[1]
[2]
青い海、白い雲、さんさんと照りつける爽やかな太陽。
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
←4へ
ただ街道を歩くだけなら暑すぎる程の気温だが、程好く温まった浅瀬の海水に浸ることを考えたらむしろちょうど良いくらいだ。
まさに絶好のバカンス日和、なのだが……
「何っか、後味悪いわねー……」
熱を持った砂の床に寝そべりながらぽつり、と呟く。独り言のつもりだったが、ビーチ内だというのに近くのチェアで本を広げる相棒にはしっかり聞こえていたらしく、ぱたん、と本を閉じる音。
「言っておくが」
「解ってるわよ。進んで面倒ごとに関わったりしないわ。けど、気にならないかっていったら嘘になるし。
あ、ローランの言うことは理解できるわよ。好きなもんじゃないけど面子とか意地ってものがあるのは解らんでもないし。
まあ、臨時雇いの旅人にまで忠告しに来る、ってのは大袈裟な気もするけど。そうじゃなくて……」
「クレイヴとルナのことか?」
先じて言ったレンの科白に頷くカノン。
「まあ……ローランのことでクレイヴの対応の淡白さも何となくわかった。WMOの干渉があっちゃあ、大っぴらに事件解決なんて旅人に頼んだら抑圧が来るのは必至だし。
だからあの人なりにちょこちょこ捜査と依頼を繰り返して、WMOに目をつけられないように解決を目指している。だから敢えて赤の他人である旅人に必要以上、干渉したりはしない。その旅人にWMOの息がかかってないとは限らないから―――とかそんなところじゃないかしらね。
でもさ、ルナの方は……」
「ローランの意向を考えれば、クレイヴ側に―――というかWMOの人間じゃない奴に加担していた俺たちと親しげにしていたんじゃあ、向こうの印象を悪くする。
そう不可思議なことでもない」
「それじゃなくてさ。何でルナは屋敷内の様子を素直にあたしたちに教えたんだろうなぁ、って」
首を傾げ、眉間に皺を寄せながら言う。
ローラン側の人間として徹底するなら、あの屋敷の様子をカノンたちに教えるはずはないのだ。ローランにとっては事件解決に積極的なクレイヴが無駄な場所を探し回ってくれた方が好都合なはずなのだから。
にも関わらず、彼女のあの態度は何だったのか……。
「それこそ考えたところで意味がない。役所仕事で依頼自体を疎ましく思っていたのか、それともローランについてあの情報はやはり嘘だったのか、はたまた単なる気紛れだったのか。
それはルナが判断した結果だし、もし嘘だとしてもそれを信じるか否か、信じた、もしくは信じなかった上でどうするかはクレイヴが決めることだ。
どんな形にしろ、依頼は終わったんだ。
今、俺たちがぐちゃぐちゃ考えたところで何も実るものはないだろう」
「そりゃ理屈では解るんだけどね……」
「そんなにささくれた気分になっているのなら、一泳ぎでもして来い。元からそのつもりでそんな似合わない格好をして来たんだろう?」
「似合わなくて悪かったわね!」
人の溢れる波打ち際を指しながら彼が言った余計な一言にカノンが憤慨する。瞳の色と同じ、青のツーピースの水着を見下ろしながら、頬を膨らませる。
これでも時間をかけて選んだというのに、デリカシーの欠片もないというか……。
「冗談だ。とにかく、そんなことなど頭の隅にも止めずにはしゃいでいる馬鹿共がいるんだ。
多少、羽目を外したところで罰は当たるまい」
言って今度はビーチ全体を見回して、小さく鼻で笑う。
カノンはその視線の先を追って、肩を竦めた。
人一人が余裕で埋もれる砂の山が建立されている―――というか人間の足が二本生えている。言うまでもない。ビーチに出た途端、ここぞとばかりに絡んで来たどこぞの脳みそすかぷー女を、これまたここぞとばかりに目の前の男が制裁した結果だった。
その向こうには水着の女の子にナンパを仕掛けてはビンタを喰らい、それでもめげずに復活し、またビンタを喰らい……を繰り返している愚か者の姿も見える。
「……そーね。でもさ」
「俺のことを気にしているならいらん世話だ。今さらだ。構わず行って来い」
この天気だと言うのに長袖の上着を羽織ったままのレンの背中をちらり、と見やる。レンの背中にはまだ子供の頃、付けられた大きな袈裟懸けの傷がある。
政団改革の折に、共に付けられたトラウマは既に癒えているはずだったが、それでも物理的に残ってしまった傷痕だけは消すことは出来ずに、今でも他人が不快に思うのを嫌って、一目のある場所では背中を曝そうとしない。
残していくのは心配といえば心配だが。
かと言って過敏になりすぎるのも、下手に彼に苛立ちを与えるだけだということもカノンは重々承知していた。
「じゃあ、ちょっと行って来る。どうせ、ここにいるでしょ?」
頷くのを待って、カノンは立ち上がった。日陰から出ると砂が予想以上に暑い。
焼け付くような足裏の痛みを誤魔化すように波へ急いだ。
ページを追う目を休めて、ふと視線を上げる。波打ち際は相変わらず人でごった返している。
日陰の、比較的人気もないこの場所はやはり救いだった。相棒と違ってああいった場所は苦手だ。いや、彼女だって特に得意というわけではないだろうが、自分よりは耐性があるだろう。
首を傾けると、視界の端に人の頭の真っ只中でも目立つ鮮やかな金の髪が掠めた。
早速、気の合う人間を見つけたらしい。蜂蜜色の髪をした同い年あたりの女性と波に戯れながら、何事か喋っている。
こちらの視線に気がついて軽く手を振ってくる。頷き返すと、女性の方に何か言われたらしい、真っ赤になって波の中に潜っていった。
―――適応力の早い奴だな。
自分たちが死術の狩人を辞めてから―――その狩りの必要がなくなってから半年が経った。
死術が全て破壊されたあのとき、自分たちに残ったのは鍛え上げられた戦死としての肉体と、まだ歳浅い青年少女である己自信だけだった。
旅を続けることを決め、それでもレンは今でも胸を締めていた『嫌われ者』の狩人だという孤独意識に囚われているらしい。生来の性格も手伝っているに違いない。
だが、狩人であったあの時世も笑い続けていた彼女に、この空虚な感情は好ましくない。
だから。
奔放に、人の集まるクオノリアに行きたいという彼女の申し出を気が進まないながら承諾してしまった。思ってみれば、彼女もまだ二十に届かない若い娘なのだ。
本来なら、ああやって他の娘たちと戯れているのが本当の姿なのかもしれない。
自分のような孤独意識に、囚われて欲しくはない。
―――まあ、こんな男が側にいて実現するのも難しいだろうが……
もう少し。
もう少しだけ、一人歩きが出来るまでに目を離せるようになったなら―――……
……ふと、本のページに翳る影が濃くなった。
こんな早々にシリアが復活してきたかと思ったが。
「……貴方も日光浴ですか?」
予想とはまったく違う、それよりはやや低い声に顔を上げる。正直、驚いた。気が付けば全く、気配を感じていなかった。
それほどこちらが思想に耽っていたのか、それとも近づいてきた彼の意図なのか。
顔を上げた先、腰掛けたチェアの傍らに彼は立っていた。
初めに感じたのは圧倒的な不和、違和感だった。思わず身構える。
年の頃は20前後。照りつける太陽の光が、しかし、彼の漆黒の滑らかな黒髪に降りて四散する。肌は日焼けとは縁遠いほど白く、長い髪の合間から覗いた瞳は深海の闇か、夕闇の黒か。大して年が離れているわけでもないだろうに、まだ少年と言っていいほど華奢で、しかし物腰は不相応に大人びて優雅。
それだけならば、まあ、場違いではあるが器量の良い少年の一言で片付いただろう。
だが、夏だというのに厚手の黒のコートを羽織り、裾から伸びた腕と首、そして顔の右半分が痛々しく包帯に覆われている。
人の集まるビーチにはあまりにも不釣合いなその格好。まさか、全身に包帯が巻かれているのか。これだけ厳重に巻いてあるのだ、局所的に怪我をしているわけでもあるまい。
しかし、怪我で巻いているならば動作が嫌にスムーズなのには何故なのか。
―――療養中の傭兵か何かか?
幾多の戦場を見て来たレンだから何とか出た発想だった。確かに戦場ではこんな姿の戦士も珍しくはない。どこかの乱戦に巻き込まれ、怪我を負い、静養しているのかもしれない。
―――異様な姿だということに変わりはないが。
「すいませんね、こんな格好で」
こちらの心の声が聞こえたのか、いや、誰にでも言われることなのだろう。少年は穏やかな顔で苦笑しながら言った。
それで初めて正面から少年の顔を見ることが出来た。
包帯で覆われていたのは顔の右半分。左半分は、その包帯が無粋だと思わせる程に整っていた。一瞬、女性とも見紛う。
答えに迷いながら口を開く。
「こんなところに出てくる形とも思えないが」
「ええ、そうでしょうね」
自覚はあるのかあっさりと肯定した。
「でも、まあ、取るわけにもいきませんから」
「火傷か何かか?」
「そんな感じで解釈してください」
少年は戸惑う事無く、物足りないほどあっさりと答えていく。何というか、答え方に澱みがなさ過ぎて人を相手にしている気がしない。
決まった答えを返す人形と会話している気分になる。当たり前か、こんな風体をしているのだ。同じような会話はそれこそ何処ででも繰り返してきたのだろう。
「で、何か用か?」
そこまで答えて声をかけてきたのは少年の方だと気が付く。
彼は再び、苦笑しながら、
「いえ、海に出たというのに海を楽しんでなさそうな方を見つけたのでつい」
「……」
「貴方は泳いだりしないんですか?」
答える義理はどこにもなかったが、そうそう隠すものでもない。それに、程度は違うが海を楽しめない理由は同じ類だろう。
揶揄するように背中を指し、
「昔の怪我だ。まあ、泳げないわけじゃあないが、人の目に触れさせて愉快なものでもない」
「なるほど、貴方もですか」
聡い少年だ。小首を傾げてから、遠い波打ち際に視線を投げる。
「ここは海が近くていいですね」
「……」
「こんなに近くで見たことがなかったものですから。これ以上は人が多すぎて近寄れませんけど」
「……」
「でも、眺めるのは好きなんですよ?」
可笑しいですかね? と問いかけながら笑いを漏らす。あの青に近づけない我が身を嘲笑したものなのか、どこか沈んだ笑いだ。
「触れられないものに憧れたところで致し方がないだろう?」
何故かそんな言葉が自然と零れた。
何故、ろくに身元も知らない少年とこんな会話をしているのか、自分が理解できない。少年がこの場には到底そぐわない存在だったからなのか。
異色を放つ少年は少し空を見た。そして、
「灰になれば行けるでしょう?」
「……」
一瞬、耳が遠くなったかと思った。
「斬新な意見だな」
「そうですか?」
くすくす、と冗談なのか本気なのか読めない表情で笑う。
「土より海に還りたい。土はどこのものも人や獣の血を吸っていますから。
海は匂いも痕も残さず、流してくれるでしょう?」
「土になれば土地の糧になるだろう?」
「…………そうですね。それは僕のエゴですよ。
灰になったら飛んで何処へでも行けます。たった一箇所に縛られることなく。それに」
また、一つ、寂しい笑い。
「この腐った身体が糧になったところで、土地が癒されるはずがありませんよ」
「……くだらん」
「そうですね」
吐き捨てるようなレンの声に、少年は事も無げに頷いた。
弱い潮風が吹いた。
コートの裾が撒かれるのにも構わずに、少年は浜へ目を戻す。盗み見た瞳の中に憧れの色はない。強いて言うなら―――そこにあるのはある種の諦観だ。
「それで、あそこにいらっしゃるのは貴方の彼女さんですか?」
いつの間に目線を追っていたのか、浜の岩場にしゃがみ込んで何かを観察しているカノンを示して少年が言う。
聞き飽きた問いだ。
人というのは男と女が二人、そこにいるだけで好き勝手な妄想を広げたがる。
「単なる連れだ。期待しているような関係はないさ」
「なるほど」
嫌に鷹揚に納得する。
「彼女が貴方の"触れられないもの"、ですか?」
「……」
無言で睨み上げると、取り繕うような笑みと軽く包帯の手を振る動作。
「大した意味はありませんよ。何となく、そう思っただけですからお気になさらず」
「わざわざ気にさせるような物言いをして置いて、か」
「すいません。性分なもので」
軽く首を振りながら少年が答える。あまりにも下らない。何故、そんな下らない解釈が生まれるのか。
余計な言葉を吐き出した我が身を悔いる。
少年は飽きることなく海を見つめ、否、少女の方を今度はやけに楽しそうに眺めている。注目の当人といえば、視線に気が付かないほど遊びに夢中なのか先程から岩場の影に手を伸ばしたまま唸っている。
と、矢先にバランスを崩して転がった。
―――……何をしてるんだ、あいつは。
隣からくすくすと、初めて心から楽しそうな笑いが聞こえる。
「これまた、楽しそうなお嬢さんですね」
「ただ楽しいだけならいいんだがな」
呟いて溜め息を吐く。少年はしばらくの間、笑い続けていたがふと笑い声を止めてすっ、と目を細めた。
「お節介なのは重々承知ですが」
「?」
「……一応、忠告はして置きます。迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ」
そのまま意味の解らない言葉を口にする。
「何を言っている?」
「経験から推察した下らない戯言です。聞き流してくれて結構。
でも」
言葉を切って振り返る。
「……あそこは些か危ないですね」
「何?」
ぽそり、と少年が口にした瞬間だった。
きゃぁぁぁぁ……
レンの耳に、甲高い悲鳴とざわめきが同時に流れ込む。
海水浴客が一気に後退し、それこそ波のように引いていく。
反射的に右手がチェアの下に置いた破魔聖に伸びる。波が高い。先程まであれだけ穏やかな波を保っていたというのに!
波打ち際へ目を凝らす。
人の波の只中に、見え隠れする鮮やかな、しかし波間に見えるものとは思えない硬質な赤と巨大な尾ひれ。
頭の中に咄嗟に浮かんだのは、件の事件。
しかし、
―――あれはそんなに人のいる場所で起こるものなのか!?
今までの事例に合成獣が人の集まるような場所で発生した記録はない。だからこそ様々な場所が揉み消しを計り、これだけ小規模な騒ぎで済んでいたというのに!
いや、それよりも……
「ちッ!」
舌打ちをしながら剣を片手に砂を蹴る。
人の波を掻き分けるようにして波打ち際を目指す。途中、先程自分で埋めた"何か"を踏んだ気もするがとりあえず無視して。
「カノン!」
彼女は逃げ遅れた子供を海から出している最中だった。度胸は認めるが、心底思わしくない。
浜まで子供を運んだはいいが、高まった波と馴れない砂地に足を取られたらしい、浅瀬の波間に腰を着く。
まともに波が彼女を覆う。
―――ッ!
『迂闊に手を離すと必ず後悔することになりますよ』
少年の余計な言葉が目の前をちらつく。
迷いなく、波へ足を踏み入れて飲まれそうな彼女の手首を間一髪で掴んだ。力任せに引き寄せる。
「けほッ、こほッ、ぷはッ! れ、レン……?」
「話は後だ」
鞘を弾くように剣を抜く。小柄な彼女の身体を支えながら足が着く浅瀬まで引いていく。
水が動いている。近くにいるのだ、『何か』が。
―――……来るッ!
直感が動いた。
ざっばぁぁぁああぁぁあぁああぁああああぁッ!!
波をひっくり返して、"それ"が浅瀬へ上がる。
「な、何あれッ!?」
「昨日も酷いものを見ただろう……」
あまりといえば、あまりに酷いフォルムだった。赤い甲羅とハサミの合間から、びちびちと尾びれが蠢いている。硬い足はなく、代わりにどこかで見たことのある吸盤のついた足が十本。甲羅の真ん中には何故だか裂けた口があり、尖った牙が行儀良く何本も並んでいる。
そんな物体が三メートルほどの巨体を揺らして波間に立っていたのだ。
見た目のインパクトはどれほどのものか。
「な、何でもかんでもくっつけりゃいいってもんじゃないでしょ!?」
「言いたいことは解るが俺に言うな。来るぞッ!」
ざしゅッ!!
節くれだったハサミが伸びた。
「嘘ッ!?」
慌ててその場を飛びのく二人。飛びのいた先では、吸盤付きの触手がうねうねと獲物を求めるかのように滑っている。
……あれに捉えられたら、命とそうだがアイデンティティも危ない。
「うわッ!!」
持ち前の神経で何とか交わしているが、カノンは今、丸腰だ。頼りになるのはレンの破魔聖一本だけ。
銀の刃が触手を切り落とす。さすがに面妖な溶解能力などはついていないらしく、切り落とされた触手は砂の上に落ちて動かなくなった。
しかし、油断をするとすぐにハサミが襲い来る。
―――ちッ! 面倒な……ッ! 少しずつ斬っていくしかないか……
レンが次の標的を動くハサミへ向けたときだった。
「きゃあああぁぁぁああぁぁッ!」
「しまったッ!?」
「ッ!」
悲鳴は先程、カノンが救助していた子供のものだった。太い触手が彼女を捕らえ、高く掲げている。
"それ"は自分を倒せるのがレンの剣だけだと知っているのか、見せ付けるようにハサミと胴体の前に子供を掲げて来る。
これでは一歩間違えれば子供ごと……。
「うえ、うええ、うああああああぁぁぁぁああぁあぁあッ!」
半狂乱の子供に脱出を望むことなど愚の骨頂だ。カノンが歯を食い縛り、レンの無表情にも苦いものが混じる。
そのとき。
「……仕方ないですね」
―――ッ?
微かな、本当に小さく声が聞こえた気がした。
瞬間、レンの肩を掠めるようにして小さな"何か"が飛来する。それは子供を抱えた触手の真ん中に当たり、張り付く。
「符、だと?」
「四方を統べよ、私と約せよ、汝が主を宣言する。私は汝と約す」
静かな声が、何故だか耳にやたらと響く。
「汝が主は私。私の名に置いて宣言する、私に仕えよ、私の手にその力を捧げよ。
私は汝に与える―――即ち、『凍結』[フロスティ]」
ぱぎッ!
鈍い音がした。
「レン!」
カノンの声にはっ、とする。触手に張り付いた符を中心にして、氷が獣の身体を覆い始めた。それは瞬く間に触手の根元に辿り着き、その触手を固定する。
だが、氷は子供の方にまで魔の手を伸ばし、
「覇ぁぁぁッ!!」
その氷が辿り着くより先に、跳躍したレンが触手を切り落とす。振り落とされた小さな身体を、駆け寄ったカノンが受け止める。
氷はそのまま侵食をやめず、苦しげに触手とハサミを振り回す巨体を固めていく。氷が甲羅を多い、触手とハサミの動きが鈍る。
―――今だッ!
判断と共に砂を蹴った。
どしゅッ!!!
次の瞬間。
レンの剣が、凍りついた醜悪な獣の胴体を薙いでいた。
青と緑が混じった、生臭い液体を吐き出しながら、それは巨体を海へと横たえていく。やがてそれは波を打って大きな音と飛沫を撒き散らして倒れた。
蠢いていた触手とハサミも、かすかに動いて静止する。
周囲に観光客はいない。粗方、逃げ終えたようだ。
泣きじゃくる子供を必死でカノンがあやしている。それを黙認してから、レンは浜の向こうの日陰へと視線を向ける。
そこにはパニックになった観光客のざわめきがあるだけで。
あの黒い少年の姿は、既に何処にも見つからなかった。
←4へ
「と、いうわけであの屋敷は一連の事件と関係なかったみたいです」
「そーですかー、それは残念です」
―――オイオイ。
予想外にっさり頷かれて、カノンは頬に汗が浮かぶのを感じた。
森から帰還して一夜明け。ウィンダリアホテルの面接室に報告をしに来たはいいが……。
簡潔に言ったカノンの言葉に、ホテル主のクレイヴは間延びした声であっさりと首を縦に振ってくれた。
さすがにこの出方は予測していなかったカノンの方が、ややうろたえる。
「えーと……あの、聞いたりしないんですか?」
「何をですか?」
こくり、と小首を傾げるクレイヴ=ロン=ウィンダリア。
「だから、どこがどうでどんな風になってたとか。どんな感じだったとか」
カノンの答えに、彼はさらに首を傾げつつ、
「……聞かなきゃいけないんでしょーか?」
「……いや、貴方がいいなら別にいいんでしょうが、ふつーは聞かれるもんだと思ってましたから……」
「そーなんですかー……」
―――そーなんですかー、ってオイオイ……。
「まあ、別に細部が知りたいわけじゃないですからー……、あそこが異変の原因になっているかどうかを知りたかったわけであって」
―――そうは言っても……
何となく、釈然としないものを胸に抱きつつも、カノンにやれることといえば作り笑顔のまま礼金の袋を準備し始めるクレイヴを見守ることだけだった。
「んー……」
「どーしたんだ、カノン?」
嫌ににやけた顔を近づけてきたアルティオの顎に拳をくれながら、カノンは唸る。報酬と共に解約手続きを済ませたはいいのだが、やはり何か釈然としない。
正直、この件自体を押し付けられる覚悟くらいはしていたのだ。
他の街であっても十二分に大事だろうが、ましてやクオノリアは観光地。観光地というものは一度傷が付くとなかなか汚名を払拭するのは難しい。観光関係者、政団支部、店舗経営者、その他この町に住む殆どの人間が早期解決を望んでいるはずだ。それも一流ホテルのオーナーなら率先して事件解決に取り組むべきなのだろうが。
「どうも、何か消極的というか納得いかないっていうか……」
「まあ、この町のことはこの町の人間の問題だ」
ぶつぶつと呟くカノンを、ロビーのソファに腰掛けたレンが窘める。
「これ以上、依頼を受けて関わらない限り、な。依頼は終了したんだ。いらん危険に足を突っ込むこともないだろう」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「そーよッ! いつまでもあんな変な生物に構ってる時間があったらしっかりレンと愛を育まなきゃ!!」
「いや、シリア、あんたの意見は心の底から聞いてない。
……っていうかルナはどこ行ったの? 見えないけど」
気が付けば、応接室に行く前にはあった彼女の姿がない。きょろきょろとロビーを見渡してみても、見慣れたブラウン頭は何処にも見つからず。
「ああ、やっこさん、さっさと依頼人のとこに行っちまったぜ。こっちも仕事だから、ってさ」
「ふーん、相変わらずね。
まあ、いいわ。とりあえずクオノリア滞在中はホテルでお寛ぎください、って」
「このホテルでッ!?」
「うわッ!!」
いきなりアップで顔を寄せてきたシリアを押し戻しながら、
「そりゃそーよッ! カウンターの者にお話しください、って言ってたし!! っていうか少しは落ち着いて話せんのかッ!」
「これのどこが落ち着いていられるっていうのッ! 天下のウィンダリアホテルでの宿泊、見たことのない俯瞰の景色、」
「はいはい、いいから。ここロビーだから。妄想は自分の部屋で孤独に誰にも恥かかせないようにやってちょーだいね……」
「ふんっ、そんなことを恥じているなんてやっぱりお子様はお子様ね。ま、お子様は夜の九時にぐっすり眠っているのが丁度いいんじゃないのぉ?」
―――殺ス。
側にころがっていた椅子という凶器の背もたれを握りつつ、得体の知れない力が細腕に灯る。高そうなソファが血で汚れるのを、クレイヴへ心の中だけで謝ってから片腕を持ち上げて。
「皆様、お揃いですかな?」
『・・・?』
ふと、呼び止められてカノンの手が止まる。
男の声だ。刻まれた年輪が、ただ声の中にも重厚に見え隠れする。
―――ちっ、邪魔が入ったか。
カノンは椅子を下ろす。カノンには見えていないが、対面に位置するシリアやアルティオ、加えてレンには後ろの人物の顔が見えているはずだ。そう思って視線を上げるとシリアは眉間に皺を寄せて背後を見ているし、アルティオは何やら驚いた顔でぽかん、としている。彼の反応が一番不明だ。
頼みの綱の相棒は、……ああ、大分渋い表情。カラスが生ゴミしょってやって来たようなときの顔だ。
―――こりゃ面倒ごとかな。
そのまま無視してしまいたくなるのを堪えて振り返ると、三人の表情に合点がいった。
撫で付けた銀の髪と眼光鋭い青い瞳。若い頃は結構な美形だったのではないだろうか、顔に刻まれた幾つもの皺が人の歴史を語り、ぴしっと伸びた背筋が精悍な顔付きと相俟って威厳を宿す。
紫のローブを纏った初老の男。ちらほらとひそひそ話が周りから漏れているということはそれなりの地位の人間なのかもしれない。
そのお供に付いていたのは二人。
一人は……おそらく、老人の息子か孫か、ともかく血縁を匂わせる同じ銀髪の青年。そこそこにハンサムで嫌味がない表情は好感触だ。着ているものは青いローブで、しっかりと止め布を巻いて何かの証章で止めているあたり、几帳面な性格が伺える。
そして問題はもう一人。何と無く不機嫌な、加えて戸惑うような雰囲気を混ぜ込んだ複雑な表情で立っているのは―――見間違えるはずもない。先程、立ち去ったはずのルナ=ディスナー。
なるほど、アルティオが茫然としてレンがあれだけ憮然としていた理由が知れた。
「カノン=ティルザード殿、でよろしいかな?」
「……ええ、まあ」
はぐらかそうかと思ったが、ルナがいて、クレイヴがオーナーのこのホテルに来て、尚且つ声をかけてくるということははぐらかすだけ無駄なのだろう。
「ホテルオーナーからお話は伺っている。あの館の調査をした者たち、だな?」
「本題に入るより先に名乗るのが礼儀、ってもんじゃないの?」
返した言葉に男は一瞬、渋い顔をしてから、
「失礼した。私はこの町のWMOクオノリア支部支部長ローランと申す者。こちらは私の孫のクロード、そしてそちらは今回の一件について助力をお願いした……」
「ルナ=ディスナーです。どうぞ、・・・・・初めまして」
「!」
ローランの言葉を遮って口にしたルナの言葉に唖然とする。
「お、おい、ちょっと何言って……」
ばきッ!!
―――ふぅ、椅子が役に立って良かった。
「あ、あの……」
「ああ、気にしないでください。ちょっとこっちのことですから」
引き気味で声を発したクロードに手を振りながら誤魔化すカノン。ついでにシリアの口も眼光で塞ぎながら身を正す。
WMO。正式名称を西大陸魔道機構という。もともとは政団の一部でただ、普通の政団員には手に負えない魔道と深く関わりのある事件を請け負うだけの部署、だったはずなのだが。
言うに及ばず、魔道というものはそもそもこの世ならざる力を扱うものであり、それを覚えたがる輩は大勢存在し、太古の昔から魔道に魅入られた人間が起こす事件にはきりがない。そうこうあって、結局魔道機関の肥大化は必然と起こり、ついには政団から独立した一つの機関として機能することになった。
というと、あまりいい印象を抱かない機関であるが、このこと自体は別にマイナスでも何でもない。政団内に縛られなくなったことで、WMOは独自の正式な魔道研究法や、施設を持てることになったし、尚且つ元は政治団体の名目で政団とも深い繋がりを有しており、結果的に法の独走を防ぐ一つの役目を担うことにもなった。
まあ、資金面やら政団への信用性やらマイナス要素もなくはなかったが、その問題ももう過去の話。現在の情勢として、一つの大きな機関として正常に動いているのだから特に問題という問題は無い。
年々、地方で不始末がどうの、と騒がれる時世もあるが、それはそれ、政団とて不始末はあるし、そう珍しくもない。きちんと相応の適切な処断は下される。
それが大まかなWMOの発祥。ルナの雇い主としても、頷ける。彼女は政団にもWMOにも色々な意味で一目置かれている魔道師だ。
しかし、今は別段、問題じゃない。問題は、
「で、WMOのお偉いさんが、あたし達に何の用です?」
「いいえ、大したことではない。
このホテルのオーナーから事件の調査を依頼された者たちがいる、と聞いてな。聞くと私が雇ったルナ殿ともお会いしたと」
「それがどうかしましたか?」
「単刀直入にお聞きしたい。貴方方が請け負ったのは"館の調査"か、それとも"事件の解決"か?」
「……っ?」
違和感が駆け抜ける。反射的にカノンはルナの方へ視線を走らせるが、彼女はこっそりと小さく肩を竦めて見せただけだった。
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「それは私が決めることだ」
取り付く島はなさそうだ。ローランはまっすぐこちらをねめつけたまま、重厚な声を響かせる。
カノンはがりがりと後ろ頭を掻く。
何も言わなければ。
ローランは自分たちがまだ依頼を終えていない、イコール"事件の解決"に携わっていると思うだろう。ローランの目的はわからないが、どちらを疎ましく思うかと言うならおそらく"事件の解決"。
自分たちが事件を解決し、株の上昇を狙っているとか、どう見ても魔道的なこの事件をただの傭兵であるカノン達が解決したなどとなるとWMOとしての体裁が悪いとか。
……考えたくはないが、事件に直接・間接的な関わりがあるとか。
不安定な職業を営む身としては、信用問題に関わるのであまり依頼内容など喋りたくはないのだが。
だからと言って下らないことに巻き込まれて、休暇を丸潰しにされるのはもっと嫌だった。
クオノリアに来てからの溜め息の多いことと言ったらない。
「あたしたちが請け負ったのはただの館の調査です。もう仕事は終わってます。
ホテルにいるのは報酬の一部として宿泊させていただいてるだけです」
「ふむ……」
―――信用してる目じゃないし、このオヤジ。
「確かに疑われても致し方ないが……」
トーンの低い、静かな声がフォローをかけて来る。
「そいつの言っていることは事実だ。あんたが何を考えているのかは知らんが、WMOに反感を買ってまでもともと何の関係もない事件に巻き込まれるような酔狂者でもない」
「……なるほど」
―――あー、そうですか。レンの言葉は素直に頷きますか。どうせあたしは子供ですよ。
「何を剥れているのかしら?」
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に心の底から腹が立った。
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に何だか心の底から腹が立った。
「となると……貴方方がこれ以上、この件に関わることはない、と?」
「また誰かが依頼に来て受けない限りは、な」
「そうか……。いや、失礼した。我々の要件はそれだけだ。
不快な思いはさせてしまったろうが、このクオノリアはシエジアス領自慢の観光地。どうか楽しんで行ってくれ」
「……ち、ちょっと待てよ」
言うだけ言って去っていこうとするローランを、腫れた頭を抑えながらアルティオが呼び止める。
「言いたいだけ言ってさよなら、は無いだろ? 何でそんなこと聞かれなきゃいけねぇんだよ?」
「まあ、確かに……。逐一、動向を探られているようで、いい気分はしないわね。
私はこれから愛の絆を確かめるという重大な仕事があるのだけど」髪を掻き揚げながらシリア。さらりと言っているようで、実のところ目線はきっちりローランの傍らのルナを睨んでいる。
最も、彼女の方と言えばこれまたこめかみを掻きつつ、受け流すだけだったが。
ローランは皺の深い顔をさらに歪めて、品定めするようにこちらを眺めていたが、やがて折れたようだ。重い溜め息を一つ、改めて背をぴん、と伸ばしながら、
「私たちは件の事件について責任を負っている。公の場なので詳しいことは言えないが、誰がどう見ても魔道が絡んだ今回の件……WMOとしても見過ごせないものがある。
聞こえや体裁は悪いが……倫理観のなっていない魔道師がその力を示すために、度々ことを起こす事実に対しては言い訳が出来ん。
逆に言えば、そういった事件を我々正規の魔道機関が処理できなければ、魔道師というものに対する世論を悪くするばかりだ」
「つまり……この事件は自分たちが解決するから余所者は黙っていろ、ってこと?」
一瞬、ローランの眼光がカノンを射抜く。相手が怯まないことを知って、ローランは小さく首を振った。
「まあ……極論を言えばそうなる。だが、君たちもこの事件が目的でここに来たわけではないだろう?」
「そりゃあまあ……」
「ならば、煩わしいものは関係者に任せてしまうのが君たちにとっても良いと思うのだが?」
確かに。
クオノリアを訪れた元々の理由は休暇だったはずである。今回の依頼は、まあカノンたちにとっては"館の調査"という馴れた仕事かつ、意外に高い報酬という好条件に釣られたに過ぎない。
第一、好き好んでこんな事件に首を突っ込む理由はないのだ。
ひたすらに死術を追っては事件と破壊を繰り返していた、あのときとは違うのだから。
「元より」
不意に下りた沈黙を破ったのはレンが発した言葉だった。
「これ以上、この件に関わるつもりはない。余程のことがない限りな。
ただの一般市民として、安心して休暇が楽しめるように事件の早期解決を願うのみだ」
「異論ないわ」
生来の好奇心が多少疼くが、わざわざ休暇に来た意味がなくなる。それだけは避けたい。
ローランは満足げに頷くと、もう一度、浅くだが頭を下げた。そのまま背を向ける。供の青年もそれに習い、
「……」
ルナはこちらにやや困惑したような、申し訳なさそうな、珍しい表情を向けて謝罪代わりか軽く肩を竦めて雇い主を追ったのだった。
←3へ
「そーですかー、それは残念です」
―――オイオイ。
予想外にっさり頷かれて、カノンは頬に汗が浮かぶのを感じた。
森から帰還して一夜明け。ウィンダリアホテルの面接室に報告をしに来たはいいが……。
簡潔に言ったカノンの言葉に、ホテル主のクレイヴは間延びした声であっさりと首を縦に振ってくれた。
さすがにこの出方は予測していなかったカノンの方が、ややうろたえる。
「えーと……あの、聞いたりしないんですか?」
「何をですか?」
こくり、と小首を傾げるクレイヴ=ロン=ウィンダリア。
「だから、どこがどうでどんな風になってたとか。どんな感じだったとか」
カノンの答えに、彼はさらに首を傾げつつ、
「……聞かなきゃいけないんでしょーか?」
「……いや、貴方がいいなら別にいいんでしょうが、ふつーは聞かれるもんだと思ってましたから……」
「そーなんですかー……」
―――そーなんですかー、ってオイオイ……。
「まあ、別に細部が知りたいわけじゃないですからー……、あそこが異変の原因になっているかどうかを知りたかったわけであって」
―――そうは言っても……
何となく、釈然としないものを胸に抱きつつも、カノンにやれることといえば作り笑顔のまま礼金の袋を準備し始めるクレイヴを見守ることだけだった。
「んー……」
「どーしたんだ、カノン?」
嫌ににやけた顔を近づけてきたアルティオの顎に拳をくれながら、カノンは唸る。報酬と共に解約手続きを済ませたはいいのだが、やはり何か釈然としない。
正直、この件自体を押し付けられる覚悟くらいはしていたのだ。
他の街であっても十二分に大事だろうが、ましてやクオノリアは観光地。観光地というものは一度傷が付くとなかなか汚名を払拭するのは難しい。観光関係者、政団支部、店舗経営者、その他この町に住む殆どの人間が早期解決を望んでいるはずだ。それも一流ホテルのオーナーなら率先して事件解決に取り組むべきなのだろうが。
「どうも、何か消極的というか納得いかないっていうか……」
「まあ、この町のことはこの町の人間の問題だ」
ぶつぶつと呟くカノンを、ロビーのソファに腰掛けたレンが窘める。
「これ以上、依頼を受けて関わらない限り、な。依頼は終了したんだ。いらん危険に足を突っ込むこともないだろう」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「そーよッ! いつまでもあんな変な生物に構ってる時間があったらしっかりレンと愛を育まなきゃ!!」
「いや、シリア、あんたの意見は心の底から聞いてない。
……っていうかルナはどこ行ったの? 見えないけど」
気が付けば、応接室に行く前にはあった彼女の姿がない。きょろきょろとロビーを見渡してみても、見慣れたブラウン頭は何処にも見つからず。
「ああ、やっこさん、さっさと依頼人のとこに行っちまったぜ。こっちも仕事だから、ってさ」
「ふーん、相変わらずね。
まあ、いいわ。とりあえずクオノリア滞在中はホテルでお寛ぎください、って」
「このホテルでッ!?」
「うわッ!!」
いきなりアップで顔を寄せてきたシリアを押し戻しながら、
「そりゃそーよッ! カウンターの者にお話しください、って言ってたし!! っていうか少しは落ち着いて話せんのかッ!」
「これのどこが落ち着いていられるっていうのッ! 天下のウィンダリアホテルでの宿泊、見たことのない俯瞰の景色、」
「はいはい、いいから。ここロビーだから。妄想は自分の部屋で孤独に誰にも恥かかせないようにやってちょーだいね……」
「ふんっ、そんなことを恥じているなんてやっぱりお子様はお子様ね。ま、お子様は夜の九時にぐっすり眠っているのが丁度いいんじゃないのぉ?」
―――殺ス。
側にころがっていた椅子という凶器の背もたれを握りつつ、得体の知れない力が細腕に灯る。高そうなソファが血で汚れるのを、クレイヴへ心の中だけで謝ってから片腕を持ち上げて。
「皆様、お揃いですかな?」
『・・・?』
ふと、呼び止められてカノンの手が止まる。
男の声だ。刻まれた年輪が、ただ声の中にも重厚に見え隠れする。
―――ちっ、邪魔が入ったか。
カノンは椅子を下ろす。カノンには見えていないが、対面に位置するシリアやアルティオ、加えてレンには後ろの人物の顔が見えているはずだ。そう思って視線を上げるとシリアは眉間に皺を寄せて背後を見ているし、アルティオは何やら驚いた顔でぽかん、としている。彼の反応が一番不明だ。
頼みの綱の相棒は、……ああ、大分渋い表情。カラスが生ゴミしょってやって来たようなときの顔だ。
―――こりゃ面倒ごとかな。
そのまま無視してしまいたくなるのを堪えて振り返ると、三人の表情に合点がいった。
撫で付けた銀の髪と眼光鋭い青い瞳。若い頃は結構な美形だったのではないだろうか、顔に刻まれた幾つもの皺が人の歴史を語り、ぴしっと伸びた背筋が精悍な顔付きと相俟って威厳を宿す。
紫のローブを纏った初老の男。ちらほらとひそひそ話が周りから漏れているということはそれなりの地位の人間なのかもしれない。
そのお供に付いていたのは二人。
一人は……おそらく、老人の息子か孫か、ともかく血縁を匂わせる同じ銀髪の青年。そこそこにハンサムで嫌味がない表情は好感触だ。着ているものは青いローブで、しっかりと止め布を巻いて何かの証章で止めているあたり、几帳面な性格が伺える。
そして問題はもう一人。何と無く不機嫌な、加えて戸惑うような雰囲気を混ぜ込んだ複雑な表情で立っているのは―――見間違えるはずもない。先程、立ち去ったはずのルナ=ディスナー。
なるほど、アルティオが茫然としてレンがあれだけ憮然としていた理由が知れた。
「カノン=ティルザード殿、でよろしいかな?」
「……ええ、まあ」
はぐらかそうかと思ったが、ルナがいて、クレイヴがオーナーのこのホテルに来て、尚且つ声をかけてくるということははぐらかすだけ無駄なのだろう。
「ホテルオーナーからお話は伺っている。あの館の調査をした者たち、だな?」
「本題に入るより先に名乗るのが礼儀、ってもんじゃないの?」
返した言葉に男は一瞬、渋い顔をしてから、
「失礼した。私はこの町のWMOクオノリア支部支部長ローランと申す者。こちらは私の孫のクロード、そしてそちらは今回の一件について助力をお願いした……」
「ルナ=ディスナーです。どうぞ、・・・・・初めまして」
「!」
ローランの言葉を遮って口にしたルナの言葉に唖然とする。
「お、おい、ちょっと何言って……」
ばきッ!!
―――ふぅ、椅子が役に立って良かった。
「あ、あの……」
「ああ、気にしないでください。ちょっとこっちのことですから」
引き気味で声を発したクロードに手を振りながら誤魔化すカノン。ついでにシリアの口も眼光で塞ぎながら身を正す。
WMO。正式名称を西大陸魔道機構という。もともとは政団の一部でただ、普通の政団員には手に負えない魔道と深く関わりのある事件を請け負うだけの部署、だったはずなのだが。
言うに及ばず、魔道というものはそもそもこの世ならざる力を扱うものであり、それを覚えたがる輩は大勢存在し、太古の昔から魔道に魅入られた人間が起こす事件にはきりがない。そうこうあって、結局魔道機関の肥大化は必然と起こり、ついには政団から独立した一つの機関として機能することになった。
というと、あまりいい印象を抱かない機関であるが、このこと自体は別にマイナスでも何でもない。政団内に縛られなくなったことで、WMOは独自の正式な魔道研究法や、施設を持てることになったし、尚且つ元は政治団体の名目で政団とも深い繋がりを有しており、結果的に法の独走を防ぐ一つの役目を担うことにもなった。
まあ、資金面やら政団への信用性やらマイナス要素もなくはなかったが、その問題ももう過去の話。現在の情勢として、一つの大きな機関として正常に動いているのだから特に問題という問題は無い。
年々、地方で不始末がどうの、と騒がれる時世もあるが、それはそれ、政団とて不始末はあるし、そう珍しくもない。きちんと相応の適切な処断は下される。
それが大まかなWMOの発祥。ルナの雇い主としても、頷ける。彼女は政団にもWMOにも色々な意味で一目置かれている魔道師だ。
しかし、今は別段、問題じゃない。問題は、
「で、WMOのお偉いさんが、あたし達に何の用です?」
「いいえ、大したことではない。
このホテルのオーナーから事件の調査を依頼された者たちがいる、と聞いてな。聞くと私が雇ったルナ殿ともお会いしたと」
「それがどうかしましたか?」
「単刀直入にお聞きしたい。貴方方が請け負ったのは"館の調査"か、それとも"事件の解決"か?」
「……っ?」
違和感が駆け抜ける。反射的にカノンはルナの方へ視線を走らせるが、彼女はこっそりと小さく肩を竦めて見せただけだった。
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「それは私が決めることだ」
取り付く島はなさそうだ。ローランはまっすぐこちらをねめつけたまま、重厚な声を響かせる。
カノンはがりがりと後ろ頭を掻く。
何も言わなければ。
ローランは自分たちがまだ依頼を終えていない、イコール"事件の解決"に携わっていると思うだろう。ローランの目的はわからないが、どちらを疎ましく思うかと言うならおそらく"事件の解決"。
自分たちが事件を解決し、株の上昇を狙っているとか、どう見ても魔道的なこの事件をただの傭兵であるカノン達が解決したなどとなるとWMOとしての体裁が悪いとか。
……考えたくはないが、事件に直接・間接的な関わりがあるとか。
不安定な職業を営む身としては、信用問題に関わるのであまり依頼内容など喋りたくはないのだが。
だからと言って下らないことに巻き込まれて、休暇を丸潰しにされるのはもっと嫌だった。
クオノリアに来てからの溜め息の多いことと言ったらない。
「あたしたちが請け負ったのはただの館の調査です。もう仕事は終わってます。
ホテルにいるのは報酬の一部として宿泊させていただいてるだけです」
「ふむ……」
―――信用してる目じゃないし、このオヤジ。
「確かに疑われても致し方ないが……」
トーンの低い、静かな声がフォローをかけて来る。
「そいつの言っていることは事実だ。あんたが何を考えているのかは知らんが、WMOに反感を買ってまでもともと何の関係もない事件に巻き込まれるような酔狂者でもない」
「……なるほど」
―――あー、そうですか。レンの言葉は素直に頷きますか。どうせあたしは子供ですよ。
「何を剥れているのかしら?」
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に心の底から腹が立った。
「別に。」
余裕染みたシリアの視線に何だか心の底から腹が立った。
「となると……貴方方がこれ以上、この件に関わることはない、と?」
「また誰かが依頼に来て受けない限りは、な」
「そうか……。いや、失礼した。我々の要件はそれだけだ。
不快な思いはさせてしまったろうが、このクオノリアはシエジアス領自慢の観光地。どうか楽しんで行ってくれ」
「……ち、ちょっと待てよ」
言うだけ言って去っていこうとするローランを、腫れた頭を抑えながらアルティオが呼び止める。
「言いたいだけ言ってさよなら、は無いだろ? 何でそんなこと聞かれなきゃいけねぇんだよ?」
「まあ、確かに……。逐一、動向を探られているようで、いい気分はしないわね。
私はこれから愛の絆を確かめるという重大な仕事があるのだけど」髪を掻き揚げながらシリア。さらりと言っているようで、実のところ目線はきっちりローランの傍らのルナを睨んでいる。
最も、彼女の方と言えばこれまたこめかみを掻きつつ、受け流すだけだったが。
ローランは皺の深い顔をさらに歪めて、品定めするようにこちらを眺めていたが、やがて折れたようだ。重い溜め息を一つ、改めて背をぴん、と伸ばしながら、
「私たちは件の事件について責任を負っている。公の場なので詳しいことは言えないが、誰がどう見ても魔道が絡んだ今回の件……WMOとしても見過ごせないものがある。
聞こえや体裁は悪いが……倫理観のなっていない魔道師がその力を示すために、度々ことを起こす事実に対しては言い訳が出来ん。
逆に言えば、そういった事件を我々正規の魔道機関が処理できなければ、魔道師というものに対する世論を悪くするばかりだ」
「つまり……この事件は自分たちが解決するから余所者は黙っていろ、ってこと?」
一瞬、ローランの眼光がカノンを射抜く。相手が怯まないことを知って、ローランは小さく首を振った。
「まあ……極論を言えばそうなる。だが、君たちもこの事件が目的でここに来たわけではないだろう?」
「そりゃあまあ……」
「ならば、煩わしいものは関係者に任せてしまうのが君たちにとっても良いと思うのだが?」
確かに。
クオノリアを訪れた元々の理由は休暇だったはずである。今回の依頼は、まあカノンたちにとっては"館の調査"という馴れた仕事かつ、意外に高い報酬という好条件に釣られたに過ぎない。
第一、好き好んでこんな事件に首を突っ込む理由はないのだ。
ひたすらに死術を追っては事件と破壊を繰り返していた、あのときとは違うのだから。
「元より」
不意に下りた沈黙を破ったのはレンが発した言葉だった。
「これ以上、この件に関わるつもりはない。余程のことがない限りな。
ただの一般市民として、安心して休暇が楽しめるように事件の早期解決を願うのみだ」
「異論ないわ」
生来の好奇心が多少疼くが、わざわざ休暇に来た意味がなくなる。それだけは避けたい。
ローランは満足げに頷くと、もう一度、浅くだが頭を下げた。そのまま背を向ける。供の青年もそれに習い、
「……」
ルナはこちらにやや困惑したような、申し訳なさそうな、珍しい表情を向けて謝罪代わりか軽く肩を竦めて雇い主を追ったのだった。
←3へ
「あっはっはー、まっさかあんたたちだとは思わなかったわーv」
枯れ木の丸太に腰掛けながらからからと笑う能天気魔道師は、漂う微妙な空気にもめげずにそう吐き出した。ちなみに彼女とカノンの後頭部に痛々しげなたんこぶが見えるのは、お互いの姿を認めた瞬間に不毛な言い合いを始めた二人をレンの拳骨が直撃したためである。
「まあ、大した怪我も無かったんだしそれでいいじゃない」
「いいわけがあるか。危うく死ぬところだった」
「死ぬところだったのはあんたたちじゃないと思うけどねぇ……」
レンの至極冷静な声色に、ルナは頭のこぶを摩りながら後ろを振り返る。ひくひくと微妙な痙攣を繰り返しながら、炭と化した女剣士と少々コゲたまま動かない大柄な双刀剣士が倒れ伏していた。
「相手も確かめずに爆炎魔法撃つ方も撃つ方だけど、そのまん前に知り合いを放り投げる方もアレな気はするんだけど」
「熱風の盾に幾ら大柄で丈夫だからと顔見知りを立てる奴も相当だと思うが」
「……やめとこっか」
「そうだな」
珍しく始まりかけた口論をやめるカノンとレン。
まあ……レンが放り投げたたまたまそこにあった、生きた防御壁で威力が殺された魔道風をカノンがたまたま間近にいた生きた盾で防いだという人聞きの悪い事情など、わざわざ掘り合うものでもないだろう。
―――そもそも悪いのあたしらじゃないし。
溜め息を吐いて、カノンは抗議の視線を何処吹く風でコゲた炭をつんつん突付いている彼女へ目を向けて、
「で、ルナ。あんた、何でこんなとこにいるわけ?」
「説明しなきゃ解んない? どーせあんた達も合成獣の大量発生の調査でも頼まれてたんでしょ?」
「あんた達も、ってことはあんたもそうなの?」
不必要に鷹揚に頷く彼女。
「うん、まあ。依頼人は別だろうケドね」
「そーね。同じところに来させられてるし。けど、あっさり出て来たってことはやっぱりあそこには何も無かったの?」
「教えると思う?」
「いや、言ってみてからそれはないか、と気が付いた」
「ご名答」
あっさりと言い放ち、ひらひらと手を振る。と、思いきや、
「と、言いたいところだけど。まあ、教えてあげてもいいわ。お礼はチップ程度でいいわよ」
「ちゃっかりしてるわね」
レンがマントの裏へ手を忍ばせる。取り出した大き目の硬貨をピンっ、とルナの方へ放ると受け取った彼女は手の中を見て満足そうにそれをポケットへ落す。
「用意がいいじゃない」
「世の中、欲の深い連中は多いからな」
「それ、遠回しにあたしに欲深い奴、って言ってる?」
「違うのか?」
相変わらず、人の神経を逆なですることに関しては一流である。馴れがそうさせるのが、怒り狂うかと思った彼女はカノンの予想に反して小さく肩を竦めただけだった。
そういえば、レンとルナはこの五人の中でも最も付き合いが古かった。
別にチップなど払わなくてもこの後、自分たちで探索すればいい話なのだが。ただ、この年中発情期に当てられている二人組みを連れての屋敷探索と、ささやかなチップを払うのとなら、迷わずチップを犠牲にする。彼も考えは同じだったらしい。
滅多にないルナのやたら寛大なサービスだ。依頼料がやたら多いのか、何かの思惑でもあるのか。まあ、とにかく受け取って置こう。
「結論から言うとハズレだったわよ。単なる廃屋、まあ、ちょちょいっと昔の罠が未だに作動することもあってそれには感心したけどね。
肝心の研究施設ときたらまあ、埃の山というか山脈というか。確かに合成獣を作ってた形跡はあったけど、ここ最近何かが作動したり壊れたり、って風ではなかったわね。っていうか施設そのものがおじゃんよ、もう随分昔に死んでたわね、アレは」
「ふーん。ほらじゃないでしょうね?」
「金を貰っての嘘は言わないわよ。別に損するわけじゃないし」
「じゃあ、ルナ。あんたが請け負ったのはやっぱりここの調査であって、事件の解決ではないのね?」
「まーね。じゃなきゃ情報漏洩なんてやんないわよ」
なるほど、チップ程度で済んだ理由が何となくわかった。
つまり、彼女の請け負った依頼はただの屋敷調査であり、この合成獣事件の解決ではないということ。事件の解決が依頼内容ならば、とどのつまり、自分で事件を解決しなければ依頼料は入って来ない。となればカノン達に先に解決されてしまわぬよう、情報を隠す必要が出てくる。
しかし、ただの屋敷調査ならばそこまでの責任感はいらない。『あの屋敷、やっぱ何も関係なかったです』の一言で十分なのだから。
……もちろん、ルナが事件解決を狙ってやっぱり嘘の情報を流している可能性が消えたわけではないのだが……。
はっきり言って、それを確認するほどの体力・気力が充実していない。
まあ、先程の詳しい状況説明を信じてさっさと終わらせてしまうに限る。
「まあ、ところで」
すっく、とルナが立ち上がる。
「……やれやれ、猛獣は二人で十分なんだが」
かちり、とレンが触れた剣の柄が小さく唸る。
「ちょっと、その二人って誰のことよ?」
「ああ、悪かった。そこで転がってるのを含めて四人だな」
「増やすな! ってかせめて三人でしょ!?」
軽口を叩きながらもカノンもまた、背に負っていた剣鎌をずらり、と引き抜いた。
「ほらあんたたちも! いつまでも寝てないで加勢しなさい!!」
「いでッ!!」
「ひゃんッ!?」
丸太裏に転がして置いた約二名を蹴り起こす。細かい分類はともかく、一応は生物なのだから自分の判断で動いてもらわなければ。
「痛いわねッ! 何するのよ!?」
「何するのよ、じゃないッ! あんたらも一応、剣の修行した有段者でしょ!? 自分の周りの異変にくらい気づきなさいよッ!!」
カノンに怒鳴り散らされて、すっ、とシリアの表情が真顔に戻る。焦げていたアルティオも起き上がって、目を細め、周囲を観察し始める。
静かだった。
いや、静か過ぎたというべきか。鳥の声一つしないのは異常としか言い用がない。
もう一つ。
ここに五人のみが存在すると言うのに―――。
「何よ、あの音……」
シリアから硬い声が漏れる。
ぱきん、ぱきん、と下生えに転がる小枝の割れる音が響く。同時に何かを引き摺るような、ずる、ずる、という水気を伴う不快な怪音。
例えるならスライムが森の中を這って歩いているような。しかし、その音はスライムなんかよりも余程重量のある生き物の歩く音だ。
嫌な予感が胸を掠める。そもそもこの以来の発端は何だったか。思い出せば簡単なこと。
『唐突に発生した合成獣が観光客を襲う。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から』
誰かが溜め息を吐いた。刹那。
「っ、カノンッ!!」
「―――っ!」
レンの声が飛んだ。カノンは瞬時に反応し、横っ飛びにその場を離れる。
ずひゅるッ!!!
「なっ……!!」
アルティオのくぐもった呻き。
辺りに群生する背の低い茂みを形成する木々の合間から、太い触手が一本伸びて今しがたカノンが構えていた空間を貫いていた。
いや、―――
「触手、っていうか蔓ッ!?」
「我求める、途往くは銀の閃光、従えシルフィードッ!!」
カノンの吃驚の声とルナの呪文とが重なった。生まれた光は幾つもの筋へと分散し、そして、
きっぎゃぁぁぁぁあああぁああぁぁッ!!!
耳を劈く雄叫びが鼓膜を揺るがした。彼女の呪文は、周囲の小枝や茂みを薙ぎ払い、視界を確保するためのものだったが、どうやら中の一条が素通りして奴を掠めてしまったらしい。
細木が薙ぎ倒されて露になった茂みの向こう。そこにいたものに、
『―――――ひあッ!!』
生理的嫌悪感に、カノンもルナも、そしてシリアも思わず悲鳴にならない悲鳴を上げた。
「な、何だ、こいつッ!!」
掠れた声でアルティオが双剣を抜く。
―――ご、合成獣とは聞いてたけどさッ!!
頭は不自然に巨大な牛(おそらくはバッファローかミノタウロス辺りだろうが)、上半身は野犬のようにしなやかだが、背中には不自然な角度に曲がった煤けた翼が生えており、尻尾はどうしたことか兎のような短い毛玉がちょろっと付いているだけ。
ここまでは、まあ見ていて不快といえば不快だが、まだいい。
だがしかし、その下というと足というものがなく、付け根の部分からは今しがたカノンを貫こうとした太い植物の蔓が四本うねうねと蠢き、さらにその下は足代わりにスライム状のどろどろしたものが下生えを溶かしながら広がっている。
―――出来れば一生、見なくて良かったこんなもの。
表情を引き攣らせながら、思わず固まった。が、しかし、闘争心は旺盛なのか先程のルナの一撃に怒り狂っているのかびしゅ、と奇怪な音を立てて蔓を伸ばす。
「うわわッ!」
「いやぁぁぁッ!!」
溶解液に塗れた蔓が(溶けないのかと思うが独自進化なのか溶けていない)変則的にうねうねと動き回る。その蔓が太く長いものだから、でたらめに振り回しているように見えても避けなければ当たるわけで。
加えて足場と空間が狭い。相手も不利だろうがこちらも当然不利だ。
当たり前だがスライムの溶解液は金属―――つまりは刀身を溶かす。懐に飛び込めればいいのだが、この状況でははっきり言って無理だ。
―――くっ、蔓が邪魔で近寄れない! こりゃルナとシリア頼みかッ!?
縋る思いで二人の方を盗み見るが、二人も迫り来る蔓のせいで呪文が中断されるらしい。唱えかけては撤退を余儀なくされている。
―――と、なると、やるべきなのは援護ッ!
だんっ、とその場を蹴って二人の方角へと飛ぶ。伸びた蔓が頭の上を掠めて風を感じた。髪の毛の一本くらいは溶かされたかもしれない。
腰に下げたクレイソードを抜く、いくら何でもあんなのと戦って剣鎌[カリオソード]の刃を痛めたくはない。
一度集約し、再び伸びてくる蔓。
「っせいッ!!」
足元に転がっていた小枝を蹴り飛ばす。止められるなどとは思っていない。ただの牽制だ。
案の定、痛みは感じるのが蔓の動きが一瞬だけ止まった。カノンはその隙に、クレイソードを蔓へと突き立てる。
ずしゅッ!!
きぃぃぃあああぁぁっぁぁあああッ!!
聞くに堪えない悲鳴がもう一度上がる。構わず力任せに地面に縫い止める。
―――これで一本。
背後に殺気。
「っとぉッ!?」
転がるようにして背後から迫る別の蔓を避ける。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
転がった背後からシリアの放った青い光弾が飛来する。
とりあえず背後で『ちっ!』だのと舌を打ちやがった奴は後でしばいて置こう、と決意するカノン。光の弾はカノンを襲った自由な蔓の根元へ着弾し、歪んだ音を立てて氷の結晶を生む。
「アルティオ!!」
「よっせぃ!!」
掛け声と共にアルティオが自分を狙う蔓を連れたまま、右往左往に逃げ回る。一瞬、一本目の蔓と二本目の蔓とが重なり合って、
「避けろッ!!」
レンの激が飛んだ。
同時に下がるアルティオとカノンの脇を、
どぉぉぉおおおぉおおぉぉんッ!!!
レンの切り倒した枯れ木が蔓を押し潰す。苦痛の雄叫びが再度上がり、しゅうしゅうと音を立てて枯れ木が溶け始める。
だが、すべて溶かしてから反撃したところで遅いのだ。
剣も、氷の弾も、枯れ木も全ては所詮、援護。
馴れたもので、その詠唱が終わる頃には全員が安全地帯へと退避済みだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
どんッ!!!
赤い閃光が森林を凪いだ。導火線の切っ先は凍りついた蔓の根元を打ち砕き、そのまま合成獣の身体組織そのものを一瞬にして破壊し、打ち砕く。
光の冷めた後には、乾いた生き物の残骸が残るだけ。
だがそれが醸し出す醜悪な匂いに鼻を抑えながらカノンは伏せていた頭を上げ、立ち上がってその残骸の方へ近寄る。
「いやぁん、気持ち悪かったぁッ!」
「どさくさに紛れて抱きつこうとするんじゃない」
「レンッ、お前さっき俺狙って木、倒したろッ! マジ危なかったぞッ!!」
……まあ、背後できゃんきゃん騒いでる野郎らは無視して置くとして。
「合成獣、ねぇ……」
カノンは哀れなその末路の残骸を眺めながら、腕を組み、溜め息と共に首を傾げたのだった。
←2へ
枯れ木の丸太に腰掛けながらからからと笑う能天気魔道師は、漂う微妙な空気にもめげずにそう吐き出した。ちなみに彼女とカノンの後頭部に痛々しげなたんこぶが見えるのは、お互いの姿を認めた瞬間に不毛な言い合いを始めた二人をレンの拳骨が直撃したためである。
「まあ、大した怪我も無かったんだしそれでいいじゃない」
「いいわけがあるか。危うく死ぬところだった」
「死ぬところだったのはあんたたちじゃないと思うけどねぇ……」
レンの至極冷静な声色に、ルナは頭のこぶを摩りながら後ろを振り返る。ひくひくと微妙な痙攣を繰り返しながら、炭と化した女剣士と少々コゲたまま動かない大柄な双刀剣士が倒れ伏していた。
「相手も確かめずに爆炎魔法撃つ方も撃つ方だけど、そのまん前に知り合いを放り投げる方もアレな気はするんだけど」
「熱風の盾に幾ら大柄で丈夫だからと顔見知りを立てる奴も相当だと思うが」
「……やめとこっか」
「そうだな」
珍しく始まりかけた口論をやめるカノンとレン。
まあ……レンが放り投げたたまたまそこにあった、生きた防御壁で威力が殺された魔道風をカノンがたまたま間近にいた生きた盾で防いだという人聞きの悪い事情など、わざわざ掘り合うものでもないだろう。
―――そもそも悪いのあたしらじゃないし。
溜め息を吐いて、カノンは抗議の視線を何処吹く風でコゲた炭をつんつん突付いている彼女へ目を向けて、
「で、ルナ。あんた、何でこんなとこにいるわけ?」
「説明しなきゃ解んない? どーせあんた達も合成獣の大量発生の調査でも頼まれてたんでしょ?」
「あんた達も、ってことはあんたもそうなの?」
不必要に鷹揚に頷く彼女。
「うん、まあ。依頼人は別だろうケドね」
「そーね。同じところに来させられてるし。けど、あっさり出て来たってことはやっぱりあそこには何も無かったの?」
「教えると思う?」
「いや、言ってみてからそれはないか、と気が付いた」
「ご名答」
あっさりと言い放ち、ひらひらと手を振る。と、思いきや、
「と、言いたいところだけど。まあ、教えてあげてもいいわ。お礼はチップ程度でいいわよ」
「ちゃっかりしてるわね」
レンがマントの裏へ手を忍ばせる。取り出した大き目の硬貨をピンっ、とルナの方へ放ると受け取った彼女は手の中を見て満足そうにそれをポケットへ落す。
「用意がいいじゃない」
「世の中、欲の深い連中は多いからな」
「それ、遠回しにあたしに欲深い奴、って言ってる?」
「違うのか?」
相変わらず、人の神経を逆なですることに関しては一流である。馴れがそうさせるのが、怒り狂うかと思った彼女はカノンの予想に反して小さく肩を竦めただけだった。
そういえば、レンとルナはこの五人の中でも最も付き合いが古かった。
別にチップなど払わなくてもこの後、自分たちで探索すればいい話なのだが。ただ、この年中発情期に当てられている二人組みを連れての屋敷探索と、ささやかなチップを払うのとなら、迷わずチップを犠牲にする。彼も考えは同じだったらしい。
滅多にないルナのやたら寛大なサービスだ。依頼料がやたら多いのか、何かの思惑でもあるのか。まあ、とにかく受け取って置こう。
「結論から言うとハズレだったわよ。単なる廃屋、まあ、ちょちょいっと昔の罠が未だに作動することもあってそれには感心したけどね。
肝心の研究施設ときたらまあ、埃の山というか山脈というか。確かに合成獣を作ってた形跡はあったけど、ここ最近何かが作動したり壊れたり、って風ではなかったわね。っていうか施設そのものがおじゃんよ、もう随分昔に死んでたわね、アレは」
「ふーん。ほらじゃないでしょうね?」
「金を貰っての嘘は言わないわよ。別に損するわけじゃないし」
「じゃあ、ルナ。あんたが請け負ったのはやっぱりここの調査であって、事件の解決ではないのね?」
「まーね。じゃなきゃ情報漏洩なんてやんないわよ」
なるほど、チップ程度で済んだ理由が何となくわかった。
つまり、彼女の請け負った依頼はただの屋敷調査であり、この合成獣事件の解決ではないということ。事件の解決が依頼内容ならば、とどのつまり、自分で事件を解決しなければ依頼料は入って来ない。となればカノン達に先に解決されてしまわぬよう、情報を隠す必要が出てくる。
しかし、ただの屋敷調査ならばそこまでの責任感はいらない。『あの屋敷、やっぱ何も関係なかったです』の一言で十分なのだから。
……もちろん、ルナが事件解決を狙ってやっぱり嘘の情報を流している可能性が消えたわけではないのだが……。
はっきり言って、それを確認するほどの体力・気力が充実していない。
まあ、先程の詳しい状況説明を信じてさっさと終わらせてしまうに限る。
「まあ、ところで」
すっく、とルナが立ち上がる。
「……やれやれ、猛獣は二人で十分なんだが」
かちり、とレンが触れた剣の柄が小さく唸る。
「ちょっと、その二人って誰のことよ?」
「ああ、悪かった。そこで転がってるのを含めて四人だな」
「増やすな! ってかせめて三人でしょ!?」
軽口を叩きながらもカノンもまた、背に負っていた剣鎌をずらり、と引き抜いた。
「ほらあんたたちも! いつまでも寝てないで加勢しなさい!!」
「いでッ!!」
「ひゃんッ!?」
丸太裏に転がして置いた約二名を蹴り起こす。細かい分類はともかく、一応は生物なのだから自分の判断で動いてもらわなければ。
「痛いわねッ! 何するのよ!?」
「何するのよ、じゃないッ! あんたらも一応、剣の修行した有段者でしょ!? 自分の周りの異変にくらい気づきなさいよッ!!」
カノンに怒鳴り散らされて、すっ、とシリアの表情が真顔に戻る。焦げていたアルティオも起き上がって、目を細め、周囲を観察し始める。
静かだった。
いや、静か過ぎたというべきか。鳥の声一つしないのは異常としか言い用がない。
もう一つ。
ここに五人のみが存在すると言うのに―――。
「何よ、あの音……」
シリアから硬い声が漏れる。
ぱきん、ぱきん、と下生えに転がる小枝の割れる音が響く。同時に何かを引き摺るような、ずる、ずる、という水気を伴う不快な怪音。
例えるならスライムが森の中を這って歩いているような。しかし、その音はスライムなんかよりも余程重量のある生き物の歩く音だ。
嫌な予感が胸を掠める。そもそもこの以来の発端は何だったか。思い出せば簡単なこと。
『唐突に発生した合成獣が観光客を襲う。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から』
誰かが溜め息を吐いた。刹那。
「っ、カノンッ!!」
「―――っ!」
レンの声が飛んだ。カノンは瞬時に反応し、横っ飛びにその場を離れる。
ずひゅるッ!!!
「なっ……!!」
アルティオのくぐもった呻き。
辺りに群生する背の低い茂みを形成する木々の合間から、太い触手が一本伸びて今しがたカノンが構えていた空間を貫いていた。
いや、―――
「触手、っていうか蔓ッ!?」
「我求める、途往くは銀の閃光、従えシルフィードッ!!」
カノンの吃驚の声とルナの呪文とが重なった。生まれた光は幾つもの筋へと分散し、そして、
きっぎゃぁぁぁぁあああぁああぁぁッ!!!
耳を劈く雄叫びが鼓膜を揺るがした。彼女の呪文は、周囲の小枝や茂みを薙ぎ払い、視界を確保するためのものだったが、どうやら中の一条が素通りして奴を掠めてしまったらしい。
細木が薙ぎ倒されて露になった茂みの向こう。そこにいたものに、
『―――――ひあッ!!』
生理的嫌悪感に、カノンもルナも、そしてシリアも思わず悲鳴にならない悲鳴を上げた。
「な、何だ、こいつッ!!」
掠れた声でアルティオが双剣を抜く。
―――ご、合成獣とは聞いてたけどさッ!!
頭は不自然に巨大な牛(おそらくはバッファローかミノタウロス辺りだろうが)、上半身は野犬のようにしなやかだが、背中には不自然な角度に曲がった煤けた翼が生えており、尻尾はどうしたことか兎のような短い毛玉がちょろっと付いているだけ。
ここまでは、まあ見ていて不快といえば不快だが、まだいい。
だがしかし、その下というと足というものがなく、付け根の部分からは今しがたカノンを貫こうとした太い植物の蔓が四本うねうねと蠢き、さらにその下は足代わりにスライム状のどろどろしたものが下生えを溶かしながら広がっている。
―――出来れば一生、見なくて良かったこんなもの。
表情を引き攣らせながら、思わず固まった。が、しかし、闘争心は旺盛なのか先程のルナの一撃に怒り狂っているのかびしゅ、と奇怪な音を立てて蔓を伸ばす。
「うわわッ!」
「いやぁぁぁッ!!」
溶解液に塗れた蔓が(溶けないのかと思うが独自進化なのか溶けていない)変則的にうねうねと動き回る。その蔓が太く長いものだから、でたらめに振り回しているように見えても避けなければ当たるわけで。
加えて足場と空間が狭い。相手も不利だろうがこちらも当然不利だ。
当たり前だがスライムの溶解液は金属―――つまりは刀身を溶かす。懐に飛び込めればいいのだが、この状況でははっきり言って無理だ。
―――くっ、蔓が邪魔で近寄れない! こりゃルナとシリア頼みかッ!?
縋る思いで二人の方を盗み見るが、二人も迫り来る蔓のせいで呪文が中断されるらしい。唱えかけては撤退を余儀なくされている。
―――と、なると、やるべきなのは援護ッ!
だんっ、とその場を蹴って二人の方角へと飛ぶ。伸びた蔓が頭の上を掠めて風を感じた。髪の毛の一本くらいは溶かされたかもしれない。
腰に下げたクレイソードを抜く、いくら何でもあんなのと戦って剣鎌[カリオソード]の刃を痛めたくはない。
一度集約し、再び伸びてくる蔓。
「っせいッ!!」
足元に転がっていた小枝を蹴り飛ばす。止められるなどとは思っていない。ただの牽制だ。
案の定、痛みは感じるのが蔓の動きが一瞬だけ止まった。カノンはその隙に、クレイソードを蔓へと突き立てる。
ずしゅッ!!
きぃぃぃあああぁぁっぁぁあああッ!!
聞くに堪えない悲鳴がもう一度上がる。構わず力任せに地面に縫い止める。
―――これで一本。
背後に殺気。
「っとぉッ!?」
転がるようにして背後から迫る別の蔓を避ける。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
転がった背後からシリアの放った青い光弾が飛来する。
とりあえず背後で『ちっ!』だのと舌を打ちやがった奴は後でしばいて置こう、と決意するカノン。光の弾はカノンを襲った自由な蔓の根元へ着弾し、歪んだ音を立てて氷の結晶を生む。
「アルティオ!!」
「よっせぃ!!」
掛け声と共にアルティオが自分を狙う蔓を連れたまま、右往左往に逃げ回る。一瞬、一本目の蔓と二本目の蔓とが重なり合って、
「避けろッ!!」
レンの激が飛んだ。
同時に下がるアルティオとカノンの脇を、
どぉぉぉおおおぉおおぉぉんッ!!!
レンの切り倒した枯れ木が蔓を押し潰す。苦痛の雄叫びが再度上がり、しゅうしゅうと音を立てて枯れ木が溶け始める。
だが、すべて溶かしてから反撃したところで遅いのだ。
剣も、氷の弾も、枯れ木も全ては所詮、援護。
馴れたもので、その詠唱が終わる頃には全員が安全地帯へと退避済みだった。
「我放つ、穿つは破壊の境界、砕けメガブラスターッ!!」
どんッ!!!
赤い閃光が森林を凪いだ。導火線の切っ先は凍りついた蔓の根元を打ち砕き、そのまま合成獣の身体組織そのものを一瞬にして破壊し、打ち砕く。
光の冷めた後には、乾いた生き物の残骸が残るだけ。
だがそれが醸し出す醜悪な匂いに鼻を抑えながらカノンは伏せていた頭を上げ、立ち上がってその残骸の方へ近寄る。
「いやぁん、気持ち悪かったぁッ!」
「どさくさに紛れて抱きつこうとするんじゃない」
「レンッ、お前さっき俺狙って木、倒したろッ! マジ危なかったぞッ!!」
……まあ、背後できゃんきゃん騒いでる野郎らは無視して置くとして。
「合成獣、ねぇ……」
カノンは哀れなその末路の残骸を眺めながら、腕を組み、溜め息と共に首を傾げたのだった。
←2へ
「結局、引き受けたな」
「仕方ないじゃない。相場がわかってないんだと思うけど。あの人、お金の気風良かったんだもん」
それが休暇中に仕方無く依頼を引き受ける理由に入るのか。正直疑問なところだが、彼女の性と言えばそれも正解だ。
もともとが成り行きで始まった気ままなぶらり旅。金銭はあるに越したことはない。ただの建造物調査であれだけの報酬なのだから気持ちは解る。それについては特に異論はない。だが、
「ただ一つだけ気になるんだが」
「何?」
「……」
終始、表情を崩さない彼の顔が、露骨に不快に歪んだ。ちらり、と背後を振り返って、自分の腕にぶら下がろうとしていた白い手を容赦無く払う。
「いつまで付いて来るつもりだ、お前ら」
「私はレンと地の果てまで一緒なの!」
――何、その頭悪い発言。
反射的に複数の突込みが頭を掠めるが、口にしたところで無駄な上に余計な労力を使うだけになりかねない。
「で、何であんたまで付いて来んのよ」
「ふっ、知ってるかカノン。磁石には常にN極とS極があってだな」
「S極があたしでNが自分だ、なんてクソ寒いこと抜かしたら喉元抉るわよ」
「……」
先手と同時に小剣を引き抜いたカノンに、さしものアルティオも動きを止めた。彼女は十分に睨みを効かせてから、深々と息を吐いて剣を収める。
「まあ……今さらあんた達にどうこう言ったところで通じる奴じゃない、ってのは解ってるから……。
何でもいいけど、邪魔だけはしないで頂戴ね」
「何を言っているのかしら。むしろ私たちの邪魔をしてるのは貴女じゃ……」
「あー、はいはいもういいからそれでいいから。仕事の邪魔だけはしないで、お願いだから」
いっそ気絶させたまま、ふん縛って置いて来た方が良かったかもしれない……。いや、それとも最初の時点で海に沈めて置くべきだったか。
そんな後悔が頭を過ぎるが、今さら後の祭りである。ふとレンと視線が合った。小さく肩を竦めただけで、後は特大の溜め息。何かを諦めている表情だ。きっと自分だって鏡を見たらあんな表情をしているんだろう。
とにかく仕事を迅速に終わらせて、何とかしてこいつらを振り切ろう。仕事の合間のドサクサに紛れてもいい。それからは東方にでも逃げようか。もしくはゼルゼイルの戦地にでも逃げるか。いや、冗談抜きでこいつらの側にいるくらいなら内戦国内に飛ばされた方がマシかもしれない。
「ところでカノン。聞きたいんだけど」
「何よ?」
観光地指定されているビーチや連絡港に比べると、打って変わって荒れ果てた森林の下道を歩き出す。そこで珍しく文句以外でシリアから声があがった。彼女は珍しく、やたらと深刻な表情で、
「依頼された仕事って、何?」
ずっ!!!
……本気で前のめりに倒れるところだった。
「おいおい、しっかりしろよ。危ないぞカノン」
「しっかりするのはあいつの頭の方よ! あんた! あの空間にいてなんっっっの話も聞いてなかったわけッ!?」
「割と」
「割と、じゃないッ!」
「そんなこと言ったって仕方ないじゃない。ずっと気絶してたんだから、誰かさんのせいで」
「あ」
気絶させたのはレンの上に、そもそもそれは自業自得だった気がするのだが、何故か睨まれる。納得はいかないが、細かいことを掘っていてはそれこそ話が進まない。カノンは仕方なしにばりばりと後頭部を掻き毟る。
「仕方ないわね……。まあ、そのままで行くわけにもいかないから歩きながら手身近に説明するけど……。
あんたたちは知ってる? このクオノリアで起こってる事件のこと」
「愚問ね。そこら辺の凡愚と一緒にしないでもらえるかしら」
――そんな限りなく一般の人に失礼なことは絶対にしない。
「最近のクオノリアで多発している怪物事件。実際はどこかの合成獣だって話だけど。
唐突に発生した合成獣が観光客を襲う、っていう事件でしょう? 事例は今までに数十件。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から。まさにオールマイティな合成獣がごろごろ。
合成獣がいるってことは、それを召還、または合成した魔道師がいるはず。けれどそれも見つからない。一方では、そのせいで観光客は激減。クオノリア市長は様々な魔道師に依頼して解明を急いでるらしいけど、間に合ってないようね」
「……詳しいわね」
「常識って奴よv」
やたら無闇に立派な胸を張るシリア。カノンはぽりぽりとこめかみを掻いて居住まいを正す。
「そこまで知ってんならいいわ。で、事件と平行していろーんな噂話が蔓延して。これから調査しに行くところもその『事件の発端』候補の一つ、ってことよ」
「候補?」
「むかーしの話らしいけどね、セリエーヌの森林の中に魔道師が住んでた館があって。
魔道師本人はとっくの昔に死んじゃったらしいけど、彼だか彼女だかが研究してた内容は誰も知らない。加えて館の整備もされてない。だ、もんだから誰かが魔道師が死んでも魔道師が作った合成獣は生きていて、老朽化に伴って大量に外に逃げ出して来てるんじゃないか、って。
研究型魔道師の暗いイメージと、怪しい事件が根拠無く結びついた結果ね」
「でも、そんな怪しいところがあるならとっくに行政がどうにかしてるんじゃないの?」
「調査の手は入ってると思うんだけど。
こうなったら一度調べたところでも虱潰しなのか、そんなに行政が信用できないのか。まあ、あの人たちにとって重要なのは、実際に合成獣が人を襲ってることじゃなくて、それによってクオノリア・シーサイドのイメージががた落ちになってる、ってことだろうから。
少しでも可能性があるなら早く原因を究明して、観光客の不安を払拭したい、ってところなんでしょうね」
言い終えて、公道を逸れて、唐突にカノンは小剣を抜いた。アルティオとシリアが目を開いて硬直するが、彼女が切り裂いたのは逸れた道に生える……というより道なき道に生い茂る藪だった。 一方でレンは懐から研いだばかりの鋭利なナイフを抜き、邪魔な太い枝を切り落し始める。
「とまあ、そういうわけでここ入って行くから。あー、シリア、あんたは髪の毛、気をつけた方がいいわよ」
「ちょ……! やぁよ、そんなとこっ! メイクと服が汚れちゃうじゃない!」
「別にここで待ってるならそれでもいいわよ。ってか、むしろ歓迎だし」
「ぐっ……」
シリアは歯を噛み締めて、ちらりとレンを見る。何やら葛藤していたようだが、やがて覚悟を決めたらしく、長い髪を纏め出した。
小さく打ったカノンの舌打ちは誰にも聞こえていなかったようだった。
「……?」
「どうかした? レン」
生真面目に枝を落していたレンの手が不意に止まる。空に視線を投げ、ゆっくりと首を回し、周囲を眺め始めた彼に、カノンは構えを取った。彼女を片手で制しながら、
「いや……誰かに見られているような気がしたんだが、気のせいのようだな。誰もいない」
「誰か?」
「いや、気にするな」
そう声をかけつつも、彼は何か懸念するように背後に広がる森林奥、日を遮る高い梢の辺りを暫く見つめてから作業へ戻った。
それを見届けてから、ちらりと、カノンは同じ方向に視線を投げる。
だが、そこには黒い木の梢の下に、ただ昼間の暗い闇がわだかまるばかりだった。
「こりゃあ年代物に当たったもんねぇ」
聳える外門に、口笛を吹いたカノンが最後の藪を打ち払う。木々に纏わり付く蔦と邪魔な枝、背の高い藪を払って小一時間。それは漸く姿を現した。
門構えには二つの柱。背の丈を軽く凌駕した門の柵。その狭間に止まる、時計塔を掲げた古めかしい造りの小屋敷。屋敷の壁伝いに枯れた蔦が絡みつき、垣間見える庭にはもう二度と水を湛えないだろう、苔むした小さな噴水跡と捲れた石畳。
次に口笛を吹いたのはアルティオだった。
「ひゅー、今時、こんなもんがまだ残ってるもんなんだな」
「地方に行けばいくつか見られるわよ。大抵、変な奴らの巣窟になってるけど」
「もー、いやぁ! カノン! 何よ、ここ!! 私のお気に入りのマントが破れちゃったわよ、これ特注なのよ!?」
「そんな破れることが前提のものを特注にする方が悪いんでしょうが……。ってか、人のせいにすんな」
カノンは一歩踏み出して、足元を弄った。こつん、とやたら大きな石ころが足にぶつかる。見渡すと同じような大振りな石が、折れた梢を下敷きにするようにごろごろと転がっている。
視線を空に上げた。
「むぅ……」
カノンは苦い顔で門に指を這わせる。鉄の梁に指を這わせる。拭ったグローブの裏についてきたのは、黒々とした炭の欠片だった。
「ちょ、っと……面倒ね、これは……」
「あ? 何が?」
館ばかりを呆けて見上げていたアルティオが首を捻る。カノンと同じような表情をして、地面の石を払っていたレンもまた小さく舌を打つ。
「……石哺獣[ガーゴイル]か」
「はっ!?」
物騒な化け物の名称を上げたレンに、アルティオが素っ頓狂な声を上げた。アルティオは眉間に皺を寄せて、慌てて地面から足をあげる。
「がっ、ガーゴイルって、これがかっ!?」
「さすがにこれだけ粉々になれば死んでるだろうけどね。あそこ」
言って門柱の上を指すカノン。目を凝らすと二本の柱の頂上に、細い石の足が残っている。有無を言わさずに粉砕された証拠だ。確実な倒し方ではあるが乱暴なことも確かである。
「石哺獣[ガーゴイル]を門番に使う魔道師は少なくないわ。ここが魔道師の住んでいた館だって話は本当みたいね。
問題はこれを誰が倒したか、ってことだけど」
「ここに来たかもしれない、って言ってた行政の調査隊……じゃねーのか?」
渋い顔の彼らに、カノンは首を振る。
「あたしたちがここまでどうやって来たか覚えてる? 四人であれだけ厄介なとこ抜けて来たってのに、『隊』なんて来たらもうちょっと道が馴れててもいいでしょーが。
恐らく調査隊は別のルートを通ったか、ここには目星をつけてないか」
「けれど、じゃあ誰がどうやってここまで来たっていうのかしら?」
ずい、と顔を近づけて迫るシリア。カノンはそれを押し返すように片手を掲げ、まっすぐに空を指差す。反射的に彼女の指に目線をやるシリアとアルティオ。
彼女の指の先に、丸くぽっかりと蒼い穴が空いていた。何故だかそこだけ梢が消えて、ちょうど人一人分ほどの空間が、外の日の光をそのまま通していた。
「……空?」
「魔道師か、それとも魔道を齧って空中浮遊の術を使えた奴か。ま、門の状態を見る限り、あたしは魔道師に一口賭けるけどね」
「何で?」
「……」
間の抜けた顔で問い返してくる二人に、カノンは苛立つように頭を掻く。どうやら一から十までしっかりと説明してやらねばならないらしい。面倒な。
「あんたたち……一応、小さくても脳みそはあるんだろうから少しは考えなさいよ……」
「ちょっと今、さりげなく小さいとか」
「周りの壁には死ぬほど蔦が生えてるのに、門のところだけきれーになくなってるでしょ。誰かが除去しなきゃこうは行かないわよ。
それに、門に触った指について来たのは錆じゃなくて炭だったわ。
これまた豪快に蔦を燃やして通ったみたいね。まあ、結局、そのせいだかもともと開かないまでに門が壊れてたのか開かなかったみたいだけど」
「開かない?」
「さっき試してみたら動かなかったわ。最も、足跡を見る限り、浮遊術で門を飛び越えていく、って言う単純明快な方法をとったみたいね。
バラバラのガーゴイルといい、豪快な門の突破口といい、結構無茶苦茶な奴だけど。で、まあ、ここからが問題。
そいつがまだこの中にいるみたいなのよね」
「へ?」
存外、間の抜けた声だ。カノンは腕を組んで改めて門を見上げる。
「足跡は新しいし、門からまだ熱は抜けてないし。ガーゴイルも風化してないってことはそんなそんな時間は経っちゃいないわね。
ただの別働隊か、それともただ興味を持った魔道師が入り込んだだけか。どっちにしても面倒ね」
クレイヴの依頼は正規のものではない。こういう観光地には必ず存在する観光団体というか連合というか、ともかくそんな集会を通した依頼ではないが故、正規の調査隊と出くわしていざこざがあったとなれば勿論問題だし、後者にしても衝突があればクレイヴの、果てはホテルウィンダリアのイメージダウンになりかねない。そうなれば本末転倒、報酬が削られるのは必至である。
「まあ、穏便に行きたいところだけど……」
言葉を切って、カノンは心底不安げな表情で後ろを見遣る。
――この情緒不安定な馬鹿どもはどうしてくれようか。
開き直れば一利くらいはあるかと思ったが、どうやら百害あっても一利ないようだ。まったくなんだってこんな奴らと知り合ってしまったのか。
――まあ……いつまでも溜め息吐いてても仕方ないか。
「えーと、門を登る……のはきつそう、ね。とりあえず斬れないかどうか試してみて、駄目だったら……」
「カノン」
レンの低い声に諭されて、ようやくその空気に気づく。
「! きゃん! ちょっとレン、そんないきなり乱暴な……v」
「いいから黙れ」
「な、何だっ?」
「いいからちょっと大人しくしてて、あと気配も殺して」
慌ててぼうっと門前に突っ立っていた二人を塀の裏側へ押し出し、もしくは蹴り倒し。自らも物陰に身を潜めながら、お互いに視線を交わす。こくり、と小さな頷きを返してからカノンは門の向こう側へ視線を走らせた。
さく、さく、と軽い足音が響いていた。枯れた下生えを踏みつけるその音は、どう聞いても入り込んだ兎や猫のものなどではなく、れっきとしたブーツが地を踏む人の発する音。
まさかこちら側に人がいるとは思っていないのか、気配は消していない。と、いうことは向こうにはまだ気づかれていない、ということだ。
だが、この位置関係では門に達する前に気づかれるだろう。相手が手馴れであればあるほど。
――さあ、どう出るのが正解か……
このまま様子を見るか先手必勝か、はたまたこちらから姿を見せて穏便に片をつけるか。
しかし、相手が過敏な人間なら出て行ったその場で即攻撃されるという可能性もある。
迷いが負ける業界であることは重々承知だが、相手が敵とは言いきれない場合というものはどうにも面倒だ。
仕方なく、カノンはアルティオの口を塞いだまま、レンはシリアの頭を足で地に縫い止めながら、早い話が踏みつけながら(酷)、息を殺し、そのときを待つ。
相手がこちらに気がついて、何らかの行動を起こすまで。
ひたり、と足音が止まる。間を置かずに聞こえてくるのは浮遊の術を唱える声。思ったよりもその声は幼く、甲高い少女のものだった。
――? こっちに気づいてない? いや、待て、それ以前にこの声って……
不意に、術が完成するより前に詠唱が途切れた。しばし何か戸惑うような間があって、再び響く詠唱の声。
だがしかし。
――おい、待たんかい。
「ち、ちょっとあんたその呪文は待……ッ!!」
「我呼ぶ、駁すは荒野生む猛き怨恨、落ちよ、バルドフォルン!」
どがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!!!
……止める間もなく打ち出された火炎爆発呪文はものの見事に門と屋敷の壁とを豪快に吹き飛ばしたのだった。
爆風が収まりつつある中、彼女は大分伸びたブラウンの髪を撫で付けながら憂いた息を吐き出した。
ばさりっ、と手入れのいい髪が風に棚引いて揺れ、落ちる。
ふと、彼女は雲ひとつ無い今日の空を仰ぎ見て、
「はー、すっきりしたー。やっぱり何かありそうだったら強行突破がストレス溜まんなくていいわねーv」
――……って、いうか。
「やっぱりあんたかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
づどむっ
怒り任せに放ったカノンの飛び蹴りは鮮やかな直線と共に門を吹き飛ばした張本人――魔道師ルナ=ディスナーの頭へと突き刺さった。
←1へ
「仕方ないじゃない。相場がわかってないんだと思うけど。あの人、お金の気風良かったんだもん」
それが休暇中に仕方無く依頼を引き受ける理由に入るのか。正直疑問なところだが、彼女の性と言えばそれも正解だ。
もともとが成り行きで始まった気ままなぶらり旅。金銭はあるに越したことはない。ただの建造物調査であれだけの報酬なのだから気持ちは解る。それについては特に異論はない。だが、
「ただ一つだけ気になるんだが」
「何?」
「……」
終始、表情を崩さない彼の顔が、露骨に不快に歪んだ。ちらり、と背後を振り返って、自分の腕にぶら下がろうとしていた白い手を容赦無く払う。
「いつまで付いて来るつもりだ、お前ら」
「私はレンと地の果てまで一緒なの!」
――何、その頭悪い発言。
反射的に複数の突込みが頭を掠めるが、口にしたところで無駄な上に余計な労力を使うだけになりかねない。
「で、何であんたまで付いて来んのよ」
「ふっ、知ってるかカノン。磁石には常にN極とS極があってだな」
「S極があたしでNが自分だ、なんてクソ寒いこと抜かしたら喉元抉るわよ」
「……」
先手と同時に小剣を引き抜いたカノンに、さしものアルティオも動きを止めた。彼女は十分に睨みを効かせてから、深々と息を吐いて剣を収める。
「まあ……今さらあんた達にどうこう言ったところで通じる奴じゃない、ってのは解ってるから……。
何でもいいけど、邪魔だけはしないで頂戴ね」
「何を言っているのかしら。むしろ私たちの邪魔をしてるのは貴女じゃ……」
「あー、はいはいもういいからそれでいいから。仕事の邪魔だけはしないで、お願いだから」
いっそ気絶させたまま、ふん縛って置いて来た方が良かったかもしれない……。いや、それとも最初の時点で海に沈めて置くべきだったか。
そんな後悔が頭を過ぎるが、今さら後の祭りである。ふとレンと視線が合った。小さく肩を竦めただけで、後は特大の溜め息。何かを諦めている表情だ。きっと自分だって鏡を見たらあんな表情をしているんだろう。
とにかく仕事を迅速に終わらせて、何とかしてこいつらを振り切ろう。仕事の合間のドサクサに紛れてもいい。それからは東方にでも逃げようか。もしくはゼルゼイルの戦地にでも逃げるか。いや、冗談抜きでこいつらの側にいるくらいなら内戦国内に飛ばされた方がマシかもしれない。
「ところでカノン。聞きたいんだけど」
「何よ?」
観光地指定されているビーチや連絡港に比べると、打って変わって荒れ果てた森林の下道を歩き出す。そこで珍しく文句以外でシリアから声があがった。彼女は珍しく、やたらと深刻な表情で、
「依頼された仕事って、何?」
ずっ!!!
……本気で前のめりに倒れるところだった。
「おいおい、しっかりしろよ。危ないぞカノン」
「しっかりするのはあいつの頭の方よ! あんた! あの空間にいてなんっっっの話も聞いてなかったわけッ!?」
「割と」
「割と、じゃないッ!」
「そんなこと言ったって仕方ないじゃない。ずっと気絶してたんだから、誰かさんのせいで」
「あ」
気絶させたのはレンの上に、そもそもそれは自業自得だった気がするのだが、何故か睨まれる。納得はいかないが、細かいことを掘っていてはそれこそ話が進まない。カノンは仕方なしにばりばりと後頭部を掻き毟る。
「仕方ないわね……。まあ、そのままで行くわけにもいかないから歩きながら手身近に説明するけど……。
あんたたちは知ってる? このクオノリアで起こってる事件のこと」
「愚問ね。そこら辺の凡愚と一緒にしないでもらえるかしら」
――そんな限りなく一般の人に失礼なことは絶対にしない。
「最近のクオノリアで多発している怪物事件。実際はどこかの合成獣だって話だけど。
唐突に発生した合成獣が観光客を襲う、っていう事件でしょう? 事例は今までに数十件。合成獣の形は千差万別。海から森から陸地から。まさにオールマイティな合成獣がごろごろ。
合成獣がいるってことは、それを召還、または合成した魔道師がいるはず。けれどそれも見つからない。一方では、そのせいで観光客は激減。クオノリア市長は様々な魔道師に依頼して解明を急いでるらしいけど、間に合ってないようね」
「……詳しいわね」
「常識って奴よv」
やたら無闇に立派な胸を張るシリア。カノンはぽりぽりとこめかみを掻いて居住まいを正す。
「そこまで知ってんならいいわ。で、事件と平行していろーんな噂話が蔓延して。これから調査しに行くところもその『事件の発端』候補の一つ、ってことよ」
「候補?」
「むかーしの話らしいけどね、セリエーヌの森林の中に魔道師が住んでた館があって。
魔道師本人はとっくの昔に死んじゃったらしいけど、彼だか彼女だかが研究してた内容は誰も知らない。加えて館の整備もされてない。だ、もんだから誰かが魔道師が死んでも魔道師が作った合成獣は生きていて、老朽化に伴って大量に外に逃げ出して来てるんじゃないか、って。
研究型魔道師の暗いイメージと、怪しい事件が根拠無く結びついた結果ね」
「でも、そんな怪しいところがあるならとっくに行政がどうにかしてるんじゃないの?」
「調査の手は入ってると思うんだけど。
こうなったら一度調べたところでも虱潰しなのか、そんなに行政が信用できないのか。まあ、あの人たちにとって重要なのは、実際に合成獣が人を襲ってることじゃなくて、それによってクオノリア・シーサイドのイメージががた落ちになってる、ってことだろうから。
少しでも可能性があるなら早く原因を究明して、観光客の不安を払拭したい、ってところなんでしょうね」
言い終えて、公道を逸れて、唐突にカノンは小剣を抜いた。アルティオとシリアが目を開いて硬直するが、彼女が切り裂いたのは逸れた道に生える……というより道なき道に生い茂る藪だった。 一方でレンは懐から研いだばかりの鋭利なナイフを抜き、邪魔な太い枝を切り落し始める。
「とまあ、そういうわけでここ入って行くから。あー、シリア、あんたは髪の毛、気をつけた方がいいわよ」
「ちょ……! やぁよ、そんなとこっ! メイクと服が汚れちゃうじゃない!」
「別にここで待ってるならそれでもいいわよ。ってか、むしろ歓迎だし」
「ぐっ……」
シリアは歯を噛み締めて、ちらりとレンを見る。何やら葛藤していたようだが、やがて覚悟を決めたらしく、長い髪を纏め出した。
小さく打ったカノンの舌打ちは誰にも聞こえていなかったようだった。
「……?」
「どうかした? レン」
生真面目に枝を落していたレンの手が不意に止まる。空に視線を投げ、ゆっくりと首を回し、周囲を眺め始めた彼に、カノンは構えを取った。彼女を片手で制しながら、
「いや……誰かに見られているような気がしたんだが、気のせいのようだな。誰もいない」
「誰か?」
「いや、気にするな」
そう声をかけつつも、彼は何か懸念するように背後に広がる森林奥、日を遮る高い梢の辺りを暫く見つめてから作業へ戻った。
それを見届けてから、ちらりと、カノンは同じ方向に視線を投げる。
だが、そこには黒い木の梢の下に、ただ昼間の暗い闇がわだかまるばかりだった。
「こりゃあ年代物に当たったもんねぇ」
聳える外門に、口笛を吹いたカノンが最後の藪を打ち払う。木々に纏わり付く蔦と邪魔な枝、背の高い藪を払って小一時間。それは漸く姿を現した。
門構えには二つの柱。背の丈を軽く凌駕した門の柵。その狭間に止まる、時計塔を掲げた古めかしい造りの小屋敷。屋敷の壁伝いに枯れた蔦が絡みつき、垣間見える庭にはもう二度と水を湛えないだろう、苔むした小さな噴水跡と捲れた石畳。
次に口笛を吹いたのはアルティオだった。
「ひゅー、今時、こんなもんがまだ残ってるもんなんだな」
「地方に行けばいくつか見られるわよ。大抵、変な奴らの巣窟になってるけど」
「もー、いやぁ! カノン! 何よ、ここ!! 私のお気に入りのマントが破れちゃったわよ、これ特注なのよ!?」
「そんな破れることが前提のものを特注にする方が悪いんでしょうが……。ってか、人のせいにすんな」
カノンは一歩踏み出して、足元を弄った。こつん、とやたら大きな石ころが足にぶつかる。見渡すと同じような大振りな石が、折れた梢を下敷きにするようにごろごろと転がっている。
視線を空に上げた。
「むぅ……」
カノンは苦い顔で門に指を這わせる。鉄の梁に指を這わせる。拭ったグローブの裏についてきたのは、黒々とした炭の欠片だった。
「ちょ、っと……面倒ね、これは……」
「あ? 何が?」
館ばかりを呆けて見上げていたアルティオが首を捻る。カノンと同じような表情をして、地面の石を払っていたレンもまた小さく舌を打つ。
「……石哺獣[ガーゴイル]か」
「はっ!?」
物騒な化け物の名称を上げたレンに、アルティオが素っ頓狂な声を上げた。アルティオは眉間に皺を寄せて、慌てて地面から足をあげる。
「がっ、ガーゴイルって、これがかっ!?」
「さすがにこれだけ粉々になれば死んでるだろうけどね。あそこ」
言って門柱の上を指すカノン。目を凝らすと二本の柱の頂上に、細い石の足が残っている。有無を言わさずに粉砕された証拠だ。確実な倒し方ではあるが乱暴なことも確かである。
「石哺獣[ガーゴイル]を門番に使う魔道師は少なくないわ。ここが魔道師の住んでいた館だって話は本当みたいね。
問題はこれを誰が倒したか、ってことだけど」
「ここに来たかもしれない、って言ってた行政の調査隊……じゃねーのか?」
渋い顔の彼らに、カノンは首を振る。
「あたしたちがここまでどうやって来たか覚えてる? 四人であれだけ厄介なとこ抜けて来たってのに、『隊』なんて来たらもうちょっと道が馴れててもいいでしょーが。
恐らく調査隊は別のルートを通ったか、ここには目星をつけてないか」
「けれど、じゃあ誰がどうやってここまで来たっていうのかしら?」
ずい、と顔を近づけて迫るシリア。カノンはそれを押し返すように片手を掲げ、まっすぐに空を指差す。反射的に彼女の指に目線をやるシリアとアルティオ。
彼女の指の先に、丸くぽっかりと蒼い穴が空いていた。何故だかそこだけ梢が消えて、ちょうど人一人分ほどの空間が、外の日の光をそのまま通していた。
「……空?」
「魔道師か、それとも魔道を齧って空中浮遊の術を使えた奴か。ま、門の状態を見る限り、あたしは魔道師に一口賭けるけどね」
「何で?」
「……」
間の抜けた顔で問い返してくる二人に、カノンは苛立つように頭を掻く。どうやら一から十までしっかりと説明してやらねばならないらしい。面倒な。
「あんたたち……一応、小さくても脳みそはあるんだろうから少しは考えなさいよ……」
「ちょっと今、さりげなく小さいとか」
「周りの壁には死ぬほど蔦が生えてるのに、門のところだけきれーになくなってるでしょ。誰かが除去しなきゃこうは行かないわよ。
それに、門に触った指について来たのは錆じゃなくて炭だったわ。
これまた豪快に蔦を燃やして通ったみたいね。まあ、結局、そのせいだかもともと開かないまでに門が壊れてたのか開かなかったみたいだけど」
「開かない?」
「さっき試してみたら動かなかったわ。最も、足跡を見る限り、浮遊術で門を飛び越えていく、って言う単純明快な方法をとったみたいね。
バラバラのガーゴイルといい、豪快な門の突破口といい、結構無茶苦茶な奴だけど。で、まあ、ここからが問題。
そいつがまだこの中にいるみたいなのよね」
「へ?」
存外、間の抜けた声だ。カノンは腕を組んで改めて門を見上げる。
「足跡は新しいし、門からまだ熱は抜けてないし。ガーゴイルも風化してないってことはそんなそんな時間は経っちゃいないわね。
ただの別働隊か、それともただ興味を持った魔道師が入り込んだだけか。どっちにしても面倒ね」
クレイヴの依頼は正規のものではない。こういう観光地には必ず存在する観光団体というか連合というか、ともかくそんな集会を通した依頼ではないが故、正規の調査隊と出くわしていざこざがあったとなれば勿論問題だし、後者にしても衝突があればクレイヴの、果てはホテルウィンダリアのイメージダウンになりかねない。そうなれば本末転倒、報酬が削られるのは必至である。
「まあ、穏便に行きたいところだけど……」
言葉を切って、カノンは心底不安げな表情で後ろを見遣る。
――この情緒不安定な馬鹿どもはどうしてくれようか。
開き直れば一利くらいはあるかと思ったが、どうやら百害あっても一利ないようだ。まったくなんだってこんな奴らと知り合ってしまったのか。
――まあ……いつまでも溜め息吐いてても仕方ないか。
「えーと、門を登る……のはきつそう、ね。とりあえず斬れないかどうか試してみて、駄目だったら……」
「カノン」
レンの低い声に諭されて、ようやくその空気に気づく。
「! きゃん! ちょっとレン、そんないきなり乱暴な……v」
「いいから黙れ」
「な、何だっ?」
「いいからちょっと大人しくしてて、あと気配も殺して」
慌ててぼうっと門前に突っ立っていた二人を塀の裏側へ押し出し、もしくは蹴り倒し。自らも物陰に身を潜めながら、お互いに視線を交わす。こくり、と小さな頷きを返してからカノンは門の向こう側へ視線を走らせた。
さく、さく、と軽い足音が響いていた。枯れた下生えを踏みつけるその音は、どう聞いても入り込んだ兎や猫のものなどではなく、れっきとしたブーツが地を踏む人の発する音。
まさかこちら側に人がいるとは思っていないのか、気配は消していない。と、いうことは向こうにはまだ気づかれていない、ということだ。
だが、この位置関係では門に達する前に気づかれるだろう。相手が手馴れであればあるほど。
――さあ、どう出るのが正解か……
このまま様子を見るか先手必勝か、はたまたこちらから姿を見せて穏便に片をつけるか。
しかし、相手が過敏な人間なら出て行ったその場で即攻撃されるという可能性もある。
迷いが負ける業界であることは重々承知だが、相手が敵とは言いきれない場合というものはどうにも面倒だ。
仕方なく、カノンはアルティオの口を塞いだまま、レンはシリアの頭を足で地に縫い止めながら、早い話が踏みつけながら(酷)、息を殺し、そのときを待つ。
相手がこちらに気がついて、何らかの行動を起こすまで。
ひたり、と足音が止まる。間を置かずに聞こえてくるのは浮遊の術を唱える声。思ったよりもその声は幼く、甲高い少女のものだった。
――? こっちに気づいてない? いや、待て、それ以前にこの声って……
不意に、術が完成するより前に詠唱が途切れた。しばし何か戸惑うような間があって、再び響く詠唱の声。
だがしかし。
――おい、待たんかい。
「ち、ちょっとあんたその呪文は待……ッ!!」
「我呼ぶ、駁すは荒野生む猛き怨恨、落ちよ、バルドフォルン!」
どがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!!!
……止める間もなく打ち出された火炎爆発呪文はものの見事に門と屋敷の壁とを豪快に吹き飛ばしたのだった。
爆風が収まりつつある中、彼女は大分伸びたブラウンの髪を撫で付けながら憂いた息を吐き出した。
ばさりっ、と手入れのいい髪が風に棚引いて揺れ、落ちる。
ふと、彼女は雲ひとつ無い今日の空を仰ぎ見て、
「はー、すっきりしたー。やっぱり何かありそうだったら強行突破がストレス溜まんなくていいわねーv」
――……って、いうか。
「やっぱりあんたかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
づどむっ
怒り任せに放ったカノンの飛び蹴りは鮮やかな直線と共に門を吹き飛ばした張本人――魔道師ルナ=ディスナーの頭へと突き刺さった。
←1へ
「何であいつらがこんなところにいんのよ!」
「俺に聞いても知るか!!」
彼らは今、追われていた。人出の少なくないストリートを全速力で駆けていく。一流の剣士としての脚力を持つ彼女たちに追いすがるのは、暗殺者でも盗賊一味でもなく……
「ちょっと待ってレンー!! 何で逃げるのーーーッ!!」
「こらぁぁぁッ、カノン!! お前ら、疚しい気持ちが無いんだったら止まれぇぇぇぇぇッ!!」
……世界最大の害悪だった。
Death Player Hunterカノン
―Prologue―
リゾートアイランド―――クオノリア・シーサイド。
ロイセイン大陸の中でも屈指のリゾート地であり、避暑地としても名高い観光都市の一つである。大陸の端に位置するクオノリアから、定期的に運航される遊覧船で約十分の場所にシーサイドと称されたその開拓島は浮かんでいた。
基本的には高級ホテルと領主や商人の別荘が建ち並ぶ観光地。相場がやや高いのが難点だが、仕事続きであった傭兵あがりの旅人が癒しを求めてやってくるのもこの島なのである。
「はぁぁぁ~~~、やっぱり海はいいわね~~~っ! スカッとして何も考えなくていい気分っ」
この、日頃縁の無い場所にカノンとレンがやって来たのも、度重なる仕事でいささか気分が滅入っていたからだった。
感情の起伏が激しいカノンは勿論、普段、終始涼しい顔を崩さないレンもまた。 仕事慣れしているとはいえ、休暇が欲しいときもある。お互いの顔色を悟り、骨休めをしよう、という提案でカノンから出たのがクオノリア行きの話だった。
世渡りは上手いが他人嫌いな面のあるレンは観光客のごった返す都市行きに、些か渋い表情をしたが、
「まあ、人生で一度くらいいけ好かない場所に行ってみるのも社会勉強じゃない」
と、やけに嬉しそうに話すカノンの押しの強い一言に、とうとう首を縦に振ったのだった。
「……いけ好かない場所を選ぶ時点で休暇ではないような気もするが」
「あはは、別に観光都市が好きってわけでも、人込みが好きなわけでもないけどさ。
一度は来てみたいところってあるじゃない」
遊覧船から降りるなり、やたら軽い足取りで前を歩くカノンは、そのままスキップでもしそうな勢いである。
だがしかし。
このときは数十秒後にそのスキップが全速力に変わろうとは、予測すら出来なかったわけで。
観光の前に渇いた喉でも潤そうと、何気なく決めた一軒のドリンクショップがまさか、この休暇を台無しにする発端となろうとは思ってすらいなかったわけで。
気分もはしゃいでいたカノンは、その運命の店へ通じる短い階段を上り、ドアを引いた。
その瞬間、彼女の背中が凍りつく。
「あ、あんた! カノンっ!?」
「何っ!? マジかっ!?」
「―――っ!」
ドアベルが鳴るなり、カウンター席にかけていた男女が振り返った。彼らは即座に椅子を倒して立ち上がる。
片や、青の混ざる艶やかな黒髪をポニーテールに結い上げて、素晴らしく整ったプロポーションを見せ付けるように露出した派手な女。
片や、長身にややがっしりした体格を、軽装戦士の身なりで包み、ブラウンの髪を短く刈った男。
互いに知った顔だった。
「あ、あんたっ、シリアぁっ!? アルティオまで……!! 逃げるわよ、レンっ!!
って、もういなッ!? 早ッ!」
「あーん、何で逃げるのレーンっ!」
「お前ら待てっ! 逃げるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょ、レン、一人で逃げないでよッ!!」
……そんな経緯で壮絶な鬼ごっこが展開されたわけである。
それでどうなったかというと――
「レーンっ! こんなところで会うなんて、やっぱり私と運命の絆で……!」
「腐れ。廃れろ、切れてしまえ、そんなもの」
「ふっ……また俺の前に現れてくれるとは、運命の女神は余程俺を好いてくれているらしい。
カノン、ようやく俺の求婚に……」
「答えるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 失せろ、消えてしまえ、そんなヤクザな神っ!!」
常識というものの通じない、究極的な馬鹿の前には、一流戦士の体力も何の意味も為さないらしい。理不尽な怒りにカノンの肩が震える。
――まったく、何年経っても何の進歩もないわね、こいつらぁぁぁ~~~っ!
本気で理不尽だ。
休暇を取りに来たと言うのに、この段々と蓄積されていく重い重い疲労感は何なのだろう。
やや諦め気味に溜め息を吐いて、カノンはどんよりとした目で彼らを見た。
「ったく、何であんたたちがこんなところにいるのよ……せっかくのバカンスが台無しじゃない」
「お黙りなさいっ! この私の目の届かないところで、私のレンと二人っきりでバカンスを楽しもう、なんて大罪、許すわけがないでしょう!」
「大罪て。おい」
シリア=アレンタイル。
思い込みの激しすぎるレンの自称『運命の恋人』であり、基本的に彼女の頭の中にはそれしかないらしい。その隣では相棒というか、同類類哀れむというか。ともかく馬鹿がもう一匹吠えている。
「やい、レンっ! てめー、他人の女を誘惑なんて、なんつーセコイ真似しやがんだっ!?」
「どこにも誘惑した覚えはない。付いて来たのはそっちが最初だろう」
「いーやっ! どうせ最初に甘言をひけらかし、カノンをそそのかしたに違いないっ!
俺にはわかるっ! 真実と、お前の悪行がっ!」
「……」
早速噛み付かれている彼もまた、諦めてただ息を吐いた。が、額にはしっかり血管が浮いている。
アルティオ=バーガックス。可愛い女の子が三度の飯より好きな色モノ軟派男であり、何の因果かカノンはこの男に気に入られてしまっているらしい。彼女にはまったくその気はないのだが。
その馬鹿二人がダブルで襲ってきた日には、人生嫌になるのに十分である。
カノンはずきずきと痛み出す頭を抱えながら、改めて息を吐いた。
少しは体温を冷やそうと、ジュースを一口含んだ瞬間、
ぞわわっ……!
「――!」
「どうした?」
「い、いや……今、何かさらに嫌な予感が……。い、いや、まさかこれ以上の不幸は」
「とにかくカノンっ! 私に黙ってレンと二人旅なんて絶対に許さないわっ! 狩人であった頃はまあ、多少の譲歩はしていたけれど、そういつまでもあなたの天下は続かなくってよ!」
「……誰も天下取ってないっつーの……」
店の中、ということもものともせず、立ち上がって思い切り宣言する彼女。風貌、格好でただでさえ目立っているのに、その大声はさらに他の客の注目を浴び、『姉ちゃんいいぞー!』、『脱げー!』などの下劣な野次が上がっている。
それをまったく気にしないもう一人が、根拠もなく得意げな表情で言う。
「まあ早い話が、これ以上、お前らを二人っきりで好き勝手させておくわけにいかねーから、俺たちもくっついてってやろうってこった。よろしくな」
「心の底からヤダ」
「勝手によろしくするな」
「ふっ、まあ照れるな」
「一回死ね、お前」
大してなびきもしないくせに髪を掻き揚げるアルティオに、きっぱりと言い捨てる。
消化に悪い。今、飲んでいる杏のジュースさえ、胃がフル稼動で働いてやっと消化できるほどだ。五臓六腑、すべてが機能低下しているのかもしれない。
「で、まずは現状把握なわけだけれど……」
「は? 現状把握?」
「とぼけるんじゃないわ、カノン。
あなたたち、この四年間、何かただならぬやましい間違いを犯したなんてことはないわよね?」
ぶっ!!
あまりといえばあまりにあからさまな問いかけに、カノンがジュースを吹き出した。
「げほっ! けほっ、かはっ!!」
「きったないわねー……」
「げほっ……誰のせいだと、けほっ、思ってんのよ! ったく、何を言い出すかと思えば……
ンな馬鹿なことあるわけ……」
怒鳴りかけたカノンの言葉が、唐突に切れた。
ふと。
言いかけた瞬間に、ある光景が頭を掠める。
さほど昔のことではない。第二政団を打ち倒した、その直後――
「……わけないでしょっ!!」
「ちょっと、今の間は何なのよ!? っていうか鼻の頭赤いわよ!!」
「レンっ! てめー、一体何しやがった!?」
「何かした覚えはない」
「嘘つけっ! 正直に話せば多少の慈悲はあるぞっ!」
「貴様はどこの裁判官だ」
「あーもううるさいうるさいっ……!」
「……あのー、失礼ですが…」
「何っ!?」
カノンは怒り任せに勢いで振り向いた。が、それをすぐに後悔する。
振り返った視線の先にいた男は、びくりっ、と肩を震わせて、そのまま小さくふるふる震え始めたのだ。心なしか少々、涙目である。
――……あたし、そんなに怖い顔してたか?
自問しながら、少々落ち込んだ。
「ほらぁ、カノン、貴方のこっわい顔でこの人脅えてるじゃない」
「う、ごめん。
いや、別に貴方に怒ってたわけじゃなくて、えーと、とりあえず大丈夫?」
なるたけ優しげに呼びかけると、男は未だびくびくしながらも、構えた腕の間からこちらを覗き、
「あ、あの、ご、ごめんなさい、殴ったり蹴ったり生皮剥いだり内蔵抉り出したり塩擦り込んだりしませんか……?」
「……しないわよ、そんな趣味の悪い……。何もしないからとりあえず脅えないで。こっちが何か切なくなってくるから」
表情を引きつらせながら、なるたけ柔らかい声を出す。
被害妄想も甚だしい。まるでこっちが人食いみたいじゃないか。
―――まあ……世の中には何でも悪く捉える超悲観主義者ってのもいるもんだけど……
カノンは何十回目かになる溜め息を吐きながら、目の前の男を観察した。
まだぎりぎり青年と言っていい歳だろう。金の柔らかな髪を肩まで伸ばし、涙目の瞳は翡翠。驚くほど綺麗な男、ただ浮かべる表情がやたらおどおどした、気弱なものであるせいでその魅力が半減してしまっている気はする。白のスーツ、素材はシルク。いかにもどこかの御曹司、といった風体の青年だ。
さすがに表情を引きつらせながら、アルティオが腰を突いた青年の腕を引き起こす。
「あ、ありがとうございます……。ごめんなさい、びっくりしちゃって」
「びっくりしたのはこっちの方よ……」
「あ、あう、ご、ごめんなさい」
「いーから。座り込まなくていーから。で、あんた、一体何処の誰で何の用なの?」
「あ、はい、すいません」
金の髪を揺らして、ぺこぺこしながら青年は立ち上がり、勧めた席へと落ち着く。通りかかったウェイトレスに、ミックスジュースを注文してから向き直った。
「自己紹介が遅れました。僕はクレイヴと申します。フルネームはクレイヴ=ロン=ウィンダリアと……」
「何ですってっ!!」
金切り声と共にばだんっ、とテーブルが音を立てた。
懸念して御曹司に目を向けると、やはり彼はアルティオの大柄な背中にしがみついている。
―――……こいつにだけはさっきの台詞言われたくなかったな。
「シリア、何だか知らないけど、ちょっと落ち着け落ち着け。依頼人、脅えてるから」
「これのどこが落ち着いていられるって言うのっ!?
カノン、貴方知らないのっ? ウィンダリアと言えば、クオノリア有数のリゾートホテルよッ!
最新の設備とサービスを備えた最高級ホテルで、プールは勿論、VIPだけが使えるプライベートビーチも備えたまさにリゾートホテルの真骨頂っ!
最上階のスウィートルームは一年後まで予約一杯の今、超人気ホテルの名前よ!」
「詳しいわね、異様に」
「当然よ。レンとの明るい未来のために、新婚旅行の人気スポットは押さえておくべきでしょ?」
「……相当前から思ってたことだけどさ、あんた、実はほんっきで馬鹿でしょ」
「どういう意味よ?」
「いや、まあ、何となく。
でも、この人がそのホテルと関係あるとは限ら……なくもないか。めちゃめちゃいい格好してるし。
えっと、クレイヴさん?」
「は、はい……?」
カノンは完全にアルティオの背に隠れ、かたかたと小刻みに震える青年に呼びかける。だんだん頭と胃が同時に痛くなってきた。
「あー……とりあえず、とって食ったりしませんから、ちょっと出てきてくれます?」
「そ、そんなこと言って、出て行ったら首とかもいだりしません……?」
「しないしない。しませんから、ふつーに、平和的に会話とか交渉したいだけなんで、お願いします」
カノンの説得に、恐る恐る顔を出すクレイヴ。その手はきっちりアルティオの服の袖を掴んだままだった。
「えっとですね、貴方、この人が今言ったウィンダリアホテルの関係者か何かですよね?」
「は、はい……ぼ、僕、実はそこのオーナーで……」
「なんですっ」
ぱかんっ!
間抜けな音と共に、シリアが何か言いかけたままゆっくりと仰向けに倒れた。
それを見届けてから、レンは近くにいたウェイトレスから借りた(正しくは引っ手繰った)トレイを下ろして実につまらなそうに息を吐く。
「え、あ、あのっ……」
「ああ、すまなかった。返す。角を使っただけだが、一応、拭いて使ってくれ。念入りにな」
「レン、ナイスフォロー! これで邪魔者は消えたわね」
「ひでぇ……」
涼しい顔で事後処理を終えるレンに、カノンは極めて爽やかな笑顔でVサインを出した。
「さてと。クレイヴさん、マジな話に戻すけど。
あたしたちを見て、声をかけてきたってことは何か頼みたいことがあるってことよね?」
「は、はい、そうです……」
ミックスジュースで宥められて、ようやく平静を取り戻したクレイヴは大げさな深呼吸を一つした。
また脅えられても困るので、シリアは昏倒させたまま、店の椅子に縛り付けてある。店にとっては甚だ迷惑だろうが、そこはそれ、有名ホテルのオーナーの威光で大目に見てもらおう。
クレイヴは肩を下ろして、上目遣いにカノンを見上げると、
「えっと、皆さんは旅の方ですよね? クオノリア・シーサイドにも森があるのをご存知ですか?」
「島の奥まったところにあるやつよね? 船から見たけど」
「はい。セリエーヌ森林といいます。クオノリアで唯一、昼の光の届かない場所だと、地元では言われています。
大きな島ですからね、治安もあまりいいとは言えません。盗賊さんとかも出る物騒な場所です。
地元の人はあまり近寄りません。あ、あんなとこに行くなんて、か、考えただけでもう……!」
「あー、はいはい、どうせ行くことになるのは、あたしらなんだろうから無意味に脅えないよーに。
で、そこがどうかしたの?」
「えっと……そこがどう、ってことではなくてですね……」
少々言い澱む。ジュースで喉を潤してから、
こう言った。
「今現在、ここで起こっている事件の解決に協力して欲しいんです」
「俺に聞いても知るか!!」
彼らは今、追われていた。人出の少なくないストリートを全速力で駆けていく。一流の剣士としての脚力を持つ彼女たちに追いすがるのは、暗殺者でも盗賊一味でもなく……
「ちょっと待ってレンー!! 何で逃げるのーーーッ!!」
「こらぁぁぁッ、カノン!! お前ら、疚しい気持ちが無いんだったら止まれぇぇぇぇぇッ!!」
……世界最大の害悪だった。
Death Player Hunterカノン
―Prologue―
リゾートアイランド―――クオノリア・シーサイド。
ロイセイン大陸の中でも屈指のリゾート地であり、避暑地としても名高い観光都市の一つである。大陸の端に位置するクオノリアから、定期的に運航される遊覧船で約十分の場所にシーサイドと称されたその開拓島は浮かんでいた。
基本的には高級ホテルと領主や商人の別荘が建ち並ぶ観光地。相場がやや高いのが難点だが、仕事続きであった傭兵あがりの旅人が癒しを求めてやってくるのもこの島なのである。
「はぁぁぁ~~~、やっぱり海はいいわね~~~っ! スカッとして何も考えなくていい気分っ」
この、日頃縁の無い場所にカノンとレンがやって来たのも、度重なる仕事でいささか気分が滅入っていたからだった。
感情の起伏が激しいカノンは勿論、普段、終始涼しい顔を崩さないレンもまた。 仕事慣れしているとはいえ、休暇が欲しいときもある。お互いの顔色を悟り、骨休めをしよう、という提案でカノンから出たのがクオノリア行きの話だった。
世渡りは上手いが他人嫌いな面のあるレンは観光客のごった返す都市行きに、些か渋い表情をしたが、
「まあ、人生で一度くらいいけ好かない場所に行ってみるのも社会勉強じゃない」
と、やけに嬉しそうに話すカノンの押しの強い一言に、とうとう首を縦に振ったのだった。
「……いけ好かない場所を選ぶ時点で休暇ではないような気もするが」
「あはは、別に観光都市が好きってわけでも、人込みが好きなわけでもないけどさ。
一度は来てみたいところってあるじゃない」
遊覧船から降りるなり、やたら軽い足取りで前を歩くカノンは、そのままスキップでもしそうな勢いである。
だがしかし。
このときは数十秒後にそのスキップが全速力に変わろうとは、予測すら出来なかったわけで。
観光の前に渇いた喉でも潤そうと、何気なく決めた一軒のドリンクショップがまさか、この休暇を台無しにする発端となろうとは思ってすらいなかったわけで。
気分もはしゃいでいたカノンは、その運命の店へ通じる短い階段を上り、ドアを引いた。
その瞬間、彼女の背中が凍りつく。
「あ、あんた! カノンっ!?」
「何っ!? マジかっ!?」
「―――っ!」
ドアベルが鳴るなり、カウンター席にかけていた男女が振り返った。彼らは即座に椅子を倒して立ち上がる。
片や、青の混ざる艶やかな黒髪をポニーテールに結い上げて、素晴らしく整ったプロポーションを見せ付けるように露出した派手な女。
片や、長身にややがっしりした体格を、軽装戦士の身なりで包み、ブラウンの髪を短く刈った男。
互いに知った顔だった。
「あ、あんたっ、シリアぁっ!? アルティオまで……!! 逃げるわよ、レンっ!!
って、もういなッ!? 早ッ!」
「あーん、何で逃げるのレーンっ!」
「お前ら待てっ! 逃げるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょ、レン、一人で逃げないでよッ!!」
……そんな経緯で壮絶な鬼ごっこが展開されたわけである。
それでどうなったかというと――
「レーンっ! こんなところで会うなんて、やっぱり私と運命の絆で……!」
「腐れ。廃れろ、切れてしまえ、そんなもの」
「ふっ……また俺の前に現れてくれるとは、運命の女神は余程俺を好いてくれているらしい。
カノン、ようやく俺の求婚に……」
「答えるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 失せろ、消えてしまえ、そんなヤクザな神っ!!」
常識というものの通じない、究極的な馬鹿の前には、一流戦士の体力も何の意味も為さないらしい。理不尽な怒りにカノンの肩が震える。
――まったく、何年経っても何の進歩もないわね、こいつらぁぁぁ~~~っ!
本気で理不尽だ。
休暇を取りに来たと言うのに、この段々と蓄積されていく重い重い疲労感は何なのだろう。
やや諦め気味に溜め息を吐いて、カノンはどんよりとした目で彼らを見た。
「ったく、何であんたたちがこんなところにいるのよ……せっかくのバカンスが台無しじゃない」
「お黙りなさいっ! この私の目の届かないところで、私のレンと二人っきりでバカンスを楽しもう、なんて大罪、許すわけがないでしょう!」
「大罪て。おい」
シリア=アレンタイル。
思い込みの激しすぎるレンの自称『運命の恋人』であり、基本的に彼女の頭の中にはそれしかないらしい。その隣では相棒というか、同類類哀れむというか。ともかく馬鹿がもう一匹吠えている。
「やい、レンっ! てめー、他人の女を誘惑なんて、なんつーセコイ真似しやがんだっ!?」
「どこにも誘惑した覚えはない。付いて来たのはそっちが最初だろう」
「いーやっ! どうせ最初に甘言をひけらかし、カノンをそそのかしたに違いないっ!
俺にはわかるっ! 真実と、お前の悪行がっ!」
「……」
早速噛み付かれている彼もまた、諦めてただ息を吐いた。が、額にはしっかり血管が浮いている。
アルティオ=バーガックス。可愛い女の子が三度の飯より好きな色モノ軟派男であり、何の因果かカノンはこの男に気に入られてしまっているらしい。彼女にはまったくその気はないのだが。
その馬鹿二人がダブルで襲ってきた日には、人生嫌になるのに十分である。
カノンはずきずきと痛み出す頭を抱えながら、改めて息を吐いた。
少しは体温を冷やそうと、ジュースを一口含んだ瞬間、
ぞわわっ……!
「――!」
「どうした?」
「い、いや……今、何かさらに嫌な予感が……。い、いや、まさかこれ以上の不幸は」
「とにかくカノンっ! 私に黙ってレンと二人旅なんて絶対に許さないわっ! 狩人であった頃はまあ、多少の譲歩はしていたけれど、そういつまでもあなたの天下は続かなくってよ!」
「……誰も天下取ってないっつーの……」
店の中、ということもものともせず、立ち上がって思い切り宣言する彼女。風貌、格好でただでさえ目立っているのに、その大声はさらに他の客の注目を浴び、『姉ちゃんいいぞー!』、『脱げー!』などの下劣な野次が上がっている。
それをまったく気にしないもう一人が、根拠もなく得意げな表情で言う。
「まあ早い話が、これ以上、お前らを二人っきりで好き勝手させておくわけにいかねーから、俺たちもくっついてってやろうってこった。よろしくな」
「心の底からヤダ」
「勝手によろしくするな」
「ふっ、まあ照れるな」
「一回死ね、お前」
大してなびきもしないくせに髪を掻き揚げるアルティオに、きっぱりと言い捨てる。
消化に悪い。今、飲んでいる杏のジュースさえ、胃がフル稼動で働いてやっと消化できるほどだ。五臓六腑、すべてが機能低下しているのかもしれない。
「で、まずは現状把握なわけだけれど……」
「は? 現状把握?」
「とぼけるんじゃないわ、カノン。
あなたたち、この四年間、何かただならぬやましい間違いを犯したなんてことはないわよね?」
ぶっ!!
あまりといえばあまりにあからさまな問いかけに、カノンがジュースを吹き出した。
「げほっ! けほっ、かはっ!!」
「きったないわねー……」
「げほっ……誰のせいだと、けほっ、思ってんのよ! ったく、何を言い出すかと思えば……
ンな馬鹿なことあるわけ……」
怒鳴りかけたカノンの言葉が、唐突に切れた。
ふと。
言いかけた瞬間に、ある光景が頭を掠める。
さほど昔のことではない。第二政団を打ち倒した、その直後――
「……わけないでしょっ!!」
「ちょっと、今の間は何なのよ!? っていうか鼻の頭赤いわよ!!」
「レンっ! てめー、一体何しやがった!?」
「何かした覚えはない」
「嘘つけっ! 正直に話せば多少の慈悲はあるぞっ!」
「貴様はどこの裁判官だ」
「あーもううるさいうるさいっ……!」
「……あのー、失礼ですが…」
「何っ!?」
カノンは怒り任せに勢いで振り向いた。が、それをすぐに後悔する。
振り返った視線の先にいた男は、びくりっ、と肩を震わせて、そのまま小さくふるふる震え始めたのだ。心なしか少々、涙目である。
――……あたし、そんなに怖い顔してたか?
自問しながら、少々落ち込んだ。
「ほらぁ、カノン、貴方のこっわい顔でこの人脅えてるじゃない」
「う、ごめん。
いや、別に貴方に怒ってたわけじゃなくて、えーと、とりあえず大丈夫?」
なるたけ優しげに呼びかけると、男は未だびくびくしながらも、構えた腕の間からこちらを覗き、
「あ、あの、ご、ごめんなさい、殴ったり蹴ったり生皮剥いだり内蔵抉り出したり塩擦り込んだりしませんか……?」
「……しないわよ、そんな趣味の悪い……。何もしないからとりあえず脅えないで。こっちが何か切なくなってくるから」
表情を引きつらせながら、なるたけ柔らかい声を出す。
被害妄想も甚だしい。まるでこっちが人食いみたいじゃないか。
―――まあ……世の中には何でも悪く捉える超悲観主義者ってのもいるもんだけど……
カノンは何十回目かになる溜め息を吐きながら、目の前の男を観察した。
まだぎりぎり青年と言っていい歳だろう。金の柔らかな髪を肩まで伸ばし、涙目の瞳は翡翠。驚くほど綺麗な男、ただ浮かべる表情がやたらおどおどした、気弱なものであるせいでその魅力が半減してしまっている気はする。白のスーツ、素材はシルク。いかにもどこかの御曹司、といった風体の青年だ。
さすがに表情を引きつらせながら、アルティオが腰を突いた青年の腕を引き起こす。
「あ、ありがとうございます……。ごめんなさい、びっくりしちゃって」
「びっくりしたのはこっちの方よ……」
「あ、あう、ご、ごめんなさい」
「いーから。座り込まなくていーから。で、あんた、一体何処の誰で何の用なの?」
「あ、はい、すいません」
金の髪を揺らして、ぺこぺこしながら青年は立ち上がり、勧めた席へと落ち着く。通りかかったウェイトレスに、ミックスジュースを注文してから向き直った。
「自己紹介が遅れました。僕はクレイヴと申します。フルネームはクレイヴ=ロン=ウィンダリアと……」
「何ですってっ!!」
金切り声と共にばだんっ、とテーブルが音を立てた。
懸念して御曹司に目を向けると、やはり彼はアルティオの大柄な背中にしがみついている。
―――……こいつにだけはさっきの台詞言われたくなかったな。
「シリア、何だか知らないけど、ちょっと落ち着け落ち着け。依頼人、脅えてるから」
「これのどこが落ち着いていられるって言うのっ!?
カノン、貴方知らないのっ? ウィンダリアと言えば、クオノリア有数のリゾートホテルよッ!
最新の設備とサービスを備えた最高級ホテルで、プールは勿論、VIPだけが使えるプライベートビーチも備えたまさにリゾートホテルの真骨頂っ!
最上階のスウィートルームは一年後まで予約一杯の今、超人気ホテルの名前よ!」
「詳しいわね、異様に」
「当然よ。レンとの明るい未来のために、新婚旅行の人気スポットは押さえておくべきでしょ?」
「……相当前から思ってたことだけどさ、あんた、実はほんっきで馬鹿でしょ」
「どういう意味よ?」
「いや、まあ、何となく。
でも、この人がそのホテルと関係あるとは限ら……なくもないか。めちゃめちゃいい格好してるし。
えっと、クレイヴさん?」
「は、はい……?」
カノンは完全にアルティオの背に隠れ、かたかたと小刻みに震える青年に呼びかける。だんだん頭と胃が同時に痛くなってきた。
「あー……とりあえず、とって食ったりしませんから、ちょっと出てきてくれます?」
「そ、そんなこと言って、出て行ったら首とかもいだりしません……?」
「しないしない。しませんから、ふつーに、平和的に会話とか交渉したいだけなんで、お願いします」
カノンの説得に、恐る恐る顔を出すクレイヴ。その手はきっちりアルティオの服の袖を掴んだままだった。
「えっとですね、貴方、この人が今言ったウィンダリアホテルの関係者か何かですよね?」
「は、はい……ぼ、僕、実はそこのオーナーで……」
「なんですっ」
ぱかんっ!
間抜けな音と共に、シリアが何か言いかけたままゆっくりと仰向けに倒れた。
それを見届けてから、レンは近くにいたウェイトレスから借りた(正しくは引っ手繰った)トレイを下ろして実につまらなそうに息を吐く。
「え、あ、あのっ……」
「ああ、すまなかった。返す。角を使っただけだが、一応、拭いて使ってくれ。念入りにな」
「レン、ナイスフォロー! これで邪魔者は消えたわね」
「ひでぇ……」
涼しい顔で事後処理を終えるレンに、カノンは極めて爽やかな笑顔でVサインを出した。
「さてと。クレイヴさん、マジな話に戻すけど。
あたしたちを見て、声をかけてきたってことは何か頼みたいことがあるってことよね?」
「は、はい、そうです……」
ミックスジュースで宥められて、ようやく平静を取り戻したクレイヴは大げさな深呼吸を一つした。
また脅えられても困るので、シリアは昏倒させたまま、店の椅子に縛り付けてある。店にとっては甚だ迷惑だろうが、そこはそれ、有名ホテルのオーナーの威光で大目に見てもらおう。
クレイヴは肩を下ろして、上目遣いにカノンを見上げると、
「えっと、皆さんは旅の方ですよね? クオノリア・シーサイドにも森があるのをご存知ですか?」
「島の奥まったところにあるやつよね? 船から見たけど」
「はい。セリエーヌ森林といいます。クオノリアで唯一、昼の光の届かない場所だと、地元では言われています。
大きな島ですからね、治安もあまりいいとは言えません。盗賊さんとかも出る物騒な場所です。
地元の人はあまり近寄りません。あ、あんなとこに行くなんて、か、考えただけでもう……!」
「あー、はいはい、どうせ行くことになるのは、あたしらなんだろうから無意味に脅えないよーに。
で、そこがどうかしたの?」
「えっと……そこがどう、ってことではなくてですね……」
少々言い澱む。ジュースで喉を潤してから、
こう言った。
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★ プロフィール
HN:
梧香月
HP:
性別:
女性
趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
★ 最新記事
(08/16)
(03/23)
(03/22)
(03/19)
(03/11)
★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
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THE Four:ゼルゼイルの旅路
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カノン-former-
THE First:降魔への序曲
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
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THE Four:ゼルゼイルの旅路
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