[1]
[2]
ノックの音が響いたのはカノンが淹れて貰った温めのお茶を一杯飲み干したときだった。
カノンが答えるより先に、レンがあくまで端的に誰何の声をかける。くぐもった『私です』という声が返って来た。少々掠れた、年の功を感じさせる男性の声。
カノンには聞き覚えがなかったが、レンには心当たりがあったらしい。ゆったり立ち上がるとドアを開けに行く。
開いたドアの先に立っていたのは一人の初老の男性だった。纏った白衣から素性が知れる。
白いものが混じり始めた黒い髪と、穏やかに細められた青い瞳は、こなれた内の人格を映しているようで好感を抱く。
「どうも、体のお具合はいかがですか?」
「えっと……大分、いいです」
朝方から顔を合わせた記憶があるのが看護士のステイシアだけだったので、少々戸惑いながらもそう頷いた。
彼はそれを汲み取ったのか、席を空けるレンに対して軽く頭を下げると部屋の敷居を跨ぐ。
その後ろから、救急用の箱と機器とタオルが乗ったワゴンを押して入って来たのはステイシアだった。
彼は空いた椅子へ腰掛けると、『身体を起こせますか?』と問いて来た。
左腕を軸にして何とか身体に力を入れる。わずかに浮いた背中にレンが手を差し入れてくれた。支えてもらいながらもベッドの上に腰掛ける形まで身体を持ち上げる。
「何とか……」
「結構です。どこか特別に痛む箇所はありますか?」
「いえ、特には」
「ふむ、少々失礼しますね」
言って彼はカノンの右腕を持ち上げた。ちり、とした細やかな痛みが一瞬走る。だがそれだけだ。左腕ほど自由には動かないが、気をつければ剣を握る程度は出来る。振り回せるかは自信がないが。
―――そういえば、肩ごと砕かれたんだっけ……
右の腕の損傷状況を思い出す。自然と顔を顰めてしまった。
「痛みますか?」
「えっと、ほんの少し。大した痛みじゃないですけど」
「無理は禁物です。誇れるほど大きくはないですが、一応、ここも診療所ですからね。正直に言って下さいね」
言って男はふわり、と笑った。
信用に足る、と感じさせる笑い方。あくまで柔らかで、安心感を与える微笑だ。
それから問診が始まった。痛む箇所から、どこが動かせてどこが動かせないか、健康状態はどうか、微熱が続いていると答えると彼はおそらくカルテだろう、何かの書類に走り書きでペンを走らせていた。
最後に感染症、もしくは誘発的に病にかかっていないか、舌と口腔をチェックして終わり。
動かせない体の部位に、彼は手を翳すとぼそぼそと小声で呪を口に乗せる。虹色をした粒子が淡い光を放ち、カノンの身体に降り注いだ。治癒術だ。心持ち、体が軽くなったような気がした。
「……女性ですから心配していましたが……。
基礎体力はあるようで安心しました。これから普通に治療が続けられます」
ふと、治癒術の大部分は人間の自己回復能力を促すことによって、人体を回復させる。それのことだろう。
例外は朝方、ステイシアが言っていたリザレクションだが、これは結構な高等魔道で術者に相当な負担をかけて他人を治癒する。
大怪我を負ったときにはリザレクションでなくては間に合わない。前者では治癒を受ける側の体力が著しく削られるからだ。
ぱたん、と彼は厚いカルテを閉じた。にこり、と微笑むと横になって構いませんよ、と言った。
「申し遅れました。私はフェルス=ラントと申します。診療所の皆さんからはフェルスと呼ばれております」
「あ、どうも……えっと、カノン=ティルザードです。治療してくださってありがとうございました」
「いえいえ、それが医者としての努めですから。彼が血だらけの貴方を抱えて運び込んで来たときはさすがにびっくりしましたが」
苦笑してフェルスはちらり、とレンの方を見た。彼は小さく息を吐いただけで表情を変えない。だが、フェルスは特に気分を害した風もなく、カルテを持って立ち上がる。
「お急ぎの旅でなければゆっくり養生なさるのをお薦めします。生死を彷徨う……とまでは行きませんでしたが、衰弱なさっていたのは確かです。無理はなさらない方がいい」
「あの、元のように動けるようになるまでどれくらいかかります?」
この分ではまた何時狙われるか解ったものではない。今のカノンにとって重要なのは、何時、元のように戦えるようになるのか、ということだった。
ろくに手足も動かせなければ自分の身を守ることさえ出来やしない。
その問いに人の良い顔をした医師は困ったように苦笑した。自分が言った通りにゆっくりと休む気はない、と言葉の端に感じ取ったらしい。
戸惑うように宙を見上げた後、曖昧に笑って、
「一週間、と申し上げたいところですがそれでは納得はしてもらえそうにありませんね。
貴方の体力とリハビリの頑張り次第では、それより早く回復出来るでしょうが……。
貴方も年頃のお嬢さんですから、それははっきり言ってお薦め出来ません。若いうちから身体に負担をかけるのは良くないですよ。傷が残るというのも嫌でしょう? 丁寧な治療をお薦めします」
「フェルスさん。仰る意味は良く解ります。でも、今は時間が惜しいんです」
「カノン」
医師が抗議を上げるより先に、彼女の名前を呼んだのはレンだった。浮かんだ表情は、多少の苛立ちを含んでいた。カノンは肩を竦めるが、当たり前のようにその表情が晴れることはない。
だが譲れることと譲れないことがある。
カノンは自分の荷に目を止めた。中に入っている財産を、へそくりを含めて計算、算出する。
「……リザレクション治療を後二回。どうにかお願いできませんか?」
無理なことを言っているのはわかっていた。あれは術者に相当な負担がかかる。
だからたとえ医師としての立場にあっても、フェルスが憂鬱な溜め息を吐いたところで誰も責められはしない。
初老の医師は頬に手を当てて悩み、空を見据えて逡巡し、やがてこちらに向き直ると一本指を立てた。
「……一回です。それ以上はご用立て出来ません。
知っての通り、この診療所は小さくともこの町唯一の医療機関です。わかりますね? 患者さんは貴方だけではないのですよ」
「……すいません。よろしくお願いします」
諭すように言ったフェルスに深く頭を下げる。彼は仕方ない、とでも言うように軽く首を振った。
しかし、次にカノンが面を上げたときには元の信頼に足る笑顔を浮かべ、
「患者さんのご要望にお答えするのが医師の仕事です。お気になさらないでください。
では、私は他にも問診がありますので失礼します。
ステイシア」
「あ、はい!」
ワゴンを整理していたステイシアがぴし、と背を伸ばす。
「カノンさんの包帯を取り替えてあげてください。レンさん、貴方は一度退室をお願いします」
「……解りました」
「昨日からまともに寝ていらっしゃらないでしょう。カノンさんにはステイシアを付けさせますから、少しお休みになった方がいい。
狭い場所ですが、仮眠室くらいはあります。毛布もお貸ししますよ」
「レン、休んで来なさいよ。あたしは大丈夫だし」
「……そうだな。そうさせてもらう」
多少、渋るかと思ったが案外彼は素直に頷いた。さすがに眠気が限界を超えたのか、いざというとき身体が動かないことを懸念したのか。
カノンの頭を二回、軽く叩いて医師と共にドアへと向かう。
「どうぞ、ご案内しますよ。寛いで来てください」
「……礼を言います」
そんな形式的な会話を交わして、彼らは部屋を出て行く。残されたステイシアはいそいそと、真新しい包帯を救急箱から取り出し始めた。
くるくると巻き取られていく包帯を見ていると、あの黒衣の少年を思い出す。
全身に包帯を纏ったあの姿。何故、あんな姿を? 理由は解らないが、少しだけ痛々しく、哀れに感じた。
「どうかしましたか? カノンさん」
「いや、別に……」
視線を感じたのか、ステイシアがきょとん、と首を傾げる。ふるふると首を振って誤魔化すと、彼女は包帯を片手にベッドに寄って来た。
「カノンさん、今朝はありがとうございました」
言われて首を傾げる。
……礼を言われるようなことをした覚えはないのだけど。
「アルティオさんと二人に馴れるようにしてくださったでしょう?」
―――ああ、そういえば。
けれど、あれはどちらかというとステイシアの耳に入らないようルナと情報交換をしたかっただけなのだが。
まあ、それを言うわけにもいくまい。
「ああ、いいのよそんなこと。何か疚しいことされなかった? 平気?」
「平気ですよぅ。紳士的にリードしてくださいましたよ」
語尾にハートマークでもついていそうな勢いで、本当に嬉しそうに言う。あれでも自称紳士だ。そうそう馬鹿なことはしないか。
今朝方の短いデートを思い出したのか、やや舞い上がっているステイシアに苦笑する。
「けどねぇ、あれで頭イカレてるところあるから。警戒は怠らないようにね。
油断するとどこぞに拉致されそうになるから」
「そんなことありませんよ。とってもいい人です」
にっこりと笑うステイシアに、カノンはやや複雑だ。頷いてしまっていいものかどうか。
……まあ、アルティオだって下心で彼女に付き合うことにしたのではない(と思いたい)のだろうから、信じてやるとしよう。
昨日の夜も思った通り、あれはあれでそう駄目な人間というわけでもない。
「まあ、あたしたちの中では一番頑丈な身体してるから。スープレックスでも、STFでも自由にかましてやって」
「しませんよ~……、カノンさんの意地悪」
ぷぅ、と剥れる姿は確かに可愛い。看護士なんて少々特殊な職業に付いているからには、大人びたところがあるのかと思っていたが、彼女はそうでもない。
極普通の、年頃の少女だった。
「カノンさん、聞いてもいいですか?」
「何?」
「その、カノンさんて……」
えっと、とやや尻込みしながらおずおずと声を発する。
カノンはそちらの方面に鋭いとはけして言えなかったが、恋する乙女が何を問いたいかくらいは理解している。
「別にアルティオのことは何とも思っちゃいないわよ」
「そうなんですか?」
「まあねぇ……悪い奴じゃないとは解ってるんだけどね。そんな気にはならない、っていうか。
剣の腕は悪くないし、どちらかと言えばフェミニストだし、もうちょっと周りを見てくれれば。幼馴染としてはいて損はないんだけど」
新たにステイシアが継いでくれたお茶を受け取りながら言う。
普段、短所ばかりが目に付くだけで、アルティオはそうそう悪い人間ではない。少なくとも、どこかの誰かよりずっと真っ直ぐな性格をしている。
……その真っ直ぐさがイノシシ並みに暴走してくれることを除けば、だが。
「じゃあ、カノンさんてやっぱりレンさんのことが好きなんですか?」
ぶッ!!!
……人がものを飲んでいるときにそういうことを言わないで欲しかった。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
―――大丈夫じゃないわよッ!
お茶が呼吸器官に入っていなければ、大声で怒鳴ってやりたかった。咳き込むカノンの背を慌てて摩るステイシア。
咳き込みすぎて喉と身体が痛い。
やがて深呼吸で復活したカノンがまずしたことは、小鳥のように首を傾げるステイシアを睨みつけることだった。
「あのね、どこをどうすればそんな結論に……」
「だって……」
ステイシアは言葉を濁らせてカノンの胸元を差す。そこには言うまでもなく、先程修復されたばかりのネックレスがゆらゆらと揺れている。
「いやッ、これは別に、さっき直してもらったばっかりで……
ただ今年の誕生日に貰ったから、そのやっぱり付けないわけにいかなくって……ッ」
「そうですかぁ……なるほどねぇ……」
ルナとそっくりなにたにた笑いでこちらを見上げて来る。居心地が悪いったらない。
ステイシアはふと、何かを思いついたらしい不自然な笑顔で、
「カノンさん、今年お幾つですか?」
「じ、十九だけど……」
正直に答えると、彼女ははぁ、と溜め息を吐いて、「いーなー」だとか「羨ましいなぁ」とか、よく解らない科白を並べ始める。
何だと言うんだ、ルナといい彼女といい。
段々、腹が立って来た。面白くない。ただの誕生日プレゼントを身につけているのが何だと言うのだろう。
剥れているとそれに気づいたらしいステイシアが慌てて手を振った。
「あはは、そうだ。包帯替えなくちゃですよね」
上手く話を逸らした。
彼女は馴れた手つきでカノンの着衣を緩め、腕や肩に巻かれた包帯を外し始める。するすると、解かれていく包帯。
カノンは少しだけ感嘆する。包帯を取って巻く、それだけの作業だがこれが素人にはなかなかうまく行かなかったりするのだ。彼女は看護士なのだから、これくらいは当たり前なのかもしれないが。
「……慣れてるのね」
「まあ……ここにご厄介になるようになって一年、経ちますから。といってもこれくらいしか出来ないんですけどね、私って」
「ご厄介って、あんたこの診療所に住んでるの? 家は?」
「……」
……聞いてはならないことだったらしい。ステイシアはくす、と苦笑したきり、黙った。
その空気が読めないカノンではなかった。罰が悪そうに肩を竦め、彼女の言葉を待つ。話題を逸らすなら、それに乗ってあげよう。
しかし、彼女はやや自嘲気味に笑うと、
「カノンさん、あの」
「ん?」
「カノンさんはそれくらい旅を続けているんですか?」
「んと……そうね、五、六年はしてるかな」
「じゃあ、あの、その間に、」
「記憶喪失の人、なんて人にあったことありませんか?」
―――え?
耳慣れない言葉を聞いた気がする。顔を上げるとステイシアが真剣な眼差しをこちらに向けていた。冗談や酔狂で言った科白ではない、ということだ。
カノンは逡巡する。どう答えるのが正解なのか。否、正解など、ただの一人も持ち得ない。
「……残念だけど、ね。これでも人の三倍近い濃い半生送って来た自信はあるけど……。
ないわ。前に貴方に会ったことも、ない」
「そう、ですか……」
残念そうな、しかし予測していた通りの返答だったのか、すんなりと彼女は頷いた。
「……ステイシアさん。貴方、まさか……」
「えへへ、お恥ずかしながら。ごめんなさい、患者さんに言うようなことじゃなかったですよね。
でも、カノンさんたち、色んなところを旅されているようでしたし、もしかしたら、って思って」
華やかに、少しだけ寂しそうに笑う。
「一年前、町で行き倒れていたところをフェルス所長が見つけて保護してくださった……そうです。気がついたのはこの診療所だったので、詳しくはわからないんですけど……。
それから所長にずっとお世話になってます」
「……じゃあ、貴方」
「ええ、覚えてないんです。一年以上前のことは。何にも」
ステイシアはいっそ楽しげに笑って見せた。「笑っちゃいますよね」、なんてちっとも笑えないことを言いながら。
「何か、手がかりみたいなものはなかったの?」
「うーん、手がかりというか……」
首を傾げて彼女は右手の甲を持ち上げて見せてきた。薬指に、赤い石が光る。
古めかしいデザインの金の指輪だった。いや、デザインこそアンティーク調だが、それなりに目の肥えたカノンには素材自体はそうそう古い時代のものには見えなかった。
何にしろ、年頃の、今時の少女が付けるにはやや似つかわしくない代物だ。
「発見されたとき、付けていたらしいんです。もっとも、あったのはこれとステイシア、って名前だけなんですけど」
「そう、なの……。でも、結構特殊なデザインの指輪に見えるけど」
「ですよね。そう思って道具屋のご主人にもお聞きしたんですけど、こんな指輪は見たことないって。
手詰まりな状態です」
「……」
苦笑して語る彼女に、カノンは顔を顰めた。それを見て取ったステイシアは慌てて両手をぱたぱたと振る。
「あ、でもでも、そんな悲観してないんですよ?
フェルス所長は優しいし、ここでの仕事も見つかったし……それに見るものみんな、新しく感じますし! 得したな、って思うこともあるくらいでッ!
少なくても不自由してる、ってわけじゃないです。でも、」
ふと、言葉が切れた。
右手甲に視線を落とし、填めた指輪の輪郭を細く、白い指がなぞる。
「もしかしたら……
前にも、大切な人たちが、いたのかもしれないって思って……
だとしたら、思い出さなくちゃいけないのかなぁ……って、それだけです」
「ステイシアさん……」
「……あはは、湿っぽい話しちゃいましたね! 忘れてください。
さて、早く包帯取り替えちゃいましょう!」
俯いて呟いたのは一瞬で、面を上げた彼女はもういつもの通り、華やかな笑顔だった。
いそいそと立ち上がって、カノンの身体の包帯を巻き取り、取り替えていく。
大人しくそれに身体を預けながら、カノンは天井を見上げる。
―――記憶喪失、か……そんな人もいるのよね。
今まで色々な人間を見て来た。様々な事情を抱える人間を見て来たから、今さらそんなことで驚きはしないけれど。
ときどき思うことがある。自分だったら。
そのような渦中に、自分が置かれたらどうなのだろうと考えるときがある。
狩人だった頃は、しなければならないことは一つだった。どんな状況だろうとも、どんな相手だろうとも、死術を狩り、滅する。すべきことはそれ一つだった。だから迷うことはなかった。
しかし、もしも今、自分が彼ら特殊な事情を抱える者たちと同じ立場になったのなら、どうなのだろう。
例えば、
―――もし、今あたしが記憶喪失になったら……
今まで生きて来た半生が頭を過ぎる。在りすぎるほど、山々が連なる自らの半生。苦い想いは幾らでもあった、やるせないときも数多あった。それでもそれはカノンの人生なのだ。
今さらそれがなくなるなんて考えが及ばない。
でも、いっそ記憶がなくなったら、ゼロの人間なら、それはそれで楽なのだろうか。
それとも、
―――それでも、思い出そうとするのかな……
「はい、これで終了です」
ぱん、とステイシアが手を叩く。
気が付くと、身体はすべて真新しい包帯に覆われていた。
「ありがとう、ステイシアさん」
「もうステイシア、でいいですよぅ。カノンさん、私より年上なんですし。
じゃあ、私は先生のお手伝いがありますから失礼しますね」
帰り際にもう一度、お茶を注いで、ステイシアはワゴンごと踵を返す。そのままがらがらと部屋を出ようとしたが、何を想ったかひたり、と足を止めた。
天井を見上げ、顎に指を押し当てて考える素振りをする。何事か、カノンが声をかけようとしたちょうどそのとき、彼女はくるり、と反転してこちらを見た。
「カノンさん、ご存知でした?」
「何を?」
きょとん、とするカノンに、彼女はあのルナそっくりの意地悪な目をして、とんでもない置き土産を残していった。
「十九歳の誕生日に銀のリングを貰うと幸せになれる、っていう迷信があるんですよ。
それなりに有名なはずなんですけど、ご存知ないみたいでしたから」
「…………」
何を揶揄されているのか、理解するのにたっぷり十数秒を費やした。時間をかけてその言葉を噛み砕いたカノンが、音すら立てそうな勢いで赤面するのを見て取ると、ステイシアは満足そうにドアを閉めた。
その数瞬後に部屋の中からよく解らない呻き声と、がたがたんッ! という落下音が響いたのは言うまでもない。
「で、何で私があんたの酒盛りに付き合わなくちゃいけないのよ?」
「まあ、いいじゃない。たまには女同士の語りにも付き合いなさいよ」
あからさまに不機嫌な目と口調で睨んでくるシリアにぱたぱたと手を振りながら、ルナはグラスの中の果実酒を飲み干した。
照明も疎かな酒場。普段、五人でいるときはこんな場所には立ち寄らない。カノンと二人で話をするときは、大抵どこかのカフェかもしくは宿屋か。
大体、こんないかにも柄の悪そうな連中がたむろしそうなところに彼女を連れ出そうものなら、相棒と称するあの保護者に何を言われるか解ったものじゃない。
シリアは灰に塗れたカウンターの木目を蹴りつけながら、透明な、ルナよりも度の強いアルコールを喉へと流し込む。
「荒れてるわね」
「誰のせいだと思っているのかしら?」
なおも睨みつけるシリアに、ルナはふ、と笑みを浮かべる。何時になく、憂いを含んだ大人びた笑みだ。
それに毒気を抜かれたらしいシリアは、憮然としながらもグラスを置いて腕を組む。
「それで、急にこの私を呼び出すなんてどんな風の吹き回しかしら?」
彼女としては一刻も早く診療所へ帰りたいのだろう。先程、病室の前から拉致してきたばかりだ、無理もない。
苦笑を漏らしながら言う。
「まあ、大した話じゃないのよ。いつも通り、ちょっと情報収集を頼もうかなー、なんて」
「高く付くわよ」
「……このままレンがカノンに付きっきりになるよりは、例の件をさっさと片した方がいいんじゃないの?」
「ふっ、それで私は何の情報を集めればいいのかしら?」
―――扱いやすい奴。
胸中だけで呟く。にぃ、と笑みを浮かべたルナはそのまま小声でシリアへ耳打ちする。
「……そんなもの調べてどうするのよ」
「まあ、何となく。いいじゃない、どうせカノンが回復するまでは動けないんだし。敵の牙城は小さなところから切り崩すのが基本よ」
「それはそうだけど……」
渋い顔でルナの顔を伺うシリア。どうにも読めない顔色の幼馴染は素知らぬ振りで新しいグラスを頼んでいた。
彼女は行き当たりばったりの行動派に見えて、その実、無益なことはしない主義だ。
それにこれは特にマイナスになるわけでもないだろう。
「……まあ、いいわ。暇なときにでも請け負ってあげようじゃない」
「さんきゅ」
「ふん、その代わり、一生恩に切ることね」
「やなこった」
べ、と愛嬌混じりに舌を出す。ムカッ、とは来るがゆるゆると身体を伸ばすだけのこの娘にはどうにも怒鳴りがいがない。
「にしてもシリア。あんた、本当に執念深いわね。まさかまだレンの追っかけしてるもんだとは思わなかったわ」
「一途、と言ってくれないかしら? それに私が悪いんじゃないわ、レン以上の男をまだ見たことがないだけの話よ」
「そーかなー……」
格好はつけているが、ひとえにその偏った眼前フィルターのせいではないかと思うのだが。
「私はいいのよ。既にめくるめく将来を約束されて、後はもう一押しするだけなんだから」
「……そぉ?」
「そうよ。それより貴方よ、男の一人も連れてないなんてその年齢では恥なのではなくて?」
シリアに取ってみれば、『余計なお世話よ!』……くらいの苛烈な反応が返ってくるのを承知でかけた問いだった。少なくともシリアは彼女が誰かとああだこうだ、なんて話は聞いたことがない。
だからムキになることを前提でかけた科白だったのだが。
「男、ねぇ……」
予想と反して彼女は目線を逸らせてふ、と笑っただけだった。
先程と同じ、どこか含んだような、憂いを帯びた微笑。シリアは眉根を寄せてその笑みを凝視する。
「……変わったわね」
「カノンのこと?」
「あの子もだけど。それよりも、貴方が、よ」
「そ?」
「昔はそんな笑い方はしなかったわ。それに煙草も吸わなかった」
「……」
ルナは小さく舌を打った。なるほど、常に香水をつけて匂いに敏感なシリアらしい。
バレている以上、隠す必要もあるまい。彼女は右手を翻すと、懐から小さなケースを取り出した。一本抜くと加えて、ちっ、と指先を擦り、小規模の発火魔法を唱える。
燻ぶり始めた切っ先を認め、ふぅ、と引き抜き、息を吐く。
白煙が上がり、キナ臭い匂いが鼻をついた。
――― ……飲むなら飲むでもう少し美味しそうに吸えないのかしら?
郷里の剣術の師匠から、剣士は身体が資本だと教え込まれているカノンやレン、アルティオ、それにシリアにこの匂いはご法度だ。しかし、魔道師であるルナにそれは当てはまらない。
だから馬鹿吸いしなければ咎める気はないのだが、どうせ吸うのなら美味そうに吸えばいいのに、彼女の浮かべた表情はひどく苦く、不味そうなものだった。
ふとケースが目に止まって掻っ攫う。ルナは特に咎めなかった。
「アイゼン、か」
「珍しくもないでしょ」
「確かにね。女性が愛飲してる話はあんまり聞かないけど」
「……何で詳しいのよ」
「これでも情報収集には自信があるのよ? 煙草の銘柄くらい知らなくてどうするのよ」
ルナは不快そうに肩を竦める。煙を吐き出す仕草は、やはり不味そうだった。
灰皿を引き寄せ、新しく運ばれて来たグラスに口をつける。荒れている、と人に言った割に人のことなど言えないじゃないか。
「……ねぇ、ルナ」
「ん?」
「……何があったの?」
ぴくり、と彼女のグラスを傾ける手が止まる。
「別に興味も湧かなかったから今まで聞かなかったけどね。
カノンはまあ、思春期の遅い子がゆっくりと変化してる、年頃の女の子くらいにしか思わないけれど。
それにしたって貴方の変化は著しいわよ」
「……かもしれないわね」
「あんたの境遇っていうか、何ていうか。少しは知ってるつもりだけど。
……それだけじゃないでしょ?」
「……」
グラスを下ろした手で、再び煙草を吹かす。燻らせながら、彼女は何か迷っているようだった。
ただ、この場での返答に悩んでいるのか、それとも。
「…………あんたと同じよ」
今度はシリアがぴくり、と反応を示す。からん、と彼女の手にしたグラスのロックが澄んだ音を立てた。
煙草を弄ぶ手が、重い。
それきり何も語らない。
それを汲み取れないほどシリアは愚鈍ではない。少なくとも、この分野だけは他の誰よりも得意と自称している。一気に残りの酒を飲み切り、カウンターへ叩きつけるように次のグラスを頼む。
度の強い、辛い酒を、二杯。
訝しげに小首を傾げるルナへ、運ばれて来たジョッキを押し付ける。
「……?」
「飲みたいんでしょ。飲めばいいじゃない。仕方ないから付き合ってあげてもいいわよ」
ふん、と鼻を鳴らして自らのジョッキを掲げるシリア。相変わらずの高圧的な態度に、ルナは苦笑する。
くしゃり、と短くなった煙草を消すと突き出されたジョッキを持ち上げた。
酌み交わしたジョッキとジョッキが、鈍くカンッ、と音を立てた。
←4へ
カノンが答えるより先に、レンがあくまで端的に誰何の声をかける。くぐもった『私です』という声が返って来た。少々掠れた、年の功を感じさせる男性の声。
カノンには聞き覚えがなかったが、レンには心当たりがあったらしい。ゆったり立ち上がるとドアを開けに行く。
開いたドアの先に立っていたのは一人の初老の男性だった。纏った白衣から素性が知れる。
白いものが混じり始めた黒い髪と、穏やかに細められた青い瞳は、こなれた内の人格を映しているようで好感を抱く。
「どうも、体のお具合はいかがですか?」
「えっと……大分、いいです」
朝方から顔を合わせた記憶があるのが看護士のステイシアだけだったので、少々戸惑いながらもそう頷いた。
彼はそれを汲み取ったのか、席を空けるレンに対して軽く頭を下げると部屋の敷居を跨ぐ。
その後ろから、救急用の箱と機器とタオルが乗ったワゴンを押して入って来たのはステイシアだった。
彼は空いた椅子へ腰掛けると、『身体を起こせますか?』と問いて来た。
左腕を軸にして何とか身体に力を入れる。わずかに浮いた背中にレンが手を差し入れてくれた。支えてもらいながらもベッドの上に腰掛ける形まで身体を持ち上げる。
「何とか……」
「結構です。どこか特別に痛む箇所はありますか?」
「いえ、特には」
「ふむ、少々失礼しますね」
言って彼はカノンの右腕を持ち上げた。ちり、とした細やかな痛みが一瞬走る。だがそれだけだ。左腕ほど自由には動かないが、気をつければ剣を握る程度は出来る。振り回せるかは自信がないが。
―――そういえば、肩ごと砕かれたんだっけ……
右の腕の損傷状況を思い出す。自然と顔を顰めてしまった。
「痛みますか?」
「えっと、ほんの少し。大した痛みじゃないですけど」
「無理は禁物です。誇れるほど大きくはないですが、一応、ここも診療所ですからね。正直に言って下さいね」
言って男はふわり、と笑った。
信用に足る、と感じさせる笑い方。あくまで柔らかで、安心感を与える微笑だ。
それから問診が始まった。痛む箇所から、どこが動かせてどこが動かせないか、健康状態はどうか、微熱が続いていると答えると彼はおそらくカルテだろう、何かの書類に走り書きでペンを走らせていた。
最後に感染症、もしくは誘発的に病にかかっていないか、舌と口腔をチェックして終わり。
動かせない体の部位に、彼は手を翳すとぼそぼそと小声で呪を口に乗せる。虹色をした粒子が淡い光を放ち、カノンの身体に降り注いだ。治癒術だ。心持ち、体が軽くなったような気がした。
「……女性ですから心配していましたが……。
基礎体力はあるようで安心しました。これから普通に治療が続けられます」
ふと、治癒術の大部分は人間の自己回復能力を促すことによって、人体を回復させる。それのことだろう。
例外は朝方、ステイシアが言っていたリザレクションだが、これは結構な高等魔道で術者に相当な負担をかけて他人を治癒する。
大怪我を負ったときにはリザレクションでなくては間に合わない。前者では治癒を受ける側の体力が著しく削られるからだ。
ぱたん、と彼は厚いカルテを閉じた。にこり、と微笑むと横になって構いませんよ、と言った。
「申し遅れました。私はフェルス=ラントと申します。診療所の皆さんからはフェルスと呼ばれております」
「あ、どうも……えっと、カノン=ティルザードです。治療してくださってありがとうございました」
「いえいえ、それが医者としての努めですから。彼が血だらけの貴方を抱えて運び込んで来たときはさすがにびっくりしましたが」
苦笑してフェルスはちらり、とレンの方を見た。彼は小さく息を吐いただけで表情を変えない。だが、フェルスは特に気分を害した風もなく、カルテを持って立ち上がる。
「お急ぎの旅でなければゆっくり養生なさるのをお薦めします。生死を彷徨う……とまでは行きませんでしたが、衰弱なさっていたのは確かです。無理はなさらない方がいい」
「あの、元のように動けるようになるまでどれくらいかかります?」
この分ではまた何時狙われるか解ったものではない。今のカノンにとって重要なのは、何時、元のように戦えるようになるのか、ということだった。
ろくに手足も動かせなければ自分の身を守ることさえ出来やしない。
その問いに人の良い顔をした医師は困ったように苦笑した。自分が言った通りにゆっくりと休む気はない、と言葉の端に感じ取ったらしい。
戸惑うように宙を見上げた後、曖昧に笑って、
「一週間、と申し上げたいところですがそれでは納得はしてもらえそうにありませんね。
貴方の体力とリハビリの頑張り次第では、それより早く回復出来るでしょうが……。
貴方も年頃のお嬢さんですから、それははっきり言ってお薦め出来ません。若いうちから身体に負担をかけるのは良くないですよ。傷が残るというのも嫌でしょう? 丁寧な治療をお薦めします」
「フェルスさん。仰る意味は良く解ります。でも、今は時間が惜しいんです」
「カノン」
医師が抗議を上げるより先に、彼女の名前を呼んだのはレンだった。浮かんだ表情は、多少の苛立ちを含んでいた。カノンは肩を竦めるが、当たり前のようにその表情が晴れることはない。
だが譲れることと譲れないことがある。
カノンは自分の荷に目を止めた。中に入っている財産を、へそくりを含めて計算、算出する。
「……リザレクション治療を後二回。どうにかお願いできませんか?」
無理なことを言っているのはわかっていた。あれは術者に相当な負担がかかる。
だからたとえ医師としての立場にあっても、フェルスが憂鬱な溜め息を吐いたところで誰も責められはしない。
初老の医師は頬に手を当てて悩み、空を見据えて逡巡し、やがてこちらに向き直ると一本指を立てた。
「……一回です。それ以上はご用立て出来ません。
知っての通り、この診療所は小さくともこの町唯一の医療機関です。わかりますね? 患者さんは貴方だけではないのですよ」
「……すいません。よろしくお願いします」
諭すように言ったフェルスに深く頭を下げる。彼は仕方ない、とでも言うように軽く首を振った。
しかし、次にカノンが面を上げたときには元の信頼に足る笑顔を浮かべ、
「患者さんのご要望にお答えするのが医師の仕事です。お気になさらないでください。
では、私は他にも問診がありますので失礼します。
ステイシア」
「あ、はい!」
ワゴンを整理していたステイシアがぴし、と背を伸ばす。
「カノンさんの包帯を取り替えてあげてください。レンさん、貴方は一度退室をお願いします」
「……解りました」
「昨日からまともに寝ていらっしゃらないでしょう。カノンさんにはステイシアを付けさせますから、少しお休みになった方がいい。
狭い場所ですが、仮眠室くらいはあります。毛布もお貸ししますよ」
「レン、休んで来なさいよ。あたしは大丈夫だし」
「……そうだな。そうさせてもらう」
多少、渋るかと思ったが案外彼は素直に頷いた。さすがに眠気が限界を超えたのか、いざというとき身体が動かないことを懸念したのか。
カノンの頭を二回、軽く叩いて医師と共にドアへと向かう。
「どうぞ、ご案内しますよ。寛いで来てください」
「……礼を言います」
そんな形式的な会話を交わして、彼らは部屋を出て行く。残されたステイシアはいそいそと、真新しい包帯を救急箱から取り出し始めた。
くるくると巻き取られていく包帯を見ていると、あの黒衣の少年を思い出す。
全身に包帯を纏ったあの姿。何故、あんな姿を? 理由は解らないが、少しだけ痛々しく、哀れに感じた。
「どうかしましたか? カノンさん」
「いや、別に……」
視線を感じたのか、ステイシアがきょとん、と首を傾げる。ふるふると首を振って誤魔化すと、彼女は包帯を片手にベッドに寄って来た。
「カノンさん、今朝はありがとうございました」
言われて首を傾げる。
……礼を言われるようなことをした覚えはないのだけど。
「アルティオさんと二人に馴れるようにしてくださったでしょう?」
―――ああ、そういえば。
けれど、あれはどちらかというとステイシアの耳に入らないようルナと情報交換をしたかっただけなのだが。
まあ、それを言うわけにもいくまい。
「ああ、いいのよそんなこと。何か疚しいことされなかった? 平気?」
「平気ですよぅ。紳士的にリードしてくださいましたよ」
語尾にハートマークでもついていそうな勢いで、本当に嬉しそうに言う。あれでも自称紳士だ。そうそう馬鹿なことはしないか。
今朝方の短いデートを思い出したのか、やや舞い上がっているステイシアに苦笑する。
「けどねぇ、あれで頭イカレてるところあるから。警戒は怠らないようにね。
油断するとどこぞに拉致されそうになるから」
「そんなことありませんよ。とってもいい人です」
にっこりと笑うステイシアに、カノンはやや複雑だ。頷いてしまっていいものかどうか。
……まあ、アルティオだって下心で彼女に付き合うことにしたのではない(と思いたい)のだろうから、信じてやるとしよう。
昨日の夜も思った通り、あれはあれでそう駄目な人間というわけでもない。
「まあ、あたしたちの中では一番頑丈な身体してるから。スープレックスでも、STFでも自由にかましてやって」
「しませんよ~……、カノンさんの意地悪」
ぷぅ、と剥れる姿は確かに可愛い。看護士なんて少々特殊な職業に付いているからには、大人びたところがあるのかと思っていたが、彼女はそうでもない。
極普通の、年頃の少女だった。
「カノンさん、聞いてもいいですか?」
「何?」
「その、カノンさんて……」
えっと、とやや尻込みしながらおずおずと声を発する。
カノンはそちらの方面に鋭いとはけして言えなかったが、恋する乙女が何を問いたいかくらいは理解している。
「別にアルティオのことは何とも思っちゃいないわよ」
「そうなんですか?」
「まあねぇ……悪い奴じゃないとは解ってるんだけどね。そんな気にはならない、っていうか。
剣の腕は悪くないし、どちらかと言えばフェミニストだし、もうちょっと周りを見てくれれば。幼馴染としてはいて損はないんだけど」
新たにステイシアが継いでくれたお茶を受け取りながら言う。
普段、短所ばかりが目に付くだけで、アルティオはそうそう悪い人間ではない。少なくとも、どこかの誰かよりずっと真っ直ぐな性格をしている。
……その真っ直ぐさがイノシシ並みに暴走してくれることを除けば、だが。
「じゃあ、カノンさんてやっぱりレンさんのことが好きなんですか?」
ぶッ!!!
……人がものを飲んでいるときにそういうことを言わないで欲しかった。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
―――大丈夫じゃないわよッ!
お茶が呼吸器官に入っていなければ、大声で怒鳴ってやりたかった。咳き込むカノンの背を慌てて摩るステイシア。
咳き込みすぎて喉と身体が痛い。
やがて深呼吸で復活したカノンがまずしたことは、小鳥のように首を傾げるステイシアを睨みつけることだった。
「あのね、どこをどうすればそんな結論に……」
「だって……」
ステイシアは言葉を濁らせてカノンの胸元を差す。そこには言うまでもなく、先程修復されたばかりのネックレスがゆらゆらと揺れている。
「いやッ、これは別に、さっき直してもらったばっかりで……
ただ今年の誕生日に貰ったから、そのやっぱり付けないわけにいかなくって……ッ」
「そうですかぁ……なるほどねぇ……」
ルナとそっくりなにたにた笑いでこちらを見上げて来る。居心地が悪いったらない。
ステイシアはふと、何かを思いついたらしい不自然な笑顔で、
「カノンさん、今年お幾つですか?」
「じ、十九だけど……」
正直に答えると、彼女ははぁ、と溜め息を吐いて、「いーなー」だとか「羨ましいなぁ」とか、よく解らない科白を並べ始める。
何だと言うんだ、ルナといい彼女といい。
段々、腹が立って来た。面白くない。ただの誕生日プレゼントを身につけているのが何だと言うのだろう。
剥れているとそれに気づいたらしいステイシアが慌てて手を振った。
「あはは、そうだ。包帯替えなくちゃですよね」
上手く話を逸らした。
彼女は馴れた手つきでカノンの着衣を緩め、腕や肩に巻かれた包帯を外し始める。するすると、解かれていく包帯。
カノンは少しだけ感嘆する。包帯を取って巻く、それだけの作業だがこれが素人にはなかなかうまく行かなかったりするのだ。彼女は看護士なのだから、これくらいは当たり前なのかもしれないが。
「……慣れてるのね」
「まあ……ここにご厄介になるようになって一年、経ちますから。といってもこれくらいしか出来ないんですけどね、私って」
「ご厄介って、あんたこの診療所に住んでるの? 家は?」
「……」
……聞いてはならないことだったらしい。ステイシアはくす、と苦笑したきり、黙った。
その空気が読めないカノンではなかった。罰が悪そうに肩を竦め、彼女の言葉を待つ。話題を逸らすなら、それに乗ってあげよう。
しかし、彼女はやや自嘲気味に笑うと、
「カノンさん、あの」
「ん?」
「カノンさんはそれくらい旅を続けているんですか?」
「んと……そうね、五、六年はしてるかな」
「じゃあ、あの、その間に、」
「記憶喪失の人、なんて人にあったことありませんか?」
―――え?
耳慣れない言葉を聞いた気がする。顔を上げるとステイシアが真剣な眼差しをこちらに向けていた。冗談や酔狂で言った科白ではない、ということだ。
カノンは逡巡する。どう答えるのが正解なのか。否、正解など、ただの一人も持ち得ない。
「……残念だけど、ね。これでも人の三倍近い濃い半生送って来た自信はあるけど……。
ないわ。前に貴方に会ったことも、ない」
「そう、ですか……」
残念そうな、しかし予測していた通りの返答だったのか、すんなりと彼女は頷いた。
「……ステイシアさん。貴方、まさか……」
「えへへ、お恥ずかしながら。ごめんなさい、患者さんに言うようなことじゃなかったですよね。
でも、カノンさんたち、色んなところを旅されているようでしたし、もしかしたら、って思って」
華やかに、少しだけ寂しそうに笑う。
「一年前、町で行き倒れていたところをフェルス所長が見つけて保護してくださった……そうです。気がついたのはこの診療所だったので、詳しくはわからないんですけど……。
それから所長にずっとお世話になってます」
「……じゃあ、貴方」
「ええ、覚えてないんです。一年以上前のことは。何にも」
ステイシアはいっそ楽しげに笑って見せた。「笑っちゃいますよね」、なんてちっとも笑えないことを言いながら。
「何か、手がかりみたいなものはなかったの?」
「うーん、手がかりというか……」
首を傾げて彼女は右手の甲を持ち上げて見せてきた。薬指に、赤い石が光る。
古めかしいデザインの金の指輪だった。いや、デザインこそアンティーク調だが、それなりに目の肥えたカノンには素材自体はそうそう古い時代のものには見えなかった。
何にしろ、年頃の、今時の少女が付けるにはやや似つかわしくない代物だ。
「発見されたとき、付けていたらしいんです。もっとも、あったのはこれとステイシア、って名前だけなんですけど」
「そう、なの……。でも、結構特殊なデザインの指輪に見えるけど」
「ですよね。そう思って道具屋のご主人にもお聞きしたんですけど、こんな指輪は見たことないって。
手詰まりな状態です」
「……」
苦笑して語る彼女に、カノンは顔を顰めた。それを見て取ったステイシアは慌てて両手をぱたぱたと振る。
「あ、でもでも、そんな悲観してないんですよ?
フェルス所長は優しいし、ここでの仕事も見つかったし……それに見るものみんな、新しく感じますし! 得したな、って思うこともあるくらいでッ!
少なくても不自由してる、ってわけじゃないです。でも、」
ふと、言葉が切れた。
右手甲に視線を落とし、填めた指輪の輪郭を細く、白い指がなぞる。
「もしかしたら……
前にも、大切な人たちが、いたのかもしれないって思って……
だとしたら、思い出さなくちゃいけないのかなぁ……って、それだけです」
「ステイシアさん……」
「……あはは、湿っぽい話しちゃいましたね! 忘れてください。
さて、早く包帯取り替えちゃいましょう!」
俯いて呟いたのは一瞬で、面を上げた彼女はもういつもの通り、華やかな笑顔だった。
いそいそと立ち上がって、カノンの身体の包帯を巻き取り、取り替えていく。
大人しくそれに身体を預けながら、カノンは天井を見上げる。
―――記憶喪失、か……そんな人もいるのよね。
今まで色々な人間を見て来た。様々な事情を抱える人間を見て来たから、今さらそんなことで驚きはしないけれど。
ときどき思うことがある。自分だったら。
そのような渦中に、自分が置かれたらどうなのだろうと考えるときがある。
狩人だった頃は、しなければならないことは一つだった。どんな状況だろうとも、どんな相手だろうとも、死術を狩り、滅する。すべきことはそれ一つだった。だから迷うことはなかった。
しかし、もしも今、自分が彼ら特殊な事情を抱える者たちと同じ立場になったのなら、どうなのだろう。
例えば、
―――もし、今あたしが記憶喪失になったら……
今まで生きて来た半生が頭を過ぎる。在りすぎるほど、山々が連なる自らの半生。苦い想いは幾らでもあった、やるせないときも数多あった。それでもそれはカノンの人生なのだ。
今さらそれがなくなるなんて考えが及ばない。
でも、いっそ記憶がなくなったら、ゼロの人間なら、それはそれで楽なのだろうか。
それとも、
―――それでも、思い出そうとするのかな……
「はい、これで終了です」
ぱん、とステイシアが手を叩く。
気が付くと、身体はすべて真新しい包帯に覆われていた。
「ありがとう、ステイシアさん」
「もうステイシア、でいいですよぅ。カノンさん、私より年上なんですし。
じゃあ、私は先生のお手伝いがありますから失礼しますね」
帰り際にもう一度、お茶を注いで、ステイシアはワゴンごと踵を返す。そのままがらがらと部屋を出ようとしたが、何を想ったかひたり、と足を止めた。
天井を見上げ、顎に指を押し当てて考える素振りをする。何事か、カノンが声をかけようとしたちょうどそのとき、彼女はくるり、と反転してこちらを見た。
「カノンさん、ご存知でした?」
「何を?」
きょとん、とするカノンに、彼女はあのルナそっくりの意地悪な目をして、とんでもない置き土産を残していった。
「十九歳の誕生日に銀のリングを貰うと幸せになれる、っていう迷信があるんですよ。
それなりに有名なはずなんですけど、ご存知ないみたいでしたから」
「…………」
何を揶揄されているのか、理解するのにたっぷり十数秒を費やした。時間をかけてその言葉を噛み砕いたカノンが、音すら立てそうな勢いで赤面するのを見て取ると、ステイシアは満足そうにドアを閉めた。
その数瞬後に部屋の中からよく解らない呻き声と、がたがたんッ! という落下音が響いたのは言うまでもない。
「で、何で私があんたの酒盛りに付き合わなくちゃいけないのよ?」
「まあ、いいじゃない。たまには女同士の語りにも付き合いなさいよ」
あからさまに不機嫌な目と口調で睨んでくるシリアにぱたぱたと手を振りながら、ルナはグラスの中の果実酒を飲み干した。
照明も疎かな酒場。普段、五人でいるときはこんな場所には立ち寄らない。カノンと二人で話をするときは、大抵どこかのカフェかもしくは宿屋か。
大体、こんないかにも柄の悪そうな連中がたむろしそうなところに彼女を連れ出そうものなら、相棒と称するあの保護者に何を言われるか解ったものじゃない。
シリアは灰に塗れたカウンターの木目を蹴りつけながら、透明な、ルナよりも度の強いアルコールを喉へと流し込む。
「荒れてるわね」
「誰のせいだと思っているのかしら?」
なおも睨みつけるシリアに、ルナはふ、と笑みを浮かべる。何時になく、憂いを含んだ大人びた笑みだ。
それに毒気を抜かれたらしいシリアは、憮然としながらもグラスを置いて腕を組む。
「それで、急にこの私を呼び出すなんてどんな風の吹き回しかしら?」
彼女としては一刻も早く診療所へ帰りたいのだろう。先程、病室の前から拉致してきたばかりだ、無理もない。
苦笑を漏らしながら言う。
「まあ、大した話じゃないのよ。いつも通り、ちょっと情報収集を頼もうかなー、なんて」
「高く付くわよ」
「……このままレンがカノンに付きっきりになるよりは、例の件をさっさと片した方がいいんじゃないの?」
「ふっ、それで私は何の情報を集めればいいのかしら?」
―――扱いやすい奴。
胸中だけで呟く。にぃ、と笑みを浮かべたルナはそのまま小声でシリアへ耳打ちする。
「……そんなもの調べてどうするのよ」
「まあ、何となく。いいじゃない、どうせカノンが回復するまでは動けないんだし。敵の牙城は小さなところから切り崩すのが基本よ」
「それはそうだけど……」
渋い顔でルナの顔を伺うシリア。どうにも読めない顔色の幼馴染は素知らぬ振りで新しいグラスを頼んでいた。
彼女は行き当たりばったりの行動派に見えて、その実、無益なことはしない主義だ。
それにこれは特にマイナスになるわけでもないだろう。
「……まあ、いいわ。暇なときにでも請け負ってあげようじゃない」
「さんきゅ」
「ふん、その代わり、一生恩に切ることね」
「やなこった」
べ、と愛嬌混じりに舌を出す。ムカッ、とは来るがゆるゆると身体を伸ばすだけのこの娘にはどうにも怒鳴りがいがない。
「にしてもシリア。あんた、本当に執念深いわね。まさかまだレンの追っかけしてるもんだとは思わなかったわ」
「一途、と言ってくれないかしら? それに私が悪いんじゃないわ、レン以上の男をまだ見たことがないだけの話よ」
「そーかなー……」
格好はつけているが、ひとえにその偏った眼前フィルターのせいではないかと思うのだが。
「私はいいのよ。既にめくるめく将来を約束されて、後はもう一押しするだけなんだから」
「……そぉ?」
「そうよ。それより貴方よ、男の一人も連れてないなんてその年齢では恥なのではなくて?」
シリアに取ってみれば、『余計なお世話よ!』……くらいの苛烈な反応が返ってくるのを承知でかけた問いだった。少なくともシリアは彼女が誰かとああだこうだ、なんて話は聞いたことがない。
だからムキになることを前提でかけた科白だったのだが。
「男、ねぇ……」
予想と反して彼女は目線を逸らせてふ、と笑っただけだった。
先程と同じ、どこか含んだような、憂いを帯びた微笑。シリアは眉根を寄せてその笑みを凝視する。
「……変わったわね」
「カノンのこと?」
「あの子もだけど。それよりも、貴方が、よ」
「そ?」
「昔はそんな笑い方はしなかったわ。それに煙草も吸わなかった」
「……」
ルナは小さく舌を打った。なるほど、常に香水をつけて匂いに敏感なシリアらしい。
バレている以上、隠す必要もあるまい。彼女は右手を翻すと、懐から小さなケースを取り出した。一本抜くと加えて、ちっ、と指先を擦り、小規模の発火魔法を唱える。
燻ぶり始めた切っ先を認め、ふぅ、と引き抜き、息を吐く。
白煙が上がり、キナ臭い匂いが鼻をついた。
――― ……飲むなら飲むでもう少し美味しそうに吸えないのかしら?
郷里の剣術の師匠から、剣士は身体が資本だと教え込まれているカノンやレン、アルティオ、それにシリアにこの匂いはご法度だ。しかし、魔道師であるルナにそれは当てはまらない。
だから馬鹿吸いしなければ咎める気はないのだが、どうせ吸うのなら美味そうに吸えばいいのに、彼女の浮かべた表情はひどく苦く、不味そうなものだった。
ふとケースが目に止まって掻っ攫う。ルナは特に咎めなかった。
「アイゼン、か」
「珍しくもないでしょ」
「確かにね。女性が愛飲してる話はあんまり聞かないけど」
「……何で詳しいのよ」
「これでも情報収集には自信があるのよ? 煙草の銘柄くらい知らなくてどうするのよ」
ルナは不快そうに肩を竦める。煙を吐き出す仕草は、やはり不味そうだった。
灰皿を引き寄せ、新しく運ばれて来たグラスに口をつける。荒れている、と人に言った割に人のことなど言えないじゃないか。
「……ねぇ、ルナ」
「ん?」
「……何があったの?」
ぴくり、と彼女のグラスを傾ける手が止まる。
「別に興味も湧かなかったから今まで聞かなかったけどね。
カノンはまあ、思春期の遅い子がゆっくりと変化してる、年頃の女の子くらいにしか思わないけれど。
それにしたって貴方の変化は著しいわよ」
「……かもしれないわね」
「あんたの境遇っていうか、何ていうか。少しは知ってるつもりだけど。
……それだけじゃないでしょ?」
「……」
グラスを下ろした手で、再び煙草を吹かす。燻らせながら、彼女は何か迷っているようだった。
ただ、この場での返答に悩んでいるのか、それとも。
「…………あんたと同じよ」
今度はシリアがぴくり、と反応を示す。からん、と彼女の手にしたグラスのロックが澄んだ音を立てた。
煙草を弄ぶ手が、重い。
それきり何も語らない。
それを汲み取れないほどシリアは愚鈍ではない。少なくとも、この分野だけは他の誰よりも得意と自称している。一気に残りの酒を飲み切り、カウンターへ叩きつけるように次のグラスを頼む。
度の強い、辛い酒を、二杯。
訝しげに小首を傾げるルナへ、運ばれて来たジョッキを押し付ける。
「……?」
「飲みたいんでしょ。飲めばいいじゃない。仕方ないから付き合ってあげてもいいわよ」
ふん、と鼻を鳴らして自らのジョッキを掲げるシリア。相変わらずの高圧的な態度に、ルナは苦笑する。
くしゃり、と短くなった煙草を消すと突き出されたジョッキを持ち上げた。
酌み交わしたジョッキとジョッキが、鈍くカンッ、と音を立てた。
←4へ
アルティオはただひたすらに自分を責めていた。
先頭を切って、彼の腕に自分の腕を絡ませて歩く少女に罪悪の文字は一欠片もない。当たり前だ。元はと言えば声をかけたのは彼の方。
これで突き放したりした日には完全に悪者扱い……というかきっぱりと悪人である。
加えて彼は目を輝かせて通りを歩く少女を放置する、好意を込めた目で自分を見上げて来る年端もいかない少女を切り捨てるなどという非情な真似が出来るような人間ではなかったし、上手く誤魔化せるような器用さを持ち合わせているわけでもない。
―――まあ、仕方ないか。
しかしながら割り切ってしまえば、それほど悪い状況でもない。
シリア並に変わった少女だが、美少女であることに代わりはない。何よりアルティオはそんな少女が楽しく笑っているところを見ているのが好きなのである。
「アルティオさん?」
どうかしましたか? というニュアンスを込めてステイシアが顔を覗き込んで来る。
それににへら、と引き締まらない笑顔を向けた。
「いや、何でも。それよりサンキューな、カノンを助けてくれて」
「私は大したことはしていません。重傷のカノンさんを運んだのはレンさんですし、治療したのはうちの先生です」
「……」
恋敵と書いて『ライバル』と読む。
何故、現場に居合わせたのが奴だったんだ。確かにカノンがいないと解ったときに真っ先に飛び出したのはあいつだったけど、俺だって町中駆けずり回っていたのに。
いや、それ以前に何であいつなんだ、カノン。別にお前は顔で人を選ぶ人間じゃないだろう? 確かに悪い奴じゃないし、いざって時になんだかんだで頼りになってるのはあいつだし、そりゃ冷静な目で見て人間的に出来てるのはあっちで、ああ非が見当たらねぇじゃねぇかド畜生。
「ど、どうしたんですかッ? しっかりしてください、アルティオさんッ!」
萎れていく大男をステイシアは慌てて揺さぶった。アルティオはそれを見てはっと気がつく。
「なあ、ステイシア」
「はい?」
「俺のこと好きか?」
「ええ」
「何でだ?」
涼しく答えた彼女は、首を傾げた。理由はさっき言っていたのに、という顔だ。
「いや、そうだけどあれはちょっと……」
頑丈だ何だというのではあまりにあまりな気はする。大体、レンくらいなら捕まれるより前に固めるか何かして防ぎそうだし。
そういえばこの少女はレンには見向きもしなかったのだろうか。
「そういうのが理由ならレンでもきっと大丈夫だと思うぞ」
「う~ん、でも」
ステイシアは小首を傾げて、少し困った笑顔で肩を竦める。
「あの人がどこを見てるかなんて初対面の私でも解りましたし。かなりの剣幕で詰め寄られましたから、ああと思って。正直そんなこと考えが及ばなかったですね」
ああ、なるほど。
思わず納得してしまうアルティオ。後で女の子に詰め寄ったりするなよ、と言って置こう。いや、どうせ聞かないだろうし、その状況下では仕方がなかったのかもしれないが、(というかその状況に自分がいても同じことをした可能性は否めない)この娘の精神衛生上良くない。
「じゃあ、何で俺なんだ?」
最も聞きたかった問いを口にする。
彼女はうーん、と唸ってから何かを探るような目でこちらを見た。上目遣いできゅ、と眉間に皺を寄せる。
「……怒りません?」
そう言われても何を? と問うしかないアルティオは言葉を詰まらせる。
ステイシアは疑問符を浮かべたままの彼からぱっ、と離れた。それなりに流れている人波の中の数歩先を行く。見失ってはぐれてしまわないかと不安になったアルティオは、慌ててその小さな背を追った。
「誰でも良かったのかもしれません」
「は?」
ますます理解に苦しむその返答に、今度こそアルティオは間の抜けた声をあげた。
それは何か。寂しそうな顔の人間なら誰でもいい、とそういうことか。それならこれより傷つく事はない。ある意味、ただフラれるよりも苦痛である。
いや、ナンパというのは総じてそういうものなのかもしれないが、少なくともアルティオは一定のモットーのもとに女の子に声をかけているのだ。
アルティオの思考を汲み取ったのか、ステイシアは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ご、ごめんなさい。えっと、そういう意味ではなくてですね」
えっと、えっとと詰まりながらも空を見て言葉を選ぶ。アルティオは少女が言葉を選ぶのをじっと待っていた。
「アルティオさんは旅の方、ですよね?」
「まあ……」
「もし私が旅なんかやめてこの町にいてください! って頼んだらどうします?」
「それは……」
唐突な問いに答えが途切れる。
アルティオが旅を続けているのはカノンについて行くためだ。アルティオがどこかに留まる、と言えばそれを咎める人間は今の面子にはいないだろう。
それはお互いに全員が全員、個々を持った人間だと認めあっているからである。
皆、アゼルフィリーの野を駆けずり回っていた頃とは違う。それぞれに大人なのだ。それぞれの決断にはそれ相応の敬意を払う。
だが、今現在、アルティオのカノンへの恋心が失せたわけではない。カノンが他に誰一人、と決めたわけでもない。
それに、たとえそうであっても、アルティオにとって気心の知れた彼女らといるのはとても心地良いものだった。
その案寧の場を、つい先程出会ったばかりの少女と天秤にかけろ、というのは……
「困りますよね?」
「そりゃあ……」
アルティオが何とか答えを絞り出すより先に、少女が答えを言ってしまった。ソフトな言い方だったが、その通りだ。
ステイシアは少しだけ寂しそうに、しかし華やかに笑う。
「ええ、わかってます。カノンさんの怪我が治ったらさっさとこんな小さな町、出ていっちゃうんだろうなー、と思います。
だからこれは私のわがままなんですが」
言葉を切って彼女はぴしっ、とこちらに向き直った。子供の頃、騎士ごっこなんてことをしたのを思い出す。幼い彼女が背を伸ばして敬礼をする様は、その想い出を彷彿とさせた。
「アルティオさんならそういうわがままにつき合ってくれるかなー、と思いました」
「はい……?」
今だ疑問符の取れないアルティオに、ステイシアはくすくすと、声を漏らしてまた笑い、やがて可愛く困ったようにうなった。
ふ、と息をついて何か決心したように顔をあげる。
「お笑いになると思うんですが」
「?」
「その……私、恋愛ってものをしたことがないんですよ」
ひたり、とアルティオは動きを止める。目を瞬かせて彼女を見、そして眉間に皺を寄せた。
おそらく齢十七は数えるだろう少女が、それもカノンやルナのように特別な仕事に従事していたわけでも、高貴な家柄というわけでもない、だろう、おそらくは。
「だから、えっと、そのしたことがないっていうか、説明が難しいんですけど……」
初恋、というのははしかと同じだ。生きているうちに余程奇特な人間でない限り、体験する。実るか実らないかの差はあるが、それは少なからず経験値になる。
……その経験値が致命的に足りて無いからカノンはああなわけで。
ともかく、何となくだが事情は察せた気がする。
「……ははッ」
乾いた笑いを漏らす。
何のことはない。要するにあれだ。彼女はそう、今時珍しい『恋に恋する乙女』というやつで、恋愛をしてみたくてしてみたくて仕方がない子なわけだ。
それで自分がいろいろと夢想して、こう! と決めた条件にアルティオが当てはまってしまい、尚且つそんな『ごっこ遊び』に付き合ってくれそうなお人よしな顔をしていた、と。
加えて旅人ならば、別れも後腐れなく済む。どちらが悪いわけでもないからだ。
そういうことなんだろう。
―――まー、一目惚れって響きにもちょっと憧れてたんだけどなー。
思って苦笑する。
だが逆にすっきりした。どうせカノンの怪我が治るまでは足止めなのだ。
けれどこの幼稚な少女に付き合うのも悪くない。自分から振って置いて放置、なんてその方がカノンや仲間の反感を買ってしまうだろうし。
―――って、俺も悪人なんだなー……
こんなときも打算が働くなんて。
アルティオは空笑いを漏らしてから、今だもじもじと恥ずかしそうに俯く彼女に近寄った。少し考えてから手を取って歩き出す。
「え?」
「ほら、行こうぜ。あんまり遅いと、仕事もあるだろうし、色々まずいだろ? な、ステイシア」
極フランクに、アルティオは彼女を呼び捨てて促した。その意図は彼女にも伝わったのだろう。
ステイシアはマメと硬い皮だらけの大きな手を、痛いほど握り返した。というより、
「痛ッ! ち、ちょっと待て、痛いってッ!」
「あッ、ご、ごめんなさいッ!」
思いの他、彼女が力持ちだということを忘れていた。アルティオの情けない悲鳴に反応して、慌ててステイシアは手を緩める。
肩を下ろしてもう一度大げさに痛がるアルティオに、ステイシアはしばし申し訳なさそうに俯いたが、彼がへらり、と笑ってみせると、やがてくすくすと声を上げて笑ったのだった。
ああ、やっぱり可愛い女の子には笑顔が似合うな。
アルティオが己の主義を再確認した瞬間だった。
町行く人波に紛れる彼らを。
またくすくすと笑いを漏らしながら眺めていたモノがいた。
彼は確かにそこにいるのに、誰もその異様な姿に指さえ差そうとしない。晴れた青空と澄み切った森の空気にそぐわない、闇を一角だけ切り取って張り付けたような。
そんな違和感を撒き散らしながらも、誰も彼の気配には気が付かない。
いつも通りに陣取った高みからの景色。俯瞰の視界にその仮初の恋人たちを見つけて、笑う、いや、嘲笑[わら]う。
その傍らに不満そうに胡坐を掻いていた少年は剣呑とした眼差しで主を見た。
「なーにが楽しいんだよ。あんな小芝居、虫唾が走るだけだろ?」
「さてね。何事にも小芝居は重要だよ。
着飾ることで本質を隠す。まあ、一般には綺麗事、なんて嫌われていることだろうけど。
これがまた、いろいろと便利なんだ」
「はぁ?」
さっぱりわからない、と言った目で少年は黒い影を見上げる。いつもこの人は訳の解らないことを言う。こちらが理解しようがしまいが。
理解できないのは悔しい気もするが、少年にとって重要なのはそんなことでない。如何にしてその笑いの後に出される指示を完璧にこなすか。
一を言われれば十を、十を教えれば百を実行しろ。
それが理想。けれど、昨日も叱られたばかりだ。やり過ぎだと怒られてしまう。なかなか上手くいってくれなくて、正直イライラする。
その機微が伝わったのか、不意に彼は少年の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。
「そう剥れないで。僕は君の能力を高く買っている。万が一にも無駄にしたりはしないさ」
「……」
子供扱いされている気分にもなるが、その言葉は少年にとって叱りの言葉を受けたことを差し引いても余りあるものだった。この人の言うことがすべてだ。この人の言う通りに動く。それは無償の全幅の信頼だった。
だって、こんな言葉をこの人からもらえる奴なんて、他に数えるほどしかいない。
「そろそろ行こうか」
「おう。今度はちゃんとした仕事なんだよな?」
笑みを絶やさずに立ち上がった彼を、少年はそんな言葉を吐きながら、追った。
額の辺りがくすぐったい。柔らかくて、少し硬い無骨な、そんな不思議な感触が前髪を梳いている。
熱は大分、収まったようだがまだ頭はぼんやりと霞がかかっている。それともこれは単なる寝過ぎか、薬の副作用か。
頬の下には枕の柔らかさ、額には何だか懐かしい温もり。
……懐かしい? 違う、しばらく接していなかったせいでそう思うだけで、実は馴れた温かさだ。
ああ、そうか。これは……
「ん……」
喉の奥から声が漏れる。意識が覚醒して、最初に知覚したのがそれだった。その声にひくり、と反応した指はふと動きを止める。
全身を襲う気だるさを堪えて、ゆっくりと少しずつ瞼を押し上げる。薄く、朧に開いた視界に黄昏色の髪が逆光に煌いた。
「…………レン?」
「……悪かった。起こしたな」
「ううん、平気」
そう答えると、添えられていた手は前髪を押し上げて額を覆う。少々、冷たい体温が気持ちいい。
「レン、少し冷えてる?」
なんてことを言ったらぺち、と額を叩かれた。
「……何すんの」
「馬鹿なことを言うからだ。俺の手が冷えているんじゃない、お前が熱いだけだろう。大人しく寝ていろ」
すっ、と手を引いた彼は朝方はルナが腰掛けていた椅子を引き寄せて座った。傍らの看護用サイドテーブルに備えられた水差しでタオルを濡らすと、そのまま額に乗せてくれた。
―――きもちいい……
タオルが落ちないように窓に目をやる。確認が済むより先に、『もう夕方だ』という返答が返って来た。確かに窓の外はもう青い空は見えなくて、代わりに紅い日の光が差していた。部屋の中もまた然り。
部屋を見渡すと、隅に積まれた荷物と衣服、武具がある。アルティオたちが持って来てくれたのだろう。
………部屋の外が何だか『離しなさい、ルナこんな…』『いーから時と場合を弁えなさい』とか何とかやたら五月蝿いのは熱による幻聴だとして置こう、うん。
―――ってかここ病院だぞ、こら。
「具合は?」
「うん……朝より大分いいかな。我慢すれば身体も動かせそうだし」
「我慢して動かすな。それだけ治りが遅くなる」
「ん」
何だっけ、言わなきゃいけなかったことがあった気がする。眠りに付く前、数時間前に話したことだったのに。
「レン……」
「何だ」
「その、怒ってないの?」
「……」
恐る恐る問いた科白に、レンは切れ長の目でじっとカノンの顔を凝視する。睨まれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
気恥ずかしさと緊張に耐えられず、視線を逸らすとちょうど彼は息を吐いた。
「無論、苛立ちもする。説教どころか、怒鳴りたい気分だ」
―――う゛……
「だが熱を出している怪我人相手に怒鳴り散らすほど考えなしのつもりはないのでな」
「うん……ごめん」
「治ってから改めて怒鳴る」
―――うう゛……
さすがレンだ。一切の妥協を許すつもりはないらしい。
「まったく、あんな目にあって置きながら……。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ。狙われているという自覚を持て」
「だって……」
解っているのに、悪いのは他でもないカノン自身だ。一人で突っ走った結果だ。
相手がどれだけ許せない相手だったとしても、判断を間違ったのは明白。だから全面的に悪いのはこちら。だってもかももない。
それでも、口を吐いて出たのは言い訳の言葉。
―――やだ、あたし、やな奴だ……
助けられて置きながら、なんて可愛くない。
レンは先程より深い、深い息を一つ吐いた。
「……過ぎたことだ。しかし、二度とあんな真似はするな。気持ちは解らなくもないが、本末転倒だ」
「わ、解ってるわよ……、結構……やばいことになってたみたいだし……」
取り繕うつもりでそう言うと、彼の表情が唐突に歪んだ。普段から穏やかとは言えない表情を、さらに険しくさせて、そう、言うなれば苦虫を噛み潰したような、そんな表情だ。
眉間に皺を寄せて、奥歯を噛み締めて。何かに耐えるように、瞑目して肩で一つ、呼吸する。
「……レン?」
「……」
頭痛を抑えるような仕草で眉間に指を押し当てる。何か嫌なものを見てしまったときの、彼の良くする癖だ。
そこまで考えて、ふと思い出す。そうだ、自分のその醜態を、傷だらけの身を間近にしたのは彼と医師、それにステイシアだけだったっけ。
それを思い出したんだろう。人間の手足が取れかけて、骨を砕かれ、血に塗れた姿など、気持ちのいいものじゃない。カノンだって出来ればそんな姿は見られたくなかった。
硬い瞑目を、深呼吸と共に解いて、ゆっくりと瞼を開く。
それでも顔を顰めてこちらを眺め、不意に訓練で固くなった手で再び前髪を梳かれた。
突然の所作に、目を瞬いていると、
「………まえが」
「?」
「無事で良かった」
「……」
小さく漏れた本音に、自然と目が見開いた。はっとしてもう一度、彼の顔を見る。
苦痛に歪んだ表情。普段、滅多に表情なんて作らないから、その変化はきっと普通の人から見たら『少し顰めれた』だけに見えるかもしれない。
けれど、伊達にこれまで共に旅をして来た仲じゃない。だから解る。本当に辛[から]い、重いときにしか、その背中の傷が疼くときくらいにしかこんな表情はしないのに。
罪悪感と、何故だろう、ほんの少しの優越感。
ああもう、これじゃああたしって本当に極悪人じゃないか。
「……ごめん。……もうしない」
「当たり前だ」
俯いてそう言った瞬間には、彼の表情はすぐに元の無表情に戻っていた。安堵感と、ちょっと残念にも思うのは何故なのだろう。
彼は軽く首を振って、しきりに『まったく』と呟いている。
肩を下ろして懐を弄って、何かを引き出すとカノンの首元へと手を伸ばした。
「まったく、それでは高い買い物をした意味がないだろう」
「へ?」
ちりん。
どこかで聞いた金属音が耳につく。首に触れた感触は、ここ半年ですっかり付け慣れてしまったものより、ほんの少し太い……やや冷たく感じる細い鎖。
かちり、と別の金属音が耳元で鳴る。ちりん、とまた鳴る―――透明な鈴の音色。
ばっ、と身を起こそうとして、そういえば体が動かないのを忘れていた。貫いた痛みに悶絶していると、『何をやっているんだ、馬鹿かお前は』と呆れながら身体を正され、毛布を掛け直された。
……何でそう、一言多いのだろう。
じゃなくて。
「レン、これ……」
「誰かが盛大にぶち壊していったようだからな。小さな町だから直せる職人を見つけるのにも苦労した」
「ふぇ?」
―――えっと、えっと……?
カノンの中で朝方聞いた情報と、たった今本人の口から聞かされた科白の意味が交錯する。
だから、つまり。
「あの、じゃあ、レン。今日朝いなかったのって、っていうか今まで顔見せなかったの……
もしかして、これ直しに行って……」
―――って、何で訊いてる方が照れなきゃいけないのよ!
さらに熱が集まってくる顔。逆流する血液に、叱咤してカノンは椅子に腰掛け直した彼を見る。彼はその視線をややジト目で受けながら腕を組む。
「それなりに気に入っているものだと思っていたからな。直し損だったか?」
咄嗟に言葉が出て来なくて、代わりにぶんぶんと首を振った。高揚感が心臓の辺りから込み上げる。ああ、何かやだ、目尻が濡れてきたじゃないか、みっともない。
通されたリングとベルを動く左手で持ち上げると、またちりん、と鳴る。
その何でもない音が何だか嬉しくて、思わず何度も鳴らしてしまった。とびきりお気に入りの玩具を貰った子供のよう。それはそれで子供っぽいということなのだから、恥じるべきことなのだが、はしゃぐ高揚はなかなか収まってくれない。
ふと、もう一度、黙したままの相棒に目をやる。眠そうに眉間を押さえ、時折目を拭うように擦っていた。
当たり前だ。昨日、あの時間にカノンを探していて、朝方までついて、その上今日は町に出ていたなら殆ど寝ていないはず。
そう考え付くと、先程は出て来なかった、言わなくては言わなくてはと思っていた言葉がするすると紐が解かれるように口をついた。
「……レン」
「何だ」
「その……ありがとう」
それでもまた照れくささは拭えなくて、何となく、宙を見ながらそう言った。
←3へ
先頭を切って、彼の腕に自分の腕を絡ませて歩く少女に罪悪の文字は一欠片もない。当たり前だ。元はと言えば声をかけたのは彼の方。
これで突き放したりした日には完全に悪者扱い……というかきっぱりと悪人である。
加えて彼は目を輝かせて通りを歩く少女を放置する、好意を込めた目で自分を見上げて来る年端もいかない少女を切り捨てるなどという非情な真似が出来るような人間ではなかったし、上手く誤魔化せるような器用さを持ち合わせているわけでもない。
―――まあ、仕方ないか。
しかしながら割り切ってしまえば、それほど悪い状況でもない。
シリア並に変わった少女だが、美少女であることに代わりはない。何よりアルティオはそんな少女が楽しく笑っているところを見ているのが好きなのである。
「アルティオさん?」
どうかしましたか? というニュアンスを込めてステイシアが顔を覗き込んで来る。
それににへら、と引き締まらない笑顔を向けた。
「いや、何でも。それよりサンキューな、カノンを助けてくれて」
「私は大したことはしていません。重傷のカノンさんを運んだのはレンさんですし、治療したのはうちの先生です」
「……」
恋敵と書いて『ライバル』と読む。
何故、現場に居合わせたのが奴だったんだ。確かにカノンがいないと解ったときに真っ先に飛び出したのはあいつだったけど、俺だって町中駆けずり回っていたのに。
いや、それ以前に何であいつなんだ、カノン。別にお前は顔で人を選ぶ人間じゃないだろう? 確かに悪い奴じゃないし、いざって時になんだかんだで頼りになってるのはあいつだし、そりゃ冷静な目で見て人間的に出来てるのはあっちで、ああ非が見当たらねぇじゃねぇかド畜生。
「ど、どうしたんですかッ? しっかりしてください、アルティオさんッ!」
萎れていく大男をステイシアは慌てて揺さぶった。アルティオはそれを見てはっと気がつく。
「なあ、ステイシア」
「はい?」
「俺のこと好きか?」
「ええ」
「何でだ?」
涼しく答えた彼女は、首を傾げた。理由はさっき言っていたのに、という顔だ。
「いや、そうだけどあれはちょっと……」
頑丈だ何だというのではあまりにあまりな気はする。大体、レンくらいなら捕まれるより前に固めるか何かして防ぎそうだし。
そういえばこの少女はレンには見向きもしなかったのだろうか。
「そういうのが理由ならレンでもきっと大丈夫だと思うぞ」
「う~ん、でも」
ステイシアは小首を傾げて、少し困った笑顔で肩を竦める。
「あの人がどこを見てるかなんて初対面の私でも解りましたし。かなりの剣幕で詰め寄られましたから、ああと思って。正直そんなこと考えが及ばなかったですね」
ああ、なるほど。
思わず納得してしまうアルティオ。後で女の子に詰め寄ったりするなよ、と言って置こう。いや、どうせ聞かないだろうし、その状況下では仕方がなかったのかもしれないが、(というかその状況に自分がいても同じことをした可能性は否めない)この娘の精神衛生上良くない。
「じゃあ、何で俺なんだ?」
最も聞きたかった問いを口にする。
彼女はうーん、と唸ってから何かを探るような目でこちらを見た。上目遣いできゅ、と眉間に皺を寄せる。
「……怒りません?」
そう言われても何を? と問うしかないアルティオは言葉を詰まらせる。
ステイシアは疑問符を浮かべたままの彼からぱっ、と離れた。それなりに流れている人波の中の数歩先を行く。見失ってはぐれてしまわないかと不安になったアルティオは、慌ててその小さな背を追った。
「誰でも良かったのかもしれません」
「は?」
ますます理解に苦しむその返答に、今度こそアルティオは間の抜けた声をあげた。
それは何か。寂しそうな顔の人間なら誰でもいい、とそういうことか。それならこれより傷つく事はない。ある意味、ただフラれるよりも苦痛である。
いや、ナンパというのは総じてそういうものなのかもしれないが、少なくともアルティオは一定のモットーのもとに女の子に声をかけているのだ。
アルティオの思考を汲み取ったのか、ステイシアは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ご、ごめんなさい。えっと、そういう意味ではなくてですね」
えっと、えっとと詰まりながらも空を見て言葉を選ぶ。アルティオは少女が言葉を選ぶのをじっと待っていた。
「アルティオさんは旅の方、ですよね?」
「まあ……」
「もし私が旅なんかやめてこの町にいてください! って頼んだらどうします?」
「それは……」
唐突な問いに答えが途切れる。
アルティオが旅を続けているのはカノンについて行くためだ。アルティオがどこかに留まる、と言えばそれを咎める人間は今の面子にはいないだろう。
それはお互いに全員が全員、個々を持った人間だと認めあっているからである。
皆、アゼルフィリーの野を駆けずり回っていた頃とは違う。それぞれに大人なのだ。それぞれの決断にはそれ相応の敬意を払う。
だが、今現在、アルティオのカノンへの恋心が失せたわけではない。カノンが他に誰一人、と決めたわけでもない。
それに、たとえそうであっても、アルティオにとって気心の知れた彼女らといるのはとても心地良いものだった。
その案寧の場を、つい先程出会ったばかりの少女と天秤にかけろ、というのは……
「困りますよね?」
「そりゃあ……」
アルティオが何とか答えを絞り出すより先に、少女が答えを言ってしまった。ソフトな言い方だったが、その通りだ。
ステイシアは少しだけ寂しそうに、しかし華やかに笑う。
「ええ、わかってます。カノンさんの怪我が治ったらさっさとこんな小さな町、出ていっちゃうんだろうなー、と思います。
だからこれは私のわがままなんですが」
言葉を切って彼女はぴしっ、とこちらに向き直った。子供の頃、騎士ごっこなんてことをしたのを思い出す。幼い彼女が背を伸ばして敬礼をする様は、その想い出を彷彿とさせた。
「アルティオさんならそういうわがままにつき合ってくれるかなー、と思いました」
「はい……?」
今だ疑問符の取れないアルティオに、ステイシアはくすくすと、声を漏らしてまた笑い、やがて可愛く困ったようにうなった。
ふ、と息をついて何か決心したように顔をあげる。
「お笑いになると思うんですが」
「?」
「その……私、恋愛ってものをしたことがないんですよ」
ひたり、とアルティオは動きを止める。目を瞬かせて彼女を見、そして眉間に皺を寄せた。
おそらく齢十七は数えるだろう少女が、それもカノンやルナのように特別な仕事に従事していたわけでも、高貴な家柄というわけでもない、だろう、おそらくは。
「だから、えっと、そのしたことがないっていうか、説明が難しいんですけど……」
初恋、というのははしかと同じだ。生きているうちに余程奇特な人間でない限り、体験する。実るか実らないかの差はあるが、それは少なからず経験値になる。
……その経験値が致命的に足りて無いからカノンはああなわけで。
ともかく、何となくだが事情は察せた気がする。
「……ははッ」
乾いた笑いを漏らす。
何のことはない。要するにあれだ。彼女はそう、今時珍しい『恋に恋する乙女』というやつで、恋愛をしてみたくてしてみたくて仕方がない子なわけだ。
それで自分がいろいろと夢想して、こう! と決めた条件にアルティオが当てはまってしまい、尚且つそんな『ごっこ遊び』に付き合ってくれそうなお人よしな顔をしていた、と。
加えて旅人ならば、別れも後腐れなく済む。どちらが悪いわけでもないからだ。
そういうことなんだろう。
―――まー、一目惚れって響きにもちょっと憧れてたんだけどなー。
思って苦笑する。
だが逆にすっきりした。どうせカノンの怪我が治るまでは足止めなのだ。
けれどこの幼稚な少女に付き合うのも悪くない。自分から振って置いて放置、なんてその方がカノンや仲間の反感を買ってしまうだろうし。
―――って、俺も悪人なんだなー……
こんなときも打算が働くなんて。
アルティオは空笑いを漏らしてから、今だもじもじと恥ずかしそうに俯く彼女に近寄った。少し考えてから手を取って歩き出す。
「え?」
「ほら、行こうぜ。あんまり遅いと、仕事もあるだろうし、色々まずいだろ? な、ステイシア」
極フランクに、アルティオは彼女を呼び捨てて促した。その意図は彼女にも伝わったのだろう。
ステイシアはマメと硬い皮だらけの大きな手を、痛いほど握り返した。というより、
「痛ッ! ち、ちょっと待て、痛いってッ!」
「あッ、ご、ごめんなさいッ!」
思いの他、彼女が力持ちだということを忘れていた。アルティオの情けない悲鳴に反応して、慌ててステイシアは手を緩める。
肩を下ろしてもう一度大げさに痛がるアルティオに、ステイシアはしばし申し訳なさそうに俯いたが、彼がへらり、と笑ってみせると、やがてくすくすと声を上げて笑ったのだった。
ああ、やっぱり可愛い女の子には笑顔が似合うな。
アルティオが己の主義を再確認した瞬間だった。
町行く人波に紛れる彼らを。
またくすくすと笑いを漏らしながら眺めていたモノがいた。
彼は確かにそこにいるのに、誰もその異様な姿に指さえ差そうとしない。晴れた青空と澄み切った森の空気にそぐわない、闇を一角だけ切り取って張り付けたような。
そんな違和感を撒き散らしながらも、誰も彼の気配には気が付かない。
いつも通りに陣取った高みからの景色。俯瞰の視界にその仮初の恋人たちを見つけて、笑う、いや、嘲笑[わら]う。
その傍らに不満そうに胡坐を掻いていた少年は剣呑とした眼差しで主を見た。
「なーにが楽しいんだよ。あんな小芝居、虫唾が走るだけだろ?」
「さてね。何事にも小芝居は重要だよ。
着飾ることで本質を隠す。まあ、一般には綺麗事、なんて嫌われていることだろうけど。
これがまた、いろいろと便利なんだ」
「はぁ?」
さっぱりわからない、と言った目で少年は黒い影を見上げる。いつもこの人は訳の解らないことを言う。こちらが理解しようがしまいが。
理解できないのは悔しい気もするが、少年にとって重要なのはそんなことでない。如何にしてその笑いの後に出される指示を完璧にこなすか。
一を言われれば十を、十を教えれば百を実行しろ。
それが理想。けれど、昨日も叱られたばかりだ。やり過ぎだと怒られてしまう。なかなか上手くいってくれなくて、正直イライラする。
その機微が伝わったのか、不意に彼は少年の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。
「そう剥れないで。僕は君の能力を高く買っている。万が一にも無駄にしたりはしないさ」
「……」
子供扱いされている気分にもなるが、その言葉は少年にとって叱りの言葉を受けたことを差し引いても余りあるものだった。この人の言うことがすべてだ。この人の言う通りに動く。それは無償の全幅の信頼だった。
だって、こんな言葉をこの人からもらえる奴なんて、他に数えるほどしかいない。
「そろそろ行こうか」
「おう。今度はちゃんとした仕事なんだよな?」
笑みを絶やさずに立ち上がった彼を、少年はそんな言葉を吐きながら、追った。
額の辺りがくすぐったい。柔らかくて、少し硬い無骨な、そんな不思議な感触が前髪を梳いている。
熱は大分、収まったようだがまだ頭はぼんやりと霞がかかっている。それともこれは単なる寝過ぎか、薬の副作用か。
頬の下には枕の柔らかさ、額には何だか懐かしい温もり。
……懐かしい? 違う、しばらく接していなかったせいでそう思うだけで、実は馴れた温かさだ。
ああ、そうか。これは……
「ん……」
喉の奥から声が漏れる。意識が覚醒して、最初に知覚したのがそれだった。その声にひくり、と反応した指はふと動きを止める。
全身を襲う気だるさを堪えて、ゆっくりと少しずつ瞼を押し上げる。薄く、朧に開いた視界に黄昏色の髪が逆光に煌いた。
「…………レン?」
「……悪かった。起こしたな」
「ううん、平気」
そう答えると、添えられていた手は前髪を押し上げて額を覆う。少々、冷たい体温が気持ちいい。
「レン、少し冷えてる?」
なんてことを言ったらぺち、と額を叩かれた。
「……何すんの」
「馬鹿なことを言うからだ。俺の手が冷えているんじゃない、お前が熱いだけだろう。大人しく寝ていろ」
すっ、と手を引いた彼は朝方はルナが腰掛けていた椅子を引き寄せて座った。傍らの看護用サイドテーブルに備えられた水差しでタオルを濡らすと、そのまま額に乗せてくれた。
―――きもちいい……
タオルが落ちないように窓に目をやる。確認が済むより先に、『もう夕方だ』という返答が返って来た。確かに窓の外はもう青い空は見えなくて、代わりに紅い日の光が差していた。部屋の中もまた然り。
部屋を見渡すと、隅に積まれた荷物と衣服、武具がある。アルティオたちが持って来てくれたのだろう。
………部屋の外が何だか『離しなさい、ルナこんな…』『いーから時と場合を弁えなさい』とか何とかやたら五月蝿いのは熱による幻聴だとして置こう、うん。
―――ってかここ病院だぞ、こら。
「具合は?」
「うん……朝より大分いいかな。我慢すれば身体も動かせそうだし」
「我慢して動かすな。それだけ治りが遅くなる」
「ん」
何だっけ、言わなきゃいけなかったことがあった気がする。眠りに付く前、数時間前に話したことだったのに。
「レン……」
「何だ」
「その、怒ってないの?」
「……」
恐る恐る問いた科白に、レンは切れ長の目でじっとカノンの顔を凝視する。睨まれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
気恥ずかしさと緊張に耐えられず、視線を逸らすとちょうど彼は息を吐いた。
「無論、苛立ちもする。説教どころか、怒鳴りたい気分だ」
―――う゛……
「だが熱を出している怪我人相手に怒鳴り散らすほど考えなしのつもりはないのでな」
「うん……ごめん」
「治ってから改めて怒鳴る」
―――うう゛……
さすがレンだ。一切の妥協を許すつもりはないらしい。
「まったく、あんな目にあって置きながら……。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ。狙われているという自覚を持て」
「だって……」
解っているのに、悪いのは他でもないカノン自身だ。一人で突っ走った結果だ。
相手がどれだけ許せない相手だったとしても、判断を間違ったのは明白。だから全面的に悪いのはこちら。だってもかももない。
それでも、口を吐いて出たのは言い訳の言葉。
―――やだ、あたし、やな奴だ……
助けられて置きながら、なんて可愛くない。
レンは先程より深い、深い息を一つ吐いた。
「……過ぎたことだ。しかし、二度とあんな真似はするな。気持ちは解らなくもないが、本末転倒だ」
「わ、解ってるわよ……、結構……やばいことになってたみたいだし……」
取り繕うつもりでそう言うと、彼の表情が唐突に歪んだ。普段から穏やかとは言えない表情を、さらに険しくさせて、そう、言うなれば苦虫を噛み潰したような、そんな表情だ。
眉間に皺を寄せて、奥歯を噛み締めて。何かに耐えるように、瞑目して肩で一つ、呼吸する。
「……レン?」
「……」
頭痛を抑えるような仕草で眉間に指を押し当てる。何か嫌なものを見てしまったときの、彼の良くする癖だ。
そこまで考えて、ふと思い出す。そうだ、自分のその醜態を、傷だらけの身を間近にしたのは彼と医師、それにステイシアだけだったっけ。
それを思い出したんだろう。人間の手足が取れかけて、骨を砕かれ、血に塗れた姿など、気持ちのいいものじゃない。カノンだって出来ればそんな姿は見られたくなかった。
硬い瞑目を、深呼吸と共に解いて、ゆっくりと瞼を開く。
それでも顔を顰めてこちらを眺め、不意に訓練で固くなった手で再び前髪を梳かれた。
突然の所作に、目を瞬いていると、
「………まえが」
「?」
「無事で良かった」
「……」
小さく漏れた本音に、自然と目が見開いた。はっとしてもう一度、彼の顔を見る。
苦痛に歪んだ表情。普段、滅多に表情なんて作らないから、その変化はきっと普通の人から見たら『少し顰めれた』だけに見えるかもしれない。
けれど、伊達にこれまで共に旅をして来た仲じゃない。だから解る。本当に辛[から]い、重いときにしか、その背中の傷が疼くときくらいにしかこんな表情はしないのに。
罪悪感と、何故だろう、ほんの少しの優越感。
ああもう、これじゃああたしって本当に極悪人じゃないか。
「……ごめん。……もうしない」
「当たり前だ」
俯いてそう言った瞬間には、彼の表情はすぐに元の無表情に戻っていた。安堵感と、ちょっと残念にも思うのは何故なのだろう。
彼は軽く首を振って、しきりに『まったく』と呟いている。
肩を下ろして懐を弄って、何かを引き出すとカノンの首元へと手を伸ばした。
「まったく、それでは高い買い物をした意味がないだろう」
「へ?」
ちりん。
どこかで聞いた金属音が耳につく。首に触れた感触は、ここ半年ですっかり付け慣れてしまったものより、ほんの少し太い……やや冷たく感じる細い鎖。
かちり、と別の金属音が耳元で鳴る。ちりん、とまた鳴る―――透明な鈴の音色。
ばっ、と身を起こそうとして、そういえば体が動かないのを忘れていた。貫いた痛みに悶絶していると、『何をやっているんだ、馬鹿かお前は』と呆れながら身体を正され、毛布を掛け直された。
……何でそう、一言多いのだろう。
じゃなくて。
「レン、これ……」
「誰かが盛大にぶち壊していったようだからな。小さな町だから直せる職人を見つけるのにも苦労した」
「ふぇ?」
―――えっと、えっと……?
カノンの中で朝方聞いた情報と、たった今本人の口から聞かされた科白の意味が交錯する。
だから、つまり。
「あの、じゃあ、レン。今日朝いなかったのって、っていうか今まで顔見せなかったの……
もしかして、これ直しに行って……」
―――って、何で訊いてる方が照れなきゃいけないのよ!
さらに熱が集まってくる顔。逆流する血液に、叱咤してカノンは椅子に腰掛け直した彼を見る。彼はその視線をややジト目で受けながら腕を組む。
「それなりに気に入っているものだと思っていたからな。直し損だったか?」
咄嗟に言葉が出て来なくて、代わりにぶんぶんと首を振った。高揚感が心臓の辺りから込み上げる。ああ、何かやだ、目尻が濡れてきたじゃないか、みっともない。
通されたリングとベルを動く左手で持ち上げると、またちりん、と鳴る。
その何でもない音が何だか嬉しくて、思わず何度も鳴らしてしまった。とびきりお気に入りの玩具を貰った子供のよう。それはそれで子供っぽいということなのだから、恥じるべきことなのだが、はしゃぐ高揚はなかなか収まってくれない。
ふと、もう一度、黙したままの相棒に目をやる。眠そうに眉間を押さえ、時折目を拭うように擦っていた。
当たり前だ。昨日、あの時間にカノンを探していて、朝方までついて、その上今日は町に出ていたなら殆ど寝ていないはず。
そう考え付くと、先程は出て来なかった、言わなくては言わなくてはと思っていた言葉がするすると紐が解かれるように口をついた。
「……レン」
「何だ」
「その……ありがとう」
それでもまた照れくささは拭えなくて、何となく、宙を見ながらそう言った。
←3へ
「うっ、ん……」
初めに知覚したのは自身が漏らした呻き声。それから鈍い痛みが身体を劈く。
―――痛……
どこか冷めた思考が、平坦な感覚を紡ぐ。身体を縮ませて押さえつけたい衝動に駆られたが、何故だか自分の体が重い。
―――あれ……あたし、どうしたんだっけ……
鈍い痛みに襲われながらも、重い瞼を持ち上げる。薄く開いた視界に、目に染みるような白い光と天井が飛び込んでくる。
もちろん、その天井に見覚えはない。
「あれ……」
「あ、気がつきましたぁ?」
能天気な声が聞こえる。聞き覚えはない。
そう思った瞬間に、ひょい、と視界に飛び込んでくる少女の顔。大きなエメラルドの瞳が印象的だ。ふわり、と白い肌に金の髪がかかる。
少々幼いが、可愛らしいという形容詞がよく似合う少女だ。
「あたし……う、くッ……」
「あ、まだ動かない方がいいですよ」
反射的に身体を動かそうとするカノンの胸に手を置いて制してくる彼女。
「えっと、ちょっと両腕が取れかけてていろんなところの骨にひびが入ってたんで。うちの先生がリザレクションを使えて良かったですよー。
もうほとんど骨も繋がってますけど、かなりの違和感は残ってるでしょうから数日は動かさないでくださいね」
「……」
―――ほ、朗らかな笑顔でなかなかエグイことを……
思い出した。
そうだ。あの黒衣の少年が連れていた子供と戦って、負傷したのだった。とすると、
「ここは…病院……?」
喉がからからで上手く声が出ない。
「はい。あ、申し遅れました。私、ここで看護士をやっておりますステイシアです。どうぞよろしく」
にこにこと語りかけてきてはくれるのだが、生憎、鈍痛に塗れていて返すのは難しい。
わずかに動く首をもたげて周囲を見渡す。白い天井と壁、清潔感漂うカーテンと真っ白なベッド。棚とサイドテーブルは備わっていて、そこには熱を下げるための水布と幾つかの薬が並んでいる。なるほど、確かに病室だ。
軽く息を吐く。どうやら生き延びたらしい。
「あ、喉渇いてますよね。ちょっと待っててくださいね」
かたん、と椅子を鳴らしてステイシアが立ち上がる。備え付けのポットの中から薄緑色の茶をマグカップへ注いで手渡してくる。
「はい、ちょっとだけ熱いので気を付けてくださいね」
「あ、ありがとう……」
上手く身体を動かせない怪我人への気遣いなのだろう。少々、温めのお茶を口にする。
口腔を流れていく感触に、初めて自分の喉が痛いほど乾いていたことを知る。何とか動く左手で喉を揉み解しながら一杯のお茶を飲み干した。
「大丈夫ですか?」
「あ、あー、あっ、あー……うん、平気。それより何がどうなってあたし、こんなところにいるの?」
「覚えてないんですか?」
「えっと……、自分が大怪我したところまでは」
首を傾げようとして出来なかった。違和感を駆け抜けた首を押さえて呻く。
ここまで自由が利かないのは久方ぶりだ。あの少年、余程本気で弄ってくれたらしい。溜め息を吐いて少女を見る。彼女は頬に手を当てて思い出すかのように、
「えっと、ですね。昨日、偶然貴方が怪我してる現場に遭遇してですね。
連れの方に病院の場所を聞かれたものでご案内したんです。ちょうど良かったですよー、病室も一つ空いてましたし」
「偶然会った、って……」
おそらくは気絶した後に、ステイシアがあの場所に来たのだろう。だが、確かあのときは相当夜も更けていたし、女の子一人で出歩くには些か不似合いだ。
疑問を投げるより先に答えが返って来た。
「あ、一人ではなかったですから。同僚と一緒でしたし。
昨日は夜中にちょっと急患が出ましてあの界隈にある薬屋さんに一っ走りしてたんです。そしたら騒ぎが聞こえたんで……
こんな小さい町なのに急患が一度に出て大変でしたよー」
―――イヤミか、それは……
にこにこと語ってはくれるのだが、毒があるのかないのかいまいち判然としない人だ。
「まあ……何にせよ、助けてもらったのにはお礼を言わないとね。ありがとう」
「いえいえー。私は案内しただけですから。
お礼を言うなら先生とここまで貴方を運んでくれたあの人に言ってください」
「……そうね。後者は気が進まないけど」
「あははは、でも格好いいですよねー、お連れの方。彼氏さんなんですか?」
「違う!」
電光石火で答える。彼女は大げさに驚きながら、
「そうなんですか? てっきりそうなものだと」
「何でよ?」
「だって、私、物凄い剣幕で聞かれましたし。病院はどこだー、って。
だからそうなんだろうなー、って」
―――そりゃ腕取れかかってる人間抱えてたら、普通焦るだろ。いくらあいつでもそこまで淡白じゃないっての。
胸中で突っ込みながら、頭のどこか冷めた部分が無駄だと語る。唐突に湧き上がった頭痛を抑えて、顔を上げる。
「……まあ、いいや。とにかく、宿の連中に伝えて置かないと」
「ああ、それでしたら、」
ステイシアが何か言いかけたときだった。
どたたたたたたたたたッ!!
廊下の向こうから轟音が響く。ステイシアが驚いてドアを見るが、カノンは達観した表情で明後日を見やった。
「大丈夫か、カノンッ!!」
ドアの蝶番が悲鳴を上げる速度で部屋の中へ突進してきた男へ、カノンは呆れた視線を送る。
「アルティオ……あんたさ、ここどこだか解ってる?」
「大丈夫か、誰にやられたんだ、死ぬなよ俺はまだお前を幸せにぐはぁッ!」
「って、噛むし。聞けよ人の話」
一人で騒いできっちり自爆してくれた彼に、特大の溜め息が漏れる。涙と鼻水で汚れた顔を近づけてくるアルティオを左手で何とか押し戻して睨んだ。
「あたしはこの通り、死んじゃいないからとりあえず落ち着きなさいって」
「いやッ! この仇討ちは絶対に俺が成す! 見ていてくれカノン!」
「って、ニュアンスで人を殺すんじゃない! 待てこら……」
止めようにもいつも通りに体が動くはずはなく、踵を返して再びドアに突進していくアルティオを……
ごがんッ!
……の、後頭部を点滴用のポールが強襲した。
「きゃあッ!?」
「ういーっす、無事、カノン?」
「……はいはい、一応無事よ」
何事もなかったかのようにポールを立て直すルナに、疲れた声色で答える。隣でステイシアが悲鳴を上げた気がしたが、まあいきなり人を殴り倒したりすれば当然の話なのかもしれない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
「ステイシア、放って置いていいわよ。すぐ復活するから」
「で、でも……」
駆け寄る看護士に諫めるカノン。ルナはそれこそ我関せずで近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。
「やー、災難だったらしいわねー」
「他人事……いや、他人事なんだろうけど何かムカつくわね」
「いてて……」
「あの、お怪我ありませんか?」
頭を摩りながら身を起こしたアルティオに、楚々と声をかけるステイシア。殊勝な娘だ。
いつもの通り、五体満足で復活したアルティオは、心配そうに覗き込んでくるいたいけな少女の姿を視界に捉え、ばっと凄まじい勢いで身を起こす。
少女の両手をしっかりと握りながら。
「お嬢さん、いや、白衣の天使様、ありがとうございます。出来ればどうかこの不肖の本当の天使に……」
カノンとルナの冷えた目が『また始まった』と語っている。アルティオのいつもの悪い癖だ。どうせフラれて終わりなのだから二人とも今さら気にもしない。
興味を失って自分たちの話に戻ろうとして、
「や、やめてくださいッ!!」
どがッ! ばきばきィッ!!
『……』
……数瞬後、目の前で起こった奇妙な現象にカノンもルナも言葉を失った。赤い頬で肩を上下させながら佇むステイシアと、つい先程までと同じような体勢で倒れこんでいるアルティオ=バーガックス。
いや、見てはいたのだ。刺客から取り込んだ情報を脳が受け入れきれていないだけで。
「……ねえ、ルナ」
「何?」
「今、あたしには彼女がアルティオの手を逆手に取って転がして床に打ち付けたように見えたんだけど?」
「奇遇ね、あたしにも同じように見えてたわよ」
その答えに固まりながら(実際、ろくに身体は動かせないのだが)頷く。うん、まさか二人一緒に白昼夢が見られるものだとは思っていなかった。
それとも自分は実は助かっておらず、ここは俗に言う死後の世界というやつなのか?
「す、ステイシア?」
やや引いた声をかける。と、彼女ははっとして居住まいを正しながら、
「やだ私ったら患者さんの前で……」
「いや、そういう問題じゃなくて……、貴方、強かったんだ……」
「いえ、いい加減に習った程度ですよ? 薬を届けにとか、患者さんの定期訪問とか、一人で遅くまで外にいることもありますから」
―――それにしちゃ逞しいだろ、手加減できてないっぽいし。
呆けた表情で顔を赤らめる彼女に、それ以上言う言葉もなく、
「いつつ……何だぁ?」
戸惑っているうちにアルティオが目を覚ます。さすが頑丈さが取り柄なだけはある。むくりと頭を抑えて起きる彼に、ステイシアが息を飲んだ。
それはそうだ。手加減なく投げ飛ばした相手が間もなく起き上がるなど、そうそう見ない光景だろう。
「見境なく手ぇ出すからよ」
「あっはっは、これくらい! カノンのいつもの愛のムチに比べたら屁でもねぇぜ!」
「そこであたしを引き合いに出すか……」
怪我で何も出来ないのが心底口惜しい。奴に代わってステイシアに謝って置こう。睨みを利かせて置いてから彼女を彼女を見上げ、
「……」
異変に気づく。
不自然に頬をさらに紅潮させた彼女がそこにいた。
どこかで見たことがある、というか常日頃見てる。これはあれだ、どこかの脳みそに花が咲いている極身近な女魔剣士が件の相棒に黄色い声を上げるときとそっくりな表情だ。
カノンでもそれくらいは察することが出来る。出来るのだが、何故このタイミングで、この状況下でこの人がそんな表情を浮かべているのかが理解できない。
自分よりはその手の手管に長けているだろう親友へ目を向けるが、彼女も彼女でステイシアへ目をやって眉間に皺を寄せている。どうやら同じ心境らしい。
カノンが葛藤しているうちにステイシアの方は色々と自己完結を終えたらしい。ぱたぱたとへたり込むアルティオへ駆け寄って、勢いづけて頭を下げる。
「ごめんなさい! 私のせいで……ッ!」
「へ? あ、いや、見ての通りぴんぴんしてるから大丈夫ッスよ。
けどお詫びにデートの一回くらいしてくれたら嬉しいかなー、ってくらいで」
二撃目くらいくれてやれ、とカノンもルナも思うのだが、しかし、彼女は逆にきらきらと目を輝かせ、
「はいッ! ぜひお連れくださいッ! そ、その、私、貴方となら……」
頬を染めたまま、もじもじし始めるステイシア。思わず顔を見合わせるカノンとルナ。言った当人さえも予想とかけ離れた返答だったらしく。ぽかんとしたまま、間の抜けた顔で彼女を眺めている。
生温い混沌と化した場を砕くようにカノンは彼女に声をかける。
「えーと、ステイシアさん?」
「はい?」
「つかぬことをお聞きしますけど……貴方、もしかしてそいつのこと気に入った、とか……」
顔色を伺いつつの問い。が、彼女はそれはそれは華やかな微笑みで、
「はい!」
「……ごめん、もの凄い失礼なこと聞くけど、どこが?」
「だって素敵じゃないですか。私、恋人にするならアルティオさんみたいに、私の技を喰らっても全然平気な丈夫な人って決めてたんです!」
確かに鮮やかに投げを決めた彼女を見る限り、彼女とそういう仲に当たって必要なのは頑丈さと忍耐な気はするが。
だがその定理はカノンの理解力を軽く超えていた。傷でただでさえ微熱が出ているというのに、さらに熱が上がりそうだ。
「何? 世の中には私の理解できない基準が存在するわけ? 何がどうなればそんな考えに……」
困惑から抜け出せないカノンの肩をぽん、と叩く手が一つ。
「世の中には色々な人がいるの。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものよ」
「……前から思ってたけどさ、あんたのそのやたらと達観した言動ってどっからくる」
「ときにステイシア」
―――うっわ、誤魔化しやがったこのアマ。
「そんなにそいつが気に入ったなら貸してあげるから、一緒に宿屋からカノンの荷物持って来てやってくれない?」
「はッ!?」
「いいんですかッ!?」
本人そっちのけで話を進めていくルナに、アルティオはうろたえてステイシアは目を輝かせる。
「仮にも女の子の荷物だし、男に任せるわけにいかないでしょ。あたしはちょこーっとカノンとお話があるし」
「でも私、看護士ですからカノンさんについてないと……」
「ついてるならそれなりの入院準備も手伝うのが一流看護士ってもんでしょ」
そんな定義は聞いたことがない。
しかし、ルナとの話を他人に聞かせていいものではないと理解していたカノンは矢継ぎ早に、
「あたしなら大丈夫だし、ルナについててもらうから。お願いします、ステイシアさん」
「カノンー!」
涙目でアルティオが何かを訴えるが見て見ぬ振りだ。自分で声をかけたのだからエスコートくらいしてもらわないと紳士とは言えまい。
カノンからの冷たい眼差しに、アルティオも覚悟を決めたらしい。
短く息を吐いて気合を入れるようにステイシアを振り返る。
「では参りましょう、お嬢さん。お手をどうぞ」
出来るなら最初からやれ。
ステイシアに聞こえる心配がなかったら遠慮なく口にしていただろう文句が頭に浮かぶ。差し出された無骨な手に、彼女は頬を染めながら細い自分の手を重ねる。
そこにあったのはさながら三流恋愛小説の一シーンだ。
異様なむず痒さがカノンの背を走る。
「カノン、すぐ戻ってくるからな! 待っててくれ、必ず俺がお前の仇をぉうッ!」
「さあ、アルティオさん! 早く行きましょう!」
拳を固めかけたアルティオは、腕を突かんで振り回したステイシアの力に負けてドアに激突した。そのまま彼女は引き摺るようにして彼を連こ……ではなく、デートへと誘っていく。
ぱたん、と閉められたドアを眺めてカノンは眉間に皺を寄せた。
「……大丈夫かしら?」
「まあ、あれでも一応自称フェミニストだし、頑丈が取り柄だし、大丈夫なんじゃない?」
自分で送り出しておいて難だが、無責任な言動だ。
「まあ、奴のことはさて置いて。とりあえず、カノン、あんたは大丈夫なの?」
持ち前の切り替えの速さでルナはベッドの上のカノンを見下ろした。身体を起こせないカノンはへらっ、と愛嬌程度に笑いながら、
「何とか。傷は塞がってるんだけど、体中の違和感が取れなくて」
「へぇ、こんな町に随分と腕のいい魔法医がいたもんね。それなら良かった。
……で」
ルナの声のトーンが下がる。その意味が理解できないほどカノンも愚鈍ではなかった。
おおよそのことはレンから聞いているはずだ。それが証拠に急に表情が暗く、厳しく吊りあがる。
「……あいつ、だったの?」
それが差すのは言うまでもなくクオノリアのあの"もの"。
彼女の機密研究をどこからか手に入れた、得体の知れないヒトガタの黒影。
「やられたのはあいつの……部下、なのかな? ともかく下に付いてるっぽい子供だけど」
「子供?」
きゅ、と眉根を寄せる。言いたいことは解る。子供相手にこんな重傷を負ったのか、と言いたいのだろう。
自分の汚点を語るのは好きではないのだが、今回に限ってはそれで彼女が納得するとも思えない。
「実は……」
「なるほど、ね……」
昨夜、気絶するまでの記憶のありったけを話し終え、ルナが呟いたのはその一言だった。
「何か心当たりある?」
「……いや、話だけじゃさすがに解んないわ。
竜種族との混血種[ハイブリッド]か、あるいはそれそのものが魔的な……そうね、使い魔みたいなものなのか。
あくまで仮説だから大きなことは言えないけど」
「そっか……」
はふ、と息を吐く。相手がわからないということは対抗手段が見つけにくい、ということだ。
敗北感と憂鬱。
その二つが重くカノンの肩に圧し掛かる。
前回もそうだった。結局、クオノリアに渦巻いていた陰謀を阻止することは出来たものの、到底勝ちとは言い難い代物だ。すべてはあの謎の人物に対して、すべてが後手後手に回ってしまった結果と言える。
「で、そいつはこっちを目的なく襲って来ただけなの?」
「……解らないわ。
何の算段もなく、人を襲ってくるような人間には見えないんだけど。理由なんて喋ってくれるわけないし。
ただ」
「ただ?」
「殺すつもりはない、みたいなことは言ってたわ。エノとかいう奴に『やりすぎだ』って随分怒ってたみたいだし。
前回も陰に隠れてあたしたちを観察してた、みたいなこと言ってたじゃない。
だから殺すというより何かに利用しようとしてるんだと思う。自信はないけど」
珍しく目尻を下げて口にする。
ルナはしばらく目を閉じて何事か考え込んでいた。カノンはぼうっとした頭で情報を整理しながらそれを待つ。
昨夜。
あの使い魔の少年の言い分はともかくとして、彼らはこちらを殺しに来たわけではないらしい。
だが、何故、わざわざ外におびき出してまでカノンを襲ったのか。深夜だったとはいえ、他人に目撃されるリスクを負ってまで、無目的な無意味な襲撃をするだろうか。
答えはノーだ。
あれだけ周到な人物だ。あの目立つ風貌を自覚しながらそんなリスクを負ってまで、戯れに人を襲ったりしないだろう。戦力を落すためか。いや、効率が悪すぎる。だったら一思いに殺されていてもいいはずだ。
となればそこには何らかの意図が存在する。
クオノリアの悲劇のように、周到に張り巡らされた意図が。
だがそれが見えて来ない。一体、何故。カノン一人をいたぶる必要があったのか。
堂々巡りの思考を続けているうちにルナが顔を上げた。気を取り直すべく、吐いた息。上げた顔はほんの少し笑んでいて、開いた手でカノンの前髪をそっと撫でた。
「ん……ちょっと、くすぐったいってば」
「怪我人は大人しくしてるもんよ。お疲れ様。
まあ、出来ることと言ったらもう一度あんたを襲ってくることを仮定して護衛することと、それとなく街中に聞き込みにいくことくらいね。
後手には回りたくないけど、情報が少なすぎるわ。
聞き込みやら何やらはあたしたちで何とかするから、あんたはとりあえず大人しく傷を治しなさい」
「う……」
「不満そうにしないの。
……一応、傷害罪だからね。政団にも応援を頼んで、護衛の形で数人張り付かせてるけど、あんまり期待は出来ないわ」
それはそうだ。何しろ相手はMWOを手玉に取った男。
政団員の数人で相手に出来るような奴じゃない。
「だからさっさとあんた自身が回復するのが一番いいのよ。悔しいのは解るけど、理解出来んでしょ、子供じゃないんだから」
「わ、わかってるわよ……それくらい」
拗ねたように毛布に顔を埋めるカノン。
妹分のその仕草が可愛くて、ルナはふっと微笑んで髪を梳いてやる。
「……ねえ、あの、ルナ」
「何?」
「その……怒って、た?」
主語や目的語などいらない。誰のことを差しているかなど明白だ。ルナは苦笑いを漏らす。ちょっとした悪戯心が、ああ、最近は疼きっ放しだなと思いながらもその悪魔の誘惑には勝てずに意地悪にも口を開く。
「うん、まー、見たところかーなりね。
無理ないんじゃない? 前回の今回だし。今回なんて文字通り一人で突っ走った結果だし。
お説教の一つや二つ、覚悟しておいた方がいいわね」
「うう……」
反論する術を持たないカノンは、被告人席に座られたような心持で視線を下げた。
その予想通りの反応に満足しながらルナはくすくすと声を上げて笑う。
「まあ、いいじゃない。あいつもしたくてしてるんじゃないんだから。
実際、かなりやばい状態だったわけだし。あいつはその状態のあんたを目の当たりにしたわけでしょ。
自分の相棒がそんなになったんだから、お説教の一つくらいしないと気が気じゃないのよ。
やー、もうカノンちゃんてば愛されてるぅv」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよッ! そんなわけないでしょ!」
そういえば何処に行ったのだろう。怪我で入院という事態だ。いつもなら目が覚めて、最初に喰らうのが彼のお説教なのに。
無意識に胸元を探って。
急に原因不明の激しい心細さが彼女を襲う。
―――ああ、そうか。壊れちゃったんだっけ……
「どうかした?」
「ううん、別に……」
気絶する寸前の千切れた鎖を思い出す。今もあの石畳に転がったままだろうか。かといって探しにいくことも出来ない。
悔しさとは別の苦い感情が喉元に込み上げて、カノンは顔が見えなくなるくらい深く毛布を被った。
ルナは特に何も言わない。
「ルナ」
「んー?」
「……あいつ、今どこにいるかな?」
彼女は「うーん」と軽く唸って、天井を眺めながら。
「あんたの熱が下がるまではいたらしいんだけどね。朝方、さっきの看護士さんに任せてどっか出かけたって。ちなみにシリアはそれ追っかけてった」
「……そ、っか」
「寂しい?」
「だからそんなわけないじゃないッ!!」
ムキになってなってカノンは毛布を跳ね上げた。あまりにも楽しそうなルナの表情に、手中にはまっていることに気づく。
頭に血が上っていく。ただでさえ微熱で精神制御が上手くいかないのに。
「あたし寝るッ!」
「はいはい、おやすみなさい♪」
ますます剥れた彼女はそれまでよりなお深く、干渉を拒絶するように毛布を被り直したのだった。
丸まった毛布の中身が静かになった頃合に、ルナはそっと毛布を剥がす。
ほんのり上気した頬を枕に押し付けて、目を閉じる少女がいた。ちょうどいいように毛布をかけ直してやると、「ううん」と呻いた後に寝返りを打とうとして体が動かないのか顔をしかめる。
が、さすがに体力が落ちているのだろう、そのまま目を覚ます事無く再び深い眠りに落ちていく。
その様に笑いを漏らしながら、ルナは椅子に座り直す。
「レンじゃなくても甘やかしたくなるわよねー、これじゃ」
妹分の幼馴染は文句なしに可愛いと思う。どこかの仏頂面や単純体力馬鹿ではないが、守ってやりたいとは思うし、心細そうにしていれば手を差し伸べずにはいられないだろう。
時折、その真っ直ぐな生き方に、焦がれてしまうけれど。
だが人一人を支えるという行為は言うほど易いものではない。
からからと笑いながら。
しかし、その目はふと途切れた笑いにすっと細められ、生真面目に吊りあがった。自然と握り締めた拳に力が入る。
「……………たら」
声にさえならない呟きが漏れる。……こんなことでは駄目だ。
ルナ=ディスナーという人間は能天気な魔道師。どんな場合でもお茶らけて突拍子もなくて、空気が重くなりかけたら可笑しな言動で払拭して。
そうして彼女のいい姉貴分でなくてはならない。
そういう人間なのだから。
ぱんぱんッ、と彼女は両側の頬を張る。
「う……ん…」
少女は呻いて寝返りの代わりか、ますます枕に頬を押し付ける。眉根を寄せているところを見ると、それほど快適な眠りではないらしい。
当たり前か、まだ微熱は引いていないのだ。
ふ、と笑ってルナはその額に浮いた汗を拭ってやる。
―――クオノリアの地で、かつて、自らが生み出した存在が彼女を傷つけた、その事実に悔恨と謝罪を、いつまでも繰り返しながら。
ああ、もう、自分以外の誰も傷付いて欲しくはないのに。
空回るのは誰も彼も同じ。
←2へ
初めに知覚したのは自身が漏らした呻き声。それから鈍い痛みが身体を劈く。
―――痛……
どこか冷めた思考が、平坦な感覚を紡ぐ。身体を縮ませて押さえつけたい衝動に駆られたが、何故だか自分の体が重い。
―――あれ……あたし、どうしたんだっけ……
鈍い痛みに襲われながらも、重い瞼を持ち上げる。薄く開いた視界に、目に染みるような白い光と天井が飛び込んでくる。
もちろん、その天井に見覚えはない。
「あれ……」
「あ、気がつきましたぁ?」
能天気な声が聞こえる。聞き覚えはない。
そう思った瞬間に、ひょい、と視界に飛び込んでくる少女の顔。大きなエメラルドの瞳が印象的だ。ふわり、と白い肌に金の髪がかかる。
少々幼いが、可愛らしいという形容詞がよく似合う少女だ。
「あたし……う、くッ……」
「あ、まだ動かない方がいいですよ」
反射的に身体を動かそうとするカノンの胸に手を置いて制してくる彼女。
「えっと、ちょっと両腕が取れかけてていろんなところの骨にひびが入ってたんで。うちの先生がリザレクションを使えて良かったですよー。
もうほとんど骨も繋がってますけど、かなりの違和感は残ってるでしょうから数日は動かさないでくださいね」
「……」
―――ほ、朗らかな笑顔でなかなかエグイことを……
思い出した。
そうだ。あの黒衣の少年が連れていた子供と戦って、負傷したのだった。とすると、
「ここは…病院……?」
喉がからからで上手く声が出ない。
「はい。あ、申し遅れました。私、ここで看護士をやっておりますステイシアです。どうぞよろしく」
にこにこと語りかけてきてはくれるのだが、生憎、鈍痛に塗れていて返すのは難しい。
わずかに動く首をもたげて周囲を見渡す。白い天井と壁、清潔感漂うカーテンと真っ白なベッド。棚とサイドテーブルは備わっていて、そこには熱を下げるための水布と幾つかの薬が並んでいる。なるほど、確かに病室だ。
軽く息を吐く。どうやら生き延びたらしい。
「あ、喉渇いてますよね。ちょっと待っててくださいね」
かたん、と椅子を鳴らしてステイシアが立ち上がる。備え付けのポットの中から薄緑色の茶をマグカップへ注いで手渡してくる。
「はい、ちょっとだけ熱いので気を付けてくださいね」
「あ、ありがとう……」
上手く身体を動かせない怪我人への気遣いなのだろう。少々、温めのお茶を口にする。
口腔を流れていく感触に、初めて自分の喉が痛いほど乾いていたことを知る。何とか動く左手で喉を揉み解しながら一杯のお茶を飲み干した。
「大丈夫ですか?」
「あ、あー、あっ、あー……うん、平気。それより何がどうなってあたし、こんなところにいるの?」
「覚えてないんですか?」
「えっと……、自分が大怪我したところまでは」
首を傾げようとして出来なかった。違和感を駆け抜けた首を押さえて呻く。
ここまで自由が利かないのは久方ぶりだ。あの少年、余程本気で弄ってくれたらしい。溜め息を吐いて少女を見る。彼女は頬に手を当てて思い出すかのように、
「えっと、ですね。昨日、偶然貴方が怪我してる現場に遭遇してですね。
連れの方に病院の場所を聞かれたものでご案内したんです。ちょうど良かったですよー、病室も一つ空いてましたし」
「偶然会った、って……」
おそらくは気絶した後に、ステイシアがあの場所に来たのだろう。だが、確かあのときは相当夜も更けていたし、女の子一人で出歩くには些か不似合いだ。
疑問を投げるより先に答えが返って来た。
「あ、一人ではなかったですから。同僚と一緒でしたし。
昨日は夜中にちょっと急患が出ましてあの界隈にある薬屋さんに一っ走りしてたんです。そしたら騒ぎが聞こえたんで……
こんな小さい町なのに急患が一度に出て大変でしたよー」
―――イヤミか、それは……
にこにこと語ってはくれるのだが、毒があるのかないのかいまいち判然としない人だ。
「まあ……何にせよ、助けてもらったのにはお礼を言わないとね。ありがとう」
「いえいえー。私は案内しただけですから。
お礼を言うなら先生とここまで貴方を運んでくれたあの人に言ってください」
「……そうね。後者は気が進まないけど」
「あははは、でも格好いいですよねー、お連れの方。彼氏さんなんですか?」
「違う!」
電光石火で答える。彼女は大げさに驚きながら、
「そうなんですか? てっきりそうなものだと」
「何でよ?」
「だって、私、物凄い剣幕で聞かれましたし。病院はどこだー、って。
だからそうなんだろうなー、って」
―――そりゃ腕取れかかってる人間抱えてたら、普通焦るだろ。いくらあいつでもそこまで淡白じゃないっての。
胸中で突っ込みながら、頭のどこか冷めた部分が無駄だと語る。唐突に湧き上がった頭痛を抑えて、顔を上げる。
「……まあ、いいや。とにかく、宿の連中に伝えて置かないと」
「ああ、それでしたら、」
ステイシアが何か言いかけたときだった。
どたたたたたたたたたッ!!
廊下の向こうから轟音が響く。ステイシアが驚いてドアを見るが、カノンは達観した表情で明後日を見やった。
「大丈夫か、カノンッ!!」
ドアの蝶番が悲鳴を上げる速度で部屋の中へ突進してきた男へ、カノンは呆れた視線を送る。
「アルティオ……あんたさ、ここどこだか解ってる?」
「大丈夫か、誰にやられたんだ、死ぬなよ俺はまだお前を幸せにぐはぁッ!」
「って、噛むし。聞けよ人の話」
一人で騒いできっちり自爆してくれた彼に、特大の溜め息が漏れる。涙と鼻水で汚れた顔を近づけてくるアルティオを左手で何とか押し戻して睨んだ。
「あたしはこの通り、死んじゃいないからとりあえず落ち着きなさいって」
「いやッ! この仇討ちは絶対に俺が成す! 見ていてくれカノン!」
「って、ニュアンスで人を殺すんじゃない! 待てこら……」
止めようにもいつも通りに体が動くはずはなく、踵を返して再びドアに突進していくアルティオを……
ごがんッ!
……の、後頭部を点滴用のポールが強襲した。
「きゃあッ!?」
「ういーっす、無事、カノン?」
「……はいはい、一応無事よ」
何事もなかったかのようにポールを立て直すルナに、疲れた声色で答える。隣でステイシアが悲鳴を上げた気がしたが、まあいきなり人を殴り倒したりすれば当然の話なのかもしれない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
「ステイシア、放って置いていいわよ。すぐ復活するから」
「で、でも……」
駆け寄る看護士に諫めるカノン。ルナはそれこそ我関せずで近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。
「やー、災難だったらしいわねー」
「他人事……いや、他人事なんだろうけど何かムカつくわね」
「いてて……」
「あの、お怪我ありませんか?」
頭を摩りながら身を起こしたアルティオに、楚々と声をかけるステイシア。殊勝な娘だ。
いつもの通り、五体満足で復活したアルティオは、心配そうに覗き込んでくるいたいけな少女の姿を視界に捉え、ばっと凄まじい勢いで身を起こす。
少女の両手をしっかりと握りながら。
「お嬢さん、いや、白衣の天使様、ありがとうございます。出来ればどうかこの不肖の本当の天使に……」
カノンとルナの冷えた目が『また始まった』と語っている。アルティオのいつもの悪い癖だ。どうせフラれて終わりなのだから二人とも今さら気にもしない。
興味を失って自分たちの話に戻ろうとして、
「や、やめてくださいッ!!」
どがッ! ばきばきィッ!!
『……』
……数瞬後、目の前で起こった奇妙な現象にカノンもルナも言葉を失った。赤い頬で肩を上下させながら佇むステイシアと、つい先程までと同じような体勢で倒れこんでいるアルティオ=バーガックス。
いや、見てはいたのだ。刺客から取り込んだ情報を脳が受け入れきれていないだけで。
「……ねえ、ルナ」
「何?」
「今、あたしには彼女がアルティオの手を逆手に取って転がして床に打ち付けたように見えたんだけど?」
「奇遇ね、あたしにも同じように見えてたわよ」
その答えに固まりながら(実際、ろくに身体は動かせないのだが)頷く。うん、まさか二人一緒に白昼夢が見られるものだとは思っていなかった。
それとも自分は実は助かっておらず、ここは俗に言う死後の世界というやつなのか?
「す、ステイシア?」
やや引いた声をかける。と、彼女ははっとして居住まいを正しながら、
「やだ私ったら患者さんの前で……」
「いや、そういう問題じゃなくて……、貴方、強かったんだ……」
「いえ、いい加減に習った程度ですよ? 薬を届けにとか、患者さんの定期訪問とか、一人で遅くまで外にいることもありますから」
―――それにしちゃ逞しいだろ、手加減できてないっぽいし。
呆けた表情で顔を赤らめる彼女に、それ以上言う言葉もなく、
「いつつ……何だぁ?」
戸惑っているうちにアルティオが目を覚ます。さすが頑丈さが取り柄なだけはある。むくりと頭を抑えて起きる彼に、ステイシアが息を飲んだ。
それはそうだ。手加減なく投げ飛ばした相手が間もなく起き上がるなど、そうそう見ない光景だろう。
「見境なく手ぇ出すからよ」
「あっはっは、これくらい! カノンのいつもの愛のムチに比べたら屁でもねぇぜ!」
「そこであたしを引き合いに出すか……」
怪我で何も出来ないのが心底口惜しい。奴に代わってステイシアに謝って置こう。睨みを利かせて置いてから彼女を彼女を見上げ、
「……」
異変に気づく。
不自然に頬をさらに紅潮させた彼女がそこにいた。
どこかで見たことがある、というか常日頃見てる。これはあれだ、どこかの脳みそに花が咲いている極身近な女魔剣士が件の相棒に黄色い声を上げるときとそっくりな表情だ。
カノンでもそれくらいは察することが出来る。出来るのだが、何故このタイミングで、この状況下でこの人がそんな表情を浮かべているのかが理解できない。
自分よりはその手の手管に長けているだろう親友へ目を向けるが、彼女も彼女でステイシアへ目をやって眉間に皺を寄せている。どうやら同じ心境らしい。
カノンが葛藤しているうちにステイシアの方は色々と自己完結を終えたらしい。ぱたぱたとへたり込むアルティオへ駆け寄って、勢いづけて頭を下げる。
「ごめんなさい! 私のせいで……ッ!」
「へ? あ、いや、見ての通りぴんぴんしてるから大丈夫ッスよ。
けどお詫びにデートの一回くらいしてくれたら嬉しいかなー、ってくらいで」
二撃目くらいくれてやれ、とカノンもルナも思うのだが、しかし、彼女は逆にきらきらと目を輝かせ、
「はいッ! ぜひお連れくださいッ! そ、その、私、貴方となら……」
頬を染めたまま、もじもじし始めるステイシア。思わず顔を見合わせるカノンとルナ。言った当人さえも予想とかけ離れた返答だったらしく。ぽかんとしたまま、間の抜けた顔で彼女を眺めている。
生温い混沌と化した場を砕くようにカノンは彼女に声をかける。
「えーと、ステイシアさん?」
「はい?」
「つかぬことをお聞きしますけど……貴方、もしかしてそいつのこと気に入った、とか……」
顔色を伺いつつの問い。が、彼女はそれはそれは華やかな微笑みで、
「はい!」
「……ごめん、もの凄い失礼なこと聞くけど、どこが?」
「だって素敵じゃないですか。私、恋人にするならアルティオさんみたいに、私の技を喰らっても全然平気な丈夫な人って決めてたんです!」
確かに鮮やかに投げを決めた彼女を見る限り、彼女とそういう仲に当たって必要なのは頑丈さと忍耐な気はするが。
だがその定理はカノンの理解力を軽く超えていた。傷でただでさえ微熱が出ているというのに、さらに熱が上がりそうだ。
「何? 世の中には私の理解できない基準が存在するわけ? 何がどうなればそんな考えに……」
困惑から抜け出せないカノンの肩をぽん、と叩く手が一つ。
「世の中には色々な人がいるの。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものよ」
「……前から思ってたけどさ、あんたのそのやたらと達観した言動ってどっからくる」
「ときにステイシア」
―――うっわ、誤魔化しやがったこのアマ。
「そんなにそいつが気に入ったなら貸してあげるから、一緒に宿屋からカノンの荷物持って来てやってくれない?」
「はッ!?」
「いいんですかッ!?」
本人そっちのけで話を進めていくルナに、アルティオはうろたえてステイシアは目を輝かせる。
「仮にも女の子の荷物だし、男に任せるわけにいかないでしょ。あたしはちょこーっとカノンとお話があるし」
「でも私、看護士ですからカノンさんについてないと……」
「ついてるならそれなりの入院準備も手伝うのが一流看護士ってもんでしょ」
そんな定義は聞いたことがない。
しかし、ルナとの話を他人に聞かせていいものではないと理解していたカノンは矢継ぎ早に、
「あたしなら大丈夫だし、ルナについててもらうから。お願いします、ステイシアさん」
「カノンー!」
涙目でアルティオが何かを訴えるが見て見ぬ振りだ。自分で声をかけたのだからエスコートくらいしてもらわないと紳士とは言えまい。
カノンからの冷たい眼差しに、アルティオも覚悟を決めたらしい。
短く息を吐いて気合を入れるようにステイシアを振り返る。
「では参りましょう、お嬢さん。お手をどうぞ」
出来るなら最初からやれ。
ステイシアに聞こえる心配がなかったら遠慮なく口にしていただろう文句が頭に浮かぶ。差し出された無骨な手に、彼女は頬を染めながら細い自分の手を重ねる。
そこにあったのはさながら三流恋愛小説の一シーンだ。
異様なむず痒さがカノンの背を走る。
「カノン、すぐ戻ってくるからな! 待っててくれ、必ず俺がお前の仇をぉうッ!」
「さあ、アルティオさん! 早く行きましょう!」
拳を固めかけたアルティオは、腕を突かんで振り回したステイシアの力に負けてドアに激突した。そのまま彼女は引き摺るようにして彼を連こ……ではなく、デートへと誘っていく。
ぱたん、と閉められたドアを眺めてカノンは眉間に皺を寄せた。
「……大丈夫かしら?」
「まあ、あれでも一応自称フェミニストだし、頑丈が取り柄だし、大丈夫なんじゃない?」
自分で送り出しておいて難だが、無責任な言動だ。
「まあ、奴のことはさて置いて。とりあえず、カノン、あんたは大丈夫なの?」
持ち前の切り替えの速さでルナはベッドの上のカノンを見下ろした。身体を起こせないカノンはへらっ、と愛嬌程度に笑いながら、
「何とか。傷は塞がってるんだけど、体中の違和感が取れなくて」
「へぇ、こんな町に随分と腕のいい魔法医がいたもんね。それなら良かった。
……で」
ルナの声のトーンが下がる。その意味が理解できないほどカノンも愚鈍ではなかった。
おおよそのことはレンから聞いているはずだ。それが証拠に急に表情が暗く、厳しく吊りあがる。
「……あいつ、だったの?」
それが差すのは言うまでもなくクオノリアのあの"もの"。
彼女の機密研究をどこからか手に入れた、得体の知れないヒトガタの黒影。
「やられたのはあいつの……部下、なのかな? ともかく下に付いてるっぽい子供だけど」
「子供?」
きゅ、と眉根を寄せる。言いたいことは解る。子供相手にこんな重傷を負ったのか、と言いたいのだろう。
自分の汚点を語るのは好きではないのだが、今回に限ってはそれで彼女が納得するとも思えない。
「実は……」
「なるほど、ね……」
昨夜、気絶するまでの記憶のありったけを話し終え、ルナが呟いたのはその一言だった。
「何か心当たりある?」
「……いや、話だけじゃさすがに解んないわ。
竜種族との混血種[ハイブリッド]か、あるいはそれそのものが魔的な……そうね、使い魔みたいなものなのか。
あくまで仮説だから大きなことは言えないけど」
「そっか……」
はふ、と息を吐く。相手がわからないということは対抗手段が見つけにくい、ということだ。
敗北感と憂鬱。
その二つが重くカノンの肩に圧し掛かる。
前回もそうだった。結局、クオノリアに渦巻いていた陰謀を阻止することは出来たものの、到底勝ちとは言い難い代物だ。すべてはあの謎の人物に対して、すべてが後手後手に回ってしまった結果と言える。
「で、そいつはこっちを目的なく襲って来ただけなの?」
「……解らないわ。
何の算段もなく、人を襲ってくるような人間には見えないんだけど。理由なんて喋ってくれるわけないし。
ただ」
「ただ?」
「殺すつもりはない、みたいなことは言ってたわ。エノとかいう奴に『やりすぎだ』って随分怒ってたみたいだし。
前回も陰に隠れてあたしたちを観察してた、みたいなこと言ってたじゃない。
だから殺すというより何かに利用しようとしてるんだと思う。自信はないけど」
珍しく目尻を下げて口にする。
ルナはしばらく目を閉じて何事か考え込んでいた。カノンはぼうっとした頭で情報を整理しながらそれを待つ。
昨夜。
あの使い魔の少年の言い分はともかくとして、彼らはこちらを殺しに来たわけではないらしい。
だが、何故、わざわざ外におびき出してまでカノンを襲ったのか。深夜だったとはいえ、他人に目撃されるリスクを負ってまで、無目的な無意味な襲撃をするだろうか。
答えはノーだ。
あれだけ周到な人物だ。あの目立つ風貌を自覚しながらそんなリスクを負ってまで、戯れに人を襲ったりしないだろう。戦力を落すためか。いや、効率が悪すぎる。だったら一思いに殺されていてもいいはずだ。
となればそこには何らかの意図が存在する。
クオノリアの悲劇のように、周到に張り巡らされた意図が。
だがそれが見えて来ない。一体、何故。カノン一人をいたぶる必要があったのか。
堂々巡りの思考を続けているうちにルナが顔を上げた。気を取り直すべく、吐いた息。上げた顔はほんの少し笑んでいて、開いた手でカノンの前髪をそっと撫でた。
「ん……ちょっと、くすぐったいってば」
「怪我人は大人しくしてるもんよ。お疲れ様。
まあ、出来ることと言ったらもう一度あんたを襲ってくることを仮定して護衛することと、それとなく街中に聞き込みにいくことくらいね。
後手には回りたくないけど、情報が少なすぎるわ。
聞き込みやら何やらはあたしたちで何とかするから、あんたはとりあえず大人しく傷を治しなさい」
「う……」
「不満そうにしないの。
……一応、傷害罪だからね。政団にも応援を頼んで、護衛の形で数人張り付かせてるけど、あんまり期待は出来ないわ」
それはそうだ。何しろ相手はMWOを手玉に取った男。
政団員の数人で相手に出来るような奴じゃない。
「だからさっさとあんた自身が回復するのが一番いいのよ。悔しいのは解るけど、理解出来んでしょ、子供じゃないんだから」
「わ、わかってるわよ……それくらい」
拗ねたように毛布に顔を埋めるカノン。
妹分のその仕草が可愛くて、ルナはふっと微笑んで髪を梳いてやる。
「……ねえ、あの、ルナ」
「何?」
「その……怒って、た?」
主語や目的語などいらない。誰のことを差しているかなど明白だ。ルナは苦笑いを漏らす。ちょっとした悪戯心が、ああ、最近は疼きっ放しだなと思いながらもその悪魔の誘惑には勝てずに意地悪にも口を開く。
「うん、まー、見たところかーなりね。
無理ないんじゃない? 前回の今回だし。今回なんて文字通り一人で突っ走った結果だし。
お説教の一つや二つ、覚悟しておいた方がいいわね」
「うう……」
反論する術を持たないカノンは、被告人席に座られたような心持で視線を下げた。
その予想通りの反応に満足しながらルナはくすくすと声を上げて笑う。
「まあ、いいじゃない。あいつもしたくてしてるんじゃないんだから。
実際、かなりやばい状態だったわけだし。あいつはその状態のあんたを目の当たりにしたわけでしょ。
自分の相棒がそんなになったんだから、お説教の一つくらいしないと気が気じゃないのよ。
やー、もうカノンちゃんてば愛されてるぅv」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよッ! そんなわけないでしょ!」
そういえば何処に行ったのだろう。怪我で入院という事態だ。いつもなら目が覚めて、最初に喰らうのが彼のお説教なのに。
無意識に胸元を探って。
急に原因不明の激しい心細さが彼女を襲う。
―――ああ、そうか。壊れちゃったんだっけ……
「どうかした?」
「ううん、別に……」
気絶する寸前の千切れた鎖を思い出す。今もあの石畳に転がったままだろうか。かといって探しにいくことも出来ない。
悔しさとは別の苦い感情が喉元に込み上げて、カノンは顔が見えなくなるくらい深く毛布を被った。
ルナは特に何も言わない。
「ルナ」
「んー?」
「……あいつ、今どこにいるかな?」
彼女は「うーん」と軽く唸って、天井を眺めながら。
「あんたの熱が下がるまではいたらしいんだけどね。朝方、さっきの看護士さんに任せてどっか出かけたって。ちなみにシリアはそれ追っかけてった」
「……そ、っか」
「寂しい?」
「だからそんなわけないじゃないッ!!」
ムキになってなってカノンは毛布を跳ね上げた。あまりにも楽しそうなルナの表情に、手中にはまっていることに気づく。
頭に血が上っていく。ただでさえ微熱で精神制御が上手くいかないのに。
「あたし寝るッ!」
「はいはい、おやすみなさい♪」
ますます剥れた彼女はそれまでよりなお深く、干渉を拒絶するように毛布を被り直したのだった。
丸まった毛布の中身が静かになった頃合に、ルナはそっと毛布を剥がす。
ほんのり上気した頬を枕に押し付けて、目を閉じる少女がいた。ちょうどいいように毛布をかけ直してやると、「ううん」と呻いた後に寝返りを打とうとして体が動かないのか顔をしかめる。
が、さすがに体力が落ちているのだろう、そのまま目を覚ます事無く再び深い眠りに落ちていく。
その様に笑いを漏らしながら、ルナは椅子に座り直す。
「レンじゃなくても甘やかしたくなるわよねー、これじゃ」
妹分の幼馴染は文句なしに可愛いと思う。どこかの仏頂面や単純体力馬鹿ではないが、守ってやりたいとは思うし、心細そうにしていれば手を差し伸べずにはいられないだろう。
時折、その真っ直ぐな生き方に、焦がれてしまうけれど。
だが人一人を支えるという行為は言うほど易いものではない。
からからと笑いながら。
しかし、その目はふと途切れた笑いにすっと細められ、生真面目に吊りあがった。自然と握り締めた拳に力が入る。
「……………たら」
声にさえならない呟きが漏れる。……こんなことでは駄目だ。
ルナ=ディスナーという人間は能天気な魔道師。どんな場合でもお茶らけて突拍子もなくて、空気が重くなりかけたら可笑しな言動で払拭して。
そうして彼女のいい姉貴分でなくてはならない。
そういう人間なのだから。
ぱんぱんッ、と彼女は両側の頬を張る。
「う……ん…」
少女は呻いて寝返りの代わりか、ますます枕に頬を押し付ける。眉根を寄せているところを見ると、それほど快適な眠りではないらしい。
当たり前か、まだ微熱は引いていないのだ。
ふ、と笑ってルナはその額に浮いた汗を拭ってやる。
―――クオノリアの地で、かつて、自らが生み出した存在が彼女を傷つけた、その事実に悔恨と謝罪を、いつまでも繰り返しながら。
ああ、もう、自分以外の誰も傷付いて欲しくはないのに。
空回るのは誰も彼も同じ。
←2へ
―――ったく、何であたしがこんなことで煩わせられなきゃいけないのよ……
湿った髪を乱暴に掻き回しながら、ベッドに腰掛け、タオルを放り投げてそのまま横たわる。放り投げたタオルは狙い通りに側の椅子にかかって項垂れた。
はぁ、と吐き出した溜め息は夜の静寂に遮られて消える。
ちらり、と隣を見やると同室の彼女は既に可愛らしい寝息を立てていた。悩みを突きつけてくれた張本人のくせに呑気な。
―――……いや、まあ自分のことなんだから呑気も何もないんだけど……
「結婚、ねぇ……」
考えたこともなかった、というのが正直なところだ。そもそもこの五年間、色恋沙汰自体、疎遠だったと思われる。
……いや、だったというかそんなものを考えられるほどの暇はなかった、と言った方が正しいのか。確かにカノンに対して恋情を抱く者はアルティオを始め、ゼロではなかった。
もう随分前の、グリドリードで出会ったセルリアなど、なかなか大胆な真似をしてくれた。今頃、どこで何をしているだろうか。あまり心配はしていないけれど。
―――って、いかんいかん。
思考が逸れる。
結論から言えば考えても無駄なのだ。自分の周りにはあまりにも男の影がなさ過ぎる……いや、意図的に遠ざけ過ぎたというべきか。
そんな状態で生産的な答えがぱっ、と見つかるわけもない。
……それとも、今、接している男共のことを改めろとでも言うのだろうか。
確かにアルティオの周囲お構いなしの求愛には子供の頃からうんざりしている。だが、うんざりするの一言で切り捨てるにはもう子供ではいられない。
迷惑極まりない求愛の仕方だが、あれほど長く続いているのだから彼の気持ちはきっと嘘でも偽りでもないのだろう。そのこと自体に悪い気はしない。あれはあれでいいところもあるし、人情家で周囲さえ見ていればそれなりに好人物である。
今朝方、顔がどうのこうのでからかわれていたが、そう言われるほど醜悪な顔をしているわけでもない。むしろレンより愛嬌がある分、解りやすくていいというのがカノンの評価だった。
今までの人生の半分以上を剣技に費やしてきた自分やレンに比べたら劣るだろうが、あれでもいっぱしの双剣士だ。……つまりは実は取り立てて駄目な男というわけでもないのである。
「んー……」
じゃあ、何故その男の求愛を受ける気にならないのだろう。
―――簡単に言えば……好き、じゃないんだろうなぁ……
勿論、人間的な意味ではなく、伴侶や恋人として考えた場合である。一般的なものの見方なんて知らないが、少なくともカノンは彼とそういう仲になろうとは思っていないのだ。
……今のところはの話だけれど。
顔を横に向けた拍子にサイドテーブルに置いてあったネックレスが目に入った。手を伸ばし、何とはなしに拾い上げる。
第三政団に革命をもたらし、死術の全消滅と共に終局を見せたわずか半年前の事件。
すべてが目まぐるしくて、その最中に通り過ぎた誕生日のことなんて当人ですら忘れていたのに。
手渡した本人はいつも通りの無表情で照れてさえなかったけれど、考えてみれば随分とらしいものを貰ったものだ。
繰り返す戦いに気が休まらなかった中で、彼なりにご褒美でもくれたつもりなのか。それとも当時の狩人仲間との別離を済ませた直後で、それなりに寂しさを感じていたカノンを励ますつもりだったのか。
はたまた狩人の任を解かれ、ただの年頃の娘となったカノンに対して、普通の女の子が持つようなものを持たせる目的だったのか。
それ自体はやつれていた心身に、心底嬉しかったけれど。
考えてみれば真意は聞けないままで、いつのまにか半年も経過していた。
―――大した真意じゃない、って言っちゃえばそうなんだろうけど……
無条件に信頼出来る人間を一人挙げろと言われたら、カノンは当然レンの名前を出すだろう。やはり苦楽を共にした五年間は重い。
―――でもそれだけなのよね……
それ以上でも以下でもない。その間に何か色めいたことがあるかというと、ルナに言った通りなわけで……。
―――まあ、あいつがあたしに感けるわけないか……
呟いた脳裏に、朝の暴言が掠める。
『どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい』
ぷちっ。
「わぁるかったわね! どーせあたしは色気も可愛げも何もないただのガキよッ!!」
叫んでしまってからはっ、と口を押さえる。慌てて傍らを見やるが、杞憂だったらしい。ルナは小さく呻いただけで、相変わらず規則正しい寝息を立てていた。
ほっ、と肩を撫で下ろしてもそもそと毛布の中に戻る。
「……って、冷静になって考えようとしてたのに何で頭に来てるのよ、あたしは……」
気分が悪い。
―――ッたく! やっぱりこんなことは考えたって無駄よッ!
白馬の王子様を夢見るシンデレラなんてちゃんちゃらおかしいが、考えても仕方のないことだ。大体、全人類が結婚しなくてはいけないなんて法律は存在しない。
―――そんなのはないけど……
ちらり、と毛布から目だけを出して深い眠りについているルナを覗き見る。彼女もいつかどこかの誰かに嫁いだりするのだろうか。そんな物好きに知り合いはいなかったと思うが。
ルナだけではない。シリアもアルティオも、レンさえも。そういった可能性は秘めているのだ。相手が誰であるにしろ。
そうなったら。
そうなったら、そのとき自分はどんな顔をしていればいいのだろうか。
―――って、ああもう……取らぬ狸の皮算用だわ。誰が誰とくっつこうとあたしには関係ないじゃないの。
いらない思考ですっかり眠気が取れてしまった。幸い、クオノリアの一件が教えた用心のために服は上着を羽織ればいつもの状態になるようにして寝転がっていた。
オレンジのコートを羽織り、ベルトを締めて帯剣を欠かさずに。
髪を束ねて外に出る。
適当に夜風にでも当たれば気分も落ち着くだろう……。
「はー……」
酒臭い階下の空気を抜けると、一転してやや冷たい夜の風が髪を弄らせる。
つい一週間ほど前は夜になっても昼間の内に溜まった熱気が夜まで冷めやらず、寝苦しい夜を送っていたのに今では風が素肌に肌寒いくらいだ。
クオノリアの風は潮の香りがしたが、ここ―――ランカース・フィルの風は緑と水の匂いが混じる。
「どっちかっていうとこっちの匂いの方が好きかな。あたしは」
海の匂いも嫌いではなかった。だがカノンは元来、どちらかというと山の方の土地の出身だ。こういった匂いには懐かしさを感じる。
―――故郷、ね。
ふとルナの言葉を思い出す。
五年前、家出同然に家を出てそれから連絡も何も取っていない。カノンの育て親である祖母のカリスは裏の社会でもいろいろと顔の効く大人物だった。その気になれば自分の居場所などすぐに知れただろうに、連れ戻そうとしなかったのは旅に出ることを許してくれたのだ、と勝手に解釈してきたが、道理に外れたことをやっているのは否定できない。
―――……まあ、許す許さないはともかく、お仕置きのフルコースは確実だろーね……
昔、受けた修行と称する半虐待の仕置きを思い出し、身を震わせる。風の温度が一、二度下がった気さえした。
さすがに冷えてきてむき出しの二の腕を摩りながら宿へ戻ろうと―――
とんっ
「……?」
かすかな物音がカノンの鼓膜を振るわせる。時刻は深夜に届くか否か。宿屋が兼任でやっている酒場の灯ももうじき消える頃で、中にいるのは完全に酔いつぶれた独り者くらいのものだ。
そんな帳に。
聞こえる音など限られている。
無意識の内に、音の方向へ目をやって、
「!!」
カノンは息を飲んだ。
宿屋の向かいに佇む家屋の屋根の上。今日の月は半月。それを背景に、
たおやかに広がる黒の影。
「あれは―――ッ」
カノンの脳裏につい二週間ほど前に見た光景が鮮やかに蘇る。そのとき"それ"は血に染められた大地に立っていた。
漏らした声に、"彼"は一瞬だけ振り返る。風で肌蹴た黒髪に、包帯に包まれた素顔に、一点だけ全てを飲み込んでしまいそうな黒耀の瞳[かがやき]。
……あんな人間が二人も三人もいるわけがない。
彼はふい、と背を向けると軽やかに屋根を飛んで通りの向こうに消えていく。
一瞬の逡巡がカノンの中を駆け巡る。即ち追うか、否か。
得策ではないと知っていた。罠である可能性を危惧しなかったわけでもない。相手は何の技を使うかどころか、本当に人間なのかさえわからないのだ。深い詮索はしないのが身のためになる。
だが、先の事件が示す、"彼"を野放しにして置く危険性と手口の残酷さと卑劣さを知っていて、尚且つ人並み程度の正義感を持ち合わせていた彼女は、その暗い背を、夜風を切りながら追っていた。
空を見上げながら駆けるのは思いの外、難しい。
しかも夜道だ。足元の確認が出来ない。知らない道を目隠しで歩かされているのと変わらない。少しでも視線を外すと夜空に浮かぶ黒い影は、溶けて消えてしまうのだ。
―――くッ……
足場は当然こちらの方が有利なはずだ。屋根と屋根とを渡り歩くなどという芸当、普通なら絶対にとは言わないが容易なことでないのは明白だ。
そのはずなのに、距離は一向に縮まらない。
「くっそ!!」
これしきで息が乱れることはないが、終わりの見えない追いかけっこに不安が過ぎる。だが、それに潰されれば負けだ。
―――ッ!
不意に影が立ち止まる。ばさッ、と纏ったコートが風に鳴る。
「ッ! 待ちなさいッ!!」
屋根から影が下りた。下りた先は狭い向こう側の路地。
迷いなく石畳を蹴る。が、
「―――ッ!? いない……」
思わず呟く。
だが、その背後に。
「ッ!」
耳元で風が唸った。鍛え上げた神経が自然に身体を右側へと持っていく。
ちりッ、とした痛みが左腕に走った。
―――掠ったッ!?
顔を上げるよりも先に後ろ飛びに路地を逃れる。狭い場所を舞台にすることほど愚かなことはない。
左の腕に赤い線が走り、血が滲み出ていた。それに舌打ちしながら剣を抜く。
「ちぇ、はずしたか」
トーンの高い、少年の声が響いた。あの黒衣の少年のものではない。どちらかというと荒っぽい、粗暴な印象を受けるアルト。
視線を上げて目に入ったのは、
「――― 子供ッ?」
「子供じゃねぇよッ!!」
思わず口にすると倍以上のボリュームで怒鳴られた。
夜闇に浮かび上がった輪郭は、カノンよりも背が低い……年の頃なら十三、四の少年。
猫背に構えた姿で余計に低く感じる。
薄炎色の跳ねた髪、曝された肌は月明かりのせいで白く見えるが、その実やや焼けているのが伺えた。簡易的な服を纏っているが、肩掛けにかけた布だけがしっとりとした上質な光を返している。
紫がかった瞳はややつり目でひたすらな闘争心だけがその色を支配している。
「ンなこと言ったって……」
「ガキっていう方がガキだッ!」
―――小学生か、あんたは……
頭が痛くなってきた。
「ムッカつく! 殺すな、って言われてたけどお前、殺すッ!」
「ち、ちょっとッ!?」
問答無用もいいところだ。物騒な言葉を吐いて石畳を蹴る少年。
―――ッ!!
カノンの表情が引き攣った。反射的に左へ避ける。すぐさま、耳の脇を風が唸って過ぎた。
「ちッ!」
少年の舌打ちが聞こえる。筋肉質な二の腕を引いて、少年は間合いを取り直す。
カノンの頬を冷たい汗が伝う。
―――この子……速いッ!
攻撃は単調だが、ひたすら速い。動き自体はカノンの目でも追いきれない。動揺が彼女を襲う。
―――くッ!
背を向けるのは自殺行為だ。抜き放った剣を構え、迎撃態勢を取る。
ひゅんッ!
「ッ?」
カノンの目の前で少年の右の爪が伸びる。醜悪な曲線を描くそれは、さながら斬首刀[エクゼキューショナー]を髣髴とさせる。先程、カノンの腕を掠めたのもこれだろう。
―――冗談じゃないわよッ!
「うぉあああぁあぁあぁあぁッ!!」
「ッ!」
正面からの爪撃を何とか受け流し、隙だらけになった背へ斬撃を叩き込む。子供に刃を向けるのは気が進むものではないがこんな相手にそんな甘いことは言っていられない。
到底、避けられない間合い。が、
ぎんッ!!
「なッ!?」
無理な体勢から少年はなんと、カノンの剣の柄を後ろ蹴りで蹴飛ばした。既に人間技ではないが、さすがに威力はなく、カノンは飛ばされそうになる剣を握り直す。
が、その拍子に一瞬、動きが止まる。
ざしゅッ!!
「―――づあッ!?」
足を軸に反転した少年の爪がカノンの肩口を切り裂いた。焼け付くような痛みが身体を打ち付ける。
普通の人間ならショック死していたかもしれない。
それでもカノンは足に力を込めてその場を飛び退いた。
「う、くッ……」
膝を付きたくなるような痛みが左の肩を襲っている。だらだらと腕を伝う温い雫が痛みに現実味を突きつける。その場で気絶してしまいそうな激痛。
―――まずいな、こりゃ……
骨を痛めたか、左の腕がまったく動かない。
目の前の少年が爪に残った血液を五月蝿そうに払って、至極、詰まらなさそうに唇を尖らせる。
「なんだ……やる、って言ってたのに大したことないじゃん」
「……」
カノンは無言で刃を払った。
苦痛に歪む表情を繕いながら顔を上げる。
―――これは……ちょっと、引くしかないか……。
圧し掛かるような重い痛みが判断力を奪う。このまま刃を振るったところで、戦いが長引けば長引くほど最悪な想像が広がっていく。
幸いこの少年、信じ難い身体能力の持ち主だが戦い方のムラは隠せていない。要するに大雑把で隙が多いのだ。
その隙を突けば、痛みのハンデがあっても戦線離脱程度のことは出来るはず。
じりッ、とカノンは右足を下がらせる。
「逃げんなよッ!」
それに気がついた少年が跳んだ。カノンは左腕を庇いながら体勢を低く構える。少年は爪を振りかざし、首を抉ろうと切り込んで来る。
カノンは逆に一歩踏み出して右手の刃を振るった。
銀の煌きに、少年が爪の起動を逸らす。その一瞬の隙に、カノンは大きく後ろへ跳んだ。
少年が舌打ちをする。少年は前のめりに倒れていくような、不安定な体勢だ。さすがにここからでは立て直しがなくては動けまい。
そのわずかな合間にカノンは踵を返そうと、
「よっとッ!!」
「―――ッ!?」
少年は重力に任せるまま、石畳に右の手の平を着いた。その状態で勢いを殺さずに、腕のばねだけで前方に跳ぶ。
普通なら、そのまま石畳に突っ込んで終わりだ。だが、
ばさッ!!!
「な―――ッ!?」
少年の背に。
唐突に浅黒い緑色の翼が広がった。蝙蝠のそれを思わせる二翼は風に弄られて広がって、少年の身体を持ち上げる。
―――半竜人ッ!? いや、まさか無茶苦茶なッ!?
「おらあぁぁああぁああぁあッ!!」
「―――ッ!」
握り締めた左の拳がカノンに迫る。何とか身を捻る、が拍子の悪い体勢にそれだけでは足りず、
がごッ!!
「―――ッ!」
苦痛の悲鳴が喉元に持ち上がって、あまりの鈍痛に逆に消え失せる。
少年の拳がカノンの右肩を石畳に縫い止めていた。重い馬鹿力の拳と固い石畳に挟まれた脆い骨は悲鳴を上げて妙な音を立てた。からん、と乾いた声を残して剣が手の平から滑り落ちる。
鈍痛が肩から全身を駆け抜けて脳天まで突き上げる。
その痛みに呻きさえ漏らすことが出来ない。
それでも耐性の出来た身体は意識を手放すことは許さずに、はっとしてカノンは足に力を込めて無理矢理身を起こし、体当たりで少年を突き飛ばす。
だが、少年は突き飛ばされるより前にわずかに身を引いて鋭い蹴りを放っていた。
―――しまッ……
避けられるはずもない。
どがッ!! ちりん。
―――が、ぁ……ッ
吐き出した胃液に血が混じっていた。みぞおちを直撃した一撃は、そのままカノンの身体を吹き飛ばし、近くの民家の壁へ彼女の体を激突させる。
何故か耳元で、わずかな金属音が鳴った気がした。
咄嗟に取った受身のおかげで何とか内臓は守れたようだが、口の中を切ってしまった。
叩きつけられた全身がずきずきと、体全体にひびが入っていくような錯覚に囚われる。
咳き込みながら何とか顔を上げる。不自然に薄笑いを浮かべた少年が、爪を歪めて近づいて来る。
低い、笑いが漏れた。
「言っただろ、殺してやるってッ!!!」
「ッ!」
振りあがる爪に、奥歯を噛み締める。動かない身体を圧倒的な痛みに堪えながら交わそうと……
「……やり過ぎだよ、エノ」
静かな。
熱の上がったその場に不釣合いな、全てを凍りつかせるような、冷ややかな声が降りた。
少年の顔から血の気が引いていく。はっ、として顔を上げ、慌てたように周囲を見回す。
黒々と佇む町並みの、一つの屋根の上に、その影は腰掛けていた。靡く黒の暗幕に、少年が息を飲んで萎縮する。
"彼"はしばらく無言だった。
やがて少年を見下ろすのを止め、身体の動かせない少女を見やって息を吐く。
「誰もそこまでやれ、とは指示を出していないよ?」
「だ、だってよッ……」
「エノ」
少年の名前だろうか。有無を言わさぬ響きを孕んで、心なしか怒りさえ漂わせながら"彼"は何かの宣告のように告げる。
威圧か、身体に走る得体の知れない恐怖にか、少年はそれ以上何も言うことが出来ずに項垂れる。きりきりと歯を鳴らし、凄まじい形相でこちらを睨んでから翼を広げた。
「わぁったよ! ここまでにしとくよッ! それでいいんだろッ!
けどオマエッ! 次は絶対に殺すからなッ!!!」
少年はびっ、と指を差してこちらを威嚇してから背を向ける。
そのとき。
「エノッ!」
安穏と見守っていた"彼"から激が飛んだ。声に少年が振り返るより先に、黒衣の影から白い符が放たれて、少年の背で軽く爆縮する。
「な、なんだ……ッ!」
「ちッ」
とん、と軽く石畳を蹴る音。
薄い煙を刃で払って、少年の背に斬り込もうとしていた男はカノンを庇うようにして剣を持ち上げる。
―――レン……
背を向ける青い背中が、何かどうしようもなく悔しかった。結局、彼の言う通りになってしまった。
「……引くよ、エノ」
「いいのかよッ」
「エノ」
「―――ッ!」
容赦のない、一方的な宣言に少年は唇を噛みながらも後退る。そのまま翼を広げて屋根まで逃れ、暗闇に溶けるように消える影を追って飛び去った。
レンは追わない。
完全に気配が消えたことを確認してから剣を収める。
がくり、と力が抜ける。壁からずるり、と身体が落ちて石畳へ情けなくも横たわった。
踵を返して振り返ったレンの表情が、珍しくも変わる。……そんなに、まずいなりをしていたのだろうか。彼の血相が変わる様を久しぶりに見た。
何かを口にしている。何度も。必死の形相で。
あれは……ああ、そうか、自分の名前だ。でもそれも聞こえないくらい眠かった。
抱き上げられた体に、何故か痛みは走らなかった。
―――あ
霞がかった視界に、石畳に散った血液と投げ出された何かきらきら光るもの。
あれは、……そうか、鎖だ。蹴り飛ばされた瞬間に、首にかけていたネックレスの鎖がはじけ飛んだのか。
側に落ちているだろうリングを探そうにもまともに首も動かない。
ない。
―――っ、うっく……
悔しさと、得体の知れない苦い感情が体の中を渦巻いた。目の端に熱い何かが込み上げる。
体が熱い。圧倒的な喪失感が喉元まで吐き気を上らせる。
抱え上げた彼女にはっきりした反応がないことを不安に思ったのか、レンが立ち上がる。その空に浮かぶ感覚を最後に、カノンの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
←1へ
湿った髪を乱暴に掻き回しながら、ベッドに腰掛け、タオルを放り投げてそのまま横たわる。放り投げたタオルは狙い通りに側の椅子にかかって項垂れた。
はぁ、と吐き出した溜め息は夜の静寂に遮られて消える。
ちらり、と隣を見やると同室の彼女は既に可愛らしい寝息を立てていた。悩みを突きつけてくれた張本人のくせに呑気な。
―――……いや、まあ自分のことなんだから呑気も何もないんだけど……
「結婚、ねぇ……」
考えたこともなかった、というのが正直なところだ。そもそもこの五年間、色恋沙汰自体、疎遠だったと思われる。
……いや、だったというかそんなものを考えられるほどの暇はなかった、と言った方が正しいのか。確かにカノンに対して恋情を抱く者はアルティオを始め、ゼロではなかった。
もう随分前の、グリドリードで出会ったセルリアなど、なかなか大胆な真似をしてくれた。今頃、どこで何をしているだろうか。あまり心配はしていないけれど。
―――って、いかんいかん。
思考が逸れる。
結論から言えば考えても無駄なのだ。自分の周りにはあまりにも男の影がなさ過ぎる……いや、意図的に遠ざけ過ぎたというべきか。
そんな状態で生産的な答えがぱっ、と見つかるわけもない。
……それとも、今、接している男共のことを改めろとでも言うのだろうか。
確かにアルティオの周囲お構いなしの求愛には子供の頃からうんざりしている。だが、うんざりするの一言で切り捨てるにはもう子供ではいられない。
迷惑極まりない求愛の仕方だが、あれほど長く続いているのだから彼の気持ちはきっと嘘でも偽りでもないのだろう。そのこと自体に悪い気はしない。あれはあれでいいところもあるし、人情家で周囲さえ見ていればそれなりに好人物である。
今朝方、顔がどうのこうのでからかわれていたが、そう言われるほど醜悪な顔をしているわけでもない。むしろレンより愛嬌がある分、解りやすくていいというのがカノンの評価だった。
今までの人生の半分以上を剣技に費やしてきた自分やレンに比べたら劣るだろうが、あれでもいっぱしの双剣士だ。……つまりは実は取り立てて駄目な男というわけでもないのである。
「んー……」
じゃあ、何故その男の求愛を受ける気にならないのだろう。
―――簡単に言えば……好き、じゃないんだろうなぁ……
勿論、人間的な意味ではなく、伴侶や恋人として考えた場合である。一般的なものの見方なんて知らないが、少なくともカノンは彼とそういう仲になろうとは思っていないのだ。
……今のところはの話だけれど。
顔を横に向けた拍子にサイドテーブルに置いてあったネックレスが目に入った。手を伸ばし、何とはなしに拾い上げる。
第三政団に革命をもたらし、死術の全消滅と共に終局を見せたわずか半年前の事件。
すべてが目まぐるしくて、その最中に通り過ぎた誕生日のことなんて当人ですら忘れていたのに。
手渡した本人はいつも通りの無表情で照れてさえなかったけれど、考えてみれば随分とらしいものを貰ったものだ。
繰り返す戦いに気が休まらなかった中で、彼なりにご褒美でもくれたつもりなのか。それとも当時の狩人仲間との別離を済ませた直後で、それなりに寂しさを感じていたカノンを励ますつもりだったのか。
はたまた狩人の任を解かれ、ただの年頃の娘となったカノンに対して、普通の女の子が持つようなものを持たせる目的だったのか。
それ自体はやつれていた心身に、心底嬉しかったけれど。
考えてみれば真意は聞けないままで、いつのまにか半年も経過していた。
―――大した真意じゃない、って言っちゃえばそうなんだろうけど……
無条件に信頼出来る人間を一人挙げろと言われたら、カノンは当然レンの名前を出すだろう。やはり苦楽を共にした五年間は重い。
―――でもそれだけなのよね……
それ以上でも以下でもない。その間に何か色めいたことがあるかというと、ルナに言った通りなわけで……。
―――まあ、あいつがあたしに感けるわけないか……
呟いた脳裏に、朝の暴言が掠める。
『どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい』
ぷちっ。
「わぁるかったわね! どーせあたしは色気も可愛げも何もないただのガキよッ!!」
叫んでしまってからはっ、と口を押さえる。慌てて傍らを見やるが、杞憂だったらしい。ルナは小さく呻いただけで、相変わらず規則正しい寝息を立てていた。
ほっ、と肩を撫で下ろしてもそもそと毛布の中に戻る。
「……って、冷静になって考えようとしてたのに何で頭に来てるのよ、あたしは……」
気分が悪い。
―――ッたく! やっぱりこんなことは考えたって無駄よッ!
白馬の王子様を夢見るシンデレラなんてちゃんちゃらおかしいが、考えても仕方のないことだ。大体、全人類が結婚しなくてはいけないなんて法律は存在しない。
―――そんなのはないけど……
ちらり、と毛布から目だけを出して深い眠りについているルナを覗き見る。彼女もいつかどこかの誰かに嫁いだりするのだろうか。そんな物好きに知り合いはいなかったと思うが。
ルナだけではない。シリアもアルティオも、レンさえも。そういった可能性は秘めているのだ。相手が誰であるにしろ。
そうなったら。
そうなったら、そのとき自分はどんな顔をしていればいいのだろうか。
―――って、ああもう……取らぬ狸の皮算用だわ。誰が誰とくっつこうとあたしには関係ないじゃないの。
いらない思考ですっかり眠気が取れてしまった。幸い、クオノリアの一件が教えた用心のために服は上着を羽織ればいつもの状態になるようにして寝転がっていた。
オレンジのコートを羽織り、ベルトを締めて帯剣を欠かさずに。
髪を束ねて外に出る。
適当に夜風にでも当たれば気分も落ち着くだろう……。
「はー……」
酒臭い階下の空気を抜けると、一転してやや冷たい夜の風が髪を弄らせる。
つい一週間ほど前は夜になっても昼間の内に溜まった熱気が夜まで冷めやらず、寝苦しい夜を送っていたのに今では風が素肌に肌寒いくらいだ。
クオノリアの風は潮の香りがしたが、ここ―――ランカース・フィルの風は緑と水の匂いが混じる。
「どっちかっていうとこっちの匂いの方が好きかな。あたしは」
海の匂いも嫌いではなかった。だがカノンは元来、どちらかというと山の方の土地の出身だ。こういった匂いには懐かしさを感じる。
―――故郷、ね。
ふとルナの言葉を思い出す。
五年前、家出同然に家を出てそれから連絡も何も取っていない。カノンの育て親である祖母のカリスは裏の社会でもいろいろと顔の効く大人物だった。その気になれば自分の居場所などすぐに知れただろうに、連れ戻そうとしなかったのは旅に出ることを許してくれたのだ、と勝手に解釈してきたが、道理に外れたことをやっているのは否定できない。
―――……まあ、許す許さないはともかく、お仕置きのフルコースは確実だろーね……
昔、受けた修行と称する半虐待の仕置きを思い出し、身を震わせる。風の温度が一、二度下がった気さえした。
さすがに冷えてきてむき出しの二の腕を摩りながら宿へ戻ろうと―――
とんっ
「……?」
かすかな物音がカノンの鼓膜を振るわせる。時刻は深夜に届くか否か。宿屋が兼任でやっている酒場の灯ももうじき消える頃で、中にいるのは完全に酔いつぶれた独り者くらいのものだ。
そんな帳に。
聞こえる音など限られている。
無意識の内に、音の方向へ目をやって、
「!!」
カノンは息を飲んだ。
宿屋の向かいに佇む家屋の屋根の上。今日の月は半月。それを背景に、
たおやかに広がる黒の影。
「あれは―――ッ」
カノンの脳裏につい二週間ほど前に見た光景が鮮やかに蘇る。そのとき"それ"は血に染められた大地に立っていた。
漏らした声に、"彼"は一瞬だけ振り返る。風で肌蹴た黒髪に、包帯に包まれた素顔に、一点だけ全てを飲み込んでしまいそうな黒耀の瞳[かがやき]。
……あんな人間が二人も三人もいるわけがない。
彼はふい、と背を向けると軽やかに屋根を飛んで通りの向こうに消えていく。
一瞬の逡巡がカノンの中を駆け巡る。即ち追うか、否か。
得策ではないと知っていた。罠である可能性を危惧しなかったわけでもない。相手は何の技を使うかどころか、本当に人間なのかさえわからないのだ。深い詮索はしないのが身のためになる。
だが、先の事件が示す、"彼"を野放しにして置く危険性と手口の残酷さと卑劣さを知っていて、尚且つ人並み程度の正義感を持ち合わせていた彼女は、その暗い背を、夜風を切りながら追っていた。
空を見上げながら駆けるのは思いの外、難しい。
しかも夜道だ。足元の確認が出来ない。知らない道を目隠しで歩かされているのと変わらない。少しでも視線を外すと夜空に浮かぶ黒い影は、溶けて消えてしまうのだ。
―――くッ……
足場は当然こちらの方が有利なはずだ。屋根と屋根とを渡り歩くなどという芸当、普通なら絶対にとは言わないが容易なことでないのは明白だ。
そのはずなのに、距離は一向に縮まらない。
「くっそ!!」
これしきで息が乱れることはないが、終わりの見えない追いかけっこに不安が過ぎる。だが、それに潰されれば負けだ。
―――ッ!
不意に影が立ち止まる。ばさッ、と纏ったコートが風に鳴る。
「ッ! 待ちなさいッ!!」
屋根から影が下りた。下りた先は狭い向こう側の路地。
迷いなく石畳を蹴る。が、
「―――ッ!? いない……」
思わず呟く。
だが、その背後に。
「ッ!」
耳元で風が唸った。鍛え上げた神経が自然に身体を右側へと持っていく。
ちりッ、とした痛みが左腕に走った。
―――掠ったッ!?
顔を上げるよりも先に後ろ飛びに路地を逃れる。狭い場所を舞台にすることほど愚かなことはない。
左の腕に赤い線が走り、血が滲み出ていた。それに舌打ちしながら剣を抜く。
「ちぇ、はずしたか」
トーンの高い、少年の声が響いた。あの黒衣の少年のものではない。どちらかというと荒っぽい、粗暴な印象を受けるアルト。
視線を上げて目に入ったのは、
「――― 子供ッ?」
「子供じゃねぇよッ!!」
思わず口にすると倍以上のボリュームで怒鳴られた。
夜闇に浮かび上がった輪郭は、カノンよりも背が低い……年の頃なら十三、四の少年。
猫背に構えた姿で余計に低く感じる。
薄炎色の跳ねた髪、曝された肌は月明かりのせいで白く見えるが、その実やや焼けているのが伺えた。簡易的な服を纏っているが、肩掛けにかけた布だけがしっとりとした上質な光を返している。
紫がかった瞳はややつり目でひたすらな闘争心だけがその色を支配している。
「ンなこと言ったって……」
「ガキっていう方がガキだッ!」
―――小学生か、あんたは……
頭が痛くなってきた。
「ムッカつく! 殺すな、って言われてたけどお前、殺すッ!」
「ち、ちょっとッ!?」
問答無用もいいところだ。物騒な言葉を吐いて石畳を蹴る少年。
―――ッ!!
カノンの表情が引き攣った。反射的に左へ避ける。すぐさま、耳の脇を風が唸って過ぎた。
「ちッ!」
少年の舌打ちが聞こえる。筋肉質な二の腕を引いて、少年は間合いを取り直す。
カノンの頬を冷たい汗が伝う。
―――この子……速いッ!
攻撃は単調だが、ひたすら速い。動き自体はカノンの目でも追いきれない。動揺が彼女を襲う。
―――くッ!
背を向けるのは自殺行為だ。抜き放った剣を構え、迎撃態勢を取る。
ひゅんッ!
「ッ?」
カノンの目の前で少年の右の爪が伸びる。醜悪な曲線を描くそれは、さながら斬首刀[エクゼキューショナー]を髣髴とさせる。先程、カノンの腕を掠めたのもこれだろう。
―――冗談じゃないわよッ!
「うぉあああぁあぁあぁあぁッ!!」
「ッ!」
正面からの爪撃を何とか受け流し、隙だらけになった背へ斬撃を叩き込む。子供に刃を向けるのは気が進むものではないがこんな相手にそんな甘いことは言っていられない。
到底、避けられない間合い。が、
ぎんッ!!
「なッ!?」
無理な体勢から少年はなんと、カノンの剣の柄を後ろ蹴りで蹴飛ばした。既に人間技ではないが、さすがに威力はなく、カノンは飛ばされそうになる剣を握り直す。
が、その拍子に一瞬、動きが止まる。
ざしゅッ!!
「―――づあッ!?」
足を軸に反転した少年の爪がカノンの肩口を切り裂いた。焼け付くような痛みが身体を打ち付ける。
普通の人間ならショック死していたかもしれない。
それでもカノンは足に力を込めてその場を飛び退いた。
「う、くッ……」
膝を付きたくなるような痛みが左の肩を襲っている。だらだらと腕を伝う温い雫が痛みに現実味を突きつける。その場で気絶してしまいそうな激痛。
―――まずいな、こりゃ……
骨を痛めたか、左の腕がまったく動かない。
目の前の少年が爪に残った血液を五月蝿そうに払って、至極、詰まらなさそうに唇を尖らせる。
「なんだ……やる、って言ってたのに大したことないじゃん」
「……」
カノンは無言で刃を払った。
苦痛に歪む表情を繕いながら顔を上げる。
―――これは……ちょっと、引くしかないか……。
圧し掛かるような重い痛みが判断力を奪う。このまま刃を振るったところで、戦いが長引けば長引くほど最悪な想像が広がっていく。
幸いこの少年、信じ難い身体能力の持ち主だが戦い方のムラは隠せていない。要するに大雑把で隙が多いのだ。
その隙を突けば、痛みのハンデがあっても戦線離脱程度のことは出来るはず。
じりッ、とカノンは右足を下がらせる。
「逃げんなよッ!」
それに気がついた少年が跳んだ。カノンは左腕を庇いながら体勢を低く構える。少年は爪を振りかざし、首を抉ろうと切り込んで来る。
カノンは逆に一歩踏み出して右手の刃を振るった。
銀の煌きに、少年が爪の起動を逸らす。その一瞬の隙に、カノンは大きく後ろへ跳んだ。
少年が舌打ちをする。少年は前のめりに倒れていくような、不安定な体勢だ。さすがにここからでは立て直しがなくては動けまい。
そのわずかな合間にカノンは踵を返そうと、
「よっとッ!!」
「―――ッ!?」
少年は重力に任せるまま、石畳に右の手の平を着いた。その状態で勢いを殺さずに、腕のばねだけで前方に跳ぶ。
普通なら、そのまま石畳に突っ込んで終わりだ。だが、
ばさッ!!!
「な―――ッ!?」
少年の背に。
唐突に浅黒い緑色の翼が広がった。蝙蝠のそれを思わせる二翼は風に弄られて広がって、少年の身体を持ち上げる。
―――半竜人ッ!? いや、まさか無茶苦茶なッ!?
「おらあぁぁああぁああぁあッ!!」
「―――ッ!」
握り締めた左の拳がカノンに迫る。何とか身を捻る、が拍子の悪い体勢にそれだけでは足りず、
がごッ!!
「―――ッ!」
苦痛の悲鳴が喉元に持ち上がって、あまりの鈍痛に逆に消え失せる。
少年の拳がカノンの右肩を石畳に縫い止めていた。重い馬鹿力の拳と固い石畳に挟まれた脆い骨は悲鳴を上げて妙な音を立てた。からん、と乾いた声を残して剣が手の平から滑り落ちる。
鈍痛が肩から全身を駆け抜けて脳天まで突き上げる。
その痛みに呻きさえ漏らすことが出来ない。
それでも耐性の出来た身体は意識を手放すことは許さずに、はっとしてカノンは足に力を込めて無理矢理身を起こし、体当たりで少年を突き飛ばす。
だが、少年は突き飛ばされるより前にわずかに身を引いて鋭い蹴りを放っていた。
―――しまッ……
避けられるはずもない。
どがッ!! ちりん。
―――が、ぁ……ッ
吐き出した胃液に血が混じっていた。みぞおちを直撃した一撃は、そのままカノンの身体を吹き飛ばし、近くの民家の壁へ彼女の体を激突させる。
何故か耳元で、わずかな金属音が鳴った気がした。
咄嗟に取った受身のおかげで何とか内臓は守れたようだが、口の中を切ってしまった。
叩きつけられた全身がずきずきと、体全体にひびが入っていくような錯覚に囚われる。
咳き込みながら何とか顔を上げる。不自然に薄笑いを浮かべた少年が、爪を歪めて近づいて来る。
低い、笑いが漏れた。
「言っただろ、殺してやるってッ!!!」
「ッ!」
振りあがる爪に、奥歯を噛み締める。動かない身体を圧倒的な痛みに堪えながら交わそうと……
「……やり過ぎだよ、エノ」
静かな。
熱の上がったその場に不釣合いな、全てを凍りつかせるような、冷ややかな声が降りた。
少年の顔から血の気が引いていく。はっ、として顔を上げ、慌てたように周囲を見回す。
黒々と佇む町並みの、一つの屋根の上に、その影は腰掛けていた。靡く黒の暗幕に、少年が息を飲んで萎縮する。
"彼"はしばらく無言だった。
やがて少年を見下ろすのを止め、身体の動かせない少女を見やって息を吐く。
「誰もそこまでやれ、とは指示を出していないよ?」
「だ、だってよッ……」
「エノ」
少年の名前だろうか。有無を言わさぬ響きを孕んで、心なしか怒りさえ漂わせながら"彼"は何かの宣告のように告げる。
威圧か、身体に走る得体の知れない恐怖にか、少年はそれ以上何も言うことが出来ずに項垂れる。きりきりと歯を鳴らし、凄まじい形相でこちらを睨んでから翼を広げた。
「わぁったよ! ここまでにしとくよッ! それでいいんだろッ!
けどオマエッ! 次は絶対に殺すからなッ!!!」
少年はびっ、と指を差してこちらを威嚇してから背を向ける。
そのとき。
「エノッ!」
安穏と見守っていた"彼"から激が飛んだ。声に少年が振り返るより先に、黒衣の影から白い符が放たれて、少年の背で軽く爆縮する。
「な、なんだ……ッ!」
「ちッ」
とん、と軽く石畳を蹴る音。
薄い煙を刃で払って、少年の背に斬り込もうとしていた男はカノンを庇うようにして剣を持ち上げる。
―――レン……
背を向ける青い背中が、何かどうしようもなく悔しかった。結局、彼の言う通りになってしまった。
「……引くよ、エノ」
「いいのかよッ」
「エノ」
「―――ッ!」
容赦のない、一方的な宣言に少年は唇を噛みながらも後退る。そのまま翼を広げて屋根まで逃れ、暗闇に溶けるように消える影を追って飛び去った。
レンは追わない。
完全に気配が消えたことを確認してから剣を収める。
がくり、と力が抜ける。壁からずるり、と身体が落ちて石畳へ情けなくも横たわった。
踵を返して振り返ったレンの表情が、珍しくも変わる。……そんなに、まずいなりをしていたのだろうか。彼の血相が変わる様を久しぶりに見た。
何かを口にしている。何度も。必死の形相で。
あれは……ああ、そうか、自分の名前だ。でもそれも聞こえないくらい眠かった。
抱き上げられた体に、何故か痛みは走らなかった。
―――あ
霞がかった視界に、石畳に散った血液と投げ出された何かきらきら光るもの。
あれは、……そうか、鎖だ。蹴り飛ばされた瞬間に、首にかけていたネックレスの鎖がはじけ飛んだのか。
側に落ちているだろうリングを探そうにもまともに首も動かない。
ない。
―――っ、うっく……
悔しさと、得体の知れない苦い感情が体の中を渦巻いた。目の端に熱い何かが込み上げる。
体が熱い。圧倒的な喪失感が喉元まで吐き気を上らせる。
抱え上げた彼女にはっきりした反応がないことを不安に思ったのか、レンが立ち上がる。その空に浮かぶ感覚を最後に、カノンの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
←1へ
―――毎度毎度のことながら。
ばたんッ!! がろごろ、がたん、ごろッ! どすんッ!!!
「……」
爽やかなはずの朝の一時に響き渡る不快な騒音。カウンターの向こうの厨房で、フライパンを握ったままびっくりして顔を上げる宿屋の主人、驚いて視線を階段下に投げる他の客たち。
対して、
「またか……」
「はぁ……」
「よっく続くわねー、どうも」
カノン、ルナ、アルティオの計三名の反応は極々冷めていた。
階段を転げ落ち、ぴくぴくと痙攣したままのソレを追うように、極静かにぱたん、とドアの音。階段をゆっくりと下る音が聞こえて、ばさり、と青のマントを翻して彼は階下に降りた。
まだ復活できていないソレを視界の端に捕らえ、短く鼻を鳴らすと何事もなかったかのようにテーブルに着く。
「……おはよ」
「お早う」
「で、今朝は何だったの?」
―――何故、微妙に楽しそうか、ルナ。
「……勝手に人のベッドに入ろうとしたからな」
「何だ、いつもじゃん」
――― 一応、いつもあっちゃいけない内容なんだけどね。
突っ込む気も起きなくて心の中だけで悪態を吐く。そうこうしているうちに、階段下で蹲っていた物体が、もぞもぞと動いて、不意にばっ、と身を起こす。
脅えて引く他の客。
ソレは乱れた髪を掻き揚げてかつん、と一つヒールを鳴らしてから何の演出なのか豊満な胸を揺らしながらやたら優雅に歩き、テーブルに着く。
「ふっ、今日もなかなかに痛かったわ」
「じゃあ、やめりゃあいいじゃん」
「わかってないわね。これは照れ隠しの愛のムチに決まってるじゃない。ねぇ、レンv」
「とりあえずコーヒーを頼む。苦めでな」
「うわ、完全に無視したッ!?」
回を追うごとにさらに冷めてきているような感さえ受ける。
「ったくまあ、よく続くわねー……」
しれっとした表情で運ばれてきたコーヒーを口に運ぶレン。呆れた声で吐き出して、傍らの親友に話を振ろうとしたルナは、ふと言葉を止める。
諦めずに果敢に件の無表情に絡むシリアに対し。
彼女はただ憮然とした表情で目玉焼きを突付いていた。
ルナはそのまま何も言わずに、ただ肩を竦め、呆れ果てたような息を一つ、吐いたのだった。
Death Player Hunterカノン
―剣奉る巫女―
「っていうかさー、思うけどアルティオはそういうのしないよね」
一通りの朝食が終わり、各々デザートと食後の飲み物を堪能していると、不意にルナがそんな話題を振ってくる。
「何が?」
「いや、だから何? アタックとは名ばかりの変態紛いの犯罪ストーカー行為?」
「……いや、まあ、否定はしないけど」
―――下手なこと言って本当にされても困るし。
心の中だけで付け足して置く。だが反してアルティオは掻き揚げるだけの髪の長さもないくせに、格好だけは付けながら、
「俺みたいな紳士がそんなことするはずないだろう?」
「……本当の紳士はほんの少し褒めたくらいで図に乗って教会に拉致しようとしたりしないけどね」
ジト目で睨んでやると、頬に一筋の汗。聞こえよがしに溜め息を吐いてやる。
「ってかさ、あんた、カノンが狙いなら何でそこら辺でナンパばっかしてんのよ? それじゃ振り向くも何もないと思うけど。ねえ?」
「いや、あたしに振られても困る」
思わず本音が漏れた。
アルティオは何やら難しい顔で腕を組み、唸りつつ、
「しかしな、可愛い子がいたら衝動的に声をかけたくなる。それが男の本能というものだろう?なあ?」
「……変な趣味と思われても嫌だから否定はしないが、その衝動を堪えるのが人間であることの証明だろう?」
「って、人間否定かよおいッ!! 酷ッ!!」
同性に振って逆に涙する。まあ、レンに振ること自体が選択の間違いだ。
「くぅ、ここに俺の味方はいないのかッ!」
「今さら気づいたんかい」
「これだから世論はよぉ……男に冷たいよなぁ」
「いや、世論て」
「考えてもみろッ! シリアだからまだ笑い話で済むが、同じことを俺がカノンにやったら通報されても文句は言えまい!? ただの変態の犯罪者だ!」
「いや、どっちにしろ変態だし、じゅーぶん通報していい気がするけど」
「他にもだ! 例えば女性が間違って男子トイレに入ったとしても『きゃあ、すみません』の一言なのに男が女子トイレに入ってみろ! 瞬く間に誹謗中傷の嵐だぞッ!?」
「ンなえげつない話を大声ですなッ!!」
どがしゃあんッ!!!
立ち上がってまで力説するアルティオの後頭部に、カノンの肘がのめり込んでテーブルへ沈めた。顔面から激突したテーブルにひびが入る。
……他の客の注目を浴びるのは覚悟の上なのだが、その中にうんうんと涙ながらに頷いている男共がいるのはどういうことなのか……。
―――男って……
「いって、何するんだよカノン……」
「……石頭ね」
あっさり起き上がったアルティオに、呆れた溜め息を吐く。
「まー、アルティオは頑丈さだけが取り柄だからねー」
「……お前らなぁ」
「いや、事実だし」
「頑丈さが取り柄っていうけどな! じゃあ、アレの取り柄は何だってんだ!? ってか、俺とどう差があるってんだッ!?」
「……逆にどうしてお前と同列に並べられなくてはならんのか、説明が欲しいところだな」
立ち上がり様に指を差された本人が、憮然として吐く。身を乗り出して両者を見比べたルナが無残に一言。
「……顔?」
「うわぶっちゃけたッ!」
「それ言ったらお終いだろッ!!」
「そーよ! もともとレンをそこら辺の凡愚と一緒にすること自体が誤りというものではなくてッ!?」
「当たり前よッ、そんな一般の善良な市民に死ぬほど失礼なことするわけないじゃないッ!」
「オイ……」
さらりと対抗するように吐いたカノンの暴言に、多少の怒りを滲ませてレンが呟いた。
「何よ、文句ある?」
「山程ある」
「だぁって、毒は吐くわ意地は悪いわ、逆に言ったらいいの顔だけじゃない」
「ほほう、どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい」
「誰が所構わずことを起こしてんのよ! あたしは時と場所は選んでるッ!」
「……この間、一人で突っ走って、結果捕まったのは誰だ?」
「うぐッ!」
「語るに落ちたわねカノン! 所詮は子供ということかしら? これを機に自分の軽率な行動を反省したらいいわ。アルティオもこんなお子様に感けてないでもっといい子を見つけなさいな、おーほっほっほっほ!!」
「って、あんたにだけは言われたくないのよッ!!!」
ズガンッ!!!
衝動的に放ったカノンの後ろ回し蹴りは狙い外さず、シリアの側頭部を打ちつけ、標的を完全に沈黙させたのだった。
「ったく、少しは自重しろってのよ、ああ腹立つッ!」
「……何が?」
その日の宿を決めたのが大きな町だったのが幸いだった。久々の大浴場というものが備わったやや高い宿の更衣室で、カノンは思い切りバスタオルを床に打ち付ける。
時間がずれていたため、他の客は少ない。
やたらとささくれ立っている親友に、長い髪を纏めていたルナが問いかける。
「シリアに決まってんでしょ! 何であいつが馬鹿なことやらかす度にあたしたちまで周りの注目浴びなきゃいけないのよ!?」
「いや、まあ、階段上から蹴り落としたのはレンだけど。
今更じゃないの、何そんな憤慨してんの」
怒りに拳を握りながら胸を張り、ルナへ指を突きつける。ルナといえば突き出された発育のいい胸に少々殺意を抱きながら罵詈雑言を迎え撃つため腕を組む。
「別に他人の色恋沙汰に口を出す気はないけどね! 何ていうか、もっと周囲の迷惑考えろっていうかッ!! あの顔面鉄鋼無神経デリカシー無さ男に、どうしてそこまで必死になれるのか頭の中身見てみたいなとか思うけど、」
「滅茶苦茶口出ししてるじゃない」
「大体にしてレンもレンよ! その気がないならもっとばしっ、と言ってやればいいじゃない!
あと、人前でくっつくなとか注意するとかッ!!」
「いやアレは相当嫌がってると思うけど。少なくとも普通の男、いくらその気がないからって階段から突き落とさんだろーし。
っていうか、言ったくらいで治るようならとっくに治ってるでしょーが」
「う゛ー……」
納得のいかない表情で頬を膨らませる彼女に、ルナの中にちょっとした悪戯心が生まれる。宥めるように怒らせた肩を下ろさせて、わざと声を弾ませながら、
「まあ、そう言うなら仕方ない。手っ取り早い方法もあるにはあるけどねー」
「何よ? 永久に眠ってもらうとか?」
「ンな物騒な真似しないわよ。つまりさ、シリアが絡んでレンが過激に諫めるから注目を浴びるんであって、それがなけりゃいらん注目も浴びない。そうでしょ?」
「まあ……シリアの言動と格好でも十分注目浴びてる気がするけど。けど、どうやって止めるのよ、そんなもん」
「簡単よ。ごたごたが無ければいいんだから、レンとシリア、くっつけちゃえば?」
「…………はぁッ!?」
―――またとんでもないこと言い出したぞ、この女……
カノンが浮かべたしかめっ面がそう語っている。
「どんな妄言よ、それは……」
「筋は通ってない?」
「通ってないわよ! 第一、どうやってそんなことやるつもりなのッ?」
「いや、惚れ薬でも作っちゃえば」
「って、それだけはやめろッ!!」
ごがんッ!
鈍い音が脱衣所に響く。肘を喰らった頭のてっぺんを押さえながら、ルナが涙目になってカノンを見上げる。
「痛いわ、カノンちゃん」
「縁起でもないこと言うからよ!」
「縁起の問題なわけ……? ってか、別に薬に頼らなくてもシリア支援してやればいいだけの話じゃない。あんた、目の敵にされなくなるだろーし」
「それだけは何かヤダ」
「いや、あたしも精神的には非常に嫌だけど」
後頭部を摩りながら彼女は立ち上がって短く溜め息を吐いた。
「まあ、あれよ。それはそれとしてあんたもそろそろ自分のこと考えて然るべきじゃないの?」
「どういう意味よ?」
「いやさ、十九って言ったらもう世間様では結婚適齢期よ。まあ、それでなくたって浮ついた話の一つや二つ、あっておかしくない年齢だし」
「う゛……」
「カリスお祖母さまも心配してるんじゃないの? 狩人引退してから……つーか、旅に出てから一回も帰ってないでしょ」
「あ、あの人の話はやめて……、お願いだから……」
叩き付けたはずのバスタオルにくるまって、小動物のように縮まるカノン。
「あんた……まだ治ってないわけ、お祖母様恐怖症」
「治るわけないでしょ!! あの人に比べたら鬼やら魔族やらなんて赤子のようなもんよッ!!」
「……まあ、それはともかく。あんたもいつまでもぶらぶらしてないで、ちょっとはそーゆーこと考えたらどう、ってこと」
「ンなこと言ったって、あんたやシリアの方が年上じゃないのよ……」
「シリアはああだし、あたしはこれでも有名魔道師一家の娘だからいろいろあるわよ。
けどねぇ……」
ルナの視線が急にじっとりとしたものに変わる。その視線に曝されたカノンはその意味が解らずに一歩後退った。
「健全な年頃の男と女が二人で何年も旅してて、未だに何も無いなんて何つーか問題だなぁ、って」
「なッ、何でそういう話になるのよ!? おかしくないじゃない!?」
「そういう話にしかならないし! ってかおかしいし! あんたたち、本ッ当に何もないわけッ!?」
「ないってば、しつこいわねッ! 大体、幼馴染で旅してたって何も不思議じゃないでしょ! シリアとアルティオだってそうだし!」
「あれらはただの同類よッ! そーゆー微笑ましい言い訳が許されるのは頑張って十三くらいまでよッ!!」
「ンなこと言ったって……、何もないんだから仕方ないじゃない……」
まくし立てるルナに唇を尖らせる。
唐突にやたらと大人しくなるカノンに、ルナも威勢を失って罰が悪そうに頭を掻きながら、
「あー、まあ別に責めてるわけじゃなくって。いや、責めまくってた気もするけど。
カリスのお祖母様じゃないけど、これでもあたしだって一応は心配してるのよ? 年頃の娘が仕事を引退してからもずっと当ても無い旅なんて。それもいくら幼馴染とはいえ、異性とじゃね。
普通の親なら親としても、世間体に関しても、心配して当然よ」
「う゛っ……け、けど」
「別にカリスさんだってレンを信用してないわけじゃないでしょ。だから今まで放置してくれてんだろーし。ただ、もーちょっとそういうこと考えても罰は当たんないんじゃない、ってこと」
「……う、うう」
至極当然な反論をされて、カノンが言い澱む。主体的にはともかく、ルナが言っているのはあくまで一般常識なのである。更なる反論の術があるわけがない。
「ど、努力はします……」
「それでよし」
「けど今日はやけにつっかかるわね……どうしてよ?」
「別に? ただ……」
「な、何?」
再び舐めるような視線がカノンを襲う。相手が相手なので嫌悪感は無いが、不快感は否めない。彼女の視線はしばし彷徨ったあと、傍らの服がたたまれた籠の中で止まる。
正確にはたたまれた衣服の上に丁寧に置かれた繊細な造りの首飾り[ネックレス]に。
シルバーのリングが通された極シンプルなもので、飾りとしておざなり程度に小さな青い石が埋め込まれたベルが一緒に通されている。
年頃の娘が着飾るためにつけるには些か地味で、物足りない感はあるが趣味は悪くない。
「いやッ、あの、これは別に……ッ」
「どこの誰にもらったんだか知らないけど羨ましいわねーv
ついでに今日、朝方見当たらなくてかーなり焦ってたのは見物だったわーv」
「って、今日のはあんたのせいかッ!」
「失礼ね、ただたまたま見慣れないものがあったんで、興味本位で別の場所に隠して反応を見てみたかっただけよ」
「失礼なのはあんただッ!!
あー、もう一瞬でも真面目にあんたの言うことを聞いてたあたしが馬鹿だったわッ!!
さっさと入って上がるわよッ!!」
「はいはい」
怒鳴りつけて浴場へ向かうカノンの後を、ルナは小さく舌を出して追う。ふと足を止め、頭につけた羽飾りを外していないことに気がついた。
絡まった髪を外して籠の中の衣服の上に、赤石のそれを置く。
「……」
一瞬だけ、自嘲染みた笑いを漏らし、彼女は今度こそカノンの後を追った。
←STORY1 Finalへ
ばたんッ!! がろごろ、がたん、ごろッ! どすんッ!!!
「……」
爽やかなはずの朝の一時に響き渡る不快な騒音。カウンターの向こうの厨房で、フライパンを握ったままびっくりして顔を上げる宿屋の主人、驚いて視線を階段下に投げる他の客たち。
対して、
「またか……」
「はぁ……」
「よっく続くわねー、どうも」
カノン、ルナ、アルティオの計三名の反応は極々冷めていた。
階段を転げ落ち、ぴくぴくと痙攣したままのソレを追うように、極静かにぱたん、とドアの音。階段をゆっくりと下る音が聞こえて、ばさり、と青のマントを翻して彼は階下に降りた。
まだ復活できていないソレを視界の端に捕らえ、短く鼻を鳴らすと何事もなかったかのようにテーブルに着く。
「……おはよ」
「お早う」
「で、今朝は何だったの?」
―――何故、微妙に楽しそうか、ルナ。
「……勝手に人のベッドに入ろうとしたからな」
「何だ、いつもじゃん」
――― 一応、いつもあっちゃいけない内容なんだけどね。
突っ込む気も起きなくて心の中だけで悪態を吐く。そうこうしているうちに、階段下で蹲っていた物体が、もぞもぞと動いて、不意にばっ、と身を起こす。
脅えて引く他の客。
ソレは乱れた髪を掻き揚げてかつん、と一つヒールを鳴らしてから何の演出なのか豊満な胸を揺らしながらやたら優雅に歩き、テーブルに着く。
「ふっ、今日もなかなかに痛かったわ」
「じゃあ、やめりゃあいいじゃん」
「わかってないわね。これは照れ隠しの愛のムチに決まってるじゃない。ねぇ、レンv」
「とりあえずコーヒーを頼む。苦めでな」
「うわ、完全に無視したッ!?」
回を追うごとにさらに冷めてきているような感さえ受ける。
「ったくまあ、よく続くわねー……」
しれっとした表情で運ばれてきたコーヒーを口に運ぶレン。呆れた声で吐き出して、傍らの親友に話を振ろうとしたルナは、ふと言葉を止める。
諦めずに果敢に件の無表情に絡むシリアに対し。
彼女はただ憮然とした表情で目玉焼きを突付いていた。
ルナはそのまま何も言わずに、ただ肩を竦め、呆れ果てたような息を一つ、吐いたのだった。
Death Player Hunterカノン
―剣奉る巫女―
「っていうかさー、思うけどアルティオはそういうのしないよね」
一通りの朝食が終わり、各々デザートと食後の飲み物を堪能していると、不意にルナがそんな話題を振ってくる。
「何が?」
「いや、だから何? アタックとは名ばかりの変態紛いの犯罪ストーカー行為?」
「……いや、まあ、否定はしないけど」
―――下手なこと言って本当にされても困るし。
心の中だけで付け足して置く。だが反してアルティオは掻き揚げるだけの髪の長さもないくせに、格好だけは付けながら、
「俺みたいな紳士がそんなことするはずないだろう?」
「……本当の紳士はほんの少し褒めたくらいで図に乗って教会に拉致しようとしたりしないけどね」
ジト目で睨んでやると、頬に一筋の汗。聞こえよがしに溜め息を吐いてやる。
「ってかさ、あんた、カノンが狙いなら何でそこら辺でナンパばっかしてんのよ? それじゃ振り向くも何もないと思うけど。ねえ?」
「いや、あたしに振られても困る」
思わず本音が漏れた。
アルティオは何やら難しい顔で腕を組み、唸りつつ、
「しかしな、可愛い子がいたら衝動的に声をかけたくなる。それが男の本能というものだろう?なあ?」
「……変な趣味と思われても嫌だから否定はしないが、その衝動を堪えるのが人間であることの証明だろう?」
「って、人間否定かよおいッ!! 酷ッ!!」
同性に振って逆に涙する。まあ、レンに振ること自体が選択の間違いだ。
「くぅ、ここに俺の味方はいないのかッ!」
「今さら気づいたんかい」
「これだから世論はよぉ……男に冷たいよなぁ」
「いや、世論て」
「考えてもみろッ! シリアだからまだ笑い話で済むが、同じことを俺がカノンにやったら通報されても文句は言えまい!? ただの変態の犯罪者だ!」
「いや、どっちにしろ変態だし、じゅーぶん通報していい気がするけど」
「他にもだ! 例えば女性が間違って男子トイレに入ったとしても『きゃあ、すみません』の一言なのに男が女子トイレに入ってみろ! 瞬く間に誹謗中傷の嵐だぞッ!?」
「ンなえげつない話を大声ですなッ!!」
どがしゃあんッ!!!
立ち上がってまで力説するアルティオの後頭部に、カノンの肘がのめり込んでテーブルへ沈めた。顔面から激突したテーブルにひびが入る。
……他の客の注目を浴びるのは覚悟の上なのだが、その中にうんうんと涙ながらに頷いている男共がいるのはどういうことなのか……。
―――男って……
「いって、何するんだよカノン……」
「……石頭ね」
あっさり起き上がったアルティオに、呆れた溜め息を吐く。
「まー、アルティオは頑丈さだけが取り柄だからねー」
「……お前らなぁ」
「いや、事実だし」
「頑丈さが取り柄っていうけどな! じゃあ、アレの取り柄は何だってんだ!? ってか、俺とどう差があるってんだッ!?」
「……逆にどうしてお前と同列に並べられなくてはならんのか、説明が欲しいところだな」
立ち上がり様に指を差された本人が、憮然として吐く。身を乗り出して両者を見比べたルナが無残に一言。
「……顔?」
「うわぶっちゃけたッ!」
「それ言ったらお終いだろッ!!」
「そーよ! もともとレンをそこら辺の凡愚と一緒にすること自体が誤りというものではなくてッ!?」
「当たり前よッ、そんな一般の善良な市民に死ぬほど失礼なことするわけないじゃないッ!」
「オイ……」
さらりと対抗するように吐いたカノンの暴言に、多少の怒りを滲ませてレンが呟いた。
「何よ、文句ある?」
「山程ある」
「だぁって、毒は吐くわ意地は悪いわ、逆に言ったらいいの顔だけじゃない」
「ほほう、どうやら自分が所構わずことを起こす暴れ馬だという自覚はないらしい」
「誰が所構わずことを起こしてんのよ! あたしは時と場所は選んでるッ!」
「……この間、一人で突っ走って、結果捕まったのは誰だ?」
「うぐッ!」
「語るに落ちたわねカノン! 所詮は子供ということかしら? これを機に自分の軽率な行動を反省したらいいわ。アルティオもこんなお子様に感けてないでもっといい子を見つけなさいな、おーほっほっほっほ!!」
「って、あんたにだけは言われたくないのよッ!!!」
ズガンッ!!!
衝動的に放ったカノンの後ろ回し蹴りは狙い外さず、シリアの側頭部を打ちつけ、標的を完全に沈黙させたのだった。
「ったく、少しは自重しろってのよ、ああ腹立つッ!」
「……何が?」
その日の宿を決めたのが大きな町だったのが幸いだった。久々の大浴場というものが備わったやや高い宿の更衣室で、カノンは思い切りバスタオルを床に打ち付ける。
時間がずれていたため、他の客は少ない。
やたらとささくれ立っている親友に、長い髪を纏めていたルナが問いかける。
「シリアに決まってんでしょ! 何であいつが馬鹿なことやらかす度にあたしたちまで周りの注目浴びなきゃいけないのよ!?」
「いや、まあ、階段上から蹴り落としたのはレンだけど。
今更じゃないの、何そんな憤慨してんの」
怒りに拳を握りながら胸を張り、ルナへ指を突きつける。ルナといえば突き出された発育のいい胸に少々殺意を抱きながら罵詈雑言を迎え撃つため腕を組む。
「別に他人の色恋沙汰に口を出す気はないけどね! 何ていうか、もっと周囲の迷惑考えろっていうかッ!! あの顔面鉄鋼無神経デリカシー無さ男に、どうしてそこまで必死になれるのか頭の中身見てみたいなとか思うけど、」
「滅茶苦茶口出ししてるじゃない」
「大体にしてレンもレンよ! その気がないならもっとばしっ、と言ってやればいいじゃない!
あと、人前でくっつくなとか注意するとかッ!!」
「いやアレは相当嫌がってると思うけど。少なくとも普通の男、いくらその気がないからって階段から突き落とさんだろーし。
っていうか、言ったくらいで治るようならとっくに治ってるでしょーが」
「う゛ー……」
納得のいかない表情で頬を膨らませる彼女に、ルナの中にちょっとした悪戯心が生まれる。宥めるように怒らせた肩を下ろさせて、わざと声を弾ませながら、
「まあ、そう言うなら仕方ない。手っ取り早い方法もあるにはあるけどねー」
「何よ? 永久に眠ってもらうとか?」
「ンな物騒な真似しないわよ。つまりさ、シリアが絡んでレンが過激に諫めるから注目を浴びるんであって、それがなけりゃいらん注目も浴びない。そうでしょ?」
「まあ……シリアの言動と格好でも十分注目浴びてる気がするけど。けど、どうやって止めるのよ、そんなもん」
「簡単よ。ごたごたが無ければいいんだから、レンとシリア、くっつけちゃえば?」
「…………はぁッ!?」
―――またとんでもないこと言い出したぞ、この女……
カノンが浮かべたしかめっ面がそう語っている。
「どんな妄言よ、それは……」
「筋は通ってない?」
「通ってないわよ! 第一、どうやってそんなことやるつもりなのッ?」
「いや、惚れ薬でも作っちゃえば」
「って、それだけはやめろッ!!」
ごがんッ!
鈍い音が脱衣所に響く。肘を喰らった頭のてっぺんを押さえながら、ルナが涙目になってカノンを見上げる。
「痛いわ、カノンちゃん」
「縁起でもないこと言うからよ!」
「縁起の問題なわけ……? ってか、別に薬に頼らなくてもシリア支援してやればいいだけの話じゃない。あんた、目の敵にされなくなるだろーし」
「それだけは何かヤダ」
「いや、あたしも精神的には非常に嫌だけど」
後頭部を摩りながら彼女は立ち上がって短く溜め息を吐いた。
「まあ、あれよ。それはそれとしてあんたもそろそろ自分のこと考えて然るべきじゃないの?」
「どういう意味よ?」
「いやさ、十九って言ったらもう世間様では結婚適齢期よ。まあ、それでなくたって浮ついた話の一つや二つ、あっておかしくない年齢だし」
「う゛……」
「カリスお祖母さまも心配してるんじゃないの? 狩人引退してから……つーか、旅に出てから一回も帰ってないでしょ」
「あ、あの人の話はやめて……、お願いだから……」
叩き付けたはずのバスタオルにくるまって、小動物のように縮まるカノン。
「あんた……まだ治ってないわけ、お祖母様恐怖症」
「治るわけないでしょ!! あの人に比べたら鬼やら魔族やらなんて赤子のようなもんよッ!!」
「……まあ、それはともかく。あんたもいつまでもぶらぶらしてないで、ちょっとはそーゆーこと考えたらどう、ってこと」
「ンなこと言ったって、あんたやシリアの方が年上じゃないのよ……」
「シリアはああだし、あたしはこれでも有名魔道師一家の娘だからいろいろあるわよ。
けどねぇ……」
ルナの視線が急にじっとりとしたものに変わる。その視線に曝されたカノンはその意味が解らずに一歩後退った。
「健全な年頃の男と女が二人で何年も旅してて、未だに何も無いなんて何つーか問題だなぁ、って」
「なッ、何でそういう話になるのよ!? おかしくないじゃない!?」
「そういう話にしかならないし! ってかおかしいし! あんたたち、本ッ当に何もないわけッ!?」
「ないってば、しつこいわねッ! 大体、幼馴染で旅してたって何も不思議じゃないでしょ! シリアとアルティオだってそうだし!」
「あれらはただの同類よッ! そーゆー微笑ましい言い訳が許されるのは頑張って十三くらいまでよッ!!」
「ンなこと言ったって……、何もないんだから仕方ないじゃない……」
まくし立てるルナに唇を尖らせる。
唐突にやたらと大人しくなるカノンに、ルナも威勢を失って罰が悪そうに頭を掻きながら、
「あー、まあ別に責めてるわけじゃなくって。いや、責めまくってた気もするけど。
カリスのお祖母様じゃないけど、これでもあたしだって一応は心配してるのよ? 年頃の娘が仕事を引退してからもずっと当ても無い旅なんて。それもいくら幼馴染とはいえ、異性とじゃね。
普通の親なら親としても、世間体に関しても、心配して当然よ」
「う゛っ……け、けど」
「別にカリスさんだってレンを信用してないわけじゃないでしょ。だから今まで放置してくれてんだろーし。ただ、もーちょっとそういうこと考えても罰は当たんないんじゃない、ってこと」
「……う、うう」
至極当然な反論をされて、カノンが言い澱む。主体的にはともかく、ルナが言っているのはあくまで一般常識なのである。更なる反論の術があるわけがない。
「ど、努力はします……」
「それでよし」
「けど今日はやけにつっかかるわね……どうしてよ?」
「別に? ただ……」
「な、何?」
再び舐めるような視線がカノンを襲う。相手が相手なので嫌悪感は無いが、不快感は否めない。彼女の視線はしばし彷徨ったあと、傍らの服がたたまれた籠の中で止まる。
正確にはたたまれた衣服の上に丁寧に置かれた繊細な造りの首飾り[ネックレス]に。
シルバーのリングが通された極シンプルなもので、飾りとしておざなり程度に小さな青い石が埋め込まれたベルが一緒に通されている。
年頃の娘が着飾るためにつけるには些か地味で、物足りない感はあるが趣味は悪くない。
「いやッ、あの、これは別に……ッ」
「どこの誰にもらったんだか知らないけど羨ましいわねーv
ついでに今日、朝方見当たらなくてかーなり焦ってたのは見物だったわーv」
「って、今日のはあんたのせいかッ!」
「失礼ね、ただたまたま見慣れないものがあったんで、興味本位で別の場所に隠して反応を見てみたかっただけよ」
「失礼なのはあんただッ!!
あー、もう一瞬でも真面目にあんたの言うことを聞いてたあたしが馬鹿だったわッ!!
さっさと入って上がるわよッ!!」
「はいはい」
怒鳴りつけて浴場へ向かうカノンの後を、ルナは小さく舌を出して追う。ふと足を止め、頭につけた羽飾りを外していないことに気がついた。
絡まった髪を外して籠の中の衣服の上に、赤石のそれを置く。
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梧香月
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性別:
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趣味:
執筆・落書き・最近お散歩が好きです
自己紹介:
ギャグを描きたいのか、暗いものを描きたいのか、よくわからない小説書き。気の赴くままにカリカリしています。
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(03/11)
★ 目次
DeathPlayerHunter
カノン-former-
THE First:降魔への序曲
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Second:剣奉る巫女
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11Final
THE Third:慟哭の月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 Final
THE Four:ゼルゼイルの旅路
1 2 3-01 3-02 4 5 6-01 6-02 7 8 9 10 11-01 11-02 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 …連載中…
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THE First:降魔への序曲
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THE Second:剣奉る巫女
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THE Third:慟哭の月
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