背中に気が付いたからである。
灯りはランプ一つだけ。薄暗い部屋の机の脇を素通りして、奥の部屋へ行く。すぐに戻ったその手には、厚手の毛布が抱えられていた。
「ったく、うちの姫どもは皆して、どうしてこう手がかかるんだか……」
呆れた声で呟きながら、薄手(薄手以前に布地が極端に少ない)の服の肩に毛布をかけてやる。そのときにちらりと見えた彼女の手元に軽く首を振った。
膨大な書簡と魔道語の辞書と、アルティオには何が書かれているかまったく解らない書本。
シリアは浄療術の初級認定を受けている。魔道については多少だが、詳しいはずだ。しかし、それは多少であり、ルナのように専門に研究しているわけではない。
加えて一国の書簡を綴る、なんて経験もない。昼方、捜索指揮の傍ら、砦に顔を出しているティルスに指示されながら、物凄く不機嫌な顔で唸りながら書いていた。
不慣れな作業ほど疲れるものはない。ルナのように器用にはいかない。それでも彼女は砦に集まった魔道師たちに指示を出し、各地での調査の調整を行っている。
――なっさけねー……
アルティオは自分の馬鹿さ加減を知っていた。知識の足りなさも解っている。同時に下手に手伝うと、返って邪魔になってしまう自分の情けなさも。
「いっつも、こんなんだな……俺」
思えば、ステイシアの事件のときもそうだった。何も出来なかった。一人では立ち直ることさえも、出来なかった。出来ないまま……一人の、女の子を、犠牲にした。
アルティオはさらに激しく首を振る。駄目だ、忘れるのだ。痛みはいつかしかるべきときに思い出せばいい。
朗報は来ない。あれから既に一週間が経過しているというのに、カノンたちの姿はおろか、目撃情報さえも一報すら入って来ない。
――やっぱり、エイロネイア、ってことなんかなぁ……
エイロネイアの領内についても、密偵に依頼はしているらしい。しかし、先のエイロネイア皇太子の思惑もある。派手な動きは出来ない。
カノンもレンも、ルナもいて、破れなかった、エイロネイアの滅法鬼神。皇太子。やはり、周到な人間なんだろう。
知らず知らず、表情が強張る。
嫌な想像を振り払うように、持ってきたマグカップを一気に煽った。
この怒りを、このやるせなさを晴らせる場所は、いつか来るのだろうか。
「本当に……どこ行っちまったんだよ……カノン……」
呟いた悔しさの塊は、カップの底に残っていたコーヒーの黒い雫に、溶けて消えた。
←6-02へ
薄暗い厩から光を求めたのではない。現に、その目は光を追うためではなく、思案のためにどこか遠くを眺めるために彷徨っていた。
今朝方、客将たちを送り出した。ラーシャも、あと少ししたら前線へと戻る。それが彼女の務めだった。そして、貴族院の説得のためにシェイリーンもまた、シンシアの都ゼルフィリッシュへと発つ。
前門に虎、後門の狼。そんな言葉が頭を過ぎる。
いや、虎や狼だったなら、爪と牙をもいでしまえば、それで終わりだというのに。
――いかんな。
嫌な想像を振り払うように頭を振る。
ルナの提示した策が、果たして打開となり得るのだろうか。ラーシャには解らない。解らないが、何らかの礎となるだろう。
縋るものが藁一本でもいい。何かを、何かを掴まなくては、勝利も引き分けもありえない。
「……エイロネイアの、皇太子、か」
彼が台頭してきたのは、わずか二年ほど前のこと。その二年で、戦場は激的な変化を遂げていた。
ルナの話で、その圧倒的な力の片鱗を見せ付けられた気がする。
大陸で見たあの少年。あれが、本物の皇太子だというのなら、一体彼は何者だというのだろう。戦場と、人の心を意のままに操る、化け物。
斬りかかった一瞬に見た、暗い、ひたすらに冷たい眼差しが、頭から離れない。
何故、彼にはあんな冷たい目が出来るのだろうか。
「……」
馬の毛を梳く手が止まる。
勝てる、いや、このゼルゼイルを平穏に導くことなど、出来るのだろうか。ラーシャにとって、戦争を止める事は、その入り口でしかない。
けれど、彼女は、まだ道を歩むどころか、切り開けてもいないのだ。
剣の柄を握る。立ちはだかる茨を切り裂く力が欲しかった。自身がこんなにも矮小なのに、立ちはだかる茨の壁はあんなにも冷たく、高い。
策が上手く行くことを願い、剣と指揮を振るい続けるしか、今の彼女に出来ることは、ない。
「ラーシャ様ッ!!」
「?」
厩の入り口から、やたらと切羽詰まった声が響いた。戦士の勘だろうか、ぞくり、とラーシャの背中を怖気が走り抜けた。
向かい風が激しく、かといって背中から追い風が吹いているわけでもない。これ以上の逆風は、g面被る。けれど、その声を上げた兵士の顔は、明らかに真っ青だった。
「れ、レスター大尉が、き、帰還なされたんですが……ッ!」
「何……ッ!?」
レスターが客将と出立したのは今朝方だ。一週間は戻らない予定だった。だから、それは不運の予兆だと、ラーシャの頭は瞬時に叩き出す。
耳を塞いでしまいたくなるのをぐっ、と堪えて、ラーシャは先を促したのだった。
「な、何だそりゃぁッ!? ふざけんじゃねぇぞッ!? 馬鹿言うんじゃねぇッ!!!」
会議室とは名ばかりの、石造りの小部屋に響き渡ったのは、レスターの胸倉を掴んだアルティオの怒鳴り声だった。
相手に威圧を与えるというよりは、感情をそのまま叩きつけているという感じ。当たり前だ。威圧を与えようとして、怒鳴り声を上げるなど、そこまで彼は頭のいい人間じゃない。
シリアは奥歯を軋ませながら、必死に頭の冷静な部分を引きずり出していた。耳元に当たるアルティオの怒声は、ほんの少しの安定感と、そしてその静かな作業の邪魔をしてくれる。
「カノンが、カノンたちがいなくなっただとッ!? どういうことだよッ!!」
がりッ……
アルティオの、先ほど聞いた耳が痛くなる報告の復唱に、シリアは伸ばした爪を噛む。
胸倉を掴まれたままのレスターは歯軋りをしながら、同じ報告を繰り返すだけだった。
「……ガリア平原の林で、エイロネイアの皇太子を名乗る男に遭遇した。
……お三方は、そのまま、何処かへ姿を消した。男も、いつのまにか、どこかへ……」
「ンなバカなことがあってたまるかッ!! 何処だ、カノンは、レンはルナはッ!? あいつら、何処行ったってんだよ……ッ!!」
シリアは爪が砕けているのに気が付いて、ようやく口元から指を離す。
レスターの隣に立ったライラは、困惑を浮かべるでもなく、相変わらずの無表情を貫いている。それもまた、アルティオの怒りに火をつけているのだろう。
シェイリーンは上座に座ったまま、束ねた髪を握り締めている。慌しくやって来たラーシャとデルタ、ティルスは、一時はアルティオをたしなめようとしたものの、無駄だと悟ってからは窓辺に立って唇を噛んでいる。
ヴァレスは、普段通りの飄々とした態度で、ちっとも困っていない表情で困りましたね、と呟いていた。
「アルティオ様、あの……」
「……ッ」
おずおずとシェイリーンが声をかけようとする。アルティオが、彼女にまで罵声を浴びせなかったのは、見上げたフェミニスト根性だと思う。
けれど、そんな形相をしていては同じこと。
シリアは冷静さを引き絞る。ここには、彼女に代わって冷静な言葉で彼をたしなめてくれる人間が、いないのだから。
「アルティオ、少し落ち着きなさい。怒鳴り声で女の子を萎縮させるのは、どう見ても貴方のスタンスじゃないでしょう?」
「シリア! お前、何でそんなに冷静なんだよッ!!」
叩き付けられた大声に、シリアはしかし、溜め息を吐いた。一瞬の間の後に、形の良い眉を吊り上げる。
「あのね! 私だって今すぐここを出てレンを探しに行きたいわよッ!! 普段だったらとっくにやっているわッ!!
でもね、貴方、あいつの話を聞いてたのッ!? 相手は大陸にいたあの男だったのよッ!?
あいつが私たちの前でどれだけ面妖なことをやってくれたと思ってるのッ!?
……私やルナですら、理解不能だったのよ。それを、魔道やら何やらに何の造詣もない一兵士を捕まえて、どうにかなると思ってッ!?」
「ぐ……ッ」
今度はシリアがアルティオの胸倉を掴み上げる番だった。シリアにも、アルティオにも、互いの焦りと怒りは十分すぎるほど理解できた。
だから、その仲間からの声は、一番胸に痛く叩きつけられる。
いざというときは、シリアの方が冷静だった。もしかしたら、こんなときは仲間内で最も冷静になれる人間かもしれない。だからといって、けして冷たい人間なわけではないことを、アルティオは知っていた。
「……悪ぃ」
「いいけれど。私も貴方のそういう直情的なところは嫌いじゃないから。
でもね、今は短気に走るときじゃないわ」
ふぅ、とアルティオの肩から力が抜ける。シリアの冷静さに、驚くと同時に浮き足立っている自分が情けなく見えたからだ。
「……お前のそういうところは尊敬するぜ」
「あら、全部が尊敬に値すると思うけれど?
まあ、それは今はいいわ」
真顔に戻ったシリアは、襟元を正していたレスターに向き直る。
「あの娘たちは、本当に突然消えたのね?」
「あ、ああ……。何というか……黒い霧、みたいなのが出てきて……。気が付いたときには……」
「……そこに、黒い服の、あの男の子がいたのね?」
「ああ。顔の半分を包帯で隠した……二十くらいの男だった」
シリアはぎゅ、と表情を固くする。黒い霧。そんな風に表現できるものを、シリアたちは目にしている。何度も、とは言わないが、少なくとも数回は。
頭を振る。今は彼女の代わりに、冷静に頭を動かしてくれる人間はいないのだ。
冷静に、冷静にならなくては。
「……その場で、殺された、とかじゃないのね……?」
「ああ、たぶん……」
自信なさげに口にするのは、おそらく、目にした現象が不可思議極まりないものだからだろう。死体を目にしていたのなら、そんな表現はしない。
死体があったわけじゃない。その場で殺したわけでもない。
……ということは、まだ、彼らは――。
「シェイリーン様」
シリアと同じ思考に辿り着き、声を発したのはラーシャだった。顔色を白くしながらも、生真面目な表情を保ちながら、
「彼らは大切な客将です。我らには、彼らの身の安全を確認する義務があります」
「……その通りです」
「すぐに捜索隊を組みましょう。隊の先頭には私が」
「いえ」
言いかけたラーシャの言葉を遮って、シェイリーンは立ち上がった。ゆっくりと、面を上げた。
「……ラーシャ、貴方は戦地の頭としての責を全うしてもらわねばなりません。
捜索隊の筆頭には、レスター、それから」
唇を噛んでいたレスターに呼びかけ、そして苦い顔を見せているシリアとアルティオへ、紫色の瞳を向ける。
「シリア様、アルティオ様。捜索隊の副隊長として、立って頂けませんか?」
「!」
「お、俺たちがかッ!?」
「シェイリーン様!?」
シェイリーンは俯いて、ぐっと目を瞑る。ぎゅ、と拳を握って石のテーブルに押し付けながら、口を開く。
「ラーシャをこれ以上、前線から離れさせるわけには行きません。かといって捜索をしないわけにも行きません。
……私はこれから貴族院との交渉のために北都に向かいます。ルナ様たちが失踪したと知れれば、交渉も不利となる。大掛かりな捜索は出来ません。精鋭で、迅速な対処が必要です」
「ンな……ッ!」
憤りかけたアルティオの肩を、シリアの手が押さえた。その二人に、シェイリーンは居た堪れない、苦い表情を浮かべ、ゆっくりと頭を垂れた。
「……申し訳なく、大変失礼なこととは存じております。けれど、私たちは、貴方方が授けて下さった計画を頓挫させるわけには行かないのです」
「……」
アルティオは歯を軋ませながら、それを見下ろしていた。どうすべきかが、判断出来ない。頭に熱が集まっている。
彼ほどではないが、同じような表情で唇を噛んでいたデルタが、何事か言いかける。しかし、それよりも先に飄々とした声が遮った。
「しかし……。そんなことをして、皇太子は何の益にしようと言うのですかね……」
「……」
何かを含ませたような声色に、シリアが柱に背を預けるヴァレスを睨む。だが、彼はそれはあっさりと受け流した。
「……エイロネイアが内部に密偵を送っているのだとしたら。シェイリーン様が貴族院に睨まれている状況を知っていてもおかしくありません。
シェイリーン様の客将を捕らえることで、さらなる内部抗争を招くつもりか……。
あるいは、こちらの計画を形振り構わず止めに来たか。
ならば、なおさら計画を頓挫させるわけには行きません」
「ふむ。そうですね……。彼らにとって、この計画が何らかの痛みである可能性は高いでしょう。
ですが、それだけならば、わざわざそんなややこしい方法など取らずに、一思いに殺せばいい。
何故、それをしなかったのか、という話になります」
「それは……」
「後々、人質にでも使うつもり……でしょうか……」
抑えた声で、デルタが口にする。はっ、として目を見開くアルティオだが、ヴァレスはゆっくりと首を振った。
「まあ、それもあるかもしれませんが――。
私には別の目的があるように思えますがね」
「別の目的、ですって?」
「そう。例えば――
捜索隊の結成自体が目的、ということは考えられませんか?」
ティルスとラーシャ、シェイリーンの表情が歪む。少し遅れてデルタが声を漏らした。
シリアも同じ発想に行き着く。
「自軍の将が生死不明という自体よりも、他の国からの客将が行方不明、という方が、重みがあります。信用問題に関わる話ですからね。捜索隊を設けないわけにはいかないでしょう。
必然的に我々はそちらに戦力の多少を削がざるを得なくなる。ルナ嬢がいなくなる、ということは計画の遅延も意味しますから一石二鳥、ということではないですか?」
「エイロネイアは……また、いずこかへの侵攻を考えている、ということですか……?」
「そうは言い切れませんが。ともかく、我々は彼の術中に嵌りかけているのでは、ということです」
「じゃあ、何だ!? あの三人を見捨てろ、ってことかッ!? 捜索すんな、って言いたいのかよ!?」
再び声を荒げるアルティオの手が、ヴァレスの胸倉を掴む。ラーシャとシェイリーンが慌てて駆け寄った。
「お待ちください、アルティオ様!
ヴァレス! 貴方がどう言おうと捜索隊は結成せざるを得ません。たとえ、あの皇太子の思惑が働いていたとしても、それがシンシアとしての義務と彼らの権利です!」
「……」
ヴァレスの細い目を真っ向から睨んで、シェイリーンは言い放つ。彼はひょい、と軽く肩を竦めただけだった。
「これは失礼。閣下のご命令に背くようなつもりはなかったのですが。貴方がそう仰るのでしたら、それに従いますよ。
ああ、でも、捜索隊を出されるのでしたら、計画の先頭に立っていらしたルナ嬢を真っ先に保護すべきでしょうね」
「……? な、何でだ?」
ヴァレスの意味深な口調に、不安を煽られたアルティオが問う。シェイリーンは何故か黙っていた。
ヴァレスはそれに、僅かにせせら笑った。
「シェイリーン様、貴方もお気づきのはずですよ。彼女のかつての友人が、七征の中にいると知った時点で、考え付いたことがあるはずです」
「……何の話ですか」
「彼女のかつての知り合いは、七征の中でかなり重要なブレーンになっています。戦況を覆した要因と言ってもいいでしょう。
……以前も話しましたが、勝負を拮抗に持っていく方法は二通りあります。
一つはルナ嬢が考案された通り、こちらの戦力を増強すること。
もう一つは、相手の戦力を削いでしまうことです」
「……」
「その男が、エイロネイアの戦力の源であるのなら、話は簡単です。もいでしまえば、これ以上のエイロネイアの戦力増強は止まります。
勿論、簡単ではないですよ? けれど、ルナ嬢とその男の関係を利用すれば、彼女を囮として何らかの策を練ることは可能だったはずです」
「な……ッ!?」
アルティオが喉の奥から声を上げる。シリアはもう一度、爪をかりり、と噛んだ。
ラーシャははっ、としてシェイリーンを、自らの主を見る。彼女は無表情のまま、ヴァレスを見上げていた。
僅かの沈黙。そして、彼女が厳かにそれを破る。
「……可能、だったかもしれません。けれど、私はそれを選びませんでした。詮無きことです」
「確かにそうですねぇ。貴方好みではないですからね。
ですが、彼女が何らかの形で切り札として使えることは確かです。人道的にも、非人道的にも。
エイロネイア皇太子とて、それは悟っているでしょう。彼女がシンシアにいる、ということは彼にとっては不安材料になります。
だから。
不安材料は真っ先に、始末したくなるものじゃないですか?」
「……」
シェイリーンは睨むようにヴァレスを見上げた。そのまましばし、睨みあったままで――
やがて彼女は深い息を一つ吐く。
そして振り返った。
「……ティルス、レスター。今すぐ、捜索隊の手配を始めなさい。事は急を要します」
「へ、へい!」
「はい」
「シリア様、アルティオ様。聞いての通りです。
このような事態、申し訳なく思います。恥を忍んでお願いいたします。どうか――」
「……」
額に汗を浮かべたまま、アルティオはシリアと顔を見合わせる。シリアは回答を求められているようで、憂鬱に目を伏せながら、こめかみを押さえた。
そして考える。最善の選択を模索する。
どうしたら、あの娘たちを救える? どうすれば、あの黒の皇太子を退けられる?
思考をめぐらせる。そして、ゆっくりと面を上げた。
「……シェイリーン」
「……はい」
「……捜索隊の、副隊長に、ティルスをつけてちょうだい。彼が担ってた魔道師の収集と指示は、私が請け負うわ」
「シリアッ!?」
思ってもみない決断に、アルティオが声を上げる。シリアの顔を見下ろし、しっかりと意志のある瞳に、今の言葉は冗談でも何でもないことを悟る。
「考えてもみなさい。ゼルゼイルって土地にまったく土地勘のない私たちが探したところで大した戦力になれるわけはないわ。
だったら、土地勘のある人間に変わってもらった方がいいでしょう?
私もここ数日で、ルナにかなりの知識を教え込まれたから……。地元の魔道師の助けがあれば、指示くらいは出せるわ。それに、皇太子が計画の頓挫を望んでいるなら、魔道師の集まっているこの砦を野放しにするとは思えないし……。
ヴァレスさんはシェイリーンさんの護衛があるでしょ。少しでも、戦力があった方がいいじゃない。
それに、何かの形で裏をかけるかも……」
「だからって……! お前、あいつらのこと、心配じゃないのかよ!?」
「勿論、心配よ。でも、私はあの娘たちの死体を見たわけじゃない。生きているなら、あの娘たちなら大丈夫よ。
――貴方だって聞いたじゃない。あの娘が、あんな顔して何が何でも生き残れ、って言ったのよ? 死ねるわけないでしょう?」
「……」
「私は、あの娘たちを信じるわ。自分の仕事を全うする。
じゃなきゃあ……あの娘たちが帰って来たときに、合わす顔がないじゃない……」
少しだけ震えながら、それでも胸を張って彼女は呟いた。
触れれば折れてしまいそうな決意だ。想い人の命を、運に任せたくなどない、と言った彼女だ。その彼の命を他人任せにするなど、悔しくて仕方ないに違いない。
それでも、自分の責がどこにあるか自覚して、道を選んでいる。
アルティオは息を吐いた。これでは、自分が駄々っ子のようではないか。
「そういうわけだから、アルティオ。あの娘たちのこと、よろしく頼んだ……」
「ンじゃあ、俺も残るかな」
「!」
さらりと言ったアルティオの返答に、シリアの形の良い眉が歪む。
「貴方、何を……」
「まー、確かに俺だって今すぐ飛び出したいけどさ。一人だけ抜け駆け、ってのもな。
襲撃を考えるなら、俺もいた方がいいだろ? 頭使う方はちっと協力できないけどよ。無駄にうろうろして捜索隊の足手まといになるより、よっぽどマシってもんだ。
それに、」
言いかけて、彼は少しだけ苦いながらも、いつもの明るい笑みを浮かべる。
「こんな場所に仲間の女の子一人残してく、ってのも、俺のスタンスじゃないんでね」
「……」
一瞬、意味が解らなかった。しかし、すぐに我に返るとシリアは仕方のない笑みで首を振る。
「仕方ないわね……。好きになさい」
「おう」
「シリア様、アルティオ様……」
アルティオが答えると同時に面を上げたシェイリーンが、ぎゅ、と眉根を寄せて彼らの名を呼んだ。
長いローブに、直らない皺をつくるほど拳を握っていた彼女に、彼らは、
「そういうことだから。貴方たちにとっても悪い条件じゃないでしょう?」
「そうですねぇ。効率を考えれば、コンチェルト少佐が捜索に当たった方が早く済むでしょう。
それに、砦の護衛に付いてくださるとなれば心強い。私はシェイリーン様の護衛に当たらなければなりませんし、フィロ=ソルト中将には前線に出てもらわねばなりませんからね」
「しかし、お二方とも……本当にそれで良いのですか?」
ヴァレスの分析に継いで、ラーシャが二人に問いかける。二人は視線を合わせて、深々と頷いた。
シェイリーンの顔が、一瞬くしゃり、と歪んだ。
「ありがとう、ございます……。本当に……」
涙声で呟いた後、彼女は一つ深呼吸をする。数日前もそうしたように、ぐるり、と周囲を見回して、
「レスター、ティルス。急ぎ捜索隊を結成してください。精鋭とはいえ、多少の人海も必要でしょう。私の護衛に付くはずだった兵士も使用して構いません。
その代わり、ライラ、貴方もヴァレスと共に私の護衛をお願いします」
こくん、とライラは無言で頷く。レスターとティルス、ヴァレスはその場で敬礼の姿勢を取った。
「ラーシャ、デルタ。貴方方は予定通り、前線指揮に戻ること。ただし、客人が戦場に巻き込まれていないかの確認をしっかり取ってください」
「はっ」
「承知しました」
「……シリア様、アルティオ様」
最後に、彼女は二人の方へと向き直る。
「……心苦しいですが、この場を、どうかお願いいたします」
「……解ったわ」
「うっす」
「魔道師の収集がある程度、完了したなら場所を北都近くに移しましょう。その手はずはこちらにお任せください」
シェイリーンの言葉に、ティルスが追加する。彼らが頷くのを待って、彼は何事かを傍らで肩を怒らせていたレスターに言った。
そうして、真っ先にその辺に散らばっていた書類を集めて行動を起こそうとする。
しかし、
「あ、あの……!」
呼び止めたのは、同席していた、カノンたちと同行していた魔道師の一人だった。
「何ですか?」
「……」
ティルスが問い返すと、真っ青な顔で俯いてしまった。同じく、真っ青な顔でいた隣の同僚の魔道師が、彼を下がらせて声を上げる。
「……信じ難いことですが……エイロネイアは、あの皇太子は、あの男は、もう既にとんでもない力を手に入れている可能性が……。
あの場で、ルナ=ディスナー様との会話の内容が、本当だとしたら……」
ティルスは視線でレスターに問いかける。しかし、知識に疎い彼は白い顔で首を振るだけだった。彼には、自分で見たものが何なのか説明が付けられない。今、この場でその説明が出来るのは、同行していた、知識を持つ魔道師たちだけだろう。
かつり、と沈黙を破るように、シリアのヒールが鳴った。
「……ルナがいない以上、魔道関係の指揮は私が執るわ。貴方が見たもの、聞いたもの、全部教えてちょうだい」
重い責が、両肩に襲い掛かるような、そんな痛みを感じた。
「アリッシュ」
聞き慣れた涼やかな声に、男ははっとして振り返った。
たった一月ほど前まで戦場だった場所を眺めて、少し意識が飛んでいたようだった。
砂埃に汚れた白いローブと、長く伸びた水色の髪を押さえて、彼は目を細める。背後に立っていたのは、予想通りの――ゆったりとした黒衣に身を包んだ、顔の片側を包帯で隠している少年の姿に右恭しく頭を下げる。
そのあまりにも綺麗な礼に、少年は息を吐きながら頬を掻いた。
「……エリシアやカシスの態度も問題だけど。君のその律儀さも問題だね……。
別に僕はそんなに偉くなった覚えはないよ」
「殿下は、今は我が主です。敬うのは当然のこと。これは私の矜持にございます」
少年はやれやれと首を振る。しかし、それは侮蔑ではなく、長い付き合いの友人の癖を窘めるような仕草だった。
歳は二十半ばほどだろうか。水の色の長髪を、金の刺繍が施された白いローブの背に流し、胸元には無論八咫鴉の紋。
精悍な、引き締まった表情が、彼の性格をそのまま表している。
彼は面を上げると、自らの主を見、そしてまたその背後に目を止めて、少しばかり目を見開いた。だがそれは一瞬で、すぐに生真面目な顔へと戻る。
少年は男の脇を素通りすると、風の吹く高い崖の上から、今しがた彼が見下ろしていた場所を同じように眺めた。
眼下には深緑の木々がこんもりと森を作っていて、その先に唐突に砂塵の上がる荒野が広がっている。だが、そうしたことか、その砂塵が妙に濃い。
理由はすぐに割れた。
小隊ほどの規模の人の群れが、荒野を馬で乗り回しているのだ。
どうやら群れ同士の抗争なのか、血気は荒く、砂塵のが、妙に赤い。甲高い悲鳴と掛け声が、離れた崖の上まで届く。
「先の戦で出た落ち武者たちの蛮族です」
「シンシアの? それとも自軍のかい?」
「両方です。敵も味方もありません。近隣の村や町で強盗や殺人を起こしているようです。その群れ同士の衝突でしょう」
「まだ規模は小さいようだが……捨て置くわけにもいかないな」
ふむ、と少年は肩膝を付きながら頷いた。しばし、何事か思案する。
そして、抗争を目に留めたまま立ち上がる。
「……初陣、というには些か役不足な気がするけど。
せっかくだ。お願いできるね――?」
そう口にしながら。
彼は、背後を振り向いた――。
部屋に入るなり、アルティオは小さく溜め息を吐いた。机に突っ伏したまま、こちらに背を向けて寝入る幼馴染の背中に気が付いたからである。
灯りはランプ一つだけ。薄暗い部屋の机の脇を素通りして、奥の部屋へ行く。すぐに戻ったその手には、厚手の毛布が抱えられていた。
「ったく、うちの姫どもは皆して、どうしてこう手がかかるんだか……」
呆れた声で呟きながら、薄手(薄手以前に布地が極端に少ない)の服の肩に毛布をかけてやる。そのときにちらりと見えた彼女の手元に軽く首を振った。
膨大な書簡と魔道語の辞書と、アルティオには何が書かれているかまったく解らない書本。
シリアは浄療術の初級認定を受けている。魔道については多少だが、詳しいはずだ。しかし、それは多少であり、ルナのように専門に研究しているわけではない。
加えて一国の書簡を綴る、なんて経験もない。昼方、捜索指揮の傍ら、砦に顔を出しているティルスに指示されながら、物凄く不機嫌な顔で唸りながら書いていた。
不慣れな作業ほど疲れるものはない。ルナのように器用にはいかない。それでも彼女は砦に集まった魔道師たちに指示を出し、各地での調査の調整を行っている。
――なっさけねー……
アルティオは自分の馬鹿さ加減を知っていた。知識の足りなさも解っている。同時に下手に手伝うと、返って邪魔になってしまう自分の情けなさも。
「いっつも、こんなんだな……俺」
思えば、ステイシアの事件のときもそうだった。何も出来なかった。一人では立ち直ることさえも、出来なかった。出来ないまま……一人の、女の子を、犠牲にした。
アルティオはさらに激しく首を振る。駄目だ、忘れるのだ。痛みはいつかしかるべきときに思い出せばいい。
朗報は来ない。あれから既に一週間が経過しているというのに、カノンたちの姿はおろか、目撃情報さえも一報すら入って来ない。
――やっぱり、エイロネイア、ってことなんかなぁ……
エイロネイアの領内についても、密偵に依頼はしているらしい。しかし、先のエイロネイア皇太子の思惑もある。派手な動きは出来ない。
カノンもレンも、ルナもいて、破れなかった、エイロネイアの滅法鬼神。皇太子。やはり、周到な人間なんだろう。
知らず知らず、表情が強張る。
嫌な想像を振り払うように、持ってきたマグカップを一気に煽った。
この怒りを、このやるせなさを晴らせる場所は、いつか来るのだろうか。
「本当に……どこ行っちまったんだよ……カノン……」
呟いた悔しさの塊は、カップの底に残っていたコーヒーの黒い雫に、溶けて消えた。
←6-02へ
「あんた今は護衛でしょ!? 護衛がぽやーっとしててどうすんのよッ!?」
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してた」
瓦礫から舞い戻って、やはり最初に降りかかったのは甲高い文句の声だった。耳に響くが、まったく正論なので何も言い返せない。
「ったく、しっかりしてよね。いざってときに頼りにならないじゃない」
「あー、まったくだなー。何でシェイリーン様と姐さんが、こんな奴らを選んだんだか不思議だぜ」
無遠慮極まりない声を上げたのは、ラーシャ=フィロ=ソルト配下のレスター=ライアント。建前上は、護衛隊の隊長である。
内部にも秘密裏とされたルナの単独行動だ。護衛も大層なものは、用意出来ない。それ故の抜擢だそうだが、カノンにしてみれば納得がいかないにも程がある。
何故、魔道の"ま"の字も理解していない奴が、隊長なんてものにのさばっているのか。
「大体、こんながらくたの山を調査して、本当にエイロネイアへの対抗手段になるのかよ」
予想通りの言動が返って来た。自分たちに反発心があるのは十分わかった。わかったから黙っていて欲しいものだ。
ルナが露骨な血管を額に浮かべる。心なしか、調査団の魔道師たちの顔色も芳しくはない。
カノンは陰鬱に首を振る。
「あのね、まあ、あたしも本職じゃないからでかいことは言えないけど……。
魔道歴史の調査、探索ってのは言葉ほど派手なものじゃないのよ。それこそ石一つ、紙切れ一つに太古の記録が残っていないか血眼になって探すしかないの。
本当は時間も手間もかかるシロモノなのよ。
それを、短期間で集中的にやろう、って言ってんだから、ここまでぎゅうぎゅうに彼らが資料集めしてんじゃない。
それともあんた、一欠片でも彼らの作業を手伝ったわけ?」
「ぐ……」
目の下に隈を作った魔道師たちがうんうんと頷く。一見、平気そうなルナも、さすがに濃い疲労の色はシリアに借りた薄化粧でも隠せていない。
歯がゆいのは解るのだ。
ラーシャも、デルタも。シェイリーンは勿論、あの冷静な顔を張り付けたティルスとて。
焦燥と、怒りに駆られているはず。激的な変化が欲しいのだ。戦況を今すぐにでも覆せるような。
けれど彼らは人間だ。そんな変化を生み出せるのは、いるとしたら、神なのか、悪魔なのか。
ルナは溜め息を吐き出す。説明したところで理解は得られないことを悟って。
感情論は嫌いではない。感情があるからこそ、人は機能する。だが、それと戦略的な行動はまったく別。
「……焦るのは解らなくもないけど。
焦ったところで人間は、目の前の出来ることをやるしかないの。……出来ることが何なのかさえ解らないこともある。解るきっかけがあっても、気づけないことだってある。
それに比べたら、たとえ低い可能性であっても、出来ることがある今は、まだいい方よ……」
「……ッ」
沈痛なカノンの表情に、さしものレスターも何かを悟ったのか、それきり悪態を吐こうとはしなかった。
ルナは無言で知らぬ振りを通し、レンは先ほどから何も言わずに柱にもたれたままだった。ふい、と視線を逸らして、指示を待っている魔道師たちにきびきびと言葉を発し始める。
カノンは剥れながらも静かになったレスターを見やり、そちらの方に駆け寄った。
それに気が付いたルナは、一人の魔道師に資料を押し付けると、こちらを向く。
「どう?」
「……駄目ね。完全に倒壊してて。大幅な瓦礫の撤去作業が必要よ。
上手くすれば中に入り込めるかもしれないけど、あまりに危険すぎるわ。止めて置いた方が無難ね」
「……そう」
「ま、別に調査対象はここだけじゃないし。最終的には、護法鬼神の巣・神羅[ディーダ]にまで行ってみるつもりだから。
鬼神と会えるなんて思ってないけど、ここの魔道師に聞いたら結構古い祭壇が残ってる、って話だから。見てみて損はないかな、って感じよ。護衛の人たちには面倒をかけるけどね」
最後の言葉は、やや皮肉めいたものがあった。ちらりと視線を向けられたレスターは、罰が悪いのか、知らぬ振りを貫いた。
「……解った。次は?」
「ここからもうちょい南西なんだけど。古代ヘルヴェキア時代のお墓が残ってるらしいのね。お墓、って言っても結構な偉人のお墓だから、ちょっとした神殿的な造りになってるらしいんだけど。
今日はそこを見て終わりかな。近くにまた砦があるらしいから一泊させてもらいましょ」
「ん、了解」
ばさり、と彼女が広げた地図を確認する。
先導役がルナと魔道師たちであっても、経路を頭に入れておく必要がある。いざというときに、分散しても、経路さえ解っていれば合流は可能だ。
がらがらと音がして瓦礫の一部が小さく崩れる。
今までずっと上にいたライラが戻って来たのだった。弓矢を担ぎながら軽快に降りて、すとん、と着地する。
何気なく視線を送っていると、彼女は唐突に宙を見た。そのままじっと空を見る。
「ライラ、さん?」
微動だにしない彼女に、カノンは声をかける。半ば、反応がないのを覚悟していたが、視線が動いた。じっ、とカノンの顔を覗き込み、くい、と上を指差す。
「上、って……」
カノンが碧い瞳を瓦礫の上へと向ける。
はらり……
灰色の青さと、霞んだ白が支配する空に。ひらりと、風に吹かれる一枚の、
「――ッ! 伏せてッ!!」
言うが早いか、カノンは隣にいたルナの肩を引き摺り倒す。その刹那、
どぉぉぉぉおぉぉんッ!!
――く、ぅ……ッ!?
固く閉じた瞼の向こうで、閃光が炸裂する。ちりちりとした痛みが目の上に走る。
それと共に、伏せた身体に感じたのは熱量を伴う乱暴な風。目を腕で庇いながらも、カノンは目を開く。
あの舞い降りた白い紙――符の持ち主が、カノンの知り得る人物だとしたら、間違いなく、この隙に――来る!
目を開くと同時に背中の剣鎌[カリオソード]を引き抜いた。
瞬間に、目の前で踊る、黒の残像。
「――ッ!!」
ぎぎぃんッ!!
咄嗟に振るった刃は、何かと衝突して鈍い音を立てた。
上げた、まだ少しだけ霞む視界に、黒の人形と哂う秀麗な少年の顔。その顔は不自然に割れていた。少年が手にしたあの真っ黒な槍が、眼前に突きつけられていて、その刃をかろうじて剣鎌[カリオソード]が食い止めていた。
「我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア!」
「!」
カノンの足元から上半身を起き上がらせたルナが、突き上げた掌に赤い光を収束させる。ごうっ、と音を立てて燃え上がったそれが、自らの身体を貫く前に、少年は振りかぶっていた槍を引いた。
光弾はあさっての方角に飛び、瓦礫に衝突するより先に、小さく消える。
少年は引き様に後方へ重い蹴りを放つ。それは側にあった瓦礫の欠片を弾いただけだ。だが、その欠片は背後から剣を抜いていたレンの眼前に飛び、彼がそれを振り払ったときにはもう、少年は大剣の間合いの外に逃れていた。
……相変わらず、無茶苦茶な。
槍先が風を叩く。爆炎が晴れて、瓦礫の山を背にしたカノンたちと対峙するように、とん、と少年は地面に降り立った。
このときになって、ようやくレスターたちは身を起こして、少年の姿に眉間に皺を寄せた。
ルナが動作で呪を唱えようとしていた魔道師たちを下がらせる。普通の相手ならともかく、分が悪すぎる。
何てことだ。まさか直球で来るなんて……!
「なん……だ、お前……」
「……」
掠れたレスターの声に、彼はふ、と嘲るような微笑で答える。
レスターとて、先日のカノンたちの話を聞いていなかったはずはない。カノンたちの話の中に出て来た『皇太子を名乗る黒衣の少年』の話も、記憶に新しい。
けれど。
予測など出来ない。
出来るはずがない。
こんな、非公式的なお忍びの調査に、襲撃はあったとしても、それと酷似した外見の『現物』が目の前に出てくるなんて……!
勿論、カノンたちだって思っていなかった。
国境があるといえ、境目でいちいち目くじらを立てて検査してるわけじゃない。だから、敵国の間者が味方国に入る込むことはそう難しいことじゃない。
ましてや、こんな瓦礫の山以外には、何の変哲もない場所に。
けれど、けれど、そんな場所に、自ら敵軍の大将を名乗った人間がいるなど。
そんな馬鹿なことが――
「――馬鹿なこととお思いですか?」
「ッ!?」
レスターの思考を読んだように、かの皇太子はくすりと嘲笑[わら]う。ぎりぎりと、噛み締めたレスターの歯軋りが、口内に響く。
「……はったりだ! 本物が、こんな場所に来るわけねぇ! こいつの方が偽物だ、うろたえるな!」
レスターが吼える。その虚勢は、先日のカノンたちの話を聞いていて、目の前の少年の姿に竦んでいた兵士たちをほんの少しだけ奮い立たせた。
だが、反してカノンたちは険しい顔で剣を構えたままだった。
カノンたちにとっては、彼が本物だろうが偽者だろうが、差たる問題ではなかった。本物でも、偽者でも、彼が西大陸であれだけのことをやってくれた張本人であり、敵の要人なのだという事実に変わりはない。
少年は震えを堪えた兵士たちを眺めながら、陰鬱な、ひどくつまらなさそうな息を吐く。
「どう思われようと構いませんが――
重要なのは、本物か偽者か、ではなく、貴方方が敵うかどうかだと思いますがね」
「てっめぇ……!」
ちゃき、と柄を鳴らすレスターの手を、一歩前に出たルナが止める。そのまま飄々とした顔の彼を睨みながら、
「……なんで、ここに」
「……内部に密偵を放っているのは、何もシンシアだけではありませんよ。
それに、こちらには貴方も良く知る通り、その道のプロがいますからね。シンシア領のめぼしい遺跡や曰くつきの場所を割り出すのはそう難しいことじゃあありません」
「なるほど。ばれるのは覚悟していたし、妨害もあると思ってたけど。まさか、天下の皇太子直々にお出ましとは思わなかった。
けど、あんたみたいなのが直接来る、ってことはあたしたちの作戦の方向はあながち間違っていなかった、ってことね」
「さて、自惚れは感心しませんよ。第一、ここで生き残れなければ語っても仕方のないことでしょう?」
少年の手にした漆黒の槍が、澄んだ音を立てる。ルナは無言でそれを見据えた。
後方からカノンとレンが、彼女の隣に並ぶ。けれど、彼女はそれを片手で制した。
「……? ルナ……?」
「カノン、レン。それからあんたたちも。下がってて」
「ちょっと、何言ってるのよ!? あんた一人でなんて……」
彼女は魔道師だ。白兵戦は得意としない。だが、あの少年、槍術と符術を使い分けるという何とも器用な真似をしてくれる。現に、レンとアルティオ、シリアの三人を相手に互角に戦った相手なのだ。
そんな相手に、彼女一人では……!
彼女は小さく笑みを漏らす。それが、少しだけ自嘲めいて見えたのは、カノンの錯覚だったろうか?
「平気。大丈夫だから」
「……」
――ルナ……?
何か、考えでもあるのだろうか。ルナは言い切って、再度少年へ目を向ける。
少年とルナの、足が砂を掻く音が重なった。
「解っては、いると思いますが。勇気と無謀は全く別の言葉ですよ?」
「……自惚れてるのは、どっちかしらね」
「……」
彼は僅かに眉を潜ませる。彼女の自信が、理解できない。ふっ、と彼女は息を抜く。何を思ったか、嵌めていた右のグローブを剥ぎ取るように、脱いだ。
「ホントは最後の最後まで使わないつもりだったんだけどね……。けど、こんなところであんたごときに時間食ってる暇なんかないのよ」
少年の瞳がすっ、と細められる。何かを感じたのか、槍を構え直した。正眼の突きの構え。ルナは素手となった右手を頭の羽飾りに添える。
初動は、早かった。少年が、砂を蹴る。ルナが、何かのセンテンスを呟く。
カノンとレンは、反射的に構えた得物を繰り出そうとして、
「――リミットブレイク」
「ッ?!」
少年が、足を止めた。巻き上がった砂が、包帯と擦れて、耳障りな感触を残した。
目の前を、黒い羽が舞った気がした。
「これは……!」
「る、ルナ……ッ!?」
「な、何だ……ッ!?」
「……」
件の魔道師の足元に、黒く輝く魔方陣が敷かれている。舞い上がった黒い風。それが彼女の、短く切られた髪をばらばらに振り乱した。
禍々しい威圧感と、何より尋常ではなく強い風が、傍らのカノンとレンさえ近づけない領域を作り出す。兵士たちは理解を超えた、しかし肌で感じる威圧に、射すくめられる。その風の渦中で、彼女は目を見開いて少年を睨んだ。
彼女の髪を止める飾りの、一つだけ黒い羽に目を止めて、彼女の直前の所作で、その奔流の源がソレだということに気が付いて、少年は絶句する。
そこにいた全員を庇うようにして立つ少女の右手の甲に、べったりと。
抉ったような傷が、浮かんでいる。
普段なら目に付かないそれが、眼前に曝されている。正方形の形を素として、紋様と奇怪な文字とが刻まれた方陣。それは少女の足元にあるものと同じものだった。
少年は眉間に皺を寄せる。
「四角は死角。黒の羽は死の使いの印。死神の印は神と悪魔が、自らの力を分け与えるに足る人間に刻む目印」
「え……?」
「……」
ぼそり、と呟いた少年の言葉を、カノンは胸中で必死に噛み砕く。神と悪魔。つまりは、神魔族。
昨夜も彼女と話をしたように、神魔族には稀に人間に加担するような者も存在する。千、いや万に一人だとしても、過去、そんな人間は確かに存在した。
「……どこでそんなものを手にしたのかは知りませんが。所詮、人間には過ぎたもの。
貴方、死んでも、天国には行けませんよ?」
「……死んでから考えればいい話よ」
重い、返答。
少年は、無言だった。
轟ッ!!
黒い残影が、収束する。びりびりと、重圧がか細い肩にかかって、ずん、と彼女の足が砂に埋まった。四肢を砕かれそうな思い圧力に、悲鳴を飲み込んだ。
「く……ッ」
「ルナ……ッ!?」
カノンは迷う。もし、それがカノンの想像する通り、人に過ぎた力だとするのなら、下手に手出しなど出来ない。いや、どう手を出していいかも解らない。下手をすれば、巻き込まれてしまうだけだ。
その逡巡を振り切るように、ルナは黒い風を、両手に掲げた。
空間が、空間そのものが、ぐにゃりと歪む。
空気が、人の世界の風が、悲鳴を高らかに上げた。
「――我望む、我が加護の灯火となれ、堕天の誘い、月下の夜想、壊せエンジェリックハウルッ!!」
黒の奔流が、空を歪めながら、少年のいた空間を切り裂いた。
霧が晴れるように、空間が戻る。黒の残滓が、解けるように消えて、ルナは地面に膝と手をついた。
荒い息を吐いて、あの少年が、跡形もなく消し飛んだのを確認しようと顔を上げて。
絶句、した。
「……」
少年は、まだそこに佇んでいた。いや、彼女が絶句したのはそればかりが理由ではない。
カノンも、レンさえも、絶大な奔流に身体が竦んでいた。硬直が解けたら、真っ先にルナに、この得体の知れない力の正体を問いただすつもりだった。けれど、それよりも前に、目の前の少年にもう何度目になるか、言葉を失った。
『大丈夫ですか、主様』
「……ああ、ありがとう。直撃だったら、ちょっと危なかった」
くぐもった、どこから漏れているのかも解らない声に、少年は平然と答える。一歩、少年が僅かに動くと、かしゃり、と音が立った。
衣擦れではない。少年のあのゆったりとした黒衣では、そんな音が立つはずも無いのに。
カノンは息を飲む。隣でレンが、それ以上ないくらい顔を顰めていた。
眼前で、何が起こっているのか解らない。
「な、な、な……」
「……あんた…」
カノン以上に困惑し、呻き声を上げるレスターと。
彼やカノンたちとは、違い、少しだけ理解の色を見せるルナ。
少年の、包帯の合間から見える唇が笑みの形につり上がる。その肢体は、今は黒衣ではなく、別のものに包まれていた。
「な、何だ、ありゃあ……!」
ようやく、レスターの声が言葉となった。
陽光さえ通さない漆黒の輝き。無機質なその輝きが、彼の全身を包んでいる。禍々しい輝きなのに、形だけは忠誠を示す騎士の形状。
肩と胸は、簡素な、しかし鋭いフォルムをした胸甲冑[ブレスとプレート]に包まれて、腰から下は造りは細いが沈んだ黒の輝きが覆う。頭部には王の冠のように載せられた、黒い兜。
漆黒の、騎士鎧を纏い、対となる漆黒の槍を振りかざした、"ナニカ"が、そこにいた。
「……まさか」
「……」
漆黒の鎧の、騎士。その鎧は、人が纏った、魔力の塊。
それにあの声は。
う゛ん……ッ!
風が唸って、幻影が浮かぶ。少年の背に立つように、あの黒髪の少女の幻が、大気に浮き上がる。
ゆっくりと、その"モノ"が、瞳を開いた。
「な、何だ、あの化け物はッ!?」
ルナは思う。化け物。人間の観点からすれば、正解なのかもしれない。だが、ただのお化けの方が、何倍も可愛い。
だから呪う。最悪の想像を描いてしまい、それを認めざるを得ない我が身を呪う。
「まさか、あんた……!」
「そういえば……彼女の紹介は、まだでしたね……」
ありえない。ありえないのだ。彼らが、"彼女"が、ここにいるなど……!
だって、六千年、ありえなかった!
いや、ありえるとしても、この長い年月、存在しなかった!
「彼女の本名は、de Eltrushe Sheraiv gura deephir ……まあ、人間には少々発音が難しくてね。
かといって不本意に人間に命名された名も気に食わないそうだから。仕方ないから、僕はシャルと呼んでいるけれど。
君たちには、そちらの名の方が解りやすいだろう」
そんなことが、この局面で、そんなバカなことが……ッ!
あっていいはずが、ない!
「――彼女の名はシャライヴ。六千年前、この地に眠りに付いた、悲しい悪魔の成れの果て」
「滅法鬼神シャライヴが、彼女の本名だ」
伝説は、もう既に、実在していたのだ。
「鬼神、闘士……」
凍りついた空気を無理矢理割るように、ルナがそんな単語を口にする。
「おや、その呼び名を知っているとはね。そう、人間の世界では鬼神に見初められ、力を得た人間をそう揶揄する。
敬称なのか、蔑称なのか、微妙なところだけど。
ともかく、人外の力を持つ人間は君だけじゃない、ってことだよ」
「……」
ぎりッ――ルナは歯を噛み鳴らす。迂闊だった。エイロネイアが伝承の力を持っていたとしても、まさか、まさかあの伝説の鬼神を既に蘇らせているなんて。本物の悪魔を、味方としているなんて……!
考えなかったわけでない。現に、ルナが鬼神伝説を調べ上げたのは、伝説が本当なら、彼らの力を利用できないか考えたからだった。
けれど、半ば諦めていた。実在して、簡単に利用出来るものなら、この六千年の間に誰かが利用しているに決まっている。でもその目測が、こんなにもあっさりと……!
訳が分からず絶句するレスターと、この期に及んで表情を変えないライラと。
必死に眼の前の現実を認めようとしているカノン。レンは、表情は読めない。読めないが、心中で何かが葛藤しているのは明白だった。
「……あんたこそ、死んでも天国に行けないわよ」
くすり、と皇太子は笑う。
何をそんなことを、という当然のような表情で。
「元から、そんな場所に興味はないよ」
「!」
漆黒の槍が一閃する。ルナは構えを取り、黒の障壁を張る。が、少し遅かったらしい。
どぅんッ!!
「……ッ! く、ぅ……ッ」
「ルナ!?」
見えない衝撃波に、彼女の軽い身体が障壁ごと吹き飛んだ。そのまま背後の瓦礫に背中を強打する。
カノンの声に、呻きは漏らせたが、圧力で肺から空気が漏れてそれ以上答えられない。
冷静さを欠いた頭は、カノンとレンの意識を、眼の前の敵から攻撃を受けた味方へと向けさせてしまう。その隙に、少年は槍をもう一閃させた。
空間が、軋んだ音を立てた。
「!?」
カノンの視界に、奇妙な霧がかかる。いや、違う。霧などではない。
薄い膜のようなものが、何か障壁のようなものが彼女の身体を包んだのだ。それを理解した瞬間、カノンは、眼の前の不透明な障壁に銀の刃を叩き付けた。
が、
「! な、何、これ……ッ!?」
乾いた音すら立てず、障壁はいとも簡単にカノンの刃を受け止めた。はっ、と気が付いて霞んだ視界で周囲を見渡すと、レンと、それからかろうじて身を起こしたルナの周囲にも、同じような障壁が見えた。
音が、聞こえない。
大声のレスターが何かを喚いているが、それさえも聞こえない。
ゆっくりと、カノンの足元から黒い霧が立ち上る。それには、見覚えがあった。視線を上げると、当然のようにレンやルナの身体も、薄っすらと霧に覆われて――
「! レンッ、ルナッ!!」
解らない。解らない、解らない。あれは、あの少年は何をしようとしているのだ。カノンの身を、彼らをどうしようとしているのだ!?
殺すならこの場でやればいい。なら、これは何の真似だ!?
ちりん、と皮肉に、悲しく胸元で鈴が鳴る。
その音が聞こえたように、障壁に剣を叩きつけていたレンが、黒い霧の中で彼女を振り返った。ぎりり、と歯を食い縛り、無駄と解っていながら、障壁に剣を振るわせる。
力任せに障壁を叩き、叫ぶように、何かを口にする。
ああ、音なんか聞こえなくても解る。呼ばれているのに、あれは自分の名前なのに、呼ばれても、呼ばれても、声が届かない。
「レ、レン……ッ! レンッッッ!!」
叫んだはずなのに、自分の耳にさえ届かない。聞こえない。届かない。
誓ったのに。全力で、守るって誓ったのに! こんなところで、こんなところで、己の矮小さを思い知らされるなんて!
「れッ…………!?」
縋りつくようにして障壁を引っかいていたカノンの手が止まる。
がくり、と膝から力が抜けて、視界が靄のような黒い色に染まる。ゆっくりと、眠りに落ちる直前のように、意識が遠のいた。
――く……ッ、駄目、こんな、こん、な……ッ!
完全に、闇に飲まれるより前に。
「・・・!?」
「……」
黒の残像を纏う少年の、白い顔が、眼の前に浮かんだ。睫毛を伏せた、どこか憂いた顔をした。
その唇が、何かを紡ぐ。
白い手が、視界を塞いで、額に何か冷たい感触。
意識を失う直前、カノンは、そのかすかな声を確かに聞いた気がした。
「おやすみ。――ごめんね」
←6-01へ
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してた」
瓦礫から舞い戻って、やはり最初に降りかかったのは甲高い文句の声だった。耳に響くが、まったく正論なので何も言い返せない。
「ったく、しっかりしてよね。いざってときに頼りにならないじゃない」
「あー、まったくだなー。何でシェイリーン様と姐さんが、こんな奴らを選んだんだか不思議だぜ」
無遠慮極まりない声を上げたのは、ラーシャ=フィロ=ソルト配下のレスター=ライアント。建前上は、護衛隊の隊長である。
内部にも秘密裏とされたルナの単独行動だ。護衛も大層なものは、用意出来ない。それ故の抜擢だそうだが、カノンにしてみれば納得がいかないにも程がある。
何故、魔道の"ま"の字も理解していない奴が、隊長なんてものにのさばっているのか。
「大体、こんながらくたの山を調査して、本当にエイロネイアへの対抗手段になるのかよ」
予想通りの言動が返って来た。自分たちに反発心があるのは十分わかった。わかったから黙っていて欲しいものだ。
ルナが露骨な血管を額に浮かべる。心なしか、調査団の魔道師たちの顔色も芳しくはない。
カノンは陰鬱に首を振る。
「あのね、まあ、あたしも本職じゃないからでかいことは言えないけど……。
魔道歴史の調査、探索ってのは言葉ほど派手なものじゃないのよ。それこそ石一つ、紙切れ一つに太古の記録が残っていないか血眼になって探すしかないの。
本当は時間も手間もかかるシロモノなのよ。
それを、短期間で集中的にやろう、って言ってんだから、ここまでぎゅうぎゅうに彼らが資料集めしてんじゃない。
それともあんた、一欠片でも彼らの作業を手伝ったわけ?」
「ぐ……」
目の下に隈を作った魔道師たちがうんうんと頷く。一見、平気そうなルナも、さすがに濃い疲労の色はシリアに借りた薄化粧でも隠せていない。
歯がゆいのは解るのだ。
ラーシャも、デルタも。シェイリーンは勿論、あの冷静な顔を張り付けたティルスとて。
焦燥と、怒りに駆られているはず。激的な変化が欲しいのだ。戦況を今すぐにでも覆せるような。
けれど彼らは人間だ。そんな変化を生み出せるのは、いるとしたら、神なのか、悪魔なのか。
ルナは溜め息を吐き出す。説明したところで理解は得られないことを悟って。
感情論は嫌いではない。感情があるからこそ、人は機能する。だが、それと戦略的な行動はまったく別。
「……焦るのは解らなくもないけど。
焦ったところで人間は、目の前の出来ることをやるしかないの。……出来ることが何なのかさえ解らないこともある。解るきっかけがあっても、気づけないことだってある。
それに比べたら、たとえ低い可能性であっても、出来ることがある今は、まだいい方よ……」
「……ッ」
沈痛なカノンの表情に、さしものレスターも何かを悟ったのか、それきり悪態を吐こうとはしなかった。
ルナは無言で知らぬ振りを通し、レンは先ほどから何も言わずに柱にもたれたままだった。ふい、と視線を逸らして、指示を待っている魔道師たちにきびきびと言葉を発し始める。
カノンは剥れながらも静かになったレスターを見やり、そちらの方に駆け寄った。
それに気が付いたルナは、一人の魔道師に資料を押し付けると、こちらを向く。
「どう?」
「……駄目ね。完全に倒壊してて。大幅な瓦礫の撤去作業が必要よ。
上手くすれば中に入り込めるかもしれないけど、あまりに危険すぎるわ。止めて置いた方が無難ね」
「……そう」
「ま、別に調査対象はここだけじゃないし。最終的には、護法鬼神の巣・神羅[ディーダ]にまで行ってみるつもりだから。
鬼神と会えるなんて思ってないけど、ここの魔道師に聞いたら結構古い祭壇が残ってる、って話だから。見てみて損はないかな、って感じよ。護衛の人たちには面倒をかけるけどね」
最後の言葉は、やや皮肉めいたものがあった。ちらりと視線を向けられたレスターは、罰が悪いのか、知らぬ振りを貫いた。
「……解った。次は?」
「ここからもうちょい南西なんだけど。古代ヘルヴェキア時代のお墓が残ってるらしいのね。お墓、って言っても結構な偉人のお墓だから、ちょっとした神殿的な造りになってるらしいんだけど。
今日はそこを見て終わりかな。近くにまた砦があるらしいから一泊させてもらいましょ」
「ん、了解」
ばさり、と彼女が広げた地図を確認する。
先導役がルナと魔道師たちであっても、経路を頭に入れておく必要がある。いざというときに、分散しても、経路さえ解っていれば合流は可能だ。
がらがらと音がして瓦礫の一部が小さく崩れる。
今までずっと上にいたライラが戻って来たのだった。弓矢を担ぎながら軽快に降りて、すとん、と着地する。
何気なく視線を送っていると、彼女は唐突に宙を見た。そのままじっと空を見る。
「ライラ、さん?」
微動だにしない彼女に、カノンは声をかける。半ば、反応がないのを覚悟していたが、視線が動いた。じっ、とカノンの顔を覗き込み、くい、と上を指差す。
「上、って……」
カノンが碧い瞳を瓦礫の上へと向ける。
はらり……
灰色の青さと、霞んだ白が支配する空に。ひらりと、風に吹かれる一枚の、
「――ッ! 伏せてッ!!」
言うが早いか、カノンは隣にいたルナの肩を引き摺り倒す。その刹那、
どぉぉぉぉおぉぉんッ!!
――く、ぅ……ッ!?
固く閉じた瞼の向こうで、閃光が炸裂する。ちりちりとした痛みが目の上に走る。
それと共に、伏せた身体に感じたのは熱量を伴う乱暴な風。目を腕で庇いながらも、カノンは目を開く。
あの舞い降りた白い紙――符の持ち主が、カノンの知り得る人物だとしたら、間違いなく、この隙に――来る!
目を開くと同時に背中の剣鎌[カリオソード]を引き抜いた。
瞬間に、目の前で踊る、黒の残像。
「――ッ!!」
ぎぎぃんッ!!
咄嗟に振るった刃は、何かと衝突して鈍い音を立てた。
上げた、まだ少しだけ霞む視界に、黒の人形と哂う秀麗な少年の顔。その顔は不自然に割れていた。少年が手にしたあの真っ黒な槍が、眼前に突きつけられていて、その刃をかろうじて剣鎌[カリオソード]が食い止めていた。
「我望む、放つは火神に祝福されし紅弾、出でよフレイ・フレイア!」
「!」
カノンの足元から上半身を起き上がらせたルナが、突き上げた掌に赤い光を収束させる。ごうっ、と音を立てて燃え上がったそれが、自らの身体を貫く前に、少年は振りかぶっていた槍を引いた。
光弾はあさっての方角に飛び、瓦礫に衝突するより先に、小さく消える。
少年は引き様に後方へ重い蹴りを放つ。それは側にあった瓦礫の欠片を弾いただけだ。だが、その欠片は背後から剣を抜いていたレンの眼前に飛び、彼がそれを振り払ったときにはもう、少年は大剣の間合いの外に逃れていた。
……相変わらず、無茶苦茶な。
槍先が風を叩く。爆炎が晴れて、瓦礫の山を背にしたカノンたちと対峙するように、とん、と少年は地面に降り立った。
このときになって、ようやくレスターたちは身を起こして、少年の姿に眉間に皺を寄せた。
ルナが動作で呪を唱えようとしていた魔道師たちを下がらせる。普通の相手ならともかく、分が悪すぎる。
何てことだ。まさか直球で来るなんて……!
「なん……だ、お前……」
「……」
掠れたレスターの声に、彼はふ、と嘲るような微笑で答える。
レスターとて、先日のカノンたちの話を聞いていなかったはずはない。カノンたちの話の中に出て来た『皇太子を名乗る黒衣の少年』の話も、記憶に新しい。
けれど。
予測など出来ない。
出来るはずがない。
こんな、非公式的なお忍びの調査に、襲撃はあったとしても、それと酷似した外見の『現物』が目の前に出てくるなんて……!
勿論、カノンたちだって思っていなかった。
国境があるといえ、境目でいちいち目くじらを立てて検査してるわけじゃない。だから、敵国の間者が味方国に入る込むことはそう難しいことじゃない。
ましてや、こんな瓦礫の山以外には、何の変哲もない場所に。
けれど、けれど、そんな場所に、自ら敵軍の大将を名乗った人間がいるなど。
そんな馬鹿なことが――
「――馬鹿なこととお思いですか?」
「ッ!?」
レスターの思考を読んだように、かの皇太子はくすりと嘲笑[わら]う。ぎりぎりと、噛み締めたレスターの歯軋りが、口内に響く。
「……はったりだ! 本物が、こんな場所に来るわけねぇ! こいつの方が偽物だ、うろたえるな!」
レスターが吼える。その虚勢は、先日のカノンたちの話を聞いていて、目の前の少年の姿に竦んでいた兵士たちをほんの少しだけ奮い立たせた。
だが、反してカノンたちは険しい顔で剣を構えたままだった。
カノンたちにとっては、彼が本物だろうが偽者だろうが、差たる問題ではなかった。本物でも、偽者でも、彼が西大陸であれだけのことをやってくれた張本人であり、敵の要人なのだという事実に変わりはない。
少年は震えを堪えた兵士たちを眺めながら、陰鬱な、ひどくつまらなさそうな息を吐く。
「どう思われようと構いませんが――
重要なのは、本物か偽者か、ではなく、貴方方が敵うかどうかだと思いますがね」
「てっめぇ……!」
ちゃき、と柄を鳴らすレスターの手を、一歩前に出たルナが止める。そのまま飄々とした顔の彼を睨みながら、
「……なんで、ここに」
「……内部に密偵を放っているのは、何もシンシアだけではありませんよ。
それに、こちらには貴方も良く知る通り、その道のプロがいますからね。シンシア領のめぼしい遺跡や曰くつきの場所を割り出すのはそう難しいことじゃあありません」
「なるほど。ばれるのは覚悟していたし、妨害もあると思ってたけど。まさか、天下の皇太子直々にお出ましとは思わなかった。
けど、あんたみたいなのが直接来る、ってことはあたしたちの作戦の方向はあながち間違っていなかった、ってことね」
「さて、自惚れは感心しませんよ。第一、ここで生き残れなければ語っても仕方のないことでしょう?」
少年の手にした漆黒の槍が、澄んだ音を立てる。ルナは無言でそれを見据えた。
後方からカノンとレンが、彼女の隣に並ぶ。けれど、彼女はそれを片手で制した。
「……? ルナ……?」
「カノン、レン。それからあんたたちも。下がってて」
「ちょっと、何言ってるのよ!? あんた一人でなんて……」
彼女は魔道師だ。白兵戦は得意としない。だが、あの少年、槍術と符術を使い分けるという何とも器用な真似をしてくれる。現に、レンとアルティオ、シリアの三人を相手に互角に戦った相手なのだ。
そんな相手に、彼女一人では……!
彼女は小さく笑みを漏らす。それが、少しだけ自嘲めいて見えたのは、カノンの錯覚だったろうか?
「平気。大丈夫だから」
「……」
――ルナ……?
何か、考えでもあるのだろうか。ルナは言い切って、再度少年へ目を向ける。
少年とルナの、足が砂を掻く音が重なった。
「解っては、いると思いますが。勇気と無謀は全く別の言葉ですよ?」
「……自惚れてるのは、どっちかしらね」
「……」
彼は僅かに眉を潜ませる。彼女の自信が、理解できない。ふっ、と彼女は息を抜く。何を思ったか、嵌めていた右のグローブを剥ぎ取るように、脱いだ。
「ホントは最後の最後まで使わないつもりだったんだけどね……。けど、こんなところであんたごときに時間食ってる暇なんかないのよ」
少年の瞳がすっ、と細められる。何かを感じたのか、槍を構え直した。正眼の突きの構え。ルナは素手となった右手を頭の羽飾りに添える。
初動は、早かった。少年が、砂を蹴る。ルナが、何かのセンテンスを呟く。
カノンとレンは、反射的に構えた得物を繰り出そうとして、
「――リミットブレイク」
「ッ?!」
少年が、足を止めた。巻き上がった砂が、包帯と擦れて、耳障りな感触を残した。
目の前を、黒い羽が舞った気がした。
「これは……!」
「る、ルナ……ッ!?」
「な、何だ……ッ!?」
「……」
件の魔道師の足元に、黒く輝く魔方陣が敷かれている。舞い上がった黒い風。それが彼女の、短く切られた髪をばらばらに振り乱した。
禍々しい威圧感と、何より尋常ではなく強い風が、傍らのカノンとレンさえ近づけない領域を作り出す。兵士たちは理解を超えた、しかし肌で感じる威圧に、射すくめられる。その風の渦中で、彼女は目を見開いて少年を睨んだ。
彼女の髪を止める飾りの、一つだけ黒い羽に目を止めて、彼女の直前の所作で、その奔流の源がソレだということに気が付いて、少年は絶句する。
そこにいた全員を庇うようにして立つ少女の右手の甲に、べったりと。
抉ったような傷が、浮かんでいる。
普段なら目に付かないそれが、眼前に曝されている。正方形の形を素として、紋様と奇怪な文字とが刻まれた方陣。それは少女の足元にあるものと同じものだった。
少年は眉間に皺を寄せる。
「四角は死角。黒の羽は死の使いの印。死神の印は神と悪魔が、自らの力を分け与えるに足る人間に刻む目印」
「え……?」
「……」
ぼそり、と呟いた少年の言葉を、カノンは胸中で必死に噛み砕く。神と悪魔。つまりは、神魔族。
昨夜も彼女と話をしたように、神魔族には稀に人間に加担するような者も存在する。千、いや万に一人だとしても、過去、そんな人間は確かに存在した。
「……どこでそんなものを手にしたのかは知りませんが。所詮、人間には過ぎたもの。
貴方、死んでも、天国には行けませんよ?」
「……死んでから考えればいい話よ」
重い、返答。
少年は、無言だった。
轟ッ!!
黒い残影が、収束する。びりびりと、重圧がか細い肩にかかって、ずん、と彼女の足が砂に埋まった。四肢を砕かれそうな思い圧力に、悲鳴を飲み込んだ。
「く……ッ」
「ルナ……ッ!?」
カノンは迷う。もし、それがカノンの想像する通り、人に過ぎた力だとするのなら、下手に手出しなど出来ない。いや、どう手を出していいかも解らない。下手をすれば、巻き込まれてしまうだけだ。
その逡巡を振り切るように、ルナは黒い風を、両手に掲げた。
空間が、空間そのものが、ぐにゃりと歪む。
空気が、人の世界の風が、悲鳴を高らかに上げた。
「――我望む、我が加護の灯火となれ、堕天の誘い、月下の夜想、壊せエンジェリックハウルッ!!」
黒の奔流が、空を歪めながら、少年のいた空間を切り裂いた。
霧が晴れるように、空間が戻る。黒の残滓が、解けるように消えて、ルナは地面に膝と手をついた。
荒い息を吐いて、あの少年が、跡形もなく消し飛んだのを確認しようと顔を上げて。
絶句、した。
「……」
少年は、まだそこに佇んでいた。いや、彼女が絶句したのはそればかりが理由ではない。
カノンも、レンさえも、絶大な奔流に身体が竦んでいた。硬直が解けたら、真っ先にルナに、この得体の知れない力の正体を問いただすつもりだった。けれど、それよりも前に、目の前の少年にもう何度目になるか、言葉を失った。
『大丈夫ですか、主様』
「……ああ、ありがとう。直撃だったら、ちょっと危なかった」
くぐもった、どこから漏れているのかも解らない声に、少年は平然と答える。一歩、少年が僅かに動くと、かしゃり、と音が立った。
衣擦れではない。少年のあのゆったりとした黒衣では、そんな音が立つはずも無いのに。
カノンは息を飲む。隣でレンが、それ以上ないくらい顔を顰めていた。
眼前で、何が起こっているのか解らない。
「な、な、な……」
「……あんた…」
カノン以上に困惑し、呻き声を上げるレスターと。
彼やカノンたちとは、違い、少しだけ理解の色を見せるルナ。
少年の、包帯の合間から見える唇が笑みの形につり上がる。その肢体は、今は黒衣ではなく、別のものに包まれていた。
「な、何だ、ありゃあ……!」
ようやく、レスターの声が言葉となった。
陽光さえ通さない漆黒の輝き。無機質なその輝きが、彼の全身を包んでいる。禍々しい輝きなのに、形だけは忠誠を示す騎士の形状。
肩と胸は、簡素な、しかし鋭いフォルムをした胸甲冑[ブレスとプレート]に包まれて、腰から下は造りは細いが沈んだ黒の輝きが覆う。頭部には王の冠のように載せられた、黒い兜。
漆黒の、騎士鎧を纏い、対となる漆黒の槍を振りかざした、"ナニカ"が、そこにいた。
「……まさか」
「……」
漆黒の鎧の、騎士。その鎧は、人が纏った、魔力の塊。
それにあの声は。
う゛ん……ッ!
風が唸って、幻影が浮かぶ。少年の背に立つように、あの黒髪の少女の幻が、大気に浮き上がる。
ゆっくりと、その"モノ"が、瞳を開いた。
「な、何だ、あの化け物はッ!?」
ルナは思う。化け物。人間の観点からすれば、正解なのかもしれない。だが、ただのお化けの方が、何倍も可愛い。
だから呪う。最悪の想像を描いてしまい、それを認めざるを得ない我が身を呪う。
「まさか、あんた……!」
「そういえば……彼女の紹介は、まだでしたね……」
ありえない。ありえないのだ。彼らが、"彼女"が、ここにいるなど……!
だって、六千年、ありえなかった!
いや、ありえるとしても、この長い年月、存在しなかった!
「彼女の本名は、de Eltrushe Sheraiv gura deephir ……まあ、人間には少々発音が難しくてね。
かといって不本意に人間に命名された名も気に食わないそうだから。仕方ないから、僕はシャルと呼んでいるけれど。
君たちには、そちらの名の方が解りやすいだろう」
そんなことが、この局面で、そんなバカなことが……ッ!
あっていいはずが、ない!
「――彼女の名はシャライヴ。六千年前、この地に眠りに付いた、悲しい悪魔の成れの果て」
「滅法鬼神シャライヴが、彼女の本名だ」
伝説は、もう既に、実在していたのだ。
「鬼神、闘士……」
凍りついた空気を無理矢理割るように、ルナがそんな単語を口にする。
「おや、その呼び名を知っているとはね。そう、人間の世界では鬼神に見初められ、力を得た人間をそう揶揄する。
敬称なのか、蔑称なのか、微妙なところだけど。
ともかく、人外の力を持つ人間は君だけじゃない、ってことだよ」
「……」
ぎりッ――ルナは歯を噛み鳴らす。迂闊だった。エイロネイアが伝承の力を持っていたとしても、まさか、まさかあの伝説の鬼神を既に蘇らせているなんて。本物の悪魔を、味方としているなんて……!
考えなかったわけでない。現に、ルナが鬼神伝説を調べ上げたのは、伝説が本当なら、彼らの力を利用できないか考えたからだった。
けれど、半ば諦めていた。実在して、簡単に利用出来るものなら、この六千年の間に誰かが利用しているに決まっている。でもその目測が、こんなにもあっさりと……!
訳が分からず絶句するレスターと、この期に及んで表情を変えないライラと。
必死に眼の前の現実を認めようとしているカノン。レンは、表情は読めない。読めないが、心中で何かが葛藤しているのは明白だった。
「……あんたこそ、死んでも天国に行けないわよ」
くすり、と皇太子は笑う。
何をそんなことを、という当然のような表情で。
「元から、そんな場所に興味はないよ」
「!」
漆黒の槍が一閃する。ルナは構えを取り、黒の障壁を張る。が、少し遅かったらしい。
どぅんッ!!
「……ッ! く、ぅ……ッ」
「ルナ!?」
見えない衝撃波に、彼女の軽い身体が障壁ごと吹き飛んだ。そのまま背後の瓦礫に背中を強打する。
カノンの声に、呻きは漏らせたが、圧力で肺から空気が漏れてそれ以上答えられない。
冷静さを欠いた頭は、カノンとレンの意識を、眼の前の敵から攻撃を受けた味方へと向けさせてしまう。その隙に、少年は槍をもう一閃させた。
空間が、軋んだ音を立てた。
「!?」
カノンの視界に、奇妙な霧がかかる。いや、違う。霧などではない。
薄い膜のようなものが、何か障壁のようなものが彼女の身体を包んだのだ。それを理解した瞬間、カノンは、眼の前の不透明な障壁に銀の刃を叩き付けた。
が、
「! な、何、これ……ッ!?」
乾いた音すら立てず、障壁はいとも簡単にカノンの刃を受け止めた。はっ、と気が付いて霞んだ視界で周囲を見渡すと、レンと、それからかろうじて身を起こしたルナの周囲にも、同じような障壁が見えた。
音が、聞こえない。
大声のレスターが何かを喚いているが、それさえも聞こえない。
ゆっくりと、カノンの足元から黒い霧が立ち上る。それには、見覚えがあった。視線を上げると、当然のようにレンやルナの身体も、薄っすらと霧に覆われて――
「! レンッ、ルナッ!!」
解らない。解らない、解らない。あれは、あの少年は何をしようとしているのだ。カノンの身を、彼らをどうしようとしているのだ!?
殺すならこの場でやればいい。なら、これは何の真似だ!?
ちりん、と皮肉に、悲しく胸元で鈴が鳴る。
その音が聞こえたように、障壁に剣を叩きつけていたレンが、黒い霧の中で彼女を振り返った。ぎりり、と歯を食い縛り、無駄と解っていながら、障壁に剣を振るわせる。
力任せに障壁を叩き、叫ぶように、何かを口にする。
ああ、音なんか聞こえなくても解る。呼ばれているのに、あれは自分の名前なのに、呼ばれても、呼ばれても、声が届かない。
「レ、レン……ッ! レンッッッ!!」
叫んだはずなのに、自分の耳にさえ届かない。聞こえない。届かない。
誓ったのに。全力で、守るって誓ったのに! こんなところで、こんなところで、己の矮小さを思い知らされるなんて!
「れッ…………!?」
縋りつくようにして障壁を引っかいていたカノンの手が止まる。
がくり、と膝から力が抜けて、視界が靄のような黒い色に染まる。ゆっくりと、眠りに落ちる直前のように、意識が遠のいた。
――く……ッ、駄目、こんな、こん、な……ッ!
完全に、闇に飲まれるより前に。
「・・・!?」
「……」
黒の残像を纏う少年の、白い顔が、眼の前に浮かんだ。睫毛を伏せた、どこか憂いた顔をした。
その唇が、何かを紡ぐ。
白い手が、視界を塞いで、額に何か冷たい感触。
意識を失う直前、カノンは、そのかすかな声を確かに聞いた気がした。
「おやすみ。――ごめんね」
←6-01へ
「よーしゃ! おーい、そこの者どもーッ! ここはもう撤収ーッ!!
次、行くわよーッ!!」
ゼルゼイルという土地は、曇り空が多いのだろうか。
青空は見えているものの、白い雲がやたらと多くて、太陽光を遮っている。日射病になる心配はないだろうが、ここは比較的南に位置する国のはずじゃなかったっけ……?
無為にそんなことを考えながら、カノンは瓦礫の上で声を張り上げるルナを見上げた。
――者ども、て……。
今朝方、バラック・ソルディーアを出立したばかり。既に砦に集まっていた魔道師を数人と、護衛役としてシンシアの兵士が三人あまり。
ルナはやはり魔道師としてはかなり優秀な方なのだろう。彼らとは出会って数日、いや一日と少ししか経っていないはずなのに、瓦礫の向こうであれこれ見回っていた魔道師たちは素直にひょこひょこと戻ってくる。そして、羊皮紙の束を振りかざしているルナの指示を真剣に待っているのだ。
それはひとえに、彼らがルナの才能を認め、指示に従うのを良としている証だった。
対して、護衛の兵士の一人は先ほどから欠伸を噛み殺している。
無理もない。知識も興味の片鱗さえないものにとっては、この荒廃した瓦礫の山は、ただのゴミの山くらいにしか映らないのだから。
ふぅ、と息を吐いて、カノンは固まって何事かを相談する魔道師たちをちらりと見てから、瓦礫の山に登った。側の石柱に背中を預けていたレンが、ちらりとこちらを見てくるが、咎められたりはしなかった。
元は何かの神殿か、教会か何かだったのだろうか。風化しかけたステンドグラスが、瓦礫の狭間に悲しく砕けている。
積み上がった瓦礫は人の背を軽く越えていて、その上からは広がる平地と周囲を取り囲む林が点々と見えた。土地の大きさは、大体大きな町の礼拝堂くらいだろう。肌に冷たい風が、流れていった。
魔道師陣の方からは、教典がどうのこうのという会話が聞こえてくる。と、いうことはやはり何かの宗教施設であったのだろう。
破壊の爪痕がそれほど古くない、ということは、十年、二十年前の抗争か何かに巻き込まれたのだろうか。
ふぅ、と息を吐くと、今朝の出立を思い出す。
やはりというか何と言うか。シリアもアルティオは、最後の最後まで自分たちも付いて来ると言い張った。いつものわがままというよりは、知らない土地で二手に分かれるのが心配で仕方がない、という感じだった。
その思いは、カノンも、たぶんレンやルナも同じだったはずだ。
けれど、今はそれぞれ、各々に役割がある。ルナにはルナにしか出来ないことが、カノンたちには、カノンたちが最適と思われる役割を与えられている。
それを解っているから、しぶしぶとだが、最終的には二人とも頷いてくれた。
不安ではあるが、あれで二人とも一流以上の剣士と魔道師だ。きっと上手くやってくれるだろう……。
そう自己完結して。
背中に、一つ、気配が生まれる。
「――ッ! ……あ、ああ……なんだ、あんたか……」
「……」
心臓に悪い。
眼前に、微動だにしない紫の瞳があった。瞬きもしないのだろうか、こいつは、と思っていると、ちょうどぱちくりと可愛らしい瞼が動く。
涼しい風に、薄桃色の髪が攫われる。
無言無口。会ったときから一言も彼女の声を聞いていない。ヴァレスが特別に派遣する、と言って付いて来た将校のライラ=バートンだ。
「えーと、な、何……?」
「……」
「カーノーンッ! 聞こえてんでしょ、こらぁッ!!」
彼女が無言で下を指差すのと、喚き声が上がるのは同時だった。余程ぼーっとしていたらしい。声を発した当人が、随分と肩を怒らせている。
「ごめん! ありがとッ!」
「……」
一言だけ礼を言って、カノンは慌てて瓦礫を降りる。彼女はそれに続こうとすらせずに、やはり終始無言のままだった。
そのカノンの背を見送って、ライラは明後日の方向に目をやる。
けれど、それが何を見ていたのか、悟れる者は、いなかった。
かさり、と歩く度に乾いた土が音を立てる。ゼルゼイルの土、というのはこんなにも痩せていたものだったろうか。
どこか埃っぽい空気が漂う。西大陸の空気は、こんな味がしただろうか……?
「主様?」
「……ああ、ごめん。何でもないよ」
主に代わって、重たそうな剣を包んだ布を抱えながら、シャルは不安げな声を上げる。無難な答えを返しながら、もう一度眼下を見下ろした。
僅かな日光に煌いた、金の髪が、目に、痛い。
「……彼には左腕の代わりに、千里眼でもついてるのかなぁ」
「それはないです。人間ごときに、そんなものはついているわけがないのです。シャルだってそんなこと出来ないのです」
「ははは、ごめん。シャルをけなしたわけじゃないよ。単なる例え話だ」
そんなつもりで言ったのではないのだが。
何とも的外れな解答をしてくれる少女が可笑しくて、つい、笑ってしまった。それに反して、シャル、と呼ばれる少女の顔は晴れない。
「主様。本当にお一人で良いんですか?」
「まあ、ね。これくらいなら、たぶん。それにシャルがいるからね、一人ではないよ。いざというときは存分に頼れる」
「……はいです。主様は、シャルが、絶対にお守りします」
妙に気合を入れて、肩に力を入れる傍らの少女の仕草が、つい可愛らしく、可笑しくて頭をぽんぽんと叩いてしまう。
彼女には、その意味がよく解っていないらしい。あどけない顔をこくん、と傾げただけだった。
今度は、それには構おうとせず、少年は眼下に広がる瓦礫の山を見る。……正確には、その場所に、群がる彼の贄たちを。
「そろそろ行こうか。シャル」
その声に、彼女は答える。無機質な、義務めいた、声色で。
「――yes,MyLord」
←5へ
次、行くわよーッ!!」
ゼルゼイルという土地は、曇り空が多いのだろうか。
青空は見えているものの、白い雲がやたらと多くて、太陽光を遮っている。日射病になる心配はないだろうが、ここは比較的南に位置する国のはずじゃなかったっけ……?
無為にそんなことを考えながら、カノンは瓦礫の上で声を張り上げるルナを見上げた。
――者ども、て……。
今朝方、バラック・ソルディーアを出立したばかり。既に砦に集まっていた魔道師を数人と、護衛役としてシンシアの兵士が三人あまり。
ルナはやはり魔道師としてはかなり優秀な方なのだろう。彼らとは出会って数日、いや一日と少ししか経っていないはずなのに、瓦礫の向こうであれこれ見回っていた魔道師たちは素直にひょこひょこと戻ってくる。そして、羊皮紙の束を振りかざしているルナの指示を真剣に待っているのだ。
それはひとえに、彼らがルナの才能を認め、指示に従うのを良としている証だった。
対して、護衛の兵士の一人は先ほどから欠伸を噛み殺している。
無理もない。知識も興味の片鱗さえないものにとっては、この荒廃した瓦礫の山は、ただのゴミの山くらいにしか映らないのだから。
ふぅ、と息を吐いて、カノンは固まって何事かを相談する魔道師たちをちらりと見てから、瓦礫の山に登った。側の石柱に背中を預けていたレンが、ちらりとこちらを見てくるが、咎められたりはしなかった。
元は何かの神殿か、教会か何かだったのだろうか。風化しかけたステンドグラスが、瓦礫の狭間に悲しく砕けている。
積み上がった瓦礫は人の背を軽く越えていて、その上からは広がる平地と周囲を取り囲む林が点々と見えた。土地の大きさは、大体大きな町の礼拝堂くらいだろう。肌に冷たい風が、流れていった。
魔道師陣の方からは、教典がどうのこうのという会話が聞こえてくる。と、いうことはやはり何かの宗教施設であったのだろう。
破壊の爪痕がそれほど古くない、ということは、十年、二十年前の抗争か何かに巻き込まれたのだろうか。
ふぅ、と息を吐くと、今朝の出立を思い出す。
やはりというか何と言うか。シリアもアルティオは、最後の最後まで自分たちも付いて来ると言い張った。いつものわがままというよりは、知らない土地で二手に分かれるのが心配で仕方がない、という感じだった。
その思いは、カノンも、たぶんレンやルナも同じだったはずだ。
けれど、今はそれぞれ、各々に役割がある。ルナにはルナにしか出来ないことが、カノンたちには、カノンたちが最適と思われる役割を与えられている。
それを解っているから、しぶしぶとだが、最終的には二人とも頷いてくれた。
不安ではあるが、あれで二人とも一流以上の剣士と魔道師だ。きっと上手くやってくれるだろう……。
そう自己完結して。
背中に、一つ、気配が生まれる。
「――ッ! ……あ、ああ……なんだ、あんたか……」
「……」
心臓に悪い。
眼前に、微動だにしない紫の瞳があった。瞬きもしないのだろうか、こいつは、と思っていると、ちょうどぱちくりと可愛らしい瞼が動く。
涼しい風に、薄桃色の髪が攫われる。
無言無口。会ったときから一言も彼女の声を聞いていない。ヴァレスが特別に派遣する、と言って付いて来た将校のライラ=バートンだ。
「えーと、な、何……?」
「……」
「カーノーンッ! 聞こえてんでしょ、こらぁッ!!」
彼女が無言で下を指差すのと、喚き声が上がるのは同時だった。余程ぼーっとしていたらしい。声を発した当人が、随分と肩を怒らせている。
「ごめん! ありがとッ!」
「……」
一言だけ礼を言って、カノンは慌てて瓦礫を降りる。彼女はそれに続こうとすらせずに、やはり終始無言のままだった。
そのカノンの背を見送って、ライラは明後日の方向に目をやる。
けれど、それが何を見ていたのか、悟れる者は、いなかった。
かさり、と歩く度に乾いた土が音を立てる。ゼルゼイルの土、というのはこんなにも痩せていたものだったろうか。
どこか埃っぽい空気が漂う。西大陸の空気は、こんな味がしただろうか……?
「主様?」
「……ああ、ごめん。何でもないよ」
主に代わって、重たそうな剣を包んだ布を抱えながら、シャルは不安げな声を上げる。無難な答えを返しながら、もう一度眼下を見下ろした。
僅かな日光に煌いた、金の髪が、目に、痛い。
「……彼には左腕の代わりに、千里眼でもついてるのかなぁ」
「それはないです。人間ごときに、そんなものはついているわけがないのです。シャルだってそんなこと出来ないのです」
「ははは、ごめん。シャルをけなしたわけじゃないよ。単なる例え話だ」
そんなつもりで言ったのではないのだが。
何とも的外れな解答をしてくれる少女が可笑しくて、つい、笑ってしまった。それに反して、シャル、と呼ばれる少女の顔は晴れない。
「主様。本当にお一人で良いんですか?」
「まあ、ね。これくらいなら、たぶん。それにシャルがいるからね、一人ではないよ。いざというときは存分に頼れる」
「……はいです。主様は、シャルが、絶対にお守りします」
妙に気合を入れて、肩に力を入れる傍らの少女の仕草が、つい可愛らしく、可笑しくて頭をぽんぽんと叩いてしまう。
彼女には、その意味がよく解っていないらしい。あどけない顔をこくん、と傾げただけだった。
今度は、それには構おうとせず、少年は眼下に広がる瓦礫の山を見る。……正確には、その場所に、群がる彼の贄たちを。
「そろそろ行こうか。シャル」
その声に、彼女は答える。無機質な、義務めいた、声色で。
「――yes,MyLord」
←5へ
「ルナー? 入るわよー?」
ノックをしながら呼びかけると、間延びした返事が返って来た。軽食の乗ったトレイを片手に持ち替えて、ノブを回す。
砦の扉というものは、どこもかしこも重いもので、カノンはトレイが通るほどドアを開け放つのに体重をかけなくてはならなかった。
入ると同時に鼻先を掠めるのは、湿った石煉瓦と、紙と墨の匂い。
背丈ほどにも積み上がった蔵書の山に、カノンは一瞬、彼女の姿を見失った。何せ、部屋の中にあるはずのデスクが本と投げ出された羊皮紙の山で霞んで見えるのだ。
とりあえず、速攻で集められるだけの魔道関連、歴史関連の書を集めてくれとルナが言い出したのが昨日。ティルスが手配したのは、最も近い町に位置する図書館だった。
それこそ秘蔵室や禁書架の中まであさり、とりあえずはこれだけ。『とりあえず、これだけ』の量がこれだ。全体量は一体どれほどのものか。
さすが、精霊都市と揶揄される魔道都市ルーアンシェイルと並ぶほど、伝承の多い土地ゼルゼイル。
立て付けのあまり良くない椅子に腰掛けて、振り返ることなく机に向かう幼馴染の姿を見つけて、山を倒さないように気を使いながらデスクへ辿り着く。
「ほい、食事。軽いやつだけど」
「ん、さんきゅー」
羽ペンをインク壺に浸しながら、彼女は軽い返事をした。
ちょうど、きりが良かったのだろうか、疲れた溜め息を盛大に吐き出すと背もたれにもたれて、大きく伸びをする。
「……別に、あたしも手伝えるわよ? 魔道文字とか古代文字なんて、狩人時代に死ぬほど覚えたし」
「気持ちだけで結構。あんたとレンには、十分なコンディションで護衛を頼みたいんだから、こんなデスクワークで体力を使うなんて馬鹿な真似はしないように」
「……ったく」
強情な、と呟いて、カノンは備え付けのベッドに腰掛ける。当然、そこにも紙の束が転がっていたので、避けて座る。
ルナはトレイの上のサンドイッチに手を伸ばし、口に加えると、もう片方の手で机の隅に放っていた蔵書を引き寄せる。
「あたしが言えたことじゃないけど、あんまり無理すんじゃないわよ」
「その言葉をそのままそっくり返すわよ。客将の筆頭だからって、軍人じゃないんだから、あんたは頑張る必要ないんだからね」
「そういうことじゃないでしょ!?」
つい、声が荒くなる。一瞬、驚いた彼女がサンドイッチを取り落としかけた。
大きな猫目に、まじまじと見つめられて、やっと我に返る。
「あ、う……ごめん」
「……まあ、いいけどさ」
ルナは無言でサンドイッチを半分だけかじると、トレイに戻した。同じトレイに乗っていた湯気の立つマグカップを手に取った。
「……あの、さ」
「何?」
「聞いちゃいけないのかもしれないけど……。
その、大陸の魔道師って、普通、あんまりゼルゼイルの伝承になんか詳しくないじゃない……。
何で、ちょっとなのかもしれないけど、知ってたの……?」
「……」
おそるおそる。
返答を求めているのに、その返答を聞きたくないような表情で、カノンは口にした。
するり、とルナの顔から表情が抜ける。その真顔に、カノンは慌てて訂正を口にしようとするが、彼女はそれよりも前に苦い笑みを作った。
「たぶん、あんたの想像通りだと思うけど?
……月の館で研究、いや、研究とは言えないわね。研究の内容を聞かされたから、かな」
「そ、そっか。やっぱり、『月の館』で……」
「まあ、でも『月の館』だって馬鹿じゃないわ。ゼルゼイルに纏わる直接的な研究なんかやってなかった。むしろ、ゼルゼイルに関係する研究はすべからく、伏せられていたと言っても過言じゃないわ」
「へ……? じゃあ、何で……?」
ルナは曖昧に声を漏らす。言うべきか言わないべきか迷ってる、というよりは、口にするのが些か億劫に感じているように見えた。
「……昔ね。とんでもない馬鹿がいたからよ。
禁書、禁句、禁止。そんなものを聞けば聞くほど、見れば見るほど、深く掘りたがる……。人間の三大欲求の中の食欲が、知識欲に摩り替わってんじゃないか、って思えるくらいの馬鹿がいたのよ」
「あ……」
「どこから知識を引っ張って来たんだか知らないけど……。
まるでガキみたいに話し出すと止まんなくてね。特に幻大陸の話は、三十回は聞かされたかな……。他にもいろいろとね。ま、素直に聞いてたあたしも大概、馬鹿だったんだろうけど。
だから、良く覚えてただけの話」
「……」
「あんな魔道歴史の宝庫が放って置かれていいはずがない、って。いつか、内戦が収まったら、自分で出向いて調べ上げてやる、ってのが口癖だったっけか……。そのときは雇ってやるから、せいぜい助手として付いて来い、って……。
ははは、ほんとに皮肉なもんよ……。そんな戯れの夢物語が、こんな形で叶うなんてね……」
「……」
何も、言うことが出来なかった。いや、何を言えと言うのだろう。
奥歯を噛み締める。あまりにも言葉を持たない我が身を呪いながら、カノンはこっそり拳を握り締めた。
大きな、息が漏れた。
浮かんだ笑みは、もうほとんど、笑みに見えなかった。
「……大丈夫?」
「……平気。ありがとね」
礼など、言われるような立場じゃない。だって、カノンは今の今まで何も出来なかった。何も出来なくて、たった今この場でも、彼女の心傷を抉るような真似しか出来ないのだ。
悔しい。口惜しい。今、この場にあの薄笑いを浮かべた白子の魔道師がいたら、全力で殴り飛ばしてやれるのに。
「……カノン」
「ん?」
「まあ、確かに他人には好かれない奴よ。好かれようとも思ってないから当然なんだけど。
けどね、あいつの中に、本来あるのは探究心だけ。真理・真実が欲しいだけ。
間違っても、あのWMOのお坊ちゃんみたいな思想の人間じゃなかった。もっと幼くて、ある意味で純粋な奴だったわ。……少なくとも、当時はね」
「……」
「安心して。
この五年間で、何があったのかは解らない。
でも、あいつの頭は戦争の道具なんてちっぽけなものに使われていいものじゃないわ。それは……本人が一番よく知ってたはず。
五年間で何かがあって……本気であいつが道を踏み外してるなら、目を覚ましてやらなきゃいけない。
……もし、出来なかったら――
覚悟は、してるから」
「……」
何の覚悟かなんて、聞くだけ無粋だった。カノンは自分の手を見つめる。錯覚、なのは解る。指先が、少しだけ赤く見えたことなんて。
カノンは剣士だ。人の肉を斬れば、骨を砕けば、その感触が直に掌を襲う。
だから尚更、その覚悟が悲壮すぎることを知っていた。
「……出来なかったら、いつでも代わるよ」
否定も肯定もせずに、それだけを告げた。ルナは苦笑を浮かべながら、冷めたマグカップを煽る。
「ありがと。気持ちだけ貰っとくわ。第一、あんたにこれ以上そんなことさせたら、あたしがレンに殺されるし」
「?」
「ま、とにかく心配しないで。ここまで来たら、やることをやるしかないわ。
……あたしには、その義務があるからね」
彼女はいつのまにか軽食をすべて片付けていた。ことん、とマグカップがトレイに置かれて、細い指が再びインク壺の中の羽ペンを握る。
「……あ、そうだ」
「?」
「いや、どうせあたしたちはルナと一緒に遺跡探索とか、それっぽいことやるんでしょ?」
「そうだけど?」
「だったら、さ。前、言ってたじゃない。ゼルゼイルで一番有名な伝説がどうのこうの、とか。
あんたはそういう分野が本業なんだし、ちょっとかじっただけのあたしなんかじゃあ、大した助力にならないかもしれないけど……。
それだけでも聞いて置こうかな、と思って」
カノンの問いに、ルナはあー、と声を上げる。ペンから手を離し、腕を組み、眉間に皺を寄せる。
やがて、ふっと肩から力が抜けた。
「まあ……そうね。話しといて損はないか。どうにしろ、知って置いた方がためになるんだろうし」
くるり、と彼女はデスクから視線を外して、カノンの座るベッドへと向き直る。
「……ことの真偽は知らないわ。だから、今、ちょっとだけ調べた内容と昔伝え聞いたものを交えて喋るけど。
全面的な信用はしないように。いいわね?」
カノンが嫌に神妙に頷くのを見ると、ルナは満足そうに胸を張る。目の前にあった蔵書を引っ張り出すと、しおり代わりに羊皮紙の挟んであったページを捲る。
出て来たのは、どこかで見たことのある――そう、ゼルゼイルの地図だ。しかし、数日前に見たはずのそれとは微妙に形が異なっていて、記された地名も一致しない。
「何年前かしらね。暗黒時代なんかよりもっと前のものよ――。
堕天使ルカシエルは覚えてる?」
「あー……うん、まあ」
カノンの表情が少しだけ苦い。
堕天使ルカシエル。多くの神話に登場する、その崇められし天使の名を聞いたことのない者はいないだろう。
かく言うカノンも聞いたことはある。
……いや、それどころか、むしろ。
彼女――神話の神に性別をつけるのも奇妙な話だが――によって、神話の実在をまざまざと見せ付けられた一人だった。
「一年と半年前。あたしは魔族の中でも大きな力を持ち、筆頭と恐れられるヴァン一族の端くれに身体を明け渡したことがあった」
こくり、とカノンの喉が鳴る。
一年と半年前――。
ルナは、『月の館』を襲撃したニード=フレイマー率いるある組織に身柄を拘束されていた。その組織が崇拝していたのが、他ならぬ、その魔族。名を絶空雷[ヴァン・シレア]、と言ったか。
「偶像崇拝。最初はね。
でも、神話も魔族も実在した。古の欠片から復活した、ヴァン・シレアが、人間の器を利用してどんな猛威を振るうに至ったか――それは、あんたが誰よりも知っているはずよ」
「……」
頷く。
その魔族の存在は、一つの荒野を永遠の砂漠へと変えた。誰からも忘れられたような荒野だったからまだいい。
あの場所がもし、人の賑わう町であろうものなら――
記憶と、想像にカノンは身震いする。
「そのときに、助力してくれたのが堕天使ルカシエル。
まあ、助力というのは似つかわしくなくて、彼女からすれば人に取り憑いた恥知らずな魔族にお灸を据えるのに、あんたたちを利用した、ってところなのかしらね。
そのおかげであたしは、こうして人間やれてるわけだけど」
「……まあ、たぶん。神話は神話のままでいい、って思った覚えはある……」
記憶の中で、六対の翼が広がる。いや、やめよう。なるべくなら思い出したくない。思い出したところで重厚な神話のイメージががた崩れになるだけだ。
ふむ、とルナが一拍置いた。
「じゃあ、そのルカシエルがどうして堕天使になったかは?」
「えっと、確か昔、魔物と戦ってその魔物の血が白い六対の翼を黒く染めて……。
それで神の国にいられなくなって離反した、ってお話だったわね。それくらいしか知らないけど」
「正解。ルカシエルは元々は、神の国では大天使だった。天使としては最高の位よ。
その最高クラスの天使が、相対する魔族の象徴である黒い翼を持ってたんじゃ示しがつかなかった、っていうまあ、実に人間臭い、人間が喜びそうな、人間のための物語よ」
「?」
ルナの言葉に含みがある。確かにそうだ。示しがつかないから首、とは何とも人間社会の片鱗を表した一説に見える。人間好みなストーリーだからこそ、その話は後世まで残されたのだろう。
「じゃあ、そのときに争った魔物、って何者か知ってる?」
「さぁ……? そんなところまでは」
「……ここからは上級魔道師内での一般説になるんだけど」
カノンの眉がひくり、と動く。
「その魔物が実は、幻大陸の正体、ヴァン一族の長、――羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンなんじゃないか、って言われてるのよ」
「へ? そうなのッ!?」
カノンが素っ頓狂な声を上げる。古い知識を頭の隅から引きずり出して、整理する。
「えっと、幻大陸ってのは六千年前に沈んだ大陸の一部よね?
かつて、西と東は陸続きになっていて、六千年前、移し身の術を会得していたグライオンはこの"世界"そのものと同化して、地上のすべて――歴史も、大地も、生命をも操ろうとした。
それが失敗して、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は大陸の一部に封じられて海に沈んで、その大陸の一部と共に眠り続けている――って」
「さすがカノンちゃん、優秀~。
その通り。六千年前、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は分化した大陸の一部と共に海に封じられた。
で、ルカシエルが堕天したと言われてるのも、ちょうどその頃なのよ。これが偶然か、否か、って話になる」
「あ……」
「公式的な文書にちゃんと記されてるわけじゃないから、一説に過ぎないけど。
ま、魔道師間ではこれが通説ね」
顎に指を当て、彼女はほぼ断定のように話す。しかし、些か納得がいかない。
「けど、何でルカシエルの伝説には、魔物、なんて曖昧な書き方がされてるの?」
「んー……まあ、それは昔と今の信仰による文化レベルの違いじゃないかしらねぇ……。
例えば、昔はもっと悪魔崇拝が力を持っていて、それじゃー、最強の悪魔が神サマに負けたことになって信仰上悪かったとか。もしくは神信仰にしたって、最高神が堕天ていうこと自体が、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の名前を出すと屈して傅くような印象を与えた、とか。
そういうところが人間のご都合主義なんだけど。よくあることよ。
まあ、それはさておき。
このとき、西と東、両方の大陸の狭間に位置するこのゼルゼイルっていう島国は、ちょっと魔道師内にとっては特別になって来るのよ」
「……幻大陸に関係する島、と見られる?」
ぱちん、とルナが指を鳴らす。弾かれたように頷く彼女。
「ビンゴ! ゼルゼイルって大陸は、そのテの研究では、幻大陸の一部が浮上、もしくは沈む過程で分離した一部なんじゃないか、って言われてるのよ。
そのためなのか何なのか、この地には多くの伝説・伝承が眠ってる。
精霊都市ルーアンシェイルもそうだけど、昔からでかい伝説が一つあるところには集まるようにして小さな伝承が眠ってる。そういう伝承の中心は決まって神魔族が絡む。
そういう特性なのかしらね。一度、魔力が集まったところには、また別の魔力が引き寄せられる。
ゼルゼイルの場合、それを裏付ける最大の後発的伝承が二代鬼神伝説」
「鬼神?」
カノンが復唱して首を傾げた。耳慣れない単語だ。
ルナは少しだけ悪戯っぽく笑い、古びた地図の二点を指差す。
「ゼルゼイルの北西と東南。まあ、それぞれシンシア領とエイロネイア領なんだけど。
二対になった神殿が存在するの。一方は北西に位置する神羅[ディーダ]、一方は東南に位置する冥羅[ヴィーラ]。
それぞれにはそれぞれ一体の鬼神が奉られていてね。
一方は護法鬼神ヴェネヅエラ。一方は滅法鬼神シャライヴ。二人の鬼神はこの地の善悪の均衡を保ってる、なんて言われてるけど。実際は違うわね」
「違う?」
頷きながら、ルナはにやりと笑う。再び、別の蔵書を取り出しながら、年号を指差す。
「二人の鬼神がゼルゼイルの史上に出た頃と同じ時期にね。神話の歴史では同時に二人の神魔族が姿を消している。
彼らはちょいと特殊な神魔族だったらしくてね。人の感情だの、想いだのに感応して、力を発揮する神魔族だった。まあ、明記はされてないけど、あんたの魔変換[ガストチャージ]みたいなものだと思うわ。
だからこそ、人一倍人の動向やら、憂いやらにも敏感だった。
戦争ばかりを繰り返していた自らの同胞、神々と、魔族たちに、そして人間そのものにも絶望を覚えた二人は、唐突に戦いの最中から姿を消した。
神話側の伝承はこれで終わってるわ。
でもね、この地の鬼神について調べてると――。
護法鬼神は人の正の感情を司り、加護する。滅法鬼神は人の負の感情を司り、憂いを晴らす。
人の想いが鬼神によって見初められるとき、かの者たちは再び蘇る。
……なんとなーく、接点があるじゃない?
だから、姿を消してから二人の神魔族は、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の残り香であるこの島に、帰属して自ら身を封じ、目覚めるときを待っている、なんて言われてるのよ」
「ふーん……。人の感情に……、ねぇ……。酔狂な神魔族もいたものね」
「まあ、神話の神とか悪魔ってのは、やたらと人間臭かったりもするし。人間の祖が神だ、とか言われる所以はそんなところにあるんじゃないかしらね。
で、話を戻すけど。
さっきも言った通り、幻大陸が沈んでから、ルカシエルは堕天するわけだけど。
あたしはこれはただの堕天じゃないと思ってる」
「……?」
ふと、先ほどのルナの言葉の棘を思い出す。彼女は椅子に座りなおして、脚を組み、腕を組んで胸を張ると、
「だってそうでしょ? 血で汚れたから解雇、なんて人間社会のリストラじゃないのよ?
実際、彼女はその後も度々歴史に登場しては、人間に力を貸したり、魔族を倒したりしてるのよ。あのとき、あたしたちに手を貸してくれたようにね。
彼女がそれをする益は何? もう天使ではない彼女に、善行の義務なんてないわ。
じゃあ、何?」
「何、って……。 まさか、カミサマが人間が好きだから、とかいうんじゃないだろうし……」
そんなまさか、とルナは息を吐いた。表情が緩んだのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。
「あたしは、彼女は人間の世界にいるためなんじゃないかと思ってる。もっと言うなら、幻大陸の監視をしてるんじゃないか、って」
「幻大陸の、監視……?」
何で、そんなことを? と問いかける。ルナは考え込むような仕草を見せて、苦い表情で口を開く。
「……神様が人間臭い、って定義で話をしちゃうけど。
人間が人間を殺して、どこかに埋めたりしたとしたら、一番気になるのは何だと思う?」
「い、いきなり物騒になったわね……。そうね……やっぱり、誰かに見つからないか、ってことでしょうね……」
「そう。しかも、その死体は本当に死体だったかどうかも不安に思うわよね? 後で息を吹き返して、ゾンビよろしく出てくるんじゃないか、って」
「まあ、素人なら死んでるかの判断も難しいだろうし……って、ルナ……。まさか……」
頷きながら、カノンも彼女が何を言おうとしているのか、大体の予想がついたらしい。訝しげに眉を寄せる。ルナはそれに頷き返す。
「……ルカシエル側の伝承によれば"魔物"は死んだことになってるけど。羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の伝承によれば、奴は封じられたとなってるわ。
どちらが正しいかは解らないけど――
自分の殺した相手を守り続けるのに、一番確実な方法は何か――
答えは完全に息絶えて、誰も探そうとする者がいなくなるまで見張り続けることよ」
「……ちょっとちょっと」
さすがにストップをかける。話が突拍子もなくなってきた。
「話が飛躍してるわよ、ルナ。何? ルカシエルは幻大陸の番人で、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が――復活しないかどうか、見張ってる、なんて言いたいの?」
「……勿論、これはあたしの自説。一般論なんて言う気はないわ。そういうことも考えられないか、ってこと。
大体、ここ六千年、幻大陸そのものの存在さえ魔道師たちの間では疑われてきた。
まあ、言葉遊びだと思ってくれて構わないわ。ただ、堕天使ルカシエルが実在するなら、幻大陸と羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が存在してもおかしくないなー、と思って、離れた点を無理矢理線で結んでみた推論よ。それだけの話。
調子に乗っちゃったけど、ゼルゼイルの幻大陸の話はこんなところかしらね」
ぱたん、と目の前で蔵書が閉じられる。反動の風が、カノンの前髪を巻き込んだ。
耳慣れない話を聞いたためか、少し頭がぼんやりしていた。その彼女に、ルナはくすりと笑いを漏らした。
蔵書を片付けて、講義は終わりだと言うようにペンを握る。
それにはっ、と気が付いて、カノンも慌てて立ち上がった。ルナの脇に置かれていたトレイを持つ。もうすっかり冷えていた。
「ごめん、大分邪魔したわね」
「いや、別に。必要なこともあったでしょうしね。
もうちょっと……そうね。進行状況によるけど、たぶん、明後日あたり、出ることになるかもしれないわ。レンに伝えておいて。」
「うん、解ったわ」
相槌を打って、来たときと同じように山の合間をすり抜けながら、ドアに向かう。ドアを開く寸前で、一度振り返ったが、そこでは小さな背中が、かりかりとペンの擦れる音を響かせるだけだ。
こっそりと溜め息を吐いて、カノンは部屋を後に――しようとして。
「……カノン」
「?」
逆に、呼び止められた。
「……ありがと。少し、気が紛れた」
「……」
少しだけ、驚いた。けれど、ゆっくりと笑みを浮かべる。見えはしないけれど。
言うべきではないのかもしれない。だって、彼女はもう十分以上に耐えて、必死になっている。けれど、せめてその背中をほんの少し押してあげたくて。
彼女が求めるのは、評価ではなく、結果だと知っていたから。
「…………うん、がんばって」
「……さんきゅ」
小さく、伝えた一言に。
返った返事が、自然な優しさを纏っていたことを、信じて。
カノンは、その小さな部屋のドアを閉じた。
背後で、扉が閉じる音が聞こえて。
ルナのペンを走らせる手が、止まった。いつのまにか口の中に溜まってしまった固唾を飲み込む。
ぱたん、とペンを倒すと、漏れたインクが羊皮紙を汚す。けれど、それにも構わずに、ルナはその手の甲を抑えた。
とうとう、扉が閉まるよりも先に、口に出来なかった。
「……ごめんね、カノン」
――本当に、あんたの親友とやらは、隠し事ばっかりね……
胸の中だけで、揶揄しながら。
ルナは椅子の上で宙を見る。
「エイロネイアの、皇太子……」
ぽつりと、呟いた瞳は、鋭く、その先の天井を貫くほどに、尖っていた。
――もし、またあの娘を狙うことがあったら、そのときは……!
石の床とはこんなにも音が響きやすいものだったのか。
先ほどからかつん、かつんと上がる自らの靴音を煩わしく思いながら、薄暗い照明だけを頼りに、レンは砦の内を巡回していた。
別に見回りの任を受けたわけでも何でもない。考え事をするときは、部屋にこもらないのが彼の主義だっただけである。
ぼんやりと見える石段に彩られた簡素な視界が、頭の中から余計なものを拭い去る。
シンシアに降りたその日に、カノンとルナの立てた立案は採用された。本来なら、いくらシェイリーンの承諾があったとしても、こう上手くは採択されない。
シンシアが、どれだけ土壇場に立たされているのかが伺える。
ルナは資料となる本や書類と共に、部屋に篭っている。バラック・ソルディーア周辺に位置する伝承の地を探索するためだ。
内戦真っ只中のシンシアが、それらを観光用に整備しているはずもない。ということは、未踏の遺跡を掘り返すような、調査団的な探索になるだろう。
万が一の場合を考えて、対魔道、対死術の能力に特化したカノンとレンを、調査団内に入れた彼女の判断は間違ってはいないと思う。シリアとアルティオは、留守番なんて、と最後まで愚痴ったが、客将として招かれている以上、誰一人、シンシアの拠点に残らないというのはまずい。シェイリーンの座を妬む貴族院に見立てが立たないし、特にシリアはヴァレスと共に、もう数日で結集する魔道師団の先導をルナから任せられていた。
魔道師団の動きにエイロネイアか貴族院か、どちらかが気づけば、荒事を招くことも考えられる。そのためにも要人護衛のためにアルティオがいた方がいい。
数日の間に、ティルスは各地の魔道師団に召集をかけ、シェイリーンは、貴族院に、この作戦の認証を得るため、帰都と演説の準備に追われている。シリアとアルティオはこの護衛も請け負う予定だった。
ラーシャは何枚かの書状を書いていた。各地の戦地に向けた帰島の連絡だろうか。もう少しすれば、彼女も戦場の最先端に戻るのかもしれない。
動きといえばそれだけだ。
しかし、どうにも、どこにもかしこにもぴりぴりとした空気が漂っていて肌に痛い。誰もが、背後から誰かに狙われていて、いきなり背中を刺されないか警戒している。疑心暗鬼を張り付けている。
これが戦場というものか。だとしたら、とてもじゃないが耐え切れない世界だ。
レンは疲労の溜め息を吐き出す。
彼の懸念はそれだけではなかった。
エイロネイアは、あの黒衣の皇太子は、この程度のことが読めない男だろうか。
大陸から来訪した一団に、優秀な魔道師が一人、違法者狩りが二人、混じっていて、この二番煎じの作戦が発布されることを予測していなかったのだろうか。
おそらくは、否だ。カノンやルナだって、それは解っているはず。解っていながら提案を出したのは、とりあえず、エイロネイアと同じ土俵に上がらなければ何も生まれないと考えたからだろう。
エイロネイア以上のことをする必要はない、と言っていたが、それは嘘だ。あの周到な皇太子は、これくらいのことが読めない男ではない。だとしたら、何らかの対策を練ってくるはず。
それが何なのかは解らない。しかし、今度は、今度はそれを防げなければ勝ちは、いや、引き分けもないのだ。
――シンシア以上に……俺たち自身も詰め、ということだな……。
そもそもあの皇太子は、何故このゼルゼイルという土地に、自分たちを呼び込んだのか――
それが、何より解らない。
「……前と、同じだな」
堂々巡り。答えの出ない問い。答えを出せるのは当人だけだろう。そのときにはもう、きっと手遅れなのだろうが……。
レンは力なく首を振る。滅入ってしまうより前に、気を張って、神経を研ぎ澄ます。
こんなことでは駄目だ。自らの役割一つ、こなせなくなってしまう。
レンにとっては、シンシアの勝利も敗北も、それこそエイロネイアの策謀も、どうでもいいことなのだ。本来なら。
ただ、止まることを知らない相棒が、親しい友人を慮った結果、こんな場所まで付き合って来てしまっただけのこと。
エイロネイア皇太子に向ける怒りはあっても、導火線に火がつくまでには至らない。どちらかといえば、火が着きやすい連中を花器から遠ざけて置きたかった。
……どこかの、自分に最も近しい無鉄砲者は、特に。
それでもなお、火に触れてしまったなら。その火に燃え尽きてしまわないように。
それだけは、己の役目だと決めていた。
あの誰よりも強く、そして弱い少女が、一人で歩ける日が来るまでは。
『……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?』
「……」
この島を訪れる前、不意に問われた一言だった。あのときは有耶無耶となったが――
いつまで? そして、それからは? 自らが、遂げたいことは何なのか?
狩人に従事し、それ故に、それ以外の生き方を知らない。その袋小路に、最も囚われているのは、自分なのだろう。
そんなものへの、答えは、持っていなかった。
いつか、彼女と離れる日が来て、それからは、一体彼はどう生きていくのだろう。
……答えは出ない。エイロネイア皇太子の思惑なんかよりも余程、質が悪い。だって、答えが"ない"のだから。
考えたところで、
「……無駄だな」
思考を切った。そんなことを考えたところで、今は何の益にもならない。妙な迷いが生じるだけだ。
振り払うように首を振る。肩の力を抜くと、神経が昂ぶっていたのか、疲労感が身体を突き抜ける。
そのとき、不意に、
「・・・?」
その音が、聞こえた。
土の奏でる音色が、耳に届いて、名残を残しながらゆっくりと消える。
少しだけざらついた感触から唇を離すと、音色は途絶えて、余韻を残しながらもすっきりと消える。ふぅ、と息を吐くと、自然と体の力も抜けた。
大分、気が抜けていたのか。それとも、彼人がよほど気配を消すのが上手いのか。
足音に気がつくのが、一瞬、遅れた。
はっ、として警戒を叩きつけながら振り返る。自然と剣の柄に伸びた手が、視界に飛び込んだ、無表情な顔に止まる。
「れ、レン殿か。すまない。これは失礼を」
「……いや、逆なら同じことをしただろうな。気に止む必要はない」
返答があったことにラーシャは胸を撫で下ろす。どうもこの御人の鋭すぎる気配と目には馴れない。
敵愾心、なのだろうか。無理もないかもしれない。思えば、彼は終始、ゼルゼイルに客将として来訪することを良く思っていなかった。
彼はこちらを、信用も信頼もしていない。
「どうかなされましたか? こんな夜分に」
「――こんな夜分に、随分と風流な音が聞こえたものでな」
「………ああ」
合点がいった。
「すまない。耳障りでしたな」
「そんなこともないが……」
ラーシャは手の中の簡素な、素焼きの塊を眺めながら頭を下げた。
レンがそれを否定したのは本心からだったが、ラーシャはそうは思わなかったのだろうか。罰の悪そうな顔をして、それを懐に、隠すようにしまった。
「オカリナ、か。大分、吹き慣れているようだったが」
「………どうということは。遠い昔、ある人にいい加減に教わった程度です。
軍人の中には、楽器を嗜む者も多いのです。戦に身を置く者にとって、音楽というのは数少ない娯楽ですから」
「なるほど」
淡白な頷きを返して、彼はラーシャが持たれていた窓から外を覗き見る。
黒い森に隔たれていて、月は見えない。僅かな輝きが、存在を表しているだけで、あとは頼りない星明りだけが暗い石の居城を照らしている。
思えば、珍しい空間だ。向こうがラーシャを嫌っていたのか、不思議なほどにラーシャがレンと話を交わすことは少なかった。あるといえば、以前、機密でルナの手を借りていた際、問い詰められたときくらいだろうか。
平面状は静かで、冷静な男だが――
「……すいません」
「?」
唐突にラーシャが口にした謝罪を、不可思議に感じたのか、レンはほんの僅かな、訝しげな表情を作って無言で問い返す。
「貴方方を、この地へとお招きしたことです」
「……」
彼は尚も無言だった。機嫌は、良くないようだ。
当たり前だ。そんなこと、謝るくらいなら、最初から彼らに接触しなければ良かっただけの話なのだ。
けれど、結果的に接触してしまった。そして、こんな深い、戦の根幹を担うような場所に身を置かせてしまっている。
当初、彼らの手を借りるという案が出されたとき、軍人たちは様々な反応を見せた。
大陸人の力を借りるなんて。馬が合うはずがない。否定的な意見。
新しい風は必要だ。外との交流において、アドバンテージを執るべきだ。肯定的な意見。
ラーシャはシェイリーン側の人間だった。彼女を敬愛しているし、尊敬もしている。だから、基本的には肯定的な立場にいた。けれども、疑念がなかったと言えば嘘になる。
――何の非もない人間を、何の所以もないはずの、身勝手な戦に巻き込んでしまっていいものか。
彼が最初にきっぱりと断ったとき、ラーシャは軽い安堵さえ覚えたのだ。軍人としては失格だ。けれど、何の厭いもないのなら、きっと人間として失格なのかもしれない、と思った。
「……貴女は何のために、軍人をしているんだ?」
「え?」
思ってもいない問いだった。
「何のために、シンシアへ軍人として身を置いているんだ?」
「……何故、それを?」
「嫌なら聞き流してくれても構わない。だが、何の目的も信念もない人間に手を貸している、というのは些か気に障るのでな」
ああ、それはとても彼らしい理由だ。不謹慎だったが、少しだけ笑みが漏れてしまう。
ラーシャは灯りの暗い空に視線を迷わせる。少しだけ、表情をしかめて、短い溜め息を吐く。
「……まあ、そこまで大義ある理由ではないのだが」
「構わん」
「そうか。……退屈な話になる。一個人の、つまらない昔話だ。
私が騎士としてシンシアに仕官した理由は……私の生家が、代々ゼルゼイルの騎士だったことも勿論、理由の一つではあるのだが」
言葉を切って、窓辺にもたれ掛かる。浮かんだのは、やるせない憂いを秘めた表情。何故だか、ひどく寂しげな。
「……昔、私には、姉が一人いた」
昔は、という言い方をした。どういうことなのかは、想像に難くない。
「今は――いない。生きているのかも、解らない。
昔の私は、泣き虫の弱虫もいいところでな。少し転んだくらいで、まるで世界の終わりでも来たかのように泣き叫んでいた。父も母も手に負えなくてな。いつも姉に甘やかされて、やっと泣き止むほどだった。
呆れるほど、姉に頼りっぱなしの子供だったよ。私は」
「……」
「でも、姉は、ある日突然、私の前から姿を消した」
「姿を、消した?」
力なく頷くと、僅かな笑みを浮かべながら、二の腕を抱いた爪に力を入れる。
「……父上の出張中にな。行方知れずになった。当時はエイロネイアに誘拐されたのではないか、という話も流れたが、脅迫も何もなかった。
当時はエイロネイアとシンシアの関係も、今ほど露骨で深刻なものではなかったからな。冷戦のような状態だった。だからその話もいつの間にか流れてしまったが。
近くの谷川に落ちたのだとか、森に迷い込んで獣に食われてしまった、とか。
いくらでも要因が思いつく出来事だった。口さがない連中も多くてな。多数の噂に埋もれて、そのうち捜索も打ち切られてしまった。そのまま……今まで。延々と音沙汰も、噂さえ、何もない」
「……」
「子供だったからな。自分の周りで何が起きているのか解らなくて、また、泣いた。
でも、今度は慰めてくれる手もなかったからな……。
そのしばらく後だ。私が、騎士を志すようになったのは」
かちり、と彼女の腰に下げた剣が音を立てる。胸に下げた紋章が、星明りに嫌に生々しく反射した。
重い枷を選んだのは、彼女だ。
「思えば、ただの子供の妄想なのだが。姉は今もどこかで生きていると、何の根拠もなく信じて。
ならば、彼女が帰って来る家を、このシンシアという場所を、守り続けることが私の責務だと……思った。いや、教えられて、それが真理だと思った、だけの話だが」
窓辺にもたれていた足を退けて、剣の柄を掴む。
「……私にその生きがいとオカリナの吹き方を教えてくれた子も、あっさりと、唐突にいなくなってしまったよ。この時世だからな。生きているのか、死んでいるのかも、解らない。
それから気づいた。ただ、守られ、教えられているだけでは、共にいたいと思った人は、いなくなってしまうものなのだと。
……私は、もう二度と、目の前で誰かを失うのは御免だ。
そして過去の償いに……このゼルゼイルという地を、美しい国にしたい。姉と、私に真理を伝えてくれたような人が、今、生きているかもしれない。生きたかもしれないこの国を、良い国にしたい。
戦争が終わったとしても、その爪痕はこの国を苦しめるだろう。私は、その盾となりたい。
……それだけだ」
「……」
自身を軽視するように、静かに、しかし、小さな決意を宿しながら呟いた。レンの顔から毒気が抜ける。レンはずきずきと痛む頭を振り、胸のうちから込み上げる得体の知れないぞわぞわしたものを飲み下した。
「……妙なことを聞いた。すまない」
「いいや、私の方こそつまらない話を聞かせた。まあ、そんな下らない一個人の話だ。気にしなくでくれ」
ふっ、と彼女は笑う。懐に手を当てたのは、先ほどのオカリナに手を置いているのだろうか。
ほんの少し、表情を緩ませた後、きっ、と元のように目を尖らせて敬礼をする。
「この度の協力を感謝します。シンシアの名に懸けて、貴方方の想いを無にすることは致しませぬ。
……貴方方の身の上は、責任を持って、大陸へお返しいたします」
「……」
しっかりと、シンシアの、上級軍官の表情で。生きる理由を背負いながら、彼女は背を伸ばして立っていた。
レンは考え込むように目を伏せる。長い、長い溜め息が漏れた。
今の彼に、彼女の姿は、どう映ったのか。定かではなかったが。
彼は、極端的に、「解った」と口にしたのだった。
出立は、近かった。
←4へ
ノックをしながら呼びかけると、間延びした返事が返って来た。軽食の乗ったトレイを片手に持ち替えて、ノブを回す。
砦の扉というものは、どこもかしこも重いもので、カノンはトレイが通るほどドアを開け放つのに体重をかけなくてはならなかった。
入ると同時に鼻先を掠めるのは、湿った石煉瓦と、紙と墨の匂い。
背丈ほどにも積み上がった蔵書の山に、カノンは一瞬、彼女の姿を見失った。何せ、部屋の中にあるはずのデスクが本と投げ出された羊皮紙の山で霞んで見えるのだ。
とりあえず、速攻で集められるだけの魔道関連、歴史関連の書を集めてくれとルナが言い出したのが昨日。ティルスが手配したのは、最も近い町に位置する図書館だった。
それこそ秘蔵室や禁書架の中まであさり、とりあえずはこれだけ。『とりあえず、これだけ』の量がこれだ。全体量は一体どれほどのものか。
さすが、精霊都市と揶揄される魔道都市ルーアンシェイルと並ぶほど、伝承の多い土地ゼルゼイル。
立て付けのあまり良くない椅子に腰掛けて、振り返ることなく机に向かう幼馴染の姿を見つけて、山を倒さないように気を使いながらデスクへ辿り着く。
「ほい、食事。軽いやつだけど」
「ん、さんきゅー」
羽ペンをインク壺に浸しながら、彼女は軽い返事をした。
ちょうど、きりが良かったのだろうか、疲れた溜め息を盛大に吐き出すと背もたれにもたれて、大きく伸びをする。
「……別に、あたしも手伝えるわよ? 魔道文字とか古代文字なんて、狩人時代に死ぬほど覚えたし」
「気持ちだけで結構。あんたとレンには、十分なコンディションで護衛を頼みたいんだから、こんなデスクワークで体力を使うなんて馬鹿な真似はしないように」
「……ったく」
強情な、と呟いて、カノンは備え付けのベッドに腰掛ける。当然、そこにも紙の束が転がっていたので、避けて座る。
ルナはトレイの上のサンドイッチに手を伸ばし、口に加えると、もう片方の手で机の隅に放っていた蔵書を引き寄せる。
「あたしが言えたことじゃないけど、あんまり無理すんじゃないわよ」
「その言葉をそのままそっくり返すわよ。客将の筆頭だからって、軍人じゃないんだから、あんたは頑張る必要ないんだからね」
「そういうことじゃないでしょ!?」
つい、声が荒くなる。一瞬、驚いた彼女がサンドイッチを取り落としかけた。
大きな猫目に、まじまじと見つめられて、やっと我に返る。
「あ、う……ごめん」
「……まあ、いいけどさ」
ルナは無言でサンドイッチを半分だけかじると、トレイに戻した。同じトレイに乗っていた湯気の立つマグカップを手に取った。
「……あの、さ」
「何?」
「聞いちゃいけないのかもしれないけど……。
その、大陸の魔道師って、普通、あんまりゼルゼイルの伝承になんか詳しくないじゃない……。
何で、ちょっとなのかもしれないけど、知ってたの……?」
「……」
おそるおそる。
返答を求めているのに、その返答を聞きたくないような表情で、カノンは口にした。
するり、とルナの顔から表情が抜ける。その真顔に、カノンは慌てて訂正を口にしようとするが、彼女はそれよりも前に苦い笑みを作った。
「たぶん、あんたの想像通りだと思うけど?
……月の館で研究、いや、研究とは言えないわね。研究の内容を聞かされたから、かな」
「そ、そっか。やっぱり、『月の館』で……」
「まあ、でも『月の館』だって馬鹿じゃないわ。ゼルゼイルに纏わる直接的な研究なんかやってなかった。むしろ、ゼルゼイルに関係する研究はすべからく、伏せられていたと言っても過言じゃないわ」
「へ……? じゃあ、何で……?」
ルナは曖昧に声を漏らす。言うべきか言わないべきか迷ってる、というよりは、口にするのが些か億劫に感じているように見えた。
「……昔ね。とんでもない馬鹿がいたからよ。
禁書、禁句、禁止。そんなものを聞けば聞くほど、見れば見るほど、深く掘りたがる……。人間の三大欲求の中の食欲が、知識欲に摩り替わってんじゃないか、って思えるくらいの馬鹿がいたのよ」
「あ……」
「どこから知識を引っ張って来たんだか知らないけど……。
まるでガキみたいに話し出すと止まんなくてね。特に幻大陸の話は、三十回は聞かされたかな……。他にもいろいろとね。ま、素直に聞いてたあたしも大概、馬鹿だったんだろうけど。
だから、良く覚えてただけの話」
「……」
「あんな魔道歴史の宝庫が放って置かれていいはずがない、って。いつか、内戦が収まったら、自分で出向いて調べ上げてやる、ってのが口癖だったっけか……。そのときは雇ってやるから、せいぜい助手として付いて来い、って……。
ははは、ほんとに皮肉なもんよ……。そんな戯れの夢物語が、こんな形で叶うなんてね……」
「……」
何も、言うことが出来なかった。いや、何を言えと言うのだろう。
奥歯を噛み締める。あまりにも言葉を持たない我が身を呪いながら、カノンはこっそり拳を握り締めた。
大きな、息が漏れた。
浮かんだ笑みは、もうほとんど、笑みに見えなかった。
「……大丈夫?」
「……平気。ありがとね」
礼など、言われるような立場じゃない。だって、カノンは今の今まで何も出来なかった。何も出来なくて、たった今この場でも、彼女の心傷を抉るような真似しか出来ないのだ。
悔しい。口惜しい。今、この場にあの薄笑いを浮かべた白子の魔道師がいたら、全力で殴り飛ばしてやれるのに。
「……カノン」
「ん?」
「まあ、確かに他人には好かれない奴よ。好かれようとも思ってないから当然なんだけど。
けどね、あいつの中に、本来あるのは探究心だけ。真理・真実が欲しいだけ。
間違っても、あのWMOのお坊ちゃんみたいな思想の人間じゃなかった。もっと幼くて、ある意味で純粋な奴だったわ。……少なくとも、当時はね」
「……」
「安心して。
この五年間で、何があったのかは解らない。
でも、あいつの頭は戦争の道具なんてちっぽけなものに使われていいものじゃないわ。それは……本人が一番よく知ってたはず。
五年間で何かがあって……本気であいつが道を踏み外してるなら、目を覚ましてやらなきゃいけない。
……もし、出来なかったら――
覚悟は、してるから」
「……」
何の覚悟かなんて、聞くだけ無粋だった。カノンは自分の手を見つめる。錯覚、なのは解る。指先が、少しだけ赤く見えたことなんて。
カノンは剣士だ。人の肉を斬れば、骨を砕けば、その感触が直に掌を襲う。
だから尚更、その覚悟が悲壮すぎることを知っていた。
「……出来なかったら、いつでも代わるよ」
否定も肯定もせずに、それだけを告げた。ルナは苦笑を浮かべながら、冷めたマグカップを煽る。
「ありがと。気持ちだけ貰っとくわ。第一、あんたにこれ以上そんなことさせたら、あたしがレンに殺されるし」
「?」
「ま、とにかく心配しないで。ここまで来たら、やることをやるしかないわ。
……あたしには、その義務があるからね」
彼女はいつのまにか軽食をすべて片付けていた。ことん、とマグカップがトレイに置かれて、細い指が再びインク壺の中の羽ペンを握る。
「……あ、そうだ」
「?」
「いや、どうせあたしたちはルナと一緒に遺跡探索とか、それっぽいことやるんでしょ?」
「そうだけど?」
「だったら、さ。前、言ってたじゃない。ゼルゼイルで一番有名な伝説がどうのこうの、とか。
あんたはそういう分野が本業なんだし、ちょっとかじっただけのあたしなんかじゃあ、大した助力にならないかもしれないけど……。
それだけでも聞いて置こうかな、と思って」
カノンの問いに、ルナはあー、と声を上げる。ペンから手を離し、腕を組み、眉間に皺を寄せる。
やがて、ふっと肩から力が抜けた。
「まあ……そうね。話しといて損はないか。どうにしろ、知って置いた方がためになるんだろうし」
くるり、と彼女はデスクから視線を外して、カノンの座るベッドへと向き直る。
「……ことの真偽は知らないわ。だから、今、ちょっとだけ調べた内容と昔伝え聞いたものを交えて喋るけど。
全面的な信用はしないように。いいわね?」
カノンが嫌に神妙に頷くのを見ると、ルナは満足そうに胸を張る。目の前にあった蔵書を引っ張り出すと、しおり代わりに羊皮紙の挟んであったページを捲る。
出て来たのは、どこかで見たことのある――そう、ゼルゼイルの地図だ。しかし、数日前に見たはずのそれとは微妙に形が異なっていて、記された地名も一致しない。
「何年前かしらね。暗黒時代なんかよりもっと前のものよ――。
堕天使ルカシエルは覚えてる?」
「あー……うん、まあ」
カノンの表情が少しだけ苦い。
堕天使ルカシエル。多くの神話に登場する、その崇められし天使の名を聞いたことのない者はいないだろう。
かく言うカノンも聞いたことはある。
……いや、それどころか、むしろ。
彼女――神話の神に性別をつけるのも奇妙な話だが――によって、神話の実在をまざまざと見せ付けられた一人だった。
「一年と半年前。あたしは魔族の中でも大きな力を持ち、筆頭と恐れられるヴァン一族の端くれに身体を明け渡したことがあった」
こくり、とカノンの喉が鳴る。
一年と半年前――。
ルナは、『月の館』を襲撃したニード=フレイマー率いるある組織に身柄を拘束されていた。その組織が崇拝していたのが、他ならぬ、その魔族。名を絶空雷[ヴァン・シレア]、と言ったか。
「偶像崇拝。最初はね。
でも、神話も魔族も実在した。古の欠片から復活した、ヴァン・シレアが、人間の器を利用してどんな猛威を振るうに至ったか――それは、あんたが誰よりも知っているはずよ」
「……」
頷く。
その魔族の存在は、一つの荒野を永遠の砂漠へと変えた。誰からも忘れられたような荒野だったからまだいい。
あの場所がもし、人の賑わう町であろうものなら――
記憶と、想像にカノンは身震いする。
「そのときに、助力してくれたのが堕天使ルカシエル。
まあ、助力というのは似つかわしくなくて、彼女からすれば人に取り憑いた恥知らずな魔族にお灸を据えるのに、あんたたちを利用した、ってところなのかしらね。
そのおかげであたしは、こうして人間やれてるわけだけど」
「……まあ、たぶん。神話は神話のままでいい、って思った覚えはある……」
記憶の中で、六対の翼が広がる。いや、やめよう。なるべくなら思い出したくない。思い出したところで重厚な神話のイメージががた崩れになるだけだ。
ふむ、とルナが一拍置いた。
「じゃあ、そのルカシエルがどうして堕天使になったかは?」
「えっと、確か昔、魔物と戦ってその魔物の血が白い六対の翼を黒く染めて……。
それで神の国にいられなくなって離反した、ってお話だったわね。それくらいしか知らないけど」
「正解。ルカシエルは元々は、神の国では大天使だった。天使としては最高の位よ。
その最高クラスの天使が、相対する魔族の象徴である黒い翼を持ってたんじゃ示しがつかなかった、っていうまあ、実に人間臭い、人間が喜びそうな、人間のための物語よ」
「?」
ルナの言葉に含みがある。確かにそうだ。示しがつかないから首、とは何とも人間社会の片鱗を表した一説に見える。人間好みなストーリーだからこそ、その話は後世まで残されたのだろう。
「じゃあ、そのときに争った魔物、って何者か知ってる?」
「さぁ……? そんなところまでは」
「……ここからは上級魔道師内での一般説になるんだけど」
カノンの眉がひくり、と動く。
「その魔物が実は、幻大陸の正体、ヴァン一族の長、――羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンなんじゃないか、って言われてるのよ」
「へ? そうなのッ!?」
カノンが素っ頓狂な声を上げる。古い知識を頭の隅から引きずり出して、整理する。
「えっと、幻大陸ってのは六千年前に沈んだ大陸の一部よね?
かつて、西と東は陸続きになっていて、六千年前、移し身の術を会得していたグライオンはこの"世界"そのものと同化して、地上のすべて――歴史も、大地も、生命をも操ろうとした。
それが失敗して、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は大陸の一部に封じられて海に沈んで、その大陸の一部と共に眠り続けている――って」
「さすがカノンちゃん、優秀~。
その通り。六千年前、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]は分化した大陸の一部と共に海に封じられた。
で、ルカシエルが堕天したと言われてるのも、ちょうどその頃なのよ。これが偶然か、否か、って話になる」
「あ……」
「公式的な文書にちゃんと記されてるわけじゃないから、一説に過ぎないけど。
ま、魔道師間ではこれが通説ね」
顎に指を当て、彼女はほぼ断定のように話す。しかし、些か納得がいかない。
「けど、何でルカシエルの伝説には、魔物、なんて曖昧な書き方がされてるの?」
「んー……まあ、それは昔と今の信仰による文化レベルの違いじゃないかしらねぇ……。
例えば、昔はもっと悪魔崇拝が力を持っていて、それじゃー、最強の悪魔が神サマに負けたことになって信仰上悪かったとか。もしくは神信仰にしたって、最高神が堕天ていうこと自体が、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の名前を出すと屈して傅くような印象を与えた、とか。
そういうところが人間のご都合主義なんだけど。よくあることよ。
まあ、それはさておき。
このとき、西と東、両方の大陸の狭間に位置するこのゼルゼイルっていう島国は、ちょっと魔道師内にとっては特別になって来るのよ」
「……幻大陸に関係する島、と見られる?」
ぱちん、とルナが指を鳴らす。弾かれたように頷く彼女。
「ビンゴ! ゼルゼイルって大陸は、そのテの研究では、幻大陸の一部が浮上、もしくは沈む過程で分離した一部なんじゃないか、って言われてるのよ。
そのためなのか何なのか、この地には多くの伝説・伝承が眠ってる。
精霊都市ルーアンシェイルもそうだけど、昔からでかい伝説が一つあるところには集まるようにして小さな伝承が眠ってる。そういう伝承の中心は決まって神魔族が絡む。
そういう特性なのかしらね。一度、魔力が集まったところには、また別の魔力が引き寄せられる。
ゼルゼイルの場合、それを裏付ける最大の後発的伝承が二代鬼神伝説」
「鬼神?」
カノンが復唱して首を傾げた。耳慣れない単語だ。
ルナは少しだけ悪戯っぽく笑い、古びた地図の二点を指差す。
「ゼルゼイルの北西と東南。まあ、それぞれシンシア領とエイロネイア領なんだけど。
二対になった神殿が存在するの。一方は北西に位置する神羅[ディーダ]、一方は東南に位置する冥羅[ヴィーラ]。
それぞれにはそれぞれ一体の鬼神が奉られていてね。
一方は護法鬼神ヴェネヅエラ。一方は滅法鬼神シャライヴ。二人の鬼神はこの地の善悪の均衡を保ってる、なんて言われてるけど。実際は違うわね」
「違う?」
頷きながら、ルナはにやりと笑う。再び、別の蔵書を取り出しながら、年号を指差す。
「二人の鬼神がゼルゼイルの史上に出た頃と同じ時期にね。神話の歴史では同時に二人の神魔族が姿を消している。
彼らはちょいと特殊な神魔族だったらしくてね。人の感情だの、想いだのに感応して、力を発揮する神魔族だった。まあ、明記はされてないけど、あんたの魔変換[ガストチャージ]みたいなものだと思うわ。
だからこそ、人一倍人の動向やら、憂いやらにも敏感だった。
戦争ばかりを繰り返していた自らの同胞、神々と、魔族たちに、そして人間そのものにも絶望を覚えた二人は、唐突に戦いの最中から姿を消した。
神話側の伝承はこれで終わってるわ。
でもね、この地の鬼神について調べてると――。
護法鬼神は人の正の感情を司り、加護する。滅法鬼神は人の負の感情を司り、憂いを晴らす。
人の想いが鬼神によって見初められるとき、かの者たちは再び蘇る。
……なんとなーく、接点があるじゃない?
だから、姿を消してから二人の神魔族は、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の残り香であるこの島に、帰属して自ら身を封じ、目覚めるときを待っている、なんて言われてるのよ」
「ふーん……。人の感情に……、ねぇ……。酔狂な神魔族もいたものね」
「まあ、神話の神とか悪魔ってのは、やたらと人間臭かったりもするし。人間の祖が神だ、とか言われる所以はそんなところにあるんじゃないかしらね。
で、話を戻すけど。
さっきも言った通り、幻大陸が沈んでから、ルカシエルは堕天するわけだけど。
あたしはこれはただの堕天じゃないと思ってる」
「……?」
ふと、先ほどのルナの言葉の棘を思い出す。彼女は椅子に座りなおして、脚を組み、腕を組んで胸を張ると、
「だってそうでしょ? 血で汚れたから解雇、なんて人間社会のリストラじゃないのよ?
実際、彼女はその後も度々歴史に登場しては、人間に力を貸したり、魔族を倒したりしてるのよ。あのとき、あたしたちに手を貸してくれたようにね。
彼女がそれをする益は何? もう天使ではない彼女に、善行の義務なんてないわ。
じゃあ、何?」
「何、って……。 まさか、カミサマが人間が好きだから、とかいうんじゃないだろうし……」
そんなまさか、とルナは息を吐いた。表情が緩んだのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。
「あたしは、彼女は人間の世界にいるためなんじゃないかと思ってる。もっと言うなら、幻大陸の監視をしてるんじゃないか、って」
「幻大陸の、監視……?」
何で、そんなことを? と問いかける。ルナは考え込むような仕草を見せて、苦い表情で口を開く。
「……神様が人間臭い、って定義で話をしちゃうけど。
人間が人間を殺して、どこかに埋めたりしたとしたら、一番気になるのは何だと思う?」
「い、いきなり物騒になったわね……。そうね……やっぱり、誰かに見つからないか、ってことでしょうね……」
「そう。しかも、その死体は本当に死体だったかどうかも不安に思うわよね? 後で息を吹き返して、ゾンビよろしく出てくるんじゃないか、って」
「まあ、素人なら死んでるかの判断も難しいだろうし……って、ルナ……。まさか……」
頷きながら、カノンも彼女が何を言おうとしているのか、大体の予想がついたらしい。訝しげに眉を寄せる。ルナはそれに頷き返す。
「……ルカシエル側の伝承によれば"魔物"は死んだことになってるけど。羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]の伝承によれば、奴は封じられたとなってるわ。
どちらが正しいかは解らないけど――
自分の殺した相手を守り続けるのに、一番確実な方法は何か――
答えは完全に息絶えて、誰も探そうとする者がいなくなるまで見張り続けることよ」
「……ちょっとちょっと」
さすがにストップをかける。話が突拍子もなくなってきた。
「話が飛躍してるわよ、ルナ。何? ルカシエルは幻大陸の番人で、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が――復活しないかどうか、見張ってる、なんて言いたいの?」
「……勿論、これはあたしの自説。一般論なんて言う気はないわ。そういうことも考えられないか、ってこと。
大体、ここ六千年、幻大陸そのものの存在さえ魔道師たちの間では疑われてきた。
まあ、言葉遊びだと思ってくれて構わないわ。ただ、堕天使ルカシエルが実在するなら、幻大陸と羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]が存在してもおかしくないなー、と思って、離れた点を無理矢理線で結んでみた推論よ。それだけの話。
調子に乗っちゃったけど、ゼルゼイルの幻大陸の話はこんなところかしらね」
ぱたん、と目の前で蔵書が閉じられる。反動の風が、カノンの前髪を巻き込んだ。
耳慣れない話を聞いたためか、少し頭がぼんやりしていた。その彼女に、ルナはくすりと笑いを漏らした。
蔵書を片付けて、講義は終わりだと言うようにペンを握る。
それにはっ、と気が付いて、カノンも慌てて立ち上がった。ルナの脇に置かれていたトレイを持つ。もうすっかり冷えていた。
「ごめん、大分邪魔したわね」
「いや、別に。必要なこともあったでしょうしね。
もうちょっと……そうね。進行状況によるけど、たぶん、明後日あたり、出ることになるかもしれないわ。レンに伝えておいて。」
「うん、解ったわ」
相槌を打って、来たときと同じように山の合間をすり抜けながら、ドアに向かう。ドアを開く寸前で、一度振り返ったが、そこでは小さな背中が、かりかりとペンの擦れる音を響かせるだけだ。
こっそりと溜め息を吐いて、カノンは部屋を後に――しようとして。
「……カノン」
「?」
逆に、呼び止められた。
「……ありがと。少し、気が紛れた」
「……」
少しだけ、驚いた。けれど、ゆっくりと笑みを浮かべる。見えはしないけれど。
言うべきではないのかもしれない。だって、彼女はもう十分以上に耐えて、必死になっている。けれど、せめてその背中をほんの少し押してあげたくて。
彼女が求めるのは、評価ではなく、結果だと知っていたから。
「…………うん、がんばって」
「……さんきゅ」
小さく、伝えた一言に。
返った返事が、自然な優しさを纏っていたことを、信じて。
カノンは、その小さな部屋のドアを閉じた。
背後で、扉が閉じる音が聞こえて。
ルナのペンを走らせる手が、止まった。いつのまにか口の中に溜まってしまった固唾を飲み込む。
ぱたん、とペンを倒すと、漏れたインクが羊皮紙を汚す。けれど、それにも構わずに、ルナはその手の甲を抑えた。
とうとう、扉が閉まるよりも先に、口に出来なかった。
「……ごめんね、カノン」
――本当に、あんたの親友とやらは、隠し事ばっかりね……
胸の中だけで、揶揄しながら。
ルナは椅子の上で宙を見る。
「エイロネイアの、皇太子……」
ぽつりと、呟いた瞳は、鋭く、その先の天井を貫くほどに、尖っていた。
――もし、またあの娘を狙うことがあったら、そのときは……!
石の床とはこんなにも音が響きやすいものだったのか。
先ほどからかつん、かつんと上がる自らの靴音を煩わしく思いながら、薄暗い照明だけを頼りに、レンは砦の内を巡回していた。
別に見回りの任を受けたわけでも何でもない。考え事をするときは、部屋にこもらないのが彼の主義だっただけである。
ぼんやりと見える石段に彩られた簡素な視界が、頭の中から余計なものを拭い去る。
シンシアに降りたその日に、カノンとルナの立てた立案は採用された。本来なら、いくらシェイリーンの承諾があったとしても、こう上手くは採択されない。
シンシアが、どれだけ土壇場に立たされているのかが伺える。
ルナは資料となる本や書類と共に、部屋に篭っている。バラック・ソルディーア周辺に位置する伝承の地を探索するためだ。
内戦真っ只中のシンシアが、それらを観光用に整備しているはずもない。ということは、未踏の遺跡を掘り返すような、調査団的な探索になるだろう。
万が一の場合を考えて、対魔道、対死術の能力に特化したカノンとレンを、調査団内に入れた彼女の判断は間違ってはいないと思う。シリアとアルティオは、留守番なんて、と最後まで愚痴ったが、客将として招かれている以上、誰一人、シンシアの拠点に残らないというのはまずい。シェイリーンの座を妬む貴族院に見立てが立たないし、特にシリアはヴァレスと共に、もう数日で結集する魔道師団の先導をルナから任せられていた。
魔道師団の動きにエイロネイアか貴族院か、どちらかが気づけば、荒事を招くことも考えられる。そのためにも要人護衛のためにアルティオがいた方がいい。
数日の間に、ティルスは各地の魔道師団に召集をかけ、シェイリーンは、貴族院に、この作戦の認証を得るため、帰都と演説の準備に追われている。シリアとアルティオはこの護衛も請け負う予定だった。
ラーシャは何枚かの書状を書いていた。各地の戦地に向けた帰島の連絡だろうか。もう少しすれば、彼女も戦場の最先端に戻るのかもしれない。
動きといえばそれだけだ。
しかし、どうにも、どこにもかしこにもぴりぴりとした空気が漂っていて肌に痛い。誰もが、背後から誰かに狙われていて、いきなり背中を刺されないか警戒している。疑心暗鬼を張り付けている。
これが戦場というものか。だとしたら、とてもじゃないが耐え切れない世界だ。
レンは疲労の溜め息を吐き出す。
彼の懸念はそれだけではなかった。
エイロネイアは、あの黒衣の皇太子は、この程度のことが読めない男だろうか。
大陸から来訪した一団に、優秀な魔道師が一人、違法者狩りが二人、混じっていて、この二番煎じの作戦が発布されることを予測していなかったのだろうか。
おそらくは、否だ。カノンやルナだって、それは解っているはず。解っていながら提案を出したのは、とりあえず、エイロネイアと同じ土俵に上がらなければ何も生まれないと考えたからだろう。
エイロネイア以上のことをする必要はない、と言っていたが、それは嘘だ。あの周到な皇太子は、これくらいのことが読めない男ではない。だとしたら、何らかの対策を練ってくるはず。
それが何なのかは解らない。しかし、今度は、今度はそれを防げなければ勝ちは、いや、引き分けもないのだ。
――シンシア以上に……俺たち自身も詰め、ということだな……。
そもそもあの皇太子は、何故このゼルゼイルという土地に、自分たちを呼び込んだのか――
それが、何より解らない。
「……前と、同じだな」
堂々巡り。答えの出ない問い。答えを出せるのは当人だけだろう。そのときにはもう、きっと手遅れなのだろうが……。
レンは力なく首を振る。滅入ってしまうより前に、気を張って、神経を研ぎ澄ます。
こんなことでは駄目だ。自らの役割一つ、こなせなくなってしまう。
レンにとっては、シンシアの勝利も敗北も、それこそエイロネイアの策謀も、どうでもいいことなのだ。本来なら。
ただ、止まることを知らない相棒が、親しい友人を慮った結果、こんな場所まで付き合って来てしまっただけのこと。
エイロネイア皇太子に向ける怒りはあっても、導火線に火がつくまでには至らない。どちらかといえば、火が着きやすい連中を花器から遠ざけて置きたかった。
……どこかの、自分に最も近しい無鉄砲者は、特に。
それでもなお、火に触れてしまったなら。その火に燃え尽きてしまわないように。
それだけは、己の役目だと決めていた。
あの誰よりも強く、そして弱い少女が、一人で歩ける日が来るまでは。
『……いつまで、あたしに付き合ってくれるの?』
「……」
この島を訪れる前、不意に問われた一言だった。あのときは有耶無耶となったが――
いつまで? そして、それからは? 自らが、遂げたいことは何なのか?
狩人に従事し、それ故に、それ以外の生き方を知らない。その袋小路に、最も囚われているのは、自分なのだろう。
そんなものへの、答えは、持っていなかった。
いつか、彼女と離れる日が来て、それからは、一体彼はどう生きていくのだろう。
……答えは出ない。エイロネイア皇太子の思惑なんかよりも余程、質が悪い。だって、答えが"ない"のだから。
考えたところで、
「……無駄だな」
思考を切った。そんなことを考えたところで、今は何の益にもならない。妙な迷いが生じるだけだ。
振り払うように首を振る。肩の力を抜くと、神経が昂ぶっていたのか、疲労感が身体を突き抜ける。
そのとき、不意に、
「・・・?」
その音が、聞こえた。
土の奏でる音色が、耳に届いて、名残を残しながらゆっくりと消える。
少しだけざらついた感触から唇を離すと、音色は途絶えて、余韻を残しながらもすっきりと消える。ふぅ、と息を吐くと、自然と体の力も抜けた。
大分、気が抜けていたのか。それとも、彼人がよほど気配を消すのが上手いのか。
足音に気がつくのが、一瞬、遅れた。
はっ、として警戒を叩きつけながら振り返る。自然と剣の柄に伸びた手が、視界に飛び込んだ、無表情な顔に止まる。
「れ、レン殿か。すまない。これは失礼を」
「……いや、逆なら同じことをしただろうな。気に止む必要はない」
返答があったことにラーシャは胸を撫で下ろす。どうもこの御人の鋭すぎる気配と目には馴れない。
敵愾心、なのだろうか。無理もないかもしれない。思えば、彼は終始、ゼルゼイルに客将として来訪することを良く思っていなかった。
彼はこちらを、信用も信頼もしていない。
「どうかなされましたか? こんな夜分に」
「――こんな夜分に、随分と風流な音が聞こえたものでな」
「………ああ」
合点がいった。
「すまない。耳障りでしたな」
「そんなこともないが……」
ラーシャは手の中の簡素な、素焼きの塊を眺めながら頭を下げた。
レンがそれを否定したのは本心からだったが、ラーシャはそうは思わなかったのだろうか。罰の悪そうな顔をして、それを懐に、隠すようにしまった。
「オカリナ、か。大分、吹き慣れているようだったが」
「………どうということは。遠い昔、ある人にいい加減に教わった程度です。
軍人の中には、楽器を嗜む者も多いのです。戦に身を置く者にとって、音楽というのは数少ない娯楽ですから」
「なるほど」
淡白な頷きを返して、彼はラーシャが持たれていた窓から外を覗き見る。
黒い森に隔たれていて、月は見えない。僅かな輝きが、存在を表しているだけで、あとは頼りない星明りだけが暗い石の居城を照らしている。
思えば、珍しい空間だ。向こうがラーシャを嫌っていたのか、不思議なほどにラーシャがレンと話を交わすことは少なかった。あるといえば、以前、機密でルナの手を借りていた際、問い詰められたときくらいだろうか。
平面状は静かで、冷静な男だが――
「……すいません」
「?」
唐突にラーシャが口にした謝罪を、不可思議に感じたのか、レンはほんの僅かな、訝しげな表情を作って無言で問い返す。
「貴方方を、この地へとお招きしたことです」
「……」
彼は尚も無言だった。機嫌は、良くないようだ。
当たり前だ。そんなこと、謝るくらいなら、最初から彼らに接触しなければ良かっただけの話なのだ。
けれど、結果的に接触してしまった。そして、こんな深い、戦の根幹を担うような場所に身を置かせてしまっている。
当初、彼らの手を借りるという案が出されたとき、軍人たちは様々な反応を見せた。
大陸人の力を借りるなんて。馬が合うはずがない。否定的な意見。
新しい風は必要だ。外との交流において、アドバンテージを執るべきだ。肯定的な意見。
ラーシャはシェイリーン側の人間だった。彼女を敬愛しているし、尊敬もしている。だから、基本的には肯定的な立場にいた。けれども、疑念がなかったと言えば嘘になる。
――何の非もない人間を、何の所以もないはずの、身勝手な戦に巻き込んでしまっていいものか。
彼が最初にきっぱりと断ったとき、ラーシャは軽い安堵さえ覚えたのだ。軍人としては失格だ。けれど、何の厭いもないのなら、きっと人間として失格なのかもしれない、と思った。
「……貴女は何のために、軍人をしているんだ?」
「え?」
思ってもいない問いだった。
「何のために、シンシアへ軍人として身を置いているんだ?」
「……何故、それを?」
「嫌なら聞き流してくれても構わない。だが、何の目的も信念もない人間に手を貸している、というのは些か気に障るのでな」
ああ、それはとても彼らしい理由だ。不謹慎だったが、少しだけ笑みが漏れてしまう。
ラーシャは灯りの暗い空に視線を迷わせる。少しだけ、表情をしかめて、短い溜め息を吐く。
「……まあ、そこまで大義ある理由ではないのだが」
「構わん」
「そうか。……退屈な話になる。一個人の、つまらない昔話だ。
私が騎士としてシンシアに仕官した理由は……私の生家が、代々ゼルゼイルの騎士だったことも勿論、理由の一つではあるのだが」
言葉を切って、窓辺にもたれ掛かる。浮かんだのは、やるせない憂いを秘めた表情。何故だか、ひどく寂しげな。
「……昔、私には、姉が一人いた」
昔は、という言い方をした。どういうことなのかは、想像に難くない。
「今は――いない。生きているのかも、解らない。
昔の私は、泣き虫の弱虫もいいところでな。少し転んだくらいで、まるで世界の終わりでも来たかのように泣き叫んでいた。父も母も手に負えなくてな。いつも姉に甘やかされて、やっと泣き止むほどだった。
呆れるほど、姉に頼りっぱなしの子供だったよ。私は」
「……」
「でも、姉は、ある日突然、私の前から姿を消した」
「姿を、消した?」
力なく頷くと、僅かな笑みを浮かべながら、二の腕を抱いた爪に力を入れる。
「……父上の出張中にな。行方知れずになった。当時はエイロネイアに誘拐されたのではないか、という話も流れたが、脅迫も何もなかった。
当時はエイロネイアとシンシアの関係も、今ほど露骨で深刻なものではなかったからな。冷戦のような状態だった。だからその話もいつの間にか流れてしまったが。
近くの谷川に落ちたのだとか、森に迷い込んで獣に食われてしまった、とか。
いくらでも要因が思いつく出来事だった。口さがない連中も多くてな。多数の噂に埋もれて、そのうち捜索も打ち切られてしまった。そのまま……今まで。延々と音沙汰も、噂さえ、何もない」
「……」
「子供だったからな。自分の周りで何が起きているのか解らなくて、また、泣いた。
でも、今度は慰めてくれる手もなかったからな……。
そのしばらく後だ。私が、騎士を志すようになったのは」
かちり、と彼女の腰に下げた剣が音を立てる。胸に下げた紋章が、星明りに嫌に生々しく反射した。
重い枷を選んだのは、彼女だ。
「思えば、ただの子供の妄想なのだが。姉は今もどこかで生きていると、何の根拠もなく信じて。
ならば、彼女が帰って来る家を、このシンシアという場所を、守り続けることが私の責務だと……思った。いや、教えられて、それが真理だと思った、だけの話だが」
窓辺にもたれていた足を退けて、剣の柄を掴む。
「……私にその生きがいとオカリナの吹き方を教えてくれた子も、あっさりと、唐突にいなくなってしまったよ。この時世だからな。生きているのか、死んでいるのかも、解らない。
それから気づいた。ただ、守られ、教えられているだけでは、共にいたいと思った人は、いなくなってしまうものなのだと。
……私は、もう二度と、目の前で誰かを失うのは御免だ。
そして過去の償いに……このゼルゼイルという地を、美しい国にしたい。姉と、私に真理を伝えてくれたような人が、今、生きているかもしれない。生きたかもしれないこの国を、良い国にしたい。
戦争が終わったとしても、その爪痕はこの国を苦しめるだろう。私は、その盾となりたい。
……それだけだ」
「……」
自身を軽視するように、静かに、しかし、小さな決意を宿しながら呟いた。レンの顔から毒気が抜ける。レンはずきずきと痛む頭を振り、胸のうちから込み上げる得体の知れないぞわぞわしたものを飲み下した。
「……妙なことを聞いた。すまない」
「いいや、私の方こそつまらない話を聞かせた。まあ、そんな下らない一個人の話だ。気にしなくでくれ」
ふっ、と彼女は笑う。懐に手を当てたのは、先ほどのオカリナに手を置いているのだろうか。
ほんの少し、表情を緩ませた後、きっ、と元のように目を尖らせて敬礼をする。
「この度の協力を感謝します。シンシアの名に懸けて、貴方方の想いを無にすることは致しませぬ。
……貴方方の身の上は、責任を持って、大陸へお返しいたします」
「……」
しっかりと、シンシアの、上級軍官の表情で。生きる理由を背負いながら、彼女は背を伸ばして立っていた。
レンは考え込むように目を伏せる。長い、長い溜め息が漏れた。
今の彼に、彼女の姿は、どう映ったのか。定かではなかったが。
彼は、極端的に、「解った」と口にしたのだった。
出立は、近かった。
←4へ
「……目的をはっきりさせましょう」
重苦しい沈黙に、しっかりと腰を据えて。
沈黙が造り出す重たさに、気圧されぬよう拳を固めて、カノンは立ち上がる。
膝の上で小さく手を組んでいたシェイリーンは、その気配に顔を上げる。ティルスとレスター、ヴァレスも細い目を彼女に向ける。
カノンは頬にかかった金の髪を払う。そうして、しっかりと碧い眼を見開いた。
「そっちの目的はあくまで和平条約の締結。でも、内部からも、当然外部からも圧力がかかってる。
このままじゃ身動きが取れない。それはいいわね?」
「そうです……」
「このままじゃとてもじゃないけど和平なんか結べないわ。
となれば、やらなくちゃいけないのは二点。
一つは、議会内の説得。あるいは権力の獲得。でも、これはあたしたちの本分じゃないし、この国にとっては余所者のあたしたちが何とか出来るようなもんじゃないわ。
シェイリーンの発言権を高めないとどうしようもない。
けど、もう一つ。
これが実現すれば、議会内でも発言権は高められるかもしれない」
「と、言いますと?」
ティルスが疑わしい目付きで彼女を見る。軍人ではない彼女が、何を説くつもりなのか、値踏みしている目だった。
それを真っ向から受け止めて、彼女は言う。
「エイロネイアとの戦力の拮抗を測ること」
ティルスは眉間に皺を寄せる。出来るものならとっくにやっている、という顔だ。
「まあ、待ちなさいよ。
軍人サンの方がこういうことは本分なんでしょうけど、言わせてもらうわ。
和平条約を結ぶ条件、ってのはいくつかあるわ。
大昔の大戦に倣うなら、ある国との他の国から戦争をしかけられた場合。でもこれは当てはまらない。
もしくは致命的な内部分裂を生んでしまった場合。これはシンシアに当てはまる。でも向こうさんには当てはまらない。その状態で和平を頼み込んでも、向こうには何の利益もないからむしろ好機と攻め込まれるのがオチ。
敵軍の戦力が自分の国を遥かに上回っている場合もこれに同じ。
……もう一つ。
お互いに戦力が拮抗していて、消耗戦にしかなりえない場合」
「それは……」
「ゼルゼイルはそんなに肥沃の土地でもないわよね? 海を隔てた土地で、西帝国も東大陸も、正式には援助なんかしていない。
消耗戦になれば、不毛な点がいくつも出てくる。
可能性があるとしたら、これしかないわ。
この状況を造り出すには、互いの戦力が常に拮抗していなければならない。
でも、逆に言えばよ。今の絶望的な戦力差を埋めることが出来れば、要するに戦果を上げることが出来れば、シェイリーンの議会での発言力も増すだろうし、和平とまではいかないかもしれないけど、あちらさんだって戦争を停止する理由にはなるわ」
「それは、そうですが……」
そんなことは解っている。言外にそう含んでティルスは言い募る。カノンはさらに言葉を重ねた。
「このとき、間違っても相手の戦力を大幅に上回っては駄目。シンシアの、国内、議会内ののタカ派を煽る結果にしかならないわ。
あくまでぎりぎりのところの戦力比を保つ。そうすれば、議会内にも、エイロネイアにも戦争停止を訴えるきっかけにはなる。
まあ、いきなり和平ってのは難しいだろうけど、シェイリーン様。貴方の目的は、とりあえず今の戦争を止めたいと、そういうことなんでしょ?」
「ええ、それはまあ……」
「だったら、あとは政治手腕の問題。それをあたしたちにどうこうすることは出来ないけど。
戦争を停止して、今まで戦争に回していた費用やら人件やらを国交にでも回せば、いろいろと事情は変わってくるでしょうよ。帝国でも味方につければ、万々歳ね。
その世代のことは解らないけど、ともかくそういう筋書きを描くなら、必要なのは戦力拮抗。
で、拮抗をどうやって導くか。
これもまた二通りの方法がある」
「……自分たちの戦力増強、もしくは敵陣の戦力減弱、ですね?」
カノンの提唱に、ヴァレスがふむ、と頷きながら答える。カノンはそれに頷き返した。対して、ティルスは憂鬱の溜め息を漏らした。
「で、それをどうやってやるんですか?
言って置きますが、シンシアに余計な戦力はありません。先ほど、ご説明した通り、今の戦力で相手の戦力を削げるとも思えません」
「何で?」
「ですから……」
「要求されているのはあくまで拮抗。相手の戦力を上回れ、なんて言っていないわ。
戦力を上回ろうとするなら、真似事じゃ無理。でも拮抗が目的なら、何も、こっちがやるのは二番煎じで構わないのよ」
「!?」
ティルスの眼鏡を弄くる所作が止まった。耳慣れない、信じ難い言葉を聞いた気がした。
それはラーシャもデルタも、またシェイリーンやレスターも同じだった。ライラは終始、無表情だがヴァレスは興味深げに息を吐いて、薄っすらと笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと待てカノン!」
慌てて彼女の言葉を止めたのはアルティオだった。
「お前、冗談だろ!? 自分が何言ってるか解ってるのか!?
二番煎じ、って! 違法者狩りのお前が、死術[ヴァン]の力を力を使おう、ってのか!?」
それはありえない矛盾だった。
違法者狩りの任を請け負っていた彼女が、その違法者の元凶である死術[ヴァン]を利用する。そんなことがあっていいものか。 彼女は、しばらくだけ瞑目する。
「別に死術[ヴァン]を使おう、ってわけじゃないわ。
そもそもその死術[ヴァン]は、このゼルゼイルの伝説や伝承を元に創られた、もしくはこの地に残っていた死術[ヴァン]が解放されたものと推測出来るんでしょう?
後者ならあたしたちの本分、前者なら……」
ふむ、と頷いて立ち上がったのはルナだった。
「やるしか、なさそうね……」
「ルナ殿?」
「ゼルゼイルの伝承ってのはね、大陸魔道師の造詣はあまり深くないわ。でも、あたしはいくつか知ってる。
……あの馬鹿が、昔話して、残していったからね。
伝承、伝説を元に戦争の道具を創った。なら、それは何千、何万年前かもその元となる術や呪法は作動していた。にもかかわらず、現代では片鱗しか残されていない。
―――ってことは、伝説には付き物の『何者かに封印されて』、『何かに相殺されて』、っていう節が伝承にあるはず。そこを探れば、弱点が着ける」
「しかし、そんなに簡単に……ッ!」
「簡単にはいかないわ。でもやってみる価値は十分にある。
……それに、突き詰めれば、本当にエイロネイアと同じ手になるかもしれないけど―――。
伝承・伝説から何かの武具や魔道具なんかを生成、もしくは発掘でもいい。そういうことが可能なら、十分利用出来る。
そうぽこぽことは見つからないと思うかもしれないけど、『月の館』の大陸魔道師として言わせてもらえば、一般的にそういったものが見つからないとされるのは、上の連中が秘密裏に処理してるからよ。
でも、ここに魔道師の上、なんてものは存在しない。けれど、ゼルゼイルにはまだまだ眠った魔道的な伝承が幾つもあるはず。 だからこそ、エイロネイアは半年でここまでの戦力を作り上げることが出来たんでしょう?
シンシア領内にだって、手付かずのそういう伝承上の怪しい場所は存在する。
……やってみる価値はあるわ」
「伝説、伝承を洗い出し、対抗策を模索する。
……それが成功すれば、エイロネイアへの対抗策が練られると同時に、新しい戦力が手に入る」
茫然と、シェイリーンが反芻する。同時にぎゅ、と拳を握り、
「でも、でも、それは本当に正しいことなんでしょうか……?
死人や、獣を操って、人を冒涜する、エイロネイアと、同じにならないと、言えるのでしょうか……?」
不安げに、紡ぐ。
二番煎じ、それは二の舞にも通じてしまう言葉。一歩間違えれば、いや、その思想をすること自体が、自分たちが非難するエイロネイアと同じことをしてしまう結果になるのではないか―――。
カノンは一瞬だけ、逡巡する。
だが、すぐに口を開いた。
「……確かに、利用するものは同じ。やることも同じ。
強い力を利用する、っていう点では、目的が違うだけでやってることはエイロネイアと同じなのかもしれないわ。
強い力を利用するのも狂気。……かつて、その狂気を狩るために、強い力を求めたあたしたちも、同じく狂気なのかもしれない」
カノンの言葉に、レンは腕を組んだまま、渋い顔で床を見る。そこにある感情がどんなものかは、図ることが出来ない。
「罵られてもいい。あたしも所詮は、強い力に溺れた一人なんだ、って。
でも、でも、それで救えたものがあるんだ、ってあたしは信じてる。たった一人の人間でも、救うことが出来たんだ、って信じてる。
このまま戦争が続いたらどうなの?
命は数量じゃ計れないけど、でも、何人が死ぬの?
あんたはそれが見たく無いから、和平を結びたいんじゃないの?
……力は強さだけが問題なんじゃない。そりゃ、強い力なんかない方がきっと幸せよ。無駄な戦いに巻き込まれたりしないし、謂れのない中傷を受けたりもしないし、戦争なんか起きないわ。
でも、それはきっと人間がいる限り不可能ね。
なら、一番大事なのはその力をどう使うか。どう守るか―――じゃないの?
シンシア領にある伝承の種がエイロネイアに渡ったら―――
このまま、歪んで生み出されたモノが戦争の道具に使われ続けたら―――
どうなるのか、あんたはあたしたちよりずっとよく知ってるでしょう?」
誰もが、シェイリーンのを"あんた"呼ばわりしているカノンを責めなかった。
彼女は決断を迫っているのだ。
新しい風は、シェイリーンが直々に求めたもののはずだった。その新しい風が、提唱したとんでもない策。
一歩間違えれば、とんでもないことになるかもしれない。エイロネイアを非難する資格さえ、失うかもしれない。
けれど。
その汚れた痛みを知らずして、一体何が救えるというのか。
目の前のカノンという少女は、たった一人の人間を救ったと言った。シェイリーンはその何倍もの人間を救わなければいけない立場にいた。
だから、彼女はカノンよりも、何十倍も心を痛めなくては、ならないのだ。
ならば―――
シェイリーンは大きく息を吸った。瞑目した瞳が、決意に染まる。そして不意に面を上げて、アメシストの瞳をかっと見開いた。
「……解りました」
ラーシャが、デルタが、ティルスが、レスターが、固唾を飲み込んだ。
「ティルス、レスター。至急、魔道部隊の隊長クラスを集めてください。私では、ゼルゼイルの魔道的伝承をカバーすることは出来ません。皆の協力を得なくては」
「はっ」
ティルスが最敬礼を構える。レスターも椅子から立ち上がると右に倣った。
「ラーシャ、準備が整うまでの前線指揮は任せます。これ以上、南方との境界線を譲るわけにはいきません」
「はっ」
「それと、ルナ様」
シェイリーンが立ち上がったままだったルナへ目をやる。
「どうやら貴方は、そちらの魔道学において、かなりの造詣が深い方のようです。
……願わくば、こちらの魔道師陣に、その手腕、授けていただけますか?」
「……私のような未熟者の腕でよろしいなら、ぜひ」
「でも、いいの、ルナ?」
傍らからシリアが横槍を入れる。
「伝承を集めて、それを戦争に使う―――シンシア側で。
それって、つまり、」
「いいのよ」
ルナは皆まで言わせなかった。
シンシア側で、エイロネイアと同じ策を実行する。その中心に身を置く。それはつまり―――
エイロネイアと、敵側の魔道師であるカシスと、真っ向から対決するということだ。
彼女は重い息を吐き出す。だが、それは憂鬱ではなく、小さな決意の前戯だった。
「―――覚悟は、決めてる。闇雲に会いに行ったって、あいつは人の話なんかこれっぽっちも聞きやしないわ。
だったら―――同じ土俵に上がる。それだけよ」
「……そう。だったら、何も言うことはないわね」
がたん、と椅子を蹴飛ばして彼女もまた立ち上がった。
「なら、さっさと手をつけましょう! さっさとあのお坊ちゃんの鼻の頭を明かしてやらないと、私は腹の虫が治まらないわ」
「同じく! 上等だ! 死人だろうが獣だろうが、敵じゃあねぇぜ! 返り討ちだぁ!!」
興奮気味のアルティオが双剣を担いで立ち上がる。
カノンはそれに呆れた息を吐いた。本当にもう、うちの連中はどうしてこう、揃いも揃って馬鹿ばかりなんだろうと。
息を吐いて。
相棒の姿を目に留める。
同じように、立ち上がった連中へ呆れた視線を送りながら、だがしかし、口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
「本当に、頼もしい方々ですね」
くすくすと、笑いながらシェイリーンは口にする。ラーシャが同意するように微笑んだ。
ルナがふと、てきぱきと書類を用意し始めていたティルスに目を止める。
「ちょっと聞きたいんだけど―――」
「?」
「シンシア領の、遺跡だの何だのまで描かれた地図、ってある?」
「ええ、御座いますが。何か?」
「ルナ?」
唐突な申し出に、カノンは首を傾げた。伝承を調べる、ということはそういう場所も調べなくてはならないだろう。
その土地の伝承を把握するのに、歴史的な遺跡や遺物を探索するのは定石だ。
けれど、彼女の問うたその言葉は、何か別の意図があったような気がした。
ティルスが棚の後ろから引きずり出した、古びた地図を受け取ったルナは、こちらに―――カノンとレンへ振り返って、視線を寄こす。
「ルナ?」
「……伝承と死術[ヴァン]を机上で調べるのなら、軍内の魔道師にも出来る。
だから、カノン、レン。一つ、提案があるんだけど……」
その地図を広げながら。
決意を秘めた魔道師は、緑青の瞳を上げた。
がらがっしゃん!
「……」
背後から聞こえた粗暴な音に、カシスの額に血管が浮く。
その音にも、目の前でぐにゃりと曲がってしまった、たった今細工していた魔道具の基となるはずだったバングルにも。
その元凶にも、勿論。
砦の最奥にある、大して広くもない部屋に物が詰め込まれているのだ。背後にある惨状を想像するのは難くなく。
背後で聞こえる「いつつ……」という声にも振り向かない。彼は机上に上げていた、膨大な数の蔵書中でも、もっとも重そうなものを手に取った。
「こんの……くそガキがぁッ!!」
どすッ!! ばささッ!!
分厚い本の角はそれだけで凶器になる。にも関わらず、遠慮も何もなく放った蔵書は、放物線を描いて、その場にへたり込んでいた少年の、薄炎色の頭にクリーンヒットした。
凶器紛いの塊から受けた痛みに、エノはたまらずに蹲る。蹲るが、頭を押さえながら上げた顔は、カシスに負けず劣らずの怒りの形相だった。
「いってぇな! 何しやがるんだ、若年寄りッ!!」
「黙りやがれこのくそガキ、この髪は生まれつきだッ! 俺のいる部屋でがたがた騒ぐんじゃねぇって何度言ったら理解出来る、低脳がッ!! そこら辺のモンやたら滅多に触るんじゃねぇ、てめぇの一生分の給料の何倍すると思ってんだ、あァッ!?」
耳を劈くような柄の悪い声を上げて、カシスは少年の胸倉を掴み上げる。エノは目を血走らせながら、それを睨み返し、ぶら下げられた状態で拳を握った。
だが、固められた拳が、その威力を発揮するよりも早く、乾いた拍手が二度、鳴った。それは賞賛ではなく、人を諫めるためのものだ。
その手の持ち主が誰か、真っ先に勘付いたエノは握っていた拳を解いた。カシスは忌々しげな目をドアへと投げる。
「はいはい、そこまで。暴力沙汰は許可してないよ、二人共」
ドアの向こうの、廊下の闇を背にして、黒衣を纏った少年が呆れた視線を向けている。腰元にしがみ付いた黒髪の少女は、脅えるような、しかし非難の眼差しを投げている。
カシスはその姿に舌打ちをすると、どさり、と吊り下げていたエノを床へと解放する。
尻餅をついたエノはわたわたと空を掻いて、少年の元に行く。傍らの少女と同じく、その背に隠れて、カシスを睨みながら、うーッ! と威嚇のような声を上げた。
「犬か」
「ンだとてめーッ!」
「エノ、少しは感情をコントロールすることを覚えなさい。カシスも。無駄に煽るのはやめてくれ。
……まったく、何で君たちはこう上手くやれないんだろうねぇ」
「冗談言うな、皇太子。どんな人間にも相性がある。俺にはどうもそこの、原始人のガキの行動が信じらんなくてね」
カシスは溜め息を吐くと、彼によって撒き散らされた工具の山に座り込む。歪んでしまった幾つかの細工物を手にとって、大仰に二度目の溜め息を吐いて首を振った。
常人から見たそれはガラクタにしか見えない。が、彼にとっては宝を造り出すための礎だ。それを理解できる人間は、あまりに少ないのだけれど。
皇太子と呼ばれる黒の少年は、似たような溜め息を吐く。
「エノ。何度も言うようだけど、彼はエイロネイアにとって貴重なブレーンであり、協力者だ。
あまり邪魔しないように」
「だって……ッ!」
「彼の研究はそのままエイロネイアの戦果に結びつく。逆に言えば、彼の研究が遅延すればするほど、戦力が低下する恐れがある。
……君は、エイロネイアの邪魔をしたいわけじゃないだろう?」
「……ッ!」
さらりと向けられた正論に、反する術を彼が持っているはずもない。
納得のいかない顔で、唇を尖らせながらも、押し黙ってしまった頭を皇太子はぽんぽん、と二度叩く。
「少し頭を冷やしておいで。そろそろ食事の時間だから、先に食堂に行っていなさい。
僕は少し彼と話がある」
少年は『食事』の一言にぱっ、と顔を上げた。うんうんと頷くと、先ほどまでの遺恨が嘘のように軽快に廊下へと向かう。
慌しい足音を聞きながら、部屋の主はけっと唾を吐き出した。
「何だかんだでメシか。ガキ丸出しだ」
「子供がぐずるときは決まって眠いときか、お腹が空いているときだよ。大して難しいものじゃない。
僕からすれば、君の方が余程扱いづらい」
「だったらさっさと手を切るか?」
「冗談。何のために膨大な軍費を君に渡してると思う?」
はっ、と嘲笑うように吐き出すと、カシスはデスクへ戻る。普通だったら火気厳禁の場所だが、彼は平気な顔で煙草を取り出した。きな臭さが鼻をつく。
加えて火をつけて、紫煙が昇るよりも先に、皇太子は口を開く。
「朗報だよ。シンシアの魔道師勢が動き出したようだ」
「へぇ?」
煙草を加えたカシスの口元が、笑みの形につり上がる。
「で、目的は何だ?」
「君が睨んだ通り。シンシアもゼルゼイル内の魔道書に着手したようだね。おそらく、目的はこちらと同じだよ」
ふーっ、と細い紫煙が吐き出される。煙たい匂いに、皇太子は僅かに顔を顰めたが、彼がそれに気を使うことはなかった。
「まぁなぁ……。その程度の発想はするよなぁ?
シンシアも結局は同じ穴のムジナ、ってことか。世の中綺麗事で収まりなんぞつかねぇもんなぁ?
ましてや、指揮が取れそうな魔道師を手に入れられたら尚更だ。くっくっく、あいつめ、俺と全面戦争する腹積もりか」
「たぶんね。まあ、戦争にまで持っていくのか疑問だけど」
「そりゃあ、そうだろう。シェイリーン=ラタトスはご丁寧にも、和平をお題目に掲げてる。戦力を上回ろう、なんて考えちゃあいねぇさ。せいぜい、あちら側は二番煎じで十分目的が果せるんだ」
「……正攻法なら、それでもいいんだろう。でも、それじゃ駄目なんだ、それじゃあ……」
少年は細い顎に指を乗せる。「それじゃあ駄目だ」と繰り返し唱えながら、何事か思考する。
「……ルナ=ディスナーは、本当に君の思った通りの行動に出ると思う?」
「十中八九。まあ、元々あいつはインドアよりアウトドア派の魔道師だからな。全部、机上で済まそうとはしねぇはずだ。
ましてや違法者狩りなんてものがいれば、死術[ヴァン]の発想は絶対にする。
だったら、何を起こすか読むのは簡単だ」
「けれど、もし彼女がシンシア領の探索に乗り出したとしても、だ。
その護衛にヴェッセルとザインが就く、というのは些か早計じゃないかい?」
「さて、そりゃあどうかな?
軍隊内じゃあ、そんな早急に護衛なんぞ付けられねぇ。けど、事は急を要する。だったら仲間内から護衛を引っ張るさ。だったら、ベストなのは違法者狩りなんて経験持ってる奴を連れていくだろ。
さすがに二人共引っ張っていくかは知らんがな。
けど、あいつらはタッグ組みだろ? 戦い方を見りゃ解る。揃って戦ったときが一番、ベストの状態だ。だったら、普通の司令官なら組ませるさ」
「まあ、確かにそうだけど……」
ふむ、と声を漏らして皇太子は頷く。しばし、思案してぼそぼそと独り言を繰り返すと、大きく息を吐き出した。
「……解った。その筋で行こう。
一応、保険はかけておくけどね。シンシア内部の諜報員に連絡を取っておくよ」
「おいおい、ちょいと面倒な事態にならねぇか?」
「大丈夫だよ。どうにしろ、今の内部員もそろそろ潮時だ。引き際だね。最後に一仕事してもらう、くらいに考えればいい」
「尻尾切りか。くっくっく、怖ぇ怖ぇ……」
「人聞きの悪い事は言わないでくれるかな。最善手があれば、それに帰順する。限った話じゃないよ。
それより、例の準備は終わってる?」
問い返されて、カシスはふと笑いを止める。毒々しい赤い眼をきろり、と動かしてやや斜めの壁を見た。形の良い顎でくい、と指す。
少年はそれに従って、彼の指す壁際に視線を向ける。
一振りの、剣が掲げられていた。
長さ、重量、共にバスタード並に見受けられる。刃は銀の鞘に閉ざされて、けして明るくない照明を紫に照り返す宝石を中心に、銀の蔦がすらりと伸びた柄に絡まっている。
重量を感じさせる沈んだ輝き。触れれば、そのまま指先が凍りついてしまうのではないかと、錯覚さえ覚えそうな。
視線で触れても大丈夫か、と問いかけると、「まだ起動させてない」という返答が返って来た。良い、ということだ。
少年は剣の柄に手を伸ばす。どっしりとした重みが手にかかった。柄と、鞘とを支えて、壁から降ろす。不釣合いな重さに、少しだけふらついた。
「……結構、重いね」
「そっちの方が都合が良いと思ったからな。遠慮なくやらせてもらった」
「ああ、そうかもね。いい出来だ」
「ったりまえだ、俺を誰だと思ってやがる」
青年の悪態に、皇太子はふ、と満足げに笑みを浮かべた。紫の、妖気を放つ柄を撫でると、ひやりとした感触が指先を走る。
「あー、いたいた。殿下ー……って、薬臭!
ちょっと、どうにかならないの、この部屋ッ」
呼ばれると同時に文句が飛んで来る。振り返ると、ドアの側に装飾を貼り付けた白い軍服の男と、紺のローブを纏った栗色の髪の女が立っていて、共に鼻を抑えていた。
その来客に、カシスは天井を仰いで舌を打つ。
「え、エレメント中尉~……。こんなところでよく平気ですね……」
「カシスー、貴方そのうち中毒になるわよ。というよりもうなってるんじゃない?」
「余計なお世話だカマじじぃ。それと引っ込んでろ厚化粧」
「はぁッ!? あんた、今、言ってはならないことを言ったわねーッ! 表に出なさいこの若白髪ッ!!」
「ああもう……ッ。 カシスッ! 誰彼構わず、喧嘩は売らない。エリシアは買わないッ。
頼むからこれ以上、僕の頭痛の種を増やさないでくれ」
包帯の巻かれた額を抑えながら、覇気のない声で叱り飛ばす。さすがに彼にまで文句を垂れる気はないらしく、エリシアはふん、と鼻を鳴らしながらも腕を組んで黙す。
リーゼリアは何か言いたげだったが、皇太子の手前、我慢することを選んだらしい。両手で自らの唇を押さえていた。
「それで、二人共、僕に何か用?」
「え、ええと……あの、港の警備体制のランクを下げたことと……。
あと、あの、殿下当てに帝都から通達が……」
「通達? 誰から?」
「陛下からよ」
「…………ああ」
言われて彼は、すぐにはその意を解することが出来なかったらしい。陛下。現エイロネイア皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア。
つまりは、彼の父親だ。
しかし、答えた彼の声は甚だ無感情な相槌だった。
「大陸から帰って来て、帝都には行かないで直接こっちまで来たんですって? お仕事熱心なのはいいけれど、親子のコミュニケーションが足りてないんじゃなぁい?
陛下、寂しがってるんじゃないの?」
「寂しがる? あの人が?」
エリシアの言葉に、彼は小さく笑った。心底、可笑しそうに。それでいて、何故か少しだけ自嘲めいて。
「……冗談。あの人にそんな高尚な感情はないさ。
大方、新しい種馬でも見つけたんだろうよ。適当にあしらって置いてくれ。僕はどうも、貴族間の性欲と野心旺盛なご婦人方は苦手でね」
「あらあら、陛下も報われないこと。早く孫の顔が見たいんじゃないの?」
「かもね。自分が生きているうちに、自分の遺伝子が受け継がれた証が見たいんだろうさ」
「殿下……そんなこと」
「……」
リーゼリアが居た堪れない表情で、何かを口にする。だが、それは言葉にはならなかった。
表情こそ変えないが、彼の腰元に張り付いたシャルも、哀れむように、くん、と彼の袖を引いた。笑いを漏らした彼は、優しく彼女の頭を撫でる。
「くすっ……大丈夫。ちゃんと半分くらいは冗談だ。
まあ、でも今すぐには戻れないよ。これから、ちょっと大仕事がある」
「大仕事?」
リーゼリアはこくん、と首を傾げたが、エリシアはひゅう、と口笛を吹いて、彼の手にある剣を、そしてカシスを見た。
もっとも、カシスはそれに答えることなどせずに、ふと気がついたように近くの棚を漁り始める。
さして間を置かず、人の頭ほどの大きさをした紙袋を取り出した。その袋の大きさに、エリシアがぴくり、と反応する。
ふと気がついた皇太子が、袋を受け取ると、がさりと音がした。
「まあ一応、一ヶ月分だ。いつもと同じだな。中にそいつの使用書も入ってる。好きにしろ」
「……ありがとう。助かるよ」
言葉では例を述べているのに、その声は何故だかひどく無機質だった。心配の二文字を顔に張り付かせたシャルが、もう一度、彼の服の裾を引いた。
今度は、彼は小さく首を振るだけだった。
彼は剣を両手で支えながら、袋を腰に吊り下げた。その場にいた三人の顔を見回して、頷く。
「……君たちは僕の代わりに一度、帝都に帰還してくれ。アリッシュにはこれからの動きのことを伝えてあるから問題ない」
「あの人、最近音沙汰ないけど。大丈夫なんでしょうねぇ……」
「大丈夫。それは古い付き合いの君が一番、よく知っているだろう? 彼のことだ。いろいろと事後処理をしてくれているんだと思うよ。
心配はいらない。帝都に戻ったら歓迎の準備をして置いてくれ」
「歓迎……?」
「はーい、殿下ぁ。いってらしゃーい」
リーゼリアの訝しげな声と、エリシアの軽快な声に見送られて、かの皇太子は意味ありげな微笑みだけを残し、一振りの重厚な剣を抱えたまま部屋を後にする。シャルと呼ばれる少女も、無感情な顔を下げた後、いつものようにその背を追って行った。
リーゼリアは密かにそれに舌を出して、異性のくせに金の髪のやたらと美人な同僚を見上げた。
「エリシア様ー? ロレン様の言ってた『歓迎』、って何のことですかぁ?」
「あァ? てめぇ、何も聞いてねぇのか?」
「はい? エレメント中尉もご存知なんですか?」
「あらあら、リーゼちゃんてば遅れてるわねぇ。駄目よー、年頃の女の子なら速攻で流行を追わないと」
「それとこれとは関係ないですし、余計なお世話です。何の話なんですか?」
自分だけ置いていかれたような気がして、少しむっとしながらリーゼリアが言う。エリシアはそれに笑みを返す。微笑みではない。朱を引いた唇の端を吊り上げて、何かを含んだような、楽しむかのような、嘲り笑い。
くっくっく、と耳慣れてしまった不気味な笑いがその背後から漏れる。
どうやら彼らにとっては、余程愉快なことらしいが、リーゼリアは首を傾げるばかりだった。
「何の『歓迎』かなんて、そんなの、決まっているじゃない」
数秒の間を空けて、ようやくエリシアが答える。
「――― 七人目の、よ」
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重苦しい沈黙に、しっかりと腰を据えて。
沈黙が造り出す重たさに、気圧されぬよう拳を固めて、カノンは立ち上がる。
膝の上で小さく手を組んでいたシェイリーンは、その気配に顔を上げる。ティルスとレスター、ヴァレスも細い目を彼女に向ける。
カノンは頬にかかった金の髪を払う。そうして、しっかりと碧い眼を見開いた。
「そっちの目的はあくまで和平条約の締結。でも、内部からも、当然外部からも圧力がかかってる。
このままじゃ身動きが取れない。それはいいわね?」
「そうです……」
「このままじゃとてもじゃないけど和平なんか結べないわ。
となれば、やらなくちゃいけないのは二点。
一つは、議会内の説得。あるいは権力の獲得。でも、これはあたしたちの本分じゃないし、この国にとっては余所者のあたしたちが何とか出来るようなもんじゃないわ。
シェイリーンの発言権を高めないとどうしようもない。
けど、もう一つ。
これが実現すれば、議会内でも発言権は高められるかもしれない」
「と、言いますと?」
ティルスが疑わしい目付きで彼女を見る。軍人ではない彼女が、何を説くつもりなのか、値踏みしている目だった。
それを真っ向から受け止めて、彼女は言う。
「エイロネイアとの戦力の拮抗を測ること」
ティルスは眉間に皺を寄せる。出来るものならとっくにやっている、という顔だ。
「まあ、待ちなさいよ。
軍人サンの方がこういうことは本分なんでしょうけど、言わせてもらうわ。
和平条約を結ぶ条件、ってのはいくつかあるわ。
大昔の大戦に倣うなら、ある国との他の国から戦争をしかけられた場合。でもこれは当てはまらない。
もしくは致命的な内部分裂を生んでしまった場合。これはシンシアに当てはまる。でも向こうさんには当てはまらない。その状態で和平を頼み込んでも、向こうには何の利益もないからむしろ好機と攻め込まれるのがオチ。
敵軍の戦力が自分の国を遥かに上回っている場合もこれに同じ。
……もう一つ。
お互いに戦力が拮抗していて、消耗戦にしかなりえない場合」
「それは……」
「ゼルゼイルはそんなに肥沃の土地でもないわよね? 海を隔てた土地で、西帝国も東大陸も、正式には援助なんかしていない。
消耗戦になれば、不毛な点がいくつも出てくる。
可能性があるとしたら、これしかないわ。
この状況を造り出すには、互いの戦力が常に拮抗していなければならない。
でも、逆に言えばよ。今の絶望的な戦力差を埋めることが出来れば、要するに戦果を上げることが出来れば、シェイリーンの議会での発言力も増すだろうし、和平とまではいかないかもしれないけど、あちらさんだって戦争を停止する理由にはなるわ」
「それは、そうですが……」
そんなことは解っている。言外にそう含んでティルスは言い募る。カノンはさらに言葉を重ねた。
「このとき、間違っても相手の戦力を大幅に上回っては駄目。シンシアの、国内、議会内ののタカ派を煽る結果にしかならないわ。
あくまでぎりぎりのところの戦力比を保つ。そうすれば、議会内にも、エイロネイアにも戦争停止を訴えるきっかけにはなる。
まあ、いきなり和平ってのは難しいだろうけど、シェイリーン様。貴方の目的は、とりあえず今の戦争を止めたいと、そういうことなんでしょ?」
「ええ、それはまあ……」
「だったら、あとは政治手腕の問題。それをあたしたちにどうこうすることは出来ないけど。
戦争を停止して、今まで戦争に回していた費用やら人件やらを国交にでも回せば、いろいろと事情は変わってくるでしょうよ。帝国でも味方につければ、万々歳ね。
その世代のことは解らないけど、ともかくそういう筋書きを描くなら、必要なのは戦力拮抗。
で、拮抗をどうやって導くか。
これもまた二通りの方法がある」
「……自分たちの戦力増強、もしくは敵陣の戦力減弱、ですね?」
カノンの提唱に、ヴァレスがふむ、と頷きながら答える。カノンはそれに頷き返した。対して、ティルスは憂鬱の溜め息を漏らした。
「で、それをどうやってやるんですか?
言って置きますが、シンシアに余計な戦力はありません。先ほど、ご説明した通り、今の戦力で相手の戦力を削げるとも思えません」
「何で?」
「ですから……」
「要求されているのはあくまで拮抗。相手の戦力を上回れ、なんて言っていないわ。
戦力を上回ろうとするなら、真似事じゃ無理。でも拮抗が目的なら、何も、こっちがやるのは二番煎じで構わないのよ」
「!?」
ティルスの眼鏡を弄くる所作が止まった。耳慣れない、信じ難い言葉を聞いた気がした。
それはラーシャもデルタも、またシェイリーンやレスターも同じだった。ライラは終始、無表情だがヴァレスは興味深げに息を吐いて、薄っすらと笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと待てカノン!」
慌てて彼女の言葉を止めたのはアルティオだった。
「お前、冗談だろ!? 自分が何言ってるか解ってるのか!?
二番煎じ、って! 違法者狩りのお前が、死術[ヴァン]の力を力を使おう、ってのか!?」
それはありえない矛盾だった。
違法者狩りの任を請け負っていた彼女が、その違法者の元凶である死術[ヴァン]を利用する。そんなことがあっていいものか。 彼女は、しばらくだけ瞑目する。
「別に死術[ヴァン]を使おう、ってわけじゃないわ。
そもそもその死術[ヴァン]は、このゼルゼイルの伝説や伝承を元に創られた、もしくはこの地に残っていた死術[ヴァン]が解放されたものと推測出来るんでしょう?
後者ならあたしたちの本分、前者なら……」
ふむ、と頷いて立ち上がったのはルナだった。
「やるしか、なさそうね……」
「ルナ殿?」
「ゼルゼイルの伝承ってのはね、大陸魔道師の造詣はあまり深くないわ。でも、あたしはいくつか知ってる。
……あの馬鹿が、昔話して、残していったからね。
伝承、伝説を元に戦争の道具を創った。なら、それは何千、何万年前かもその元となる術や呪法は作動していた。にもかかわらず、現代では片鱗しか残されていない。
―――ってことは、伝説には付き物の『何者かに封印されて』、『何かに相殺されて』、っていう節が伝承にあるはず。そこを探れば、弱点が着ける」
「しかし、そんなに簡単に……ッ!」
「簡単にはいかないわ。でもやってみる価値は十分にある。
……それに、突き詰めれば、本当にエイロネイアと同じ手になるかもしれないけど―――。
伝承・伝説から何かの武具や魔道具なんかを生成、もしくは発掘でもいい。そういうことが可能なら、十分利用出来る。
そうぽこぽことは見つからないと思うかもしれないけど、『月の館』の大陸魔道師として言わせてもらえば、一般的にそういったものが見つからないとされるのは、上の連中が秘密裏に処理してるからよ。
でも、ここに魔道師の上、なんてものは存在しない。けれど、ゼルゼイルにはまだまだ眠った魔道的な伝承が幾つもあるはず。 だからこそ、エイロネイアは半年でここまでの戦力を作り上げることが出来たんでしょう?
シンシア領内にだって、手付かずのそういう伝承上の怪しい場所は存在する。
……やってみる価値はあるわ」
「伝説、伝承を洗い出し、対抗策を模索する。
……それが成功すれば、エイロネイアへの対抗策が練られると同時に、新しい戦力が手に入る」
茫然と、シェイリーンが反芻する。同時にぎゅ、と拳を握り、
「でも、でも、それは本当に正しいことなんでしょうか……?
死人や、獣を操って、人を冒涜する、エイロネイアと、同じにならないと、言えるのでしょうか……?」
不安げに、紡ぐ。
二番煎じ、それは二の舞にも通じてしまう言葉。一歩間違えれば、いや、その思想をすること自体が、自分たちが非難するエイロネイアと同じことをしてしまう結果になるのではないか―――。
カノンは一瞬だけ、逡巡する。
だが、すぐに口を開いた。
「……確かに、利用するものは同じ。やることも同じ。
強い力を利用する、っていう点では、目的が違うだけでやってることはエイロネイアと同じなのかもしれないわ。
強い力を利用するのも狂気。……かつて、その狂気を狩るために、強い力を求めたあたしたちも、同じく狂気なのかもしれない」
カノンの言葉に、レンは腕を組んだまま、渋い顔で床を見る。そこにある感情がどんなものかは、図ることが出来ない。
「罵られてもいい。あたしも所詮は、強い力に溺れた一人なんだ、って。
でも、でも、それで救えたものがあるんだ、ってあたしは信じてる。たった一人の人間でも、救うことが出来たんだ、って信じてる。
このまま戦争が続いたらどうなの?
命は数量じゃ計れないけど、でも、何人が死ぬの?
あんたはそれが見たく無いから、和平を結びたいんじゃないの?
……力は強さだけが問題なんじゃない。そりゃ、強い力なんかない方がきっと幸せよ。無駄な戦いに巻き込まれたりしないし、謂れのない中傷を受けたりもしないし、戦争なんか起きないわ。
でも、それはきっと人間がいる限り不可能ね。
なら、一番大事なのはその力をどう使うか。どう守るか―――じゃないの?
シンシア領にある伝承の種がエイロネイアに渡ったら―――
このまま、歪んで生み出されたモノが戦争の道具に使われ続けたら―――
どうなるのか、あんたはあたしたちよりずっとよく知ってるでしょう?」
誰もが、シェイリーンのを"あんた"呼ばわりしているカノンを責めなかった。
彼女は決断を迫っているのだ。
新しい風は、シェイリーンが直々に求めたもののはずだった。その新しい風が、提唱したとんでもない策。
一歩間違えれば、とんでもないことになるかもしれない。エイロネイアを非難する資格さえ、失うかもしれない。
けれど。
その汚れた痛みを知らずして、一体何が救えるというのか。
目の前のカノンという少女は、たった一人の人間を救ったと言った。シェイリーンはその何倍もの人間を救わなければいけない立場にいた。
だから、彼女はカノンよりも、何十倍も心を痛めなくては、ならないのだ。
ならば―――
シェイリーンは大きく息を吸った。瞑目した瞳が、決意に染まる。そして不意に面を上げて、アメシストの瞳をかっと見開いた。
「……解りました」
ラーシャが、デルタが、ティルスが、レスターが、固唾を飲み込んだ。
「ティルス、レスター。至急、魔道部隊の隊長クラスを集めてください。私では、ゼルゼイルの魔道的伝承をカバーすることは出来ません。皆の協力を得なくては」
「はっ」
ティルスが最敬礼を構える。レスターも椅子から立ち上がると右に倣った。
「ラーシャ、準備が整うまでの前線指揮は任せます。これ以上、南方との境界線を譲るわけにはいきません」
「はっ」
「それと、ルナ様」
シェイリーンが立ち上がったままだったルナへ目をやる。
「どうやら貴方は、そちらの魔道学において、かなりの造詣が深い方のようです。
……願わくば、こちらの魔道師陣に、その手腕、授けていただけますか?」
「……私のような未熟者の腕でよろしいなら、ぜひ」
「でも、いいの、ルナ?」
傍らからシリアが横槍を入れる。
「伝承を集めて、それを戦争に使う―――シンシア側で。
それって、つまり、」
「いいのよ」
ルナは皆まで言わせなかった。
シンシア側で、エイロネイアと同じ策を実行する。その中心に身を置く。それはつまり―――
エイロネイアと、敵側の魔道師であるカシスと、真っ向から対決するということだ。
彼女は重い息を吐き出す。だが、それは憂鬱ではなく、小さな決意の前戯だった。
「―――覚悟は、決めてる。闇雲に会いに行ったって、あいつは人の話なんかこれっぽっちも聞きやしないわ。
だったら―――同じ土俵に上がる。それだけよ」
「……そう。だったら、何も言うことはないわね」
がたん、と椅子を蹴飛ばして彼女もまた立ち上がった。
「なら、さっさと手をつけましょう! さっさとあのお坊ちゃんの鼻の頭を明かしてやらないと、私は腹の虫が治まらないわ」
「同じく! 上等だ! 死人だろうが獣だろうが、敵じゃあねぇぜ! 返り討ちだぁ!!」
興奮気味のアルティオが双剣を担いで立ち上がる。
カノンはそれに呆れた息を吐いた。本当にもう、うちの連中はどうしてこう、揃いも揃って馬鹿ばかりなんだろうと。
息を吐いて。
相棒の姿を目に留める。
同じように、立ち上がった連中へ呆れた視線を送りながら、だがしかし、口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
「本当に、頼もしい方々ですね」
くすくすと、笑いながらシェイリーンは口にする。ラーシャが同意するように微笑んだ。
ルナがふと、てきぱきと書類を用意し始めていたティルスに目を止める。
「ちょっと聞きたいんだけど―――」
「?」
「シンシア領の、遺跡だの何だのまで描かれた地図、ってある?」
「ええ、御座いますが。何か?」
「ルナ?」
唐突な申し出に、カノンは首を傾げた。伝承を調べる、ということはそういう場所も調べなくてはならないだろう。
その土地の伝承を把握するのに、歴史的な遺跡や遺物を探索するのは定石だ。
けれど、彼女の問うたその言葉は、何か別の意図があったような気がした。
ティルスが棚の後ろから引きずり出した、古びた地図を受け取ったルナは、こちらに―――カノンとレンへ振り返って、視線を寄こす。
「ルナ?」
「……伝承と死術[ヴァン]を机上で調べるのなら、軍内の魔道師にも出来る。
だから、カノン、レン。一つ、提案があるんだけど……」
その地図を広げながら。
決意を秘めた魔道師は、緑青の瞳を上げた。
がらがっしゃん!
「……」
背後から聞こえた粗暴な音に、カシスの額に血管が浮く。
その音にも、目の前でぐにゃりと曲がってしまった、たった今細工していた魔道具の基となるはずだったバングルにも。
その元凶にも、勿論。
砦の最奥にある、大して広くもない部屋に物が詰め込まれているのだ。背後にある惨状を想像するのは難くなく。
背後で聞こえる「いつつ……」という声にも振り向かない。彼は机上に上げていた、膨大な数の蔵書中でも、もっとも重そうなものを手に取った。
「こんの……くそガキがぁッ!!」
どすッ!! ばささッ!!
分厚い本の角はそれだけで凶器になる。にも関わらず、遠慮も何もなく放った蔵書は、放物線を描いて、その場にへたり込んでいた少年の、薄炎色の頭にクリーンヒットした。
凶器紛いの塊から受けた痛みに、エノはたまらずに蹲る。蹲るが、頭を押さえながら上げた顔は、カシスに負けず劣らずの怒りの形相だった。
「いってぇな! 何しやがるんだ、若年寄りッ!!」
「黙りやがれこのくそガキ、この髪は生まれつきだッ! 俺のいる部屋でがたがた騒ぐんじゃねぇって何度言ったら理解出来る、低脳がッ!! そこら辺のモンやたら滅多に触るんじゃねぇ、てめぇの一生分の給料の何倍すると思ってんだ、あァッ!?」
耳を劈くような柄の悪い声を上げて、カシスは少年の胸倉を掴み上げる。エノは目を血走らせながら、それを睨み返し、ぶら下げられた状態で拳を握った。
だが、固められた拳が、その威力を発揮するよりも早く、乾いた拍手が二度、鳴った。それは賞賛ではなく、人を諫めるためのものだ。
その手の持ち主が誰か、真っ先に勘付いたエノは握っていた拳を解いた。カシスは忌々しげな目をドアへと投げる。
「はいはい、そこまで。暴力沙汰は許可してないよ、二人共」
ドアの向こうの、廊下の闇を背にして、黒衣を纏った少年が呆れた視線を向けている。腰元にしがみ付いた黒髪の少女は、脅えるような、しかし非難の眼差しを投げている。
カシスはその姿に舌打ちをすると、どさり、と吊り下げていたエノを床へと解放する。
尻餅をついたエノはわたわたと空を掻いて、少年の元に行く。傍らの少女と同じく、その背に隠れて、カシスを睨みながら、うーッ! と威嚇のような声を上げた。
「犬か」
「ンだとてめーッ!」
「エノ、少しは感情をコントロールすることを覚えなさい。カシスも。無駄に煽るのはやめてくれ。
……まったく、何で君たちはこう上手くやれないんだろうねぇ」
「冗談言うな、皇太子。どんな人間にも相性がある。俺にはどうもそこの、原始人のガキの行動が信じらんなくてね」
カシスは溜め息を吐くと、彼によって撒き散らされた工具の山に座り込む。歪んでしまった幾つかの細工物を手にとって、大仰に二度目の溜め息を吐いて首を振った。
常人から見たそれはガラクタにしか見えない。が、彼にとっては宝を造り出すための礎だ。それを理解できる人間は、あまりに少ないのだけれど。
皇太子と呼ばれる黒の少年は、似たような溜め息を吐く。
「エノ。何度も言うようだけど、彼はエイロネイアにとって貴重なブレーンであり、協力者だ。
あまり邪魔しないように」
「だって……ッ!」
「彼の研究はそのままエイロネイアの戦果に結びつく。逆に言えば、彼の研究が遅延すればするほど、戦力が低下する恐れがある。
……君は、エイロネイアの邪魔をしたいわけじゃないだろう?」
「……ッ!」
さらりと向けられた正論に、反する術を彼が持っているはずもない。
納得のいかない顔で、唇を尖らせながらも、押し黙ってしまった頭を皇太子はぽんぽん、と二度叩く。
「少し頭を冷やしておいで。そろそろ食事の時間だから、先に食堂に行っていなさい。
僕は少し彼と話がある」
少年は『食事』の一言にぱっ、と顔を上げた。うんうんと頷くと、先ほどまでの遺恨が嘘のように軽快に廊下へと向かう。
慌しい足音を聞きながら、部屋の主はけっと唾を吐き出した。
「何だかんだでメシか。ガキ丸出しだ」
「子供がぐずるときは決まって眠いときか、お腹が空いているときだよ。大して難しいものじゃない。
僕からすれば、君の方が余程扱いづらい」
「だったらさっさと手を切るか?」
「冗談。何のために膨大な軍費を君に渡してると思う?」
はっ、と嘲笑うように吐き出すと、カシスはデスクへ戻る。普通だったら火気厳禁の場所だが、彼は平気な顔で煙草を取り出した。きな臭さが鼻をつく。
加えて火をつけて、紫煙が昇るよりも先に、皇太子は口を開く。
「朗報だよ。シンシアの魔道師勢が動き出したようだ」
「へぇ?」
煙草を加えたカシスの口元が、笑みの形につり上がる。
「で、目的は何だ?」
「君が睨んだ通り。シンシアもゼルゼイル内の魔道書に着手したようだね。おそらく、目的はこちらと同じだよ」
ふーっ、と細い紫煙が吐き出される。煙たい匂いに、皇太子は僅かに顔を顰めたが、彼がそれに気を使うことはなかった。
「まぁなぁ……。その程度の発想はするよなぁ?
シンシアも結局は同じ穴のムジナ、ってことか。世の中綺麗事で収まりなんぞつかねぇもんなぁ?
ましてや、指揮が取れそうな魔道師を手に入れられたら尚更だ。くっくっく、あいつめ、俺と全面戦争する腹積もりか」
「たぶんね。まあ、戦争にまで持っていくのか疑問だけど」
「そりゃあ、そうだろう。シェイリーン=ラタトスはご丁寧にも、和平をお題目に掲げてる。戦力を上回ろう、なんて考えちゃあいねぇさ。せいぜい、あちら側は二番煎じで十分目的が果せるんだ」
「……正攻法なら、それでもいいんだろう。でも、それじゃ駄目なんだ、それじゃあ……」
少年は細い顎に指を乗せる。「それじゃあ駄目だ」と繰り返し唱えながら、何事か思考する。
「……ルナ=ディスナーは、本当に君の思った通りの行動に出ると思う?」
「十中八九。まあ、元々あいつはインドアよりアウトドア派の魔道師だからな。全部、机上で済まそうとはしねぇはずだ。
ましてや違法者狩りなんてものがいれば、死術[ヴァン]の発想は絶対にする。
だったら、何を起こすか読むのは簡単だ」
「けれど、もし彼女がシンシア領の探索に乗り出したとしても、だ。
その護衛にヴェッセルとザインが就く、というのは些か早計じゃないかい?」
「さて、そりゃあどうかな?
軍隊内じゃあ、そんな早急に護衛なんぞ付けられねぇ。けど、事は急を要する。だったら仲間内から護衛を引っ張るさ。だったら、ベストなのは違法者狩りなんて経験持ってる奴を連れていくだろ。
さすがに二人共引っ張っていくかは知らんがな。
けど、あいつらはタッグ組みだろ? 戦い方を見りゃ解る。揃って戦ったときが一番、ベストの状態だ。だったら、普通の司令官なら組ませるさ」
「まあ、確かにそうだけど……」
ふむ、と声を漏らして皇太子は頷く。しばし、思案してぼそぼそと独り言を繰り返すと、大きく息を吐き出した。
「……解った。その筋で行こう。
一応、保険はかけておくけどね。シンシア内部の諜報員に連絡を取っておくよ」
「おいおい、ちょいと面倒な事態にならねぇか?」
「大丈夫だよ。どうにしろ、今の内部員もそろそろ潮時だ。引き際だね。最後に一仕事してもらう、くらいに考えればいい」
「尻尾切りか。くっくっく、怖ぇ怖ぇ……」
「人聞きの悪い事は言わないでくれるかな。最善手があれば、それに帰順する。限った話じゃないよ。
それより、例の準備は終わってる?」
問い返されて、カシスはふと笑いを止める。毒々しい赤い眼をきろり、と動かしてやや斜めの壁を見た。形の良い顎でくい、と指す。
少年はそれに従って、彼の指す壁際に視線を向ける。
一振りの、剣が掲げられていた。
長さ、重量、共にバスタード並に見受けられる。刃は銀の鞘に閉ざされて、けして明るくない照明を紫に照り返す宝石を中心に、銀の蔦がすらりと伸びた柄に絡まっている。
重量を感じさせる沈んだ輝き。触れれば、そのまま指先が凍りついてしまうのではないかと、錯覚さえ覚えそうな。
視線で触れても大丈夫か、と問いかけると、「まだ起動させてない」という返答が返って来た。良い、ということだ。
少年は剣の柄に手を伸ばす。どっしりとした重みが手にかかった。柄と、鞘とを支えて、壁から降ろす。不釣合いな重さに、少しだけふらついた。
「……結構、重いね」
「そっちの方が都合が良いと思ったからな。遠慮なくやらせてもらった」
「ああ、そうかもね。いい出来だ」
「ったりまえだ、俺を誰だと思ってやがる」
青年の悪態に、皇太子はふ、と満足げに笑みを浮かべた。紫の、妖気を放つ柄を撫でると、ひやりとした感触が指先を走る。
「あー、いたいた。殿下ー……って、薬臭!
ちょっと、どうにかならないの、この部屋ッ」
呼ばれると同時に文句が飛んで来る。振り返ると、ドアの側に装飾を貼り付けた白い軍服の男と、紺のローブを纏った栗色の髪の女が立っていて、共に鼻を抑えていた。
その来客に、カシスは天井を仰いで舌を打つ。
「え、エレメント中尉~……。こんなところでよく平気ですね……」
「カシスー、貴方そのうち中毒になるわよ。というよりもうなってるんじゃない?」
「余計なお世話だカマじじぃ。それと引っ込んでろ厚化粧」
「はぁッ!? あんた、今、言ってはならないことを言ったわねーッ! 表に出なさいこの若白髪ッ!!」
「ああもう……ッ。 カシスッ! 誰彼構わず、喧嘩は売らない。エリシアは買わないッ。
頼むからこれ以上、僕の頭痛の種を増やさないでくれ」
包帯の巻かれた額を抑えながら、覇気のない声で叱り飛ばす。さすがに彼にまで文句を垂れる気はないらしく、エリシアはふん、と鼻を鳴らしながらも腕を組んで黙す。
リーゼリアは何か言いたげだったが、皇太子の手前、我慢することを選んだらしい。両手で自らの唇を押さえていた。
「それで、二人共、僕に何か用?」
「え、ええと……あの、港の警備体制のランクを下げたことと……。
あと、あの、殿下当てに帝都から通達が……」
「通達? 誰から?」
「陛下からよ」
「…………ああ」
言われて彼は、すぐにはその意を解することが出来なかったらしい。陛下。現エイロネイア皇帝ヴェニア=ロフェイル=エイロネイア。
つまりは、彼の父親だ。
しかし、答えた彼の声は甚だ無感情な相槌だった。
「大陸から帰って来て、帝都には行かないで直接こっちまで来たんですって? お仕事熱心なのはいいけれど、親子のコミュニケーションが足りてないんじゃなぁい?
陛下、寂しがってるんじゃないの?」
「寂しがる? あの人が?」
エリシアの言葉に、彼は小さく笑った。心底、可笑しそうに。それでいて、何故か少しだけ自嘲めいて。
「……冗談。あの人にそんな高尚な感情はないさ。
大方、新しい種馬でも見つけたんだろうよ。適当にあしらって置いてくれ。僕はどうも、貴族間の性欲と野心旺盛なご婦人方は苦手でね」
「あらあら、陛下も報われないこと。早く孫の顔が見たいんじゃないの?」
「かもね。自分が生きているうちに、自分の遺伝子が受け継がれた証が見たいんだろうさ」
「殿下……そんなこと」
「……」
リーゼリアが居た堪れない表情で、何かを口にする。だが、それは言葉にはならなかった。
表情こそ変えないが、彼の腰元に張り付いたシャルも、哀れむように、くん、と彼の袖を引いた。笑いを漏らした彼は、優しく彼女の頭を撫でる。
「くすっ……大丈夫。ちゃんと半分くらいは冗談だ。
まあ、でも今すぐには戻れないよ。これから、ちょっと大仕事がある」
「大仕事?」
リーゼリアはこくん、と首を傾げたが、エリシアはひゅう、と口笛を吹いて、彼の手にある剣を、そしてカシスを見た。
もっとも、カシスはそれに答えることなどせずに、ふと気がついたように近くの棚を漁り始める。
さして間を置かず、人の頭ほどの大きさをした紙袋を取り出した。その袋の大きさに、エリシアがぴくり、と反応する。
ふと気がついた皇太子が、袋を受け取ると、がさりと音がした。
「まあ一応、一ヶ月分だ。いつもと同じだな。中にそいつの使用書も入ってる。好きにしろ」
「……ありがとう。助かるよ」
言葉では例を述べているのに、その声は何故だかひどく無機質だった。心配の二文字を顔に張り付かせたシャルが、もう一度、彼の服の裾を引いた。
今度は、彼は小さく首を振るだけだった。
彼は剣を両手で支えながら、袋を腰に吊り下げた。その場にいた三人の顔を見回して、頷く。
「……君たちは僕の代わりに一度、帝都に帰還してくれ。アリッシュにはこれからの動きのことを伝えてあるから問題ない」
「あの人、最近音沙汰ないけど。大丈夫なんでしょうねぇ……」
「大丈夫。それは古い付き合いの君が一番、よく知っているだろう? 彼のことだ。いろいろと事後処理をしてくれているんだと思うよ。
心配はいらない。帝都に戻ったら歓迎の準備をして置いてくれ」
「歓迎……?」
「はーい、殿下ぁ。いってらしゃーい」
リーゼリアの訝しげな声と、エリシアの軽快な声に見送られて、かの皇太子は意味ありげな微笑みだけを残し、一振りの重厚な剣を抱えたまま部屋を後にする。シャルと呼ばれる少女も、無感情な顔を下げた後、いつものようにその背を追って行った。
リーゼリアは密かにそれに舌を出して、異性のくせに金の髪のやたらと美人な同僚を見上げた。
「エリシア様ー? ロレン様の言ってた『歓迎』、って何のことですかぁ?」
「あァ? てめぇ、何も聞いてねぇのか?」
「はい? エレメント中尉もご存知なんですか?」
「あらあら、リーゼちゃんてば遅れてるわねぇ。駄目よー、年頃の女の子なら速攻で流行を追わないと」
「それとこれとは関係ないですし、余計なお世話です。何の話なんですか?」
自分だけ置いていかれたような気がして、少しむっとしながらリーゼリアが言う。エリシアはそれに笑みを返す。微笑みではない。朱を引いた唇の端を吊り上げて、何かを含んだような、楽しむかのような、嘲り笑い。
くっくっく、と耳慣れてしまった不気味な笑いがその背後から漏れる。
どうやら彼らにとっては、余程愉快なことらしいが、リーゼリアは首を傾げるばかりだった。
「何の『歓迎』かなんて、そんなの、決まっているじゃない」
数秒の間を空けて、ようやくエリシアが答える。
「――― 七人目の、よ」
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「ラーシャ!」
「シェイリーン様……ッ!」
砦の奥へ案内されて。最も重々しい扉を開いて、真っ先に飛んできたのはラーシャの名前を呼ぶ甲高い女性の声だった。
狭くもなく、また何十人も収容出来るほど広くもない部屋。中央に石造りのテーブルが幅を利かせていて、その回りには申し訳程度に装飾された椅子が並んでいる。正面には、ゼルゼイルの島を描いたものだろう、大きな地図がタペストリとしてかかっていた。
よくある会議室と同じ造りだ。だが、この場では軍議室や作戦会議室、と呼んだ方が正しいのかもしれない。
扉の脇にはガーディアン代わりの衛兵が二人いて、それぞれラーシャの姿を認めると敬礼を返してきた。
そして、部屋の中の、正面に立っていた女性。
白を基調としたやや長めのローブを纏い、その上からラーシャのものを少々装飾過多にしたような礼服を着込んでいる。背はそれほど高くなく、金の髪を足元まで伸ばしている。年の頃はおそらく二十を出ないだろう。若い。というより、あどけない表情はやや幼くさえ見える。
ラーシャの姿を認めた瞬間、淡いアメジストを思わせる紫の瞳を潤ませてぱたぱたと駆け寄った。
―――……えーと。
皆、何も言わない。言わない、というか絶句しているのだ。
ラーシャは、この年端もいかない少女のことを、今、何と呼んだ?
混乱しかける頭を叱咤して、視線だけでデルタに問いかける。その視線の意味を即座に汲み取ったデルタは、何とも複雑そうな表情を浮かべて、
「こちらが、現シンシア総統シェイリーン=ラタトス様にあらせられます。……前総統は少々、晩婚だったようで、シェイリーン様は御年十七歳になります」
「ず、ずいぶん若いわね……」
「そうは仰いますが、エイロネイアの皇太子殿もそれほどお歳を召されてはいなかったでしょう?
年代的には相違ありませんよ」
「まあ、そう考えるとそうだけど……」
「あんまりあの方を甘く見るなよ。ああ見えても十歳でゼルゼイルの一流大学を卒業した身だ。幼い頃から帝王学も学ばれている。
でなけりゃあ、あのトシで総統になれるわけはないだろ?」
―――ああ見えても、ってことは案外、こいつらも見た目は気にしてるってことか……
冷めた脳みそが捻くれた思考を弾き出す。
少女は一頻りラーシャに抱きつくと、やがて身を離してこちらに向き直る。ローブの裾を持ち上げて、綺麗な礼を一つした。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。皆様、お待ちしておりました。この度は不躾なお願いをお聞き入れくださり、感謝の言葉もありません」
「あ、いえ……」
丁寧な物腰に、カノンが思わず謙遜の声を上げる。それに彼女は陽だまりのような笑顔を返し、
「私はシェイリーン=ラタトス。ゼルゼイル北方シンシア共和国にて、総統の任を勤めさせていただいています。以後、お見知りおきを」
「あ、どうも……。えっと、あたし……いえ、私はカノン=ティルザード。で、こっちがレン=フィティルアーグ。後ろの三人は私たちの幼馴染で、ルナ=ディスナー、シリア=アレンタイル、アルティオ=バーガックス」
「頼りになる方々です、総統」
「そうですか。それは心強い」
カノンの紹介に、ラーシャが一言だけ付け足す。その言葉に、彼女は実に満足げに頷いた。
「ティルス、レスター、貴方方、自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
「一応は」
「そうですか。結構です。
それで、カノン様、こちらにもですね……」
「自分でしますよ、総統閣下」
シェイリーンの声を遮って、窓際に控えていた赤い軍服の男が進み出た。その傍らには、同じ軍服を着た女性が控えていて、軽く礼をする。
男の方は、歳はおそらく二十代後半。黒い髪を腰まで伸ばし、手は腰に添えて、ぴしっと背筋を伸ばしている。口元と不思議な灰色の瞳の目元に浮かんでいるのは柔和な微笑。腰から細剣[レイピア]を下げているが、腕に通したバングルやところどころに括りつけられた呪符が、彼の本当の武器はそれではないことを物語っている。
傍らに控える女性は、男とは対照的に生真面目な表情を一切崩さずにこちらを見据えていた。ラーシャやティルス、デルタも普段から生真面目な表情をしているが、ややつり目な顔付きがそうさせるのだろうか、一段と厳しい表情をしているように見える。
淡い桃色の髪を一房だけ耳元で括り、残りは背中で垂らしている。きつめの瞳は、シェイリーンとはまた違う色の紫で、どこか張り詰めていた。ぴしっ、と着こなされた軍服の腰には、短剣が刺さっていて、さらに背中には矢筒が見えている。その中身を活用させるものは、と探してみれば、彼女の寄りかかっていた壁際に、弦の張った銀細工の長弓が立てかけられていた。
ラーシャが厳しい面を上げる。
男の方が軽く咳払いをした。
「ラーシャ殿がお出かけの間、シェイリーン様の親衛を努めておりました。ヴァレス=ヴィーストと申します。ああ、元は傭兵ですので大した階級は頂いていません」
「……同じく、ライラ=バートン」
柔和な笑みでにこにこと返してくる男に対し、女性からはその一言だけしか返って来なかった。
耳元でレスターが「無愛想な女だぜ」と極小さく悪態を吐いて、ティルスに向う脛を蹴飛ばされていた。
部屋の温度が些か下がった気がする。どうやら表情を歪ませたデルタの反応を見ても、ラーシャたちと彼らとの関係はけしていいものではないらしい。
まあ、お抱えの騎士団と傭兵が気を合わせられない、なんて話は良くあることだ。
「あー、えっと、どうもご丁寧に……」
「皆様、お待ちしていましたよ。何せ、戦況は芳しくないもので。たとえ一人でも、戦力になる方がいらっしゃると心強い」
「ヴァレス殿!」
にこにこと、だがあからさまな物言いをするヴァレスを咎めるようにラーシャの声が飛ぶ。なるほど、こんな性格なら彼らと馬が合わないのも納得がいく。
爽やかな顔であっけらかんと、おおよそ、初対面の人間に向ける言葉とも思えないものを吐いてくれる。しかも国の総統とその懐刀の目の前で、第三者に『戦況は良くない』とはその神経の太さはどれだけのものか。
ラーシャの厳しい視線に、しかしヴァレスは「これは失礼」と答えて肩を竦めるだけだった。女性―――ライラの方はまったくの無反応。
一方で、シェイリーンの方はというと、懐が深いのか、はたまた彼の物言いには慣れているだけか、意に関せず、と言ったふうに元いた席へと戻る。
「ごめんなさい、ラーシャ。驚いたでしょう? ノール港には行ったのですか?」
「ええ……。波止場はエイロネイア軍に占拠されていました」
「本当に、着いたと思ったらいきなり矢の嵐よ。この落とし前はどうしてくれるのかしら?」
剣呑な声で言ったのはシリアだった。彼女の場合は、矢の嵐、というより嫌いな船に余計な時間、乗せられていたという恨みの方が強い気がするが。
シェイリーンは眉を上げて、口元を軽く抑える。
「そんなことが……。申し訳ありません、こちらの不手際ですわ……もっと早く、連絡が着けば良かったのですけれど……。皆様、よくぞご無事で」
「こちらのルナ殿の機転で何とか助かりました。後ほど、お礼とお詫びを用意させましょう」
「お詫びはいいけど、あれはどういうことだったのよ?」
ルナは不機嫌な表情を隠さずに、つっけんどんに言う。機嫌が芳しくないのは、らしくなく、"お礼"に食いつかなかったことからも分かる。
シェイリーンは押し黙って、しばらく視線を宙に彷徨わせる。やがて、困ったような視線をティルスに向けた。
その視線を命令と受け取ったか、ティルスは一息吐いて、全員に席に着くよう勧める。自分はレスターを伴ってシェイリーンの傍らに着いた。
カノンは少し迷ったが、レンに促されて結局は上座の席に腰掛けた。
シェイリーンの右側にはヴァレスとライラ、左側にはティルスとレスター。席の上座にカノンたち、ラーシャとデルタは正面に立ったまま背を伸ばす。
「……ラーシャ様とデルタはご存知だと思いますが。
ラーシャ様がご出立なされる前、つまりは一月ほど前になりますか。シンシアとエイロネイアは、この、」
言いかけて、ティルスは背後の大きな地図に赤印をつける。島国を二分して、その線の向かってやや右側の荒野だった。
「ジルラニア平原を戦地としていました。シンシアの拠点は三つ、エイロネイアの拠点は二つ。
それほど大きな戦ではありませんが、小さな抗争というわけではありません」
「要は小競り合い、ってレベルではない。でも大局を決める戦ではなかった。そういうことね」
「そうです。戦力はほぼ互角。エイロネイア軍は強大な軍隊ですが、この平原に置いて、エイロネイア側は山脈地帯を跨いでいます。その場合、物資などの輸送にも労力がいる戦になります。
地理的条件で、有利な戦になるはずでした」
「ああ。それに平原においてシンシア軍はエイロネイア軍を押していた。だからこそ、私は現場を離れることが出来たのだからな」
「はい。……ですが、ラーシャ様がお発ちになった一週間後のことです。ジルラニア平原から少々離れた、この、」
ティルスは新たな印を地図に書き込む。赤く引かれた線は、先ほどの線よりもやや左に寄った箇所の大地だった。彼は続けてそのすぐ近くの海辺に印をつける。
「……ノーストリア高原に、エイロネイアの小隊が現れました。ノール港のすぐ近くです」
「ノーストリア高原だと!? 馬鹿な、あんな場所からエイロネイアが攻められるものか……ッ!」
淡々としたティルスの言葉に、ラーシャが動揺を露にして声を張り上げる。
「何だ、そののーすとりあ、って?」
「地図を見れば分かりますが……。この地も、エイロネイア側にとってはいい地形ではないのです。
シンシアの領土から見れば平坦な道上にありますが、エイロネイアからすれば山脈の合間に位置する高原です。また、川も挟みますから増援も易々とは呼べません。
エイロネイアにとっては、わざわざ足場の悪い場所を取ったことになります。
ノール港は我々にとっては要になる港、しかし、攻められにくい場所に位置していたために、警備の手が厳重、というわけではありませんでした。それが油断だったのでしょう……。
加えて、この小隊の出現と同時に、ジルラニア平原のエイロネイア兵が撤退し始めたのです」
「撤退?」
「はい。ですので急遽、兵を何割かノーストリア高原に派遣することとなりました。
……貴族院の判断です。我々も混乱していました。戦地であるはずの場所から敵兵が引き、戦地となりえない場所に兵が出現したわけですから。
ジルラニア平原においては、今まで押して来た戦という油断があり、一方でノーストリア高原においては、地形の勝利という油断がありました。
それが……」
カノンははっ、と顔を上げる。ティルスが、初めて感情を露にして、口惜しそうに唇を噛んだのだ。
隣のレスターはぶるぶると拳を震わせている。それを気遣うように、シェイリーンが居た堪れないような、表情で眉間に皺を寄せている。
ラーシャは、テーブルに両手を着いて、唇を引き結んで話に聞き入っていた。
「……命取り、でした。
それがエイロネイアの思惑だったのです……。ジルラニア平原から進撃を開始した兵軍は、山中で山頂付近に布陣し、兵を忍ばせていたエイロネイアの増軍に対してあまりに無力でした。
あの布陣と伏兵は、きっと予てから用意されていたものだったんでしょう。相手の有利な平原から、自分たちに有利な山脈に戦地を移す。そのために、一時的に兵を撤退させたのです。
戦力分散もその策です。混乱して兵力の減った軍隊を叩くのは、そう難しいことではありません」
「しかしッ! そうにしたって、そこまでの混乱を招くとは、一体何があったのだ!?
ノーストリア高原にしたって、あそこには十分な兵力を備えていたはずだ! エイロネイアにとっては鬼門の場所だ! それが何故……ッ!?」
「……皇太子、だよ。姐さん」
「……ッ!」
いくら何でも、そうことが上手くいくはずがない。声を荒げるラーシャに、レスターが一言で答える。
カノンが顔を上げ、ルナは腰を上げかける。シリアもアルティオも、身を乗り出した。
「……小隊を率いていた奴がな。山頂からシンシア軍に向かって言ったんだよ。
『自分はエイロネイア軍を束ねるエイロネイア皇太子だ。大人しく降伏しろ』ってさ」
「―――ッ!」
「皇太子の悪評は有名さ。妾や捕虜の話だけじゃねぇ。戦の中でもそうさ。
曰く、百の大軍を相手にたった一人で勝利した、とか。曰く、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とかな。まあ、怪談チックな噂のひれから、薄ら寒いもんまでいろいろあるわけだ。
ノーストリアは兵力としては十分だけど、戦地から離れてたし、場所が場所だから、経験不足のひよっこも多かっただろ?
度胸のついてない一兵士の目の前に、そんな化け物が名乗り出てみろ。あっと言う間に、その場は大混乱さ。士気も駄々下がり。どうしようもない」
「我々も、皇太子はジルラニア平原の戦で指導者として動いていると思っていましたからね……。
情報の交錯も敗因の一つと言えるでしょう。実際、ジルラニア平原の兵の中にも、皇太子が同時に二箇所の戦場に存在するなどとナンセンスな思い込みをして、混乱を起こす者が少なくありませんでした。
つまり、彼は自分の悪評を利用したのです。それで兵の混乱を招き、不利な戦を有利に進めた。
ラーシャ様が不在だったのも明らかな敗因の一つです。……上の仕事ばかりで、下の戦場のことは何も知らない貴族院などのの決定に、素直に従ってしまったのですからね」
「……」
「で、でもよ。それっておかしかないか?」
必死で物事を咀嚼していたアルティオが、ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げる。傍らのシリアがそれに大仰に頷いて、
「そーよ。だって、それはラーシャが大陸に発ってから……少なくとも、二週間とか一週間前だったわけでしょ?
その間、私たちにちょっかい出してきたあいつ-―――エイロネイアの刺客、って奴も自分は皇太子だ、って言ってたわよ?」
『!』
シェイリーン、そしてずっと口を閉じていた傍らのヴァレスとライラが同時に顔を上げる。表情は驚愕の一言。
それこそ、そんな馬鹿なことはない。ゼルゼイルの地と西方大陸に、同時に一人の人間が存在するなど、そんな馬鹿なことはあるはずがないのだ。
「……影武者、か」
無言を貫いていたレンが初めて口を割った。その一言に、ティルスが深く頷く。
「……あり得ない話ではない、と思います。というより、それしか考えられません」
「確かに。いくらエイロネイア軍の総指揮を執ってる、つっても、これまで明確に姿を見た人間てのは数えるほどしかいないだろうし……
いても、殺されちまってる方が多いからな……」
「つまり、どっちかの皇太子は『皇太子』を名乗ってるだけのただの一般兵、ってこと?」
「……兵の目撃証言は取れています。淡い青髪の長い、背の高い男だったと。それだけですが」
シリアとアルティオが顔を見合わせる。ラーシャとデルタは眉間に皺を寄せ、レンの眉が少しだけ弾む。
カノンは一瞬だけ瞑目して、言葉を紡ぐ。瞼の上に、あの黒い残像が、隠せない怒りと共に浮かんだ。
「……違うわ。あたしたちの前に現れたあいつは、黒い髪で、全身に包帯を巻いて、真っ黒な服で。見たら一目で特徴は分かるはずよ」
「背もそんなに高くなかったわね。見た目には華奢な男の子、って感じよ」
「ということは、そのどちらかが影武者ということになりますねぇ……」
場違いに呑気なヴァレスの声が、結論を弾き出す。
どちらが本物で、どちらが偽物か。はたまた、どちらも偽物なのか―――。
煮詰まった雰囲気の中。誰もが、その問いかけに答えられはしない。だがしかし、その冷えた空気の中で、
「……あたしは…。私は、大陸に来ていた方の奴が本物だと思う」
「? ルナ?」
ぽつり、と漏らした少女の声に、全員が反応する。カノンがその名前を呼びかけて、その呼びかけが終わるより先に、彼女は椅子を引いて立ち上がる。
そしてシェイリーンを見た。傍らの、ティルスの余談を許さない目が、じっと彼女を観察していた。
デルタが慌ててフォローするように身を乗り出す。
「ルナさん。確かに彼は」
「……違う。違うのよ。そんなことが言いたいんじゃないわ。
―――『七征』、って言うんでしたっけ? エイロネイアの七大幹部。戦軍の要。
……その、七人の中には、私のかつての知り合いがいます」
「え?」
思っても見ない告白に、シェイリーンの目が見開かれる。彼女だけではない。ラーシャとデルタ、無表情なライラ以外の、シンシア派の全員が反応する。
ティルスは訝しげに眉間を寄せて、レスターは大げさに目を剥いた。ヴァレスはそれよりも薄い反応だったが、笑みに細めていた目をすっ、と真顔に戻す。
「ルナ殿!」
「ごめん、ありがとうラーシャ。でも、いずれバレることよ。どうせバレるなら、早い内がいい」
それは彼女のために、とラーシャがあえて伝達でも伏せていた事実だった。真相が知れれば、軍の内部と彼女との間に摩擦が起こりかねない。貴族院の人間に知れたら、それこそそれを利用しようとする人間も出てくるかもしれない。
ルナ自身にとっても、そして迎える立場であるシェイリーンにとっても、あらゆる面でマイナス要素になりかねない。だから、ラーシャは伝達上でも、デルタにも、口を止めて置いたのだ。
それを、本人があっさりと破る。
シェイリーンが唖然としながらも、はっ、と我に返った表情でルナを見る。そこにあったのは、けして軽蔑の色ではない。
ラーシャは彼女を頼れる人間だと言った。ラーシャは実直で嘘を言わない。だから、その根拠は絶対にあるはずなのだ。その告白だけで、彼女をどういう人間なのか判断するには、まだ早い。
「その、お知り合いというのは……?」
「……どんな目的でエイロネイアに加担しているのかは分かりません。でも、彼はたとえ、どんな場合であったって、生半可な人間に従うような人間じゃありません。他人に従うこと自体を嫌ってるはずです。
その彼が、誰かの指図で動くこと自体が信じられない。あるとしたら、それはその人間が協力に値すると判断できたときだけ。彼のその基準は、あたしが今まで出会ったどんな人間より高い。……プライドからも、技術力からも。
そんな奴を扱えるような器を持った人間なんか、数えるほどしかいません。エイロネイアで言うなら―――」
「その、エイロネイア皇太子しかいない、と?」
ルナは深く頷いてみせる。彼女には妙な確信があった。彼が従っていること、そうでなくともあの少年に相対した際の、歳不相応の貫禄。あんな人間が二人も三人もいてはたまらない。いるはずがない。
あの喪服のような黒装束を思い出し、隣でカノンも渋く顔を歪ませる。
「しかし、あの皇太子が指揮を離れるなんて……」
「……ありえない話ではありませんねぇ」
「ヴァレス?」
シェイリーンの言葉に、ヴァレスが首を振る。彼は顎に手を当てて、ふむ、と声を漏らしながら、首を傾げたシェイリーンと憮然としたティルスを振り返る。
「ノーストリア高原の……髪の長い、背の高い男、ですか。少々前の話ですが、魔道隊を指揮させて頂いていたときに、似たような男が敵陣で指揮を執っていたのを見かけた覚えがあります。
大陸の皆さんは、黒装束を纏った少年、と仰いましたね?
クラングインの砦が陥落した戦がありました。エイロネイアの皇太子殿が台頭してくる少し前、でしたね。
初陣、だったのかもしれません。砦が破棄されて、その後、しばらく近くのシンシアの砦からクラングインの砦を観察させていましたが、青い髪の男を従えた少年の目撃情報があったはずです」
「……確かに、指揮者らしい男の姿があった、という報告はあったな」
ラーシャは爪を噛む。小戦の記録だった。戦の記録は、彼女やティルスといった陣頭指揮官たちの下に膨大なほど送られてくる。その膨大な資料は、小戦のもの、終わった戦のものほど極薄い。
クラングインの砦はそれほど重視されていない砦だった。一度はトカゲの尻尾切りに利用する、という一案さえ出たような場所だ。
何故、その情報を数多の資料の中に埋めてしまったのだろう。
別段、ラーシャの責ではない。指揮官の職務にも限界がある。だから彼女は基本に忠実な職務をしていて、その小戦以上に重大な戦の報告が重なっていた。それだけだ。
だが、言い様のない後悔が頭の中で暴れ出す。
「その目撃証言が本当なら、その背の高い男はエイロネイア皇太子の腹心、ということでしょう。まあ、逆もありえますが。皇太子の腹心、というのならその男も『七征』でしょうね。
皇太子とその腹心の二人が『七征』である、という密偵の情報が確かなら」
「……あるいは、完全に嵌められたのかもしれないわね」
「嵌められた?」
涼しく言ったヴァレスに、じっと何かを考えていたカノンが口を開く。ヴァレスが訝しがるような息を吐き、シェイリーンが先ほどヴァレスに向けたものと同じような問いかけの視線を彼女に投げる。
会議室内の視線が集められた。
緊張が高まる。その雰囲気に飲まれないように、カノンは下腹に力を込めなくてはならなかった。
「相手に情報を掴ませる、もしくは信じさせるのに一番大事なものは何?」
「リアリティ、ですね」
ティルスが即答する。カノンはそれに頷いて、
「そうよ。今回、前線指揮を執っているはずのラーシャがわざわざ大陸に来たのは何故?
あたしたちを招くため、武器の密輸を止めるため。粗相がないように、とか何とか言ってたけど、そんな理由だけじゃないでしょう?
密偵でエイロネイアがあたしたちを狙ってることを知った、って言ってたけど……。皇太子が直々に刺客になってる、なんて情報は掴めないまでも。その密偵の情報ってのはひょっとして、大陸への来訪が、エイロネイアにとって最重要ランクの任務扱いになってた、ってことなんじゃないの?
相手にとって最重要。だから重鎮であるラーシャが前線指揮を離れてまで止めに来た」
「……仰る通り、ですね」
ティルスが苦々しい顔で頷く。カノンの言わんとしていることを、彼もまた悟ったのだ。彼だけではない。彼の傍らのレスターはあからさまな舌打ちをして、デルタは静かに拳を握り締める。
数秒経ってから、絞り出すような声でラーシャが口にする。
「つまり……こちらに密偵がいると知っていて、それを利用して私をまんまと戦場から離れさせた」
「戦争を目の前にしたことのある人間じゃないから、その場その場で戦況がどう翻るかは解らないけれど……。
少なくともラーシャは最上級の指揮官なんでしょう? いるといないとでは、兵士の士気だって大違いのはず。だから、ひょっとしたら、奴は奇襲の成功率を上げるために密偵を利用して、大陸行きを決行した。
……もっとも、その任務が大陸での騒ぎでなければならなかった理由は……ん…」
「……まさか配下の人間のわがままに付き合うためじゃないだろうし、大陸との既に役に立たなくなっていた、腐った繋がりを払拭……でも弱いわね」
言い澱んだカノンの言葉を飄々と繋いで見せたのは、言葉を濁した理由の当人であるルナだった。
わずかにいたたまれない表情を見せたカノンだが、すぐに面を上げる。
「ともかく、目的が何にしろ、そういう効果も狙ったことなんじゃないか、って思うのよ。
相手側に何人、密偵を送ってるのかは知らないけど、それを逆手に取られたってことね」
「おいおい……そんな」
レスターが青ざめた顔で眉間に皺を寄せる。室内で感じるはずのない寒気に、鳥肌の立つ二の腕を摩りながら、
「じゃあ、密偵はとっくの昔に相手に気づかれてる、ってことじゃねぇかよ……。
まずいぜ。エイロネイアの皇太子なんぞ、捕虜殺しで有名だ。下手したら拷問、ってこともある」
「……密偵が特定されているかは定かではないですが、一度密偵を下がらせましょう。もし、カノンさんが言っておられることが事実ならば、逆に危険なだけです」
レスターの言葉に、ティルスは眼鏡を抑えて深く息を吐く。
「でもさ、ちょっと待てよ」
末席に座っていたアルティオが口を挟んだ。
「ラーシャサンもエイロネイアの最上級指揮者。でもその皇太子も戦場じゃ、最高指揮官なんだろ?
一緒にいなくなったら、兵士の士気を考えたら条件は互角なんじゃないか?」
「……傍目には、そうですね……。
けれど、奇襲を仕掛ける方と仕掛けられる方では、元から士気の在り方が違います。絶体絶命の窮地に立たされるほど、士気というものは重要なのです。
足をもがれたネズミを狩るのに、士気を必要とする虎もいないでしょう。
……加えて、相手方にいる幹部『七征』は皇太子から絶大な信用を受けています。軍内の威光も生半可ではないはず。
何しろ、あの計算高いエイロネイア皇太子が、戦場を離れても大丈夫だと判断したのですからね」
「……エイロネイアはともかく……シンシアの兵士にとっても、『七征』はとんでもない脅威なのね」
「はい。『七征』はエイロネイア皇太子台頭の象徴とも言える存在ですから。彼らが介入するようになってから、五分五分に保たれていた均衡は、すべて崩れ去りました。
……シンシアは完全に後手に回ってしまっています」
冷静に言葉を選びながらも、口惜しさを隠せない表情でティルスは歯噛みする。シェイリーンはずっと俯いて、何かを祈るように手を組んでいる。
気遣うように、ラーシャがその細い肩を支えた。
「ちょっといい?」
「はい」
すっ、と手を上げたのは訝しげに唇を尖らせたシリアだった。立ち上がり、テーブルから乗り出すような格好で、唾を吐く。
「『七征』とやらが場を動かしていて、そいつが脅威だ、ってのは分かったわ。
けど、いくら何でも誇張が過ぎない? 皇太子にしたってそうよ。いきなり均衡が崩れたとか、兵士皆が恐れてるとか。そんな急な戦力転換なんか聞いたことないわ。
『七征』とやらが高い能力を持った連中だってのは分かった。皇太子って奴が狡猾で、やりづらい奴だ、ってのも分かったわ。
でもいくら指揮が良くたって、腕っ節が強くたって、戦争ってもんは個人の力でそうそう勝負が決まるものじゃないわ。昔だって、腕のいい奴を召抱えていたけど、結局は滅ぼされた国がごろごろあるじゃない。
戦争は風向き一つでどうとでも転がるでしょう?
そんな戦争全体を掌握できるような、超常的な、都合のいい連中がいてたまるもんですか」
「……」
すらすらと述べたシリアに、ティルスは書類の束を抱えて押し黙る。レスターも、押し黙ったまま、同じような微妙な表情を浮かべた。
デルタは避けるように視線を下げて、ラーシャは何かを考え込むように腕を組む。シェイリーンは、白い喉を上下させて、迷うような仕草を見せた。
シリアに続き、椅子に寄りかかったルナが軽く手を上げる。
「それについてはあたしからも質問」
今度はティルスは答えなかった。だから彼女は勝手に続ける。
「さっき、そっちのガタイのいいにーちゃんが言ったわよね? 皇太子の噂について。
百の大軍を相手にたった一人で勝利した、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とか何とか。
確かに誇張された、怪談ちっくなものかもしれないけど。
けど、元がなけりゃ噂だって尾ひれはつかないのよ。身がなけりゃあ、ね。火のないところに煙は立たないとはよく言ったもんよ。
そういう噂がある、ってことはその皇太子殿と『七征』たちが、明らかに人間離れした芸当をやらかしてる、ってことじゃないの?
それが兵士の士気に直に影響しちゃってる。どう?」
「……」
ティルスは無言だった。それが肯定の返事だったのかどうかは分からないが、少なくとも、否定は出来ないということだ。
カノンたちはその"人間離れ"の片鱗を既に目にしている。素っ頓狂な声を上げる者はいなかったが、息を飲む声は幾つも聞こえた。
「……さてさて、大陸人というのは遠慮というものがありませんね。いきなり確信をついて来ます」
「ヴァレス殿!」
あっさりと認める発言をしたヴァレスに、ティルスの眼鏡の奥からの厳しい視線が向けられる、だが、彼は少しだけ肩を竦めて、その視線をやり過ごす。
「ティルスさん。どの道、協力を仰ぐならこの方たちには知る権利があり、我々には話す義務があります。
彼女たちも戦場に身を置くことになるかもしれない。ならば、隠しておけるはずはないし、隠しておけばシンシアは詐欺師の集団になるかもしれませんよ?」
「……」
「…………分かりました」
何も言い返せないティルスの沈黙を、早々に破った声があった。鈴のようにか細い。シェイリーンだった。
「シェイリーン様!」
「ティルス、お話しましょう。どの道、分かるときには分かる話です。なら、今のうちに皆さんに話しておく必要はあると思います。
……どんな話でも、です」
「……」
シェイリーンはあどけない顔に、確かな威厳を宿しながら口にする。厳かなその雰囲気に、口を出せる者はいなかった。
ティルスも、歯を噛み締めながら敬礼をして項垂れる。
深呼吸を一つ。それで腹を据えたように、シェイリーンは正面からカノンたちと向き直った。
「……皆さんにとっては、気持ちの悪い話になるかと思います。ですが、お話しないわけには参りません」
「……」
カノンは固唾を飲み込む。いつのまにか、喉がからからに渇いていた。
それはシェイリーンも同じようだった。ふーっ、と息を吐き、肩を上下させる。
シリアとアルティオは身を乗り出した。
ルナはそのままの体制で、レンは何事もなかったかのように涼しく。しかし、内心気にならないわけはないだろう。
「……エイロネイア皇太子の噂については――
ルナさんがご推察なさった通りです。火のないところに煙が立つはずがありません」
「じゃあ、その百人相手に一人で勝っただとか、千人の魂を抜いたとかいうのはホントだってことか!? いくらなんでも……ッ!」
「いえ、それ自体が事実として認識されているわけではありません。
ですが、幾つかの小隊が戦地に向かう途中で、軍隊同士の衝突の跡もないのに全員虐殺死体で見つかったり、神隠しにあったように姿を消したりしたことがあったのは事実です」
「軍同士の衝突もなく……?」
「はい。それも、一隊や二隊ではなく。その時期は、ちょうど皇太子が戦場で猛威を振るい始めた矢先の出来事で、密偵の情報からも彼が戦地に出向いている記録がある、との報告を受けていました。
口で言うだけでは想像出来ないかもしれませんが……。
あのようなことは、物理的な世界では無理です。小隊といっても、五十人ほどの編成はされています。それが幾つも、瞬く間に消されるなんて……」
「……」
普通なら笑うところだ。笑って、何をそんなバカなと切り捨てるところだ。
だが、カノンたちに、それぞれの、それぞれが記憶する情景が過ぎる。町中で暴れる合成獣、人の血を吸う剣、錯乱し、互いを傷つけあう町人たち―――。
それは、皆『ありえないこと』。
けれど『あったこと』。
だから、誰にも、笑い飛ばせない。否定できない。
「もう一つ。
私たちが相手にしているのは、人間ばかりではありません」
「……? 人間、ばかりじゃない?」
きっぱりと言ったシェイリーンの言葉。すぐには意図を読めなかった。人間ばかりを相手にしているわけじゃない。では一体、何を相手にしているというのか。
"人間離れ"していると言った。けれどそれは"人間"に使う言葉、いや、"人間"と思っているモノに使う言葉だ。
"人間"でなければ、一体何なのか。
シェイリーンはもう一度、悩む。言って、彼らは信用してくれるのだろうか。いや、思えない。自分だって報告を聞いたとき、まさかと思ったのだ。
けれど、長として彼女は言わなくてはならないのだ。奇異の視線を受けることを覚悟で。
「……エイロネイアの軍隊の中に、死人や獣が混じっている、と言ったら、皆さんは信じますか?」
「・・・!」
カノンとルナが同時に息を飲み、シリアが苦く端整な顔を歪める。アルティオが怒りに拳を震わせていた。
レンだけは無反応を装っている。だが、苛立だしげにした舌打ちが、カノンの耳には届いていた。
カノンは浅い深呼吸をする。腰を落ち着けてから、今一度シェイリーンを見返した。
「……それは、どういうこと、ですか?」
「……文字通りの意味です。
彼らの軍隊の中には、生気のない顔をした人間でない人間と、恐ろしい形相をした……私は直接は見たことがないのですが……
デーモンや合成獣、と言いましたか。その類のものが混じっています。
それも、尋常ではない規模で。一部隊に何十、何百、という数」
「何十、何百ッ!?」
驚愕の声を出したのはシリアだ。彼女だって多少なりとも魔道の心得がある。
だから分かるのだ。そんなことが、どれだけ無謀なのか。
絶句する彼女に、シェイリーンの傍らに立っていたヴァレスが肩を竦めた。
「ええ、お察しの通り。
この世の中には、外法と称されていても、死霊術[ネクロマンシー]や獣召還[サモン]といったものが存在します。
文字通り、方や死人をゾンビやスケルトンといった歪んだ形で蘇らせるもの。方や、闇の世界の住人と称される獰猛な獣をこの世に生み出すものです」
死霊術[ネクロマンシー]、獣召還[サモン]。
共に、カノンやレンといった元・違法者狩り、また魔道師にとっては極身近な単語だった。
だが、この事態はそれだけでは説明がつかない。なぜなら、
「ご存知の通り、これらが戦争という現場で使われることは殆どありません。何故かというと、生み出されたものが非常に扱いづらいものになるからです。
死人や獣は明確な意思を持ちません。だから、人間の指示など元々聞かないシロモノです。
戦争に使うとしても、霍乱程度にしか使えません。ましてや、そんな何十、何百なんて数、制御できる人間がいるとも思えません。
しかし、」
「……エイロネイアの『七征』は、それを実現しているのね?」
徹底的な一言を、ルナが放つ。異様なまでに、声が硬い。彼女は、その先の返答まで既に予測しているようだった。
彼女の予測通り、ヴァレスはあっさりと頷いてみせる。
「今回の場合、ノーストリア高原の襲撃において、それが使われました。
死人や獣に、物資の補給は必要ありません。だから、いくら物資配達がし難い場所であっても関係はありません。死人は言うまでもなく、獣は腹が減れば、目の前の"兵[エサ]"を食いますからね」
えげつない一言だ。だが、その言葉を咎められる人間はいなかった。カノンたちの中にも、シンシアの中にも。
カノンたちは愕然と彼の言葉を聞き、シンシアの軍勢たちは揃って唇を噛むことしか出来なかった。
「先にも言った通り、これは非現実な事象です。何故、エイロネイアがこれを実現できているのか。理解に苦しみますが、可能性があるといえば……」
「……」
ヴァレスが濁した言葉に、カノンはすべてを悟る。
いくらエイロネイアが自分たちに接触していたとしても。
何故、シンシアが、カノンたちよりももっと高名な騎士や戦士に助けを求めなかったか。
何故、カノンとレンであったのか。
その一つ一つを噛み砕いて、硬い声で、カノンは口にする。
「……ねぇ、レン」
「……」
「政団の、違法者狩り団体はもう解散してるわ……。理由は記録にあるすべての大陸内の死術[ヴァン]を狩り終えたから」
死術[ヴァン]。太古の魔道師が残した負の遺物。けして残ってはいけなかったもの。不慮の事故によって、大陸中に散らばってしまったもの。
太古の大戦で、人間が生んでしまった、脅威の外法。禁呪。
人の身では為し得なかったいくつもの外道な呪を、紡ぎ出した、失われた術。
「でも、でもそれは……『記録にある』、『大陸内の』、なのよね……?」
「……」
自分で言った言葉を反芻する。もう誰もが想像、いや理解していた。彼女が一体、何を口にしているのか。
「じょ、冗談言うなよ……ッ! じゃあ、エイロネイアは……」
「『記録されていなかった』、死術[ヴァン]を既に復活させてるっていうの……ッ!?」
茫然としたアルティオの声を、シリアが継ぐ。その乾いた言葉を、さらに、ルナが継ぐ。
「……そればかりとは限らないわ。
シェイリーンさん。ゼルゼイルには、数々の伝承や伝説が眠っている。魔道的な、今の時代だったら信じられないようなものがたくさん、ね」
「……ええ、私もお話の中でしか聞いたことがありませんが」
「曰く、かつて大天使ルカシエルに滅ぼされた魔族、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンが眠るとされる幻大陸の存在。
曰く、人と神と魔の世界、すべてに絶望した対となる神魔族の鬼神が、自らの身を封じて眠りについた室の地。
有名なのはその二つ。けれど、ゼルゼイルの土地は、それに惹かれてなのかしらね。他にも信じられないような伝説のお話が転がっている。何のわけか、その中にはそういう類のとんでもない術や武具のお話が多いのよ。
……太古の魔道師が、どうやって『死術』を造ったか知ってる?
あれもね、準えたのよ。
それよりももっと太古、古に造られた神話の時代のオーパーツを歪めてね」
「ちょっとルナ……、それって……」
カノンが声を上げる。そんな、そんな馬鹿なことがあるはずがないのだ。
彼女が何を言っているのか。分かる人間はいても解る人間はいなかった。それは、不可能なこと。いや、不可能だとされてきたこと。
そんな人間は、今の時代にはいなかったから。
今の時代に、いるはずがいなかったから。
太古の、古を、たとえ準えでも、復活させることの出来る人間がいるなどと……ッ!
だが、少なくとも大陸で大戦が起こったあの暗黒時代には、多数いた。だから死術[ヴァン]が生まれた。
だから、否定できない。誰も出来ない。
そんな人間が現在するなんて。
でも否定する。認めたくはないから。
「そんな、そんな人間がいるはずは……ッ!」
デルタが上げた声に、ルナは沈思する。いつのまにか、彼女は親指の爪を噛んでいた。もう少しで皮膚を抉るだろう。それでも、そんな痛みに気がつかないほど、彼女の中には疑惑が、疑念が渦巻いていた。
彼女は知っていたからだ。
そんな馬鹿げたことが出来る人間を、一人だけ。
二十年という短い半生の中で、たった一人にだけ、出会っていたからだ。
「……その、獣やら死人が、戦場で使われ出したのはいつ?」
「……皇太子が台頭し始めて、まもなくですから……一年、少し前、ですね」
カノンははっ、とする。一年と、少し前。それからもう少し前に、カノンやルナに関する事件が、あったのだ。
そうだ、一年と半年前。
ちょうど、ニード=フレイマーの組織にルナが反旗を翻し、弾圧したのが同じ頃。
あの組織の中には、ルナのように『月の館』から引き抜かれていた魔道師が何人かいた。
カノンは直接"彼"から話を聞いたわけではなかったから、想像しか出来なかった。けれどルナは、直接、"彼"から話を聞いていたから、断言できた。
"彼"もまた、組織に囚われていた人間の一人であったと。
でも、組織が潰されて、行方不明。行方不明であった。行方不明であったから、彼がどこで何をしていたかなんて、誰も知らなかった。
誰も知らないから、否定が出来ない。
"彼"が、稀代の天才が、この地で、次々と戦争の道具を作り出していたことなんて……ッ!
「カシス……ッ、あの馬鹿、なんてことを……ッ!」
感情に支配されたルナは、断定的な言葉を吐き出した。彼にとって見れば、太古のサンプルから、新しい術を生み出すのに、半年という期間があれば十分だったのか。
がりッ……
噛んでいた爪が根を上げて、極少量の血が滲み出す。
見かねたシリアが彼女の腕を掴んだ。無言で、表情を変えずにルナはのろのろと手を離す。眉間に刻んだ皺が、力の入らない腕が、最大の傷心を表していた。
「……あんたの、本当にやりたかったことは、そんな馬鹿げたことじゃないでしょう……ッ!」
「……ルナ……」
喉の置くまで込み上げた熱い感覚を、必死で抑えながらも、しかし言葉では押さえきれなかった。
沈黙が支配する。誰も、何も言えなかった。
事情を知らないシェイリーンやレスター、ティルスもただならぬ雰囲気に押されて何も言えなかった。
やがて、ヴァレスが咳払いをするまで、誰も我に返れなかった。
「……どうやら状況はお察し頂けたようですね。ご覧の通り、後にも引けず、前にも進めない状況です。
それと、フィロ=ソルト中将に、もう一つ、嫌なお知らせです」
「……」
ラーシャは無言で、しかし、やや憮然として顔を上げる。
これ以上の凶報、そしてヴァレスの無神経な言葉、その渋い表情はどちらに向けてのことか。
「『七征』に関してです。
皆さんも既に知っていると思いますが、『七征』はエイロネイア皇帝ヴェニアの提唱した『エイロネイアの七つの柱』です。
だが、実際には少しだけずれています」
「ずれている?」
カノンの問い返しに、ヴァレスは頷く。
「提唱こそ、ヴェニア帝のものですが、実際に『七征』というのはエイロネイア皇太子の直属部隊です。指揮も指示も、ヴェニア帝ではなく、彼の手中です。
要するに、『七征』というのは自分の周りを固めるため、人材集めのための単なる箱なのでしょう。
現在、確認されている七征は、四人。皇太子と、その側近と思われる男―――大陸に出現した男と、ノーストリア高原で指揮を執った男です。
そして、ジルラニア平原で指揮を執っていた男と女。金の髪の軍服の男と、もう一人、女が目撃されています。内部の情報からも、おそらくは、『七征』だと思われます」
カノンははっ、としてラーシャと顔を見合わせる。ノール港で襲撃を仕掛けてきた人影。
あれも、金の髪の、軍服の人影じゃなかったっけ……?
ラーシャは額に汗を掻いて、固唾を飲み込むとこくり、と頷いた。ヴァレスを見返して、口を開く。
「……プラス、二人、だ。大陸に来た、皇太子と二人の男。一人は……ルナ殿のご級友、そしてもう一人は少年だ。
もう一人、少女がいたが名乗らなかった。彼女も『七征』なのかは、確認が取れていない。
皇太子は、目の前にしていてあの少女だけは『七征』と名指さなかった。と、なると違うのかもしれない。油断ならない相手ではあったが」
「そう、ですか……。ならば、これで確認されたのは六人。
―――いえ、ノーストリア高原に出現した男が、少々、気になる言葉を残しまして、ね。
そのまま伝えます」
ラーシャは眉を潜めて身を乗り出した。ティルスとレスターは不快感を顔に浮かべる。
ヴァレスは飄々とした表情を崩さないまま、さらりと、それを口にした。
宣告のように、それは耳を打つ。
「『七つの要はもうじき揃う。七つの要の、最後の一人が現れる。七つの要は、もうすぐ完成される。
そうなれば、我の描くシナリオも、容易なものとなるだろう―――』と」
←3-01へ
「シェイリーン様……ッ!」
砦の奥へ案内されて。最も重々しい扉を開いて、真っ先に飛んできたのはラーシャの名前を呼ぶ甲高い女性の声だった。
狭くもなく、また何十人も収容出来るほど広くもない部屋。中央に石造りのテーブルが幅を利かせていて、その回りには申し訳程度に装飾された椅子が並んでいる。正面には、ゼルゼイルの島を描いたものだろう、大きな地図がタペストリとしてかかっていた。
よくある会議室と同じ造りだ。だが、この場では軍議室や作戦会議室、と呼んだ方が正しいのかもしれない。
扉の脇にはガーディアン代わりの衛兵が二人いて、それぞれラーシャの姿を認めると敬礼を返してきた。
そして、部屋の中の、正面に立っていた女性。
白を基調としたやや長めのローブを纏い、その上からラーシャのものを少々装飾過多にしたような礼服を着込んでいる。背はそれほど高くなく、金の髪を足元まで伸ばしている。年の頃はおそらく二十を出ないだろう。若い。というより、あどけない表情はやや幼くさえ見える。
ラーシャの姿を認めた瞬間、淡いアメジストを思わせる紫の瞳を潤ませてぱたぱたと駆け寄った。
―――……えーと。
皆、何も言わない。言わない、というか絶句しているのだ。
ラーシャは、この年端もいかない少女のことを、今、何と呼んだ?
混乱しかける頭を叱咤して、視線だけでデルタに問いかける。その視線の意味を即座に汲み取ったデルタは、何とも複雑そうな表情を浮かべて、
「こちらが、現シンシア総統シェイリーン=ラタトス様にあらせられます。……前総統は少々、晩婚だったようで、シェイリーン様は御年十七歳になります」
「ず、ずいぶん若いわね……」
「そうは仰いますが、エイロネイアの皇太子殿もそれほどお歳を召されてはいなかったでしょう?
年代的には相違ありませんよ」
「まあ、そう考えるとそうだけど……」
「あんまりあの方を甘く見るなよ。ああ見えても十歳でゼルゼイルの一流大学を卒業した身だ。幼い頃から帝王学も学ばれている。
でなけりゃあ、あのトシで総統になれるわけはないだろ?」
―――ああ見えても、ってことは案外、こいつらも見た目は気にしてるってことか……
冷めた脳みそが捻くれた思考を弾き出す。
少女は一頻りラーシャに抱きつくと、やがて身を離してこちらに向き直る。ローブの裾を持ち上げて、綺麗な礼を一つした。
「ようこそ、ゼルゼイルへ。皆様、お待ちしておりました。この度は不躾なお願いをお聞き入れくださり、感謝の言葉もありません」
「あ、いえ……」
丁寧な物腰に、カノンが思わず謙遜の声を上げる。それに彼女は陽だまりのような笑顔を返し、
「私はシェイリーン=ラタトス。ゼルゼイル北方シンシア共和国にて、総統の任を勤めさせていただいています。以後、お見知りおきを」
「あ、どうも……。えっと、あたし……いえ、私はカノン=ティルザード。で、こっちがレン=フィティルアーグ。後ろの三人は私たちの幼馴染で、ルナ=ディスナー、シリア=アレンタイル、アルティオ=バーガックス」
「頼りになる方々です、総統」
「そうですか。それは心強い」
カノンの紹介に、ラーシャが一言だけ付け足す。その言葉に、彼女は実に満足げに頷いた。
「ティルス、レスター、貴方方、自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
「一応は」
「そうですか。結構です。
それで、カノン様、こちらにもですね……」
「自分でしますよ、総統閣下」
シェイリーンの声を遮って、窓際に控えていた赤い軍服の男が進み出た。その傍らには、同じ軍服を着た女性が控えていて、軽く礼をする。
男の方は、歳はおそらく二十代後半。黒い髪を腰まで伸ばし、手は腰に添えて、ぴしっと背筋を伸ばしている。口元と不思議な灰色の瞳の目元に浮かんでいるのは柔和な微笑。腰から細剣[レイピア]を下げているが、腕に通したバングルやところどころに括りつけられた呪符が、彼の本当の武器はそれではないことを物語っている。
傍らに控える女性は、男とは対照的に生真面目な表情を一切崩さずにこちらを見据えていた。ラーシャやティルス、デルタも普段から生真面目な表情をしているが、ややつり目な顔付きがそうさせるのだろうか、一段と厳しい表情をしているように見える。
淡い桃色の髪を一房だけ耳元で括り、残りは背中で垂らしている。きつめの瞳は、シェイリーンとはまた違う色の紫で、どこか張り詰めていた。ぴしっ、と着こなされた軍服の腰には、短剣が刺さっていて、さらに背中には矢筒が見えている。その中身を活用させるものは、と探してみれば、彼女の寄りかかっていた壁際に、弦の張った銀細工の長弓が立てかけられていた。
ラーシャが厳しい面を上げる。
男の方が軽く咳払いをした。
「ラーシャ殿がお出かけの間、シェイリーン様の親衛を努めておりました。ヴァレス=ヴィーストと申します。ああ、元は傭兵ですので大した階級は頂いていません」
「……同じく、ライラ=バートン」
柔和な笑みでにこにこと返してくる男に対し、女性からはその一言だけしか返って来なかった。
耳元でレスターが「無愛想な女だぜ」と極小さく悪態を吐いて、ティルスに向う脛を蹴飛ばされていた。
部屋の温度が些か下がった気がする。どうやら表情を歪ませたデルタの反応を見ても、ラーシャたちと彼らとの関係はけしていいものではないらしい。
まあ、お抱えの騎士団と傭兵が気を合わせられない、なんて話は良くあることだ。
「あー、えっと、どうもご丁寧に……」
「皆様、お待ちしていましたよ。何せ、戦況は芳しくないもので。たとえ一人でも、戦力になる方がいらっしゃると心強い」
「ヴァレス殿!」
にこにこと、だがあからさまな物言いをするヴァレスを咎めるようにラーシャの声が飛ぶ。なるほど、こんな性格なら彼らと馬が合わないのも納得がいく。
爽やかな顔であっけらかんと、おおよそ、初対面の人間に向ける言葉とも思えないものを吐いてくれる。しかも国の総統とその懐刀の目の前で、第三者に『戦況は良くない』とはその神経の太さはどれだけのものか。
ラーシャの厳しい視線に、しかしヴァレスは「これは失礼」と答えて肩を竦めるだけだった。女性―――ライラの方はまったくの無反応。
一方で、シェイリーンの方はというと、懐が深いのか、はたまた彼の物言いには慣れているだけか、意に関せず、と言ったふうに元いた席へと戻る。
「ごめんなさい、ラーシャ。驚いたでしょう? ノール港には行ったのですか?」
「ええ……。波止場はエイロネイア軍に占拠されていました」
「本当に、着いたと思ったらいきなり矢の嵐よ。この落とし前はどうしてくれるのかしら?」
剣呑な声で言ったのはシリアだった。彼女の場合は、矢の嵐、というより嫌いな船に余計な時間、乗せられていたという恨みの方が強い気がするが。
シェイリーンは眉を上げて、口元を軽く抑える。
「そんなことが……。申し訳ありません、こちらの不手際ですわ……もっと早く、連絡が着けば良かったのですけれど……。皆様、よくぞご無事で」
「こちらのルナ殿の機転で何とか助かりました。後ほど、お礼とお詫びを用意させましょう」
「お詫びはいいけど、あれはどういうことだったのよ?」
ルナは不機嫌な表情を隠さずに、つっけんどんに言う。機嫌が芳しくないのは、らしくなく、"お礼"に食いつかなかったことからも分かる。
シェイリーンは押し黙って、しばらく視線を宙に彷徨わせる。やがて、困ったような視線をティルスに向けた。
その視線を命令と受け取ったか、ティルスは一息吐いて、全員に席に着くよう勧める。自分はレスターを伴ってシェイリーンの傍らに着いた。
カノンは少し迷ったが、レンに促されて結局は上座の席に腰掛けた。
シェイリーンの右側にはヴァレスとライラ、左側にはティルスとレスター。席の上座にカノンたち、ラーシャとデルタは正面に立ったまま背を伸ばす。
「……ラーシャ様とデルタはご存知だと思いますが。
ラーシャ様がご出立なされる前、つまりは一月ほど前になりますか。シンシアとエイロネイアは、この、」
言いかけて、ティルスは背後の大きな地図に赤印をつける。島国を二分して、その線の向かってやや右側の荒野だった。
「ジルラニア平原を戦地としていました。シンシアの拠点は三つ、エイロネイアの拠点は二つ。
それほど大きな戦ではありませんが、小さな抗争というわけではありません」
「要は小競り合い、ってレベルではない。でも大局を決める戦ではなかった。そういうことね」
「そうです。戦力はほぼ互角。エイロネイア軍は強大な軍隊ですが、この平原に置いて、エイロネイア側は山脈地帯を跨いでいます。その場合、物資などの輸送にも労力がいる戦になります。
地理的条件で、有利な戦になるはずでした」
「ああ。それに平原においてシンシア軍はエイロネイア軍を押していた。だからこそ、私は現場を離れることが出来たのだからな」
「はい。……ですが、ラーシャ様がお発ちになった一週間後のことです。ジルラニア平原から少々離れた、この、」
ティルスは新たな印を地図に書き込む。赤く引かれた線は、先ほどの線よりもやや左に寄った箇所の大地だった。彼は続けてそのすぐ近くの海辺に印をつける。
「……ノーストリア高原に、エイロネイアの小隊が現れました。ノール港のすぐ近くです」
「ノーストリア高原だと!? 馬鹿な、あんな場所からエイロネイアが攻められるものか……ッ!」
淡々としたティルスの言葉に、ラーシャが動揺を露にして声を張り上げる。
「何だ、そののーすとりあ、って?」
「地図を見れば分かりますが……。この地も、エイロネイア側にとってはいい地形ではないのです。
シンシアの領土から見れば平坦な道上にありますが、エイロネイアからすれば山脈の合間に位置する高原です。また、川も挟みますから増援も易々とは呼べません。
エイロネイアにとっては、わざわざ足場の悪い場所を取ったことになります。
ノール港は我々にとっては要になる港、しかし、攻められにくい場所に位置していたために、警備の手が厳重、というわけではありませんでした。それが油断だったのでしょう……。
加えて、この小隊の出現と同時に、ジルラニア平原のエイロネイア兵が撤退し始めたのです」
「撤退?」
「はい。ですので急遽、兵を何割かノーストリア高原に派遣することとなりました。
……貴族院の判断です。我々も混乱していました。戦地であるはずの場所から敵兵が引き、戦地となりえない場所に兵が出現したわけですから。
ジルラニア平原においては、今まで押して来た戦という油断があり、一方でノーストリア高原においては、地形の勝利という油断がありました。
それが……」
カノンははっ、と顔を上げる。ティルスが、初めて感情を露にして、口惜しそうに唇を噛んだのだ。
隣のレスターはぶるぶると拳を震わせている。それを気遣うように、シェイリーンが居た堪れないような、表情で眉間に皺を寄せている。
ラーシャは、テーブルに両手を着いて、唇を引き結んで話に聞き入っていた。
「……命取り、でした。
それがエイロネイアの思惑だったのです……。ジルラニア平原から進撃を開始した兵軍は、山中で山頂付近に布陣し、兵を忍ばせていたエイロネイアの増軍に対してあまりに無力でした。
あの布陣と伏兵は、きっと予てから用意されていたものだったんでしょう。相手の有利な平原から、自分たちに有利な山脈に戦地を移す。そのために、一時的に兵を撤退させたのです。
戦力分散もその策です。混乱して兵力の減った軍隊を叩くのは、そう難しいことではありません」
「しかしッ! そうにしたって、そこまでの混乱を招くとは、一体何があったのだ!?
ノーストリア高原にしたって、あそこには十分な兵力を備えていたはずだ! エイロネイアにとっては鬼門の場所だ! それが何故……ッ!?」
「……皇太子、だよ。姐さん」
「……ッ!」
いくら何でも、そうことが上手くいくはずがない。声を荒げるラーシャに、レスターが一言で答える。
カノンが顔を上げ、ルナは腰を上げかける。シリアもアルティオも、身を乗り出した。
「……小隊を率いていた奴がな。山頂からシンシア軍に向かって言ったんだよ。
『自分はエイロネイア軍を束ねるエイロネイア皇太子だ。大人しく降伏しろ』ってさ」
「―――ッ!」
「皇太子の悪評は有名さ。妾や捕虜の話だけじゃねぇ。戦の中でもそうさ。
曰く、百の大軍を相手にたった一人で勝利した、とか。曰く、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とかな。まあ、怪談チックな噂のひれから、薄ら寒いもんまでいろいろあるわけだ。
ノーストリアは兵力としては十分だけど、戦地から離れてたし、場所が場所だから、経験不足のひよっこも多かっただろ?
度胸のついてない一兵士の目の前に、そんな化け物が名乗り出てみろ。あっと言う間に、その場は大混乱さ。士気も駄々下がり。どうしようもない」
「我々も、皇太子はジルラニア平原の戦で指導者として動いていると思っていましたからね……。
情報の交錯も敗因の一つと言えるでしょう。実際、ジルラニア平原の兵の中にも、皇太子が同時に二箇所の戦場に存在するなどとナンセンスな思い込みをして、混乱を起こす者が少なくありませんでした。
つまり、彼は自分の悪評を利用したのです。それで兵の混乱を招き、不利な戦を有利に進めた。
ラーシャ様が不在だったのも明らかな敗因の一つです。……上の仕事ばかりで、下の戦場のことは何も知らない貴族院などのの決定に、素直に従ってしまったのですからね」
「……」
「で、でもよ。それっておかしかないか?」
必死で物事を咀嚼していたアルティオが、ぎゅ、と眉根を寄せて首を傾げる。傍らのシリアがそれに大仰に頷いて、
「そーよ。だって、それはラーシャが大陸に発ってから……少なくとも、二週間とか一週間前だったわけでしょ?
その間、私たちにちょっかい出してきたあいつ-―――エイロネイアの刺客、って奴も自分は皇太子だ、って言ってたわよ?」
『!』
シェイリーン、そしてずっと口を閉じていた傍らのヴァレスとライラが同時に顔を上げる。表情は驚愕の一言。
それこそ、そんな馬鹿なことはない。ゼルゼイルの地と西方大陸に、同時に一人の人間が存在するなど、そんな馬鹿なことはあるはずがないのだ。
「……影武者、か」
無言を貫いていたレンが初めて口を割った。その一言に、ティルスが深く頷く。
「……あり得ない話ではない、と思います。というより、それしか考えられません」
「確かに。いくらエイロネイア軍の総指揮を執ってる、つっても、これまで明確に姿を見た人間てのは数えるほどしかいないだろうし……
いても、殺されちまってる方が多いからな……」
「つまり、どっちかの皇太子は『皇太子』を名乗ってるだけのただの一般兵、ってこと?」
「……兵の目撃証言は取れています。淡い青髪の長い、背の高い男だったと。それだけですが」
シリアとアルティオが顔を見合わせる。ラーシャとデルタは眉間に皺を寄せ、レンの眉が少しだけ弾む。
カノンは一瞬だけ瞑目して、言葉を紡ぐ。瞼の上に、あの黒い残像が、隠せない怒りと共に浮かんだ。
「……違うわ。あたしたちの前に現れたあいつは、黒い髪で、全身に包帯を巻いて、真っ黒な服で。見たら一目で特徴は分かるはずよ」
「背もそんなに高くなかったわね。見た目には華奢な男の子、って感じよ」
「ということは、そのどちらかが影武者ということになりますねぇ……」
場違いに呑気なヴァレスの声が、結論を弾き出す。
どちらが本物で、どちらが偽物か。はたまた、どちらも偽物なのか―――。
煮詰まった雰囲気の中。誰もが、その問いかけに答えられはしない。だがしかし、その冷えた空気の中で、
「……あたしは…。私は、大陸に来ていた方の奴が本物だと思う」
「? ルナ?」
ぽつり、と漏らした少女の声に、全員が反応する。カノンがその名前を呼びかけて、その呼びかけが終わるより先に、彼女は椅子を引いて立ち上がる。
そしてシェイリーンを見た。傍らの、ティルスの余談を許さない目が、じっと彼女を観察していた。
デルタが慌ててフォローするように身を乗り出す。
「ルナさん。確かに彼は」
「……違う。違うのよ。そんなことが言いたいんじゃないわ。
―――『七征』、って言うんでしたっけ? エイロネイアの七大幹部。戦軍の要。
……その、七人の中には、私のかつての知り合いがいます」
「え?」
思っても見ない告白に、シェイリーンの目が見開かれる。彼女だけではない。ラーシャとデルタ、無表情なライラ以外の、シンシア派の全員が反応する。
ティルスは訝しげに眉間を寄せて、レスターは大げさに目を剥いた。ヴァレスはそれよりも薄い反応だったが、笑みに細めていた目をすっ、と真顔に戻す。
「ルナ殿!」
「ごめん、ありがとうラーシャ。でも、いずれバレることよ。どうせバレるなら、早い内がいい」
それは彼女のために、とラーシャがあえて伝達でも伏せていた事実だった。真相が知れれば、軍の内部と彼女との間に摩擦が起こりかねない。貴族院の人間に知れたら、それこそそれを利用しようとする人間も出てくるかもしれない。
ルナ自身にとっても、そして迎える立場であるシェイリーンにとっても、あらゆる面でマイナス要素になりかねない。だから、ラーシャは伝達上でも、デルタにも、口を止めて置いたのだ。
それを、本人があっさりと破る。
シェイリーンが唖然としながらも、はっ、と我に返った表情でルナを見る。そこにあったのは、けして軽蔑の色ではない。
ラーシャは彼女を頼れる人間だと言った。ラーシャは実直で嘘を言わない。だから、その根拠は絶対にあるはずなのだ。その告白だけで、彼女をどういう人間なのか判断するには、まだ早い。
「その、お知り合いというのは……?」
「……どんな目的でエイロネイアに加担しているのかは分かりません。でも、彼はたとえ、どんな場合であったって、生半可な人間に従うような人間じゃありません。他人に従うこと自体を嫌ってるはずです。
その彼が、誰かの指図で動くこと自体が信じられない。あるとしたら、それはその人間が協力に値すると判断できたときだけ。彼のその基準は、あたしが今まで出会ったどんな人間より高い。……プライドからも、技術力からも。
そんな奴を扱えるような器を持った人間なんか、数えるほどしかいません。エイロネイアで言うなら―――」
「その、エイロネイア皇太子しかいない、と?」
ルナは深く頷いてみせる。彼女には妙な確信があった。彼が従っていること、そうでなくともあの少年に相対した際の、歳不相応の貫禄。あんな人間が二人も三人もいてはたまらない。いるはずがない。
あの喪服のような黒装束を思い出し、隣でカノンも渋く顔を歪ませる。
「しかし、あの皇太子が指揮を離れるなんて……」
「……ありえない話ではありませんねぇ」
「ヴァレス?」
シェイリーンの言葉に、ヴァレスが首を振る。彼は顎に手を当てて、ふむ、と声を漏らしながら、首を傾げたシェイリーンと憮然としたティルスを振り返る。
「ノーストリア高原の……髪の長い、背の高い男、ですか。少々前の話ですが、魔道隊を指揮させて頂いていたときに、似たような男が敵陣で指揮を執っていたのを見かけた覚えがあります。
大陸の皆さんは、黒装束を纏った少年、と仰いましたね?
クラングインの砦が陥落した戦がありました。エイロネイアの皇太子殿が台頭してくる少し前、でしたね。
初陣、だったのかもしれません。砦が破棄されて、その後、しばらく近くのシンシアの砦からクラングインの砦を観察させていましたが、青い髪の男を従えた少年の目撃情報があったはずです」
「……確かに、指揮者らしい男の姿があった、という報告はあったな」
ラーシャは爪を噛む。小戦の記録だった。戦の記録は、彼女やティルスといった陣頭指揮官たちの下に膨大なほど送られてくる。その膨大な資料は、小戦のもの、終わった戦のものほど極薄い。
クラングインの砦はそれほど重視されていない砦だった。一度はトカゲの尻尾切りに利用する、という一案さえ出たような場所だ。
何故、その情報を数多の資料の中に埋めてしまったのだろう。
別段、ラーシャの責ではない。指揮官の職務にも限界がある。だから彼女は基本に忠実な職務をしていて、その小戦以上に重大な戦の報告が重なっていた。それだけだ。
だが、言い様のない後悔が頭の中で暴れ出す。
「その目撃証言が本当なら、その背の高い男はエイロネイア皇太子の腹心、ということでしょう。まあ、逆もありえますが。皇太子の腹心、というのならその男も『七征』でしょうね。
皇太子とその腹心の二人が『七征』である、という密偵の情報が確かなら」
「……あるいは、完全に嵌められたのかもしれないわね」
「嵌められた?」
涼しく言ったヴァレスに、じっと何かを考えていたカノンが口を開く。ヴァレスが訝しがるような息を吐き、シェイリーンが先ほどヴァレスに向けたものと同じような問いかけの視線を彼女に投げる。
会議室内の視線が集められた。
緊張が高まる。その雰囲気に飲まれないように、カノンは下腹に力を込めなくてはならなかった。
「相手に情報を掴ませる、もしくは信じさせるのに一番大事なものは何?」
「リアリティ、ですね」
ティルスが即答する。カノンはそれに頷いて、
「そうよ。今回、前線指揮を執っているはずのラーシャがわざわざ大陸に来たのは何故?
あたしたちを招くため、武器の密輸を止めるため。粗相がないように、とか何とか言ってたけど、そんな理由だけじゃないでしょう?
密偵でエイロネイアがあたしたちを狙ってることを知った、って言ってたけど……。皇太子が直々に刺客になってる、なんて情報は掴めないまでも。その密偵の情報ってのはひょっとして、大陸への来訪が、エイロネイアにとって最重要ランクの任務扱いになってた、ってことなんじゃないの?
相手にとって最重要。だから重鎮であるラーシャが前線指揮を離れてまで止めに来た」
「……仰る通り、ですね」
ティルスが苦々しい顔で頷く。カノンの言わんとしていることを、彼もまた悟ったのだ。彼だけではない。彼の傍らのレスターはあからさまな舌打ちをして、デルタは静かに拳を握り締める。
数秒経ってから、絞り出すような声でラーシャが口にする。
「つまり……こちらに密偵がいると知っていて、それを利用して私をまんまと戦場から離れさせた」
「戦争を目の前にしたことのある人間じゃないから、その場その場で戦況がどう翻るかは解らないけれど……。
少なくともラーシャは最上級の指揮官なんでしょう? いるといないとでは、兵士の士気だって大違いのはず。だから、ひょっとしたら、奴は奇襲の成功率を上げるために密偵を利用して、大陸行きを決行した。
……もっとも、その任務が大陸での騒ぎでなければならなかった理由は……ん…」
「……まさか配下の人間のわがままに付き合うためじゃないだろうし、大陸との既に役に立たなくなっていた、腐った繋がりを払拭……でも弱いわね」
言い澱んだカノンの言葉を飄々と繋いで見せたのは、言葉を濁した理由の当人であるルナだった。
わずかにいたたまれない表情を見せたカノンだが、すぐに面を上げる。
「ともかく、目的が何にしろ、そういう効果も狙ったことなんじゃないか、って思うのよ。
相手側に何人、密偵を送ってるのかは知らないけど、それを逆手に取られたってことね」
「おいおい……そんな」
レスターが青ざめた顔で眉間に皺を寄せる。室内で感じるはずのない寒気に、鳥肌の立つ二の腕を摩りながら、
「じゃあ、密偵はとっくの昔に相手に気づかれてる、ってことじゃねぇかよ……。
まずいぜ。エイロネイアの皇太子なんぞ、捕虜殺しで有名だ。下手したら拷問、ってこともある」
「……密偵が特定されているかは定かではないですが、一度密偵を下がらせましょう。もし、カノンさんが言っておられることが事実ならば、逆に危険なだけです」
レスターの言葉に、ティルスは眼鏡を抑えて深く息を吐く。
「でもさ、ちょっと待てよ」
末席に座っていたアルティオが口を挟んだ。
「ラーシャサンもエイロネイアの最上級指揮者。でもその皇太子も戦場じゃ、最高指揮官なんだろ?
一緒にいなくなったら、兵士の士気を考えたら条件は互角なんじゃないか?」
「……傍目には、そうですね……。
けれど、奇襲を仕掛ける方と仕掛けられる方では、元から士気の在り方が違います。絶体絶命の窮地に立たされるほど、士気というものは重要なのです。
足をもがれたネズミを狩るのに、士気を必要とする虎もいないでしょう。
……加えて、相手方にいる幹部『七征』は皇太子から絶大な信用を受けています。軍内の威光も生半可ではないはず。
何しろ、あの計算高いエイロネイア皇太子が、戦場を離れても大丈夫だと判断したのですからね」
「……エイロネイアはともかく……シンシアの兵士にとっても、『七征』はとんでもない脅威なのね」
「はい。『七征』はエイロネイア皇太子台頭の象徴とも言える存在ですから。彼らが介入するようになってから、五分五分に保たれていた均衡は、すべて崩れ去りました。
……シンシアは完全に後手に回ってしまっています」
冷静に言葉を選びながらも、口惜しさを隠せない表情でティルスは歯噛みする。シェイリーンはずっと俯いて、何かを祈るように手を組んでいる。
気遣うように、ラーシャがその細い肩を支えた。
「ちょっといい?」
「はい」
すっ、と手を上げたのは訝しげに唇を尖らせたシリアだった。立ち上がり、テーブルから乗り出すような格好で、唾を吐く。
「『七征』とやらが場を動かしていて、そいつが脅威だ、ってのは分かったわ。
けど、いくら何でも誇張が過ぎない? 皇太子にしたってそうよ。いきなり均衡が崩れたとか、兵士皆が恐れてるとか。そんな急な戦力転換なんか聞いたことないわ。
『七征』とやらが高い能力を持った連中だってのは分かった。皇太子って奴が狡猾で、やりづらい奴だ、ってのも分かったわ。
でもいくら指揮が良くたって、腕っ節が強くたって、戦争ってもんは個人の力でそうそう勝負が決まるものじゃないわ。昔だって、腕のいい奴を召抱えていたけど、結局は滅ぼされた国がごろごろあるじゃない。
戦争は風向き一つでどうとでも転がるでしょう?
そんな戦争全体を掌握できるような、超常的な、都合のいい連中がいてたまるもんですか」
「……」
すらすらと述べたシリアに、ティルスは書類の束を抱えて押し黙る。レスターも、押し黙ったまま、同じような微妙な表情を浮かべた。
デルタは避けるように視線を下げて、ラーシャは何かを考え込むように腕を組む。シェイリーンは、白い喉を上下させて、迷うような仕草を見せた。
シリアに続き、椅子に寄りかかったルナが軽く手を上げる。
「それについてはあたしからも質問」
今度はティルスは答えなかった。だから彼女は勝手に続ける。
「さっき、そっちのガタイのいいにーちゃんが言ったわよね? 皇太子の噂について。
百の大軍を相手にたった一人で勝利した、面妖な術を使って千人の魂を抜き取った、とか何とか。
確かに誇張された、怪談ちっくなものかもしれないけど。
けど、元がなけりゃ噂だって尾ひれはつかないのよ。身がなけりゃあ、ね。火のないところに煙は立たないとはよく言ったもんよ。
そういう噂がある、ってことはその皇太子殿と『七征』たちが、明らかに人間離れした芸当をやらかしてる、ってことじゃないの?
それが兵士の士気に直に影響しちゃってる。どう?」
「……」
ティルスは無言だった。それが肯定の返事だったのかどうかは分からないが、少なくとも、否定は出来ないということだ。
カノンたちはその"人間離れ"の片鱗を既に目にしている。素っ頓狂な声を上げる者はいなかったが、息を飲む声は幾つも聞こえた。
「……さてさて、大陸人というのは遠慮というものがありませんね。いきなり確信をついて来ます」
「ヴァレス殿!」
あっさりと認める発言をしたヴァレスに、ティルスの眼鏡の奥からの厳しい視線が向けられる、だが、彼は少しだけ肩を竦めて、その視線をやり過ごす。
「ティルスさん。どの道、協力を仰ぐならこの方たちには知る権利があり、我々には話す義務があります。
彼女たちも戦場に身を置くことになるかもしれない。ならば、隠しておけるはずはないし、隠しておけばシンシアは詐欺師の集団になるかもしれませんよ?」
「……」
「…………分かりました」
何も言い返せないティルスの沈黙を、早々に破った声があった。鈴のようにか細い。シェイリーンだった。
「シェイリーン様!」
「ティルス、お話しましょう。どの道、分かるときには分かる話です。なら、今のうちに皆さんに話しておく必要はあると思います。
……どんな話でも、です」
「……」
シェイリーンはあどけない顔に、確かな威厳を宿しながら口にする。厳かなその雰囲気に、口を出せる者はいなかった。
ティルスも、歯を噛み締めながら敬礼をして項垂れる。
深呼吸を一つ。それで腹を据えたように、シェイリーンは正面からカノンたちと向き直った。
「……皆さんにとっては、気持ちの悪い話になるかと思います。ですが、お話しないわけには参りません」
「……」
カノンは固唾を飲み込む。いつのまにか、喉がからからに渇いていた。
それはシェイリーンも同じようだった。ふーっ、と息を吐き、肩を上下させる。
シリアとアルティオは身を乗り出した。
ルナはそのままの体制で、レンは何事もなかったかのように涼しく。しかし、内心気にならないわけはないだろう。
「……エイロネイア皇太子の噂については――
ルナさんがご推察なさった通りです。火のないところに煙が立つはずがありません」
「じゃあ、その百人相手に一人で勝っただとか、千人の魂を抜いたとかいうのはホントだってことか!? いくらなんでも……ッ!」
「いえ、それ自体が事実として認識されているわけではありません。
ですが、幾つかの小隊が戦地に向かう途中で、軍隊同士の衝突の跡もないのに全員虐殺死体で見つかったり、神隠しにあったように姿を消したりしたことがあったのは事実です」
「軍同士の衝突もなく……?」
「はい。それも、一隊や二隊ではなく。その時期は、ちょうど皇太子が戦場で猛威を振るい始めた矢先の出来事で、密偵の情報からも彼が戦地に出向いている記録がある、との報告を受けていました。
口で言うだけでは想像出来ないかもしれませんが……。
あのようなことは、物理的な世界では無理です。小隊といっても、五十人ほどの編成はされています。それが幾つも、瞬く間に消されるなんて……」
「……」
普通なら笑うところだ。笑って、何をそんなバカなと切り捨てるところだ。
だが、カノンたちに、それぞれの、それぞれが記憶する情景が過ぎる。町中で暴れる合成獣、人の血を吸う剣、錯乱し、互いを傷つけあう町人たち―――。
それは、皆『ありえないこと』。
けれど『あったこと』。
だから、誰にも、笑い飛ばせない。否定できない。
「もう一つ。
私たちが相手にしているのは、人間ばかりではありません」
「……? 人間、ばかりじゃない?」
きっぱりと言ったシェイリーンの言葉。すぐには意図を読めなかった。人間ばかりを相手にしているわけじゃない。では一体、何を相手にしているというのか。
"人間離れ"していると言った。けれどそれは"人間"に使う言葉、いや、"人間"と思っているモノに使う言葉だ。
"人間"でなければ、一体何なのか。
シェイリーンはもう一度、悩む。言って、彼らは信用してくれるのだろうか。いや、思えない。自分だって報告を聞いたとき、まさかと思ったのだ。
けれど、長として彼女は言わなくてはならないのだ。奇異の視線を受けることを覚悟で。
「……エイロネイアの軍隊の中に、死人や獣が混じっている、と言ったら、皆さんは信じますか?」
「・・・!」
カノンとルナが同時に息を飲み、シリアが苦く端整な顔を歪める。アルティオが怒りに拳を震わせていた。
レンだけは無反応を装っている。だが、苛立だしげにした舌打ちが、カノンの耳には届いていた。
カノンは浅い深呼吸をする。腰を落ち着けてから、今一度シェイリーンを見返した。
「……それは、どういうこと、ですか?」
「……文字通りの意味です。
彼らの軍隊の中には、生気のない顔をした人間でない人間と、恐ろしい形相をした……私は直接は見たことがないのですが……
デーモンや合成獣、と言いましたか。その類のものが混じっています。
それも、尋常ではない規模で。一部隊に何十、何百、という数」
「何十、何百ッ!?」
驚愕の声を出したのはシリアだ。彼女だって多少なりとも魔道の心得がある。
だから分かるのだ。そんなことが、どれだけ無謀なのか。
絶句する彼女に、シェイリーンの傍らに立っていたヴァレスが肩を竦めた。
「ええ、お察しの通り。
この世の中には、外法と称されていても、死霊術[ネクロマンシー]や獣召還[サモン]といったものが存在します。
文字通り、方や死人をゾンビやスケルトンといった歪んだ形で蘇らせるもの。方や、闇の世界の住人と称される獰猛な獣をこの世に生み出すものです」
死霊術[ネクロマンシー]、獣召還[サモン]。
共に、カノンやレンといった元・違法者狩り、また魔道師にとっては極身近な単語だった。
だが、この事態はそれだけでは説明がつかない。なぜなら、
「ご存知の通り、これらが戦争という現場で使われることは殆どありません。何故かというと、生み出されたものが非常に扱いづらいものになるからです。
死人や獣は明確な意思を持ちません。だから、人間の指示など元々聞かないシロモノです。
戦争に使うとしても、霍乱程度にしか使えません。ましてや、そんな何十、何百なんて数、制御できる人間がいるとも思えません。
しかし、」
「……エイロネイアの『七征』は、それを実現しているのね?」
徹底的な一言を、ルナが放つ。異様なまでに、声が硬い。彼女は、その先の返答まで既に予測しているようだった。
彼女の予測通り、ヴァレスはあっさりと頷いてみせる。
「今回の場合、ノーストリア高原の襲撃において、それが使われました。
死人や獣に、物資の補給は必要ありません。だから、いくら物資配達がし難い場所であっても関係はありません。死人は言うまでもなく、獣は腹が減れば、目の前の"兵[エサ]"を食いますからね」
えげつない一言だ。だが、その言葉を咎められる人間はいなかった。カノンたちの中にも、シンシアの中にも。
カノンたちは愕然と彼の言葉を聞き、シンシアの軍勢たちは揃って唇を噛むことしか出来なかった。
「先にも言った通り、これは非現実な事象です。何故、エイロネイアがこれを実現できているのか。理解に苦しみますが、可能性があるといえば……」
「……」
ヴァレスが濁した言葉に、カノンはすべてを悟る。
いくらエイロネイアが自分たちに接触していたとしても。
何故、シンシアが、カノンたちよりももっと高名な騎士や戦士に助けを求めなかったか。
何故、カノンとレンであったのか。
その一つ一つを噛み砕いて、硬い声で、カノンは口にする。
「……ねぇ、レン」
「……」
「政団の、違法者狩り団体はもう解散してるわ……。理由は記録にあるすべての大陸内の死術[ヴァン]を狩り終えたから」
死術[ヴァン]。太古の魔道師が残した負の遺物。けして残ってはいけなかったもの。不慮の事故によって、大陸中に散らばってしまったもの。
太古の大戦で、人間が生んでしまった、脅威の外法。禁呪。
人の身では為し得なかったいくつもの外道な呪を、紡ぎ出した、失われた術。
「でも、でもそれは……『記録にある』、『大陸内の』、なのよね……?」
「……」
自分で言った言葉を反芻する。もう誰もが想像、いや理解していた。彼女が一体、何を口にしているのか。
「じょ、冗談言うなよ……ッ! じゃあ、エイロネイアは……」
「『記録されていなかった』、死術[ヴァン]を既に復活させてるっていうの……ッ!?」
茫然としたアルティオの声を、シリアが継ぐ。その乾いた言葉を、さらに、ルナが継ぐ。
「……そればかりとは限らないわ。
シェイリーンさん。ゼルゼイルには、数々の伝承や伝説が眠っている。魔道的な、今の時代だったら信じられないようなものがたくさん、ね」
「……ええ、私もお話の中でしか聞いたことがありませんが」
「曰く、かつて大天使ルカシエルに滅ぼされた魔族、羅刹鬼[ヴァン・ラセツ]グライオンが眠るとされる幻大陸の存在。
曰く、人と神と魔の世界、すべてに絶望した対となる神魔族の鬼神が、自らの身を封じて眠りについた室の地。
有名なのはその二つ。けれど、ゼルゼイルの土地は、それに惹かれてなのかしらね。他にも信じられないような伝説のお話が転がっている。何のわけか、その中にはそういう類のとんでもない術や武具のお話が多いのよ。
……太古の魔道師が、どうやって『死術』を造ったか知ってる?
あれもね、準えたのよ。
それよりももっと太古、古に造られた神話の時代のオーパーツを歪めてね」
「ちょっとルナ……、それって……」
カノンが声を上げる。そんな、そんな馬鹿なことがあるはずがないのだ。
彼女が何を言っているのか。分かる人間はいても解る人間はいなかった。それは、不可能なこと。いや、不可能だとされてきたこと。
そんな人間は、今の時代にはいなかったから。
今の時代に、いるはずがいなかったから。
太古の、古を、たとえ準えでも、復活させることの出来る人間がいるなどと……ッ!
だが、少なくとも大陸で大戦が起こったあの暗黒時代には、多数いた。だから死術[ヴァン]が生まれた。
だから、否定できない。誰も出来ない。
そんな人間が現在するなんて。
でも否定する。認めたくはないから。
「そんな、そんな人間がいるはずは……ッ!」
デルタが上げた声に、ルナは沈思する。いつのまにか、彼女は親指の爪を噛んでいた。もう少しで皮膚を抉るだろう。それでも、そんな痛みに気がつかないほど、彼女の中には疑惑が、疑念が渦巻いていた。
彼女は知っていたからだ。
そんな馬鹿げたことが出来る人間を、一人だけ。
二十年という短い半生の中で、たった一人にだけ、出会っていたからだ。
「……その、獣やら死人が、戦場で使われ出したのはいつ?」
「……皇太子が台頭し始めて、まもなくですから……一年、少し前、ですね」
カノンははっ、とする。一年と、少し前。それからもう少し前に、カノンやルナに関する事件が、あったのだ。
そうだ、一年と半年前。
ちょうど、ニード=フレイマーの組織にルナが反旗を翻し、弾圧したのが同じ頃。
あの組織の中には、ルナのように『月の館』から引き抜かれていた魔道師が何人かいた。
カノンは直接"彼"から話を聞いたわけではなかったから、想像しか出来なかった。けれどルナは、直接、"彼"から話を聞いていたから、断言できた。
"彼"もまた、組織に囚われていた人間の一人であったと。
でも、組織が潰されて、行方不明。行方不明であった。行方不明であったから、彼がどこで何をしていたかなんて、誰も知らなかった。
誰も知らないから、否定が出来ない。
"彼"が、稀代の天才が、この地で、次々と戦争の道具を作り出していたことなんて……ッ!
「カシス……ッ、あの馬鹿、なんてことを……ッ!」
感情に支配されたルナは、断定的な言葉を吐き出した。彼にとって見れば、太古のサンプルから、新しい術を生み出すのに、半年という期間があれば十分だったのか。
がりッ……
噛んでいた爪が根を上げて、極少量の血が滲み出す。
見かねたシリアが彼女の腕を掴んだ。無言で、表情を変えずにルナはのろのろと手を離す。眉間に刻んだ皺が、力の入らない腕が、最大の傷心を表していた。
「……あんたの、本当にやりたかったことは、そんな馬鹿げたことじゃないでしょう……ッ!」
「……ルナ……」
喉の置くまで込み上げた熱い感覚を、必死で抑えながらも、しかし言葉では押さえきれなかった。
沈黙が支配する。誰も、何も言えなかった。
事情を知らないシェイリーンやレスター、ティルスもただならぬ雰囲気に押されて何も言えなかった。
やがて、ヴァレスが咳払いをするまで、誰も我に返れなかった。
「……どうやら状況はお察し頂けたようですね。ご覧の通り、後にも引けず、前にも進めない状況です。
それと、フィロ=ソルト中将に、もう一つ、嫌なお知らせです」
「……」
ラーシャは無言で、しかし、やや憮然として顔を上げる。
これ以上の凶報、そしてヴァレスの無神経な言葉、その渋い表情はどちらに向けてのことか。
「『七征』に関してです。
皆さんも既に知っていると思いますが、『七征』はエイロネイア皇帝ヴェニアの提唱した『エイロネイアの七つの柱』です。
だが、実際には少しだけずれています」
「ずれている?」
カノンの問い返しに、ヴァレスは頷く。
「提唱こそ、ヴェニア帝のものですが、実際に『七征』というのはエイロネイア皇太子の直属部隊です。指揮も指示も、ヴェニア帝ではなく、彼の手中です。
要するに、『七征』というのは自分の周りを固めるため、人材集めのための単なる箱なのでしょう。
現在、確認されている七征は、四人。皇太子と、その側近と思われる男―――大陸に出現した男と、ノーストリア高原で指揮を執った男です。
そして、ジルラニア平原で指揮を執っていた男と女。金の髪の軍服の男と、もう一人、女が目撃されています。内部の情報からも、おそらくは、『七征』だと思われます」
カノンははっ、としてラーシャと顔を見合わせる。ノール港で襲撃を仕掛けてきた人影。
あれも、金の髪の、軍服の人影じゃなかったっけ……?
ラーシャは額に汗を掻いて、固唾を飲み込むとこくり、と頷いた。ヴァレスを見返して、口を開く。
「……プラス、二人、だ。大陸に来た、皇太子と二人の男。一人は……ルナ殿のご級友、そしてもう一人は少年だ。
もう一人、少女がいたが名乗らなかった。彼女も『七征』なのかは、確認が取れていない。
皇太子は、目の前にしていてあの少女だけは『七征』と名指さなかった。と、なると違うのかもしれない。油断ならない相手ではあったが」
「そう、ですか……。ならば、これで確認されたのは六人。
―――いえ、ノーストリア高原に出現した男が、少々、気になる言葉を残しまして、ね。
そのまま伝えます」
ラーシャは眉を潜めて身を乗り出した。ティルスとレスターは不快感を顔に浮かべる。
ヴァレスは飄々とした表情を崩さないまま、さらりと、それを口にした。
宣告のように、それは耳を打つ。
「『七つの要はもうじき揃う。七つの要の、最後の一人が現れる。七つの要は、もうすぐ完成される。
そうなれば、我の描くシナリオも、容易なものとなるだろう―――』と」
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THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
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