「……」
「……おい」
「……」
「こら、お前……」
「………何よ?」
長い間を空けて、ルナはようやく返事を返す。
二皿目のトマトクリームパスタと格闘しながら、ちらり、と明らかに不機嫌な視線を上げる。対面には、椅子に背を預けながら紅茶のカップを傾ける赤眼の男。
男は呆れた視線でもうすぐ空になるパスタ皿を眺めながら、彼女の頭の先から爪先までを見渡した。その視線が一点で止まる。
「……そんだけのもんが、何で肝心な場所にいかねぇか疑問だな」
「あんた……いい加減、そろそろセクハラで訴えるわよ?」
「だってなぁ、顔付き体付きガキだろ? 性格アレだし、お前、女として三重苦だぞ、それ」
「超絶的に余計なお世話よッ! あたしはいーのよ! 取った栄養分、きちんと頭に回してんだからッ!」
かしゃん、と皿に叩き付けたフォークが鳴る。ルナは向けられた周囲の視線に、慌てて浮かしかけていた腰を下げる。オレンジジュースのストローを加えながら、恨みがましい目で睨みつける。
だが、相手は素知らぬ素振りでこちらを眺めているだけだ。
急に馬鹿らしくなって、ルナはもう一度、パスタ皿を平らげにかかった。
「……恥ずかしい奴」
「やかましい。誰のせいよ」
ストローの先を噛みながら悪態を吐く。
「……で、何よ?」
「こりゃあ、心外だ。俺を捜してたのは、お前の方だって聞いたがね」
「まあ……だって、ろくに連絡一つ、寄こさないじゃない。毎日、何やってるんだか知らないけど、会いに行ったってまともな話も出来ない状態だったし」
「何だ、そんなに寂しかったか」
「ち・が・うッ!!」
ドスを聞かせた声で言い放つ。しかし、カシスはくつくつと喉の奥で笑いながら受け流す。
「……もーいいわよ。あんたにまともな話をする気がない、ってのはよぉく解った。
解ったから一方的に話させてもらうわ」
ざく、とデザートのミルフィーユにフォークを突き刺して宣言する。
すッ、とカシスの顔付きが変わった。にやけた口元はそのままだが、細めた目は明らかに笑ってなどいない。
「……まず、言って置きたいことだけど。
この前言ったことは本当よ。あたしはこの五年間、『月の館』で培った知識は一つとして他人に口外してないわ。『ヴォルケーノ』はもちろん、『ツインルーン』なんて口にするわけがない。
……『月の館』を襲撃したあいつら……ニード=フレイマーの組織に逆らって、政団に尋問されたときだって口にしなかった」
ひくり、とカシスの薄い眉が動いた。
「……ニード=フレイマーの組織を潰したのは、やはりお前なのか?」
「……そう、ね。少なくとも、最初に反旗を翻したのはあたしだと思う。
あのとき、あたしはニードの研究に加担して……」
「―――魔族の器にされたか」
「―――ッ!」
小さく、ルナは息を飲む。忌々しい記憶だった。
「あんた、何で知って―――ッ!」
声を荒げかけて、場所を思い出し、口を塞いだ。カシスはさもつまらなさそうに、頭部を掻く。
「……この五年、俺が何をしてたか言ってなかったな。
お前同様、俺はあの糞野郎の組織の研究室で働かされてたさ。それで何を研究させられてたと思う?」
「……」
「答えは精神体の生物を物理世界に固定化させるための魔道具の生成だ」
「ッ!」
はっ、として顔を上げる。
ニード=フレイマーは人間の体の中に、上級魔族を召還し、融合させるという実験を行っていた。ルナは当時、その器として使われたのだ。
「奴らが魔族の降誕をやろうとしてることの察しはついた。となれば、物理的な器とは何か? 本来言うことを聞かない魔族を言うこと聞かせるようにするんだ。都合の良いのは人間だろ?
―――あとは簡単だ。お前の魔力許容量[キャパ]を考えれば、何をさせられるかは見えてくるさ。
『月の館』を襲撃した目的もそんなもんだろ? 圧倒的な魔力許容量[キャパ]を保有する魔道師探し、ってわけだ。それでお前に白羽の矢が立った。
察しがついてからは欠陥品しか作る気が起きなかったがな」
「そう、だったの……」
唖然としたまま、何を言えばいいのか解らずに、ルナはフォークを下ろす。
「……あたしは、そのまま魔族と融合されそうになって……。
直前で、カノンたちに助けられた。あの娘たちがいてくれたのは、本当に偶然で、運が良かったんだと思うわ。今でも、感謝してる。
でも、それとは別に、あんたの行方は知れなかったから―――これでも、一応、心配はしてたのよ。」
「……」
カップにつけていたカシスの唇が離れた。眉間に皺を寄せ、少し俯いて話す彼女をまじまじと見つめる。
「それなりに捜しもしたしね。今までなかなか手がかりも掴めなかったけど。
そんなときに例のクオノリアの話を聞いてね。カッと来た。だから、無理にMWOに取り入って調べ上げてやろうと思ったのよ。結局、それが仇となってあんたに疑われる結果になっちゃったわけだけど……」
「……」
やや自嘲気味に話すルナに、カシスはますます眉を潜めた。
ふと、その視線が外れる。長い間だった。店内の喧騒が、耳につくくらいに、騒がしい。
やがて、カシスがわずかに口を開く。だが、直前でそれは言葉にならずに、もう一度沈黙を呼んだ。
だが、その沈黙は刹那のことで、
「……―――本当に、バカな女だな」
「ちょ、何よ、そ……ッ!」
「それを証明出来る人間は?」
真顔で尋ねるカシスに、吐こうとした文句が飛んだ。拳を握り、口元に押し当てながら頭を回す。
「……あたしがMWOに取り入るときにいたクロード、っていう……まあ、この間言っていた黒幕から『ヴォルケーノ』の情報を買っていた男なんだけど……。
あの男は目の前で黒幕に……。あとは、その祖父の元MWO支部長がいるはず。その人ならたぶん……あとは政団で裁判されてるクロード側の関係者とか、かしら……?
『ツインルーン』の方は……関係者はもう、全員……ん…」
「って、ことはだ。最高の証人は、その黒幕、ってことか」
「そうなるんだけど……。詳しくは話せないけど、それが何故か、カノンたちを狙ってるらしくてね。同行させてもらってたのよ。
……だから、その黒幕から何か聞き出せれば、と思うんだけど……」
「上手くいってねぇわけだ」
「う゛……」
ずばり言い放たれて、ストローを握り締める。苦い表情でテーブルを見つめていると、すいっ、と長い腕が伸びた。
一瞬、何が起こったか解らなかった。気がついたときには、目の前からオレンジジュースのグラスが消えていた。
「・・・って、ちょっとッ!!?」
顔を上げたときにはもう、無残にもグラスの中から甘いジュースの姿は消えていた。ストローで一気に飲み干した犯人の男は、そのまま何事もなかったかのようにだんっ、とグラスをテーブルに置く。
「あんたねッ! 何、人のもん、勝手に飲んでんのよッ!? セクハラだけじゃなく、窃盗罪ッ!? ふざけるのもいい加減にしなさいよッ!」
「ああ? ンな程度でケチくせぇこと言ってんな。胸だけじゃなく、ケツの穴まで小せぇか?」
「あんたには言われたくないッ!! つか失礼なこと言うなッ!」
「あーあ、ったく。昔、両方、多少はでかくしてやったと思ってたんだがな」
「―――ッ! なッ、ちょ、ま……ッ!!!」
さらっと吐いたカシスの台詞に、ルナの顔が耳まで朱に染まる。
この男は、公共の場で何てことを口にしてくれるんだ、というか今さらだが本当にとんでもない。
金魚の呼吸よろしく口をぱくぱくさせるルナに、カシスは満足げに笑みを浮かべた。そして、すっ、と傍らにあった伝票を取って立ち上がった。
「出るぞ」
「は、う、うん、って、へ? え?」
「どーせ、暇だろ? ちょいと付き合えよ」
―――……っていうか、話はまだ終わってないと思うんだけど。
「おい、置いてくぞ」
「ちょ、ちょっと、少し待ちなさいよッ!」
やや釈然としないものを感じる。いや、ややとか多少とかのレベルではないはずなのだが。
問答無用で席を立ち、レジに向かう白髪の男は容赦なく大股で歩いていく。わだかまりはあったものの、彼の急な行動に動揺を隠せなかったルナは、慌てて荷物を持ってその背を追った。
「ちょっと! どこ行くのよ!?」
人込みでごった返すメインストリートを通り抜けながら、ルナは三歩先にある白衣の背中に怒鳴りつける。
別に好きで距離を取っているわけではない。ただ単に、上背が足りなくて体重も軽いルナでは彼のように周囲を押しのけながら歩く、という器用な真似は出来ないため、自然と距離が広がってしまっているだけだ。
「うるせぇなぁ、がたがた言わずにちったぁ黙って付いて来れねぇのか」
「付いて行けるかッ! アヤシイ人間に付いていくな、なんて、きょうび三歳の頃から教わってんのよ!」
振り返り、怒鳴り返されるが、従うわけにはいかない。
黙って付いて行く、なんてしようものなら、こんな場所、たちまちはぐれるに決まっている。
何とか人の足元を縫うようにして追いついたルナは、決死の思いでカシスの上着の裾を掴んで止まらせた。
「ッ、はぁーッ、はぁーッ……」
「何疲れてんだ、老化現象か?」
「死ねッ! あんたねッ! 前も再三、言った覚えがあるけど体格差とかリーチの長さとか考えなさいよッ! あんたはゆったり歩いてるつもりでも、あたしは競歩で十キロマラソンやらされてるようなもんなのよッ!?」
「競歩だったらマラソンじゃねぇだろーが」
「突っ込むべきなのはそこじゃないッ!!
とにかく、もっとゆっくり歩きなさいよ。さっきから人に押されまくって青痣だらけだっての。そうでなくたって他人に体触れるの嫌だしさ」
「どうせ他人に当たったって、どっちが胸だか背中だかわかりゃしねぇだろ?」
「あのさ、あんたさっきからマジで殺していい?」
敵意を通り越して軽く殺意を覚えてくる。
カシスはルナの剣呑な眼差しにもけらけらと、さも可笑しそうに笑いながら、少しだけ背を伸ばして人の頭の向こうを見やった。
「大体あんた、人込みって嫌いじゃなかったっけ?」
ルナの記憶にあるカシス=エレメント、という男は好き好んでこんな人混みを歩くような愉快な男ではない。人混み嫌い、というよりそもそも他人嫌いな男なのだ。対人するのが嫌で、ルナや下級生に頼まなくてもいい仕事を押し付けるような。
それがこんな場所に連れ出してくるなんて、どうにも解せない。
彼は小さく肩を竦めると、
「まあ、用がなきゃあわざわざンな場所には来ねぇわな」
「だから。その用、ってのは何なのよ? それはあたしがわざわざ、どっかのセクハラ男の腹の立つ言動に、耐えてでも来るような価値がある用件なわけ?」
「くっくっく……まあ、そうカリカリすんじゃねぇよ。価値があるかどうかは知らねぇが、それなりに……」
唐突に、言葉が切れる。
首を傾げるより先に、腕を引かれる方が先立った。
「わっ、ぷッ!?」
急なことにバランスを崩し、顔面を彼の胸板に強打する。普通の男女間なら、ほわほわした雰囲気の一つや二つは生まれるのかもしれないが、とりあえずは鼻の痛みが先に立つ。
「ちょっと、何す……ぅむ!?」
抗議の声を上げようとすると、そのまま胸板に顔を押し付けられた。声、どころではない、息が危うい。苦痛に握り締めた拳を、叩きつけようと振り上げた、瞬間。
「おら、どいたどいたどいたーッ!!!」
ががががががががが……ッ!!
けして平坦とは言えない石畳を削るようにして、たった今、ルナが居た空間を小型の荷馬車が砂煙を吐いて通り過ぎる。周囲の人々は慌てて避けて、巻き上がった砂を吸い込んだ者は口元を押さえて咳き込み始める。
すぐ脇の角からいきなり出て来たらしい、傍迷惑な暴走車だ。
ルナは茫然と目の前を通り過ぎていく馬車を眺めていた。
見るからに柄の悪い御者の中年男は、一瞬、こちらを振り向いて、
「ケッ、真っ昼間からいちゃついてんじゃねぇよ、邪魔なんだよッ!」
ぷちッ。
「うるさッ……」
「うるせぇッ!! 天下の往来で薄汚ねぇ口開いてんじゃねぇ、ゴミがッ!! 空気が汚れんだろうが、屑ッ!!」
去る馬車に怒鳴りつけるはずだった声は、さらに大きな声に遮られる。
というより頭上から降って来た。頭が少しガンガンする。
御者の男は唾を吐き出して、こちらを睨むと馬車を走らせて去っていった。カシスの声がどこまで聞こえていたかは知らないが、まあ、言いたいことは代弁してくれた―――というより内容的には遥かに酷いことを言ってくれたので良しとする。
残った砂埃に鼻と口を押さえる。渋い顔でカシスを見上げると、同じように口元を押さえながら、小さく咳き込んでいた。
そういえば。
―――この男、実はあんまり体強くないっけ……。特に気管支は。
彼が人混みを嫌う理由は、他人嫌いであることと、確かその実、あまり埃やら砂やらに耐久力のない体だったからのはずだ。
「ちょっと待ってなさい」
なかなか収まらないらしい咳に、ルナは周辺を見渡しながらその場を離れる。癪だが、あの暴走車のおかげで多少の人の切れ目が生まれていた。これならば、ルナでも楽に身動き出来る。
しばらくして戻って来たルナの手には、コーヒーの入った紙コップがあった。
「はい」
「……」
無言で受け取ると、カシスは一口だけ口に含む。口の中を洗うと、すぐに吐き出した。
「薬は? 持ってんの?」
ちらりと視線が自身の胸元に走る。それを見逃さなかったルナはすぐさま腕を伸ばし、
「―――ッ!」
ぱしんッ。
乾いた音が響く。手の甲に、ひりひりした痛みが走っている。
伸ばそうとした手が払われた。それに気がついたのは、一瞬、後だった。
「……」
「……構うんじゃねぇ。自分でやれる」
鋭い切れ長の目は、少なからず悪意を放ってこちらを睨んでいた。普通の人間なら、後退りくらいはするような。そんな、人に向けるには鋭すぎる視線。
だが、ルナは反射的に眉を吊り上げた。
「こっ……子供か、あんたはッ!!」
先ほどの路地の問答の、倍以上の声量で怒鳴りつけた。眉間に皺を寄せて顔をしかめる彼に構わず、ルナは上着の襟を掴み上げる。
「あのね! そうやって一人で自己満足してるのは勝手だけどッ!! こっちは甚だ迷惑よッ!!
一人でやれるかどうかなんて、今どーでもいいでしょーがッ!! いいから貸しなさいッ!!」
問答無用で胸ポケットに収められていた薬の小瓶をひったくった。使う機会は少なかったが、昔も何度か目にした覚えがある。
瓶の蓋を弾くと、コーヒーのカップの代わりに握らせる。
そこまでやって観念したらしい、彼は溜め息を吐き出して瓶の中身を飲み干した。今度は瓶を受け取り、薬の苦味のためか何なのか、渋い顔をする彼に再びコーヒーを差し出した。
瓶に蓋を閉め直す。中身は空でも、薬の水滴は内側にこびりついている。下手にそこら辺に放置するわけにもいかない。後でちゃんと洗って置かなくては。
小瓶をポケットに落すと、コーヒーで口の中を洗うカシスの背を何度か摩る。
「庇ってくれたのにはお礼言うけどッ! あんたは昔から体強くないんだから! いくら鍛えて、大方平気になったって言ったって、無駄に格好付けんじゃないわよッ! まったく世話が焼けるわねッ!!」
「……」
「何よ?」
無言で見下ろしてくる淡白な表情を睨みながら問いかける。
そしておもむろに。
その厳しい表情から力が抜けた。
「……何よ?」
「いーや、昔から進歩のない奴だ、と思っただけだ」
「はぁッ!? それ、あんたのことでしょッ!? 進歩って何よッ!!」
「何でそこで墓穴を掘るように胸を押さえてんだよ」
「う、五月蝿いッ!!」
カシスはくつくつと低い声で笑いながら依れた襟元を正した。屈むように腰を折ると、自分より低い位置にあるルナの顔を覗き込む。
目を逸らすのも何か負けな気がして、ルナはさらに眉を吊り上げて睨み返す。
不意に彼の顔が視界から消えた。
その刹那、一瞬だけ、唇に柔らかな感触が走る。
「―――ッ!!!?」
「礼と詫びの兼用だ。大人しく貰っとけ」
「な、な、なぁ……ッ!!」
「何、それくらいで沸騰してんだよ。今さらだろーが。それとも、もっと先までお望みかぁ?」
「ばッ、馬鹿言うなッ! このスケベッ! セクハラ男ッ! 役人に突き出すわよッ!!」
「くっくっく……されるのが嫌なら大人しくしておけよ。行くぞ」
「ちょ……ッ」
カップを握りつぶして放り投げたと思ったら、その手で手首を掴まれた。いきなり引かれてかくん、とまたバランスを崩しかけた。
「ちょっと! 怪我したらどーしてくれんのッ!?」
「ガタガタうるせぇな。ホントに身体ごと喰われてぇか。いいからちょっと付いて来い」
「どこまで勝手なのよッ! ああもう! 行ってやるから離せ、って言ってるのーッ!!」
口で言って聞くような相手じゃないと知りつつも。
あまりの理不尽さに、ルナは無駄を感じながら、気を抜けば反転してしまいそうな不安定な世界を、久しぶりの大声で怒鳴った。
そのまましばらく。
引き摺られるまま、転ばないようにバランスを保つのが精一杯だったルナは、急に立ち止まった彼の背に鼻の頭をぶつけた。
「何すんだ」
「人間は急には止まれないのよ! ともかく、一体何のよ……」
鼻を摩りながら視線を上げて、ふと気が付いた。
上げた視線の先にあったのは、メインストリートに門を構える、あの魔道具店だった。
「覚えてるか?」
「……言葉には主語と目的語を付けろ、って何度も言ったわよね?」
憮然として端的すぎる言葉に文句をつける。言われた当人は、自分から振った話のくせに、こちらを見ようともしない。
ルナは溜め息を吐いて、その場を見回した。
少しだけ土臭い、そして室温の高い。そこは工具と、製作途中の魔道具が転がる工房だった。奥の、そのまた奥の部屋の方では、鉱物精製のための高温の炎がごおごおと音を立てている。室温が高いのはそのせいだ。
こめかみに掻いた汗を拭って、ルナはもう一度、カシスを見る。
この男、しばらく見ない内にこの店の主人とやたら仲良くなっていたらしい。いや、それには語弊がある。何せ、向こうはこちらに彼の姿を認めた途端、卑屈になって、『工房を貸せ』なんていう無茶な申し出を見返りなしでOKしてしまったのだ。
―――まあ目の前で自分の歯が立たないような代物を、あっさり直した人間に尻込みするのは解るけど。
その後、店の主人との間にどんな確執があったのか。いや、知りたくはないが。
そんなこんなで、工房内にのさばった白子[アルビノ]の魔道技師は、工房の一角を陣取って、いきなり何かの魔方陣かそれとも呪法かを羊皮紙に書き出した。その行動が突発的過ぎて、完全に置いてきぼりを食らったルナは仕方なく、近くの椅子に逆座りしながらその作業を眺めていたのだった。
そして羊皮紙から手を離し、近くの呪を石に刻むための工具を取ったと思ったら、今の切れ切れの台詞。
カシスは答えの代わりに、いつもの、あのくつくつという含み笑いを漏らして、手の中の工具を弾いた。
すっ、とその手がこちらに伸びて、思わず身を固くする。噴き出された。
「別に取って喰おうって訳じゃねぇよ。大人しくしてろ」
「……」
無言で身体を固くしたままいると、さらり、と目の端にブラウンの髪が落ちてきた。自分の髪だ。
何をされたかはすぐに解った。髪につけていた羽飾りを取り外されたのだ。
「―――?」
別段、奪い返そうとはしなかった。いや、必要がなかったのだ。
何せ、
「まだ持ってるたぁ、思わなかったぜ」
「……別に。いいじゃないの」
ぷい、とそっぽを向く。知らずに鼻の頭が赤くなる。
「"思い出の品"なんか取って置くようなタイプじゃねぇだろーが。それとも何だ? 俺の形見のつもりだったのか?」
「まさか。いろいろ都合が良かっただけよ。自惚れないで」
ふーん、と素っ気無い返事を返して、彼は掌の上で羽飾りを遊ばせる。
あれは、もともと彼が作ったものだった。魔力干渉から持ち主を防護する呪符の一つ。その試験[テスト]のために渡されていたものだった。
ただし、それほど強い効果があるわけでもないし、時が経つと共に効果は薄らいでいく。実際、五年も経過した今では、ほんの少し、戦闘に置ける運を良くしてくれているだけだろう。
だから、自分の言葉が何の説得力もないことは知っているのだけれど。
彼はくつくつと笑いながら、赤石についた三番目の黒羽を引いた。厳重に括られたそれは、多少、引っ張ったところで外れはしない。
その羽根一つだけは、カシスの記憶からは外れていた。
「自分で付けたのか。変わった呪力を持ってるな。どこで見つけた?」
「いや……どこで、っていうか……。ちょっと、ある仕事を片付けたときに報酬代わりにパクったんだけど……。ちょっと変わってるなー、と思ってやってみたのよ」
「ほー、そりゃあまたお前、度胸があるな」
「別に危なそうな感じではなかったし、魔力相互も起こらなかったし……」
「ふん……。まあ、これは今度調べてみるか……」
黒い羽に触れながら、多少の興味を持ったらしい。口ではそう言っていても、目は子供のようにそれを見つめている。
少しだけ、ルナの表情が和らいだ。
こつり、とカシスは工具の切っ先を赤石に当てる。
「ちょ、ちょっと……ッ?」
「まあ、慌てんな。悪いようにはしねぇよ」
そのまま、工具を小刻みに動かしていく。時折、傍らに置いた羊皮紙を覗きながら手を動かしていく。
ちっ、と舌打ちが漏れた。
机の上に石を押し付けるようにして、片手で作業しているせいか、上手くいかないらしい。
「……」
かたん、とルナは椅子から立ち上がる。工具を動かす彼の手元に手を伸ばし、羽を押さえながら石を固定するように抑える。
工具の動きが止まる。
ちらりと、石と同じ色をした彼の目がこちらを向いた。
「……」
だが、それは一瞬だけで。
ふん、と軽く鼻を鳴らしただけで、後はかりかりと工具の擦れる音が工房に響くだけだった。
「……で、何がどうなったの、これ?」
店主に礼を言って魔道具店を出て、ルナは手元に置かれた羽飾りをしげしげと見つめた。
先ほどとは違って、石の部分に紋様が掘られている。形自身は防護の印だが、アレンジが加わっているらしく、見たことのない呪いがところどころに掘られていた。
傾き始めた日に透かして見るが、何が変わるわけでもない。
「ま、ちょいとしたメンテナンス兼アレンジだ。悔しかったら自分で勉強するんだな」
「む……」
魔道技師もものを造る人間だ。職人と同じで、自分の作ったものは例え、こんな呪符一つでも扱いに厳しい。
だから、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の悪用も、効力のなくなった呪符をそのままにして置くのも、我慢ならないのだろう。
形すべてを読み取ることは出来ないが、そもそもこれをルナに渡したのは、防護や回復の呪いを不得意とするルナの呪文の性格を知ってのことだった。だから、これもきっと、相違はないのだろう。
「防護系だってことは解るけど……。いや、待てよ……これは違うわよね、強化系も混じってるし……」
彫られた陣と紋を眺めて、ルナは何とも複雑な表情を浮かべる。悔しそうな、それでいて顔はやや赤い。
「……カシス」
「あ?」
「い、一応、言っておくけど……。その、ありがと……」
人間、礼を言うのに抵抗を覚える相手というのが必ず存在する。ルナにとってみれば、カシスがそうだった。
視線を背けながら絞り出すルナに、カシスはふん、と息を吐く。
「はッ、だから大人しく付いて来い、つったろーが。暴れ馬が」
「だぁれが暴れ馬よッ!? あんたねッ! いい加減にデリカシーってもんを……、きゃッ!?」
思わず漏れた小さな悲鳴に、屈辱を覚える。ふらり、と身体が宙に浮く感覚。
悲鳴を漏らしたことで、昼間よりはだいぶ減った、しかしゼロではない人の目がこちらを向いた気がした。腰には男の腕が回されていて、軽く抱え上げられている。
「何す……ッ」
「どうせだ、もう一件付き合え」
「は、はッ? ちょっと、もう……」
すぐ夕方だ、と抗議しようとした声は呪に遮られた。その呪の内容を理解した途端、ルナは無理矢理口を塞ごうと手を伸ばす。だが無駄だった。
「我望む、求めるは無垢なる風の加護、翔べフロウ・フライト」
風が渦巻いた。巻き上がる髪の合間から見えたのは、風で割れる植木鉢と、日傘を持っていたためによろけ、吹き飛ばされたおばさんA。
ルナは浮遊の感覚を味わいながら、溜め息を漏らす。
フロウ・フライト。上級魔道師が使う浮遊の呪だが、使い勝手は恐ろしく悪い。特に、浮き上がる際に巻き起こる風は、さっきのように周囲に迷惑をかけまくる。
ルナもまあ、周りに気を使って術を使う方ではないが、こいつにだけはとやかく言われない自信はある。
「あんた……」
「何だ?」
「……………もういい」
疲れた、とルナは吐き出した。町並みが眼下に遠くなる。見えるのは下だけで、上を見ようとするとカシスの白い上着に視界を遮られる。
逆らうのも疲れた。どうせ、何も聞きやしないのだ。
諦めて体の力を抜いた。腰に回された腕に抱え直される。拍子に頬が彼の胸板に当たった。
―――ん……
少しだけ、昔より広くなったかもしれない。とくり、と心臓の音が耳を打つ。
―――生きてる、よね……
「あん? どうした?」
「………何でもない」
くしゃり、と歪んだ顔を見られたくなくて、ルナはわざと胸板に顔を埋めた。脳裏に浮かんだのは、煩わしくて、忌々しくて、そして恐ろしい炎の光景は。
消した。
生きている。
彼は、ここで生きているのだ。
だから、あんな風景は、もういらない。
「何でも、ない」
自分に言い聞かせるように、ルナはもう一度だけ小さく呟いた。
「よっ、と」
「?」
とん、と地に足が付く感覚。ブーツを短い草の先が擽っている。同時に鼻を付くのは青の匂い。
断じて町中に存在するような感覚ではない。
身体を離すと、視界の中に白い姿と、その背後に疎らに生えた低木が飛び込んで来た。視線を上げると、彼の、切り方の悪い短い髪が金の光を反射している。はっとして背後を振り向いた。
そこは木陰だった。
町から少しだけ小高い丘。見晴らしが特に良いわけでもない。実際、町が見下ろせる場所、というわけでもない。遙か山の端に傾いた日が見えるだけだ。その光も、大方は梢に阻まれる。
利点、といえば、まあ、彼にしてみれば人がいないこと、だろうか。
特に特別な場所というわけでもない。彼の意図が図りかねず、もう一度、顔を見上げた。
「何……?」
「特に意味はねぇ」
「は……?」
「まあ、単に人がいなかったからな」
その場に腰を下ろすと、くい、と顎で同じようにするよう促す。警戒しながら、腰を落とす。
刹那。
「―――ッ!!?」
「お前、足太くなったか?」
「し、し、失礼なこと言うなッ!! っていうか何すんのよッ!?」
腕を引かれたと思ったら、この強欲が服着て歩いているような自己中男は、いきなり膝に頭を置いて寝転がる。加えて、失礼極まりない台詞のおまけ付きだった。
「いいじゃねぇか、減るもんでもあるまいし」
「精神的に減るのよッ!! どきなさいよッ!」
「断る」
きっぱりと、何故かこちらが悪いような気にさえなってくるほど明確に言い放たれる。
ルナは言葉を詰まらせて、振り上げた手のやり場を探す。妙に心地良さそうに目を閉じる男に、そのやり場がどこにもないことを知ると、素直に手を足の脇へ落とした。
悔しい。
何が悔しいかというと、良い様に使われている自分を許してしまっている自分が一番口惜しい。
「……ひょっとして、これだけのためにこんな辺鄙な場所に連れて来たの?」
「俺としちゃ、街中でやっても良かったんだがね。誰かがぐだぐだ文句付けそうだったしな」
当たり前だ。
言い返して、頭を振り落としてやりたくなる衝動を必死で堪える。
めっきり軽くなった溜め息を漏らすと、怒鳴るのも面倒になって木に背を預けた。
言葉を切ると沈黙が耳に五月蝿くなる。風もなかった。雨が来るのだろうか、少し湿った空気は、梢を鳴らすこともなく、周囲はまさしく無音を奏でている。
「昔はよくやったろうが。何を今さらがたがた言ってんだ」
「あのねぇ、その一回でもあたしが膝を枕にしていい、なんて言ったことあった?」
「硬いこと言うな。散々、授業フケて同じようなことしてただろ。こんなもんどころか、それ以上……」
「言わなくていい。っていうか軽々しく言うなッ!
大体、あんたが勝手に人を連れ出してただけでしょ。あんたは知らないだろうけど、あたし、出席日数で一回、呼び出し喰らったのよッ!?」
「何だ、つまんねぇことで悩むなよ。言えば圧力くらいかけてやったのに」
「……そういう危険性があるから言わなかったのよ……」
ふと、思い出す。
ああ、そうか。そういえば、前にもこんなことがあった。考えてみれば、今日の一日は、まるで昔をなぞったような。
口喧嘩を繰り返しながら食事を取って、技師としての仕事をして。まあ、結局つまるところ、すべてこの男に我侭に付き合っていただけなのだが。
口惜しい。
あいも変わらず、何か不公平。
それでも、居心地はけして悪くはない、なんて。
「……ひとつだけ、解った」
「あん?」
「あんたも一つも進歩して無い、ってこと」
「何だ、そりゃ?」
「だって、そうじゃない。人を振り回してくれるとこなんか相変わらず。人も空気も読まないし、態度も進歩なし。
ホントに、呆れるくらい昔と同じ」
だというのに。
今、ここには壁があるのだ。
絶対的な、猜疑という壁が。
乾いた笑いが、ルナの口から漏れた。それが自嘲めいて聞こえたのは、けして気のせいではないだろう。
「けっ、お前もだろーが。相変わらずガキだし、悉く詰めが甘いし、うるせーし」
「五月蝿いのはあんたのせいよ。少なくとも」
さらり、と数瞬だけ吹いた風が、ルナの髪を攫った。目の前に垂れてきた栗色の一房を、白い指が掴む。
「随分、伸びたもんだな」
「うん、まあ……。切らないまんまだったし」
「何だ、短いままじゃあ、男に間違われるからか?」
「……いい加減にしないと振り落とすわよ」
軽口を叩く彼の頬を、申し訳程度に軽く叩く。気紛れに指に髪を巻きつけて遊ぶ。何故、切らなかった? と訊かれた。
「戒め、かな……」
「あん?」
「まあ、下らないことよ。そういうあんたは切ったのね」
「ああ、まあな」
同じような問いを返してみると、「いろいろと重かった」と返って来た。それをそのまま受け止めるのは、余程の愚鈍がすることだ。
きっと二人とも、切りたくて、伸ばしたくて、髪をいじったのではないのだ。
言葉が途切れる。言葉を重ねようとするほど乾いていく。きっと、彼もふと気がついてしまったんだろう。
昔と寸分違わない自分たちの姿に。
されど徹底的に違ってしまった一点に。
「―――ルナ」
「何?」
無音の世界に、不意に声が上がった。ルナはすぐに答えた。
「お前は、本当に何も喋ってないんだな……?」
ぼそり、と呟かれたのは、聞き飽きた問いだった。
だから、聞き飽きただろう、答えを返す。
「喋ってないわ」
「そうか……」
テノールの声が平坦に響く。
急激に、温度が冷えていく。
その声はけして疑ってはいない。しかし、欠片も信じてはいない。ただのつまらない相槌だった。
くしゃり、とまた顔が歪む。だから寄りかかる木のてっぺんを見上げた。それなら、膝で眠る彼に表情が見えることはない。
自分は、ただ信じたいだけだ。信じてもらいたいわけじゃない。
言い訳のように繰り返して、言葉を紡ぐ。
「カシス」
「……」
「解ってるはずよ。もう、昔とは違うって」
「……」
「『ヴォルケーノ』のことがなければ、確かにお互い無事で良かった、で済んだのかもしれないけど。
でも、現実として、あんたはあたしを信じられていない。それを恨むつもりはないわ。仕方のないことだから」
「そうだな。自業自得だ」
「そうね。だと思う。
信じろ、なんて言わないけど、でも、一つだけ頼みを聞いてもらいたい」
「頼み?」
ルナは木のてっぺんを見続ける。彼はこちらを見上げているのかもしれない。もしくはまったく別の方向を向いているのかもしれない。
「……『ヴォルケーノ』と、『ツインルーン』を、忘れて」
「……」
「いや、正確じゃないわね。あの件について、これ以上、詮索するのをやめて」
「何だ、保身か」
「そんなんじゃないわ。前にも言ったように、あたしはクオノリア、ランカースであの二つを利用して事件を起こした黒幕を追っている。その黒幕がカノンたちを狙っていて、利害の一致からあの娘たちと一緒にいる」
「……」
「理由としては最低よ。協力と称して、あたしは結果的にあの娘たちを利用している。
でも、あの黒幕はただものじゃなかった。利用出来るものは利用しないと―――勝てないわ、きっと」
きり―――ッ。
奥歯を、噛み締める音が、カシスの耳にも届いた。
飛んだ馬鹿者だと、思った。
昔から、こんな甘い女に、そんなことが出来るものか。
そう思った。
「奴のことに関しては、あたしに、任せて欲しいの」
「……」
「あんたに信用されないまま、ってのは癪だけど……。
あんな無茶苦茶な奴相手の戦いに、あんたもイリーナも、巻き込むわけにいかないし。
昔の研究漏洩が後顧の憂いだってんなら、あたしが何とかする。もともとそのつもりで、あの娘たちに手を貸してるわけだし」
「……」
「あんたは、そんな過去のことで芽を潰されていい人間じゃないでしょう?
イリーナも、多少のコネはあるんだろうし、あんたの腕ならどうマイナス点があろうがいいポジションまでいけるはずよ。あの娘なら、サポートだってしてくれる。確かにドジだし、自分は馬鹿で何も出来ない、なんて言ってるけど、それでも研究者の端くれよ。あの娘にも、あの娘なりの才能があったから、あんたもプロジェクトへの参加を許可したんでしょ?
だったら―――さ。
何も、考えることないじゃない。
上に行きなさい。
それが、あんたの夢だったんでしょう?」
何度も言っていた。
いつか、あの小さな『館』の中だけじゃなくて。
大陸、いや、世界に認められる魔道技師として名を残す、と。
ただ聞いただけでは、拙い子供の夢。でも、相応の才能と、血の滲むような努力が伴ったそれは、夢想とは呼ばない。
ルナは、彼はそれだけのことが出来る人間だと、信じていた。
一度は業火に焼かれた夢だった。
だったら、やり直せばいい。傍らにいるのが自分でなくとも。
もう、昔とは違うのだ。それでいい。いや、それを望んでる。
「それで、お前はどうなる?」
「さぁ……? 解んない。
生きて帰れたら戻ってもいいし、むざむざ死ぬ気もないけど。ともかく、終わったら考える。
……話さなきゃいけないことが出来たら、それはちゃんと、話しに行くしさ。
だから―――」
「だから―――そいつを信じろ、ってか」
「……」
ルナは小さく呻く。
解っては、いたのだ。結局は、信じてもらうしかないのだと。そもそもそれが出来ないから、もどかしいのだ。
何て、煩わしい堂々巡り。
「気に喰わねぇな」
「―――ッ!!」
ふわり、と膝から重みが消える。その代わり、後頭部に鈍い痛み。がんッ、と音が聞こえたのは何故か一瞬後だった。
首に違和感が走っていて、後頭部と背中が幹に押し付けられている。いたい。
ぎり―――ッ
「かッ……ッ、は……」
口からなけなしの空気が漏れる。首の違和感は、ぎりぎりと気道を締め付けて、声と、酸素とを塞いでくる。
苦痛を訴えて正面を見ると、吊り上げられた暗い赤眼が、乱雑に切られた白髪の間からこちらを睨んでいた。絡みついているのは、細く、長く、白い指。魔道技師の器用に鍛えられた右腕が、喉を潰していた。
「疑いが濃厚な人間に全部任せろ、だ? はッ! 随分と調子のいいことを言うじゃねぇかッ。
仲間を利用する? "超"が何個付いても足りないくらい甘いお前に出来るわけねぇだろうッ!? とんだ笑い種だッ!
それが俺やイリーナのためだってかッ!? 気に喰わねぇッ、偽善者くせぇことをほざくなッ!!」
「―――ッ、く、ぅう……ッ!」
「……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か。
さぁ、言えッ、それはくだらねぇ自己犠牲の偽善なのかッ! それとも自分の保身かッ!? だとしたらどっちもくだらねぇッ! 下らない、くだらない、クダらないッ!!
ああ、信じてねぇのはお互い様だッ! 一瞬でも信用しかけた手前ぇ[オレ]が、心底馬鹿だったぜッ!! それがよぉく解ったッ!!」
「くっ、ぅ、ち、ちが、かは……ッ!」
空気が漏れる。漏れるばかりで入って来ない。声も出せない。縋るようにぎりぎりと締め付ける腕に、爪を立てる。
頭の後ろが朦朧として、重たくなって来た頃、ようやく首の枷が外れる。
ぐん、と広がった気道に咽て、咳き込んだ。喉元を押さえ、身体を折ろうとするが、相手はそれを許してはくれなかった。
「―――ッ!!?」
眼前に、細められた赤眼があった。近すぎて、睨んでいるのか素なのか、判別が付かない。たぶん、前者だろうが。
かりり、と唇に痛みが走る。噛まれた、と知覚する。同時に舌の上に緩い錆の味。
お礼や詫び、なんて可愛いモノじゃない。与えられているのは愛情ではなくて、暴走したただの苦痛。
―――ッ!
背中が太い木だったのを思い出した。
封じられる寸前だった右手に気づく。脳が危険信号を鳴らす。瞬間、手が動いていた。
ぱんッ!!
響いた音は、何かとても大きく聞こえた。
拍子に緩んだ拘束から身を離して、距離を置いた。
「……」
「……はぁ、はぁ…」
荒い息を吐き出しながら、ふらつく足で立ち上がった。血の滲む唇を拭って、押さえながら、視線を上げた。
腫れた頬を、打たれた頬を押さえながら、彼は無言でこちらを見ていた。
黄昏よりも暗い、朱い眼で。一抹の哀憐と、非難、いや敵意さえ感じさせるような、そんな眼で。
ぎり―――ッ、噛み締めた歯が痛い。もっと痛いのは頭。もっともっと痛いのは身体。絶対的に痛いのは、こころ。
じりッ、と後退る。妙に滲んだ視界が悔しい、悔しい悔しい口惜しい憎たらしいッ!
「―――ルナ」
なけなしの力を足に込めて、その場を逃げ出そうとした少女の背に、凍りついた言葉がかかる。反射的に、止めてしまった足を死ぬほど後悔した。
「明日、町を経つ」
「……」
「夜に、来い。それがお前の最後のチャンスだ」
「………ッ!」
擦り切れるような痛みが、身体を貫いた。がくがくと、膝が震えてしまう前に。頭の中の警鐘が、その場を離れることを訴えていた。
だから。
「―――ぅッ!」
呻き声だけを残して、彼女は振り返らず、逃げるように走り出した。
←7へ
「……おい」
「……」
「こら、お前……」
「………何よ?」
長い間を空けて、ルナはようやく返事を返す。
二皿目のトマトクリームパスタと格闘しながら、ちらり、と明らかに不機嫌な視線を上げる。対面には、椅子に背を預けながら紅茶のカップを傾ける赤眼の男。
男は呆れた視線でもうすぐ空になるパスタ皿を眺めながら、彼女の頭の先から爪先までを見渡した。その視線が一点で止まる。
「……そんだけのもんが、何で肝心な場所にいかねぇか疑問だな」
「あんた……いい加減、そろそろセクハラで訴えるわよ?」
「だってなぁ、顔付き体付きガキだろ? 性格アレだし、お前、女として三重苦だぞ、それ」
「超絶的に余計なお世話よッ! あたしはいーのよ! 取った栄養分、きちんと頭に回してんだからッ!」
かしゃん、と皿に叩き付けたフォークが鳴る。ルナは向けられた周囲の視線に、慌てて浮かしかけていた腰を下げる。オレンジジュースのストローを加えながら、恨みがましい目で睨みつける。
だが、相手は素知らぬ素振りでこちらを眺めているだけだ。
急に馬鹿らしくなって、ルナはもう一度、パスタ皿を平らげにかかった。
「……恥ずかしい奴」
「やかましい。誰のせいよ」
ストローの先を噛みながら悪態を吐く。
「……で、何よ?」
「こりゃあ、心外だ。俺を捜してたのは、お前の方だって聞いたがね」
「まあ……だって、ろくに連絡一つ、寄こさないじゃない。毎日、何やってるんだか知らないけど、会いに行ったってまともな話も出来ない状態だったし」
「何だ、そんなに寂しかったか」
「ち・が・うッ!!」
ドスを聞かせた声で言い放つ。しかし、カシスはくつくつと喉の奥で笑いながら受け流す。
「……もーいいわよ。あんたにまともな話をする気がない、ってのはよぉく解った。
解ったから一方的に話させてもらうわ」
ざく、とデザートのミルフィーユにフォークを突き刺して宣言する。
すッ、とカシスの顔付きが変わった。にやけた口元はそのままだが、細めた目は明らかに笑ってなどいない。
「……まず、言って置きたいことだけど。
この前言ったことは本当よ。あたしはこの五年間、『月の館』で培った知識は一つとして他人に口外してないわ。『ヴォルケーノ』はもちろん、『ツインルーン』なんて口にするわけがない。
……『月の館』を襲撃したあいつら……ニード=フレイマーの組織に逆らって、政団に尋問されたときだって口にしなかった」
ひくり、とカシスの薄い眉が動いた。
「……ニード=フレイマーの組織を潰したのは、やはりお前なのか?」
「……そう、ね。少なくとも、最初に反旗を翻したのはあたしだと思う。
あのとき、あたしはニードの研究に加担して……」
「―――魔族の器にされたか」
「―――ッ!」
小さく、ルナは息を飲む。忌々しい記憶だった。
「あんた、何で知って―――ッ!」
声を荒げかけて、場所を思い出し、口を塞いだ。カシスはさもつまらなさそうに、頭部を掻く。
「……この五年、俺が何をしてたか言ってなかったな。
お前同様、俺はあの糞野郎の組織の研究室で働かされてたさ。それで何を研究させられてたと思う?」
「……」
「答えは精神体の生物を物理世界に固定化させるための魔道具の生成だ」
「ッ!」
はっ、として顔を上げる。
ニード=フレイマーは人間の体の中に、上級魔族を召還し、融合させるという実験を行っていた。ルナは当時、その器として使われたのだ。
「奴らが魔族の降誕をやろうとしてることの察しはついた。となれば、物理的な器とは何か? 本来言うことを聞かない魔族を言うこと聞かせるようにするんだ。都合の良いのは人間だろ?
―――あとは簡単だ。お前の魔力許容量[キャパ]を考えれば、何をさせられるかは見えてくるさ。
『月の館』を襲撃した目的もそんなもんだろ? 圧倒的な魔力許容量[キャパ]を保有する魔道師探し、ってわけだ。それでお前に白羽の矢が立った。
察しがついてからは欠陥品しか作る気が起きなかったがな」
「そう、だったの……」
唖然としたまま、何を言えばいいのか解らずに、ルナはフォークを下ろす。
「……あたしは、そのまま魔族と融合されそうになって……。
直前で、カノンたちに助けられた。あの娘たちがいてくれたのは、本当に偶然で、運が良かったんだと思うわ。今でも、感謝してる。
でも、それとは別に、あんたの行方は知れなかったから―――これでも、一応、心配はしてたのよ。」
「……」
カップにつけていたカシスの唇が離れた。眉間に皺を寄せ、少し俯いて話す彼女をまじまじと見つめる。
「それなりに捜しもしたしね。今までなかなか手がかりも掴めなかったけど。
そんなときに例のクオノリアの話を聞いてね。カッと来た。だから、無理にMWOに取り入って調べ上げてやろうと思ったのよ。結局、それが仇となってあんたに疑われる結果になっちゃったわけだけど……」
「……」
やや自嘲気味に話すルナに、カシスはますます眉を潜めた。
ふと、その視線が外れる。長い間だった。店内の喧騒が、耳につくくらいに、騒がしい。
やがて、カシスがわずかに口を開く。だが、直前でそれは言葉にならずに、もう一度沈黙を呼んだ。
だが、その沈黙は刹那のことで、
「……―――本当に、バカな女だな」
「ちょ、何よ、そ……ッ!」
「それを証明出来る人間は?」
真顔で尋ねるカシスに、吐こうとした文句が飛んだ。拳を握り、口元に押し当てながら頭を回す。
「……あたしがMWOに取り入るときにいたクロード、っていう……まあ、この間言っていた黒幕から『ヴォルケーノ』の情報を買っていた男なんだけど……。
あの男は目の前で黒幕に……。あとは、その祖父の元MWO支部長がいるはず。その人ならたぶん……あとは政団で裁判されてるクロード側の関係者とか、かしら……?
『ツインルーン』の方は……関係者はもう、全員……ん…」
「って、ことはだ。最高の証人は、その黒幕、ってことか」
「そうなるんだけど……。詳しくは話せないけど、それが何故か、カノンたちを狙ってるらしくてね。同行させてもらってたのよ。
……だから、その黒幕から何か聞き出せれば、と思うんだけど……」
「上手くいってねぇわけだ」
「う゛……」
ずばり言い放たれて、ストローを握り締める。苦い表情でテーブルを見つめていると、すいっ、と長い腕が伸びた。
一瞬、何が起こったか解らなかった。気がついたときには、目の前からオレンジジュースのグラスが消えていた。
「・・・って、ちょっとッ!!?」
顔を上げたときにはもう、無残にもグラスの中から甘いジュースの姿は消えていた。ストローで一気に飲み干した犯人の男は、そのまま何事もなかったかのようにだんっ、とグラスをテーブルに置く。
「あんたねッ! 何、人のもん、勝手に飲んでんのよッ!? セクハラだけじゃなく、窃盗罪ッ!? ふざけるのもいい加減にしなさいよッ!」
「ああ? ンな程度でケチくせぇこと言ってんな。胸だけじゃなく、ケツの穴まで小せぇか?」
「あんたには言われたくないッ!! つか失礼なこと言うなッ!」
「あーあ、ったく。昔、両方、多少はでかくしてやったと思ってたんだがな」
「―――ッ! なッ、ちょ、ま……ッ!!!」
さらっと吐いたカシスの台詞に、ルナの顔が耳まで朱に染まる。
この男は、公共の場で何てことを口にしてくれるんだ、というか今さらだが本当にとんでもない。
金魚の呼吸よろしく口をぱくぱくさせるルナに、カシスは満足げに笑みを浮かべた。そして、すっ、と傍らにあった伝票を取って立ち上がった。
「出るぞ」
「は、う、うん、って、へ? え?」
「どーせ、暇だろ? ちょいと付き合えよ」
―――……っていうか、話はまだ終わってないと思うんだけど。
「おい、置いてくぞ」
「ちょ、ちょっと、少し待ちなさいよッ!」
やや釈然としないものを感じる。いや、ややとか多少とかのレベルではないはずなのだが。
問答無用で席を立ち、レジに向かう白髪の男は容赦なく大股で歩いていく。わだかまりはあったものの、彼の急な行動に動揺を隠せなかったルナは、慌てて荷物を持ってその背を追った。
「ちょっと! どこ行くのよ!?」
人込みでごった返すメインストリートを通り抜けながら、ルナは三歩先にある白衣の背中に怒鳴りつける。
別に好きで距離を取っているわけではない。ただ単に、上背が足りなくて体重も軽いルナでは彼のように周囲を押しのけながら歩く、という器用な真似は出来ないため、自然と距離が広がってしまっているだけだ。
「うるせぇなぁ、がたがた言わずにちったぁ黙って付いて来れねぇのか」
「付いて行けるかッ! アヤシイ人間に付いていくな、なんて、きょうび三歳の頃から教わってんのよ!」
振り返り、怒鳴り返されるが、従うわけにはいかない。
黙って付いて行く、なんてしようものなら、こんな場所、たちまちはぐれるに決まっている。
何とか人の足元を縫うようにして追いついたルナは、決死の思いでカシスの上着の裾を掴んで止まらせた。
「ッ、はぁーッ、はぁーッ……」
「何疲れてんだ、老化現象か?」
「死ねッ! あんたねッ! 前も再三、言った覚えがあるけど体格差とかリーチの長さとか考えなさいよッ! あんたはゆったり歩いてるつもりでも、あたしは競歩で十キロマラソンやらされてるようなもんなのよッ!?」
「競歩だったらマラソンじゃねぇだろーが」
「突っ込むべきなのはそこじゃないッ!!
とにかく、もっとゆっくり歩きなさいよ。さっきから人に押されまくって青痣だらけだっての。そうでなくたって他人に体触れるの嫌だしさ」
「どうせ他人に当たったって、どっちが胸だか背中だかわかりゃしねぇだろ?」
「あのさ、あんたさっきからマジで殺していい?」
敵意を通り越して軽く殺意を覚えてくる。
カシスはルナの剣呑な眼差しにもけらけらと、さも可笑しそうに笑いながら、少しだけ背を伸ばして人の頭の向こうを見やった。
「大体あんた、人込みって嫌いじゃなかったっけ?」
ルナの記憶にあるカシス=エレメント、という男は好き好んでこんな人混みを歩くような愉快な男ではない。人混み嫌い、というよりそもそも他人嫌いな男なのだ。対人するのが嫌で、ルナや下級生に頼まなくてもいい仕事を押し付けるような。
それがこんな場所に連れ出してくるなんて、どうにも解せない。
彼は小さく肩を竦めると、
「まあ、用がなきゃあわざわざンな場所には来ねぇわな」
「だから。その用、ってのは何なのよ? それはあたしがわざわざ、どっかのセクハラ男の腹の立つ言動に、耐えてでも来るような価値がある用件なわけ?」
「くっくっく……まあ、そうカリカリすんじゃねぇよ。価値があるかどうかは知らねぇが、それなりに……」
唐突に、言葉が切れる。
首を傾げるより先に、腕を引かれる方が先立った。
「わっ、ぷッ!?」
急なことにバランスを崩し、顔面を彼の胸板に強打する。普通の男女間なら、ほわほわした雰囲気の一つや二つは生まれるのかもしれないが、とりあえずは鼻の痛みが先に立つ。
「ちょっと、何す……ぅむ!?」
抗議の声を上げようとすると、そのまま胸板に顔を押し付けられた。声、どころではない、息が危うい。苦痛に握り締めた拳を、叩きつけようと振り上げた、瞬間。
「おら、どいたどいたどいたーッ!!!」
ががががががががが……ッ!!
けして平坦とは言えない石畳を削るようにして、たった今、ルナが居た空間を小型の荷馬車が砂煙を吐いて通り過ぎる。周囲の人々は慌てて避けて、巻き上がった砂を吸い込んだ者は口元を押さえて咳き込み始める。
すぐ脇の角からいきなり出て来たらしい、傍迷惑な暴走車だ。
ルナは茫然と目の前を通り過ぎていく馬車を眺めていた。
見るからに柄の悪い御者の中年男は、一瞬、こちらを振り向いて、
「ケッ、真っ昼間からいちゃついてんじゃねぇよ、邪魔なんだよッ!」
ぷちッ。
「うるさッ……」
「うるせぇッ!! 天下の往来で薄汚ねぇ口開いてんじゃねぇ、ゴミがッ!! 空気が汚れんだろうが、屑ッ!!」
去る馬車に怒鳴りつけるはずだった声は、さらに大きな声に遮られる。
というより頭上から降って来た。頭が少しガンガンする。
御者の男は唾を吐き出して、こちらを睨むと馬車を走らせて去っていった。カシスの声がどこまで聞こえていたかは知らないが、まあ、言いたいことは代弁してくれた―――というより内容的には遥かに酷いことを言ってくれたので良しとする。
残った砂埃に鼻と口を押さえる。渋い顔でカシスを見上げると、同じように口元を押さえながら、小さく咳き込んでいた。
そういえば。
―――この男、実はあんまり体強くないっけ……。特に気管支は。
彼が人混みを嫌う理由は、他人嫌いであることと、確かその実、あまり埃やら砂やらに耐久力のない体だったからのはずだ。
「ちょっと待ってなさい」
なかなか収まらないらしい咳に、ルナは周辺を見渡しながらその場を離れる。癪だが、あの暴走車のおかげで多少の人の切れ目が生まれていた。これならば、ルナでも楽に身動き出来る。
しばらくして戻って来たルナの手には、コーヒーの入った紙コップがあった。
「はい」
「……」
無言で受け取ると、カシスは一口だけ口に含む。口の中を洗うと、すぐに吐き出した。
「薬は? 持ってんの?」
ちらりと視線が自身の胸元に走る。それを見逃さなかったルナはすぐさま腕を伸ばし、
「―――ッ!」
ぱしんッ。
乾いた音が響く。手の甲に、ひりひりした痛みが走っている。
伸ばそうとした手が払われた。それに気がついたのは、一瞬、後だった。
「……」
「……構うんじゃねぇ。自分でやれる」
鋭い切れ長の目は、少なからず悪意を放ってこちらを睨んでいた。普通の人間なら、後退りくらいはするような。そんな、人に向けるには鋭すぎる視線。
だが、ルナは反射的に眉を吊り上げた。
「こっ……子供か、あんたはッ!!」
先ほどの路地の問答の、倍以上の声量で怒鳴りつけた。眉間に皺を寄せて顔をしかめる彼に構わず、ルナは上着の襟を掴み上げる。
「あのね! そうやって一人で自己満足してるのは勝手だけどッ!! こっちは甚だ迷惑よッ!!
一人でやれるかどうかなんて、今どーでもいいでしょーがッ!! いいから貸しなさいッ!!」
問答無用で胸ポケットに収められていた薬の小瓶をひったくった。使う機会は少なかったが、昔も何度か目にした覚えがある。
瓶の蓋を弾くと、コーヒーのカップの代わりに握らせる。
そこまでやって観念したらしい、彼は溜め息を吐き出して瓶の中身を飲み干した。今度は瓶を受け取り、薬の苦味のためか何なのか、渋い顔をする彼に再びコーヒーを差し出した。
瓶に蓋を閉め直す。中身は空でも、薬の水滴は内側にこびりついている。下手にそこら辺に放置するわけにもいかない。後でちゃんと洗って置かなくては。
小瓶をポケットに落すと、コーヒーで口の中を洗うカシスの背を何度か摩る。
「庇ってくれたのにはお礼言うけどッ! あんたは昔から体強くないんだから! いくら鍛えて、大方平気になったって言ったって、無駄に格好付けんじゃないわよッ! まったく世話が焼けるわねッ!!」
「……」
「何よ?」
無言で見下ろしてくる淡白な表情を睨みながら問いかける。
そしておもむろに。
その厳しい表情から力が抜けた。
「……何よ?」
「いーや、昔から進歩のない奴だ、と思っただけだ」
「はぁッ!? それ、あんたのことでしょッ!? 進歩って何よッ!!」
「何でそこで墓穴を掘るように胸を押さえてんだよ」
「う、五月蝿いッ!!」
カシスはくつくつと低い声で笑いながら依れた襟元を正した。屈むように腰を折ると、自分より低い位置にあるルナの顔を覗き込む。
目を逸らすのも何か負けな気がして、ルナはさらに眉を吊り上げて睨み返す。
不意に彼の顔が視界から消えた。
その刹那、一瞬だけ、唇に柔らかな感触が走る。
「―――ッ!!!?」
「礼と詫びの兼用だ。大人しく貰っとけ」
「な、な、なぁ……ッ!!」
「何、それくらいで沸騰してんだよ。今さらだろーが。それとも、もっと先までお望みかぁ?」
「ばッ、馬鹿言うなッ! このスケベッ! セクハラ男ッ! 役人に突き出すわよッ!!」
「くっくっく……されるのが嫌なら大人しくしておけよ。行くぞ」
「ちょ……ッ」
カップを握りつぶして放り投げたと思ったら、その手で手首を掴まれた。いきなり引かれてかくん、とまたバランスを崩しかけた。
「ちょっと! 怪我したらどーしてくれんのッ!?」
「ガタガタうるせぇな。ホントに身体ごと喰われてぇか。いいからちょっと付いて来い」
「どこまで勝手なのよッ! ああもう! 行ってやるから離せ、って言ってるのーッ!!」
口で言って聞くような相手じゃないと知りつつも。
あまりの理不尽さに、ルナは無駄を感じながら、気を抜けば反転してしまいそうな不安定な世界を、久しぶりの大声で怒鳴った。
そのまましばらく。
引き摺られるまま、転ばないようにバランスを保つのが精一杯だったルナは、急に立ち止まった彼の背に鼻の頭をぶつけた。
「何すんだ」
「人間は急には止まれないのよ! ともかく、一体何のよ……」
鼻を摩りながら視線を上げて、ふと気が付いた。
上げた視線の先にあったのは、メインストリートに門を構える、あの魔道具店だった。
「覚えてるか?」
「……言葉には主語と目的語を付けろ、って何度も言ったわよね?」
憮然として端的すぎる言葉に文句をつける。言われた当人は、自分から振った話のくせに、こちらを見ようともしない。
ルナは溜め息を吐いて、その場を見回した。
少しだけ土臭い、そして室温の高い。そこは工具と、製作途中の魔道具が転がる工房だった。奥の、そのまた奥の部屋の方では、鉱物精製のための高温の炎がごおごおと音を立てている。室温が高いのはそのせいだ。
こめかみに掻いた汗を拭って、ルナはもう一度、カシスを見る。
この男、しばらく見ない内にこの店の主人とやたら仲良くなっていたらしい。いや、それには語弊がある。何せ、向こうはこちらに彼の姿を認めた途端、卑屈になって、『工房を貸せ』なんていう無茶な申し出を見返りなしでOKしてしまったのだ。
―――まあ目の前で自分の歯が立たないような代物を、あっさり直した人間に尻込みするのは解るけど。
その後、店の主人との間にどんな確執があったのか。いや、知りたくはないが。
そんなこんなで、工房内にのさばった白子[アルビノ]の魔道技師は、工房の一角を陣取って、いきなり何かの魔方陣かそれとも呪法かを羊皮紙に書き出した。その行動が突発的過ぎて、完全に置いてきぼりを食らったルナは仕方なく、近くの椅子に逆座りしながらその作業を眺めていたのだった。
そして羊皮紙から手を離し、近くの呪を石に刻むための工具を取ったと思ったら、今の切れ切れの台詞。
カシスは答えの代わりに、いつもの、あのくつくつという含み笑いを漏らして、手の中の工具を弾いた。
すっ、とその手がこちらに伸びて、思わず身を固くする。噴き出された。
「別に取って喰おうって訳じゃねぇよ。大人しくしてろ」
「……」
無言で身体を固くしたままいると、さらり、と目の端にブラウンの髪が落ちてきた。自分の髪だ。
何をされたかはすぐに解った。髪につけていた羽飾りを取り外されたのだ。
「―――?」
別段、奪い返そうとはしなかった。いや、必要がなかったのだ。
何せ、
「まだ持ってるたぁ、思わなかったぜ」
「……別に。いいじゃないの」
ぷい、とそっぽを向く。知らずに鼻の頭が赤くなる。
「"思い出の品"なんか取って置くようなタイプじゃねぇだろーが。それとも何だ? 俺の形見のつもりだったのか?」
「まさか。いろいろ都合が良かっただけよ。自惚れないで」
ふーん、と素っ気無い返事を返して、彼は掌の上で羽飾りを遊ばせる。
あれは、もともと彼が作ったものだった。魔力干渉から持ち主を防護する呪符の一つ。その試験[テスト]のために渡されていたものだった。
ただし、それほど強い効果があるわけでもないし、時が経つと共に効果は薄らいでいく。実際、五年も経過した今では、ほんの少し、戦闘に置ける運を良くしてくれているだけだろう。
だから、自分の言葉が何の説得力もないことは知っているのだけれど。
彼はくつくつと笑いながら、赤石についた三番目の黒羽を引いた。厳重に括られたそれは、多少、引っ張ったところで外れはしない。
その羽根一つだけは、カシスの記憶からは外れていた。
「自分で付けたのか。変わった呪力を持ってるな。どこで見つけた?」
「いや……どこで、っていうか……。ちょっと、ある仕事を片付けたときに報酬代わりにパクったんだけど……。ちょっと変わってるなー、と思ってやってみたのよ」
「ほー、そりゃあまたお前、度胸があるな」
「別に危なそうな感じではなかったし、魔力相互も起こらなかったし……」
「ふん……。まあ、これは今度調べてみるか……」
黒い羽に触れながら、多少の興味を持ったらしい。口ではそう言っていても、目は子供のようにそれを見つめている。
少しだけ、ルナの表情が和らいだ。
こつり、とカシスは工具の切っ先を赤石に当てる。
「ちょ、ちょっと……ッ?」
「まあ、慌てんな。悪いようにはしねぇよ」
そのまま、工具を小刻みに動かしていく。時折、傍らに置いた羊皮紙を覗きながら手を動かしていく。
ちっ、と舌打ちが漏れた。
机の上に石を押し付けるようにして、片手で作業しているせいか、上手くいかないらしい。
「……」
かたん、とルナは椅子から立ち上がる。工具を動かす彼の手元に手を伸ばし、羽を押さえながら石を固定するように抑える。
工具の動きが止まる。
ちらりと、石と同じ色をした彼の目がこちらを向いた。
「……」
だが、それは一瞬だけで。
ふん、と軽く鼻を鳴らしただけで、後はかりかりと工具の擦れる音が工房に響くだけだった。
「……で、何がどうなったの、これ?」
店主に礼を言って魔道具店を出て、ルナは手元に置かれた羽飾りをしげしげと見つめた。
先ほどとは違って、石の部分に紋様が掘られている。形自身は防護の印だが、アレンジが加わっているらしく、見たことのない呪いがところどころに掘られていた。
傾き始めた日に透かして見るが、何が変わるわけでもない。
「ま、ちょいとしたメンテナンス兼アレンジだ。悔しかったら自分で勉強するんだな」
「む……」
魔道技師もものを造る人間だ。職人と同じで、自分の作ったものは例え、こんな呪符一つでも扱いに厳しい。
だから、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の悪用も、効力のなくなった呪符をそのままにして置くのも、我慢ならないのだろう。
形すべてを読み取ることは出来ないが、そもそもこれをルナに渡したのは、防護や回復の呪いを不得意とするルナの呪文の性格を知ってのことだった。だから、これもきっと、相違はないのだろう。
「防護系だってことは解るけど……。いや、待てよ……これは違うわよね、強化系も混じってるし……」
彫られた陣と紋を眺めて、ルナは何とも複雑な表情を浮かべる。悔しそうな、それでいて顔はやや赤い。
「……カシス」
「あ?」
「い、一応、言っておくけど……。その、ありがと……」
人間、礼を言うのに抵抗を覚える相手というのが必ず存在する。ルナにとってみれば、カシスがそうだった。
視線を背けながら絞り出すルナに、カシスはふん、と息を吐く。
「はッ、だから大人しく付いて来い、つったろーが。暴れ馬が」
「だぁれが暴れ馬よッ!? あんたねッ! いい加減にデリカシーってもんを……、きゃッ!?」
思わず漏れた小さな悲鳴に、屈辱を覚える。ふらり、と身体が宙に浮く感覚。
悲鳴を漏らしたことで、昼間よりはだいぶ減った、しかしゼロではない人の目がこちらを向いた気がした。腰には男の腕が回されていて、軽く抱え上げられている。
「何す……ッ」
「どうせだ、もう一件付き合え」
「は、はッ? ちょっと、もう……」
すぐ夕方だ、と抗議しようとした声は呪に遮られた。その呪の内容を理解した途端、ルナは無理矢理口を塞ごうと手を伸ばす。だが無駄だった。
「我望む、求めるは無垢なる風の加護、翔べフロウ・フライト」
風が渦巻いた。巻き上がる髪の合間から見えたのは、風で割れる植木鉢と、日傘を持っていたためによろけ、吹き飛ばされたおばさんA。
ルナは浮遊の感覚を味わいながら、溜め息を漏らす。
フロウ・フライト。上級魔道師が使う浮遊の呪だが、使い勝手は恐ろしく悪い。特に、浮き上がる際に巻き起こる風は、さっきのように周囲に迷惑をかけまくる。
ルナもまあ、周りに気を使って術を使う方ではないが、こいつにだけはとやかく言われない自信はある。
「あんた……」
「何だ?」
「……………もういい」
疲れた、とルナは吐き出した。町並みが眼下に遠くなる。見えるのは下だけで、上を見ようとするとカシスの白い上着に視界を遮られる。
逆らうのも疲れた。どうせ、何も聞きやしないのだ。
諦めて体の力を抜いた。腰に回された腕に抱え直される。拍子に頬が彼の胸板に当たった。
―――ん……
少しだけ、昔より広くなったかもしれない。とくり、と心臓の音が耳を打つ。
―――生きてる、よね……
「あん? どうした?」
「………何でもない」
くしゃり、と歪んだ顔を見られたくなくて、ルナはわざと胸板に顔を埋めた。脳裏に浮かんだのは、煩わしくて、忌々しくて、そして恐ろしい炎の光景は。
消した。
生きている。
彼は、ここで生きているのだ。
だから、あんな風景は、もういらない。
「何でも、ない」
自分に言い聞かせるように、ルナはもう一度だけ小さく呟いた。
「よっ、と」
「?」
とん、と地に足が付く感覚。ブーツを短い草の先が擽っている。同時に鼻を付くのは青の匂い。
断じて町中に存在するような感覚ではない。
身体を離すと、視界の中に白い姿と、その背後に疎らに生えた低木が飛び込んで来た。視線を上げると、彼の、切り方の悪い短い髪が金の光を反射している。はっとして背後を振り向いた。
そこは木陰だった。
町から少しだけ小高い丘。見晴らしが特に良いわけでもない。実際、町が見下ろせる場所、というわけでもない。遙か山の端に傾いた日が見えるだけだ。その光も、大方は梢に阻まれる。
利点、といえば、まあ、彼にしてみれば人がいないこと、だろうか。
特に特別な場所というわけでもない。彼の意図が図りかねず、もう一度、顔を見上げた。
「何……?」
「特に意味はねぇ」
「は……?」
「まあ、単に人がいなかったからな」
その場に腰を下ろすと、くい、と顎で同じようにするよう促す。警戒しながら、腰を落とす。
刹那。
「―――ッ!!?」
「お前、足太くなったか?」
「し、し、失礼なこと言うなッ!! っていうか何すんのよッ!?」
腕を引かれたと思ったら、この強欲が服着て歩いているような自己中男は、いきなり膝に頭を置いて寝転がる。加えて、失礼極まりない台詞のおまけ付きだった。
「いいじゃねぇか、減るもんでもあるまいし」
「精神的に減るのよッ!! どきなさいよッ!」
「断る」
きっぱりと、何故かこちらが悪いような気にさえなってくるほど明確に言い放たれる。
ルナは言葉を詰まらせて、振り上げた手のやり場を探す。妙に心地良さそうに目を閉じる男に、そのやり場がどこにもないことを知ると、素直に手を足の脇へ落とした。
悔しい。
何が悔しいかというと、良い様に使われている自分を許してしまっている自分が一番口惜しい。
「……ひょっとして、これだけのためにこんな辺鄙な場所に連れて来たの?」
「俺としちゃ、街中でやっても良かったんだがね。誰かがぐだぐだ文句付けそうだったしな」
当たり前だ。
言い返して、頭を振り落としてやりたくなる衝動を必死で堪える。
めっきり軽くなった溜め息を漏らすと、怒鳴るのも面倒になって木に背を預けた。
言葉を切ると沈黙が耳に五月蝿くなる。風もなかった。雨が来るのだろうか、少し湿った空気は、梢を鳴らすこともなく、周囲はまさしく無音を奏でている。
「昔はよくやったろうが。何を今さらがたがた言ってんだ」
「あのねぇ、その一回でもあたしが膝を枕にしていい、なんて言ったことあった?」
「硬いこと言うな。散々、授業フケて同じようなことしてただろ。こんなもんどころか、それ以上……」
「言わなくていい。っていうか軽々しく言うなッ!
大体、あんたが勝手に人を連れ出してただけでしょ。あんたは知らないだろうけど、あたし、出席日数で一回、呼び出し喰らったのよッ!?」
「何だ、つまんねぇことで悩むなよ。言えば圧力くらいかけてやったのに」
「……そういう危険性があるから言わなかったのよ……」
ふと、思い出す。
ああ、そうか。そういえば、前にもこんなことがあった。考えてみれば、今日の一日は、まるで昔をなぞったような。
口喧嘩を繰り返しながら食事を取って、技師としての仕事をして。まあ、結局つまるところ、すべてこの男に我侭に付き合っていただけなのだが。
口惜しい。
あいも変わらず、何か不公平。
それでも、居心地はけして悪くはない、なんて。
「……ひとつだけ、解った」
「あん?」
「あんたも一つも進歩して無い、ってこと」
「何だ、そりゃ?」
「だって、そうじゃない。人を振り回してくれるとこなんか相変わらず。人も空気も読まないし、態度も進歩なし。
ホントに、呆れるくらい昔と同じ」
だというのに。
今、ここには壁があるのだ。
絶対的な、猜疑という壁が。
乾いた笑いが、ルナの口から漏れた。それが自嘲めいて聞こえたのは、けして気のせいではないだろう。
「けっ、お前もだろーが。相変わらずガキだし、悉く詰めが甘いし、うるせーし」
「五月蝿いのはあんたのせいよ。少なくとも」
さらり、と数瞬だけ吹いた風が、ルナの髪を攫った。目の前に垂れてきた栗色の一房を、白い指が掴む。
「随分、伸びたもんだな」
「うん、まあ……。切らないまんまだったし」
「何だ、短いままじゃあ、男に間違われるからか?」
「……いい加減にしないと振り落とすわよ」
軽口を叩く彼の頬を、申し訳程度に軽く叩く。気紛れに指に髪を巻きつけて遊ぶ。何故、切らなかった? と訊かれた。
「戒め、かな……」
「あん?」
「まあ、下らないことよ。そういうあんたは切ったのね」
「ああ、まあな」
同じような問いを返してみると、「いろいろと重かった」と返って来た。それをそのまま受け止めるのは、余程の愚鈍がすることだ。
きっと二人とも、切りたくて、伸ばしたくて、髪をいじったのではないのだ。
言葉が途切れる。言葉を重ねようとするほど乾いていく。きっと、彼もふと気がついてしまったんだろう。
昔と寸分違わない自分たちの姿に。
されど徹底的に違ってしまった一点に。
「―――ルナ」
「何?」
無音の世界に、不意に声が上がった。ルナはすぐに答えた。
「お前は、本当に何も喋ってないんだな……?」
ぼそり、と呟かれたのは、聞き飽きた問いだった。
だから、聞き飽きただろう、答えを返す。
「喋ってないわ」
「そうか……」
テノールの声が平坦に響く。
急激に、温度が冷えていく。
その声はけして疑ってはいない。しかし、欠片も信じてはいない。ただのつまらない相槌だった。
くしゃり、とまた顔が歪む。だから寄りかかる木のてっぺんを見上げた。それなら、膝で眠る彼に表情が見えることはない。
自分は、ただ信じたいだけだ。信じてもらいたいわけじゃない。
言い訳のように繰り返して、言葉を紡ぐ。
「カシス」
「……」
「解ってるはずよ。もう、昔とは違うって」
「……」
「『ヴォルケーノ』のことがなければ、確かにお互い無事で良かった、で済んだのかもしれないけど。
でも、現実として、あんたはあたしを信じられていない。それを恨むつもりはないわ。仕方のないことだから」
「そうだな。自業自得だ」
「そうね。だと思う。
信じろ、なんて言わないけど、でも、一つだけ頼みを聞いてもらいたい」
「頼み?」
ルナは木のてっぺんを見続ける。彼はこちらを見上げているのかもしれない。もしくはまったく別の方向を向いているのかもしれない。
「……『ヴォルケーノ』と、『ツインルーン』を、忘れて」
「……」
「いや、正確じゃないわね。あの件について、これ以上、詮索するのをやめて」
「何だ、保身か」
「そんなんじゃないわ。前にも言ったように、あたしはクオノリア、ランカースであの二つを利用して事件を起こした黒幕を追っている。その黒幕がカノンたちを狙っていて、利害の一致からあの娘たちと一緒にいる」
「……」
「理由としては最低よ。協力と称して、あたしは結果的にあの娘たちを利用している。
でも、あの黒幕はただものじゃなかった。利用出来るものは利用しないと―――勝てないわ、きっと」
きり―――ッ。
奥歯を、噛み締める音が、カシスの耳にも届いた。
飛んだ馬鹿者だと、思った。
昔から、こんな甘い女に、そんなことが出来るものか。
そう思った。
「奴のことに関しては、あたしに、任せて欲しいの」
「……」
「あんたに信用されないまま、ってのは癪だけど……。
あんな無茶苦茶な奴相手の戦いに、あんたもイリーナも、巻き込むわけにいかないし。
昔の研究漏洩が後顧の憂いだってんなら、あたしが何とかする。もともとそのつもりで、あの娘たちに手を貸してるわけだし」
「……」
「あんたは、そんな過去のことで芽を潰されていい人間じゃないでしょう?
イリーナも、多少のコネはあるんだろうし、あんたの腕ならどうマイナス点があろうがいいポジションまでいけるはずよ。あの娘なら、サポートだってしてくれる。確かにドジだし、自分は馬鹿で何も出来ない、なんて言ってるけど、それでも研究者の端くれよ。あの娘にも、あの娘なりの才能があったから、あんたもプロジェクトへの参加を許可したんでしょ?
だったら―――さ。
何も、考えることないじゃない。
上に行きなさい。
それが、あんたの夢だったんでしょう?」
何度も言っていた。
いつか、あの小さな『館』の中だけじゃなくて。
大陸、いや、世界に認められる魔道技師として名を残す、と。
ただ聞いただけでは、拙い子供の夢。でも、相応の才能と、血の滲むような努力が伴ったそれは、夢想とは呼ばない。
ルナは、彼はそれだけのことが出来る人間だと、信じていた。
一度は業火に焼かれた夢だった。
だったら、やり直せばいい。傍らにいるのが自分でなくとも。
もう、昔とは違うのだ。それでいい。いや、それを望んでる。
「それで、お前はどうなる?」
「さぁ……? 解んない。
生きて帰れたら戻ってもいいし、むざむざ死ぬ気もないけど。ともかく、終わったら考える。
……話さなきゃいけないことが出来たら、それはちゃんと、話しに行くしさ。
だから―――」
「だから―――そいつを信じろ、ってか」
「……」
ルナは小さく呻く。
解っては、いたのだ。結局は、信じてもらうしかないのだと。そもそもそれが出来ないから、もどかしいのだ。
何て、煩わしい堂々巡り。
「気に喰わねぇな」
「―――ッ!!」
ふわり、と膝から重みが消える。その代わり、後頭部に鈍い痛み。がんッ、と音が聞こえたのは何故か一瞬後だった。
首に違和感が走っていて、後頭部と背中が幹に押し付けられている。いたい。
ぎり―――ッ
「かッ……ッ、は……」
口からなけなしの空気が漏れる。首の違和感は、ぎりぎりと気道を締め付けて、声と、酸素とを塞いでくる。
苦痛を訴えて正面を見ると、吊り上げられた暗い赤眼が、乱雑に切られた白髪の間からこちらを睨んでいた。絡みついているのは、細く、長く、白い指。魔道技師の器用に鍛えられた右腕が、喉を潰していた。
「疑いが濃厚な人間に全部任せろ、だ? はッ! 随分と調子のいいことを言うじゃねぇかッ。
仲間を利用する? "超"が何個付いても足りないくらい甘いお前に出来るわけねぇだろうッ!? とんだ笑い種だッ!
それが俺やイリーナのためだってかッ!? 気に喰わねぇッ、偽善者くせぇことをほざくなッ!!」
「―――ッ、く、ぅう……ッ!」
「……お前にとって所詮、俺やイリーナはその程度の存在か。お前の"信じる"って言葉はその程度の効力か。
さぁ、言えッ、それはくだらねぇ自己犠牲の偽善なのかッ! それとも自分の保身かッ!? だとしたらどっちもくだらねぇッ! 下らない、くだらない、クダらないッ!!
ああ、信じてねぇのはお互い様だッ! 一瞬でも信用しかけた手前ぇ[オレ]が、心底馬鹿だったぜッ!! それがよぉく解ったッ!!」
「くっ、ぅ、ち、ちが、かは……ッ!」
空気が漏れる。漏れるばかりで入って来ない。声も出せない。縋るようにぎりぎりと締め付ける腕に、爪を立てる。
頭の後ろが朦朧として、重たくなって来た頃、ようやく首の枷が外れる。
ぐん、と広がった気道に咽て、咳き込んだ。喉元を押さえ、身体を折ろうとするが、相手はそれを許してはくれなかった。
「―――ッ!!?」
眼前に、細められた赤眼があった。近すぎて、睨んでいるのか素なのか、判別が付かない。たぶん、前者だろうが。
かりり、と唇に痛みが走る。噛まれた、と知覚する。同時に舌の上に緩い錆の味。
お礼や詫び、なんて可愛いモノじゃない。与えられているのは愛情ではなくて、暴走したただの苦痛。
―――ッ!
背中が太い木だったのを思い出した。
封じられる寸前だった右手に気づく。脳が危険信号を鳴らす。瞬間、手が動いていた。
ぱんッ!!
響いた音は、何かとても大きく聞こえた。
拍子に緩んだ拘束から身を離して、距離を置いた。
「……」
「……はぁ、はぁ…」
荒い息を吐き出しながら、ふらつく足で立ち上がった。血の滲む唇を拭って、押さえながら、視線を上げた。
腫れた頬を、打たれた頬を押さえながら、彼は無言でこちらを見ていた。
黄昏よりも暗い、朱い眼で。一抹の哀憐と、非難、いや敵意さえ感じさせるような、そんな眼で。
ぎり―――ッ、噛み締めた歯が痛い。もっと痛いのは頭。もっともっと痛いのは身体。絶対的に痛いのは、こころ。
じりッ、と後退る。妙に滲んだ視界が悔しい、悔しい悔しい口惜しい憎たらしいッ!
「―――ルナ」
なけなしの力を足に込めて、その場を逃げ出そうとした少女の背に、凍りついた言葉がかかる。反射的に、止めてしまった足を死ぬほど後悔した。
「明日、町を経つ」
「……」
「夜に、来い。それがお前の最後のチャンスだ」
「………ッ!」
擦り切れるような痛みが、身体を貫いた。がくがくと、膝が震えてしまう前に。頭の中の警鐘が、その場を離れることを訴えていた。
だから。
「―――ぅッ!」
呻き声だけを残して、彼女は振り返らず、逃げるように走り出した。
←7へ
どう考えても、不可思議だった。
あの日から、あの黒い少女が街中を混乱させてからゆうに三日は経っていた。
レンにしてみれば、ルナのことがあって、何日かの滞在が決まったと同時に何らかの襲撃があるものだと覚悟していたのだ。初日、あれだけ派手な歓迎をしてくれたのだ。それなのに、この三日、気を張り詰めるばかりで変わったことは何一つなかった。
カノンもそれには首を捻っていた。シリアやアルティオも右に同じだ。いくら楽天的思考保持者としても、不穏に感じるところはあるのだろう。
ともかくにも、ここ三日、忙しく動いているのはルナだけで、自分たちは思い思いに過ごしてしまっていた。
意味もない焦りが、レンの中には生まれていた。嵐の前の静けさ、というか。まさか、こちらを休ませてやろう、なんて慈悲深い考えではないだろう。
奴らは行く町々で周到な準備をしてくれていた。その"準備"とやらが、この町にはないのだろうか。だとしたら、初日のあれは、危険を感じてこの町を早く出て行かせようという工作……?
いや、そうだとすれば尚更この三日間の間に、然るべき襲撃を受けていて良いはずだ。
ならば、奴らが大人しいのは、何故なのか。
そこでまた思考の壁に会う。
メインストリートから一本はずれた通りで、煉瓦に背を預けながら、疎らな人波を眺めてレンは思考を巡らせる。
―――それとも。
何か、彼らの計画が、どこかで狂ったのか。
この町に着いてからの不確定要素は二つ。一つはラーシャ=フィロ=ソルト、と言ったか、彼らがレンとカノンに祖国の救援を求めて来たこと。一つはもちろん、ルナの旧友であるというあの男と少女。
どちらも偶然とは言い難い。
ラーシャたちはエイロネイアの視覚だと言及する"奴ら"に狙われた自分たちを追って来た。
カシス=エレメントは薬の護衛中だとか言っていたが、その実は違うだろう。現に、彼らが口にした"お使い"をする二つの町のルートからこの街道は、わずかに外れている。
おそらくだが―――彼がルートを変えたのだ。クオノリアで研究が漏れていることに気がついた彼が、その関係者の中にルナの名を見つけ、ここまで探してきた……というところだろう。でなければ、偶然にしては出来すぎている。
―――あの男は、最初からあれを疑ってきた、ということか……。
それならば、一筋縄で説得も出来まい。三日経っても、彼を説得出来ずにいるらしいルナを責められるはずもない。
ただ、彼を味方となった場合、漏れた情報を元に立ち回っている"奴ら"にとっては、裏をかかれる可能性が大きくなるだろう。彼はルナ以上に『月の館』で行われた研究に深く関わっている。
もう一つ、ラーシャとデルタの、シンシア側の人間だという二人が同じ町の中に存在しているという事実が、彼らの行動を抑制しているのだということも考えられる。
どちらが吉となっているのか、はたまたもしくはやはり嵐の前の静けさで、とうに凶が出てしまっているのか。
―――……堂々巡りだな。
答えの出ないと解りきっていることを考えるのは、思いの他、疲れる。
諦めにも似た溜め息をついて、レンは視線を爪先から上げた。
ちょうど、そのとき、だった。
「―――ッ」
人波の中に。
ゆったりとした黒が、浮かんだ気がした。
それはふい、と掻き消えて、一瞬でなくなってしまったけれど。
レンの頭の中に葛藤が生まれる。追うべきか、追わざるべきか。逡巡して―――踏み出しそうになる足を堪える。脳裏に浮かんだのは、ランカース・フィルでのあの罠。
レンはけして正義感のない男ではない。人としての感情も、あまり面に出さないだけで苛立ちと、黒の少年に対する疑惑、疑念は常に持ち続けていた。
だが―――同時に、彼の相棒よりは導火線が長く、なおかつ、切り刻まれた少女の身体を覚えている彼は堪えて足を止めた。
額に脂汗が浮いている。
―――なぜ、今……ッ!
あれは前回のように誘いなのか。もしそうならば、やはり奴は……?
「あれ……?」
「ッ!」
思考のためか、よほど厳しい顔をしていたらしい。振り向いた先にいた少女は、びくん、と肩を震わせた。
それに気がついて、レンは己の情けなさに軽く首を振る。
蜂蜜色の髪とどこかおどおどした榛色の瞳。地味なローブを纏っていて、やや涙目でこちらを見上げている。
……いつも強烈な個性を纏った女にばかり振り回されているせいか、こういった本当のただの少女に対してどう対処するかなど思いつかないのである。
「え、えっと、その……」
「ルナの旧友だったな。すまない、考え事をしていてつい警戒してしまった。気にするな」
「あ、あう、じゃ、じゃあ怒ってるわけじゃないんですね……?」
―――別に怒るような理由はどこにもないだろう……
どうにも苦手意識が働いて、レンは胸中で頭を抱えた。そう考えると、女性に対して、いつでも誰にでも同じ愛想を振り撒けるアルティオは凄いのかもしれない。無論、褒めていないが。
少女はほっとしたように、胸を撫で下ろす。
「えっと、間違ってたらすいません、レンさん、でしたっけ?」
「そうだ。そっちは確かイリーナ、と言ったか」
「あ、名前覚えててくれたんですね」
にこり、と少女は笑顔を向ける。そういえば、宿屋で何度か訪問してくるのを見てはいたが、まともに会話するのは初めてな気がする。カノンやアルティオは比較的、会話をしていたはずだが。
「そういえば、こうやってお話するの初めてですね。ごめんなさい、ろくに挨拶もしなくて」
「気にしなくていい。それはこっちも同じだ」
「今日はどうしたんですか? こんなところで」
「いや……」
別に言い難いわけでもないのだが、レンは答えに詰まる。言い難いというか、おそらく他人には理解出来まい。
「……少し五月蝿くてしつこい虫が出たんでな。あまり人目につくようなところは避けて、考え事をしていただけだ」
「???」
案の定、疑問符を浮かべるイリーナに、レンはもう一度、「気にするな」と口にした。この疲労感は、不死身で頭の中身の足りていない異性に襲われる経験をした者にしか解らない。
「こんなところで、と言うがそちらこそどうかしたのか?」
「あー、お使いです。ちょっと医療系の魔道研究で使う薬の補充に。今度は先輩の」
「あの男か……」
苦笑いするイリーナに、レンは挑発的なオーラを纏う件の魔道技師の男を思い出す。またいいように使われてるな、哀れなものだ、と心の中だけで思うと、彼女はそれを汲み取ったかのように、
「私、今日はお出かけする用事がありましたし。そのついでなんですけど、ちょっと迷っちゃって……この辺のお店なハズなんですけど」
「……」
えへへ、と舌を出す少女にレンは思わず引き締めた顔を潜ませるところだった。
大きな町、といってもこの町は比較的、道も整備され、標識も易しいものである。
「……帝都あたりに行くと完全に迷うな」
「あ、あう、た、確かに一回、上司のお供で行ったとき迷子になって何故か町の外に出ちゃったりしましたけど……」
ぽつりと呟いてしまったレンの言葉に、しどろもどろになりながら、必死で弁明する少女。
その様が思いの他、可笑しくて笑ってしまう。
「まあしかし、あんなとんでもない女を親友にしているのだからな。付き合うのには根性がいるだろう?」
「とんでもない、って、ルナちゃん、ですか?」
他に誰がいる? と問い返す。イリーナは少しだけ悩む素振りを見せると、
「確かにルナちゃん、ときどきホントにハラハラしますけど。でも、私には優しいですよ。
一番の親友ですから。私はルナちゃん大好きです!」
「……」
虚をつかれたように、レンの表情がぴくり、と動く。よもやあの暴走魔道師について、そんな評価を聞く日が来ようとは。
「? どうかしましたか?」
「いや……」
珍しく面食らうレンに、イリーナが首を傾げる。
「……それは本音か?」
「? はい」
「そうか……いや、気にするな。どうしてそう思う?」
「だって、私なんかよりずっと強いし、優秀だし。私はおちこぼれだったけど、それでも熱心に勉強教えてくれて。
私なんかがプロジェクトチームに所属できたのも、ルナちゃんのおかげです。
ちょっと素直じゃなくて、強情だけど」
―――ちょっと、というかかなりな。
つい、出そうになった本音を飲み込んだ。
「レンさん、ルナちゃんとは仲良いんですか?」
「仲が良いかどうかは知らんが……まあ、付き合いが長いことは確かだ。奴とは子供[ガキ]の頃から顔を合わせていたからな。
まあ、奴に対してそんな感想は抱けんが」
イリーナはくすり、と笑う。
「でも、子供の頃からずっと付き合いがある、ってことは悪く思ってるわけじゃないんでしょう?」
「まあ、な……」
「ホントに、ルナちゃんはすごいです。それに比べて―――」
少しだけ、少女は俯いた。眉根をぎゅ、と寄せる。
「それに比べて……。私は、ちっとも強くなんてないし、それに……」
……ズルいんです、私。とても」
「……狡い?」
「だって……」
言っていくうちに言い難くなって来たのか、そのままの渋い顔で小さく俯いた。
しばしの沈黙に、居心地が悪そうに顔をしかめる。別にこしらが何をしたわけでもないのだが、沈んでしまった少女へかける言葉を模索する。
どうしようか、ふと視線を空に投げ、
「……ッ?」
「え?」
小さく声を漏らしたレンに、イリーナも俯かせていた面を上げる。す、と眉を潜めているレンの視線を無意識に追って、
「あ」
声を漏らす。
人の合間から見える影。レンは眉を潜めたまま、無言でやや位置を移動する。つられてイリーナも半歩ほどずれた。
見慣れた羽飾りがふらふらと揺れている。
「ルナちゃん……?」
少女が呟く。小首を傾げているのは、その人物を見てなぜ目の前の男が隠れるような動作をしたのかが不可解だったのだろう。
視線を男から戻して、イリーナはようやく気づく。
「あ、あの人……」
ルナの傍らを歩いている人影に、イリーナも見覚えがあった。確かルナと再会した日も、彼女と共にいた。名前は何だったか。
表情はルナ共々、何だか深刻そうだ。ちょっと声をかけづらくなってしまうくらい。
「……」
レンは眉間の皺を深くする。
栗色の髪と、蒼い瞳。凛、とした雰囲気は人波の中でも目立つ。ラーシャ=フィロ=ソルト。一歩後ろには、生真面目な顔をした、青紫色のローブを引き摺った少年が付いている。彼もまた、表情を強張らせていた。三人は剣呑な表情のまま、何かを論じているようだ。
イリーナには無理だろうが―――
狩人としての訓練を受けたレンの五感は、普通の人のそれよりはるかに優れている。そのレンの耳には、雑踏の中でも、彼女らの声が途切れ途切れに聞こえていた。
レンの表情が、次第に険しくなっていく。
「えっと、その……?」
「すまないな。用事が出来た」
「え? え?」
「ちなみに薬屋ならあんたの目の前だ」
「あ゛……」
二軒向こうの大きな看板を指しながら言うと、イリーナは引き攣り笑いを浮かべて看板を凝視した。
じっとりと汗が浮かぶ。
「あ、えっとぉ……はい、ありがとうございま……?」
お礼と共に振り返ったとき。
そのときにはもう、群青のマントの、寡黙な男の姿はその場所から消えていた。
数刻後。
―――?
メインストリートを縫うように歩いていたカシスは、ふと歩みを止める。
元来、人込みは好きじゃない。というか大嫌いなものの一つに入る。なかなか引かない人の波に苛立っていたために、それに気がつくのに一瞬、遅れた。
目当ての魔道具店―――あのやたらと元気な金髪のお嬢ちゃんと会った店のベルがからん、と鳴って、慌てた様子の店主が何かを掴んで表へ出て来た。
そうして通りの向こうを背伸びして見ると、がっくりと面を落とした。
「……」
同じように通りの向こうを覗き見て、カシスは店主へ歩み寄る。
「おい、どうした?」
「へ? あ、ああ……この間の旦那……。
いえね、今しがた来たお客さんがお忘れ物をなさいまして。そういや、旦那が来なかったかと聞かれましたよ」
「女だな?」
「へぇ、まあ。旦那のお連れさんですか?」
「まあ、似たようなもんだ。で、忘れもんてのは何だ?」
「はぁ、たぶん大したもんじゃないんでしょうが……」
遠慮がちに差し出されたそれを見て、一瞬、眉間に皺を寄せる。
だが、それは一瞬で。カシスは笑みの形へ口角を吊り上げると、店主の手からそれをもぎ取って歩き出した。
苛立ち紛れに広場に出ると、噴水の淵に腰を下ろす。気を抜いた瞬間、どっとした疲れが襲って来た。広場には、屋台や物売りの声と、子供の笑い声が高らかに響いている。
―――まっずいなー……
正午はとっくに回っている。
昨日はあまり眠れなかった上に、今日は朝早くからラーシャと共にディオル邸に赴いていた。そのせいか、軽い眩暈がしている。そうでなくとも、最近はストレスの溜まることが多すぎた。精神的にも参っているのかもしれない。
まずい、と思いながらもお尻に根が生えてしまった。
ディオルは思った以上に手ごわい。ああ言えば、こう言う、すべての答えを最初から用意しているのだろう。考えてみれば当たり前だ、ああいう人間には敵も多いはず。ということは、押し問答は日頃から慣れているということなのだろう。
それでも、ラーシャがエイロネイアの者だというあの黒の少年たちがいる限り、何らかのモーションを起こすものだと思っていたのだ、最初は。
しかし、奴らは初日以来、何の行動も起こさない。ランカース・フィルのときのように、周囲への聞き込みも行ってみたが、以前より周到に姿を隠しているらしい、証言は得られなかった。
―――お先真っ暗……
とりあえず、ラーシャは明日あたりに祖国へ伝令を送ると言っていた。デルタは裏側から調べを進めると言っていた。
最悪は、ルナが政団のつてを使って、何か証拠となるようなものを探すしかないのだろうが、望みはけして高くない。
―――あいつもあいつで……、何考えてるかホントわかんないし……。
カシスのこともそうだ。イリーナにはこの三日間、何だかんだで顔を合わせていたが、カシスとは一回だけ顔を合わせたきりだった。しかも、訪ねていって、相手は出掛けだったらしく、ろくな話も出来なかった。
何を考えているか解らないのは昔からだが、本当に理解できない。
「話くらい、ちゃんと聞かせなさいよ……」
自然と表情が歪む。人の心労を何だと思っているのか。何だか力が入らない。
もう三日だ。これ以上、カノンたちを滞在させて、迷惑をかけるわけにもいかないだろう。ラーシャのことにしても、秘密裏で力を貸しているのだから、限度というものがある。
何から片付ければ良いのか。ルナには、時間がないのだ。
膝に肘をついて、頬杖をついたまま瞑目する。噴水の端だというのに、このまま眠ってしまいそうだ。
その彼女を揺り起こしたのは、存外に粗暴な声だった。
「よう、ねぇちゃん、一人かい」
「……」
―――まったく、こっちが参ってるってのに空気読まないってか読めないってか、人の纏ってる雰囲気くらい察してきなさいよ、朴念仁。
いろいろと悪態を吐きながら目を開く。
金髪に、入ったメッシュはド派手なピンク。纏った服は黒を基調としているものの、派手な印象を受ける男。軽薄なオーラ、にやけた笑みはどう見ても偽物。まあ、ちょっとは顔のいいチンピラと大差はない。
「……何よ?」
「怖い顔すんなよ。そんなシケた面しない方が可愛いよ、あんた。
なあ、気分悪いなら俺らと飲まねぇか? あっちで仲間も待ってるしさ」
カワイイ云々はともかく、どうしてそこに繋がるのかが解らない。視線を傾けると、ガーデン式の酒場で昼間から樽酒をかっ喰らう男たちの姿が目に入った。
―――……なるほど、ある程度、顔のいい男で女の子釣るのね。
嫌に冷めた思考が、そんな答えを導き出す。
溜め息が漏れた。ルナは無言で立ち上がって、男の側をすり抜けようとする。無視を決め込んだ彼女の手を、ぱしっと男が掴んだ。
汗ばんだ、気持ちの悪い感触に怖気が立った。
「何だよ、シカトすんなよ」
「……」
気色の悪い猫なで声を発してくる男を、力いっぱい睨みつける。無言の圧力も手伝って、男は怯むが手を離そうとはしなかった。
それどころか、一層力を込めて握ってくる。
「……ッ!」
「なあ、素直になろうぜー? あんただってそんな顔してたんだ、鬱憤晴らしたいだろ?」
たとえ素直になったところで、あんたらと酒の席を一緒にしようとは思わない。
生憎、気が長い方ではないのだ。怒鳴るか、それでもやめないようなら、軽い術で地に沈んでもらおう。
「ちょっと……、調子に乗るんじゃ……ッ!?」
声を張り上げたときだった。
ぐらり、と体が傾いで、目の前が暗くなる。足の力が抜けて、その拍子に男は腕を無理矢理に引いた。
―――く……ッ!
「何だ。 その気じゃんか」
―――そんな、わけ……ッ!
にやついた笑みを睨みつけるも、足の力が戻ってくれない。仕方がない、と無理に口の中で呪を唱え始める。
が、
「おいおい、ちょいと待て、そこのガキ」
「あぁッ? ッ、て、いでででッ!?」
「!?」
唐突に、握られていた腕が自由になる。驚いて顔を上げると、今しがたルナの腕を押さえていた男の腕が、逆に捻り挙げられていた。
その手首を捉えているのは、日に焼けた男の手とは真逆に、異様なまでに白かった。
す、と細められた緋色の瞳が、こちらを射抜いてきた。
「カシス……?」
―――どうしてここに?
眉を潜めるルナから視線を逸らし、彼は目の前の男を見下ろした。もともとつり目気味な、彼の切れ長の目は、それだけで威圧になるようで、男はひッ、と短い悲鳴を上げる。
「さて、その女にどんな用だ?」
「ハァ? あ、あんたにゃカンケーないだろ……」
「ああ? そうか?」
にやり、と嫌な笑いを浮かべて彼は振り返る。
「なあ、ルナ。俺は関係ないそうだが、どうだ?」
「……な、わけないでしょ」
飄々と言ってのける奴を睨み返す。ここで下手に言い澱んだりすれば、こっちがいくら力が入らなかろうと奴は自分を見捨てる。そういう最低なことを平気でする男だ、彼は。
「だ、そうだ。お前の出番はないとよ。大人しく消えな」
「な、なん……ッ!?」
男はなお、何かを言い募ろうとする。カシスはそれに、すっ、と大きく息を吸い込んだ。
……思えば、このときから嫌な予感はしていたのである。既に。
ただ、久しぶりすぎて、この男の歪んだ感性を忘れていただけで。
「やかましいんだよ、(差別用語)がッ!! 引き際ってもんを弁えろ、(放送禁止用語)て(暴力的表現)されてぇか、あぁッ!?」
ドスの効いた声に、広場に集まっていた町人たちが思わず歩みを止める。ルナはその場で頭を抱えた。先ほどとは異なる眩暈に襲われた。
―――真っ昼間の天下の往来で、何を口走ってくれやがんだ、この男。
ああ、突き刺さる周囲の視線がどうしようもなく痛い。
視線を上げると、男はぽかん、と口を開けたまま茫然と脂汗を流している。あれは自分が何を言われたのか解っていない顔だ。無理もない。昼間の往来でこんな罵詈雑言を揚げてくれるような人間、他にいるものか。
何も言わない、というか言えないでいる男の腕を、彼は乱暴に振り捨てた。
「っあ、あ、ぃひゃぁぁぁぁぁあッ!?」
拍子に関節が妙な方向に曲がったらしく、顔を引き攣らせて腕を押さえながら七転八倒する。
それを、何か汚いものでも見るかのような目つきで睥睨すると、カシスは逆の手でルナの手首を掴もうとして、
「……」
「な、何……って、へ、いや、ちょ……ッ、きゃあッ?」
何かを思い直して、その細腰に腕を回すと軽々と持ち上げられた。
「うるせぇな。人気のない場所まで運んでやるから静かにしろ」
「じゃあ、注目浴びるようなことすんなッ! っていうか降ろせッ!」
「いいから黙ってろ、爆弾女」
「なッ!!?」
担がれた状態ではろくな反撃も出来ずに。
思いつく限りの罵詈雑言は叩きつけるのだが、それをものともせずに、結局はそのまま近くの小路まで連行されてしまったのである。
人気のあまりない小路。その辺りの住民だと思われる人間が、ちらほらと歩いているだけで、広場とは対照的に極静かだ。
一本隔てたストリートから、遠い喧騒が響いている。
「……ッ、あんたね! いきなり何すんのよ!?」
「ああ? 何が?」
―――何が、じゃないッ!!
思い切り叫ぼうとして、先ほどの眩暈が戻ってくる。何とか踏ん張りながら、飄々とふんぞり返る赤眼を睨み上げた。
「あんなもん、一緒にいるこっちが恥ずかしいのよッ。いらん注目は浴びたくない、ってそりゃあ昔から何度も言ったわよね!?」
「俺としては、なけなしの良心からやったんだがね。大体、お前一人相手じゃあ、子供[ガキ]をおんぶしてんのと変わらねぇ、っての」
「あ・ん・た・ねぇッ!! あたしだってね! これでももう……ッ!!」
怒りに任せて大声を上げてしまった。気がついたときには後の祭り。ふらり、と足元がぐらつく。
―――ッ……
こいつにだけは無様な姿を見せるわけにはいかない。でなければ、また何を言われるか。
しかし、人がせっかく体裁を繕ったにも関わらず。
「お前、阿呆か? その顔だと貧血だろ? 大方、飯でも抜いたか?」
「……」
「どうせ、余計なところまでがりがりに痩せてんだ。これ以上、痩せたら乾いたミイラと変わらなくなるぜ?」
―――殺スッ!
決心して、握り締めた拳を振り上げたというのに。
ぱしッ。
あっさりと、眼前で受け止められる。
「くッ……」
「いつもの威力がないぜぇ? その状態で魔道使おうとした、ってんだから信じらんねぇな。
静電気でも起こすつもりだったのかね」
「あ、あのねぇ……ッ!」
一言どころか、二言も三言も多い口の悪さに、言い返そうと口を開いたとき、
小さく、ルナの虫が鳴いた。
「―――ッ!」
「……ハァ、まあ身体ってのは正直なもんだな」
真っ赤に顔を染めて拳を引く彼女に、嫌味なほどけらけらと笑いながら、拳を受け止めた手を下ろす。その片手を白の上着のポケットに突っ込んだ。
「とりあえず休戦、文句はその辺の飯屋でゆっくり聞いてやるよ。どうだ?」
「……」
余裕の表情で提案する彼に、
どうせ本当に聞くだけで反省は欠片もしないのだ、と知っていながら。
しかし生理現象には抗えるはずもなく、
ルナは顔を赤くしたまま、無言の肯定で返したのだった。
←6へ
あの日から、あの黒い少女が街中を混乱させてからゆうに三日は経っていた。
レンにしてみれば、ルナのことがあって、何日かの滞在が決まったと同時に何らかの襲撃があるものだと覚悟していたのだ。初日、あれだけ派手な歓迎をしてくれたのだ。それなのに、この三日、気を張り詰めるばかりで変わったことは何一つなかった。
カノンもそれには首を捻っていた。シリアやアルティオも右に同じだ。いくら楽天的思考保持者としても、不穏に感じるところはあるのだろう。
ともかくにも、ここ三日、忙しく動いているのはルナだけで、自分たちは思い思いに過ごしてしまっていた。
意味もない焦りが、レンの中には生まれていた。嵐の前の静けさ、というか。まさか、こちらを休ませてやろう、なんて慈悲深い考えではないだろう。
奴らは行く町々で周到な準備をしてくれていた。その"準備"とやらが、この町にはないのだろうか。だとしたら、初日のあれは、危険を感じてこの町を早く出て行かせようという工作……?
いや、そうだとすれば尚更この三日間の間に、然るべき襲撃を受けていて良いはずだ。
ならば、奴らが大人しいのは、何故なのか。
そこでまた思考の壁に会う。
メインストリートから一本はずれた通りで、煉瓦に背を預けながら、疎らな人波を眺めてレンは思考を巡らせる。
―――それとも。
何か、彼らの計画が、どこかで狂ったのか。
この町に着いてからの不確定要素は二つ。一つはラーシャ=フィロ=ソルト、と言ったか、彼らがレンとカノンに祖国の救援を求めて来たこと。一つはもちろん、ルナの旧友であるというあの男と少女。
どちらも偶然とは言い難い。
ラーシャたちはエイロネイアの視覚だと言及する"奴ら"に狙われた自分たちを追って来た。
カシス=エレメントは薬の護衛中だとか言っていたが、その実は違うだろう。現に、彼らが口にした"お使い"をする二つの町のルートからこの街道は、わずかに外れている。
おそらくだが―――彼がルートを変えたのだ。クオノリアで研究が漏れていることに気がついた彼が、その関係者の中にルナの名を見つけ、ここまで探してきた……というところだろう。でなければ、偶然にしては出来すぎている。
―――あの男は、最初からあれを疑ってきた、ということか……。
それならば、一筋縄で説得も出来まい。三日経っても、彼を説得出来ずにいるらしいルナを責められるはずもない。
ただ、彼を味方となった場合、漏れた情報を元に立ち回っている"奴ら"にとっては、裏をかかれる可能性が大きくなるだろう。彼はルナ以上に『月の館』で行われた研究に深く関わっている。
もう一つ、ラーシャとデルタの、シンシア側の人間だという二人が同じ町の中に存在しているという事実が、彼らの行動を抑制しているのだということも考えられる。
どちらが吉となっているのか、はたまたもしくはやはり嵐の前の静けさで、とうに凶が出てしまっているのか。
―――……堂々巡りだな。
答えの出ないと解りきっていることを考えるのは、思いの他、疲れる。
諦めにも似た溜め息をついて、レンは視線を爪先から上げた。
ちょうど、そのとき、だった。
「―――ッ」
人波の中に。
ゆったりとした黒が、浮かんだ気がした。
それはふい、と掻き消えて、一瞬でなくなってしまったけれど。
レンの頭の中に葛藤が生まれる。追うべきか、追わざるべきか。逡巡して―――踏み出しそうになる足を堪える。脳裏に浮かんだのは、ランカース・フィルでのあの罠。
レンはけして正義感のない男ではない。人としての感情も、あまり面に出さないだけで苛立ちと、黒の少年に対する疑惑、疑念は常に持ち続けていた。
だが―――同時に、彼の相棒よりは導火線が長く、なおかつ、切り刻まれた少女の身体を覚えている彼は堪えて足を止めた。
額に脂汗が浮いている。
―――なぜ、今……ッ!
あれは前回のように誘いなのか。もしそうならば、やはり奴は……?
「あれ……?」
「ッ!」
思考のためか、よほど厳しい顔をしていたらしい。振り向いた先にいた少女は、びくん、と肩を震わせた。
それに気がついて、レンは己の情けなさに軽く首を振る。
蜂蜜色の髪とどこかおどおどした榛色の瞳。地味なローブを纏っていて、やや涙目でこちらを見上げている。
……いつも強烈な個性を纏った女にばかり振り回されているせいか、こういった本当のただの少女に対してどう対処するかなど思いつかないのである。
「え、えっと、その……」
「ルナの旧友だったな。すまない、考え事をしていてつい警戒してしまった。気にするな」
「あ、あう、じゃ、じゃあ怒ってるわけじゃないんですね……?」
―――別に怒るような理由はどこにもないだろう……
どうにも苦手意識が働いて、レンは胸中で頭を抱えた。そう考えると、女性に対して、いつでも誰にでも同じ愛想を振り撒けるアルティオは凄いのかもしれない。無論、褒めていないが。
少女はほっとしたように、胸を撫で下ろす。
「えっと、間違ってたらすいません、レンさん、でしたっけ?」
「そうだ。そっちは確かイリーナ、と言ったか」
「あ、名前覚えててくれたんですね」
にこり、と少女は笑顔を向ける。そういえば、宿屋で何度か訪問してくるのを見てはいたが、まともに会話するのは初めてな気がする。カノンやアルティオは比較的、会話をしていたはずだが。
「そういえば、こうやってお話するの初めてですね。ごめんなさい、ろくに挨拶もしなくて」
「気にしなくていい。それはこっちも同じだ」
「今日はどうしたんですか? こんなところで」
「いや……」
別に言い難いわけでもないのだが、レンは答えに詰まる。言い難いというか、おそらく他人には理解出来まい。
「……少し五月蝿くてしつこい虫が出たんでな。あまり人目につくようなところは避けて、考え事をしていただけだ」
「???」
案の定、疑問符を浮かべるイリーナに、レンはもう一度、「気にするな」と口にした。この疲労感は、不死身で頭の中身の足りていない異性に襲われる経験をした者にしか解らない。
「こんなところで、と言うがそちらこそどうかしたのか?」
「あー、お使いです。ちょっと医療系の魔道研究で使う薬の補充に。今度は先輩の」
「あの男か……」
苦笑いするイリーナに、レンは挑発的なオーラを纏う件の魔道技師の男を思い出す。またいいように使われてるな、哀れなものだ、と心の中だけで思うと、彼女はそれを汲み取ったかのように、
「私、今日はお出かけする用事がありましたし。そのついでなんですけど、ちょっと迷っちゃって……この辺のお店なハズなんですけど」
「……」
えへへ、と舌を出す少女にレンは思わず引き締めた顔を潜ませるところだった。
大きな町、といってもこの町は比較的、道も整備され、標識も易しいものである。
「……帝都あたりに行くと完全に迷うな」
「あ、あう、た、確かに一回、上司のお供で行ったとき迷子になって何故か町の外に出ちゃったりしましたけど……」
ぽつりと呟いてしまったレンの言葉に、しどろもどろになりながら、必死で弁明する少女。
その様が思いの他、可笑しくて笑ってしまう。
「まあしかし、あんなとんでもない女を親友にしているのだからな。付き合うのには根性がいるだろう?」
「とんでもない、って、ルナちゃん、ですか?」
他に誰がいる? と問い返す。イリーナは少しだけ悩む素振りを見せると、
「確かにルナちゃん、ときどきホントにハラハラしますけど。でも、私には優しいですよ。
一番の親友ですから。私はルナちゃん大好きです!」
「……」
虚をつかれたように、レンの表情がぴくり、と動く。よもやあの暴走魔道師について、そんな評価を聞く日が来ようとは。
「? どうかしましたか?」
「いや……」
珍しく面食らうレンに、イリーナが首を傾げる。
「……それは本音か?」
「? はい」
「そうか……いや、気にするな。どうしてそう思う?」
「だって、私なんかよりずっと強いし、優秀だし。私はおちこぼれだったけど、それでも熱心に勉強教えてくれて。
私なんかがプロジェクトチームに所属できたのも、ルナちゃんのおかげです。
ちょっと素直じゃなくて、強情だけど」
―――ちょっと、というかかなりな。
つい、出そうになった本音を飲み込んだ。
「レンさん、ルナちゃんとは仲良いんですか?」
「仲が良いかどうかは知らんが……まあ、付き合いが長いことは確かだ。奴とは子供[ガキ]の頃から顔を合わせていたからな。
まあ、奴に対してそんな感想は抱けんが」
イリーナはくすり、と笑う。
「でも、子供の頃からずっと付き合いがある、ってことは悪く思ってるわけじゃないんでしょう?」
「まあ、な……」
「ホントに、ルナちゃんはすごいです。それに比べて―――」
少しだけ、少女は俯いた。眉根をぎゅ、と寄せる。
「それに比べて……。私は、ちっとも強くなんてないし、それに……」
……ズルいんです、私。とても」
「……狡い?」
「だって……」
言っていくうちに言い難くなって来たのか、そのままの渋い顔で小さく俯いた。
しばしの沈黙に、居心地が悪そうに顔をしかめる。別にこしらが何をしたわけでもないのだが、沈んでしまった少女へかける言葉を模索する。
どうしようか、ふと視線を空に投げ、
「……ッ?」
「え?」
小さく声を漏らしたレンに、イリーナも俯かせていた面を上げる。す、と眉を潜めているレンの視線を無意識に追って、
「あ」
声を漏らす。
人の合間から見える影。レンは眉を潜めたまま、無言でやや位置を移動する。つられてイリーナも半歩ほどずれた。
見慣れた羽飾りがふらふらと揺れている。
「ルナちゃん……?」
少女が呟く。小首を傾げているのは、その人物を見てなぜ目の前の男が隠れるような動作をしたのかが不可解だったのだろう。
視線を男から戻して、イリーナはようやく気づく。
「あ、あの人……」
ルナの傍らを歩いている人影に、イリーナも見覚えがあった。確かルナと再会した日も、彼女と共にいた。名前は何だったか。
表情はルナ共々、何だか深刻そうだ。ちょっと声をかけづらくなってしまうくらい。
「……」
レンは眉間の皺を深くする。
栗色の髪と、蒼い瞳。凛、とした雰囲気は人波の中でも目立つ。ラーシャ=フィロ=ソルト。一歩後ろには、生真面目な顔をした、青紫色のローブを引き摺った少年が付いている。彼もまた、表情を強張らせていた。三人は剣呑な表情のまま、何かを論じているようだ。
イリーナには無理だろうが―――
狩人としての訓練を受けたレンの五感は、普通の人のそれよりはるかに優れている。そのレンの耳には、雑踏の中でも、彼女らの声が途切れ途切れに聞こえていた。
レンの表情が、次第に険しくなっていく。
「えっと、その……?」
「すまないな。用事が出来た」
「え? え?」
「ちなみに薬屋ならあんたの目の前だ」
「あ゛……」
二軒向こうの大きな看板を指しながら言うと、イリーナは引き攣り笑いを浮かべて看板を凝視した。
じっとりと汗が浮かぶ。
「あ、えっとぉ……はい、ありがとうございま……?」
お礼と共に振り返ったとき。
そのときにはもう、群青のマントの、寡黙な男の姿はその場所から消えていた。
数刻後。
―――?
メインストリートを縫うように歩いていたカシスは、ふと歩みを止める。
元来、人込みは好きじゃない。というか大嫌いなものの一つに入る。なかなか引かない人の波に苛立っていたために、それに気がつくのに一瞬、遅れた。
目当ての魔道具店―――あのやたらと元気な金髪のお嬢ちゃんと会った店のベルがからん、と鳴って、慌てた様子の店主が何かを掴んで表へ出て来た。
そうして通りの向こうを背伸びして見ると、がっくりと面を落とした。
「……」
同じように通りの向こうを覗き見て、カシスは店主へ歩み寄る。
「おい、どうした?」
「へ? あ、ああ……この間の旦那……。
いえね、今しがた来たお客さんがお忘れ物をなさいまして。そういや、旦那が来なかったかと聞かれましたよ」
「女だな?」
「へぇ、まあ。旦那のお連れさんですか?」
「まあ、似たようなもんだ。で、忘れもんてのは何だ?」
「はぁ、たぶん大したもんじゃないんでしょうが……」
遠慮がちに差し出されたそれを見て、一瞬、眉間に皺を寄せる。
だが、それは一瞬で。カシスは笑みの形へ口角を吊り上げると、店主の手からそれをもぎ取って歩き出した。
苛立ち紛れに広場に出ると、噴水の淵に腰を下ろす。気を抜いた瞬間、どっとした疲れが襲って来た。広場には、屋台や物売りの声と、子供の笑い声が高らかに響いている。
―――まっずいなー……
正午はとっくに回っている。
昨日はあまり眠れなかった上に、今日は朝早くからラーシャと共にディオル邸に赴いていた。そのせいか、軽い眩暈がしている。そうでなくとも、最近はストレスの溜まることが多すぎた。精神的にも参っているのかもしれない。
まずい、と思いながらもお尻に根が生えてしまった。
ディオルは思った以上に手ごわい。ああ言えば、こう言う、すべての答えを最初から用意しているのだろう。考えてみれば当たり前だ、ああいう人間には敵も多いはず。ということは、押し問答は日頃から慣れているということなのだろう。
それでも、ラーシャがエイロネイアの者だというあの黒の少年たちがいる限り、何らかのモーションを起こすものだと思っていたのだ、最初は。
しかし、奴らは初日以来、何の行動も起こさない。ランカース・フィルのときのように、周囲への聞き込みも行ってみたが、以前より周到に姿を隠しているらしい、証言は得られなかった。
―――お先真っ暗……
とりあえず、ラーシャは明日あたりに祖国へ伝令を送ると言っていた。デルタは裏側から調べを進めると言っていた。
最悪は、ルナが政団のつてを使って、何か証拠となるようなものを探すしかないのだろうが、望みはけして高くない。
―――あいつもあいつで……、何考えてるかホントわかんないし……。
カシスのこともそうだ。イリーナにはこの三日間、何だかんだで顔を合わせていたが、カシスとは一回だけ顔を合わせたきりだった。しかも、訪ねていって、相手は出掛けだったらしく、ろくな話も出来なかった。
何を考えているか解らないのは昔からだが、本当に理解できない。
「話くらい、ちゃんと聞かせなさいよ……」
自然と表情が歪む。人の心労を何だと思っているのか。何だか力が入らない。
もう三日だ。これ以上、カノンたちを滞在させて、迷惑をかけるわけにもいかないだろう。ラーシャのことにしても、秘密裏で力を貸しているのだから、限度というものがある。
何から片付ければ良いのか。ルナには、時間がないのだ。
膝に肘をついて、頬杖をついたまま瞑目する。噴水の端だというのに、このまま眠ってしまいそうだ。
その彼女を揺り起こしたのは、存外に粗暴な声だった。
「よう、ねぇちゃん、一人かい」
「……」
―――まったく、こっちが参ってるってのに空気読まないってか読めないってか、人の纏ってる雰囲気くらい察してきなさいよ、朴念仁。
いろいろと悪態を吐きながら目を開く。
金髪に、入ったメッシュはド派手なピンク。纏った服は黒を基調としているものの、派手な印象を受ける男。軽薄なオーラ、にやけた笑みはどう見ても偽物。まあ、ちょっとは顔のいいチンピラと大差はない。
「……何よ?」
「怖い顔すんなよ。そんなシケた面しない方が可愛いよ、あんた。
なあ、気分悪いなら俺らと飲まねぇか? あっちで仲間も待ってるしさ」
カワイイ云々はともかく、どうしてそこに繋がるのかが解らない。視線を傾けると、ガーデン式の酒場で昼間から樽酒をかっ喰らう男たちの姿が目に入った。
―――……なるほど、ある程度、顔のいい男で女の子釣るのね。
嫌に冷めた思考が、そんな答えを導き出す。
溜め息が漏れた。ルナは無言で立ち上がって、男の側をすり抜けようとする。無視を決め込んだ彼女の手を、ぱしっと男が掴んだ。
汗ばんだ、気持ちの悪い感触に怖気が立った。
「何だよ、シカトすんなよ」
「……」
気色の悪い猫なで声を発してくる男を、力いっぱい睨みつける。無言の圧力も手伝って、男は怯むが手を離そうとはしなかった。
それどころか、一層力を込めて握ってくる。
「……ッ!」
「なあ、素直になろうぜー? あんただってそんな顔してたんだ、鬱憤晴らしたいだろ?」
たとえ素直になったところで、あんたらと酒の席を一緒にしようとは思わない。
生憎、気が長い方ではないのだ。怒鳴るか、それでもやめないようなら、軽い術で地に沈んでもらおう。
「ちょっと……、調子に乗るんじゃ……ッ!?」
声を張り上げたときだった。
ぐらり、と体が傾いで、目の前が暗くなる。足の力が抜けて、その拍子に男は腕を無理矢理に引いた。
―――く……ッ!
「何だ。 その気じゃんか」
―――そんな、わけ……ッ!
にやついた笑みを睨みつけるも、足の力が戻ってくれない。仕方がない、と無理に口の中で呪を唱え始める。
が、
「おいおい、ちょいと待て、そこのガキ」
「あぁッ? ッ、て、いでででッ!?」
「!?」
唐突に、握られていた腕が自由になる。驚いて顔を上げると、今しがたルナの腕を押さえていた男の腕が、逆に捻り挙げられていた。
その手首を捉えているのは、日に焼けた男の手とは真逆に、異様なまでに白かった。
す、と細められた緋色の瞳が、こちらを射抜いてきた。
「カシス……?」
―――どうしてここに?
眉を潜めるルナから視線を逸らし、彼は目の前の男を見下ろした。もともとつり目気味な、彼の切れ長の目は、それだけで威圧になるようで、男はひッ、と短い悲鳴を上げる。
「さて、その女にどんな用だ?」
「ハァ? あ、あんたにゃカンケーないだろ……」
「ああ? そうか?」
にやり、と嫌な笑いを浮かべて彼は振り返る。
「なあ、ルナ。俺は関係ないそうだが、どうだ?」
「……な、わけないでしょ」
飄々と言ってのける奴を睨み返す。ここで下手に言い澱んだりすれば、こっちがいくら力が入らなかろうと奴は自分を見捨てる。そういう最低なことを平気でする男だ、彼は。
「だ、そうだ。お前の出番はないとよ。大人しく消えな」
「な、なん……ッ!?」
男はなお、何かを言い募ろうとする。カシスはそれに、すっ、と大きく息を吸い込んだ。
……思えば、このときから嫌な予感はしていたのである。既に。
ただ、久しぶりすぎて、この男の歪んだ感性を忘れていただけで。
「やかましいんだよ、(差別用語)がッ!! 引き際ってもんを弁えろ、(放送禁止用語)て(暴力的表現)されてぇか、あぁッ!?」
ドスの効いた声に、広場に集まっていた町人たちが思わず歩みを止める。ルナはその場で頭を抱えた。先ほどとは異なる眩暈に襲われた。
―――真っ昼間の天下の往来で、何を口走ってくれやがんだ、この男。
ああ、突き刺さる周囲の視線がどうしようもなく痛い。
視線を上げると、男はぽかん、と口を開けたまま茫然と脂汗を流している。あれは自分が何を言われたのか解っていない顔だ。無理もない。昼間の往来でこんな罵詈雑言を揚げてくれるような人間、他にいるものか。
何も言わない、というか言えないでいる男の腕を、彼は乱暴に振り捨てた。
「っあ、あ、ぃひゃぁぁぁぁぁあッ!?」
拍子に関節が妙な方向に曲がったらしく、顔を引き攣らせて腕を押さえながら七転八倒する。
それを、何か汚いものでも見るかのような目つきで睥睨すると、カシスは逆の手でルナの手首を掴もうとして、
「……」
「な、何……って、へ、いや、ちょ……ッ、きゃあッ?」
何かを思い直して、その細腰に腕を回すと軽々と持ち上げられた。
「うるせぇな。人気のない場所まで運んでやるから静かにしろ」
「じゃあ、注目浴びるようなことすんなッ! っていうか降ろせッ!」
「いいから黙ってろ、爆弾女」
「なッ!!?」
担がれた状態ではろくな反撃も出来ずに。
思いつく限りの罵詈雑言は叩きつけるのだが、それをものともせずに、結局はそのまま近くの小路まで連行されてしまったのである。
人気のあまりない小路。その辺りの住民だと思われる人間が、ちらほらと歩いているだけで、広場とは対照的に極静かだ。
一本隔てたストリートから、遠い喧騒が響いている。
「……ッ、あんたね! いきなり何すんのよ!?」
「ああ? 何が?」
―――何が、じゃないッ!!
思い切り叫ぼうとして、先ほどの眩暈が戻ってくる。何とか踏ん張りながら、飄々とふんぞり返る赤眼を睨み上げた。
「あんなもん、一緒にいるこっちが恥ずかしいのよッ。いらん注目は浴びたくない、ってそりゃあ昔から何度も言ったわよね!?」
「俺としては、なけなしの良心からやったんだがね。大体、お前一人相手じゃあ、子供[ガキ]をおんぶしてんのと変わらねぇ、っての」
「あ・ん・た・ねぇッ!! あたしだってね! これでももう……ッ!!」
怒りに任せて大声を上げてしまった。気がついたときには後の祭り。ふらり、と足元がぐらつく。
―――ッ……
こいつにだけは無様な姿を見せるわけにはいかない。でなければ、また何を言われるか。
しかし、人がせっかく体裁を繕ったにも関わらず。
「お前、阿呆か? その顔だと貧血だろ? 大方、飯でも抜いたか?」
「……」
「どうせ、余計なところまでがりがりに痩せてんだ。これ以上、痩せたら乾いたミイラと変わらなくなるぜ?」
―――殺スッ!
決心して、握り締めた拳を振り上げたというのに。
ぱしッ。
あっさりと、眼前で受け止められる。
「くッ……」
「いつもの威力がないぜぇ? その状態で魔道使おうとした、ってんだから信じらんねぇな。
静電気でも起こすつもりだったのかね」
「あ、あのねぇ……ッ!」
一言どころか、二言も三言も多い口の悪さに、言い返そうと口を開いたとき、
小さく、ルナの虫が鳴いた。
「―――ッ!」
「……ハァ、まあ身体ってのは正直なもんだな」
真っ赤に顔を染めて拳を引く彼女に、嫌味なほどけらけらと笑いながら、拳を受け止めた手を下ろす。その片手を白の上着のポケットに突っ込んだ。
「とりあえず休戦、文句はその辺の飯屋でゆっくり聞いてやるよ。どうだ?」
「……」
余裕の表情で提案する彼に、
どうせ本当に聞くだけで反省は欠片もしないのだ、と知っていながら。
しかし生理現象には抗えるはずもなく、
ルナは顔を赤くしたまま、無言の肯定で返したのだった。
←6へ
「じゃあ、昨日のことは全然問題になってないわけ?」
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
←5へ
「ああ、そのようだ」
傍らを歩きながら語るラーシャに、ルナは小首を傾げて問い返す。ラーシャは人波の前方を見据えたまま、続きを口にする。
「普通なら公共物破損、一般人を巻き込んだ傷害事件、政団は何らかの処置を取ってもおかしくはないだろう。
事実、先日のことは役所内で処理はされていたのだが……
違法な集団的な催眠をかけたとして、顔も知らぬ男の魔道師が一人、逮捕されているだけのようだ。
本人は否認しているが、呪を唱えていたという目撃証言が多数ある。
元々、その魔道師自体の評判も良くないし、横領や脱税をしていたという噂もある。近々、起訴されるだろうな」
「ふむ……」
渋い顔でルナは頷いた。
「って、ことは……。
あいつら、かなり町の中ででかいバックボーンを手に入れてるわね……」
「そのようだ。何らかの形で、裏側から手を回したのだろう」
「嫌な予感がばりばりにするんだけど……。で、ディオル=フランシスって奴は、この辺の商人を束ねてる豪族で、どれくらいの権力者なんだっけ?」
「……まぁ、裏の方は不確定な要素が多すぎるからな。確かなことは言えんが、語情報を流して他人煮濡れ衣を着せる程度のことは可能だろう」
「全部、計算済みってわけだ。相変わらず、厄介な真似してくれるわね……」
「しかし、これでディオル=フランシスが奴らと絡んでいる可能性は濃厚だ。あとはどう口を割らせるか、だが……」
「それが問題ね……」
呟いて視線をふと、虚空に投げる。ぶつかりそうになった子供に進路を譲り、軽く息を吐いた。
「……そういえば、今日はデルタは?」
「貴方方のところに昨日の事情を説明しに行っている。勿論、ディオルのことは伏せているがな」
「となると、時間の問題だわね……」
「時間?」
問い返したラーシャに、ルナは長い髪を掻き毟る。
「それで町の権力者に目を向けないあの娘たちじゃないわ。あたしが秘密であんたたちに協力してるのがバレるのが時間の問題ってこと」
「そ、そう、か……」
「まあ、心配しないで。だからって協力を止める気はないわ。
ちょっと面倒なことになるかな、ってくらいよ」
「しかし、お仲間なのだろう? そのような面倒事は歓迎しないのでは……」
「そりゃあ、なければないでいいことだけどね……。こればかりは利害関係の不一致、ってやつよ。高は括ってるわ」
ルナは肩を竦めながら、ふ、と僅かに笑んだ。少しだけ、歩を早める。
「早く行きましょ。面会の時間は決められてるんだから」
「あ、ああ……」
その笑みが、何故か自嘲的なものに感じられて。
ラーシャは少し戸惑いながら、曖昧な返事を返したのだった。
かつかつとピンヒールが石畳を叩く。無駄に豊満な胸が揺れるたびに、数多の視線が向けられるが当人はまったく気にせず、唇を尖らせながら堂々とメインストリートを歩いていた。
「レンたら今日も買い物に付き合ってくれないだなんて……」
否、気にせずというよりも、そもそも視線に気がついていないのだから語弊があるかもしれない。唯我独尊ホルスタイン、シリア=アレンタイルである。
「まったくぅ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない……。私だって腕を組んで歩いたり、一緒にウィンドウショッピングしてプレゼントの服着たり、カフェで二人で一つのジュースに二つのストロー差すなんて(注・誰もしろとは言っていない)恥ずかしいのに……。切ないわね……」
真昼間のメインストリートで妄想を吐き出せる勇気があるのなら、切なさの一つや二つどうということはない気もするが、ともかく彼女は真剣な表情で店頭に置かれたたぬきの像へ溜め息を吐いていた。
そのとき、
「はぁ、もういつになったらレンてば私の秘めた恋心に気が付いてくれるのかしら……って、」
ブロックの向こう側に、見慣れた影が通り過ぎたような気がした。
気のせいか、とも思ったが、元来、気にかかったことを放って置けるような性格でもない。ヒールの靴からさらに背伸びをして、人波の向こうを覗く。
「あら……?」
見慣れたブラウンの頭に掲げられた白い羽根が目に入る。傍らには栗色の髪の背の高い、女軍官の姿。
思わず目を瞬かせる。
その内に、二人の後姿は角を曲がり、人波の中へと消えていった。
「ふぅん。意外な組合せね……」
何とはなしに不和を感じながらも、「まあ、いいか」と漏らして荷物を持ち直す。そうしてシリアは小首を傾げつつも、踵を返した。
「遠いところを二度もご足労、ご苦労様です」
「いえ、どうということはありません」
自然と眉間にしわが寄ってしまう。何ともそらぞらしい会話だ。
かちり、と卵の殻のように薄いティーカップが鳴る。カップに手をつけているのはルナだけで、隣に座ったラーシャと対面に微笑む豪奢な館の主のティーカップには、紅い色の茶がなみなみと残っていた。
もっとも、ルナとしても苦い茶を舐めるようにして毒見しているだけで、飲み干そうという気はない。
―――ふむ、しかし……
ルナはちらり、と視線を上げて、対面のソファに腰掛ける男を盗み見る。
評判の良くない商人豪族だというから、てっきり脂ぎった禿頭のメタボリックを想像していたが、なかなかどうして目の前に居る男を見ていて不快さはない。
中年と言うには若すぎて、青年と言うには歳を行き過ぎている。流れる髪は蒼の糸。柔和な笑みを浮かべた双眼は不思議な藍色を放っている。あと何年かしたら、貫禄も出るに違いない。
シルク地の白いスーツに身を包み、ディオル=フランシスは視線に気が付いて彼女へ微笑んだ。
「何か?」
「いいえ。前回も思ったけど、想像してたより若い人だなー、と」
「ああ、そのことですか」
聞かれ慣れているのか、ディオルは小さく息を吐いて、部屋の中を見回す。高い天井にはどことなくアンティークな匂いのするタペストリ、家具も、今腰掛けている革張りのソファも庶民が買うとしたら軽く何年か分の稼ぎは飛ぶような値段だろう。
いくら地方の豪族だと言っても、これほどの部屋を持つ者は早々いない。
「確かにこれだけの資産を一代で築くのは難しいですからね。よく言われますよ。
父の代まではごく普通の麦畑の地主にすぎませんでしたからね」
「貴方はその麦畑を潰して、また他の土地も買い取って、造船工場や鉄鋼所を建てた。事実、それらはリゾート開発を行っていたクオノリアや、地方の開拓を行っている帝国側にとって、産業の中継地点として非常にウケた。
まったく、たいしたものよ」
「お褒めに預かり、光栄です。帝国のさらなる発展のために、出来ることをしたまでですよ」
「ふーん」
きり―――ッ。
僅かな音にちらり、と傍らのラーシャに視線を投げる。重ねられた手の爪が、膝と手の甲に突き立てられていた。
ルナはこっそりと溜め息を吐く。
「……フランシス公。証言は集まっています。
貴方が街の土地を集め、開拓を行っていた三年前、貴方はクオノリアに私港を買い取った。そして、貴方の造船所の船が、許可なく我が国の領域を航行しているのが目撃されている。
―――一体、貴方は、いえ、貴方とエイロネイアは何を企んでいるのです?」
ラーシャの叩きつけるような言葉には、抑えきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。その剣幕に、自然と背筋が凍る。しかし、ディオルは無情にもそれをやんわりと、顔色も変えずに受け止めて、
「これはお言葉です。
我々は海外―――東方イースタンとの貿易も行っています。ゼルゼイルは、我が西方ロイセインと東方イースタンとの間に浮かぶ島国。
確かにここ三年のうちに、貿易船がゼルゼイル周辺で応答が途絶えたという報告が何件かありました。あそこは帆船事故が多い場所だ。貴方も知っているでしょう?」
「……」
「……で、その応答が途絶えた、っていう船はどうなったの?」
「ちゃんと帰って来ましたよ。一時は、方位も解らなくなった、と言っていましたが、通りがかりのゼルゼイルの軍船に助けて頂いたということです。
いや、本当に貴方方の国には感謝しなくてはならない。普通、内戦国なら不審船は攻撃されてもおかしくはないはずですが、実に温厚な国柄でいらっしゃる」
―――なんともまあ……
華麗な嫌味だ。
少なくともルナはそう思った。ラーシャはこれ以上なく、苦い表情をしている。
確かに―――
フランシスが貿易で得た物品リストの中には、ゼルゼイルでしか手に入らないような鉱石や産物が発見された。
だがそれが、海上で救助した船への餞別という形であれば、誰も責めることなど出来ない。
むしろ、救助船への物資援助は国際的なルールである。
―――なるほど、救助に見せかけた海上での物品の取引、か。なかなか嫌なテね……まさかラーシャがエイロネイア側の輸入リストを手に入れられてるはずはないし……。
眉間に皺を寄せるラーシャを横目で確認する。もともとが不慣れな任務な上、手持ちの証拠では不十分。
―――不十分な証拠でも、遠路はるばる腹心を派遣する……。シンシアの総領のお姫様がだいぶ追い詰められてる、ってのは、本当の話らしいか……
ルナは視線を上げる。
貧相な執事を従え、勝利宣言でもするように胸を逸らす男と目が合った。
「……ディオルさん」
「何か?」
「三年前、事業を開拓し始めた、と仰いましたね」
「はい、そうです。持っていた麦畑の土地に加え、買収した土地を利用して―――」
「その買収、それから工場の建設資金、どこから手に入れられました?」
「―――!」
初めて。
ディオルの表情が、僅かに凍る。
ラーシャははっとしてルナを見る。彼女は先ほどのディオルのように、笑顔を崩さない。
「……それが何か」
「いえいえ、いくら豪族だって言っても、一気に工場を二個も三個も建てられる資金なんて、ただの小麦売り程度にすぐ用意できるもんじゃないなー、って思って。
さらに小耳に挟んだんですけど、先代のおとーさま、じみーに他に事業展開しようとして失敗してるんじゃありませんでしたっけ?
そんな状況で、貴方に手持ちのお金はありませんよねぇ? だからといって、事業を失敗している豪族に、工場一つ分くらいならともかく、そんな景気良く支払おう、なんてチャレンジャーなパトロンは帝国内にはいないでしょ」
「……貴方の仰ることも最もですが―――」
横槍を入れさせないように、一気に喋る。隙をついてディオルが小さく切り出した。
「父の事業がすべて失敗していたわけではありません。わずかですが、利益はありましたし、独自で私に残してくれていたお金もありましたし、父が亡くなった際、多額の保険金も帝国から下りています。
フランシス家は弱小ではありましたが、それでも豪族は豪族。頭さえ下げられれば、金を手にする手段はいくらでもあります。詳しくはお話できませんが―――」
「……ふぅん」
―――なるほどねー……質問されたらどう答える、ってのは既に頭に入れてるか……。伊達に事業を成功させてきたわけじゃないわね。
頷きながら、内心、歯噛みする。
ラーシャは隣で薄い汗を掻きながら、胸を張ったまま微笑むディオルを睨むように見据えていた。
―――これはまた、手ごわい相手になりそうだわ……
時間勝負を抱えているときに、相手にしたい人間ではない。
襲い来る憂鬱に、ルナは小さく息を吐くことしかできなかった。
からんからん。
「ん……?」
宿屋のベルが控えめに鳴った。
今、まさに外出しようと階段を下りていたカノンは、その小さな音に足を止める。そして、おそるおそるドアの間から見えたどんぐり眼と目が合う。
「あ」
「あ……」
少女は慌ててドアを開けると、両手を組ませてこちらに向けて丁寧にお辞儀をした。が、
がんッ
「―――あう!」
そのまま反動で返ってきたドアに、側頭部を強打して転がった。
「……えーと」
一瞬、下りた奇妙な沈黙に気まずさを感じてとりあえず階段を降りきった。手を貸そうかと差し出しかけると、少女は頭を抑えながらももそもそと、自力で起き上がった。
「えへへ、ごめんなさい」
「えーっと、まあ、いいけど……。大丈夫?」
「はい! こんなの慣れっこですから!」
―――頭を下げた拍子に返ってきたドアに頭を打つことが慣れる生活って一体。
少なくとも大多数の人間にとっては送りたくない生活であることは間違いない。
「えっと、イリーナさん、だっけ?」
「あ、はい。カノンさん。えへへ、イリーナ、でいいですよ。
ルナちゃんの友達なら私にとっても友達です」
サイズの合わないローブの裾を庇いながら、そばかすの浮いた顔をほころばせる。毒気のない表情に、自然とカノンの中から警戒が抜けた。
「あの、ルナちゃんいますか?」
「あー、ちょっと見てない。何か朝早くからいなくてさ。てっきり、そっちに行ってるもんだとばっかり思ってたんだけど」
「え? そうなんですか? 私は見てないんですけど……」
「って、ことは何処行ってんのかしら、あいつ……。
ごめんね。要件があるなら聞いて置くけど?」
「あ、いえ、いいんです。それほどのことじゃないし……」
イリーナは俯いて溜め息を吐く。明らかに意気消沈している表情。まあ、無理もない。
僅かに会話しただけだが、それだけでも彼女の今時珍しい素直すぎる性格は見て取れる。
こんな娘に、昨夜の毒気のある会話は見ていてつらいに違いない。それも友人同士の間で、だ。
かつて、犯罪組織の人間としてルナと戦ったときのことを思い出す。あのときも、きっと自分はこんな表情を浮かべていたに違いない。
―――まあ……普通はそうよね。
「ごめん」
「え?」
「あたしたちももうちょっと、ルナについて聞いたり良く見たりしておくべきだったわね。
そうすればあいつが潔癖であることも証明できたかもしれないし」
「いえ! カノンさんのせいなんかじゃ……! むしろ、私たちの問題に皆さんを巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、まあ……」
―――それについては、あたしらがあいつを巻き込んだのか、それとも巻き込まれたのか、微妙なセンだけど……。
ふと脳裏を過ぎった黒服の少年の姿に、そんなことを考える。
本当に、何者なのだ。彼は。
あの少年のことがなかったら、ルナもあの毒気のある魔道師も、素直にお互いの無事を喜べたのだろうに。
「……あいつは、まだルナを疑ってるの?」
「ん……というか」
イリーナは難しい表情で眉間にしわを寄せる。
「先輩は……昨日も言っていたように、たぶん当時、チームにいた全員を疑ってます……」
「あんたのことも?」
「たぶん……」
「でも、結構、あんたに対してはそれほど疑ってるように見えなかったけど……」
正直に漏らすと、彼女は困ったような顔で視線を彷徨わせた。
うーん、と可愛らしく唸りながらも、
「ルナちゃんは頭も良くていろいろとチームのことにも詳しくて、その上、クオノリアの事件に関わっていたっていう証拠もあるから……。
きっと先輩の中で容疑者である可能性が高い、と思われてるんだと……思います……。
私はどちらかというと下っ端で、ほとんどルナちゃんのコネでチームに入ったようなものだし……。
『ヴォルケーノ』の研究にだって何とかついて行ってた、程度でしたから、私から情報が漏れたとしても現物を造り出すことは出来ないだろう、とお考えなんだと思います……」
「なるほど……」
「あ、でも、その誤解しないでくださいね!
先輩、確かに口は良くないし、そういう風に疑り深いところもあったりしますけど、好きで疑ってるんじゃないし、悪い人じゃないんですよ?」
―――あれが悪人じゃなかったら何を悪人扱いするべきなのか小一時間問い詰めたい。
咄嗟に浮かんだ見も蓋もないセリフを、寸前で飲み下す。
「まあ……確かに口が悪かったり、いざってときは暴力行使平気でしたり、キレると手が付けられなかったり、基本的にサディストだったり、って奴はうちにも一人いるけど」
「いや、あの……」
「あたしたちじゃ大したことは言えないだろうけど、少なくともクオノリアの件と、ついんそーど……じゃないわね、えーと何だっけ?
ともかく、あの剣のことに関しては証人になれるから。もしものときは声かけてね。
ルナだったら、あの娘、絶対あたしに頼ろうとしないし」
「そう……ですね。ありがとうございます」
ぺこり、とイリーナは頭を下げる。
「でも、あんたは疑ったりしないのね?」
「え?」
「あんただって研究者の一人でしょう? その、あの男みたいに他人を疑ったりしないのか、って……」
「……」
聞くと彼女はしばらく沈黙した。まずいことを聞いたのかもしれない。
浮かべられた困惑と不安が入り混じった表情に、カノンが言葉を正そうと口を開いたとき、
「私……『館』に入学した頃からルナちゃんと一緒にいました。先輩のことも……ずっと尊敬はしていましたし、誰よりも研究熱心な人だって知ってます。
だから、例え誰であっても、二人ではないだろう、って。
それに、もしもルナちゃんが本当に犯人でも、きっと何か事情があったんだって……」
「……ごめん。いらないこと聞いたわ」
「いいえ。いいんです。そう思うのも当たり前ですよね。
でも、先輩もルナちゃんも、ホントはお互いのこと疑いたくなんてないはずですから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ホントは先輩だって、一番にルナちゃんのことを信じてあげたいと思ってるはずなんです。
ルナちゃんは先輩が『館』で初めて、信用して自分の助手として据えた唯一の人間でしたから。
でも、先輩は頭の良い人だから、いろいろ考えすぎて、信じたいけど信じられないんだと思うんです。だから、信じたくて、ルナちゃんが潔癖だって証拠が欲しくて、あんなに詰め寄ったんだと思います……」
「……」
「頭の良い人、って損ですよね。あはは、ほら、私は単純だから……」
理屈で動く人間はどうしてもこんなとき、損をする。『信じたくとも信じられない』。恋愛の小話から伝承歌まで、使い古された言葉だが、根底にあるのは人間の感情と理性の葛藤だ。理性的な人間ほど、より深刻な摩擦を生んでしまう。
カノンはあの男が嫌いだった。少なくとも今のところは。
それでも、その男をこんなに必死で庇おうとしている人間がいるのだ。きっと根っからの悪人、というわけではないのだろう。
―――それでもあんまり仲良くしたいと思わないけど。
「今日はまず私がルナちゃんと話そう、って思って来たんです。いきなり会ったりすると、あの二人、また衝突しちゃうと思うから」 ルナにはカノンやレン、シリアやアルティオも知らない世界と仲間がある。そこに下手に介入してはいけない。仲間として。
それがほんの少し、寂しく、もどかしい気もしたけれど。だからといって、それは誰についてもあることだ。カノンにも、レンにも、全員にお互い知らない世界がある。それが当然。
「そう、ね……。『館』の仲間のことで、あたしがルナにあれこれ言うのも何かヘンだし……貴方の言葉の方が受け入れやすいとは思うし。
貴方もルナにとっては仲間なんだし、あたしがこう言うのもおかしいけど、ルナをよろしくね」
「はい!」
カノンの心中を察してか、イリーナは胸を張って答えた。満面の笑みに、少しだけほっとする。
大丈夫だ。こんな娘がいるなら、あの二人の仲もきっと何とかなるだろう。
考えてみれば、幸運なことだ。
いろいろと忙しい最中だが、凄惨な事件で離れ離れになっていた仲間と再び会えるなんて。けして運が良いとはいえない半生を送ってきたルナにとってみれば、やはり素直に嬉しい出来事に違いない。
「ほんとに、たまには素直に喜べばいいのに」
「あはは、そうですよね。
ルナちゃんだけでなく、先輩もそうなんですよ。よく似てるんです、あの二人。
ルナちゃんも先輩もほんとに昔から素直じゃない人で……」
「……アレとだけは一緒にしないでくれるかしら、イリーナ?」
「って、ひゃ、わぁあッ!?」
耳元で響いた、妙に低い声にイリーナは大声を上げて仰け反った。そのままこてん、と前倒しに倒れてカノンに支えられる。
「……おかえり」
「ただいま」
「る、ルナ、ちゃん……」
その背後には、件の魔道師の少女が呆れた表情を張り付かせて立っていた。
「ったく、あたしならともかく、カノンにまでドジで迷惑かけてんじゃないわよ」
「えへへ、ごめん」
脱力しかけた声で吐いたルナに、イリーナは小さく舌を出した。宿屋の下の食堂で、対面同士に腰掛けながら軽い飲み物を注文する。
カノンは慌しく出かけていってしまって、今はいない。
「ま、あの娘はあれで懐が深いからあれくらいじゃあ、何とも思ってないだろうけど。
で、どうしたの今日は? あいつのおつかいかなんか?」
「あ、ううん……そうじゃなくて」
言い難そうに俯いてしまうイリーナ。ルナはふぅ、と苦笑いで息を吐き、
「どうせあんたのことだから、『あれは先輩の本意じゃない』『お願いだから理解してあげて』『お互いに疑ったりしないで』とか何とか、それっぽいこと言おうとして来たんでしょ?」
「え?」
きょとん、と小首を傾げる動作が肯定を表している。その様に、小さくルナは噴出した。
「あんた、ほんとに行動パターン変わんないわねー」
「な、何で解ったのー!?」
「だって、あんた分かりやすいもの、昔から。こんな状況だとなおさらね。
心配しなくても、あたしだって無駄にあいつと衝突しようだなんて思ってないわ」
「そ、そう……そう、だよね……」
一気に顔を紅潮させたイリーナに、くすくすと笑いを漏らしながら穏やかに言い放つ。
運ばれて来たオレンジジュースに、会話が一時、中断された。グラスの中の氷が、ぱき、と軽い音を立てる。
「……あいつは人一倍頭がいい上に、ちょいと人間不信なところがあるからね。ところがある―――っていうかまあ、塊って感じもするけど。
仕方ないでしょ。あたしだって完全に潔癖を証明出来てないんだし」
「で、でも……」
「……確かに」
何かを言いかけたイリーナを遮って、ややトーンの落ちた声で言う。
少しだけ、寂しさを孕ませながら。
「信頼されてない、ってことなのかもしれないけど。
あいつもこの五年間、いろいろあったんだろうし……。今は、ああやって昔と変わんない、冗談じゃすまないような冗談飛ばして、生きててくれてるんだから―――
あたし的には、今はそれでいいかな、って思ってる」
「ルナちゃん……」
「まあ、やってないって証拠もない代わりに、やったって証拠も出てくるわけないんだから。
それはそれで、何とかなると思ってるわ。大体、お互い無事だったんだし、そうそう急ぐこともないでしょ。
ただでさえ扱いが難しい奴を、一日だかそこらで説得しようだなんて無理な話なんだから。諦めて気長に構えようと思ってるわ。あんただってあれの唯我独尊ぶりは知ってるでしょーが」
「……っ、そうだね」
真一文字に結んでいたイリーナの口元が、初めて綻んだ。ほっとしたのだろう。手をつけていなかったジュースに、たった今気が付いたように手を伸ばす。
「良かった。もしかしたら、ルナちゃんと先輩、このまま絶交しちゃうんじゃないかってすっごい心配だったんだ~」
「まあ、これ以上面倒かけられないなら、それでもいいかもしれないけどねー」
「ルナちゃん!」
「嘘だって。とりあえず、二、三日中にもう一回話し合いましょ。
どうせ、気が向いたときにしか真剣に話したりしないんだろうから、我らがチーフ様の機嫌を見計らってね」
「うん!」
イリーナは昔と寸分変わらずに頷いて、オレンジジュースに刺さったストローを加える。
それを眺めながら、ルナは自分のグラスに目を落とした。
刹那の沈黙が、ふと、疑問を持ってくる。
「まあ、そっちはそんなに心配してないんだけど………ん…」
「?」
詰まったルナに、イリーナは首を傾げる。ルナは一瞬だけ、目を閉じて、頭の中を整理させると、口にした。
「イリーナ」
「うん?」
「あんた、まさか気づいてない、ってことはないと思うんだけど―――。
たぶん、知らないと思って訊くわ」
「う、うん……」
「あいつの左腕、―――何か、聞いてる?」
イリーナの表情が凍りついた。明らかに血の気が引いて、笑みを浮かべていた口元は、再び真一文字に閉ざされた。
固まった空気に、ルナは溜め息を吐く。
ルナの記憶に、あんな垂れ下がった袖などなかった。
少なくとも五年前までは、彼の左手はちゃんと健在で、あの両手は軽やかに革新的な魔道具を生み出していたのだ。
それがないのを目の当たりにして、
すぐにでも問い詰めたかった衝動を堪えた理由はただ一つ。
「あたしは、性格はともかく、才能はかなりのものを持ってると思ってるわ。かなりの―――というか、あたしでも到底、あいつには追いつけないでしょうね。
潜在的な魔力の保有量は誰にも負けない自信があるけれど、魔道的なセンス、っていうのかしらね。こと魔道研究に関してはおそらく大陸中探しても、あいつ以上の人材はいなかったと思う。
あのまま『月の館』で順調に研究を続けていたら、軽く帝国宮廷魔道師の位くらいには座してたと思うわ」
「……」
「イリーナ。あんただって知ってるように、魔道技師にとって腕は命も同然よ。生きる価値と同じ。
今の状態じゃ、おそらくMWOあたりの役員ごときにも睥睨されるわ。『片腕の魔道技師に何が出来る』ってね。そういう世の中だから……。
だから、今、あたしは猛烈に怒ってる。
あいつがあたしを信じる、信じないなんて小さいことなんかより―――
あいつの命をもいだのが、一体誰なのか―――!」
「……ッ」
イリーナの表情が泣きそうに歪む。それほどまでに、厳しい顔になっていたらしい。噛んだ唇から、鉄錆の味が滲んだ。
イリーナの顔に気がついたルナは、軽く頭を振って眉間の皺を伸ばす。
これでは八つ当たりになってしまう。
「ごめん、イリーナ。別にあんたに怒ってるわけじゃ……」
「……ごめんなさい」
唐突に、イリーナが謝罪の言葉を口にする。
「私も……解らないの。先輩と会って、すぐに気づいたけど……
でも、やっぱりそんなこと、訊けなくて……ごめんなさい」
「―――そう」
やはり。
ルナは瞑目する。
魔道技師にとって、腕を失うということは、命を奪われることに等しい。同時に、とんでもない―――恥のはず。
おそらくルナやイリーナが訊きづらく思っている以上に、彼は話しづらいのだろう。
―――触れない方が、いいってことね……。
どんなに親しい人間だとしても、曝された腫れ物をつつくような真似はしないだろう。人間として。
「おっけ、イリーナ。顔、上げなさい。別にあんたが謝るようなことじゃないわ」
「ルナちゃん……」
「―――ねぇ、イリーナ。あたしね、あいつの腕を見たときに思ったことが一つある」
「……?」
言うべきか、言わないべきか、少しだけ迷う。……いや、言うべきなのだろう。もしものときには、覚悟がいるだろうから。
「さっきも言ったように、魔道技師にとって腕は命よ」
「……うん」
「でも、もしも。もしもの話よ?
その命の腕と―――同じくらい魔道師にとって、命同然なもの。
天秤にかけさせられたら―――あいつはどっちを選ぶと思う?」
「―――ッ!?」
意味を悟ったイリーナが、顔に戦慄を浮かべる。
魔道師にとって、腕と同じように命同然なもの―――それは、言うまでもなく、自分の成果。
研究だ。
つまりルナはこう言っているのだ。
もしも、魔道技師が自分の腕を両方失うか、それとも自分の研究を売るか、どちらか問われたら―――。
「そ、そんなはずないよ! せ、先輩が……先輩が」
「落ち着きなさい。例えばの話って言ったでしょ。あくまで推測。あたしが犯人じゃないか、って話の方がまだ信憑性があるくらい、でたらめな話よ。
でも、ありえない話ではないと思うわ。
あたしやあんたとでは、あいつの腕や研究の重さはまったく違う。はるかに重い。
だからこそ―――そういうことをやる奴が、いないとも限らない」
「……」
蒼白になったイリーナを宥めるようにとんとん、とテーブルを叩く。はっと我に返った彼女は居心地が悪そうに座り直した。
「―――でも」
「……?」
「本気で。もしも本気で、そういうことをやった奴がいたりしたら―――」
ぎりッ―――奥歯を噛み締める音がする。テーブルの上に出された手が、白くなるほどに握り締められた。
「あたしはそいつを絶対に許さない―――チームの人間としても、魔道師としても、ルナ=ディスナーとしても……ッ!」
「………ルナ、ちゃん……」
抑えきれない怒りが紡いだ言葉だった。
グラスの中の氷が、また一つ、ぱき、と軽い音を立てて、割れた。
「―――悪かったわね、ヘンな雰囲気にして」
「ううん」
長い一拍を置いて、肩を上下させたルナに、イリーナは首を振る。
「ルナちゃんの言いたいことは解った。
もしも、そういうことがあっても、私は先輩やルナちゃんの味方だよ。責めたりするはずないよ」
「……ありがとうイリーナ」
意図を汲み取って、笑顔を向けるイリーナに、ルナの表情も和らいだ。
本当に、能天気な笑い。
昔からこの能天気さは変わらない。それにいつも助けられてきた。
「ほんとに、あんた見てると全部馬鹿馬鹿しくなってくるのよね……」
「あーひどいルナちゃん! これでも悩みだって多いんだよ! お仕事で上の人に怒られたりとか!」
「あんた、悩みの内容も昔から進歩してないのね……。昔はカシスやあたしで、今は上司なだけじゃないの……」
「うッ……」
呆れたように言うと、彼女はぷい、とそっぽを向く。
「で、でも! 昔の方が良かったもん! 先輩の方が優しかったもん!」
―――あたしは優しくなかったのか。つか、あれが優しく感じるとか末期症状な気が……。
突っ込もうとして、言葉を止める。向こうを向くイリーナの鼻の頭が赤い。嫌な予感がした。
―――……
「あんたさぁ……」
「な、何……ッ?」
「……もしかして、まだあいつのこと」
「ひゃ、あう、あうあうあうあうあうあうあうあうあうーーーッ!!」
「小学生か、あんたは」
台詞を遮ろうと大声を出しながら両手を振り回すイリーナに思わず突っ込む。
―――んッ……
その愉快なはずの光景を眺めながら、ストローを加えて、流れ込んできた冷たい液体に、少しだけ呻く。背筋が寒くなっていた。慣れてしまったもので、自然と顔は笑顔を作る。
かりッ―――落ち着きなく、知らず知らずにストローの先を噛む。
「はぁ、何だ。シリアスに心配してたこっちと違って、あんたは憧れの『先輩』と一緒に二人旅を満喫ってわけ。あーあ、何か萎えてきた」
「る、ルナちゃんッ! い、いじわる言わないでよぉ~~……」
真っ赤な顔で、必死に言い立てる。どこかの誰かと同じで初心な娘だ、いや、あれはどこかの馬鹿のせいで純粋培養だから仕方ないか、と呆れながら、何故か頭の一部は妙に熱を持ち、また一部は冷めていた。
嫌な感覚だ。五年の間に、忘れ去ってきたはずだったのに。
吐き出す言葉が、薄っぺらい。
「ね、ねぇ、ルナちゃん?」
「ん……何?」
「あ、あのね。五年前、私がルナちゃんに先輩についてどう思うか聞いたことがあったの、覚えてる……?」
―――……。
表情が消えたのは一瞬だったと思いたい。口の中が気持ち悪い。舌が張り付いている。
「覚えてるわよ」
「えっと、あの、その……」
いつの間にか、固唾が溜まっていた。
彼女が何を問いたいのか、解ってはいる。解ってしまっているからこそ、あのときと同じ答えを返すしかなかった。
「……変わってないわよ。あたしはあいつの助手なだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「そ、そうだよね……。あはは、ごめんね、変なこと聞いて。
ルナちゃん、言ってくれたもんね。頑張れ、って。応援してくれる、って言ってたもんね……?
信じて、いいんだよね?」
「……」
甘い果実を飲んでいるはずなのに、口の中が途方もなく苦くなる。
苛立ち紛れに、小さくなった氷を噛んだ。こそばゆい。寒い。
「頑張ってみたら、と言った覚えはあるけど、あたしはけしてあれをお薦めはしない。
っていうか、あたしはあんなののどこがいいのか、皆目見当がつかん」
「ルナちゃんはずっと先輩の近くにいたからだよ。ほら、近くに居ると相手のいいところが解らない、って言うじゃない?」
言葉が乾いていく。吐き気にも似た何かを覚えて、ルナはストローを抜いてグラスを一気に飲み干した。
ふと首を傾けたイリーナが、唐突に焦り出して席を立つ。
「いけない! 買い物していかなきゃいけないんだっけ!
じゃあね、ルナちゃん! また来るね!」
「はいはい、出来たらあの無精者を動かして置いてちょうだい。こっちから行くの面倒だし」
「わ、私には無理だよ~ッ。とにかく、明日でも明後日でも来てね! じゃあね!」
慌しい台風のように、イリーナは小走りで店の扉を開ける。わずかな風が起こって、ルナの前髪を揺らして過ぎた。
「ルナちゃん」
「ん?」
歩みを止めたイリーナが、こちらを振り返る。
清々しい、無垢な笑顔を、こちらに向けたままで、
「―――信じてるよ」
「……」
「信じてるから」
刹那の間があって、ばたん、と扉が閉まった。
小柄な背を見送って、ルナは改めて大きく息を吐き出した。
「……」
無意識のうちに、懐へ手を伸ばす。
くしゃくしゃになった小箱が、指先に当たる。するり、と引き出すと、赤い字で書かれた紙煙草の銘柄が目に入る。
こんなもの、この匂い。胸の中がむかむかしてくる、苦いような甘いような判然としない煙の匂い。嫌いだったはずなのに。
―――五年、経っても。
「……あたしも、大概、子供ね」
『Aizen』と銘打たれたその箱を。
悔しさと憂鬱と、やり場の無い怒りに、握り潰した。
←5へ
「……まあ、つまり」
緩い緊張感が漂う中、沈黙を破ったのはカノンの溜め息だった。レンとは視線で会話済み、話をややこしくしかけた馬鹿二人は制裁済みである。ラーシャとデルタにはプライベートということで席を外してもらっている。
対面で居心地悪そうに肩を竦める友人へ、カノンは呆れた視線を送る。
「そちらの二人はあんたの魔道学校時代の『お知り合い』で。
例の事件以来、この五年間、お互いに無事だと思っていなかったと……で、さっきの感動の再会になった、と」
「まあ……簡潔に言うとそういうことになるわね」
「なるほど。それには納得行ったけど」
あえて視線を合わせないルナ。カノンはテーブルにゆっくりと両手をつき、逸らした目を無理矢理覗き込むように、
「それならそうと早く言いなさいよッ!! いきなりいなくなるもんだから混乱したじゃないのッ!!
驚くのも解るし、飛び出した気持ちも解らんではないけどッ!」
「だーッ! うるさいわねッ!! こと一人で飛び出すことに関してはあんたに言われたくないわよッ!! あたしだって確証なかったしッ! ってか、むしろないと思ってたし!」
「だからってこんなときに場合が場合でしょーがッ! どんだけこっちが心配したと思ってんのよッ!? 現に間に合わなかったらどうする気だったのッ!?」
「いーじゃないッ、現に間に合ったんだしッ!!」
「あんた、自分が言ってる意味解ってないでしょッ!? 結果オーライ発言すんなッ! 前回あの後、あたしどんだけレンに説教喰らったと思って……」
「やかましい」
ゴッ! ゴッ!!
「……ったぁ~…」
「ちょっと! 何すんのよ、あんたわッ!」
拳骨がクリーンヒットした後頭部を抑えながら、カノンは背後に立つ相棒を睨む。同じく瘤を作ったルナは突っ伏しながら噛み付いた。
「喧嘩両成敗。冷静に話くらい出来んのか、お前らは」
「……くっくっく」
それを呆れた目で見下ろしながら、レンは短く息を吐く。
不意にその声を低い笑いが遮った。
「……あんた。いい加減、やめなさいよねその笑い方。いらない誤解招くだけだから」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、件の男が赤眼を細めていた。ルナはジト目でそれを睨みながら硬い声で返す。男は軽く鼻を鳴らしながら、
「した奴にはさせときゃいいさ。無駄に噛み付いて来たら潰すだけだしな」
「学校であんたの招いた誤解を必死で解いてきたのは誰だと思ってんのよッ!? あんたは良くてもあたしが大迷惑なのッ!」
「ま、まあまあ、ルナちゃん。久しぶりの再会なんだし、それくらいに……」
「イリーナ! あんた、こいつに甘過ぎなのよ! ちょっと奔放すると瞬く間に図に乗るわよ!?
ただでさえわがままと自分勝手が服着て歩いてるもんなんだから!! いい加減にしろこのろくでなし人でなし地獄に落ちて罪を償えッ、くらいのこと言ってやらないと効きやしないわよ!?」
「……先輩にそこまで言える人、たぶんルナちゃんだけだと思うよ……」
余裕の態度を崩さない男と、まくし立てるルナをどうにか慰めようと試みる少女。しかし、浮かべた笑みで火に油を注ぐ男にルナの激昂は収まらず、カノンとレンは互いに顔を見合わせる他なかった。
少女はその彼らに気が付いて、ぱっと顔を上げてルナの服の裾を引いた。
「ね、ねぇ、ルナちゃん。ところでそっちの人たちは……?」
「あ、ああ……。そういえば、お互いに紹介してなかったわね」
いくらか頭の冷えたルナがこちらを向く。
「……レン=フィティルアーグだ。それとは一応、幼馴染の腐れ縁だ」
「人をそれ扱いしないでくれる?」
「……あんた、本当に火に油を注ぐことしかしないわね」
剣呑な眼差しを向けるルナを見て、カノンは疲れたように首を振る。ふと、こちらを眺める男の視線に気がついて、眉を潜めながら、
「……同じくカノン=ティルザードよ。さっきは世話になったわね。それといきなり問い詰めて悪かったわ」
「……ふん。まあ、一応の礼儀はあるお嬢ちゃんだ」
「―――ッ」
「あー、カノン。こいつの言うことにいちいち腹立ててたらキリないから、てきとーに流して聞いて置いた方がいいわよ。こっちの身が持たないから」
カノンの額に浮かんだ血管を見て取って、ルナが男を睨みつける。無論、彼が椅子にふんぞり返った体制を変えることはなかったが。
「幼馴染……っていうことは、もしかしてお二人がルナちゃんが昔よく話してた……」
「へ? 何て?」
「……………………………………………えっと」
「あんた一体何て説明してるのよッ!? 絶対、まともな説明してないでしょッ!?」
「失礼ね。事実しか説明してないわよ!?」
「嘘付けぇッ!!」
「ま、まあまあ……。
えっと、カノンさん、でしたよね? 私、イリーナって言います。イリーナ=ツォルベルンです。
ルナちゃんと同じ教室で勉強してました。どうぞよろしく」
「あ、よ、よろしく……」
男と反してあまりにも素直に右手を出してきた少女に、一瞬戸惑いながらも手を出す。利き手で握手というのは、普段好まない行為だが、変に断るのはルナにも悪い。
「えへへ……道具屋さんでは失礼しました。ちょっと急いでて……」
「ああ、まあ、気にしてないけど……。で、」
ややムッとした表情でカノンは男を促すように見た。その視線に気が付いた男は、切れ長の真紅の目を実に面倒そうに歪め、ルナの方へぱたぱたと右手を振った。
「任せた」
「自己紹介くらい自分でしろッ! このモノグサッ!! 会話の流れを読めとあれほど言っとろーがッ!!」
「ああもう、ルナちゃん落ち着いてッ! え、えっとこの人はですね……」
思わず手が出かけるルナをイリーナが抱きついて押さえる。冷や汗を掻きながら、説明を始めようとする友人の困った表情に、ルナは息を吐いて腕を組んだ。
それにほっとしたように、イリーナは居住まいを正すと、
「えっと、こちらは私たちの先輩で、私たちの教室でも一番優秀だったカシス=エレメント先輩です。
『月の館』の史上の中でも先輩ほど優秀な方はいなかったそうです。
頭脳明晰、成績優秀。先生方の中でも先輩以上に博識で才能のある方は居なかったと言われています。館内では『最初で最後の魔道師』とか言われたこともありました」
まるで自分のことのようにイリーナはすらすらと笑顔で口にする。
「そうね、加えて人を馬鹿にした態度も品行も口の悪さも興味がないことへのモノグサも、超一流で右に出る奴はいなかったわねー。
人との約束は守らないわ、平気でところ構わず相手構わずケンカをふっかけるわ。そのくせ、自分で責任取ったことはいっっっっっっっかいもなかったわねー。
まあ、魔道師としては超一流、人としては三流以下って感じ?」
「る、ルナちゃん……」
「けッ、館一の手癖足癖の悪さを誇ったお前になんざ言われたくねぇな」
「やかましいッ! こっちだって裏から手ぇ回すだけ回して、生徒から教師から気に入らない奴は片っ端から潰してったあんたに言われたくないわッ!」
「えっと、えっと、その、だから……」
「ああ、うん。解った。もうなんとなく、どんな関係なのかは理解したわ……」
突如、襲ってきた頭痛を堪えるようにカノンは眉間に手を置く。自分とレンの口喧嘩も傍から見たらこんな感じなのだろうか? 他人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものである。
「は、はい…すいません……。それで、あの……」
おずおずと、イリーナはひどく聞き難いことを口にするような表情で、そろそろと視線をカノンの後方に投げた。
振り返ると、つい先ほどルナの稲妻が炸裂した焦げ跡に寝転んだ二体の黒い物体。
「あら、知らない?」
眉間から指をどかしたカノンが、いっそ清々しいまでの笑みを浮かべて一言。
「あれはね、炭っていうの」
「……さすが、ルナちゃんのお友達だね」
「イリーナ、それどういう意味?」
「そうだ。半歩譲ってもそれのトモダチなんてものに貶められるいわれはないぞ」
「あたしにだって友達くらいいるし、失礼なこと言うな! つか半歩て短ッ!」
「くっくっく……」
さらりとレンの吐いた毒に、怒鳴り返すルナを眺め、男は―――カシスはさぞ面白いように低く笑う。その嫌味な笑い声に、唇を尖らせながらも、ルナはふん、と腕を組み直した。
「なかなか愉快な知り合いじゃねぇか。お前も変わってなくて何よりだ」
「……あたしとしてはあんたはもうちょっと変わってて欲しかったけどね。まあ、期待はしてないからいいけど。
で、何であんたたち二人が一緒にこんなところにいるわけ?」
「そりゃこっちも聞きたい。何で、お前がその幼馴染殿と一緒にこんなところをふらふらしてたんだ?」
問い返されて、ルナは一瞬、答えに詰まる。
それを見てカノンはふと思い出した。
例のクオノリアの一件。すべての根源となったあの事件で不当に用いられた魔道結晶体『ヴォルケーノ』。
他でもない、彼女が言っていた。あれは『月の館』で、自らが参加していたプロジェクトチームで創造されたものだと。
渋い顔のまま、ルナは小声で答え出す。
「あたしはまあ……詳しくは後で話すけど。ちょっと事情があってね……しばらく行動を共にしよう、ってことになって。この町にいたのは偶然よ」
「成る程な。お前らしい答えだ。嘘じゃないが、本当でもない」
ひくりと、ルナの片眉が動いた。
いつものどこか掴めない、ひょうひょうとした表情から一転して、ルナはぎゅ、と眉間に皺を寄せる。組んだ腕の手の爪が、きつく自らの二の腕に立てられていたのに気が付いたのは、カノンだけだったろうか。
「まあ、いいさ……。俺たちもこの町にいたのは偶然だ。一緒にいるのも偶然会ったから、としか言いようがねぇな」
「偶然会った?」
「あ、あのね……。あれから私、政団内で薬とかを管理するお仕事に就いたんだ。それで、お届けもののお仕事があって……
その途中で偶然、カシス先輩を見つけて」
「その届けるはずのウェルスティール薬をなくしてあわあわ言ってるところを妙な奴らに絡まれてたんだよな」
「……あんたもあんたで相変わらずね……」
「あ、あうあうあう……」
ずけずけと言い放つカシスと、呆れた視線で疲れたように吐くルナに、イリーナは返せる言葉もなく、頭を抱えながらすん、と涙声を漏らす。
短い溜め息を吐きながら、ルナは椅子にふんぞり返るカシスの方へ視線を移すと、
「それで、そのお届けものの薬ってのはどうしたのよ?」
「結局、見つからねぇからその場で調合したさ。で、その報酬を払ってもらうために帰路を同行中だ。以上」
「ちょうご……ッ!」
素っ頓狂な声を上げかけたのはカノンだった。外から漏れた声に、ルナもカシスも、イリーナもそちらを向く。魔道師たちの視線に曝されて、カノンは古い記憶を頭から絞り出しつつ、おそるおそる、
「あの、間違ってたらあれだけど……
あたしの記憶によればウェルスティール薬、って結構、調合が難しい魔道薬、だったような気がするんだけど。確か、召還系の魔方陣の効果を高めるために使うとか何とか……」
「ほう? そんなデカブツを背負ってる力強いお嬢ちゃんの割に詳しいな」
「デカブツは関係ないし、力も関係ない!! とにかく! そんなものどうインスタントに調合するわけッ!?」
デリカシーのない一言に遠慮だとか、謙虚だとか、そんな人間として大切なはずのものが削ぎ取られた。白子の魔道師は懐から紙煙草の小箱を取り出しながら返答する。
「ま、さすがに完全なものは無理だわな。けど、そこら辺のちょいと大きな町に行けば売ってるような材料で似たような効果の薬は製造出来んだよ。
ちょいと目が肥えた奴には解るかもしれねぇが、そこら辺で細々と小規模な研究をやってるような連中じゃあ、まず見分けるのは無理なくらいの、な。
俺に言わせりゃウェルスティール薬なんて薬剤局の金儲けのためにある金食い虫だな。勿論、製法は企業秘密だが」
「……」
ぱちんッ、と彼が指を鳴らすと加えた煙草に火が付いた。
濁った煙が吐き出されるのをしばし、やや茫然としてカノンは眺め、やたらと機械的な動作でルナの方を振り向いた。
「……天は二物を与えない、って言うけど」
「?」
「二物しか与えない場合もあるのね」
「偉いカノン! あんた、上手いこと言うわねッ!!」
「おい」
「る、ルナちゃん、失礼だよ……」
初対面お構いなし、という点では自分の相棒も相当なものだな、とレンは思った。
あわあわ言いつつ、男の顔色を伺っているイリーナがほんの少し哀れだ。
「まあ、それはそれとして、だ。
ルナ、ちょうどいい。聞きたいことがある」
「?」
右手でその先がない左肩を押さえ、彼は浮かべていた笑みを消す。切れ長の瞳と、さらに鋭く尖らせて、睨むように彼女を見た。
半歩、僅かにルナは後退った。
「……クオノリアとか何とか言う町で起きた事件は知ってるか?」
「!」
「……」
「知ってる顔だな」
黙ってはいたが、肩に走った小さな震えまでは隠せなかった。カノンも、レンも顔を上げて彼を凝視する。イリーナは不安げな表情で、ルナの横顔を見上げ、ちらちらとカシスへ落ち着かない視線を走らせる。
「首謀者はMWO支局のぼんぼんだったようだが。
街中の合成獣発生、なんてもんがほいほい出来てたまるかよ。道中、ちょいと調べさせてもらったが、これが不思議なもんだ。記憶にある事象がほいほい出てくる。
覚えてるか? A級危険指定を食らわしたボツ研究があったろ?
……覚えてるよなぁ? しっかり政団の関係者リストにゃお前の名前が挙がってやがる。
一体、誰が漏らしたんだろうなぁ?」
「……カシス」
笑っているような口調で、その実、欠片も目は笑っていない。制止をかけるように、何事か逡巡したルナが彼の名を呼んだ。
「あたしを疑ってるの?」
「正確に言えばお前も、だな。正直な話、俺はプロジェクトチーム全員を疑ってるぜ?
それに、お前、事件時にMWOに絡んでたそうじゃねぇか……。潔癖だと言うには拭えない状況証拠だろ?
事実、お前はプロジェクトチームの中でもかなり高い位置に居た。ぶっちゃけて俺の次にな。
お前なら『ヴォルケーノ』の詳細も理解してるし、それを他人に享受するなんてことは造作もねぇだろうよ」
がたん、とカシスは席を立った。
ルナはそれに身構える。思わずカノンも、そしてレンも身を固くした。イリーナは泣きそうな表情を彼に向けた。
しかし、彼は予想と反して、彼女たちの脇を素通りすると、未だに倒れ込んだ二つの炭の塊の方に向かった。
「……ましてや」
嘲った表情でそれらを見下すと、アルティオのでかい図体に足をかける。
「ぐぇッ!?」
「こんなもんを見たら尚更、な」
「ッ!」
ルナの表情に焦燥が走る。
彼が指したのは、アルティオの腰に結び付けられた二振りの剣―――ランカースフィルの惨劇を生み出した、あの忌まわしい剣だった。
「何ですか、それ? 私は知りませんけど……」
「だろうなイリーナ。この中で『これ』に絡んでたのは俺とルナだけだからな」
「え?」
思わず声を漏らしてカノンは、ルナを見る。
彼女はただ唇と噛んで、項垂れるだけだった。
「『ヴォルケーノ』ならまだどっかから漏れる可能性はあるさ。一時的とはいえ、文書にして残しといた時期があるんだからな。
けどな、『コイツ』は違う。プロジェクトチームの中でも極限られた人間しか知らねぇはずだ」
「ちょっと……じゃあ、それもまさか」
「ああん? そいつに聞いてないのか? こいつはな、正式名称『ツインルーン』。お前らがどう呼んでるかは知らねぇが、一部の人間で研究中だった対で癒しと増強の効果を持つ剣さ。
ま、最終的には一つの剣として機能させる予定だったが、その前に館の方が潰されたからな」
カノンは、はっとする。あのとき、引き取った二振りの剣を、ルナは一日のうちに制御可能な、実用可能の魔法剣に修繕してしまった。
カノンは魔法剣の製造法には詳しくない。そんなに簡単に修繕できてしまうものなのか、疑問には思ったが―――
もし、彼女がこの剣の構造に最も詳しい人間だったのなら―――
茫然とするカノンに視線を向けられず、ルナは俯いたまま無言だった。
かつ、とカシスは靴音を鳴らして彼女に近づく。イリーナは彼女を庇うように前に出るが、有無を言わさない彼の雰囲気に、あっさりとどけられてしまった。
ぐい、と細い彼女の頬を持ち上げて、上を向かせる。
「正直に話せ、ルナ。お前、どっかで誰かに『コイツ』の話を漏らしたのか?」
「……」
「チームで行われた研究に最も詳しい人間は俺を抜かせば、お前だ。お前だったら資料なんかなくとも、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の詳細を伝えて同じものを造ることも可能だろ?」
「……」
きりッ―――歯軋りをする音が、僅かに聞こえた気がした。
カノンは唐突に我に返った。ルナの目尻に、かすかに、光るものが浮かんでいた。
「……あたしは…あたしはこの五年間、誰にも危険指定された研究のことなんか喋ってない」
「……本当か?」
「本当よ」
「……」
カノンは彼女の顔を覗き見る白子の魔道師の瞳を凝視する。
いろいろな人間を見て来た。裏切られて、ときには裏切ってしまった。だから解る。あれは、人を疑っている人間の目だ。
だんッ!
「!」
「ッ! ……カノン…?」
気が付けば、硬直したままの彼らの間に割って入っていた。
やや驚いた表情の、彼の目を睨んで言い放つ。
「ルナは違う。それは、あたしが証明出来るわ。むしろ、彼女はその情報の出所を調べるためにあたしたちと一緒にいるの」
「……ふぅん?」
「……クオノリアの一件には黒幕がいる」
カノンの昂ぶった感情を抑えるように、彼女の肩を押さえながらレンが言葉を継ぐ。
「首謀者とされている男に、『ヴォルケーノ』の情報を流したのもその黒幕。『月陽剣』も同じことだ。
その黒幕の目的は……まあ、はっきりとは解らないが、俺たちにあるらしい。奴から情報を得るために、ルナは俺たちと行動を共にしていた。
それだけだ。自分が流した情報の情報元を探るために、危ない橋を渡る馬鹿もいないだろう。
あんたの気持ちも解らないでもないが、研究を横流しされて怒り心頭なのは彼女も同じだ」
「どうだか」
「あんたね! いい加減にしなさいよッ!? この娘がどれだけ……」
「カノン」
眉を吊り上げるカノンの名を、当のルナが諫めるように紡ぐ。
「別にいいのよ。疑われても仕方ないから。
カシスはプロジェクトチームのチーフをやっていた男なの。カシスにとってはプロジェクトの研究は自分の研究も同然。
思い入れはあたし以上だろうし、自分の研究を横流しされて、黙っていられる魔道師なんていないわ」
「ルナ……」
同じ魔道師として、気持ちを共有出来るのはルナだけだ。
彼女は顔を上げ、改めて彼の方を見る。
「……宿を教えて。その話はまた、ゆっくりしましょ。今日は頭に血が上ってるわ。そんなに急いでるわけでもないでしょ?」
「……ま、数日なら、な。構わねぇさ」
ふっ、と息を吐き出して、カシスの口元に余裕の笑みが戻る。くい、と顎で指すとイリーナが慌てて宿の名と場所を口にした。
「ご、ごめんねルナちゃん。こんなつもりじゃ……、せっかく久しぶりなのに……」
「いいのよ。あんたが悪いんじゃないし。仕方ないわ。魔道師の宿命、ってやつね。
話さなきゃいけないことだったし、実を言うと会ったときから覚悟はしてた」
何か、諦めたように言ってルナはイリーナの蜂蜜色の髪を撫でる。
それを一瞥して、カシスは唐突に踵を返す。
「まあ、暇なときにでも来るんだな。こっちもそうしてやるよ。じゃあ……」
「カシス」
最後の言葉を塞ぐようにルナは、その背に声をかける。
「……信じてるから」
「……」
絞り出した一言に、彼は無言だった。ふん、と短く鼻を鳴らして歩き出す。
ルナはどうしたものか、おろおろするイリーナの背を押して、行くように促す。彼女はすまなさそうに肩を竦めて、ぺこりとお辞儀をした後に宿を出て行った。
「……ルナ」
彼らが去って、たっぷり十分は経っただろうか。ようやく立ち尽くしたままのルナに、声をかけることが出来た。
ふ、と笑うような気配。
そして、振り返った彼女は、唐突にカノンへ頭を下げた。
「な、ちょ……」
「ごめん。謝るわ」
「謝る、って何をよ!?」
「『ツインルーン』……『月陽剣』のことよ。黙ってて悪かったわ」
「あ……」
次の言葉に迷う。しばらく瞑目してから、レンを見る。
溜め息を吐いた後、彼は黙って頷いてくれた。
「顔上げてよ、ルナ。らしくないって」
「……」
「言いにくい気持ちは解るしさ。あのときは……その剣が、本当に事件に関わってるかなんて推測出来なかっただろうし。
過ぎたことをぐちゃぐちゃ言っても仕方ないし。
とりあえず、今は彼らのことを考えた方がいいでしょ?」
「……さんきゅ」
小さく口にして彼女は面を上げる。何故だか、とても疲れていた。
「とにかく、今日はもう休んだ方がいいだろう」
「そーね。何かいろいろ混乱してるだろうし」
「……そうするわ。ごめん」
「もういいって。とにかく一度、頭ん中整理した方がいいんじゃない? その間にあたしたちもいろいろ考えて置くし」
「ん、さんきゅ。じゃあ、先、休むね……」
どこかふらついた足取りで、踵を返す。それを見たカノンが慌てて駆け寄るが、それには及ばないと彼女は動作で断った。
一瞬、カノンは迷ったが、結局は手を離した。誰しも、一人になりたいときはある。
彼女が古びた階段で階上に上がり、部屋のドアの音が閉まる音が聞こえてから。
カノンは長く息を吐く。
「……びっくりした」
「同感だ」
ぽつり、と吐いた一言に、硬い声が返って来る。
「……ルナが泣いてるの見たのなんて、あのとき以来ね」
「ああ」
あのとき。
彼女が加担させられていた組織から、ようやく彼女を救い出し、身体に宿った魔族を倒して。
それでも疲弊した彼女の心は、古の崩壊の呪を紡ごうとして。
それが呆気なく失敗に終わって。
それでも手を差し伸べた。
それからは目覚しい立ち直りを見せて、贖罪を続けて、この二年。涙どころか、カノンにもレンにも、弱音一つ口にしたことはなかったのに。
「……大丈夫、かな」
「まぁねぇ、惚れた男にあそこまで詰め寄られちゃいくら打たれ強くても堪えるわよねぇ」
「あんたはまたそういう話を……って、わぁッ!? 生きてた!?」
「生きてるわよ! まったく、危うく死んだおばあちゃんに連れて行かれるところだったじゃないの!?」
「いや、あんたのおばあちゃん、確か現役でユニホックか何かやってた気が……
まあ、いいや……っていうか、あんたはすぐそういう方向に話を持ってくわね……」
「あら、あながちハズレではないと思うけど。あの娘、ああいう趣味だったのねぇ。ちょっと意外だわ」
「あのね……」
生還と同時にそんなことをのたまうシリアに、ジト目を送る。
「いてて……、尾てい骨が」
「安心しろ、男は子供を産まん。どうせなら俺が継いで粉砕してやっても」
「すんな馬鹿! しっかし、おっでれーたな。てっきり感動の再会になるとばかし思ってたのによ。
あのにーちゃんも参ったもんだな。そんなに自分の研究の方が大事かよ」
やんわりとは言っているが、苦い思い出がそうさせるのか、アルティオの声には苛立ちが見て取れた。カノンは逡巡して肩を竦める。
「まぁ……正直、あんなものがそうぽこぽこ流出したら、それこそ戦争沙汰になりかねないし。そうすると責任問題とかも出てくるだろうし……魔道師じゃないし、当事者じゃないあたしたちには詳しくは解らないけど……。
魔道師には魔道師の矜持、ってやつがあるんだろうし……個人的には好きになれない人種ではあったけど」
「思っていることはルナもあの男も一緒だ。誤解が解ければ、そちらの方面では協力も仰げるかもしれん。……それには一仕事かかりそうだがな」
「……あのさ」
「何だ」
椅子に腰掛け、痛む尻をさすりながら、ひどく言いにくそうにアルティオが口にする。寄せた眉間の皺が深い。
「ふと思っただけなんだけど。いや、疑ってるわけじゃねぇぞ? けど、その研究の情報を漏らしちまったのは、本当にルナじゃないんだよな……?」
「……」
ぎろりとカノンに睨まれて、アルティオは釈明のようにぱたぱたと両手を振る。その様にレンは軽く首を振り、
「解らん。だが、行動を見ている限りでは考えにくいことは確かだ。
それにもし、そうだとしても俺たちが究明することでもないだろう。それはそれで、あいつは自らの責任を果そうとしているだけだ。それはそれで構わんだろう」
「そう……だな。俺たちが信じてやんないと、な。悪ぃ」
「大体にして、あの男やルナの親友にしたって容疑者だ。それはルナもあの男も解っているだろう。
同じチーム内にいたんだ。自分が関わっていない研究にしたって、耳にする機会くらいはあったろう。チーム内の人間は誰もが等しく容疑者だ。どんな経路であの黒幕の耳に入ったのかは知らんがな」
「……」
「ともかく! あの二人のことはよしましょ。私たちで考えたところでろくな答えなんか出ないじゃない。
それよりも問題なのは、あの黒幕一派のお嬢ちゃんよッ! まったく、何考えてるのかしら!!
あんな人の多いところでこんな……」
「……それなのよね」
苛立ちながら言葉を叩きつけるシリアに、カノンがぽつりと漏らした。虚空を見上げて、眉間に皺を寄せる。
「それって何が?」
「今までに比べて、なんていうか、大雑把というか開けっ広げ、っていうか。
ほら、今までは大規模なことを起こしたり、いきなり襲撃されたりはしたけど。けど町全体で大規模なことをするには、こそこそ裏から手を回してやってたし、襲撃だって目撃者の少ない時間帯を狙って来たわ。
でも今回は大規模で、それもかなりの人間を巻き込んで、なおかつ、あっさり姿を公然と見せて。
何となく手口が違う気がするのよね」
「……また別の策がある、ということか……?」
「さぁ、そこまでは解らないけど」
もどかしい。
あまりにも不明快で、頼りない推測。今まで、彼らの行動には何かしがの意味があった。ならば、この行動にも何かしがの意味があるというのか、もしくは霍乱のためか……。
「ともかく。ルナのことがあるんだし、数日は足止めを喰らうんでしょ?」
「……そうね。あたしたちはルナにとっては証人なわけだし。放っていくわけにいかないし」
「それに、奴らの手口の中では、その『月の館』の研究が二度使われた。三度目がないとも限らん。
そうなった場合、あの男の協力を得られた方が奴らの裏を掻き易くなるだろう」
「……何か屈辱的だけど」
「仕方ないだろう、私情は抑えろ」
むぅ、とカノンは息を吐く。
ふと、冷えた窓に気がついて、暗い空を覗き見る。か細い星が暗い光を放つ中で、幾分欠けた月が煌々と夜空を照らしていた。
←4へ
緩い緊張感が漂う中、沈黙を破ったのはカノンの溜め息だった。レンとは視線で会話済み、話をややこしくしかけた馬鹿二人は制裁済みである。ラーシャとデルタにはプライベートということで席を外してもらっている。
対面で居心地悪そうに肩を竦める友人へ、カノンは呆れた視線を送る。
「そちらの二人はあんたの魔道学校時代の『お知り合い』で。
例の事件以来、この五年間、お互いに無事だと思っていなかったと……で、さっきの感動の再会になった、と」
「まあ……簡潔に言うとそういうことになるわね」
「なるほど。それには納得行ったけど」
あえて視線を合わせないルナ。カノンはテーブルにゆっくりと両手をつき、逸らした目を無理矢理覗き込むように、
「それならそうと早く言いなさいよッ!! いきなりいなくなるもんだから混乱したじゃないのッ!!
驚くのも解るし、飛び出した気持ちも解らんではないけどッ!」
「だーッ! うるさいわねッ!! こと一人で飛び出すことに関してはあんたに言われたくないわよッ!! あたしだって確証なかったしッ! ってか、むしろないと思ってたし!」
「だからってこんなときに場合が場合でしょーがッ! どんだけこっちが心配したと思ってんのよッ!? 現に間に合わなかったらどうする気だったのッ!?」
「いーじゃないッ、現に間に合ったんだしッ!!」
「あんた、自分が言ってる意味解ってないでしょッ!? 結果オーライ発言すんなッ! 前回あの後、あたしどんだけレンに説教喰らったと思って……」
「やかましい」
ゴッ! ゴッ!!
「……ったぁ~…」
「ちょっと! 何すんのよ、あんたわッ!」
拳骨がクリーンヒットした後頭部を抑えながら、カノンは背後に立つ相棒を睨む。同じく瘤を作ったルナは突っ伏しながら噛み付いた。
「喧嘩両成敗。冷静に話くらい出来んのか、お前らは」
「……くっくっく」
それを呆れた目で見下ろしながら、レンは短く息を吐く。
不意にその声を低い笑いが遮った。
「……あんた。いい加減、やめなさいよねその笑い方。いらない誤解招くだけだから」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、件の男が赤眼を細めていた。ルナはジト目でそれを睨みながら硬い声で返す。男は軽く鼻を鳴らしながら、
「した奴にはさせときゃいいさ。無駄に噛み付いて来たら潰すだけだしな」
「学校であんたの招いた誤解を必死で解いてきたのは誰だと思ってんのよッ!? あんたは良くてもあたしが大迷惑なのッ!」
「ま、まあまあ、ルナちゃん。久しぶりの再会なんだし、それくらいに……」
「イリーナ! あんた、こいつに甘過ぎなのよ! ちょっと奔放すると瞬く間に図に乗るわよ!?
ただでさえわがままと自分勝手が服着て歩いてるもんなんだから!! いい加減にしろこのろくでなし人でなし地獄に落ちて罪を償えッ、くらいのこと言ってやらないと効きやしないわよ!?」
「……先輩にそこまで言える人、たぶんルナちゃんだけだと思うよ……」
余裕の態度を崩さない男と、まくし立てるルナをどうにか慰めようと試みる少女。しかし、浮かべた笑みで火に油を注ぐ男にルナの激昂は収まらず、カノンとレンは互いに顔を見合わせる他なかった。
少女はその彼らに気が付いて、ぱっと顔を上げてルナの服の裾を引いた。
「ね、ねぇ、ルナちゃん。ところでそっちの人たちは……?」
「あ、ああ……。そういえば、お互いに紹介してなかったわね」
いくらか頭の冷えたルナがこちらを向く。
「……レン=フィティルアーグだ。それとは一応、幼馴染の腐れ縁だ」
「人をそれ扱いしないでくれる?」
「……あんた、本当に火に油を注ぐことしかしないわね」
剣呑な眼差しを向けるルナを見て、カノンは疲れたように首を振る。ふと、こちらを眺める男の視線に気がついて、眉を潜めながら、
「……同じくカノン=ティルザードよ。さっきは世話になったわね。それといきなり問い詰めて悪かったわ」
「……ふん。まあ、一応の礼儀はあるお嬢ちゃんだ」
「―――ッ」
「あー、カノン。こいつの言うことにいちいち腹立ててたらキリないから、てきとーに流して聞いて置いた方がいいわよ。こっちの身が持たないから」
カノンの額に浮かんだ血管を見て取って、ルナが男を睨みつける。無論、彼が椅子にふんぞり返った体制を変えることはなかったが。
「幼馴染……っていうことは、もしかしてお二人がルナちゃんが昔よく話してた……」
「へ? 何て?」
「……………………………………………えっと」
「あんた一体何て説明してるのよッ!? 絶対、まともな説明してないでしょッ!?」
「失礼ね。事実しか説明してないわよ!?」
「嘘付けぇッ!!」
「ま、まあまあ……。
えっと、カノンさん、でしたよね? 私、イリーナって言います。イリーナ=ツォルベルンです。
ルナちゃんと同じ教室で勉強してました。どうぞよろしく」
「あ、よ、よろしく……」
男と反してあまりにも素直に右手を出してきた少女に、一瞬戸惑いながらも手を出す。利き手で握手というのは、普段好まない行為だが、変に断るのはルナにも悪い。
「えへへ……道具屋さんでは失礼しました。ちょっと急いでて……」
「ああ、まあ、気にしてないけど……。で、」
ややムッとした表情でカノンは男を促すように見た。その視線に気が付いた男は、切れ長の真紅の目を実に面倒そうに歪め、ルナの方へぱたぱたと右手を振った。
「任せた」
「自己紹介くらい自分でしろッ! このモノグサッ!! 会話の流れを読めとあれほど言っとろーがッ!!」
「ああもう、ルナちゃん落ち着いてッ! え、えっとこの人はですね……」
思わず手が出かけるルナをイリーナが抱きついて押さえる。冷や汗を掻きながら、説明を始めようとする友人の困った表情に、ルナは息を吐いて腕を組んだ。
それにほっとしたように、イリーナは居住まいを正すと、
「えっと、こちらは私たちの先輩で、私たちの教室でも一番優秀だったカシス=エレメント先輩です。
『月の館』の史上の中でも先輩ほど優秀な方はいなかったそうです。
頭脳明晰、成績優秀。先生方の中でも先輩以上に博識で才能のある方は居なかったと言われています。館内では『最初で最後の魔道師』とか言われたこともありました」
まるで自分のことのようにイリーナはすらすらと笑顔で口にする。
「そうね、加えて人を馬鹿にした態度も品行も口の悪さも興味がないことへのモノグサも、超一流で右に出る奴はいなかったわねー。
人との約束は守らないわ、平気でところ構わず相手構わずケンカをふっかけるわ。そのくせ、自分で責任取ったことはいっっっっっっっかいもなかったわねー。
まあ、魔道師としては超一流、人としては三流以下って感じ?」
「る、ルナちゃん……」
「けッ、館一の手癖足癖の悪さを誇ったお前になんざ言われたくねぇな」
「やかましいッ! こっちだって裏から手ぇ回すだけ回して、生徒から教師から気に入らない奴は片っ端から潰してったあんたに言われたくないわッ!」
「えっと、えっと、その、だから……」
「ああ、うん。解った。もうなんとなく、どんな関係なのかは理解したわ……」
突如、襲ってきた頭痛を堪えるようにカノンは眉間に手を置く。自分とレンの口喧嘩も傍から見たらこんな感じなのだろうか? 他人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものである。
「は、はい…すいません……。それで、あの……」
おずおずと、イリーナはひどく聞き難いことを口にするような表情で、そろそろと視線をカノンの後方に投げた。
振り返ると、つい先ほどルナの稲妻が炸裂した焦げ跡に寝転んだ二体の黒い物体。
「あら、知らない?」
眉間から指をどかしたカノンが、いっそ清々しいまでの笑みを浮かべて一言。
「あれはね、炭っていうの」
「……さすが、ルナちゃんのお友達だね」
「イリーナ、それどういう意味?」
「そうだ。半歩譲ってもそれのトモダチなんてものに貶められるいわれはないぞ」
「あたしにだって友達くらいいるし、失礼なこと言うな! つか半歩て短ッ!」
「くっくっく……」
さらりとレンの吐いた毒に、怒鳴り返すルナを眺め、男は―――カシスはさぞ面白いように低く笑う。その嫌味な笑い声に、唇を尖らせながらも、ルナはふん、と腕を組み直した。
「なかなか愉快な知り合いじゃねぇか。お前も変わってなくて何よりだ」
「……あたしとしてはあんたはもうちょっと変わってて欲しかったけどね。まあ、期待はしてないからいいけど。
で、何であんたたち二人が一緒にこんなところにいるわけ?」
「そりゃこっちも聞きたい。何で、お前がその幼馴染殿と一緒にこんなところをふらふらしてたんだ?」
問い返されて、ルナは一瞬、答えに詰まる。
それを見てカノンはふと思い出した。
例のクオノリアの一件。すべての根源となったあの事件で不当に用いられた魔道結晶体『ヴォルケーノ』。
他でもない、彼女が言っていた。あれは『月の館』で、自らが参加していたプロジェクトチームで創造されたものだと。
渋い顔のまま、ルナは小声で答え出す。
「あたしはまあ……詳しくは後で話すけど。ちょっと事情があってね……しばらく行動を共にしよう、ってことになって。この町にいたのは偶然よ」
「成る程な。お前らしい答えだ。嘘じゃないが、本当でもない」
ひくりと、ルナの片眉が動いた。
いつものどこか掴めない、ひょうひょうとした表情から一転して、ルナはぎゅ、と眉間に皺を寄せる。組んだ腕の手の爪が、きつく自らの二の腕に立てられていたのに気が付いたのは、カノンだけだったろうか。
「まあ、いいさ……。俺たちもこの町にいたのは偶然だ。一緒にいるのも偶然会ったから、としか言いようがねぇな」
「偶然会った?」
「あ、あのね……。あれから私、政団内で薬とかを管理するお仕事に就いたんだ。それで、お届けもののお仕事があって……
その途中で偶然、カシス先輩を見つけて」
「その届けるはずのウェルスティール薬をなくしてあわあわ言ってるところを妙な奴らに絡まれてたんだよな」
「……あんたもあんたで相変わらずね……」
「あ、あうあうあう……」
ずけずけと言い放つカシスと、呆れた視線で疲れたように吐くルナに、イリーナは返せる言葉もなく、頭を抱えながらすん、と涙声を漏らす。
短い溜め息を吐きながら、ルナは椅子にふんぞり返るカシスの方へ視線を移すと、
「それで、そのお届けものの薬ってのはどうしたのよ?」
「結局、見つからねぇからその場で調合したさ。で、その報酬を払ってもらうために帰路を同行中だ。以上」
「ちょうご……ッ!」
素っ頓狂な声を上げかけたのはカノンだった。外から漏れた声に、ルナもカシスも、イリーナもそちらを向く。魔道師たちの視線に曝されて、カノンは古い記憶を頭から絞り出しつつ、おそるおそる、
「あの、間違ってたらあれだけど……
あたしの記憶によればウェルスティール薬、って結構、調合が難しい魔道薬、だったような気がするんだけど。確か、召還系の魔方陣の効果を高めるために使うとか何とか……」
「ほう? そんなデカブツを背負ってる力強いお嬢ちゃんの割に詳しいな」
「デカブツは関係ないし、力も関係ない!! とにかく! そんなものどうインスタントに調合するわけッ!?」
デリカシーのない一言に遠慮だとか、謙虚だとか、そんな人間として大切なはずのものが削ぎ取られた。白子の魔道師は懐から紙煙草の小箱を取り出しながら返答する。
「ま、さすがに完全なものは無理だわな。けど、そこら辺のちょいと大きな町に行けば売ってるような材料で似たような効果の薬は製造出来んだよ。
ちょいと目が肥えた奴には解るかもしれねぇが、そこら辺で細々と小規模な研究をやってるような連中じゃあ、まず見分けるのは無理なくらいの、な。
俺に言わせりゃウェルスティール薬なんて薬剤局の金儲けのためにある金食い虫だな。勿論、製法は企業秘密だが」
「……」
ぱちんッ、と彼が指を鳴らすと加えた煙草に火が付いた。
濁った煙が吐き出されるのをしばし、やや茫然としてカノンは眺め、やたらと機械的な動作でルナの方を振り向いた。
「……天は二物を与えない、って言うけど」
「?」
「二物しか与えない場合もあるのね」
「偉いカノン! あんた、上手いこと言うわねッ!!」
「おい」
「る、ルナちゃん、失礼だよ……」
初対面お構いなし、という点では自分の相棒も相当なものだな、とレンは思った。
あわあわ言いつつ、男の顔色を伺っているイリーナがほんの少し哀れだ。
「まあ、それはそれとして、だ。
ルナ、ちょうどいい。聞きたいことがある」
「?」
右手でその先がない左肩を押さえ、彼は浮かべていた笑みを消す。切れ長の瞳と、さらに鋭く尖らせて、睨むように彼女を見た。
半歩、僅かにルナは後退った。
「……クオノリアとか何とか言う町で起きた事件は知ってるか?」
「!」
「……」
「知ってる顔だな」
黙ってはいたが、肩に走った小さな震えまでは隠せなかった。カノンも、レンも顔を上げて彼を凝視する。イリーナは不安げな表情で、ルナの横顔を見上げ、ちらちらとカシスへ落ち着かない視線を走らせる。
「首謀者はMWO支局のぼんぼんだったようだが。
街中の合成獣発生、なんてもんがほいほい出来てたまるかよ。道中、ちょいと調べさせてもらったが、これが不思議なもんだ。記憶にある事象がほいほい出てくる。
覚えてるか? A級危険指定を食らわしたボツ研究があったろ?
……覚えてるよなぁ? しっかり政団の関係者リストにゃお前の名前が挙がってやがる。
一体、誰が漏らしたんだろうなぁ?」
「……カシス」
笑っているような口調で、その実、欠片も目は笑っていない。制止をかけるように、何事か逡巡したルナが彼の名を呼んだ。
「あたしを疑ってるの?」
「正確に言えばお前も、だな。正直な話、俺はプロジェクトチーム全員を疑ってるぜ?
それに、お前、事件時にMWOに絡んでたそうじゃねぇか……。潔癖だと言うには拭えない状況証拠だろ?
事実、お前はプロジェクトチームの中でもかなり高い位置に居た。ぶっちゃけて俺の次にな。
お前なら『ヴォルケーノ』の詳細も理解してるし、それを他人に享受するなんてことは造作もねぇだろうよ」
がたん、とカシスは席を立った。
ルナはそれに身構える。思わずカノンも、そしてレンも身を固くした。イリーナは泣きそうな表情を彼に向けた。
しかし、彼は予想と反して、彼女たちの脇を素通りすると、未だに倒れ込んだ二つの炭の塊の方に向かった。
「……ましてや」
嘲った表情でそれらを見下すと、アルティオのでかい図体に足をかける。
「ぐぇッ!?」
「こんなもんを見たら尚更、な」
「ッ!」
ルナの表情に焦燥が走る。
彼が指したのは、アルティオの腰に結び付けられた二振りの剣―――ランカースフィルの惨劇を生み出した、あの忌まわしい剣だった。
「何ですか、それ? 私は知りませんけど……」
「だろうなイリーナ。この中で『これ』に絡んでたのは俺とルナだけだからな」
「え?」
思わず声を漏らしてカノンは、ルナを見る。
彼女はただ唇と噛んで、項垂れるだけだった。
「『ヴォルケーノ』ならまだどっかから漏れる可能性はあるさ。一時的とはいえ、文書にして残しといた時期があるんだからな。
けどな、『コイツ』は違う。プロジェクトチームの中でも極限られた人間しか知らねぇはずだ」
「ちょっと……じゃあ、それもまさか」
「ああん? そいつに聞いてないのか? こいつはな、正式名称『ツインルーン』。お前らがどう呼んでるかは知らねぇが、一部の人間で研究中だった対で癒しと増強の効果を持つ剣さ。
ま、最終的には一つの剣として機能させる予定だったが、その前に館の方が潰されたからな」
カノンは、はっとする。あのとき、引き取った二振りの剣を、ルナは一日のうちに制御可能な、実用可能の魔法剣に修繕してしまった。
カノンは魔法剣の製造法には詳しくない。そんなに簡単に修繕できてしまうものなのか、疑問には思ったが―――
もし、彼女がこの剣の構造に最も詳しい人間だったのなら―――
茫然とするカノンに視線を向けられず、ルナは俯いたまま無言だった。
かつ、とカシスは靴音を鳴らして彼女に近づく。イリーナは彼女を庇うように前に出るが、有無を言わさない彼の雰囲気に、あっさりとどけられてしまった。
ぐい、と細い彼女の頬を持ち上げて、上を向かせる。
「正直に話せ、ルナ。お前、どっかで誰かに『コイツ』の話を漏らしたのか?」
「……」
「チームで行われた研究に最も詳しい人間は俺を抜かせば、お前だ。お前だったら資料なんかなくとも、『ヴォルケーノ』や『ツインルーン』の詳細を伝えて同じものを造ることも可能だろ?」
「……」
きりッ―――歯軋りをする音が、僅かに聞こえた気がした。
カノンは唐突に我に返った。ルナの目尻に、かすかに、光るものが浮かんでいた。
「……あたしは…あたしはこの五年間、誰にも危険指定された研究のことなんか喋ってない」
「……本当か?」
「本当よ」
「……」
カノンは彼女の顔を覗き見る白子の魔道師の瞳を凝視する。
いろいろな人間を見て来た。裏切られて、ときには裏切ってしまった。だから解る。あれは、人を疑っている人間の目だ。
だんッ!
「!」
「ッ! ……カノン…?」
気が付けば、硬直したままの彼らの間に割って入っていた。
やや驚いた表情の、彼の目を睨んで言い放つ。
「ルナは違う。それは、あたしが証明出来るわ。むしろ、彼女はその情報の出所を調べるためにあたしたちと一緒にいるの」
「……ふぅん?」
「……クオノリアの一件には黒幕がいる」
カノンの昂ぶった感情を抑えるように、彼女の肩を押さえながらレンが言葉を継ぐ。
「首謀者とされている男に、『ヴォルケーノ』の情報を流したのもその黒幕。『月陽剣』も同じことだ。
その黒幕の目的は……まあ、はっきりとは解らないが、俺たちにあるらしい。奴から情報を得るために、ルナは俺たちと行動を共にしていた。
それだけだ。自分が流した情報の情報元を探るために、危ない橋を渡る馬鹿もいないだろう。
あんたの気持ちも解らないでもないが、研究を横流しされて怒り心頭なのは彼女も同じだ」
「どうだか」
「あんたね! いい加減にしなさいよッ!? この娘がどれだけ……」
「カノン」
眉を吊り上げるカノンの名を、当のルナが諫めるように紡ぐ。
「別にいいのよ。疑われても仕方ないから。
カシスはプロジェクトチームのチーフをやっていた男なの。カシスにとってはプロジェクトの研究は自分の研究も同然。
思い入れはあたし以上だろうし、自分の研究を横流しされて、黙っていられる魔道師なんていないわ」
「ルナ……」
同じ魔道師として、気持ちを共有出来るのはルナだけだ。
彼女は顔を上げ、改めて彼の方を見る。
「……宿を教えて。その話はまた、ゆっくりしましょ。今日は頭に血が上ってるわ。そんなに急いでるわけでもないでしょ?」
「……ま、数日なら、な。構わねぇさ」
ふっ、と息を吐き出して、カシスの口元に余裕の笑みが戻る。くい、と顎で指すとイリーナが慌てて宿の名と場所を口にした。
「ご、ごめんねルナちゃん。こんなつもりじゃ……、せっかく久しぶりなのに……」
「いいのよ。あんたが悪いんじゃないし。仕方ないわ。魔道師の宿命、ってやつね。
話さなきゃいけないことだったし、実を言うと会ったときから覚悟はしてた」
何か、諦めたように言ってルナはイリーナの蜂蜜色の髪を撫でる。
それを一瞥して、カシスは唐突に踵を返す。
「まあ、暇なときにでも来るんだな。こっちもそうしてやるよ。じゃあ……」
「カシス」
最後の言葉を塞ぐようにルナは、その背に声をかける。
「……信じてるから」
「……」
絞り出した一言に、彼は無言だった。ふん、と短く鼻を鳴らして歩き出す。
ルナはどうしたものか、おろおろするイリーナの背を押して、行くように促す。彼女はすまなさそうに肩を竦めて、ぺこりとお辞儀をした後に宿を出て行った。
「……ルナ」
彼らが去って、たっぷり十分は経っただろうか。ようやく立ち尽くしたままのルナに、声をかけることが出来た。
ふ、と笑うような気配。
そして、振り返った彼女は、唐突にカノンへ頭を下げた。
「な、ちょ……」
「ごめん。謝るわ」
「謝る、って何をよ!?」
「『ツインルーン』……『月陽剣』のことよ。黙ってて悪かったわ」
「あ……」
次の言葉に迷う。しばらく瞑目してから、レンを見る。
溜め息を吐いた後、彼は黙って頷いてくれた。
「顔上げてよ、ルナ。らしくないって」
「……」
「言いにくい気持ちは解るしさ。あのときは……その剣が、本当に事件に関わってるかなんて推測出来なかっただろうし。
過ぎたことをぐちゃぐちゃ言っても仕方ないし。
とりあえず、今は彼らのことを考えた方がいいでしょ?」
「……さんきゅ」
小さく口にして彼女は面を上げる。何故だか、とても疲れていた。
「とにかく、今日はもう休んだ方がいいだろう」
「そーね。何かいろいろ混乱してるだろうし」
「……そうするわ。ごめん」
「もういいって。とにかく一度、頭ん中整理した方がいいんじゃない? その間にあたしたちもいろいろ考えて置くし」
「ん、さんきゅ。じゃあ、先、休むね……」
どこかふらついた足取りで、踵を返す。それを見たカノンが慌てて駆け寄るが、それには及ばないと彼女は動作で断った。
一瞬、カノンは迷ったが、結局は手を離した。誰しも、一人になりたいときはある。
彼女が古びた階段で階上に上がり、部屋のドアの音が閉まる音が聞こえてから。
カノンは長く息を吐く。
「……びっくりした」
「同感だ」
ぽつり、と吐いた一言に、硬い声が返って来る。
「……ルナが泣いてるの見たのなんて、あのとき以来ね」
「ああ」
あのとき。
彼女が加担させられていた組織から、ようやく彼女を救い出し、身体に宿った魔族を倒して。
それでも疲弊した彼女の心は、古の崩壊の呪を紡ごうとして。
それが呆気なく失敗に終わって。
それでも手を差し伸べた。
それからは目覚しい立ち直りを見せて、贖罪を続けて、この二年。涙どころか、カノンにもレンにも、弱音一つ口にしたことはなかったのに。
「……大丈夫、かな」
「まぁねぇ、惚れた男にあそこまで詰め寄られちゃいくら打たれ強くても堪えるわよねぇ」
「あんたはまたそういう話を……って、わぁッ!? 生きてた!?」
「生きてるわよ! まったく、危うく死んだおばあちゃんに連れて行かれるところだったじゃないの!?」
「いや、あんたのおばあちゃん、確か現役でユニホックか何かやってた気が……
まあ、いいや……っていうか、あんたはすぐそういう方向に話を持ってくわね……」
「あら、あながちハズレではないと思うけど。あの娘、ああいう趣味だったのねぇ。ちょっと意外だわ」
「あのね……」
生還と同時にそんなことをのたまうシリアに、ジト目を送る。
「いてて……、尾てい骨が」
「安心しろ、男は子供を産まん。どうせなら俺が継いで粉砕してやっても」
「すんな馬鹿! しっかし、おっでれーたな。てっきり感動の再会になるとばかし思ってたのによ。
あのにーちゃんも参ったもんだな。そんなに自分の研究の方が大事かよ」
やんわりとは言っているが、苦い思い出がそうさせるのか、アルティオの声には苛立ちが見て取れた。カノンは逡巡して肩を竦める。
「まぁ……正直、あんなものがそうぽこぽこ流出したら、それこそ戦争沙汰になりかねないし。そうすると責任問題とかも出てくるだろうし……魔道師じゃないし、当事者じゃないあたしたちには詳しくは解らないけど……。
魔道師には魔道師の矜持、ってやつがあるんだろうし……個人的には好きになれない人種ではあったけど」
「思っていることはルナもあの男も一緒だ。誤解が解ければ、そちらの方面では協力も仰げるかもしれん。……それには一仕事かかりそうだがな」
「……あのさ」
「何だ」
椅子に腰掛け、痛む尻をさすりながら、ひどく言いにくそうにアルティオが口にする。寄せた眉間の皺が深い。
「ふと思っただけなんだけど。いや、疑ってるわけじゃねぇぞ? けど、その研究の情報を漏らしちまったのは、本当にルナじゃないんだよな……?」
「……」
ぎろりとカノンに睨まれて、アルティオは釈明のようにぱたぱたと両手を振る。その様にレンは軽く首を振り、
「解らん。だが、行動を見ている限りでは考えにくいことは確かだ。
それにもし、そうだとしても俺たちが究明することでもないだろう。それはそれで、あいつは自らの責任を果そうとしているだけだ。それはそれで構わんだろう」
「そう……だな。俺たちが信じてやんないと、な。悪ぃ」
「大体にして、あの男やルナの親友にしたって容疑者だ。それはルナもあの男も解っているだろう。
同じチーム内にいたんだ。自分が関わっていない研究にしたって、耳にする機会くらいはあったろう。チーム内の人間は誰もが等しく容疑者だ。どんな経路であの黒幕の耳に入ったのかは知らんがな」
「……」
「ともかく! あの二人のことはよしましょ。私たちで考えたところでろくな答えなんか出ないじゃない。
それよりも問題なのは、あの黒幕一派のお嬢ちゃんよッ! まったく、何考えてるのかしら!!
あんな人の多いところでこんな……」
「……それなのよね」
苛立ちながら言葉を叩きつけるシリアに、カノンがぽつりと漏らした。虚空を見上げて、眉間に皺を寄せる。
「それって何が?」
「今までに比べて、なんていうか、大雑把というか開けっ広げ、っていうか。
ほら、今までは大規模なことを起こしたり、いきなり襲撃されたりはしたけど。けど町全体で大規模なことをするには、こそこそ裏から手を回してやってたし、襲撃だって目撃者の少ない時間帯を狙って来たわ。
でも今回は大規模で、それもかなりの人間を巻き込んで、なおかつ、あっさり姿を公然と見せて。
何となく手口が違う気がするのよね」
「……また別の策がある、ということか……?」
「さぁ、そこまでは解らないけど」
もどかしい。
あまりにも不明快で、頼りない推測。今まで、彼らの行動には何かしがの意味があった。ならば、この行動にも何かしがの意味があるというのか、もしくは霍乱のためか……。
「ともかく。ルナのことがあるんだし、数日は足止めを喰らうんでしょ?」
「……そうね。あたしたちはルナにとっては証人なわけだし。放っていくわけにいかないし」
「それに、奴らの手口の中では、その『月の館』の研究が二度使われた。三度目がないとも限らん。
そうなった場合、あの男の協力を得られた方が奴らの裏を掻き易くなるだろう」
「……何か屈辱的だけど」
「仕方ないだろう、私情は抑えろ」
むぅ、とカノンは息を吐く。
ふと、冷えた窓に気がついて、暗い空を覗き見る。か細い星が暗い光を放つ中で、幾分欠けた月が煌々と夜空を照らしていた。
←4へ
がんッ!!
カノンが鞘ごと振るったクレイソードが、屋台のポールを振り回していた男の脳天を捕らえる。衝撃に動きを止めた男は、間を置いてゆっくりと石畳に沈んだ。
「ったく、鬱陶しいわねー。どこでどう術がかけられてるか解んないし、どっかのおつむの弱い男は真っ先に洗脳されるし!」
「悪かったな!」
苛立った彼女の言葉に、後頭部に巨大なタンコブを張り付かせたアルティオが怒鳴り返す。
「おっほっほっほ、様ないわねぇアルティオ。もうちょっと頭の方も鍛えたらどうなのかしら?」
「あんただってただ単に、たまたま防護の印持ってただけでしょ」
「しかし、こう来られるとキリがないな。精神力の高い人間は正気を保っているらしいが……それも保護しきれん」
後ろ回し蹴りで近づいてきた男三人を同時に昏倒させながら、レンは眉間にしわを寄せる。殺気立った通りを改めて眺め、舌を打つ。
死屍累々と横たわる町人たち。まあ、勿論、死んではいないが。
「四人がかりだって限界があるわよ。大体、町のどこからどこまでがこのわけのわかんない魔法の効果範囲になってるか知れないし!
何の関係もない人間をここまで巻き込むなんて、やってること無茶苦茶じゃない……!」
きり―――ッ!
拳を握り、歯を軋ませる。
「仕方がない。何とか元を断つしかないだろう」
「どうやってよ!? どこから術がかけられてるかもわかんないのに!」
「落ち着け。俺たちが出来なくても、ルナ辺りなら魔力探査くらいは出来るかもしれん。
とりあえず、あいつを探すぞ」
「まったく、こんなときに……ッ! どこに行ったってのよッ!!」
悪態を吐いてはいるが、カノンの額に浮かんだ冷や汗が、最大限の焦燥を表している。
ルナがこの魔法に囚われているということはないだろう。人並み以上の精神力の持ち主であると同時に、彼女も魔道師だ。防護の印くらいは持っているはずだ。
しかし、だからこそ、戦い慣れしていないとはいえ、殺気立った一般人に囲まれて一人、という事態になっている可能性は高い。
彼女の魔法は破砕力が高いものが多い。彼女自身、攻撃型の呪文を得意とする。だが、それをこの状況で行使することは出来ない。
―――早く見つけないと……!
ばたばたと突進してくる男の顔面を蹴り倒しながら、カノンは通りの向こうを覗き、
「きゃあぁああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
背後から聞こえた、耳を劈くような悲鳴。
振り返ると、人だかりが見えた。いつもなら特に気にも留めないのだろう。しかし、今は場合が違う!
「あんの野郎らッ! 女の子をッ!!」
「あ、ちょっ、アルティオッ!!」
得物を振り上げる男女の中心に、身体を竦ませていた少女を目にした瞬間に、剣の鞘を振り上げたアルティオが集団の中へと突進していく。
頭を抱えながらカノンもそれに続いた。
「まったく、致し方ないな」
「面倒な奴ね、もう!」
振り上げたアルティオとカノンの鞘の柄から逃れた男を、手刀が捕らえていく。早口で唱えたシリアの氷結魔法が、残った町人たちの足を止めた。
「大丈夫!?」
「は、はい……」
魔道師風の少女だった。その顔を見て、ふと気づく。
「って、貴方、確か……」
「あ、あの、その……」
少女は慌ててよろめきながら立ち上がる。紺を基調にしたやや地味な印象を受けるローブ、それにかかる柔らかな蜂蜜色のセミロング。歳はカノンとそう変わらないだろうが、ややあどけない可愛らしい顔つきで、うっすらとそばかすの名残が見え隠れする。
見覚えがあった。
「あ、え、えっと、あの、有難うございます……ッ」
「貴方、確か道具屋の前で会った……。
って、ンなことはとりあえずいいか。とにかく、どっかに隠れて……」
「カノン」
少女とカノンを庇うように、レンが背を向けて立つ。舌を鳴らしたアルティオが、同じように立って双剣を構える。
「ひっ……」
「くッ……」
カノンもまた、少女を背に隠して二人の背中の向こうを睨んだ。ぱたぱたと駆け寄ってきたシリアもまた、カノンの背で小さく呪を唱え出す。
並んだ幾つもの生気のない顔。
それでいて、乾いた表情に宿るぎらついた闘争心。虚ろな目をした群衆が、手にそれぞれの、まちまちな得物を持ちながら町人の列が出来ていた。勿論、正気であるはずがない。
「囲まれたな」
「くっそ、どうすりゃいいんだよッ!?」
苦い表情で口にするレンと、激昂を隠さないアルティオ。
「シリア、頼むわよ」
「……」
小さく、眠りの呪を唱え続けるシリアに声をかける。きゅ、と背後に庇った少女の手が、カノンの服の裾を掴んだ。
かちゃり、とレンの構えた剣の柄が音を立て―――
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、陽炎の源、汝、支配を恐れるならば清浄なる水の祈りを捧げん……」
「!」
不気味な静寂を切るように、極涼やかに、テノールの詠唱が耳に入った。はっとして少女が顔を上げる。
「ちょっと、この詠唱……」
呪を途切れさせたシリアが驚愕の声を漏らす。カノンにも聞き覚えがあった。
それが何の呪か、判断すると同時に足元から柔らかな、淡い光が漏れる。奇怪な形をした光の紋章。術法の発動と共に浮き上がる、一種の魔方陣。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
「―――ッ!?」
目を焼くほどの閃光が、一瞬、辺りを包み込んだ。咄嗟に閉じた瞼越しでも、目に痛みが走る。少しだけ、くらり、と足がよろけた。
何度か目にしたことがある。あれは高位の浄化魔法だ。大抵の他の魔法の効果を無効化してしまう、普通、高位の神官や一部の巫女や法師が扱うもの。
光が収まるのを待って、カノンは目を開く。
がくりと膝をついた群衆。ふらふらと、安定感のない動作を繰り返しながら、空を仰いで皆、一様に首を傾げている。
彼らには解らないのだ。今、一体、何が起こっていたのか、が。
首を傾げ、口々に「何やってたんだ」、「さぁ?」などと呟きながらも人々は霧散していく。
その去っていく人波の向こうに、
「また会ったな。お嬢ちゃん」
「あ、あんた……ッ!」
「先輩ッ!!」
「へ……ッ?」
嘲り交じりに投げかけられたセリフへ、カノンが返すよりも先に、背中に隠れていた少女があたふたと飛び出していく。駆け寄った少女の頭を、白子の青年は軽く二度叩く。少女は潤んでいた目尻を拭って、俯いた。
「よう、連れが世話んなったみたいだな」
「あんた、何でここに……」
言いかけて、カノンははっとする。
「あんた!」
「あん?」
つかつかと靴を鳴らし、カノンは、レンとアルティオの背を押しのけて、青年へ詰め寄った。ひょうひょうと逸らした胸ぐらを掴みながら、
「女の子見なかったッ!? あんたのこと探してると思うんだけどッ!!」
「ああ?」
「すまんな、時間がない。手身近に訊く」
噛み付くカノンを押さえるようにして、レンが男の赤眼を睨むように覗く。
「ルナ=ディスナーという名に聞き覚えはあるか?」
「!」
「えッ……」
男の余裕の表情に、初めて驚愕が広がった。眉間に寄せたしわと、僅かにぴくりと動いた肩が、それを象徴していた。傍らに立っていた少女は、目を丸くして、信じられないものを見る目でレンを見上げる。
「知っているようだな」
「……だから何だ?」
「彼女があんたを探しにいったようだ。見かけていたら教えて欲しい」
「……生憎、見てねぇよ。つーかてめぇら、どこのどいつであいつとどんな関係だ?」
「それを訊きたいのはこっち……」
どぉぉぉんッ!!
『!!?』
漂った剣呑な雰囲気を切り裂くように。
通りの向こうから轟音が上がったのはそのときだった。
「―――ッ」
左腕に走る痛みを抑えながら立ち上がる。細かい石畳の破片が、二の腕を浅く抉っていた。
「ルナ殿!」
「かすり傷よ……。平気」
「……」
無表情に、黒髪の少女はこちらを眺めている。周囲には、既に幾つもの破壊の跡があった。
デルタが苦しげに呻いて、防護障壁を解除する。額には珠のような汗が浮かんでいた。
「しぶとい、です」
「今回は随分と直球じゃないの……前回まではあれだけ周到に歓迎してくれたってのにね!」
言い放つと同時に指を鳴らす。既に詠唱は終えている!
どんッ!!!
赤色の尾を引いた複数の光弾が、少女をめがけて飛来する。少女は僅かに眉を潜めただけで、すっ、と後ろへ引いた。
一瞬、光弾が滞空する。
「!」
胸を掠めた嫌な予感に、ルナはラーシャの袖を引き、デルタの背を押してその場に伏せる。
きゅどんッ!! どぉぉおおぉぉおぉぉんッ!!
「なッ……」
「くッ……相変わらず無茶苦茶ね!」
光弾はそのまま折り返すと、ルナたちの頭上へ降り注いだ。咄嗟に張った障壁で、何とか直撃は免れたが、何度も使えるような芸当ではない。
「無駄、です」
「ちッ!」
―――なら、時間稼ぎだけでも……ッ!
先ほどの轟音ならば、通りの向こう側でも聞こえるはず。それに気がつかないカノンたちではないだろう。
ならば、やることは時間稼ぎか、もしくは戦線離脱。
幸い、ラーシャは剣士としては一流以上の腕をしている。デルタはルナの不得手な防壁の呪法を得意としているようだった。
ならば切れるカードは一つではない。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
ルナの放った蒼い閃光が、周囲の石畳と街灯を凍り付かせる。張り付いた氷は、檻のように、少女とルナたちとの間を阻んだ。
「逃げるわよ!」
「良いのか!?」
「あんな無茶苦茶な奴、こんな公衆で相手にしてらんないわよッ!!」
踵を返したルナと、立ち上がったラーシャとデルタが同時に駆け出す。だが、その背を眺めながら、
「……無駄」
少女は僅かに右手を振るわせる。
……ぱき、ぱきぱきぱきぱきぃんッ!!
張られた氷に、無数の白いひびが入った。振り返りながらそれを見たデルタの顔に、驚愕が広がる。
「何ですかあれは……! そんな無茶な……」
「だから無茶だ、って言ってんでしょうがッ!!」
走り出しながら、ルナは次の呪を口ずさむ。
ぱきぃぃぃんッ!!
「逃がさ、ない、です」
それが完成するより先に、砕けた氷を踏みつけて、少女がぱたぱたと走る。軽やかに走っているだけのそれは、しかし、思うより速度が速い。
加えて、少女にとって距離は差たる意味を持たなかった。
「お返し、です」
少女の前に、無数の氷の粒が浮かぶ。
―――くッ!
呪文は、間に合わない!
「……紅に咲く華々に求む。劫火の果てに尽きる声よ」
「!?」
歯を軋ませたルナは、傍らから響く声に顔を上げる。詠唱を終えたラーシャは、立ち止まり、振り返る。
眼前には、少女が生み出した幾つもの氷の粒!
「昇華[ヴァーニング]―――!!」
ごぅッ!!
「!」
珍しく、驚いた表情の少女と同じように、ルナも言葉をなくす。
昇華―――カノンと魔変換[ガストチャージ]のように、けして魔法ではない。特定の人間のみが持つ、異能力。
何もない虚空から自然発火を起こし、またその炎を自在に操る、戦闘に特化した能力。
滅多にあるものではない。かく言うルナも、実際に目にしたのは初めてだった。
生み出された炎は、氷の粒をすべて呑みこみ、生み出されたときと同じように、虚空に掻き消える。
「ラーシャ、あんた……」
「話は後だ。逃げるのだろう?」
「そ、そうね!」
我に返ったルナは唱えかけた呪を再び紡ぎながら、踵を返す。だが、少女はそれよりも早く立ち直り、今一度、手を振った。
「!」
「ラーシャ様ッ!」
黒い影が、三人の両脇の足元を駆け抜けた。それは三人の前方で形を成して、くぐもった雄叫びを上げる。
全身は黒というか、影。そう、影だ。影そのものが、歪な牙や角を生やして、地面から生えている。
異様な光景だった。細い輪郭を描いた、ただの影が、凶悪な顎をこちらに向けているのだから。
ぎ……ぎぎぎ……
羽虫が上げるような奇妙な怪音。歯を噛み締めて、ラーシャは刃を抜く。はっ、としてデルタが後方に防御壁を張ろうと試みる。
が、そのときにはもう、少女の生み出した影と同じ色をした複数の刃が背後に迫っていた。
―――これまでか……ッ
迫る衝撃に、ルナが覚悟を決めたときだった。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
―――え……?
低いテノールの声と共に、周囲が一瞬、閃光に瞬いた。その中で、少女の動きも止まる。
反射的に身を固くしながら、耳に入った声を、呪文を胸中で繰り返す。
―――今の呪文……それに、あの声は……。けど、そんなはず、そんなわけ……
「……くッ」
閃光に目が眩んだのか、少女の体が傾ぐ。影の獣は、光の中で既に消えていた。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
ラーシャが抜き身の剣を携えて、少女の方へ地を蹴った。しかし、
「……」
「!?」
少女は無感情な目でその刃を眺め、そして、ゆらりと身体を倒す。
空に解けるように、その小柄な身体は、目の前から消え失せた。ラーシャの剣は虚しく空を切り、半壊した石畳を叩く。
手応えのない剣に、ラーシャは茫然としてその場に立ち尽くした。
「今のは……一体…」
「ルナッ!!」
トーンの高い少女の声が、彼女の名を呼んだ。顔を上げると、金の髪を揺らしながら幼馴染の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
「カノン……」
「ったく、何やってんのよ! 今がどんな状況か解ってるでしょうがッ!!」
「なッ! ちょっと、あんたに言われたくないし! あたしだってね……」
「る、ルナ、ちゃん……?」
「―――!?」
彼女の背後から聞こえた、か細い声に、ぴたりとルナの張り上げた声が止まる。こつ、と響く靴音。
気がついて、カノンがこちらの視界からずれた。茫然とした栗色の瞳と目が合った。
ルナよりも背は低く、紺色のローブに柔らかそうな蜂蜜色の髪が垂れている。浮かべた表情は、どこか自身と言うものに欠けていて、うっすらと残ったそばかすがあどけない。
―――う、ウソ、でしょ……
「い………イリー…ナ……?」
「ルナちゃん? ルナちゃん、なんだよね……!?」
「な、何で、あんたがここに……」
「ルナちゃんッ!!」
両目の端に雫を浮かべた少女は、肩を震わせて感極まったように、走り出す。そのまま慌てて逸れたカノンの横を抜けると、腕を伸ばして抱きついて来た。
ぎゅう、と力を込めてしがみつかれる。
「な、ちょ、い、イリーナ……ッ!」
「良かった、ルナちゃん……生きてた、ほんとに、生きててくれた……ッ! ふ、う、うぇぇ……ッ!
ルナちゃん、ほんとに…良かった、良かったよぉ……ふぇ……」
「あんた…どうして……」
「だって、だってルナちゃん……私たちだけ置いて……。自分だけ、えぐッ…先輩助けに行って……帰って来ないから……ふ、ぅうぅうううッ!」
事情の解らないカノンは目を白黒させることしか出来なかった。その幼馴染に気がついて、とりあえずは落ち着かせようと張り付いたままの少女を宥めて拘束を解かせる。
「ち、ちょっとルナ……。あたし、全然事情が把握出来てないんだけど……」
「わ、解ってる。解ってるけど、ちょっとま……」
頭の中を整理しようと、問いかけるカノンと泣き続ける少女を制しようとした。
けれど、
その刹那。
「…………くッ、こりゃあ参ったな」
「・・・!」
鼓膜を叩いたテノールの声。
あの呪文を編み出した、低い、どこか嘲りを含んだ響き。
それは聞き覚えのある声だった。
いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。
最初は大嫌いだった。
人を馬鹿にして、これっぽちも思いやりのある言動なんかしなくて、デリカシーもなくて、人の気にしてることはむしろ好んでずけずけ言ってくる。最低だと思っていた。そう、ちょうどさっきのカノンと同じ。
特に、組織を離脱してからは聞きたくもない声だった。
時には頭の中の幻聴で響いた。それがこの上なく嫌だった。
それが聞こえる気がする度に、僅かに抱いた期待が、結局は裏切られることを知っていたから。
二度と、聞くことは出来ないかもしれない。そう覚悟してきた。その方が、楽に生きられる。自身の幻想に裏切られないで済む。
だから。
そんなはずはないのだ。
その声が、こんな間近で、痛む左腕が夢ではないと告げているのに、聞こえるはずが―――
「てっきりわけのわからねぇ連中のホラ話だと思ったのによ……。世の中、妙なこともあるもんじゃねぇか」
幻聴の靴音がする。
そんなはずはない。
そんな、はずが、ないのだ。だって、だって、あのとき彼は―――!
ぐいッ。
「―――ッ!」
「何だ、冷てぇな。イリーナのことは覚えてても、俺のことは忘れたのか?」
腕を引かれて、ただでさえ軽い身体がいとも簡単に引き寄せられる。つんのめったと思ったら、今度は無理矢理上を向かされた。
沈みかけた夕刻の日が、色素のない髪に反射して金にも銀にも見える、不思議な光を放っていた。
雪に等しい色をした肌に、薄い唇は記憶と寸分違わない笑みを浮かべている。
そして、
「……よう、久しいな」
「………ぅ、う、そ、…でしょ……」
ようやく出た声は掠れていた。
視界に映ったのは、細められた、切れ長の、
血の色をそのまま映した、真紅の瞳―――
「……思い出したか?」
「………ぁ、ぅ……」
そんなはずはない。
忘れるわけが、ない。
「か………か、カシ、…ス……?」
「……」
すっかり乾いた声が紡ぎ出した名に、男は満足げに、口元だけで笑んだ。
「……俺以外の誰に見える?」
「な……なん……なん、で……」
「こっちのセリフだ。長い間、どこほっつき歩いていやがった」
がらがらと、音を立てて壁が崩れていく。必死に張り詰めていた糸が、ぷつん、と切れる音を、どこかで聞いた。
久しく忘れていた、熱いものが、身体の奥から込み上げた。
「……イリーナ…、カシス……」
「そうだよ、ルナちゃん。先輩も私も、ちゃんと生きてるよ。本当に、いるんだよ?」
目尻に涙を残したままで、ずっと傍らに立っていた少女が満面の笑みを浮かべて、こちらを覗きこんだ。
それが、五年以上も前の、彼女の中の、安らかな記憶と完全に一致した。
がくり、と膝から力が抜ける。
「る、ルナちゃん!?」
「何やってんだ、お前?」
「……………ッうるさい!!」
「!」
目の前の白衣の胸倉を掴み返して、思わず怒鳴りつけた。涙交じりの声だったことは、知らない。
「ほんッ…とに、あんたたちは……ッ! どれだけ…ッ、どれだけ人を心配させたら、……ッ、ぅ、ふぅ………ぅううぅううッ!」
「ルナちゃん……」
「……」
堰を切って流れ出した雫は、どれだけ歯を食い縛っても止まってはくれなかった。だから、上を向くのを止めて、誰が顔を上げてやるかと俯いた。
呆れた溜め息が聞こえた。
乱暴な手つきが、髪を掻き乱す。
その手に、一時。
甘えるように、彼女は少しだけ、泣いた。
←3へ
カノンが鞘ごと振るったクレイソードが、屋台のポールを振り回していた男の脳天を捕らえる。衝撃に動きを止めた男は、間を置いてゆっくりと石畳に沈んだ。
「ったく、鬱陶しいわねー。どこでどう術がかけられてるか解んないし、どっかのおつむの弱い男は真っ先に洗脳されるし!」
「悪かったな!」
苛立った彼女の言葉に、後頭部に巨大なタンコブを張り付かせたアルティオが怒鳴り返す。
「おっほっほっほ、様ないわねぇアルティオ。もうちょっと頭の方も鍛えたらどうなのかしら?」
「あんただってただ単に、たまたま防護の印持ってただけでしょ」
「しかし、こう来られるとキリがないな。精神力の高い人間は正気を保っているらしいが……それも保護しきれん」
後ろ回し蹴りで近づいてきた男三人を同時に昏倒させながら、レンは眉間にしわを寄せる。殺気立った通りを改めて眺め、舌を打つ。
死屍累々と横たわる町人たち。まあ、勿論、死んではいないが。
「四人がかりだって限界があるわよ。大体、町のどこからどこまでがこのわけのわかんない魔法の効果範囲になってるか知れないし!
何の関係もない人間をここまで巻き込むなんて、やってること無茶苦茶じゃない……!」
きり―――ッ!
拳を握り、歯を軋ませる。
「仕方がない。何とか元を断つしかないだろう」
「どうやってよ!? どこから術がかけられてるかもわかんないのに!」
「落ち着け。俺たちが出来なくても、ルナ辺りなら魔力探査くらいは出来るかもしれん。
とりあえず、あいつを探すぞ」
「まったく、こんなときに……ッ! どこに行ったってのよッ!!」
悪態を吐いてはいるが、カノンの額に浮かんだ冷や汗が、最大限の焦燥を表している。
ルナがこの魔法に囚われているということはないだろう。人並み以上の精神力の持ち主であると同時に、彼女も魔道師だ。防護の印くらいは持っているはずだ。
しかし、だからこそ、戦い慣れしていないとはいえ、殺気立った一般人に囲まれて一人、という事態になっている可能性は高い。
彼女の魔法は破砕力が高いものが多い。彼女自身、攻撃型の呪文を得意とする。だが、それをこの状況で行使することは出来ない。
―――早く見つけないと……!
ばたばたと突進してくる男の顔面を蹴り倒しながら、カノンは通りの向こうを覗き、
「きゃあぁああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
背後から聞こえた、耳を劈くような悲鳴。
振り返ると、人だかりが見えた。いつもなら特に気にも留めないのだろう。しかし、今は場合が違う!
「あんの野郎らッ! 女の子をッ!!」
「あ、ちょっ、アルティオッ!!」
得物を振り上げる男女の中心に、身体を竦ませていた少女を目にした瞬間に、剣の鞘を振り上げたアルティオが集団の中へと突進していく。
頭を抱えながらカノンもそれに続いた。
「まったく、致し方ないな」
「面倒な奴ね、もう!」
振り上げたアルティオとカノンの鞘の柄から逃れた男を、手刀が捕らえていく。早口で唱えたシリアの氷結魔法が、残った町人たちの足を止めた。
「大丈夫!?」
「は、はい……」
魔道師風の少女だった。その顔を見て、ふと気づく。
「って、貴方、確か……」
「あ、あの、その……」
少女は慌ててよろめきながら立ち上がる。紺を基調にしたやや地味な印象を受けるローブ、それにかかる柔らかな蜂蜜色のセミロング。歳はカノンとそう変わらないだろうが、ややあどけない可愛らしい顔つきで、うっすらとそばかすの名残が見え隠れする。
見覚えがあった。
「あ、え、えっと、あの、有難うございます……ッ」
「貴方、確か道具屋の前で会った……。
って、ンなことはとりあえずいいか。とにかく、どっかに隠れて……」
「カノン」
少女とカノンを庇うように、レンが背を向けて立つ。舌を鳴らしたアルティオが、同じように立って双剣を構える。
「ひっ……」
「くッ……」
カノンもまた、少女を背に隠して二人の背中の向こうを睨んだ。ぱたぱたと駆け寄ってきたシリアもまた、カノンの背で小さく呪を唱え出す。
並んだ幾つもの生気のない顔。
それでいて、乾いた表情に宿るぎらついた闘争心。虚ろな目をした群衆が、手にそれぞれの、まちまちな得物を持ちながら町人の列が出来ていた。勿論、正気であるはずがない。
「囲まれたな」
「くっそ、どうすりゃいいんだよッ!?」
苦い表情で口にするレンと、激昂を隠さないアルティオ。
「シリア、頼むわよ」
「……」
小さく、眠りの呪を唱え続けるシリアに声をかける。きゅ、と背後に庇った少女の手が、カノンの服の裾を掴んだ。
かちゃり、とレンの構えた剣の柄が音を立て―――
「―――時を統べるもの、大地を統べるもの、宙を統べるもの、生命を統べるもの。
久遠を制する零弦の遙か、陽炎の源、汝、支配を恐れるならば清浄なる水の祈りを捧げん……」
「!」
不気味な静寂を切るように、極涼やかに、テノールの詠唱が耳に入った。はっとして少女が顔を上げる。
「ちょっと、この詠唱……」
呪を途切れさせたシリアが驚愕の声を漏らす。カノンにも聞き覚えがあった。
それが何の呪か、判断すると同時に足元から柔らかな、淡い光が漏れる。奇怪な形をした光の紋章。術法の発動と共に浮き上がる、一種の魔方陣。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
「―――ッ!?」
目を焼くほどの閃光が、一瞬、辺りを包み込んだ。咄嗟に閉じた瞼越しでも、目に痛みが走る。少しだけ、くらり、と足がよろけた。
何度か目にしたことがある。あれは高位の浄化魔法だ。大抵の他の魔法の効果を無効化してしまう、普通、高位の神官や一部の巫女や法師が扱うもの。
光が収まるのを待って、カノンは目を開く。
がくりと膝をついた群衆。ふらふらと、安定感のない動作を繰り返しながら、空を仰いで皆、一様に首を傾げている。
彼らには解らないのだ。今、一体、何が起こっていたのか、が。
首を傾げ、口々に「何やってたんだ」、「さぁ?」などと呟きながらも人々は霧散していく。
その去っていく人波の向こうに、
「また会ったな。お嬢ちゃん」
「あ、あんた……ッ!」
「先輩ッ!!」
「へ……ッ?」
嘲り交じりに投げかけられたセリフへ、カノンが返すよりも先に、背中に隠れていた少女があたふたと飛び出していく。駆け寄った少女の頭を、白子の青年は軽く二度叩く。少女は潤んでいた目尻を拭って、俯いた。
「よう、連れが世話んなったみたいだな」
「あんた、何でここに……」
言いかけて、カノンははっとする。
「あんた!」
「あん?」
つかつかと靴を鳴らし、カノンは、レンとアルティオの背を押しのけて、青年へ詰め寄った。ひょうひょうと逸らした胸ぐらを掴みながら、
「女の子見なかったッ!? あんたのこと探してると思うんだけどッ!!」
「ああ?」
「すまんな、時間がない。手身近に訊く」
噛み付くカノンを押さえるようにして、レンが男の赤眼を睨むように覗く。
「ルナ=ディスナーという名に聞き覚えはあるか?」
「!」
「えッ……」
男の余裕の表情に、初めて驚愕が広がった。眉間に寄せたしわと、僅かにぴくりと動いた肩が、それを象徴していた。傍らに立っていた少女は、目を丸くして、信じられないものを見る目でレンを見上げる。
「知っているようだな」
「……だから何だ?」
「彼女があんたを探しにいったようだ。見かけていたら教えて欲しい」
「……生憎、見てねぇよ。つーかてめぇら、どこのどいつであいつとどんな関係だ?」
「それを訊きたいのはこっち……」
どぉぉぉんッ!!
『!!?』
漂った剣呑な雰囲気を切り裂くように。
通りの向こうから轟音が上がったのはそのときだった。
「―――ッ」
左腕に走る痛みを抑えながら立ち上がる。細かい石畳の破片が、二の腕を浅く抉っていた。
「ルナ殿!」
「かすり傷よ……。平気」
「……」
無表情に、黒髪の少女はこちらを眺めている。周囲には、既に幾つもの破壊の跡があった。
デルタが苦しげに呻いて、防護障壁を解除する。額には珠のような汗が浮かんでいた。
「しぶとい、です」
「今回は随分と直球じゃないの……前回まではあれだけ周到に歓迎してくれたってのにね!」
言い放つと同時に指を鳴らす。既に詠唱は終えている!
どんッ!!!
赤色の尾を引いた複数の光弾が、少女をめがけて飛来する。少女は僅かに眉を潜めただけで、すっ、と後ろへ引いた。
一瞬、光弾が滞空する。
「!」
胸を掠めた嫌な予感に、ルナはラーシャの袖を引き、デルタの背を押してその場に伏せる。
きゅどんッ!! どぉぉおおぉぉおぉぉんッ!!
「なッ……」
「くッ……相変わらず無茶苦茶ね!」
光弾はそのまま折り返すと、ルナたちの頭上へ降り注いだ。咄嗟に張った障壁で、何とか直撃は免れたが、何度も使えるような芸当ではない。
「無駄、です」
「ちッ!」
―――なら、時間稼ぎだけでも……ッ!
先ほどの轟音ならば、通りの向こう側でも聞こえるはず。それに気がつかないカノンたちではないだろう。
ならば、やることは時間稼ぎか、もしくは戦線離脱。
幸い、ラーシャは剣士としては一流以上の腕をしている。デルタはルナの不得手な防壁の呪法を得意としているようだった。
ならば切れるカードは一つではない。
「我求む、生み出すは青き冷厳、縛れフリーズ・フリージアッ!!」
かきこきぃぃぃぃんッ!!!
ルナの放った蒼い閃光が、周囲の石畳と街灯を凍り付かせる。張り付いた氷は、檻のように、少女とルナたちとの間を阻んだ。
「逃げるわよ!」
「良いのか!?」
「あんな無茶苦茶な奴、こんな公衆で相手にしてらんないわよッ!!」
踵を返したルナと、立ち上がったラーシャとデルタが同時に駆け出す。だが、その背を眺めながら、
「……無駄」
少女は僅かに右手を振るわせる。
……ぱき、ぱきぱきぱきぱきぃんッ!!
張られた氷に、無数の白いひびが入った。振り返りながらそれを見たデルタの顔に、驚愕が広がる。
「何ですかあれは……! そんな無茶な……」
「だから無茶だ、って言ってんでしょうがッ!!」
走り出しながら、ルナは次の呪を口ずさむ。
ぱきぃぃぃんッ!!
「逃がさ、ない、です」
それが完成するより先に、砕けた氷を踏みつけて、少女がぱたぱたと走る。軽やかに走っているだけのそれは、しかし、思うより速度が速い。
加えて、少女にとって距離は差たる意味を持たなかった。
「お返し、です」
少女の前に、無数の氷の粒が浮かぶ。
―――くッ!
呪文は、間に合わない!
「……紅に咲く華々に求む。劫火の果てに尽きる声よ」
「!?」
歯を軋ませたルナは、傍らから響く声に顔を上げる。詠唱を終えたラーシャは、立ち止まり、振り返る。
眼前には、少女が生み出した幾つもの氷の粒!
「昇華[ヴァーニング]―――!!」
ごぅッ!!
「!」
珍しく、驚いた表情の少女と同じように、ルナも言葉をなくす。
昇華―――カノンと魔変換[ガストチャージ]のように、けして魔法ではない。特定の人間のみが持つ、異能力。
何もない虚空から自然発火を起こし、またその炎を自在に操る、戦闘に特化した能力。
滅多にあるものではない。かく言うルナも、実際に目にしたのは初めてだった。
生み出された炎は、氷の粒をすべて呑みこみ、生み出されたときと同じように、虚空に掻き消える。
「ラーシャ、あんた……」
「話は後だ。逃げるのだろう?」
「そ、そうね!」
我に返ったルナは唱えかけた呪を再び紡ぎながら、踵を返す。だが、少女はそれよりも早く立ち直り、今一度、手を振った。
「!」
「ラーシャ様ッ!」
黒い影が、三人の両脇の足元を駆け抜けた。それは三人の前方で形を成して、くぐもった雄叫びを上げる。
全身は黒というか、影。そう、影だ。影そのものが、歪な牙や角を生やして、地面から生えている。
異様な光景だった。細い輪郭を描いた、ただの影が、凶悪な顎をこちらに向けているのだから。
ぎ……ぎぎぎ……
羽虫が上げるような奇妙な怪音。歯を噛み締めて、ラーシャは刃を抜く。はっ、としてデルタが後方に防御壁を張ろうと試みる。
が、そのときにはもう、少女の生み出した影と同じ色をした複数の刃が背後に迫っていた。
―――これまでか……ッ
迫る衝撃に、ルナが覚悟を決めたときだった。
「我望む、安らかな永遠へ誘うは浄化の儀式、祈れセイクリッドブレイク!」
―――え……?
低いテノールの声と共に、周囲が一瞬、閃光に瞬いた。その中で、少女の動きも止まる。
反射的に身を固くしながら、耳に入った声を、呪文を胸中で繰り返す。
―――今の呪文……それに、あの声は……。けど、そんなはず、そんなわけ……
「……くッ」
閃光に目が眩んだのか、少女の体が傾ぐ。影の獣は、光の中で既に消えていた。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
ラーシャが抜き身の剣を携えて、少女の方へ地を蹴った。しかし、
「……」
「!?」
少女は無感情な目でその刃を眺め、そして、ゆらりと身体を倒す。
空に解けるように、その小柄な身体は、目の前から消え失せた。ラーシャの剣は虚しく空を切り、半壊した石畳を叩く。
手応えのない剣に、ラーシャは茫然としてその場に立ち尽くした。
「今のは……一体…」
「ルナッ!!」
トーンの高い少女の声が、彼女の名を呼んだ。顔を上げると、金の髪を揺らしながら幼馴染の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
「カノン……」
「ったく、何やってんのよ! 今がどんな状況か解ってるでしょうがッ!!」
「なッ! ちょっと、あんたに言われたくないし! あたしだってね……」
「る、ルナ、ちゃん……?」
「―――!?」
彼女の背後から聞こえた、か細い声に、ぴたりとルナの張り上げた声が止まる。こつ、と響く靴音。
気がついて、カノンがこちらの視界からずれた。茫然とした栗色の瞳と目が合った。
ルナよりも背は低く、紺色のローブに柔らかそうな蜂蜜色の髪が垂れている。浮かべた表情は、どこか自身と言うものに欠けていて、うっすらと残ったそばかすがあどけない。
―――う、ウソ、でしょ……
「い………イリー…ナ……?」
「ルナちゃん? ルナちゃん、なんだよね……!?」
「な、何で、あんたがここに……」
「ルナちゃんッ!!」
両目の端に雫を浮かべた少女は、肩を震わせて感極まったように、走り出す。そのまま慌てて逸れたカノンの横を抜けると、腕を伸ばして抱きついて来た。
ぎゅう、と力を込めてしがみつかれる。
「な、ちょ、い、イリーナ……ッ!」
「良かった、ルナちゃん……生きてた、ほんとに、生きててくれた……ッ! ふ、う、うぇぇ……ッ!
ルナちゃん、ほんとに…良かった、良かったよぉ……ふぇ……」
「あんた…どうして……」
「だって、だってルナちゃん……私たちだけ置いて……。自分だけ、えぐッ…先輩助けに行って……帰って来ないから……ふ、ぅうぅうううッ!」
事情の解らないカノンは目を白黒させることしか出来なかった。その幼馴染に気がついて、とりあえずは落ち着かせようと張り付いたままの少女を宥めて拘束を解かせる。
「ち、ちょっとルナ……。あたし、全然事情が把握出来てないんだけど……」
「わ、解ってる。解ってるけど、ちょっとま……」
頭の中を整理しようと、問いかけるカノンと泣き続ける少女を制しようとした。
けれど、
その刹那。
「…………くッ、こりゃあ参ったな」
「・・・!」
鼓膜を叩いたテノールの声。
あの呪文を編み出した、低い、どこか嘲りを含んだ響き。
それは聞き覚えのある声だった。
いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。
最初は大嫌いだった。
人を馬鹿にして、これっぽちも思いやりのある言動なんかしなくて、デリカシーもなくて、人の気にしてることはむしろ好んでずけずけ言ってくる。最低だと思っていた。そう、ちょうどさっきのカノンと同じ。
特に、組織を離脱してからは聞きたくもない声だった。
時には頭の中の幻聴で響いた。それがこの上なく嫌だった。
それが聞こえる気がする度に、僅かに抱いた期待が、結局は裏切られることを知っていたから。
二度と、聞くことは出来ないかもしれない。そう覚悟してきた。その方が、楽に生きられる。自身の幻想に裏切られないで済む。
だから。
そんなはずはないのだ。
その声が、こんな間近で、痛む左腕が夢ではないと告げているのに、聞こえるはずが―――
「てっきりわけのわからねぇ連中のホラ話だと思ったのによ……。世の中、妙なこともあるもんじゃねぇか」
幻聴の靴音がする。
そんなはずはない。
そんな、はずが、ないのだ。だって、だって、あのとき彼は―――!
ぐいッ。
「―――ッ!」
「何だ、冷てぇな。イリーナのことは覚えてても、俺のことは忘れたのか?」
腕を引かれて、ただでさえ軽い身体がいとも簡単に引き寄せられる。つんのめったと思ったら、今度は無理矢理上を向かされた。
沈みかけた夕刻の日が、色素のない髪に反射して金にも銀にも見える、不思議な光を放っていた。
雪に等しい色をした肌に、薄い唇は記憶と寸分違わない笑みを浮かべている。
そして、
「……よう、久しいな」
「………ぅ、う、そ、…でしょ……」
ようやく出た声は掠れていた。
視界に映ったのは、細められた、切れ長の、
血の色をそのまま映した、真紅の瞳―――
「……思い出したか?」
「………ぁ、ぅ……」
そんなはずはない。
忘れるわけが、ない。
「か………か、カシ、…ス……?」
「……」
すっかり乾いた声が紡ぎ出した名に、男は満足げに、口元だけで笑んだ。
「……俺以外の誰に見える?」
「な……なん……なん、で……」
「こっちのセリフだ。長い間、どこほっつき歩いていやがった」
がらがらと、音を立てて壁が崩れていく。必死に張り詰めていた糸が、ぷつん、と切れる音を、どこかで聞いた。
久しく忘れていた、熱いものが、身体の奥から込み上げた。
「……イリーナ…、カシス……」
「そうだよ、ルナちゃん。先輩も私も、ちゃんと生きてるよ。本当に、いるんだよ?」
目尻に涙を残したままで、ずっと傍らに立っていた少女が満面の笑みを浮かべて、こちらを覗きこんだ。
それが、五年以上も前の、彼女の中の、安らかな記憶と完全に一致した。
がくり、と膝から力が抜ける。
「る、ルナちゃん!?」
「何やってんだ、お前?」
「……………ッうるさい!!」
「!」
目の前の白衣の胸倉を掴み返して、思わず怒鳴りつけた。涙交じりの声だったことは、知らない。
「ほんッ…とに、あんたたちは……ッ! どれだけ…ッ、どれだけ人を心配させたら、……ッ、ぅ、ふぅ………ぅううぅううッ!」
「ルナちゃん……」
「……」
堰を切って流れ出した雫は、どれだけ歯を食い縛っても止まってはくれなかった。だから、上を向くのを止めて、誰が顔を上げてやるかと俯いた。
呆れた溜め息が聞こえた。
乱暴な手つきが、髪を掻き乱す。
その手に、一時。
甘えるように、彼女は少しだけ、泣いた。
←3へ
ルナは目の前の門を見上げながらひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、またでかいわね」
「主人であるディオル=フランシスは、この辺一帯の商人を束ねる豪族らしい。最も、評判の芳しいものは聞かなかったが」
嫌悪感からか、表情を歪めてラーシャ=フィロ=ソルトは吐き捨てるように言う。
ぴしゃりと締められた黒の装飾も美しい高い門、外壁は軽く町の数ブロックを囲っており、門の向こう側にはやたらと丁寧に手入れされた芝生が広がっている。
「……こういう無駄に立派な屋敷を見ると、無意味に全壊させてみたくなるわね」
「いや、あの……」
「冗談よ、冗談。まあ、それはいいとして。何だっけか?」
「ディオル=フランシスには、エイロネイアへの武器の密輸の疑いがかけられています」
いい加減、見上げるのに疲れてきた黒門を睨みながら、デルタが答える。
内心焦りながら、門の内側をぐるぐると回っている警備員を見るが、特に反応がないところを見ると、聞こえてはいないらしい。
「武器の密輸、って……まあ、確かに隠れてやってるなら密輸にはなるだろうけど……
あんたたちの国でそれ、犯罪として裁けるの? 勝手に港を占領して、利益を独占してる貿易、ってんなら、確かにこっちの国では裁けるだろうけどさ」
小声で問いかけると、その意図を汲んだらしいラーシャが、同じように声を潜めて口を開く。
「……確かにエイロネイアは国として独立宣言をしたが、それは公式的なものではなく、ただの反逆の声明に他ならない。
シンシアにとっては、今も両国はゼルゼイルという一つの国なのだ。
国に隠れての非公式な危険物の貿易は犯罪以外の何物でもない」
「けどねー、エイロネイアは既に一つの国として機能できる財源やら国土やらを所有してるわけでしょ? シンシアにとっての常識が、エイロネイアや大陸人の常識と同じとは限らないわよ」
「では、不当な武具の取引が正当化されるというのですかッ?」
「大声出しなさんなって。ものの考え方次第ではそういう恐れもある、ってこと。
実際、戦真っ最中のゼルゼイル内で裁くってのは難しいけど、帝国の中では立派に犯罪なんだから、帝国内で暴露すれば何とでもなるんじゃない? 証拠があればの話だけど」
「帝国内で、か……」
「要するにあんたたちは、エイロネイアが密輸で武器を購入して、戦力の増強を図ってるのを止めたいわけでしょ?
なら、帝国を利用した方が大国からの信用も得られるわけだし。まあ、武器商人一人、捕まえた程度で戦争に加担なんて馬鹿な真似はしないだろうけど、物資の規制の緩和にくらいは繋がるんじゃない? どっちにしても、プラスになりこそすれ、マイナスになることはないわよ」
「な……なるほど」
やや押されながらも、ラーシャは口篭りながら頷く。ルナはふぅ、と短く息を吐き、
「あんた……本当に軍人なのね。こういう仕事、馴れてないでしょ」
「う゛っ……」
図星だったらしい。彼女は、うろたえながら呻いて、傍らのデルタはどうフォローしようか視線を迷わせている。
やがてラーシャは言い訳を諦めたように首を振り、
「……すまない。どうも私は他人との交渉だとか、取引だとか、そういったものには不慣れでな。
どちらかと言えば、前線で軍策を練って、切り込む役を負う方が多くて……」
「……まあ、それはそれで重要な役目なんだろうけど。よくこの任務、引き受ける気になったわね」
「今回は貴方方とコンタクトを取るのも重要だったからな。粗相のないように人選されたそうだが……どうにも馴れず」
「ゼルゼイルって国自体が閉鎖的な性格持っちゃってるんだし、仕方ないって言えば仕方ないけどね……」
「……しかし、いつまでもその性格を引き摺るわけにもいくまい。
和平を締結した暁には、軍事よりもそちらの方が重要になってくる。和平締結はあくまで第一段階にしか過ぎん」
「ふぅん……」
きっぱりと言い放った彼女に、ルナは感心したように息を吐く。総統のアイリーンとやらが、彼女を重んじて採用している意味が、ほんの少しだけ解った気がした。
かちゃり……
ルナが継いで言葉を発そうと口を開いたとき。
小さな金属音が響いた。肩を強張らせて門を見ると、厳重に閉ざされていたそれがゆっくりと開いていくところだった。
開く門の向こうには、やや血色の悪い貧相な顔の男。着ているものは似合わない執事服で、何かちぐはぐな印象を受ける男だ。
「ああ、すいません。私は―――」
「……ラーシャ=フィロ=ソルト様、ですね? お待ちしておりました……どうぞ」
「あ……」
一方的にそう宣言すると、男は唐突に踵を返し、広大な庭を豪奢な玄関に向かい、歩いていく。ラーシャは眉間にしわを寄せ、問うような目でルナとデルタを見た。
デルタは不快そうに男の背を眺め、ルナは小首を傾げて疑問、というよりは呆れの意味で肩を竦める。歓迎されていないのが丸解りだ。
―――随分、上等な対応じゃないの……こりゃ手ごわいかもな。
一抹の不安を抱きながら、ルナは一つ、舌打ちする。妙に晴れた空を見上げてから、門をくぐるべく、足を進めた。
「……何事よ?」
夕食の席に現れたルナは、開口一番、そう問いた。
目を三角に吊り上げた不機嫌極まりない妹分が、テーブルについて普段の三割増し程度で料理を喰らい尽しつつあったからである。
今日、彼女と共に行動していたはずのシリアに問いかけの視線を向ける。
彼女は困ったように肩を竦めて、
「今日、道具屋に行ったのよ」
「知ってる。何、結局、剣鎌[カリオソード]、直んなかったの?」
「まあ、そこの店主は直せなかったわ。だから、ちょうどたまたま居合わせた腕のいい男の人に直してもらったんですって」
「なら、良かったじゃない」
「良くないわよッ!!」
がしゃんッ、と両手を付くと共にテーブルの上の皿が踊る。アルティオが慌ててテーブルを支えて、レンはちゃっかり自分の分だけを保護していた。
カノンは立ち上がり、ルナの鼻先へ指を突きつけながら、
「何の関係もない初対面の人間の、長年連れ添った相棒とも言える武具を取り上げたりする普通ッ!?
いきなりよッ!? 何だか知らないけど、魔道技師ならそこら辺の戦士の矜持、ってもんを理解しておくべきじゃないの!? 直してくれたことには感謝するとして、何、あの態度! こんな状況じゃなかったら、セクハラで訴えてやろうかと思ったわよッ!!」
「……まあ、何だかわかんないけど。とりあえず、直してもらったはいいけど、そいつの態度が限りなくムカついた、と。で、そんな奴に借りが出来たみたいで尚更ムカつく、と」
「そうよッ!!」
素晴らしい読解力で状況を読み取ったルナは表情を引き攣らせる。
まあ、実際、いるのだ。世の中には。特に魔道師という人種は、引き篭もって研究をやっている者も数多くいる。魔道技師なんか特にそうだ。だから目で見ている世の中で狭くて、世渡りというものが上手くなく、依頼人やスポンサーとトラブルが耐えないといったケースはよく聞く。
いくら腕が立っていても、名が知られていない魔道師や魔道技師が結構いたりするのはそういうことだ。旅の途中の魔道技師がそういう性格というのは、些か珍しいが。
一息で説明を終えたカノンが、再びどすんッ、と席に着く。
「まあまあ、カノンちゃん、武器も直ったんだし、そうかりかりするもんじゃないわぁ。
それにあの人、かなりの美形だったじゃない♪」
「まあ……確かにそうだけど」
「へぇ?」
頷きながら、少し驚く。
恋愛沙汰には限りなく疎いが、実はカノンの美形の判断基準はかなり高い。ここら辺は常日頃、共に旅をしているどこかの男が、軽く標準を上回っていることに起因するのだろう。大抵、カノンが『顔がいい』、と言った男は誰の目から見ても標準以上だったりするのである。
珍しい話題に興味が惹かれないわけがない。
「確かに天は二物を与えないとは良く言ったもんだわ。顔はともかく、態度も性格もムカつくったらありゃしない」
「魔道技師としての腕がいいなら、二物というか三物を与えずになるんじゃあ……?
まあ、いいや。それで、どんなヤツだったの?」
「……珍しい風体のヤツだったわよ。格好良い、っていうか綺麗、っていうか……」
「へー、あんたがそんなに言うなんて珍しい」
からからと笑って吐きながら、注文のために近くのウエイトレスを呼ぼうと片手を上げる。
「私も見たけど、あれはモテるわよ。確かに珍しかったわ。髪は銀、っていうかきっと白ね。瞳は朱かったから、あれはきっと白子[アルビノ]、ってヤツよ。私も初めて見たけど、世の中にいるものなのねぇ……」
「・・・!」
陶酔半分で言ったシリアの言葉に、上げかけたルナの片手が止まる。それを見て、レンがグラスから口を離して眉を潜めた。
「はッ! そんな男ッ! きっと中身は最悪に決まってるじゃねぇか! 男は顔じゃねぇ、中身で勝負だッ!!」
「だからさっきから性格は最悪だった、って言ってんじゃ……
って、ルナ、どうかしたの?」
「……」
完全に動きを止めた彼女に気がついて、カノンが声をかける。しかし、彼女は余所の空を見つめたまま、茫然と上げかけた手もそのままに、動こうとしなかった。
「ね、ねぇ、ちょっとルナ……?」
「………白子の、…………魔道、技師……」
「へ? る……」
もう一度、名前を呼びかけて。
カノンの声は本人によって止められた。胸倉を掴まんばかりの勢いで振り返った彼女は、身を乗り出して、先ほどとは逆にカノンに指を突きつけたのだ。
「どこの道具屋ッ!?」
「へ? えーっと、今日行ったのはメインストリートの割と大きな……」
「場所はッ!」
「時計台の近くで、隣はカフェでそこでお茶して帰って来たけど……」
「そいつ歳はッ!? どんな格好で、どんな風に直したのッ!? そしてその後どこ行ったのッ!?」
「えっと、職人にしては若くてたぶん、二十五出るか出ないかくらいで……、で、白い服着て、ものの十分、二十分で直して調整までやってくれて………さすがにどこ行ったかまでは……
って、ちょっと待った待った待ったッ!! 何々、一体何ッ!? あんた、知り合いかなんかなのッ?
何でそんな興奮してんのよッ? 落ち着きなさいって……ッ!」
がっしりと肩を掴む手を、宥めながら外させる。ふっ、と力が抜けると、彼女はやはり茫然としたままで、両手をテーブルに着いた。
体が、小刻みに震えている。
「る、ルナ……?」
「お、おい、ルナ……?」
「…………………シス」
「へ? あ、ちょっとッ!?」
テーブルを押しのけて、彼女は唐突に立ち上がる。有無を言わさず踵を返し、カノンの静止の声も聞かずに表へ飛び出した。
ばたんッ、とかなり大きな音を立てて店の扉が閉まる。
止めるために伸ばした手をそのままに、カノンは茫然とその場で硬直する他なかった。
「な……何、一体……?」
「………」
「……追いかけましょ」
「へ?」
「この状況で放って置くわけにもいかないでしょ? どこから狙われるか解ったものじゃないんだし」
「そ、それはそうだけど……」
いつになく、冷静にシリアが言う。秀麗な眉を潜めて、ルナが出て行った扉を見つめる。無言でレンも立ち上がり、立てかけていた剣を取る。
その意味を図ることが出来ないカノンとアルティオは、狐につままれたような表情で顔を見合わせた。
走りすぎて足がじんじん痛んでいることに気が付いたのは、つい先ほどだった。
自分の情けなさに嫌気が差す。
足の裏を苛む痛みに耐え切れず、側の花壇のへりに腰を落とす。時刻は既に夕刻で、メインストリートは昼間とは正反対に、帰り支度の町人がまばらに行き交うだけだった。
高揚した後は、何故だか体が鉛のように重い。
カノンたちが立ち寄っただろうと思われる道具屋に走り込み、店主に件の男について詰め寄ったのがついさっき。
だが、目立つ風貌の男を覚えてはいても、今どこにいるかなど知り得るようなことじゃない。
そんなこと、少し考えれば解ることなのに。
―――ほんと、馬鹿。
自分が。
大体、そんな風貌の男なんて、それは滅多にいないだろうが、世の中に一人だけ存在するわけじゃない。何の確証もないまま飛び出すなんて、カノンに何も言えた義理じゃない。
―――戻ろ……
そうは思っても、足が動いてくれなかった。
期待した自分が許せない。
諦めたつもりだった。期待するだけ、無駄だと。世界はそうそう都合良く存在するものじゃない。
いるはずが、ないのだ。こんな場所に。
「―――ッ!」
苦い液体が、喉の奥まで上がってくる。それは体の熱を上げ、目尻に熱いものを呼んだ。
馬鹿げている。
そうだ、自分がここで生きているだけでも、奇跡なのだ。
あのとき。
ルナが二年の歳月を過ごした『月の館』は一瞬のうちに業火に包まれた。
修練された魔道師が多々居る場所としても、外部のあちこちから放火されれば手は回らない。気が付いたときは、逃げ場無く、炎によって館内に閉じこめられた人間が殆どだった。
そんな場所から生き残ったのも奇跡だし、その後はその組織にこき使われもしたが、カノンたちと再会し、またこうしてアゼルフィリーの旧友と過ごせているのも奇跡。犯罪組織のリーダーだったニードに囚われていた姉も無事で、今は両親と共に故郷で暮らしている。
だから。
なんという幸運。
なんという奇跡。
だから、これ以上、奇跡なんて起こるわけがない。
「―――」
吐き出した息が、未練なく消える。
今、生きて、カノンたちの輪の中にいられる。ルナ自身、居心地が悪い場所だとは思っていない。ルナは間違いなく幸運で、恵まれているのだ。これ以上、何を望むのか。望んでいる自分がひどく、浅ましい。
「―――……綺麗に、なったな」
しばらく見ない間に、妹分の幼馴染は随分と女らしくなった。狩人の任から解き放たれて、そればかりに従事して生きていた身だから、些か心配していたがその心配も杞憂。
当たり前か。狩人の宿命がなくなっても、相棒と、彼と共に生き抜いた五年間はなくならない。
「……羨ましい」
吐露してしまった本音に、口を押さえる。
ルナは知っている。
そういった年月を重ねようと、日常的な幸せというのはある日、ぽっきり他人によってもぎ取られてしまうものだと。
何も悪くなくても。
どんなに努力を重ねても。
そのときは、唐突に、いきなり来たりする。来て欲しくもないのに。
だから、彼女が早く不動の幸せを手に出来るよう促した。余計なお世話と知っていても、自分なりに茶化しながら、出来る限り。
一日も早く自分の気持ちに気が付かなくては駄目なのだ。
そうしなければ、後悔する。自分のように。
だから、たとえ、気が狂いそうなほど、羨ましくても。
「……戻らないと、ね」
走ったせいでずれてしまった羽飾りを差し直す。触れた白羽根の柔らかさに、心臓が潰される。
「―――ッ!」
水で目の前が歪む。幻惑の炎がちらつく。振り切るように、無理矢理目元を拭ってふらり、と立ち上がった。
そのとき、だった。
ぐらッ―――
「―――ッ!?」
立ち上がると同時に体が傾いだ。体の変調、ではない。地震のように立っている石畳全体が揺らいだのでもない。
何かが、空間そのものが、反転するような、そんな感覚。
知らない人間なら、そんな表現はしないだろう。だが、激動を生きたルナは、その感覚を知っていた。
広範囲に、何かしがの術がかけられた。
その範疇にいるときに、たとえ標的となっていなくても、人間は本能的に異変と危険を悟る。
魔道師であるルナは、その一歩先を読むことが出来る、というだけ。
「―――ッ、一体……」
妙な感覚は一瞬だけ。後はすべてが元のまま、平常を保っている。だからこそ、不気味な空気を感じる。
広がるメインストリートの石畳。まだ点灯していない街灯、CLOSEの札がかけられたカフェと花屋、夕食時で意気込んでいるはずの酒場。
「・・・?」
人の声がしない。
首を回すと、農作業の帰りなのか、くわを担いだ農夫と買い物籠を下げた婦人がふと歩みを止めた。
何かに気が付いたわけでもなく、呼び止められたわけでもなく。
そればかりではない。
座り込み、たむろしていた青年たち、犬の散歩をしていた中年の女性、宿屋の前で呼び込みをしていた少年……
そのすべてが動きを止めていた。
時間が止まっている、なんて馬鹿げたことではない。ただ、動作を止めているのだ。震えることすらせずに。
「これは……」
ルナの額に脂汗が浮かぶ。かつり、と一歩、誰かが石畳を鳴らした。
刹那、
「ぅ…ぅ、ぅあ、ああああああああああああああああああッ!!」
「!?」
たむろしてた青年たちの中の一人が、唐突に懐から抜いたナイフを振り上げた。ルナの背に、戦慄が走る。
その刃は、同じくたむろしていた仲間へと、向けられていた。
「我望む、駆けるは無垢なる虞風の旋律、吹けヴァイオレントゲイルッ!」
ごおおぉぉおんッ!!!
間一髪、ルナの放った強風は青年たちをグループごと吹き飛ばし、すぐ側の宿屋の壁へと打ち付ける。軽い怪我くらいはしているかもしれないが、刃での流血沙汰より余程ましだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間、
「!?」
びゅんッ!!
背中越しの殺気に、ルナは咄嗟にその場に伏せる。
その首があった場所を、鋭利に手入れのされたくわの刃が通過する。
「くッ!」
片手を石畳につきながら、くわを振るった農夫へ足払いをかける。カノンやレンのように威力のあるものはかけられない。それでも戦闘などには縁のない農夫は、あっさり転がった。ルナは迷い無くその手からくわを掬って、脳天を蹴り倒す。
昏倒した農夫が石畳に蹲る。
「ちょっと…何、冗談じゃないわよ……ッ!」
青ざめた顔でルナが振り返ると、そこは既に戦場だった。
「ぁ、ぁぁあぁあああぁッ!」
「らぁぁぁああぁあああッ!!」
血の気の多い青年たちが殴りあっているだけならまだ解る。割と何処にでも転がっている、思春期の暴走だ。
しかし、目の前に広がっているのは、ヒステリックに叫びながら買い物籠を振り回す中年女性、三歩に使っていたハーネスを奪い合う女性と男性、意味をなさない殴り合いに興じる少年と少女。
闘争心をむき出しに、何の関係も遺恨もないはずの町人たちが、意味も無く争い合う姿。
「な、何で……ッ!」
考える間もなく、植木鉢が正面から投げつけられた。慌てて交わすと、今度は中途半端に固められた拳が襲ってくる。
「く……ッ!」
相手は民間人だ。大怪我をさせるわけにもいかない。
紙一重で交わしたルナは、拳を繰り出した男の鳩尾を狙い、蹴りを放つ。堪え性のない男の身体はころり、と地面に転がった。起き上がるより前に、首筋を叩いて昏倒させる。
間髪居れず、襲ってきたハーネスの紐を掴んで放り投げると、ルナは高速で印を切る。
「我誘う、幽玄に奏でるは睡歌の調べ、眠れスリーピングッ!!」
ルナを中心にして、一瞬、青の方陣が広がる。殴り合いを続けていた人々は、ぴたり、と動きを止めて、折り重なるようにその場に伏していく。
あとは規則正しい寝息を立てるだけだ。
肩で息を吐いて、汚れた服を払う。
「ルナ殿!!」
「!」
見知った声が、後方から呼び止めた。振り返ると、夕刻、別れて来たばかりのシンシアの女性騎士が鞘に抑えられたままの剣を下げてこちらに走って来ていた。その後ろには従者の少年の姿も見える。
だが、
ばたんッ!!
「!?」
視界を遮るように酒場の扉が開く。溢れるように飛び出して来たのは、闘争心に目をぎらつかせた粗暴な男たち。
意識のない瞳が、ラーシャとデルタの姿を捉える。
「く……ッ!」
民間人を、それも他国の人間を無用に傷つけるわけにはいかない。ラーシャは刃を鞘に収めたままで、男たちが手にしていた空瓶や長柄のモップを振り払い、あるいは割り落とし、
『スリーピングッ!』
デルタとルナの声が唱和する。ラーシャは咄嗟に浮き上がった魔方陣の外まで引いた。
どさり、と音を立てて倒れ伏す男たち。
「すまない、助かった」
「どういたしまして。ところであんたたちは何ともないの?」
「ええ、何とも……おそらく、王国から預かった防護の呪符のおかげだと思いますが」
言ってデルタは胸に掲げた紋章を指して見せる。傍目からは解らないが、あれは呪符であったらしい。
「なるほどね……そりゃ、心強いわ」
「しかし、一体どういうことだ? 戦場ならばともかく、一般人がこのような……」
「たぶん、人間の感情のリミッターを狂わせる広範囲の魔法がかけられてんのね……。幻霊術が何かの応用だと思うけど、こんな質の悪いもんは並の人間じゃかけられないはずなのに……!」
ひくり、とルナの眉が動く。それは何度か経験した感覚だった。
「伏せてッ!!」
ご……ッ!!
ルナの声が飛び、ラーシャとデルタが反射的にその場を離れたとき。
視えない"何か"が深く、石畳を抉る。円状に広がる破砕の跡。ひび割れた石畳に、ルナの中に既視感が生まれる。
「な、何だッ!?」
「ちッ!」
舌打ちをして、横っ飛びに逃れる。ルナの背後にあった街灯が、すっぱりと、鋭利な刃物に切り取られたかのように折れて轟音を立てた。
ルナは通りの向こうを見やり、そして気づく。
こつッ……
小さな革靴の音。破壊の広がるメインストリートの真ん中に、いつぞやにように気配も無く、彼女は立っていた。
まだ幼い、黒の衣装を纏った長髪の少女。
見覚えがあるどころか、幾度か対峙し、そして破れなかった。その記憶は、忘れるには苦い思い出だ。
「子供……ッ?」
ラーシャが茫然と声を上げる。だが、ルナは知っている。この少女が、見た目どおりの可愛らしいイキモノではないことを。
「……また、会ったわね」
「……です」
ぽつり、と少女はルナの言葉を返し、ゆっくりと片手を挙げた。
←2へ
「こりゃあ、またでかいわね」
「主人であるディオル=フランシスは、この辺一帯の商人を束ねる豪族らしい。最も、評判の芳しいものは聞かなかったが」
嫌悪感からか、表情を歪めてラーシャ=フィロ=ソルトは吐き捨てるように言う。
ぴしゃりと締められた黒の装飾も美しい高い門、外壁は軽く町の数ブロックを囲っており、門の向こう側にはやたらと丁寧に手入れされた芝生が広がっている。
「……こういう無駄に立派な屋敷を見ると、無意味に全壊させてみたくなるわね」
「いや、あの……」
「冗談よ、冗談。まあ、それはいいとして。何だっけか?」
「ディオル=フランシスには、エイロネイアへの武器の密輸の疑いがかけられています」
いい加減、見上げるのに疲れてきた黒門を睨みながら、デルタが答える。
内心焦りながら、門の内側をぐるぐると回っている警備員を見るが、特に反応がないところを見ると、聞こえてはいないらしい。
「武器の密輸、って……まあ、確かに隠れてやってるなら密輸にはなるだろうけど……
あんたたちの国でそれ、犯罪として裁けるの? 勝手に港を占領して、利益を独占してる貿易、ってんなら、確かにこっちの国では裁けるだろうけどさ」
小声で問いかけると、その意図を汲んだらしいラーシャが、同じように声を潜めて口を開く。
「……確かにエイロネイアは国として独立宣言をしたが、それは公式的なものではなく、ただの反逆の声明に他ならない。
シンシアにとっては、今も両国はゼルゼイルという一つの国なのだ。
国に隠れての非公式な危険物の貿易は犯罪以外の何物でもない」
「けどねー、エイロネイアは既に一つの国として機能できる財源やら国土やらを所有してるわけでしょ? シンシアにとっての常識が、エイロネイアや大陸人の常識と同じとは限らないわよ」
「では、不当な武具の取引が正当化されるというのですかッ?」
「大声出しなさんなって。ものの考え方次第ではそういう恐れもある、ってこと。
実際、戦真っ最中のゼルゼイル内で裁くってのは難しいけど、帝国の中では立派に犯罪なんだから、帝国内で暴露すれば何とでもなるんじゃない? 証拠があればの話だけど」
「帝国内で、か……」
「要するにあんたたちは、エイロネイアが密輸で武器を購入して、戦力の増強を図ってるのを止めたいわけでしょ?
なら、帝国を利用した方が大国からの信用も得られるわけだし。まあ、武器商人一人、捕まえた程度で戦争に加担なんて馬鹿な真似はしないだろうけど、物資の規制の緩和にくらいは繋がるんじゃない? どっちにしても、プラスになりこそすれ、マイナスになることはないわよ」
「な……なるほど」
やや押されながらも、ラーシャは口篭りながら頷く。ルナはふぅ、と短く息を吐き、
「あんた……本当に軍人なのね。こういう仕事、馴れてないでしょ」
「う゛っ……」
図星だったらしい。彼女は、うろたえながら呻いて、傍らのデルタはどうフォローしようか視線を迷わせている。
やがてラーシャは言い訳を諦めたように首を振り、
「……すまない。どうも私は他人との交渉だとか、取引だとか、そういったものには不慣れでな。
どちらかと言えば、前線で軍策を練って、切り込む役を負う方が多くて……」
「……まあ、それはそれで重要な役目なんだろうけど。よくこの任務、引き受ける気になったわね」
「今回は貴方方とコンタクトを取るのも重要だったからな。粗相のないように人選されたそうだが……どうにも馴れず」
「ゼルゼイルって国自体が閉鎖的な性格持っちゃってるんだし、仕方ないって言えば仕方ないけどね……」
「……しかし、いつまでもその性格を引き摺るわけにもいくまい。
和平を締結した暁には、軍事よりもそちらの方が重要になってくる。和平締結はあくまで第一段階にしか過ぎん」
「ふぅん……」
きっぱりと言い放った彼女に、ルナは感心したように息を吐く。総統のアイリーンとやらが、彼女を重んじて採用している意味が、ほんの少しだけ解った気がした。
かちゃり……
ルナが継いで言葉を発そうと口を開いたとき。
小さな金属音が響いた。肩を強張らせて門を見ると、厳重に閉ざされていたそれがゆっくりと開いていくところだった。
開く門の向こうには、やや血色の悪い貧相な顔の男。着ているものは似合わない執事服で、何かちぐはぐな印象を受ける男だ。
「ああ、すいません。私は―――」
「……ラーシャ=フィロ=ソルト様、ですね? お待ちしておりました……どうぞ」
「あ……」
一方的にそう宣言すると、男は唐突に踵を返し、広大な庭を豪奢な玄関に向かい、歩いていく。ラーシャは眉間にしわを寄せ、問うような目でルナとデルタを見た。
デルタは不快そうに男の背を眺め、ルナは小首を傾げて疑問、というよりは呆れの意味で肩を竦める。歓迎されていないのが丸解りだ。
―――随分、上等な対応じゃないの……こりゃ手ごわいかもな。
一抹の不安を抱きながら、ルナは一つ、舌打ちする。妙に晴れた空を見上げてから、門をくぐるべく、足を進めた。
「……何事よ?」
夕食の席に現れたルナは、開口一番、そう問いた。
目を三角に吊り上げた不機嫌極まりない妹分が、テーブルについて普段の三割増し程度で料理を喰らい尽しつつあったからである。
今日、彼女と共に行動していたはずのシリアに問いかけの視線を向ける。
彼女は困ったように肩を竦めて、
「今日、道具屋に行ったのよ」
「知ってる。何、結局、剣鎌[カリオソード]、直んなかったの?」
「まあ、そこの店主は直せなかったわ。だから、ちょうどたまたま居合わせた腕のいい男の人に直してもらったんですって」
「なら、良かったじゃない」
「良くないわよッ!!」
がしゃんッ、と両手を付くと共にテーブルの上の皿が踊る。アルティオが慌ててテーブルを支えて、レンはちゃっかり自分の分だけを保護していた。
カノンは立ち上がり、ルナの鼻先へ指を突きつけながら、
「何の関係もない初対面の人間の、長年連れ添った相棒とも言える武具を取り上げたりする普通ッ!?
いきなりよッ!? 何だか知らないけど、魔道技師ならそこら辺の戦士の矜持、ってもんを理解しておくべきじゃないの!? 直してくれたことには感謝するとして、何、あの態度! こんな状況じゃなかったら、セクハラで訴えてやろうかと思ったわよッ!!」
「……まあ、何だかわかんないけど。とりあえず、直してもらったはいいけど、そいつの態度が限りなくムカついた、と。で、そんな奴に借りが出来たみたいで尚更ムカつく、と」
「そうよッ!!」
素晴らしい読解力で状況を読み取ったルナは表情を引き攣らせる。
まあ、実際、いるのだ。世の中には。特に魔道師という人種は、引き篭もって研究をやっている者も数多くいる。魔道技師なんか特にそうだ。だから目で見ている世の中で狭くて、世渡りというものが上手くなく、依頼人やスポンサーとトラブルが耐えないといったケースはよく聞く。
いくら腕が立っていても、名が知られていない魔道師や魔道技師が結構いたりするのはそういうことだ。旅の途中の魔道技師がそういう性格というのは、些か珍しいが。
一息で説明を終えたカノンが、再びどすんッ、と席に着く。
「まあまあ、カノンちゃん、武器も直ったんだし、そうかりかりするもんじゃないわぁ。
それにあの人、かなりの美形だったじゃない♪」
「まあ……確かにそうだけど」
「へぇ?」
頷きながら、少し驚く。
恋愛沙汰には限りなく疎いが、実はカノンの美形の判断基準はかなり高い。ここら辺は常日頃、共に旅をしているどこかの男が、軽く標準を上回っていることに起因するのだろう。大抵、カノンが『顔がいい』、と言った男は誰の目から見ても標準以上だったりするのである。
珍しい話題に興味が惹かれないわけがない。
「確かに天は二物を与えないとは良く言ったもんだわ。顔はともかく、態度も性格もムカつくったらありゃしない」
「魔道技師としての腕がいいなら、二物というか三物を与えずになるんじゃあ……?
まあ、いいや。それで、どんなヤツだったの?」
「……珍しい風体のヤツだったわよ。格好良い、っていうか綺麗、っていうか……」
「へー、あんたがそんなに言うなんて珍しい」
からからと笑って吐きながら、注文のために近くのウエイトレスを呼ぼうと片手を上げる。
「私も見たけど、あれはモテるわよ。確かに珍しかったわ。髪は銀、っていうかきっと白ね。瞳は朱かったから、あれはきっと白子[アルビノ]、ってヤツよ。私も初めて見たけど、世の中にいるものなのねぇ……」
「・・・!」
陶酔半分で言ったシリアの言葉に、上げかけたルナの片手が止まる。それを見て、レンがグラスから口を離して眉を潜めた。
「はッ! そんな男ッ! きっと中身は最悪に決まってるじゃねぇか! 男は顔じゃねぇ、中身で勝負だッ!!」
「だからさっきから性格は最悪だった、って言ってんじゃ……
って、ルナ、どうかしたの?」
「……」
完全に動きを止めた彼女に気がついて、カノンが声をかける。しかし、彼女は余所の空を見つめたまま、茫然と上げかけた手もそのままに、動こうとしなかった。
「ね、ねぇ、ちょっとルナ……?」
「………白子の、…………魔道、技師……」
「へ? る……」
もう一度、名前を呼びかけて。
カノンの声は本人によって止められた。胸倉を掴まんばかりの勢いで振り返った彼女は、身を乗り出して、先ほどとは逆にカノンに指を突きつけたのだ。
「どこの道具屋ッ!?」
「へ? えーっと、今日行ったのはメインストリートの割と大きな……」
「場所はッ!」
「時計台の近くで、隣はカフェでそこでお茶して帰って来たけど……」
「そいつ歳はッ!? どんな格好で、どんな風に直したのッ!? そしてその後どこ行ったのッ!?」
「えっと、職人にしては若くてたぶん、二十五出るか出ないかくらいで……、で、白い服着て、ものの十分、二十分で直して調整までやってくれて………さすがにどこ行ったかまでは……
って、ちょっと待った待った待ったッ!! 何々、一体何ッ!? あんた、知り合いかなんかなのッ?
何でそんな興奮してんのよッ? 落ち着きなさいって……ッ!」
がっしりと肩を掴む手を、宥めながら外させる。ふっ、と力が抜けると、彼女はやはり茫然としたままで、両手をテーブルに着いた。
体が、小刻みに震えている。
「る、ルナ……?」
「お、おい、ルナ……?」
「…………………シス」
「へ? あ、ちょっとッ!?」
テーブルを押しのけて、彼女は唐突に立ち上がる。有無を言わさず踵を返し、カノンの静止の声も聞かずに表へ飛び出した。
ばたんッ、とかなり大きな音を立てて店の扉が閉まる。
止めるために伸ばした手をそのままに、カノンは茫然とその場で硬直する他なかった。
「な……何、一体……?」
「………」
「……追いかけましょ」
「へ?」
「この状況で放って置くわけにもいかないでしょ? どこから狙われるか解ったものじゃないんだし」
「そ、それはそうだけど……」
いつになく、冷静にシリアが言う。秀麗な眉を潜めて、ルナが出て行った扉を見つめる。無言でレンも立ち上がり、立てかけていた剣を取る。
その意味を図ることが出来ないカノンとアルティオは、狐につままれたような表情で顔を見合わせた。
走りすぎて足がじんじん痛んでいることに気が付いたのは、つい先ほどだった。
自分の情けなさに嫌気が差す。
足の裏を苛む痛みに耐え切れず、側の花壇のへりに腰を落とす。時刻は既に夕刻で、メインストリートは昼間とは正反対に、帰り支度の町人がまばらに行き交うだけだった。
高揚した後は、何故だか体が鉛のように重い。
カノンたちが立ち寄っただろうと思われる道具屋に走り込み、店主に件の男について詰め寄ったのがついさっき。
だが、目立つ風貌の男を覚えてはいても、今どこにいるかなど知り得るようなことじゃない。
そんなこと、少し考えれば解ることなのに。
―――ほんと、馬鹿。
自分が。
大体、そんな風貌の男なんて、それは滅多にいないだろうが、世の中に一人だけ存在するわけじゃない。何の確証もないまま飛び出すなんて、カノンに何も言えた義理じゃない。
―――戻ろ……
そうは思っても、足が動いてくれなかった。
期待した自分が許せない。
諦めたつもりだった。期待するだけ、無駄だと。世界はそうそう都合良く存在するものじゃない。
いるはずが、ないのだ。こんな場所に。
「―――ッ!」
苦い液体が、喉の奥まで上がってくる。それは体の熱を上げ、目尻に熱いものを呼んだ。
馬鹿げている。
そうだ、自分がここで生きているだけでも、奇跡なのだ。
あのとき。
ルナが二年の歳月を過ごした『月の館』は一瞬のうちに業火に包まれた。
修練された魔道師が多々居る場所としても、外部のあちこちから放火されれば手は回らない。気が付いたときは、逃げ場無く、炎によって館内に閉じこめられた人間が殆どだった。
そんな場所から生き残ったのも奇跡だし、その後はその組織にこき使われもしたが、カノンたちと再会し、またこうしてアゼルフィリーの旧友と過ごせているのも奇跡。犯罪組織のリーダーだったニードに囚われていた姉も無事で、今は両親と共に故郷で暮らしている。
だから。
なんという幸運。
なんという奇跡。
だから、これ以上、奇跡なんて起こるわけがない。
「―――」
吐き出した息が、未練なく消える。
今、生きて、カノンたちの輪の中にいられる。ルナ自身、居心地が悪い場所だとは思っていない。ルナは間違いなく幸運で、恵まれているのだ。これ以上、何を望むのか。望んでいる自分がひどく、浅ましい。
「―――……綺麗に、なったな」
しばらく見ない間に、妹分の幼馴染は随分と女らしくなった。狩人の任から解き放たれて、そればかりに従事して生きていた身だから、些か心配していたがその心配も杞憂。
当たり前か。狩人の宿命がなくなっても、相棒と、彼と共に生き抜いた五年間はなくならない。
「……羨ましい」
吐露してしまった本音に、口を押さえる。
ルナは知っている。
そういった年月を重ねようと、日常的な幸せというのはある日、ぽっきり他人によってもぎ取られてしまうものだと。
何も悪くなくても。
どんなに努力を重ねても。
そのときは、唐突に、いきなり来たりする。来て欲しくもないのに。
だから、彼女が早く不動の幸せを手に出来るよう促した。余計なお世話と知っていても、自分なりに茶化しながら、出来る限り。
一日も早く自分の気持ちに気が付かなくては駄目なのだ。
そうしなければ、後悔する。自分のように。
だから、たとえ、気が狂いそうなほど、羨ましくても。
「……戻らないと、ね」
走ったせいでずれてしまった羽飾りを差し直す。触れた白羽根の柔らかさに、心臓が潰される。
「―――ッ!」
水で目の前が歪む。幻惑の炎がちらつく。振り切るように、無理矢理目元を拭ってふらり、と立ち上がった。
そのとき、だった。
ぐらッ―――
「―――ッ!?」
立ち上がると同時に体が傾いだ。体の変調、ではない。地震のように立っている石畳全体が揺らいだのでもない。
何かが、空間そのものが、反転するような、そんな感覚。
知らない人間なら、そんな表現はしないだろう。だが、激動を生きたルナは、その感覚を知っていた。
広範囲に、何かしがの術がかけられた。
その範疇にいるときに、たとえ標的となっていなくても、人間は本能的に異変と危険を悟る。
魔道師であるルナは、その一歩先を読むことが出来る、というだけ。
「―――ッ、一体……」
妙な感覚は一瞬だけ。後はすべてが元のまま、平常を保っている。だからこそ、不気味な空気を感じる。
広がるメインストリートの石畳。まだ点灯していない街灯、CLOSEの札がかけられたカフェと花屋、夕食時で意気込んでいるはずの酒場。
「・・・?」
人の声がしない。
首を回すと、農作業の帰りなのか、くわを担いだ農夫と買い物籠を下げた婦人がふと歩みを止めた。
何かに気が付いたわけでもなく、呼び止められたわけでもなく。
そればかりではない。
座り込み、たむろしていた青年たち、犬の散歩をしていた中年の女性、宿屋の前で呼び込みをしていた少年……
そのすべてが動きを止めていた。
時間が止まっている、なんて馬鹿げたことではない。ただ、動作を止めているのだ。震えることすらせずに。
「これは……」
ルナの額に脂汗が浮かぶ。かつり、と一歩、誰かが石畳を鳴らした。
刹那、
「ぅ…ぅ、ぅあ、ああああああああああああああああああッ!!」
「!?」
たむろしてた青年たちの中の一人が、唐突に懐から抜いたナイフを振り上げた。ルナの背に、戦慄が走る。
その刃は、同じくたむろしていた仲間へと、向けられていた。
「我望む、駆けるは無垢なる虞風の旋律、吹けヴァイオレントゲイルッ!」
ごおおぉぉおんッ!!!
間一髪、ルナの放った強風は青年たちをグループごと吹き飛ばし、すぐ側の宿屋の壁へと打ち付ける。軽い怪我くらいはしているかもしれないが、刃での流血沙汰より余程ましだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間、
「!?」
びゅんッ!!
背中越しの殺気に、ルナは咄嗟にその場に伏せる。
その首があった場所を、鋭利に手入れのされたくわの刃が通過する。
「くッ!」
片手を石畳につきながら、くわを振るった農夫へ足払いをかける。カノンやレンのように威力のあるものはかけられない。それでも戦闘などには縁のない農夫は、あっさり転がった。ルナは迷い無くその手からくわを掬って、脳天を蹴り倒す。
昏倒した農夫が石畳に蹲る。
「ちょっと…何、冗談じゃないわよ……ッ!」
青ざめた顔でルナが振り返ると、そこは既に戦場だった。
「ぁ、ぁぁあぁあああぁッ!」
「らぁぁぁああぁあああッ!!」
血の気の多い青年たちが殴りあっているだけならまだ解る。割と何処にでも転がっている、思春期の暴走だ。
しかし、目の前に広がっているのは、ヒステリックに叫びながら買い物籠を振り回す中年女性、三歩に使っていたハーネスを奪い合う女性と男性、意味をなさない殴り合いに興じる少年と少女。
闘争心をむき出しに、何の関係も遺恨もないはずの町人たちが、意味も無く争い合う姿。
「な、何で……ッ!」
考える間もなく、植木鉢が正面から投げつけられた。慌てて交わすと、今度は中途半端に固められた拳が襲ってくる。
「く……ッ!」
相手は民間人だ。大怪我をさせるわけにもいかない。
紙一重で交わしたルナは、拳を繰り出した男の鳩尾を狙い、蹴りを放つ。堪え性のない男の身体はころり、と地面に転がった。起き上がるより前に、首筋を叩いて昏倒させる。
間髪居れず、襲ってきたハーネスの紐を掴んで放り投げると、ルナは高速で印を切る。
「我誘う、幽玄に奏でるは睡歌の調べ、眠れスリーピングッ!!」
ルナを中心にして、一瞬、青の方陣が広がる。殴り合いを続けていた人々は、ぴたり、と動きを止めて、折り重なるようにその場に伏していく。
あとは規則正しい寝息を立てるだけだ。
肩で息を吐いて、汚れた服を払う。
「ルナ殿!!」
「!」
見知った声が、後方から呼び止めた。振り返ると、夕刻、別れて来たばかりのシンシアの女性騎士が鞘に抑えられたままの剣を下げてこちらに走って来ていた。その後ろには従者の少年の姿も見える。
だが、
ばたんッ!!
「!?」
視界を遮るように酒場の扉が開く。溢れるように飛び出して来たのは、闘争心に目をぎらつかせた粗暴な男たち。
意識のない瞳が、ラーシャとデルタの姿を捉える。
「く……ッ!」
民間人を、それも他国の人間を無用に傷つけるわけにはいかない。ラーシャは刃を鞘に収めたままで、男たちが手にしていた空瓶や長柄のモップを振り払い、あるいは割り落とし、
『スリーピングッ!』
デルタとルナの声が唱和する。ラーシャは咄嗟に浮き上がった魔方陣の外まで引いた。
どさり、と音を立てて倒れ伏す男たち。
「すまない、助かった」
「どういたしまして。ところであんたたちは何ともないの?」
「ええ、何とも……おそらく、王国から預かった防護の呪符のおかげだと思いますが」
言ってデルタは胸に掲げた紋章を指して見せる。傍目からは解らないが、あれは呪符であったらしい。
「なるほどね……そりゃ、心強いわ」
「しかし、一体どういうことだ? 戦場ならばともかく、一般人がこのような……」
「たぶん、人間の感情のリミッターを狂わせる広範囲の魔法がかけられてんのね……。幻霊術が何かの応用だと思うけど、こんな質の悪いもんは並の人間じゃかけられないはずなのに……!」
ひくり、とルナの眉が動く。それは何度か経験した感覚だった。
「伏せてッ!!」
ご……ッ!!
ルナの声が飛び、ラーシャとデルタが反射的にその場を離れたとき。
視えない"何か"が深く、石畳を抉る。円状に広がる破砕の跡。ひび割れた石畳に、ルナの中に既視感が生まれる。
「な、何だッ!?」
「ちッ!」
舌打ちをして、横っ飛びに逃れる。ルナの背後にあった街灯が、すっぱりと、鋭利な刃物に切り取られたかのように折れて轟音を立てた。
ルナは通りの向こうを見やり、そして気づく。
こつッ……
小さな革靴の音。破壊の広がるメインストリートの真ん中に、いつぞやにように気配も無く、彼女は立っていた。
まだ幼い、黒の衣装を纏った長髪の少女。
見覚えがあるどころか、幾度か対峙し、そして破れなかった。その記憶は、忘れるには苦い思い出だ。
「子供……ッ?」
ラーシャが茫然と声を上げる。だが、ルナは知っている。この少女が、見た目どおりの可愛らしいイキモノではないことを。
「……また、会ったわね」
「……です」
ぽつり、と少女はルナの言葉を返し、ゆっくりと片手を挙げた。
←2へ
「さすがに大きな町だけあって、二、三軒はあるのねぇ」
「まあ、地方都市だし、中央に比べたら少ない方じゃないかしらね。いいデザインのものがあるといいんだけどぉ」
そんな会話を交わしながら、カノンとシリアは人込み溢れる昼間のメインストリートを縫うようにして歩く。
探しているのは道具屋だった。
クオノリアでも、ランカースでも、少々武器を酷使してしまったせいか、折り畳み式である剣鎌のどこかの螺子が緩んでしまっていることに気がついたのがつい、先ほど。
痛んだマントを買い換えると言うシリアも連れ立って、町中へと出て来たのだった。
勿論、直前までシリアはレンを連れて行こうと引っ張ったが、容赦の無い鉄拳であえなく沈んだ。
「もう♪ レンてば恥ずかしがっちゃって、可愛いんだからv」
宿屋を一歩、出てから彼女の吐いたその科白に、カノンは心底、感心したものだ。どこをどう見ればあの大男を可愛いなどと称せるというのか。
下に恐ろしきは盲目の恋心である。
―――いや、まあ、それはとりあえず、どうでもいいんだけど……
はぁ、とこっそり吐いたつもりの溜め息は、しっかりシリアの耳に入っていたようで。
「貴女、まだ昨日のことでうじうじ悩んでいるのかしら?」
「ん~……悩んでる、って程じゃないけど……」
呆れたように言う彼女に、肩を竦めてそう返す。
ラーシャの言っていたことを鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、またその言動のすべてを否定するわけにもいかないのだ。
例えば、クオノリアでのあの事件。
クロードは合成獣を無尽蔵に生み出す『ヴォルケーノ』を秘密裏に製造し、兵器としてゼルゼイルへ輸出しようと画策していた。
あの黒衣の少年が、彼女たちの言うように、ゼルゼイルの、エイロネイアの刺客だとすれば、別の土地で敵国に悟られないよう、自国の益のための兵器製造を行おうとしていた、ということになる。
月陽剣についても同じだろう。何らかの、魔道実験を敵国の目に触れないところで実行しようとしていた。
しかし、それを自らご破算にしてまで、不必要にカノンたちを挑発する、その理由は一体何なのか。
はたまた、彼らはエイロネイアとは全く関係のない人間であるのか……
「いいじゃあないの。結局、相手が動かないと何も解らないのは一緒なんだから。
どうにせよ、戦争なんかに加担する気はないんでしょう?
だったらいい護衛が雇えた、と思えばいいじゃない」
「……あんたってほんと、羨ましい性格してるわね」
シリアに諭されていると、何やら自分が相当情けない人間に思えて来て、それ以上、考えるのを止めた。
相手が不毛と判断して、手を引いてくれるならば良し。そうでなければ―――そのとき、最善と思える道を選ぶしかない。
今、出来ることは、それに備えて武器を整備しておくこと。それとなく、情報を集めておくことの二つ。
ぱんっ、と頬を張る。まったく、考えに詰まるなんてらしくない。
ここはもっとどーん、と構えているのがいつもの自分なのだ。
「あら、ここなんて良さそうじゃない。ほら」
言ってシリアが、比較的大きな建物を指差す。白壁と、大きなウィンドウ。そのウィンドウに飾られた魔道具と、装備品を見た限り、上質な素材を使っているようだ。
「そーね。ちょっと見てみましょうか」
ドアに手をかけて、押し出そうとした瞬間。
からからんッ。
「うわッ!」
「きゃッ……」
唐突に向こう側からドアが開き、小柄な少女が飛び出して来る。反射的に身を引くが、付いた勢いは止まらなかったのか、軽くぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいッ!」
やや外はねした、蜂蜜色の髪を振り乱して、頭を下げてくる少女。
余程、急いでいたのか、カノンが声をかける前にあたふたと店を飛び出して行ってしまう。
「何だったのよ? 落ち着かない娘ねぇ……」
「さあ……よっぽど急いでたんじゃないの?」
特に気にするでもなく、二人は店内に入った。お決まりの、「いらっしゃいませ」という言葉が耳を付く。
店内はそれほど混み合っておらず、カノンたちの他には武具を物色する軽剣士の風体をした二人組みと、魔道具の棚を眺めている男が一人だけ。
メインストリートの雑踏と戦って来た身としては、ほっとする。
「いらっしゃい、どのような御用ですか?」
「えーっと、ちょっと武器の修理が出来ないかと思って」
真っ先に、ショールとマントの棚に走ったシリアを尻目に、カノンはカウンターに剣鎌を包んだ布をごとり、と横たえる。
人の良さそうな顔をした、髭面の店主は、断ってから布を退けて包みを開き、目を見開いた。
「ほう……! 話には聞いたことがあるよ。剣鎌というやつだね……。
いや、私も長く道具屋をやっているが、これを持ち込んだ人というのは初めてだよ」
店主は新しい玩具を手にした子供のように、微笑んだ。
「それで、その……ちょっと、留め金が緩んでしまってるみたいなんですけど……直せますか?」
嫌な予感と共におずおずと切り出すと、店主は白髪の混じり始めた眉を寄せる。数度、手に刃を持ち替えて、首を捻り、難しい顔で目を閉じた。
「うーん……残念だけどねぇ……。
普通の剣なら、どこの店にも負けない自信があるんだけど。こんな稀少武器、私も実物を見たのはこれが初めてだからね。看ることは出来るが、直せる保障は出来ないな」
「そうですか……。
誰か、この町で直せそうな人っていたりしません?」
唸り始めてしまった店主に、カノンは頬を掻く。仕方が無い。よくあることだ。手当たり次第に探していくしかないか……?
やがて店主はごめん、と素直に頭を下げてきた。肩を落としつつも、礼を言って差し出された剣鎌を受け取ろうとして、
ひょい、と横手から入った手に奪われる。
「・・・へ?」
「ふぅん、剣鎌[カリオ・ソード]か……こりゃあまた、ンなところで、実際に使われてるのにお目にかかるたぁ、思わなかったぜ」
「ち、ちょっと!?」
慌てて軽々と剣鎌を持ち上げるその手から、武具を引っ手繰る。
睨みつけながらその手を辿り―――
思わず息を飲む。
目を引いたのは、血の色をそのまま映し出した真紅の両眼。次いで、店内の淡い照明に照らされて、銀に映える色素の極端に抜け落ちた白髪。そして病的なまでに真っ白な肌。
話には聞いたことがある―――白子[アルビノ]、というやつだ。
カノンより頭一つ分高い位置からこちらを見下ろす目には、他人を嘲るような薄笑いが浮かんでいて。おおよそ好印象とは言い難い面構えだったが、一瞬目を奪われるほど恐ろしく端整な、精巧に造られた雪人形のような青年だった。
茫然として眺めていると、彼はくつくつ、と喉の奥で笑いを漏らす。
「何だ、お嬢ちゃん。そんなに見つめるほど俺の顔は魅力的か?」
「な……ッ!?」
「まあ、貸してみな」
小馬鹿にした口調に、カノンが呆気に取られていると、男は再び彼女の手から剣鎌をすり取った。
静止するより先に、男は鮮やかな手つきで緩んだ継ぎ目を見つけ、刃と継ぎ目の合間を覗き込む。
それを見てカノンは初めて気がついた。その動作のすべてを、彼は右手一本でこなしていた。ふと、逆手の方を見て、眉を潜める。
だらん、と垂れた七分丈の白い上着の袖。わざと腕を抜いているようにも見えない。
「……」
しげしげと見ているのも悪い気がして、カノンは視線を逸らした。その間にも彼は刃を数度、回転させながら、剣鎌のあちこちをチェックしていく。
やがて、男は短くひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、なかなかの年代物じゃねぇか。
よくもまあ、刃が持ってるもんだ。それも刃こぼれ一つねぇ」
「あ、当たり前じゃない。手入れは欠かしてないもの……」
「銘は入ってねぇが……どこのどいつの造ったもんだ?」
「へ、へ? さ、さあ……?」
「おいおい、自分の武器の造ったやつも知らねぇのか?」
「いや、だ、だって、元は自分の物じゃなかったし……二十年以上前の物だと思うから……」
「ほーう……」
男はカウンターの片隅に腰を下ろすと、組んだ足の間に柄の箇所を挟むと、再び刃の継ぎ目を覗きながら、
「おい、オヤジ。ねじ締め貸せ。あと、ヤスリ」
「え、あ、は、はいッ! 少々、お待ちをッ……」
カノンはそのあまりに傍若無人な態度に、あんぐりと口を開く。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
男の得体の知れない迫力に押され、道具屋の主人は可哀相なくらいあたふたと、カウンターの後ろの棚をあさり始める。
やがて傍らに置かれた工具箱の中から、円錐形の工具を取り出すと継ぎ目に差してみせる。
「ち、ちょっとッ!?」
「まあ、いいからちょっと黙ってろ」
「黙ってろ、って……」
いきなり正体不明の、初対面の人間に長年付き合って来た武具を弄られて、黙っていろとは、何とも無茶な話だ。
しかし、実力行使に出ると、工具が継ぎ目に吸い込まれている以上、妙なことになりかねない。
カノンは不安に表情を歪ませながらも、じっと青年の手つきを観察する。
青年が数度、工具を回すと、かりかりと音が鳴った。一度引き抜いて、継ぎ目をこんこん、と叩く。それを何度か繰り返し、工具を置くとヤスリを当てて僅かに擦り、ふぅッ、と息を吹きかける。
細かい砂のように砕けた金属が舞った。
青年はそのまま、剣鎌の数箇所をこんこん、と工具の尻で叩いていく。ときどき顔を顰めて、継ぎ目に工具を差しながら、最後に一つ一つ、継ぎ目を覗き込んで、元のように折り畳む。
「ほらよ。応急処置だけどな。まあ一度、ちゃんと調整に出しとくんだな。あんた、剣筋、激しい方だろ?
刃はともかく、柄の方が悲鳴上げてるぜ」
「・・・!」
かしゃん、と折り畳まれた刃を伸ばしてみる。直っている。
応急処置とはいえ、こんな短時間で処置から調整までやってのけてしまうとは……ッ!
「あ、ありがと……。あ、い、言っとくけど、法外な値段払ったりしないわよッ!」
「おや、先手打たれちまったらしょーがねぇ。まあ、いいさ。珍しいもん見せてもらった礼だ。
オヤジ、クラオーネ鉱石とアズーラ製の鈎針、まあ安いやつで構わねぇ。カネはこのお嬢ちゃんから貰ってくれ」
「は、はいッ!」
薄い唇を吊り上げた男に、せっせと包みを用意する店の主人。何だかやたらと圧倒されている。武防具技師として、今、この男は大変なことをやってのけたのかもしれない。
言われた代金は、覚悟していたほど高額ではなかった。正規の修理代の三分の一ほどだ。
「決まったわぁ~v ……って、カノン、どうかしたの?」
ラメ入りの、カノンに言わせれば趣味の悪いマントを引っつかみながらやって来たシリアが、カノンの煮え切らないような、むず痒い表情を見つけて小首を傾げる。
「別に何でも……。って、あんた、たまには普通の服にしたらどうなのよ……趣味の悪い……」
「んっふっふっふ、このマントの良さが理解できないなんて、カノン。本当に悪趣味な上にお子様……」
ガツッ!!
運が悪かったとしか言い用がない。
普段なら聞き流すような戯言だったが、生憎、カノンの機嫌はかつてないほど最悪だった。
「ちょっと! 何すんのよッ!? 痛いじゃないのッ!」
「だぁぁぁ、うっさい! 親父さんッ、これ! 代金ねッ!」
「はいッ!」
伸びやかな回し蹴りをシリアの側頭部に決めて、半ば押し付けるように店主に硬貨を渡す。返って来た簡素な包みを、傍らで何故か妙に楽しそうな苦笑いを漏らしている男に突きつけた。
「安く済んだことには礼を言うけど……貴方、初対面の人間と話すときくらい、もうちょっと遠慮ってもんを学んだ方がいいわよ」
「けっ、そりゃあ、余計なお世話をどうも。
ついでに俺からも言わせて貰うけどな。いい歳した娘が、公衆ではしたなく股間開いてるもんじゃねぇぜ、お嬢ちゃん」
「―――ッ!!」
絶句するカノンを尻目に、男はくつくつと笑いを漏らしつつ、踵を返す。
頭を押さえながら立ち上がるシリアと擦れ違い―――
「………、アイゼンの香り……?」
「あん?」
「いえ、失礼。何でもないわ」
ぽつり、と呟いたシリアに、男は不快な視線を送るが、彼女はさらりと首を振る。
ふん、と鼻を鳴らして、彼はつかつかと店を出て行く。
「ちょっと、親父さん。何なの、あの男?」
その背が完全に人込みに紛れて消えるのを待ってから、カノンは店の主人に食って掛かる。
剣鎌を直してもらった礼は、礼として、断り無く武器に触れられたのが気に食わない。今時流行らない騎士道精神なんてものは持ち合わせていないが、それでも多少、剣士としての矜持はある。
他人に、しかも初対面でいきなり、数々の戦いを共にして来た相棒に触れられるのは、あまりいい気分ではない。
……加えて人を見下した言動も、目線も何かムカつく。
「いやぁ……最近、って言ってもここに来てくれたのは、昨日と合わせて二回目だけどさ。
昨日はただ商品見てただけだったから、あんな腕の立つ人だと思わなかったよ。やけに熱心に見る人だなー、とは思ってたけど……」
どこでどんな人に見られてるかわからんねー、と呑気な口調で言う店主。
復活したシリアが起き上がり、カウンターに肘を付く。
「何? 結局、剣鎌は直ったの?」
「まあ、一応……」
「なら、いいじゃあないの。何をかりかりしてるのかしら?」
「そう、……なんだけどさ」
カノンは男が消えていった、店の前の人の行き交うメインストリートをガラス越しに眺め、肩を落して嘆息した。
―――熱い……
間断なく、全身を襲う熱が、容赦なく皮膚を焼いてくる。
息をする度に熱風に曝された空気が、肺の中に入り込んで、内部から熱を発してくる。なるたけ呼吸を抑えなければ、喉と肺の方が焼けてしまいそうだ。
―――はぁ……はぁ………
吐く息さえ尋常ならざる熱を持っていた。それでも、歩み、いや、走りを止めることは出来ない。
諦めてしまいたい、この空間から逃げ出したい欲求よりも、激しい衝動が重い身体を突き動かしていた。
―――早く……早く、しなきゃ……
傍らの壁に手を付くことさえ許されない。
手を付けば、一瞬で手の平の皮が壁に張り付くだろう。
―――くッ……!
口と鼻を手で覆いながら、駆け抜けた廊下の先に扉が見える。断熱の扉は僅かに開いていた。
その意味を解する暇もなく、彼女はその扉を開く。その向こうに―――
「―――ッ!」
「……!」
肩に何かが触れる感触に、反射的に飛び起きる。漏れかけた悲鳴を飲み込んで、背後を振り返ると、
「あっ……と、何だ、レンか……」
「……」
彼は無言で片手に持っていた毛布を隣の椅子へ放り投げた。その好意に、ルナは申し訳なさそうに肩を竦める。
「ありがと。毛布はいいや……寝るつもりじゃなかったし。しかし、いつになく気が利くじゃない」
「……いつになく、昼間から宿屋の隅で酔い潰れている奴を見かければ、な」
声に含まれているのは、呆れだった。無理も無いかもしれない。
店の中は、主人の他には見知らぬ客が一人、いるだけだ。静けさの最中、僅かな喧騒が、窓の外から聞こえてくる。
「別に。一杯しか飲んでないし。酔ってはいないわよ」
「こんな場所で寝ながらうなされて、脂汗を掻いていた奴のセリフじゃあないが」
ルナの気配が急激に尖る。一瞬、剣呑な空気が辺りを包むが、その程度でレンの鉄面皮は動かない。
素知らぬ顔で隣に腰掛けると、グラスを磨いていた宿屋の主人にコーヒーを一杯、注文する。
鼻を鳴らし、グラスを掲げようとしたところで、冷水の入ったグラスポットがどん、と目の前に置かれた。カウンターからそれを引き寄せて置いた当人は、溜め息を吐きながら彼女を牽制する。
頬を膨らませながらも、ルナはアルコールの匂いが残るグラスに、冷水を注ぐ。煽った水は不自然に苦かった。
「眠れていないのか」
「わざと熟睡しないようにしてる人に言われたくないけど?」
手元に運ばれて来たカップの中身の黒い液体を眺めながら、ルナが言う。レンは、先ほどの彼女と同じように鼻を鳴らすと少しずつカップを傾ける。
「……胃、壊すわよ」
「結構だ。それくらいで済むならな」
充血しつつある目元を揉むように、こめかみに手をやる。さすがのレンも、こう面妖な事件が続いているせいか、些か神経質になっているようだ。
「損な性分ね、つくづく」
「何がだ?」
「別に? そうまでしてあの娘を守りたいのかねぇ、って思っただけ」
「……今回の件に関しては俺も無関係ではあるまい。それだけだ」
「はいはい、いーねぇ、そこまで何かに必死になれる人、ってのは」
「……それは俺だけではないと思うが」
ポットの中の氷が解けて、軋んだ音を立てる。
言外に含まれた何かを察して、ルナは長身の昔馴染みを睨み上げた。
「……どういう意味?」
「大した意味はない。ただ、『昔、自分が手がけた研究がどこかから漏れていた』程度で、必死になっている人間のセリフではない気がしただけだ」
「……」
ルナは表情を歪める。刺々しい空気が、周りの温度を下げた。
「『月の館』の公式的な記録はもう残っていない。どこからか危険な情報が漏れていたとしても、その責がお前に向けられるような事態にはならんだろう。
昔の仲間を疑わなくてはならない状態は、気分のいいものではないだろうが、真実に蓋など出来ん。何らかの脅迫にあった、もともと研究を盗もうとしていた奴がいた、十分に考えられるだろう。
あえてお前が追求しなくてはならないことじゃあない。逆に、」
「逆に、追求し無い方がいい場合もある。
……そう言いたいんでしょ」
「ああ、そうだ。
お前のことだからな。その程度は理解できるだろう。それでもなお、そうまで奴らを追うのには、何か特別な理由でもあるのかと思ってな」
「何? それはあたしの心配? そんなわけないわよね?
じゃあ、あれ? 『ヴォルケーノ』に関して、まだ何か隠してることがあるんじゃないか、……そう疑ってるわけ?」
「そのつもりはない。俺にその『ヴォルケーノ』の詳細を話したとなれば、お前とて昔の仲間からしては裏切り者になるだろう。この間、語ってくれたのが奇跡だと思っている。
だが、他に何か知っていることがあるのではないかと、ふと思っただけだ」
「……」
ルナは彼を睨んでから瞑目した。気味の悪い沈黙が下りる。やがて、かたん、と音がして、壁際に一人だけいた客が代金を置いて、店を後にする。
それを横目で見送って、数刻。
「……昔の夢を見るのよ」
「?」
「眠れないのか、って聞いたでしょ。それで目が覚めるだけの話」
「昔の、夢?」
気だるげに、ただ首を動かしたのが頷いたのか判然としない動作をする。普段は見開くように開いている猫目の瞳が、今は力なく、伏せられていた。
「……ニードの奴に、火ぃ付けられたときのこととか、いろいろ、ね……
今も、その夢でさ。気づいたら汗びっしょりだし、気持ち悪い」
ニード=フレイマー。五年ほど前、ルナの所属していた『月の館』に火を放ち、有能な魔道師を幾人も誘拐し、自らが頭目を勤める犯罪組織の駒としたA級犯罪人。
もうこの世には存在しない、が、彼が残した爪痕は、今もこうして色濃く残っている。
「十三歳のときに入学したから、えーと、二年、ないくらい? 極短い間だったけど……。
アゼルフィリーにいたときも、さ。あんたたちと遊びまわって、馬鹿やって、十分楽しかったけど。
……『館』でだって、あたしはそれなりに楽しんでたのよ。気心の知れた仲間だっていたし、親友だっていた」
「……」
「アゼルフィリーのことや、あんたたちといるのが楽しくない、ってわけじゃないのよ?
けど、短い人生で一番楽しかったのはいつだー、って聞かれたら、もしかしたら郷里より『館』の方かも知れないわね」
「『月の館』か。確かローランが言っていたな。優秀なプロジェクトチームがいたとか何とか……」
「ん。そーね、あたしはそのチームのチーフ補佐をやってた。まあ、No.2ってやつ」
カウンターに倒していた身を起こして、ルナは懐を弄った。無言で待っていると、取り出されたのは一枚の、皺と垢だらけになったぺらぺらの写真。
見てもいいのか、と視線で問いかける。彼女は『悪けりゃ出さないわよ』と可愛くない言葉で答えた。
写真に写っていたのは、若い男女四人。いずれも簡素なローブ姿。これが当時の正装だったのだろうと見当がつく。
四人のうち、一人はルナ自身。無論、写真の中の彼女は今よりも多少、幼いが、そうと解らないほどではない。
「……お前、昔の方がまだ可愛げがあるな」
「突っ込みどころはそこかい。しかも、"まだ"って、あんた失礼な……」
一人は赤毛のかかった栗色の髪の男子。どこか頼りなげな風体だが、愛嬌はある。
ルナとは違う、もう一人の女子は、彼女より背が低く、蜂蜜色の髪を二つに結び、あどけなく、照れたように微笑んでいる。
もう一人は彼女の傍らに立つ、目立つ風貌の男。
「チームのチーフをやってた男よ。偏屈者でね、でも頭は悔しいけど他の誰よりも切れた。
女の子はルームメイトで友達だったんだけど、これがまたドジな娘でねー、危なっかしくて。もう一人はまあ、情けない奴だけど、気のいい、いい奴だった」
「……」
「まあさ、今さらぐだぐだ言うようなことじゃあない、って解ってんのよ。解ってるけど、ね……
それなりに……思い出のある場所だったから。
それを、いきなり崩されたような気になっちゃってね。そんだけ」
「……そうか」
アゼルフィリーで築いたこの関係の他に。
彼女には彼女の、別の世界があるのは当然の話。それなりに、などと言っているが、こうして写真など似合わない物を持っているということが、彼女にとって『月の館』がどれだけ思い入れの深い場所なのかを物語る。
たとえ、もう存在しない世界だとしても、記憶に残るその世界を崩されて。
怒りを覚えないはずがない。
「……邪推したようだ。思った以上に神経質になっているらしい。すまない」
「あんたが素直に謝るなんて逆に気持ち悪いっての。別にいいわよ、そう考えたくなる気持ちも解るし。いつまでも引き摺ってるあたしが馬鹿なんだしね」
再びカウンターに突っ伏すように身を預けるルナに、写真を渡す。彼女はそれを受け取ると目を細めて眺め始めた。
レンはカップの中身を一息で飲み干すと、席を立った。
「酒も感傷も結構だが、ほどほどにして置け。ダメージを食うのは自分だぞ」
「はいはい、ご忠告ありがとう。解ってるって」
階上に向かう彼の背に、ルナはひらひらと手を振って見送る。群青のマントが消えるのを待ってから、カウンターに写真を置き、グラスに二杯目の水を注いだ。
「……本当に、こっちの気も知らないで、今どこで何をしてんだか」
深い溜め息を吐いて、彼女は再び、写真に目を走らせる。
吐き出したセリフと視線は、四人の中で最も目立つ容貌の―――銀に輝く白い髪と、真紅の瞳の青年へ向けられていた。
「さて―――」
←1へ
「まあ、地方都市だし、中央に比べたら少ない方じゃないかしらね。いいデザインのものがあるといいんだけどぉ」
そんな会話を交わしながら、カノンとシリアは人込み溢れる昼間のメインストリートを縫うようにして歩く。
探しているのは道具屋だった。
クオノリアでも、ランカースでも、少々武器を酷使してしまったせいか、折り畳み式である剣鎌のどこかの螺子が緩んでしまっていることに気がついたのがつい、先ほど。
痛んだマントを買い換えると言うシリアも連れ立って、町中へと出て来たのだった。
勿論、直前までシリアはレンを連れて行こうと引っ張ったが、容赦の無い鉄拳であえなく沈んだ。
「もう♪ レンてば恥ずかしがっちゃって、可愛いんだからv」
宿屋を一歩、出てから彼女の吐いたその科白に、カノンは心底、感心したものだ。どこをどう見ればあの大男を可愛いなどと称せるというのか。
下に恐ろしきは盲目の恋心である。
―――いや、まあ、それはとりあえず、どうでもいいんだけど……
はぁ、とこっそり吐いたつもりの溜め息は、しっかりシリアの耳に入っていたようで。
「貴女、まだ昨日のことでうじうじ悩んでいるのかしら?」
「ん~……悩んでる、って程じゃないけど……」
呆れたように言う彼女に、肩を竦めてそう返す。
ラーシャの言っていたことを鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、またその言動のすべてを否定するわけにもいかないのだ。
例えば、クオノリアでのあの事件。
クロードは合成獣を無尽蔵に生み出す『ヴォルケーノ』を秘密裏に製造し、兵器としてゼルゼイルへ輸出しようと画策していた。
あの黒衣の少年が、彼女たちの言うように、ゼルゼイルの、エイロネイアの刺客だとすれば、別の土地で敵国に悟られないよう、自国の益のための兵器製造を行おうとしていた、ということになる。
月陽剣についても同じだろう。何らかの、魔道実験を敵国の目に触れないところで実行しようとしていた。
しかし、それを自らご破算にしてまで、不必要にカノンたちを挑発する、その理由は一体何なのか。
はたまた、彼らはエイロネイアとは全く関係のない人間であるのか……
「いいじゃあないの。結局、相手が動かないと何も解らないのは一緒なんだから。
どうにせよ、戦争なんかに加担する気はないんでしょう?
だったらいい護衛が雇えた、と思えばいいじゃない」
「……あんたってほんと、羨ましい性格してるわね」
シリアに諭されていると、何やら自分が相当情けない人間に思えて来て、それ以上、考えるのを止めた。
相手が不毛と判断して、手を引いてくれるならば良し。そうでなければ―――そのとき、最善と思える道を選ぶしかない。
今、出来ることは、それに備えて武器を整備しておくこと。それとなく、情報を集めておくことの二つ。
ぱんっ、と頬を張る。まったく、考えに詰まるなんてらしくない。
ここはもっとどーん、と構えているのがいつもの自分なのだ。
「あら、ここなんて良さそうじゃない。ほら」
言ってシリアが、比較的大きな建物を指差す。白壁と、大きなウィンドウ。そのウィンドウに飾られた魔道具と、装備品を見た限り、上質な素材を使っているようだ。
「そーね。ちょっと見てみましょうか」
ドアに手をかけて、押し出そうとした瞬間。
からからんッ。
「うわッ!」
「きゃッ……」
唐突に向こう側からドアが開き、小柄な少女が飛び出して来る。反射的に身を引くが、付いた勢いは止まらなかったのか、軽くぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいッ!」
やや外はねした、蜂蜜色の髪を振り乱して、頭を下げてくる少女。
余程、急いでいたのか、カノンが声をかける前にあたふたと店を飛び出して行ってしまう。
「何だったのよ? 落ち着かない娘ねぇ……」
「さあ……よっぽど急いでたんじゃないの?」
特に気にするでもなく、二人は店内に入った。お決まりの、「いらっしゃいませ」という言葉が耳を付く。
店内はそれほど混み合っておらず、カノンたちの他には武具を物色する軽剣士の風体をした二人組みと、魔道具の棚を眺めている男が一人だけ。
メインストリートの雑踏と戦って来た身としては、ほっとする。
「いらっしゃい、どのような御用ですか?」
「えーっと、ちょっと武器の修理が出来ないかと思って」
真っ先に、ショールとマントの棚に走ったシリアを尻目に、カノンはカウンターに剣鎌を包んだ布をごとり、と横たえる。
人の良さそうな顔をした、髭面の店主は、断ってから布を退けて包みを開き、目を見開いた。
「ほう……! 話には聞いたことがあるよ。剣鎌というやつだね……。
いや、私も長く道具屋をやっているが、これを持ち込んだ人というのは初めてだよ」
店主は新しい玩具を手にした子供のように、微笑んだ。
「それで、その……ちょっと、留め金が緩んでしまってるみたいなんですけど……直せますか?」
嫌な予感と共におずおずと切り出すと、店主は白髪の混じり始めた眉を寄せる。数度、手に刃を持ち替えて、首を捻り、難しい顔で目を閉じた。
「うーん……残念だけどねぇ……。
普通の剣なら、どこの店にも負けない自信があるんだけど。こんな稀少武器、私も実物を見たのはこれが初めてだからね。看ることは出来るが、直せる保障は出来ないな」
「そうですか……。
誰か、この町で直せそうな人っていたりしません?」
唸り始めてしまった店主に、カノンは頬を掻く。仕方が無い。よくあることだ。手当たり次第に探していくしかないか……?
やがて店主はごめん、と素直に頭を下げてきた。肩を落としつつも、礼を言って差し出された剣鎌を受け取ろうとして、
ひょい、と横手から入った手に奪われる。
「・・・へ?」
「ふぅん、剣鎌[カリオ・ソード]か……こりゃあまた、ンなところで、実際に使われてるのにお目にかかるたぁ、思わなかったぜ」
「ち、ちょっと!?」
慌てて軽々と剣鎌を持ち上げるその手から、武具を引っ手繰る。
睨みつけながらその手を辿り―――
思わず息を飲む。
目を引いたのは、血の色をそのまま映し出した真紅の両眼。次いで、店内の淡い照明に照らされて、銀に映える色素の極端に抜け落ちた白髪。そして病的なまでに真っ白な肌。
話には聞いたことがある―――白子[アルビノ]、というやつだ。
カノンより頭一つ分高い位置からこちらを見下ろす目には、他人を嘲るような薄笑いが浮かんでいて。おおよそ好印象とは言い難い面構えだったが、一瞬目を奪われるほど恐ろしく端整な、精巧に造られた雪人形のような青年だった。
茫然として眺めていると、彼はくつくつ、と喉の奥で笑いを漏らす。
「何だ、お嬢ちゃん。そんなに見つめるほど俺の顔は魅力的か?」
「な……ッ!?」
「まあ、貸してみな」
小馬鹿にした口調に、カノンが呆気に取られていると、男は再び彼女の手から剣鎌をすり取った。
静止するより先に、男は鮮やかな手つきで緩んだ継ぎ目を見つけ、刃と継ぎ目の合間を覗き込む。
それを見てカノンは初めて気がついた。その動作のすべてを、彼は右手一本でこなしていた。ふと、逆手の方を見て、眉を潜める。
だらん、と垂れた七分丈の白い上着の袖。わざと腕を抜いているようにも見えない。
「……」
しげしげと見ているのも悪い気がして、カノンは視線を逸らした。その間にも彼は刃を数度、回転させながら、剣鎌のあちこちをチェックしていく。
やがて、男は短くひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃあ、なかなかの年代物じゃねぇか。
よくもまあ、刃が持ってるもんだ。それも刃こぼれ一つねぇ」
「あ、当たり前じゃない。手入れは欠かしてないもの……」
「銘は入ってねぇが……どこのどいつの造ったもんだ?」
「へ、へ? さ、さあ……?」
「おいおい、自分の武器の造ったやつも知らねぇのか?」
「いや、だ、だって、元は自分の物じゃなかったし……二十年以上前の物だと思うから……」
「ほーう……」
男はカウンターの片隅に腰を下ろすと、組んだ足の間に柄の箇所を挟むと、再び刃の継ぎ目を覗きながら、
「おい、オヤジ。ねじ締め貸せ。あと、ヤスリ」
「え、あ、は、はいッ! 少々、お待ちをッ……」
カノンはそのあまりに傍若無人な態度に、あんぐりと口を開く。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
男の得体の知れない迫力に押され、道具屋の主人は可哀相なくらいあたふたと、カウンターの後ろの棚をあさり始める。
やがて傍らに置かれた工具箱の中から、円錐形の工具を取り出すと継ぎ目に差してみせる。
「ち、ちょっとッ!?」
「まあ、いいからちょっと黙ってろ」
「黙ってろ、って……」
いきなり正体不明の、初対面の人間に長年付き合って来た武具を弄られて、黙っていろとは、何とも無茶な話だ。
しかし、実力行使に出ると、工具が継ぎ目に吸い込まれている以上、妙なことになりかねない。
カノンは不安に表情を歪ませながらも、じっと青年の手つきを観察する。
青年が数度、工具を回すと、かりかりと音が鳴った。一度引き抜いて、継ぎ目をこんこん、と叩く。それを何度か繰り返し、工具を置くとヤスリを当てて僅かに擦り、ふぅッ、と息を吹きかける。
細かい砂のように砕けた金属が舞った。
青年はそのまま、剣鎌の数箇所をこんこん、と工具の尻で叩いていく。ときどき顔を顰めて、継ぎ目に工具を差しながら、最後に一つ一つ、継ぎ目を覗き込んで、元のように折り畳む。
「ほらよ。応急処置だけどな。まあ一度、ちゃんと調整に出しとくんだな。あんた、剣筋、激しい方だろ?
刃はともかく、柄の方が悲鳴上げてるぜ」
「・・・!」
かしゃん、と折り畳まれた刃を伸ばしてみる。直っている。
応急処置とはいえ、こんな短時間で処置から調整までやってのけてしまうとは……ッ!
「あ、ありがと……。あ、い、言っとくけど、法外な値段払ったりしないわよッ!」
「おや、先手打たれちまったらしょーがねぇ。まあ、いいさ。珍しいもん見せてもらった礼だ。
オヤジ、クラオーネ鉱石とアズーラ製の鈎針、まあ安いやつで構わねぇ。カネはこのお嬢ちゃんから貰ってくれ」
「は、はいッ!」
薄い唇を吊り上げた男に、せっせと包みを用意する店の主人。何だかやたらと圧倒されている。武防具技師として、今、この男は大変なことをやってのけたのかもしれない。
言われた代金は、覚悟していたほど高額ではなかった。正規の修理代の三分の一ほどだ。
「決まったわぁ~v ……って、カノン、どうかしたの?」
ラメ入りの、カノンに言わせれば趣味の悪いマントを引っつかみながらやって来たシリアが、カノンの煮え切らないような、むず痒い表情を見つけて小首を傾げる。
「別に何でも……。って、あんた、たまには普通の服にしたらどうなのよ……趣味の悪い……」
「んっふっふっふ、このマントの良さが理解できないなんて、カノン。本当に悪趣味な上にお子様……」
ガツッ!!
運が悪かったとしか言い用がない。
普段なら聞き流すような戯言だったが、生憎、カノンの機嫌はかつてないほど最悪だった。
「ちょっと! 何すんのよッ!? 痛いじゃないのッ!」
「だぁぁぁ、うっさい! 親父さんッ、これ! 代金ねッ!」
「はいッ!」
伸びやかな回し蹴りをシリアの側頭部に決めて、半ば押し付けるように店主に硬貨を渡す。返って来た簡素な包みを、傍らで何故か妙に楽しそうな苦笑いを漏らしている男に突きつけた。
「安く済んだことには礼を言うけど……貴方、初対面の人間と話すときくらい、もうちょっと遠慮ってもんを学んだ方がいいわよ」
「けっ、そりゃあ、余計なお世話をどうも。
ついでに俺からも言わせて貰うけどな。いい歳した娘が、公衆ではしたなく股間開いてるもんじゃねぇぜ、お嬢ちゃん」
「―――ッ!!」
絶句するカノンを尻目に、男はくつくつと笑いを漏らしつつ、踵を返す。
頭を押さえながら立ち上がるシリアと擦れ違い―――
「………、アイゼンの香り……?」
「あん?」
「いえ、失礼。何でもないわ」
ぽつり、と呟いたシリアに、男は不快な視線を送るが、彼女はさらりと首を振る。
ふん、と鼻を鳴らして、彼はつかつかと店を出て行く。
「ちょっと、親父さん。何なの、あの男?」
その背が完全に人込みに紛れて消えるのを待ってから、カノンは店の主人に食って掛かる。
剣鎌を直してもらった礼は、礼として、断り無く武器に触れられたのが気に食わない。今時流行らない騎士道精神なんてものは持ち合わせていないが、それでも多少、剣士としての矜持はある。
他人に、しかも初対面でいきなり、数々の戦いを共にして来た相棒に触れられるのは、あまりいい気分ではない。
……加えて人を見下した言動も、目線も何かムカつく。
「いやぁ……最近、って言ってもここに来てくれたのは、昨日と合わせて二回目だけどさ。
昨日はただ商品見てただけだったから、あんな腕の立つ人だと思わなかったよ。やけに熱心に見る人だなー、とは思ってたけど……」
どこでどんな人に見られてるかわからんねー、と呑気な口調で言う店主。
復活したシリアが起き上がり、カウンターに肘を付く。
「何? 結局、剣鎌は直ったの?」
「まあ、一応……」
「なら、いいじゃあないの。何をかりかりしてるのかしら?」
「そう、……なんだけどさ」
カノンは男が消えていった、店の前の人の行き交うメインストリートをガラス越しに眺め、肩を落して嘆息した。
―――熱い……
間断なく、全身を襲う熱が、容赦なく皮膚を焼いてくる。
息をする度に熱風に曝された空気が、肺の中に入り込んで、内部から熱を発してくる。なるたけ呼吸を抑えなければ、喉と肺の方が焼けてしまいそうだ。
―――はぁ……はぁ………
吐く息さえ尋常ならざる熱を持っていた。それでも、歩み、いや、走りを止めることは出来ない。
諦めてしまいたい、この空間から逃げ出したい欲求よりも、激しい衝動が重い身体を突き動かしていた。
―――早く……早く、しなきゃ……
傍らの壁に手を付くことさえ許されない。
手を付けば、一瞬で手の平の皮が壁に張り付くだろう。
―――くッ……!
口と鼻を手で覆いながら、駆け抜けた廊下の先に扉が見える。断熱の扉は僅かに開いていた。
その意味を解する暇もなく、彼女はその扉を開く。その向こうに―――
「―――ッ!」
「……!」
肩に何かが触れる感触に、反射的に飛び起きる。漏れかけた悲鳴を飲み込んで、背後を振り返ると、
「あっ……と、何だ、レンか……」
「……」
彼は無言で片手に持っていた毛布を隣の椅子へ放り投げた。その好意に、ルナは申し訳なさそうに肩を竦める。
「ありがと。毛布はいいや……寝るつもりじゃなかったし。しかし、いつになく気が利くじゃない」
「……いつになく、昼間から宿屋の隅で酔い潰れている奴を見かければ、な」
声に含まれているのは、呆れだった。無理も無いかもしれない。
店の中は、主人の他には見知らぬ客が一人、いるだけだ。静けさの最中、僅かな喧騒が、窓の外から聞こえてくる。
「別に。一杯しか飲んでないし。酔ってはいないわよ」
「こんな場所で寝ながらうなされて、脂汗を掻いていた奴のセリフじゃあないが」
ルナの気配が急激に尖る。一瞬、剣呑な空気が辺りを包むが、その程度でレンの鉄面皮は動かない。
素知らぬ顔で隣に腰掛けると、グラスを磨いていた宿屋の主人にコーヒーを一杯、注文する。
鼻を鳴らし、グラスを掲げようとしたところで、冷水の入ったグラスポットがどん、と目の前に置かれた。カウンターからそれを引き寄せて置いた当人は、溜め息を吐きながら彼女を牽制する。
頬を膨らませながらも、ルナはアルコールの匂いが残るグラスに、冷水を注ぐ。煽った水は不自然に苦かった。
「眠れていないのか」
「わざと熟睡しないようにしてる人に言われたくないけど?」
手元に運ばれて来たカップの中身の黒い液体を眺めながら、ルナが言う。レンは、先ほどの彼女と同じように鼻を鳴らすと少しずつカップを傾ける。
「……胃、壊すわよ」
「結構だ。それくらいで済むならな」
充血しつつある目元を揉むように、こめかみに手をやる。さすがのレンも、こう面妖な事件が続いているせいか、些か神経質になっているようだ。
「損な性分ね、つくづく」
「何がだ?」
「別に? そうまでしてあの娘を守りたいのかねぇ、って思っただけ」
「……今回の件に関しては俺も無関係ではあるまい。それだけだ」
「はいはい、いーねぇ、そこまで何かに必死になれる人、ってのは」
「……それは俺だけではないと思うが」
ポットの中の氷が解けて、軋んだ音を立てる。
言外に含まれた何かを察して、ルナは長身の昔馴染みを睨み上げた。
「……どういう意味?」
「大した意味はない。ただ、『昔、自分が手がけた研究がどこかから漏れていた』程度で、必死になっている人間のセリフではない気がしただけだ」
「……」
ルナは表情を歪める。刺々しい空気が、周りの温度を下げた。
「『月の館』の公式的な記録はもう残っていない。どこからか危険な情報が漏れていたとしても、その責がお前に向けられるような事態にはならんだろう。
昔の仲間を疑わなくてはならない状態は、気分のいいものではないだろうが、真実に蓋など出来ん。何らかの脅迫にあった、もともと研究を盗もうとしていた奴がいた、十分に考えられるだろう。
あえてお前が追求しなくてはならないことじゃあない。逆に、」
「逆に、追求し無い方がいい場合もある。
……そう言いたいんでしょ」
「ああ、そうだ。
お前のことだからな。その程度は理解できるだろう。それでもなお、そうまで奴らを追うのには、何か特別な理由でもあるのかと思ってな」
「何? それはあたしの心配? そんなわけないわよね?
じゃあ、あれ? 『ヴォルケーノ』に関して、まだ何か隠してることがあるんじゃないか、……そう疑ってるわけ?」
「そのつもりはない。俺にその『ヴォルケーノ』の詳細を話したとなれば、お前とて昔の仲間からしては裏切り者になるだろう。この間、語ってくれたのが奇跡だと思っている。
だが、他に何か知っていることがあるのではないかと、ふと思っただけだ」
「……」
ルナは彼を睨んでから瞑目した。気味の悪い沈黙が下りる。やがて、かたん、と音がして、壁際に一人だけいた客が代金を置いて、店を後にする。
それを横目で見送って、数刻。
「……昔の夢を見るのよ」
「?」
「眠れないのか、って聞いたでしょ。それで目が覚めるだけの話」
「昔の、夢?」
気だるげに、ただ首を動かしたのが頷いたのか判然としない動作をする。普段は見開くように開いている猫目の瞳が、今は力なく、伏せられていた。
「……ニードの奴に、火ぃ付けられたときのこととか、いろいろ、ね……
今も、その夢でさ。気づいたら汗びっしょりだし、気持ち悪い」
ニード=フレイマー。五年ほど前、ルナの所属していた『月の館』に火を放ち、有能な魔道師を幾人も誘拐し、自らが頭目を勤める犯罪組織の駒としたA級犯罪人。
もうこの世には存在しない、が、彼が残した爪痕は、今もこうして色濃く残っている。
「十三歳のときに入学したから、えーと、二年、ないくらい? 極短い間だったけど……。
アゼルフィリーにいたときも、さ。あんたたちと遊びまわって、馬鹿やって、十分楽しかったけど。
……『館』でだって、あたしはそれなりに楽しんでたのよ。気心の知れた仲間だっていたし、親友だっていた」
「……」
「アゼルフィリーのことや、あんたたちといるのが楽しくない、ってわけじゃないのよ?
けど、短い人生で一番楽しかったのはいつだー、って聞かれたら、もしかしたら郷里より『館』の方かも知れないわね」
「『月の館』か。確かローランが言っていたな。優秀なプロジェクトチームがいたとか何とか……」
「ん。そーね、あたしはそのチームのチーフ補佐をやってた。まあ、No.2ってやつ」
カウンターに倒していた身を起こして、ルナは懐を弄った。無言で待っていると、取り出されたのは一枚の、皺と垢だらけになったぺらぺらの写真。
見てもいいのか、と視線で問いかける。彼女は『悪けりゃ出さないわよ』と可愛くない言葉で答えた。
写真に写っていたのは、若い男女四人。いずれも簡素なローブ姿。これが当時の正装だったのだろうと見当がつく。
四人のうち、一人はルナ自身。無論、写真の中の彼女は今よりも多少、幼いが、そうと解らないほどではない。
「……お前、昔の方がまだ可愛げがあるな」
「突っ込みどころはそこかい。しかも、"まだ"って、あんた失礼な……」
一人は赤毛のかかった栗色の髪の男子。どこか頼りなげな風体だが、愛嬌はある。
ルナとは違う、もう一人の女子は、彼女より背が低く、蜂蜜色の髪を二つに結び、あどけなく、照れたように微笑んでいる。
もう一人は彼女の傍らに立つ、目立つ風貌の男。
「チームのチーフをやってた男よ。偏屈者でね、でも頭は悔しいけど他の誰よりも切れた。
女の子はルームメイトで友達だったんだけど、これがまたドジな娘でねー、危なっかしくて。もう一人はまあ、情けない奴だけど、気のいい、いい奴だった」
「……」
「まあさ、今さらぐだぐだ言うようなことじゃあない、って解ってんのよ。解ってるけど、ね……
それなりに……思い出のある場所だったから。
それを、いきなり崩されたような気になっちゃってね。そんだけ」
「……そうか」
アゼルフィリーで築いたこの関係の他に。
彼女には彼女の、別の世界があるのは当然の話。それなりに、などと言っているが、こうして写真など似合わない物を持っているということが、彼女にとって『月の館』がどれだけ思い入れの深い場所なのかを物語る。
たとえ、もう存在しない世界だとしても、記憶に残るその世界を崩されて。
怒りを覚えないはずがない。
「……邪推したようだ。思った以上に神経質になっているらしい。すまない」
「あんたが素直に謝るなんて逆に気持ち悪いっての。別にいいわよ、そう考えたくなる気持ちも解るし。いつまでも引き摺ってるあたしが馬鹿なんだしね」
再びカウンターに突っ伏すように身を預けるルナに、写真を渡す。彼女はそれを受け取ると目を細めて眺め始めた。
レンはカップの中身を一息で飲み干すと、席を立った。
「酒も感傷も結構だが、ほどほどにして置け。ダメージを食うのは自分だぞ」
「はいはい、ご忠告ありがとう。解ってるって」
階上に向かう彼の背に、ルナはひらひらと手を振って見送る。群青のマントが消えるのを待ってから、カウンターに写真を置き、グラスに二杯目の水を注いだ。
「……本当に、こっちの気も知らないで、今どこで何をしてんだか」
深い溜め息を吐いて、彼女は再び、写真に目を走らせる。
吐き出したセリフと視線は、四人の中で最も目立つ容貌の―――銀に輝く白い髪と、真紅の瞳の青年へ向けられていた。
「さて―――」
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THE Third:慟哭の月
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THE Four:ゼルゼイルの旅路
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